縄文・弥生
新石器時代など
2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
新石器時代など
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照に出題年度を記入しています。
日本列島に生息していたゾウの1種である。様々な説があり、はっきりとした年代は不明だが遅くとも65万年 - 42万年前頃にはすでに出現していたのではないかと言われている。約2万年前頃から衰退し約1万5000年前の新生代更新世後期まで生息していた。ゾウ目ゾウ科に属し、現生のアジアゾウと近縁である。
最初の標本は明治初期に横須賀で発見され、東京帝国大学(現・東京大学)地質学教室の初代教授だったドイツのお雇い外国人ハインリッヒ・エドムント・ナウマンによって研究、報告された。その後1921年(大正10年)には浜名湖北岸の工事現場で牙・臼歯・下顎骨(かがくこつ)の化石が発見された。
1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)まで長野県の野尻湖畔に位置する立が鼻遺跡(野尻湖遺跡群)で実施された4次にわたる発掘調査では、大量のナウマンゾウの化石が見つかった。このときまでナウマンゾウは熱帯性の動物で毛を持っていないと考えられていたが、野尻湖発掘により、やや寒冷な気候のもとにいたことが明らかになった。
新石器時代は、完新世のうちのひとつの区切りである亜旧石器時代に続き、新石器革命を形成する耕作の発展によって開始したとされ、伝統的に石器時代の最後の部分とされる時代である。 文化的には精巧に制作された打製石器や磨製石器が確認されていることがあり、必ずしも農耕の開始と関連付けるものではない。 ただし、西アジア・ヨーロッパ・中国では農耕や牧畜が始まった時期と当てはまり、最古のものは紀元前8000年、以降でも紀元前6000年から5000年までは遡ることができる。アメリカ大陸では紀元前4000年から中央アメリカやアンデス山脈などで農耕の開始が確認できる。やがて銅器時代もしくは青銅器時代を経て、地域によってはこれを経ずに直接鉄器時代に入り、冶金術の成立によって金属による道具が広まったときに終了した。ただし、生産段階と道具が対応しない地域も存在する。日本では鉄器は6世紀頃まではもっぱら輸入に頼っており、アメリカ大陸や南洋地域では15世紀以降のヨーロッパの進出でもたらされたものの、製造技術の獲得に至らなかった。
日本の縄文時代は縄文海進(海進とは、海面が陸地に比べて上昇し、海岸線が内陸に移動する地質学的現象である。その結果、それまでの陸地は水没する )が進んだおよそ1万3000年前からと定義できる。しかし、温暖化した気候に併せて木の実の採取や植林の痕跡は見られるようになったものの、これを「農耕」としては定義できておらず、また「牧畜」文化も発見されていないため、日本で新石器時代の語を定義するのはふさわしくないともされている。日本では紀元前3世紀頃の青銅器が見つかっているが実用ではなく祭祀用として普及しているのみで、また鉄器についても日本での鋳鉄の技術の確立は6世紀頃(古墳時代)まで待たなければならず、次時代の定義が他の地域とはやや異なる。この区分によって、日本には青銅器時代は存在しないとも言われている。
これに代わり、日本での編年には土器がよく利用され、「縄文」「弥生」の名称は土器に因んでいる。石器としては縄文時代では打製石器に加え磨製石器の石斧や石棒が現れている。縄文時代には、磨製石器と縄文土器の使用に加えて、弓矢が使用されるようになり、定住化の始まりによる竪穴建物の普及、環状集落等の定住集落や貝塚の形成、植物栽培(半栽培)の始まりなどが挙げられ、非定住狩猟採集社会である旧石器時代とは区別される。
ただし、南西諸島(主に沖縄県)では貝塚文化時代と呼ばれる時期に相当しており、縄文時代は貝塚時代前期、次の弥生時代は貝塚時代後期となる。また、東北地方北部から北海道では他地域に弥生文化が登場した後も縄文時代の生活様式が継承されたため、縄文時代の次の時代を続縄文時代と呼ぶことが多い。
縄文時代の時代区分
草創期・早期・前期・中期・後期・晩期
『北海道・北東北の縄文遺跡群』JOMON JAPAN(青森・岩手・北海道・秋田) ホームページ https://jomon-japan.jp/
北海道、青森県、岩手県及び秋田県は、世界自然遺産「白神山地」や「知床」など、美しい自然が今なお色濃く残る、緑豊かなところです。
北海道・北東北の縄文遺跡群は、この豊かな自然の恵みを受けながら1万年以上にわたり採集・漁労・狩猟により定住した縄文時代の人々の生活と精神文化を今に伝える貴重な文化遺産です。
その価値が認められ、2021(令和3)年7月27日、北海道・北東北の縄文遺跡群は世界文化遺産に登録されました。
北海道・北東北の縄文遺跡群
今から約15,000年前から約2,400年前までの間を縄文時代と呼びます。
縄文時代は日本独自の時代区分で、中国東北部やロシア極東地域では、旧石器時代から青銅器時代の一部まで、中国大陸部の黄河以南では、旧石器時代から春秋戦国時代まで、ヨーロッパでは、旧石器時代から鉄器時代及び古代ローマ帝国の成立までの幅広い時代に相当します。
日本では、縄文時代以前は寒冷な気候が長く続いた旧石器時代であり、以降は稲作農耕文化である弥生時代となります。
縄文遺跡群が所在する北海道・北東北の地域は、山地、丘陵、平地、低地など変化に富んだ地形であり、内湾又は湖沼及び水量豊富な河川も形成されています。ブナ林を中心とする冷温帯落葉広葉樹の森林が広がり、海洋では暖流と寒流とが交差し豊かな漁場が生まれ、サケ・マスなどの回遊魚が遡上する、恵まれた環境にありました。
人々は、このような環境のもとで食料を安定して確保するとともに、約15,000年前には土器を使用して定住を開始しました。その後、1万年以上にわたって、気候の温暖化や寒冷化及びそれに伴う海進・海退といった環境の変化に適応しながら、採集・漁労・狩猟を基盤とした生活を継続しました。
また、定住開始のごく初期から精緻かつ複雑な精神文化を構築していました。墓地を作り、祭祀・儀礼の場である捨て場や盛土、環状列石などを構築し、祖先崇拝や自然崇拝とともに、豊穣への祈念や互いの絆の確認などが世代を越えて行われていました。
北海道・北東北の縄文遺跡群は、集落や墓地、祭祀・儀礼の場である環状列石など、このような人々の生活の実態を示す17の遺跡で構成されています。
大平山元遺跡(青森外ヶ浜町・草創期)・垣ノ島遺跡(北海道函館市・早期)・北黄金貝塚(北海道伊達市・前期)・田小屋野貝塚(青森つがる市・前期)・二ツ森貝塚(青森七戸町・前期)・三内丸山遺跡(特別史跡・青森県青森市・中期)・大船遺跡(北海道函館市・中期)・御所野遺跡(岩手県一戸町・中期)・入江高砂貝塚(北海道洞爺湖町・後期~晩期)・小牧野遺跡(青森県青森市・後期)・伊勢堂岱遺跡(秋田県北秋田市・後期)・大湯環状列石(特別史跡・秋田鹿角市・後期)・キウス周堤墓群(北海道千歳市・晩期)・大森勝山遺跡(青森県弘前市・晩期)・入江高砂貝塚(北海道洞爺湖町・後期~晩期)・亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県つがる市・晩期)・是川石器時代遺跡(青森県八戸市・晩期)・長七谷地貝塚(関連資産・青森県八戸市・早期)・鷲ノ木遺跡(関連資産・北海道森町)
2遺跡が関連資産となったのは、遺跡周辺の景観が改変された可能性があったため。
縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六期に区分されますが、北海道・北東北の縄文遺跡群では、縄文時代を定住の開始・発展・成熟の過程を示す3つの大きなステージに区分し、さらにそれぞれを2つに小区分しています。
各構成資産は、遺跡の構造の変遷や立地環境により、この6つのステージに位置づけられ、連続性のある資産として縄文遺跡群全体の顕著な普遍的価値に貢献しています。
続きは、日本の世界遺産の項へ
参考:『北海道・北東北の縄文遺跡群』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%83%BB%E5%8C%97%E6%9D%B1%E5%8C%97%E3%81%AE%E7%B8%84%E6%96%87%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4
北海道・北東北の縄文遺跡群(ほっかいどう・きたとうほくのじょうもんいせきぐん)は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された北海道(道南)・北東北にある縄文時代の遺跡群の総称(ID1632)。発掘調査された考古遺跡のみで構成されるものとしては、国内初の世界遺産となる。
遺跡は北海道・青森県・岩手県・秋田県の1道3県に点在している。
是川石器時代遺跡 これかわ せっきじだい いせき
史跡指定 1957(昭和32)年7月1日
ステージⅢb (1,000BCE~400BCE) (史跡年代 4,000BCE~400BCE)
是川遺跡(これかわいせき)は、青森県八戸市大字是川中居にある縄文時代晩期の遺跡。別称是川石器時代遺跡ともいう。1957年(昭和32年)7月1日、国の史跡に指定されている。2021年(令和3年)、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。
本遺跡は、市域南東部の新井田(にいだ)川沿いの標高10~30メートルの台地に広がる縄文時代の集落遺跡。 縄文晩期を中心とする中居遺跡、縄文前期・中期の一王寺遺跡、縄文中期の堀田遺跡の3つの遺跡を総称して是川遺跡と呼ばれている。
中居遺跡は、低湿地(沢地形)を主体とする遺跡で、大量の木の実の殻や遺物が捨てられていた。この捨て場から完形を保つ多数の土器や石器、漆塗りの多様な植物性遺物が検出された。また、土坑墓が検出され、赤色顔料がまかれた人骨が出土している。
一王寺遺跡は、長谷部言人による円筒土器の命名の地。山内清男と喜田貞吉による縄文土器の年代の下限をめぐる「ミネルバ論争」のもととなった遺跡でもある。縄文時代前期・中期の土器の他に、貝塚が見つかっており、獣骨や骨角器などが出土している。
堀田遺跡では、縄文時代中期・後期の土器片が採取され、中期末の円形竪穴建物跡、後期の集石遺構があるが、全容は明確でない。弥生時代前期の籾圧痕(もみあっこん)土器が出土し、当地への稲作伝播の時期が分かる。
参考:『是川石器時代遺跡』(世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」) https://jomon-japan.jp/learn/jomon-sites/korekawa
参考:『是川遺跡』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AF%E5%B7%9D%E9%81%BA%E8%B7%A1
参考:『5分でわかる!縄文人の生活②』トライイット https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12408/point-2/
貝塚は、縄文人のゴミ捨て場。人骨なども出土。(縄文海進=海面が上昇・特に関東平野)
貝塚=大森貝塚・加曾利貝塚=大森貝塚は、最初に発見された貝塚、東京都。加曾利貝塚(千葉県)は、国内最大の貝塚。
参考:『かいづか【貝塚】』Gakken x 朝日新聞 キッズネット https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary02100140/
石器時代(日本ではおもに縄文時代)の人々が食べた貝殻が積もってできた遺跡。貝塚には、貝がらとともに不要になった石器や土器、動物の骨などがあり、また貝層の下から住居跡が発見されることもあり、当時の生活を知る上で重要である。
大森貝塚が日本の考古学研究の出発点。
参考:『貝塚』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9D%E5%A1%9A
貝塚(かいづか)とは、貝類の常食に適した地に居住する先史時代の人々が、日々ごみとして大量に出る貝殻と他の様々な生活廃棄物と共に長年に亘って投棄し続けることで、それらが累積した特定の場所をいう。貝殻の捨て場所とする以外に、貝の加工場、あるいは塩の生産場の役割を果たした場所とする解釈もある。
日本の貝塚
縄文時代の貝塚は、日本列島では約2500個所発見されている。既に発見されている箇所の4分の1近くは、東京湾の東沿岸一帯で占められるが、これは、この地域での土地改変が著しく、分布調査及び発掘調査が進んでいることが大きな理由であり、地下に埋蔵される貝塚の全国的な分布状況とは別問題であることには注意を要する。なお、東京湾の東沿岸(千葉県下)でも、とりわけ千葉市内は分布密度が高いとされる。このほか貝塚が集中して分布している地域としては、太平洋沿岸の大きな内湾であり干潟がよく発達した仙台湾や大阪湾などをあげることができる。
東京湾岸にも集中している貝塚であるが、作られ方は時期によって違う。縄文時代早期では、竪穴建物や小さな調理施設である炉穴の中に捨てられている場合が多く、縄文前期にも早期と同様の貝塚が形成されている。
縄文中期になると、前期から成立し始めた環状集落がより増加する。建物がムラのほぼ中程の広場を囲んで配置されていて、それらの建物跡に貝殻等が多量に遺棄・蓄積されるようになったので(考古学者の谷口康浩は「廃棄帯」と呼称する)、結果として環状や馬蹄形状の貝塚の並びが形成されたように見える。加曽利貝塚や蛸ノ浦貝塚などがこれに類する。
日本列島は酸性土壌であり、骨などの有機物が残り難い。しかし、貝塚は大量の貝殻に由来する炭酸カルシウムが豊富なために土壌をアルカリ性に保ち、鳥獣や魚などの骨格(動物遺体)がよく保存されているので、当時の生産や海辺の生活を知る動物考古学の観点から貴重な遺跡となっている。
大森貝墟の碑/大田区山王1-3に所在。
1877年(明治10年)、アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが列車の窓越しに貝塚を発見した。モースは大森貝塚を発掘し、1879年に英文と日本文で報告書を出版した。森は、このモースの業績を近代科学としての考古学のスタートとしている。
大森貝塚は、東京府荏原郡大井村鹿島谷(cf. 荏原郡#町村制以降の沿革。現在の東京都品川区大井6丁目)にある、鉄道建設に伴う掘削工事に伴って露出した、貝殻が混じった土手であったが、一躍、モースの業績によって貝塚研究の分野では広く知られる遺跡になった。
日本最古とされる貝塚は、千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚であり、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両貝塚から出土している。
日本人によって初めて本格的な発掘調査・報告が行なわれた貝塚は、茨城県稲敷郡美浦村の陸平貝塚である。1905年(明治38年)には、横浜に居留していたイギリス人医師ニール・ゴードン・マンローによって、縄文時代後期から弥生時代前期の貝塚である三ツ沢貝塚(所在地:神奈川県横浜市神奈川区沢渡ほか)が発見される。
捨て場以外の解釈
貝殻の捨て場所とする解釈以外に、貝の加工場あるいは塩の生産場の役割を果たした場所とする解釈もある。さらに干潟とともに木の杭が出土する例もありカキなどの養殖が行われていた可能性も指摘されている。
1877年(明治10年)6月17日に横浜に上陸したアメリカ人の動物学者エドワード・S・モースが、6月19日に横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、政府の許可を得た上9月16日に発掘調査を行った。助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見し、9月29日にも訪れ、10月9日から本格的な発掘を行った。
1955年(昭和30年)3月24日には、国の史跡に指定された。モースらの発掘した貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片などの出土品は東京大学に保管されており、1975年(昭和50年)に全て国の重要文化財に指定されている。
日本の先史時代のうち,縄文土器の使用された時代で,約1万2000年前に始まり,約2400年前まで続いた。縄文土器の編年に従って,草創・早・前・中・後・晩期に区分されるが,全期を通じて,打製・磨製石器を主要利器とし,狩猟・漁労を行い,高度な採集経済の段階にあった。遺跡は,貝塚,洞窟,低湿地遺跡などがあり,その分布は,中部・関東・東北に多く,全体の8割を占める。住居は,おもに竪穴(たてあな)住居で,草創期には洞窟を利用したものも多い。死者は住居の近くに埋葬。中期までは屈葬が多いが,後・晩期以後次第に伸展葬が多くなる。貝塚の広さや,竪穴住居の集合状態から,集落の人口と規模は増減を繰り返していたものと考えられる。利器は,石器のほか骨角器が発達,また精巧な土偶が出現した。縄文時代は,土器,磨製石器,竪穴住居,巨石記念物をもっているため,新石器時代の文化に属するといわれるが,農耕や牧畜を伴わない点が,ヨーロッパなどの新石器時代と異なっている。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
弥生時代に先行する縄文土器をもつ文化の時代。実年代は,その発生の時期は前1万 2000~4500年とはっきりしないが,終末は前3~2世紀頃とされている。従来早期,前期,中期,後期,晩期の5期に分けられていたが,早期の前に草創期を加え,6期に分けるのが一般的になっている。縄自体を回転させるという日本独自の縄文が施されるのは草創期後半に入ってからである。この社会は主として狩猟,漁労に依存する採集経済の段階にあり,西方からの農耕文化の到来によって終末を迎える。磨製石器の存在,土器の発達度,大規模集落の出現などから,新石器時代の様相が強い文化といえる。集落跡や貝塚など縄文遺跡は北海道から九州まで各地に分布,三内丸山遺跡や鳥浜貝塚などが有名。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
上記は、縄文時代コトバンクからの引用
[三内丸山遺跡]
青森県青森市の市街地南西,沖館川南岸の丘陵地帯に広がる縄文時代中期の遺跡。江戸時代から存在は知られていたが,1992年以降の発掘調査により,約 5900~4200年前の長期間にわたって人が定住していた大規模集落跡であることがわかった。大型掘立柱建物跡とみられる直径・深さ約 2mの柱穴 6個および直径約 1mのクリの木柱 3本が発見されたほか,大小の竪穴建物跡,土坑墓,盛り土,道路跡,貯蔵穴なども確認された。また,盛り土などからは大量の土器(→縄文土器)や石器,祭祀等に用いたとみられる土偶約 2000点,食生活を示す魚骨や獣骨,クリやクルミなどの堅果類,木製品(編みかご,漆器など),交易品とみられる翡翠,黒曜石などが出土した。クリ,ゴボウ,ヒョウタン,マメなどの植物栽培の痕跡もみられた。1995年から遺跡の整備・公開が始まり,1997年に国の史跡,2000年に特別史跡に指定され,2003年には出土品 1958点が国の重要文化財に指定された。2021年,「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
上記1項は、三内丸山遺跡コトバンクから引用
参考:『縄文時代の遺跡一覧』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7
参考:『縄文時代』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
参考:『5分でわかる!縄文人の生活①』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12408/
『5分でわかる!縄文人の生活②』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12408/point-2/
『5分でわかる!縄文時代の交易』 https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12408/point-3/
『5分で解ける!縄文時代1に関する問題』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12408/practice-4/
以上 トライイット
生活:狩猟・漁労・採集・竪穴住居・貝塚
交易:黒曜石・ひすい
参考:『縄文時代の扉を開く』https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/door/
三内丸山遺跡で新潟県糸魚川周辺のヒスイや北海道・秋田・新潟県佐渡・長野県霧ヶ峰など日本海側からの黒曜石が見つかるなど、縄文時代の交易は、現代の人間が考えるよりずっと広範囲に交流・交易が広がっていた。
参考:『クマヤー洞穴遺跡』北谷町砂辺 沖縄県ホームページ(PDF) https://www.pref.okinawa.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/660/2018-03-02.pdf
縄文時代前期の遺跡であるクマヤー洞穴遺跡に新潟産のヒスイで作られた装飾品が見つかっている。
参考:『縄文時代について』世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群 https://jomon-japan.jp/learn/jomon-culture
縄文の始まり
土器と弓矢の出現
村の出現
縄文人の姿
世界史の中の縄文時代
参考:『土偶を考える』(考古学講座資料)神奈川県ホームページ(PDF) https://www.pref.kanagawa.jp/documents/8040/r6kouza-5.pdf
土偶は粘土をヒト形に造形し、焼き上げられたもので、草創期から晩期に至るまで、1万年以上の長き
にわたって続いた縄文時代を代表する遺物の一つです。そして、土偶は縄文時代が終わった後にも、一部
では弥生時代まで引き継がれていました。
土偶は古くから多くの人々の関心を集め、研究が重ねられてきました。また、その表情やフォルムから
鑑賞の対象として、時には地域のマスコットとして、多くの人に愛されています。
土偶は縄文時代の人々の信仰や祈りといった精神文化に関わる役割を持った道具と考えられています。
形として残らない縄文時代の精神に現代の私たちが迫るのは困難なことですが、縄文時代の人々が土偶に
託した思いの一部は、土偶の造形などから垣間見ることができるのではないでしょうか。また、土偶の中
身は極めて精巧に作られたものも多く、豊かな自然の中で暮らす縄文時代の人々が、高度な技術や芸術性
を備えていたことを窺い知ることができます。
参考:『5分でわかる!信仰・呪術』(原始・古代5 縄文文化2)トライイット https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12413/point-3/
キーワード
参考:『縄文土偶の“まつり”』富山市公式ウェブサイト(PDF) https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/kitadai/j_kouza/kouza-03.htm
縄文時代は儀礼や呪術が盛んな時代と考えられています。その儀礼や呪術で使用された道具の代表が「土偶」です。では儀礼や呪術でどのように使用されたのでしょうか。
土偶は遺跡から完全な形で出土する例は稀で、ほとんどは壊された状態で見つかります。富山県八尾町長山遺跡の土偶の多くは頭部・腕・胸部・でん部・脚部を別々に作り、それらを組み合わせて一体の土偶を作っていることがわかっており、土偶は壊されることを前提として作られたと考えられています。
土偶のまつりはムラの広場や聖なる場所で行われたと考えられます。“まつり”で土偶を壊した後、まつりの参加者は壊された土偶の一部をそれぞれ持ちかえり、廃屋になった住居の窪みやムラの各所に納めたりしました。あるいは自分の住居の中に埋めたり、そのまま置いたりもしていたようです。
縄文土器は、時期によっての6つ(草創期・早期・前期・中期・後期・晩期)に分けられる。有名な火焔型土器などは、中期。
参考:『縄文土器』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8
参考:『縄文時代について 土器と弓矢の登場』世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群 https://jomon-japan.jp/learn/jomon-culture#c02
縄文時代草創期: 最古の土器は、無文。約1万年前に縄目模様の多縄文土器が登場。
早期: 各地で土器の地域性出現。とがった底。
前期: 土器の地域差がより明確に。平底多種類の縄目の「円筒下層式土器」(東北北部及び北海道南部)
中期: 粘土紐で装飾された土器が各地で盛ん。
後期: 形が多様化する一方、東日本では共通した模様が広がる。厚さが薄くなり、線と縄文による模様がみられるように。
晩期: 東北地方北部及び北海道南部を中心とした地域では、精緻に飾られた「亀ヶ岡式土器」が作られ、西日本の質素な装飾をもった土器と対照的に。
参考:『5分でわかる!縄文土器』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12413/
縄文土器、低温で焼かれた、土が厚手、黒褐色。草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に分けられるが、草創期の土器には縄目が無いので縄文時代に含めない場合もある。
丸底→平底 装飾が派手に。
参考動画:『土器まとめ』週末縄文人チャンネル https://www.youtube.com/@shumatsujomonjin/search?query=%E7%B8%84%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8
三内丸山遺跡HP→ https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/
青森県青森市、JR青森駅の南西3キロメートルにある小高い台地上の縄文時代集落遺跡。北西に陸奥(むつ)湾、南には八甲田(はっこうだ)山が望める。1992年(平成4)、県営野球場建設に先だつ発掘調査で遺跡の重要性が判明、保存が決定した。遺跡はその範囲が35ヘクタールという大規模なもの。集落の各施設-住居・墓・倉・残滓(ざんし)廃棄場が定められた地に、長期間整然と用益されている実態が明瞭(めいりょう)となった。発掘資料から推察すると、集落の存続期間は縄文時代前期の末から中期末まで1500年間にも及ぶ、まれにみる長期間であったことが判明し、加えて発見された土器などの量はリンゴ用段ボール箱で約4万箱、既調査地面積は5ヘクタール、全掘すればリンゴ用段ボール箱約25万箱と、膨大な量の資料が発掘されると予測される。しかも、質高く・多種多様・話題にこと欠かぬ豊富さである。遺跡規模・遺跡存続期間・遺跡包蔵物量ともに他の諸遺跡を圧倒・凌駕(りょうが)する大遺跡であると評価されるに至った。三内丸山遺跡のもつ個々の情報-計画的な集落設計、道路と墓列、大規模な造成、埋葬と墓地、祭祀(さいし)や供養、栗栽培、巨大木柱、朱漆やアスファルトなどが刻々と報道され、「縄文都市」という冠辞が三内丸山遺跡に与えられるに至った。現在、本遺跡をめぐっては考古学、文化人類学をはじめ諸学の援助を受け生態系、環境系、食料栽培など広汎(こうはん)な分析が進捗(しんちょく)しており、まさに「縄文学最前線」の観がある。三内丸山遺跡を熟視することで「都市」の概念を与えることの可否・長期間の連続性・膨大とされる遺物量の解釈がいっそう深められ、初めて本遺跡の価値は定着するであろう。1997年国の史跡に、2000年(平成12)特別史跡に指定。
[水野正好]
世界遺産の登録
2021年(令和3)、三内丸山遺跡はユネスコ(国連教育科学文化機関)により「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部 2022年1月21日]
平成9年、青森県の風張1遺跡より、発見された。重要文化財。
風張1遺跡の所在地:〒031-0023 青森県八戸市是川稲荷上 風張
風張遺跡は、新井田川右岸の丘陵上に立地、縄文時代中期から平安時代の遺構が発見されている。新井田川の対岸には、縄文時代晩期の是川中居遺跡が存在する。
風張1遺跡からは縄文時代後期後半の遺物664点が出土している(昭和63年~平成4年調査)(土偶は約70点)。竪穴住居跡から合掌土偶や炭化米が発見されたことで有名になった。この664点の出土品が是川遺跡遺跡が代表する亀ヶ岡文化の形成を考えるうえで極めて学術的な資料として極めて貴重な学術資料として、国の重要文化財に指定された。(八戸市HP)
平成元年、長芋作付けの緊急調査で合掌土偶が発見された。他の土偶のように捨て場や遺構外からではなく、建物の片隅から置かれたような状態で(寄りかかるような状態で出土)みつかっている。また、2009年7月10日、重要文化財のうち「合掌土偶」1点が、国宝に指定された。(是川縄文館)
縄文後期後半には妊婦の姿や座った姿勢の土偶が現れるが、ほとんどが体のどこかが欠けている。完全な姿、かつ座った姿勢で膝に手を置き、両手を合掌するような形であったことから発見当初から「合掌土偶」という名称を与えられ、座像形の土偶であるが、本土偶に匹敵する同型の土偶は見つかっていない。(青森県HP)
なお、発見された風原1遺跡は、現在私有地となっているので立ち入りはできません。
合掌土偶は、付近の埋蔵文化財センター是川縄文館で見られます。
以下のサイトで写真をご覧ください。とても心に来ます。↓
参考:『合掌土偶』(是川縄文館) https://www.korekawa-jomon.jp/parmanent_dogu/
参考:『国宝 合掌土偶』(八戸市公式HP) https://www.city.hachinohe.aomori.jp/soshikikarasagasu/zekawajomonkan/1/2753.html
参考:『土偶(青森県八戸市風張1遺跡出土)』(青森県文化財保護課) https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-bunka/kokuho_kouko_1.html
参考:『日本史B 弥生時代の用語整理~先史時代連載第三弾~ 弥生時代の用語整理~先史時代連載第三弾~』日本初!授業をしない武田塾ブログ https://www.takeda.tv/kyotoekimae/blog/post-150532/
ポイント
金属器の使用
農耕(特に水稲耕作)、牧畜、機織りが始まった
小国家の形成
九州~本州まで(続縄文文化(北海道)・擦文文化(北海道)・オホーツク文化(北海道)・貝塚文化(沖縄))
竪穴住居
農耕→富の蓄積と格差、小国家の形成と戦争
環濠集落・高地性集落(瀬戸内海沿岸)
高床倉庫
水稲耕作
湿田(弥生前期)・乾田(弥生後期・灌漑設備)
穂首狩り(石包丁)・根狩り(鉄器)
直播(じかまき)
田植え
機織
農耕儀礼(銅鐸・後の祈年の祭り、新嘗祭)
伸展葬
支石墓(九州北部)・甕棺墓・箱式石棺墓(西日本)・方形周溝墓・墳丘墓(西日本)
弥生土器
高坏(食事を盛る)・甕(食料を煮沸)・壺(食料を貯蔵)・甑(米を蒸す、底面に穴)
金属器 青銅器・鉄器
平型銅剣(瀬戸内海、祭器)・銅戈(どうか、九州)・銅矛(九州)・銅鐸(近畿、原始的絵画文様)・銅鏡(輸入品)
農具 木製農具・鉄製農具(後期)
田下駄・大足(田に肥料などを踏み込む)・木臼・竪杵・木鍬・鉄鍬・木鋤・鉄鋤
石包丁(前期)・鉄鎌(後期)
紡錘車(円盤系で帽を通す穴)
遺跡 青森県砂沢遺跡(前期:日本最古の水田跡)・青森県垂柳遺跡(中期:水田と足型の跡)・神奈川県大塚遺跡(中期:環濠集落、方形周溝墓)・香川県紫雲出山遺跡(中期:高地性集落)・佐賀県吉野ケ里遺跡(弥生時代:巨大な環濠集落、墳丘墓、物見櫓)・静岡県登呂遺跡(後期:高床倉庫、大量の木製農具)・奈良県唐古鍵遺跡(弥生前~後期:環濠集落、大量の弥生土器、木製農具)・島根県神庭(かんば)荒神谷遺跡(弥生時代:大量の銅剣、複数の銅矛、銅鐸、出雲王権の存在)・島根県加茂岩倉遺跡(弥生時代:大量の銅鐸、出雲王権)・山口県土井ケ浜遺跡(弥生時代:海岸砂丘上の墳丘墓群、屈葬、渡来人の系譜を示唆)・岡山県楯築墳丘墓(弥生時代:直径40mの巨大な墳丘墓)
参考:『5分でわかる!弥生文化の特徴』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12423/ 稲作 金属器 続縄文文化 貝塚文化
『5分でわかる!稲作』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12423/point-2/ 木製農具 鉄製農具 石包丁 田植え 高床倉庫 板付遺跡 菜畑遺跡 砂沢遺跡 登呂遺跡(1943)
『5分でわかる!金属器』 https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12423/point-3/ 銅鐸 銅剣 銅鏡
『5分でわかる!弥生土器』 https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12428/ 高温 赤褐色 薄手
『5分でわかる!弥生時代の生活』 https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12428/point-2/ 集落(ムラ) 小国(クニ) 高地性集落 環濠集落 吉野ケ里遺跡
『5分でわかる!弥生時代の埋葬法』https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12428/point-3/ 甕棺墓 支石墓 方形周溝墓
参考:『弥生時代』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
前10世紀または紀元前5世紀、紀元前4世紀頃に、大陸から北部九州へと伝来した水稲耕作技術を中心とした生活体系へ移行し、やがて九州・四国・本州に広がった。初期の水田は現在日本最古の水稲耕作遺跡となる佐賀県唐津市菜畑遺跡の他、福岡県博多区板付遺跡などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米などの存在が北部九州に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。
1981年(昭和56年)、弥生時代中期の遺跡として青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている。その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本盆地、千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかったが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられる。水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したといえる。またその伝来初期段階から、機能に応じて細分化した農具や、堰・水路・畦畔といった灌漑技術を備えた状態であったことが判っている[9]。なお弥生時代の水田形態は、畦畔に区切られた一面の面積が極小では5平方メートル程度となる「小区画水田」が無数に集合したものが主流である。
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴建物に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。
道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。
時代区分:
早期・前期・中期・後期の4期区分
弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。また、北部九州以外の地域では(先I - )I - Vの5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期)前期はI期、中期はII - IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀中頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀中頃から3世紀の中頃まで続いたと考えられている。
弥生時代wikipedia一部引用
縄文時代では、狩猟採集社会であったため、家族という最も小さな社会集団のみで経済活動が完結していた。しかし、水稲耕作は人々が組織だって作業することが必要である。人々は水田近くの台地や平野に移住、定住した。
稲作を行うため、人々は農具を発明した。木製の鋤や鍬で地を耕し、石庖丁で稲穂を摘み取り、杵や臼を用いて脱穀を行った。
集落では、竪穴建物に居住し、高床倉庫に米を貯蓄した。ムラの誕生である。
夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。
当時の大陸の文献によれば、百幾らかのクニに分かれていたようである。
安定的な食料の確保ができるようになったことで、人口は増大した。
また、米は保存が可能であるため、ムラ内外で貧富の差が生まれた。これらの農耕文化の発展は、自然と人々の間に上下関係を生じさせたのである。
戦乱の発生
貧富の差は対立の起因となり、ムラ間での争いへと発展した。佐賀県吉野ヶ里町、神埼市の吉野ヶ里遺跡では物見櫓や柵、濠といった抗争の跡が見られる。
度重なる戦乱の末、複数のムラを束ねるクニと呼ばれる原始的な小国家が誕生した。
風俗
「魏志」倭人伝は、日本人の性格や社会の特徴について、「風俗は乱れていない」「盗みはしない」「争い事は少ない」などと記述している。また、「その会同、座起には、父子男女の区別なし」とある。
佐賀県神埼(かんざき)市・吉野ケ里町にまたがる吉野ケ里丘陵上にある大規模な複合遺跡。弥生時代に各地に成立した国の中心となる集落の構造を具体的に知りうる日本最大級の環濠集落。1986年(昭和61)から発掘が行われ,弥生時代の環濠集落,墳丘墓と甕棺墓(かめかんぼ),古墳時代の前方後方墳と集落,奈良時代の官道跡と官衙遺跡が発見された。弥生集落は,前期初頭頃に2~3の小規模な集落が丘陵上に定着。やがて丘陵南部に約3ヘクタールの拠点的な環濠集落が成立し,中期初頭まで機能した。この時期,青銅器の鋳造も開始された。前期の環濠の埋没後,丘陵を南北に区切る東西方向の溝が掘削され,その南側に中期中頃まで大規模な集落が営まれる。丘陵上では2000基をこえる甕棺墓の列埋葬が行われ,丘陵南北の両端には巨大な墳丘墓が造営された。北墳丘墓には14基以上の甕棺があり,うち8基に有柄銅剣を含む細形銅剣やガラス管玉(くだたま)を副葬していた。これらは首長層を含む有力家族集団の墓とされる。墳丘墓に対する大規模な祭祀は後期まで継続。中期後半には丘陵全体を取り囲む総延長2.5kmの外濠が掘られ,濠と土塁・逆茂木(さかもぎ)で守られた面積40ヘクタールの環濠集落が成立した。後期には外濠中央部に,中濠と物見櫓(ものみやぐら)を付設した内濠で二重に囲まれた南内郭が造られ,郭内には十数軒の竪穴住居跡のほか溝で囲まれた高床建物があり,外濠の西側には大規模な高床倉庫群がおかれた。後期中頃には北墳丘墓の南側にも北内郭が設けられ,郭内には約12.5m四方の大型掘立柱建物跡が検出された。南内郭よりも小規模だが,一段と高い身分層の居住区とみられる。3世紀代には環濠集落は廃絶した。国特別史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
吉野ケ里遺跡コトバンクより引用
吉野ケ里遺跡物見櫓
2023.7.25撮影
吉野ケ里遺跡酒造りの家
2023.7.25撮影
吉野ケ里遺跡北内郭
2023.7.25撮影
吉野ケ里遺跡甕棺
2023.7.25撮影
奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』『梁書倭伝』『北史倭国伝』にあらわれる倭人の国である。 大和時代の儺県(なのあがた)のちの那珂郡・席田郡・御笠郡・糟屋郡(現在の福岡県福岡市・春日市)に存在したと推定する研究者が多い。
比定されている遺跡
須玖岡本遺跡
岡本町4丁目遺跡
須玖岡本坂本地区遺跡
参考:『奴国への道』(春日市) https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/1002279/1002283.html
参考:『邪馬台国への道(後編)』九州歴史資料館展示シート https://kyureki.jp/wp-content/uploads/2021/12/kaisetsu80.pd
資料館:奴国の丘歴史資料館(春日市) https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/index.html
参考:『奴国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E5%9B%BD
1784年(天明4)筑前国那珂郡志賀島(しかのしま)(現,福岡市)で,農作業中の百姓甚兵衛が,水田近くの溝の中から発見し,黒田藩に献上した金印。形状は一辺23.5mmの方形,高さ22.4mmで,印の上部に蛇鈕(だちゅう)があり,「漢委奴国王」の陰刻がある。「後漢書」東夷伝倭人条に,57年,倭(わ)の奴国が使者を派遣して朝貢し,後漢の光武帝が印綬を与えたとあるが,一般にこの金印がそのときのものと考えられている。古来,偽作説も多いが,一辺の23.5mmは後漢の時代の1寸と正確に一致し,金の含有量も95%で,当時のものとして疑問はない。福岡市博物館蔵。国宝。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
漢委奴国王印コトバンクより引用
伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』など中国の史書にみえる倭国内の国の一つである。末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、大和時代の伊覩縣(いとのあがた)、現在の福岡県糸島市の一部と福岡市西区の一部(旧怡土郡)に比定している研究者が多い。
比定されている遺跡
三雲・井原遺跡
三雲南小路遺跡
井原ヤリミゾ遺跡
平原遺跡墳丘墓
参考:『邪馬台国への道(後編)』九州歴史資料館展示シート https://kyureki.jp/wp-content/uploads/2021/12/kaisetsu80.pdf
参考:『伊都国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%83%BD%E5%9B%BD
不弥国(ふみこく)は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。日本考古学界では福岡県飯塚市の立岩遺跡群を中心地に比定する見解などがある。
比定される遺跡
糟屋郡域
参考:『邪馬台国への道』(九州歴史資料館資料展示シート) https://kyureki.jp/wp-content/uploads/2021/12/kaisetsu80.pdf
参考:『不弥国』 Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%BC%A5%E5%9B%BD
参考:『邪馬台国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD#
邪馬台国(やまたいこく/やまとこく、旧字体:邪󠄂馬臺國)は、『三国志』魏志倭人伝に伝わる3世紀ごろの倭国内の国の一つ。倭の女王卑弥呼が都としていたことで知られている。
古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読したことから「やまたいこく」の読み方が広まった。所在地について議論が続いている。
概要
中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、卑弥呼は約30の国からなる倭国の女王で邪馬台国に都をおいていたとされている。
なお、現存する三国志の版本では「邪󠄂馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である(「臺」は「壹」と似ているため)。現代の著作の多くが「壱」「台」を代用しているので、本項でも「臺」「壹」の代わりに「台」を代用し「邪馬台国」と表記する。
倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という女性を王に共立することによって混乱が収まり、倭国連合が成立した。彼女は都を邪馬台国におき、弟の補佐を受けながら国を治めていた。
邪馬台国の官としては、伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮がいた。戸数は七万余戸あったとされる。
女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。もとから狗奴国とは対立しており、戦いがあった247年(正始8年)に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、卑弥呼宗女の「台与」(または「壱与」)が巫女女王になることで連合国が収まった。壱与女王は266年に晋の武帝に遣使、朝貢している。
なお、倭人伝中に出現する表記上は、「邪馬台国(やまたいこく)」は1回に過ぎず、「女王国」が5回を数える。邪馬台国と後のヤマト王権の関係、邪馬台国の位置については諸説ある。
「魏志倭人伝」中の“邪馬台国”
以下は「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国の概要である。
倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
(中略)
計其道里 當在會稽東冶之東
対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。位置については畿内説と九州説が有力とされる。道程についても「連続説」と「放射説」がある。位置や道程の比定をめぐっては論争が起きてきた。
その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国 があり、女王国の南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった。
倭地、女王国の地理
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黑齒國復在其東南 船行一年可至
參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
女王國から東に1000里ほど海を渡ればまた倭種の国があることは、九州説を前提とすれば中国地方を、畿内説を前提とすれば東海地方や琵琶湖の対岸が倭種の国と想起される。その倭種の国からは南に、小人の国である侏儒国があると説明されている。それとは別にまた船行1年で行ける所として裸国と黒歯国があった。
倭地、女王国について説明があり、「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、巡り回ると5000里ばかり」とある。
政治
收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、国々には市場が開かれ、「大倭」 に交易を監督させていた。
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
女王国の北には特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れていた。常に伊都国で治められており、中国でいう刺史 のようである。王が魏の都、帶方郡、韓の国々に使者を派遣する際や、郡の使者が倭国に来た際は、皆が津に臨んで調査、確認し、文書を伝送して贈物を女王に届けるので間違いは起こらなかった。
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛
倭国には元々は男王がいて、70-80年ほど在位したが、彼が崩御した後に倭国は乱れ、お互い何年も攻め合っていたので、一人の女子を共立し王とした。
名を卑弥呼といい、女王は鬼道を使い、能く人心を掌握し、既に高齢で、夫は持たず、弟が政治を補佐した。卑弥呼が王位と為ってからは、人は会見することが少なく、1,000人の女性が侍っていて、ただ一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。宮室や楼観で起居し、険しい柵を設け、常に多数の兵士が守衛をしていた。
卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)であるとする見方がある 一方、単に祭祀を行っていたとする見解もある。
また、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治(ヒメヒコ制)とする見方もある。
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹
卑弥呼の死去によって、大いに冢が作られ、直径が100歩ほど、奴婢100人あまりが殉葬された。その後男王が立てられたが、国中はこれに服さず更にお互いを誅殺し1,000人あまりが死んだ。再度、卑弥呼の親族で13歳の少女の台与を王と為し遂に国は定まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって台与を諭した。台与も魏に大夫率の善中郎將掖邪狗など二十人の使者を送り、男女の奴隷30人、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を朝貢した。「大作冢」とは大き塚を作るではなく大いに塚を作る、又は多数の冢を作るの意味である。
魏・晋との外交
「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。女王は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(247年)には、使者が狗奴国との紛争を報告しており、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。詳細は以下の通り。
建安年間(196年-220年)公孫康が屯有県以南の荒地の一部に帯方郡を置いた、後漢の遺民を集めるため公孫模や張敞などを派遣し兵を興して韓と濊を討伐したが、後漢の旧民は少ししか見い出せなかった。この後、倭と韓は帯方郡に服属した。
景初2年(238年)、魏の明帝は劉昕を帯方太守、鮮于嗣を楽浪太守に任じ、この両者は海路で帯方郡と楽浪郡をそれぞれ収めた(『三国志』魏書東夷伝序文)。
6月 または景初3年(239年)6月女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。
12月、悦んだ魏の皇帝(景初2年だとすると明帝(12月8日から病床、27日の曹宇罷免の詔勅も直筆できなかった。-『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)景初3年だとすると曹芳)は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
8月23日帯方郡と楽浪郡を支配していた公孫淵が司馬懿により斬首される。
帯方郡と楽浪郡が魏に占領される(『三国志』魏書東夷伝序文)。
景初3年(239年)春正月丁亥日(1月1日)明帝崩御(『三国志』魏書明帝紀)。
正始元年(240年)帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
正始4年(243年)12月、女王俾彌呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。
正始6年(245年)皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
正始6年(245年)帯方太守弓遵と楽浪太守劉茂は嶺東へ遠征して濊を討った後、郡内の韓族が反乱して崎離営を襲ったため、軍を出して韓族を討ち滅ぼしたが弓遵は戦死した。
正始8年(247年)女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
女王に就いた台与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また魏志倭人伝の記述などから朝鮮半島の国々とも使者を交換していたとの見解もある。
この後、『日本書紀』の「神功皇后紀」所引の『晋起居注』(現存しない)に、泰初(泰始の誤り)2年(266年)に倭女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝紀にも泰始2年に倭人が朝貢したとあるので、現在では、時代的に考えるとこの女王は神功皇后ではなく邪馬台国の台与であり、新女王の台与が魏に代って成立した晋の武帝(司馬炎)に朝貢したと考えられる。また『晋書』四夷伝によると武帝の父・文帝(司馬昭)が魏の政権にあった255年-265年に女王の使者が何度もやって来たが、泰始の初めには通訳を重ねた入貢があったという。宣帝(司馬懿)紀には240年「東倭」が通訳を重ねて納貢したともある。『日本書紀』の崇神天皇12年にも異俗の人々が「訳を重ねて」来たとあるが関連は不明である。
言語
魏志倭人伝 には31の地名(「倭」を含む)と14の官名、そして8人の人名が出てくる。これら53の音訳語は日本列島で用いられた言語の最古の直接資料である。これら3世紀以前の倭国の言語の特徴は上代日本語の特徴と同じであることが、森博達やBentleyらによって指摘されている。その特徴とは
開音節(母音終わり)を原則とする。
ア行は原則として頭音にくること。つまり二重母音は回避されること。
頭音には原則としてラ行が来ないこと。
頭音には原則として濁音が来ないこと。
などである。こうした特徴が見出されることは、現代日本語の基礎が3世紀にすでに形作られていたことを物語る。但し森博達は、8世紀国内資料から推定される発音と三世紀中国文書に示された地名、官名、人名の53語との連携は、不確実であることも示している。
風俗
魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されているが、2ヶ所に分けて書かれており、両者間には重複や矛盾がある。以下は便宜上その2ヶ所を区別せず列記する。
男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
その風俗は淫らではない。
男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みは無く、訴訟も少ない。
法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。
倭国のその後
3世紀半ばの台与の朝貢を最後にして、5世紀の義熙9年(413年)倭の五王(雄略天皇などヤマト王権の五天皇)の朝貢まで150年近く中国史書に倭、ないしは倭国に関する記録はない。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。
倭国連合とヤマト王権との関係については諸説ある。
名称・表記
現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』は晋の時代に陳寿(233-297)が編纂したものであるが、現存する刊本で最古のものは、12世紀の宋代の紹興本(紹興年間(1131年 - 1162年)刻版)と紹熙本(紹熙年間(1190年 - 1194年)刻版)である。一方、勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』現存刊本は、成本時期が10世紀で現存の『三国志』刊本時期より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると「邪馬臺国」の表記が用いられている。
『三国志』より後の5世紀の『後漢書』倭伝現存刊本では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝現存刊本では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』現存刊本では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝現存刊本では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。
新字体では、「壹」は壱か一にあたる文字(ただし通常は壱で代用する)であり、「臺」は台にあたる文字である。
発音と表記
「邪馬台」の後漢中国語(当時の発音) /*ja-ma-də/[7]
現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「やまたいこく」という読みは、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づいて音読したものであるため、魏志倭人伝の書かれた当時の発音を正しく表すものではない。上述の通り、当時の発音は"*jamadə"であったと推測され、これは仮名文字で表記すると「やまど」となる。しかし、当時の日本語では清音と濁音の区別がなくどちらも同じ音と認識していたため、当時の正しい発音は「やまと」となる。
畿内説
「邪馬台国」の発音の近さから「やまと」の宛字ではないかと類推する。これは、邪馬台国と同じく「魏志倭人伝」に登場する対海/対馬国を対馬,一大/一支国を壱岐,末廬国を肥前国松浦郡といったふうに発音の近さを手掛かりとしてあてはめるのと同様に、邪馬台国も発音から地名をあてはめようとするものである。新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いている。。
九州山門説に対しては、上代日本語だと「台」は乙類、山門の「門」は甲類であるので異なるとする。
九州説
日本語の「ヤマ」は通常「山」を意味し、漢字では耶麻、耶馬などと表記されることがあるが、「邪馬台」の漢字も、九州の山と台地を表現したとする。
論争
日本における邪馬台国への言及は、『日本書紀』卷第九神功皇后摂政三九年、四十年および四十三年の注に「魏志」から引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述となっていることが嚆矢である。
三十九年。是年也大歲己未。魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。
四十年。魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等。奉詔書印綬。詣倭國也。
四十三年。魏志云。正始四年。倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。
—国史大系. 第1巻 日本書紀 p.172
新井白石は「古史通或問」において、奈良に存在する大和国説を説いたが、後に著した「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、本居宣長は「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、九州の熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。
位置に関する論争
「魏志倭人伝」の帯方郡から東南に1万2千里(短里)との記載に従えば、邪馬台国は屋久島付近に行きつくことになる。白石も宣長も、原史料に対してさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで学界の主流は「九州説」(白鳥庫吉ら)と「畿内説」(内藤湖南ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が“畿内に移動してヤマト政権となった”とする説(「東遷説」)と、邪馬台国の勢力は“畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた”とする説がある。
邪馬台国は魏志倭人伝にあるように卑弥呼が魏に朝貢した景初3年(239年)(魏志 景初2年(238年))に加え『日本書紀』所引の「晋起居註」に倭女王が晋に泰始2年(266年)に遣使し朝貢したとあることから、3世紀中期に存在したことが確かである。
2009年に奈良県の纒向遺跡から3世紀の大型建物の遺物が見つかったと発表され、2010年代には日本史教科書でも畿内説を有力として記述するものが出てきた。一方、炭素14年代推定について議論があり、対する九州説や東遷説は吉野ヶ里遺跡に期待するなどして巻き返しを図っている。
連続式と放射式
「連続説」(連続読み)- 「魏志倭人伝」に記述されている順序に従うが、都度、方角を90度変更したり距離、日数を修正したりして各国を順次比定する読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国・対海国・一大国を経て北部九州に上陸し、末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国までを順にたどる説。
「放射説」(放射読み) - 榎一雄の説。伊都国までは連続読みと同じだが、伊都国以降では、行程の表現方法、つまり、文型が変化していることから、伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点に放射状の行程が書かれていると読む説。
同じ「放射読み」だが、伊都国ではなく、末廬国を起点とする説[要出典]。
「連続説」「放射説」以外の説
距離の計算
「魏志倭人伝」の距離(里数)の問題については、短里が使用されていたとする説(短里説)、当時は兵力などを10倍に誇大に記載する例(露布説)[20][21]があったことから、公孫氏を討伐する魏軍が帯方郡を接収した当時の軍事報告に基づいたためという説、魏が呉を地理上挟み撃ちにできるとして威圧する目的で、実際より南の呉の近くにあるように見せかけるため書き換えたという説[22]、曹爽の功績である西域の「親魏大月氏王」の距離、などがある。
帯方郡から女王国までの12000里
魏志倭人伝には、帯方郡から女王国まで12000里と明記されているが、行程を合計すると、
7000里+1000里+1000里+1000里+500里+100里+100里=10700里。
残りは、12000里ー10700里=1300里になる。
畿内説の連続読みでは、この1300里に、投馬國への水行20日と邪馬壹國への水行10日陸行1月を費やしたことになる。
古田武彦は、帯方郡〜伊都国の10500里に、伊都国〜奴国の100里、対海国の方400里二辺800里、一大国の方300里二辺600里を加えた12000里で説明は終了しており、次の日数の説明(投馬國、邪馬壹國)は再び帯方郡からのものと主張している。この場合、伊都国〜不弥国の東行100里が無意味になる。
これについて、孫栄健は、立前(ミスリード)「一大国〜末廬国〜伊都国」、本音(実際の経路)「一大国〜不弥国〜伊都国」と推理している。
短里説
距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である。三國志魏書韓伝で韓は方4000里四方と記されており地図上の「実距離」から1里が75-90m程となる、また魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが1000里、對海國から一大國(壱岐)までが1000里とあるが、地図上の「実距離」はそれぞれ約70kmである[23]。その他に三国史記の新羅伝の鬱陵島の記載でも1里約80m程である。
露布説
露布について、孫栄健は次のとおり説明している[21]。
『魏志』十一巻「国淵伝」に、(中略)「破賊文書(軍事書類)は、旧(もと)、一を以って十と為す(数字を十倍する)」と、述べられている。この破賊文書とは、後漢から魏・晋時代に用いられた戦時公報(戦果発表)の、「露布」のことだ。
以下、便宜上、露布里数を実里数に戻した(×0.1した)ものを「露布里」と表記する。
1里は約434mなので、1露布里は約43.4mになる。
「帯方郡」を大韓民国・ソウル特別市付近
「狗邪韓国」を大韓民国・釜山広域市付近
「奴国」を福岡県福岡市付近
と仮定し、直線距離を計算すると、
帯方郡〜狗邪韓国:7000露布里=約304km
狗邪韓国〜奴国: 5000露布里=約217km
帯方郡〜奴国: 12000露布里=約521km
になる。
GISソフトなどで、「餘里」を考慮せずに計算しても10-30km程度の誤差でしかない。座標設定・測量計算アルゴリズムの違いによる誤差、かつ、西暦200年代の測量技術ということを踏まえた上でも、おおむね精確であると認めざるをえない。
方位角による考察。
「投馬国」を(都萬神社がある)宮崎県西都市付近
と仮定し、前述「狗邪韓国」「奴国」と対比したとき、
帯方郡からの 直線距離 方位角
狗邪韓国: 約304km 約145°
奴国: 約521km 約144°
投馬国: 約730km 約145°
となり、「帯方郡〜狗邪韓国〜奴国〜投馬国」は、ほぼ同じ方位角上に存在した可能性がある[注釈 7]。
中国正史の卑弥呼
『後漢書』卷85 東夷列傳第75「桓靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王(桓帝・霊帝の治世の間(146-189年)、倭国大乱があり、さらに互いに攻め合い、8年±数年も主無き状態となった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共立し王にした。)」とある。
『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿(其の国もまた元々男子を王として70-80年を経ていた。倭国乱があり、8年±数年間も相互に攻め合った。そこで、一人の女子を共立して王にした。名は卑弥呼という。鬼(神)道を用いてよく衆を惑わした。年齢は35歳を過ぎ、夫は無かった。)」とある。
『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭「漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼爲王。((後)漢の霊帝の光和年間(178-184)、倭国乱があり、8年±数年も相互に攻め合った。そこで、一人の女子卑弥呼を共立して王にした。)」とある。
『三国史記』新羅本紀に「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」とある。
畿内説(以下、論拠不十分)
邪馬台国畿内説では、奈良県桜井市三輪山近くの纒向遺跡を邪馬台国に比定する意見が多くを占める。他に少数意見として、琵琶湖湖畔、大阪府などに比定する説もある。
「邪馬台」は当時の中国語の発音で /jamadə/ であったと言語学的に推定され、当時の日本語では清音と濁音を区別しないことから、「大和」の当時の発音である /jamatə/ と完全に一致すること
纒向遺跡の始期や変革期が3世紀であること。
纒向遺跡から南関東など北部九州以外の広い地域からの土器が出土していること。
最古の前方後円墳である箸墓古墳の築造時期が、卑弥呼の没年に近い3世紀中葉であること。
吉備、阿讃播など広範な地域起源の文化に起源を求めうる前方後円墳が、3世紀頃から纒向遺跡周辺を中心に、女王に属する奴国を含む北部九州から南関東まで分布するようになり[25]、古墳期の時代が下るにつれて全国に広がっていること。
卑弥呼の遣使の頃の景初三年、正始元年銘を持つものもある三角縁神獣鏡が畿内に分布していること。
235年-244年の間に収まって銘された銅鏡が、畿内を中心に12枚分布していること。
逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。
帯方郡から狗邪韓国までの行程で既に7000余里あり、南を東に読み替えても残り5000里ではおさまらないこと。
箸墓古墳を卑弥呼の冢とする説があるが、魏志倭人伝の記載とは異なり石槨がある。卑弥呼死後に男王が即位するも再び混乱したことが記録されており、国内が混乱していた時期に当時最大の墳丘を持つ古墳を造営することは難しい[。また古墳周囲には記録にある殉葬の跡も見られない[要出典]。加えて服属先である魏が薄葬令で墳墓を縮小しており、朝鮮諸国の王墓や帯方郡の郡守墓も30メートル前後の方墳であるため、倭国だけが飛び抜けて巨大な前方後円墳を築造したとは考えにくい。
三角縁神獣鏡が中国、朝鮮の遺跡から一面も出土していないことに加え、全国での出土数が記録にある100面を遥かに上回っていること。また古墳での埋葬例を見ると、扱いが非常に粗雑であることが指摘されている。
箸墓古墳とほぼ同時期または先行して築造されたホケノ山古墳の年代について、発掘調査で出土した木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲である。
「魏志倭人伝」には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること。また諸国を統率する一大率が伊都国におかれたと書かれていること。
纒向遺跡では、弥生時代末期までの大和では見られなかった鉄器製作にかかわる鍛冶関係の遺物の出土が見られるが、鉄器生産は小規模であり、金属器や大陸系遺物も少なく、東方地域の土器が多いのに対して北部九州系の土器が少ないこと。
少なくとも庄内式の末期、つまり箸墓古墳の造営が始まる頃までの一大遺跡群としての纒向遺跡には、墓制や生産面、対外交流などにおいて北部九州を超えるような内容は認められないこと[28]。
『魏志』における邪馬台国の戸数「7万戸余」という、戸数「2万余」の奴国をはるかに超える大遺跡は弥生時代の大和において認めがたいこと。
九州説(以下、出典不足)
邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、筑後平野説、福岡県の大宰府(太宰府市)、大分県の宇佐神宮(宇佐市)、宮崎県の西都原古墳群(西都市)など、ほとんど九州の全域に渡って諸説が乱立している。
邪馬台国が九州にあったとする説は、以下の理由等による。
邪馬台国は伊都国の南にあると三回書かれている。
帯方郡から女王國までの12000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10500里使っていることから、残り1500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば邪馬台国の位置は九州地方北部にかぎられること。
福岡県久留米市には、『魏志倭人伝』に記載される「卑弥呼の塚」と規模や副葬品、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていることなど主体部の形式がよく一致する祇園山古墳があること[30]。
『魏略』には投馬国も水行陸行の記事も存在せず、また里数記事において末廬国から伊都国への行程記事が不自然であることから、水行陸行の記事が後世の加筆と見られる[要出典]。
逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。
九州説論者の間でも邪馬台国やその他の国々の比定地に統一的な見解がなく、一言に九州説と言っても多くの異なる説の総称でしかないこと。
祇園山古墳は方墳であること。
魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であること。
畿内の古墳築造の開始時期を、3世紀にまで繰り上げるのが近年の通説であること。
3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しないことから、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものであり、事実中国では三角縁神獣鏡は殆ど出土していない」とする見解を表明し[要出典]、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。
九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北部九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないこと。一方、日田市のダンワラ古墳から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が卑弥呼の鏡であるとする説がある。
『魏志』における邪馬台国の戸数「7万戸余」という、戸数「2万余」の奴国をはるかに超える大遺跡は弥生時代の北部九州において認めがたいこと。
東遷説
九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷し、畿内に移動したという説。東遷説には、この東遷を神武東征や天孫降臨などの神話にむすびつける説[要出典]と、特に記紀神話とは関係ないとする説[要出典]の両パターンがある。東遷した時期や形態についても多くの説がある。
古くは明時代の鄭舜功が指摘し、白鳥庫吉、和辻哲郎を先駆けとして戦前に広まったが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持された。
倭国大乱で東遷したという説
久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「筑紫女王国(主都)」と「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「畿内邪馬台国(副都)」とを想定し両者は別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に主都を遷しそこで卑弥呼が擁立されたのであるとした。
卑弥呼と台与の間に東遷したという説
大和岩雄は九州にあった女王国とは「畿内をも含む倭国全体の首都」であって、卑弥呼の死後、畿内の邪馬台国へ東遷して女王台与を擁立したが、それは倭国の勢力圏の内部での移動にすぎないとした(ただし天岩戸や天孫降臨や神武東征などの神話と関係づけることはしていない)。この説では卑弥呼は九州に、台与は畿内にいたということになる。
邪馬台国時代の後に東遷したという説
安本美典は「卑弥呼=天照大神」「台与=万幡豊秋津師比賣(忍穂耳の妃)」だと同定した上で、その子孫である神武天皇が東遷してヤマト政権になったのであるとした。この説では卑弥呼も台与も九州にいたということになる。
存在しなかったという仮説
これは、邪馬台国自体が存在しないということではなく、魏志倭人伝に記されたような規模や距離の邪馬台国という国が存在しなかった(従って、魏志倭人伝の記載から邪馬台国の位置を読み取るのは不可能)というもの。邪馬台国と国交を結んだのは司馬懿の功績であるが、司馬懿にとってライバルにあたる曹爽は西方の大月氏国と国交を結んだという功績があった。すなわち、司馬懿の功績を曹爽の功績に匹敵させるために、邪馬台国を大月氏国に匹敵する規模と距離の国家であるとして史書に記載したというもの。岡田英弘が提唱している。
阿波の可能性
2000年4月20日、徳島県鳴門市大麻町で3世紀半ば築造の直径約20メートルの竪穴式石室を有する円墳である西山谷2号墳が発掘され、斜縁上方作銘獣帯鏡、鉄剣、鉄鏃(42点)、鉄槍、ヤリガンナ、土器などが出土した。石野博信によると、「平らな石を積み上げる竪穴式石室を有する古墳としては国内最古で、三角縁神獣鏡が出土した宮谷古墳(徳島県徳島市国府町西矢野)も同様の方法で造られており、阿波の墓の築造法が大和政権の王墓のルーツである可能性が高い。阿波と大和政権がかなり親密な関係にあったことの裏付けとなる」。また菅谷文則は「3世紀半ばに高度な文化と権力構造が阿波にあったことになり、邪馬台国を考える上で大きな手掛かりになる」と評価した。岡村秀典は斜縁上方作銘獣帯鏡について「割らずに副葬した最古の例で、在地の権力者が北部九州経由で入手したと考えられる。吉備地方の特殊器台を取り入れ埴輪となったように古墳は各地の要素を取り込んでおり、古墳構造の起原の一つでは」と述べた。徳島県と香川県には弥生時代末から積石塚という石を積み上げて築く塚があり、石を使う技術にたけていた[40]。徳島県三好町の足代東原遺跡で、2、3世紀の積石塚が30基余確認されている。最大のものは全長16.5メートル、3世紀前半の前方後円形の墓である。この前方部には多量の供献土器とともに、白い丸石を集めた集積群があり、4世紀の大和の大王墓である渋谷向山古墳などと共通する。3、4世紀の積石塚は徳島県と香川県が他の地域に比べ圧倒的に多く、3世紀の鳴門市萩原1号墓と高松市鶴尾4号墳はともに最古級の積石塚前方後円墳であり、4世紀には国指定史跡の高松市石清尾山古墳群へと続く。また、規模は小さいが4世紀初めの積石箱式石棺墓が小豆島の内海に浮かぶ弁天島に造られている[41]。2007年3月14日、2006年に確認した直径約20メートル高さ2.5メートルの円丘部に突出部(長さ5.2メートル、先端部の幅4メートル)が付いた前方後円形の墳丘墓である萩原2号墓(鳴門市大麻町)の築造年代が、弥生時代後期から末期(二世紀末から三世紀初頭)とみられ、国内最古の石積み墳丘墓である、と徳島県教育委員会が発表した。石積みの内側に木材を立てた墓室である石積み木槨の痕跡も全国二例目として確認され、国内最古とされるホケノ山古墳の原型だったことがわかり、古代阿波の文化、技術が大和政権に大きな影響を与えていたことが確実になった。石野は「ホケノ山古墳の埋葬者が阿波の出身者である可能性が高まった」と話した。 阿南市の若杉山遺跡は現在全国で唯一判明している弥生時代の辰砂採掘遺跡である。
参考:「邪馬台国」コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD-144146#w-144146
『三国志』の「魏志東夷伝」の倭人の条(魏志倭人伝)にみられる小国家。倭の女王卑弥呼が都としたと伝えられる。2世紀後半から 3世紀半ばの日本の状態が記されたとされる魏志倭人伝によると,邪馬台国には 7万余の戸があったという。卑弥呼は 30ほどに分裂していた小国家が共立した女王で,「鬼道に事(つか)え,能(よ)く衆を惑わ」していたとある。狗奴国(くぬのくに)との戦乱の際に世を去り,その後男王がついたが国中服さず,卑弥呼の一族にあたる 13歳の少女壹与の擁立で安定を取り戻したといわれる。邪馬台国の所在地については江戸時代以降,九州説と畿内の大和説とがあり,今日まで定説はない。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
『魏志倭人伝』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D-50540#w-50540
日本古代に関する中国の正史の一つで,晋の陳寿が撰した『三国志』のなかの『魏志』 30巻,東夷伝にある倭人の条の通称。中国の歴史書のなかで日本に言及しているのは,後漢の班固の撰した『漢書』 (120巻) のなかの地理志が最古であるが,『魏志倭人伝』はこれに次ぐものである。倭人伝の条は,『漢書』の地理志と,陳寿と同時代の魚豢による『魏略』 (現在散逸し,逸文がところどころに引かれている) その他当時存在していた資料を集綴したものである。このあと,『魏志倭人伝』に類するものとして宋 (南北朝) の范曄が撰した『後漢書』の東夷伝がある。『魏志倭人伝』の最大の問題点は,女王卑弥呼 (ひみこ。ひめこ) の邪馬台国の所在についてである。漢は朝鮮半島京城付近一帯に楽浪郡中の帯方県をおいて治めたが,後漢の末 (3世紀初め) ,郡に昇格させ,韓民族や倭人に対する中国の門戸とし,魏もこれにならった。この帯方郡から邪馬台国までを一万二千余里としたのが『魏志倭人伝』の記事である。途中,狗邪韓国,対馬国,一支国 (壱岐) ,末盧国 (松浦) ,伊都国 (怡土) ,不弥国,奴国,狗奴国,投馬国などについて触れ,それぞれ距離と方向も示している。江戸時代以来,この記事をめぐり,邪馬台国が北九州であるか畿内大和 (奈良県) であるか,学者の間で議論が分れる。当時の里程と方位が,どの程度今日の地図上におきうるかという点も問題であるが,邪馬台国について詳細に記し,さらに小国家分立の様子や風俗習慣にまで言及しており,大和朝廷との関係で無視することができない。なお『日本書紀』の編纂者は,この倭人伝を参照したと考えられる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
魏志倭人伝コトバンクより引用
参考:親魏倭王Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%AD%8F%E5%80%AD%E7%8E%8B
親魏倭王(しんぎわおう)とは、魏の皇帝・曹叡から邪馬台国の女王・卑弥呼に対して、景初2年(西暦238年)に与えられたとされる封号のこと。『三国志』東夷伝倭人条(『魏志倭人伝』)に記述されている。
景初3年(西暦239年)であるという異説もある。その場合の皇帝は曹芳。
朝貢ルートの閉塞
後漢末期より三国時代初期にかけて、遼東郡から朝鮮半島北部にかけて遼東公孫氏が事実上の独立政権を打ち立てていた。このため、倭や朝鮮半島南部(韓)などのいわゆる「東夷」と呼ばれた諸民族の朝貢ルートが閉ざされていた。なおこの期間、倭・韓が建安9年(204年)に公孫氏が独断で設置した帯方郡の支配下にあったことが記されている(『三国志』魏書東夷伝韓条)。このように「倭国大乱」という倭国内部の事情もあるものの、この時代の他の東方諸国と中国王朝との交流途絶の例は多く、倭の朝貢途絶に関しては公孫氏の影響も軽視できない。
朝貢ルートの再開
『三国志』魏志公孫淵伝によれば、景初2年8月23日(238年)に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠すると、邪馬台国の女王・卑弥呼は帯方郡への使者を送って、魏との交流が再開された(なお、呉と倭との交流については存在した可能性もあるが、『三国志』が魏を正統王朝として呉や蜀(蜀漢)への朝貢の記述や、朝貢していた諸民族(特に南方諸国)についての記事がほとんどないため、交流していたかどうかについては不明である)。
これに対して魏の皇帝は制書を発して卑弥呼に下賜品を与えるとともに、卑弥呼を「親魏倭王」に任じてその証である金印を与えた。『魏志倭人伝』には、制書の冒頭に掲げられる「制詔(官名)(人名)」の定型の冒頭文から省略なしに全文記載されており、『魏志倭人伝』の記述は正確と推定されている。
もっとも、魏国内の諸王に対してはこれより上位の書式である冊書をもって任じられたこと、また西方の大国である大月氏国などの以前より通交していた西方諸国の場合のように、制書文面に卑弥呼(倭王)に魏の高官の官位(勿論、実態としての価値はない)を与える趣旨の文が記載されてはいないことから、「親魏倭王」の価値を低く見る向きもある。しかし「親魏〇〇王」という称号は、大月氏国にしか与えられていない。魏は倭(邪馬台国)を現在の日本列島よりも相当南に位置していたと認識しており、呉を背後から牽制する存在として、邪馬台国を大月氏国と同等に扱う異例とも言える厚遇につながった。一方で邪馬台国にとってこの称号は、魏がバックに付いているという威信を国内の敵対勢力に示す価値があった。
印綬の授与と返上
卑弥呼の後継者とされる台与(あるいは壱与)が、西晋王朝成立の翌年である泰始2年(266年)に朝貢を行った。なお前王朝から授けられた「親魏倭王」の金印はこの朝貢時に回収されたとする説もあるが、根拠はない。なお、『梁書』倭伝には台与(壱与)の後に男王が立ち、並びに中国の爵命を受けたとある。この台与の登場を最後に、中国の歴史書から倭国の記述はばったりと途絶える。
『魏志倭人伝(原文、書き下し文、現代語訳)』 eoユーザーサポート https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
弥生時代は、まだ日本には文字が無いので、当時の様子は、発掘か中国の歴史書で知るしかない。
中国の歴史書で弥生時代の日本について書かれているのは、次の3つ。
漢書地理誌(後漢章帝・班固・班昭):『夫れ楽浪(平壌あたり)海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歳時を以て献見(朝貢)すと云ふ」
後漢書東夷伝(南朝宋の笵嘩(『本紀』『列伝』)・西晋の司馬彪(『志』)):建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬。『魏書』巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」の一部に倭の記述。←金印(志賀島)・安帝の永初元年に倭から生口(奴隷)160人献上
魏志倭人伝(280年~297年の間・西晋の陳寿):中国の正史中で、はじめて日本列島に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。親魏倭王。金印と銅鏡100枚。邪馬台国・卑弥呼・壱与(台与)。239年卑弥呼が魏に朝貢。
すべて弥生時代。
参考にしました。:『5分でわかる!『漢書』地理志』トライイット https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12437/ 『5分でわかる!『後漢書』東夷伝』トライイット https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12437/point-2/ 『5分でわかる!邪馬台国』トライイット https://www.try-it.jp/chapters-12394/lessons-12441/point-2/