全国通訳案内士試験の最終合格発表は、2026年2月6日(金)です。
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
以下の項目選択には、『中高生のための幕末明治の日本の歴史辞典 年表』(国立国会図書館国際子ども図書館)・『資料による日本の近代(開国から戦後政治までの軌跡)』(国立国会図書館)を活用しています。
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明治天皇の名において宣言された。薩長が徳川幕府を廃止し、天皇中心の政治を行う事を広く知らせた。
江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の大政奉還を受けて、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、京都御所の御学問所にて明治天皇より勅令「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府廃止、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置、諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言され、新政府が成立した。
参考:『王政復古(日本)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
Wikipedia『1868年』には新暦1月3日に王政復古の大号令が発せられたと記す。
京都御所の正殿・紫宸殿で1868年4月6日(明治元年3月14日)に明治天皇が日本神話の天神地祇に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。
一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ
『五箇条の御誓文』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87
1868年4月7日(慶応4年3月15日)に、太政官(明治政府)が立てた五つの高札[1]。明治政府が民衆に対して出した最初の禁止令。
「五箇条の御誓文」が天皇・公卿・全国の諸大名が神明に誓う形式で表明した新しい「国是」であり、「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が天皇(および朝廷)が公的に示した「考え」であり、いずれも都市で発売されていた太政官日誌でも布告されていた「詔勅」であるのに対し、「五榜の掲示」は、太政官布告による間に合わせ的な措置であり、主に新政府の支配下(影響下)にある地域の高札場でのみ掲示された。
第一札から第三札、
即ち、第一札による五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。端的には天皇や家父長に対する忠孝)や憐れみの推奨および悪業の禁止、
第二札による徒党・強訴・逃散(集団で謀議を計ること)の禁止、
第三札による切支丹・邪宗門の禁止は、いずれも江戸幕府の統制をそのまま踏襲したものである。
第四札は、明治新政府独自の万国公法の履行と外国人殺傷の禁である。
第五札は、古代律令制の復活を彷彿とさせる脱籍浮浪化に対する禁であり、これも明治政府的なものである。
参考:『五榜の掲示』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%A6%9C%E3%81%AE%E6%8E%B2%E7%A4%BA
憲政体制に移行した時代であり、「明治」は憲政上最初の元号となる。また、「一世一元の制」による最初の元号である。
明治天皇が「一世一元の詔」を発布した西暦1868年10月23日(明治元年9月8日)から、明治天皇が崩御した1912年(明治45年)7月30日までの期間を明治(時代)とする。
参考:『明治』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB
太政官は、幕末から明治にかけて設けられた官僚。
1868年6月11日(慶応4年/明治元年旧暦閏4月21日)に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて置かれた。当初は、議政官以下7官の総称だった。
1869年(明治2年)の官制改革で、民部省以下6省を管轄し、左右両大臣が置かれた。
1871年、長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。
1885年(明治18年)、内閣制度の発足に伴い廃止された。
明治2年7月8日(1869年8月15日)に、新しい太政官制が導入された。これは、アメリカの影響を受けた政体書体制を廃止して、「祭政一致」を原則とした復古的な官制であった。まず神祇官が復活して太政官よりも上位に置かれ、太政官の下には民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省が設置されるという二官六省制が採られ、侍詔院・弾正台・集議院・大学校などの諸機関が置かれた。また、三権がいずれも太政官の下に置かれた。
参考:『太政官』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%94%BF%E5%AE%98
明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。
明治維新で発足した新政府は、旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し、直轄地として支配した。
戊辰戦争中の慶応4年(明治元年)1月から4月(1868年2月から5月)にかけて、新政府は直轄地の統治機関として裁判所を設置した。続いて同年閏4月21日(6月11日)には、政体書で府藩県三治制が定められた。一方で、この明治元年の段階では、藩は府県と並ぶ地方機関と位置づけられ、直轄地以外の諸藩の本領は安堵されてその領主権に大きな制約は加えられなかった。
太政官達「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス」が公布され、華族制度が創設された。旧藩主の諸侯285家は公卿142家と同時に華族に列せられた。士分の藩士は藩主一門の別家を含めて士族とされた。版籍奉還により、藩主が非世襲の知藩事に任命された。
地方知行が廃止され、一律に蔵米知行とすることが義務化された。各藩の財政や統計の報告が命じられ、知藩事の家禄は各藩の全体収入の10分の1と定められた。
知藩事と藩士の主従関係が形式上は否定され、政府が藩士を登用する際には藩に問い合わせることなく行うようになった。
江戸時代は財政などの藩の内情の幕府への報告は求められず、藩内人事や俸禄も原則としては藩の専権事項であったが、版籍奉還により中央集権化が進むこととなった。
『版籍奉還』Wikipedia参照 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%88%E7%B1%8D%E5%A5%89%E9%82%84
日本において通信制度が現れたのは、伝馬などを利用して公用通信に供した「大化の駅制」とされる。この駅制は盛衰を続け、鎌倉時代に至って飛脚の出現となり、戦国時代には大名の書状送付に飛脚が利用されるなどを経て、徳川時代(江戸時代)に幕府の整備により武家や町人が利用できる飛脚屋・飛脚問屋などの制度が発達した。その後明治時代に入り、飛脚は郵便に移行してゆく。
1870年(明治3年)5月、駅逓権正となった前島密は、太政官に郵便制度の創設を建議した。しかし、同年6月に前島が上野大蔵大丞に差添し渡英したことから、郵便制度創設の建議は、後任の駅逓権正・杉浦譲と各地の官吏に引き継がれた。
1871年(明治4年)1月24日に「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃銭切手高並代銭表」[14]、「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告が公布され、4月20日(旧暦3月1日)、東京 - 京都 - 大阪間に現行の制度の礎となる郵便制度が確立され、東京・京都・大阪に最初の郵便役所が創設された。布告に用いられた「郵便」の名称は、前島の案に準じたものであった。1882年には「郵便条例」を制定[15]し、第一種・第二種・第三種・第四種郵便物とその料金(郵便税)を定めた[15]。
前島密により建議され、創設された近代日本の郵便制度においては、これまで東京 - 京都 - 大阪間の政府の手紙等の配達に毎年1500両支出していたのを、政府の手紙配達に民間の手紙配達を併せて配達し利益を出すしくみが提案されていた。そのしくみは、東京 - 京都 - 大阪間62箇所の郵便役所・郵便取扱所で官吏が引き受け・管理を行い、配送時間は厳守された。郵便制度の創設後、従来の飛脚が東京 - 大阪間144時間で書状を配送していたものを、78時間に短縮した。
翌1872年(明治5年)8月に前島が英国より帰京すると、郵便役所はさらに横浜、神戸、長崎、函館、新潟と全国展開が図られ、江戸時代に地域のまとめ役だった名主に自宅を郵便取扱所とする旨を要請、1873年(明治6年)に全国約1100箇所の名主が郵便取扱所を快諾したことから、郵便制度は全国に拡大した。
参考:『郵便~日本の郵便』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B5%E4%BE%BF
参考:『逓信省』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%93%E4%BF%A1%E7%9C%81
参考:『切手』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E6%89%8B
参考:『前島密』(日本郵政) https://www.japanpost.jp/corporate/milestone/founder/
参考:『グループの沿革 出来事で振り返る:1871年から1890年』(日本郵政) https://www.japanpost.jp/corporate/milestone/history/index02.html
明治4年5月10日(1871年6月27日)に制定された日本の貨幣法である。日本の貨幣単位として「圓(円)」を正式採用した。
明治8年(1875年)6月25日の改正に伴い、名称も貨幣条例(貨幣條例、太政官布告第108号)に改められ、明治30年(1897年)10月1日の貨幣法施行により廃止された。
参考:『新貨条例』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%B2%A8%E6%9D%A1%E4%BE%8B#
明治4 (1871) 年7月,封建割拠の基となる藩を廃し,府県に改めることにより,封建制度が廃止され,日本が近代的集権国家体制となったこと。王政復古以来,明治新政府の指導者たちは,欧米先進諸国の集権国家体制にならい,民族国家の創出を目指して封建諸藩の廃止を計画していた。長州藩の指導者木戸孝允はこの政策の推進に最も積極的で,その主張により,明治2 (1869) 年版籍奉還が実現したが,なお,実質的には藩体制が存続した (→藩治職制 , 府藩県三治制 ) 。そこで政府は,さらに実質的廃藩に踏切るための準備をすすめ,同3年9月藩制改革を命じて課税権を確立し,次いで武士層に威望のある薩摩藩の西郷隆盛を参議として入閣させ,薩長土3藩の協力を得て,同4年4月1万人の政府軍が編制された。政府首脳はこの親兵を統率する西郷の説得に成功し,加えて肥前藩の参加を得て,7月詔勅をもって全国諸藩の制度的廃止を布告した。政府は,反対する藩は武力で討伐する決意を有していたが,意外にもこの布告は抵抗なしに受入れられた。その素因としては,幕末以来,財政窮迫に苦しむ藩が多く,政府が債務を継承するとの条件に,異議をいだく理由がなかったことにもよる。この結果,全国は府県の行政単位に統一され,旧藩知事はすべて華族に列し,東京移住を命じられ,代って政府から新たな府知事,県令がそれぞれ任命されて,ここに集権国家体制が確立した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
廃藩置県コトバンク より一部引用
1871年9月13日(明治4年7月29日、同治10年)に、天津で、日本と清の間で初めて結ばれた近代的な条約。両国にとって開国後、初めて外国と結んだ「対等」条約であった。
ただし、互いに領事裁判権と協定関税率を認め、最恵国待遇を欠くなどの面で、変則的な対等条約であった。相互に開港することなどを定めており、この条約と同時に、通商章程と海関税則も調印された。
参考:『日清修好条規』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F
穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス(えたひにんのしょうをはいしみぶんしょくぎょうともへいみんどうようとす)は、明治4年8月28日(1871年10月12日)に明治政府が行った穢多非人等の称や身分の廃止などの旨を記した太政官布告である。
当法令が検討された最初の案は、明治2年(1869年)12月に民部省改正掛の渋沢栄一より、大蔵大輔大隈重信(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)にあてて提出された戸籍に関する草案である(現在早稲田大学社会科学研究所「大隈文書」)。これは、改正掛には渋沢や前島密など郷士や農民などから幕臣を経て明治政府に仕官した者が多く、早くから人権の確立や四民平等の必要性を自覚していた層であった。また、実務面でもその身分の種別数が少ない方が事務処理に便利であるという側面もあった。
参考:『開放令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E6%94%BE%E4%BB%A4
明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団である。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。当初の目的であった不平等条約改正の交渉は果たせなかったものの、日本近代化の原点となる旅として、明治政府の国家建設に大きな影響を与えたことから、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われる。
明治4年(1871年)11月12日(陰暦)に米国太平洋郵船会社の蒸気船「アメリカ」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。
政府首脳の半数近くが長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こした。
参考:『岩倉使節団』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3
東京駅は、東京都千代田区丸の内一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅。JR東日本の在来線と新幹線各路線、JR東海の東海道新幹線、東京メトロの丸ノ内線が発着するターミナル駅である。日本最大のビジネス街である丸の内・大手町・有楽町・八重洲・日本橋・京橋の中心に位置しており、地下街を経由し周辺のオフィスビルと直結している。
(1872年:仮営業(品川~横浜→正式開業、新橋で記念式典。お召列車が新橋~横浜間(2022年鉄道150周年)) )
1914年:開業(辰野金吾・葛西萬司設計)(第1次世界大戦開戦年)
1923年:関東大震災で被災するも被害は少なかった。
1945年:焼夷弾被弾で大火災。これによりレンガ造の壁やコンクリート製の床など構造体は残ったが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた。
1945年~1947年(昭和22年):修復工事を行った。3つのドーム部分の外壁は修復したが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更。
1964年(昭和39年)10月1日:東海道新幹線が開業。
2000年(平成12年):丸の内駅舎を創建当初の姿に復原する方針がまとめられた。500億円とされた復原工事の費用は、東京駅の容積率を丸の内地区の高層ビルへ移転(売却)することで賄うことになった。復原工事自体は、2007年(平成19年)5月30日に起工され、2012年(平成24年)10月1日に完成した。
*つくばエクスプレスが東京駅に大深度地下を利用して秋葉原駅から当駅に乗り入れる計画がある。
*東京モノレールを東京駅まで延伸する計画がある(ただし、計画は停滞)。
日本最初の近代学校制度に関する基本法令。明治5 (1872) 年発布,その後条文の改正追加が行われ,日本における近代学校の成立発展の基礎となった。同4年に設置された文部省は全国に実施する学校制度を確立するため,学制起草委員を任命して学制を立案制定した。その際国内の事情をも調査したが,委員の多くは当時の洋学者であり,学制は主として欧米の学校制度を模範として定められた。政府は同5年8月2日に学制の趣旨を声明した太政官布告とともに学制を発布し,文部省は翌3日 (太陽暦9月5日) に全国に学制を公布した。学制は全国を大学区,中学区,小学区に区分し,学区制によって小学校,中学校,大学校を設置することとしている。学制の実施により,全国にまず小学校が設けられ,その後中学校その他の学校も設立されたが,学制は規定どおりには実施されなかった。学制の構想はきわめて雄大であったが,当時の現実の社会に適合せず,学制に対する批判も高まり,また西南の役後の政治的,経済的情勢の変化などにより,1879年9月,教育令の公布とともに廃止された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『学制』
国民の兵役義務を定めた日本の法令。1873年(明治6年)に陸軍省から発布された後、太政官布告によって何度か改定が繰り返され、1889年(明治22年)に法律として全部改正された。1927年(昭和2年)の全部改正の際に、名称も「兵役法」に変更され、1945年(昭和20年)に廃止された。
明治新政府の軍は、薩摩・長州・土佐など諸藩の軍の集合で、西郷隆盛、大村益次郎、板垣退助らがそれぞれ指揮しており、政府が独自に徴兵して組織した軍はなかった。しかし、大村や西郷従道、山縣有朋らは、早くから「国民皆兵」の必要性を唱えていた。これは、近世的な個人的武技に頼る戦闘では、近代戦において勝利を得るのが困難であることを理解していたからである。しかし、これには身分・家格を廃して四民平等を導入せねばならず、すなわち江戸時代の特権階級のうち最大の人口を占める武士の解体を意味する。そのため、政府内にも島津久光を筆頭に前原一誠・桐野利秋ら保守的な反対論者を多数抱えており、また西郷隆盛も「壮兵」といって、中下層士族の立場を考慮した志願兵制度を構想していて徴兵制には消極的であった。
参考:『徴兵令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E4%BB%A4
明治政府が1873年―1881年に実施した土地制度,税制上の大改革。土地所有権の法認と金納地租を骨格とし,以後の地主制展開の基礎をなした。1873年地租改正条例を布告,土地区画,丈量,地価算定,従来の土地占有者への新地券の交付などを行い,地価を地租の課税標準とし,豊凶に関係なく税率3%,金納とし,土地所有者に課税することとした。この改正地租は依然高額であったため各地に農民の反対騒擾(そうじょう)が起こった。1877年税率を2.5%に引き下げ,1884年同条例は廃止,地租条例を制定。
→関連項目愛国社|字切図|一揆|井上馨|入会|隠田|神田孝平|官民有地区分事業|寄生地主制|公有林|石代納|石高制|小作制度|地押|自由民権|田畑勝手作許可|地券|地租|日本|松方正義|陸奥宗光|明治維新|若尾逸平
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア(コトバンク『地租改正』)
参考:『明六社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%85%AD%E7%A4%BE
明六社(めいろくしゃ)は、明治初期に設立された日本最初の近代的啓蒙学術団体。
概要
1873年(明治6年)7月にアメリカから帰国した森有礼が、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に同年秋に啓蒙活動を目的として結成。名称の由来は明治六年結成からきている。会合は毎月1日と16日に開かれた。会員には旧幕府官僚で、開成所の関係者と慶應義塾門下生の「官民調和」で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、浄土真宗本願寺派や日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族が入り乱れる日本の錚々たるメンバーが参加した。
1874年(明治7年)3月から機関誌『明六雑誌』を発行、開化期の啓蒙に指導的役割を果たしたが、1875年(明治8年)、太政官政府の讒謗律・新聞紙条例が施行されたことで機関誌の発行は43号で中絶・廃刊に追い込まれ事実上解散となった。後に明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を経て、日本学士院に進展する原流ともなった。
沿革
帰国した森有礼は、富国強兵のためにはまずは人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考えていた。そして欧米で見聞してきた「学会」なるものを日本で初めて創立しようと考える。「帝都下の名家」を召集するために西村茂樹に相談し、同士への呼びかけを始めた。当時、27歳であった福沢諭吉を会長に推すも固辞し、森が初代社長に就任。最初の定員は10名で、西周・津田真道・中村正直・加藤弘之・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥で創立された。
会員は、「定員」「通信員」「名誉員」「格外員」に分けられていた。同年4月11日には第一号の会報が発行され、雑誌掲載論文数は156編に及んだ。いずれも明治初期の時代精神を映した論考であり、発行部数は月平均3200部に達した。明治8年9月になり、明六雑誌の休刊が決定され、多くは文部省直轄の東京学士院・帝国学士院へと移行していった。
[生]天保11(1840).2.13. 武蔵,血洗島
[没]1931.11.11. 東京
明治・大正期の実業家,財界の指導者。生家は村名主で,農業のほか藍玉の商業も営んでいた。栄一は年少の頃から家業に従事したが,のち才幹を認められて,一橋慶喜(→徳川慶喜)に仕え,慶応3(1867)年に慶喜の弟徳川昭武に随行して渡欧した。明治維新後,明治政府に仕官し,近代的財政,金融,貨幣制度の導入に尽力した。1873年退官し,第一国立銀行の頭取となり,以後明治期を通じて民間の銀行,産業および実業家団体の育成と指導に大きな役割を演じ,関係会社は数百に上った。1916年第一銀行を除いて関係会社から退き,社会公共事業に余生を送った。福沢諭吉と並んで日本の経済近代化の最大の功労者である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
欧米列強の東アジアへの進出という国際環境,すなわち「万国対峙」という状況のなかで急速な資本主義化と近代的軍事力創設を目指した明治政府のスローガン。殖産興業による資本主義化を「富国」ととらえ,それを基礎とする近代的軍事力の創設を国家の根本政策とみなしたことをさす。富国強兵という言葉は,幕末の幕政・藩政改革においてすでに現れているが,特に明治政府が徴兵令,地租改正,殖産興業などの推進過程で積極的に取上げた。またこのスローガンは単に政府側からの呼びかけにとどまらず,国民的達成課題の集約的表現として機能した。しかしこの目標を達成するための方策と順序にはさまざまな考え方があり,攘夷と開国,復古と開化,外征と内治などの対立もその現れであった。日清・日露戦争の勝利と不平等条約改正の達成は富国強兵政策の第一段階を画するものであったが,日清・日露の戦後経営のなかでも依然として国富,民力の充実が叫ばれ,第1次世界大戦後には経済戦という考え方が急速に浸透していくことになった。大陸への侵略政策も富国強兵路線の延長線上に位置づけることができる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
1874年(明治7年)1月17日、前参議・板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。自由民権運動の端緒となった文書である。「民撰議院設立の建白書」と言われる場合もある。
民撰議院設立建白書は、まず、政治権力が天皇にも人民にもなく、ただ有司専制(ゆうしせんせい。有司=官僚)にあることを批判する。そして、この窮地を救う道はただ「天下ノ公議」を張ることにあり、「天下ノ公議」を張るとは「民撰議院」を設立することであるとする。「民撰議院」によって有司の専権を抑え、以て国民は幸福を享受することになると主張する。
民撰議院設立建白書の内容は、イギリス人ジョン・レディー・ブラックによる新聞『日新真事誌』に全文掲載されて広く国民に知られた。政府や明六社は時期尚早として反対したが、以後、同様の建白書が続々と提出されることとなる。
民撰議院設立建白書は、天賦人権論に立脚しているものの、当時、困窮を極めた不平士族の不満が形を変えて噴出したものであったと言える。しかし、国民各層にはその考え方が次第に浸透して行き、自由民権運動の気運が高まるきっかけとなった。
参考:『民撰議院設立建白書』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%92%B0%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%A8%AD%E7%AB%8B%E5%BB%BA%E7%99%BD%E6%9B%B8#
2021年出題
1874年2月に佐賀県下の士族が中心となって起した反政府反乱。当時の佐賀県には,強硬に征韓論を唱える征韓党や,中央政府の推し進める強権的資本主義化に反対し,旧武士層の利害を代表して封建復活を唱える憂国党などがあり,政治的には反明治新政府の牙城であった。 74年1月,大久保利通,岩倉具視らとの征韓論をめぐる政治的抗争に敗れた江藤新平が,下野して征韓党首領となるや,佐賀県の不平士族は反乱へと積極的に動きはじめ,征韓党は島義勇を首領とする憂国党と合体,旧弘道館に本部を設置し,「征韓先鋒請願事務所」を名のった。征韓党と憂国党が同年2月1日,政商小野組を襲撃して兵をあげる準備をするなど不穏な動きをみせたことを契機に,政府は反乱鎮圧に乗出し,参議大久保利通を全権とする鎮圧軍を組織してこれを佐賀へと向わせた。反乱軍は,およそ 3000名を数え,一時,佐賀県庁 (旧佐賀城) を占拠するなど抗戦を続けたが,最新兵器で武装した政府軍の前に歯が立たず,2月いっぱいで鎮圧された。江藤と島は逃走したが,2月 29日に江藤が四国で,3月7日には島が鹿児島でそれぞれ捕えられ,裁判の末4月 13日,ともにさらし首の刑に処せられた。また刑は,ほかに斬罪 11名,懲役 130名という強硬なものであり,内乱鎮圧に対する新政府の強い態度を示すものであった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。
治新政府が成立した日本は1868年(明治元年)12月19日、新政権樹立の通告と条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹立を求める国書を持つ使者を、かねてから日本と国交のあった李氏朝鮮政府に送った。しかし大院君のもとで攘夷を掲げる朝鮮政府は、西洋化を進める明治政府を訝しみ、国書の受け取りを拒否した。日本はその後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否し、日朝外交の膠着が始まった。
征韓論争は明治六年政変によって「延期」(「中止」ではない)と決まったが、その後の台湾出兵の発生と大院君失脚の報によって征韓論の勢いが弱まったために、明治政府は政府間交渉をして相手の状況をみることとした。
艦長の井上良馨による10月8日付の上申書[20]によると、1875年(明治8年)9月20日、雲揚が清国牛荘へむけて航海中、飲料水の欠乏により探水のため贅月尾島沿いへ仮泊、翌21日やや移動して永宗城の上に鷹島を北西に望む位置に投錨する。同位置から探水或いは請水のために自ら端艇に乗りこみ、江華島に向かっている途中(同島南東端の草芝鎮沖にさしかかった際に)島に設置された砲台から突如砲撃を受けたので、急ぎ雲揚へ帰艦した。すでに本艦は号砲による警告暗令に応じるかたちで日本国旗を掲げており[注釈 9]、ただちに反撃砲撃を開始し江華島砲台を破壊。どうして砲撃を行ったのか尋問するために永宗城島の要塞を占領した、云々と説明されている。
参考:『江華島事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1875年1~2月,参議伊藤博文と在野の前大蔵大輔井上馨の周旋により,参議大久保利通と在野の木戸孝允,板垣退助らが大阪において行なった一連の秘密政治会談のこと。その結果,将来国会を開く準備として元老院を設けること,裁判の基礎を強固にするため大審院を設けること,民意を疎通するため地方官会議を興すこと,および内閣と各省すなわち参議と卿を分離することで合意をみ,木戸と板垣は再び参議として政府に復帰することになった。これにより,征韓論以後次第に弱体化しつつあった政府は一応その補強に成功し,4月にはこの会議の成果をふまえた詔が発布され,元老院,大審院の創設,地方官会議の召集,立憲政体の漸次採用が宣言された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(たいれいふくならびにぐんじんけいさつかんりとうせいふくちゃくようのほかたいとうきんしのけん、明治9年太政官布告第38号)は、1876年(明治9年)3月28日に発せられた、大礼服着用者・勤務中の軍人や警察官吏以外は刀を身に付ける(=武装する)ことを禁じる内容の太政官布告。
布告文自体に題名はなく、便宜的に付された呼称(いわゆる件名)である。略称として、廃刀令または帯刀禁止令。
自今禮服着用並ニ軍人及ヒ警察官吏等制規ノ節ヲ除クノ外帯刀被禁候條此旨布告候事
但違犯ノ者ハ其刀可取上事
禁止されたのは帯刀であって、所持または所有そのものが禁止されたわけではない。しかしながら、帯刀はもともと実戦的武備というよりは武士の身分の証明としての意味合いが大きく、それを否定する事は、実質的な特権の否定であり、徴兵令および秩禄処分とともに一つのアイデンティティーが否定されることを意味していた。廃刀令に反発した者は、刀を袋の中に入れて持ち歩いたり、「差さなければいいのだろう」と刀を肩に担いで歩いたりした。また、一部はこの廃刀令を含めた四民平等政策に反発し、士族反乱を起こした。
『廃刀令』Wikipedia より抜粋https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E5%88%80%E4%BB%A4
1876年(明治9年)2月26日(時憲暦光緒2年=高宗13年2月2日)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文では「修好条規」とのみ記されているが[1]、通例として朝鮮国との修好条規(ちょうせんこくとの-)、日朝修好条規、日鮮修好条規(にっせん-)などと呼称する。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。江華島で調印されたため江華島条約(カンファド/こうかとう じょうやく、朝: 강화도조약)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約(へいししゅうこうじょうやく、朝: 병자수교조약)ともいう。
1875年に起きた江華島事件の後、日朝間で結ばれた条約であるが、条約そのものは全12款から成り、それとは別に具体的なことを定めた付属文書が全11款、貿易規則11則、及び公文があり、これら全てを含んで一体のものとされる。朝鮮の砲台が日本の軍艦を攻撃した江華島事件について、日本は宗主国として朝鮮を支配する清に対して「宗主国を名乗るのであれば事件の責任を取れ」と主張した。これに対して清は、「朝鮮は清の属国ではあるが、独自の内政・外交を行っているので、朝鮮に対しては責任を取れない」と反論したため、「朝鮮が清朝の冊封から独立した国家主権を有する独立国であること」を明記した。「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特徴である。
朝鮮側には「片務的領事裁判権の設定」や「関税自主権の喪失」といった不平等条約的な条項も含有されているが、それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が開国する契機となった条約である。その後朝鮮は似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ合衆国、イギリス、帝政ドイツ、帝政ロシア、フランス)とも締結することとなった。
1877年に鹿児島士族が起した,西郷隆盛を首領とする大規模な反乱。 73年征韓論に敗れて政府を辞した陸軍大将西郷隆盛は,以後鹿児島で私学校を経営して九州各地の士族の子弟を多数養成し,新政府の武士層解体政策に不満をいだく全国不平士族層の間に絶大な声望をもっていた。鹿児島県令大山綱良は西郷の支持者で,鹿児島は反政府主義の最大の拠点となる観を呈した。西郷は征韓と士族の特権保護を主張し,有事の際に自己の兵力を率いて国家に奉仕しようと考えていたが,中央政府との対戦は欲していなかった。しかし客観的には政府の中央集権政策と対決,反目せざるをえない条件のもとにあり,西郷とともに下野した桐野利秋,村田新八ら私学校の幹部や,血気にはやる同校生徒らは,中央政府への反感をつのらせた。政府側も鹿児島の反政府風潮を警戒し,鹿児島にあった政府の武器,弾薬を大阪に移そうとした。ここに私学校側の猜疑は頂点に達し,西郷暗殺と私学校弾圧を政府が企てていると断定してついに挙兵した。西郷もこれを制止しえず,みずからも決意して中央政府を問責する名目のもとに1万 3000をこえる軍を指揮して,熊本城に迫った。高知県においても林有造ら立志社の一派がこれに呼応しようとして捕えられた。政府は事態を重視し,有栖川宮を征討大総督とし,全国から徴募した平民主体の鎮台兵を集結して 77年4月ついに熊本城と連絡した。以後,田原坂 (たばるざか) の激闘で西郷軍の将篠原国幹が戦死し,総退却した西郷は,同年9月城山において官軍総攻撃のさなかに幹部らとともに自決した。西南戦争は一方で近代戦争がもはや士族の専有ではありえず,他方,新政府に対する武力蜂起の不可能なことを世上に悟らせた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
西南戦争コトバンクより引用
明治 12年太政官布告 40号。同 1879年9月学制を廃止して公布された学校制度全般に関する基本法令。全文 47ヵ条で学制に比べて簡略であり,また教育を地方の管理にゆだねた。 80年 12月,太政官布告 59号をもって改正し (通称,改正教育令) ,地方官の権限を強め,また就学義務などを強化した。 86年諸学校令の制定によりその効力を失った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
<平成30年(2018年)の問題>
北海道開拓史から第11回冬季オリンピックまでの歴史を問う問題。
[開拓史](以下、小説日本史図録(山川出版社)およびwikipedia各該当ページ参照)
1869: 開拓史設置(東京)、蝦夷地を北海道(松浦武四郎(蝦夷地調査・北海道と命名))と改称。
1871: 開拓使庁を札幌に移管。
1874(明治7年): 屯田兵制度を制定。
翌年(1875年)、琴似村(札幌)に最初の屯田兵村が設置された。
1876: 札幌農学校を開校。札幌麦酒醸造所設立。
1881: 開拓使官有物払い下げ事件。
1882: 札幌・函館・根室の3県を設置(開拓使廃止)。手宮・札幌・幌内(ほろない)間に鉄道全通。
1886: 北海道庁を設置(3県を廃止)
1899: 北海道土人保護法を制定。(→1997年アイヌ文化振興法)
1904: 屯田兵を廃止。
1950: 第一回さっぽろ雪まつり(初期の雪像は中高生中心(大通公園7丁目の雪捨て場に作り始めた)。1955年自衛隊、商社、市の出張所などが加わり、大規模になっていった。1959年からは道外からの観光客、1972年(オリンピック)からは海外からの観光客が増えた。すすきの会場はホテルの調理人による氷像が多い)
1972年(昭和47年)2月3日~2月13日: 札幌オリンピック(第11回冬季オリンピック大会)。(札幌市札幌オリンピックページ参照)
6競技35種目。14会場。 参加国35か国。ジャンプで金銀銅 メダルを独占(日の丸飛行隊)。
[人物説明]
*内村鑑三: 日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」の著者でもある。 札幌農学校第二期生。農学校の外国人教師の影響でキリスト教に改宗し、キリスト教の日本化を目指すようになった。
*岡倉天心:東京美術学校(現:東京芸術大学の前身。)の設立に大きく貢献(校長)し、また日本美術院を創設、帝国博物館の美術部長も兼任した。アーネスト・フェノロサの助手になったことをきっかけに廃仏毀釈や文明開化で粗末にされていた日本美術に再焦点を当て、保護・調査・研究につとめた。(参考:藝大アートプラザ)
*新島襄: 江戸時代の1864年(元治元年)に函館港から密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けて神学を学ぶ(米国時代に、後に札幌農学校の教頭になったクラーク博士から化学の授業を受けていた)。そして、改革派教会(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年(明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。
*新渡戸稲造: 日本の教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。
国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』(日清戦争で日本に関心が高まっていたころだったので各国で翻訳されベストセラーになった)は、流麗な英文で書かれ、長年読まれている。日本銀行券の五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(後の東京文化短期大学、現在の新渡戸文化短期大学)初代校長。
東京英語学校(のちの東京大学教養部)→札幌農学校二期(内村鑑三と同期)(当時国内で唯一学士号を授与する高等教育機関であった。現:北海道大学)
2021年、2022年出題
明治前期,北海道開拓の人材養成のための学校。北大農学部の前身
1872年東京に開設された開拓使仮学校に始まり,'75年札幌に移し翌年アメリカ人クラークを招いて開校。キリスト教的教育が進められ,内村鑑三(宗教家・思想家)・新渡戸 (にとべ) 稲造(教育家、農政学者)・有島武郎(小説家。『或る女』『生まれいずる悩み』『カインの末裔』)らの人材を生んだ。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 (コトバンク)
明治初年の西洋崇拝の風潮をいう。明治新政府は,民族国家の実質的基盤を形成するため,富国強兵,殖産興業の政策をとり,西洋先進諸国の制度,文物,産業,技術の導入を積極的に推進した。明治2 (1869) 年電信施設が架設されたのをはじめ,銀座の煉瓦街,鉄道などめざましい洋風施設が相次いで設置され,同4年には散髪,脱刀が許され,風俗の面でも西洋式が流行した。西洋に対する心酔は日本の伝統文化に対する劣等感と表裏をなすものであったため,古来の宗教や風俗に対する軽蔑の風潮を伴った。しかし文明開化は,人心の啓蒙と交流に貢献し,西洋の自由主義思想も導入されて,自由民権運動の基盤を形成する条件ともなった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
文明開化コトバンクより引用
2019出題
もともとは江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地である。 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され、宮内省(現在の宮内庁)の管理するところとなったが、第二次世界大戦後は一般に公開され、現在は環境省管轄の国民公園として親しまれている。2006年(平成18年)に、「新宿御苑」の名を冠してから100周年を迎えた。開園100周年事業の一環として、絶滅が危惧されている植物の保護センターを設置することが計画されている。
かつては、例年4月には内閣総理大臣主催の「桜を見る会」が開催されていた。また、11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催される。大正天皇と昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもある。
隣接する東京都立新宿高等学校の敷地は、1921年(大正10年)にこの新宿御苑の土地の一部が東京府へ下賜されたものである。
明治政府が民間産業を育成するため、所管の官営鉱山や官営工場の一部を、民間の払受け人とくに特権的政商などに払い下げた措置。官業払下げともいう。官業払下げについては、財政緊縮の目的で1875年(明治8)に当時大蔵卿(きょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)が主張したことがあるが、その後、1880年に布告された「工場払下概則」が、実現の直接の契機になった。ただ、同布告の払下げ条件には、政府資金の回収をおもなねらいとして、営業資本の即時納入その他、厳しい規定が含まれていたため、払受け希望者がきわめて少なかった。そこで4年後に同法令は廃止され、以後、払下げは個別に承認される形で実現することになった。その結果、官業払下げは炭坑、鉱山などから始まり、工場や一部の鉄道などに及んだ。こうして1880年代以降、進行する払下げは、政府に必要な軍事、通信、また資金や技術を必要とする精錬、冶金(やきん)などの諸部門を除き、1896年に生野(いくの)銀山が最後に払い下げられるまで、多くの官営鉱山や官営模範工場に及んだ。そのため、政府財政を節減する目的で実施された官業払下げは、官営軍事工業部門を強化する結果になった。そして払受け人に有利となった払下げは、払下げを受けた三井、三菱(みつびし)、古河(ふるかわ)その他の政商に対して、払下げの施設を基礎に、後年、彼らが財閥に発展する条件を保証することになった。
[石塚裕道]
『小林正彬著『日本の工業化と官業払下げ』(1977・東洋経済新報社)』
[参照項目] | 工場払下概則
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
政治権力者と結託して受注することを主とする企業家。外国にも,このような例はあるが,特に日本では,明治初期から政府による官営事業の払下げ,認可,指定などによって大きくなった三井,安田,三菱,住友をはじめとする特権的企業をさす。これは日本における近代資本主義が,政府による一部の特定企業の保護,育成によって興ったことによる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[生]天保6(1835).12.26. 鹿児島
[没]1885.9.25. 東京
明治初期の実業家,政商。薩摩藩の出身。安政4 (1857) 年藩命で長崎に留学し,航海,砲術,測量を学ぶ。慶応1 (65) 年藩命によってヨーロッパを視察,帰国後は藩の開明派の指導者となり藩の貿易発展に活躍。明治維新後外国官権判事,大阪府判事を経て,明治2 (69) 年退官し,実業界に転身した。以来主として大阪の商工業の発展に尽力し,金銀分析所の開設,鉱山・製藍事業などの経営のほか,大阪堂島米会所復活,大阪株式取引所,大阪商法会議所,東京馬車鉄道会社,神戸桟橋会社などの創立に活躍した。他方では大久保利通,木戸孝允,井上馨,伊藤博文,板垣退助らを集めた「大阪会議」の斡旋に成功するなど,明治初期の政界の黒幕的存在でもあった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『2-3 明治14年の政変』大日本帝国憲法の制定 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/modern/cha2/description03.html
明治14(1881)年に大隈重信が密奏した意見書は、イギリス流議会制の採択と、明治16(1883)年初頭の憲法制定を説く、急進的なものだった。さらに既に顕在化しつつあった財政政策をめぐる対立が重なって、政府部内の軋轢はいっそう高まった。折しも北海道開拓使官有物払い下げ問題は世論の沸騰を招き、払い下げ中止運動と国会開設要求が結び付けられて論じられた。こうした運動には大隈に近い人物も多く関与しており、大隈が福澤諭吉とともに黒幕として疑われた。
対応を迫られた政府は、払い下げの中止と、大隈の免官を決定し、明治23(1890)年に国会を開く旨の詔書が出された。当史料は明治天皇の手許にあった意見書を借覧した伊藤博文が、明治14(1881)年6月に自ら筆写したもの。(→https://dl.ndl.go.jp/pid/3860372/1/1)
参考:『明治十四年の政変』Wikipedia
明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)とは、明治14年(1881年)10月に参議大隈重信が明治政府中枢から追放された事件。自由民権運動が勃興する中で発生した開拓使官有物払下げ事件に端を発した事件であり、大隈と大隈系官僚が政府から去ったことにより政府内の構造が大きく変容した。
前史
政変前の政府構造
明治11年(1878年)5月に大久保利通が暗殺され、政府の中枢を担う内閣は参議伊藤博文が主導権を握る形となった。大蔵卿を兼ね、財政における実力者であった大隈も伊藤の立場を認め、「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と伊藤を支える意思を表明している。薩摩派からは伊藤に対抗する存在として期待されていたが、伊藤の盟友である井上馨の参議就任にも協力するなど、伊藤に敵対する素振りは見せなかった。
しかし明治13年(1880年)頃には大隈発案による外債募集を巡って伊藤らと意見を違え、長州閥と対立することも起きていた。7月頃には井上が伊藤に、大隈を駐ロシア大使に左遷する案が参議の間で出ていると述べ、8月には伊藤が右大臣岩倉具視に対し、大隈を開拓使長官にしてはどうかと提案している[3]。
一方で大隈は明治11年頃から福澤諭吉と親交を深めるようになり、慶應義塾への資金援助や横浜正金銀行の設立問題等で協力するようになった[4]。
立憲体制導入問題
明治12年(1879年)、国会開設運動が興隆し、政府内でも憲法制定や国会開設について議論が開始されていた。明治9年(1876年)からは元老院において憲法草案の作成が進められていた。明治12年12月に参議山縣有朋が立憲政体に関する意見書を提出したことにより、太政大臣三条実美と岩倉は参議から立憲政体に関する意見を天皇に提出させることとした。翌明治13年2月には黒田清隆、7月には井上、12月には伊藤が提出した。このうち黒田は立憲政体は時期尚早であると述べ、山縣と井上はヨーロッパの知識を盛り込んだだけのものであった。
伊藤は井上毅の協力を得て意見書を作成した。その内容は「国会創設は望ましいことではあるが、大事を急いで行うのは望ましくない」「国会を作る場合は上下両院を作り、均衡を保つべきである」「上院を作成する準備のため、現在の元老院を拡張し、華族・士族から公選された代表者に法律を作成させる」「下院の準備として府県会議員から公選の会計検査を行う検査員を選出する」というものであった[7]。しかし大隈は意見書を出そうとはせず、明治14年を迎えた。
熱海会議
明治14年1月から2月にかけ、伊藤は熱海の旅館に大隈・井上・黒田を招き、立憲政体等について語り合ったが、合意は行われなかった。またこの会議の中では開拓使の廃止問題が取り上げられた。黒田は開拓使の継続が必要であると主張したが、大隈は財政上の問題で継続は困難であるとした。官有物払下げの方針が定まり、五代友厚が引き受け手として名乗りを上げた。
大隈の意見書
3月になると、未だ意見書を提出していなかった大隈に対し、左大臣有栖川宮熾仁親王から督促が行われた。大隈は有栖川宮に対し、他の参議・大臣に見せないことを条件に意見書を提出した。大隈の意見書は「早急に欽定憲法を制定し、2年後に国会を開く」「イギリス型の立憲政治を導入し、政党内閣を組織させる」など、あまりにも急進的なものであった。有栖川宮は意見書を三条と岩倉に見せており、岩倉は伊藤が大隈の意見書について知らないということを察知した。意見書の内容があまりにも過激であると考えた岩倉は、伊藤に知られる前に大隈と話そうという手紙を書いている。しかし大隈は伊藤と意見を交換しようとはしなかった。
7月、伊藤が大隈の意見書の内容を知り、激怒して出仕を行わなくなった。7月4日大隈は伊藤の元に赴いて弁解した。伊藤は大隈が福澤の代弁をするようなことをするのはおかしいとし、またなぜ自分に話さなかったのかと詰め寄った。これに対して大隈は、意見書の内容は実効性のあるものではなく、自分の見込みを書いただけで福澤の意見ではないと弁解し、「繰り返し繰り返し謝るのみです」「よろしく思いやりの心で許してください」と謝罪した。伊藤は7月5日より再び出仕したが、意見書について再度大隈に確認し、岩倉に問題は十分に解決していないと伝えるなど、二人の間には亀裂が残った。この段階では三条や岩倉は伊藤と大隈の間を取り持とうとしていた。
大隈の意見書は政変後に金子堅太郎が佐々木高行に「福澤ニ綴ラセタリ」と福澤の筆によるものであると伝え、福澤自身もこれを認めたと語っている。慶應義塾で教えを受け、太政官の大書記官を務めていた矢野文雄は後年、「わが輩が書いたもののやうである」と回想している。
政変
払下げ問題の漏洩
一方で明治13年頃から開拓使の産業・土地等を民間に払い下げる計画が進められていた。明治14年7月21日、黒田は閣議において、開拓使の官僚によって構成された「北新社」と、五代が参加していた「関西貿易社」への払下げを提議した。
閣議において左大臣有栖川宮熾仁親王や大隈は反対したが、閣議では採択された。ところが7月26日に『東京横浜毎日新聞』において、「関西貿易商会の近状」と題した記事で払下げの事案が暴露され、黒田が同郷の五代に対して利益供与を行っているという報道が行われた。7月30日に明治天皇が裁下し、8月1日には公表されたため、各新聞紙上では大きな批判が繰り広げられることとなった。払下げが大きな批判を受けたことで太政大臣三条実美も払下げに難色を示すようになった。これを聞いた黒田は三条家に出向いて払下げの遂行を求めて強談している。
リークを行った人物
新聞に払下げ情報のリークを行った人物としては様々な名が挙げられているが、明確になったものはない。
広瀬は8月31日の五代宛書簡において「某社」、三菱の策謀であると述べており、当時の政府内でも三菱の関与がしきりに取り沙汰されていた。また三菱につながる大隈、福澤諭吉らの陰謀説も政府内で取り沙汰されている。佐々木高行は土方久元から聞いた話として、伊藤博文が(事件は)三菱会社・大隈重信・福澤諭吉らが「相計リタル」ものと語ったとしている。また佐々木によれば河野敏鎌も参加していたとしている。黒田も同内容の説を信じていたが、大隈自身は『大隈侯昔日譚』において関与を否定している。
明治33年(1900年)に刊行された茶話主人著『維新後に於ける名士の逸談』では、岩内炭鉱の採算が取れないことを知った五代によるリークであるとしている。宮地英敏は炭鉱の採算が取れず、開拓事業への関与を危ぶんでいた広瀬が三菱と河野を通じてリークを行ったのではないかと推測している。伊藤之雄は大隈系の官僚であった矢野文雄か尾崎行雄・犬養毅・小野梓のいずれかであろうとしている。
実際のリーク者が誰であれ、伊藤博文は大隈が関与したと確信を強めていた。閣議で大隈が払下げに反対したことは、伊藤に大隈・福澤・三菱の陰謀説を信じさせる一因となった。
政府内における大隈排斥の動き
7月30日より天皇は北海道を含む地方行幸に赴き、閣員のうち有栖川宮・大隈・黒田・大木喬任はこれに同行していた。一方で東京に残った伊藤・井上・山縣有朋・山田顕義・西郷らは大隈の排除に向けて動き出し、三条や当時京都で病気療養中だった右大臣岩倉具視の説得を開始した。また佐々木ら非薩長系の政府重臣、井上毅による薩摩系参議への根回しも開始された。この頃佐々木高行・土方久元・吉井友実ら天皇親政を目指す旧侍補グループや谷干城・鳥尾小弥太ら非薩長系の軍人、そして金子堅太郎や三好退蔵といった中堅官僚は「中正党」と呼ばれるグループを形成し、払下げに反対して薩長勢力に対抗しようとしていた。
この際に大隈を排除する理由として挙げられたのが、大隈が福澤・三菱・佐賀・土佐の民権派と組んで、払下げ事件等で反政府感情を煽り、政権奪取を企てているというものである。佐々木高行は、世論の激化で政府が動揺すると好機と考え、宮中や元老院を舞台に谷・元田らと共に天皇親政運動を主導して、払下げ反対と大隈の追放および元老院の権限強化と参議廃止を訴え、天皇を擁して再度親政を掲げ伊藤ら政府要人の排除に動いたために「中正党」と称された。9月に結成された中正党の顔触れは元侍補達と谷や鳥尾小弥太・三浦梧楼・曾我祐準ら非主流派の軍人、河田景与・中村弘毅ら元老院議官、三好退蔵・金子堅太郎ら少壮官僚で構成されていた。佐々木に大隈の陰謀を伝えた金子堅太郎は、自分自身が大隈系の官僚から陰謀の存在を聞いたとしている。これにより三条や非薩長系も含めた東京政府内では大隈・福澤・三菱の結託が強く信じられるようになっていった。
実際に大隈・福澤・三菱は緩い連携を持っていたが、共通の謀略をもっていたわけではなかった。福澤の弟子である大隈系官僚は国会早期開催に積極的であったが、福澤は自由民権運動自体も「無智無識の愚民」と評するなど冷淡であり、国会開設も時期尚早であると考えていた。また大隈らは伊藤らが大隈排斥に向けて動いていることをほとんど把握していなかった。大隈が東京の情勢を知ったのは10月3日の北畠治房からの連絡によるもので、対処を取るためには遅すぎた。
10月8日までに東京政府のメンバー内では、大隈の罷免、憲法制定と9年後の国会開設、そして払下げの中止が合意された。帰京した岩倉は払下げ中止には否定的であり大隈罷免にも消極的であったが、伊藤や黒田が大隈罷免と払下げ中止を強く迫ったことによって、大隈罷免に同意し、開拓使問題については明治天皇の裁下を仰ぐこととなった。
天皇が10月11日に帰京すると、岩倉は千住駅で拝謁し、大隈の謀略によって払下げ問題が批判を受けているため、早急に御前会議を開いて払下げを再考するべきであると上奏した。その後三条・岩倉の二大臣、伊藤・黒田・山縣・西郷・井上・山田の六参議は有栖川宮左大臣と密談し、大隈罷免について合意した。これに続いて大隈以外の大臣・参議が大隈罷免を上奏した。明治天皇は大隈排除が薩長による陰謀ではないかと疑ったが、薩長以外の参議も大隈排除に同意していたことから、大隈排除に同意した。
同日中に伊藤と西郷によって大隈はこのことを知り、辞職した。10月12日に払下げの中止と国会開設が公表され(国会開設の詔)、事件は終息した。しかし農商務卿河野敏鎌や、矢野文雄・小野梓といった大隈系官僚が大量に辞職した。
政変の影響
しばしば政変はプロイセン風の憲法を作ろうとする伊藤とイギリス風を目指す大隈の路線対立が原因とみなされることがあるが、伊藤は政変の時点では明確にプロイセン流憲法を目指していたわけではなかった。伊藤は政変前の7月2日に井上毅からプロイセン流の憲法を作るよう求められていたが、伊藤はこの時点でははかばかしい反応を示していなかった。また岩倉も9月に出された井上毅の「内閣職制意見」にあるプロイセン流の天皇親政意見には同意しなかった。
しかし政変によって政府内の保守化が進んだことは確実である。井上毅は政変後の政府の有るべき姿として、「彼レ(福澤)ノ為ル所ニ反スルノミ」と述べたように、政府内からの福澤派の影響は徹底的に排除された。これによって政府内の保守化が進み、かつては排斥されていた島津久光の保守思想が再評価されるに至っている。
辞職した大隈と大隈系官僚は政党結成に動き、立憲改進党設立の母体となる。しかし大隈は明治21年(1888年)に政府復帰し、外務大臣を務めている。大隈の回想によれば、岩倉は明治16年(1883年)に没する直前に「薩長政治家にあやまられて、我が輩(大隈)を退けた事を悔ひ」、謝罪したとされる。
翌明治15年(1882年)1月1日、黒田が参議および開拓長官を辞職し、内閣顧問の閑職に退いた。これにより政府内は伊藤を中心とする長州閥の主導権が確立された。開拓使も2月8日に廃止され、北海道は函館県、札幌県、根室県に分けられた(三県一局時代)。またこの年には伊藤が憲法調査のためドイツおよびイギリスに留学することになるが、ドイツにおいてローレンツ・フォン・シュタインと出会ったことで、プロイセン流の憲法作成に傾倒していくこととなる。
政変で下野した人物
参議・省卿
大隈重信(参議)
河野敏鎌(農商務卿)
佐野常民(大蔵卿)
官僚
前島密(駅逓総監)
矢野文雄(統計院幹事兼太政官大書記官)
犬養毅(統計院権少書記官)
小野梓、牛場卓蔵、大隈英麿、尾崎行雄、島田三郎、田中耕造、津田純一、中野武営、中上川彦次郎、牟田口元学、森下岩楠
参考:『五日市憲法』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%97%A5%E5%B8%82%E6%86%B2%E6%B3%95#
五日市憲法(いつかいちけんぽう)は、明治時代初期に民間で創作され、1968年(昭和43年)に発見された私擬憲法の一つである。
東京経済大学の色川大吉ゼミ受講生であった新井勝紘によって、東京都西多摩郡五日市町(現:あきる野市)にある深沢家の土蔵から発見されたため、この名で呼ばれる。本文は「日本帝国憲法」の題で書き始められている。
概略
1874年(明治7年)、板垣退助が『民撰議院設立建白書』を提出し、国会の開設を提案した。1880年(明治13年)、自由民権運動は愛国社を中心に全国的な盛り上がりを見せ、第一回国会期成同盟が開かれた。その中で、国会で話し合うための憲法草案を各結社で作成する事が決定した。
1881年(明治14年)、当時は神奈川県に属した五日市町で、私擬憲法という形で五日市憲法が作成される。五日市学芸講談会のメンバーの一人である千葉卓三郎が起草したとされる。
同年、国会開設の詔が出され、明治天皇の名の下に欽定憲法を制定することが示され、私擬憲法が議論の対象になることはなくなった。
五日市憲法草案は全204条からなり、45条では「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ他ヨリ妨害ス可ラス且国法之ヲ保護ス可シ」と自由権の規定がなされており、平等の権利、出版・表現の自由、信教の自由、結社・集会の自由などが条文として続いている。150条では基本的人権について触れ、国民の権利保障に重きを置いている。他にも国事犯(政治犯)に死刑は宣告されない権利、教育権、義務教育、自治権の絶対的不可侵規定等が盛り込まれており、当時としては画期的な内容である。この草案は、五日市に当時住んでいた農民の学習発表をまとめたものである。『五日市憲法』は東京都の有形文化財(古文書)に、深沢家屋敷跡(土蔵などが残る)は史跡に指定されている。前者は東京経済大学に保管されていたが、のちに、あきる野市の中央図書館に移管された。
五日市憲法草案の大きな特徴として、国民の権利を重点に置いているのと同時に、実際に制定された『大日本帝国憲法』に似た、更に強大な天皇大権が挙げられる。その権限は議会よりも強いと定められ、軍隊の統帥権を始め、35条には「国帝ハ、国会ニ議セズ特権ヲ以テ決定シ、外国トノ諸般ノ国約ヲ為ス」、38条では、「国帝ハ、国会ヨリ上奏シタル起議ヲ允否(いんぴ)ス」とあり、国会に諮ることなく条約を締結できたり、議会の議決に対して拒否権を行使できる規定がある。さらに、27条では「国帝ハ特命ヲ以テ既定宣告ノ刑事裁判ヲ破毀シ何レノ裁判庁ニモ之ヲ移シテ覆審セシムルノ権アリ」と、天皇の命令によって刑事裁判のやり直しができるなど、司法の独立が不十分であり、第一篇の天皇大権の規定と第二篇の国民の権利保障には矛盾が存在し、「進んだ人権保障、遅れた政治機構」と評されることもある
大隈重信は、イギリス流の議院内閣制を基盤とした国会の早期開設を主張しましたが、明治14年の政変により政府から追放されました。これは、急進的な国会開設を求める大隈と、漸進的な憲法制定を主張する伊藤博文らとの対立によるものです。この事件を機に、政府は1890年までの国会開設を約束し、自身主導の憲法制定を進めた。(GoogleAIによる)
出典:国立国会図書館国際子ども図書館「中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典」https://www.kodomo.go.jp/yareki/person/person_08.html
アメリカ人フルベッキに学ぶ
佐賀藩の武士の長男に生まれました。藩校に入学したものの、武士の道徳を学ぶことや中国の古い書物を覚えるだけの封建的な教えが不満で退学します。
その後は、藩の蘭学寮で西洋の学問を学び、1864年、26歳のときに長崎に出てアメリカ人宣教師フルベッキに英語やアメリカの憲法などを学び、西洋の思想に大きな影響を受けます。
翌年の1865年には長崎に英学塾「致遠館(ちえんかん)」を作り、フルベッキを校長に招きます。
イギリスをモデルに
明治新政府では、外国事務局判事として長崎に赴きました。
その後、大蔵省の次官として、新橋・横浜間の鉄道開通を進め、電信(電報)の仕組みを整備するなど、日本の近代化に努めました。
1881年、イギリスの議院内閣制を手本にした憲法の制定と議会の開設を求め、岩倉具視(いわくらともみ)や伊藤博文(いとうひろぶみ)らと対立し、43歳のとき官僚を辞職します。
翌年の1882年には、イギリスの議会政治をモデルに立憲改進党を作ります。1898年に総理大臣となり、日本初の政党内閣を誕生させました。また1914年に再び総理大臣となりました。
優れた人材を育てるための東京専門学校もつくります。東京専門学校は後に早稲田大学と名を改めました。
参考:『大隈重信』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9A%88%E9%87%8D%E4%BF%A1
大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日)は、日本の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。
参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社大学社友。
通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。
早稲田大学を創設したのちに早稲田大学高等学院、早稲田実業学校などもでてきた。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設。立教大学の発展にも携わった。
明治維新時の活躍
慶応4年(1868年)、幕府役人が去った長崎の管理を行うために、藩命を受けて長崎に赴任した。長崎では有力藩士との代表とともに仮政府を構成していたが、2月14日には朝廷より長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨が赴任、引き継ぎを行った。まもなく裁判所参謀助役として、外国人との訴訟の処理にあたった。3月17日、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。大隈の回想によれば、井上馨が「天下の名士」を長崎においておくのは良くないと木戸孝允に推薦したためであるという。当時隠れキリシタンの弾圧である浦上四番崩れについて、各国政府との交渉が行われており、大隈はイギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させ、政府内で頭角を現すこととなった[26][27]。この交渉の成功は、ウィリアムズとフルベッキから学んだ英学とキリスト教の知識の恩恵であった。また、交渉には谷口藍田が同行している。12月18日には前任の小松清廉の推挙により、外国官副知事に就任した。
新政府での活動
壮年期の大隈
明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた[29]。これは当時贋金問題が外交懸案の一つとなっていたためであり、大隈は財政や会計に知識はなかったが、パークスと対等に交渉できるものは大隈の他にはなかった。2月には旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と結婚した。美登との離婚は明治4年(1874年)に成立している。
3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている[33]。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。このころから木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになった[34]。またこのころから「八太郎」ではなく「重信」の名が使用されるようになる[35]。7月22日には民部大輔に転じ、8月11日の大蔵・民部両省の合併に基づき双方の大輔を兼ねた[35]。このころ大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密や渋沢栄一といった若手官僚が集まり、寝起きするようになった。このため大隈邸は「築地梁山泊」と称された[36]。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正などの改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進した。官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などに尽くした。しかしこれは急進的な改革を嫌う副島種臣や佐々木高行・広沢真臣といった保守派や、民力休養を考える大久保利通らの嫌うところとなった。
日本初の鉄道敷設計画
大隈や伊藤が鉄道計画を立てたのは1869年から1870年ごろのことと考えられる。井上馨や渋沢栄一に相談された大隈は「賛成せざりしにあらざれども、時の情勢に危ぶところあり」が「斥けかかる反動の気焔を挫かんには、かかる大事業を企成して天下の耳目を新たにするに如くはなし」と答えている[37]。
明治2年11月5日(1869年12月7日)、右大臣三条実美の東京邸宅において岩倉具視、沢宣嘉、大隈重信、それに伊藤博文がパークスと非公式に会談しているが、大隈と伊藤が事前にパークスと協議した脚本どおりに議事は進行。「折から東北・九州は凶作に見舞われ、北陸・近畿は反対に豊作と聞く。鉄道があれば豊作地の米を凶作地に短時間で大量に輸送することが可能になり、以降の日本は凶作への不安から解放される」というパークスの主張に三条・岩倉ともに手を打って賛同し、明治2年11月10日(1869年12月12日)には鉄道敷設が正式に廟議決定された。その内容は「幹線として東西両京(東京⇔京都)を結び、支線として東京⇔横浜線ならびに琵琶湖⇔敦賀港線を敷設するが、その第一着手線としたのは、ときの政治拠点と外交拠点を直結するという意味以外に、爾後の鉄道拡張に必要な資材を外国から輸入する港湾の確保という意味もあったようである。12月には廟議で東京と関西を結ぶ幹線と、枝線として東京-横浜間の計画が決定し、手始めに東京-横浜間が建設されることとなった。
この際に決まった東京-関西のルートは中山道沿いを通るもので、山間部の開発に繋がることと、海に近い東海道では軍艦からの攻撃を受けやすいので避けたいという陸軍の意向も働いたという[39]。ただ大隈は『大隈重信自叙伝』にて「その計画は、鉄道敷設の起点を東京とし、横浜より折れて東海道を過ぎり、京都・大阪を経て神戸に達するを幹線と為し、京都より分かれて敦賀に至る支線を敷き、この幹線と支線とを以て第一着手の敷設線路と為し、これより漸次してついに全国に及ぼさんと図りしなり」と述べている[37]。結局、中山道ルートは山間部の開発があまりにも困難と判断されたようで、前述の1869年12月廟議の計画は東海道ルートを通るよう変更された。
資金は外債募集に頼ることとなった。そのため「我が神洲の土地を典じて外債を募集する」という陸軍・兵部大輔の前原一誠を筆頭として反対運動が発生し、鉄道を建てる試験のための電信線を傷つけ電線を切断するなどの行為があったようである。因みに兵部の西郷隆盛の反対があり、最初の京浜鉄道は陸路を使う事ができず海を埋め立てて通したとも言われれる。また枢密院議長だった黒田清隆も当初は大反対だったものの、1871年1月から5月にかけてアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国を旅行して鉄道の重要性を体感し、賛成に転じたと大隈は述べている。
明治2年11月10日(1869年12月12日)に鉄道敷設の正式決定した2日後には大隈重信と伊藤博文はレイと仮契約を交わした。レイ借款が100万ポンドの借款で、30万ポンドは鉄道敷設に使い、残りは外債償却に使用するものであった。また大隈重信が外国では鉄道の軌間基準がどうなってるかレイに訪ね、それに対し日本のような川や山が多く平地が少ないところでは、南アフリカなどに敷設されている3フィート6インチ(1067mm:ケープゲージ)が適当だと勧められたため、これを導入している。ただしこれはレイが同じケープゲージを採用していたインドの中古資材を購入して、その利ざやを稼ぐための意図があっての回答であり、欧米の通常軌道より狭いものであった。このため大隈は後年、一生一代の不覚であったと悔やむこととなった。ただ1870年5月20日にイギリスから『タイムズ』が大隈らのもとに届き、そこに4月23日にレイがロンドンにおいて公債公募による詐欺を行っていたとする記事が掲載されていたため、レイ借款を即時解除するという騒動に発展した。
1871年7月半ば、横浜港にイギリスから届いた機関車と客車が陸揚げされた(基本的にこの京浜鉄道は外国からの中古品や流れものによって構成されていたようだ)。伊藤と岩倉は11月12日より岩倉使節団として欧州に出発し日本を不在にしたため、日本初の鉄道開業は留守を司る大隈のもとで行われることになった。1872年6月12日(明治5年5月7日)に品川-横浜間で仮営業を開始し、同年10月14日(明治5年9月12日)に開業している。
明治4年以降
明治4年6月25日、大久保主導の制度改革で参議と少輔以上が免官となり、新参議となった木戸と西郷隆盛によって新たな人事が行われることになった。大隈はこの日参議と大蔵大輔を免ぜられ、6月29日に大蔵大輔に再任された。しかし7月14日には参議に任ぜられ、大蔵大輔は免ぜられた。11月12日に岩倉使節団が出国すると、大隈は留守政府において三条・西郷らの信任を得て、勢力を拡大し、大蔵大輔となっていた井上馨と対立するようになる。1873年(明治6年)5月に井上が辞職すると、大蔵省事務総裁を兼ねて大蔵省の実権を手にした。5月26日には大蔵卿の大久保が帰国したが、その後も実権を握り続けた。
一方でウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受け、博覧会事務局を設置。大隈が総裁、佐野常民が副総裁を務め、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となった。大隈は会場に出席するため渡欧しようとしたが、政府内の同意が得られず出国しなかった[44]。
明治六年政変では、当初征韓論に反対の態度を示さなかったが、10月13日以降反征韓派としての活動を始めた。征韓派は失脚し、佐賀藩の先輩であった江藤新平・副島種臣と袂を分かった。政変後の10月25日には参議兼大蔵卿になった。また大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出している。
大久保政権下の活動
明治7年(1876年)1月26日には三条より、大久保とともに台湾問題の担当を命ぜられ、積極的に出兵方針を推し進めることになる。4月4日には台湾蕃地事務局長官となり、出兵のための船を閣議に図らず大蔵卿の職権で独断で確保した。大隈は出兵を命ぜられた西郷従道とともに長崎に向かったが、その間にイギリスとアメリカから抗議があったため、出兵を一時見合わせる方針となった。ところが西郷は独断で出兵を行い、政府も追認せざるを得なくなった。この間、大隈が西郷の出兵を止めようとしたという記録は残っていない。大隈は出兵後も駐兵を続けるべきと主張していたが、大久保らが早期撤兵の方針を取ると、それに従った。5月23日には左大臣となっていた島津久光が、大隈とその腹心である吉田清成の免職を要求した。大隈は病気を理由に辞表を提出したものの、台湾問題の最中に担当者である大隈を辞職させることもできず、久光の意見は却下された。
明治8年(1875年)1月4日には「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」という意見書を三条宛に提出し、条約改正の実現と、間接税の重視と内需の拡大、官営事業の払い下げなどを主張している。2月11日の大阪会議の開催については全く知らされておらず、大隈を嫌うようになっていた木戸の復帰は、大隈の権力基盤を脅かすこととなる。このころから大隈は体調を崩したとして出仕せず、三条・岩倉・大久保らは大隈の大蔵卿からの解任を検討しているものの、後任候補の伊藤が受けなかったことや、大隈以上の財政家がいないことを理由に大隈を慰留して続投させた。しかし復帰した木戸と板垣退助も大隈の辞任を要求し、大久保が大隈を庇護する形となった。久光と板垣が10月29日に辞職し、木戸も病気が悪化したことで大隈への攻撃は消滅することとなる。
伊藤政権下の大隈
明治11年(1878年)5月14日に大久保が紀尾井坂の変によって暗殺されると、政府の主導権は伊藤に移った[57]。大隈は大久保暗殺を聞いた後、伊藤に「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と述べている。
大隈は、会計検査院創設のための建議を行っており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ統計院の設立を建議・設立し、自ら初代院長となった。
1879年6月27日、大蔵卿大隈は、地租再検延期・儲蓄備荒法の設定・紙幣消却の増額・外国関係の度支節減・国債紙幣償還法の改正の「財政四件ヲ挙行センコトヲ請フノ議」を建議する。
明治13年(1880年)2月28日、参議の各省卿兼任が解かれ、大隈も会計担当参議となった[58]。大隈は佐賀の後輩である佐野常民を大蔵卿とし、財政に対する影響力を保とうとしたが、大隈が提案した外債募集案に佐野も反対したことで、大隈による財政掌握は終焉を迎えた。またこのころから伊藤・井上らから冷眼視されるようになり、井上は駐露公使に大隈を据えるなどの左遷案を提案している。
明治十四年政変
そのころ自由民権運動の盛り上がりにより、各参議も立憲政体についての意見書を提出する動きがあったが、大隈はこれになかなか応じなかった。明治14年(1881年)1月には伊藤・井上・黒田清隆とともに熱海の温泉宿で立憲政体について語り合ったが結論は出なかった。3月、大隈は意見書[注釈 5]を提出するが、それは2年後に国会を開き、イギリス流の政党内閣とするという急進的なものであり、しかも伊藤ら他の内閣閣員には内密にしてほしいという条件が付けられていた。7月にこの意見書の内容を知った伊藤は驚愕し、大隈は「実現できるような見込みのものではない」と弁明したが、伊藤は抗議のため出勤しなくなり、大隈は7月4日に謝罪することとなる。
7月26日、自由民権派の『東京横浜毎日新聞』が北海道開拓使による五代友厚への格安での払い下げを報道し、世論が沸騰した。参議の間ではこの件をリークしたのが大隈であるという観測が広がり、孤立を深めることとなった。大隈が自らを排除する動きが進んでいたのを知ったのは10月3日のことであり、10月11日には払い下げの中止と、明治23年(1890年)の国会開設、そして大隈の罷免が奏上され、裁可された。これは同日中に伊藤と西郷従道によって伝えられ、大隈も受諾した。10月12日に大隈の辞任が公表されると、小野梓ら大隈系の官僚や農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密らは辞職した。また大隈派官僚とつながりがあるものも罷免された。
立憲改進党の設立
野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)4月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている。
外務大臣
明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である[。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている。同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が「官吏は日本国籍保持者に限る」とした大日本帝国憲法に違反するという指摘が陸奥宗光駐米公使より行われた。大隈は裁判所構成法の附則から違憲ではないと主張するが、井上毅法制局長官からも同様の指摘が行われた。山田顕義法務大臣は外国人裁判官に日本国籍を取らせる帰化法を提案し、伊藤枢密院議長、井上馨農商務大臣もこれに同意して条約改正交渉の施行を遅らせるよう求めた。大隈は帰化法の採用には応じたものの、条約改正交渉の継続を主張した。大隈を支持するのは黒田首相と榎本武揚文部大臣のみであり、また世論も大隈の条約改正に批判の声を上げた。
明治22年(1889年)10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった[76][注釈 8]。(大隈の右足の義足は佐賀県佐賀市大隈記念館に保存されている)大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進・高木兼寛・橋本綱常・エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた。翌10月19日、東京に在留していた薩長出身の閣僚すべてが条約改正延期を合意し、黒田首相も条約改正延期を上奏、10月23日に大隈以外の閣僚と黒田の辞表を取りまとめて提出した。大隈は病状が回復した12月14日付で辞表を提出し、12月24日に裁可、大臣の前官礼遇を受けるとともに同日に枢密顧問官に任ぜられた。
その後大きな活動は見せなかったが、裏面で改進党系運動に関与しており、明治24年(1891年)11月12日には政党に関わったとして枢密顧問官を辞職することとなっている。12月28日には立憲改進党に再入党し、代議総会の会長という事実上の党首職についた。これ以降大隈は新聞紙上に意見を発表したり、実業家らの前で演説をすることも増えていく。明治26年(1893年)3月25日には進歩党系新聞の『郵便報知新聞』紙上で「大隈伯昔日譚」の連載が開始されている。
明治29年(1896年)3月1日には立憲改進党は対外硬派の諸政党と合同し、旧進歩党を結成した。大隈は新党において中心的存在とされたものの進歩党には党首職はなく、8か月たってから設置された5人の総務委員のうち大隈派と呼べるのは尾崎行雄と犬養毅にとどまり、内訌を抱えたままの存在であった[83]。4月22日から5月17日には、長崎赴任以来28年間帰省していなかった佐賀に戻り、大規模な演説会などを催している。
松隈内閣
6月、伊藤博文首相は大隈と松方を入閣させて、実業家層の支持を得るとともに、内務大臣となっていた板垣の自由党勢力を抑えることを考慮するようになった。板垣は反対したが、松方は入閣に際し大隈の入閣を条件とした。8月31日に伊藤は辞任し、元老会議では山縣が推薦されたが病気を理由に辞退した。元老会議は松方を推薦し、9月18日、第2次松方内閣(「松隈内閣」と呼ばれる)が発足した。9月22日、松方との協議で大隈は外相に就任したが、尾崎行雄の回想によれば、一時大隈が怒って入閣が流れそうになったこともあったという。進歩党員からの入閣はなかったが、内閣書記官長として進歩党の高橋健三が、また内閣法制局長官に進歩党に近い神鞭知常が就任している。
10月25日、小雑誌『二十六世紀』に伊藤と土方久元宮内大臣を批判する記事が掲載された。『二十六世紀』には高橋内閣書記官長が関与している雑誌であり、閣議ではこの雑誌の発行禁止措置を巡って議論が起きた。大隈は発禁に反対したが、閣議の大勢は発禁を主張する声が高く、結局『二十六世紀』は発禁となった。
明治30年(1897年)3月29日には足尾銅山鉱毒事件で批判を受けていた榎本武揚農商務大臣が辞職し、大隈は農商務相を兼ねることとなった。大隈は次官に大石正巳を就任させるなど進歩党員を農商務省に送り込み、また古河鉱業に対して鉱害対策の徹底を求める一方で、操業は継続させた。10月、松方首相が地租の増徴を図る方針をとると、大隈と進歩党はこれに反対し、10月31日に大隈は辞表を提出した。松方内閣は12月25日に倒れ、後継首相は伊藤博文となった。伊藤は大隈に農商務大臣、板垣に司法大臣の地位を提示して入閣を求めたが、進歩党は大隈を内務大臣とし、更に重要大臣のポストを三つ要求するなど強気の対応を行った。板垣の入閣も行われず、第3次伊藤内閣は政党の支援を得られない形となった。
隈板内閣
明治31年(1898年)3月の第5回衆議院議員総選挙で進歩党は第一党となったが、過半数を抑えることはできなかった。6月22日、進歩党は板垣退助の率いる自由党と合同して憲政党を結成した。6月24日、伊藤首相は大隈と板垣に政権を委ねるよう上奏するが、明治天皇は伊藤内閣が存続し、大隈と板垣が入閣するものと勘違いして裁可を行った。明治天皇は勘違いに気がついたが、6月27日に大隈と板垣二人に対して組閣の大命が降下した。板垣が内務大臣の地位を望んだため、大隈が内閣総理大臣兼外相となり、6月30日に大隈内閣が発足した。佐賀県出身の総理大臣は大隈が初めてで、現在まで他に例がない。陸海軍大臣を除く大臣はすべて憲政党員であり、進歩党系からは大隈の他に松田正久大蔵大臣、大東義徹司法大臣、尾崎行雄文部大臣、大石正巳農商務大臣が入閣し、旧自由党系からは板垣を含む3人の大臣が入閣する、日本初の政党内閣であった。大隈と板垣が主導する体制であったため、「隈板内閣」と呼ばれる。しかし、明治天皇も過去の経緯から大隈に対して不信感を持っていたほか、外務大臣職をはじめとするポストの配分を巡って旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じているなど前途は多難であった[99]。特に旧自由党の星亨は駐米公使を辞任して帰国し、野合に過ぎない憲政党内閣では本格的な政党内閣とならないとみており、倒閣にむけて動き出すことになる。
このような不安定な情勢であったため、内閣は成果をほとんど挙げられなかった。
星は文相・尾崎行雄の共和演説事件を執拗に攻撃し、板垣内相も明治天皇に上奏して尾崎の罷免を求めた。10月22日、大隈と尾崎に不信感を持っていた天皇は、辞任の是非を問うこともなく大隈に勅使を派遣し、尾崎に辞表を提出させるよう命じた。後任の文部大臣を巡っては進歩党系と自由党系の協議がまとまらず、大隈は首相の職権を使って犬養毅を後継に選んだ。自由党系は大隈に反発し、星を中心として自由党系の三閣僚を辞任させることで倒閣に追い込む工作を開始した。10月29日、自由党系は一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成し、進歩党系の三閣僚は辞表を提出した。大隈は進歩党系で閣僚を補充しようとしたが、天皇は大隈と板垣に対して大命を下していたことからこれを認めなかった。すでに各新聞からも内閣は見放されており、10月31日に大隈らは辞表を提出した。
憲政本党総理
11月3日、旧進歩党は憲政本党を結成した。大隈は党の中心的人物であったが、内紛のため党首を置くことはできなかった。明治32年(1899年)8月、伊藤は旧自由党派とともに立憲政友会を結成した。このとき、大隈の側近であった尾崎行雄は脱党し、政友会に参加している。明治33年(1900年)12月18日、大隈は憲政本党の党首である総理に就任した。しかし憲政本党は政友会に押されて振るわず、翌年3月までに33名の議員が離脱した。また桂園時代には裏面で桂太郎首相と連携しようと動いたが、与党にもなりきれなかった。 明治35年(1902年)には伊藤と大隈が会談し、憲政本党と立憲政友会の合同、大隈の蔵相就任も噂されたが幻に終わった。
議員の中からは党体制の改革を求める声が高まった。明治39年(1906年)3月には東北地方選出の議員が執行部の公選制を要求し、裏面で大隈の引退ないし元老化を求める動きが活発となった。この動きには大隈の側近であった大石正巳も加わっていた。11月には大隈側近の犬養毅が院内総務に選出されず、大石のみが選ばれ、改革派の伸長が示された。改革派は児玉源太郎、清浦奎吾、大浦兼武ら外部から党首を迎え、桂太郎首相に接近しようとする動きも見せていた。このため大隈は明治40年(1907年)1月20日の党大会で、憲政本党の総理を辞任することを発表した。ただし完全に憲政本党との関係を絶ったわけではなく、明治42年(1906年)には大石派と犬養派の仲裁を求められている。
在野活動
明治45年(1912年)5月、早稲田の大隈邸で会合した陸軍の各師団長。最前列の中央が閑院宮載仁親王、その左が大隈重信。大隈の左は乃木希典
憲政本党総理を辞して後の大隈は、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。
明治41年(1908年)、米国バプテスト教会の宣教師であったH・B・ベニンホフ博士に依頼し、キリスト教主義の学生寮「友愛学舎」(現在の早稲田奉仕園)を開く。
同年11月22日、戸塚球場で開催された米大リーグ選抜チーム:リーチ・オール・アメリカンチーム 対 早稲田大学野球部の国際親善試合における大隈重信の始球式は日本野球史上、記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者にして総長であり、かつ内閣総理大臣を務めた大政治家である大隈の投球をボール球にしては失礼になってしまうと考え、早稲田大学の1番打者で当時の主将だった山脇正治がわざと空振りをしてストライクにした。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった。
このころ大隈自身が製作に関わった、明治45年(1912年)6月公開の記録映画『日本南極探検』には、探検隊を自邸に招いた際に撮影されたと見られる、カメラに向かって帽子を取って挨拶する大隈の姿が映像として記録されている。
また新聞などで政治評論を行うことも継続した。明治43年(1910年)2月には憲政本党議員に招待され、事実上の党復帰を果たした。この年以降、大隈は大規模な遊説旅行を行い、政治活動再開への動きを見せていた。明治45年(1912年)、橋本徹馬、加藤勘十の結成した立憲青年党の発会式に大隈は、松村介石、山田三七郎と共に招かれる。
第二次大隈内閣
大正3年(1914年)にはシーメンス事件で山本権兵衛首相が辞職すると、大隈が首相候補として大きくクローズアップされることとなる。元老山縣有朋が最初に推した徳川家達が辞退すると、元老井上馨の秘書望月小太郎は大隈と接触し、立憲同志会の加藤高明を協力させたうえで、大隈に組閣する気がないかと打診した。大隈は井上の意見と全く同意見であると答えている。山縣が次いで推薦した清浦奎吾が辞退に追い込まれた後(鰻香内閣)、元老会議は大隈しかいないという空気になった。4月10日の元老会議で山縣は大隈を推薦し、井上、大山巌、松方正義も同意した。この日、井上から組閣の打診を受けた大隈は、加藤高明を首相としてはどうかと返答したが断られ、結局自らが首相となることを承諾している。
4月16日、76歳で2度目の内閣を組織した。再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。大隈は首相と内務大臣を兼ねた。与党は立憲同志会、中正会であった。同志会からは加藤高明が外務大臣、若槻礼次郎が大蔵大臣、大浦兼武が農商務大臣、武富時敏が逓信大臣として入閣し、中正会からはかつての側近尾崎行雄が司法大臣として入閣した。立憲国民党はかつての側近であった犬養毅が党首を務めていたが、党を分裂させた加藤を嫌っており、参加しなかった。海軍大臣には非薩摩閥の八代六郎、陸軍大臣は山縣系の岡市之助が就任した。大隈内閣は成立後まもなく、従来薩摩閥が握っていた警視総監に非薩摩閥の伊沢多喜男を就け、また19人の知事と29人の道府県部長を移動させるなど地方人事も大幅な変更を行った。更に海軍でも薩摩閥の有力者を閑職においやり、山本権兵衛・斎藤実といった大物を予備役に編入するなどの粛軍を行った。また文政一元化の名のもとに内務省の所管であった伝染病研究所の文部省移管を強行、北里柴三郎所長以下部長・研究員は抗議し、全員辞職した(伝染病研究所移管事件)。大正5年(1916年)には、伝染病研究所は東京帝国大学医学部附置研究所となり、野に下った北里の北里研究所としのぎを削ることになった。
7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保のためにも連合国側に立っての参戦を求める声が高まった。加藤高明外務大臣は元老の介入を嫌い、元老との協議なしに閣議のみで参戦決定を行い、山縣を激怒させた。ただし、参戦自体は元老も支持していたため決定は覆ることはなく8月23日に対独宣戦布告を行った。大隈は加藤をイギリス流の政治を行う後継者として考えていたが、加藤は独善的であり、大隈も外交に関してはほとんど口出しができなかった。しかし強硬一辺倒の外交方針は山縣など元老の不興も買い、大隈は辞任を求める声から加藤を守る役目を果たさなくてはならなくなる。12月までに日本軍はドイツの拠点である青島要塞や南洋諸島を攻略し、日本は戦勝ムードに湧いた。
12月には二個師団増設問題に反対する政友会と国民党が法案を否決し、大隈は12月25日に衆議院解散に踏み切った。当時、日露戦争以来の不況に国民が苦しんでおり、政友会や藩閥、軍に対する不信も高まっていた。大隈は組閣まもなくから選挙を意識して元老と協議し、また資金集めも重ねてきた。更に大きな武器となったのが大隈個人の人気だった。大隈は全国を鉄道で大規模な遊説旅行を行い、駅ごとに演説を行った[138]。さらに大隈は同志会と中正会に続く第三の与党として、組閣以来全国に成立していた大隈伯後援会を利用した。特に選挙直前に大浦兼武を内務大臣に転任させ、政権の力を利用した激しい選挙干渉は、大隈内閣を支持していた吉野作造をも失望させるほどのものであった。こうして大正4年(1915年)3月25日に行われた第12回衆議院議員総選挙は大隈与党が65%を占める大勝利となった。
対華21カ条要求
1月18日、中華民国政府に対し、権益の継続や譲渡などを求める対華21カ条要求を行う。大隈や井上馨は膠州湾租借地の返還の代償として満州に権益を得ることは考えていたものの、列強にも利権を提供して軋轢を防ぐことを考えていた。しかし加藤外相は陸軍などの強硬な意見をすべて要求に盛り込み、元老との最終的な協議もしないまま中華民国側に提示した。日本人を中華民国政府の官吏として登用させる第5号は、他の要求とは異なり希望条項とされたものの、中国の内政を支配しかねないものであり、加藤外相は同盟国イギリスにも秘匿していた上に、中華民国側にもこれを公表しないように求めていた。しかし中華民国からのリークで英米が知ることとなり、第5号は削除されることとなる。
5月9日、中華民国政府は主要な要求を受諾したものの、列強の不信を買い、中国の反植民地運動を高める結果となった。大隈は加藤を後継者として考えており、また外交からも離れて久しかったため、加藤の行動を黙認することになった。大隈は後に雑誌で「要求は侵略的なものではなく当然の権利」「日本は永遠の平和を築こうと誠意を持って交渉したのに、中華民国は外国を介入させて有利に運ぼうとした」と説明している。この後、衆議院では加藤外相弾劾案が提出されるも、大隈系の与党が多数を占めていたため否決された。交渉の詳しい状況や列強の介入については国民に知られていなかったため、大きな政治問題とはならなかった。
改造内閣
7月下旬、大浦兼武内相が二個師団増設問題の決議の際、野党議員を買収したという疑惑が明らかになった(大浦事件)。大隈は、大浦による買収工作を知らなかったと平沼騏一郎検事総長に告げているが、その様子を平沼は「狡い」と表現している。7月30日に大浦は辞任し、大隈も監督責任を取るとして辞表を提出したが、これは天皇から留任の沙汰が下ると計算してのものであった。大隈の想像通り、大隈に好意を持っていた大正天皇は元老に諮ることなく辞表を却下した。内閣基盤が弱いと感じていた加藤外相を始めとするほとんどの閣僚が辞任するべきと訴えていた。しかし元老らは大正天皇の即位大礼を目前として政変は望ましくないと強く慰留し、また大隈も政権継続の強い意志を持っていたため、8月10日には自身が外務大臣を兼任した改造内閣を発足させた。11月10日には即位大礼が行われたが、義足の身でありながら猛練習を積んだ大隈は、階段上り下りを伴う儀式を遂行した。
後継首相をめぐる暗闘
大正5年(1916年)1月12日、大隈が乗車していた馬車に福田和五郎らの一味8人が爆弾を投げる事件が発生しているが、不発だったために事なきを得ている。このころ井上馨が没し、山縣有朋は元老の強化を図るため、大隈を元老に加えることを考慮し始める。大隈も高齢であり、いつまでも首相を続けるつもりはなかったが、後継に加藤高明を就けようとしたため、山縣との交渉が続くこととなる。6月24日、大隈は大正天皇に辞意を示し、後継に加藤と寺内正毅大将を推薦し、隈板内閣のような両者共同の内閣を作ろうとした。しかしこれは寺内に拒否され、山縣も西園寺公望や政友会とともに単独の寺内内閣を作るために運動を開始する。7月14日に侯爵に陞爵し、貴族院侯爵議員となる。
9月26日、大隈は辞意を内奏し、後継者として加藤を指名した[164]。大隈は大山巌内大臣に、元老会議を開かずに加藤に組閣の大命が下るよう要請したが、大山はこれを拒否し、大山から話を聞いた山縣も激怒した[164]。山縣は「大隈には一年半も欺かれた」と吐き捨てている。10月4日、大隈は辞表を提出したが、辞表の中でも加藤を後継者として指名する異様な形式であった。しかし山縣の運動により、大正天皇は元老への諮問を行い、山縣・松方・大山の三元老と西園寺は寺内を一致して推薦し、寺内内閣が成立した。
退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。
「準元老」
首相を退任した大隈は、同志会・中正会・大隈伯後援会を合同させた政党の総裁就任を依頼されたが断っている。以降は演説などは行わず、新聞上での評論活動を主な活動としている。大正7年(1918年)9月19日には、寺内首相の後継首相について天皇から下問があり、大隈は西園寺公望を推薦した。しかし西園寺が辞退したため、加藤高明を推薦した。しかし山縣有朋、松方正義、西園寺公望が原敬を奏薦したため、原が首相となった。山縣は大隈を元老に加えることを模索していたが、大隈自身が元老集団に入りたがらなかったことと、松方と西園寺が反対したため正式な元老とならなかった。しかしこのころの新聞報道では大隈を元老視したり、「準元老」として扱った報道も見られる。
死去と「国民葬」
大隈は大正10年(1921年)9月4日から風邪気味となって静養を始めたが、腎臓炎と膀胱カタルを併発して衰弱していった。このころから早稲田大学や憲政会など関係の深い者らにより大隈の顕彰運動が盛んとなり、「国葬」実現や公爵への陞爵、位階・勲等の陞叙を目指して、当時の高橋内閣や元老など政府関係者への工作や、大隈系新聞紙上での顕彰が展開されたが、すでに大勲位菊花章頸飾の授与が決定されていたため、元老である山縣、西園寺、松方、そして宮内大臣の一木喜徳郎も公爵陞爵は過分であると判断した。また、公爵陞爵より重大事であると見られていた国葬については協議も行われなかった。結果的に大隈への栄典は従一位への昇階と菊花章頸飾という形で決着し、大隈関係者が望んだ国葬の開催や陞爵は実現しなかった。大正11年(1922年)1月10日4時38分、大隈は早稲田の私邸で死去した。死因は腹部の癌と萎縮腎と発表された。満83歳で亡くなった。
しかし死去当日、大隈の側近で前衆議院議員であった市島謙吉が、「世界的デモクラシーの政治家である大隈」は、「国民葬」の礼を持って送ることがふさわしいと発表した。大隈家は同日、東京市に対して日比谷公園を告別式場として貸与することを申請し、認められている。前宮内大臣の波多野敬直を委員長とした葬儀委員会が、一定の儀式が定められており、一般人の参列ができない国葬ではなく、面識のないものでも参加できる「国民葬」の演出とその成功をねらった準備活動を進めた。1月17日に私邸で神式の告別祭が執り行われたのち、日比谷公園で「国民葬」が挙行された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列し、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。大隈・憲政会系の新聞である『報知新聞』は100万人が沿道に並んだと報じている。その後、6時50分より東京都文京区の護国寺にある大隈家墓所で埋葬式が行われ、7時30分に墓標が建てられ、埋葬された。また大阪市・札幌市・京城・北京などの各都市でも告別式が行われている。佐賀市の龍泰寺にも大隈の墓所はある。
国会開設の詔(こっかいかいせつのみことのり)または国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)は、1881年(明治14年)10月12日に、明治天皇が出した詔勅。1890年(明治23年)を期して、議員を召して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明した。官僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔。
参考:『国会開設の詔』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E9%96%8B%E8%A8%AD%E3%81%AE%E8%A9%94#
参考:『5分でわかる!自由党と立憲改進党』Try!it https://www.try-it.jp/chapters-3066/lessons-3090/point-3/
参考:『2-10 立憲自由党の成立』帝国議会の開設 資料による日本の近代 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/modern/cha2/description10.html
大同団結運動で民権派再結集の機運が高揚すると、大同倶楽部・再興自由党・愛国公党(第二次)の旧自由党三派に九州連合同志会が合同し、明治23(1890)年9月15日、立憲自由党が結成(翌年自由党と改称)された。
本史料は、立憲自由党が調査・検討すべき項目を列挙したものであり、新聞紙条例・集会条例等諸法律の改正、選挙権の拡張、関税の回復、教育の拡張、営業税の創設、地租軽減などが挙げられ、当時の同党の方向性をうかがうことができる。それぞれの項目につき調査担当者も決められ、星亨、河野広中、植木枝盛など同党の主要人物の名が見える。
参考:『自由党 (日本 1881-1884)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC_1881-1884)
自由党(じゆうとう)とは、1881年(明治13年)に板垣退助らが結成した政党。1884年(明治17年)に急進派の行動を抑えることが出来ず解散した。
概説
1880年(明治13年)11月10日、国会期成同盟第2回大会において、河野広中、植木枝盛、松田正久らから政党結成の提案が出され、これに基づいて同年12月15日に「自由党準備会」が発足し、自由党結成盟約4か条を定めた。
翌1881年、国会開設の詔が出たことを受けて国会期成同盟を基盤とした政党作りの作業が進められるが、やがて実務責任者であった林包明ら地方出身者の集団と沼間守一ら都市出身者の集団の間で確執が生じ、沼間らは離脱した(後に立憲改進党に合流)。 10月18日に浅草井生村楼で地方出身者と反沼間派の都市出身者によって創立大会を開催、29日に盟約[3]、規約、人事などを定め、初代総理(党首)は板垣、副総理に中島信行、常議員に馬場辰猪・末広重恭・後藤象二郎・竹内綱、幹事に林包明・山際七司・内藤魯一・大石正巳・林正明が選出された。フランス流急進主義の影響のもと、一院制、民本主義、尊王論、選挙制度の構築などを掲げた。板垣・中島・後藤らは当初固辞したが11月9日の臨時会議で、就任を受諾した。
自由党の尊王論
板垣退助は、明治15年(1882年)3月、『自由党の尊王論』を著し、自由主義は尊皇主義と同一であることを力説し自由民権の意義を説いた。
世に尊王家多しと雖いえども吾わが自由党の如き(尊王家は)あらざるべし。世に忠臣少からずと雖も、吾自由党の如き(忠臣)はあらざるべし。〔中略〕吾わが党は我 皇帝陛下をして英帝の尊栄を保たしめんと欲する者也。〔中略〕吾党は深く我 皇帝陛下を信じ奉る者也。又堅く我国の千歳に垂るるを信ずる者也。吾党は最も我 皇帝陛下の明治元年三月十四日の御誓文(五箇条の御誓文)、同八年四月十四日立憲の詔勅、及客年十月十二日の勅諭を信じ奉る者也。既に我 皇帝陛下には「広く会議を興し万機公論に決すべし」と宣のたまひ、又「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」と宣ひたり。吾党、固もとより我 皇帝陛下の之これを履行し、之を拡充し給ふを信ずる也。又、立憲の政体を立て汝なんじ衆庶しゅうしょと俱ともに其その慶幸けいこうに頼らんと欲す。〔中略〕既に立憲政体を立てさせ給ひ、其慶幸に頼らんと宣ふ以上は、亦また吾党に自由を与へ吾党をして自由の民たらしめんと欲するの叡慮なることを信ずる也。〔中略〕況いはんや客年十月の聖諭の如きあり。断然二十三年を以て代議士を召し国会を開設せんと叡断あるに於ておや。〔中略〕故に吾党が平生自由を唱え権利を主張する者は悉く仁慈 皇帝陛下の詔勅を信じ奉り、一点(の)私心を(も)其間に挟まざる者也。〔中略〕斯かくの如くにして吾党は 皇帝陛下を信じ、我 皇帝陛下の意の在る所に随ふて、此立憲政体の慶幸に頼らんと欲する者也。〔中略〕方今はうこん、支那、魯西亜ロシア、土耳古トルコ諸邦の形状を察すれば、其帝王は驕傲けうがう無礼にして人民を軽侮し土芥どかい(のやうに)之を視、人民は其帝王を畏懼ゐくし、或あるいは怨望ゑんばうし雷霆らいていの如く、讎敵しうてきの如くし、故に君民上下の間に於て曾かつて其親睦愛情の行はるる事なし。〔中略〕今、吾党の我日本 皇帝陛下を尊崇そんすうする所以ゆゑんは、固もとより支那、土耳古トルコの如きを欲せざる也。又、大おおいに魯西亜ロシアの如きを好まざる也。吾党は我人民をして自由の民たらしめ、我邦をして文明の国に位し、(皇帝陛下を)自由貴重の民上に君臨せしめ、無上の光栄を保ち、無比の尊崇を受けしめんと企図する者也。〔中略〕是吾党が平生堅く聖旨を奉じ、自由の主義を執り、政党を組織し、国事に奔走する所以ゆゑん也。乃すなわち皇国を千載に伝へ、皇統を無窮に垂れんと欲する所以なり。世の真理を解せず、時情を悟らず、固陋自ら省みず、妄みだりに尊王愛国を唱へ、却かえって聖旨に違たがひ、立憲政体の準備計画を防遏ぼうあつし、皇家を率ゐて危難の深淵に臨まんと欲する者と同一視すべからざる也。是れ吾党が古今尊王家多しと雖いえども我自由党の如くは無し、古今忠臣義士尠すくなからずと雖も我自由党諸氏が忠愛真実なるに如しかずと為なす所以ゆゑんなり。
— 板垣退助 、『自由党の尊王論』
自由民権運動
自由民権運動の担い手として全国に組織を広げるも、集会条例による弾圧や1882年(明治15年)4月6日の岐阜事件、同年秋の板垣外遊の是非を巡る内紛(9月17日、外遊反対決議)による馬場、末広、大石の離党、さらに板垣の留守中には、党内急進派が貧農層と激派を形勢して様々な事件を起こす。その後、同年12月1日の福島事件、翌1883年(明治16年)3月20日の高田事件により弾圧が強化、さらに過激な行動に奔るという悪循環に陥り、同じ民権派の立憲改進党との対立も党内の混乱に拍車をかけた。
帰国した板垣は、党の先行きに不安を感じ、解党するか党再建のために10万円の政治資金を調達するかのいずれかの選択を提議した。しかし、有力な資金提供者であった豪農層が松方デフレにより相次ぎ脱落したため資金集めに失敗し、1884年(明治17年)3月13日、東京の自由党大会で、総理に専断決行の特権を与えて権限を強化し、文武館(のち有一館と命名)を設立して板垣の下に党員の結集を図るが、執行部は地方の急進派を押さえきれなかった。そして、9月の加波山事件によって解党論が高まり、10月29日に大阪で解党大会を開いた(当時獄中にいた星亨は解党反対の電報を打ったが、板垣から「バカイフナ(馬鹿言うな)」と返電された)。
なお、急進派による最大の蜂起事件である秩父事件はその直後10月31日に発生している。
参考:『壬申軍乱』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E5%8D%88%E8%BB%8D%E4%B9%B1
壬午軍乱(じんごぐんらん)または壬午事変(じんごじへん)は、1882年(明治15年)、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現在のソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。
概略
朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権は、開国後、日本の支援のもと開化政策を進めたが、財政出費がかさんで旧軍兵士への俸給が滞ったことが反乱のきっかけとなった。すなわち、閔氏政権は近代的軍隊として「別技軍」を新設し、日本人教官を招致して教練を開始したが、これに反発をつのらせた旧式軍隊が俸給の遅配・不正支給もあって暴動を起こし、それに民衆も加わって閔氏一族の屋敷や官庁、日本公使館を襲撃し、朝鮮政府高官、日本人軍事顧問、日本公使館員らを殺害したものである。朝鮮王宮にも乱入したが、閔妃は王宮を脱出した。反乱軍は閔氏政権を倒し、興宣大院君を担ぎ出して大院君政権が再び復活した。
日本は軍艦4隻と千数百の兵士を派遣し、清国もまた朝鮮の宗主国として属領保護を名目に軍艦3隻と兵3,000人を派遣した。反乱軍鎮圧に成功した清は、漢城府に清国兵を配置し、大院君を拉致して中国の天津に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させた。日本は乱後、清の馬建忠の斡旋の下、閔氏政権と交渉して済物浦条約を締結し、賠償金の支払い、公使館護衛のための日本陸軍駐留などを認めさせた。清国は朝鮮政府に外交顧問を送り、李鴻章を中心とする閣僚は朝鮮に袁世凱を派遣、袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握した。こののち袁世凱は、3,000名の清国軍をひきつづき漢城に駐留させた。この一連の動きの中で、中朝商民水陸貿易章程が締結された。この乱により、朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める一方、朝鮮における親日勢力は大きく後退した。
この乱の名称は干支の「壬午(みずのえうま)」に由来し、壬午の変(じんごのへん)、壬午事件(じんごじけん)などとも表記される。当時の日本では朝鮮国事変(ちょうせんこくじへん)、朝鮮事変(ちょうせんじへん)などとも称された。また、かつてはその首謀者の名を付し、大院君の乱(だいいんくんのらん)という表現もあった。
背景
李王朝下の朝鮮では、国王みずからが売官をおこない、支配階級たる両班による農民への苛斂誅求、不平等条約の特権に守られた日清両国商人による収奪などにより民衆生活が疲弊していた。王宮の内部では、清国派、ロシア派、日本派などにわかれ、外国勢力と結びついた権力抗争が繰り広げられていた。とくに、宮中では政治の実権をめぐって、国王高宗の実父である興宣大院君と高宗の妃である閔妃が激しく対立していた。
当時、朝鮮の国論は、清の冊封国(属邦)としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指す開化派に分かれていた。このうち後者はさらに、国際政治の変化を直視し、外国からの侵略から身を守るには、すでに崩壊の危機に瀕している清朝間の宗属関係に依拠するよりは、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき親清開化派に分かれていた。親清開化派は、清朝宗属関係と列国の国際関係を対立的にとらえるのではなく、二者併存のもとで自身の近代化を進めようというもので、閔氏政権の立場はこれに近かった。急進開化派は、朝鮮近代化のモデルとして日本に学び、日本の協力を得ながら自主独立の国を目指そうという立場であり、金玉均や朴泳孝ら青年官僚がこれに属した。
開化政策への転換に対しては、守旧派のなかでも特に攘夷思想に傾斜した儒者たちのグループ(衛正斥邪派)が強く反発した。辛巳の年1881年には年初から中南部各道の衛正斥邪派の在地両班は漢城府に集まって金宏集(のちの金弘集)ら開化政策を進める閣僚の処罰と衛正斥邪策の実行を求める上疏運動を展開した(辛巳斥邪上疏運動)。閔氏政権は、上疏の代表であった洪在鶴を死刑に処したほか、上疏運動の中心人物を流罪に処するなど、これを厳しく弾圧した。衛正斥邪派は大院君をリーダーと仰ぎ、この年の夏には、安驥泳らが閔氏政権を倒したうえで大院君の庶長子(李載先)を国王に擁立しようというクーデター計画が発覚している。
清朝間の宗属関係についてであるが、厳密には古代以来の冊封-朝貢体制における「属邦」と近代国際法における「属国」とは性格を異にしている。しかし、朝貢国として琉球を失うなど国際的地位の低下に危機感をつのらせた清朝は、日本や欧米諸国が朝鮮を清の属国とは認めないことを通達した事実を受け、最後の朝貢国となりつつあった朝鮮を近代国際法下での「属国」として扱うべく行動した。もともと宗属関係は藩属国の内治外交に干渉しない原則であったが、清国はこの原則を放棄して干渉強化に乗り出したのである。これは、近代的な支配隷属関係にもとづく権力の再構成であり、宗属関係の変質を意味していた。
一方、富国強兵・殖産興業をスローガンに近代化を進める日本は、工業製品の販路として、また増え続ける国内人口を養う食糧供給基地として朝鮮半島を重視し、そのためには朝鮮が清国から政治的・経済的に独立していることが国益にかなっていた。
軍乱の発生
俸給米不正支給から暴動へ
日朝修好条規の締結により開国に踏み切った朝鮮政府は、開国5年目の1881年5月、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の中心となって日本と同様の近代的な軍隊の創設を目指した。近代化に対しては一日の長がある日本から軍事顧問として堀本礼造陸軍工兵少尉を招き、その指導の下、旧軍とは別に新式装備をそなえる新編成の「別技軍」を組織して西洋式の訓練をおこなったり、青年を日本へ留学させたりと開化政策を推進した[5]。別技軍には、日本が献納した新式小銃はじめ武器・弾薬は最新式のものが支給され、その隊員も両班の子弟が中心でさまざまな点で優遇されていた。別技軍は、各軍営から80名の志願兵を選抜し、王直属の親衛隊である武衙営に所属させた。
これに対し、旧軍と呼ばれた従来からの軍卒二千数百名は、旧式の火縄銃があたえられているのみで、大半は小部隊に分けられ各州に配備されていた。彼らはなんら新しい装備も訓練も与えられることなく、別技軍とは待遇が異なり、また、しばしば差別的に扱われることに不満をつのらせていた。さらに、5営あった軍営が統廃合により2営(武衛営・壮禦営)となり、その多くがいずれは退役を余儀なくされていた。それに加えて、当時朝鮮では財政難のため、当時は米で支払われていた軍隊への給料(俸給米)の支給が1年も遅れていた。1882年の夏は、朝鮮半島が大旱魃に見舞われ、穀物は不足し、政府の財源は枯渇していた。
1882年7月19日、ようやく13か月ぶりに武衛・壮禦の両営兵士に支払われることになった俸給米はひと月分にすぎなかった。しかし、支給に当たった宣恵庁の庫直(倉庫係)が嵩増しした残りを着服しようとしたため、砂や糠、腐敗米などが混ざっていた。これに激怒した旧軍兵士は倉庫係を襲ってこれに暴行を加え、倉庫に監禁し、庁舎に投石した。ところが、この知らせを受けた担当官僚(宣恵庁堂上)であった閔謙鎬は首謀の兵士たちを捕縛して投獄し、いずれ死刑に処することを決定した。これに憤慨した各駐屯地の軍兵たちが救命運動に立ち上がったが、運動はしだいに過激化し、政権に不満をいだく貧民や浮浪者をも巻き込んでの大暴動へと発展していった。民衆もまた、開港後の穀物価格の急騰に不満をつのらせていたのである。かくして、7月23日(朝鮮暦6月9日)、壬午軍乱が勃発した。これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃し、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭の興宣大院君の教唆煽動によるものであった。反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、途中からは別技軍も暴動に加わった。
7月23日、兵士らは閔謙鎬邸を襲撃したのち、投獄中の兵士と衛正斥邪派の人びとを解放し、首都の治安維持に責任を負う京畿観察使の陣営と日本公使館を襲撃した。このとき、別技軍の軍事教官であった堀本少尉が殺害されている。翌7月24日、軍兵は下層民を加えて勢力を増し、官庁、閔妃一族の邸宅などを襲撃し、前領議政(総理大臣)の李最応も邸宅で殺害された。さらに暴徒は王宮(昌徳宮)にも乱入し、軍乱のきっかけをつくった閔謙鎬、前宣恵庁堂上の金輔鉉、閔台鎬、閔昌植ら閔氏系の高級官僚数名を惨殺した[6]。このとき、閔妃は夫の高宗を置き去りにして王宮から脱出し、その日のうちに忠州方面へ逃亡した。王宮に難を逃れていた閔妃の甥で別技軍の教練所長だった閔泳翊は重傷を負った。
軍兵たちは23日夕刻までに王宮を占拠し、国王からの要請という形式を踏んで大院君を王宮に迎え、彼を再び政権の座につけた[5]。
当時の様子を、朝鮮滞在のロシア帝国の官僚ダデシュカリアニは、以下のように書き記している[注釈 3]。
朝鮮は一瞬のうちに、凄まじい殺戮の舞台と化した。父親たちが子供たちに武器を向けたのである。ソウルでは8日間、無差別の流血が止まらなかった。当初は叛徒らが勝利を収めた。進歩派、ならびに当時ソウルに在住した外国人の双方を同時に敵としなくて済むように、彼らは先ず後者に襲いかかった。…(後略)
暴徒は漢城在住の日本人語学生、巡査らも殺害した。
公使館脱出を描いた豊原周延の木版画
殺害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇徒によって殺害された以下の日本人男性は、軍人であると否とにかかわらず、戦没者に準じて靖国神社に合祀されている。合祀された人びとの氏名・年齢等は以下の通りである。
堀本礼造
陸軍工兵少尉(戦死により陸軍工兵中尉に昇進される)。
水島義
日本公使館雇員
鈴木金太郎
31歳。日本公使館雇員(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
飯塚玉吉
27歳。日本公使館雇員(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
廣戸昌克
33歳。一等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
本田親友
22歳。三等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
宮鋼太郎
18歳。外務省二等巡査(事由 弁理公使花房義質を護衛中 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
川上堅鞘
27歳。外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
池田為義
28歳。外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
遠矢庄八朗
外務省二等巡査(事由 戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
近藤道堅
22歳。私費語学生(事由 袈裟かけに2箇所重傷を負い自刃す 戦死:明治15年11月1日靖国神社合祀)
黒澤盛信
28歳。私費語学生(戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀 :扶助料千五百圓を賜う)
池田平之進
21歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月2日靖国神社合祀)
岡内格
23歳。陸軍語学生徒(戦死:明治15年11月6日靖国神社合祀)
靖国神社遊就館では、事変で殉職した英霊の顕彰が行われており、壬午事変時に日本公使館に掲げられていた日章旗が併せて展示されている。
日本公使館員の脱出
漢城の日本公使館駐留武官だった水野大尉の報告などによると、暴徒に包囲された公使館員たちの脱出行は以下のとおりである。
朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館の護衛を強く要請した。しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕はなく、暴徒の襲撃を受けた日本公使館はやむを得ず自ら応戦することになった。蜂起当日はなんとか自衛でしのいだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって避難を余儀なくされた。朝鮮政府が護衛の兵を差し向けてくる気配はなく、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の花房義質は公使館の放棄を決断。避難先を京畿観察使営と定め、花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した。
負傷者を出しながらも無事に京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内はすでに暴徒によって占領されており、京畿観察使金輔鉉はすでに殺害されていた。公使館一行は次いで王宮へ向かおうとするが南大門は固く閉じられていて開かなかった。王宮の守備隊長は彼らに退去を命じたという。
花房らはついに漢城脱出を決意し、漢江を渡って仁川府に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃され、一行のうち5名が殺害された。襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら済物浦から小舟(漁船)で脱出した。その後、海上を漂流しているところをイギリスの測量船フライングフィッシュ号に保護され、7月29日、長崎へと帰還することができた。
閔妃の脱出
王宮に乱入した暴徒は誰もがみな、閔妃は大院君の指図によって毒殺されたものと思っていた。しかし、実際には閔妃は暴徒乱入の報に接するやすぐに用意をととのえ、それに対応していた。一人の侍女が閔妃のいる部屋で毒薬を飲んで自殺し、みずからは隠密裏に自室を脱出したのである。下僕の一人が彼女を背にして怒り狂う暴徒の群れのなかをかき分け、途中、会う人ごとに詰問されたが、下僕は必ず「自分はとるに足らない下っ端であるが、この騒動から自分の妹を連れ出すところだ」と応答してこの災難をくぐりぬけた。閔妃はこうして漢城市内の私邸に到着、そこから駕籠で忠州(忠清北道)付近の僻村へと逃亡、同地に隠れ住んだ。なお、このとき閔妃を運んだ駕籠かきの一人が、水運びを生業とする貧しい庶民の出身で、のちに政治家として活躍する李容翊である。
大院君政権の復活
9年ぶりに政権の座についた興宣大院君は、復古的な政策を一挙に推進した(第2次大院君政権)。統理機務衙門を廃し、3軍府の復活を復活して旧来の5軍営にもどしたほか、両営・別技軍を廃止した。そして、閔氏とその係累を政権から追放する一方、閔氏政権によって流罪に処せられていた衛正斥邪派の人びとを赦免し、また監獄にあった者の身柄を解放して、みずからの腹心を要職に就けた。
日清両国の対応
日清両国はそれぞれ以下に詳述するように軍艦・兵士を派遣して軍乱に対応した。アメリカ合衆国もまた軍艦を派遣した。
日本側の対応
在朝日本公使館弁理公使だった花房義質
外務卿、井上馨
長崎に帰着した花房公使はただちに外務卿井上馨に事件発生を伝えた[7]。政府はさしあたって事実経過の調査、謝罪・賠償要求のため花房公使を全権委員に任命し、居留民保護のため軍艦を派遣することとし、井上外務卿が山口県下関へ出向いて指揮をとることとした[7]。
一方、日本国内では朝鮮に対する即時報復説が台頭した[9]。国内各地から義勇兵志願者が殺到し、朝鮮におもむいて暴虐きわまりない「野蛮人ども」と戦うことを許可するよう強く求めた[9]。また、国民一般による署名嘆願運動には日本人のみならず外国人商人も少なからず参加した[9]。
日本政府は、花房公使に朝鮮政府との交渉を命じ、
1.朝鮮政府の公式謝罪
2.被害者遺族への扶助料支給
3.犯人および責任者の処罰
4.損害賠償
5.朝鮮軍による公使館警備
6.朝鮮政府に重大責任あるばあいは巨済島または鬱陵島の割譲
7.朝鮮政府が誠意を示さないばあいは仁川を占領し後命を待つこと
などを訓令し、軍艦と兵士を率いさせて朝鮮に派遣した。
やがて訓令には
8.咸興、大邱、および漢城近郊楊花津(現在のソウル特別市麻浦区)の開市
9.外交使節の内地旅行権
10.通商条約上の権益拡大
が付け加えられた。また、先遣隊として軍艦2隻と輸送船1隻を派遣し、近藤真鍬書記官らと陸軍兵300名を輸送させた。
8月5日、駐日清国公使は日本政府に対し清国政府による派兵をともなう調停を伝えたが、外務卿代理の吉田清成は、再三、「自主ノ邦」たる朝鮮と日本の問題は条約にもとづいて解決すべきものとして介入を謝絶した。それに対し、清国側は朝鮮は清の属国であるから介入は当然と主張した。
8月13日、公使花房全権は工部省の汽船「明治丸」で済物浦に入港した。先遣隊に後続を加えると、軍艦4隻、輸送船3隻、陸軍歩兵1個大隊の千数百名が仁川周辺に集結していた。陸軍の指揮官は高島鞆之助陸軍少将、海軍を率いたのは仁礼景範海軍少将であった。
8月16日、仁川府に着いた花房公使は2個中隊を率いて軍乱で破壊されたままの漢城に入京し、昌徳宮に進路をとって王宮内で高宗に謁見、さらに大院君と会見した。このとき、日本政府の要求7項目を記した冊子を領議政の洪純穆に手渡した。朝鮮政府が即答を避けたため、回答期限を3日後としたが、日本の賠償金要求50万円は当時の朝鮮政府にはきわめて高額で工面が困難だったこともあって、領議政の急務を理由に回答の延期を通告してきた。これは、大院君が日本の要求を突き返すよう政府に命じたともいわれている。
8月23日、花房全権は朝鮮側の約束違反を難詰したうえで護衛兵を率いて漢城を出発、仁川に引き上げて、そこで軍備をととのえた。翌8月24日には仁川において馬建忠と会見している。
清国側の対応
軍乱収拾のために酷暑のなかを精力的に活動した馬建忠
清国政府が軍乱発生の報を最初に受けたのは、8月1日、東京在住の清国公使黎庶昌からの電報によってであった。李鴻章は生母死去の服喪中だったため、北洋大臣代理職にあった張樹声が、天津に滞在していた朝鮮官僚金允植と魚允中に事件の経緯を伝え、両名に意見を尋ねた。金と魚は閔氏政権の開化派官僚であった[5]。ふたりは、事件が国王高宗の開国政策に反対する守旧派勢力のクーデターであると推断したうえで、日本軍と反乱軍が衝突する怖れがあるとし、また、日本がこの機会に朝鮮進出をはかるだろうと訴えて、張に清国の派兵と日朝間の調停を要請した。
北洋水師提督、丁汝昌
張樹声はただちに北洋水師提督の丁汝昌に出動準備を命じ、上海滞在中の馬建忠を外交交渉役として呼び寄せた。8月7日、清国皇帝光緒帝によって「派兵して保護すべし」の命令が下った[7]。これは、藩属国たる朝鮮の保護のみならず、朝鮮で被害を受けた日本をも保護せよというものであった[7]。
丁汝昌の率いる北洋艦隊の軍艦3隻(「威遠」「超勇」「揚威」)は、馬建忠と魚允中を乗せて山東省芝罘(現在の煙台市)を出港、8月10日には済物浦に入港した。仁川入りした馬建忠は情報収集にあたるとともに日朝両国の要人と非公式に接触し、清国政府に対しては兵員の増派を上申した[7]。これにより、8月20日、広東総督の呉長慶が3,000名の兵を率い、3隻の軍艦に護衛されて済物浦の南方約40キロメートルの馬山浦(京畿道の南陽湾沿岸に所在。慶尚南道の馬山とは異なる)に到着した。
馬建忠は漢城へ向かい、清国軍もその後から漢城に進駐して日本軍を圧倒する兵力を配置した[5][7]。8月24日には朝鮮との戦争も辞せずの構えをとっていた仁川の花房全権公使をおとずれて意見交換をおこない、翌8月25日の再度の会見では花房から朝鮮全権との再協議に応ずるという確約を引き出した。日本が清国の調停を受けたのは、それを拒否すれば清国軍との衝突も覚悟しなければならなかったためと考えられる。また、このとき、ふたりの間で大院君排除の問題が話されたかどうかは不明であるが、開国政策を妨害する大院君を政権から取り除くべきという一点において、日清両国は共通の立場に立ちえたものと考えられる。
8月26日、漢城へ戻った馬建忠は丁汝昌・呉長慶と協議し、日朝再協議の実現のためには大院君を排除するしかないとの結論に達した。彼らはその旨を、魚允中を通して高宗に伝えた。
軍乱の収束
大院君拉致事件
軍乱発生から約1か月経った1882年8月26日(朝鮮暦7月13日)、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された漢城駐留の清国軍によって大院君拉致事件が起こった[7]。大院君の排斥と国王の復権という基本方針は張樹声の指示によるものと考えられるが、大院君の軟禁は馬建忠・丁汝昌・呉長慶の3名によって計画されたものであった。朝鮮王宮はじめ漢城の城門は清国兵によって固められ、清国軍はおびき出された大院君を捕捉して南陽湾から河北省天津へと連行した[7]。連行理由は、清国皇帝が冊封した朝鮮国王をしりぞけて政権をみずから奪取するのは国王を裏切り、皇帝を蔑ろにする所行であるというものである[7]。大院君が清国に捕捉された際、アメリカ政府は「朝鮮は清国の従属国家であり半島における何世紀にもわたる封建的国家としての支配は清国によって承認された」というコメントを発表した。
清国軍はまた、漢城府東部の往十里、南部の梨泰院を攻撃して反乱に参加した兵士や住民を殺傷した[6]。こうして、政権は国王高宗と忠州から戻った閔妃の一族に帰し、事変は終息した。
日朝の再協議と済物浦条約
済物浦条約(複写) 償金50万円について定めた第四款と軍員の駐留について定めた第五款
8月26日の大院君拉致事件ののち、高宗・閔氏の政権が復活し、済物浦の花房義質全権公使のもとへ朝鮮政府から謝罪文が送られた。これは清国の馬建忠の斡旋によるものであった。花房はこれを受け入れ、日本軍艦金剛艦上での交渉再開を約束した。しかし、高宗・閔氏の政権は外交的には馬建忠に依存せざるをえなかった[4]。8月28日夜、朝鮮全権大臣李裕元、副官金宏集らは済物浦に停泊中の金剛をおとずれ、交渉をはじめた[4]。交渉は、この日と翌日(29日)にかけて集中的におこなわれ、1882年8月30日(朝鮮暦7月17日)、6款より成る済物浦条約を調印した。このような短時間で交渉が成立したのは馬建忠が日朝双方に事前に根回しをしていたからである。一方、この交渉の結果、日朝修好条規(1876年締結)の追加条項としての同条規続約が調印された[4]。
軍乱を起こした犯人・責任者の処罰、日本人官吏被害者の慰霊、被害遺族・負傷者への見舞金支給、朝鮮政府による公式謝罪、日本外交官の内地旅行権などについては、日本側原案がほぼ承認された。開港場遊歩地域の拡大(内地旅行権および内地通商権)に関しては、朝鮮側の希望を若干容れて修正された。朝鮮側が最も反対していた50万円の賠償金と公使館警備のために朝鮮に軍隊一個大隊を駐留させる権利については、花房公使の強硬な姿勢により、文言の修正と但し書きの挿入程度にとどまり、基本的に日本側の要求が容認された。全体的にみれば、日本側の要求がほぼ受け入れられた内容となった。
済物浦条約の締結に際して清国は、その文章について特に深く介入したわけではなかった。むしろ、大院君を朝鮮王宮から連れ去ったことによって日本側に優位な交渉条件を準備したともいえる。このとき清国は、ベトナムをめぐってフランスとの緊張が強いられていたので、日本と徹底して事を構えるつもりはなかった。日本もまた、外務卿井上馨の基本方針は対清協調、対朝親和というものであり、在野の知識人もまた日清朝の三国提携論が優勢であった。花房公使は調印後の9月2日、井上外務卿あてに「大満足にまで条約を締結せり」と報告の電報を打電した。
なお、済物浦条約は批准を必要としなかったが、日朝修好条規続約の方は批准を要し、この年の10月30日、明治天皇によって批准がなされている。
開国・開化方針の確認
1882年9月13日、清の幼帝光緒帝は大院君の河北省拘留と呉長慶麾下の将兵3,000名の漢城駐留の命を下した。清国が軍事力を背景に宗主権の強化再編に乗り出したのである。清にすがって国内を統治しようとする閔氏政権の親清政策もこれを助けたが、従来の宗属関係は藩属国の内治外交には干渉しない建前だったので、これは両国を近代的な宗属関係に変質させる意味合いをもっていた。
9月14日(朝鮮暦8月5日)、高宗は教書を下し、開国・開化を国是とすること、「東道西器」すなわち道徳は東洋の伝統を保持し「邪教」(キリスト教)を排斥するものの西洋の「器」(技術、軍事、制度)は学ぶべきことを明示し、国内の斥洋碑の撤去を命じた。ただ、開化の方向性は明確になったものの、河北省天津訪問中の趙寧夏・金宏集が改革案『善後六策』を李鴻章に示して、その意見を求めるなど、この開化策は清国に大きく依存したものとなった。
中朝商民水陸貿易章程の締結
1882年10月4日(朝鮮暦9月12日)、清国と朝鮮は天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した。清国側は北洋大臣李鴻章のほか周馥と馬建忠が、朝鮮側は兵曹判書の趙寧夏と金宏集、魚允中がこれに署名した[4]。この章程は両国間で締結された近代的形式を踏んだ条約としては最初のものであった[4]。しかし、その内容は清の朝鮮に対する宗主権を明確にしたものであり、清による属国支配を実質化するものであった。
中朝商民水陸貿易章程は、両国が対等な立場で結んだ条約ではなく、清国皇帝が臣下である朝鮮国王に下賜する法令であるとされ、その前文において旧来の朝貢関係が不変であることを再確認し、この貿易章程が中国の属邦を特に「優待」するものであり、それぞれの国が等しく潤うものではないとされた。言い換えれば、これは宗属関係に由来する独自の規定であり、他の諸外国は最恵国待遇をもってしても、この貿易章程上の利益にあずかることができないとされたのである。清国は属国朝鮮に「恩恵」を施す存在であると明記されたが[18]、清にのみ領事裁判権が与えられ、原告が中国人で被告が朝鮮人の場合には審理に清国商務委員がくわわることができるという不平等条項を含んでいた。また、第一条では清国の北洋大臣が朝鮮国王と同格であることが明確に規定された。
貿易章程では、朝鮮人が北京で倉庫業・運送業・問屋業を店舗営業できる代わりに、清国人は漢城や楊花津で同様の店舗経営ができるものとした。さらに、朝鮮内地で物資を仕入れ購入する権利もあたえられた。これらは諸外国が朝鮮とむすんだ通商条約にはない規定であり、したがって貿易章程における「属邦優待」とは、清国が朝鮮貿易上の特権を排他的に独占し、清国の内治通商支配を基礎づけるものであった。なお、のちに清国は1884年2月、同章程第4条を改訂して朝鮮の内地通商権をさらに広げている。
貿易章程の結ばれた1882年10月、天津滞在中の趙寧夏は軍乱後の政策について李鴻章の指導を仰ぎ、朝鮮政府が外交顧問として招聘すべき人材の推薦を依頼した。李鴻章が推薦したのはドイツ人のパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(穆麟徳、元天津・上海副領事)と馬建忠の兄馬建常(元神戸・大阪領事)であった。2人はこの年の12月に帰国した趙寧夏とともに漢城入りし、12月27日、高宗に謁見した。
また、朝鮮政府より軍隊養成と軍制改革を依頼された呉長慶は、当時頭角をあらわしつつあった若干23歳の野心家袁世凱に命じてこれを担当させた。朝鮮に派遣された袁は朝鮮の軍事権を掌握し、1年半後には彼のもとで養成された2,000名の新式陸軍が誕生した。
こうして経済面のみならず、軍事・外交の面でも清国は朝鮮への介入を強め、近代的な支配隷属関係への質的移行を示すようになった。
反乱軍の処罰
1882年10月、「大逆不道罪」によって、鄭顕徳・趙妥夏・許焜・張順吉らの官吏、また、白楽寛・金長孫・鄭義吉・姜命俊・洪千石・柳朴葛・許民同・尹尚龍・鄭双吉らの儒学者は凌遅刑により処刑され、遺体は3日間晒された。また、その一族等も斬首刑に処せられた。
軍乱の影響
朝鮮
独立党のリーダーとして活躍した金玉均
軍乱の結果、閔氏政権は清国への傾斜を強めて事大主義的な姿勢を鮮明にし、清国庇護のもとでの開化政策という路線が定まった[14]。その結果、今まで攘夷主義と敵対してきた開化派が、清国重視のグループと日本との連携を強化しようとするグループに分裂した。朝鮮を開国に踏み切らせた日本であったが、中朝商民水陸貿易章程によって空洞化され、朝鮮政府に対する影響力はその分減退した。金宏集(金弘集)、金允植、魚允中らは清国主導の近代化を支持し、閔氏政権との連携を強めた。一方、済物浦条約の規定によって1882年10月に謝罪使として日本に派遣された朴泳孝特命全権大使、徐光範従事官、金玉均書記官らは、いずれも日本との結びつきを強めた。彼らは12月まで日本に滞在し、福沢諭吉ら多くの日本の知識人と交誼を結んで海外事情や新知識を獲得していった。また、大院君勢力の一掃によって、朝鮮で攘夷主義的な政策の復活は閉ざされたが、民衆レベルではむしろ東学の浸透など宗教性を帯びて深く根をおろしていった。
閔氏政権は清国の制度にならった政治改革をおこない、外交・通商を担当する統理交渉通商事務衙門と内政・軍務を担当する統理軍国事務衙門を設置した。また、朝鮮は清国軍3,000名、日本軍200名弱の首都駐留という新しい事態を引き受けざるを得なくなったが、日本軍の規律は秩序立ったものであったのに対し、清国軍は漢城各所でしばしば掠奪・暴行をはたらき、市民に被害が生じたと記されている。
壬午軍乱当時、忠州にかくまわれていた閔妃は軍乱収束後王宮にもどったが、その際ひとりの巫女をともなっていた。巫女は卑賎の出身であったが、閔妃の王宮帰還を予言するなどして閔妃の歓心を得て宮廷の賓客として遇されたものである。閔妃はこの巫女を厚く崇敬して毎日2回の祭祀を欠かさず、一族や高官にもこれを勧めたため、やがてこれにかかる費用は莫大なものとなった。また、各地の宗教者も集まって王宮を占拠するような状態となり、売官がまたもはびこって国内統治はいっそう混迷の度を深めた。
清国
清国は、中朝商民水陸貿易章程を結ぶなどして、親日派勢力を排除して朝鮮半島への干渉を強め、朝鮮に対する宗主国の権勢を取り戻して近代的な属国支配を強めた。従来、朝鮮の内政には関与しなかったが、清国側とすれば台湾・琉球・朝鮮に対する日本の攻勢に対抗したものであり、日朝修好条規を空洞化させて朝鮮を勢力圏に取り込む姿勢を明らかにしたのである。李鴻章は北洋大臣として朝鮮国王と同格の存在となり、朝鮮の内政・外交は李鴻章とその現地での代理人たる袁世凱の掌握するところとなった。大院君は李鴻章による査問会ののち天津に幽閉され、高宗は査問会において「朝鮮国王李㷩陳情表」を清国皇帝あてに提出して大院君赦免を陳情したが効なく、その幽閉は3年間続いた。
日本
日本公使館が襲撃された場面を描いた錦絵
日本では、軍乱を描いた多数の錦絵・小冊子が刊行され、同胞が暴徒によって殺害された衝撃はひろく国民にナショナリズムの反応を引き起こした。日朝修好条規によって朝鮮を開国させた日本であったが、この軍乱では清国の機敏な動きに後れをとり、清国に対し軍事的に劣位にあることが痛感されたため、以後、山縣有朋らを中心に軍拡が強く唱えられることとなった。1882年は近代日本における軍備拡張の起点といわれており、この年の11月24日、明治天皇は宮中謁見所に地方長官を召集して軍備拡張と租税増徴の勅諭を述べた。以後、大蔵卿松方正義による緊縮財政・デフレ政策にもかかわらず、あえて増税が進められ、1883年は前年比軍事費を大幅に増加させた。増税については、政府は国民とくに民権派が動いて「騒然たる景況」となることを強く警戒したものの、民権派の大半は必ずしも軍拡に反対しなかった。
日清朝三国提携を模索する意見の多かった言論界でも変化がみられた。1882年12月7日『時事新報』社説「東洋の政略果して如何せん」において福沢諭吉は「我東洋の政略は支那人の為に害しられたり」と述べ、清国は日本が主導すべき朝鮮の「文明化」を妨害する正面敵として論及されるようになった。このような状況を打開すべく、福沢は金玉均ら独立党の勢力挽回に期待をかけたのである。
東アジア国際情勢
日朝間で結ばれた済物浦条約は、朝鮮をあくまでも属国として支配しようとする清国を牽制する意味合いもあり、朝鮮半島で対峙する日清両軍の軍事衝突をひとまず避けることはできたが、一方では朝鮮への影響力を確保したい日本と属国支配を強めたい清国との対立は、露朝密約事件や巨文島事件といった露英対立などを背景としつつも、以後さまざまなかたちで継続し、やがて、甲申事変や日清戦争へとつながっていった。
参考:『鹿鳴館』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8#
鹿鳴館(ろくめいかん、旧字体: 鹿鳴館󠄁)は、1883年(明治16年)に日本の外務卿・井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館である。
国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用された。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。欧米諸国との間の不平等条約を改正する目的があったが、1887年(明治20年)に条約改正の失敗で井上が辞職したことで、1890年(明治23年)からは華族会館として使用されるようになった。1940年(昭和15年)に取り壊された。
経緯
外務卿(内閣制度発足以降は外務大臣)・井上馨によって、建設計画が推進された。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。
それまで国賓の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町)に決まり、1880年(明治13年)に着工。途中、規模拡大があり、3年がかりで1883年(明治16年)7月に落成。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドル、施工は土木用達組(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織で、大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流にあたる)が担当した。
煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室を開放すると、100坪ほどの広間になったほかバーやビリヤードも設置されていた。ホテルとしての機能も持ち、1階と2階に20室ほどの客室を備えていた。井上馨がお雇い外国人として招聘したドイツの建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンが1887年(明治20年)に宿泊した記録が残っている。
鹿鳴館時代
同館落成の1883年(明治16年)より1887年(明治20年)までの時期がいわゆる鹿鳴館時代である。1883年11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われた。「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語で、中井櫻洲が名付けた。祝宴当日は井上馨の誕生日だった。以後鹿鳴館では国賓の接待や舞踏会ばかりでなく、天長節などの祝賀会行事をはじめ、数々の国内行事も行われるようになり、皇族や上流婦人の慈善バザーも重要な催しであった。
鹿鳴館は外務省が主管し、初代館長は松平忠礼、第2代館長は吉田要作。
当時は政府高官やその令夫人でも、大多数は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどは知らず、洋食の食べ方、洋服の着方、ダンスの踊り方などは、西欧人の目からはサマにならないものだった[注釈 1]。日本駐在外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記し嘲笑していた。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという。
一方、欧化政策を批判する国粋主義者は鹿鳴館での行事を「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」などとして非難の声を挙げるようになっていた。井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに、条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった。面目を失した井上は1887年9月に外務大臣を辞任し、井上の辞任とともに鹿鳴館時代は幕を下ろすことになった(ただし、鹿鳴館ではその後も数年間にわたって、天長節夜会が開催された)。
首相官邸の仮装舞踏会
「鹿鳴館時代」の最も華麗なイベントのひとつとして挙げられるのは、1887年(明治20年)4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール」である。この舞踏会は、鹿鳴館ではなく首相官邸で行われたもので、さらに外交や条約改正とは直接関係のない催しだったが、350人が招待され、伊藤博文夫妻はヴェネツィア貴族、伊藤次女生子はイタリアの田舎娘、井上馨は三河萬歳芸人、山縣有朋が奇兵隊の隊士、鍋島直大夫妻は18世紀フランス貴族、戸田極子は山吹を捧げる賤女、戸田氏共は太田道灌、アルベルト・モッセはトルコ人、渋沢栄一は歌舞伎の登場人物にそれぞれ扮した。参加者の仮装は、西洋歴史衣装、欧州や東洋の民族衣装、日本の歴史上の人物や歌舞伎風、の3系統に大別された。
伊藤首相夫人梅子の名で開かれた仮装舞踏会だが、実際にはイギリス公使のフランシス・プランケット夫妻が主催したもので、伊藤は好意で官邸を会場に貸したにすぎなかった。しかし当時の国粋主義者たちは、このことを知るや「亡国の兆し」と口を極めて罵った。アメリカへの渡航歴があり、外務大丞を務めたこともある勝海舟でさえ、これを契機に憂国の感を深め、21か条の時弊を挙げた建白書にしたためて政府提出した。勝は建白書で、単なる西洋文化の模倣ではなく、国内の基盤整備や独自の軍備の重要性などを説いた。
その後
払い下げ
鹿鳴館は1889年(明治22年)に外務省から、華族の金禄公債を資本に設立された十五銀行へ土地・建物が払い下げられ、1890年(明治23年)、十五銀行から華族の親睦団体である華族会館に貸与された。1894年(明治27年)6月20日の明治東京地震で被災した後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。その後、1898年(明治31年)にコンドルが改修工事を行い、正面のマンサード屋根の幅が倍増するなど外観が変更される。また、黒門を真向かいにした東向きに建てられていたが、建物自体が90度方向を変え、かつての正面が南向きとなった。
1927年(昭和2年)、華族会館は麹町区三年町(現千代田区霞ヶ関3丁目)に新築した佐藤功一設計の建物に移転し、敷地は日本徴兵保険[注釈 2] に売却された。敷地北部に1930年(昭和5年)、日本徴兵保険の3階建て本社が新築されたが、旧鹿鳴館・華族会館の建物は残され、同社の会議・応接・迎賓施設、社員の懇親施設に転用。一部は貸会議室にもなり「日比谷會館」「日本徴兵會館」とも呼ばれた。
取り壊し
1940年(昭和15年)に、解体計画の話が広まった時、これを惜しんだ早稲田大学教授・商工省参与官の喜多壮一郎が、幣原喜重郎商工大臣に保存を提議し、3月9日に岸信介同省次官らと協議。結局、取り壊し計画を止めることができなかったため、跡地に幣原が自腹で「史蹟鹿鳴館跡」の記念碑を建てることを約束させたという。しかし、この約束も守られることはなく、旧鹿鳴館は老朽化のため、1940年(昭和15年)3月から6月末にかけて解体された。同時期は戦時体制で、洋風社交施設の使用に対する世間の風当たりも強まっていた。
同年3月9日の東京日日新聞は以下のように報じた。「日本徴兵保険会社では最近のビル飢饉時代に建物に比較して広大な敷地を遊ばしておくのは土一升、金一升の場所から惜しいところでもあり、不経済であるとの理由で建物の取毀しを決定したともいはれ、取毀した敷地後にはバラツク仮建築を建築して商工省分室として貸室することに内定、数日前から工事に着手した」。
谷口吉郎は、鹿鳴館の滅失について、同年11月8日の東京日日新聞に寄せた手記「明治の哀惜」で「明治に生れた人達が、自分の所持品を持ちよつて、それを小博物館にすることは出来なかつたらうか。それこそいい明治の記念物となったらうに。明治時代の人から、次の時代に贈るほんとにいい贈物になつたことと思ふ」「新体制が活発な革新意識に燃えるものであるなら、それと反対に古い文化財に対しては極度に保守的であつて欲しいと思ふ」と綴った。
鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩江戸中屋敷(装束屋敷)の表門(通称・黒門)は1934年(昭和9年)12月28日、文部省により旧国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼失した。
戦後、鹿鳴館の跡地には1961年(昭和36年)3月、日本電信電話公社の本社である日比谷電電ビル(1985年からNTT日比谷ビル)が、日本徴兵保険(1945年から大和生命保険)本社ビルの跡地には1984年(昭和59年)6月に日比谷U-1ビル(旧大和生命ビル)が竣工し、「鹿鳴館跡」の碑が設置された。
2022年(令和4年)にNTT日比谷ビルと日比谷U-1ビルは解体された。一帯は帝国ホテル、三井不動産、NTTなど10社を事業主とする大規模再開発計画「内幸町一丁目街区(TOKYO CROSS PARK構想)(NTT日比谷タワー)」に組み込まれ、鹿鳴館跡地には地上46階、高さ230mの高層ビル「NTT日比谷タワー」が2031年(令和13年)に竣工予定。
鹿鳴館の遺物
旧鹿鳴館取り壊しの際に取り外された階段と親柱、壁紙見本は、東京大学工学部建築学科に残されている。このほか、持ち送りは江戸東京博物館に、杭は蒐集家の一木務氏宅に、大鏡は霞会館に、イタリア製の青銅シャンデリアは江戸川区の燈明寺(平井聖天)本堂に、舶来上向腕ガスランプ(ガスマントル)と舶来上向腕ガスランプ(裸火)、電気灯はいずれもGAS MUSEUM がす資料館に、竹塗り小椅子1脚と延遼館から伝わった桜蒔絵小椅子1脚は博物館明治村に、コンドル自らデザインした八角テーブルとジャコビアン調の椅子1脚は尚友倶楽部にそれぞれ保存されている。カラトリーも残されており、深川製磁製の大皿1枚、深川製磁製の砂糖壺2個、深川製磁製の深皿2客、象牙ハンドルのディナー用ナイフ10本、象牙ハンドルのディナー用フォーク10本、フォーク10本、デザート用フォーク10本をそれぞれ旧華族の末裔が所蔵している。これらは1927年(昭和2年)、華族会館が旧鹿鳴館を退去する際に行った備品オークションで、同会館会員の手に渡った。
コンドルが引いた鹿鳴館のオリジナル図面は現在に至るまで行方不明。1940年(昭和15年)の解体直前調査時に堀越三郎と横河工務所によって作成された実測図面も行方不明で、現在残っている鹿鳴館の図面は幾つかの推定図と、竣工後に書かれた略図しかない。外務省外交史料館には平面図の縮小版が残されている。
東京倶楽部
1884年(明治17年)、鹿鳴館に日本人と外国人との融和交際を目的とした男性限定・紹介制の私的クラブ「東京倶楽部」が設けられ、戦前は初代会長の伊藤博文のほか井上馨、大隈重信、山縣有朋、黒田清隆、西園寺公望、松方正義、桂太郎、若槻禮次郎、牧野伸顕、平沼騏一郎、金子堅太郎、渋沢栄一、大倉喜八郎、岩崎久彌、團琢磨、原富太郎、近衞文麿、木戸幸一、徳川家達、細川護立、鍋島直映、吉田茂、白洲次郎らが会員に名を連ね、東伏見宮依仁親王と朝香宮鳩彦王が特別会員となり、歴代名誉総裁に皇族を推戴している(現在は常陸宮正仁親王)。
倶楽部内では英語の使用に限られ、日本語は勿論、他の外国語の使用は禁止された。1896年(明治29年)、鹿鳴館と同じコンドルの設計によるヴィクトリアンゴシックの初代倶楽部が鹿鳴館の隣接地に建てられ移転。1908年(明治41年)に社団法人として認可され、1912年(大正元年)、やはりコンドル設計の2代目倶楽部を麹町区三年町(現・霞が関3丁目)の国有地に建設。
戦後は戦災で消失した2代目の跡地に1959年(昭和34年)、地上6階建ての3代目倶楽部が竣工。2005年(平成17年)には六本木一丁目に「東京倶楽部クラブハウス」を設けて倶楽部本拠を移転し、3代目倶楽部の跡地は三井不動産と共同開発し、2007年(平成19年)9月に地上14階建ての「東京倶楽部ビルディング」が竣工した。
ダンスの日
日本ボールルームダンス連盟により、鹿鳴館の開館日にあたる11月29日はダンスの日に制定されている。
鹿鳴館を題材とした作品
小説
ピエール・ロティ「江戸の舞踏会」(短編集『秋の日本』に収録)
芥川龍之介「舞踏会」
山田風太郎『エドの舞踏会』 - 舞台化・ラジオドラマ化されている。
北森鴻「暁英 贋説・鹿鳴館」
戯曲
三島由紀夫「鹿鳴館」 - 映画・テレビドラマとしても複数回制作されている。1986年(昭和61年)公開の映画版では、関東村(旧米軍調布基地関連施設)跡地に総工費1億円で鹿鳴館ファサードの原寸大オープンセットが建てられた。階段室や舞踏室は東宝スタジオにセットが組まれた。
参考:『青木周蔵』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%91%A8%E8%94%B5
青木 周蔵(あおき しゅうぞう、旧字体: 靑木 周󠄀藏、1844年3月3日〈天保15年1月15日〉- 1914年〈大正3年〉2月16日)は、明治・大正期の日本の外交官、政治家。位階・勲等・爵位は贈正二位勲一等子爵。
来歴
生い立ち
長門国厚狭郡生田村(現:山口県山陽小野田市)出身。幼名は三浦團七。長州藩の村医・三浦玄仲と妻・友子の長男として生まれ、22歳の時に毛利敬親の侍医で日本で初めて種痘を行った蘭学者・青木周弼の弟で後の宮廷大典医となる青木研藏の養子として入籍。士族となり、この際に2人の名を取り周藏と改名し、研藏の養女・テルと結婚する。
留学
明倫館で学んだ後、留学候補として松岡勇記と共に長崎へ派遣され医学修行を行う。長崎ではオランダ人教師が伝習生に対して「独逸学(ドイツ医学)」の習得を勧め、その優越を喧伝したことから、ドイツは伝習生間での留学希望先として衆目を集めつつあった。長州藩では留学生を送り出すにあたって、必ず二人組での同行を求めていた。しかし周藏は松岡を徹底して忌み嫌っており、先輩医師の半井春軒との同行を申し出る。ここで戊辰戦争が勃発し、現役医師は治療現場に駆り出され、松岡、半井の件は棚上げとなる。1868年(明治元年)、藩留学生として土佐藩士・萩原三圭と共に「孛漏西(プロイセン)」への留学が認可された。渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが、来独中の山縣有朋に談判して解決させた。1872年(明治5年)、北ドイツ留学生総代となり在独留学生の専攻科目決定に介入し、物議をかもす。当時の留学生の専攻は軍事、医学に集中しており、青木の真意は日本近代化には専攻を分散することの必要を説くことだった。青木の推奨もあって、林業、製紙、ビール、製絨(羅紗絨毯)などの分野へ特化して成功した人物も出た。
外務省勤務
1873年(明治6年)、外務省へ入省する。外務省一等書記官を経て本省に勤務したが、翌1874年(明治7年)には駐独代理公使、さらに駐独公使となってドイツに赴任、プロイセン貴族の令嬢エリザベートと知り合う。1875年(明治8年)、オーストリア=ハンガリー帝国公使を兼任した。翌年にエリザベートと結婚を決意し、1877年(明治10年)に外務省の許可を得るものの、テルとの離婚が青木家から承諾を得られず、難航する。そのため、周蔵がテルに新しい夫を見つけ、その結納金を支払うことを条件とし、計3回テルに夫を紹介して3回結納金を払った。この結婚をめぐって困難があったものの、品川弥二郎らに助けられて難事を乗りこえた。1878年(明治11年)、オランダ公使も兼任している。
1879年(明治12年)、妊娠中のエリザベートを連れて帰国して、条約改正取調御用係となったが、1880年(明治13年)、井上馨外務公卿の下で再度駐独公使としてベルリンに赴任した。1882年(明治15年)には伊藤博文のヨーロッパでの憲法調査を助け、ベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイスト、ウィーン大学のロレンツ・フォン・シュタインの両法学教授の斡旋をおこなっている。1885年(明治18年)、オランダやノルウェー公使をも兼務したが、翌年に外務大輔として帰国、条約改正議会副委員長となった。1886年(明治19年)3月、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨のもとで外務次官となり、全権委任状を下付されて条約改正会議に出席するなど、翌年まで井上外交を支えた。
1887年(明治20年)5月9日、子爵を叙爵。1888年(明治21年)の黒田内閣の大隈重信外相のもとでも引き続き外務次官を務めた。1889年(明治22年)には外務次官・条約改正全権委員として条約改正交渉の中心人物として活躍した。
外務大臣就任、条約改正交渉
青木周蔵
来島恒喜のテロによって大隈が遭難したあと、1889年(明治22年)12月24日に第1次山縣内閣の外務大臣に就任、外相として「青木覚書」を閣議に提出して承認を受けた。こののち対英条約改正交渉をみずから指揮して駐日イギリス公使フレーザーとの交渉を進め、1891年(明治24年)、第1次松方内閣でも外務大臣を留任、領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。青木の条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して「対等合意」(外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目指した。1890年(明治23年)7月10日、貴族院子爵議員に就任し1期在任した。
帝政ロシアが東アジアに進出することに不安を抱くイギリスが日本に好意を持つなど、時勢にも恵まれ交渉は成功しかけたが、新条約調印寸前の1891年(明治24年)5月に大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵の死刑を確約しながら、判決が無期懲役となり公使が抗議に訪れると、これを伊藤博文と井上馨の指示だと述べたことによって両名の恨みを買うことになった(相手国公使に対する通告内容に関する最終決定権は大臣である青木にある)。1892年(明治25年)、駐独公使としてドイツに赴任した。後任の外相には陸奥宗光が抜擢され、陸奥は青木に駐イギリス公使を兼任させた。
1894年(明治27年)、駐英公使として外相の陸奥とともに条約改正に尽力、アレクサンダー・フォン・シーボルトを通訳として日英通商航海条約改正に成功した。
1898年(明治31年)、第2次山縣内閣では再び外務大臣に就任、1900年(明治33年)の義和団の乱に対処、列強の動きを敏感に察知し積極的な介入を試みた。こののち枢密顧問官を務めた。
1906年(明治39年)には駐米大使として移民問題の解決につとめた。
1914年(大正3年)2月16日、肺炎のため東京の自宅で死去[9]。死後、正二位を贈られた。青木の遺骸は栃木県那須郡(現:那須塩原市)にある別邸近くに埋葬されている。
政策
外交官としての青木の半生は条約改正交渉に長く深く関わり、外交政略としては早くから強硬な討露主義と朝鮮半島進出を主張し、日露戦争後は大陸への進出を推進した。
ドイツ文化の導入
留学生・外交官(ドイツ公使)として滞独生活は25年に及び、日本におけるドイツ通の第一人者としてドイツの政治体制、文化の導入をはかった。獨逸学協会にも会員として在籍し、獨逸学協会学校の評議委員も務めた。
「青木覚書」
大隈重信遭難後、第1次山縣内閣と第1次松方内閣の外務大臣として条約改正交渉を主導した。条約改正方針として「青木覚書」を山縣内閣の閣議に提出している。その骨子は、
外国出身の法律家を大審院の法官に任用せざること。
法典を早きに及びて編成発布することを約束せざること。
不動産の所有権は、領事裁判を撤去せざる間は、其抵償物として之を外国人に許与せざること。
外国人取扱上に付、経済上又は法律上、或る場合に於ては、特権の制限を設くること。
であり、「其範囲内に於て全権を実際に便宜運用するは改正事務を委任されたる人の裁酌する所に任すべし」というものであった。
逸話
初めての洋行の際、周蔵はなお丁髷姿であった。どこへ行っても人々に笑われたため、同行していたボーイ頭が気の毒に思い、その髪形では馬鹿にされると説き聞かせ、ついに自ら青木の髷を切って散髪したという。後年、青木が最後にドイツ公使を務めていたころ、このボーイ頭がベルリン近郊に在住していることを聞きつけ、夫人エリザベートとともにその家を訪ねて謝礼を述べた。エリザベートは「もし周蔵が丁髷などを結ってベルリンに来ようものなら、妻になるどころか握手もしなかったでしょう」と語り、一同大笑いしたと伝えられている。
参考:『加波山事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%B3%A2%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
加波山事件(かばさんじけん)とは、1884年(明治17年)9月23日に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。
概要
自由民権運動の激化事件の一つであり、急進的な考えを抱いた若き民権家たちが起こした。福島事件に関わった河野広躰(河野広中の甥)等のグループが中心で、これに茨城県・下館の富松正安や栃木県内の民権家が加わっている。栃木県庁の移転にともなって宇都宮に庁舎が落成する際に、民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画であったが、鯉沼九八郎が爆弾を製造中に誤爆。計画が明らかになると、茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。又警察署や豪商の襲撃も行なっている。茨城県古河市中田にあった文武館を中心にして小山、結城にて策謀を練っていた。
その後
後日の再集結を約して解散するが次々に逮捕された。その後、自由党幹部である内藤魯一や、田中正造・小久保喜七をはじめとして300名におよぶとまでいわれる民権家が逮捕された。しかし、政治犯とはならず、資金集めの際の強盗等の罪によって裁かれたため、起訴されたのは加波山に立てこもった16人と、内藤、鯉沼らの若干名にとどまった。7名に死刑判決が下され(うち1人は刑執行前に獄死)、3名が無期懲役となった。獄死した者以外は特赦によって1894年までには出獄している。
この事件を期に、政府は爆発物の使用に対して刑法(いわゆる旧刑法)の規定よりも厳格に取り締まるため、爆発物取締罰則を制定した。
茨城県筑西市下館地区の妙西寺に富松正安・保多駒吉・玉水嘉一・平尾八十吉の4名が葬られ、「加波山事件志士の墓」として市指定文化財(史跡)となっている。
西條八十が作詞した下館音頭の11番には加波山事件が歌われている。
逮捕または起訴された人物
大井憲太郎と共に自由民権運動派の代言事務所厚徳館を設立した弁護士の山田泰造(いずれも後に衆議院議員となる)らが弁護した。
天野市太郎
山口守太郎
杉浦吉副
河野広躰
三浦文治
草野佐久馬
横山信六
保多駒吉
小林篤太郎
琴田岩松
小針重雄
玉水嘉一
五十川元吉
富松正安
原利八
門奈茂次郎
鯉沼九八郎
大橋源三郎
佐伯正門
参考:『内閣制度の概要』首相官邸ホームページ https://www.kantei.go.jp/jp/seido/index.html
はじめに
我が国で官制上初めて「内閣」という呼称が用いられたのは、明治6年の「太政官職制」の改正で、太政官正院の参議の職責として内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ルと定められ、同時に改正された「正院事務章程」において、正院ハ 天皇陛下臨御シテ萬機ヲ総判シ太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シ参議之ヲ議判シテ庶政ヲ奨督スル所ナリ 、内閣ハ 天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ當否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸タル所タリ、と定められた。これによって、輔弼責任者たる太政大臣及び左右大臣と国務国策の審議立案者たる参議との区別が明らかになったが、ここでいう「内閣」は、今日における「内閣」とはもとより性格を異にするものであった。
今日におけるような内閣総理大臣及びその他の国務大臣で組織される合議体といった性格の「内閣」は、明治18年12月22日に発せられた「太政官達第69号」によって設けられた。これによって、内閣総理大臣及び各国務大臣を中心とする近代国家としての庶政の処理にふさわしい行政機構である内閣制度が確立された。
内閣制度は、明治、大正、昭和、平成の各時代にわたってその役割を果たしつつ、130余年の歳月を経て今日に至っている。
1. 内閣制度創設と明治憲法下の内閣制度
1.1. 内閣制度の創設
明治18年(1885年)12月22日、それまでの太政官制度(慶應4年(1868年)3月14日に布告された、いわゆる「五箇条の御誓文」に示された政治の方針を実現するために設けられた制度)に代わって、新たに内閣制度が創設された。この日、太政官達第69号で、
① 太政大臣、左右大臣、参議及び各省卿の職制を廃し、新たに内閣総理大臣並びに宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務及び逓信の各大臣を置くこと
② 内閣総理大臣及び各大臣(宮内大臣を除く。)をもって内閣を組織すること
が定められた。
初代の内閣総理大臣としては、前参議伊藤博文が任命された。
明治18年(1885年)12月22日、内閣制度の創設とともに、「内閣職権」が制定された。これは、新内閣機構の運営に関する基準として、7条から成るもので、主として内閣総理大臣の職責を明確にしたものであるが、後年の「内閣官制」と比べると内閣総理大臣の各省大臣に対する統制権はかなり強いものであった点が注目される。
すなわち、内閣総理大臣には
各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ統督スること(第1条)
行政各部ノ成績ヲ考ヘ其説明ヲ求メ及ヒ之ヲ検明スルコトヲ得ること(第2条)
などの強い権限が与えられ、各省大臣には
其主任ノ事務ニ付時々状況ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ(第6条)
との報告義務が課された。
内閣職権(明治18年12月22日)
1.2. 明治憲法下の内閣制度
明治22年(1889年)2月11日に公布された明治憲法の下においては、天皇が統治権を総攬するものとし、国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス(第55条第1項)と定められていたが、内閣それ自体については特段の規定は設けられていなかった。
大日本帝国憲法(明治22年2月11日)
行政権は、国務大臣の輔弼によって天皇が自ら行うという原則に立ち、内閣は、本来、国務大臣が天皇を輔弼するについて協議するために設けられた組織体であり、同時に、国務大臣が諸施策を決定し、行政上の方針を統一するために協議する場でもあった。
内閣官制(明治22年12月24日)
同年12月24日、内閣制度運用の基準として、「内閣官制」が公布された。この「内閣官制」は、明治18年の「内閣職権」をおおむね踏襲するものであったが、内閣総理大臣の各省大臣に対する統制権限が弱められたことなどの違いが見られる。
また、明治憲法は、内閣総理大臣について特段に規定することがなく、天皇を輔弼する関係においては、内閣総理大臣も「国務各大臣」の一人として、他の国務大臣と同格であった。
内閣総理大臣は「内閣官制」によって、各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス(第2条)と定められていたが、この「首班」とは、いわゆる「同輩中の首席」を意味しているにすぎなかった。
昭和22年(1947年)5月3日に現行憲法が施行され、また、同時に「内閣法」が施行されて、現在の内閣制度が確立した。すなわち、国民主権の下で、立法、行政及び司法の三権分立を徹底させるとともに、議院内閣制という基本的枠組みの下で、内閣は行政権の主体として位置付けられることとなった。
内閣総理大臣に「内閣の首長」たる地位が与えられ、内閣を代表するとともに、内閣の統一性と一体性の確保のために、その閣内における地位も高められ、権限も強化された。ただし、その権限も、国務大臣の任免権あるいは国務大臣の訴追に対する同意権など単独の権限であるものを除いては、閣議にかけて行使するのが原則である。
また、憲法上、行政権は内閣に帰属するものとされており、その意味で、国の一切の行政事務の遂行は内閣の責任に属するが、その具体的な行政事務は内閣自らがすべて行うというのではなく、内閣の統轄の下に内閣府及び11の省が設置され、さらに、これらの府又は省の外局として設置されている委員会又は庁などが分担管理するものとされている。
議院内閣制
現行憲法においては、議院内閣制が採られている。これは、内閣総理大臣の選出、その他内閣の存立の要件を国会の信任に置く制度であり、憲法は、これを次の諸点で制度的に明確にしている。
① 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、指名されること(第67条第1項)
② 国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならないこと(第68条第1項ただし書き)
③ 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負うこと(第66条第3項)
④ 内閣は、衆議院の信任を要すること(第69条、第70条)
2.1 内閣の組織
憲法は内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する(第66条第1項)と定めている。内閣は合議制の行政機関であり、その運営を主宰するのは内閣総理大臣である。内閣を構成する内閣総理大臣以外の国務大臣の定数は、内閣法により、現在、14人(復興庁及び東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部が置かれている間は16人)以内とされている。ただし、特別に必要がある場合においては、3人を限度にその数を増加し、17人(復興庁及び東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部が置かれている間は19人)以内とすることができる。
内閣の成立
(1) 内閣総理大臣の指名から新内閣発足まで
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で指名される。
指名は単記記名投票で行われ、投票の過半数を得た者が指名された者となる。なお、1回の投票で過半数を得た者がいないときは、上位2人の決選投票を行い、多数を得た者が指名された者となる。
また、衆議院と参議院とが異なった指名の議決をした場合に、両議院の協議会を開き、そこにおいても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後10日以内(国会休会中の期間を除く。)に参議院が指名の議決をしないときは、衆議院の議決が国会の議決となる。
国会の議決により、内閣総理大臣の指名を受けた者は、直ちに総理官邸において、国務大臣の選考(これを「組閣」という。)を行う。
国務大臣の選考が完了すると、宮中において内閣総理大臣を任命する親任式が行われ、引き続き、国務大臣任命の認証式が行われる。
宮中において、内閣総理大臣任命の親任式及び国務大臣任命の認証式を終えた後、総理官邸において、内閣総理大臣から、各省大臣、各庁長官等の辞令(これを「補職辞令」という。)が交付される。
辞令交付後、直ちに初閣議を開催し、内閣発足に際しての内閣総理大臣談話、閣議陪席者の人事の決定や国務大臣の兼職禁止等についての申合せなどを行っている。
(2) 内閣改造
内閣改造とは、人事刷新を図るなどのために、内閣総理大臣は代わることなく、他の国務大臣の全部又は一部が代わることをいい、内閣総理大臣の国務大臣任免権により行われる。このため改造に先立ち、閣議において国務大臣の辞表の提出(一般に「辞表の取りまとめ」といわれる。)を求めることとしている。
この改造による新国務大臣の任命についても国務大臣の選考の方法、その後の認証式などの一連の流れは、組閣の際の流れと同様である。
(3) 内閣総辞職
内閣総辞職とは、内閣総理大臣が単独に辞職するのではなく、内閣を構成する国務大臣も一体となって、その地位を失うことをいう。
内閣総辞職は、内閣の一方的意思で行われ、その結果を国会に通知しなければならない。内閣総辞職が行われる場合としては、次の場合がある。
衆議院で内閣不信任決議案が可決又は信任決議案が否決された場合
内閣は、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない(憲法第69条)。
衆議院議員の総選挙後初めて国会の召集があった場合
先に内閣総理大臣を指名した衆議院の構成員が改選され、内閣はその存立の根拠を失ったことになるから、新しい国会の信任を改めて仰ぐ趣旨によるものである。
総選挙の結果、政府与党が多数を占め、再び同一人が指名されることが予想されるときでも、信任の基礎を新たにするため、内閣は総辞職しなければならない(憲法第70条)。
内閣総理大臣が欠けた場合
内閣総理大臣が、死亡又は失格(議員の議席を失う)などの理由によって欠けたときは、内閣は総辞職しなければならない(憲法第70条)。
内閣総理大臣が辞意を表明した場合
内閣総理大臣が、病気等の事由により自ら辞意を表明する場合がある。この場合も内閣の総辞職が行われている。
(4) 総辞職後の内閣(いわゆる「職務執行内閣」)
総辞職した内閣は、憲法第71条により、新たに内閣総理大臣が任命されるまでは引き続きその職務を行わなければならないとされている。これは一時的にせよ行政が停滞することを防ぐためである。総辞職後の内閣は、新たな内閣総理大臣の任命とともに消滅するものであり、専ら行政の継続性を確保するために必要な事務処理を行うにとどまるべきものであって、それを超えて新規政策の実現に積極的に取り組むようなことは差し控えるべきもの、とされている。
内閣総理大臣
(1) 基本的地位
内閣総理大臣は、「内閣の首長」として、内閣を代表する地位にあると同時に、内閣全体の統一性及び一体性を確保する役割を有している。
内閣総理大臣は、衆議院の解散や衆議院議員の任期満了により国会議員の地位を失っても、次の内閣総理大臣が任命されるまでの間は、その地位を失うことはない(憲法第71条)。
(2) 権限
合議体である内閣が、行政権の担当者として統一ある行動を執り、国会に対して連帯責任を果たすためには、内閣総理大臣に強固な統率力が必要とされる。その内閣総理大臣が内閣の外に向かって、内閣を代表して行動する必要があることから、内閣総理大臣には、憲法上、国務大臣の任免権のほか、内閣を代表して議案を国会に提出すること、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督することなどの権限が、また、内閣法上、閣議の主宰権のほか、主任の大臣の間で権限の疑義がある場合は、閣議にかけてこれを裁定することなど、様々な権限が認められている。
(3) 内閣総理大臣の臨時代理
内閣法は、内閣総理大臣に事故のあるとき、又は内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が、臨時に、内閣総理大臣の職務を行う (第9条)と定めている。この規定による指定を受けた国務大臣が、内閣総理大臣が海外出張や病気等により職務遂行ができない場合の職務代行者となる。
内閣総理大臣の職務代行者として予め指定を受けた国務大臣は、一般に、「内閣総理大臣臨時代理」と呼ばれているが、特に、内閣の発足時などに指定された者は、俗称として「副総理」と呼ばれている。
(4) 主任の大臣としての内閣総理大臣
内閣府設置法では内閣府の長は、内閣総理大臣とする。内閣総理大臣は、内閣府に係る事項についての内閣法にいう主任の大臣とし、第4条第3項に規定する事務を分担管理する (第6条)と定め、また復興庁設置法では復興庁の長は、内閣総理大臣とする。内閣総理大臣は、復興庁に係る事項についての内閣法にいう主任の大臣とし、第四条第二項に規定する事務を分担管理する(第6条)と定めており、内閣総理大臣は、行政機関の一つである内閣府及び復興庁の長であり、主任の大臣としての地位を有している。
国務大臣
(1) 任免
国務大臣は、内閣総理大臣によって任命され、また、任意に罷免される(憲法第68条第2項) 。この任免は、天皇が認証する(憲法第7条第5号)。
(2) 主任の大臣
行政事務を分担管理する内閣府及び復興庁の長としての内閣総理大臣及び各省の長としての各省大臣を内閣法、内閣府設置法、復興庁設置法及び国家行政組織法で主任の大臣と規定している。すべての国務大臣が必ず、いずれかの行政事務を分担管理しなければならないというわけではなく、いわゆる「無任所大臣」が存在することを妨げるものではない。
(3) 権限
国務大臣が主任の大臣としてその事務を分担管理することとされている行政機関は、内閣府及び復興庁のほか、総務、法務、外務、財務、文部科学、厚生労働、農林水産、経済産業、国土交通、環境及び防衛の11省である。
これらの行政機関の長としての各大臣は、その府・庁・省の事務を統括し、職員の服務を統督する権限のほか、その府・庁・省に係る主任の行政事務について法律及び政令の制定又は改廃の案についての閣議請議の権限、法律の委任に基づいた命令(府令・庁令・省令)、告示、訓令及び通達の発出の権限等を有している。
(4) 国務大臣の臨時代理
主任の国務大臣が海外出張や病気等により職務遂行ができない場合に職務代行者(臨時代理)を置く規定として、内閣法第10条は主任の国務大臣に事故のあるとき、又は主任の国務大臣が欠けたときは、内閣総理大臣又はその指定する国務大臣が、臨時に、その主任の国務大臣の職務を行う。と定めている。
無任所大臣
「無任所大臣」という用語は、法令上のものではなく、広義では、国務大臣のうち「主任の大臣」以外の国務大臣、つまり内閣総理大臣及び各省大臣以外の国務大臣を指し、狭義では、これから更に国家公安委員長など特定の行政機関の長や内閣官房長官を除き、いずれの行政機関にも属さない国務大臣をいう。
一般に、後者を無任所大臣ということが多い。
2.2 内閣の機能と運営
内閣の機能
内閣が、憲法のほか各種法令に定められた職権を行い、その職権を行うのは、閣議によるものとされている(内閣法第4条)。
(1) 天皇の助言機関としての機能
憲法第3条は、天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふと規定している。
天皇の国事行為は、次に掲げるものとされている。
国会の指名に基づく内閣総理大臣の任命
内閣の指名に基づく最高裁判所の長たる裁判官の任命
憲法改正、法律、政令及び条約の公布
国会の召集
衆議院の解散
国会議員の総選挙の施行の公示
国務大臣等の任免の認証
全権委任状及び大使・公使の信任状の認証
大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権の認証
栄典の授与
条約の批准書及びその他の外交文書の認証
外国の大使・公使の接受
儀式の挙行
(2) 行政権の主体としての機能
憲法第73条は、内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふとして、次の7つの行政事務を掲げている
法律を誠実に執行し、国務を総理すること
外交関係を処理すること
条約を締結すること
法律の定める基準に従い、官吏に関する事務を掌理すること
予算を作成して国会に提出すること
憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること
大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること
なお、憲法第73条のほか、次のような内閣の権能を定めている。
最高裁判所の長たる裁判官の指名(第6条)
最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官及び下級裁判所の裁判官の任命(第79条、第80条)
国会の臨時会の召集の決定(第53条)
議案の国会への提出(第72条)
参議院の緊急集会の請求(第54条)
予備費の支出(第87条)
決算の国会への提出(第90条)
財政状況についての国会及び国民への報告(第91条)
閣議
内閣は、国会の指名に基づいて任命された首長たる内閣総理大臣及び内閣総理大臣により任命された国務大臣によって構成される合議体(内閣法第2条)であるから、その意思決定を行うに当たっては全大臣の合議、すなわち閣議によることとなっている(第4条)。
(1) 閣議の構成員等
閣議は、内閣総理大臣及びその他の国務大臣で構成される。
なお、閣議の案件について説明を行ったり、閣議運営上の庶務に従事したりする等のために、内閣官房副長官(政務担当と事務担当)と内閣法制局長官が陪席する。
過去の例として、昭和23年1月27日付けの内閣官房長官通知「閣議等付議事項の取扱いについて」により、閣議に国務大臣が欠席するときはその代理者として政務次官又は次官(現在の各省庁の事務次官)を出席傍聴せしめ得ること。この他、閣議に関係官を主席せしめて説明せしめる場合は予め内閣官房長官の了解を得た場合に限るものとし、関係官は説明が終了したときは直ちに退席することとの例外的な取扱いをしていたときがあった。
閣議構成メンバーの推移
内閣制度創設当時の閣議は、内閣総理大臣及び各省大臣の10人で構成されていた。その後、各省大臣の数については、省の統廃合・新設等によって変遷があった。これとは別に、内閣官制第10条の規定に基づき「特旨ニ依リ」国務大臣として内閣員に列せられる者がいた。いわゆる無任所大臣である。その無任所大臣については特段の定めはなかったが、昭和15年12月、勅令により3人以内と定められ、その後3回の改定を経て、内閣法施行時には6人以内となっていた。
昭和22年の内閣法施行により、内閣は、首長たる内閣総理大臣及び国務大臣16人以内を以て組織されることとなったが、その後、数次の内閣法の改正により、現在は17人以内の国務大臣(ただし、特別に必要がある場合においては、3人を限度にその数を増加し、20人以内とすることができる。)を以て、これを組織するとなっている。
(推移)
明治18.12.22 10人 内閣総理大臣を含む。宮内大臣は内閣の組織外
昭和22.5.3 16人以内 内閣法施行、内閣総理大臣を除く
昭和40.5.19 17人以内 内閣法改正、総理府総務長官は国務大臣となる
昭和41.6.28 18人以内 内閣法改正、内閣官房長官は国務大臣となる
昭和46.7.9 19人以内 内閣法改正、環境庁長官を追加
昭和49.6.24 20人以内 内閣法改正、国土庁長官を追加
平成13.1.6 14人以内(ただし、特別に必要がある場合においては、3人を限度にその数を増加し、17人以内とすることができる。) 内閣法改正、中央省庁等改革
平成24.2.10 復興庁が廃止されるまでの間、15人以内(ただし、特別に必要がある場合においては、3人を限度にその数を増加し、18人以内とすることができる。) 復興庁設置法附則による内閣法改正
平成27.6.25 復興庁が廃止されるまでの間、16人以内(ただし、特別に必要がある場合においては、3人を限度にその数を増加し19人以内とすることができる。) 平成32年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法附則による内閣法改正
令和2.9.16 復興庁が廃止されるまでの間、17人以内(ただし、特別に必要がある場合においては、3人を限度にその数を増加し、20人以内とすることができる。) 平成37年に開催される国際博覧会の準備及び運営のために必要な特別措置に関する法律附則による内閣法改正
令和3.4.1 東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会推進本部が置かれている間、17人以内(ただし、特別に必要がある場合においては、3人を限度にその数を増加し、20人以内とすることができる。) 復興庁設置法等の一部を改正する法律附則による内閣法改正
(2) 閣議の開催
閣議は、原則として、毎週火曜日と金曜日に首相官邸の閣議室において午前10時から開催される。ただし、国会開会中は、午前9時から開催されることとなっている。このように原則として定例日に開催される閣議は「定例閣議」と呼ばれる。
閣議の歴史
太政官時代には、今の閣議に当たる会議を内閣会議といい、太政官職制当時の明治6年6月には三八ノ日ニ限り、内閣ニ於テ午前第九時ヨリ同十二時マデ開催すると定めていた。明治14年10月には各内閣議官(参議)の参集日が火・金曜日と改められた。
明治18年12月22日に内閣制度が創設されると同時に、内閣総理大臣から各省大臣に対して、閣議ヲ要スル儀有候ニ付明廿三日ヨリ當分ノ内日々午后一時ヨリ御参閣可有之候也との通達が出された。
なお、緊急を要する場合には、日時にかかわらず臨時に開催されることがあり、これを「臨時閣議」という。
また、早急な処理を要する案件については、電話連絡等により閣議が行われることがあり、これを「持ち回り閣議」という。
持ち回り閣議
戦前の持ち回り閣議は、飴色に塗られ真中が赤く、そこに内閣総理大臣殿、内閣書記官長殿、内閣書記官殿と黒い漆で書かれてある箱と各省大臣の官名が連記されている箱の2種類の赤箱があり、内閣書記官が、この箱を持ち歩いて閣議書に署名(花押)を得ていた。
(3) 閣議付議案件
閣議に付議される案件は、憲法、法律等により内閣の職権とされているもの(いわゆる必要的付議事項)が多いが、その他にも、特に法令上の根拠がなくとも行政府内で一定の方針を確定しておくための、いわゆる任意的付議事項もある。これらが一般案件、法律・条約の公布、法律案、政令及び人事等の項目に区分されて処理される。
一般案件とは、国政に関する基本的重要事項等であって内閣として意思決定を行うことが必要なものをいう。
内閣法では、閣議は、内閣総理大臣がこれを主宰する。この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる。(第4条第2項)と規定し、また、各大臣は、案件の如何を問わず、内閣総理大臣に提出して、閣議を求めることができる(第4条第3項)と規定しており、この規定に基づき、各主任の大臣が内閣総理大臣に閣議を求める手続きをする。これを「閣議請議」という。
また、閣議に付議される案件は、その内容により、「閣議決定」、「閣議了解」、「閣議報告」として処理される。
「閣議決定」は、合議体である内閣の意思を決定するものについて行われる。
「閣議了解」は、本来、ある主任の大臣の権限により決定し得る事項に属するものであるが、事柄の重要性にかんがみ、他の国務大臣の意向をも徴することが適当と判断されるものについて行われる。
「閣議報告」は、主要な審議会の答申等を閣議に披露するような場合等に行われる。
(4) 閣議の運営
内閣法には、閣議は、内閣総理大臣がこれを主宰する(第4条第2項)という規定が置かれているだけで、その他については特段の規定はない。具体的な運営方法は、長年の慣行により行われている。
明治23年2月4日の閣議順序ヲ定ムルノ件の閣議決定によれば…通常ノ囘議書類ハ書記官ヲシテ之ヲ朗讀セシメ…と定められていた。
議事の進行・整理等は、主宰者たる内閣総理大臣の意を受けて、内閣官房長官が行う。案件の説明は、陪席者である政務担当の内閣官房副長官から行われる。
閣議の議決は、多数決の方式等を採用せず、全員一致によることとされている。これは、内閣は、行政権の行使について、全国民を代表する議員からなる国会に対し連帯して責任を負う(内閣法第1条第2項)ことに基づくものである。
閣議で結論が得られた案件については、各国務大臣が閣議書に署名(花押)をし、意見の一致したことを確認する。
花押
閣議書に閣僚の意思を表わす花押を毛筆で書くことが内閣制度創始以来の慣習となっている。花押は、別名「書き判」とも言われ、その形が花文様に似ていることから「花押」と呼ばれている。広く使われている花押は、そもそも中国の明時代に流行した形が、江戸時代初期に伝えられたもので、先ず天と地の両線(上下の二線)を横に引き、この天地の中間に自分で考えた文字を簡単な形にして作成している。
(5) 議事内容の公表
閣議において、各大臣の隔意のない意見の交換を望む関係上、閣議の議事は非公開とされている。
なお、平成26年4月以降の閣議については、「閣議等の議事の記録の作成及び公表について(平成26年3月28日閣議決定)」により、議事の記録を作成し、閣議から概ね3週間後に首相官邸ホームページにおいて公開されている。
また、閣議の概要については、内閣官房長官の記者会見において発表されることになっている。
明治 19年勅令 14号。旧制の小学校に関する基本事項を規定した勅令。 1886年に師範学校令,中学校令とともに制定され,90年,1900年に大改定。 41年国民学校令の制定により廃止された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『日本人 (雑誌)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA_(%E9%9B%91%E8%AA%8C)
『日本人』(にほんじん)は、1888年(明治21年)4月から1906年(明治39年)12月まで発行された、政教社の政治評論雑誌。1907年から、『日本及日本人』になった。
歴史
言論団体政教社の機関誌である。同社は、志賀重昂、棚橋一郎、井上円了、杉江輔人、菊池熊太郎、三宅雪嶺、辰巳小次郎、松下丈吉、島地黙雷、今外三郎、加賀秀一、11名の同人により1888年4月結成され、同月『日本人』誌を創刊した。間もなく、杉浦重剛、宮崎道正、中原貞七が加わった。半月刊ないし週刊だった。創刊早々、高島炭鉱事件でキャンペーンを組み、国会の大臣弾劾権問題を特集した。
同人らには西欧の知識があった。政治的看板は国粋主義だったが、それは日本のすべてを讃え外国のすべてを退ける極右では全くなく、志賀によれば次だった。『宗教・徳教・美術・政治・生産の制度は「国粋保存」で守らねばならぬが、日本の旧態に飽くまでこだわれというのではない。ただし西欧文明は、日本の胃腸で咀嚼し消化して取り入れるべきだ』(第2号所載『「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す』の大意)。
政府が急ぐ鹿鳴館的西欧化を批判して、頻繁に発禁処分を受け、雑誌はそれを避けて改名し、次のように変転した。
第一次『日本人』:1888年4月 - 1891年6月
『亜細亜』:1891年6月 - 1893年9月
第二次『日本人』:1893年10月 - 1895年2月
『亜細亜』:1893年12月 - ?
第三次『日本人』:1895年7月 - 1906年12月
同人誌として出発したものの、第二次『日本人』は志賀と三宅とが編み、内藤湖南、浅水南八、畑山芳三、長沢別天らが助けた。日清戦争の1894年には、のべ半年以上の休刊を強いられた。
第三次『日本人』は三宅の個人雑誌的になった。日本新聞社の社屋内に編集室を置いた時期もあって、1902年には日本新聞の陸羯南社長が日本人誌の社説を受け持ち、1904年からは三宅が日本新聞の社員を兼ねて日本新聞の社説を書くという、一心同体的な仲になった。
1906年(明治39年)、日本新聞の社長交代を不服として多くの社員が政教社へ移り、三宅雪嶺は、『日本人』誌と『日本』紙との伝統を受け継ぐとして、雑誌を『日本及日本人』と改名して主宰し、『日本人』誌は通巻449号で発展的に終刊した。
発行部数は、初期に500 - 600、盛期で4000足らずだった。
1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された日本の憲法 [注釈 1]。
略して「帝国憲法」、明治に発布されたことから俗称として「明治憲法」とも。また、現行の日本国憲法との対比で旧憲法(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。
東アジア初の近代憲法である。日本国憲法施行までの半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1946年(昭和21年)5月16日に第73条の憲法改正手続による帝国議会の審議を経て、同年10月29日に枢密院が新憲法案を可決。日本国憲法が1946年(昭和21年)11月3日に公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。大日本帝国憲法の施行期間は、1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日までの56ヶ年5ヶ月4日(20,608日)である。
士族反乱や西南戦争の処理を終わって、新しい体制への移行を試みようとしていた大久保が1878年に暗殺されると、その後を継いで内務卿となり、明治政府の中心人物となった。琉球(りゅうきゅう)処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。他方、元老院起草の憲法案が政府首脳を満足させず、諸参議の憲法意見を徴することになり、1881年大隈重信(おおくましげのぶ)の急進的な憲法意見が提出されると伊藤はこれと対立、同年のいわゆる明治十四年の政変によって大隈ら開明派官僚をいっせいに追放するとともに、1890年の議会開設を約束した政変劇の主役となった。翌1882年渡欧し、ドイツ、オーストリアで憲法調査にあたり、帰国後の1884年宮中に制度取調局を創設してその長官となり、立憲制への移行に伴う諸制度の整備に着手した。同年華族令を制定して新しい華族を皇室の藩屏(はんぺい)としたのをはじめ、1885年には太政官(だじょうかん)にかえて内閣制度を創設し、初代首相に就任した。また翌年から井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎(かねこけんたろう)らと憲法、皇室典範のほか貴族院令、衆議院議員選挙法などの草案の起草に着手し、1888年枢密院が新設されるとその議長として憲法草案などの審議にあたった。
1889年(明治22)大日本帝国憲法の発布直後に、「超然主義」の立場を鮮明にし、政党の動向を顧慮することなく議会運営にあたることを宣言した。1890年の議会開設に際しては初代の貴族院議長となり、以後山県有朋(やまがたありとも)、松方正義(まつかたまさよし)両内閣の議会運営に助言を与え、民党との対立が激化すると、1892年自ら政党結成に着手しようとするが、果たせなかった。
1890年頃日本において民法典施行の是非をめぐって行われた論争。条約改正促進のために近代的法典の整備を迫られていた明治政府は,90年フランス人 G.ボアソナードを中心に完成した民法典 (→旧民法 ) を公布し,93年から施行することを定めた。これに対し,一部の法律学者や帝国議会議員などの間から強力な反対論 (施行延期論) が出され,施行断行を主張する断行派 (→梅謙次郎 ) との間に激しい論争が繰広げられた。穂積八束は「民法出デテ忠孝亡ブ」と論じ,論争は延期派の勝利に終り,92年の帝国議会は,施行を延期することを可決した。これを受けて日本人起草委員のみによってこれに代る民法典 (→民法 ) の編纂事業が行われるにいたった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
2022年出題
明治初期〜第二次世界大戦前の内政一般を統轄した中央官庁。
1873年太政官の一省として設置,初代内務卿は大久保利通。とくに殖産興業政策を推進し,警察事務を統轄。'81年殖産興業部門を農商務省へ移管。'85年内閣制度創設でその一省となり,初代内務大臣には山県有朋 (ありとも) が就任。地方行政・議員選挙・警察・土木・出版・戸籍などを管掌し,国内行政の中心的役割を果たし,国民生活全般にわたり,保護と統制を行い,第二次世界大戦下には戦時体制形成の中核となる。1947年廃止。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
1873年 11月 10日警察および地方行政の監督,ならびに国民生活全般の事項を統轄するために設けられた行政機関。初代内務卿大久保利通の考えを反映し,発足当初から国民生活に関する強度の監視を課題としており,単なる行政事務の枠にとどまるものではなかった。 85年内閣制度発足に伴い機構改革がはかられ,官房と総務,県治,警保,土木,地理,戸籍,社寺,衛生,会計の9局を統合する中央集権制の中核的国家機関として確立された。北海道庁長官,各府県知事を監督し,内務省警保局,警視庁,府県警察部を通じて言論,集会,結社を取締り,選挙運動,社会運動,労働運動などに干渉や弾圧を加えるなど,地方制度および国民生活全般にわたって強力な統制を行なった。第2次世界大戦後,地方自治確立の要請と,中央集権制度の中枢的存在であったとの理由から,1947年 12月 31日廃省になった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[農商務省]
1881年4月に設置された,農政と産業の育成,振興を担当した行政機構。現在の農林水産省と通商産業省の前身。明治政府は日本産業の資本主義化を達成するため,殖産興業政策をその課題に掲げ,農商工の各分野で行政指導を進めた。欧米の機械制工場制度の移植や鉄道,電信の導入などを促進した工部省(1870設立),農政を所管した内務省(1873創設),さらに大蔵省が当時の産業振興の重要な部門であった。工部省中心の移植産業政策と内務省中心の在来農業の資本主義化政策は1870年代にめまぐるしい機構の改廃,統合を重ねる過程で,相互に補完しあいながら資本主義育成策の重要な部分をなした。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
[工部省]
明治初年の政府官庁の一つ。明治3 (1870) 年閏3月設置,1885年廃止。初代工部卿は伊藤博文。官営工業により殖産政策を推進し,77年には鉄道,鉱山,灯台,電信,工作,営繕,書記,会計,検査,金庫の 10局をおいた。多くのお雇い外国人技師を招き,また工学寮をおいて,日本人技師の養成にも努めた。廃止後の事務は農商務省,逓信省,大蔵省などに分掌された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[鉄道省]
1920年(大正9)5月15日設置された鉄道管轄官庁。第一次世界大戦中から鉄道事業は飛躍的に発展し、また原敬(たかし)政友会内閣は鉄道網の整備を重点施策とした。このような事情から鉄道院を昇格して、政府の1省とする措置がとられた。同省の管轄業務は国有鉄道および付帯業務の運営、地方鉄道、軌道、南満州鉄道の監督とされ、中央に大臣官房と6局、各地方に鉄道局その他の機関を置いた。28年(昭和3)陸運監督権を加え、翌年満鉄の監督権を拓務省に移管した。30年には省営自動車の営業を開始、第二次世界大戦期にかけて陸上交通全般についての管轄官庁となった。この間何回か組織は変更されたが、太平洋戦争下の43年11月1日運輸通信省の設置に伴い廃止、業務は同省の鉄道総局その他に引き継がれた。
[原田勝正]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
明治時代
1869
明治 2 年 11 月 10 日 鉄道建設の廟議決定(東京・京都の幹線と東京・横浜、京都・神戸、琵琶湖畔・ 敦賀の三支線)…我が国初の鉄道計画(太陽暦 12/12)
1870
明治 3 年 3 月 19 日 民部大蔵省に鉄道掛を設置(太陽暦 4/19)
明治 3 年 3 月 25 日 傭英国人建設技師エドモント・モレルらが、東京汐留から測量を開始(太陽暦 4/25)
1871
明治 4 年 8 月 14 日 工部省に鉄道寮を設置(太陽暦 9/28)
1872
明治 5 年 2 月 28 日 鉄道略則公布(太陽暦 4/5)
明治 5 年 5 月 7 日 品川・横浜間仮開業(太陽暦 6/12)
明治 5 年 6 月 13 日 鉄道による郵便物輸送開始(太陽暦 7/18)
明治 5 年 5 月 鉄道犯罪罰則公布
明治 5 年 9 月 12 日 新橋・横浜間(29 ㎞)の鉄道開業式(我が国初の鉄道開通)(太陽暦 10/14)
◎参考:『足尾鉱毒事件』コトバンク
足尾鉱毒事件
明治時代、国内有数の銅山だった栃木県の足尾銅山から重金属を含む排水が渡良瀬川に流れ込み、魚の大量死や農作物への被害のほか、製錬所から排出される亜硫酸ガスで森林が枯れる煙害を招いた。周辺の住民らが抗議活動を展開、田中正造は鉱毒事件を国会で取り上げ、明治天皇に直訴しようとした。銅山は1973年に閉山、煙害で枯れた森林では植林が進められている。
更新日:2015年5月9日
出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説
◎参考動画:『NPO法人 足尾鉱毒事件田中正造記念館(群馬県館林市)の紹介ビデオ』NPO法人 足尾鉱毒事件田中正造記念館(youtube) https://youtu.be/DhjEvRFmtxU?si=_xI8kuxUer3t9LrA
本記念館は群馬県館林市大手町にあり、公害の原点ともいわれる「足尾鉱毒事件」とその解決のため戦った功労者「田中正造」について調査研究し、その史実を後世につたえる活動を行っております。「足尾鉱毒事件を、田中正造を知りたい」と思う人たちが気軽に集える学舎(まなびや)です。
入館料は無料。火・木・土・日のみ開館。10:00~16:00 館林駅から徒歩15分
公式ホームページ:http://www.npo-tanakashozo.com
◎参考『足尾鉱毒事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%B0%BE%E9%89%B1%E6%AF%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6
足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本初の公害事件である。
足尾銅山の精錬所から出た排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり、国に問題提起するものの、加害者決定はされなかった。
1972年(昭和47年)3月31日、板橋明治を筆頭代理人とした群馬県太田市毛里田地区(旧・山田郡毛里田村)の被害農民(太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会)971名が、古河鉱業株式会社(現:古河機械金属株式会社)を相手とし、総理府中央公害審査委員会(後の総理府公害等調整委員会)に提訴。2年後の1974年(昭和49年)5月11日、調停(銅等の重金属汚染・土地改良事業・損害補償・自治体との公害防止協定など)を成立させた。「100年公害」と言われたこの事件の加害者をついに古河鉱業と断定、加害責任を認めさせるという歴史的な日となった。
足尾の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。
経緯
鉱毒公害の発生
鉱毒ガスやそれによる酸性雨により、日光市足尾町(旧・上都賀郡足尾町)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は、次々と崩れていったが、この崩壊は21世紀となった現在も続いている。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともにカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。
鉱毒による被害はまず、1878年と1885年に、渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れた。ただし、当時は原因が分かっておらず、これを8月12日に最初に報じた朝野新聞も、足尾銅山が原因かもしれないというような、曖昧な書き方をしている。1885年10月31日、下野新聞が前年ごろから足尾の木が枯れ始めていることを報じ、これら2つが足尾銅山と公害を結びつける最初期の報道と考えられる。なお、古河鉱業は1884年、精銅の輸出拡大等のために本所 (墨田区)に溶鉱炉を建設した。
被害の拡大
田中正造
次に、渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。これに怒った農民らが数度にわたり蜂起した。田中正造はこのときの農民運動の中心人物として有名である。なお、この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。田畑への被害は、特に1890年8月と1896年7月21日、8月17日、9月9日の4度の大洪水で顕著となった。
1897年3月3日、鉱毒被害地の人民2000人余は、徒歩で東京に出発、館林・佐野・古河などで警官に阻止され、この日800人は東京日比谷に結集、農商務省をかこみ鉱業停止を強力に請願した。5月27日、東京鉱山監督署は、鉱業主古河市兵衛に鉱毒排除命令を出した。
1892年の古在由直らによる流域の土壌分析調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸。
1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。この他、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村となった。
対策の節で述べる工事が1897年から1927年にかけて行われると、表だった鉱毒被害は減少した。しかし、渡良瀬川に流れる鉱毒がなくなったわけではなかった。他の地域と異なり、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現・太田市毛里田)とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加したと言われる。1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止された。古河鉱業はカドミウム被害は認めていない(後の調停において間接的に重金属汚染を認めている)が、群馬県はこれを断定した。
閉山
1973年(昭和48年)までに足尾の銅は掘りつくされ円の変動相場制への移行もあって閉山、公害は減少した。ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。1989年(平成元年)にJR足尾線で貨物列車が廃止になると、原料鉱石の搬入量が減少し、鉱毒はさらに減少したとされる。
しかし、どの時代も科学的な分析がほとんどされていないため、公害の内容はあまり明らかにはなっていない。
明確に分かっている鉱毒の量は、1972年(昭和47年)度、環境庁が足尾町に設置した測定局における二酸化硫黄(亜硫酸ガス)濃度であるが、これは旧環境基準に適合していなかった。足尾町内1局の測定局のうち、1局が不適合で、都市内全測定局の値が不適合となったのは、測定局のある都市の中では、この年度、足尾町のみである(ただし当時の環境白書は、鉱毒被害とは明示していない)。1981年(昭和56年)9月7日に足尾町の中才浄水場から排出された排水から、基準値の2倍、協定値の3倍の銅が検出されたというものがある。このほか、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会などが独自に測定した値などがある。
2011年(平成23年)3月11日、1958年(昭和33年5月30日)に決壊した源五郎沢堆積場が再び決壊。鉱毒汚染物質が再度渡良瀬川に流下した。同日発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が原因と思われるが、詳細は不明である。この際は、下流の農業用水取水地点において、基準値を超える鉛が検出された。また、堆積場と渡良瀬川の間にあるわたらせ渓谷鐵道の線路が破損。同鉄道は運休を余儀なくされた。
1899年(明治32年)の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒によるカドミウム中毒で死者・死産は推計で1064人。これは、鉱毒被害地の死者数から出生数を単純に減じたものである。松本隆海は、すべてが鉱毒が原因だとはいえないかもしれないが、当時の日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、この地域で死者数のほうが多いのは、鉱毒に関連があるとしている(実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本はこれらも鉱毒による死者とすべきだとしている)。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。 / 鉱毒激甚地であった当時の安蘇郡植野村字船津川地区(現・佐野市船津川町)の死産率は明らかに全国平均を超えていることも鉱毒事務所は指摘している。松本隆海は、『足尾鉱毒惨状画報』(1901年(明治34年))で、安蘇郡界村字高山(現・佐野市高山町、当時の人口約800人)で、5年間で兵役合格者がわずか2名しか出ておらず(適齢者は延べ50名)、しかも、その合格者のうち1名も入隊後10日で病気で除隊となったという逸話を紹介している。田口掬汀は、海老瀬村の鉱毒被害者向けの診療所の医師に聞いた話として、忙しくて統計はとっていないが、ひと月に2300名を越える患者を診断し、うち半数が眼病であったが、これは地質が及ぼす結果だろうとこの医師は推測していることを佐藤儀助編『亡国の縮図』(1902年)で紹介している。また、元谷中村村民の島田宗三は、自身の父と祖父は、鉱毒水を飲んで胃を冒されて死亡した、と主張している。
政府の鉱毒対策
1891年からたびたび田中正造が国会で質問したにもかかわらず、政府は積極的には鉱毒対策を行わなかった。この時代は、1891年刊行の吾妻村(現・佐野市)民らによる鉱毒の記録集『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸事情』を発刊直後に発売禁止にするなど、言論封殺が主な対策であった。
第一次
1897年、鉱毒被害地の農民が大挙して東京に陳情(当時の表現では押出し)を行うなど、世論が高まると、同年3月、政府は足尾銅山鉱毒調査委員会を設置し、数度の鉱毒予防令を出した。特に大規模なものは1897年5月の第3回の予防令で、古河側に、排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置、煙突への脱硫装置の設置を命令した。これらはどれもが数十日の期限付きで、一つでも遅れた場合には閉山するというものだった。古河側は当時珍しかった電灯などを活用し、24時間体制で工事を行った結果、すべての工事が期限内に間に合った。
しかし、これらの措置は、満足に役には立たなかった。政府は長年、この予防令による工事と、後述する渡良瀬川の改修工事(1927年竣工)で鉱毒問題は解決したとしてきたが、1993年、『環境白書』で、当時の対策が不十分で、根本的な解決とはならなかったことを認めた。
具体的には、濾過池・沈殿池は翌1898年には決壊し、再び下流に鉱毒が流れ出した。煙突の脱硫装置も、当時の技術レベルでは機能せず、効果は無いに等しかった。堆積場からの鉱石くずの流出は、既に1902年の第二次鉱毒調査委員会で指摘されている(しかし、第二次鉱毒調査委員会は特にそれを問題視することはなかった)。
被害民の一部は、鉱毒予防工事の効果はないものとみなして再び反対運動に立ち上がり、3回目(1898年9月)と4回目(1900年2月)の大挙上京請願行動(押出し)を決行した。4回目の押出しでは、農民側と警察側が衝突して大勢の逮捕者が出た(川俣事件)。しかし、実はその翌年(1901年)の秋には、工事の効果が現れはじめ、新聞も農地がかなり回復していると報道した。たとえば、10月6日付の『東京朝日』には、「激甚被害地を除く他は極めて豊作」と出ている。ただし、これらの報道については、当時のマスコミのみの取材能力では、渡良瀬川沿岸全域を調査したとは考えられず、一部地域のみの情報を元にしたものであるという指摘がされている。
第一次鉱毒調査委員会はこれ以外に、鉱毒被害民に対し免租を行った。これは農民の要求を受け入れたものだが、この措置のおかげで選挙権を失うものが続出、誰も立候補できずに村長が選べない村も出るという弊害も生まれた(当時は一定額の直接税を納めないと選挙権が得られなかった)。
第二次
明治34年(1901年)12月10日、日比谷において田中正造が明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行ったが、警備の警官に取り押さえられて失敗。しかし、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、訴状の内容は広く知れ渡った。田中の直訴後、学生が相次いで団体で足尾見学に向かうなど、世論の盛り上がりにあわてた政府は、1902年3月、勅令により鉱毒調査委員会を設置して再度調査を開始した。同委員会は1903年に、1897年の予防令後は鉱毒は減少したと結論づけ、洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な「遊水池」を作るべきとする報告書を提出した。しかし、第二次鉱毒調査委員会は、前述のとおり、予防令による工事で鉱毒は減少したとは結論づけたが、鉱毒が消滅したという調査結果はない。衆議院議員田川大吉郎は同年、自著に「足尾銅山に関する調査報告書」を添付して訴えた。
同調査会の結論は「作物に被害を与える銅分は、予防工事前の残留分で現業によるものは少ないとして古河鉱業の責任を解除した」(由井正臣『田中正造』)ものだったが、実際、1903年10月には「被害地の稲は豊作」になり、田中正造も「被害地豊作の実況」と題する演説をして歩いた(『田中正造全集・別巻』477頁)。
この演説で正造は、「豊作の原因は断じて工事の効果ではない。去年の大洪水による山崩れで、新しい土が被害農地にかぶさったためだ」と抗弁した。この説は2006年現在、国土交通省も支持している。
しかし、群馬県山田郡側の鉱毒被害は、この時代、逆に増加したといわれる。理由は不明だが、大正時代、製錬方法が浮遊選鉱法に変更されたことにより渡良瀬川を流れる鉱石くずの粒が細かくなり、浮遊したまま川を流れるようになったため、上流部の渡良瀬川右岸に多く流れ込んで堆積するようになったと考える研究者がいる。群馬県側の鉱毒被害および鉱毒反対運動については後述する。この時代、鉱毒が減ったような報道が多くされたのは、鉱毒発生当初は山田郡は鉱毒激甚地とはみなされていなかったため、マスコミが取材に訪れなかったためだと考える研究者がいる。
第二次鉱毒調査会の報告書を受け、栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県の境に、鉱毒沈殿用の渡良瀬遊水地が作られた。当初、埼玉県側に作られる予定であったが、激しい反対のために栃木県側に予定が変更された。この土地は元々、農業を主な産業としていた栃木県下都賀郡谷中村であった。
谷中村には田中正造が住み、公害運動の拠点となっていたことから、運動をつぶすための決定だといわれた。谷中村はこれに激しく抵抗し、隣の藤岡町との合併案を否決した。谷中村は1906年に強制廃村となり、藤岡町に合併された。また、渡良瀬川の河川工事もこの時代に行われた。
鉱業に関する法規は当時もあったが行政による諮問は行われておらず、煙害・鉱水問題は民事(亊)拾裁判となることもあった。1907年(明治40年)11月27日、東京三井集会所において鉱物学者和田維四郎を会長として鉱山懇話会が創始された。
1910年から1927年にかけ、谷中村を遊水地にし、渡良瀬川の流れの向きを変えるなど、大規模な河川工事が行われ、洪水は減少した。しかし、足尾の山から流出する土砂が下流で堆積するのは止まらなかった。また、下流地域での鉱毒被害が減っただけで、新たな鉱毒の流出が消滅したわけではなかった。政府が当時のこれらの対策が不十分であることを認めたのは、前述したとおり1993年であった。
戦後
1947年のカスリーン台風以降、政府は渡良瀬川全域に堤防を作った。この堤防工事は20年ほどかかった。堤防の竣工以後、渡良瀬川では大規模な洪水はない。
土砂の流出を防ぐため、1960年、足尾町に防砂ダムの足尾ダム(通称、三沢合流ダム)が作られた。容積500万立方メートルで、利根川水系の砂防堰堤としては最大、また日本でも最大級の砂防ダムとされる。
また、渡良瀬川の治水と首都圏への水道供給を主目的にした多目的ダム、草木ダムが、水資源開発公団(現・水資源機構)により渡良瀬川上流の群馬県勢多郡東村に建設された(1977年竣工)。このダムは鉱毒対策を目的の中に入れていなかったが、参議院議員近藤英一郎が、商工委員会で質問を行った結果、このダムについては「水質保全に特に留意」することとされた経緯がある。鉱毒を下流に流さないようにするための半円筒形多段ローラーも採用された。このダムは常時水質検査が行われ、結果が随時公表されているが、そのような多目的ダムは日本にはほとんど存在しない。竣工が銅山の閉山後だったこともあり、水質検査では異常な値はあまり検出されていない。
1976年7月30日、群馬県、栃木県、桐生市、太田市と古河鉱業の間で公害防止協定が締結された。ただし、後述する毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会はこの協定への参加を拒否された。この協定に基づき、水質検査などが行われている。鉱毒被害地の農地の土地改良も、公害防止協定締結後に行われた。
なお、協定に基づく水質検査の結果、降雨時の堆積場からの水質が環境基準を超えていることがあることを、群馬県が2005年に指摘している。
鉱毒反対運動
明治期
鉱毒反対運動は、現在の栃木県佐野市と栃木市藤岡町で盛んであった。最初の運動は、1890年、栃木県足利郡吾妻村(現在の佐野市吾妻地区)会が足尾鉱山の操業停止を求める決議を採択した。
佐野出身の衆議院議員田中正造は1891年以降、たびたび国会で鉱毒の質問を行い、鉱毒の害は全国に知れ渡った。栃木県は鉱毒仲裁会をつくり、古河側が、1893年頃に農民に示談金を払い、1896年6月末までに対策を行って鉱毒をなくすという内容で示談を行わせた。これに対し、田中正造はこの示談を行わないよう運動を行った。しかし、1896年の大洪水でさらに鉱毒が拡大し、対策がなされていないことが判明すると、農民側は示談契約書を根拠に再度交渉を行った。このとき、古河側が農民に若干の示談金を与えるかわりに、それ以前、以後の鉱毒被害の請求権を放棄するという内容の永久示談に切り替えた。このため、この後には鉱毒問題はないという主張もされる。しかし、示談金の受け取りを拒否した農民もおり、鉱毒反対運動はこの後も続いた。
森長英三郎によれば、1893年の時限付き示談の内容は、古河市兵衛が農民8,414人の被害地4,360町96畝06歩に対し76,602円96銭9厘を支払うというもので、1896年の永久示談は農民5,127人の被害地2,207町43畝14歩に対し30,119円23銭2厘を払うというものであった。森長の概算によれば、1893年の示談の平均は1反(10a)あたり1円75銭、1896年の示談の平均は1反あたり1円54銭である。
反対運動が最も盛んになったのは、1896年の洪水以降で、田中正造の主導の元、10月4日、群馬県邑楽郡渡瀬村(現在の館林市下早川田町)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県の鉱毒事務所が作られた。ここは、被害農民の集結所となった。この後、東京への陳情に出かける農民と警官隊との衝突も起きた。このような陳情には当時名がついておらず、農民らは「押出し」と呼んだ。布川了によれば、大規模な押出しは明治期に6回行われている(1897年3月2日、1897年3月24日、1898年9月26日、1900年2月13日、1902年2月19日、1902年3月2日)。第3回押出しで、与党議員であった田中は農民等を説得して大部分を帰郷させたが、直後に政権が崩壊。田中は第4回押出しを行うための機関、鉱毒議会を現地栃木・群馬県で組織させた。押出しについては川俣事件も参照のこと。
1896年には群馬県議会が足尾銅山の操業停止を求める議決(『鉱毒ノ儀ニ付建議』)を行った。一方、栃木県議会は1890年に足尾銅山の調査を求める議決を行っていたが、鉱毒被害地と足尾銅山双方の地元であるという事情から議会が紛糾し、1896年には鉱毒に関する議決は行わなかった。
栃木県谷中村の強制廃村
当時、日清戦争・日露戦争のさなかであった政府としては、鉱山の操業を止めることはできず、反対運動を食い止めるため、政府は運動の盛んだった谷中村の廃村を決し、1907年強制破壊が行われる。その後、村民は主に隣の藤岡町や群馬県板倉町にあたる地域、下都賀郡の他の町村、古河町(現在の古河市)、那須郡、北海道常呂郡佐呂間町に移住した。また、元谷中村民以外も一緒に移住したが、実質的には元谷中村民救済の意味が強かった。なお、佐呂間町にある「栃木」という地名は、この移住の際につけられたものである。移住を拒否し、破壊された谷中村の自宅跡に住み続けた元村民もいる。ただし、1917年には全員が村を退去した。
鉱毒反対運動は、谷中村の廃村や、渡良瀬川の大工事による洪水の減少などにより次第に弱まり、特に1902年以降、足利郡、梁田郡、安蘇郡、下都賀郡、邑楽郡の鉱毒被害地が豊作になると弱体化した。さらに運動の中心人物であった田中正造が1913年に没するとほぼ消滅した。しかし、群馬県山田郡の鉱毒被害は止まず、この地区ではこの後も鉱毒反対運動が続いた。
栃木県足尾町での運動
煙害に困った足尾町赤倉地区の住民が1920年に煙害問題安定期成会を結成。古河鉱業と直接交渉を行った。しかし、土地柄、銅山との商取引で生計を立てている者が多く、運動は盛り上がらなかった。最終的に、銅山に全く依存していない数軒のみが賠償を受けることに成功したが、逆に町内の分断を招いた。
大正期・昭和期・平成期
渡良瀬川から農業用水を取水していた中流右岸の待矢場両堰普通水利組合(現在の待矢場両堰土地改良区。主に群馬県山田郡、邑楽郡の町村に用水を供給していた)と三栗谷用水普通水利組合(現在の三栗谷用水土地改良区、主に足利郡右岸に用水を供給)は、古河側と永久示談を行わず、期限つきの示談交渉を数度にわたり延長する方式をとっていた。しかし、1902年、1904年に古河側は状況が変わったとして示談延長を停止。両組合は、賠償請求額を算出するために、それぞれ独自にたびたび足尾の現地視察などを行った。
1910年(大正8年)、古河の巨頭となる井上公二が足尾鉱業所長となった。1917年、待矢場両堰普通水利組合は、渡良瀬川には鉱毒はなくなっていないとする意見書を群馬県知事に提出した。
1924年には干ばつがあり、これは、水源地の足尾の山林が荒廃して保水能力を失ったためだと考えた両組合は、それぞれ別個に活動を行い、1925年には群馬県側の農民ら数千人の署名が集められ、貴族院、衆議院、内務大臣、農務大臣宛てに請願書が提出される。この内容は主に、鉱害による損害賠償請求が行えるようにして欲しいというものだった(当時は原告に立証責任があったため、裁判で勝つ見込みがなかった)。この要望は1939年に実現した。
一方、三栗谷用水は、鉱業取り締まりや鉱業法改正の嘆願書を内務・農林・商工大臣宛に提出。この嘆願書は1926年から1933年までほぼ毎年提出された。なお、この時代、両水利組合が共同で行った運動も若干ある。
1936年に三栗谷用水は古河鉱業から事業資金の一部8万5千円を提供させ、取水口の改良工事を行い、それまでの渡良瀬川からの直接取水から、伏流水を主に取水する方式に変更した。この際、古河側は永久示談を要求。今後一切現金提供を求めないという条文が契約書に盛り込まれたが、工事は1950年の第4次工事まで続き、最終的に古河側は総工費3200万円の4%にあたる119万円を負担した。第4次工事で、用水本流上に中川鉱毒沈砂池(1948年竣工)が設けられ、下流部の鉱毒被害は激減した。しかし、最新の鉱毒防止装置の維持費は、その後も用水利用料増加という形で農民の負担となった。なお、事業そのものは1967年竣工の第5次まで続いたが、第5次工事には古河は金銭を負担していない。
1938年、1939年には渡良瀬川で大洪水があり、鉱毒が再度農地に流れ込んだ。同年、渡良瀬川改修群馬期成同盟会が結成され、内務省に対して渡良瀬川の河川改修や水源地の涵養などを求める陳情が行われた。陳情は1940年までに22回行われた。1940年、政府はこの事業に予算をつけるが、第二次世界大戦のため、あまり大規模な改修は行われなかったらしいという推測もある。政府が渡良瀬川の大改修を行うのは戦後であった。
これ以降の時代は、国策である銅の増産に協力しない者は非国民であるという主張がされるようになり、鉱毒反対運動は一時下火になった。
1945年、終戦となり、言論・集会への弾圧が行われなくなると、翌1946年、群馬県東部の渡良瀬川流域の農民が集まり、足尾銅山精錬所移転期成同盟会が結成された。この会はすぐに鉱害根絶同盟会と名称を変更し、古河鉱業と直接交渉を行った。周辺市町村は渡良瀬川改修群馬期成同盟会を沿岸鉱毒対策委員会と名称変更して鉱毒反対運動を続け、1953年、鉱害根絶同盟会は官製の対策委員会に吸収される形でいったん消滅した。対策委員会は古河鉱業から土地改良資金の20分の1(800万円)を受け取り解散した。800万円は、待矢場両堰土地改良区(水利組合が名称を変更したもの)の口座に入金された。
これらの資金を基に、待矢場両堰も三栗谷用水と同様、伏流水を取水するための工事を行ったが、用水の規模が違いすぎ、伏流水のみでは必要量を確保できなかった。待矢場両堰はその後も渡良瀬川からの直接取水を続けた。
群馬県毛里田村での活動
しかし、1958年5月30日、足尾町オットセイ岩付近にある源五郎沢堆積場が崩壊。崩れた鉱石くずが渡良瀬川を流れ、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現在の太田市毛里田)の田畑に流れ込んだ。この後この地で再び鉱毒反対運動が盛んになる。
6月11日には毛里田村の農民らが足尾を訪れるが、古河側は自身に責任はないという主張を繰り返した。しかし、国鉄には、鉱石くずの流出で線路が流れたことに対して補償金を払っていたことが直後に判明。住民らが激怒し、7月10日、毛里田村期成同盟会(のちの毛里田地区期成同盟会)が結成され、これを受け、さらに8月2日、群馬県桐生市、太田市、館林市、新田郡、山田郡、邑楽郡の農民が中心となって群馬県東毛三市三郡渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会が再度結成される。古河側は150万円の見舞金を提示したが、毛里田村民側は賠償金の一部としてでなければ受け取れないと拒否。また、この交渉過程で、1953年に土地改良資金を提供したときに、永久示談を行ったと古河側は主張。当時の契約書も提示された。この契約書に関しては、1966年、参議院商工委員会で鈴木一弘委員(当時)が有効性があるのかと問いただしたところ、農林省、通産省の担当者は、それぞれ、契約書に署名した水利組合理事長に独断でそのような契約を結ぶ権限があったか疑わしく、また、契約後も鉱毒被害が発生していることから、永久示談の成立には否定的な答弁を行っている。
この時期の鉱毒反対運動は、最大の被害地、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会(のちの太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会)が活動の中心となった。この後、バスを使った押出しが行われた。明治期のものと区別するため、昭和期のものは昭和の押出しと呼ばれる。同年設置された政府の水質審議会指定河川から渡良瀬川が除外されたことも運動を大きくする原因になった。
1962年、水質審議会に渡良瀬川専門部会を設け、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会会長の恩田正一が会長を辞職すれば審議会委員に加えてよい、という内容の政治的な妥協がはかられた が、当初、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会は同盟会の運動の分断を図ろうとするものだとして激しく抵抗した。また、そのような主張が認められるなら、同じく委員になっている古河鉱業の社長もその職を辞すべきだという主張もあった。しかし、恩田はこれを受け入れ、会長を辞職した上で水質審議委員となった。しかし、委員となった恩田の意見はほとんど無視された。
恩田の後、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会長には板橋明治がなる。1964年10月5日、再び押出しが行われた。水質基準は経済企画庁の提案による銅0.06ppmという値で、1968年に決定された。太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会(1963年に毛里田村が太田市に合併されたことにより毛里田村鉱毒根絶期成同盟会が名称変更したもの)は、0.02ppm(農林省灌漑用水指標)を主張したがこれは受け入れられなかった。
この間、1966年9月ごろ、足尾町の天狗沢堆積場が決壊。再度、鉱毒が下流に流れた。しかし、古河側はこの事実を公表しなかった。期成同盟会の住民は、群馬県からの連絡でこの事実を知った。
1971年に毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され、直後、農民らは80年分の賠償金120億円を古河鉱業に請求した。1972年、群馬県は、米の汚染は足尾銅山の鉱毒が原因と断定(土壌中の銅とカドミウムの相関関係、流域分布、他に発生源がない)し、カドミウム汚染田39.45haを汚染田指定した。群馬県はそれに伴い健康被害調査を実施。渡良瀬川水系流域外で非汚染米を食す地域と比較検討されたが健康被害の発生はないと発表した。
1972年3月31日、板橋明治を筆頭代理人とする農民971人(3.31,110名、被害額4億7千万円)が古河鉱業に過去20年分の農業被害賠償額39億円の支払いを求め総理府中央公害審査会に調停を申請した。4月3日、県は毛里田地区の土壌汚染についても足尾銅山の鉱毒が原因と断定。1974年3月18日群馬県は、土壌防止法汚染防止法に指定指定された銅について水口加重平均により測定された377.81ha(桐生市、太田市、カドミ重複を含む)を土壌汚染対策地域農用地として指定した(のちに追加指定2.98ha)。
1974年5月11日、総理府中央公害審査会から事件の処理を引継いだ公害等調整委員会において調停が成立し9項目からなる調停調書に双方が署名押印した。古河鉱業はこれによって15億5000万円の補償金を支払った。これは、古河側が鉱毒事件で責任を認めて補償金を支払った最初の出来事である。
古河鉱業側は、銅の被害のみを認め、カドミウムについては認めなかった。農民側も、調停申請にはあえてカドミウム問題は提示せず(銅、カドミウム、ひ素等の重金属複合汚染。調停文書上は重金属と表されている)に、農業被害の早期解決を目指した。このときの調停の内容に含まれていた土地改良は、1981年に始まり1999年に完了した。渡良瀬川沿岸土地改良区理事長には板橋明治がなる。公害防除特別土地改良事業(災害普及事業と同列に扱われるが現状回復でなく区画整理工法)は総事業費は53億3000万円。加害原因者の古河鉱業の負担率は51%は銅山が発見された江戸時代からの銅の資産量に既定割合をかけたものをもちいて群馬県公害対策審議会が決定した。残りの大部分は国と群馬県が負担した(ごく一部を桐生市と太田市が負担)。
調停の成果は大きなものとなった。加害企業決定、過去の農作物被害補償金、土地改良に及んだこと、加害者責任として古河鉱業が負担した実質額は調停請求39億円を上回ることになる。
調停第6項に基づく汚染農地対策事業には、被害農民の金銭負担は一切無く、また被害農民が受取る補償金を非課税(賠償金と保証金の差)とさせたことは特筆すべき点である。
毛里田地区の鉱毒反対運動は、どこからも主だった支援を受けず、農民の手弁当による活動であるところが他の同種の運動と大きく異なる。ただし、支援の申し出がなかったわけではなく、被害民の苦悩は被害民でなければわからないという理由で、板橋明治は独学で学び弁護士に依頼せずリーダーとして闘った。
毛里田地区の調停成立により、1974年11月18日、群馬県桐生市で桐生地区鉱毒対策委員会が設立され、農民444人が古河鉱業に対し交渉をもった。1975年11月18日和解が成立し、古河鉱業は銅などによる鉱毒被害を認め、2億3500万円を支払った。
1974年10月25日、太田市韮川地区鉱毒根絶期成同盟会の農民546人が、13億円の賠償を古河鉱業に請求。1976年12月1日、和解が成立し、古河鉱業は1億1千万円を支払った。
毛里田地区で申請漏れになっていた住民34名が、前回調停の継続として1977年12月、390万円で和解が成立した。
1994年10月11日、渡良瀬川鉱毒根絶毛里田期成同盟会(太田市毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会の改称)と、韮川地区鉱毒根絶期成同盟会が合併。渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会(会長:板橋明治)となった。
1999年、(平成11年)5月 渡良瀬川沿岸土地改良区による公害防除特別土地改良事業竣工記念碑建立(撰文及び揮毫は板橋明治) (碑文末) 渡良瀬川に鉱毒流れて 父祖五代 苦悩の汚染田 いま 改良成る
2000年、2003年、2004年に、群馬県は農用地土壌汚染対策指定地域を追加指定。これまでに指定され、まだ解除されていない農地も含め、2005年現在の対策指定地域は53.74haである。2000年以降の追加指定地は、大部分が1970年代の調査が法律に基づき2.5haに1カ所であり筆ごとの調査ではないことから同盟会の独自調査により洩れを指摘していた地域である。
1976年7月30日 調停条項第7項(略・申請人の希望をしんしゃくし群馬県、太田市と公害防止協定の締結につとめること)に基づき公害防止協定が締結される。この協定は、古河鉱業、群馬県、栃木県の三者協定と、古河鉱業と群馬県、太田市、桐生市の四者協定とで構成されていることから、同盟会は協定に参加できるものと考えていたため、参加できない公害防止協定の締結に反対の運動を行ったが、太田市と鉱害防止運動の保証と協力を定めた覚書の締結によって沈静化した。2年後の6月15日に協定の運用(基準値、平常時調査、降雨時調査、公害防止事業の予定と報告等)を定めた細目協定を締結。更に運用の覚書などから公害防止協定は構成されており、これまでに数度にわたって更新がなされている。
2004年、桐生市議会は、足尾町の中才浄水場に自動取水機の設置を求める要望書を採択した。2014年には1974年に県内の若手公務員や宇都宮大学生ら約30人により製作が開始された記録映画『鉱毒悲歌』が完成している。この映画は資金不足を理由に編集作業が立ち消えとなっていたが、元参院議員の谷博之が新規に制作委員を立ち上げて制作を完了させた。事件の被害者の貴重な証言なども収められている。
2015年5月27日 太田市は学習文化センター内に足尾鉱毒資料展示室を開設した。内容は鉱毒関係年表、調停時の資料の一部、被害地写真、丸木夫妻の鉱毒の図の一部等と非定期的に映画「鉱毒」のダイジェスト版を放映している。銅汚染農地被害地は公害防除特別土地改良事業によって、そのすべてが復旧している。しかし、カドミウム汚染農地が解除されず現存するのは、土地改良事業後に水稲の作付けが行われておらず収穫した玄米中のカドミウム測定ができないため安全確認がとれていないことによる。1981年の土地改良を実施した際の目標とした土壌中の銅濃度は渡良瀬川の当時の銅濃度0.034ppmを20年間灌漑用水使用した場合に再工事が必要となるものであったが、2015年現在の渡良瀬川の灌漑期の平均銅濃度は0.01ppm未満で推移している。なお、その土地改良が終わった圃場に一部ではあるが大規模工業団地が造成されようとしている。
植林・治山事業
荒廃した足尾地区の森林を復元するため、1897年、当時の農商務省により足尾に植林が命じられ、以後、現在(2006年)に至るまで治山事業が続けられている。ただし、明治期と昭和初期には植林が行われなかった時代がそれぞれ数年ずつあった。
治山事業に要した費用(荒廃地復旧経費)は、前橋営林署(現在の関東森林管理局群馬森林管理署)によれば、
1897年 - 1899年:31,111円
1906年 - 1913年:405,917円
1914年 - 1926年:99,590円
1927年 - 1940年:163,484円
1947年 - 1975年:1,659,574,000円
である(1976年以降も植林事業は行われている)。前橋営林署の治山事業は、国有林を対象に行われている。このほか、栃木県が1958年ごろから別に民有地に治山事業を行っている。栃木県が植林している民有地は、ほとんどが古河機械金属の所有地である。税金を投じて私有地への大規模な植林を行うことに批判もある。
1988年に前橋営林署が足尾地区の治山事業に使用した金額は、2億9400万円であり、栃木県は5億8500万円を投じた。
1999年に建設省が足尾地区の治山事業に投じた金額は、20億3000万円であり、栃木県は8億円、林野庁は2億5000万円を投じた。
このほか、古河鉱業は1960年に国有林復旧への協力金として政府に約360万円を支払った。これは1957年 - 1960年分として支払われ、これ以前の分については時効だという解釈がされた。
植林、治山による鉱害防止効果は足尾山地に存在する微少の鉱脈の上に存在した土壌が煙害によって樹木が枯死し、雨水によって表土が流出し露頭化した降雨時の汚染を防ぐ意味では重要な役割をもっている。然しながら最も降雨時の汚染防止を担っているのは草木ダムであることもまた事実である。
古河側の主張
足尾鉱毒事件に関しては、主に被害者側の視点での記述が多いが、中立性を確保するため、古河側の主張も併記する。ただし、古河側が直接、鉱毒に関して言及している例は非常に少ない。古河側の直接的な文献で、鉱毒に関する言及が多い文書には、古河鉱業刊『創業100年史』(1976年)がある。なお、古河鉱業は鉱毒という語を用いず、「鉱害」という語を用いている。
これによれば、1740年に既に渡良瀬川沿岸で鉱毒による免租願いが出されていることが当時の文献から確認でき、鉱毒は古河の経営になる前から存在したと主張している。また、当時は圧力があって文献では残っていないが、1821年に鉱毒被害があった、という研究も紹介している。
古河側の主張によれば、(第1次)鉱毒調査会による鉱毒防止令による工事と、大正時代までに行われた渡良瀬川の治水工事により、鉱毒は「一応の解決をみた」(『創業100年史』より)と述べている。この時代、待矢場両堰普通水利組合などが鉱毒に言及していたことについては記述がない。
源五郎沢堆積場崩壊事故後の毛里田地区鉱毒根絶期成同盟会との交渉については(それ以前から鉱毒問題に関しては)、「つねに前向きの姿勢で対処してきた」(『創業100年史』より)と述べている。古河側が時効の成立を主張したことなどについては言及がある。1974年の調停で、鉱毒問題については「終止符が打たれた」(『創業100年史』より)と述べているが、古河鉱業がカドミウム汚染に関する責任を認めていないことについての言及はない(1976年に結ばれた公害防止協定への言及もないが、協定成立年とこの文献の発行年が同年であることから、編集に間に合わなかったという可能性もある)。
参考:『第1回衆議院議員総選挙』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99
第1回衆議院議員総選挙(だい1かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1890年(明治23年)7月1日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。
概要
1889年(明治22年)2月11日に公布された大日本帝国憲法及び衆議院議員選挙法に基づいて、日本で初めて行われた民選選挙である[注釈 2]。
自由民権運動、大同団結運動を経て分裂した旧自由党系の自由党、大同倶楽部、愛国公党の3党や立憲改進党、九州同志会などが選挙に臨んだ[1]。
選挙データ
内閣
第1次山縣有朋内閣(第3代)
内閣総理大臣:山縣有朋
投票日
1890年(明治23年)7月1日
改選数
300
1人区:214
2人区:43
選挙制度
小選挙区制(一部2人区制)
実施地域
45府県(北海道、沖縄県、小笠原諸島を除く[2])
投票方法
記名投票(選挙人は氏名と住所の記載、および、印鑑による押印が必要)、単記投票(2人区は連記投票)、1票制
選挙権
直接国税15円以上納税の25歳以上の日本国民男性
華族・軍人の当主は権利の適用除外とされた。
被選挙権
直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性
下記の者は権利の適用除外とされた。
皇族・華族の当主
軍人、裁判官、検査官、収税官、警察官、道府県郡役人、各選挙区の選挙管理担当役人、神官、僧侶、教師
精神障害者、身代限(破産者)、禁錮刑・賭博犯で満期または赦免後3年以内の者、選挙犯罪をし、公民権が停止されている者、刑事事件で逮捕・拘留された者
有権者数
450,872(全人口39,933,478人の約1.13%)[注釈 3]
人口対有権者比が最大の府県:滋賀県【人口: 671,788、有権者数:15,456(人口比 2.30%)】
人口対有権者比が最小の府県:東京府【人口:1,628,551、有権者数:5,715(人口比 0.35%)】
有権者数が最大の府県:兵庫県
有権者数が最小の府県:北海道・沖縄県(有権者数:0)
選挙活動
立候補者数:1,243
納税資格に満たない者も、資産家の養子になったり、資産家から推されて財産名義の書き換えをしてもらったりして資格を作ることができた。
参考:『第2回衆議院議員総選挙』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99
第2回衆議院議員総選挙(だい2かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1892年(明治25年)2月15日に日本で行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。
概要
前史
1890年(明治23年)11月29日に第1回帝国議会が召集された。藩閥による政府(第1次山縣内閣)と「民力休養」を掲げる民党が対立を続けたものの、双方とも相手の出方を窺ったこと、政府が内外に対する面目から議会開設早々の衆議院解散を望まず、かつ民党のうち自由党土佐派を一時切り崩したことから、政府はかろうじて閉会(1891年3月8日)まで持ちこたえた。
だが、次の第1次松方内閣で迎えた第2回議会(1891年11月26日開会)は、第1回議会のように衆議院解散を選択しえない状況ではなくなり、かつ民党も薩長出身の閣僚が過半数を切っていた松方内閣を弱体とみて政府批判を行った。12月20日の樺山資紀海相によるいわゆる「蛮勇演説」で一気に緊張感を増した衆議院に対して、松方内閣は25日に初めての衆議院解散に踏み切った。
選挙干渉
この選挙では内務省(品川弥二郎内相・白根専一次官)による選挙干渉によって死者まで出したことで知られているが、実際には複雑な経過を辿っている。
明治天皇は解散前から難航する議会運営に懸念を強めていた。12月26日に、徳大寺実則侍従長は伊藤博文に天皇が「同一の議員を再選致候而は幾度も解散不祥の結果を生すへくやと深御憂慮被遊」と、来る選挙で同じ議員が再選されると解散の連続になることを憂慮していると伝えた[1]。さらに28日、松方正義首相から品川弥二郎内相に宛てた手紙によると、天皇に改選の手続きを奏上した際に、天皇から「精々今般之選挙尽力相成、良結果に至り候様再三御沙汰拝承仕候」と、この選挙一回で尽力して良い結果を出すように言われたことを伝えた。良い結果とは「同一の議員」ではない新たな勢力が多数派となること、つまり立憲自由党・立憲改進党以外の議員が多数派となることであった。そして、選挙の見込みを品川から報告すると奏上したので、「近日中御参朝之上細事御奏上」することを指示した。それを受けた品川は、それまで2回3回の解散は望まないが覚悟していたが、態度を変え度々天皇に報告に行っている。天皇は品川からの報告だけでなく、知事から侍従を通じて詳細な状況報告を上げさせた。そして、松方首相自身も「大奮発」し、仮面を脱して「政府党」を活動させる意向をしめし[2]、極秘に側近の九鬼隆一帝室博物館館長を各地に派遣して独自の選挙工作を行わせ、また、吏党候補の擁立と支援を行った。
天皇の意向が示された後、松方と品川は相次いで府県知事に内諭を出して、中正の人物を当選させることを指示した。直後に松方・品川・白根に加えて平山成信内閣書記官長・小松原英太郎警保局長・大浦兼武警保局主事らによる選対本部が極秘に組織されて、政府系候補への選挙支援策が協議された。また、首相に対して金子堅太郎と佐藤暢から選挙対策案が献言され、内容として藩閥全体で対応すべきという金子案と内務省主導で行う佐藤案という特徴がある。これまで、実力行使を含めた選挙干渉を指示した命令類が発見されていないこと、逆に複数の知事から政府に対して民党進出を阻止するために警察力の行使を求める意見が寄せられていることから、選挙干渉の発案が内務省側なのか、府県知事側の突き上げなのかについては明らかではないといわれてきた。ただし、天皇の意向が首相・内相に伝わり、一回の選挙で良い結果を出すことを求められていることから、方法を問わず良い結果を出すことを政府の至上命題としたという説が成り立つ(系統的指令説)。
官民の衝突、死傷者、候補者逮捕未遂
2月12日には民党と吏党の対立が激化し、選挙の応援演説のため兵庫県神戸市三宮を訪れた板垣退助を拳銃で狙撃しようとする「明治25年板垣退助暗殺未遂事件」が起きている。
また、各地で民党候補及び支持者と警察との衝突が発生し、自由党が強い高知県で政府公式発表で死者10名・負傷者66名という流血の惨事が発生した他、全国で25名の死者を出した。
高知県 死者10名 負傷者66名 知事:調所広丈(薩摩藩出身)
佐賀県 死者8名 負傷者92名 知事:樺山資雄(薩摩藩出身)
福岡県 死者3名 負傷者65名 知事:安場保和(肥後藩出身)
千葉県 死者2名 負傷者40名 知事:藤島正健(肥後藩出身)
熊本県 死者2名 負傷者39名 知事:松平正直(越前藩出身)
大規模な死傷者が出た府県の知事には薩摩藩あるいは隣国でつながりが深い肥後藩出身者が多く、薩摩出身の松方首相を支持し、地元県会では民党議員と激しく対立していた。こうした地元の事情が実力行使を伴う干渉を引き起こす一因となった。ただし、知事の出身などの属性では説明がつかないという批判もある[7]。実際、高知県の調所広丈知事は「暴走」した知事として描かれてきたが、実際には「難治県」高知に手を焼き、何度も首相に任地替えを懇願していたし、佐賀県の樺山資雄知事も内閣交代後ではあるが、選挙干渉には批判的だったことを内相に伝えている。
高知と佐賀では死傷者が多く出ただけでなく、警察が林有造(高知2区)と松田正久(佐賀1区)という自由党有力議員に対して投票日以降も逮捕を狙った。二人とも難を逃れて無事であったが、これは投票日後の逮捕によって、当選した場合でも議会に出席できないことを狙ったものであり、第1議会で森時之助が不逮捕特権を適用されず一度も出席することなく辞職した前例を踏まえたものであった。しかも、佐賀では内務省の大浦兼武が、文部大臣大木喬任の意を受けて選挙工作に従事していた司法人脈の中村純九郎と古賀廉造を通して佐賀出身の高木秀臣東京控訴院検事長に松田拘引を働きかけた。結局、司法省が干渉に消極的で拘引は認められなかった。
開票不正
流血の事態が目につくが、高知と富山では開票所を管理する選挙長(知事任命の郡長)が不正な開票を行ったため当選訴訟が提起され、最終的に当選者が逆転した。高知2区(定員2名、2名連記投票)では自由党前議員片岡健吉(779票)と林有造(773票)が片岡直温(854票)と安岡雄吉(844票)に敗れた。しかし、選挙長が自由党支持者が投票したはずの票を読み上げなかったため、不審に思った者が投票現物と明細書の閲覧を求めた。明細書のみ閲覧が許された。投票現物の証拠保全の請求も行ったが、却下され、当選訴訟中に投票現物は紛失したと報告された。訴訟では1審・大阪控訴院判決は証拠不十分で敗訴したが、上告審・大審院判決は投票箱の錠が破損していたことを重く見て1審判決を破棄して名古屋控訴院に差し戻した。全有権者調査によって片岡(健)・林が片岡(直)・安岡を上回ったため勝訴し、最終審・大審院判決で確定した[11]。同様に富山4区では、改進党前議員島田孝之(1300票)が武部其文(1341票)に敗れたが、選挙長が島田票を大量に無効判定したため、当選訴訟となり、投票現物の確認により無効票のうち69票が島田票と認定され、勝訴した。2件とも選挙管理者によって選挙結果のねつ造がなされたのである。
干渉への反発
だが、こうした選挙干渉は閣内の反感を招いた。陸奥宗光農商務相は自由党幹部の星亨、高島鞆之助陸相は同じく同党幹部の新井章吾の後見人を自負して選挙干渉の資金をこれらの候補に渡して支援し、品川や白根らが抗議するとこれに反発した。内務省が1月5日に発行された自由党機関誌『党報』号外の内容を官吏侮辱罪に充てて総理である板垣退助を発行責任者として逮捕しようとした際には尾崎三良法制局長官・田中不二麿司法相が反発して断念に追い込まれた(板垣は伯爵であるため、司法大臣が天皇に奏上して許可を得ない限りは処分できなかった)。また、投票日間近の2月9日には、石川県の候補に関して板垣退助と大隈重信が連名で推薦広告を出したことに対して集会及政社法違反で関係者42名を取り調べた。その中には候補者も含まれており、13日から予審で呼び出され、選挙運動の機会を失った。例えば、東京2区の改進党肥塚龍は14日に召喚され、選挙は6票差で敗れた。これについても尾崎三良は田中司法大臣に中止を求めた。結局4月に証拠不十分で全員免訴となった。
選挙結果とその後の政局
選挙終了後、閣僚や白根専一ら内務省幹部は味方の勝利と喜んだ。これは内務省作成の候補者名簿から見て、当選者が「過激派」(民党)130人に対して「着実派」(吏党)168人となったためであった。しかし、着実派に数えた独立倶楽部は、陸奥宗光農商務大臣の指導の下、民党に近い議員11人と吏党に近い議員16人に分裂してしまった。民党所属議員でも穏健派を「着実派」に数えていたが、第3議会では民党に近い姿勢をとる議員が続出し、政府の多数派工作は失敗した。壮士による議員への暴行も発生し、また、買収工作の一端が稲垣示(富山3区)によって議場で暴露される事態にも発展した。
吏党は、本来は「親政府」というよりは「反民党」集団であり(実際に「吏党」という言葉を用いていたのは新聞や民党及びその支持者であり、政府や当事者たちは「温和派」という表現を主として用いていた)、その考えも国粋主義者からリベラルまで、あるいは超然主義者から政党主義者まで幅が広かった。伊藤博文はこうした温和派(吏党)勢力を総結集した新党を結成しようとしたが、政党そのものに不信感を持つ明治天皇や山縣有朋、政治の主導権を伊藤に奪われることを恐れた松方首相が反対し、元勲会議においても「松方内閣支持、伊藤新党反対」の合意を取り付けて伊藤を新党結成断念に追い込んだ(3月11日枢密院議長辞表撤回)。藩閥最大の実力者・伊藤の政治的孤立を招いた事で松方は政権運営に自信を深めたが、干渉の責任者とされた品川内相と伊藤側近とされた陸奥農商相が辞表を提出した。
貴族院は衆議院に先立って政府の選挙干渉を批判する決議を採択した。衆議院でも民党が、官吏が職権を乱用して選挙に干渉した責任を問う「選挙干渉ニ関スル上奏案」を提出(5月12日)するが、事態を予期していた政府は多数派工作を行い、143対146で辛くも否決される。しかし、2日後に提出された、文言を穏健にし、上奏ではない形に改めた「選挙干渉ニ関スル決議案」は、賛同者が増え、しかも予期していなかった政府は引き締めを図れず吏党議員の欠席が目立ち、154対111で通過してしまった。こうした事態を受けて品川の後任となった副島種臣は白根以下の内務省幹部や地方知事らの更迭を行って事態の打開を図ろうとするが、白根らによる「副島降ろし」が功を奏して6月8日には副島が辞任に追い込まれた。その後、松方首相が一時内相を兼務した後に河野敏鎌が後任内相となるが、河野は7月15日に松方首相に迫って白根更迭を強行し、20日には安場ら品川・白根を支持した知事も更迭した。これに対して薩摩藩出身の高島陸相・樺山海相は「薩摩閥の切捨て」と解釈して7月27日に明治天皇に辞表を提出、これによって閣僚統制の自信を失った松方は内閣総辞職を決断することになった。
参考:『日英通商航海条約』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E9%80%9A%E5%95%86%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%9D%A1%E7%B4%84
日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく、英語: Treaty of Commerce and Navigation between Great Britain and Japan)は、1894年に締結された日本とイギリスの通商条約。1894年7月16日に駐英日本公使青木周蔵と、英外相キンバーリーによって調印された。領事裁判権と協定関税率を定めた幕末の日英修好通商条約を改訂したものであり、この条約の締結により日本は維新以来最大の懸案だった条約改正に成功した。日英通商修好航海条約(にちえいつうしょうしゅうこうこうかいじょうやく)ともいう。
概要
日本政府が明治初期から取り組んでいた各国との不平等条約の改正交渉の結果、漸く達成できた最初の改正条約である。安政五カ国条約締結以来、日本政府の悲願だった領事裁判権の撤廃がなされた。この条約締結におけるイギリス側の目的はロシア帝国の南下政策に対抗するために日本の軍事力に期待したものであった。本文は22箇条より成り、内容は内地開放を代償として領事裁判権を撤廃したこと、関税自主権を部分的に回復したこと、片務的であった最恵国待遇を相互的とする、などであった。調印の際、英国外相キンバーリー伯爵は、青木公使に「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的地位を向上させる上で清国の何万の軍を撃破したことよりも重大なことだろう」と語っている[4]。また、この条約の成立によって日本陸軍はイギリスの日本接近を確認したので、日清戦争の開戦を決意したともいわれている[5]。
以降、1894年(明治27年)から翌1895年(明治28年)にかけて同内容の条約を米、仏、独、露、蘭、伊など14カ国とも調印した。これにより、日本は法権の上では欧米列国と対等の関係に入った。しかし、もう一つの悲願である関税自主権回復はこの条約では成し得ず、イギリスからの輸入品の約70パーセントは協定税率の束縛を受けることとなった。この時点では法権回復(領事裁判権撤廃)を主目的とし、税権(関税自主権)については一部回復を目指したので、当初の目的は達成されたことになる。
この条約は、調印当時の外務大臣陸奥宗光の名をとり、陸奥条約とも呼ばれる。1899年(明治32年)から実施され、12年間有効とされた。以降、日本は内地雑居に踏み切ることとなった。
なおその後、桂太郎を首班とする第2次桂内閣の外務大臣小村寿太郎は、この条約が満期となるのを契機に関税自主権回復に乗り出し、1911年(明治44年)2月21日、対アメリカとの日米通商航海条約改正時に関税自主権の完全回復を達成した。イギリスとの新通商航海条約は、同年4月3日に調印され、7月17日に発効した[6]。
帝国政府の通告により1911年7月11日に本条約は廃棄された[2]。
1941年(昭和16年)7月26日、イギリス及びイギリス連邦各国より日本に対し本条約の破棄が通告され効力を失った[要出典]。日本が英米に宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦するのは、この年の12月のことである。
参考:『日英通商航海条約』本文 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/m27_1894_01.html
日本と清国が 1894~95年に戦った戦争。両国が朝鮮の支配権を争ったのが原因となった。 94年5月に朝鮮で甲午農民戦争が起ると,6月朝鮮政府は鎮圧のために清国と,次いで日本に援兵を依頼した。6月 12日に日本軍は仁川に上陸。7月 23日にソウルの王宮を占領,親日派の大院君政権をつくった。 25日には日本の連合艦隊は,豊島西南沖で清国軍艦および輸送船団と遭遇,相互に砲火を浴びせ,戦争が始った。 29日に朝鮮の成歓,30日には牙山を占領。9月 15日,日本軍は平壌周辺で清国軍との会戦に勝ち,17日には連合艦隊と北洋艦隊が黄海海戦を戦い,日本側が勝って制海権を獲得した。 10月 24~25日に日本軍は鴨緑江を渡って満州に入り,11月 19日には旅順を占領。 95年2月2日には威海衛軍港陸岸を占領,12日に北洋艦隊が降伏した。3月に入ると日本軍はさらに牛荘,営口などを占領,3月 26日には澎湖列島を占領した。4月 17日に下関で日清講和条約 (→下関条約 ) が結ばれ,日本は,中国から朝鮮の独立の承認,遼東半島,台湾,澎湖列島の割譲,賠償金2億両支払い,欧米並みの通商条約の締結,威海衛保障占領などを取付けた。しかし条約調印後6日目の 95年4月 23日,ロシア,ドイツ,フランスからいわゆる三国干渉を受け,5月4日に日本政府は遼東半島放棄を決定,還付の代償として清国より庫平銀 3000万両を得た。日清戦争の勝利によって,日本は欧米資本主義列強と並び,極東における帝国主義諸国との対立,葛藤に巻込まれることになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『東洋経済新報社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%96%B0%E5%A0%B1%E7%A4%BE
株式会社東洋経済新報社(とうようけいざいしんぽうしゃ、英: TOYO KEIZAI INC.)は、ビジネス書や経済書などの発行を専門とする、日本の出版社。日本で最も古い創業時期を持つ出版社の一つであり、石橋湛山(第55代内閣総理大臣)が主幹を務めたことでも知られている。東洋経済オンラインやSTOCKVOICEを始めとするWEBメディアの運営も行っている。
沿革
『週刊東洋経済』は、経済の専門雑誌。2025年現在も発刊される雑誌としては日本最古の一つ。1895年(明治28年)旬刊『東洋経済新報』として創刊。歴代の主幹(社長兼編集長)に、町田忠治、天野為之、植松考昭、三浦銕太郎、石橋湛山、高橋亀吉など。『東洋経済新報』として創刊当初は渋沢栄一・豊川良平らの支援を受けた影響で自由経済・政党政治を支持していた。
大正期には民本政治・普通選挙を支持し、その後、三浦と後継の石橋によって満洲などの放棄による小日本主義を始め、対華21か条要求・シベリア出兵・金解禁・満洲事変などを厳しく批判した。特に金解禁では率先して「新平価解禁」、解禁後の「金輸出再禁止と管理通貨制度導入」などの主張をリードしたことは良く知られている。1933年(昭和8年)には満洲事変を容認する姿勢に転換した。1919年(大正8年)の10月4日号より週刊化。1921年(大正10年)11月、株式会社に改組し、三浦銕太郎主幹が代表取締役に就任。
1961年(昭和36年)に現在の誌名に改称した。
参考:『沿革』東洋経済新報社 https://corp.toyokeizai.net/aboutus/history/
1895年
11月
町田忠治
町田忠治(のち政界入りし民政党総裁)により
東京市牛込区(現新宿区)新小川町に創立、
11月15日に旬刊『東洋経済新報』(現『週刊東洋経済』)を創刊
創刊の辞
健全なる經濟社會は
健全なる個人の
發逹に待さるへからず。
政府に對しては監督者、
忠告者、苦諫者となり、
實業家に對しては
親切なる忠告者、
着實なる訓戒者、
高識にして迂󠄀遠ならさる
先導者とならん。
創業者/町田忠治の『東洋経済新報』創刊の辞より
1899年
1月
本社を牛込区東五軒町に移転
1902年
4月
天野為之
単行本の刊行開始(天野為之『経済学綱要』)
1907年
3月
牛込区天神町に新社屋を建設し、移転
1917年
4月
『経済年鑑』(のちの『経済統計年鑑』)創刊
1918年
11月
大阪に関西支社を設置
1919年
10月
旬刊『東洋経済新報』を10月4日号より週刊化
旬刊『東洋経済新報』を10月4日号より週刊化
第1次世界大戦後の好景気を背景に、本誌の部数が急増。1918年秋から19年末にかけ印刷部数が1万部の大台に乗ることも。それをうけ当時の三浦銕太郎主幹は念願であった週刊化を決断。原稿の締め切りから発送までの期間が従来よりも2日短縮され、情報の鮮度も増した。
1921年
11月
株式会社に改組。三浦銕太郎主幹が代表取締役に就任
株式会社に改組。三浦銕太郎主幹が代表取締役に就任
1924年
12月
石橋湛山(後の総理大臣)
石橋湛山(後の総理大臣)が主幹となる
1926年
7月
『東洋経済新報』を『週刊東洋経済新報』と改題
1931年
6月
日本橋区(現中央区)本町1丁目に新社屋を新築移転、経済倶楽部設立
1934年
5月
英文月刊誌『The Oriental Economist』創刊
1936年
6月
『会社四季報』創刊
『会社四季報』創刊
『会社四季報』は同年2月に勃発した2・26事件の直前に企画され、事件の最中に制作され、約3カ月後に創刊。現在でも主軸刊行物のひとつとして不動の地位を確保。同誌で長年培われた企業・財務データの編集ノウハウは、デジタル化時代を迎えデータビジネス事業として更なる飛躍期を迎える。
1937年
7月
名古屋支社設置
1939年
4月
『東洋経済統計月報』創刊
1940年
6月
『現代日本文明史』刊行(創立45周年記念)
1941年
2月
主幹制に代えて社長制を実施。初代社長に石橋湛山就任
1945年
2月
空襲で本社工場が焼失
3月
秋田県横手町に支局を開設し、編集局の一部と印刷部門を同時に疎開(翌年1月閉鎖)
1946年
1月
目黒区上大崎長者丸に印刷工場を設置
1947年
10月
『株式ウイークリー』創刊
『株式ウイークリー』創刊
戦後の株式市場の再開を背景に創刊された株式投資情報誌。有望銘柄の速報を使命としたため市販ではなく会員制を採用。昭和初頭に一時発刊されていた『東洋経済特報』以来の再挑戦だったが会員数は順調に拡大、会員制ビジネスの成功事例となる。現在は、紙の雑誌と並行してWEB版も発行している。
1956年
6月
投資専門誌として、月刊『投資版』(のちの『オール投資』)創刊
参考:『古社寺保存法』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%A4%BE%E5%AF%BA%E4%BF%9D%E5%AD%98%E6%B3%95
古社寺保存法(こしゃじほぞんほう、明治30年6月10日法律第49号)は、日本の文化財保護に関する、廃止された法律。古器旧物保存方 (こききゅうぶつほぞんかた、明治4年5月23日太政官布告第251号)を引き継いで制定され、1929年(昭和4年)7月1日、旧国宝保存法施行に伴い廃止された。
なお、本法の施行によって、古社寺保存金出願規則(明治28年7月12日内務省令第7号)[1]は失効した。条文は附則を含めて20条である。
概要
明治政府は、明治4年(1871年)、「古器旧物保存方」を布告し、廃仏毀釈によって破壊された文化遺産の調査を始めた。後の古社寺保存法では、古社寺の建造物及び宝物類で、「特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範」であるものを「特別保護建造物」または「国宝」に指定し、保護してきた。この法律は、大正8年法律第44号によって一部改正がなされた。
当初、本法の所管官庁は内務省であったが、大正2年(1913年)には文部省となった。
保存経費として年5万円以上20万円以内の補助をする代わりに、海外流出・売却の禁止をし、美術館・博物館での管理・展覧に出す義務が課された。対象は古社寺に限定するもので、国や個人などの所有物は対象外で、それらの保存措置を講じられないという課題があった。
その後、国宝保存法の施行により、この古社寺保存法は廃止され、同法時代の「特別保護建造物」及び「国宝」は、国宝保存法の規定により指定された「国宝」とみなされた。
勅令
古社寺保存法施行ニ関スル件(明治30年勅令第446号)
参考:『新版画』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%89%88%E7%94%BB
新版画(しんはんが)とは、明治30年前後から昭和時代に描かれた木版画のことを指し、版元を中心として、従来の浮世絵版画と同様に、絵師、彫師、摺師による分業により制作されており、浮世絵の近代化、復興を目指した。「新板画」、「大正新版画」とも表記される。なお、関東大震災以降になると、吉田博など私家版によって木版画を制作する画家も現れていった。その後、第二次世界大戦をはさんで、主要な版元であった渡辺庄三郎が1962年に死去するまで、この分業体制の木版画が多数描かれた。
概要
江戸時代に流行した浮世絵版画も、明治27年(1894年)に起こった日清戦争を描いた戦争絵の一時的なブームを最後に急速に力を失っていき、明治30年から明治40年代になると、廉価な石版画、写真、大量印刷の新聞、雑誌、絵葉書などという新商品の人気に押され、売れ行き不振となり、衰退していった。そのような状況のなか、このような分業による木版画に興味を抱いたのが、ジャポニスムの影響を受けて明治32年(1899年)9月に来日していたヘレン・ハイド、翌明治33年(1900年)4月に来日したエミール・オルリックらといった外国人であった。その後、橋口五葉、伊東深水らの新版画着手の後、日本画家のみならず、洋画家や外国人作家の参画によって、大正12年(1923年)に発生した関東大震災以前の新版画は最も華やかで、実験的な作品を生み出す時代を迎えた。どこか現代的なデッサンの美人画、役者絵、陰影のある風景画などが特徴である。また、外国人に人気があった花鳥画も多く描かれた。
関東大震災以降、東京には1924年創業の孚水画房、土井版画店、いせ辰、加藤版画店、芳壽堂(店主不詳)、尚美堂(田中良三)など多くの新興の版元が現れて活況を呈し、中でも、川瀬巴水が多くの版元と提携して作品を出版していることが注目される。また、名古屋には後藤版画店、京都に佐藤章太郎、内田美術書肆、大阪に根津清太郎、真美社(店主不詳)、関西美術社、兵庫に西宮書院などが現れている。
歴史
明治30年(1897年)頃になると、それまでの伝統的浮世絵版画の灯はほぼ消えようとしつつあったが、その頃、同時期に次の時代の木版画を作る動きが始まっていた。実際には、大正時代に開花した新版画または大正版画ともいわれるものであった。この動きには、全く別系統、別の基盤からのものと、それらが混ざっている場合があった。具体的にいうと、伝統的日本画、浮世絵系統から育ったものと、洋画の基盤から育ったものがあったのである。便宜的に、ここでは大きく洋画を基盤とする創作版画派と、新版画派とに分類することにし、この項では後者の新版画について述べる。技法の点からいうと、自分で絵を描いて自分で彫り摺る自刻版画の場合を創作版画といい、浮世絵系伝統的木版画、錦絵の技法で画家、彫師、摺師の三者が一体となって新風を目指していった場合を新版画という。伝統版画が絶えてしまうことを恐れての活動ということ以上に、作品や技法も意欲的で新技法の開拓もあったことを忘れてはならない。技法の面でいうと、馬連の跡を残した実験的な摺りが試みられた。
明治40年(1907年)に山本鼎、石井柏亭、森田恒友が美術雑誌『方寸』を発刊、山本らは自画自作の創作版画運動を始めた。彼らは始めの頃、自作の版画を「刀画」(とうが)と称していた。他にこの創作版画を手掛けた人には、柏亭の弟、石井鶴三、織田一磨、戸張孤雁らがいた。石井鶴三は明治38年(1905年)、山本鼎との同人誌『平旦』に「虎」を発表、初めて版画という名称を使った先駆者の一人であった。織田一磨は明治40年、第1回文展に入選した後、上京し「パンの会」や『方寸』に参加して創作版画活動に加わっている。さらに、大正7年(1918年)の日本創作版画協会設立にも関与していた。彼らのうち、石井柏亭、織田一磨、戸張孤雁は画家、彫師、摺師の分業による新版画の作品も発表している。
明治末年頃、海外への輸出用に浮世絵の原画や復刻版を制作していた版元の渡辺庄三郎は、版元中心の伝統的な工程による新しい版画を模索していた。原画の作者の意図を最重視しつつ、彫り、摺りはそれぞれに熟練の技を持つ者があたるのが最良と考えていた。この動きにいち早く賛同したのが、オーストリア人フリッツ・カペラリ、イギリス人チャールズ・ウィリアム・バートレット、エリザベス・キースで、渡辺は彼らの作品を次々と木版により翻刻していった。これが後の日本人画家による新版画誕生の契機となっており、渡辺は、日本画特有の墨の掠れや滲みを木版画で表現しようと試み、版画でもって肉筆浮世絵の質感を出そうと考えていた。大正頃、柳町に間借りしていた渡辺版画店は高橋弘明に日本の特徴ある山水人物画を要請、輸出用の大判木版画約10点を「新作版画」と命名して試作、版行、販売した。一方、小林清親が没した大正4年(1915年)に橋口五葉は下絵を制作、明治39年(1906年)創業の渡辺版画店から日本人作家による最初の木版画「浴場の女」を翌大正5年(1916年)に版行、これが新版画の第1作となる。また、浮世絵の画系を引く伊東深水も大正5年(1916年)にやはり渡辺版画店から「対鏡」を第1作として版行、以降引続いて美人画シリーズを刊行している。他には大正5年、同様に役者絵「鴈治郎の紙屋治兵衛」を版行した名取春仙、「十一代目片岡仁左衛門の大星由良之助」を版行した山村耕花、大正7年(1918年)に風景版画「塩原おかね路」、「塩原畑下り」、「塩原志ほがま」3点を第1作として版行した川瀬巴水の他、楢崎栄昭、伊藤孝之、笠松紫浪、小原祥邨、高橋弘明、土屋光逸、石渡江逸、井出岳水、北川一雄、古屋台軒などが新版画の制作に携わっている。大正期には土井版画店が新出、土屋光逸やフランス人のノエル・ヌエットの作品を版行している。また、風景画家特に山岳画家として知られている吉田博も、大正10年(1921年)に第1作の「牧場の午後」という作品を渡辺版画店から版行していた。この新版画がヨーロッパなどで人気を博したので、吉田は4年ほど経た大正14年(1925年)には、自らの工房吉田スタジオを開設し、以降は自身で彫り摺りを監修、そこから作品を発表し始めた。これを私家版といい、前述の橋口五葉も私家版による作品を制作している。この間の大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の際、渡辺版画店が被災、火災によってこれまでの版木や版画作品、書籍の全てを焼失してしまった。しかし、渡辺はすぐに再起し、大正13年(1924年)には織田一磨の「松江大橋(雪中)」など多色摺木版画を出版して新作版画の制作を継続させている。新版画においては、個々の絵師の創造性を徹底的に尊重した個性豊かな新しい浮世絵版画が出版されており、このような渡辺の活動に呼応して新作版画の制作に力を入れる新興版元が出現してくる。関東では伊せ辰、東京尚美堂、酒井好古堂、川口、土井版画店、加藤版画、馬場静山堂、アダチ版画研究所、日本版画研究所、高見沢木版社、孚水画房、美術社、池田富蔵、長谷川武次郎など、関西では京都に明治期創業の芸艸堂、佐藤章太郎、内田美術書肆、大阪に根津清太郎、真美社(店主不詳)、関西美術社、1920年代末になると兵庫に西宮書院が、名古屋に後藤版画店といった版元が現れている。
関西画壇においては、大正4年(1915年)、浮世絵の流れを汲んだ北野恒富がキリンビールの美人画のポスターを描いており、これが好評を得て7万枚摺ったといわれている。そして、大正7年(1918年)、美人画の版画で「郭の春秋」4枚組を刊行している。版元は中島青果堂といい、石井柏亭の「東京十二景」と同じ版元であった。作品は500部刊行という割に今まではほとんど世に出て来なかった。その後関西では、大正14年(1925年)に佐藤章太郎という版元から吉川観方、三木翠山の美人画が版行された。その後、京都においては昭和に入っての京都版画院、まつ九、兵庫には西宮書院などが現れており、この西宮書院からは山川秀峰や大野麦風、和田三造など著名な絵師が作品を発表していった。さらに昭和初期になって、大阪には成田守兼及び華泉という絵師が現れ美人画(版元未詳)を競作、名古屋では渡辺幾春(版元未詳)がやはり美人画を残している。また、同じく名古屋の後藤版画店から瀬川艶久が風景画を出している。
また、東京では鳥居派の第八代当主で、五代目鳥居清忠でもあった鳥居言人が版元池田富蔵から昭和6年(1931年)に版行した「朝寝髪」という美人画が発禁処分となっている。これは70部摺られているが、当時の当局には危険だと感じられ、発売後警視庁に没収されてしまった。その他、小早川清も同じく昭和5年に「近代時世粧」6枚組を刊行している。モデルは浅草の芸者や断髪のモダンガール、カフェの女給たちであった。この時代のカフェとはただの喫茶店ではなく、現在の風俗店に近いようなもので性的な接待を売り物にしていた。さらに、昭和10年(1935年)に版行された石川寅治の「裸女十種」シリーズ(私家版)では、美人画の中に洋画のヌードをとりこんでおり、ヌードの女性が部屋で本を読む姿などが描かれていた。
他に日本画を池田輝方夫妻に師事し、昭和8年(1933年)に若礼版画研究所を設立、翌昭和9年(1934年)に最初の版画「サイパンの娘とハイビスカスの花」を版行したフランス人絵師ポール・ジャクレーも知られている。ジャクレーは「虹」を同昭和9年に創立された加藤版画研究所(現・加藤版画)から版行、竹久夢二らもここから作品を発表している。その後、昭和16年(1941年)12月に太平洋戦争が勃発、翌昭和17年(1942年)頃から戦時統制になって画材の入手が困難となつていった。
このように様々な画家たちが、関東大震災及び第二次世界大戦を挟みながらも新版画を発表しており、最も長い期間作画をしたのは伊東深水であったが、昭和35年(1960年)代以降は作者の高齢化や、目まぐるしい社会の移り替りもあって、また昭和37年(1962年)に版元の渡辺庄三郎が死去したことによって、その制作は一時代を終えた。
現代では、江戸東京博物館の「よみがえる浮世絵―うるわしき大正新版画」(2009年)[2]など、企画展が各地で開かれている。
大冶鉄山 コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%86%B6%E9%89%84%E5%B1%B1-558570#goog_rewarded
だいやてつざん
中国湖北省の鉄鉱石産地。漢冶萍(かんやひょう)公司(コンス)の製鉄原料部門となる。日本の八幡製鉄所(やはたせいてつしょ)との関係が深く、ここの鉄鉱石買入れ契約を結んだ(1899年)ことで、八幡製鉄所は開業の目途(めど)がついたという。1904年(明治37)には、大冶鉄山を担保とする300万円の借款供与が行われたが、これは日本政府による対外借款第1号である。その後も大冶鉄山、すなわち漢冶萍公司に対する借款は継続され、積み重ねられて20世紀初頭における日本の対外借款の代表例となる。このようにして獲得した漢冶萍公司に対する金融的支配により、鉄鉱石等の八幡製鉄所への納入価格や納入量は、長期にわたって固定され、同公司の経営を圧迫した。1900~1924年(大正13)までに八幡製鉄所へ鉄鉱石換算で約600万トンが納入されている。これは大冶鉄山の同期間総産出量の3分の2に達した。
典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
参考:『武士道 (新渡戸稲造)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93_(%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0)
『武士道』(ぶしどう、英語: Bushido: The Soul of Japan)は、1899年に刊行された新渡戸稲造による著書。原文は英語で書かれ、アメリカ合衆国で出版された。
概要
日本の武士道を欧米に紹介する目的で1899年(明治32年)にフィラデルフィアで刊行された。思想家・教育家として著名な新渡戸が、日本人の道徳観の核心となっている「武士道」について、西欧の哲学と対比しながら、日本人の心のよりどころを世界に向けて解説した著作で、新渡戸自身の代表作となっている。内村鑑三の『代表的日本人』、岡倉天心の『茶の本』と並んで、明治期に日本人が英語で書いた著書として重要である。執筆は、カリフォルニア州モントレーで行っていた。
日本では1900年に裳華房により翻刻され、15,000部が売れたといわれる[2]。1908年(明治41年)には櫻井鴎村によって日本語にも翻訳され、1938年(昭和13年)に岩波書店から刊行された矢内原忠雄による翻訳が現在の定本となっている。
一方、天皇へのキリスト教徒の不敬を弾劾した井上哲次郎や『君が代』と『古事記』を英訳したバジル・ホール・チェンバレン、皇室学者の津田左右吉などからは「新渡戸の『武士道』が誤った日本像を海外に広め、あるべき概念を混乱させている」等と内容を批判された。
参考:『新渡戸稲造 ~世界の平和に生涯をささげた~ 新渡戸 稲造(1862~1933)』新渡戸記念館
http://www.nitobe.jp/inazo/index.html
参考:『新渡戸稲造』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0
新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、旧字体: 新渡戶 稻造󠄁、文久2年8月8日〈1862年9月1日〉- 昭和8年〈1933年〉10月15日)は、日本の教育者・農学者、植民学者。札幌農学校在学中に出会ったキリスト教から多大な影響を受ける。
国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は流麗な英文で書かれ、長年読まれている。1984年(昭和59年) から2007年(平成19年)まで発行された日本銀行券の五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(後の東京文化短期大学、現在の新渡戸文化短期大学)初代校長。
生涯
陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛の用人を務めた盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれた。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。また、新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父傳は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り、幕末に早世した次男十次郎に代わって新渡戸家の家計を大いに助けた。
稲之助は巡幸中に新渡戸家で休息していた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことから、農学を志すようになったという。
盛岡から上京
作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。
上京後は叔父の養子となって太田稲造として英語学校で英語を学んだ。
翌年には元盛岡藩主である南部利恭が経営する「共慣義塾」に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。そのため、自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず「店の金を持ち出した」と疑われることもあったという。その一件があったのちは、信頼を回復しようと稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。
明治6年、12歳の頃に東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学し、その後東京英語学校(後の旧制第一高等学校、東京大学教養学部)に入学した。ここで稲造は同じ南部出身で後の北海道帝国大学初代総長となる佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、その後、農学の道に進むことを決意した。
札幌農学校へ
内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代
15歳になった1877年9月になると、札幌農学校(現北海道大学)の二期生として入学した。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士は既に米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。英文学教師ジェイムス・サマーズ(英語版)の授業を受講した。1878年、札幌で熊害事件が発生し、加害獣である巨羆の解剖をした。稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にもかかわらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり「アクチーブ」(活動家)というあだ名を付けられた。
クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味を持ち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名した。後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽ったりするなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。
この頃から稲造は視力が悪化し、眼鏡をかけるようになったが、やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までも患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、トーマス・カーライルの『衣服哲学』(『サーター・リサータス』、Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となり、生涯に幾度となく読み返した。
学の道へ
農学校卒業後は、国策により級友達とともに上級官吏として北海道庁に採用され、畑の作物を食い散らすイナゴの異常発生の対策の研究等をしていた。
その後、創立後間もない帝国大学(後の東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、帝国大学の研究レベルの低さに失望したため退学した。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋になりたい」と米国に私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め、正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(英語版)(日本名・新渡戸万里子)と出会う。米国の某地で日本についての講演をした際に、聴衆の一人であったメアリー・エルキントンが稲造を見初めて告白をしたという。
その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して、官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)にて農業経済学の博士号を得る。そのいきさつとして、米国留学にて農業を経済学と結び付けて考える必要を感じた稲造は、独学で社会科学を学び新たな学問を創設しようと試みたのであるが、ドイツ留学にて農政学が既にゴルツ(ドイツ語版)やブッヘンベルガー(ドイツ語版)により創始されていたことを知った。この間『女学雑誌』に、ドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得る。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職して米国西海岸のカリフォルニア州で転地療養した。
この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本及び日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている。
台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に『糖業改良意見書』を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した。台湾糖業博物館(高雄市)には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像が置かれている。
その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位も受けた。同年、牧野伸顕文相の意向で日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。それまでの東洋的文化色が強かった同校に、西洋色を取り入れようと努めた。愛読書でもあるトーマス・カーライルの『衣服哲学』の読書を学生に薦めるなどした。その新たな学風づくりの試みは、河合栄治郎などに影響を与えた。1911-1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子の津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。
学びの支援
札幌農学校に教授として勤めるかたわら、妻メアリーと共に遠友夜学校を1894年に設立し、恵まれない境遇の子供たちに無償で授業を行った。この学校は、宮部金吾、有島武郎、半沢洵といった札幌農学校(のちに北海道帝国大学)の教員や学生が運営や教師を務め、半世紀にわたり続いた。新渡戸は初代校長を務めた。
アメリカから来日した宣教師サラ・クララ・スミスが女子教育を志して札幌に女学校を設立すると(1887年)、新渡戸は札幌農学校の同窓生でキリスト教徒としても知られる佐藤昌介や大島正健、宮部金吾らと共にこれに協力した。新渡戸は教師として英文学を教えた。当初スミス女学校と呼ばれた学校に新渡戸は北星女学校の名を提案して採用され(1894年)、現在の北星学園へとつながっている。北海道庁から貸与されていた校舎の期限切れに際し、校舎購入に新渡戸が尽力したとされる。
「郷土会」の発足
1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーとして柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤、牧口常三郎、中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。
国際連盟事務次長
1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかしフランスの反対に遭って実現しなかった。同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。
晩年
1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(現新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。
1932年(昭和7年)、第一次上海事変勃発直後の2月4日に、講演のため訪れた愛媛県松山市で地元新聞記者を前にオフレコで語った
「近頃、毎朝起きて新聞をみると、思わず暗い気持ちになってしまう。わが国を滅ぼすものは共産党か軍閥である。そのどちらが恐いかと問われたら、今では軍閥と答えねばなるまい。軍閥が極度に軍国主義を発揮すると、それにつれて共産党はその反動でますます勢いを増すだろう。共産主義思想はこのままでは漸次ひろがるであろう」
「国際連盟が認識不足だというのか? だが、いったい誰が国際連盟を認識不足にしたのか? 国際連盟の認識不足ということは、連盟本部が遠く離れているのだから、それはあるだろう。しかし、日本としては当然、国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずべきではなかったか? 上海事件に関する当局の声明はすべて三百代言的というほかはない。私は、満州事変については、われらの態度は当然のことと思う。しかし、上海事件に対しては正当防衛とは申しかねる。支那がまず発砲したというのか? だから、三百代言としか思えぬというのだ」
との発言が新聞紙上に取り上げられた。当時、日本の海軍省によって日本側からの先制攻撃ではなかったとの発表がなされていたこともあり、軍部や在郷軍人会や新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人から反発を受け、失意の日々を送った。
翌1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加した。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、入院。病名は出血性膵臓炎であった。10月15日に開腹手術が行われるが容態が急変し、午後8時30分にそのまま帰らぬ人となった。享年72(満71歳没)。墓所は多磨霊園。
右翼や皇室研究者からの批判
前項にある「この国を滅ぼすのは軍部の人たちだ」「上海事件は正当防衛ではない」という発言を、右翼思想家から攻撃され「非国民」とまで呼ばれている(松山事件)。
『武士道』(Bushido: The Soul of Japan)は、明治天皇へのキリスト教徒の不敬を弾劾した井上哲次郎や『君が代』と『古事記』を英訳したバジル・ホール・チェンバレンなどから内容を激しく批判された。同著の日本版が刊行された直後にも「古(いにしえ)からの史実を全く無視した、キリスト教徒の考えた自分勝手な思想である」「新渡戸の『武士道』が誤った日本像を海外に広め、あるべき概念を混乱させている」との指摘が、「天皇制を立憲君主制に発展させるべき」を持論とした津田左右吉らによってなされている。
人物
新渡戸稲造と妻メアリー
キリスト教徒(クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄、高木八尺、南原繁、宇佐美毅、前田多門、藤井武、塚本虎二、河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。
非常に交流の幅が広い人物で、著作の一つ『偉人群像』には、伊藤博文や桂太郎、乃木希典らなどとのエピソードも書かれている。
エリザ・シドモアら、日本研究で訪日した外国人とも深い交流がある。
家族
妻メアリー・エルキントン
1891年(明治24年)にアメリカ人女性メアリー・エルキントン(英語版)(日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。メアリーは、夫の死から5年後の1938年9月23日、心臓病のため、療養していた軽井沢の別荘で82歳(満81歳没)で死去した。
祖父の新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった盛岡藩領の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し産業開発も行った。傳は江戸で材木業を営み成功するといった才能もあった。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。顕彰のため第二次世界大戦後、十和田市立新渡戸記念館が開設された(記念館は2024年3月に民間譲渡され新渡戸記念館となっている)。
このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曽祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼり詰めた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、失意の中病没している。
また、従弟に昆虫学者の新渡戸稲雄がいるが、31歳で早世している。
後世
生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市は、新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている。
1984年(昭和59年)11月1日に発行された五千円紙幣D号券の肖像に採用された。
年譜
Bushido: The Soul of Japan (1900)
1862年(文久2年) 盛岡藩で当時、奥御勘定奉行であった新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名稲之助。
1871年(明治4年) 兄の道郎とともに上京。叔父の太田時敏の養子となる。
1873年(明治6年) 東京外国語学校英語科(のちの東京英語学校、大学予備門)に入学。
1877年(明治10年) 札幌農学校に第二期生として入学。卒業後、東京大学選科入学。同時に成立学舎にも通う。
1882年(明治15年) 農商務省御用掛となる。11月、札幌農学校予科教授。
1884年(明治17年) 渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
1886年(明治19年) クェーカー派、モリス茶会でメリーと出逢う。
1887年(明治20年) 独ボン大学で農政、農業経済学を研究。
1889年(明治22年) ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。長兄七郎没、新渡戸姓に復帰。
1891年(明治24年) 米国人メリー・エルキントン(1857-1938、日本名:萬里)と結婚。帰国し、札幌農学校教授となる。
1894年(明治27年) 札幌に遠友夜学校を設立。
1897年(明治30年) 札幌農学校を退官し、群馬県で静養中『農業本論』を出版。
1899年(明治32年) 日本初の農学博士を佐藤昌介ら7名と共に授与される[17]。
1900年(明治33年) 英文『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)初版出版。ヨーロッパ視察。パリ万国博覧会の審査員を務める。
1901年(明治34年) 台湾総督府民政部殖産局長心得就任。糖業改良意見書を提出。
1903年(明治36年) 京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。
1906年(明治39年) 第一高等学校長に就任。東京帝国大学農科大学教授兼任。
1909年(明治42年) 実業之日本編集顧問となる。
1916年(大正5年) 東京植民貿易語学校校長に就任。
1917年(大正6年) 拓殖大学学監に就任
1918年(大正7年) 東京女子大学初代学長に就任。
1920年(大正9年) 国際連盟事務次長に就任。
1921年(大正10年) チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加。
1925年(大正14年) 帝国学士院会員に任命される。
1926年(大正15年) 国際連盟事務次長を退任。12月7日、貴族院勅選議員に任命(-1933年10月16日)。
1928年(昭和3年) 東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。
1928年(昭和3年) 早稲田大学で連続講演を行う(「内観外望」(1933年)、「西洋の事情と思想」(1934年)に講演内容収録)。
1929年(昭和4年) 太平洋調査会理事長に就任。拓殖大学名誉教授に就任。
1931年(昭和6年) 第4回太平洋会議に出席(上海)。
1932年(昭和7年) 松山事件。
1933年(昭和8年) カナダ・バンフにて開催の 第5回太平洋会議に出席。ビクトリア市にて客死。
ゆかりの地
青森県十和田市には「新渡戸記念館」(かつては市営)が、岩手県花巻市には「花巻新渡戸記念館」がある。
新渡戸稲造没後50年を記念して、盛岡市下ノ橋町の生誕の地に、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像が建立された。作者は朝倉文夫。
岩手県盛岡市与の字橋(盛岡市役所裏)に、「新渡戸稲造胸像」が建立されている。1976年、当時の千田正岩手県知事、工藤巌盛岡市長らが発起人となった募金活動により設置された。作者は、「アリスの家」のある鎌倉市稲村ガ崎にアトリエを構えていた高田博厚。
長野県軽井沢にあった洋館別荘跡地の面する通りは「新渡戸通り」と呼ばれている。駐日米国大使のエドガー・バンクロフトは、静養先であったこの別荘で1925年に死去した[36]。またこの別荘にはチャールズ・リンドバーグも訪れており、その折に偶然同じく来日して軽井沢に滞在していたイサム・ノグチと別荘の庭で言葉を交わしている。なおメアリー夫人は新渡戸の死去後この別荘で死去している[13]。
鎌倉稲村ケ崎にあった別荘跡地は、聖路加看護大学鎌倉セミナーハウス「アリスの家」になっている。
新渡戸稲造を縁に盛岡市とビクトリア市は姉妹都市を結ぶ、1995年に姉妹都市提携10周年を記念して、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像(朝倉文夫作)から与の字橋の「新渡戸稲造胸像」(高田博厚作)までの中津川右岸沿いの道路が、ビクトリアロードと名付けられた。
カナダ・バンクーバーの名門ブリティッシュコロンビア大学(UBC)構内に「新渡戸稲造紀念日本庭園」がある。
カナダ・ビクトリア市(ブリティッシュコロンビア州・州都)のロイヤル・ジュビリー病院の旧ロータリーに「新渡戸稲造終焉の地」を記念した石碑があり、新病棟中庭が「新渡戸ガーデン」と命名されている。また、同市のカナダ横断ハイウェイ出発点(マイル・ゼロ)の東方約100メートル付近、フアンデフーカ海峡を挟んで対岸の米国オリンピック山脈(ワシントン州)を見渡す絶景地に新渡戸の名言「われ太平洋の橋とならん」を刻んだ記念碑がある。
代表的な著書
『ウィリアム・ペン傳(上・下)』北海道、1894年。
『農業本論』裳華房、1898年(明治31年)9月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
Inazo Nitobe (1900). Bushido: the soul of Japan, an exposition of Japanese thought. Philadelphia: The Leeds and Biddle Company
Bushido: the soul of Japan (Revised and enlarged 13th Eiton, 1908) - プロジェクト・グーテンベルク
Bushido: The Soul of Japan. Inazo Nitobe. Kodansha International. (2002). ISBN 978-4-7700-2731-3
『武士道』櫻井鴎村訳、丁未出版社、1908年(明治41年)3月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
『武士道』矢内原忠雄訳(第91刷改版)、岩波書店〈岩波文庫 青118-1〉、2007年(平成19年)4月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)(原著1938年(昭和13年)10月)。ISBN 4-00-331181-7。ハルキ文庫、2014年10月
『武士道』矢内原忠雄訳、岩波書店〈ワイド版岩波文庫 35〉、1991年(平成3年)6月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。ISBN 4-00-007035-5。
『武士道 現代語で読む最高の名著』奈良本辰也訳・解説、三笠書房〈知的生きかた文庫〉、1993年(平成5年)2月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。ISBN 4-8379-0563-3。新装単行判、2013年9月
『いま、拠って立つべき日本の精神 武士道』岬龍一郎訳、PHP文庫、2005年8月(原著2003年9月)。ISBN 4-569-66427-X。
『武士道 現代語訳』、山本博文訳・解説、筑摩書房〈ちくま新書〉、2010年(平成22年)8月
『新訳武士道 ビギナーズ日本の思想』、大久保喬樹訳、角川ソフィア文庫、2015年(平成27年)5月
『随想録』丁未出版社、1907年(明治40年)8月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
『随想録』たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉、2002年(平成14年)11月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。ISBN 4-8133-1443-0。
『修養』実業之日本社、1911年(明治44年)9月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
『修養』たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉、2002年(平成14年)7月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。ISBN 4-8133-1444-9。
『修養』角川ソフィア文庫、2017年(平成29年)6月
『人生雑感』國井通太郎 編、警醒社書店、1915年(大正4年)2月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
『人生雑感』国井通太郎 編、講談社〈講談社学術文庫 611〉、1983年(昭和58年)8月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。ISBN 4-06-158611-4。
『自警』実業之日本社、1916年(大正5年)10月
『自警録 心のもちかた』講談社学術文庫、1982年(昭和57年)
『東西相触れて』実業之日本社、1928年(昭和3年)10月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
『東西相触れて』たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉、2002年(平成14年)4月 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。ISBN 4-8133-1442-2。
※以下の他にも、様々な出版社で新編再刊されている。
『西洋の事情と思想』講談社学術文庫、1984年(昭和59年)
『新渡戸稲造論集』鈴木範久編、岩波文庫、2007年(平成19年)
『世渡りの道』文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2015年(平成27年)
『武士道的一日一言』山本史郎解釈、朝日文庫、2021年(令和3年)
全集・選集ほか
『新渡戸稲造全集』(全23巻・別巻2)、教文館、1987年完結
『明治大正農政経済名著集7 新渡戸稲造 農業本論』近藤康男編、農山漁村文化協会、1982年
『明治文学全集 88 明治宗教文学集(二)』武田清子編、筑摩書房、1975年 - 新渡戸稲造篇に、櫻井鴎村訳『武士道』、『教育の目的』、『青年修養法より』を収録。
『ABCびき日本辞典』井上哲次郎、服部宇之吉などとの共編、三省堂、1917年(大正6年)
参考:『津田塾大学』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%A1%BE%E5%A4%A7%E5%AD%A6
歴史
1900年(明治33年)、従来の家制度による家政学が中心だった官制の良妻賢母育成女子高等教育制度に疑問を抱いた津田梅子が、瓜生繁子や大山捨松とともに、日本では先駆的な学問重視の女子高等教育機関[14]を私学、女子英学塾として現在の東京都千代田区に設立[15]。
1902年(明治35年)、聖公会のミッションスクールである静修女学校(立教大学の姉妹校)の閉鎖にともない、土地と校舎と生徒を梅子の盟友・石井筆子から譲り受ける[16]。
1904年(明治37年)には、ジェームズ・ガーディナー(立教大学初代校長)、フローレンス・ピットマン(立教女学校校長)夫妻が女子英学塾の講師に就任し、後まで津田梅子と交流が続いた[17]。
1905年(明治38年)、女子の学校では初めての英語科教員無試験検定取り扱い許可を受ける。
1933年(昭和8年)に「津田英学塾」へ、1943年(昭和18年)に「津田塾専門学校」へ改称。戦後の1948年(昭和23年)に「津田塾大学」となった[15]。
1969年(昭和44年)には、当時はまだ草分け期にあった国際関係論という分野を、日本の大学として初めて国際関係学科として創設。
2010年(平成22年)に創立110周年を迎え、創立110周年事業として津田梅子賞を創設[2]。創立者津田梅子の「女性の自立と社会貢献を促す精神」を継承発展させるために、現代社会でその精神を具体化する活動を行っている団体や個人を顕彰する[2]。
2017年(平成29年)より女子大としては初の「総合政策学部」を設置[4]。また本学が複数学部体制になるのも創立以来、初である。大学の英語名称も、Tsuda CollegeからTsuda Universityとなった[18]。この学部は東京・千駄ヶ谷に設置され、長年、ワンキャンパス体制で教育を行ってきた津田塾大学は、この学部の開設により蛸足大学となる。
参考:『日英同盟』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
日英同盟(にちえいどうめい、英: Anglo-Japanese Alliance)は、日本(大日本帝国)とイギリス(大英帝国)との間の軍事同盟(攻守同盟条約)である。
1902年(明治35年)1月30日にロシア帝国の極東進出政策への対抗を目的として、駐英日本公使・林董とイギリス外相・第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスの間で、ランズダウン侯爵邸(ランズダウンハウス(英語版))オーバルルームにおいて調印された。
その後、第二次(1905年:明治38年)、第三次(1911年:明治44年)と継続更新されたが、1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮会議の結果、調印された四カ国条約成立に伴って、1923年(大正12年)8月17日に失効した。
歴史
清の利権争い
1895年(明治28年)の日清戦争で清が日本に敗北して以降、中国大陸をめぐる情勢が一変した。日本への巨額の賠償金を支払うために清国政府はロシア帝国とフランスから借款し、その見返りとして露仏両国に清国内における様々な権益を付与する羽目になったが、これをきっかけに急速に列強諸国による中国分割が進み、アヘン戦争以来のイギリス一国による清の半植民地(非公式帝国)状態が崩壊した。
とりわけ、シベリア鉄道の満洲北部敷設権獲得に代表されるロシアの満洲や華北への進出は激しかった。フランスもフランス領インドシナ(現在のベトナム)から進出して雲南省、広西省、広東省、四川省など、華南を勢力圏に収めていった。ロシアとフランスは1893年に露仏同盟を締結しており、三国干渉に代表されるように中国分割においても密接に連携しており、華北を勢力圏とするロシアと連携してイギリスが挟撃される恐れが生じていた。
これに対抗してイギリス首相第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルは、清国の領土保全(英語版)を訴えることで、露仏が中国大陸におけるイギリスの権益を食い荒らすのを防ごうとした。さらに、1896年(明治29年)3月にはドイツ帝国と連携し、露仏に先んじて清政府に対日賠償金支払いのための新たな借款を与えることで、英独両国の清国内における権益を認めさせた。
また、これに先立ち、同年1月にフランスと協定を締結し、英仏両国ともメコン川上流に軍隊を駐屯させず、四川省と雲南省を門戸開放することを約定した。これにより、フランスの北上に一定の歯止めをかけることに成功した。
独露の進出阻止
1897年(明治30年)に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツ帝国軍が清に出兵し膠州湾を占領、そのまま同地を租借地として獲得した。これについてソールズベリー侯爵は、ドイツがロシアの南下政策に対する防波堤になるだろうと考えて始めは歓迎していたが、ヴィルヘルム2世が山東半島全体をドイツ勢力圏と主張しはじめるに及び、ドイツへの警戒感も強めた。
1898年(明治31年)に入るとロシアが遼東半島の旅順を占領し、さらに大連にも軍艦を派遣し、武力侵攻によって清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とした。これに対抗してソールズベリー侯爵はこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、清政府に砲艦外交をしかけ、「ロシアが旅順占領をやめるまで」という期限付きで山東半島の威海衛をイギリス租借地とした。同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために、山東半島をドイツの勢力圏と認めざるを得なかったが、これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものであり、イギリスにとっては大きな痛手であった[10]。植民地大臣のジョゼフ・チェンバレンはこの年、イギリスが「栄光ある孤立」の政策を続ける限り、清国の運命はイギリスの利益と願望に反したかたちで決まるだろうと演説し、クリミア戦争のときのように、いずれかの強国と軍事的に連盟することが今後必要になるはずだと訴えた。
1899年(明治32年)に入った頃には、ロシア帝国主義の満洲と華北全域の支配体制はより盤石なものとなっており、ロシアがこの地域に関税をかけるのも時間の問題だった。さらに、1900年(明治33年)に起こった義和団の乱に乗じてロシアは満州を軍事占領した。ロシアは満州からの撤兵を約束したが、なかなか実行せず、むしろ南の朝鮮半島(大韓帝国)にも触手を伸ばすようになった。これにイギリスと日本は警戒を強め、両国の間に対ロシアという共通の紐帯ができた。
同盟締結
この頃、日本の政界では、伊藤博文や井上馨らがロシアとの妥協の道を探っていたが、山縣有朋、桂太郎、西郷従道、松方正義、加藤高明らは、ロシアとの対立は遅かれ早かれ避けられないと判断し、イギリスとの同盟論を唱えた。
結局、日露協商交渉は失敗し、外相小村寿太郎により日英同盟締結の交渉が進められた。伊藤ももはや日英同盟に反対はせず、1902年(明治35年)1月30日にはロンドンの外務省において日英同盟が締結された。調印時の日本側代表は林董特命全権公使、イギリス側代表はソールズベリー侯爵内閣の外務大臣第5代ランズダウン侯爵ペティ=フィッツモーリスであった。
第一次日英同盟の内容は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものである。また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争がおこり、イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ、戦費調達等で日本を大いに助けた。
また、日英同盟を契機として日本は金準備の大部分をロンドンに置き、その半分以上はイギリス国債に投下したり、またはロンドン預金銀行に貸し付けるようになった。
第二次同盟
1906年、英国使節コノート公アーサーの手でガーター勲章を佩用する明治天皇
第一次同盟は1902年(明治35年)1月30日から起算して5年間有効とされた。しかし、締結2年後に日露戦争が開戦し、戦況が日本軍の優勢となったことが英国内で報じられると、英国では同盟拡張などの唱道者も現れた。第一次同盟に調印したランズダウン英国外相は、1905年(明治38年)3月下旬に、在英国日本国大使館初代大使にして特命全権大使となった林董を介し、同盟継続について準備協議を希望する旨を日本側に打診した。これを受けた日本側は協議を進め、日本政府が同年5月24日に閣議で裁可した新交渉案を英国に提示し、両国の事前交渉が始まった。
イギリス側は同盟の適応範囲をインド(イギリス領インド帝国)まで拡大することを希望したが、新たな戦争に巻き込まれたくなかった日本は難色を示した。両国間で更なる協議が進められた結果、第一次では適用範囲が東亜(清韓両国)とされていたが、第二次日英同盟では東亜にインドを加えた適用範囲に拡大された。また、大韓帝国については、国際情勢から第一次よりさらに踏み込んだ保護国化(第三條)で両国が妥結し、第一次日英同盟での「防守」を主軸とした内容が、第二次では「攻防」へ変更された。
英国側はランズダウン外相、日本側は小村外相がポーツマス条約の事前交渉で渡米していたことから、在英国日本国大使館の林特命全権大使が出席調印し、8月12日にロンドンで第二次日英同盟が締結された。第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と、清国に対する両国を含む列国の商業的機会均等を肯定し、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けた攻守同盟に強化された。日本の大韓帝国の保護国化をイギリスが承認する条件で妥協した。また、同盟の有効期限が10年間へと変更延長となった。同条約は、ポーツマス条約締結後の同年9月27日に両国で公表されている。
第三次同盟
1909年(明治42年)、アメリカ合衆国国務長官のノックス(英語版)は東清鉄道中立化提案(満州の全鉄道を清国に返還し、列国の管理下に置こうとするもの)を行う。一方日本は、翌1910年(明治43年)第二次日露協約を成立させて両国の関係の調整を進展させた。日米対立の機運の醸成の中、英米間で総括的仲裁裁判条約締結の気運がおこると、これと日英同盟協約との関係の調整が問題となった。そこで1911年(明治44年)新たに第三次日英同盟が成立した。この改訂協約においては、締約国の一方が第三国と総括的仲裁裁判条約を結んだ場合、その締約国は前述の第三国と交戦する義務を負わないことを規定していた。これによって、アメリカ合衆国をこの同盟の対象から除外した[19]これは日本、イギリス、ロシアによる中国での権益拡大を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。ただし、この条文は「自動参戦規定」との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかった。そのほか、前協約から韓国(大韓帝国)に関する条項、およびインド国境防衛に関する条項が削除された[20]。さらに、同年に発生した辛亥革命に対する日本の行動にイギリスは同調せず、官軍と革命軍の仲介を図ったため、日本側はイギリスに不信感を持ち、両国にとって条約の重要性は低下した。 また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。
同盟解消
第一次世界大戦後の1919年(大正8年)に、パリ講和会議で日本とイギリスを含む「五大国(米・英・仏・伊・日[21])」の利害対立が表面化し、とりわけ、国際連盟規約起草における日本の人種的差別撤廃提案が否決されたことは禍根として残った。1921年(大正10年)には、「国際連盟規約への抵触」「日英双方国内での日英同盟更新反対論」「日本との利害の対立から日英同盟の廃止を望むアメリカの思惑」「日本政府の対米協調路線」を背景にワシントン会議が開催される。ここで、「日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約の締結」および「日英同盟の更新は行わない事」が決定となり、1923年(大正12年)を以って「日英同盟」は前述「四カ国条約」へと移行(拡大・希薄化)した。
「拡大」とはいっても、これは、日英以外の新たな条約加盟国となった「アメリカ」と「フランス」の同意が得られない場合、当然、機能不全となるため、実質的には弱体化であったと言える。当時のイギリスの外相アーサー・バルフォアは「20年も維持し、その間二回の大戦に耐えた日英同盟を(実質)破棄することは、たとえそれが不要の物になったとしても忍び難いものがある。だがこれを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」という心境を吐露している。ワシントン会議におけるアメリカの狙いは、日本の太平洋地域、特にフィリピンへの進出を阻むこと、そして日英同盟を破棄させることにあった、といわれる。後年ヘンリー・キッシンジャーは、四カ国条約を「遵守されなくても如何なる結果ももたらさない条約」と評した。
新日英同盟
2023年(令和5年)1月12日、日本と英国は新たに日英円滑化協定を締結した。これは、日英の部隊が共同訓練などで相手国を訪問した際の法的地位などを定めた協定で、出入国時の査証(ビザ)申請要件免除や派遣国の運転免許証の有効化、活動時の武器弾薬の所持許可などを盛り込んでいる。
つまり、それぞれの軍隊(自衛隊・イギリス軍)が他方を訪問する際の面倒な入管などの手続きを簡素化することによって、それぞれの軍隊の協働する作戦が円滑に行うことができる。これをうけて、英首相官邸は「日英同盟を締結した1902年以来、最も重要な日英間の防衛協定」と発表した。事実上の日英同盟復活と言われている。協定の目的について、英国軍の日本領土駐在を認めていることから、インド太平洋での日英両軍の大規模な展開だとしている。
この背景について、英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)の秋元千明日本特別代表は、ロシアや中国の覇権主義的な動きと米国の存在感の低下に触れながら「米国だけで中露両国に対応できなくなった。補完役を果たすのが日英。米国を加えた三国同盟が目指されている」と語る。また英国側の視点として、返還後の香港での民主化運動の弾圧などを通じ「中国への警戒心が高まった」と指摘。「ブレグジット(EU離脱)で欧州から解放され、インド太平洋への関与を強めている」と話す。今後、航空自衛隊戦闘機の英国派遣など、関わりが深まると予測しつつも、単純な「日英同盟の復活」という見方には異を唱える。「一緒に戦争する攻守同盟が復活するわけではない。相手を縛らない緩やかな協力だ」とし、中国を過度に刺激しない英国の姿勢を強調している。
なお、日英両国による共同訓練自体は、協定締結以前から行われている。2018年(平成30年)には既に、陸上自衛隊が米軍以外とでは初となる国内における陸軍種間の共同訓練を英陸軍との間で実施している。9月30日から10月12日までの間、日英両参加部隊は、長距離隠密偵察及び統合火力誘導に係る訓練を、富士学校、北富士演習場及び王城寺原演習場で行った。2019年には、陸上自衛隊として初めて英国へ訓練部隊を派遣し、英国における英陸軍との実動訓練「ヴィジラント・アイルズ19」を実施した。
関連年表
1854年(安政1年)- 日英和親条約が締結される。
1858年(安政5年)- 日英修好通商条約が締結される。
1899年(明治32年)- 1894年(明治27年)調印の日英通商航海条約が実施される。
1895年(明治28年)- 日清講和条約後、独仏露の三国干渉があり、このころ日英同盟の機運が生じたといわれる[33]。
1901年(明治34年)- 10月16日から交渉を開始する。締結までの間に伊藤博文が日露協商交渉を実施したが、失敗する。
1902年(明治35年)1月30日 - 日英同盟締結。
1904年(明治37年)- 日露戦争開戦。
1905年(明治38年)- 日露戦争終戦。7月29日、桂・タフト協定締結。8月12日、日英同盟(一次改訂版)をロンドンで調印。9月5日、日露講和条約締結(帝政ロシアの敗北、日本の勝利)。
1907年(明治40年)- 英露仏による三国協商が成立。7月30日、第一次日露協約調印。
1909年(明治42年)- 9月4日、満州及び間島に関する日清協約を調印する。
1910年(明治43年)- 7月4日、第二次日露協約調印。韓国併合(日本統治時代の朝鮮)。
1911年(明治44年)- 辛亥革命。2月21日に日米新通商航海条約を調印して、日本の関税自主権回復。7月13日、日英同盟(二次改訂版)をロンドンで調印。
1912年(明治45年)- 中華民国が成立する。7月8日、第三次日露協約調印。
1914年(大正3年)- 8月23日、日本はドイツ帝国へ宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦する(第一次世界大戦下の日本)。
1915年(大正4年)- 対華21ヶ条要求。
1916年(大正5年)- 7月3日、第四次日露協約調印。
1917年(大正6年)- ロシア革命。
1918年(大正7年)- シベリア出兵。11月、ドイツ革命。第一次世界大戦終戦により日本とイギリスは戦勝国となる。
1919年(大正8年)- パリ講和会議。
1921年(大正10年)- 日本とイギリス、アメリカ合衆国、フランスとの四カ国条約により日英同盟の廃止を決定。
1923年(大正12年)- 8月17日、日英同盟失効。
2023年(令和5年)- 1月12日、日英円滑化協定締結。
2023年(令和5年)5月18日、共同文書「広島アコード[34]」を発表。「準同盟国」の色彩を強化[35]。
日露戦争
対露仏同盟
日本にとって、当時世界一の超大国であったロシア帝国の脅威は国家存亡の問題であった。それは、日本側は日清戦争勝利による中国大陸への影響力の増加、ロシア帝国側は外交政策による三国干渉後の旅順及び大連租借権、満州鉄道利権の獲得により顕著となり、両国の世論も開戦の機運を高めていった。
しかし、日清戦争に勝利し、わずかばかりの植民地を得たに過ぎない新興国の日本の勝算は非常に低く、さらに軍備拡大のための資金調達に苦労していた。日英同盟はこの状況に少なからず日本にとって良い影響を与えることになる。
当時のロシア帝国は対ドイツ政策としてフランス共和国と同盟関係(露仏同盟)になっていた。日露開戦となると、当然軍事同盟である露仏同盟が発動し、日本は対露・対仏戦となってしまう危険性を孕んでいた。以上の状況に牽制として結ばれた日英同盟は、1対1の戦争の場合は中立を、1対複数の場合に参戦を義務づけるという特殊な条約であった(これは戦況の拡大を抑止する効果だと思われる)。この結果、日英同盟は露仏同盟にとって強力な抑止力となり、上記の条約内容からフランスは対日戦に踏み込むことができなくなったばかりか、軍事・非軍事を問わず対露協力ができなくなった。
イギリスの対日協力
当時、世界の重要な拠点はイギリスとフランスの植民地になっており、主要港も同様であった。後に日本海海戦により壊滅したバルチック艦隊は極東への回航に際して港に入ることができず、スエズ運河等の主要航路も制限を受けた。また、イギリスの諜報により逐一本国へ情報を流されていた。
日本にとって日英同盟は、「軍事資金調達の後ろ盾」、「フランス参戦の回避」、「軍事的なイギリスからの援助」、「対露妨害の強化」といった、日露戦争において大きな保証を得るという側面を持つことになった。
ちなみに日露戦争においては、モンテネグロ公国も日本に対して宣戦布告したとされる。その場合、日本は国際法上2国を相手に戦争したこととなり、イギリスに参戦義務が生じていたこととなる。結局、モンテネグロ公国の宣戦布告は無視され、モンテネグロは戦闘に参加せず、講和会議にも招かれていない。もっとも、モンテネグロが実際に宣戦布告していたか、宣戦布告が正規のものだったかどうかは、異説がある。
第一次世界大戦
太平洋派兵
日本は、日英同盟に基づき連合国の一員として1914年8月23日に第一次世界大戦に参戦した(ただし外務大臣加藤高明は、日本国政府は同盟条約上参戦の義務を負う立場ではないとし、同盟の情誼とドイツ帝国の根拠地の東洋からの一掃の好機であることとを参戦の理由としている[36])。ドイツ帝国に宣戦布告したことにより、日清戦争後の三国干渉によってドイツが中国から得た膠州湾租借地、19世紀にスペインから得た南洋諸島を、日本は参戦後瞬く間に攻略して占領し、極東および太平洋におけるドイツによる軍事的脅威を一掃した 。
さらに、イギリスからの要請を受けて、イギリス帝国の一部であるカナダの太平洋沿岸部における、ドイツ海軍艦艇による通商破壊戦に対して警戒することを目的に、巡洋艦「出雲」を派遣した。
地中海派兵
マルタ共和国旧英国海軍墓地 (現英連邦墓地) にある修復直後の日本海軍第二特務艦隊戦没者の墓。
大戦後半欧州戦線で連合国側が劣勢になると、イギリスを含む連合国は、日本軍の欧州への派兵を要請してきた。これに対して日本政府は遠隔地での兵站確保は困難であるとして陸軍の派遣は断った。
しかしながら、ドイツ・オーストリア=ハンガリー海軍Uボート及び武装商船の海上交通破壊作戦が強化され、1917年1月からドイツおよびオーストリアが無制限潜水艦作戦を開始すると連合国側の艦船の被害が甚大なものになり、イギリスは日本へ、地中海へ駆逐艦隊、喜望峰へ巡洋艦隊の派遣を要請した。
日本にとって脅威を受けるわけでもなく、さらに直接的に何の利益も生まないヨーロッパへの派兵を最初は渋っていた日本政府も、日本海軍の積極的な姿勢と占領した膠州湾租借地と南洋諸島の利権を確実なものとするべく、1917年2月7日から順次日本海軍第一特務艦隊をインド洋、喜望峰方面、第二特務艦隊を地中海、第三特務艦隊を南太平洋、オーストラリア東岸方面へ派遣した。
中でも地中海に派遣された第二特務艦隊の活躍は目覚ましかった。大戦終結までの間、マルタ島を基地に地中海での連合国側艦船の護衛に当たり、イギリス軍艦21隻を含む延べ船舶数計788隻、兵員約70万人の護衛に当たった。そして、被雷船舶の乗組員7,075人を救助している。日本海軍が護衛に当たった「大輸送作戦」により、連合国側はアフリカにいた兵員をアレクサンドリア(エジプト)からマルセイユ(フランス)に送り込むことに成功している。
特に、地中海での作戦を開始した1917年4月9日から1か月と経たない5月3日、駆逐艦松と榊はドイツUボート潜水艦の攻撃を受けたイギリス輸送船トランシルヴァニア号の救助活動に当たり、さらに続くUボートの魚雷攻撃をかわしながら、3,266名中約1,800人のイギリス陸軍将兵と看護婦の救助に成功した(その他の特務船と漁船による救助で合計3,000人を救助)。これ以前、救助活動にあたったイギリス艦船が二次攻撃で遭難して6,000名の死者を出したことにより、たとえUボートにより被害を出した船が近くにいたとしても、救助しないということになっていた。そのような状況での決死の救助活動であり、以来、日本海軍への護衛依頼が殺到した。後に、両駆逐艦の士官は、イギリス国王ジョージ5世から叙勲されている。
ところが、それからまた1か月後の6月11日、駆逐艦榊はオーストリア=ハンガリー海軍のUボート(Smu-27)の攻撃を受け、魚雷が火薬庫に当たったため爆発で重油タンクより前部、船体の3分の1が一瞬のうちに、吹き飛んでしまった。この攻撃により、艦長以下59名が死亡した。
第二特務艦隊は、駆逐艦榊の59名を含み78名の戦没者を出した。これら戦没者の慰霊碑が、マルタの当時のイギリス海軍墓地に榊遭難から1年後に建立された。慰霊碑はイギリス海軍墓地の奥の一番良い場所を提供され、当時、日本海軍の活躍をいかにイギリス海軍が感謝していたかがわかる。
なおマルタの慰霊碑は、第二次世界大戦時のドイツ軍によるマルタ包囲作戦で爆撃を受け、上4分の1が欠けてしまった。長らくその状態で荒れていたが、1974年に新しく慰霊碑を作り直して復元した。
日本赤十字社救護班派遣
1914年9月頃、閣議において日本赤十字社より救護員を英仏露三国に派遣することが決定された。日赤はこれに応じて人員を選出した。その数は、英国に看護婦長2名、看護婦20名、フランスに看護婦長2名、看護婦 21名、ロシアには看護婦長1名、看護婦12名、であった。ロシア派遣班は、同年 10月23日に東京を出発、英国派遣班とフランス派遣班は同年12月19日横浜港を出帆した(なお、これに先立ち青島攻撃の時に、日赤は初めての看護婦組織による救護班の海外戦地派遣を行っている)。
参考:『職工事情』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E5%B7%A5%E4%BA%8B%E6%83%85
『職工事情』(しょっこうじじょう)は、日本の農商務省により1903年(明治36年)に発行された、各工業部門の労働状況に関する調査報告書。
内容
原本は5つの分冊で構成される。それぞれ『綿糸紡績職工事情』、『生糸職工事情・織物職工事情』、『鉄工その他を含む職工事情』、『付録一』、『付録二』である。『付録一』には女工の虐待などについて各府県に照会した回答を記録しており、『付録二』には女工や工場主などの関係者との談話を収録している。
経緯
日清戦争を機に発展した工場生産は新たな社会問題を引き起こした。1897年には労働争議の件数が急増するなど労働者の問題が顕在し、これを契機に政府は工場調査を開始し、この『職工事情』の他に1897年に『工場及ビ職工ニ関スル通弊一斑』、1902年に『工場調査要領』を発表している。
これらの調査は工場法制定に向けて行われたものであったが、内閣の更迭などがあり法案提出は見送られた。その後1900年に農商務省工務課に窪田静太郎を主任として「工場調査掛」が設置された。嘱託には桑田熊蔵、久保無二雄、広部周助、横山源之助などが就任して工場の現状と弊害が調査された。
1903年3月に全5冊が印刷配布されるが、1904年に日露戦争が勃発すると調査掛は休止となりそのまま廃止となった。また、配布された範囲については明らかになっておらず、戦前においては入手することはおろか閲覧することも難しかった。
参考:『職工事情』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%81%B7%E5%B7%A5%E4%BA%8B%E6%83%85-80501#
しょっこうじじょうショクコウジジャウ【職工事情】
調査記録。五巻。農商務省商工局工務課工場調査掛編。明治三六年(一九〇三)刊。社会問題の発生に伴い工場法制定の必要が生じ、その準備として行なわれた工場および工場労働者の実態調査。繊維工業をはじめ、鉄工・ガラス・セメント・マッチなどの多部門にわたる職工の実態を労働時間・雇用条件・賃金・厚生・保健状況など多角的に調査し、付録には各府県からの労働実態の回答、関係者の談話などが収められている。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典
1904~05年,朝鮮および満州 (中国東北地方) の支配権をめぐる対立から発展した日本・ロシア間の軍事衝突。 1898年ロシアは中国 (清朝) に圧力をかけ,戦略的に重要な南満州の遼東半島南端にある旅順港の租借権を獲得した。またこれに先立つ 1896年には中国と対日同盟を結び,合せて東支鉄道の敷設権を得て,中国領満州を通過しロシアの海港ウラジオストクに達する道を開き,路線地として満州の地にわずかながら重要な足場をつくった。 1891年から 1904年にかけてロシアはシベリア横断鉄道を築いたものの,満州における軍事力を増強するに足る人員および物資を輸送できるだけの設備は整っていなかった。一方,日本は 1894年の日清戦争以来軍事力を確実に増強し,1904年の極東駐屯師団数は明らかにロシアを上回っていた。 1903年ロシアが満州からの撤兵同意を翻したのを,日本は攻撃の機とみなした。
1904年2月8日,奇襲に出た日本海軍の主力艦隊が旅順港のロシア艦隊を包囲して,戦いの火ぶたが切られた。同日陸軍も朝鮮半島に上陸し,まもなく完全に制圧した。5月別途遼東半島に上陸した日本軍は,25日南山を奪取して旅順港のロシア駐屯軍を満州の本隊から切離した。8月 10日旅順から出撃したロシア艦隊との間に黄海海戦が戦われ,日本軍が勝利,14日の蔚山沖海戦によって,日本は制海権を獲得した。8月 28日~9月4日には遼陽周辺で日露の野戦軍主力が会戦し,ロシア軍は退却した。 10月ロシア軍はシベリア横断鉄道経由で援軍を受け巻返しをはかったが,その攻撃はかえって統制力に欠けた優柔不断な面をさらけ出す結果となった。日本軍もまた数回にわたる攻撃の失敗で大きな犠牲を出し,旅順港の長期包囲戦に業を煮やしていた。日本軍の統制に分裂の兆しがみえはじめた矢先の 1905年1月1日,戦意を失った旅順港のロシア軍司令官は,3ヵ月分の糧食と十分な軍需品をたくわえたまま,配下にはかることなく独断で港を日本軍に引渡してしまった。陸上での最終戦となった2~3月の奉天会戦は,ロシア軍 35万対日本軍 25万の兵力を投入して行われた。ロシア軍9万,日本軍7万に上る死傷者を出した長期戦の末,ロシア軍司令官 A.N.クロパトキンは軍を北に撤退させ,奉天は日本軍の手中に落ちた。海上での戦闘も,最終的には日本軍が優勢になった。5月 27日,日本海海戦で東郷平八郎大将 (のち元帥) 率いる日本海軍主力艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った。バルチック艦隊は Z.P.ロジェストベンスキー提督指揮下,旅順の包囲をとくため 1904年 10月リエパヤのバルチック港を出航し,戦いがウラジオストクに達する頃到着した。すでに日本は経済的に疲弊していたが,日本海海戦の決定的勝利と,ロシア国内の政情不安が相まって,ロシア政府を平和条約の場へと導くこととなった。
アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトを調停役に,1905年8月 10日から9月5日にかけて合衆国のニューハンプシャー州ポーツマスで講和会議が開かれた。この場で締結されたポーツマス条約で,日本は旅順港を含む遼東半島と東支鉄道の一部 (旅順-長春間,南満州鉄道) の支配権を獲得し,サハリン島南部を領土に加えた。ロシアは南満州の中国への返還に同意し,日本の朝鮮支配権も認めた。日露戦争は日本が初めて当面した本格的戦争で,直接戦闘に参加した総兵力は 108万余,艦船 31.8万t,疾病をも含めた死傷者は 37万余,喪失艦船 91隻であった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『日本海海戦』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6
日本海海戦(にほんかいかいせん)は、日露戦争中の1905年(明治38年)5月27日から5月28日にかけて、大日本帝国海軍の連合艦隊とロシア帝国海軍が極東へ送った第2・第3太平洋艦隊とが、日本海で戦った海戦である。
主力決戦は対馬東方沖海域で行われた。日本以外の国々では、この海戦を対馬海戦と呼ぶ(ロシア語「Цусимское сражение」、英語「Battle of Tsushima」)。
ロシアの第2・第3太平洋艦隊はバルト海艦隊(バルチック艦隊)から引き抜いて編成されたものであるため、日本ではこの艦隊を「バルチック艦隊」と呼ぶことが通例となっている。本稿でもこの呼称を用いる。
ウラジオストク港を目指し対馬海峡(東水道)を突破しようとしたバルチック艦隊を連合艦隊が阻止・邀撃する形となり、バルチック艦隊は艦艇のほぼ全てを損失した一方で[注釈 5]、連合艦隊の被害は小艦艇数隻のみの喪失に留まり、連合艦隊は海戦史上稀に見る勝利を収めた。
海戦の背景・遠因は両国が朝鮮半島周辺の制海権を争ったことにある。海戦の結果、ロシアは戦争の形勢逆転の最後の手段を失い、拒否していた日本との講和交渉を受け入れることとなった。
参考:『日本海海戦』記念館三笠キッズページ https://www.kinenkan-mikasa.or.jp/kids/war/kaisen.html
日本海海戦
日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が日本海で戦った大海戦です。東郷司令長官ひきいる連合艦隊(戦艦4隻・巡洋艦8隻以下96隻)は、バルト海のロシア基地から派遣されたバルチック艦隊(戦艦8隻、巡洋艦6隻以下38隻)を、対馬沖で待ちかまえ、1905年5月27日・28日の二日間にわたって激しい戦いを行い、バルチック艦隊の19隻を撃沈、7隻を捕獲または抑留し、同艦隊を壊滅させました。一方日本側の損失は百トン未満の水雷艇3隻だけであり、ロシアはこの敗戦で太平洋に配備していた艦隊を全て失ったため戦意を失い、日露両国間で講和の話し合いが進み、アメリカ大統領の仲介でポーツマスにおいて講和条約が結ばれました。
2020年池袋と渋谷について問う出題。
[池袋]
東京都豊島区(としまく)のほぼ中央にある一地区。JR山手(やまのて)線・埼京線・湘南新宿ライン、東武鉄道東上線、西武鉄道池袋線、東京地下鉄丸ノ内線・有楽町(ゆうらくちょう)線・副都心線が集まる副都心の一つで、新宿、渋谷(しぶや)とともに、にぎやかな商店街、歓楽街を形成している。かつて、このあたりには多くの池があり、1990年代後半まで、池袋駅西口の南、元池袋公園内には、江戸時代にホタルと月の名所であった丸池の名残(なごり)とされる小池があった。この丸池は弦巻(つるまき)川の水源池で、付近は窪地(くぼち)になっていて地形が袋のようになっていたことが地名の由来という。江戸時代から明治中期まで豊島郡池袋村など山手台地上にあり、付近一帯は広い畑地であったが、1903年(明治36)日本鉄道品川線・豊島線(現、JR埼京線・山手線)の池袋駅が開設され、1909年豊島師範学校ができてから発展し始めた。1914年(大正3)東上鉄道(現、東武東上線)、翌1915年武蔵野(むさしの)鉄道(現、西武池袋線)が開通し、1918年には築地(つきじ)から立教大学が移転してきた。しかし、第二次世界大戦前は隣駅の大塚のほうが繁栄していた。戦後、郊外の住宅地化が急激に進むにつれ、池袋の優位性が発展を引き起こし、とくに1954年(昭和29)営団地下鉄丸ノ内線(現、東京地下鉄丸ノ内線)が開通してから副都心へと発展した。駅の東側には西武、池袋パルコ、大型家電量販店、映画館、飲食店、商店などが集まる。また旧東京拘置所(巣鴨プリズン)跡地に1978年高層建築のサンシャイン60(240メートル)を有するサンシャインシティが建設され、国際水族館やプラネタリウムがあるワールドインポートマート、専門店街のアルパ、古代オリエント博物館やサンシャイン劇場がある文化会館、ホテルなどの建物がある。一方、駅の西口は戦災後、闇(やみ)屋のバラック街であったが、1962年整理され面目を一新し、東武百貨店、東京芸術劇場のほか、ホテル、銀行などがあり、旧豊島師範跡は池袋西口公園になっている。西池袋の自由学園明日館(じゆうがくえんみょうにちかん)(1921年建築)は国指定(1997)重要文化財で、帝国ホテルの設計で知られるF・L・ライトの手になる。丸池の名残とされる小池があった元池袋公園は下水道工事に伴い移転し、小池も埋められた。1998年(平成10)東隣に開園した元池袋史跡公園に「池袋地名ゆかりの池」の記念碑が残されている。
[沢田 清]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『池袋』
[渋谷]
東京都渋谷区の南部、JR渋谷駅を中心とする地区。かつて渋谷川の谷が入り江であったころ、海浜で塩谷の里といったこと、あるいは鎌倉時代に相模国(さがみのくに)の渋谷氏の所領であったことが地名の由来という。東の青山台地と西の南平台(なんぺいだい)などの台地の間に渋谷川の谷あいがあり、大山(おおやま)街道筋(すじ)の交通上の要地を占め、駅東方の宮益坂(みやますざか)は茶屋などの立場(たてば)(休息場)でにぎわった。その近くにある渋谷八幡(はちまん)は江戸八所八幡の一つで、渋谷重家(しげいえ)(生没年不詳)が当社に祈って金王丸(こんのうまる)とよぶ武勇で名をあげた男子を得たことから金王八幡ともよばれる。その付近が渋谷氏の城跡ともいわれ、古くから要地であったことがわかる。一方、西方の坂は道玄坂(どうげんざか)で、和田義盛(よしもり)の残党の道玄が山賊をはたらいた所という。現在も交通の要地で、JR山手(やまのて)線・埼京(さいきょう)線、東急電鉄東横線・田園都市線(旧、新玉川線)、京王電鉄井の頭線(いのかしらせん)、東京地下鉄銀座線・半蔵門線(はんぞうもんせん)・副都心線が通る。さらに首都高速道路と青山通りが並行して、また明治通りがJR山手線沿いに走り、日夜交通量が多い。
1930年(昭和5)前後、郊外電車が開通、さらに1938年に東京高速鉄道(現、東京地下鉄銀座線)が通じて郊外の住宅地と都心を結ぶターミナルとして急速に発展していった。1933年には東横デパート(東急百貨店東横店。2020年3月で営業を終了)の工事が始まり、1956年(昭和31)に東急文化会館ができるなど、東急系資本の果たした役割は大きい。なお、東急文化会館は2003年(平成15)閉鎖され、その跡地には2012年に渋谷ヒカリエが開業した。東急百貨店本店、東急プラザ渋谷のほか、西武百貨店渋谷店、渋谷パルコなどの大型小売店舗も進出し、渋谷駅周辺、とくに道玄坂方面は、新宿、池袋と並ぶ山手の副都心のショッピングとアミューズメントの街として繁栄している。2000年には帝都高速度交通営団(現、東京地下鉄。通称・東京メトロ)、東京急行電鉄(現、東急電鉄)、京王電鉄3社により駅に直結する複合施設(ホテル、事務所、店舗)である渋谷マークシティが開業した。ハチ公口の駅前広場にある忠犬ハチ公の銅像は、主人の死を知らずに11年間も主人の帰りを待ち続けたという場所に1934年建立、1948年再建され、渋谷のシンボルとして待ち合わせ場所となっている(1989年に数メートル西へ移動)。渋谷の東方には青山学院大学、聖心女子大学、国学院大学など学園地区がある。ハチ公の銅像から北方、NHK放送センター、国立代々木競技場(こくりつよよぎきょうぎじょう)、渋谷区総合庁舎に至る坂道は公園通りとよばれ、若者向けのファッションの街を形成。その東方には、JR山手線に沿って複合施設MIYASHITA PARK(ミヤシタパーク)(2020年開業)があり、渋谷区立宮下公園はその4階に位置している。
現在、行政上渋谷とよばれる地域は、東部の宮益坂側の1~4丁目の地区であり、西部の道玄坂側は道玄坂、宇田川町(うだがわちょう)、神南(じんなん)の各地区に分かれている。なおその外側に南平台町、松濤(しょうとう)などの高級住宅街がある。
[沢田 清]
渋谷の変貌(へんぼう)
渋谷駅にはJR線、東急線、京王線、東京地下鉄線が乗り入れるものの、鉄道会社それぞれが再開発を進めたうえ、JR山手線や国道246号により東西南北に分断され、混雑がひどく、乗換えや回遊がしづらいという難点があった。このため2012年1月に特定都市再生緊急整備地域に指定され、以後、2027年度の完成を目ざし、「100年に一度の大開発」といわれる駅ホームの移動や駅周辺の大規模再開発が進んでいる。
駅自体では、2013年3月に東急東横線渋谷駅が東口にある渋谷ヒカリエ地下へ移転し、東京地下鉄副都心線との相互直通運転を開始。これにより東急東横線から副都心線経由で西武有楽町(ゆうらくちょう)線・池袋(いけぶくろ)線、東武東上線までの直通運転が実現した。2020年(令和2)1月には、東京地下鉄銀座線渋谷駅ホームを東の明治通り直上まで移し、ほかの鉄道への乗換えを容易にした。2020年6月には、南側に遠く離れていたJR埼京線ホームをJR山手線ホームと並列の位置へ移動し、その後、JR渋谷駅ホームの改良工事も予定されている。
複合高層ビルの整備では、2017年に駅北部に渋谷キャスト(地上16階、地下2階)、2018年に東横線駅南に渋谷ストリーム(地上35階、地下4階)、東横線跡地に渋谷ブリッジ(地上7階)、2019年には駅西部に渋谷ソラスタ(地上21階、地下1階)、駅西口に渋谷フクラス(地上19階、地下5階)、JR駅直結の渋谷スクランブルスクエア東棟(地上47階、地下7階)などが相次ぎ開業した。2023年には駅南の桜丘(さくらがおか)口地区、2024年には駅東の渋谷二丁目17地区に再開発ビル、2027年度には東急百貨店東横店跡地に渋谷スクランブルスクエアの中央棟・西棟が完成する予定である。また各ビルをつなぐデッキなども整備される。
[編集部 2020年4月17日]
[参照項目] | 青山学院大学 | 国学院大学 | 渋谷(区) | 聖心女子大学 | 忠犬ハチ公 | 山手
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
池袋・渋谷の鉄道ターミナル+百貨店+娯楽施設+学校で発展させる、阪急社長小林一三の経済手法を習ったものとある。
[小林一三]
[生]1873.1.3. 山梨,韮崎
[没]1957.1.25. 大阪,池田
実業家。 1892年慶應義塾卒業。翌 1893年三井銀行に入社したが 1907年退社,同年箕面有馬電気軌道 (現阪急電鉄 ) の設立に参加して専務に就任,以後鉄道沿線の宅地開発,娯楽施設の設置により路線を新設。やがて実業界の第一人者となり,阪急百貨店などの設立にも成功し,またこの間東京電灯,日本軽金属の社長を歴任。興行面では 1913年宝塚少女歌劇団,1937年東宝映画を設立。 1940年第2次近衛内閣の商工大臣,1945年幣原内閣の国務大臣兼復興院総裁となったが,1946年追放令公職追放により公職を退いた。 1951年追放解除とともに東宝社長に復帰,東京有楽町のアミューズメント・センターの復興,宝塚歌劇の強化に努め,大阪,京都,名古屋に大劇場を建て,映画,演劇,ミュージカルの興行を盛んにした。 1956年には新たな国民演劇育成を目指して大阪梅田と東京新宿にコマ劇場を建設した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事 コトバンク『小林一三』
参考:『鉄道国有法』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E5%9B%BD%E6%9C%89%E6%B3%95
鉄道国有法(てつどうこくゆうほう、(明治39年3月31日法律第17号)は、全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するため、私鉄を国有化することを定めた日本の法律である。
1906年(明治39年)3月31日公布、1920年(大正9年)8月5日改正。1987年(昭和62年)4月1日、日本国有鉄道改革法等施行法(昭和61年法律第93号)110条の規定により日本国有鉄道法と共に廃止。
これにより、1906年から翌年の1907年(明治40年)にかけて、下記の17社の2,812.0哩(約4,500 km)が買収された。買収前には1,600哩(約2,600 km)に過ぎなかった官設鉄道は、4,400哩(約7,100 km)と3倍に増え、私鉄は地域輸送のみに限定されることとなった。
国有化の目的には、「陸上交通機関ノ覇王」である鉄道の国有による積極的な経済発展の促進のほか、113億円(当時)に達した日露戦争費外債を低利外債への借換えのための担保資産としての利用、外国人による主要鉄道会社株式取得の回避など、日露戦争後の厳しい財政・経済状態に対する対応という消極的動機も強く働いていた。
1906年、紆余曲折を経た鉄道国有法案は、西園寺公望内閣によって第22帝国議会に提出される。渋沢栄一に加えて井上馨や加藤高明[6]、高橋是清も反対論を唱えて衆議院を説得しようとしたために政府は彼らの説得に苦慮したが、同年3月16日に賛成243・反対109で可決された。貴族院では曾我祐準(日本鉄道社長)や仙石貢(九州鉄道社長)が反対論を唱えたが、研究会の指導者三島弥太郎の工作によって3月27日に賛成205・反対62で修正付きで可決した。西園寺が総裁である立憲政友会は、第22帝国議会の会期終了日であったこと等により、両院協議会の開催を求めずに、貴族院回付案(修正した案)に同意することにより成立をはかり、反対派が退席するなか賛成214で可決し法案が成立した[7]。これにより、井上の悲願であった鉄道国有化は漸く実現し、17私鉄が国有化されることとなったのである。
この時提出された法案の原案は、17私鉄の他に15私鉄を加えた32私鉄を買収するものであった。これは、閣議において17私鉄を買収するという原原案に15私鉄を加えたもので、衆議院は通過したものの、貴族院で修正され、原原案の17私鉄買収に戻った経緯がある。追加の15私鉄は、次のとおりであった。
川越鉄道、成田鉄道(初代)、東武鉄道、上武鉄道、豆相鉄道、水戸鉄道(2代)、中越鉄道、豊川鉄道、尾西鉄道、近江鉄道、南海鉄道、高野鉄道、河南鉄道、中国鉄道、博多湾鉄道
このうち、博多湾鉄道、中国鉄道、豊川鉄道は戦時買収により、また中越鉄道、水戸鉄道、成田鉄道はそれ以前に買収されて国鉄線に組み込まれている。
北海道炭礦鉄道
甲武鉄道
日本鉄道
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『浮雲』二葉亭四迷 平易な文体 近代文学の先がけ
『舞姫』『雁』森鴎外 内面心理
『たけくらべ』『にごりえ』女性心理
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『こころ』
主な文学運動
言文一致体
写実主義
自然主義
歴史能力検定日本史
参考:『蒲団 (小説)』Wikipedia
『蒲団』(ふとん)は、田山花袋の中編小説。日本の自然主義文学を代表する作品の一つで、また私小説の出発点に位置する作品とされる。『新小説』1907年(明治40年)9月号、1908年(明治41年)3月号に掲載され、のち易風社から刊行された『花袋集』(1908年)に収録された。末尾において主人公が女弟子の使っていた夜着の匂いをかぐ場面など、性を露悪的なまでに描き出した内容が当時の文壇とジャーナリズムに大きな反響を巻き起こした。
作品の背景と影響
日露戦争後の当時、島崎藤村の『破戒』(1906年)が非常な喝采を博し、国木田独歩の『独歩集』が好評であり、「私(花袋)は一人取残されたような気がした。(略)何も書けない。私は半ば失望し、半ば焦燥した」という状況にあった(『東京の三十年』)。
花袋は『破戒』を強く意識しつつ、ハウプトマンの『寂しき人々』も参照し、自身に師事していた女弟子とのかかわりをもとに『蒲団』を執筆した。自分の恋愛をモデルにした小説としては、これより先に森鷗外の『舞姫』があったが、下層のドイツ人女性を妊娠させて捨てるという内容であり、女弟子に片想いをし、性欲の悶えを描くという花袋の手法ほどの衝撃は与えなかった[要出典]。小栗風葉は『蒲団』の「中年の恋」という主題に着目して、『恋ざめ』を書いたが、自然主義陣営の仲間入りはできなかった。以後3年ほど、花袋は文壇に君臨したが、一般読者にはあまり受けなかった。
『蒲団』は私小説の出発点と評されるが、私小説の本格的な始まりは、1913年(大正2年)の近松秋江の『疑惑』と木村荘太の『牽引』だとする平野謙の説がある。
花袋の盟友ともいうべき島崎藤村は、その後、姪との情事を描いた『新生』(1919年)を書いて花袋にも衝撃を与えた。花袋や藤村はその後、むしろ平凡な日々を淡々と描く方向に向かった。
モデル問題
芳子のモデルは岡田美知代で、花袋の弟子だった。秀夫のモデルは恋人の永代静雄である。『蒲団』の世評が高まったことで、2人の人生にも大きな影響を与えた。
あらすじ
34歳くらいで、妻と3人の子供のある作家の竹中時雄のもとに、横山芳子という女学生が弟子入りを志願してくる。始めは気の進まなかった時雄であったが、芳子と手紙をやりとりするうちにその将来性を見込み、師弟関係を結び芳子は上京してくる。時雄と芳子の関係ははたから見ると仲のよい男女であったが、芳子の恋人である田中秀夫も芳子を追って上京してくる。
時雄は監視するために芳子を自らの家の2階に住まわせることにする。だが芳子と秀夫の仲は時雄の想像以上に進んでいて、怒った時雄は芳子を破門し父親と共に帰らせる。
時雄は芳子の居間であった2階の部屋に上がり、机の引出しをあけ、古い油の染みたリボンを取って匂いをかぎ、夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いをかぎ、性欲と悲哀と絶望とにたちまち胸をおそわれ…芳子が常に用いていた蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣く。
批評
本作品が発表された直後の明治40年10月号の『早稲田文学』において、島村抱月、小栗風葉、相馬御風、片上天弦ら9人の論者が合同で「『蒲団』合評」と題する書評を寄稿している。その中で島村抱月は本作を「此の一篇は肉の人、赤裸々の人間の大胆なる懺悔録」と評した。
参考:『辛酸なめ子の着物のけはひ 『蒲団・重右衛門の最後』田山花袋』PRESIDENT https://www.president.co.jp/nanaoh/article/column/1589/4769/
2021年建造物の名称と設計者を問う形で出題。
東京都港区赤坂にある洋風建築。 1872年旧紀伊藩主徳川茂承が同藩の所有であった上屋敷建物,敷地を天皇家に献上したもので,同年赤坂離宮と命名された。 73年皇城の焼失により,89年まで仮皇居として使用された。現在の建物は皇太子時代の大正天皇のために計画されたもの。片山東熊が設計を担当し,1909年完成。建築様式は当時の欧米の宮廷建築の通例であった新バロック様式が採用された。地震を考慮して煉瓦造,石張りの構造体をアメリカ製の鉄骨で補強した建築構造が注目される。室内は最高級の輸入調度品と今泉雄作,浅井忠,黒田清輝など当時の一流芸術家の作品で豊かに装飾された。現在は迎賓館となっている。 74年に村野藤吾によって改修された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『赤坂離宮』
明治期洋風建築の代表作の一。東京元赤坂にある。旧赤坂離宮。明治42年(1909)フランスの宮殿様式を模した建物が完成、昭和49年(1974)の改修後、外国の賓客の接待・宿泊のための建物となる。国宝。
[補説]明治以降の文化財では初めて国宝に指定された。
出典 小学館デジタル大辞泉 コトバンク『迎賓館』
1910年8月 29日に公布施行された「日韓併合に関する条約」に基づき日本が行なった韓国領有。日露戦争の結果,調印されたポーツマス条約 (1905) 第2条,日英同盟 (同年改定) 第3条においてそれぞれ日本の韓国における政治上,軍事上および経済上の卓絶した地位が承認されたが,さらに日韓協約 (同年) によって日本は韓国の外交権を獲得し,韓国は国際法上の保護国となって統監がおかれた。その間,ハーグ密使事件,伊藤博文暗殺,李完用刺傷,啓蒙運動,義兵闘争,農民反乱などの広範な運動があったが,10年8月 22日第3代統監寺内正毅と首相李完用の間で「日韓併合に関する条約」に調印がなされ,「併合」は強行された。条約8ヵ条の内容は,統治権の日本皇帝への譲与,日本帝国への韓国併合,韓国皇族らへの尊称,歳費などの供与,功労者への栄爵,恩金供与,日本の国法に従う韓国人の身体,財産の保護,日本への忠誠,韓国人の官吏登用などが記されていた。この「併合」には親日派の一進会などの日韓合邦運動などがあったが,旧官人,貴族層は併合に際し自決したり,親日派暗殺,反日義兵への援助,加入を行なった。また,知識人は言論機関を通して反対声明を出したり,反対運動に加わった。またロシアやアメリカにいる知識人も反対の言論運動を行い,在韓外国人紙・誌も反対の論旨を掲げた。しかし日本は軍隊をソウルなど韓国内要地に配置し,反対運動にそなえ,総督府を設立,ここに 45年までの日本の朝鮮統治が始った。
[韓国併合]
1910(明治43)年8月22日調印の韓国併合条約により,韓国を日本の領土としたこと
朝鮮と改称。日露戦争末期の桂‐タフト協定,第2次日英同盟,ポーツマス条約によりアメリカ・イギリス・ロシアに韓国支配を認めさせた日本は,1905年11月韓国保護条約(第2次日韓協約)で韓国の外交権を奪った。さらにハーグ密使事件を契機とし,'07年第3次日韓協約で内政権を奪い,抗日武装蜂起「義兵」を弾圧しつつ(義兵運動),'10年8月韓国併合を完成。朝鮮総督府を置き,陸軍大将寺内正毅 (まさたけ) が初代総督となった。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 コトバンク
参考:『日米通商航海条約』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E9%80%9A%E5%95%86%E8%88%AA%E6%B5%B7%E6%9D%A1%E7%B4%84
日米通商航海条約(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)とは、日本とアメリカ合衆国との条約で、以下の諸条約がある[1]。
1894年(明治27年)11月22日調印、1899年(明治32年)7月17日発効の通称「陸奥条約」(むつじょうやく)。
1911年(明治44年)2月21日調印、同年4月4日発効の通称「小村条約」(こむらじょうやく)。
1953年(昭和28年)4月2日調印、同年10月30日発効の日米友好通商航海条約(にちべいゆうこうつうしょうこうかいじょうやく)。
2.は日本が関税自主権を完全に回復し、不平等条約の改正に成功した条約。
「陸奥条約」
日米通商航海条約及付属議定書[2]
通称・略称 陸奥条約
署名 1894年11月22日[2]
発効 1899年7月17日(第16条以外)、1897年3月8日(第16条[3])[2]
現況 失効
失効 1911年7月17日(小村条約発効)[2]
文献情報 明治28年3月25日官報号外勅令
条文リンク 『条約本文』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
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陸奥宗光
日米修好通商条約にかわり、陸奥宗光外相時代(第2次伊藤内閣、伊藤博文首相)の1894年(明治27年)11月22日、栗野慎一郎駐米公使とウォルター・グレシャム国務長官のあいだで日米通商航海条約が調印され、5年後の1899年(明治32年)7月17日に効力が発生した。陸奥外相時代に締結されたため、日本が他の国と結んだ通商航海条約とともに「陸奥条約」と通称される。これによってアメリカが日本に対し保有していた領事裁判権が撤廃された。ただし、この条約も、その第2条に「アメリカは日本人移民の入国・旅行・居住に対して差別的立法をなしうる」規定を有した。この年の7月16日にイギリスとのあいだで調印された日英通商航海条約をその嚆矢として、1899年7月の発効以後日本の外国人居留地は廃止されて内地雑居状態となった。
「小村条約」
日米通商航海条約及付属議定書
通称・略称 小村条約
署名 1911年2月21日
発効 1911年7月17日
現況 失効
失効 1940年1月26日
文献情報 明治44年4月4日官報号外条約第1号
新通商航海条約の締結
小村の条約改正のなかで列国中もっとも早く締結された通商航海条約で、日本は関税自主権を回復した。
陸奥条約は1911年(明治44年)7月16日が満期日にあたり、1909年(明治42年)8月、第2次桂内閣(桂太郎首相)はそれに向けて条約完全改正の方針を閣議決定した。1910年(明治43年)、桂内閣の外務大臣小村壽太郎が条約規定にしたがって、満期日の1年前にあたることからアメリカも含む13か国に廃棄通告をおこなった[7]。改正交渉は1910年1月から列国とつぎつぎに始まった。日露戦争の勝利により日本の国際的地位は格段に向上しており、日本における立憲政治の充実が海外にも知られ、列国との交渉は順調に進行した。首相桂太郎も専任の大蔵大臣をおかず首相兼任として、小村の条約改正を全面的にバックアップした。1911年(明治44年)2月21日、アメリカのワシントンD.C.で日本の内田康哉駐米大使とフィランダー・C・ノックス(英語版)アメリカ合衆国国務長官のあいだで新しい日米通商航海条約が調印された。
陸奥の改正した旧通商航海条約には日本人移民をアメリカ政府が国内法で制約できる留保条項が設けられていたが、日本人移民はアメリカによるハワイ併合後の1900年以降さらに顕著に増加し、日本政府は移民に対する差別的法律が合衆国内で制定されるのを防ぐため、1907年(明治40年)および1908年(明治41年)に日米紳士協約を結び、自主的に移民を制限した。しかし問題は解決されなかったので、日本政府は日本人労働者のアメリカ移住に関し過去3年間実施してきた移民の制限と取締りを今後も維持するため新しい通商航海条約を結び、関税自主権を完全回復することに成功した。アメリカは新条約批准にあたり、1907年のハワイにおける日本人移民のアメリカ本土への転航禁止令の有効性について日本側に確認を求め、日本は同意した。新条約は1911年7月17日に発効し、日本は同年、イギリス、フランス、ドイツなどとも同様の改正通商航海条約をむすんで、税権の回復を成し遂げ列国と対等の立場に立つこととなった。しかし、アメリカは1924年(大正13年)、ジョンソン=リード法(通称「排日移民法」)により紳士協約を一方的に廃棄する。
日米通商航海条約廃棄通告
自動車製造事業法が徐々に国際問題化し、続いて日中戦争が勃発、拡大する中、1939年(昭和14年)7月26日、ルーズベルト政権のコーデル・ハル国務長官が日本の堀内謙介駐米大使をワシントンの国務省に呼び、「日本の中国侵略に抗議する」として本条約の廃棄を通告した[1]。6月には天津にある英仏租界を封鎖した。この問題について東京で有田八郎外相とクレーギー駐日イギリス大使との会談が開かれた。ここで有田・クレーギー協定が締結されたが、アメリカの条約破棄はこれをうけたものである。日本は日中戦争の遂行と占領地の経営にアメリカからの物資・資財・原料の輸入を必要としていたため経済面で打撃を受け、アメリカの破棄通告は、外交的にはイギリスの対日譲歩を牽制するうえで大きな影響があった。阿部内閣の野村吉三郎外務大臣はジョセフ・グルー駐日アメリカ合衆国大使とのあいだに暫定協定締結を試みたが成功せず、通告6か月後の1940年(昭和15年)1月26日に失効した[1]。これにより、日米間は「無条約時代」に入って不安定性がいっそう拡大することとなった。野村はこののち、駐米大使として太平洋戦争開戦まで日米交渉にあたった。
日米友好通商航海条約
日本国とアメリカ合衆国との間の友好通商航海条約
通称・略称 日米友好通商航海条約
署名 1953年4月2日
署名場所 東京都
発効 1953年10月30日
現況 有効
締約国 日本の旗 日本
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
文献情報 昭和28年10月28日官報第8046号条約第27号
言語 日本語、英語
主な内容 日米間の通商・投資交流の促進の為の最恵国待遇及び内国民待遇の原則
日本国とアメリカ合衆国との間の友好通商航海条約(にほんこくとアメリカがっしゅうこくとのあいだのゆうこうつうしょうこうかいじょうやく、英:Treaty of Friendship, Commerce and Navigation between Japan and the United States of America)、通称:日米友好通商航海条約(にちべいゆうこうつうしょうこうかいじょうやく)は、日本の主権回復に伴って1953年(昭和28年)4月2日、東京都において締結された日本とアメリカ合衆国との間の条約[1]。同年10月30日に発効した。
日本敗戦後の1951年(昭和26年)9月8日、49カ国がサンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)に署名し、1952年(昭和27年)4月28日に発効した。これにより、国際法上、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結したものとされ、連合国軍による占領は終了し日本は主権を回復した。
時の内閣は第4次吉田内閣(吉田茂首相)であり、外務大臣は戦後の対米協調外交を担った一人である岡崎勝男、アメリカ側全権は駐日大使のロバート・ダニエル・マーフィーであった。本条約は、日米間の通商および投資交流の促進のための最恵国待遇および内国民待遇の原則を基礎としており、日本が第二次世界大戦後に旧連合国と締結した最初の通商条約となった[1]。なお、翌年には岡崎外相とジョン・M・アリソン駐日アメリカ大使との間で日米相互防衛援助協定(MSA協定)が結ばれている。
参考:『ジョサイア・コンドル』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB
ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日) は、イギリスの建築家。明治政府によって通称「御雇外国人」として日本に招聘された。明治10年に、工部大学校(現・東京大学工学部)の造家学(建築学)教師として来日して、西洋建築学を教えた。そのかたわら、明治期の洋館の建築家としても活躍し、上野博物館や鹿鳴館、有栖川宮邸などを設計した[2]。辰野金吾はじめ創成期の日本人建築家を教育し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた。明治23年に退官した後も民間で建築設計事務所を開設し、ニコライ堂や三菱1号館など数多くの建築物を設計した。
日本人女性を妻とし、日本画、日本舞踊、華道、落語といった日本文化の知識も深かった。河鍋暁斎に師事して日本画を学び、与えられた号は暁英。
主な建造物
[現存せず]
訓盲院
開拓使物産売捌所
旧宮内省本館
鹿鳴館(華族会館)
霞関離宮(旧有栖川宮熾仁親王邸洋館)
東京大学法文経教室(旧法文科大学)
北白川宮邸洋館
香蘭女学校校舎
岩崎弥之助深川邸洋館
旧海軍省本館
東京キリスト教青年会会館
三菱一号館(レプリカ再建)
三菱二号館
聖アンデレ教会(飯倉教会)2代礼拝堂
ドイツ公使館(1906年以降はドイツ大使館)
立教女学校校舎・寄宿舎
横浜山手聖公会2代聖堂
松方正義邸
岩崎小弥太別邸(現・小田急山のホテル)
成瀬正行邸
[現存]
旧東京帝室博物館本館(現・東京国立博物館)(愛光商会銀河館として一部現存) 登録有形文化財
ニコライ堂 重要文化財
岩崎久弥茅町本邸 重要文化財
アーネスト・サトウ中禅寺別荘(英国大使館別荘記念公園) 復元
大隈重信邸温室(焼失・再建)(現・大隈会館大隈庭園)
岩崎弥之助高輪邸(現・三菱開東閣)
ウェスト像台座
岩崎家廟
岩永省一邸(一部が現・目黒雅叙園旬遊紀)
三井家倶楽部(現・綱町三井倶楽部)
旧諸戸清六邸(現・桑名市六華苑) 重要文化財
島津家袖ヶ崎邸(現・清泉女子大学本館および3号館)
古河虎之助邸(現・旧古河庭園大谷美術館)
参考:『青あるいは朱、白あるいは玄。 ジョサイア・コンドル』三菱人物伝 https://www.mitsubishi.com/ja/series/people/08/
尊王攘夷(そんのうじょうい)を主張していた長州藩の井上馨(かおる)や伊藤博文たちが密かに英国に渡って世界を垣間見ていたことはグラバーの項で述べた。明治になり、その長州の精鋭たちが日本をリードする世となって、井上外務卿が「不平等条約の改正のためには日本が物心ともに欧化する要がある」と考えた原点が若き日の英国での見聞にあったことは容易に想像される。まずは上流階級の風俗・習慣が欧化されなければならない。英語を話し外交官など外国の賓客(ひんきゃく)とダンスなどに興じるのだ。その場所として立派な洋館が必要だった。
明治16年(1883)、鹿鳴館(ろくめいかん)が日比谷に完成した。赤い絨毯(じゅうたん)。きらめくシャンデリア。西洋音楽。紳士淑女の華やかな衣装。交錯するカクテルグラス。甘美な社交ダンス。井上が頭に描いたものが現実となった。設計は工部大学校造家(ぞうか)学科(東京大学工学部建築学科の前身)の教官として招聘(しょうへい)した「お雇い外国人」ジョサイア・コンドルだった。
コンドルはロンドン大学で学び、ゴシック建築の権威であるパージェスの設計事務所で腕を磨いた。1876年、王立建築学会の若手登竜門ともいうべきソーン賞設計コンペで優勝、その翌年日本政府の招聘を受け24歳で来日した。明治10年だった。来日するや彼は教鞭(きょうべん)をとるかたわら数多くの洋館の設計に着手、学生は教室での勉強だけでなく実際の西洋建築の設計・施工に携わることが出来た。築地訓盲院(くんもういん)、工部大学校の南門と門衛室、開拓使物産販売捌所(さばきどころ)本館…。コンドルはただ単に西洋建築を設計するのではなく、その土地の文化も採り入れた洋館の設計に努め、アラベスクなど東洋的なイメージも積極的に採り入れていった。
鹿鳴館、丸の内一号館、丸の内の赤煉瓦館などにも言及あり。
参考:『『明治建築をつくった人びと』コンドル先生と四人の弟子』大成建設文化映画 https://www.taisei.co.jp/corp/library/film/meiji_k/
明治10年に日本政府に招かれ、工部大学校(現・東京大学)造家学科の教授として来日したイギリスの若き建築家ジョサイア・コンドルとその教えを受けた四人の弟子たち辰野金吾(たつのきんご)、曾禰達蔵(そねたつぞう)、片山東熊(かたやまとうくま)、佐立七次郎(さたちしちじろう)の活躍を描いている。
我が国に初めて誕生した第一世代の建築家たちは、近代国家の黎明期に日本の建築と全く異なる西洋建築に取り組み、自力のデザインで新国家の礎を築くことによって、その後に続く大正、昭和、そして現代への道を拓いていった。
映画では、彼らの代表的な作品を中心に、その輝かしい業績を当時の社会背景を交えて紹介します。