縄文・弥生
新石器時代など
2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
新石器時代など
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
バンク、Wikipedia等を引用しています。
日本列島に生息していたゾウの1種である。様々な説があり、はっきりとした年代は不明だが遅くとも65万年 - 42万年前頃にはすでに出現していたのではないかと言われている。約2万年前頃から衰退し約1万5000年前の新生代更新世後期まで生息していた。ゾウ目ゾウ科に属し、現生のアジアゾウと近縁である。
最初の標本は明治初期に横須賀で発見され、東京帝国大学(現・東京大学)地質学教室の初代教授だったドイツのお雇い外国人ハインリッヒ・エドムント・ナウマンによって研究、報告された。その後1921年(大正10年)には浜名湖北岸の工事現場で牙・臼歯・下顎骨(かがくこつ)の化石が発見された。
1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)まで長野県の野尻湖畔に位置する立が鼻遺跡(野尻湖遺跡群)で実施された4次にわたる発掘調査では、大量のナウマンゾウの化石が見つかった。このときまでナウマンゾウは熱帯性の動物で毛を持っていないと考えられていたが、野尻湖発掘により、やや寒冷な気候のもとにいたことが明らかになった。
縄文時代
是川石器時代遺跡 これかわ せっきじだい いせき
史跡指定 1957(昭和32)年7月1日
ステージⅢb (1,000BCE~400BCE) (史跡年代 4,000BCE~400BCE)
是川遺跡(これかわいせき)は、青森県八戸市大字是川中居にある縄文時代晩期の遺跡。別称是川石器時代遺跡ともいう。1957年(昭和32年)7月1日、国の史跡に指定されている。2021年(令和3年)、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。
本遺跡は、市域南東部の新井田(にいだ)川沿いの標高10~30メートルの台地に広がる縄文時代の集落遺跡。 縄文晩期を中心とする中居遺跡、縄文前期・中期の一王寺遺跡、縄文中期の堀田遺跡の3つの遺跡を総称して是川遺跡と呼ばれている。
中居遺跡は、低湿地(沢地形)を主体とする遺跡で、大量の木の実の殻や遺物が捨てられていた。この捨て場から完形を保つ多数の土器や石器、漆塗りの多様な植物性遺物が検出された。また、土坑墓が検出され、赤色顔料がまかれた人骨が出土している。
一王寺遺跡は、長谷部言人による円筒土器の命名の地。山内清男と喜田貞吉による縄文土器の年代の下限をめぐる「ミネルバ論争」のもととなった遺跡でもある。縄文時代前期・中期の土器の他に、貝塚が見つかっており、獣骨や骨角器などが出土している。
堀田遺跡では、縄文時代中期・後期の土器片が採取され、中期末の円形竪穴建物跡、後期の集石遺構があるが、全容は明確でない。弥生時代前期の籾圧痕(もみあっこん)土器が出土し、当地への稲作伝播の時期が分かる。
参考:『是川石器時代遺跡』(世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」) https://jomon-japan.jp/learn/jomon-sites/korekawa
参考:『是川遺跡』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AF%E5%B7%9D%E9%81%BA%E8%B7%A1
新石器時代は、完新世のうちのひとつの区切りである亜旧石器時代に続き、新石器革命を形成する耕作の発展によって開始したとされ、伝統的に石器時代の最後の部分とされる時代である。 文化的には精巧に制作された打製石器や磨製石器が確認されていることがあり、必ずしも農耕の開始と関連付けるものではない。 ただし、西アジア・ヨーロッパ・中国では農耕や牧畜が始まった時期と当てはまり、最古のものは紀元前8000年、以降でも紀元前6000年から5000年までは遡ることができる。アメリカ大陸では紀元前4000年から中央アメリカやアンデス山脈などで農耕の開始が確認できる。やがて銅器時代もしくは青銅器時代を経て、地域によってはこれを経ずに直接鉄器時代に入り、冶金術の成立によって金属による道具が広まったときに終了した。ただし、生産段階と道具が対応しない地域も存在する。日本では鉄器は6世紀頃まではもっぱら輸入に頼っており、アメリカ大陸や南洋地域では15世紀以降のヨーロッパの進出でもたらされたものの、製造技術の獲得に至らなかった。
日本の縄文時代は縄文海進(海進とは、海面が陸地に比べて上昇し、海岸線が内陸に移動する地質学的現象である。その結果、それまでの陸地は水没する )が進んだおよそ1万3000年前からと定義できる。しかし、温暖化した気候に併せて木の実の採取や植林の痕跡は見られるようになったものの、これを「農耕」としては定義できておらず、また「牧畜」文化も発見されていないため、日本で新石器時代の語を定義するのはふさわしくないともされている。日本では紀元前3世紀頃の青銅器が見つかっているが実用ではなく祭祀用として普及しているのみで、また鉄器についても日本での鋳鉄の技術の確立は6世紀頃(古墳時代)まで待たなければならず、次時代の定義が他の地域とはやや異なる。この区分によって、日本には青銅器時代は存在しないとも言われている。
これに代わり、日本での編年には土器がよく利用され、「縄文」「弥生」の名称は土器に因んでいる。石器としては縄文時代では打製石器に加え磨製石器の石斧や石棒が現れている。縄文時代には、磨製石器と縄文土器の使用に加えて、弓矢が使用されるようになり、定住化の始まりによる竪穴建物の普及、環状集落等の定住集落や貝塚の形成、植物栽培(半栽培)の始まりなどが挙げられ、非定住狩猟採集社会である旧石器時代とは区別される。
ただし、南西諸島(主に沖縄県)では貝塚文化時代と呼ばれる時期に相当しており、縄文時代は貝塚時代前期、次の弥生時代は貝塚時代後期となる。また、東北地方北部から北海道では他地域に弥生文化が登場した後も縄文時代の生活様式が継承されたため、縄文時代の次の時代を続縄文時代と呼ぶことが多い。
日本の先史時代のうち,縄文土器の使用された時代で,約1万2000年前に始まり,約2400年前まで続いた。縄文土器の編年に従って,草創・早・前・中・後・晩期に区分されるが,全期を通じて,打製・磨製石器を主要利器とし,狩猟・漁労を行い,高度な採集経済の段階にあった。遺跡は,貝塚,洞窟,低湿地遺跡などがあり,その分布は,中部・関東・東北に多く,全体の8割を占める。住居は,おもに竪穴(たてあな)住居で,草創期には洞窟を利用したものも多い。死者は住居の近くに埋葬。中期までは屈葬が多いが,後・晩期以後次第に伸展葬が多くなる。貝塚の広さや,竪穴住居の集合状態から,集落の人口と規模は増減を繰り返していたものと考えられる。利器は,石器のほか骨角器が発達,また精巧な土偶が出現した。縄文時代は,土器,磨製石器,竪穴住居,巨石記念物をもっているため,新石器時代の文化に属するといわれるが,農耕や牧畜を伴わない点が,ヨーロッパなどの新石器時代と異なっている。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
弥生時代に先行する縄文土器をもつ文化の時代。実年代は,その発生の時期は前1万 2000~4500年とはっきりしないが,終末は前3~2世紀頃とされている。従来早期,前期,中期,後期,晩期の5期に分けられていたが,早期の前に草創期を加え,6期に分けるのが一般的になっている。縄自体を回転させるという日本独自の縄文が施されるのは草創期後半に入ってからである。この社会は主として狩猟,漁労に依存する採集経済の段階にあり,西方からの農耕文化の到来によって終末を迎える。磨製石器の存在,土器の発達度,大規模集落の出現などから,新石器時代の様相が強い文化といえる。集落跡や貝塚など縄文遺跡は北海道から九州まで各地に分布,三内丸山遺跡や鳥浜貝塚などが有名。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
上記は、縄文時代コトバンクからの引用
[三内丸山遺跡]
青森県青森市の市街地南西,沖館川南岸の丘陵地帯に広がる縄文時代中期の遺跡。江戸時代から存在は知られていたが,1992年以降の発掘調査により,約 5900~4200年前の長期間にわたって人が定住していた大規模集落跡であることがわかった。大型掘立柱建物跡とみられる直径・深さ約 2mの柱穴 6個および直径約 1mのクリの木柱 3本が発見されたほか,大小の竪穴建物跡,土坑墓,盛り土,道路跡,貯蔵穴なども確認された。また,盛り土などからは大量の土器(→縄文土器)や石器,祭祀等に用いたとみられる土偶約 2000点,食生活を示す魚骨や獣骨,クリやクルミなどの堅果類,木製品(編みかご,漆器など),交易品とみられる翡翠,黒曜石などが出土した。クリ,ゴボウ,ヒョウタン,マメなどの植物栽培の痕跡もみられた。1995年から遺跡の整備・公開が始まり,1997年に国の史跡,2000年に特別史跡に指定され,2003年には出土品 1958点が国の重要文化財に指定された。2021年,「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
上記1項は、三内丸山遺跡コトバンクから引用
青森県青森市、JR青森駅の南西3キロメートルにある小高い台地上の縄文時代集落遺跡。北西に陸奥(むつ)湾、南には八甲田(はっこうだ)山が望める。1992年(平成4)、県営野球場建設に先だつ発掘調査で遺跡の重要性が判明、保存が決定した。遺跡はその範囲が35ヘクタールという大規模なもの。集落の各施設-住居・墓・倉・残滓(ざんし)廃棄場が定められた地に、長期間整然と用益されている実態が明瞭(めいりょう)となった。発掘資料から推察すると、集落の存続期間は縄文時代前期の末から中期末まで1500年間にも及ぶ、まれにみる長期間であったことが判明し、加えて発見された土器などの量はリンゴ用段ボール箱で約4万箱、既調査地面積は5ヘクタール、全掘すればリンゴ用段ボール箱約25万箱と、膨大な量の資料が発掘されると予測される。しかも、質高く・多種多様・話題にこと欠かぬ豊富さである。遺跡規模・遺跡存続期間・遺跡包蔵物量ともに他の諸遺跡を圧倒・凌駕(りょうが)する大遺跡であると評価されるに至った。三内丸山遺跡のもつ個々の情報-計画的な集落設計、道路と墓列、大規模な造成、埋葬と墓地、祭祀(さいし)や供養、栗栽培、巨大木柱、朱漆やアスファルトなどが刻々と報道され、「縄文都市」という冠辞が三内丸山遺跡に与えられるに至った。現在、本遺跡をめぐっては考古学、文化人類学をはじめ諸学の援助を受け生態系、環境系、食料栽培など広汎(こうはん)な分析が進捗(しんちょく)しており、まさに「縄文学最前線」の観がある。三内丸山遺跡を熟視することで「都市」の概念を与えることの可否・長期間の連続性・膨大とされる遺物量の解釈がいっそう深められ、初めて本遺跡の価値は定着するであろう。1997年国の史跡に、2000年(平成12)特別史跡に指定。
[水野正好]
世界遺産の登録
2021年(令和3)、三内丸山遺跡はユネスコ(国連教育科学文化機関)により「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部 2022年1月21日]
1877年(明治10年)6月17日に横浜に上陸したアメリカ人の動物学者エドワード・S・モースが、6月19日に横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、政府の許可を得た上9月16日に発掘調査を行った。助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見し、9月29日にも訪れ、10月9日から本格的な発掘を行った。
1955年(昭和30年)3月24日には、国の史跡に指定された。モースらの発掘した貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片などの出土品は東京大学に保管されており、1975年(昭和50年)に全て国の重要文化財に指定されている。
平成9年、青森県の風張1遺跡より、発見された。重要文化財。
風張1遺跡の所在地:〒031-0023 青森県八戸市是川稲荷上 風張
風張遺跡は、新井田川右岸の丘陵上に立地、縄文時代中期から平安時代の遺構が発見されている。新井田川の対岸には、縄文時代晩期の是川中居遺跡が存在する。
風張1遺跡からは縄文時代後期後半の遺物664点が出土している(昭和63年~平成4年調査)(土偶は約70点)。竪穴住居跡から合掌土偶や炭化米が発見されたことで有名になった。この664点の出土品が是川遺跡遺跡が代表する亀ヶ岡文化の形成を考えるうえで極めて学術的な資料として極めて貴重な学術資料として、国の重要文化財に指定された。(八戸市HP)
平成元年、長芋作付けの緊急調査で合掌土偶が発見された。他の土偶のように捨て場や遺構外からではなく、建物の片隅から置かれたような状態で(寄りかかるような状態で出土)みつかっている。また、2009年7月10日、重要文化財のうち「合掌土偶」1点が、国宝に指定された。(是川縄文館)
縄文後期後半には妊婦の姿や座った姿勢の土偶が現れるが、ほとんどが体のどこかが欠けている。完全な姿、かつ座った姿勢で膝に手を置き、両手を合掌するような形であったことから発見当初から「合掌土偶」という名称を与えられ、座像形の土偶であるが、本土偶に匹敵する同型の土偶は見つかっていない。(青森県HP)
なお、発見された風原1遺跡は、現在私有地となっているので立ち入りはできません。
合掌土偶は、付近の埋蔵文化財センター是川縄文館で見られます。
以下のサイトで写真をご覧ください。とても心に来ます。↓
参考:『合掌土偶』(是川縄文館) https://www.korekawa-jomon.jp/parmanent_dogu/
参考:『国宝 合掌土偶』(八戸市公式HP) https://www.city.hachinohe.aomori.jp/soshikikarasagasu/zekawajomonkan/1/2753.html
参考:『土偶(青森県八戸市風張1遺跡出土)』(青森県文化財保護課) https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-bunka/kokuho_kouko_1.html
弥生時代
日本列島における時代区分の一つであり、「日本で食糧生産が始まってから前方後円墳が出現するまでの時代」とされる。年代としては紀元前10世紀から紀元後3世紀中頃までにあたる。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立した。一般的に3世紀中頃古墳時代に移行したとされるが、古墳時代の開始年代には異論もある。
紀元前10世紀または紀元前5世紀、紀元前4世紀頃に、大陸から北部九州へと伝来した水稲耕作技術を中心とした生活体系へ移行し、やがて九州・四国・本州に広がった。初期の水田は現在日本最古の水稲耕作遺跡となる佐賀県唐津市菜畑遺跡の他、福岡県博多区板付遺跡などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米などの存在が北部九州に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。
1981年(昭和56年)、弥生時代中期の遺跡として青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている。その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本盆地、千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかったが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられる。水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したといえる。またその伝来初期段階から、機能に応じて細分化した農具や、堰・水路・畦畔といった灌漑技術を備えた状態であったことが判っている[9]。なお弥生時代の水田形態は、畦畔に区切られた一面の面積が極小では5平方メートル程度となる「小区画水田」が無数に集合したものが主流である[10]。
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴建物に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。
道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。
弥生時代wikipedia一部引用
縄文時代では、狩猟採集社会であったため、家族という最も小さな社会集団のみで経済活動が完結していた。しかし、水稲耕作は人々が組織だって作業することが必要である。人々は水田近くの台地や平野に移住、定住した。
稲作を行うため、人々は農具を発明した。木製の鋤や鍬で地を耕し、石庖丁で稲穂を摘み取り、杵や臼を用いて脱穀を行った。
集落では、竪穴建物に居住し、高床倉庫に米を貯蓄した。ムラの誕生である。
夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。
当時の大陸の文献によれば、百幾らかのクニに分かれていたようである。
安定的な食料の確保ができるようになったことで、人口は増大した。
また、米は保存が可能であるため、ムラ内外で貧富の差が生まれた。これらの農耕文化の発展は、自然と人々の間に上下関係を生じさせたのである。
戦乱の発生
貧富の差は対立の起因となり、ムラ間での争いへと発展した。佐賀県吉野ヶ里町、神埼市の吉野ヶ里遺跡では物見櫓や柵、濠といった抗争の跡が見られる。
度重なる戦乱の末、複数のムラを束ねるクニと呼ばれる原始的な小国家が誕生した。
風俗
「魏志」倭人伝は、日本人の性格や社会の特徴について、「風俗は乱れていない」「盗みはしない」「争い事は少ない」などと記述している。また、「その会同、座起には、父子男女の区別なし」とある。
佐賀県神埼(かんざき)市・吉野ケ里町にまたがる吉野ケ里丘陵上にある大規模な複合遺跡。弥生時代に各地に成立した国の中心となる集落の構造を具体的に知りうる日本最大級の環濠集落。1986年(昭和61)から発掘が行われ,弥生時代の環濠集落,墳丘墓と甕棺墓(かめかんぼ),古墳時代の前方後方墳と集落,奈良時代の官道跡と官衙遺跡が発見された。弥生集落は,前期初頭頃に2~3の小規模な集落が丘陵上に定着。やがて丘陵南部に約3ヘクタールの拠点的な環濠集落が成立し,中期初頭まで機能した。この時期,青銅器の鋳造も開始された。前期の環濠の埋没後,丘陵を南北に区切る東西方向の溝が掘削され,その南側に中期中頃まで大規模な集落が営まれる。丘陵上では2000基をこえる甕棺墓の列埋葬が行われ,丘陵南北の両端には巨大な墳丘墓が造営された。北墳丘墓には14基以上の甕棺があり,うち8基に有柄銅剣を含む細形銅剣やガラス管玉(くだたま)を副葬していた。これらは首長層を含む有力家族集団の墓とされる。墳丘墓に対する大規模な祭祀は後期まで継続。中期後半には丘陵全体を取り囲む総延長2.5kmの外濠が掘られ,濠と土塁・逆茂木(さかもぎ)で守られた面積40ヘクタールの環濠集落が成立した。後期には外濠中央部に,中濠と物見櫓(ものみやぐら)を付設した内濠で二重に囲まれた南内郭が造られ,郭内には十数軒の竪穴住居跡のほか溝で囲まれた高床建物があり,外濠の西側には大規模な高床倉庫群がおかれた。後期中頃には北墳丘墓の南側にも北内郭が設けられ,郭内には約12.5m四方の大型掘立柱建物跡が検出された。南内郭よりも小規模だが,一段と高い身分層の居住区とみられる。3世紀代には環濠集落は廃絶した。国特別史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
吉野ケ里遺跡コトバンクより引用
吉野ケ里遺跡物見櫓
2023.7.25撮影
吉野ケ里遺跡酒造りの家
2023.7.25撮影
吉野ケ里遺跡北内郭
2023.7.25撮影
吉野ケ里遺跡甕棺
2023.7.25撮影
東アジアとの交流時期へ
奴国(なこく、なのくに)とは、1世紀から3世紀前半にかけて、『後漢書東夷伝』や『魏志倭人伝』『梁書倭伝』『北史倭国伝』にあらわれる倭人の国である。 大和時代の儺県(なのあがた)のちの那珂郡・席田郡・御笠郡・糟屋郡(現在の福岡県福岡市・春日市)に存在したと推定する研究者が多い。
比定されている遺跡
須玖岡本遺跡
岡本町4丁目遺跡
須玖岡本坂本地区遺跡
参考:『奴国への道』(春日市) https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/1002279/1002283.html
参考:『邪馬台国への道(後編)』九州歴史資料館展示シート https://kyureki.jp/wp-content/uploads/2021/12/kaisetsu80.pd
資料館:奴国の丘歴史資料館(春日市) https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/index.html
参考:『奴国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E5%9B%BD
1784年(天明4)筑前国那珂郡志賀島(しかのしま)(現,福岡市)で,農作業中の百姓甚兵衛が,水田近くの溝の中から発見し,黒田藩に献上した金印。形状は一辺23.5mmの方形,高さ22.4mmで,印の上部に蛇鈕(だちゅう)があり,「漢委奴国王」の陰刻がある。「後漢書」東夷伝倭人条に,57年,倭(わ)の奴国が使者を派遣して朝貢し,後漢の光武帝が印綬を与えたとあるが,一般にこの金印がそのときのものと考えられている。古来,偽作説も多いが,一辺の23.5mmは後漢の時代の1寸と正確に一致し,金の含有量も95%で,当時のものとして疑問はない。福岡市博物館蔵。国宝。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
漢委奴国王印コトバンクより引用
伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』など中国の史書にみえる倭国内の国の一つである。末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、大和時代の伊覩縣(いとのあがた)、現在の福岡県糸島市の一部と福岡市西区の一部(旧怡土郡)に比定している研究者が多い。
比定されている遺跡
三雲・井原遺跡
三雲南小路遺跡
井原ヤリミゾ遺跡
平原遺跡墳丘墓
参考:『邪馬台国への道(後編)』九州歴史資料館展示シート https://kyureki.jp/wp-content/uploads/2021/12/kaisetsu80.pdf
参考:『伊都国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%83%BD%E5%9B%BD
不弥国(ふみこく)は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。日本考古学界では福岡県飯塚市の立岩遺跡群を中心地に比定する見解などがある。
比定される遺跡
糟屋郡域
参考:『邪馬台国への道』(九州歴史資料館資料展示シート) https://kyureki.jp/wp-content/uploads/2021/12/kaisetsu80.pdf
参考:『不弥国』 Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%BC%A5%E5%9B%BD
『三国志』の「魏志東夷伝」の倭人の条(魏志倭人伝)にみられる小国家。倭の女王卑弥呼が都としたと伝えられる。2世紀後半から 3世紀半ばの日本の状態が記されたとされる魏志倭人伝によると,邪馬台国には 7万余の戸があったという。卑弥呼は 30ほどに分裂していた小国家が共立した女王で,「鬼道に事(つか)え,能(よ)く衆を惑わ」していたとある。狗奴国(くぬのくに)との戦乱の際に世を去り,その後男王がついたが国中服さず,卑弥呼の一族にあたる 13歳の少女壹与の擁立で安定を取り戻したといわれる。邪馬台国の所在地については江戸時代以降,九州説と畿内の大和説とがあり,今日まで定説はない。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
日本古代に関する中国の正史の一つで,晋の陳寿が撰した『三国志』のなかの『魏志』 30巻,東夷伝にある倭人の条の通称。中国の歴史書のなかで日本に言及しているのは,後漢の班固の撰した『漢書』 (120巻) のなかの地理志が最古であるが,『魏志倭人伝』はこれに次ぐものである。倭人伝の条は,『漢書』の地理志と,陳寿と同時代の魚豢による『魏略』 (現在散逸し,逸文がところどころに引かれている) その他当時存在していた資料を集綴したものである。このあと,『魏志倭人伝』に類するものとして宋 (南北朝) の范曄が撰した『後漢書』の東夷伝がある。『魏志倭人伝』の最大の問題点は,女王卑弥呼 (ひみこ。ひめこ) の邪馬台国の所在についてである。漢は朝鮮半島京城付近一帯に楽浪郡中の帯方県をおいて治めたが,後漢の末 (3世紀初め) ,郡に昇格させ,韓民族や倭人に対する中国の門戸とし,魏もこれにならった。この帯方郡から邪馬台国までを一万二千余里としたのが『魏志倭人伝』の記事である。途中,狗邪韓国,対馬国,一支国 (壱岐) ,末盧国 (松浦) ,伊都国 (怡土) ,不弥国,奴国,狗奴国,投馬国などについて触れ,それぞれ距離と方向も示している。江戸時代以来,この記事をめぐり,邪馬台国が北九州であるか畿内大和 (奈良県) であるか,学者の間で議論が分れる。当時の里程と方位が,どの程度今日の地図上におきうるかという点も問題であるが,邪馬台国について詳細に記し,さらに小国家分立の様子や風俗習慣にまで言及しており,大和朝廷との関係で無視することができない。なお『日本書紀』の編纂者は,この倭人伝を参照したと考えられる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
魏志倭人伝コトバンクより引用
参考:親魏倭王Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%AD%8F%E5%80%AD%E7%8E%8B