2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。コトバンクの各辞書・Wikipediaを使用しています。
12世紀末 - 元弘3年/正慶2年(1333年))は、日本史で幕府が鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。
始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説(1192年の源頼朝征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、鎌倉「幕府」の成立とは必ずしも一致はせず、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力)がある。
12世紀末期に、源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、鎌倉幕府を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に地頭等の形で支配構造ができあがった。
幕府は「鎌倉殿」頼朝の私的家政機関として設立されており、公的機関ではない。したがって基本的に鎌倉幕府が支配下に置いたのは鎌倉殿の知行国および主従関係を結んだ武士(御家人)であり、守護の設置などで諸国の治安維持等を担当したものの、全国の武士を完全な支配下に治めたわけではない。平氏政権が朝廷に入り込み、朝廷を通じて支配を試みたのとは対照的である。元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にすると、全国支配が強化されることになる。
鎌倉幕府がそれ以前の武家政権である平氏政権と最も異なる点は、問注所と呼ばれる訴訟機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは、当事者同士の武力闘争に容易に発展していたが、これにより実質的に禁止されることになった。武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論は以降の幕藩体制の根幹を成すものになった。
源頼朝の死後、外戚である北条家が台頭し、幕府の実権を掌握。北条氏による執権制度が創設された。源氏将軍が断絶して以降も、幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして御成敗式目という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。また、将軍権力は形骸化していく一方で、北条氏惣領の得宗に権力が集中する得宗専制の体制になっていき、それに仕える御内人も台頭するようになった。
後鳥羽上皇らが政治の実権を取り戻すため起こした承久の乱では、鎌倉幕府が朝廷に勝利し、朝廷に対する幕府の政治的優位が確立した。これにより、多くの御家人が西国に恩賞を得て、東国に偏重して西国に弱かった幕府の支配が強く及ぶようになった。
承久の乱後、幕府は守貞親王(後高倉院)を治天の君に擁立し、その系統が断絶すると後嵯峨天皇を即位させ、朝幕関係の安定化を図った。朝廷も幕府も社会と自らの政治的基盤の安定を図るために徳政の興行を推進し、治天の君(上皇)と執権が評定衆を主導して、訴訟の解決を図る態勢が構築された。これは天皇や将軍が直接裁許に加わることで敗訴となった側の怨恨を受け、特に所領問題の場合には(主君による従者保護の責務に反したとして)敗訴となった側の主従関係の解消につながるような事態を回避するために、訴訟の解決を図りつつも所領問題から天皇・将軍を切り離すための仕組みであったと考えられている。
経済的には、地方の在地領主である武士の土地所有が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化が栄えた。文化芸術的にも、このような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい、新しいものが好まれた。政局の安定が西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらすと、各地に定期的な市が立つようになった。
土地の相続に関しては分割相続が採用されていたが、そのため時代を下るごとに御家人の所領は零細化され、生活を圧迫することになってしまった。また、中期から本格的に貨幣経済が浸透し始めたが、これに順応できない御家人も多く、生活が逼迫した結果、土地を売却する者もいた。救済策として幕府は永仁の徳政令を発布するなどしたが、芳しい成果は得られなかった。
13世紀には、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の二度にわたる元寇があったが、元の侵攻を撃退した。これにより「日本は神国」という神国思想の発端となり、後世に影響を与える事となった。また元の侵攻は阻止したものの、今までの幕府の戦争と違い、外国を相手にした防衛戦であったため、この戦いによって実質的に獲得したものは何も無く、そのため出征した武士(御家人)への恩賞の支払いが少なかったこともあって、「いざ鎌倉」といった幕府と御家人との御恩と奉公という信頼関係を損ねる結果となった。
元寇を機に幕府は、非御家人を含む日本全国の武士へ軍事動員をかける権限を得たほか、鎮西探題や長門探題などの出先機関を置き、西国への支配を強めた。西国をはじめ、日本国内を中央集権的に統治しようとする得宗は御家人を排除し、被官である御内人を重用するようになった。
生活に困窮した御家人の不満を幕府は力で抑えたため、表面上の幕政は安定したものの、霜月騒動や平禅門の乱など専制を強める得宗と御家人の確執は深まり、安藤氏の乱において御内人が当事者の双方から賄賂を取り立てるなどといった事象を幕政の腐敗と見る向きもあり、次第に幕府から人心が離れていくようになった。決定的となった鎌倉大地震や正嘉鎌倉地震などをはじめとして、鎌倉幕府を開いてから度々災害や疫病や飢饉などの混乱が起きたことも、後に鎌倉幕府が崩壊する要因となった。
また、承久の乱以後の朝廷の衰退は、皇位継承を巡る自己解決能力を失うことになり、結果的に幕府を否応無しに巻き込む事になった。幕府は両統迭立原則によって大覚寺統・持明院統両皇統間における話し合いによる皇位継承を勧めて、深入りを避ける方針を採ったが、結果的に紛糾の長期化による、朝廷から幕府に対する新たな介入要請を招き、その幕府の介入結果に不満を抱く反対派による更なる介入要請が出されるという、結果的に幕府の方針と相反した悪循環に陥った。その結果、大覚寺統傍流出身の後醍醐天皇直系への皇位継承を認めないという結論に達したとき、これに反発した後醍醐天皇が、これを支持する公家と幕府に対して不満を抱く武士達の連携の動きが現れるのを見て、叛乱を起こし(正中の変、元弘の乱)、間もなく鎌倉幕府は崩壊した。
<平成30年(2018年)の問題>
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。11世紀後半に、源氏の守り神として創建された。以後、鎌倉武士の守護神となる[2]。現代では全国の八幡宮の中で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝ゆかりの神社として関東方面で知名度が高い。境内は国の史跡に指定されている。 現在の祭神は、応神天皇、比売神(ひめがみ)、神功皇后(応神天皇の母)の3柱であるが、「八幡神」と総称される。
康平6年(1063年)8月、源頼義が河内源氏氏神の壷井八幡宮あるいは京都の石清水八幡宮を勧請(鶴岡若宮)[1]
永保元年(1081年) 2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。
治承4年(1180年) 10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。
承元2年(1208年 ) 神宮寺が創建される。
建保7年(1219年)源実朝が甥の公暁に襲われ落命。
建久3年(1192年)、源頼朝が征夷大将軍に就任
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。
戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂などを建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また、境内には方五間の多宝大塔や、東照宮も存在した。
文政11年(1828年)、江戸幕府11代将軍、徳川家斉の命により本殿(重要文化財)などが造営。
明治元年(1868年)3月、神仏分離令により廃仏毀釈開始
4月24日、仏教的神号の八幡大菩薩が明治政府により廃止
7月19日、石清水八幡宮以下、鶴岡八幡宮などの放生会は中秋祭に変更。
大正12年(1923年) 9月1日、関東大震災で、楼門・下拝殿(舞殿)・一ノ鳥居・二ノ鳥居・三ノ鳥居・太鼓橋・白旗神社の拝殿等が全壊、本殿・拝殿・若宮・白旗神社本殿等が小破、源平池の護岸や大臣山が崩壊、太鼓橋が崩落。
平成22年(2010年)3月10日、4時40分頃に、強風のために大銀杏(公暁)は根元から倒壊。
*キーワード
源平池、蓮の花、すっぽん、赤橋、源義経・静御前(若宮社伝の回廊、しずやしず)、ボタン庭園、神奈川県立近代美術館(終了→鎌倉文華館鶴岡ミュージアム(建物は重要文化財))、白幡神社、今宮(後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇 - いずれも承久の乱で流された天皇を祀る )
*参道 鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。
この段葛は、二の鳥居の辺りでは幅4メートルほどだが、三の鳥居では幅が約3メートル程度となっており、先に進むほど徐々に細くなっている。人間の目の錯覚を利用し、参道を実際より長く見せ、奥の本殿を厳かに見せるための設計との説がある[15]。
<平成30年(2018年)の問題>
*承久の乱 後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立抗争であった。朝廷軍は幕府軍に敗れ、3上皇は配流。幕府は朝廷監視のために京都に六波羅探題を置き、皇位継承にも影響力を持つようになった。設問中の京都守護職は幕末(江戸幕府)文久の改革において新設設置されたもの。また、京都守護職の本陣は金戒光明寺に置かれた。京都守護職屋敷は現京都府庁付近。
*六波羅蜜寺 天暦5年(951年)空也が造立した十一面観音を本尊とする同上に由来する。平家とゆかりがあったが、承久の変後、この地に六波羅探題が置かれた。
*弘仁格式・貞観格式・延喜格式(三大格式) 平安時代に編纂・施行された格式(格(きゃく)は律令の修正・補足のための法令(副法)と詔勅を指し、式(しき/のり)は律令の施行細則を指した)。詳しくは→平安時代
*守護 守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。
鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代には守護職(しゅごしき)といった。
制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。
*地頭 鎌倉幕府によって設けられた職名。「地頭」という言葉は 10世紀初め頃から用いられ,平氏政権のもとでも荘園の地頭にその家人が補任されたが,これは私的,非公法的なものであった。これに対して,鎌倉幕府においては,源頼朝が大江広元の献策により,文治1 (1185) 年 11月源義経,行家追捕を理由として諸国に守護,地頭の設置を奏請し,勅許を得た。この文治勅許の地頭設置の範囲については,(1) 日本全国,(2) 畿内および主として西国に属する 37ヵ国,鎮西9ヵ国,計 46ヵ国,(3) 西国 36ヵ国,(4) 地域的限定はあるが確定しない,などの説があるが,荘園領主の反対によって翌年7月には,全国五百余ヵ所の平家没官領および謀反人跡に限定せざるをえなかった。承久の乱 (1221) の幕府側の圧倒的勝利の結果,京都方に味方した者の所領三千余ヵ所を幕府の支配下に入れ,その地頭職を恩賞として御家人に与えることによって,幕府の支配は全国に及ぶことになった。これらの地頭の種類は複雑多様で,荘,郷,保,村,名 (みょう) 地頭などのほか惣地頭,小地頭と呼ばれるものもあり,これらは本領安堵地頭,新恩地頭,臨時地頭に大別される。また得分率法の違いによって,本補地頭と新補地頭に分けられる。地頭の権限としては警察権,裁判権,徴税権,下地管理権,行政権などがあるが,地域,時代によって相違がある。地頭の設置により荘園制の解体が促進され,南北朝,室町時代になると,地頭は荘園における元来の性格を失い,幕府に対しても地頭職補任,安堵などによって制度的には一応関係を保ったが,実質的には守護大名の被官となりつつあり,この傾向は時代が進むにつれて顕著となった。戦国時代には地頭,地頭職の名称もほとんどなくなり,江戸時代には一部の地域で代官のことを地頭と呼ぶ以外には,まったく 名残りをとどめなくなった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*地頭請 鎌倉時代,地頭に荘園の年貢納入を請負わせたこと。地頭は武力を背景として非法狼藉を行い,荘園領主への年貢納入を妨げ,さらには土地の押領を意図した。これに苦しんだ荘園領主は,一定の年貢納入を確保するため,荘園の管理を地頭に請負わせることとした。しかし地頭は契約を守らず,下地中分に進むことになり,荘園体制は動揺し地頭領主制が促進された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク)
*下地中分 鎌倉時代,荘園領主と地頭との争いを解決するため,土地を折半,あるいは2対1に分け,それぞれ領家方,地頭方の領掌権 (保有権) ,下地進止権 (処分権) を認め,相互に侵犯しないようにしたこと。これは鎌倉時代中期頃から盛んになり,幕府も争いの早期解決策として奨励した。下地中分には幕府の裁決によるものと,和解によるものとがあり,また方法には,土地を折半して一円支配 (→一円知行 ) を認め合う方法と,下地の坪ごとに,あるいは一単位の畑,屋敷ごとに折半するという,いわゆる坪分け中分とがあった。 (→地頭請 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク)
*元寇(文永・弘安の役) 鎌倉時代中期,元が日本に来攻した事件。文永・弘安の役ともいい,当時の史料的表現では「蒙古襲来」という (→蒙古襲来絵巻 ) 。元は,高麗を征服後,高麗を媒介にたびたび日本に服属を迫り,幕府が拒否したため,文永 11 (1274) 年,弘安4 (1281) 年の2度,モンゴル,高麗などの連合軍で北九州に来攻した (前者は文永の役,後者は弘安の役) が,いずれも失敗。幕府は文永の役後,武士に恩賞を与え,異国警固番役,石築地 (いしついじ。防塁) など,博多湾沿岸の防備体制の強化,九州諸国守護職の北条氏一門への集中,弘安の役後は,加えて鎮西奉行の設置などを行なった。そのため九州御家人には,多大の軍事的,経済的負担を負わせ,また,庶子の独立化,惣領制の弛緩など,武士社会に深刻な状況を招いた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*臨済宗
禅宗の一派。唐の臨済義玄を開祖とし、のち黄竜派と楊岐派が立ち隆盛に導いた。日本には栄西が黄竜派の法を受けて建久2年(1191)に帰国、初めて伝えた。参禅問答による自己究明を宗風とする。現在は、天竜寺派・相国寺(しょうこくじ)派・建仁寺派・南禅寺派・妙心寺派・建長寺派・東福寺派・大徳寺派・円覚寺派・永源寺派・方広寺派・国泰寺派・仏通寺派・向嶽寺派の14寺派、および相国寺派から分かれた興聖寺派がある。
出典 小学館デジタル大辞泉
*立正安国論 日蓮(日蓮宗)著。1巻。文応1 (1260) 年成立。日蓮の代表的著作である五大部の一つ。当時しきりに起きた天変地異は,浄土教などの邪法の弘通によるとして排斥し,諸経,諸宗を『法華経』のもとに統一して正法を広めるべきことを主張した書。先に国家を祈ってのち仏法を立てるとして,安国に重点をおく客 (俗) が,正法の確立によって国が安泰になるとする主人 (僧) に次第に導かれてゆく対話形式で書かれている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
「このまま浄土宗などを放置すれば災害や天変地異、天体運行の乱れなどが起き、国内では内乱が起こり(自界叛逆難)、外国からは侵略を受けて滅ぶ(他国侵逼難)」と唱え、「邪宗への布施を止め、正法である法華経を中心(「立正」)とすれば国家も国民も安泰となる(「安国」)」と説いた。 その内容に激昂した浄土宗の宗徒による襲撃事件(松葉ケ谷の法難)を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年に日蓮は伊豆国に流罪となった。(立正安国論) (wikipedia)
*時宗 鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。浄土教では阿弥陀仏への信仰がその教説の中心である。
*建仁寺 京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山の寺院。山号は東山(とうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。かつて京都五山の第3位であった。「建仁寺の学問面」などと呼ばれる。
俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などがある。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。
*元弘の変で敗れた後醍醐天皇は、廃位されて後鳥羽上皇と同じ隠岐に配流された。しかし、幕府側の有力御家人である足利氏新田氏が朝廷側に寝返ったことで一発逆転、幕府を倒し、建武の新政に至る。後醍醐天皇は建武の新政で時代に逆らって朝廷中心の政治に戻そうとした。
そもそも後醍醐天皇が正中・元弘の乱を起こしたのは、後醍醐天皇自身がピンチヒッターの天皇であったため、両統迭立の皇室継承においては自身の子孫に皇位が回ってくることは無い、自分も治天の君になれないとして、その制度の履行保証者である鎌倉幕府を倒そうとしたものであると言われている。
当初の鎌倉幕府は鎌倉殿を主宰者とする武士を首班とした地方政権で、支配は東国を中心としており、承久の乱後に全国政権へと飛躍し、権力を拡大させたものであるが、そもそも当初から全国政権を志向したわけでなく、あくまで朝廷権力を前提とした地方政権であった。その大きな理由のひとつが、鎌倉幕府は荘園公領制を前提とした政権であることである。したがって中央の権門の領地(荘園・公領)の権利を冒さず、彼らへ年貢を滞りなく納めることを保証することが、幕府の重要な任務・意義としていた。
頼朝は東北に強大な独立勢力を築いていた奥州藤原氏を滅ぼし、建久元年(1190年)11月、権大納言兼右近衛大将に任ぜられた(位階は既に元暦二年(1185年)に従二位に叙され、文治5年(1189年)に正二位に昇叙されていた)。
これによって、三位以上の公卿に認められる、家政機関政所の設置が公に認められ、それまで頼朝が独自に設置してきた公文所を政所と改め、官職・右近衛大将の略称である右大将にちなみ、右大将家政所と称した。それまで頼朝個人としての官職復帰や、東国沙汰権を拠り所としていた鎌倉の東国政権は、朝廷公認の家政機関としての位置付けを得て、統治機構としての正当性を獲得したのである。建久2年(1191年)1月15日、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる吉書始を行い、右大将家政所を司る四等官として政所別当に大江広元、令に二階堂行政、案主に藤井俊長、知家事に中原光家をそれぞれ任じ、問注所執事に三善善信、侍所別当に和田義盛、侍所所司に梶原景時、公事奉行人に藤原親能他6名、京都守護に外戚で公卿でもある一条能保、鎮西奉行人に天野遠景を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。
職制
征夷大将軍(鎌倉殿)
鎌倉幕府の長。初代頼朝の時代は武家の棟梁と見なされていたが、源氏将軍が3代で途絶えると、朝廷から摂関家(2代)および皇族(4代)を迎え入れるようになり形骸化していく。
執権
鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の補佐役。次第に将軍の権限を吸収していき、事実上の鎌倉幕府のトップとなる。北条氏が世襲したが、後に北条得宗家の当主が執権職を一族の人物に譲った後も得宗家当主が実権を掌握し続けるようになった。
連署
執権に次ぐ、もしくは執権に並ぶ役職。
評定衆
幕府の政策意思決定の最高合議機関。頼朝死後の重臣合議の幕府運営体制である「十三人の合議制」が発展して成立。得宗専制が進むと軽視されるようになる。
寄合衆
元々は得宗家当主の私的な会議であったが、得宗専制が進むと実質的に評定衆に代わる最高意思決定機関となった。
引付衆
幕府へ提訴された訴訟の審理を担当した。審理結果は評定衆へ上申され、評定衆が裁定した。
侍所
御家人の統率を所管した。
政所
頼朝の家政機関に端を発し、幕府の一般政務・財政を所管した。
問注所
幕府へ提訴される訴訟に関する実務を担当した。
守護
地頭
京都守護 → 六波羅探題
元は朝廷との連絡調整が任務だったが、承久の乱以後の六波羅探題は、朝廷の監視・西国御家人の統率が任務となった。
詳細は鎮西奉行、鎮西探題を参照。
奥州総奉行
蝦夷沙汰職・蝦夷代官
2022年出題
「貞永式目」「関東御式目」「式目」とも。1232年(貞永元)に制定された鎌倉幕府の基本法典。内容は守護・地頭のこと,所領支配の効力,訴訟手続,犯罪とその処罰,百姓や奴婢の支配など51カ条。現在知られるものは原形ではなく,現在の第35条までを51カ条に配列したものを原形とする説がある。必ずしも体系的・網羅的なものではなく,当初から補充が予定されていた。実際,その後随時立法され,それらは式目追加とよばれた。室町幕府も,式目追加として同じく随時立法している。式目制定の趣旨について,主導者であった執権北条泰時は,裁判の公平を期するため,あらかじめ裁判の基準を御家人たちに周知させる,その基準は武家社会の良識で,律令格式とは異なるところもあるが,律令格式を否定するのではなく,この法を武家社会にのみ適用させる,とのべる。その背景には,承久の乱(1221)以後,全国各地に進出した地頭御家人が,荘園領主など異質の世界の人々との接触で,種々のトラブルにまきこまれるようになったことがある。泰時にとっては,評定衆(1225設置)たちとの評定の場を拠点に動きはじめた執権政治を,より確かなものにする必要もあった。式目は守護を通じて各国内の地頭御家人に伝達され,それを通して広く社会に浸透した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
『御成敗式目』コトバンクより
平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合がある。
鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺をはじめ南都(奈良)の諸寺の再建がなされる一方、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教の新しい宗派である浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗の宗祖が活躍した。
この6宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は中国から新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず(ただし、禅宗は戒律を重視)、ただ、信仰によって在家(在俗生活)のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。
法然(源空)
1133年-1212年
難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺・造塔・造仏も必要ない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切だと説く。
京の公家、武士、庶民
1173年-1262年
師である法然の教えを継承、展開、深化させる。一念発起(一度信心をおこして念仏を唱えれば、ただちに往生が決定する)や悪人正機説を説く。
地方武士や農民、とくに下層民
(遊行宗)
一遍(智真)
1239年-1289年
賦算(念仏を記した札を配り、受けとった者を往生させる)→男女の区別や浄・不浄、信心の有無さえ問わず、万人は念仏を唱えれば救われると説く。
全国の武士・農民
(日蓮宗)
法華経こそが唯一の釈迦の教えであり、その他の経典は未完成もしくは誤りの法であるとして、題目(「南無妙法蓮華経」)唱和により救われると説く。辻説法で布教した。末法無戒を主張し、それを実践したため、日本仏教における破戒を助長した。
下級武士、商工業者
坐禅を組みながら、師の与える問題を1つ1つ解決しながら(公案問答)、悟りに到達すると説く。政治に通じ、幕府の保護と統制を受ける。
公家、京・鎌倉の上級武士、地方有力武士
ただひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)で悟りにいたることを主眼とし、世俗に交わらずに厳しい修行をおこない、政治権力に接近しないことを説く。
地方の中小武士・農民
鎌倉仏教wikipediaより一部引用
大山祇神社(おおやまづみ)(瀬戸内海の大三島にある神社)と一遍との組み合わせで2021年出題
浄土教の一宗派。遊行宗 (ゆぎょうしゅう) ともいう。開祖は一遍。神奈川県藤沢市の清浄光寺 (遊行寺) を総本山とする。時宗という宗名は,一説に『阿弥陀経』の「臨命終時」という経文に由来し,平生を臨終と心得て念仏するという宗意を表わしているとされる。この宗派の特色は,浄土三部経中特に『阿弥陀経』をおもな所依の経典とするほか『六時礼賛』『法華経』『華厳経』などの念仏を説いている経典をも所依の経典とすること,開祖にならって阿弥陀念仏を勧進するために全国を遊行すること,の2点にある。一遍上人の滅後,第2世他阿が宗規を完成し,第5世安国は清浄光寺を本山と定め,第7世託何は大いに宗義を顕揚した。第 12世尊観法親王を中興の祖とする。現在7派があるが,一宗のもとに統一されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[一遍]
鎌倉時代の時宗(じしゅう)の開祖。伊予国の豪族河野道広の子。諱(いみな)は智真(ちしん),遊行上人(ゆぎょうしょうにん)と称された。1271年信濃善光寺で阿弥陀信仰を感得,1274年より布教の生活に入った。勧進帳や念仏札を携え全国を遊行し,踊念仏を行った。教団を組織する意図がなかったが,室町期には大教団に発展し,大きな影響を及ぼした。諡(し)号は円照(えんしょう)大師。著書《一遍上人語録》《播州(ばんしゅう)法語集》。→一遍上人絵伝
→関連項目鎌倉仏教|河野氏|飾磨津|清浄光寺|浄土教|白河関|真光寺|念仏|仏教|法語|和讃
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伊予(愛媛県)の豪族河野(こうの)氏の出身。
以上、コトバンクより
2021年出題(立正安国論)
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。諡号(しごう)は立正大師。安房(あわ)小湊の漁師の子という。17歳ころから鎌倉・比叡山などで11年間修行研鑽(けんさん)し,《法華経》こそ至高の経典であるとの確信を得,1253年故郷の清澄(きよすみ)山頂で題目を高唱して開宗した。次いで,念仏・禅・真言・律を破す四箇格言をもって,鎌倉の辻で説法し,《立正安国論》を著して蒙古襲来を予言し北条時頼に献じたが,1261年その忌諱(きい)に触れ伊豆伊東に流された。1263年許されて鎌倉に帰ったが,再び国難を訴えて捕えられ,1271年竜ノ口で断罪されようとしたが,免れて佐渡へ流された。3年後,鎌倉に帰ったが,この年蒙古が襲来し,幕府は日蓮に意見を求めたが応ぜず,身延山に草庵を結んで宗風の高揚に努めた。のち病を得,武蔵池上にて没。著書はほかに《開目鈔》《撰時鈔》《報恩鈔》など。→熱原法難
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[日蓮]
参考:『日蓮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
蓮(にちれん、承久4年(1222年)2月16日[1][注釈 1] - 弘安5年(1282年)10月13日[注釈 2])は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。
概要
文応元年(1260年)7月16日に「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論において数多くの経典を引用し、法然らに帰依した日本から日本を守護する天照大神、八幡大菩薩等の諸天善神が去り、代わりに悪鬼が入り、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅亡すると予言した。天照大神、八幡大菩薩等は正法によってその威光勢力を増すとし、正法を建てるよう進言した。立正安国論の内容は、国内外の状況を鑑み、経典を根拠としたものと考えられる。(日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など日本の隣国を繰り返し侵略し、前年の正元元年(1259年)には高麗が降伏していた時期であり、日蓮も南宋出身の蘭渓道隆等の渡来僧と交流もあり、民間でも貿易船等の交流もあった。国内の内乱も多く発生していた。国内の宗教対立を扇動し武装を強化する過激な日蓮は、元寇に対処するために貴族、武士、僧、神社、庶民の一致団結を掲げる幕府に危険視された。
『難を忍び慈悲のすぐれたる事は をそれをも(恐れをも)いだきぬべし』(開目抄)『日蓮が慈悲広大ならば(中略)万年の外未来までもながるべし』(報恩抄)等、その教えは理屈よりも情を重んじる傾向が強い。他宗を激しく批判・否定し「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行い、良観(当時、数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった人物)により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」[注釈 4]の最高刑となる佐渡流罪となった。その直前に幕府は御成敗式目により自ら下した判決に反して、日蓮を龍の口で斬首しようとしたが、奇瑞が起きた為かなわなかった。文永八年九月、刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡には「光物とあらわれて竜の口の頸をたすけ」とその際の様子を振り返っている。(但し、御成敗式目に反してまで鎌倉幕府が日蓮を斬首をしようとしたエピソード、及び光り物により斬首を免れたとするエビソードについては、創作とする説があり、注意が必要である。)
文永8年(1271年)に佐渡へ流罪となった後、文永11年(1274年)に佐渡流罪を赦免され鎌倉に戻った折、幕府から寺社の寄進等帰依の申し出があった。
だが、それは元寇に対処するため他宗と肩を並べて敵国調伏の祈祷をしてほしいというものだった為、日蓮は「他宗への帰依を止めることが自身の教えである」とそれを一蹴し、山梨県の身延山に移った。
文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)の元寇により他国侵逼難の予言を的中させるが、日本側が勝利し真言亡国の予言が外れ、弘安5年(1282年)10月13日に胃腸系の病により入滅。滅後の延文3年(1358年)、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。(日蓮正宗富士大石寺では、日蓮を釈迦よりも根源的な本仏と位置付けており、日蓮宗とは全く異なる立場をとっている)大正11年(1922年)には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。
日蓮上人、日蓮聖人、日蓮大聖人等と敬称されるが、本項では敬称なしで表記する。
生涯
誕生
日蓮は、承久4年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生した[3]。片海の場所については諸説あるが、内浦湾東岸の地とされている。
両親について、父は貫名重忠、母は梅菊とする伝承がある。日蓮は自身の出自について「日蓮は、安房国・東条・片海の石中(いそなか)の賤民が子なり」、「海辺の旋陀羅が子なり」、「東条郷・片海の海人が子なり」と述べているので、漁業を生業とする家庭の出身と考えられる。ただし、両親は荘園を所有する領家の夫人から保護を受けており、日蓮自身、東条郷にある清澄寺で初等教育を受けているので、両親は最下層の漁民ではなく、漁民をまとめる荘官級の立場にあったと見られる[8]。
修学
日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった清澄寺に登った[注釈 5]。天台宗は智顗以来、妙法蓮華経を最も優れた経典とする五時八教の教相判釈を受け継いでいた。師匠となったのは道善房であり、先輩である浄顕房・義浄房から学問の手ほどきを受けた。幼名は善日麿、あるいは薬王麿と伝えられる。
清澄寺に登る前から学問を志していた日蓮は、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」という「願」を立てた。少年時代の日蓮は、自身の誕生の前年に起きた承久の乱で真言密教の祈禱を用いた朝廷方が鎌倉幕府方に敗れたのはなぜか、との問題意識をもっていた。また、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問もあった。清澄寺にはこれらの疑問に答えを示せる学匠がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた。
伝承によれば、日蓮は16歳の時、道善房を師匠として得度・出家し、是聖房蓮長と名乗った(日蓮が17歳の時に書写した「授決円多羅義集唐決上」に是聖房の直筆署名がある)。
宗教体験と遊学
得度した後、虚空蔵菩薩に真剣に祈り、主体的な思索を重ねた結果、日蓮はある日、各宗派や一切経の勝劣を知るという重要な宗教体験を得た。
次に日蓮は、この宗教体験を経典に照らして確認し、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学することになった。
遊学の中心は延暦寺で、比叡山の横川定光院に滞在したと伝えられる。比叡山での研鑽の結果、日蓮は「阿闍梨」の称号を得ている。比叡山で日蓮は、妙法蓮華経を中心とする文献的な学問と、いわゆる天台本覚思想を学んでいる。恵心流の碩学・俊範を比叡山における日蓮の師とする説もあるが、日蓮は俊範から学んだとは述べておらず、実際には俊範の講義に参加していた程度と考えられている。
遊学中に日蓮が書写した文献には「授決円多羅義集唐決上」[18]と「五輪九字明秘密釈」[19]がある。著作としては「戒体即身成仏義」など数編が伝えられるが、いずれも真筆はなく、偽書の疑いがある。十数年に及んだ遊学の結果、日蓮は、一切経の中で妙法蓮華経が最勝の経典であること、天台宗を除く諸宗が妙法蓮華経の最勝を否認する謗法(正法誹謗)を犯していること、時代が既に末法に入っていることを確認し、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始することになった。
立教開宗
遊学を終えた日蓮は建長4年(1252年)秋、あるいは翌年春、清澄寺に戻った。建長5年4月28日、師匠・道善房の持仏堂で遊学の成果を清澄寺の僧侶たちに示す場が設けられた。その席上、日蓮は念仏と禅宗が妙法蓮華経を誹謗する謗法を犯していると主張し、南無妙法蓮華経の題目を唱える唱題行を説いた。南無妙法蓮華経の言葉は日蓮の以前から存在し、南無妙法蓮華経と唱えることは天台宗の修行としても行われていた。その場合、南無妙法蓮華経の唱題は南無阿弥陀仏の称名念仏などと並行して行われた。しかし、日蓮は念仏などと並んで題目を唱えることを否定し、南無妙法蓮華経の唱題のみを行う「専修題目」を主張した。
日蓮が念仏と禅宗を破折したことは大きな波紋を広げた。念仏の信徒であった東条郷の地頭・東条景信が日蓮の言動に激しく反発して危害を及ぼす恐れが生じたため、日蓮は清澄寺にいることができなくなり、兄弟子である浄顕房・義浄房に導かれて清澄寺を退出した。
伝承によれば、立宗に当たって日蓮は、それまでの「是聖房蓮長」の戒名を改め、「日蓮」と名乗った。また立宗の後、両親を訪れ、妙法蓮華経の信仰に帰依せしめたと伝えられる。
鎌倉での活動
「立正安国論」
日蓮は建長5年(1253年)、鎌倉に移り、名越の松葉ヶ谷に草庵を構えて布教活動を開始した。この年の11月、後の六老僧の一人である弁阿闍梨日昭が日蓮の門下となったとされる[22]。鎌倉進出の時期については、建長6年または同8年とする説もある。
鎌倉進出当時、日蓮が辻説法によって布教したと伝承されるが、日蓮遺文には辻説法を行った事実の記述はない。この時期に、僧侶としては日昭・日朗・三位房・大進阿闍梨、在家信徒としては富木常忍・四条頼基(金吾)・池上宗仲・工藤吉隆らが日蓮の門下になったと伝えられる。
正嘉元年(1257年)8月、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊するなど、大きな被害が出た(正嘉地震)。日蓮は多くの死者を出した自然災害を重視し、災害の原因を仏法に照らして究明し、災難を止める方途を探ろうとした[26]。伝承によれば、正嘉2年(1258年)、日蓮は駿河国富士郡岩本にある天台宗寺院・実相寺に登り、同寺に所蔵されていた一切経を閲覧した[27]。この時期、日蓮が仏教の大綱を再確認した成果は、「一代聖教大意」「一念三千理事」「十如是事」「一念三千法門」「唱法華題目抄」「守護国家論」「災難対治抄」などの著作にまとめられた。
その上で日蓮は、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」を時の最高権力者にして鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出して国主諫暁を行った。この時の諌暁は、時頼の信頼厚い近臣である宿屋入道を介して行われた。「立正安国論」によれば、大規模な災害や飢饉が生じている原因は、法然(日本浄土宗の宗祖)の教えが流行し、為政者を含めて人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにあるとし、その故に国土を守る諸天善神が国を去ってその代わりに悪鬼が国に入っているために災難が生ずる(これを「神天上の法門」という)とする。そこで日蓮は、災難を止めるためには為政者が悪法への帰依を停止して正法に帰依することが必要であると主張する。さらに日蓮は、このまま悪法への帰依を続けたならば、自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により、日本が滅びると予言し、警告した。
「立正安国論」で日蓮は、とりわけ法然の専修念仏を批判の対象に取り上げる。それは、貴族階級から民衆レベルまで広がりつつあった専修念仏を抑止することが自身の仏法弘通にとって不可欠と判断されたためである。この時期に作成された「守護国家論」「念仏者追放宣旨事」などでも徹底した念仏批判が展開されている。
松葉ヶ谷の法難
しかし「立正安国論」による国家諫暁は鎌倉幕府から完全に無視された。その一方で日蓮の念仏破折は念仏勢力の激しい反発を招き、文応元年(1260年)8月27日の夜、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃された(松葉ヶ谷の法難)。この法難の背後には執権・北条長時とその父・北条重時(北条時頼の岳父)の意思があったと推定される。
日蓮は草庵襲撃の危難を免れたが、もはや鎌倉にいられる状況ではなくなった。そこで、下総国若宮(現在の千葉県市川市)の富木常忍の館に移り、布教活動を展開したとされる。この時期に下総国在住の大田乗明・曾谷教信・秋元太郎らが日蓮に帰依したと伝えられる。
伊豆流罪
弘長元年(1261年)5月12日、鎌倉に戻った日蓮は鎌倉幕府によって拘束され、伊豆国伊東に流罪となった。その際、俎岩まないたいわという岩礁に置き去りにされた、あるいは川奈の漁師・船守弥三郎の保護を受けたという伝説があるが、いずれも根拠のない伝承に過ぎない。「船守弥三郎許御書」は真筆が現存せず、偽書説が強く出されているので、根拠にはならない。
伊豆配流中、日蓮の監視に当たったのは伊東の地頭・伊東祐光であった。祐光は念仏者だったが、病を得た折、日蓮の祈念によって平癒したので、日蓮に帰依した。また、伊豆配流中、日蓮が岩本実相寺に滞在していた時に門下となった日興が伊豆に赴いて日蓮に供奉したとされる。
日蓮は伊豆配流中に「四恩抄」を著し、松葉ヶ谷法難・伊豆流罪などの法難が妙法蓮華経の行者であることの証明であると位置づけ、また『教機時国抄』を著していわゆる「宗教の五綱」の教判を明確にしている。
弘長3年(1263年)2月22日、日蓮は伊豆流罪を赦免された。その赦免は『聖人御難事』に「故最明寺殿の日蓮をゆるしし」とあることから、北条時頼の判断によるものと判断される。
小松原の法難
文永元年(1264年)の秋、日蓮は母の病が重篤であることを聞き、母の看病のため、故郷の安房国東条郷片海の故郷に帰った[35]。それを知った東条郷の地頭・東条景信は日蓮を襲撃する機会を狙った。同年11月11日の夕刻、天津に向かって移動していた日蓮と弟子の一行に対し、東条景信は弓矢や太刀で武装した数百人の手勢をもって襲撃した。日蓮は頭に傷を受け、左手を骨折するという重傷を負った。この法難で、鏡忍房と伝えられる弟子が討ち死にし、急を聞いて駆け付けた工藤吉隆も瀕死の重傷を負い、その傷が原因となって死去した。
11月14日、日蓮は見舞いに訪れた旧師・道善房と再会した。日蓮は道善房に対し、改めて念仏が地獄の因であると説き、妙法蓮華経に帰依するよう説いた[5]。その後、日蓮は文永4年(1267年)まで房総地域で布教し、母の死を見届けて、同年末には鎌倉に戻ったと推定される。
蒙古国書の到来
文永5年(1268年)1月16日、蒙古と高麗の国書が九州の大宰府に到着した。両国の国書は直ちに鎌倉に送られ、幕府はそれを朝廷に回送した。蒙古の国書は日本と通交関係を結ぶことを求めながら、軍事的侵攻もありうるとの威嚇の意も含めたものであった。日蓮は、蒙古国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止め、執権・北条時宗、侍所所司・平頼綱らの幕府要人のほか、極楽寺の良観(忍性)、建長寺の蘭渓道隆ら鎌倉仏教界の主要僧侶に対して書簡を発し、諸宗との公場対決を要求した(十一通御書)。十一通御書においては念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊という「四箇格言」を見ることができる。「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行った。
幕府は当初は他宗へ依頼したように蒙古調伏の祈祷を日蓮へ依頼したが、未曽有の国難に見舞われた日本の状況下で、過激な発言を繰り返す日蓮教団を危険集団と見なして教団に対する弾圧を検討した(「種種御振舞御書」)。
龍の口の法難
文永8年(1271年)6月、日蓮は、当時関東における真言律宗教団の中心人物で、非人の労働力を組織化することで道路や橋の建設、港湾の維持管理や様々な社会事業を行っていた良観(忍性)が、旱魃に際して幕府に祈雨の祈願を要請されたことを知り、「7日の間に雨が降るならば日蓮が良観の弟子となるが、降らないならば良観が妙法蓮華経に帰依せよ」と降雨祈願の勝負を申し出たが、良観はこれに応じなかった。
1271年9月10日、日蓮は幕府に召喚され、現代で言えば刑事裁判を管轄する侍所の次官である平左衛門尉頼綱の尋問を受けた[41]。『御成敗式目』の定めに従い、行敏の訴状に対する「陳状」(答弁書)を日蓮に求めると、日蓮は陳状を提出するが、「庵室に凶徒を集め弓箭(弓矢)・兵仗(武器)を貯えている」との行敏側の指摘は否定せず、日蓮らは、防衛体制強化を行う幕府に異を唱える悪党(反社会的行動をする集団)とされ、流罪の判決が下った。
この法難は鎌倉における日蓮教団の壊滅を意図する大規模な弾圧であり、元寇という未曽有の危機に見舞われ、国内で一致団結した防衛力強化が必要とされる中、過激な他宗批判を行い、国内の宗教対立を扇動する日蓮らの言動を危険視した幕府が、蒙古襲来の危機に対応するため幕府に異を唱える「悪党」を鎮圧する防衛体制強化の一環としてなされたと考えられている。
日蓮側の記述では、日延べしても一滴の雨も降らず、結果勝負は良観の惨敗に終わったこと、敗れた良観は、鎌倉浄土教勢力の中心人物である良忠や道教と共同して念仏僧・行敏の名を使って日蓮を告発したが、日蓮の反論に遭い、告発は成功しなかったこと、良観は次に蘭渓道隆らとともに北条時頼、北条重時の未亡人らにも働きかけ、御成敗式目第12条(悪口の咎)にあたる日蓮の処罰を訴えたこと[45]などが主張されており、良観の報復であるとする。
9月12日夕刻、頼綱は数百人の兵士を率いて日蓮の逮捕に向かった。その際、兵士らが松葉ヶ谷の草庵に経典類を撒き散らし、法華経の巻軸をもって日蓮を打擲するなどの暴行を働いたが、日蓮は頼綱に対して日蓮を迫害するならば内乱と外国からの侵略は不可避であると主張し、諫暁した[46]。頼綱は日蓮を馬に乗せて鎌倉中を引き回し、佐渡国守護である北条宣時の館に「預かり」とした。
頼綱は、同日夜半、日蓮を龍の口の刑場へと連行した。当時、裁判など規定の手続きを経ず斬首に処すというのは、御成敗式目にも反したものであった。種種御振舞御書によれば日蓮が斬首の場に臨み、刑が執行されようとする時、江の島の方角から強烈な光り物(発光物体)が現れ、太刀を取る武士の目がくらむほどの事態になって刑の執行は中止されたとある。
文永八年九月、日蓮とともに刑場に同行した四条金吾に宛てた書簡において『貴辺たつのくちまでつれさせ給ひ』『月天子は光物とあらはれて竜の口の頸をたすけ』『(法華経)安楽行品に云く、「刀杖も加へず」』『(同)普賢品に云はく「刀尋(つ)いで段々に壊(お)れなん」』等と、その際の様子を振り返っている。また、立正安国論を時頼に提出する際それを介した宿屋入道は、この龍の口の法難の後、日蓮に帰依している。宿屋入道は禅の篤信者で寺を寄進するほどだったが、日蓮の弟子になった後には自宅を寺としている。
文永八年、日蓮は弟子日朗に宛てた土籠御書において、法華経安楽行品第十四を引用し『天諸童子 以為給使 刀杖不可 毒不能害』(天の諸の童子、以て給使を為さん。刀杖も加えず、毒も害すること能わず)と自身の境涯を説いている。
日蓮は「開目抄」で「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸はねられぬ」と述べて、それまでの日蓮はひとまず終わったと述べている。また「三沢抄」では、自身が佐渡流罪以前に述べてきた教えは釈尊の爾前経のようなものであると説いている。日蓮は龍の口の法難以後、新たな境地に立って布教を開始した。佐渡に出発する前日(10月9日)には初めての文字曼荼羅本尊(「楊枝本尊」と称される)を図顕している。
日蓮は、相模国依智(現在の神奈川県厚木市依知)にある佐渡国守護代・本間重連の館に護送され、1か月ほどそこに留め置かれ、最終的に佐渡へ向かった。この法難で迫害を受けたのは日蓮一人ではなく、鎌倉の門下260余人がリストアップされ、逮捕・監禁、追放、所領没収などの処分を受けた。
佐渡流罪
「開目抄」
文永8年(1271年)10月10日に依智を出発した日蓮護送の一行は、10月28日、佐渡に到着し、11月1日、配所である塚原三昧堂に入った。日蓮には日興など数人の弟子が随行していた。塚原三昧堂は、名前の通り墓(塚)のある野原に建てられた粗末な小堂で、冬は雪が吹き込む建物であり、与えられた食糧も乏しく、極めて厳しい環境だった。
配所に到着した日蓮は、直ちに「開目抄」の執筆に着手、翌年2月に完成させた。執筆の背景には法難によって多くの門下が信心に疑問を持ち、退転していった状況があった。門下の疑問とは、法華経の行者には諸天の加護があるはずであるのに何故日蓮とその門下に加護がなく迫害を受けるのか、というものであった。日蓮は、今後の布教のためにもこの疑問に答える必要があった。
日蓮はこの疑問に答えるために、まず末法の衆生が帰依すべき主師親の当体を儒教(中国古代思想)、外道(インド古代思想)、内道(仏教)の検証を通して明らかにしようとする[注釈 18]。仏教とそれ以外の宗教の検討の後、さらに仏教内部の教について大乗教と小乗教、大乗の中でも妙法蓮華経とそれ以外の経、法華経の中でも前半(迹門)と後半(本門)、本門の中でも文上本門と文底本門との勝劣を論じ、結論として妙法蓮華経の文底本門の教である南無妙法蓮華経が末法に弘通すべき正法であることを明らかにしていく。
「開目抄」では、教の検証を通して諸宗が教の浅深勝劣を知らずに謗法を犯しており、日蓮こそが教の勝劣を正しく知る真の行者、すなわち末法における主師親の主体であることを明らかにしていく。「開目抄」に示された「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん等とちかいし願いやぶるべからず」との三大誓願は主(柱)・師(眼目)・親(大船)の表明と解される。その記述を通して先の疑問に対する答えが示される。すなわち行者に諸天善神の加護がない理由として、①経文や歴史上の先人の例に照らして行者が難を受けるのはむしろ当然である、②行者が難に遭うのは行者自身に謗法の罪があるからである、③迫害者に順次生に地獄に堕ちる重罪がある場合には現世に現罰は現れぬ④行者に諸天の加護がないのは諸天善神が謗法の国を去っているためである、という4点を示してその回答としている。
「開目抄」が完成した文永9年(1272年)2月、鎌倉と京都で幕府内部の戦闘が生じた(二月騒動)。幕府中枢が、北条一門の名越時章・教時兄弟と北条時宗の庶兄で六波羅探題南方の職にあった北条時輔を謀反の罪を着せて誅殺した粛清事件である。日蓮が「立正安国論」で予言した自界叛逆難が現実のものとなった。
「観心本尊抄」
文永9年(1272年)の初夏、日蓮の配所は塚原三昧堂から国中平野の西方に位置する一谷(いちのさわ)に移された。それまで日蓮を保護してきた守護代・本間重連が佐渡を離れたことに伴う処置であった。居住環境という点では改善されたが、念仏者らに命を狙われるという状況はまだ続いていた。この頃、門下の中に日蓮の赦免を幕府に嘆願しようとする動きがあったが、それを知った日蓮は赦免運動を厳しく禁じている。
文永10年(1273年)4月、日蓮は自身が図顕した文字曼荼羅本尊の意義を明かした「観心本尊抄」を著した。本抄では、曼荼羅本尊を受持して南無妙法蓮華経の唱題を行ずることが成仏への修行(観心)であることを示し、日蓮の仏教における実践を明らかにしている。
文永10年4月、富木常忍に宛てた観心本尊抄副状において『此の事日蓮当身の大事なり。(中略)未聞の事なれば人の耳目之を驚動すべきか。(中略)国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す』等とある。
「観心本尊抄」では、まず天台大師が『摩訶止観』で説いた一念三千の法理と草木成仏の義を確認し、紙や木の板に記される曼荼羅が仏の力用を持つ所以を示す。次いで、十界互具の法理について詳細に論じ、妙法が一切の仏を成仏させた能生の存在である故に、妙法を受持することによって仏が有する一切の功徳を譲り受けることができると説いている。後半では本尊について妙法蓮華経の前に書かれた爾前権教、法華経の迹門・文上本門・文底本門の段階を追って説かれる。経典を序分・正宗分・流通分にわける三分科経を五重にわたって論じ(五重三段)、文上本門が脱益の法門であるのに対し、題目の五字(南無妙法蓮華経)こそが末法に弘通する下種益の法門であることを明らかにしている。
「顕仏未来記」
文永10年(1273年)の『顕仏未来記』では、釈迦、智顗、最澄等の生きた時代に生まれなかったことを嘆きつつも、末法の自分は広宣流布・仏法西遷の使命があると決意している。
赦免
佐渡配流において日蓮は生命の危機に直面したが、その中でも多くの著作を残して自身の思想を展開していった。また「佐渡百幅」といわれるように、多くの曼荼羅本尊を図顕して門下に授与した。さらに、佐渡在住の人々から阿仏房日得や国府入道、中興入道など多くの門下が生まれている。
文永11年(1274年)2月、執権・北条時宗は日蓮の赦免を決定し、赦免状が3月8日に佐渡にもたらされた。佐渡配流が根拠のない讒言によるものであったことが判明し、また蒙古襲来の危機が切迫してきたためである。日蓮は3月13日に佐渡を発ち、3月26日に鎌倉に帰還した。佐渡の在島期間は2年5か月であった。
身延期の活動
身延入山
文永11年(1274年)4月8日、日蓮は幕府の要請を受けて平頼綱と会見した。頼綱は丁重な態度で蒙古襲来の時期について日蓮に尋ねた。日蓮は年内の襲来は必然であると答えた。頼綱は寺院を寄進することを条件に日蓮に蒙古調伏の祈禱を依頼したが、日蓮は諸宗への帰依を止めることが必要であるとしてその要請を拒絶したと伝えられる。日蓮は蒙古調伏の祈禱を真言師に命ずるべきではないと頼綱を諫めたが、頼綱はそれを用いなかった。
「立正安国論」提出時、文永8年の逮捕時、さらに今回と3回にわたる諫暁も幕府に受け入れられなかった日蓮は、これ以上幕府に働きかけるのは無意味と考え、鎌倉を退去することにした。そこで、日興の勧めに従い、5月17日、日興の折伏で日蓮門下になっていた南部実長(波木井実長)が地頭として治める甲斐国身延(現在の山梨県身延町)に入った。その間も日蓮は著述活動を持続し、身延到着後まもなく日蓮自身の法華経観をまとめ、三大秘法の名目を挙げた「法華取要抄」を完成させている。鎌倉退去の後も日蓮は幕府にとって警戒の対象になっており、対外的には「遁世」の形であったから[54]、身延入山後は門下以外の者と面会することを拒絶し、入滅の年に常陸の湯に向かう時まで身延から出ることはなかった。訪問客は多く来ていたが、わずらわしいと述べている。身延山中は大雪が降ることもあり、体調を崩しがちになる。
文永の役
文永11年(1274年)10月、3万数千人の蒙古・高麗軍が対馬と壱岐島に上陸、防備の武士を全滅させ、さらに博多湾に上陸した。日本の武士は蒙古軍の集団戦術や炸裂弾(てつはう)や短弓・毒矢などの武装に苦しめられ、戦闘は一週間ほどで終了したが、日本側は深刻な被害を受けた。日蓮は2年後の建治2年(1276年)に記した「一谷入道御書」で対馬・壱岐の戦況を記述している。
幕府は文永の役の後、再度の襲来に備えて戦時体制の強化を図り、防塁の建設や高麗出兵計画のため、東国から九州へ多数の人員を動員した。日蓮は故郷から離れて戦地に赴いた人々の心情を詳しく述べている。
「撰時抄」
日蓮は蒙古襲来を深く受け止め、その意味を思索した。その結論を記したのが文永の役の翌年建治元年(1275年)に著した「撰時抄」である。そこでは、蒙古襲来は日本国が妙法蓮華経の行者を迫害する故に諸天善神が日本国を罰した結果であるとし、妙法蓮華経に従わない鎌倉中の寺や鎌倉大仏を焼き払い、禅僧・念仏僧を由比ヶ浜でことごとく処刑せよと述べている。
また、妙法蓮華経に従わないばかりか真言僧が敵国降伏の祈祷をしているので日本の滅亡はやむなしという悲観的な様子もうかがえる。一方で日蓮は、蒙古襲来などの戦乱の危機は日本に妙法が流布する契機となると述べている。
「撰時抄」で日蓮は「時」を中心に仏教史を論じ、末法は釈尊の「白法」が隠没し、それに代わって南無妙法蓮華経の「大白法」が流布する時代であるとする[注釈 25]。すなわち日蓮の弘通する南無妙法蓮華経は従来の仏教を超越した教であることを明確にしている。
さらに「撰時抄」では仏教史の記述を通して念仏・禅・真言に対する破折がなされるだけでなく、それまで示されることのなかった台密破折が示されている。天台宗の密教化をおし進めた第3代天台座主の慈覚大師円仁を安然・源信と並べて「師子の身の中の三虫」と断ずる。東密(真言宗)だけでなく台密(天台宗)までも破折の対象にしているのが「撰時抄」の大きな特徴となっている。その上で、日蓮自身について「日本第一の行者」「日本第一の大人」「一閻浮提第一の智人」との自己規定が見られる。
「報恩抄」
建治2年(1276年)6月、日蓮は自身の剃髪の師である道善房が死去したとの知らせに接し、道善房の恩に報ずるため、翌月「報恩抄」を完成させ、清澄寺時代の兄弟子である浄顕房・義浄房に宛てて同抄を送った。「報恩抄」の内容は、①報恩の倫理を示す、②真言密教の破折を軸に正像末の仏教史を概観する、③三大秘法の法理を示す、の3点に要約される。
本抄の冒頭では「夫れ老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほう(報)ず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや」と報恩こそが倫理の根本であることを示し、末尾では「日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」として日蓮が南無妙法蓮華経を弘通した功徳が故道善房に帰していくと述べられている。日蓮の実践が全て師・道善房への報恩・回向になっているとの趣旨である。
②の真言密教破折については、「撰時抄」では触れられなかった第5代天台座主・智証大師円珍に対する破折や弘法大師空海の霊験の欺瞞性を暴露するなど、「撰時抄」よりもさらに踏み込んだ内容が見られ、日蓮による密教破折の集大成ともいうべきものになっている。
本門の本尊・戒壇・題目という「三大秘法」の名目は身延入山直後に書かれた「法華取要抄」で示されていたが、「報恩抄」は三大秘法の内容を初めて説示した著述として重要な意義を持つ(ただし、本門の戒壇については名目を挙げるにとどめられている。戒壇の意義が説かれるのは弘安5年(1282年)の「三大秘法抄」まで待たねばならない)。
本門の本尊について「報恩抄」では「一には日本・乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」と説かれる。この文の解釈は各宗派で異なる。たとえば、日蓮宗ではこの文の「本門の教主釈尊」を文上寿量品に説かれる久遠実成の釈迦仏とするのに対し[58]、日蓮正宗では釈迦仏を正法・像法時代の教主とする立場からこの「本門の教主釈尊」を本因妙の教主釈尊すなわち日蓮自身であるとする。
本門の題目については「三には日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり」と説かれる。
身延において日蓮は膨大な書簡や法門書を執筆し、多くの文字曼荼羅本尊を図顕して門下を教導した(現存する日蓮真筆の曼荼羅本尊は120余幅を数える)。時には百人を超える門下が参集して妙法蓮華経の講義を受けている。日蓮の妙法蓮華経講義を、後に日興門流がまとめたのが「御義口伝」、日向門流がまとめたのが「御講聞書」とされている)。
熱原法難
日蓮の身延入山後、弟子の日興を中心に富士方面で活発な弘教が展開された結果、日興が供僧をしていた四十九院や岩本実相寺、龍泉寺などの天台宗寺院で住僧や近隣の農民らが改宗して日蓮門下となる状況が生まれていた。その動きに対して各寺院の住職らは反発して日蓮門下となった住僧らを追放するなど対抗したため、日蓮門下と天台宗側との抗争が生じた。天台宗側は北条得宗家と結びついており、幕府権力を後ろ盾として日蓮門下に圧力を加えた。
抗争が頂点に達したのは弘安2年(1279年)9月21日である。熱原龍泉寺の院主代・行智は、稲刈りに多数の農民信徒が集まっていた機会をとらえ、武装した武士の騎馬集団を用いて20人の農民信徒を捕えた。信徒は鎌倉に連行され、北条得宗家の家政をつかさどる内管領(ないかんれい)を兼務していた平頼綱の取り調べを受けた。
日蓮はこの事件を日蓮門下全体にわたる重大事件ととらえ、鎌倉の中心的信徒である四条金吾に書簡を送り、拘束されている農民信徒を励ましていくよう指示している。日蓮は農民信徒が厳しい取り調べにも屈することなく信仰を貫いている事実を知り、自身の生涯の目的(「出世の本懐」)を遂げたと述べている。なお、行智側から農民信徒を告発する訴状が出されたので、日蓮はそれに対する陳状(答弁書)の文案を作成して法廷闘争に備えた。同申状で日蓮は自身について「法主聖人」と述べている。
捕えられた20人の信徒が一人も妙法蓮華経の信仰を捨てなかったため、平頼綱は尋問を打ち切り、10月15日、3名を斬首、余を禁獄処分とした。迫害はその後も続いたが、日蓮は龍泉寺の住僧だった門下を下総の富木常忍の館に避難させるなど、事態の収拾に努めている。
なお、日蓮正宗では「出世の本懐」について、熱原法難を受けて弘安2年10月12日に図顕した本門戒壇の本尊(大石寺所蔵)を指すとするが、日蓮宗等の他の宗派ではこの解釈を認めておらず、板本尊自体も後世の作としている(同本尊は日蓮が孫弟子・日禅に授与した本尊を模刻して後世に作成されたものとの説が出されている)。
弘安の役
蒙古(元)は弘安2年(1279年)3月に南宋を滅ぼすと、旧南宋の兵士を動員して日本に対する再度の遠征を計画した。高麗から出発する元・高麗の東路軍4万人と江南から出発する旧南宋の兵士10万人の江南軍に分け、合流して日本上陸を目指すという計画だった。弘安4年5月、東路軍が高麗の合浦(がっぽ)を出発、対馬・壱岐に上陸して住民を殺害した後、6月6日、江南軍との合流を待たず、東路軍だけで博多湾に到着し、上陸作戦を開始した。東路軍と江南軍は、7月初旬、平戸島付近でようやく合流したが、閏7月1日、大型台風の直撃を受け、壊滅的な被害を出した。元・高麗軍は戦意を失い、高麗と江南に退却していった。
弘安の役に際し戦地に動員されることになっていた在家門下・曾谷教信に対し、日蓮は「感涙押え難し。何れの代にか対面を遂げんや。ただ一心に霊山浄土を期せらる可きか。たとい身は此の難に値うとも心は仏心に同じ。今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」[65]と、教信の苦衷を汲み取りながら後生の成仏は間違いないと励ましている。
弘安の役は、前回の文永の役とともに、日蓮による他国侵逼難の予言の正しさを証明する機会だったが、一方で承久の乱の再来とはならず真言僧の祈祷で勝利した。『富城入道殿御返事』では、予想外の事態に困惑している様子がうかがえる。日蓮は門下に対して蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた。再度の蒙古襲来とその失敗を知った日蓮は、台風がもたらした一時的な僥倖に浮かれる世間の傾向に反し、蒙古襲来の危機は今後も続いているとの危機意識を強く持っていた。日蓮系各派では元寇襲来的中は度々言及されるが、日本の敗北を予言していた点に言及されることはあまりない。そのため、元寇後の鎌倉幕府の滅亡に比定する解釈がされることがある。
文永六年の立正安国論奥書には蒙古襲来について「西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由牒状之を渡す。(中略)之に準じて之を思ふに未来もまた然るべきか。(中略)是偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の感応の致す所か」とある。
朝廷への諫暁
弘安4年、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状(「園城寺申状」)を作成、日興を代理として朝廷に申状を提出させた。後宇多天皇はその申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。
この年、日蓮の庵室が老朽化して手狭になったため、10間四面の規模を持つ大坊が建設された。その建設は地頭・波木井実長の一族が中心となり、富木常忍ら他の門下の協力のもとに行われた。
入滅
日蓮は、建治3年(1277年)の暮れに胃腸系の病を発し、医師でもある四条金吾の治療を受けていたが、一時的には回復しても病状は次第に進行していった。弘安4年(1281年)5月には日蓮自身、自己の死が迫っていることを自覚するまでになった。同年12月には門下への書簡の執筆も困難になっている。
日蓮の病状は弘安5年(1282年)の秋にはさらに進み、寒冷な身延の地で年を超えることは不可能と見られる状況になっていた。そこで門下が協議し、冬を迎える前に温泉での療養を行うことになった。その温泉は「波木井殿御報」に「ひたちのゆ」とあるので常陸国の温泉と考えられる。それがどこの温泉か諸説あるが、今日では波木井実長の次男・実氏の領地にあった加倉井の湯(茨城県水戸市加倉井町)と推定されている。
日蓮は、9月8日、波木井実長の子弟や門下とともに、実長から贈られた馬で身延を出発した。富士山の北麓を回り、箱根を経て18日に武蔵国荏原郡にある池上兄弟の館に到着したが、衰弱が進んでそれ以上の旅は不可能となった。日蓮は到着の翌日、日興に口述筆記させて波木井実長宛ての書簡を記した[71]。その中で日蓮は、実長に対して謝意を表するとともに自身の墓を身延に設けるよう要請している。
日蓮が池上邸に滞在していることを知って、鎌倉の四条金吾、大学三郎、富士の南条時光、下総の富木常忍、大田乗明など主要な門下が参集してきた。9月25日、門下を前に日蓮は「立正安国論」の講義を行った[72]。これが日蓮の最後の説法となった。10月8日には日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の6人を本弟子(六老僧)と定めた。
なお、日興門流では日蓮の入滅前に日興に対して付嘱がなされたとして「日蓮一期弘法付属書」と「身延山付属書」があったと主張するが、他門流はそれを認めていない。 日興門流(富士門流)では、日蓮を釈迦仏よりも根源的な本仏と位置づけ、『富士の立義聊かも先師の御弘通に違せざる事』『未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事』(日興遺誡置文)、『日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は(中略)本門寺に懸け奉るべし』(日興跡条々事)等、広宣流布および本門寺建立を目的としている。
日蓮は、弘安5年(1282年)10月13日、多くの門下に見守られて池上兄弟の館で入滅した[74]。入滅に先立って日蓮は、自身が所持してきた釈迦仏の立像と注妙法蓮華経を墓所の傍らに置くことと本弟子6人が墓所の香華当番に当たるべきことを遺言している。
中国の北魏時代に慧遠が説き、唐代の善導が提唱した。阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く大乗仏教の一派。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
阿弥陀信仰
「阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、「浄土信仰」とも言われる。
日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つ。
西方信仰
他力(他力本願)
関連経典
日本の浄土教では、『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)を、「浄土三部経」と総称する。
また、その他の経典では、法華経第二十三の『薬王菩薩本事品』に、この経典(薬王菩薩本事品)をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろう、とも書かれている。
浄土教wikipediaより引用
参考:『臨済宗』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97-150337#
臨済宗(読み)リンザイシュウ
デジタル大辞泉 「臨済宗」の意味・読み・例文・類語
りんざい‐しゅう【臨済宗】
禅宗の一派。唐の臨済義玄を開祖とし、のち黄竜派と楊岐派が立ち隆盛に導いた。日本には栄西が黄竜派の法を受けて建久2年(1191)に帰国、初めて伝えた。参禅問答による自己究明を宗風とする。現在は、天竜寺派・相国寺(しょうこくじ)派・建仁寺派・南禅寺派・妙心寺派・建長寺派・東福寺派・大徳寺派・円覚寺派・永源寺派・方広寺派・国泰寺派・仏通寺派・向嶽寺派の14寺派、および相国寺派から分かれた興聖寺派がある。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考:『栄西(えいさい)』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%A0%84%E8%A5%BF-35875
えいさい【栄西】
[1141~1215]平安末・鎌倉初期の僧。備中の人。字は明庵。日本臨済宗の祖。はじめ比叡山で天台密教を学んだ。二度宋そうに渡って禅を学び、帰国後、博多に聖福寺、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を建立。また、宋から茶の種を持ち帰り、栽培法を広めた。著「興禅護国論」「喫茶養生記」など。千光国師。葉上房。ようさい。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考:『明庵栄西』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E5%BA%B5%E6%A0%84%E8%A5%BF-1114008
明庵栄西 みょうあん-えいさい
1141-1215 平安後期-鎌倉時代の僧。
保延(ほうえん)7年4月20日生まれ。比叡(ひえい)山で顕密をまなび,仁安(にんあん)3年(1168)から2度宋(そう)(中国)にわたり,虚庵懐敞(こあん-えしょう)の法をつぐ。日本に臨済(りんざい)禅をつたえ,博多聖福寺,鎌倉寿福寺,京都建仁(けんにん)寺をひらいた。台密葉上(ようじょう)流の祖。茶種を移入して茶祖ともされる。建保(けんぽ)3年6/7月5日死去。75歳。備中(びっちゅう)(岡山県)出身。俗姓は賀陽(かや)。別称は葉上房,千光(せんこう)祖師。栄西は「ようさい」ともよむ。著作に「興禅護国論」「喫茶養生記」など。
【格言など】もろこしの梢もさびし日の本のははその紅葉散りやしぬらん(「続古今和歌集」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus
参考:『*えいさい【栄西】』キッズネット GAKKEN x 朝日新聞 https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary01400025/
(1141〜1215)鎌倉時代初期の僧そうで,臨済宗の開祖。「ようさい」とも読む。備中国(岡山おかやま県)の生まれ。14歳さいで延暦寺に入って天台宗を学んだが,満足できず,2度宋(中国)に渡って禅宗を学び,臨済宗をつたえた。はじめ天台宗に圧迫あっぱくされたが,『興禅護国論』を書いて禅をさかんにすることが国家を護ると説いて,保護を受けるようになった。鎌倉幕府に支持され,鎌倉に寿福寺,京都に建仁寺をたてて布教につとめ,また,中国から茶の種をもたらし,これを栽培させ,『喫茶養生記』を書いて茶を飲む風習をつたえた。
参考:『Vol.01 栄西「広く衆生を度して、一身のために一人解脱を求めざるべし」』公益財団法人 文京伝道協会 https://www.bdk.or.jp/read/zenpriest/yousai.html
臨済宗を伝える。茶祖。 「広く衆生を度して、一身のために一人解脱を求めざるべし」『興禅護国論』
ただし、権力と結びつき、自らの地位も求めたことから、現在の臨済宗では教科書とは異なり、宗祖と認めてはおらず、茶祖と規定。
参考:『第17回 栄西と茶 茶文化の形成に貢献した名僧』日本の食文化と偉人たち キリンホールディングス https://wb.kirinholdings.com/about/activity/foodculture/17.html
喫茶の法。喫茶養生記。茶の種と同時に抹茶法を持ち帰り広める(最澄も茶の実を持ち帰ったが、唐との交流が絶えて喫茶もすたれた)。実朝に良薬として茶を勧める(吾妻鏡)。
参考:『明菴栄西』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E8%8F%B4%E6%A0%84%E8%A5%BF
明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日(1215年8月1日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の宗祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。
経歴
『元亨釈書』によれば、永治元年(1141年)4月20日[注釈 1]、吉備津神社の権禰宜・賀陽貞政の曾孫として生まれたと伝わる(実父は諸説あり不明)。生地は備中国賀陽郡宮内村[注釈 4]とされるが、他説として同郡上竹村[注釈 5]もある。
『紀氏系図』(『続群書類従』本)には異説として紀季重の子で重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや、重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。
久安4年(1148年)、8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。仁平元年(1151年)、備中の安養寺の静心に師事する。
久寿元年(1154年)、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。
保元2年(1157年)、静心が遷化して、遺言により法兄の千命に従う。翌年の保元3年(1158年)には千命より虚空蔵求聞持法を受ける。
平治元年(1159年)、19歳の時に比叡山の有弁に従って天台宗を学ぶ。
仁安2年(1167年)、伯耆(鳥取県)大山寺基好より両部(金剛界・胎蔵界)灌頂を受ける。
仁安3年(1168年)4月、形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、平家の庇護と期待を得て南宋に留学。天台山万年寺などを訪れ、9月に『天台章疎』60巻をもって、重源らと帰国した。当時、南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の精神の立て直しに活用すべく、禅を用いることを決意し学ぶこととなった。
これは後に著された栄西の主著である『興禅護国論』に禅のことが書かれていることより推察されることである。しかし実際には、第一回の入宋時は栄西が最も熱心に天台密教の著作に没頭した時期であり、禅に対してどの程度関心を持っていたかは明らかでないという推察もある。
嘉応1年(1169年)ごろ、備前金山寺を復興し、菓上流の灌頂を行う。安元元年(1175年)、誓願寺落慶供養の阿闇梨となる。また『誓願寺建立縁起』を起草。文治3年(1187年)、再び入宋。仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。 文治5年(1189年)、虚庵懐敞に随って天童山景徳寺に移る。そして虚庵懐敞より菩薩戒を受ける。
建久2年(1191年)、虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、「明菴」の号を授かる。同年、帰国。九州の福慧光寺、千光寺などで布教を開始。また、帰国の際に宋で入手した茶の種を持ち帰って肥前霊仙寺にて栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作ったと伝えられる。
建久5年(1194年)、禅寺感応寺 (出水市)を建立。大日房能忍の禅宗も盛んになるにつれ、延暦寺や興福寺からの排斥を受け、能忍と栄西に禅宗停止が宣下される。建久6年(1195年) 博多に聖福寺を建立し、日本最初の禅道場とする。同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。
建久9年(1198年)、『興禅護国論』執筆。禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
正治2年(1200年)、頼朝一周忌の導師を務める。北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。
建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努めた。
元久元年(1204年)、『日本仏法中興願文』を著す。
建永元年(1206年)、重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。
承元3年(1209年)、京都の法勝寺九重塔再建を命じられる。承元5年(1211年)、『喫茶養生記』を著す。
建暦2年(1212年)、法印に叙任。
建保元年(1213年)、権僧正に栄進。頼家の子の栄実が、栄西のもとで出家する。
建保3年(1215年)、享年75(満74歳没)で入滅。かつては、入滅日(6月5日・7月5日)と入滅地(鎌倉・京都)に異説があったが、『大乗院具注歴日記』の裏書きによって、7月5日京都建仁寺で入滅したことが確定している。
他者からの栄西観
日本曹洞宗の宗祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になるが、栄西を非常に尊敬し、説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回だが紹介している。なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題について、最新の研究では会っていたとする説が有力である。
鎌倉時代初期,東大寺の再建にあたり,僧重源 (ちょうげん) が輸入した宋の建築様式。以前は天竺様とも呼ばれた。禅宗様建築が北宋系なのに対し,これは浙江,江蘇省あたりで行われていたものが基本になっている。東大寺大仏殿 (鎌倉,江戸時代に再建) ,東福寺大仏殿,方広寺大仏殿 (京都) などに用いられたのでこの名がある。貫 (ぬき) や太い虹梁を多用した豪放な構架法にその特色があり,挿肘木,皿斗付の斗,大仏様木鼻 (きばな) などの細部も和様,禅宗様にみられないものである。浄土寺浄土堂 (兵庫) ,東大寺南大門が代表的遺構。禅宗様や和様のような複雑な造作がない架構の力強さと経済性はあったが,おそらくは装飾的なふくらみに欠けるのが短所となって,あまり広まらずに終った。ただ,手法そのものはさまざまな形で部分的に吸収され残存した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
一部は禅宗様の特徴にも通じる。
野屋根がなく化粧垂木勾配が屋根勾配となる
天井もない化粧屋根裏で垂木など屋根裏が見える
屋根は本瓦葺
角地垂木で一軒(ひとのき)
四隅だけを放射状にする隅扇垂木
貫(ぬき)を使い構造を強化
柱に肘木を挿し込む挿肘木
木鼻(貫の先端)には繰り型といわれる装飾を付けている
組物と組物の間に置く遊離尾垂木
扉は四周の框と縦横の数本の桟を組み、桟と框の間に入子板を嵌め込んだ桟唐戸。扉の軸を大仏様藁座が受ける
柱は上辺3分の1から上へ少しずつ細くなっている粽
窓は開口部に棒状の木などを縦または横に並べた連子窓
床は板敷の場合縁を張り、土間床の場合縁は設けない。縁は敷居と平行に板をはる榑縁(くれえん)
木部は丹塗、壁は土壁と板壁があり共に白塗
1221年(承久3)5・6月,後鳥羽上皇とその近臣が,鎌倉幕府打倒に挙兵した事件。
院の直轄軍である西面の武士を新たに設置するなど朝廷の政治力の回復をはかっていた上皇は,3代将軍源実朝の後継として皇族下向を求める幕府の要請を保留,逆に摂津国長江・倉橋両荘の地頭職改補を要求したが,幕府の拒絶にあって交渉は決裂した。
幕府との対立を深めた上皇は,5月14日,14カ国の軍兵を召集,翌15日には北条義時追討の宣旨(せんじ)・院宣を発し,京都守護伊賀光季を攻撃,親幕府派の西園寺公経(きんつね)を幽閉。5月19日,報をうけた幕府は,北条政子の説得と大江広元の建策により,ただちに京都攻撃の軍を発し,6月5・6日,朝廷側主力軍を破り,15日には京都を占領。上皇はすぐに義時追討の宣旨・院宣をとりけし,乱の首謀者は近臣であるとした。
幕府は,後鳥羽上皇,その子土御門(つちみかど)・順徳両上皇,六条・冷泉(れいぜい)両宮を配流,後鳥羽上皇の兄行助(ぎょうじょ)入道親王を後高倉院とし,その子茂仁(後堀河天皇)を皇位につけ,後高倉院の院政とするなど朝廷改革を行う一方,乱の加担者を処罰し,所領を没収,恩賞として東国の御家人に与え,西国支配を強化した。また幕府軍の総指揮官として上洛した北条泰時・同時房は,六波羅探題として京都にとどまり,戦後処理と朝廷の監視,京周辺の警固などにあたった。この乱によって幕府の朝廷に対する優位が確立した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版
徳宗とも。鎌倉幕府の執権北条氏の家督。「梅松論」に「家督を徳崇(宗)と号す」とあり,時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代をさす。北条義時の法名徳崇に由来するといわれる。実際に得宗を称したのは時宗の頃からで,それ以前の代々の家督も得宗とよぶようになった。義時の頃から家政機関が整えられ,政治力と経済力で他の一門を圧倒するようになり,得宗家の基盤が作られた。時頼が執権を一門の長時に譲ったのちも政務を執ったのは,彼が得宗の地位にあったことによる。この頃から評定衆の会議より,寄合(よりあい)といわれた得宗亭内での内談が重視され,専制化が図られた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
蒙古襲来・モンゴル襲来とも。蒙古(元)・高麗軍の日本侵攻。元は高麗征服後,1268年(文永5)日本に服属を要求したが,鎌倉幕府はこれを拒絶。元は高麗軍を加えた大軍を,74年と81年(弘安4)の2度,九州北部に派遣したが失敗。これらは文永の役・弘安の役とよばれる。第3次計画は未遂に終わった。これを契機に北条氏得宗家への権限集中が進み,幕府倒壊の要因をうんだ。同時に神国思想が広まり,以後の日本人の対外観念を大きく規定した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
1297年(永仁5)3月に鎌倉幕府が制定し,関東御徳政といわれた3カ条の法令。内容は次のとおり。
(1)越訴(おっそ)の停止。
(2)御家人所領の売買・質入れの禁止。これまでの売却・質流れ所領は,無償で取り戻すことができる。ただし,買得安堵状を下付されたものと20年を経過した所領は取り戻せない。非御家人や侍身分以下の者の買得地には,この但書条項を適用しない。
(3)債務の不履行など債権債務に関する訴訟はいっさいうけつけない。質物を入れることは禁止しない。
以上の立法の背景には,貨幣経済にまきこまれて窮乏し,所領を手離す御家人の激増がある。翌年には97年以前の売却・質流れ所領の無償取戻し令は存続させたうえで売買・質入れ禁止令を撤廃,債権債務訴訟が再開されていることも,御家人の窮乏の深刻さを示す。同時に越訴も復活したが,その背景には専制化する北条氏得宗家の権力と御家人勢力の対抗関係があったらしい。徳政令ははじめてではなかったが,社会の反応はすばやかった。徳政による取戻しを避けるため,売券と同時に譲状が作られるようになる。また取戻し令(徳政令)が出ても,この売買には適用されないという文言(徳政担保文言)を売券に記すことも多くなった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
みうちびと。中世,主として武家では代々奉仕する家臣を御内,もしくは御内人といった。鎌倉中・後期には,もっぱら幕府執権北条氏の家督(得宗(とくそう))に仕える被官・家人(けにん)をさした。得宗御内・得宗被官ともいい,一般の御家人は外様(とざま)とよばれる。御内人は将軍からいえば陪臣だが,得宗の権力強化とともに勢力をのばし,鎌倉後期には幕府政治も左右した。得宗家の家政機関である公文所(くもんじょ)に出仕し,また全国各地の得宗領に派遣されて管理にあたった。その筆頭者は内管領(ないかんれい)とよばれる。執権が侍所別当を兼ねて以来,御内人はその実質的長官である所司となり,さらに幕府の実質的な最高意思決定会議である寄合(よりあい)にも参加した。霜月騒動(1285)で安達泰盛を滅ぼした平頼綱,幕府最末期に権勢をふるった長崎高資(たかすけ)などが著名。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
鎌倉時代後半,後嵯峨天皇の嫡子後深草天皇の子孫 (→持明院統 ) と次子亀山天皇の子孫 (→大覚寺統 ) の2系統が並び立ち,交互に皇位についたこと。後嵯峨,後深草のあと,亀山とその子後宇多が相次いで皇位についた。次いで後深草の子伏見とさらにその子後伏見が立って持明院統が2代続いたあと,幕府の斡旋によって大覚寺統の後二条が即位した。両統は皇位をめぐって抗争し,承久の乱以後皇位に関して重大な影響力を有した幕府に盛んに働きかけた。幕府は後二条の皇太子決定に際して両統が交互に天皇を立てること (両統迭立) を適正とした。その後も両統の抗争は激化したので,幕府はこの問題に関与して決定に苦しむ事態を避けるために不介入の方針を定め,文保1 (1317) 年皇位の問題は両統の協議によるべきことを申出た (文保の和談) 。しかし両統間の協議は困難でこのあとも幕府が介入せざるをえなかった。また延元1=建武3 (36) 年以降大覚寺統の南朝と持明院統の北朝とが並存し (南北朝時代) ,元中9=明徳3 (92) 年両朝の和議が成ったとき,皇位継承は両統迭立を条件としたが,室町幕府によりこの条件は実行されず,持明院統一統の世となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『両統鉄率』
[大覚寺統]
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位の継承権と所領の相続をめぐって争った2つの皇統の一つ。亀山,後宇多天皇の流れで,後深草,伏見天皇の持明院統と対抗。後宇多天皇が上皇となってから京都の北西郊の大覚寺に住んだのでこの名がある。鎌倉幕府は両統を交互に皇位につけるようはからったが,大覚寺統の後醍醐天皇の建武中興が失敗し,足利尊氏が持明院統の皇族をいただいて京都に君臨してからは,大覚寺統は南朝として大和の吉野山にこもった。元中9=明徳3 (1392) 年両統の合体後,南朝方のものは,合体条件が履行されていないとして再びこの皇統の皇族を奉じてしばしば乱を起したが,その都度,室町幕府により鎮定された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[持明院統]
後深草天皇系の皇統。鎌倉時代,後嵯峨天皇は寛元4 (1246) 年,第1皇子久仁親王に譲位して後深草天皇としたが,皇太弟の恒仁親王を寵愛して,正元1 (59) 年これに皇位を譲らせて亀山天皇とし,その皇子世仁親王を皇太子とした。文永 11 (74) 年,世仁親王が即位して後宇多天皇となり,亀山上皇が院政を行うことになったため,これに不満をいだく後深草上皇側は持明院を御所としたことから持明院統と称され (→持明院家 ) ,亀山上皇の皇統の大覚寺統と対立し,鎌倉,南北朝時代を通して皇位継承をめぐって争った。そこで幕府の両統迭立の方針によって両統から交代に皇位につくことが決められた。しかし持明院統の経済的基盤である長講堂領の伝領問題もからんで両統の対立は激化していった。持明院統は鎌倉幕府とも協調的であり,南北朝時代に入っても足利尊氏の支持によって北朝の皇位を継承した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
鎌倉中期に分裂対立した二皇統の一つ。持明院は藤原基頼(もとより)が邸内に建てた持仏堂の名で、今日の京都市上京区上立売(かみだちうり)北新町のあたりにあたる。基頼の子通基(みちもと)が持明院家を称したが、その孫女(むすめ)、後高倉院(ごたかくらいん)妃がここに住んだ縁から、後高倉院がここで院政をとり、以来後深草(ごふかくさ)、伏見(ふしみ)、後伏見(ごふしみ)院も譲位後ここに住した。後深草、亀山(かめやま)天皇の間に皇位をめぐって対立を生じ、子孫の間に引き継がれ、皇統が二分したので、史家は前者の皇統を持明院統とよんで、後者の大覚寺(だいかくじ)統と区別している。両統ともに鎌倉幕府や西園寺(さいおんじ)家の支持を得て有利な立場を得ようと競ったが、持明院統は大覚寺統よりも幕府に親しむ傾向が強かった。この争いは後の南北朝分立の因となったが、持明院統はやがて北朝として室町幕府に推戴(すいたい)された。
[多賀宗隼]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ
[後嵯峨天皇~後亀山天皇→後村上天皇まで]
88後嵯峨天皇→89後深草天皇(長男)持明院統→90亀山天皇(次男)大覚寺統→91後宇多天皇(大覚寺統)→92伏見天皇持明院統→93後伏見天皇(伏見天皇皇子)持明院統→94後二条天皇大覚寺統→95花園天皇持明院統→95後醍醐天皇大覚寺統→97後村上天皇大覚寺統(後醍醐天皇皇子)
[南朝] 大覚寺統
(後村上天皇)→98長慶天皇→99後亀山天皇
[北朝] 持明院統
北1光厳天皇→北2光明天皇→北3崇光天皇→北4後光厳天皇→北5後円融天皇→100後小松天皇
ブリタニカ国際大百科事典の記述によれば、ご嵯峨天皇が次男を寵愛するばかりに
元亨4 (1324) 年,後醍醐天皇が鎌倉幕府討滅を企て,事前に発覚して失敗した事件。即位以来,天皇親政を志していた天皇は,日野資朝,同俊基,土岐頼兼らと討幕計画を練ったが,計画が事前に発覚し,元亨4年9月 19日六波羅探題は兵をつかわして,土岐頼兼,多治見国長らを京都で殺害し,資朝,俊基を捕えた。幕府から工藤高景らが派遣され,10月4日資朝,俊基を鎌倉へ護送した。天皇は幕府に釈明して事なきを得たが,翌正中2 (25) 年8月,資朝は事件の首謀者として佐渡へ配流され,俊基は許されて京都へ帰った。この討幕計画は不発に終ったが,やがて元弘の乱が起ることになる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
元弘1=元徳3 (1331) 年後醍醐天皇が計画した鎌倉幕府討滅クーデター。正中の変 (1324) に失敗した天皇は,再び討幕を企てた。この計画は事前に六波羅探題の察知するところとなり,参画者日野俊基,僧円観らは捕えられ,天皇は元弘1=元徳3年8月笠置山に逃れ籠城したが,翌年六波羅に遷され隠岐に流された。幕府はこの年の4月 27日,正慶と改元し,光厳天皇を擁立した。後醍醐天皇の挙兵に応じた楠木正成らは,赤坂城によって幕府軍と戦い,落城すると千早城に籠城して幕府の大軍を悩ました。元弘3=正慶2 (33) 年,後醍醐天皇が隠岐を脱出すると,足利尊氏,新田義貞らも挙兵して,鎌倉幕府は滅びるにいたった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
東勝寺合戦(とうしょうじがっせん)は、鎌倉時代末期の1333年(元弘3年、正慶2年)に相模国鎌倉(現在の鎌倉市)で行われた戦い。1331年(元弘元年、元徳3年)から開始された後醍醐天皇の倒幕運動である元弘の乱の最後の戦いである。北条氏が率いる鎌倉幕府はこれに負け滅亡した。
鎌倉幕府得宗の北条高時と一族の北条氏は、最後は討幕軍に包囲され鎌倉の東勝寺に籠り自刃した。高時と共に自刃した主な人々は、北条氏では金沢貞顕、北条茂時、常盤範貞、大仏家時ら、文士では摂津親鑒・高親父子、外様では安達時顕、御内人では長崎円喜らがいる。
東勝寺は、第3代執権の北条泰時が退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として葛西ヶ谷(鎌倉市小町)に創建した北条氏の菩提寺である。
経過
各地で敗走した鎌倉勢は、鎌倉の七切通しを封鎖。新田勢は関口を本拠に、小袋坂・化粧坂・極楽寺坂の三方から攻撃することとし、義貞はそれぞれの指揮を執る将を新田一族で固めた。小袋坂は山側で鎌倉勢の執権の赤橋守時が守るのに対し新田勢は堀口貞満らが攻めた。中央の化粧坂には金沢貞将に対し新田義貞・脇屋義助が率いる主力が攻める。七里ヶ浜に面する海側の極楽寺坂は大仏貞直が守り、大舘宗氏らが攻めた。戦いは膠着し、小袋坂では赤橋守時を自害させたが、極楽寺坂では指揮を執る大舘宗氏が戦死するほど苦戦する(大舘氏参照)。
義貞は切通しの突破を諦めて、干潮を利用しての稲村ヶ崎から海岸線ルートでの鎌倉侵攻を試みる(室町時代に成立した軍記物語『太平記』によれば、義貞が海神に祈願すると潮が引き、新田勢は由比ヶ浜へ進入、鎌倉へ進攻できたとされる)。背後を突かれた形となった幕府軍は鎌倉市街や切通しなどで大仏貞直・大仏宣政・金沢貞将・本間山城左衛門、そして他に第13代執権の普恩寺基時(北条基時)などが戦死した。
北条高時らは東勝寺に追い詰められ自害した。『太平記』によれば寺に篭った北条一族と家臣は、長崎高重・摂津親鑒・諏訪直性ら北条被官から順にそれぞれ切腹し、長崎新右衛門が祖父の長崎円喜を刺し殺して自らも切腹すると、最後に高時、そして正室の父の安達時顕と自害したという(他に自害したのは第15代執権の金沢貞顕、連署の北条茂時など)。『太平記』には、自害した人々は283人の北条一族と家臣、後に続いた兵を合わせて総数870余人とあるが、文学的誇張もあると推察される。高時らの自害を知った安東聖秀らもまた、降伏勧告を拒絶して市中で自害した。
東勝寺合戦Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8B%9D%E5%AF%BA%E5%90%88%E6%88%A6
鎌倉時代後期の元弘3年5月18日-5月22日(ユリウス暦1333年6月30日-7月4日)に、相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われた合戦。 なお、この元弘の乱の鎌倉における戦いの名称は、いわゆる歴史用語としては一定ではない。後世の史料上には「元弘三年の動乱」のように見える場合もある。通称では「新田義貞の鎌倉攻め」「鎌倉攻め」「鎌倉防衛戦」などと呼ばれている。本項では5月18日より北条高時自害の5月22日までの鎌倉における戦いを「鎌倉の戦い」という便宜上の名称で記述する。
元弘3年5月8日(1333年6月20日)、新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。鎌倉幕府は迎撃の兵を向けたものの、小手指原の戦い、久米川の戦い、そして分倍河原の戦いで、新田勢に敗北した。鎌倉幕府は守勢に転じ、鎌倉の守備を固めた。分倍河原の戦いの後、関東各地からの援軍も加えて20万の大軍に膨れ上がった新田勢は、怒涛の勢いで一気に鎌倉へ進撃した。
鎌倉の戦いの戦死者
1953年、由比ガ浜にある鎌倉簡易裁判所用地で大量の人骨が発見され、1955年まで調査が行われ、900体以上の人骨が発見された。これらの人骨はほとんどが青年壮年の男性のもので、年齢や性別に関係なく戦いのものと思われる刀創・刺創・打撲創が散見された。また一部の骨には動物にかじられた痕跡もあり、また経文らしき漢字が墨書された頭骨もあった。これらによって新田義貞による掃討作戦の後に、死体が放置され、それを野犬化した闘犬により肉を喰い荒らされた、またそれを僧侶が埋葬した、という事実が浮かび上がる。
鎌倉市材木座にある浄土宗九品寺は、鎌倉攻めによる敵味方双方の戦死者を弔うために新田義貞が、鎌倉市小町にある北条執権亭跡にある天台宗宝戒寺は後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建てた寺である。
鎌倉地方特有の墳墓やぐらには、この時の戦いの戦死者や北条高時の首塚を伝えるものが多い。
影響
新田義貞は、挙兵からわずか15日で鎌倉幕府を滅亡に導いた。六波羅探題に続き、鎌倉幕府の本拠である鎌倉が陥落したことにより、元弘の乱は後醍醐天皇方の勝利として収束に向かう。名目上の幕府の長であった将軍守邦親王も鎌倉の陥落と共に将軍職を辞して出家して鎌倉時代は終結し、建武の新政の始まりを迎える。
戦いの後も新田勢による残党狩りが続くが、北条時行ら一部の北条一族は鎌倉を脱出し、後に中先代の乱を引き起こすこととなる。
鎌倉の戦いWikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84