2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。コトバンクの各辞書・Wikipediaを使用しています。
12世紀末 - 元弘3年/正慶2年(1333年))は、日本史で幕府が鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。
始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説(1192年の源頼朝征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、鎌倉「幕府」の成立とは必ずしも一致はせず、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力)がある。
12世紀末期に、源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で支配構造ができあがった。
幕府は「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関として設立されており、公的機関ではない。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国および主従関係を結んだ武士(御家人)であり、守護の設置などで諸国の治安維持等を担当したものの、全国の武士を完全な支配下に治めたわけではない。平氏政権が朝廷に入り込み、朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的である。元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にすると、全国支配が強化されることになる。
鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は、問注所と呼ばれる訴訟機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは、当事者同士の武力闘争に容易に発展していたが、これにより実質的に禁止されることになった。武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論は以降の幕藩体制の根幹を成すものになった。
源頼朝の死後、外戚である北条家が台頭し、幕府の実権を掌握。北条氏による執権制度が創設された。源氏将軍が断絶して以降も、幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして御成敗式目という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。また、将軍権力は形骸化していく一方で、北条氏惣領の得宗に権力が集中する得宗専制の体制になっていき、それに仕える御内人も台頭するようになった。
後鳥羽上皇らが政治の実権を取り戻すため起こした承久の乱では、鎌倉幕府が朝廷に勝利し、朝廷に対する幕府の政治的優位が確立した。これにより、多くの御家人が西国に恩賞を得て、東国に偏重して西国に弱かった幕府の支配が強く及ぶようになった。
承久の乱後、幕府は守貞親王(後高倉院)を治天の君に擁立し、その系統が断絶すると後嵯峨天皇を即位させ、朝幕関係の安定化を図った。朝廷も幕府も社会と自らの政治的基盤の安定を図るために徳政の興行を推進し、治天の君(上皇)と執権が評定衆を主導して、訴訟の解決を図る態勢が構築された。これは天皇や将軍が直接裁許に加わることで敗訴となった側の怨恨を受け、特に所領問題の場合には(主君による従者保護の責務に反したとして)敗訴となった側の主従関係の解消につながるような事態を回避するために、訴訟の解決を図りつつも所領問題から天皇・将軍を切り離すための仕組みであったと考えられている。
経済的には、地方の在地領主である武士の土地所有が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化が栄えた。文化芸術的にも、このような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい、新しいものが好まれた。政局の安定が西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらすと、各地に定期的な市が立つようになった。
土地の相続に関しては分割相続が採用されていたが、そのため時代を下るごとに御家人の所領は零細化され、生活を圧迫することになってしまった。また、中期から本格的に貨幣経済が浸透し始めたが、これに順応できない御家人も多く、生活が逼迫した結果、土地を売却する者もいた。救済策として幕府は永仁の徳政令を発布するなどしたが、芳しい成果は得られなかった。
13世紀には、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度にわたる元寇があったが、元の侵攻を撃退した。これにより「日本は神国」という神国思想の発端となり、後世に影響を与える事となった。また元の侵攻は阻止したものの、今までの幕府の戦争と違い、外国を相手にした防衛戦であったため、この戦いによって実質的に獲得したものは何も無く、そのため出征した武士(御家人)への恩賞の支払いが少なかったこともあって、「いざ鎌倉」といった幕府と御家人との御恩と奉公という信頼関係を損ねる結果となった。
元寇を機に幕府は、非御家人を含む日本全国の武士へ軍事動員をかける権限を得たほか、鎮西探題や長門探題などの出先機関を置き、西国への支配を強めた。西国をはじめ、日本国内を中央集権的に統治しようとする得宗は御家人を排除し、被官である御内人を重用するようになった。
生活に困窮した御家人の不満を幕府は力で抑えたため、表面上の幕政は安定したものの、霜月騒動や平禅門の乱など専制を強める得宗と御家人の確執は深まり、安藤氏の乱において御内人が当事者の双方から賄賂を取り立てるなどといった事象を幕政の腐敗と見る向きもあり、次第に幕府から人心が離れていくようになった。決定的となった鎌倉大地震や正嘉鎌倉地震などをはじめとして、鎌倉幕府を開いてから度々災害や疫病や飢饉などの混乱が起きたことも、後に鎌倉幕府が崩壊する要因となった。
また、承久の乱以後の朝廷の衰退は、皇位継承を巡る自己解決能力を失うことになり、結果的に幕府を否応無しに巻き込む事になった。幕府は両統迭立原則によって大覚寺統・持明院統両皇統間における話し合いによる皇位継承を勧めて、深入りを避ける方針を採ったが、結果的に紛糾の長期化による、朝廷から幕府に対する新たな介入要請を招き、その幕府の介入結果に不満を抱く反対派による更なる介入要請が出されるという、結果的に幕府の方針と相反した悪循環に陥った。その結果、大覚寺統傍流出身の後醍醐天皇直系への皇位継承を認めないという結論に達したとき、これに反発した後醍醐天皇が、これを支持する公家と幕府に対して不満を抱く武士達の連携の動きが現れるのを見て、叛乱を起こし(正中の変、元弘の乱)、間もなく鎌倉幕府は崩壊した。
<平成30年(2018年)の問題>
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。11世紀後半に、源氏の守り神として創建された。以後、鎌倉武士の守護神となる[2]。現代では全国の八幡宮の中で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝ゆかりの神社として関東方面で知名度が高い。境内は国の史跡に指定されている。 現在の祭神は、応神天皇、比売神(ひめがみ)、神功皇后(応神天皇の母)の3柱であるが、「八幡神」と総称される。
康平6年(1063年)8月、源頼義が河内源氏氏神の壷井八幡宮あるいは京都の石清水八幡宮を勧請(鶴岡若宮)[1]
永保元年(1081年) 2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。
治承4年(1180年) 10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。
承元2年(1208年 ) 神宮寺が創建される。
建保7年(1219年)源実朝が甥の公暁に襲われ落命。
建久3年(1192年)、源頼朝が征夷大将軍に就任
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。
戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂などを建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また、境内には方五間の多宝大塔や、東照宮も存在した。
文政11年(1828年)、江戸幕府11代将軍、徳川家斉の命により本殿(重要文化財)などが造営。
明治元年(1868年)3月、神仏分離令により廃仏毀釈開始
4月24日、仏教的神号の八幡大菩薩が明治政府により廃止
7月19日、石清水八幡宮以下、鶴岡八幡宮などの放生会は中秋祭に変更。
大正12年(1923年) 9月1日、関東大震災で、楼門・下拝殿(舞殿)・一ノ鳥居・二ノ鳥居・三ノ鳥居・太鼓橋・白旗神社の拝殿等が全壊、本殿・拝殿・若宮・白旗神社本殿等が小破、源平池の護岸や大臣山が崩壊、太鼓橋が崩落。
平成22年(2010年)3月10日、4時40分頃に、強風のために大銀杏(公暁)は根元から倒壊。
*キーワード
源平池、蓮の花、すっぽん、赤橋、源義経・静御前(若宮社伝の回廊、しずやしず)、ボタン庭園、神奈川県立近代美術館(終了→鎌倉文華館鶴岡ミュージアム(建物は重要文化財))、白幡神社、今宮(後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇 - いずれも承久の乱で流された天皇を祀る )
*参道 鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。
この段葛は、二の鳥居の辺りでは幅4メートルほどだが、三の鳥居では幅が約3メートル程度となっており、先に進むほど徐々に細くなっている。人間の目の錯覚を利用し、参道を実際より長く見せ、奥の本殿を厳かに見せるための設計との説がある[15]。
<平成30年(2018年)の問題>
*承久の乱 後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立抗争であった。朝廷軍は幕府軍に敗れ、3上皇は配流。幕府は朝廷監視のために京都に六波羅探題を置き、皇位継承にも影響力を持つようになった。設問中の京都守護職は幕末(江戸幕府)文久の改革において新設設置されたもの。また、京都守護職の本陣は金戒光明寺に置かれた。京都守護職屋敷は現京都府庁付近。
*六波羅蜜寺 天暦5年(951年)空也が造立した十一面観音を本尊とする同上に由来する。平家とゆかりがあったが、承久の変後、この地に六波羅探題が置かれた。
*弘仁格式・貞観格式・延喜格式(三大格式) 平安時代に編纂・施行された格式(格(きゃく)は律令の修正・補足のための法令(副法)と詔勅を指し、式(しき/のり)は律令の施行細則を指した)。詳しくは→平安時代
*守護 守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。
鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代には守護職(しゅごしき)といった。
制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。
*地頭 鎌倉幕府によって設けられた職名。「地頭」という言葉は 10世紀初め頃から用いられ,平氏政権のもとでも荘園の地頭にその家人が補任されたが,これは私的,非公法的なものであった。これに対して,鎌倉幕府においては,源頼朝が大江広元の献策により,文治1 (1185) 年 11月源義経,行家追捕を理由として諸国に守護,地頭の設置を奏請し,勅許を得た。この文治勅許の地頭設置の範囲については,(1) 日本全国,(2) 畿内および主として西国に属する 37ヵ国,鎮西9ヵ国,計 46ヵ国,(3) 西国 36ヵ国,(4) 地域的限定はあるが確定しない,などの説があるが,荘園領主の反対によって翌年7月には,全国五百余ヵ所の平家没官領および謀反人跡に限定せざるをえなかった。承久の乱 (1221) の幕府側の圧倒的勝利の結果,京都方に味方した者の所領三千余ヵ所を幕府の支配下に入れ,その地頭職を恩賞として御家人に与えることによって,幕府の支配は全国に及ぶことになった。これらの地頭の種類は複雑多様で,荘,郷,保,村,名 (みょう) 地頭などのほか惣地頭,小地頭と呼ばれるものもあり,これらは本領安堵地頭,新恩地頭,臨時地頭に大別される。また得分率法の違いによって,本補地頭と新補地頭に分けられる。地頭の権限としては警察権,裁判権,徴税権,下地管理権,行政権などがあるが,地域,時代によって相違がある。地頭の設置により荘園制の解体が促進され,南北朝,室町時代になると,地頭は荘園における元来の性格を失い,幕府に対しても地頭職補任,安堵などによって制度的には一応関係を保ったが,実質的には守護大名の被官となりつつあり,この傾向は時代が進むにつれて顕著となった。戦国時代には地頭,地頭職の名称もほとんどなくなり,江戸時代には一部の地域で代官のことを地頭と呼ぶ以外には,まったく 名残りをとどめなくなった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*地頭請 鎌倉時代,地頭に荘園の年貢納入を請負わせたこと。地頭は武力を背景として非法狼藉を行い,荘園領主への年貢納入を妨げ,さらには土地の押領を意図した。これに苦しんだ荘園領主は,一定の年貢納入を確保するため,荘園の管理を地頭に請負わせることとした。しかし地頭は契約を守らず,下地中分に進むことになり,荘園体制は動揺し地頭領主制が促進された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク)
*下地中分 鎌倉時代,荘園領主と地頭との争いを解決するため,土地を折半,あるいは2対1に分け,それぞれ領家方,地頭方の領掌権 (保有権) ,下地進止権 (処分権) を認め,相互に侵犯しないようにしたこと。これは鎌倉時代中期頃から盛んになり,幕府も争いの早期解決策として奨励した。下地中分には幕府の裁決によるものと,和解によるものとがあり,また方法には,土地を折半して一円支配 (→一円知行 ) を認め合う方法と,下地の坪ごとに,あるいは一単位の畑,屋敷ごとに折半するという,いわゆる坪分け中分とがあった。 (→地頭請 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク)
*元寇(文永・弘安の役) 鎌倉時代中期,元が日本に来攻した事件。文永・弘安の役ともいい,当時の史料的表現では「蒙古襲来」という (→蒙古襲来絵巻 ) 。元は,高麗を征服後,高麗を媒介にたびたび日本に服属を迫り,幕府が拒否したため,文永 11 (1274) 年,弘安4 (1281) 年の2度,モンゴル,高麗などの連合軍で北九州に来攻した (前者は文永の役,後者は弘安の役) が,いずれも失敗。幕府は文永の役後,武士に恩賞を与え,異国警固番役,石築地 (いしついじ。防塁) など,博多湾沿岸の防備体制の強化,九州諸国守護職の北条氏一門への集中,弘安の役後は,加えて鎮西奉行の設置などを行なった。そのため九州御家人には,多大の軍事的,経済的負担を負わせ,また,庶子の独立化,惣領制の弛緩など,武士社会に深刻な状況を招いた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*臨済宗
禅宗の一派。唐の臨済義玄を開祖とし、のち黄竜派と楊岐派が立ち隆盛に導いた。日本には栄西が黄竜派の法を受けて建久2年(1191)に帰国、初めて伝えた。参禅問答による自己究明を宗風とする。現在は、天竜寺派・相国寺(しょうこくじ)派・建仁寺派・南禅寺派・妙心寺派・建長寺派・東福寺派・大徳寺派・円覚寺派・永源寺派・方広寺派・国泰寺派・仏通寺派・向嶽寺派の14寺派、および相国寺派から分かれた興聖寺派がある。
出典 小学館デジタル大辞泉
*立正安国論 日蓮(日蓮宗)著。1巻。文応1 (1260) 年成立。日蓮の代表的著作である五大部の一つ。当時しきりに起きた天変地異は,浄土教などの邪法の弘通によるとして排斥し,諸経,諸宗を『法華経』のもとに統一して正法を広めるべきことを主張した書。先に国家を祈ってのち仏法を立てるとして,安国に重点をおく客 (俗) が,正法の確立によって国が安泰になるとする主人 (僧) に次第に導かれてゆく対話形式で書かれている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
「このまま浄土宗などを放置すれば災害や天変地異、天体運行の乱れなどが起き、国内では内乱が起こり(自界叛逆難)、外国からは侵略を受けて滅ぶ(他国侵逼難)」と唱え、「邪宗への布施を止め、正法である法華経を中心(「立正」)とすれば国家も国民も安泰となる(「安国」)」と説いた。 その内容に激昂した浄土宗の宗徒による襲撃事件(松葉ケ谷の法難)を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年に日蓮は伊豆国に流罪となった。(立正安国論) (wikipedia)
*時宗 鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。浄土教では阿弥陀仏への信仰がその教説の中心である。
*建仁寺 京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山の寺院。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。かつて京都五山の第3位であった。「建仁寺の学問面」などと呼ばれる。
俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などがある。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。
*元弘の変で敗れた後醍醐天皇は、廃位されて後鳥羽上皇と同じ隠岐に配流された。しかし、幕府側の有力御家人である足利氏新田氏が朝廷側に寝返ったことで一発逆転、幕府を倒し、建武の新政に至る。後醍醐天皇は建武の新政で時代に逆らって朝廷中心の政治に戻そうとした。
そもそも後醍醐天皇が正中・元弘の乱を起こしたのは、後醍醐天皇自身がピンチヒッターの天皇であったため、両統迭立の皇室継承においては自身の子孫に皇位が回ってくることは無い、自分も治天の君になれないとして、その制度の履行保証者である鎌倉幕府を倒そうとしたものであると言われている。
当初の鎌倉幕府は鎌倉殿を主宰者とする武士を首班とした地方政権で、支配は東国を中心としており、承久の乱後に全国政権へと飛躍し、権力を拡大させたものであるが、そもそも当初から全国政権を志向したわけでなく、あくまで朝廷権力を前提とした地方政権であった。その大きな理由のひとつが、鎌倉幕府は荘園公領制を前提とした政権であることである。したがって中央の権門の領地(荘園・公領)の権利を冒さず、彼らへ年貢を滞りなく納めることを保証することが、幕府の重要な任務・意義としていた。
頼朝は東北に強大な独立勢力を築いていた奥州藤原氏を滅ぼし、建久元年(1190年)11月、権大納言兼右近衛大将に任ぜられた(位階は既に元暦二年(1185年)に従二位に叙され、文治5年(1189年)に正二位に昇叙されていた)。
これによって、三位以上の公卿に認められる、家政機関政所の設置が公に認められ、それまで頼朝が独自に設置してきた公文所を政所と改め、官職・右近衛大将の略称である右大将にちなみ、右大将家政所と称した。それまで頼朝個人としての官職復帰や、東国沙汰権を拠り所としていた鎌倉の東国政権は、朝廷公認の家政機関としての位置付けを得て、統治機構としての正当性を獲得したのである。建久2年(1191年)1月15日、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる吉書始を行い、右大将家政所を司る四等官として政所別当に大江広元、令に二階堂行政、案主に藤井俊長、知家事に中原光家をそれぞれ任じ、問注所執事に三善善信、侍所別当に和田義盛、侍所所司に梶原景時、公事奉行人に藤原親能他6名、京都守護に外戚で公卿でもある一条能保、鎮西奉行人に天野遠景を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。
職制
征夷大将軍(鎌倉殿)
鎌倉幕府の長。初代頼朝の時代は武家の棟梁と見なされていたが、源氏将軍が3代で途絶えると、朝廷から摂関家(2代)および皇族(4代)を迎え入れるようになり形骸化していく。
執権
鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の補佐役。次第に将軍の権限を吸収していき、事実上の鎌倉幕府のトップとなる。北条氏が世襲したが、後に北条得宗家の当主が執権職を一族の人物に譲った後も得宗家当主が実権を掌握し続けるようになった。
連署
執権に次ぐ、もしくは執権に並ぶ役職。
評定衆
幕府の政策意思決定の最高合議機関。頼朝死後の重臣合議の幕府運営体制である「十三人の合議制」が発展して成立。得宗専制が進むと軽視されるようになる。
寄合衆
元々は得宗家当主の私的な会議であったが、得宗専制が進むと実質的に評定衆に代わる最高意思決定機関となった。
引付衆
幕府へ提訴された訴訟の審理を担当した。審理結果は評定衆へ上申され、評定衆が裁定した。
侍所
御家人の統率を所管した。
政所
頼朝の家政機関に端を発し、幕府の一般政務・財政を所管した。
問注所
幕府へ提訴される訴訟に関する実務を担当した。
守護
地頭
京都守護 → 六波羅探題
元は朝廷との連絡調整が任務だったが、承久の乱以後の六波羅探題は、朝廷の監視・西国御家人の統率が任務となった。
詳細は鎮西奉行、鎮西探題を参照。
奥州総奉行
蝦夷沙汰職・蝦夷代官
2022年出題
「貞永式目」「関東御式目」「式目」とも。1232年(貞永元)に制定された鎌倉幕府の基本法典。内容は守護・地頭のこと,所領支配の効力,訴訟手続,犯罪とその処罰,百姓や奴婢の支配など51カ条。現在知られるものは原形ではなく,現在の第35条までを51カ条に配列したものを原形とする説がある。必ずしも体系的・網羅的なものではなく,当初から補充が予定されていた。実際,その後随時立法され,それらは式目追加とよばれた。室町幕府も,式目追加として同じく随時立法している。式目制定の趣旨について,主導者であった執権北条泰時は,裁判の公平を期するため,あらかじめ裁判の基準を御家人たちに周知させる,その基準は武家社会の良識で,律令格式とは異なるところもあるが,律令格式を否定するのではなく,この法を武家社会にのみ適用させる,とのべる。その背景には,承久の乱(1221)以後,全国各地に進出した地頭御家人が,荘園領主など異質の世界の人々との接触で,種々のトラブルにまきこまれるようになったことがある。泰時にとっては,評定衆(1225設置)たちとの評定の場を拠点に動きはじめた執権政治を,より確かなものにする必要もあった。式目は守護を通じて各国内の地頭御家人に伝達され,それを通して広く社会に浸透した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
『御成敗式目』コトバンクより
平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合がある。
鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺をはじめ南都(奈良)の諸寺の再建がなされる一方、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教の新しい宗派である浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗の宗祖が活躍した。
この6宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は中国から新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず(ただし、禅宗は戒律を重視)、ただ、信仰によって在家(在俗生活)のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。
法然(源空)
1133年-1212年
難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺・造塔・造仏も必要ない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切だと説く。
京の公家、武士、庶民
1173年-1262年
師である法然の教えを継承、展開、深化させる。一念発起(一度信心をおこして念仏を唱えれば、ただちに往生が決定する)や悪人正機説を説く。
地方武士や農民、とくに下層民
(遊行宗)
一遍(智真)
1239年-1289年
賦算(念仏を記した札を配り、受けとった者を往生させる)→男女の区別や浄・不浄、信心の有無さえ問わず、万人は念仏を唱えれば救われると説く。
全国の武士・農民
(日蓮宗)
法華経こそが唯一の釈迦の教えであり、その他の経典は未完成もしくは誤りの法であるとして、題目(「南無妙法蓮華経」)唱和により救われると説く。辻説法で布教した。末法無戒を主張し、それを実践したため、日本仏教における破戒を助長した。
下級武士、商工業者
坐禅を組みながら、師の与える問題を1つ1つ解決しながら(公案問答)、悟りに到達すると説く。政治に通じ、幕府の保護と統制を受ける。
公家、京・鎌倉の上級武士、地方有力武士
ただひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)で悟りにいたることを主眼とし、世俗に交わらずに厳しい修行をおこない、政治権力に接近しないことを説く。
地方の中小武士・農民
鎌倉仏教wikipediaより一部引用
大山祇神社(おおやまづみ)(瀬戸内海の大三島にある神社)と一遍との組み合わせで2021年出題
浄土教の一宗派。遊行宗 (ゆぎょうしゅう) ともいう。開祖は一遍。神奈川県藤沢市の清浄光寺 (遊行寺) を総本山とする。時宗という宗名は,一説に『阿弥陀経』の「臨命終時」という経文に由来し,平生を臨終と心得て念仏するという宗意を表わしているとされる。この宗派の特色は,浄土三部経中特に『阿弥陀経』をおもな所依の経典とするほか『六時礼賛』『法華経』『華厳経』などの念仏を説いている経典をも所依の経典とすること,開祖にならって阿弥陀念仏を勧進するために全国を遊行すること,の2点にある。一遍上人の滅後,第2世他阿が宗規を完成し,第5世安国は清浄光寺を本山と定め,第7世託何は大いに宗義を顕揚した。第 12世尊観法親王を中興の祖とする。現在7派があるが,一宗のもとに統一されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[一遍]
鎌倉時代の時宗(じしゅう)の開祖。伊予国の豪族河野道広の子。諱(いみな)は智真(ちしん),遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と称された。1271年信濃善光寺で阿弥陀信仰を感得,1274年より布教の生活に入った。勧進帳や念仏札を携え全国を遊行し,踊念仏を行った。教団を組織する意図がなかったが,室町期には大教団に発展し,大きな影響を及ぼした。諡(し)号は円照(えんしょう)大師。著書《一遍上人語録》《播州(ばんしゅう)法語集》。→一遍上人絵伝
→関連項目鎌倉仏教|河野氏|飾磨津|清浄光寺|浄土教|白河関|真光寺|念仏|仏教|法語|和讃
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伊予(愛媛県)の豪族河野(こうの)氏の出身。
以上、コトバンクより
2021年出題(立正安国論)
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。諡号(しごう)は立正大師。安房(あわ)小湊の漁師の子という。17歳ころから鎌倉・比叡山などで11年間修行研鑽(けんさん)し,《法華経》こそ至高の経典であるとの確信を得,1253年故郷の清澄(きよすみ)山頂で題目を高唱して開宗した。次いで,念仏・禅・真言・律を破す四箇格言をもって,鎌倉の辻で説法し,《立正安国論》を著して蒙古襲来を予言し北条時頼に献じたが,1261年その忌諱(きい)に触れ伊豆伊東に流された。1263年許されて鎌倉に帰ったが,再び国難を訴えて捕えられ,1271年竜ノ口で断罪されようとしたが,免れて佐渡へ流された。3年後,鎌倉に帰ったが,この年蒙古が襲来し,幕府は日蓮に意見を求めたが応ぜず,身延山に草庵を結んで宗風の高揚に努めた。のち病を得,武蔵池上にて没。著書はほかに《開目鈔》《撰時鈔》《報恩鈔》など。→熱原法難
→関連項目石原莞爾|会式|鎌倉仏教|佐渡国|妹尾義郎|高山樗牛|田中智学|天台宗|南部郷|仏教|本門寺|妙宣寺|妙本寺|横川
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中国の北魏時代に慧遠が説き、唐代の善導が提唱した。阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く大乗仏教の一派。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
阿弥陀信仰
「阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、「浄土信仰」とも言われる。
日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つ。
西方信仰
他力(他力本願)
関連経典
日本の浄土教では、『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)を、「浄土三部経」と総称する。
また、その他の経典では、法華経第二十三の『薬王菩薩本事品』に、この経典(薬王菩薩本事品)をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろう、とも書かれている。
浄土教wikipediaより引用
鎌倉時代初期,東大寺の再建にあたり,僧重源 (ちょうげん) が輸入した宋の建築様式。以前は天竺様とも呼ばれた。禅宗様建築が北宋系なのに対し,これは浙江,江蘇省あたりで行われていたものが基本になっている。東大寺大仏殿 (鎌倉,江戸時代に再建) ,東福寺大仏殿,方広寺大仏殿 (京都) などに用いられたのでこの名がある。貫 (ぬき) や太い虹梁を多用した豪放な構架法にその特色があり,挿肘木,皿斗付の斗,大仏様木鼻 (きばな) などの細部も和様,禅宗様にみられないものである。浄土寺浄土堂 (兵庫) ,東大寺南大門が代表的遺構。禅宗様や和様のような複雑な造作がない架構の力強さと経済性はあったが,おそらくは装飾的なふくらみに欠けるのが短所となって,あまり広まらずに終った。ただ,手法そのものはさまざまな形で部分的に吸収され残存した。
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一部は禅宗様の特徴にも通じる。
野屋根がなく化粧垂木勾配が屋根勾配となる
天井もない化粧屋根裏で垂木など屋根裏が見える
屋根は本瓦葺
角地垂木で一軒(ひとのき)
四隅だけを放射状にする隅扇垂木
貫(ぬき)を使い構造を強化
柱に肘木を挿し込む挿肘木
木鼻(貫の先端)には繰り型といわれる装飾を付けている
組物と組物の間に置く遊離尾垂木
扉は四周の框と縦横の数本の桟を組み、桟と框の間に入子板を嵌め込んだ桟唐戸。扉の軸を大仏様藁座が受ける
柱は上辺3分の1から上へ少しずつ細くなっている粽
窓は開口部に棒状の木などを縦または横に並べた連子窓
床は板敷の場合縁を張り、土間床の場合縁は設けない。縁は敷居と平行に板をはる榑縁(くれえん)
木部は丹塗、壁は土壁と板壁があり共に白塗
1221年(承久3)5・6月,後鳥羽上皇とその近臣が,鎌倉幕府打倒に挙兵した事件。
院の直轄軍である西面の武士を新たに設置するなど朝廷の政治力の回復をはかっていた上皇は,3代将軍源実朝の後継として皇族下向を求める幕府の要請を保留,逆に摂津国長江・倉橋両荘の地頭職改補を要求したが,幕府の拒絶にあって交渉は決裂した。
幕府との対立を深めた上皇は,5月14日,14カ国の軍兵を召集,翌15日には北条義時追討の宣旨(せんじ)・院宣を発し,京都守護伊賀光季を攻撃,親幕府派の西園寺公経(きんつね)を幽閉。5月19日,報をうけた幕府は,北条政子の説得と大江広元の建策により,ただちに京都攻撃の軍を発し,6月5・6日,朝廷側主力軍を破り,15日には京都を占領。上皇はすぐに義時追討の宣旨・院宣をとりけし,乱の首謀者は近臣であるとした。
幕府は,後鳥羽上皇,その子土御門(つちみかど)・順徳両上皇,六条・冷泉(れいぜい)両宮を配流,後鳥羽上皇の兄行助(ぎょうじょ)入道親王を後高倉院とし,その子茂仁(後堀河天皇)を皇位につけ,後高倉院の院政とするなど朝廷改革を行う一方,乱の加担者を処罰し,所領を没収,恩賞として東国の御家人に与え,西国支配を強化した。また幕府軍の総指揮官として上洛した北条泰時・同時房は,六波羅探題として京都にとどまり,戦後処理と朝廷の監視,京周辺の警固などにあたった。この乱によって幕府の朝廷に対する優位が確立した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版
徳宗とも。鎌倉幕府の執権北条氏の家督。「梅松論」に「家督を徳崇(宗)と号す」とあり,時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代をさす。北条義時の法名徳崇に由来するといわれる。実際に得宗を称したのは時宗の頃からで,それ以前の代々の家督も得宗とよぶようになった。義時の頃から家政機関が整えられ,政治力と経済力で他の一門を圧倒するようになり,得宗家の基盤が作られた。時頼が執権を一門の長時に譲ったのちも政務を執ったのは,彼が得宗の地位にあったことによる。この頃から評定衆の会議より,寄合(よりあい)といわれた得宗亭内での内談が重視され,専制化が図られた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
蒙古襲来・モンゴル襲来とも。蒙古(元)・高麗軍の日本侵攻。元は高麗征服後,1268年(文永5)日本に服属を要求したが,鎌倉幕府はこれを拒絶。元は高麗軍を加えた大軍を,74年と81年(弘安4)の2度,九州北部に派遣したが失敗。これらは文永の役・弘安の役とよばれる。第3次計画は未遂に終わった。これを契機に北条氏得宗家への権限集中が進み,幕府倒壊の要因をうんだ。同時に神国思想が広まり,以後の日本人の対外観念を大きく規定した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
1297年(永仁5)3月に鎌倉幕府が制定し,関東御徳政といわれた3カ条の法令。内容は次のとおり。
(1)越訴(おっそ)の停止。
(2)御家人所領の売買・質入れの禁止。これまでの売却・質流れ所領は,無償で取り戻すことができる。ただし,買得安堵状を下付されたものと20年を経過した所領は取り戻せない。非御家人や侍身分以下の者の買得地には,この但書条項を適用しない。
(3)債務の不履行など債権債務に関する訴訟はいっさいうけつけない。質物を入れることは禁止しない。
以上の立法の背景には,貨幣経済にまきこまれて窮乏し,所領を手離す御家人の激増がある。翌年には97年以前の売却・質流れ所領の無償取戻し令は存続させたうえで売買・質入れ禁止令を撤廃,債権債務訴訟が再開されていることも,御家人の窮乏の深刻さを示す。同時に越訴も復活したが,その背景には専制化する北条氏得宗家の権力と御家人勢力の対抗関係があったらしい。徳政令ははじめてではなかったが,社会の反応はすばやかった。徳政による取戻しを避けるため,売券と同時に譲状が作られるようになる。また取戻し令(徳政令)が出ても,この売買には適用されないという文言(徳政担保文言)を売券に記すことも多くなった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
みうちびと。中世,主として武家では代々奉仕する家臣を御内,もしくは御内人といった。鎌倉中・後期には,もっぱら幕府執権北条氏の家督(得宗(とくそう))に仕える被官・家人(けにん)をさした。得宗御内・得宗被官ともいい,一般の御家人は外様(とざま)とよばれる。御内人は将軍からいえば陪臣だが,得宗の権力強化とともに勢力をのばし,鎌倉後期には幕府政治も左右した。得宗家の家政機関である公文所(くもんじょ)に出仕し,また全国各地の得宗領に派遣されて管理にあたった。その筆頭者は内管領(ないかんれい)とよばれる。執権が侍所別当を兼ねて以来,御内人はその実質的長官である所司となり,さらに幕府の実質的な最高意思決定会議である寄合(よりあい)にも参加した。霜月騒動(1285)で安達泰盛を滅ぼした平頼綱,幕府最末期に権勢をふるった長崎高資(たかすけ)などが著名。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
鎌倉時代後半,後嵯峨天皇の嫡子後深草天皇の子孫 (→持明院統 ) と次子亀山天皇の子孫 (→大覚寺統 ) の2系統が並び立ち,交互に皇位についたこと。後嵯峨,後深草のあと,亀山とその子後宇多が相次いで皇位についた。次いで後深草の子伏見とさらにその子後伏見が立って持明院統が2代続いたあと,幕府の斡旋によって大覚寺統の後二条が即位した。両統は皇位をめぐって抗争し,承久の乱以後皇位に関して重大な影響力を有した幕府に盛んに働きかけた。幕府は後二条の皇太子決定に際して両統が交互に天皇を立てること (両統迭立) を適正とした。その後も両統の抗争は激化したので,幕府はこの問題に関与して決定に苦しむ事態を避けるために不介入の方針を定め,文保1 (1317) 年皇位の問題は両統の協議によるべきことを申出た (文保の和談) 。しかし両統間の協議は困難でこのあとも幕府が介入せざるをえなかった。また延元1=建武3 (36) 年以降大覚寺統の南朝と持明院統の北朝とが並存し (南北朝時代) ,元中9=明徳3 (92) 年両朝の和議が成ったとき,皇位継承は両統迭立を条件としたが,室町幕府によりこの条件は実行されず,持明院統一統の世となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『両統鉄率』
[大覚寺統]
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位の継承権と所領の相続をめぐって争った2つの皇統の一つ。亀山,後宇多天皇の流れで,後深草,伏見天皇の持明院統と対抗。後宇多天皇が上皇となってから京都の北西郊の大覚寺に住んだのでこの名がある。鎌倉幕府は両統を交互に皇位につけるようはからったが,大覚寺統の後醍醐天皇の建武中興が失敗し,足利尊氏が持明院統の皇族をいただいて京都に君臨してからは,大覚寺統は南朝として大和の吉野山にこもった。元中9=明徳3 (1392) 年両統の合体後,南朝方のものは,合体条件が履行されていないとして再びこの皇統の皇族を奉じてしばしば乱を起したが,その都度,室町幕府により鎮定された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[持明院統]
後深草天皇系の皇統。鎌倉時代,後嵯峨天皇は寛元4 (1246) 年,第1皇子久仁親王に譲位して後深草天皇としたが,皇太弟の恒仁親王を寵愛して,正元1 (59) 年これに皇位を譲らせて亀山天皇とし,その皇子世仁親王を皇太子とした。文永 11 (74) 年,世仁親王が即位して後宇多天皇となり,亀山上皇が院政を行うことになったため,これに不満をいだく後深草上皇側は持明院を御所としたことから持明院統と称され (→持明院家 ) ,亀山上皇の皇統の大覚寺統と対立し,鎌倉,南北朝時代を通して皇位継承をめぐって争った。そこで幕府の両統迭立の方針によって両統から交代に皇位につくことが決められた。しかし持明院統の経済的基盤である長講堂領の伝領問題もからんで両統の対立は激化していった。持明院統は鎌倉幕府とも協調的であり,南北朝時代に入っても足利尊氏の支持によって北朝の皇位を継承した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
鎌倉中期に分裂対立した二皇統の一つ。持明院は藤原基頼(もとより)が邸内に建てた持仏堂の名で、今日の京都市上京区上立売(かみだちうり)北新町のあたりにあたる。基頼の子通基(みちもと)が持明院家を称したが、その孫女(むすめ)、後高倉院(ごたかくらいん)妃がここに住んだ縁から、後高倉院がここで院政をとり、以来後深草(ごふかくさ)、伏見(ふしみ)、後伏見(ごふしみ)院も譲位後ここに住した。後深草、亀山(かめやま)天皇の間に皇位をめぐって対立を生じ、子孫の間に引き継がれ、皇統が二分したので、史家は前者の皇統を持明院統とよんで、後者の大覚寺(だいかくじ)統と区別している。両統ともに鎌倉幕府や西園寺(さいおんじ)家の支持を得て有利な立場を得ようと競ったが、持明院統は大覚寺統よりも幕府に親しむ傾向が強かった。この争いは後の南北朝分立の因となったが、持明院統はやがて北朝として室町幕府に推戴(すいたい)された。
[多賀宗隼]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ
[後嵯峨天皇~後亀山天皇→後村上天皇まで]
88後嵯峨天皇→89後深草天皇(長男)持明院統→90亀山天皇(次男)大覚寺統→91後宇多天皇(大覚寺統)→92伏見天皇持明院統→93後伏見天皇(伏見天皇皇子)持明院統→94後二条天皇大覚寺統→95花園天皇持明院統→95後醍醐天皇大覚寺統→97後村上天皇大覚寺統(後醍醐天皇皇子)
[南朝] 大覚寺統
(後村上天皇)→98長慶天皇→99後亀山天皇
[北朝] 持明院統
北1光厳天皇→北2光明天皇→北3崇光天皇→北4後光厳天皇→北5後円融天皇→100後小松天皇
ブリタニカ国際大百科事典の記述によれば、ご嵯峨天皇が次男を寵愛するばかりに
https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html
元亨4 (1324) 年,後醍醐天皇が鎌倉幕府討滅を企て,事前に発覚して失敗した事件。即位以来,天皇親政を志していた天皇は,日野資朝,同俊基,土岐頼兼らと討幕計画を練ったが,計画が事前に発覚し,元亨4年9月 19日六波羅探題は兵をつかわして,土岐頼兼,多治見国長らを京都で殺害し,資朝,俊基を捕えた。幕府から工藤高景らが派遣され,10月4日資朝,俊基を鎌倉へ護送した。天皇は幕府に釈明して事なきを得たが,翌正中2 (25) 年8月,資朝は事件の首謀者として佐渡へ配流され,俊基は許されて京都へ帰った。この討幕計画は不発に終ったが,やがて元弘の乱が起ることになる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
元弘1=元徳3 (1331) 年後醍醐天皇が計画した鎌倉幕府討滅クーデター。正中の変 (1324) に失敗した天皇は,再び討幕を企てた。この計画は事前に六波羅探題の察知するところとなり,参画者日野俊基,僧円観らは捕えられ,天皇は元弘1=元徳3年8月笠置山に逃れ籠城したが,翌年六波羅に遷され隠岐に流された。幕府はこの年の4月 27日,正慶と改元し,光厳天皇を擁立した。後醍醐天皇の挙兵に応じた楠木正成らは,赤坂城によって幕府軍と戦い,落城すると千早城に籠城して幕府の大軍を悩ました。元弘3=正慶2 (33) 年,後醍醐天皇が隠岐を脱出すると,足利尊氏,新田義貞らも挙兵して,鎌倉幕府は滅びるにいたった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いである。北条氏が率いる鎌倉幕府はこれに負け滅亡した。
鎌倉幕府得宗の北条高時と一族の北条氏は、最後は討幕軍に包囲され鎌倉の東勝寺に籠り自刃した。高時と共に自刃した主な人々は、北条氏では金沢貞顕、北条茂時、常盤範貞、大仏家時ら、文士では摂津親鑒・高親父子、外様では安達時顕、御内人では長崎円喜らがいる。
東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。
経過
各地で敗走した鎌倉勢は、鎌倉の七切通しを封鎖。新田勢は関口を本拠に、小袋坂・化粧坂・極楽寺坂の三方から攻撃することとし、義貞はそれぞれの指揮を執る将を新田一族で固めた。小袋坂は山側で鎌倉勢の執権の赤橋守時が守るのに対し新田勢は堀口貞満らが攻めた。中央の化粧坂には金沢貞将に対し新田義貞・脇屋義助が率いる主力が攻める。七里ヶ浜に面する海側の極楽寺坂は大仏貞直が守り、大舘宗氏らが攻めた。戦いは膠着し、小袋坂では赤橋守時を自害させたが、極楽寺坂では指揮を執る大舘宗氏が戦死するほど苦戦する(大舘氏参照)。
義貞は切通しの突破を諦めて、干潮を利用しての稲村ヶ崎から海岸線ルートでの鎌倉侵攻を試みる(室町時代に成立した軍記物語『太平記』によれば、義貞が海神に祈願すると潮が引き、新田勢は由比ヶ浜へ進入、鎌倉へ進攻できたとされる)。背後を突かれた形となった幕府軍は鎌倉市街や切通しなどで大仏貞直・大仏宣政・金沢貞将・本間山城左衛門、そして他に第13代執権の普恩寺基時(北条基時)などが戦死した。
北条高時らは東勝寺に追い詰められ自害した。『太平記』によれば寺に篭った北条一族と家臣は、長崎高重・摂津親鑒・諏訪直性ら北条被官から順にそれぞれ切腹し、長崎新右衛門が祖父の長崎円喜を刺し殺して自らも切腹すると、最後に高時、そして正室の父の安達時顕と自害したという(他に自害したのは第15代執権の金沢貞顕、連署の北条茂時など)。『太平記』には、自害した人々は283人の北条一族と家臣、後に続いた兵を合わせて総数870余人とあるが、文学的誇張もあると推察される。高時らの自害を知った安東聖秀らもまた、降伏勧告を拒絶して市中で自害した。
東勝寺合戦Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8B%9D%E5%AF%BA%E5%90%88%E6%88%A6
鎌倉時代後期の元弘3年5月18日-5月22日(ユリウス暦1333年6月30日-7月4日)に、相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われた合戦。 なお、この元弘の乱の鎌倉における戦いの名称は、いわゆる歴史用語としては一定ではない。後世の史料上には「元弘三年の動乱」のように見える場合もある。通称では「新田義貞の鎌倉攻め」「鎌倉攻め」「鎌倉防衛戦」などと呼ばれている。本項では5月18日より北条高時自害の5月22日までの鎌倉における戦いを「鎌倉の戦い」という便宜上の名称で記述する。
元弘3年5月8日(1333年6月20日)、新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。鎌倉幕府は迎撃の兵を向けたものの、小手指原の戦い、久米川の戦い、そして分倍河原の戦いで、新田勢に敗北した。鎌倉幕府は守勢に転じ、鎌倉の守備を固めた。分倍河原の戦いの後、関東各地からの援軍も加えて20万の大軍に膨れ上がった新田勢は、怒涛の勢いで一気に鎌倉へ進撃した。
鎌倉の戦いの戦死者
1953年、由比ガ浜にある鎌倉簡易裁判所用地で大量の人骨が発見され、1955年まで調査が行われ、900体以上の人骨が発見された。これらの人骨はほとんどが青年壮年の男性のもので、年齢や性別に関係なく戦いのものと思われる刀創・刺創・打撲創が散見された。また一部の骨には動物にかじられた痕跡もあり、また経文らしき漢字が墨書された頭骨もあった。これらによって新田義貞による掃討作戦の後に、死体が放置され、それを野犬化した闘犬により肉を喰い荒らされた、またそれを僧侶が埋葬した、という事実が浮かび上がる。
鎌倉市材木座にある浄土宗九品寺は、鎌倉攻めによる敵味方双方の戦死者を弔うために新田義貞が、鎌倉市小町にある北条執権亭跡にある天台宗宝戒寺は後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建てた寺である。
鎌倉地方特有の墳墓やぐらには、この時の戦いの戦死者や北条高時の首塚を伝えるものが多い。
影響
新田義貞は、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導いた。六波羅探題に続き、鎌倉幕府の本拠である鎌倉が陥落したことにより、元弘の乱は後醍醐天皇方の勝利として収束に向かう。名目上の幕府の長であった将軍守邦親王も鎌倉の陥落と共に将軍職を辞して出家して鎌倉時代は終結し、建武の新政の始まりを迎える。
戦いの後も新田勢による残党狩りが続くが、北条時行ら一部の北条一族は鎌倉を脱出し、後に中先代の乱を引き起こすこととなる。
鎌倉の戦いWikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84