2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
2022年五街道・参勤交代と併せて出題
五街道(ごかいどう)は、江戸時代の江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つを指した陸上幹線道である。1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められた。
1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康は、政治支配力を強めるために、道路制度の改革と整備に乗り出し、朱印状によって各宿場に伝馬の常備を義務付け、道幅を広げて宿場を整備し、一里塚を設けるなどの街道の整備を着々と進め、砂利や砂を敷いて路面を固めたり、松並木を植えるなどが行われた。
五街道として定められたのは、徳川幕府(江戸幕府)2代将軍の秀忠の代になってからのことで、1604年(慶長9年)に日本橋を五街道の起点として定め、幕府安泰のために江戸を防衛することを目的として、街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まった。秀忠は、政治的・軍事的に重要な五街道を幕府直轄とし、一里(約4 km)ごとに一里塚を築いて、街道沿いに並木を植えることを命じた。街道は、東海道、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、中山道、甲州街道(甲州道中)の順に整備された。1659年(万治2年)以降は新たに設置された道中奉行の管轄に置かれた。五街道の正式名称が定められたのは1716年(享保元年)である[要出典]。
東海道をはじめとする五街道のすべてには、適当な間隔に宿場を置いて、各宿場に人足と荷駄用の馬(伝馬)を一定数常備し、幕府公用の役人の荷物運搬にあたらせた。各宿場には、幕府から幕府公用のための人馬提供を命じられたが、その見返りとして宿場経営の権利が与えられ、一般客の宿泊や荷物逓送で生計を立てることが許された。各街道の交通量に従って宿場に常備する人馬の数が定められており、例えば東海道では一宿場につき人足100人と馬100疋、中山道では人足50人・馬50疋、甲州街道では人足25人・馬25疋というように異なった。これら人馬常備の負担は大きく、宿場関係者や沿道地元民を苦しめ、宿場の維持に苦労した。
江戸幕府道中奉行の支配下にあった主要街道。江戸を起点とする東海道(品川―大津または大坂)・中山道(板橋―草津)・甲州道中(内藤新宿―下諏訪)・日光道中(千住―日光御宮)・奥州道中(宇都宮―白河)のこと。江戸前期に整備・新設し,幕府の直轄とした。各宿には公用旅行者の荷物運送のため規定の人馬がおかれ,東海道は100人・100疋,中山道には原則として50人・50疋,中山道の木曾11宿と他の街道は25人・25疋と定められた。人馬賃銭の決定,助郷の指定などは幕府の権限とされ,道幅は4間前後で,広くて7間,箱根峠は2間であった。五街道の付属街道に,佐屋路(さやじ)・美濃路・例幣使(れいへいし)道・日光御成道・水戸路・本坂通(ほんさかどおり)(姫街道)などがあった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
江戸時代,江戸日本橋を起点とした五つの幹線道路
本街道ともいう。東海道(53次)・中山道(69次)・甲州道中(44次)・日光道中(21次)・奥州道中(10次)をいう。慶長年間(1596〜1615)に整備され,2〜3里ごとに宿場を設け,本陣・脇本陣・旅籠 (はたご) ・問屋場などが置かれた。元来は参勤交代など主として公用のために作られた道路で,道中奉行が管轄した。警備のため要所に関所を設け,また宿場には助郷(伝馬)役が課せられた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
出処:五街道Wikipediaより
2022年五街道・参勤交代と併せて出題、2021年出題
江戸時代,大名が一定期間交代で江戸に参勤した制度。幕府が大名統制策の一つとして行なったもので,戦国大名の行なった城下在番と人質徴収の政策に起るといわれる。慶長7 (1602) 年前田利長が母を人質として参勤したのが最も早い例。元和1 (15) 年の武家諸法度で定められ,寛永 12 (35) 年の武家諸法度(改定)で確立。多くの大名は在府,在国1年交代を原則としたが,関東の大名は半年交代,また対馬の宗氏は遠隔の地であるのと朝鮮との応対のため3年1度の参勤とした。これと同時に大名は妻子を江戸に人質として住まわせることになっていた。享保の改革の際8代将軍徳川吉宗が上米の制を定めて在府の期間をゆるめたこともあったが,8年間で旧に復した。参勤交代は莫大な経費を要し,各藩の財政を窮地に追込むことが多く,また国元と江戸に分れて藩士が対立することもあり,御家騒動の原因となる場合も少くなく,幕府に対抗する勢力の弱体化を目指す幕府の意図は成功したといえる。参勤交代の影響は政治面だけに限らず,たとえば江戸の繁栄は各大名の莫大な消費に支えられる部分が大きく,江戸,大坂を中心とした商業,交通の発達はめざましいものがあった。地方においても帰国した藩士らのもたらす江戸文化が,地方文化発達の刺激になった。幕府は文久2 (1862) 年の政治改革に際して,参勤交代を大大名は3年に1年,その他は3年1度 100日を在府として妻子の帰国を許した。その後,慶応1 (65) 年再び旧に戻したが命令に従う者がなく,廃絶した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『参勤交代』
参覲交替とも書く。江戸幕府が課した大名軍役の一つ。それによって、幕府は諸大名の江戸参勤を役儀・奉公として義務づけ、強力な大名統制を行うとともに、権力の集中強化を図り、幕藩体制の長期存続を可能とした。
[藤野 保]
起源・運用
諸大名が徳川氏に対する臣従の証拠として、江戸城に人質を提出したことに始まる。1596年(慶長1)藤堂高虎(とうどうたかとら)が弟の正高を証人として江戸に送ったのは、その早い例。徳川氏の覇権確立後、諸大名の証人提出が多くなり、また江戸に大名屋敷を設けるものが多くなったが、なお、諸大名の自発的意志によるもので、制度として実施されたわけではない。1615年(元和1)制定の「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、参勤作法として従者の員数を定めただけで100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定した。しかるに3代将軍家光(いえみつ)は、1634年(寛永11)譜代(ふだい)大名の妻子を江戸に移し、翌35年には「武家諸法度」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代を制度化した。ここに参勤交代は諸大名の役儀・奉公として義務づけられ、毎年4月が交代期と定められた。こうして諸大名は在府・在国1年交代となり、大名妻子をはじめ多数の家臣団が江戸に常住することになった。1642年(寛永19)制度の改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となった。ほかに対馬(つしま)の宗(そう)氏は三年一勤(4か月在府)、水戸藩や老中などの役付大名は江戸定府(じょうふ)となった。
8代将軍吉宗(よしむね)は、幕府財政再建のため、1722年(享保7)諸大名に1万石につき100石の上米(あげまい)を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半としたが、30年旧制に復した。その後、幕府は幕末に至り、幕政改革の一環として、1862年(文久2)ふたたび参勤交代を緩和し、三年一勤百日在府制を実施したが、それによって、諸大名の幕府からの離反を防ぐことができず、かえって幕府の崩壊を早める結果となった。
[藤野 保]
効果・意義目次を見る
江戸時代に入り、幕府の軍役体系は整備されたが、平和の到来によって、諸大名を戦争に動員する機会はなくなり、参勤交代が手伝普請(てつだいぶしん)とともに、軍役として重要な意義を担った。参勤交代の制度化によって、江戸は諸大名とその家臣団が集居する大消費都市に発展したが、諸大名の参勤交代に要する費用は膨大なもので、大名財政の窮乏をきたす主要因となった。そのため、諸大名は年貢米と特産品を中央市場である大坂で販売し、貨幣を獲得する必要に迫られたが、大坂に集まった全国の物資は、おもに江戸へ輸送され、江戸の膨大な商品需要に応じたのである。こうして、参勤交代の制度化によって、諸大名と大坂、大坂と江戸という商品の流通路ができあがり、三者の経済的な結合が実現して、全国市場の形成を促進した。江戸時代の商品流通、交通・宿駅、また貨幣経済・商工業などの発達は、参勤交代によるところが大きく、さらに中央文化の地方普及にも貢献するところが少なくなかった。
[藤野 保]
『藤野保著『新訂幕藩体制史の研究』(1975・吉川弘文館)』
[参照項目] | 大名行列
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク