2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
札幌周辺の河川
頻度高し
参考:『豊平川流域の概要』国土交通省北海道開発局札幌開発建設部 https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/kasen_keikaku/gburoi000000xjgq.html
支笏湖北西の小漁岳(1,235m)に源を発し、札幌市南区の定山渓・藤野・石山・川沿地区等の住宅密集地を流れ、真駒内川を合流して札幌扇状地上流端の藻岩橋に至り、北海道の中心都市である札幌市街地を貫流して石狩川に合流する1級河川です。
参考:『豊平川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B9%B3%E5%B7%9D
北海道札幌市を流れる石狩川水系石狩川支流の一級河川である。札幌市の市街地は、この川が形成した扇状地の上にある。市街を貫流する豊平川は、利水と治水の両面で札幌にとって最も重要な川である。
北海道札幌市と千歳市の境界にある小漁山と、千歳市にあるフレ岳との間の沢に源を発して北に流れる。途中、豊平峡ダムでせき止められて定山湖を作る。定山渓で白井川を合わせ東に向きを変え、硬石山の麓で北に方向を転じる。そこから平地に入り、豊平川扇状地(または札幌扇状地)を形成する。札幌市の市街地を北東に流れ、札幌市東区と江別市の境界で石狩川に合流する。
「とよひら」の語源はアイヌ語の「トゥイェ・ピラ」(崩れた崖)に由来する。 また、伏籠川の「フシコ」とは、アイヌ語で「古い」という意味である。寛政年間まで豊平川の旧河道だった歴史を示している。
市内の河川敷は市民の憩いの場となっており、ジンギスカンやバーベキューを楽しむ市民の姿も見られた(コロナ下では禁止)。
日本の大都市に流れ込む川としては珍しいほどの急流で、上流の小金湯温泉付近と市街地にある幌平橋との間の20キロメートルの高低差は、さっぽろテレビ塔の高さと同じ147メートル。このため豪雨時は土砂混じりの強い水流が札幌市街へ流れ下る。札幌市のハザードマップでは、中心市街地の大半が浸水予想区域にある。
参考:『石狩川』国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0109_ishikari/0109_ishikari_00.html
石狩川は、大雪山系の石狩岳にその源を発し、層雲峡に代表される渓谷を流下して上川盆地に至り、道北の拠点都市旭川市で忠別川、美瑛川等の支川を合わせ、神居古潭の狭窄部を下って石狩平野に入ります。石狩平野に入ると雨竜川、空知川、幾春別川、夕張川、千歳川等の支川を集め、最後に道都札幌市の中心部を流れる豊平川を合わせ、石狩湾で日本海に注ぐ流域面積14,330km2(全国第2位)、幹川流路延長268km(全国第3位)の1級河川です。
参考:『石狩川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%8B%A9%E5%B7%9D
北海道中西部を流れ日本海へ注ぐ石狩川水系本流の一級河川である。流域面積は 14,330km2 で利根川に次いで全国2位、長さ268km は信濃川、利根川に次いで3位で、日本三大河川のうちの1つに数えられている。北海道遺産に選定されている。
名前はアイヌ民族の言葉からきている。本来のアイヌ語の意味が不明になって由来が特定できていないものの、「イシカリ」(塞がる)、「イシカラペツ」(美しく・作る・川)、「イシカラアペツ」(回流川・非常に曲がりくねった川)[1] のいずれかと考えられる。また、俗説か否か、フリカムイとラートシカムイとの戦いの際にフリが尾羽(イシ)を振った(カリ)ための名とも。
北海道上川郡上川町の河東郡上士幌町との境界にある大雪山系石狩岳の西斜面に源を発し、ここから上川盆地、石狩平野を経て石狩市で石狩湾へと注ぐ。この間に上川地方(塩狩峠以南)・空知地方・石狩地方の22の市町村を通過する。空知川や千歳川などの支流を含む流域内市町村数は48、流域内市町村人口は約308万8千人である(平成12年国勢調査)。
参考:『創成川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E6%88%90%E5%B7%9D
北海道札幌市の中心を流れる石狩川水系伏籠川支流の一級河川に分類される、人工河川である。札幌市を東西に画する起点となっている。江戸時代に「大友堀」として作られ、1874年(明治7年)に「創成川」と改名された。長さ14.2km、流域面積は19.0km2ある。
札幌本府建設の中核となった川であり、また札幌市の防火・風致・下水道の洗浄・灌漑などにも大きな役割を果たしてきた川でもある。
幌平橋付近の豊平川から分流して北に向かう。札幌市の中心を流れ、札幌市北区の石狩市との境界付近で伏籠川に合流する。すすきの付近の南7条までの上流約2.5キロは、鴨々川(かもかもがわ)と呼ばれ、流路が蛇行している。南7条からは流路がほぼ一直線になり、札幌駅付近までの中央区を経て北区と東区の境を流れながら太平駅付近の学園都市線線路を潜り抜ける所までが中流で、そこから先の下流は北区内を流れる。中・下流は幹線道路である創成川通(国道5号、国道231号)が並走し、中流部分は片側4車線の中央分離帯となっている。
1866年(慶応2年)に幕府(箱館奉行石狩役所)の役人・大友亀太郎が札幌村を開く際に開削した用水路・大友堀が前身である。
参考:『茨戸川のなりたち』国土交通省北海道開発局札幌開発建設部 https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/kasen_keikaku/kluhh4000000bbu0.html
開拓初期の明治時代には、石狩川は春の雪解け水、秋の台風と毎年のように氾濫を巻き起こす暴れ川でした。
なかでも明治31年9月洪水は空前の大洪水となり、全道の被害は死者248人、家屋の浸水2万4千戸、家屋の流失・倒壊3千5百戸、田畑の冠水5万6千ヘクタールと甚大な被害となりました。
このため北海道庁は治水調査会を設け、石狩川の基本調査を実施し、計画的な治水事業に着手。大正7年には石狩川治水事務所を生振に設置し、石狩川の石狩町(当時)の美登位と生振の間に新しい水路をつくり、石狩川の洪水を安全に流す工事(ショートカット)に着手しました。
事業は昭和8年に完成をみましたが、このとき石狩川から切り離された旧川きゅうせん(三日月湖)が今の茨戸川です。
参考:『茨戸川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%A8%E6%88%B8%E5%B7%9D
北海道の石狩平野を流れる河川で、石狩川水系の一級河川。札幌市、石狩市、当別町にまたがる三日月湖となっており全長は約20km。
石狩川近くの「あいの里公園」付近の北海道札幌市と石狩郡当別町の境界から始まり、屈曲しながら西に膨らんだ三日月形を描く。途中、南から伏籠川が流入する。下流では石狩放水路を分け、志美(しび)運河を通じて石狩川に合流する。志美運河から東側を真勲別川(まくんべつがわ)と呼ぶ。実質的に茨戸川の延長であるが、現在は茨戸川の支流の扱いとなっている。
かつては石狩川の一部であったが、治水のために捷水路の建設が進められることになり、1918年(大正7年)に生振捷水路の建設が開始された。1931年(昭和6年)に生振捷水路が完成すると取り残された箇所を旧石狩川(きゅういしかりがわ)とし、1965年には志美運河分岐点より上流側を茨戸川、下流側を真勲別川と改称した。
戦前の治水工事によって石狩川から切り離されたために流れがほぼ止まり、1970年代以降になると周辺の宅地化とともに生活排水などで水質が悪化した。現在でも札幌市の下水の30%は茨戸川に排出される。茨戸処理場、拓北処理場、創成川処理場、伏籠川処理場の四つの処理場からの水が直接あるいは支流経由で流れ込む。下水処理場設置によって水質は改善したが、今も注意を要するとされている。
2002年度から創成川、石狩川、豊平川の水を茨戸川に引き入れる水質改善事業が進められている。
関東地方を北西から南東に貫流する大河川。別称坂東太郎。全長 322km。流域面積は 1万6840km2で,日本最大。群馬県北部,三国山脈の大水上山(1840m)に源を発し,片品川,吾妻川,烏川,鏑川,神流川,渡良瀬川,鬼怒川などを関東平野中央部で合流し,中・下流域に渡良瀬遊水地,印旛沼,霞ヶ浦の湖沼を形成して千葉県北東端の銚子市で太平洋に注ぐ。古くは東京湾に注いでいたが,江戸の防衛と新田開発を兼ねて,承応3(1654)年幕府が今日の流路に改変した。近世には江戸への物資運搬の大動脈をなし,沿岸に関宿,佐原などの河港集落が発達した。明治以降は政府の直轄河川となり,最新の土木技術を導入,220kmに及ぶ洪水防止の堤防が 1928年完成した。1947年カスリン台風による洪水被害を契機に,1951年国土総合開発特定地域の指定を受け,上流に砂防,洪水調節,発電などの多目的ダムが建設された。1962年水資源開発公団(→水資源機構)の発足によって総合的な河水利用の調整が実施されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
四国の三大河川:四万十川・吉野川・仁淀川
2019年日本地理に選択肢として出題。
四国の中央部を東流する川。通称四国三郎。全長 194km。四国山地の中央部を占める石鎚山脈南斜面に発して東流,高知県,徳島県の県境付近で流路を北に変え,四国山地を横切る横谷となり,大歩危・小歩危の峡谷を形成する。銅山川,祖谷川の支流を合わせて再び東流,四国山地の北縁をなす中央構造線に沿って縦谷を流れ,徳島市で紀伊水道に注ぐ。四国第1の長流で,流域は四国4県に及ぶ。上流部では深い峡谷を形成し,多くのダムが建設されて四国の電源地帯になっている。古くから四国の南北を結ぶ交通路として重要な役割を果たしてきた。三好市の池田付近から下流は徳島平野で,細長い谷底平野では畑作が中心。河口部の三角州は江戸時代に開発された新田が多く,豊富な水量と地下水に恵まれ,その一部は徳島工業地区を形成している。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2019年日本地理に沈下橋と共に「日本最後の清流」として出題。
高知県の西部を流れる川。一級河川。延長196キロメートルは四国一の長流。流域面積2186平方キロメートルは吉野川に次ぐ。河川法では渡川(わたりがわ)と称したが、歴史的には渡川は下流部の名称で、総称は近世以来、四万十川が一般に用いられた。1994年(平成6)名称を四万十川に変更。源流を愛媛県境に近い高岡郡津野町船戸(ふなと)の不入山(いらずやま)斜面に発し、ほぼ南流して四万十町の南東部で方向を西に転じ、四万十町田野々で南流してきた檮原(ゆすはら)川をあわせ、典型的な嵌入(かんにゅう)蛇行をみせながら、四万十市西土佐の江川崎(えかわさき)で愛媛県から東流してきた広見川(吉野川)をあわせて南南東に方向を転じ、四万十市角崎(つのさき)付近で後(うしろ)川を、実崎(さんざき)付近で中筋(なかすじ)川をあわせ、四万十市下田(しもだ)付近で土佐湾に注ぐ。流域の大部分は山間部で、曲流峡谷の部分も多く、上流の窪川台地や下流の中村平野などわずかな河谷低地が水田に利用される以外は、林業、シイタケ、茶の栽培、氾濫原(はんらんげん)利用の桑園などがみられる。電源開発もほとんど進まず、全国的にも数少ない清流として知られる。昭和初頭までは、高瀬舟による交通路として利用され、とくに江川崎と河口の下田港との間は薪炭(しんたん)輸送などが盛んであった。生息する魚類も多く、独特の漁法もみられる。なお、大水のときに水面下に沈んでしまう「沈下橋」が多く残されている。また、2001年(平成13)には四万十川の清流を保つため、「四万十川条例」が県によって定められた。2009年、源流域の山村、上流域の山村と棚田など5件にわたり、四万十川流域の文化的景観として国の重要文化的景観の選定を受けている。
[大脇保彦]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[四万十川 沈下橋]
雄大な緑の山々に青い空、青い四万十川、そして沈下橋という風景は観光のポイントともなっています。
沈下橋には欄干がありません。大洪水で橋が水中に「沈下」することを想定し、水の抵抗を受けにくくするためや、欄干があることにより木などがが引掛り水の流れが悪くなることを防ぎ、更なる川の氾濫を避けるために、最初から欄干を作っていないのです。つまり、沈下橋は自然を押さえつけるのではなく、あるがままの自然を受け入れ、折り合って生きていこうという流域にすむ人々の生活様式を象徴するものと言えます。
『四万十川の沈下橋』四万十市観光協会より抜粋
*選択肢:仁淀川、物部川、吉野川は別項に。
2019年日本地理に選択肢として出題。
四国の愛媛県・高知県を流れる一級河川で、愛媛県内では面河川(おもごがわ)と呼ばれる。流域面積1,560km2、石鎚山などの源流から太平洋に注ぐ河口まで流路延長124km。吉野川・四万十川に次ぐ四国第三の河川で、流域人口は約11万人。水質は全国1位(2010年)で、水面が青く美しい「仁淀ブルー」と呼ばれる淵や滝壺などがある。
中流域には四国で第2の規模である多目的ダム「大渡ダム」をはじめとして治水や水力発電のための施設も多く、水辺利用率も全国1位(2002年)であり、ほぼ100%に近い。
仁淀川を舞台とした文学作品で名高いのが、宮尾登美子の自伝小説『櫂』『春燈』『朱夏』『仁淀川』である。宮尾は高知県に生まれ育ち、戦前および戦後の引揚げ後の2度にわたり仁淀川流域で暮らした経験があり、上記作品群はその経験を元に書かれたものとなっている。近年では高知県出身の女性作家有川浩の作品『空の中』において、仁淀川で河漁師として生計を立てる人物が作中重要な役割を果たしている。
(『仁淀川』wikipedia)
2019年日本地理に選択肢として出題。
高知県中東部を南西流して土佐湾に注ぐ川。一級河川。延長71キロメートル。流域面積508平方キロメートル。上流は槇山川(まきやまがわ)とよばれ、四国山地東部の剣山(つるぎさん)山系白髪(しらが)山東斜面に源を発し、西流して香美(かみ)市物部町(ものべちょう)大栃(おおどち)で上韮生(かみにろう)川と合流して物部川となり、河岸段丘を発達させながら南流し、下流に扇状地性低地・台地の香長(かちょう)平野(高知平野東半部)をつくり、香南(こうなん)市吉川町(よしかわちょう)地区で土佐湾に入る。支流上韮生川には西熊渓谷などがあり上流域一帯は奥物部県立自然公園域。第二次世界大戦後、中・上流は電源開発が進み、永瀬ダムなどがつくられた。下流の沖積低地には弥生(やよい)期の水田跡、条里遺構もみられる。土佐農業の中核地で、かつては稲の二期作が行われたが、現在は施設園芸が盛ん。[大脇保彦]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
2020年日本地理。
福岡、佐賀、熊本、大分の4県にまたがり、有明海(ありあけかい)に注ぐ九州第一の大河で、「筑紫次郎(つくしじろう)」の異名をもつ。延長143キロメートル、流域面積2860平方キロメートルの一級河川。阿蘇(あそ)外輪山に源を発する大山川(おおやまがわ)と、久住(くじゅう)山に源を発する玖珠川(くすがわ)とが日田(ひた)盆地で合流して三隈川(みくまがわ)となり、大分・福岡県境山地の狭隘(きょうあい)な夜明峡谷(よあけきょうこく)を経て、筑紫平野に出、筑後川となる。その後、佐田(さた)川、小石原(こいしわら)川、巨勢(こせ)川、高良(こうら)川、宝満(ほうまん)川などの支流を合流しながら蛇行を続け、筑後平野、佐賀平野を貫流、柳川(やながわ)市で有明海に注ぐ。上流部は阿蘇、久住などの火山群の噴出物によって覆われ、複雑な地質を構成し、杖立(つえたて)、天ヶ瀬(あまがせ)など多数の温泉が分布、植林も盛んで日田の林業は有名である。中・下流は古生代の三郡(さんぐん)変成岩などからなり、平野部は更新世(洪積世)末期から完新世(沖積世)初期の堆積(たいせき)層がこれを覆っているが、扇状地、自然堤防の発達はあまり著しくない。下流の三角州平野は無数のクリークが網状に発達した水郷(すいごう)景観が広がり、水田農業の発展が著しく、九州一の穀倉地帯である。
上流が九州山地の多雨地であるために水量が多く、古来水害が多発したため、治水工事は江戸時代に佐賀藩により始められたが、一貫性に乏しく、明治20年代に入って近代的な改修工事が開始された。1921年(大正10)の洪水を契機に本格的な改修工事に入ったが、1953年(昭和28)の大水害により1957年以降松原、下筌(しもうけ)両ダム建設を含む抜本的治水対策がたてられ、1973年には工事実施基本計画を改定、現在に至っている。
農業用水としての利水も早く、江戸時代より福岡県うきは市の大石堰(おおいしぜき)、朝倉(あさくら)市の山田堰(やまだぜき)、大刀洗(たちあらい)町の床島堰(とこしまぜき)など多数の井堰、用水路などが築かれて総灌漑(かんがい)面積は約5万5000ヘクタールに及ぶが、1975年には江川(えがわ)ダム、1983年には久留米(くるめ)市に筑後大堰が建設され、福岡市をはじめとする都市用水としての利用も進んでいる。水運も古くから盛んで、若津(わかつ)(大川(おおかわ)市)、日田などの河港を発達させる一方、鐘ヶ江(かねがえ)、青木島(あおきじま)など多数の渡しがあったが、現在では架橋が進みほとんど消滅した。河口左岸の大川市は家具工業、久留米市城島(じょうじま)町は酒造業が盛んであり、その運搬のために国鉄佐賀線(1987年廃止)筑後川橋梁(きょうりょう)(1935年完成)は九州唯一の昇開式可動橋であった。河口付近では有明海の干潟を利用して干拓地が広がる。また、ノリ養殖をはじめ、有明海特有の魚貝類の漁も盛んであったが、近年は環境汚染と生物の減少が深刻な問題となっている。包蔵水力は約30万キロワットで、発電所が23か所で総最大出力は約22万キロワット(2004)である。[石黒正紀]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
参考:『大淀川(日本の川 九州の1級河川)』国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0908_ooyodo/0908_ooyodo_00.html
参考:『大淀川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B7%80%E5%B7%9D
大淀川(おおよどがわ)は、宮崎県・鹿児島県内を流れ太平洋(日向灘・フィリピン海)に注ぐ大淀川水系の本流であり宮崎県を代表する河川である。
地理
都城盆地外延部の金御岳(鹿児島県曽於市末吉町南之郷)南麓に発し、都城市を経て山地内を穿ちつつ東へ向かう。宮崎平野を流れ宮崎市都心部の南で日向灘に注ぐ。
「森づくりから風土づくりへ大淀川流域住民プロジェクト」で、平成24年度国土交通省手づくり郷土賞受賞。 令和2年度大賞受賞。