2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
以下の項目選択には、『中高生のための幕末明治の日本の歴史辞典 年表』(国立国会図書館国際子ども図書館)・『資料による日本の近代(開国から戦後政治までの軌跡)』(国立国会図書館)を活用しています。
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明治天皇の名において宣言された。薩長が徳川幕府を廃止し、天皇中心の政治を行う事を広く知らせた。
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の大政奉還を受けて、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、京都御所の御学問所にて明治天皇より勅令「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府廃止、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置、諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言され、新政府が成立した。
参考:『王政復古(日本)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
Wikipedia『1868年』には新暦1月3日に王政復古の大号令が発せられたと記す。
京都御所の正殿・紫宸殿で1868年4月6日(明治元年3月14日)に明治天皇が日本神話の天神地祇に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。
一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ
『五箇条の御誓文』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87
1868年4月7日(慶応4年3月15日)に、太政官(明治政府)が立てた五つの高札[1]。明治政府が民衆に対して出した最初の禁止令。
「五箇条の御誓文」が天皇・公卿・全国の諸大名が神明に誓う形式で表明した新しい「国是」であり、「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が天皇(および朝廷)が公的に示した「考え」であり、いずれも都市で発売されていた太政官日誌でも布告されていた「詔勅」であるのに対し、「五榜の掲示」は、太政官布告による間に合わせ的な措置であり、主に新政府の支配下(影響下)にある地域の高札場でのみ掲示された。
第一札から第三札、
即ち、第一札による五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。端的には天皇や家父長に対する忠孝)や憐れみの推奨および悪業の禁止、
第二札による徒党・強訴・逃散(集団で謀議を計ること)の禁止、
第三札による切支丹・邪宗門の禁止は、いずれも江戸幕府の統制をそのまま踏襲したものである。
第四札は、明治新政府独自の万国公法の履行と外国人殺傷の禁である。
第五札は、古代律令制の復活を彷彿とさせる脱籍浮浪化に対する禁であり、これも明治政府的なものである。
参考:『五榜の掲示』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%A6%9C%E3%81%AE%E6%8E%B2%E7%A4%BA
憲政体制に移行した時代であり、「明治」は憲政上最初の元号となる。また、「一世一元の制」による最初の元号である。
明治天皇が「一世一元の詔」を発布した西暦1868年10月23日(明治元年9月8日)から、明治天皇が崩御した1912年(明治45年)7月30日までの期間を明治(時代)とする。
参考:『明治』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB
太政官は、幕末から明治にかけて設けられた官僚。
1868年6月11日(慶応4年/明治元年旧暦閏4月21日)に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて置かれた。当初は、議政官以下7官の総称だった。
1869年(明治2年)の官制改革で、民部省以下6省を管轄し、左右両大臣が置かれた。
1871年、長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。
1885年(明治18年)、内閣制度の発足に伴い廃止された。
明治2年7月8日(1869年8月15日)に、新しい太政官制が導入された。これは、アメリカの影響を受けた政体書体制を廃止して、「祭政一致」を原則とした復古的な官制であった。まず神祇官が復活して太政官よりも上位に置かれ、太政官の下には民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省が設置されるという二官六省制が採られ、侍詔院・弾正台・集議院・大学校などの諸機関が置かれた。また、三権がいずれも太政官の下に置かれた。
参考:『太政官』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%AE%98
明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。
明治維新で発足した新政府は、旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し、直轄地として支配した。
戊辰戦争中の慶応4年(明治元年)1月から4月(1868年2月から5月)にかけて、新政府は直轄地の統治機関として裁判所を設置した。続いて同年閏4月21日(6月11日)には、政体書で府藩県三治制が定められた。一方で、この明治元年の段階では、藩は府県と並ぶ地方機関と位置づけられ、直轄地以外の諸藩の本領は安堵されてその領主権に大きな制約は加えられなかった。
太政官達「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス」が公布され、華族制度が創設された。旧藩主の諸侯285家は公卿142家と同時に華族に列せられた。士分の藩士は藩主一門の別家を含めて士族とされた。版籍奉還により、藩主が非世襲の知藩事に任命された。
地方知行が廃止され、一律に蔵米知行とすることが義務化された。各藩の財政や統計の報告が命じられ、知藩事の家禄は各藩の全体収入の10分の1と定められた。
知藩事と藩士の主従関係が形式上は否定され、政府が藩士を登用する際には藩に問い合わせることなく行うようになった。
江戸時代は財政などの藩の内情の幕府への報告は求められず、藩内人事や俸禄も原則としては藩の専権事項であったが、版籍奉還により中央集権化が進むこととなった。
『版籍奉還』Wikipedia参照 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%88%E7%B1%8D%E5%A5%89%E9%82%84
日本において通信制度が現れたのは、伝馬などを利用して公用通信に供した「大化の駅制」とされる。この駅制は盛衰を続け、鎌倉時代に至って飛脚の出現となり、戦国時代には大名の書状送付に飛脚が利用されるなどを経て、徳川時代(江戸時代)に幕府の整備により武家や町人が利用できる飛脚屋・飛脚問屋などの制度が発達した。その後明治時代に入り、飛脚は郵便に移行してゆく。
1870年(明治3年)5月、駅逓権正となった前島密は、太政官に郵便制度の創設を建議した。しかし、同年6月に前島が上野大蔵大丞に差添し渡英したことから、郵便制度創設の建議は、後任の駅逓権正・杉浦譲と各地の官吏に引き継がれた。
1871年(明治4年)1月24日に「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃銭切手高並代銭表」[14]、「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告が公布され、4月20日(旧暦3月1日)、東京 - 京都 - 大阪間に現行の制度の礎となる郵便制度が確立され、東京・京都・大阪に最初の郵便役所が創設された。布告に用いられた「郵便」の名称は、前島の案に準じたものであった。1882年には「郵便条例」を制定[15]し、第一種・第二種・第三種・第四種郵便物とその料金(郵便税)を定めた[15]。
前島密により建議され、創設された近代日本の郵便制度においては、これまで東京 - 京都 - 大阪間の政府の手紙等の配達に毎年1500両支出していたのを、政府の手紙配達に民間の手紙配達を併せて配達し利益を出すしくみが提案されていた。そのしくみは、東京 - 京都 - 大阪間62箇所の郵便役所・郵便取扱所で官吏が引き受け・管理を行い、配送時間は厳守された。郵便制度の創設後、従来の飛脚が東京 - 大阪間144時間で書状を配送していたものを、78時間に短縮した。
翌1872年(明治5年)8月に前島が英国より帰京すると、郵便役所はさらに横浜、神戸、長崎、函館、新潟と全国展開が図られ、江戸時代に地域のまとめ役だった名主に自宅を郵便取扱所とする旨を要請、1873年(明治6年)に全国約1100箇所の名主が郵便取扱所を快諾したことから、郵便制度は全国に拡大した。
参考:『郵便~日本の郵便』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B5%E4%BE%BF
参考:『逓信省』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%93%E4%BF%A1%E7%9C%81
参考:『切手』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E6%89%8B
参考:『前島密』(日本郵政) https://www.japanpost.jp/corporate/milestone/founder/
参考:『グループの沿革 出来事で振り返る:1871年から1890年』(日本郵政) https://www.japanpost.jp/corporate/milestone/history/index02.html
明治4年5月10日(1871年6月27日)に制定された日本の貨幣法である。日本の貨幣単位として「圓(円)」を正式採用した。
明治8年(1875年)6月25日の改正に伴い、名称も貨幣条例(貨幣條例、太政官布告第108号)に改められ、明治30年(1897年)10月1日の貨幣法施行により廃止された。
参考:『新貨条例』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%B2%A8%E6%9D%A1%E4%BE%8B#
明治4 (1871) 年7月,封建割拠の基となる藩を廃し,府県に改めることにより,封建制度が廃止され,日本が近代的集権国家体制となったこと。王政復古以来,明治新政府の指導者たちは,欧米先進諸国の集権国家体制にならい,民族国家の創出を目指して封建諸藩の廃止を計画していた。長州藩の指導者木戸孝允はこの政策の推進に最も積極的で,その主張により,明治2 (1869) 年版籍奉還が実現したが,なお,実質的には藩体制が存続した (→藩治職制 , 府藩県三治制 ) 。そこで政府は,さらに実質的廃藩に踏切るための準備をすすめ,同3年9月藩制改革を命じて課税権を確立し,次いで武士層に威望のある薩摩藩の西郷隆盛を参議として入閣させ,薩長土3藩の協力を得て,同4年4月1万人の政府軍が編制された。政府首脳はこの親兵を統率する西郷の説得に成功し,加えて肥前藩の参加を得て,7月詔勅をもって全国諸藩の制度的廃止を布告した。政府は,反対する藩は武力で討伐する決意を有していたが,意外にもこの布告は抵抗なしに受入れられた。その素因としては,幕末以来,財政窮迫に苦しむ藩が多く,政府が債務を継承するとの条件に,異議をいだく理由がなかったことにもよる。この結果,全国は府県の行政単位に統一され,旧藩知事はすべて華族に列し,東京移住を命じられ,代って政府から新たな府知事,県令がそれぞれ任命されて,ここに集権国家体制が確立した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
廃藩置県コトバンク より一部引用
1871年9月13日(明治4年7月29日、同治10年)に、天津で、日本と清の間で初めて結ばれた近代的な条約。両国にとって開国後、初めて外国と結んだ「対等」条約であった。
ただし、互いに領事裁判権と協定関税率を認め、最恵国待遇を欠くなどの面で、変則的な対等条約であった。相互に開港することなどを定めており、この条約と同時に、通商章程と海関税則も調印された。
参考:『日清修好条規』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F
穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス(えたひにんのしょうをはいしみぶんしょくぎょうともへいみんどうようとす)は、明治4年8月28日(1871年10月12日)に明治政府が行った穢多非人等の称や身分の廃止などの旨を記した太政官布告である。
当法令が検討された最初の案は、明治2年(1869年)12月に民部省改正掛の渋沢栄一より、大蔵大輔大隈重信(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)にあてて提出された戸籍に関する草案である(現在早稲田大学社会科学研究所「大隈文書」)。これは、改正掛には渋沢や前島密など郷士や農民などから幕臣を経て明治政府に仕官した者が多く、早くから人権の確立や四民平等の必要性を自覚していた層であった。また、実務面でもその身分の種別数が少ない方が事務処理に便利であるという側面もあった。
参考:『開放令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E6%94%BE%E4%BB%A4
明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団である。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。当初の目的であった不平等条約改正の交渉は果たせなかったものの、日本近代化の原点となる旅として、明治政府の国家建設に大きな影響を与えたことから、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われる。
明治4年(1871年)11月12日(陰暦)に米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。
政府首脳の半数近くが長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こした。
参考:『岩倉使節団』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3
東京駅は、東京都千代田区丸の内一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅。JR東日本の在来線と新幹線各路線、JR東海の東海道新幹線、東京メトロの丸ノ内線が発着するターミナル駅である。日本最大のビジネス街である丸の内・大手町・有楽町・八重洲・日本橋・京橋の中心に位置しており、地下街を経由し周辺のオフィスビルと直結している。
(1872年:仮営業(品川~横浜→正式開業、新橋で記念式典。お召列車が新橋~横浜間(2022年鉄道150周年)) )
1914年:開業(辰野金吾・葛西萬司設計)(第1次世界大戦開戦年)
1923年:関東大震災で被災するも被害は少なかった。
1945年:焼夷弾被弾で大火災。これによりレンガ造の壁やコンクリート製の床など構造体は残ったが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた。
1945年~1947年(昭和22年):修復工事を行った。3つのドーム部分の外壁は修復したが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更。
1964年(昭和39年)10月1日:東海道新幹線が開業。
2000年(平成12年):丸の内駅舎を創建当初の姿に復原する方針がまとめられた。500億円とされた復原工事の費用は、東京駅の容積率を丸の内地区の高層ビルへ移転(売却)することで賄うことになった。復原工事自体は、2007年(平成19年)5月30日に起工され、2012年(平成24年)10月1日に完成した。
*つくばエクスプレスが東京駅に大深度地下を利用して秋葉原駅から当駅に乗り入れる計画がある。
*東京モノレールを東京駅まで延伸する計画がある(ただし、計画は停滞)。
日本最初の近代学校制度に関する基本法令。明治5 (1872) 年発布,その後条文の改正追加が行われ,日本における近代学校の成立発展の基礎となった。同4年に設置された文部省は全国に実施する学校制度を確立するため,学制起草委員を任命して学制を立案制定した。その際国内の事情をも調査したが,委員の多くは当時の洋学者であり,学制は主として欧米の学校制度を模範として定められた。政府は同5年8月2日に学制の趣旨を声明した太政官布告とともに学制を発布し,文部省は翌3日 (太陽暦9月5日) に全国に学制を公布した。学制は全国を大学区,中学区,小学区に区分し,学区制によって小学校,中学校,大学校を設置することとしている。学制の実施により,全国にまず小学校が設けられ,その後中学校その他の学校も設立されたが,学制は規定どおりには実施されなかった。学制の構想はきわめて雄大であったが,当時の現実の社会に適合せず,学制に対する批判も高まり,また西南の役後の政治的,経済的情勢の変化などにより,1879年9月,教育令の公布とともに廃止された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『学制』
国民の兵役義務を定めた日本の法令。1873年(明治6年)に陸軍省から発布された後、太政官布告によって何度か改定が繰り返され、1889年(明治22年)に法律として全部改正された。1927年(昭和2年)の全部改正の際に、名称も「兵役法」に変更され、1945年(昭和20年)に廃止された。
明治新政府の軍は、薩摩・長州・土佐など諸藩の軍の集合で、西郷隆盛、大村益次郎、板垣退助らがそれぞれ指揮しており、政府が独自に徴兵して組織した軍はなかった。しかし、大村や西郷従道、山縣有朋らは、早くから「国民皆兵」の必要性を唱えていた。これは、近世的な個人的武技に頼る戦闘では、近代戦において勝利を得るのが困難であることを理解していたからである。しかし、これには身分・家格を廃して四民平等を導入せねばならず、すなわち江戸時代の特権階級のうち最大の人口を占める武士の解体を意味する。そのため、政府内にも島津久光を筆頭に前原一誠・桐野利秋ら保守的な反対論者を多数抱えており、また西郷隆盛も「壮兵」といって、中下層士族の立場を考慮した志願兵制度を構想していて徴兵制には消極的であった。
参考:『徴兵令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E4%BB%A4
明治政府が1873年―1881年に実施した土地制度,税制上の大改革。土地所有権の法認と金納地租を骨格とし,以後の地主制展開の基礎をなした。1873年地租改正条例を布告,土地区画,丈量,地価算定,従来の土地占有者への新地券の交付などを行い,地価を地租の課税標準とし,豊凶に関係なく税率3%,金納とし,土地所有者に課税することとした。この改正地租は依然高額であったため各地に農民の反対騒擾(そうじょう)が起こった。1877年税率を2.5%に引き下げ,1884年同条例は廃止,地租条例を制定。
→関連項目愛国社|字切図|一揆|井上馨|入会|隠田|神田孝平|官民有地区分事業|寄生地主制|公有林|石代納|石高制|小作制度|地押|自由民権|田畑勝手作許可|地券|地租|日本|松方正義|陸奥宗光|明治維新|若尾逸平
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア(コトバンク『地租改正』)
[生]天保11(1840).2.13. 武蔵,血洗島
[没]1931.11.11. 東京
明治・大正期の実業家,財界の指導者。生家は村名主で,農業のほか藍玉の商業も営んでいた。栄一は年少の頃から家業に従事したが,のち才幹を認められて,一橋慶喜(→徳川慶喜)に仕え,慶応3(1867)年に慶喜の弟徳川昭武に随行して渡欧した。明治維新後,明治政府に仕官し,近代的財政,金融,貨幣制度の導入に尽力した。1873年退官し,第一国立銀行の頭取となり,以後明治期を通じて民間の銀行,産業および実業家団体の育成と指導に大きな役割を演じ,関係会社は数百に上った。1916年第一銀行を除いて関係会社から退き,社会公共事業に余生を送った。福沢諭吉と並んで日本の経済近代化の最大の功労者である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
欧米列強の東アジアへの進出という国際環境,すなわち「万国対峙」という状況のなかで急速な資本主義化と近代的軍事力創設を目指した明治政府のスローガン。殖産興業による資本主義化を「富国」ととらえ,それを基礎とする近代的軍事力の創設を国家の根本政策とみなしたことをさす。富国強兵という言葉は,幕末の幕政・藩政改革においてすでに現れているが,特に明治政府が徴兵令,地租改正,殖産興業などの推進過程で積極的に取上げた。またこのスローガンは単に政府側からの呼びかけにとどまらず,国民的達成課題の集約的表現として機能した。しかしこの目標を達成するための方策と順序にはさまざまな考え方があり,攘夷と開国,復古と開化,外征と内治などの対立もその現れであった。日清・日露戦争の勝利と不平等条約改正の達成は富国強兵政策の第一段階を画するものであったが,日清・日露の戦後経営のなかでも依然として国富,民力の充実が叫ばれ,第1次世界大戦後には経済戦という考え方が急速に浸透していくことになった。大陸への侵略政策も富国強兵路線の延長線上に位置づけることができる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
1874年(明治7年)1月17日、前参議・板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。自由民権運動の端緒となった文書である。「民撰議院設立の建白書」と言われる場合もある。
民撰議院設立建白書は、まず、政治権力が天皇にも人民にもなく、ただ有司専制(ゆうしせんせい。有司=官僚)にあることを批判する。そして、この窮地を救う道はただ「天下ノ公議」を張ることにあり、「天下ノ公議」を張るとは「民撰議院」を設立することであるとする。「民撰議院」によって有司の専権を抑え、以て国民は幸福を享受することになると主張する。
民撰議院設立建白書の内容は、イギリス人ジョン・レディー・ブラックによる新聞『日新真事誌』に全文掲載されて広く国民に知られた。政府や明六社は時期尚早として反対したが、以後、同様の建白書が続々と提出されることとなる。
民撰議院設立建白書は、天賦人権論に立脚しているものの、当時、困窮を極めた不平士族の不満が形を変えて噴出したものであったと言える。しかし、国民各層にはその考え方が次第に浸透して行き、自由民権運動の気運が高まるきっかけとなった。
参考:『民撰議院設立建白書』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%92%B0%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%A8%AD%E7%AB%8B%E5%BB%BA%E7%99%BD%E6%9B%B8#
2021年出題
1874年2月に佐賀県下の士族が中心となって起した反政府反乱。当時の佐賀県には,強硬に征韓論を唱える征韓党や,中央政府の推し進める強権的資本主義化に反対し,旧武士層の利害を代表して封建復活を唱える憂国党などがあり,政治的には反明治新政府の牙城であった。 74年1月,大久保利通,岩倉具視らとの征韓論をめぐる政治的抗争に敗れた江藤新平が,下野して征韓党首領となるや,佐賀県の不平士族は反乱へと積極的に動きはじめ,征韓党は島義勇を首領とする憂国党と合体,旧弘道館に本部を設置し,「征韓先鋒請願事務所」を名のった。征韓党と憂国党が同年2月1日,政商小野組を襲撃して兵をあげる準備をするなど不穏な動きをみせたことを契機に,政府は反乱鎮圧に乗出し,参議大久保利通を全権とする鎮圧軍を組織してこれを佐賀へと向わせた。反乱軍は,およそ 3000名を数え,一時,佐賀県庁 (旧佐賀城) を占拠するなど抗戦を続けたが,最新兵器で武装した政府軍の前に歯が立たず,2月いっぱいで鎮圧された。江藤と島は逃走したが,2月 29日に江藤が四国で,3月7日には島が鹿児島でそれぞれ捕えられ,裁判の末4月 13日,ともにさらし首の刑に処せられた。また刑は,ほかに斬罪 11名,懲役 130名という強硬なものであり,内乱鎮圧に対する新政府の強い態度を示すものであった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。
治新政府が成立した日本は1868年(明治元年)12月19日、新政権樹立の通告と条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹立を求める国書を持つ使者を、かねてから日本と国交のあった李氏朝鮮政府に送った。しかし大院君のもとで攘夷を掲げる朝鮮政府は、西洋化を進める明治政府を訝しみ、国書の受け取りを拒否した。日本はその後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否し、日朝外交の膠着が始まった。
征韓論争は明治六年政変によって「延期」(「中止」ではない)と決まったが、その後の台湾出兵の発生と大院君失脚の報によって征韓論の勢いが弱まったために、明治政府は政府間交渉をして相手の状況をみることとした。
艦長の井上良馨による10月8日付の上申書[20]によると、1875年(明治8年)9月20日、雲揚が清国牛荘へむけて航海中、飲料水の欠乏により探水のため贅月尾島沿いへ仮泊、翌21日やや移動して永宗城の上に鷹島を北西に望む位置に投錨する。同位置から探水或いは請水のために自ら端艇に乗りこみ、江華島に向かっている途中(同島南東端の草芝鎮沖にさしかかった際に)島に設置された砲台から突如砲撃を受けたので、急ぎ雲揚へ帰艦した。すでに本艦は号砲による警告暗令に応じるかたちで日本国旗を掲げており[注釈 9]、ただちに反撃砲撃を開始し江華島砲台を破壊。どうして砲撃を行ったのか尋問するために永宗城島の要塞を占領した、云々と説明されている。
参考:『江華島事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1875年1~2月,参議伊藤博文と在野の前大蔵大輔井上馨の周旋により,参議大久保利通と在野の木戸孝允,板垣退助らが大阪において行なった一連の秘密政治会談のこと。その結果,将来国会を開く準備として元老院を設けること,裁判の基礎を強固にするため大審院を設けること,民意を疎通するため地方官会議を興すこと,および内閣と各省すなわち参議と卿を分離することで合意をみ,木戸と板垣は再び参議として政府に復帰することになった。これにより,征韓論以後次第に弱体化しつつあった政府は一応その補強に成功し,4月にはこの会議の成果をふまえた詔が発布され,元老院,大審院の創設,地方官会議の召集,立憲政体の漸次採用が宣言された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(たいれいふくならびにぐんじんけいさつかんりとうせいふくちゃくようのほかたいとうきんしのけん、明治9年太政官布告第38号)は、1876年(明治9年)3月28日に発せられた、大礼服着用者・勤務中の軍人や警察官吏以外は刀を身に付ける(=武装する)ことを禁じる内容の太政官布告。
布告文自体に題名はなく、便宜的に付された呼称(いわゆる件名)である。略称として、廃刀令または帯刀禁止令。
自今禮服着用並ニ軍人及ヒ警察官吏等制規ノ節ヲ除クノ外帯刀被禁候條此旨布告候事
但違犯ノ者ハ其刀可取上事
禁止されたのは帯刀であって、所持または所有そのものが禁止されたわけではない。しかしながら、帯刀はもともと実戦的武備というよりは武士の身分の証明としての意味合いが大きく、それを否定する事は、実質的な特権の否定であり、徴兵令および秩禄処分とともに一つのアイデンティティーが否定されることを意味していた。廃刀令に反発した者は、刀を袋の中に入れて持ち歩いたり、「差さなければいいのだろう」と刀を肩に担いで歩いたりした。また、一部はこの廃刀令を含めた四民平等政策に反発し、士族反乱を起こした。
『廃刀令』Wikipedia より抜粋https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E5%88%80%E4%BB%A4
1876年(明治9年)2月26日(時憲暦光緒2年=高宗13年2月2日)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文では「修好条規」とのみ記されているが[1]、通例として朝鮮国との修好条規(ちょうせんこくとの-)、日朝修好条規、日鮮修好条規(にっせん-)などと呼称する。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。江華島で調印されたため江華島条約(カンファド/こうかとう じょうやく、朝: 강화도조약)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約(へいししゅうこうじょうやく、朝: 병자수교조약)ともいう。
1875年に起きた江華島事件の後、日朝間で結ばれた条約であるが、条約そのものは全12款から成り、それとは別に具体的なことを定めた付属文書が全11款、貿易規則11則、及び公文があり、これら全てを含んで一体のものとされる。朝鮮の砲台が日本の軍艦を攻撃した江華島事件について、日本は宗主国として朝鮮を支配する清に対して「宗主国を名乗るのであれば事件の責任を取れ」と主張した。これに対して清は、「朝鮮は清の属国ではあるが、独自の内政・外交を行っているので、朝鮮に対しては責任を取れない」と反論したため、「朝鮮が清朝の冊封から独立した国家主権を有する独立国であること」を明記した。「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特徴である。
朝鮮側には「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」といった不平等条約的な条項も含有されているが、それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が開国する契機となった条約である。その後朝鮮は似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ合衆国、イギリス、帝政ドイツ、帝政ロシア、フランス)とも締結することとなった。
1877年に鹿児島士族が起した,西郷隆盛を首領とする大規模な反乱。 73年征韓論に敗れて政府を辞した陸軍大将西郷隆盛は,以後鹿児島で私学校を経営して九州各地の士族の子弟を多数養成し,新政府の武士層解体政策に不満をいだく全国不平士族層の間に絶大な声望をもっていた。鹿児島県令大山綱良は西郷の支持者で,鹿児島は反政府主義の最大の拠点となる観を呈した。西郷は征韓と士族の特権保護を主張し,有事の際に自己の兵力を率いて国家に奉仕しようと考えていたが,中央政府との対戦は欲していなかった。しかし客観的には政府の中央集権政策と対決,反目せざるをえない条件のもとにあり,西郷とともに下野した桐野利秋,村田新八ら私学校の幹部や,血気にはやる同校生徒らは,中央政府への反感をつのらせた。政府側も鹿児島の反政府風潮を警戒し,鹿児島にあった政府の武器,弾薬を大阪に移そうとした。ここに私学校側の猜疑は頂点に達し,西郷暗殺と私学校弾圧を政府が企てていると断定してついに挙兵した。西郷もこれを制止しえず,みずからも決意して中央政府を問責する名目のもとに1万 3000をこえる軍を指揮して,熊本城に迫った。高知県においても林有造ら立志社の一派がこれに呼応しようとして捕えられた。政府は事態を重視し,有栖川宮を征討大総督とし,全国から徴募した平民主体の鎮台兵を集結して 77年4月ついに熊本城と連絡した。以後,田原坂 (たばるざか) の激闘で西郷軍の将篠原国幹が戦死し,総退却した西郷は,同年9月城山において官軍総攻撃のさなかに幹部らとともに自決した。西南戦争は一方で近代戦争がもはや士族の専有ではありえず,他方,新政府に対する武力蜂起の不可能なことを世上に悟らせた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
西南戦争コトバンクより引用
<平成30年(2018年)の問題>
北海道開拓史から第11回冬季オリンピックまでの歴史を問う問題。
[開拓史](以下、小説日本史図録(山川出版社)およびwikipedia各該当ページ参照)
1869: 開拓史設置(東京)、蝦夷地を北海道(松浦武四郎(蝦夷地調査・北海道と命名))と改称。
1871: 開拓使庁を札幌に移管。
1874(明治7年): 屯田兵制度を制定。
翌年(1875年)、琴似村(札幌)に最初の屯田兵村が設置された。
1876: 札幌農学校を開校。札幌麦酒醸造所設立。
1881: 開拓使官有物払い下げ事件。
1882: 札幌・函館・根室の3県を設置(開拓使廃止)。手宮・札幌・幌内(ほろない)間に鉄道全通。
1886: 北海道庁を設置(3県を廃止)
1899: 北海道土人保護法を制定。(→1997年アイヌ文化振興法)
1904: 屯田兵を廃止。
1950: 第一回さっぽろ雪まつり(初期の雪像は中高生中心(大通公園7丁目の雪捨て場に作り始めた)。1955年自衛隊、商社、市の出張所などが加わり、大規模になっていった。1959年からは道外からの観光客、1972年(オリンピック)からは海外からの観光客が増えた。すすきの会場はホテルの調理人による氷像が多い)
1972年(昭和47年)2月3日~2月13日: 札幌オリンピック(第11回冬季オリンピック大会)。(札幌市札幌オリンピックページ参照)
6競技35種目。14会場。 参加国35か国。ジャンプで金銀銅 メダルを独占(日の丸飛行隊)。
[人物説明]
*内村鑑三: 日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」の著者でもある。 札幌農学校第二期生。農学校の外国人教師の影響でキリスト教に改宗し、キリスト教の日本化を目指すようになった。
*岡倉天心:東京美術学校(現:東京芸術大学の前身。)の設立に大きく貢献(校長)し、また日本美術院を創設、帝国博物館の美術部長も兼任した。アーネスト・フェノロサの助手になったことをきっかけに廃仏毀釈や文明開化で粗末にされていた日本美術に再焦点を当て、保護・調査・研究につとめた。(参考:藝大アートプラザ)
*新島襄: 江戸時代の1864年(元治元年)に函館港から密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けて神学を学ぶ(米国時代に、後に札幌農学校の教頭になったクラーク博士から化学の授業を受けていた)。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。
*新渡戸稲造: 日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。
国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』(日清戦争で日本に関心が高まっていたころだったので各国で翻訳されベストセラーになった)は、流麗な英文で書かれ、長年読まれている。日本銀行券の五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(後の東京文化短期大学、現在の新渡戸文化短期大学)初代校長。
東京英語学校(のちの東京大学教養部)→札幌農学校二期(内村鑑三と同期)(当時国内で唯一学士号を授与する高等教育機関であった。現:北海道大学)
2021年、2022年出題
明治前期,北海道開拓の人材養成のための学校。北大農学部の前身
1872年東京に開設された開拓使仮学校に始まり,'75年札幌に移し翌年アメリカ人クラークを招いて開校。キリスト教的教育が進められ,内村鑑三(宗教家・思想家)・新渡戸 (にとべ) 稲造(教育家、農政学者)・有島武郎(小説家。『或る女』『生まれいずる悩み』『カインの末裔』)らの人材を生んだ。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 (コトバンク)
明治政府が民間産業を育成するため、所管の官営鉱山や官営工場の一部を、民間の払受け人とくに特権的政商などに払い下げた措置。官業払下げともいう。官業払下げについては、財政緊縮の目的で1875年(明治8)に当時大蔵卿(きょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)が主張したことがあるが、その後、1880年に布告された「工場払下概則」が、実現の直接の契機になった。ただ、同布告の払下げ条件には、政府資金の回収をおもなねらいとして、営業資本の即時納入その他、厳しい規定が含まれていたため、払受け希望者がきわめて少なかった。そこで4年後に同法令は廃止され、以後、払下げは個別に承認される形で実現することになった。その結果、官業払下げは炭坑、鉱山などから始まり、工場や一部の鉄道などに及んだ。こうして1880年代以降、進行する払下げは、政府に必要な軍事、通信、また資金や技術を必要とする精錬、冶金(やきん)などの諸部門を除き、1896年に生野(いくの)銀山が最後に払い下げられるまで、多くの官営鉱山や官営模範工場に及んだ。そのため、政府財政を節減する目的で実施された官業払下げは、官営軍事工業部門を強化する結果になった。そして払受け人に有利となった払下げは、払下げを受けた三井、三菱(みつびし)、古河(ふるかわ)その他の政商に対して、払下げの施設を基礎に、後年、彼らが財閥に発展する条件を保証することになった。
[石塚裕道]
『小林正彬著『日本の工業化と官業払下げ』(1977・東洋経済新報社)』
[参照項目] | 工場払下概則
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
明治 12年太政官布告 40号。同 1879年9月学制を廃止して公布された学校制度全般に関する基本法令。全文 47ヵ条で学制に比べて簡略であり,また教育を地方の管理にゆだねた。 80年 12月,太政官布告 59号をもって改正し (通称,改正教育令) ,地方官の権限を強め,また就学義務などを強化した。 86年諸学校令の制定によりその効力を失った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
明治初年の西洋崇拝の風潮をいう。明治新政府は,民族国家の実質的基盤を形成するため,富国強兵,殖産興業の政策をとり,西洋先進諸国の制度,文物,産業,技術の導入を積極的に推進した。明治2 (1869) 年電信施設が架設されたのをはじめ,銀座の煉瓦街,鉄道などめざましい洋風施設が相次いで設置され,同4年には散髪,脱刀が許され,風俗の面でも西洋式が流行した。西洋に対する心酔は日本の伝統文化に対する劣等感と表裏をなすものであったため,古来の宗教や風俗に対する軽蔑の風潮を伴った。しかし文明開化は,人心の啓蒙と交流に貢献し,西洋の自由主義思想も導入されて,自由民権運動の基盤を形成する条件ともなった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
文明開化コトバンクより引用
2019出題
もともとは江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地である。 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の管理するところとなったが、第二次世界大戦後は一般に公開され、現在は環境省管轄の国民公園として親しまれている。2006年(平成18年)に、「新宿御苑」の名を冠してから100周年を迎えた。開園100周年事業の一環として、絶滅が危惧されている植物の保護センターを設置することが計画されている。
かつては、例年4月には内閣総理大臣主催の「桜を見る会」が開催されていた。また、11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催される。大正天皇と昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもある。
隣接する東京都立新宿高等学校の敷地は、1921年(大正10年)にこの新宿御苑の土地の一部が東京府へ下賜されたものである。
政治権力者と結託して受注することを主とする企業家。外国にも,このような例はあるが,特に日本では,明治初期から政府による官営事業の払下げ,認可,指定などによって大きくなった三井,安田,三菱,住友をはじめとする特権的企業をさす。これは日本における近代資本主義が,政府による一部の特定企業の保護,育成によって興ったことによる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[生]天保6(1835).12.26. 鹿児島
[没]1885.9.25. 東京
明治初期の実業家,政商。薩摩藩の出身。安政4 (1857) 年藩命で長崎に留学し,航海,砲術,測量を学ぶ。慶応1 (65) 年藩命によってヨーロッパを視察,帰国後は藩の開明派の指導者となり藩の貿易発展に活躍。明治維新後外国官権判事,大阪府判事を経て,明治2 (69) 年退官し,実業界に転身した。以来主として大阪の商工業の発展に尽力し,金銀分析所の開設,鉱山・製藍事業などの経営のほか,大阪堂島米会所復活,大阪株式取引所,大阪商法会議所,東京馬車鉄道会社,神戸桟橋会社などの創立に活躍した。他方では大久保利通,木戸孝允,井上馨,伊藤博文,板垣退助らを集めた「大阪会議」の斡旋に成功するなど,明治初期の政界の黒幕的存在でもあった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり)または国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)は、1881年(明治14年)10月12日に、明治天皇が出した詔勅。1890年(明治23年)を期して、議員を召して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明した。官僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔。
参考:『国会開設の詔』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E9%96%8B%E8%A8%AD%E3%81%AE%E8%A9%94#
明治 19年勅令 14号。旧制の小学校に関する基本事項を規定した勅令。 1886年に師範学校令,中学校令とともに制定され,90年,1900年に大改定。 41年国民学校令の制定により廃止された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された日本の憲法 [注釈 1]。
略して「帝国憲法」、明治に発布されたことから俗称として「明治憲法」とも。また、現行の日本国憲法との対比で旧憲法(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。
東アジア初の近代憲法である。日本国憲法施行までの半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1946年(昭和21年)5月16日に第73条の憲法改正手続による帝国議会の審議を経て、同年10月29日に枢密院が新憲法案を可決。日本国憲法が1946年(昭和21年)11月3日に公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。大日本帝国憲法の施行期間は、1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日までの56ヶ年5ヶ月4日(20,608日)である。
士族反乱や西南戦争の処理を終わって、新しい体制への移行を試みようとしていた大久保が1878年に暗殺されると、その後を継いで内務卿となり、明治政府の中心人物となった。琉球(りゅうきゅう)処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。他方、元老院起草の憲法案が政府首脳を満足させず、諸参議の憲法意見を徴することになり、1881年大隈重信(おおくましげのぶ)の急進的な憲法意見が提出されると伊藤はこれと対立、同年のいわゆる明治十四年の政変によって大隈ら開明派官僚をいっせいに追放するとともに、1890年の議会開設を約束した政変劇の主役となった。翌1882年渡欧し、ドイツ、オーストリアで憲法調査にあたり、帰国後の1884年宮中に制度取調局を創設してその長官となり、立憲制への移行に伴う諸制度の整備に着手した。同年華族令を制定して新しい華族を皇室の藩屏(はんぺい)としたのをはじめ、1885年には太政官(だじょうかん)にかえて内閣制度を創設し、初代首相に就任した。また翌年から井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎(かねこけんたろう)らと憲法、皇室典範のほか貴族院令、衆議院議員選挙法などの草案の起草に着手し、1888年枢密院が新設されるとその議長として憲法草案などの審議にあたった。
1889年(明治22)大日本帝国憲法の発布直後に、「超然主義」の立場を鮮明にし、政党の動向を顧慮することなく議会運営にあたることを宣言した。1890年の議会開設に際しては初代の貴族院議長となり、以後山県有朋(やまがたありとも)、松方正義(まつかたまさよし)両内閣の議会運営に助言を与え、民党との対立が激化すると、1892年自ら政党結成に着手しようとするが、果たせなかった。
1890年頃日本において民法典施行の是非をめぐって行われた論争。条約改正促進のために近代的法典の整備を迫られていた明治政府は,90年フランス人 G.ボアソナードを中心に完成した民法典 (→旧民法 ) を公布し,93年から施行することを定めた。これに対し,一部の法律学者や帝国議会議員などの間から強力な反対論 (施行延期論) が出され,施行断行を主張する断行派 (→梅謙次郎 ) との間に激しい論争が繰広げられた。穂積八束は「民法出デテ忠孝亡ブ」と論じ,論争は延期派の勝利に終り,92年の帝国議会は,施行を延期することを可決した。これを受けて日本人起草委員のみによってこれに代る民法典 (→民法 ) の編纂事業が行われるにいたった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
2022年出題
明治初期〜第二次世界大戦前の内政一般を統轄した中央官庁。
1873年太政官の一省として設置,初代内務卿は大久保利通。とくに殖産興業政策を推進し,警察事務を統轄。'81年殖産興業部門を農商務省へ移管。'85年内閣制度創設でその一省となり,初代内務大臣には山県有朋 (ありとも) が就任。地方行政・議員選挙・警察・土木・出版・戸籍などを管掌し,国内行政の中心的役割を果たし,国民生活全般にわたり,保護と統制を行い,第二次世界大戦下には戦時体制形成の中核となる。1947年廃止。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
1873年 11月 10日警察および地方行政の監督,ならびに国民生活全般の事項を統轄するために設けられた行政機関。初代内務卿大久保利通の考えを反映し,発足当初から国民生活に関する強度の監視を課題としており,単なる行政事務の枠にとどまるものではなかった。 85年内閣制度発足に伴い機構改革がはかられ,官房と総務,県治,警保,土木,地理,戸籍,社寺,衛生,会計の9局を統合する中央集権制の中核的国家機関として確立された。北海道庁長官,各府県知事を監督し,内務省警保局,警視庁,府県警察部を通じて言論,集会,結社を取締り,選挙運動,社会運動,労働運動などに干渉や弾圧を加えるなど,地方制度および国民生活全般にわたって強力な統制を行なった。第2次世界大戦後,地方自治確立の要請と,中央集権制度の中枢的存在であったとの理由から,1947年 12月 31日廃省になった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[農商務省]
1881年4月に設置された,農政と産業の育成,振興を担当した行政機構。現在の農林水産省と通商産業省の前身。明治政府は日本産業の資本主義化を達成するため,殖産興業政策をその課題に掲げ,農商工の各分野で行政指導を進めた。欧米の機械制工場制度の移植や鉄道,電信の導入などを促進した工部省(1870設立),農政を所管した内務省(1873創設),さらに大蔵省が当時の産業振興の重要な部門であった。工部省中心の移植産業政策と内務省中心の在来農業の資本主義化政策は1870年代にめまぐるしい機構の改廃,統合を重ねる過程で,相互に補完しあいながら資本主義育成策の重要な部分をなした。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
[工部省]
明治初年の政府官庁の一つ。明治3 (1870) 年閏3月設置,1885年廃止。初代工部卿は伊藤博文。官営工業により殖産政策を推進し,77年には鉄道,鉱山,灯台,電信,工作,営繕,書記,会計,検査,金庫の 10局をおいた。多くのお雇い外国人技師を招き,また工学寮をおいて,日本人技師の養成にも努めた。廃止後の事務は農商務省,逓信省,大蔵省などに分掌された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[鉄道省]
1920年(大正9)5月15日設置された鉄道管轄官庁。第一次世界大戦中から鉄道事業は飛躍的に発展し、また原敬(たかし)政友会内閣は鉄道網の整備を重点施策とした。このような事情から鉄道院を昇格して、政府の1省とする措置がとられた。同省の管轄業務は国有鉄道および付帯業務の運営、地方鉄道、軌道、南満州鉄道の監督とされ、中央に大臣官房と6局、各地方に鉄道局その他の機関を置いた。28年(昭和3)陸運監督権を加え、翌年満鉄の監督権を拓務省に移管した。30年には省営自動車の営業を開始、第二次世界大戦期にかけて陸上交通全般についての管轄官庁となった。この間何回か組織は変更されたが、太平洋戦争下の43年11月1日運輸通信省の設置に伴い廃止、業務は同省の鉄道総局その他に引き継がれた。
[原田勝正]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
明治時代
1869
明治 2 年 11 月 10 日 鉄道建設の廟議決定(東京・京都の幹線と東京・横浜、京都・神戸、琵琶湖畔・ 敦賀の三支線)…我が国初の鉄道計画(太陽暦 12/12)
1870
明治 3 年 3 月 19 日 民部大蔵省に鉄道掛を設置(太陽暦 4/19)
明治 3 年 3 月 25 日 傭英国人建設技師エドモント・モレルらが、東京汐留から測量を開始(太陽暦 4/25)
1871
明治 4 年 8 月 14 日 工部省に鉄道寮を設置(太陽暦 9/28)
1872
明治 5 年 2 月 28 日 鉄道略則公布(太陽暦 4/5)
明治 5 年 5 月 7 日 品川・横浜間仮開業(太陽暦 6/12)
明治 5 年 6 月 13 日 鉄道による郵便物輸送開始(太陽暦 7/18)
明治 5 年 5 月 鉄道犯罪罰則公布
明治 5 年 9 月 12 日 新橋・横浜間(29 ㎞)の鉄道開業式(我が国初の鉄道開通)(太陽暦 10/14)
日本と清国が 1894~95年に戦った戦争。両国が朝鮮の支配権を争ったのが原因となった。 94年5月に朝鮮で甲午農民戦争が起ると,6月朝鮮政府は鎮圧のために清国と,次いで日本に援兵を依頼した。6月 12日に日本軍は仁川に上陸。7月 23日にソウルの王宮を占領,親日派の大院君政権をつくった。 25日には日本の連合艦隊は,豊島西南沖で清国軍艦および輸送船団と遭遇,相互に砲火を浴びせ,戦争が始った。 29日に朝鮮の成歓,30日には牙山を占領。9月 15日,日本軍は平壌周辺で清国軍との会戦に勝ち,17日には連合艦隊と北洋艦隊が黄海海戦を戦い,日本側が勝って制海権を獲得した。 10月 24~25日に日本軍は鴨緑江を渡って満州に入り,11月 19日には旅順を占領。 95年2月2日には威海衛軍港陸岸を占領,12日に北洋艦隊が降伏した。3月に入ると日本軍はさらに牛荘,営口などを占領,3月 26日には澎湖列島を占領した。4月 17日に下関で日清講和条約 (→下関条約 ) が結ばれ,日本は,中国から朝鮮の独立の承認,遼東半島,台湾,澎湖列島の割譲,賠償金2億両支払い,欧米並みの通商条約の締結,威海衛保障占領などを取付けた。しかし条約調印後6日目の 95年4月 23日,ロシア,ドイツ,フランスからいわゆる三国干渉を受け,5月4日に日本政府は遼東半島放棄を決定,還付の代償として清国より庫平銀 3000万両を得た。日清戦争の勝利によって,日本は欧米資本主義列強と並び,極東における帝国主義諸国との対立,葛藤に巻込まれることになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
1904~05年,朝鮮および満州 (中国東北地方) の支配権をめぐる対立から発展した日本・ロシア間の軍事衝突。 1898年ロシアは中国 (清朝) に圧力をかけ,戦略的に重要な南満州の遼東半島南端にある旅順港の租借権を獲得した。またこれに先立つ 1896年には中国と対日同盟を結び,合せて東支鉄道の敷設権を得て,中国領満州を通過しロシアの海港ウラジオストクに達する道を開き,路線地として満州の地にわずかながら重要な足場をつくった。 1891年から 1904年にかけてロシアはシベリア横断鉄道を築いたものの,満州における軍事力を増強するに足る人員および物資を輸送できるだけの設備は整っていなかった。一方,日本は 1894年の日清戦争以来軍事力を確実に増強し,1904年の極東駐屯師団数は明らかにロシアを上回っていた。 1903年ロシアが満州からの撤兵同意を翻したのを,日本は攻撃の機とみなした。
1904年2月8日,奇襲に出た日本海軍の主力艦隊が旅順港のロシア艦隊を包囲して,戦いの火ぶたが切られた。同日陸軍も朝鮮半島に上陸し,まもなく完全に制圧した。5月別途遼東半島に上陸した日本軍は,25日南山を奪取して旅順港のロシア駐屯軍を満州の本隊から切離した。8月 10日旅順から出撃したロシア艦隊との間に黄海海戦が戦われ,日本軍が勝利,14日の蔚山沖海戦によって,日本は制海権を獲得した。8月 28日~9月4日には遼陽周辺で日露の野戦軍主力が会戦し,ロシア軍は退却した。 10月ロシア軍はシベリア横断鉄道経由で援軍を受け巻返しをはかったが,その攻撃はかえって統制力に欠けた優柔不断な面をさらけ出す結果となった。日本軍もまた数回にわたる攻撃の失敗で大きな犠牲を出し,旅順港の長期包囲戦に業を煮やしていた。日本軍の統制に分裂の兆しがみえはじめた矢先の 1905年1月1日,戦意を失った旅順港のロシア軍司令官は,3ヵ月分の糧食と十分な軍需品をたくわえたまま,配下にはかることなく独断で港を日本軍に引渡してしまった。陸上での最終戦となった2~3月の奉天会戦は,ロシア軍 35万対日本軍 25万の兵力を投入して行われた。ロシア軍9万,日本軍7万に上る死傷者を出した長期戦の末,ロシア軍司令官 A.N.クロパトキンは軍を北に撤退させ,奉天は日本軍の手中に落ちた。海上での戦闘も,最終的には日本軍が優勢になった。5月 27日,日本海海戦で東郷平八郎大将 (のち元帥) 率いる日本海軍主力艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った。バルチック艦隊は Z.P.ロジェストベンスキー提督指揮下,旅順の包囲をとくため 1904年 10月リエパヤのバルチック港を出航し,戦いがウラジオストクに達する頃到着した。すでに日本は経済的に疲弊していたが,日本海海戦の決定的勝利と,ロシア国内の政情不安が相まって,ロシア政府を平和条約の場へと導くこととなった。
アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトを調停役に,1905年8月 10日から9月5日にかけて合衆国のニューハンプシャー州ポーツマスで講和会議が開かれた。この場で締結されたポーツマス条約で,日本は旅順港を含む遼東半島と東支鉄道の一部 (旅順-長春間,南満州鉄道) の支配権を獲得し,サハリン島南部を領土に加えた。ロシアは南満州の中国への返還に同意し,日本の朝鮮支配権も認めた。日露戦争は日本が初めて当面した本格的戦争で,直接戦闘に参加した総兵力は 108万余,艦船 31.8万t,疾病をも含めた死傷者は 37万余,喪失艦船 91隻であった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2020年池袋と渋谷について問う出題。
[池袋]
東京都豊島区(としまく)のほぼ中央にある一地区。JR山手(やまのて)線・埼京線・湘南新宿ライン、東武鉄道東上線、西武鉄道池袋線、東京地下鉄丸ノ内線・有楽町(ゆうらくちょう)線・副都心線が集まる副都心の一つで、新宿、渋谷(しぶや)とともに、にぎやかな商店街、歓楽街を形成している。かつて、このあたりには多くの池があり、1990年代後半まで、池袋駅西口の南、元池袋公園内には、江戸時代にホタルと月の名所であった丸池の名残(なごり)とされる小池があった。この丸池は弦巻(つるまき)川の水源池で、付近は窪地(くぼち)になっていて地形が袋のようになっていたことが地名の由来という。江戸時代から明治中期まで豊島郡池袋村など山手台地上にあり、付近一帯は広い畑地であったが、1903年(明治36)日本鉄道品川線・豊島線(現、JR埼京線・山手線)の池袋駅が開設され、1909年豊島師範学校ができてから発展し始めた。1914年(大正3)東上鉄道(現、東武東上線)、翌1915年武蔵野(むさしの)鉄道(現、西武池袋線)が開通し、1918年には築地(つきじ)から立教大学が移転してきた。しかし、第二次世界大戦前は隣駅の大塚のほうが繁栄していた。戦後、郊外の住宅地化が急激に進むにつれ、池袋の優位性が発展を引き起こし、とくに1954年(昭和29)営団地下鉄丸ノ内線(現、東京地下鉄丸ノ内線)が開通してから副都心へと発展した。駅の東側には西武、池袋パルコ、大型家電量販店、映画館、飲食店、商店などが集まる。また旧東京拘置所(巣鴨プリズン)跡地に1978年高層建築のサンシャイン60(240メートル)を有するサンシャインシティが建設され、国際水族館やプラネタリウムがあるワールドインポートマート、専門店街のアルパ、古代オリエント博物館やサンシャイン劇場がある文化会館、ホテルなどの建物がある。一方、駅の西口は戦災後、闇(やみ)屋のバラック街であったが、1962年整理され面目を一新し、東武百貨店、東京芸術劇場のほか、ホテル、銀行などがあり、旧豊島師範跡は池袋西口公園になっている。西池袋の自由学園明日館(じゆうがくえんみょうにちかん)(1921年建築)は国指定(1997)重要文化財で、帝国ホテルの設計で知られるF・L・ライトの手になる。丸池の名残とされる小池があった元池袋公園は下水道工事に伴い移転し、小池も埋められた。1998年(平成10)東隣に開園した元池袋史跡公園に「池袋地名ゆかりの池」の記念碑が残されている。
[沢田 清]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『池袋』
[渋谷]
東京都渋谷区の南部、JR渋谷駅を中心とする地区。かつて渋谷川の谷が入り江であったころ、海浜で塩谷の里といったこと、あるいは鎌倉時代に相模国(さがみのくに)の渋谷氏の所領であったことが地名の由来という。東の青山台地と西の南平台(なんぺいだい)などの台地の間に渋谷川の谷あいがあり、大山(おおやま)街道筋(すじ)の交通上の要地を占め、駅東方の宮益坂(みやますざか)は茶屋などの立場(たてば)(休息場)でにぎわった。その近くにある渋谷八幡(はちまん)は江戸八所八幡の一つで、渋谷重家(しげいえ)(生没年不詳)が当社に祈って金王丸(こんのうまる)とよぶ武勇で名をあげた男子を得たことから金王八幡ともよばれる。その付近が渋谷氏の城跡ともいわれ、古くから要地であったことがわかる。一方、西方の坂は道玄坂(どうげんざか)で、和田義盛(よしもり)の残党の道玄が山賊をはたらいた所という。現在も交通の要地で、JR山手(やまのて)線・埼京(さいきょう)線、東急電鉄東横線・田園都市線(旧、新玉川線)、京王電鉄井の頭線(いのかしらせん)、東京地下鉄銀座線・半蔵門線(はんぞうもんせん)・副都心線が通る。さらに首都高速道路と青山通りが並行して、また明治通りがJR山手線沿いに走り、日夜交通量が多い。
1930年(昭和5)前後、郊外電車が開通、さらに1938年に東京高速鉄道(現、東京地下鉄銀座線)が通じて郊外の住宅地と都心を結ぶターミナルとして急速に発展していった。1933年には東横デパート(東急百貨店東横店。2020年3月で営業を終了)の工事が始まり、1956年(昭和31)に東急文化会館ができるなど、東急系資本の果たした役割は大きい。なお、東急文化会館は2003年(平成15)閉鎖され、その跡地には2012年に渋谷ヒカリエが開業した。東急百貨店本店、東急プラザ渋谷のほか、西武百貨店渋谷店、渋谷パルコなどの大型小売店舗も進出し、渋谷駅周辺、とくに道玄坂方面は、新宿、池袋と並ぶ山手の副都心のショッピングとアミューズメントの街として繁栄している。2000年には帝都高速度交通営団(現、東京地下鉄。通称・東京メトロ)、東京急行電鉄(現、東急電鉄)、京王電鉄3社により駅に直結する複合施設(ホテル、事務所、店舗)である渋谷マークシティが開業した。ハチ公口の駅前広場にある忠犬ハチ公の銅像は、主人の死を知らずに11年間も主人の帰りを待ち続けたという場所に1934年建立、1948年再建され、渋谷のシンボルとして待ち合わせ場所となっている(1989年に数メートル西へ移動)。渋谷の東方には青山学院大学、聖心女子大学、国学院大学など学園地区がある。ハチ公の銅像から北方、NHK放送センター、国立代々木競技場(こくりつよよぎきょうぎじょう)、渋谷区総合庁舎に至る坂道は公園通りとよばれ、若者向けのファッションの街を形成。その東方には、JR山手線に沿って複合施設MIYASHITA PARK(ミヤシタパーク)(2020年開業)があり、渋谷区立宮下公園はその4階に位置している。
現在、行政上渋谷とよばれる地域は、東部の宮益坂側の1~4丁目の地区であり、西部の道玄坂側は道玄坂、宇田川町(うだがわちょう)、神南(じんなん)の各地区に分かれている。なおその外側に南平台町、松濤(しょうとう)などの高級住宅街がある。
[沢田 清]
渋谷の変貌(へんぼう)
渋谷駅にはJR線、東急線、京王線、東京地下鉄線が乗り入れるものの、鉄道会社それぞれが再開発を進めたうえ、JR山手線や国道246号により東西南北に分断され、混雑がひどく、乗換えや回遊がしづらいという難点があった。このため2012年1月に特定都市再生緊急整備地域に指定され、以後、2027年度の完成を目ざし、「100年に一度の大開発」といわれる駅ホームの移動や駅周辺の大規模再開発が進んでいる。
駅自体では、2013年3月に東急東横線渋谷駅が東口にある渋谷ヒカリエ地下へ移転し、東京地下鉄副都心線との相互直通運転を開始。これにより東急東横線から副都心線経由で西武有楽町(ゆうらくちょう)線・池袋(いけぶくろ)線、東武東上線までの直通運転が実現した。2020年(令和2)1月には、東京地下鉄銀座線渋谷駅ホームを東の明治通り直上まで移し、ほかの鉄道への乗換えを容易にした。2020年6月には、南側に遠く離れていたJR埼京線ホームをJR山手線ホームと並列の位置へ移動し、その後、JR渋谷駅ホームの改良工事も予定されている。
複合高層ビルの整備では、2017年に駅北部に渋谷キャスト(地上16階、地下2階)、2018年に東横線駅南に渋谷ストリーム(地上35階、地下4階)、東横線跡地に渋谷ブリッジ(地上7階)、2019年には駅西部に渋谷ソラスタ(地上21階、地下1階)、駅西口に渋谷フクラス(地上19階、地下5階)、JR駅直結の渋谷スクランブルスクエア東棟(地上47階、地下7階)などが相次ぎ開業した。2023年には駅南の桜丘(さくらがおか)口地区、2024年には駅東の渋谷二丁目17地区に再開発ビル、2027年度には東急百貨店東横店跡地に渋谷スクランブルスクエアの中央棟・西棟が完成する予定である。また各ビルをつなぐデッキなども整備される。
[編集部 2020年4月17日]
[参照項目] | 青山学院大学 | 国学院大学 | 渋谷(区) | 聖心女子大学 | 忠犬ハチ公 | 山手
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
池袋・渋谷の鉄道ターミナル+百貨店+娯楽施設+学校で発展させる、阪急社長小林一三の経済手法を習ったものとある。
[小林一三]
[生]1873.1.3. 山梨,韮崎
[没]1957.1.25. 大阪,池田
実業家。 1892年慶應義塾卒業。翌 1893年三井銀行に入社したが 1907年退社,同年箕面有馬電気軌道 (現阪急電鉄 ) の設立に参加して専務に就任,以後鉄道沿線の宅地開発,娯楽施設の設置により路線を新設。やがて実業界の第一人者となり,阪急百貨店などの設立にも成功し,またこの間東京電灯,日本軽金属の社長を歴任。興行面では 1913年宝塚少女歌劇団,1937年東宝映画を設立。 1940年第2次近衛内閣の商工大臣,1945年幣原内閣の国務大臣兼復興院総裁となったが,1946年追放令公職追放により公職を退いた。 1951年追放解除とともに東宝社長に復帰,東京有楽町のアミューズメント・センターの復興,宝塚歌劇の強化に努め,大阪,京都,名古屋に大劇場を建て,映画,演劇,ミュージカルの興行を盛んにした。 1956年には新たな国民演劇育成を目指して大阪梅田と東京新宿にコマ劇場を建設した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事 コトバンク『小林一三』
2021年建造物の名称と設計者を問う形で出題。
東京都港区赤坂にある洋風建築。 1872年旧紀伊藩主徳川茂承が同藩の所有であった上屋敷建物,敷地を天皇家に献上したもので,同年赤坂離宮と命名された。 73年皇城の焼失により,89年まで仮皇居として使用された。現在の建物は皇太子時代の大正天皇のために計画されたもの。片山東熊が設計を担当し,1909年完成。建築様式は当時の欧米の宮廷建築の通例であった新バロック様式が採用された。地震を考慮して煉瓦造,石張りの構造体をアメリカ製の鉄骨で補強した建築構造が注目される。室内は最高級の輸入調度品と今泉雄作,浅井忠,黒田清輝など当時の一流芸術家の作品で豊かに装飾された。現在は迎賓館となっている。 74年に村野藤吾によって改修された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『赤坂離宮』
明治期洋風建築の代表作の一。東京元赤坂にある。旧赤坂離宮。明治42年(1909)フランスの宮殿様式を模した建物が完成、昭和49年(1974)の改修後、外国の賓客の接待・宿泊のための建物となる。国宝。
[補説]明治以降の文化財では初めて国宝に指定された。
出典 小学館デジタル大辞泉 コトバンク『迎賓館』
1910年8月 29日に公布施行された「日韓併合に関する条約」に基づき日本が行なった韓国領有。日露戦争の結果,調印されたポーツマス条約 (1905) 第2条,日英同盟 (同年改定) 第3条においてそれぞれ日本の韓国における政治上,軍事上および経済上の卓絶した地位が承認されたが,さらに日韓協約 (同年) によって日本は韓国の外交権を獲得し,韓国は国際法上の保護国となって統監がおかれた。その間,ハーグ密使事件,伊藤博文暗殺,李完用刺傷,啓蒙運動,義兵闘争,農民反乱などの広範な運動があったが,10年8月 22日第3代統監寺内正毅と首相李完用の間で「日韓併合に関する条約」に調印がなされ,「併合」は強行された。条約8ヵ条の内容は,統治権の日本皇帝への譲与,日本帝国への韓国併合,韓国皇族らへの尊称,歳費などの供与,功労者への栄爵,恩金供与,日本の国法に従う韓国人の身体,財産の保護,日本への忠誠,韓国人の官吏登用などが記されていた。この「併合」には親日派の一進会などの日韓合邦運動などがあったが,旧官人,貴族層は併合に際し自決したり,親日派暗殺,反日義兵への援助,加入を行なった。また,知識人は言論機関を通して反対声明を出したり,反対運動に加わった。またロシアやアメリカにいる知識人も反対の言論運動を行い,在韓外国人紙・誌も反対の論旨を掲げた。しかし日本は軍隊をソウルなど韓国内要地に配置し,反対運動にそなえ,総督府を設立,ここに 45年までの日本の朝鮮統治が始った。
[韓国併合]
1910(明治43)年8月22日調印の韓国併合条約により,韓国を日本の領土としたこと
朝鮮と改称。日露戦争末期の桂‐タフト協定,第2次日英同盟,ポーツマス条約によりアメリカ・イギリス・ロシアに韓国支配を認めさせた日本は,1905年11月韓国保護条約(第2次日韓協約)で韓国の外交権を奪った。さらにハーグ密使事件を契機とし,'07年第3次日韓協約で内政権を奪い,抗日武装蜂起「義兵」を弾圧しつつ(義兵運動),'10年8月韓国併合を完成。朝鮮総督府を置き,陸軍大将寺内正毅 (まさたけ) が初代総督となった。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 コトバンク