2026.4.28付 2026年度全国通訳案内士試験について、官報に公示されています。
*『伝統的建造物群保存地区』(文化庁) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/
*『「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」』(文化庁) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/judenken_ichiran.html
*『重要伝統的建造物群保存地区』文化遺産オンライン(文化庁) https://bunka.nii.ac.jp/heritages/classification/10
伝統的建造物群保存地区制度は、城下町、宿場町、門前町など全国の伝統的な集落・町並みを保存するための制度です。市町村はこうした伝統的な集落・町並みを保存するために都市計画または条例に基づき伝統的建造物群保存地区を決定し、当該地区内の保護に取り組みます。国は、市町村からの申出を受けて、我が国にとって価値が高いと判断したものを重要伝統的建造物群保存地区に選定し、市町村に対して財政的支援や技術的指導を行っています。
参考:『重要伝統的建造物群保存地区』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E8%A6%81%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E7%9A%84%E5%BB%BA%E9%80%A0%E7%89%A9%E7%BE%A4%E4%BF%9D%E5%AD%98%E5%9C%B0%E5%8C%BA
重要伝統的建造物群保存地区(じゅうようでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)は、日本の文化財保護法に規定する文化財種別のひとつ。日本の市町村が条例などにより決定した伝統的建造物群保存地区のうち、文化財保護法第144条の規定に基づき、特に価値が高いものとして国(文部科学大臣)が選定したものを指す。略称は重伝建地区(じゅうでんけんちく)、重伝建(じゅうでんけん)。
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/judenken_ichiran.html
(昭和50年11月20日文部省告示第157号)
伝統的建造物群保存地区を形成している区域のうち次の各号の一に該当するもの
伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの
伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
ロシアの脅威と対外貿易で発展した矩形の函館発祥の地
種類:港町
伝統的建造物群保存地区は,函館山山麓から港へ向かう斜面地に広がる西部地区の東端に位置しています。
旧税関(現海上自衛隊函館基地)敷地に近い港際から元町公園に至る,幅36メートル,長さ270メートルの坂道である基坂から,旧函館区公会堂の一画,さらにハリストス正教会の一画を経て大三坂を下り,港際の煉瓦倉庫群の一角に至る延べ約1.5キロメートルのコの字形の道筋に沿った町並みです。
旧市街地である伝建地区は,明治,大正,昭和初期に建築された和風,洋風,和洋折衷様式の建築物が多数残されており,これらが坂道,街路等と融合しながら,特色のある町並みを形成しており,また明治から昭和にかけての都市の近代化の変遷過程が端的にうかがえる地区ともなっており,この地区が函館の中心的な役割を果たしてきたことをうかがうことができます。
くわしくは→
*『伝統的建造物群保存地区について』函館市HP(リンク下線部)
(日本地理-東北地方の中の中町の説明と同一です。)
2020年日本地理に弘前市とその周辺の文化・歴史的観光資源と作物を問う問題が出題された。
青森県南西部,津軽平野の南部にある市。南で秋田県に接する。1889年市制。1955年に裾野村,新和村,高杉村,船沢村,藤代村,和徳村,豊田村,堀越村,千年村,清水村,東目屋村の 11村を,1957年には石川町をそれぞれ編入。2006年岩木町,相馬村と合体。青森県西半の経済,文化,交通の中心地。岩木川が流れ,北西に岩木山(1625m)を望む。かつて弘前藩 10万石の城下町として発達。町並みは城を中心として周囲を武家屋敷が取り囲み,その外側に町屋敷があったため,道路は鍵型や袋小路が多い。日本最大のリンゴ産地で,りんご酒,りんごジャムなどの加工も行なわれるほか,米作も盛んである。伝統的工芸品に津軽塗,こぎん刺繍,ブナ製品がある。弘前城,長勝寺,旧第五十九銀行本店本館,石場家住宅など国指定重要文化財が多いほか,瑞楽園は国の名勝に指定。岩木山北東麓の大森勝山遺跡は環状列石が配されているなど縄文晩期の重要な遺跡で,2021年「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録された。このほか市域北部には水田跡が残る砂沢遺跡がある。8月1~7日に行なわれるねぷた(→ねぶた)は国の重要無形民俗文化財。岩木山一帯は津軽国定公園,岩木高原県立自然公園に属する。JR奥羽本線が通り,弘前駅より弘南鉄道弘南線が分岐,黒石に通じている。弘南鉄道大鰐線,国道7号線,102号線が通り,市域南東部に東北自動車道の大鰐弘前インターチェンジがある。弘前大学がある。面積 524.20km2。人口 16万8466(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎重要伝統的建造物群保存地区『弘前市仲町(青森県)』
地区名:弘前市仲町
種別:武家町
面積:約10.6ヘクタール
選定年月日:昭和53年5月31日
特徴:弘前城の城下町は、南北に長く東西に短いほぼ矩形の弘前城を、自然地形を活かしながら四方から取り囲むように配置された。今は搦手門となっている北門(亀甲門)が当初の弘前城の大手門であり、その北側に亀甲町と呼ばれる一筋の町人町をはさんで、数か町の侍町が配置され、この侍町が「仲町」と呼ばれている。保存地区は往時の地割りをよく踏襲しているほか、道路沿いに連続するサワラの生垣、点在する門や板塀、前庭の樹木が独特の景観を生みだし、前庭の奥に建つ木造真壁造の主屋とともに城下町の雰囲気を残している。
取組→サワラ生垣剪定に剪定奨励金を出してまちを調える。無電柱化工事。消流雪溝整備。地区内の4軒の武家住宅を観光客や市民に広く公開している。
『黒石市中町(青森県)』重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み(文化庁) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_03.pdf
中町は、 明暦2年(1656)に津軽信英(のぶふさ)が黒石津軽家を創立した際に整備された町である。中町の通りは、北は青森、南は弘前藩領へと繋がっていたことから、交通の要所として栄え、商家町が立ち並び、現在もその名残をとどめている。
この地区の最大の特徴は、主屋の道路側に「こみせ」と呼ばれる庇が設置されているということにある。「こみせ」建築年代は定かではないが、信英が町割りをしたときに作らせたと伝えられている。この「こみせ」が並ぶ町並みは、最盛期には約4.8kmもの長さに及んだが、度重なる火災や社会の変化に伴い、その大部分が消失してしまった。しかし、中町の通りだけは、伝統的な「こみせ」が連なって残されており、貴重である。
参考:『中町こみせ通り』黒石市 http://www.city.kuroishi.aomori.jp/kankou/spot/kankou/komise/
*高橋家住宅(重文):江戸中期。代々理右衛門。黒石津軽家御用達。「米屋」、味噌、塩、油、薬など
*黒石こみせまつり
*黒石の地酒 造り酒屋「菊乃井」「玉垂」、酒林
*こみせ観光ボランティアガイド
参考:『黒石市中町』全国伝統的建造物群保存地区協議会 https://www.denken.gr.jp/archive/kuroishi-nakamachi/index.html
参考:『中町 こみせ通り - 観光スポット 藩政時代から今に残る木製のアーケード』Amazing AOMORI(青森県観光情報サイト) https://aomori-tourism.com/spot/detail_264.html
<中町こみせ通りの立ち寄りスポット>
◆鳴海家住宅・鳴海氏庭園(鳴海醸造店)
文化3年(1806年)創業の造り酒屋
◆津軽こみせ駅
お土産コーナーや津軽三味線の無料生演奏が聞けるステージがある多目的広場
◆高橋家住宅
国の重要文化財に指定。井戸水でいれた美味しいコーヒーや手作りあんみつを庭園でいただける喫茶店。
◆かぐじ広場
「恋よされモニュメント」などがある憩いの場。
◆寺山餅店
文政7年(1824年)創業。一子相伝の技が190年以上続く歴史ある餅店。
◆西谷家住宅(こみせ美術館)
古いこけしやねぷた絵、陶器、農具などの昔懐かしい品々を展示。また美しい庭園の見学も可。
◆消防団第三分団第三消防部屯所
大正13年に建築。洋風デザインを取り入れ、望楼を載せた木造2階建ての建物。
◆松の湯交流館
黒石の観光情報の収集やまち歩きの拠点に。
◆松葉堂まつむら
創業100余年の和菓子店。通称「梅干し菓子」と呼ばれる「干梅」は黒石名物。
『金ケ崎町城内諏訪小路(岩手県)』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」(文化庁) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_04.pdf
当保存地区は,旧仙台藩要所の一つ「金ケ崎要害」が置かれた地で,北上川と胆沢川の合流点北西の舌状台地上にあり,北上川以西では最北に位置し,旧盛岡藩と境を接していた。
要害(城)・武家町・商人地から成る町並みの骨格は,正保元年(1644)に当地に移封された大町備前定頼により整備されたといわれる。
要害(城)を囲む武家町は防御性の高い鉤型や桝形等の小路に沿って武家屋敷が配されており,各屋敷はヒバ等の生垣で区画されている。
“藩境の緑豊かな要害“として「小路が巡る地割り」と「生垣の向こうに見える侍住宅の大屋根」が往時の町並みを伝えている。
参考:『国選定 金ケ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区』岩手県 金ヶ崎町
https://www.town.kanegasaki.iwate.jp/docs/2017071900038/ 保存地区内の住宅はすべて非公開住宅
参考:『武家屋敷城内諏訪小路』いわての旅(岩手県公式観光サイト) https://iwatetabi.jp/spots/5476/
参考:『金ケ崎町城内諏訪小路』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%82%B1%E5%B4%8E%E7%94%BA%E5%9F%8E%E5%86%85%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%B0%8F%E8%B7%AF
金ケ崎町城内諏訪小路(かねがさきちょうじょうないすわこうじ)は、岩手県胆沢郡金ケ崎町にある重要伝統的建造物群保存地区。金ケ崎町西根の一部、東西690m、南北980m、約34.8haの範囲である。
概要
仙台藩の伊達氏は、領内に21の要害を置き大身家臣に治めさせていた。仙台藩上胆沢郡西根村にあった金ケ崎要害はその1つであり、北上川と胆沢川の合流地点北西の舌状台地上にあった。北上川以西では領内の最北で盛岡藩との境に位置していた。保存地区は、そのかつての要害と武家地のほぼ全域にあたる東西690m、南北980m、面積約34.8haの範囲が選定されている。
北上川に沿って要害を取り囲むように武家地、南北に走る奥州街道の南北両端に足軽屋敷、中央部に町人地が形成され、要害は樹木帯によって周囲の河川や田園地帯とは明確に区画される。金ケ崎要害の骨格は、寛永21年(1644年)に移封された大町定頼によって整備されたと考えられる。
保存地区は武家地内の小路はほぼ江戸時代のままで、鉤形や桝形、弓形の道路を組み合わせ城下町特有の形態を示している。各屋敷地はサワラヒバの生垣で区画され、北西方向にはエグネと呼ぶスギの屋敷林をはじめとして、様々な樹木が植えられている。武家住宅は寄棟造茅葺の建物で、小路に沿った生垣とその背後の屋敷林の合間から武家屋敷の大きな屋根が見える景観は、当地方の武家地の典型的な姿を良く伝えている。
重要伝統的建造物群保存地区選定基準:(2)伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
参考:『村田町村田(宮城県)』重要伝統的建造物群保存地区一覧と各地区の保存・活用の取組み https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_05.pdf
町の成立は定かではないが、江戸中期頃には、村田城(館)の東に、現在の町並の基礎となる町場が形成されていたといわれる。江戸期の商人達は、上方等と活発に取引きをし、特に、紅花は代表的な商品であった。明治期以降も、商人は、商店経営や地主経営等を積極的に行って財を成し、町は活況を呈した。
江戸末期の様子を描いた絵図を見ると、村田城の東側に、道路と宅地、水路等が整然と配置された町の様相が伺える。東端の河川(荒川)と平行に通る道の両側に「町家」と示された街区があり、この一部が、現在の保存地区である。保存地区では、南北に通る街道に対して間口が狭く奥行きが深い短冊状の敷地割りが、当時と同じく保たれている。
【建造物の特徴】
屋敷は、店、主屋を中心に、奥行方向に建つ複数の土蔵や屋敷神など様々な建造物によって構成されている。
店は街道に沿って建ち、主屋はその背後に棟を違えて接続する。更に、敷地の奥に向かって、土蔵等付属屋が建ち並ぶ。これら建築物は、敷地の北側に寄せて建てられ、南側には石敷の外通路が設けられる。
店は、重厚な土蔵造が多い。二階建てで、街道に面して下屋庇を設け、内部はこの部分のみを土間とし、他は床張りである。主屋は、平屋または二階建てで、外通路に面して全面的に開口部となる開放的な造りである。一階の間取りは、部屋が串刺し状に並び、一般的には奥に行くほど部屋の格式が上がる。
敷地の間口にかかわらず、店の南脇、つまり外通路の入口に表門が構えられる。軒を深く張出した大型の門は、それぞれ欄間飾りや彫刻に趣向が凝らされる。このように、店と門が交互に建ち並ぶことによって、特徴的な町並が形成されている。
参考:『村田町村田 伝建地区詳細』全国伝統的建造物群保存地区協議会[伝建協] https://www.denken.gr.jp/archive/murata-machi/index.html
宮城県南部の内陸部に位置し、町の中央を南北に通る脇街道に沿って町並みが形成されている。屋敷地は、間口が狭く奥行きが深い短冊形の地割となっている。
店は土蔵造りが多く、店の奥に主屋があり、さらに内蔵などの付属屋が並ぶ。店の南側に表門を構え、アエコと呼ぶ石畳みの外通路がある。江戸後期から近代にかけて繁栄した町並みが、重厚な景観をつくり出している。
参考:『村田町村田伝統的建造物群保存地区』村田町 https://www.town.murata.miyagi.jp/kosodate/bunkazai/dento_hozonchiku/hozonchiku/index.html
町は、平成26年3月10日に伝統的建造物群保存地区を決定し、平成26年3月13日に国へ「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)」選定申出を行いました。
平成26年5月16日に開催された国(文部科学省)の文化審議会は、同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、新たに村田町村田伝統的建造物群保存地区を「重要伝統的建造物群保存地区」に選定することを文部科学大臣に答申しました。
これを受け、平成26年9月18日付けの官報に告示され正式に重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に選定されました。宮城県では初の選定となり、全国では108地区目の選定となります。
■保存地区の名称 村田町村田伝統的建造物群保存地区
■保存地区の所在地 村田町大字村田字町の一部
■保存地区の面積 約7.4ヘクタール
■保存計画 保存計画(PDF形式:491KB)
■重伝建選定基準 (一)伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの
参考:『蔵のまち散策コース』村田町の観光案内サイト MURATABI https://murata-kankou.com/course1.html
女子旅、車・徒歩で3時間 3,000円から。着物レンタル1時間1,500円
参考:『村田町村田』文化遺産オンライン 文化庁 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/208437
村田町村田は仙台市の南方に位置する商家町で、江戸時代は紅花の集散地として、明治以降は繭の集散地および仙南の中心的な商業地として栄える。通りに面して、店舗専用建築と門が交互に並ぶ特徴的な町並を形成し、店はなまこ壁を多用した重厚な土蔵(どぞう)造とし、門には彫刻や欄間を飾り、いずれも近代以降に意匠的に発展した形式とする。江戸時代に整備された町割りの上に、意匠的に優秀な伝統的建造物を良く残し、近世から近代にかけて栄えた商家町の歴史的風致を良く伝える。
参考サイト:『横手市増田伝統的建造物保存地区 』- 秋田県
1 対 象 横手市増田伝統的建造物群保存地区
2 所 在 地 秋田県横手市増田町増田
字本町(もとまち)、字田町(たまち)、字中町(なかまち)及び字七日町(なのかまち)の各一部
3 面 積 約10.6ヘクタール(南北約420m、東西約350m)
4 選定理由 (二)伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
元禄16年の絵図に増田城の東と北に町並みが描かれている。小笠原氏が増田城を築いたことが町の起源と伝えられる。17世紀には秋田藩公認の定期市。藩南部の流通拠点。明治維新後も商業地として発展し、銀行設立、生糸仲買、煙草製造、水力発電、酒造業などで隆盛した。大正4年には吉乃鉱山で大鉱床が発見され、戦前にかけて繁栄は最高潮に達した。
間口は狭いが奥行きは50間から70間と長い。主屋と鞘付土蔵は、敷地の半分以上を連続する建物で覆い、豪雪に対応する長大な空間がつくられている。
主屋は主に切妻造妻入の2階建で、当初はこけら葺(現在は鉄板葺)が主流だった。地元で内蔵(うちぐら)と呼ばれる鞘付土蔵は、土蔵とそれを覆う鞘からなる。前後に掛子塗りの扉を構え、壁は磨き上げられた黒漆喰のものが多い。扉や腰は、漆塗りの木枠によって養生され、その繊細な組子の意匠も土蔵を飾っている。
参考:『横手市増田伝統的建造物群保存地区』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%89%8B%E5%B8%82%E5%A2%97%E7%94%B0%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E7%9A%84%E5%BB%BA%E9%80%A0%E7%89%A9%E7%BE%A4%E4%BF%9D%E5%AD%98%E5%9C%B0%E5%8C%BA
横手市増田伝統的建造物群保存地区(よこてしますだでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)は秋田県横手市増田町にある伝統的建造物群保存地区。横手市の都市計画によって決定された保存地区であり、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
当保存地区がある増田町は横手市の中心部から南に12kmほど離れた位置にあり、また羽州街道からも南東に3kmほど離れた位置にある在郷町である。町中心部を南北に貫く県道108号線(中七日町通り、愛称『くらしっくロード』)を中心とした南北約420m、東西約350mの範囲が重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
当地域は近世から近代にかけて流通・商業の拠点として繁栄した地域であり、江戸時代以来の町割りが残り、沿道には切妻造妻入形式の主屋が立ち並んでいる。各家の間口は5間 - 7間程度と狭く、一方奥行は50間 - 70間と長大な短冊形の敷地であることから、主屋の背後に内蔵(うちぐら)と呼ばれる鞘付土蔵を接続して、豪雪地帯に対応した長大な内部空間を確保している。重要伝統的建造物群保存地区の選定にあたっては、このような地方的特色を示す点と、東北地方で数少ない商家の街並みをよく残している点が特筆された。
伝建制度発足以来「町並み保存」が主眼とされてきたが、建物の外観からは知ることができない「内蔵」という内部構造が高く評価された点で、増田の町並みの重伝建地区選定は画期的とも言える出来事であった。
参考:『横手市増田(秋田県)』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」(文化庁) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_06.pdf
横手市増田伝統的建造物群保存地区は羽州街道から旧仙台藩領へ抜ける街道沿いにあり、通りに沿って短冊形に割られた地形に意匠的に発展した切妻造妻入の町屋形式の主屋が連なります。その背後には鞘付土蔵などの特徴的な伝統的建造物を接続して、豪雪に対応した長大な空間を形成します。近世までに整備された地割や水路を残し、近代にかけて繁栄した在郷町の歴史的風致をよく伝えています。
加えて、梵天行事、月山神社神輿渡御行事、盆踊りなどの伝統行事や住民主体となって継続しているイベント「蔵の日」、横手市増田まんが美術館との連携など、町並み保存に資する活動が展開されています。
こうした取組みを契機に、歴史まちづくり や 文化財の保存活用、文化観光の推進 など、当市における まちづくりのフロントランナーとしての役割を担っています。
●防災施設整備
説明版 3か所
耐震型防火水槽 3基
地上式消火栓 6基
易操作性消火栓 15基
●その他
案内板の設置、地域通訳案内士の養成
町並みへのWi-Fi環境整備、多言語対応
音声ガイド「まんが美術館とまちあるき」導入
町並み案内所ほたる整備、来街者駐車場整備、公衆トイレ整備、ポケットパーク整備、電線類地中化工事
●「蔵の日」
保存地区を中心に行われる「蔵の日」は、非公開家屋も含む伝統的建造物等が一斉に門戸を開く公開活用の機会。所有者と住民、地域の学校や各種団体が連携して取り組む恒例行事となっている。歴史的建造物を所有していない住民や地区外の住民も参加し、多くの人々に支えられ保存地区は継承されている。
参考動画:『横手市増田の町並みをご覧ください』横手市Ch. https://youtu.be/LzIoXvk8oro?si=-5lxq14HM_Ugtors
増田地区には昭和初期までに建てられた商家が50軒以上建ち並ぶ。重伝建登録は、その歴史的な街並みを保存し、活かしていく取組であった。建物の奥には、「うちぐら」と呼ばれる蔵もある。「さや」が「うちぐら」を守ってきた。
外からはうかがい知れない伝統的な商家の町並みを残していこうという住民の思いが込められている。
参考:『横手市増田』文化財オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/241425
横手市南方に位置する、近世から近代にかけて栄えた在郷町。江戸時代に発展した町割を良く残し、通りに沿って、重厚な切妻造妻入形式の主屋が建ち並ぶ。主屋とその背面に接続する鞘付土蔵によって、雪国に対応した特徴的な内部空間を形成し、地方的特色を良く示す。東北地方では数少ない、商家の町並みを良く残す伝統的建造物群保存地区。
参考:『角館エリア 観光スポット』仙北市 https://www.city.semboku.akita.jp/sightseeing/spot/07.html
目次→角館の町並み・武家屋敷・桧木内川堤ソメイヨシノ・角館のシダレザクラ・古城山城跡(古城山公園)・蔵と商家・田町武家屋敷・神社・仏閣・石碑・西宮家・角館のお祭り・火振りかまくら・樺細工伝承館・平福記念美術館・新潮社記念文学館・角館温泉「花葉館」・外町交流広場・市営桜並木駐車場・落合の桜並木
深い木立と重厚な屋敷構えが今もなお藩政時代の面影を残す町、角館。東北の小京都と呼ぶのにふさわしい風情を、町全体に漂わせた桜の名所です。
この町は1620年(元和6年)角館地方を治めていた芦名義勝によって造られました。豊かな仙北平野の北部に位置し、三方を山々に囲まれ、西は桧木内川、南は玉川に沿った地形で、城下町を形成するのに最も適した場所でもありました。
城下の縄張り(設計)として最も注目されるのは、南北に延びる町の中央に土塁を築いた「火除け」を設け、武家居住区の「内町」と町人居住区「外町」とに分断したことです。武家屋敷は生活の場所であると同時に、ひとつの城郭を成していると言えるでしょう。
古城山山麓の国道46号から火除け前までの通称「武家屋敷通り」と呼ばれる区域が、昭和51年9月、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
参考:『仙北市角館(秋田県)』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」文化庁 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/r1392257_007.pdf
地 区 名 :仙北市角館
種 別 :武家町
面 積 :6.9ヘクタール
選定年月日 :昭和51年9月4日
特 徴:
秋田県仙北市角館伝統的建造物群保存地区は、秋田県南東部の内陸地にあり、1620年芦名氏により創られ佐竹北家に引き継がれた城下町であった。保存地区は旧武家屋敷町のほぼ中央にあり、上・中級武士の武家屋敷地にあたる。広い通り沿
いに塀が連続し、シダレザクラやモミの大木が深い木立を形成し、江戸時代末期時の屋敷割や、主屋・門・蔵の屋敷構えとともに武家町の特性をよく残している。
選定による効 果:
伝建選定により継続して町並み整備を行ったことにより、秋田県仙北市角館は、武家屋敷と桜の町として広く全国に知られることになり、特に平成9年の秋田新幹線開業からは全国から多くの観光客が訪れる町となった。伝建地区は1620年に町割りされた地形と樹齢300年を超す国指定天然記念物シダレダサクラとモミ等の樹木が一体となった町並みを形成しており年間200万人を超す観光客が訪れている。
参考:『武家屋敷通り モデルコース』田沢湖角館観光協会 https://tazawako-kakunodate.com/ja/course/1
(所要時間:1時間30分~2時間)
元和元年(1620)角館地方を領していた芦名義勝によって造られました。
その後は佐竹北家に受け継がれ、町割り400年を迎えます。
武家屋敷が立ち並ぶ通りは、「内町(うちまち)」と呼ばれ、現在も江戸時代末期時の屋敷割や、母屋・門・蔵の屋敷構え、枡形など武家町の特性をよく残しています。国の重要伝統的建造物保存地区に指定された、佐竹北家の藩政時代を今に伝える武家屋敷や町並みを角館駅から散策できるコースです。
JR角館駅スタート→角館郵便局前→武家屋敷通り入り口→小田野家(市指定史跡)→河原田家(市指定史跡)→岩橋家(県指定史跡)→松本家(県指定有形文化財)→青柳家(県指定史跡)→石黒家(市指定史跡)→旧石黒(恵)家→JR角館駅ゴール(1時間半~2時間)
角館観光地図→https://tazawako-kakunodate.com/ja/pages/for-travelagency/
参考:『角館』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%A4%A8#
角館(かくのだて、秋田弁:かぐんだで、かぐだで)は、秋田県仙北市の地名、および国の重要伝統的建造物群保存地区の名称。現在も藩政時代の地割が踏襲され、武家屋敷等の建造物が数多く残されており、「みちのくの小京都」とも呼ばれる。
角館は戦国時代には戸沢氏の本拠地であった。関ヶ原の合戦後の1602年(慶長7年)、戸沢氏が常陸多賀郡へ転封、佐竹氏が秋田へ入部し久保田藩領となる。翌1603年(慶長8年)、佐竹義宣の実弟にあたる蘆名義勝が所預(ところあずかり)として角館に入った。
蘆名氏の入部当時、角館の城下町は角館城の築かれていた小松山(現古城山)の北側の麓にあったが、狭隘な上に、水害や火災にしばしば見舞われたことから、1620年(元和6年)、現在の位置である古城山の南麓へ町を移転させた。現在地は、西の檜木内川が自然の堀となっており、北が丘陵地となり、東には小残丘が点在して、南にひらけ、南西側は檜木内川と玉川の合流点があって天然の要害をなしている。しかし、一国一城令により、角館城は破却された。なお、蘆名義勝は、当初は小松山の中腹に館を構えたが、義勝夫人が城中で妖怪を視たため居館を麓に移したという伝承がある。
佐竹義隣の実父は京の公家・高倉家の高倉永慶であり、義隣は高倉家からの養子である(母が佐竹家の娘)。また、2代佐竹義明も公家・三条西家一門である西郊家の西郊実号の娘を正室に迎えた事から角館には多くの京文化が移入された。高倉家は衣紋道の家元であり、西郊家の本家にあたる三条西家は歌道と香道の家元であった。西郊家自体も歌道を代々伝承する家柄である。角館には小倉山などの京にちなんだ地名が見られるが、公家の出である義隣が京を懐かしんで付けたものだといわれている。
観光
角館は桜の名所として知られる。武家地のシダレザクラが「角館のシダレザクラ」として国の天然記念物に、檜木内川左岸堤防の桜並木は「檜木内川堤(サクラ)」として国の名勝に指定されており、また、「桧木内川堤・武家屋敷」として日本さくら名所100選にも選ばれている。シダレザクラは角館北家2代目佐竹義明の妻が嫁入り道具の一つとして持ってきたのが始まりとされ、樹齢300年以上の老樹など約400本が古い町並みの中に立ち並んでいる。また、檜木内川堤のソメイヨシノは1934年(昭和9年)に当時の皇太子(明仁上皇)の誕生を祝って植えられたもので、約2キロメートルにわたる桜のトンネルが形作られている。
角館では桜の見頃がゴールデンウィークと重なっていたこともあって、全国から多くの観光客を集めてきた。 しかし、近年は桜の開花時期が早まっており、観光客の減少が懸念されている。
重要伝統的建造物群保存地区データ
地区名称:仙北市角館
種別:武家町
選定年月日:昭和51年9月4日
選定基準:伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
面積:約6.9ha
参考動画:『【未来へ伝えたい秋田のインフラ50選】33 重要伝統的建造物群保存地区(仙北市角館)』WebTVあきた https://youtu.be/li0LujkUX7w?si=1p5mIN1GidSuGVIC
叡智のレガシー秋田の過去と未来をつなぐ知のたからもの
参考:『喜多方市小田付伝統的建造物群保存地区について』喜多方市ホームページ https://www.city.kitakata.fukushima.jp/soshiki/toshiseibi/19478.html
小田付は、本市の中心市街地に位置し、天正10年(1582年)に町割が行われ、近村から定期市(いち)が移されました。近世には酒や味噌、醤油の醸造業も盛んになり、会津北方の交易の中心地として発展してきました。江戸時代末期までに成立した道路、水路、宅地割が良く残されており、その上に店蔵など多様な土蔵等が建ち並ぶ町並みは、在郷町・醸造町としての特徴的な歴史的風致を形成しています。
保存地区におけるルール
伝統的建造物群保存地区内では、歴史的な町並みを守るため、保存活用計画を定め、地割や敷地の利用形態を継承し、建造物等の高さや構造、色彩等の基準を定めており、新築や改築、修繕工事などを行う場合は、工事前に許可申請が必要になります。なお、許可を受けるための事前協議や手続き等に時間を要しますので、お早めにご相談ください。
許可が必要なもの(主に外観の工事)
建物の新築、増築、改築、移転、除却
建物外壁のリフォーム、屋根の葺き替え・塗替え
宅地の造成・その他の土地の形質の変更
樹木の伐採、土石類の採取・水面の埋立て など
許可が不要なもの(主に内部の工事)
内装のリフォーム、畳の入替
非常災害のため必要な応急措置として行う行為
仮設の工作物
地中に埋設するもの(水道管、下水道管、井戸など)
間伐、枝打ち、整枝など通常保育のため行われる樹木の伐採
枯損した樹木、危険な樹木等の伐採 など
参考:『喜多方市小田付(福島県)』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」文化庁 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/93738601_08.pdf
参考:『喜多方市小田付 - 文化遺産オンライン』文化庁 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/400468
福島県喜多方市
選定年月日:20180817
重要伝統的建造物群保存地区
喜多方市小田付は、蔵の町として知られる喜多方市の中心市街地を成す。天正10年(1582)に町割が行われて近村から市が移され、近世には酒や味噌・醤油の醸造等も盛んになって、会津北方の交易の中心として発展してきた。近世の地割の上に店蔵など多様な土蔵が並ぶ町並みが、在郷町・醸造町としての特徴的な歴史的風致を良く伝える伝統的建造物群保存地区。
参考:『おたづき蔵通り|モデルコース - 喜多方市』喜多方観光物産協会 http://www.kitakata-kanko.jp/category/list.php?sc=39
喜多方市の中心部を南北に流れる「田付川」の東側に位置する小田付地区は、喜多方市の中心市街地として、西側に位置する小荒井地区と共に栄えてきました。
天正10年(1582)町割りが行われ、領主の統制のもと流通を促すため定期市が近村から移されました。小田付地区(小田付村)は定期市で賑わい、豊富な伏流水と土蔵の保存性の高さを利用した酒・味噌・醤油の醸造業が発展しました。こうした定期市の開催と生業の発展が在郷町としての発展形成を促し、現在でも近世末期の短冊状の地割の上に多様な土蔵が並ぶ特徴的な歴史的風致を形成していることから、重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けています。
参考:『小田付伝統的建造物群保存地区 (@otadukidenken)』instagram https://www.instagram.com/otadukidenken/
日本地理-東北地方での説明と同じです。
2019年日本地理に名物料理から重伝建の件名を答える問いあり。
福島県南西部にあった宿場町。大内峠(標高900メートル)の南の山あいにあり、会津若松と日光今市とを結ぶ会津西街道(下野しもつけ街道)の宿駅として栄えた。茅葺かやぶき民家などが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考:『【大内宿】大和屋(やまとや)』おいでよ!南会津。(福島県南会津地方振興局)
会津地方に昔から伝わる風習(子孫繁栄を願って婚礼などで食べる)の「ねぎそば」を提供している大和屋さんを紹介しています。温かいそばに長ネギが一本ついてきて、その葱でそばを食べ、かじって薬味にもするそう。
前沢曲家集落 公式Webサイト https://maezawa337.cloudfree.jp/
前沢集落は、平成23年6月に「南会津町前沢」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
明治40年、集落のほとんどの建物を焼失した大火の後に周辺地域の大工の手により一斉に再建されたため、統一的な意匠による景観が形成されました。
家屋(主屋)は、茅葺屋根でその構造から直家とL字型の中門造(曲家)に分類され、中門造が多くを占めています。
中門造は、かつて家族同様に大切にされてきた農耕馬と人が一緒に生活する構造となっており、妻面には、明かり取りの窓、梁と貫の木組み、前包の彫刻、狐格子など意匠性の高い造りとなっています。
集落内には、中門造り(曲家)13棟を含む伝統的家屋が20棟あります。伝統的家屋には、現在も人々の暮らしが息づいており、日本の原風景を今に残しています。
参考:『南会津町前澤』全国重要伝統的建造物群保存地区協議会 https://www.denken.gr.jp/archive/minamiaizu-maezawa/index.html
福島県南会津郡の最南に位置し、前沢は町南端の舘岩(たていわ)地域に立地し、中門造(ちゅうもんづくり)の民家が建ち並ぶ南会津地方の農村集落である。
保存地区内には、明治末期から昭和前期に建てられた中門造と直屋の茅葺民家が混在して建ち、これらの建築群が周辺の耕地、山林、河川等と共に、会津地方南部の雪深い山間部に独特な農村集落の歴史的風致を形成している。
参考:『南会津町前澤』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E7%94%BA%E5%89%8D%E6%B2%A2
南会津町前沢(みなみあいづまちまえざわ)は、福島県南会津郡南会津町にある重要伝統的建造物群保存地区。南会津町前沢の一部、約13.3haの範囲である。
概要
1907年(明治40年)に集落の建物のほとんどが焼失する大火に遭ったが、周辺地域の大工の手により一斉に再建されたことにより統一的な景観が生まれた。現在でも当時の面影を残す家屋に人々が生活しているのが特徴である。
建物の特徴は、L字に曲がった住まいの曲り家である。曲り家では、当時の生活に欠かせない大切な牛や馬と人が一緒に生活する構造となっており、手前の突出部が牛や馬、奥の建物が人の生活空間となっている。妻面には明かり取りの窓、梁と貫の木組み、前包の彫刻、狐格子など意匠性の高い造りとなっている。
農業の機械化が進んだ昭和40年代には馬はいなくなったが、曲り家での生活は継続されている。
前沢における保存活動は、1980年(昭和55年)、会津高原たかつえスキー場の調査で村を訪れた東京藝術大学の藤木忠善教授の提言に始まる。1985年(昭和60年)に舘岩村(当時)で環境美化条例が制定され、茅葺屋根の保存が図られた。茅葺きのメンテナンスの際には補助が行われた[3]。2000年(平成12年)には手づくり郷土賞受賞。市町村合併を経て、2011年(平成23年)6月20日に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
なお、1980年代に重伝建による保全ではなく自主保全を選んだのは、重伝建による住居への規制を懸念したためであり、その後2006年の市町村合併後に伴って行政からの補助が縮小されたことで、重伝建に踏み切ったとされる。
重要伝統的建造物群保存地区データ
地区名称:南会津町前沢
種別:山村集落
選定年月日:2011年6月20日
選定基準:(3)伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
面積:13.3ha
主な建造物・施設
20棟の民家があり、空き家となっている3棟を除き、現役で住民がいる[4]。このほか、移築された町有の曲家2棟がある。
曲家資料館:1990年に、伊南村の宮沢にあった空家を移築したもの[4]。
前沢ふるさと公園:1990-1993年に曲家とホタルの里づくり事業により整備された[5]。
そば処 曲家:1997年に舘岩村の戸中集落から移築された曲り家[4]。
鹿島神社
参考:『真壁の古い町並み』桜川市観光協会 https://www.kankou-sakuragawa.jp/page/page000141.html
真壁の町割りは、戦国時代末期の真壁氏時代に形づくられ、江戸時代初期の浅野氏時代に完成したといわれています。その時代からほとんど変わらない町割りの中に、蔵や門などの歴史的建造物が息づいています。
真壁は江戸時代から明治・大正にかけて、この地方の文化・産業の中心地として栄え、隆盛を誇った商家の人たちが次々と蔵や門などを建てました。市街地には、300余棟の見世蔵・土蔵・門などがあります。
平成22年6月29日には、この真壁地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
全国で87地区目、関東地方では4地区目、県内では初となります。
参考:『桜川市真壁』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」文化庁
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_11.pdf
特 徴
桜川市真壁伝統的建造物群保存地区は、筑波連山の麓に位置し、戦国期に築かれた真壁城の城下町を起源とし、廃城後の江戸時代に設置された笠間藩の陣屋を中心に完成された町割りが良く残る。
江戸時代末期から昭和初期までに建築された見世蔵や木造店舗等の多種多様な伝統的建造物が存在する町並みを筑波連山の山並みがより一層引き立てている。
選定による効果
当地区では、登録有形文化財制度を活用し、平成11年から17年にかけて104棟の建造物を文化財として登録、平成21年に桜川市歴史的風致維持向上計画が認定され、平成22年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
伝統的な町並みを活かしながら住民有志により始められた「真壁のひなまつり」がきっかけとなり、選定によって複数の民間まちづくり団体が設立され新たな活動が行われることで、来訪者
の増加に繋がった。 平成23年には東日本大震災により甚大な被害を受けたが、伝統的建造物群保存地区制度や街なみ環境整備事業を活用し、当地区だけでなく地区周辺の登録有形文化財も含めて殆どの歴史的建造物を残すことができた。
参考:『真壁町』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A3%81%E7%94%BA
『栃木市嘉右衛門町(栃木県)』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」文化庁
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_12.pdf
保存地区の概要
特徴
16世紀末から17世紀初頭にかけて岡田嘉右衛門氏が開発した新田村を起源とし、この新田村を南北方向に日光例幣使道が整備され、18世紀末から19世紀半ばにかけて街道沿いに町場が形成されたと考えられています。
日光例幣使道が湾曲していることで、不規則な形状の敷地があるものの,概ね短冊状に敷地割がなされております。敷地の構成は,通りに店舗を構え、奥に住居を置き、庭等を挟み、蔵を並べ、稲荷を祭るのが一般的で、それらを北側に寄せる傾向にあります。住居は概ね真壁造りでありますが、店舗は土蔵造りや洋風意匠
のものもあり、様式が多様にあります。蔵も土蔵や石蔵が混在し、店舗同様に様式が多様にあります。
これらの建物は近世の終わりから近代にかけて建築された伝統的建造物で、その配置と併せて当時の生業や在郷町の特色ある歴史的風致を形成し、今に伝えています。
参考:『嘉右衛門町 (栃木市)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%E7%94%BA_(%E6%A0%83%E6%9C%A8%E5%B8%82)
嘉右衛門町(かうえもんちょう)は、栃木県栃木市の地名。郵便番号は328-0072。
地理
栃木地区中部に位置し、東は昭和町・泉町、西は小平町、南は・錦町、北は大町と接している。嘉右衛門町の一部は、泉町、小平町、錦町、昭和町の各一部とともに重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
歴史
天正年間(1573-1592)に岡田嘉右衛門が荒れ地を開墾して開拓したとされ、江戸幕府より嘉右衛門新田村の名を得る。慶長年間(1596-1615)に下野国榎本藩領となり、のちに幕府領、1647年(正保4年)に武蔵国岩槻藩領、1681年(天和元年)に幕府領となり、1685年(貞享2年)から旗本畠山氏領の支配下に置かれた。岡田家は豪農として栄え、村が畠山氏の知行地になると、1689年(元禄2年)に屋敷内に陣屋を置き、下野国内の畠山領内11村(のちに13村)の惣代名主を務めた。日光例幣使道の街道であり、宿場町である栃木宿に近いこともあって、商家や職人の家が数十軒並び、小さいながら集落を形成した。1869年(明治2年)に日光県の管轄になったが、1871年(明治4年)の廃藩置県によって栃木県に編入され、1876年(明治9年)の区画改正の際に嘉右衛門町と改称された。1889年(明治22年)の町村制施行によって栃木町(現・栃木市)に編入された。1932年(昭和7年)に北関門道路が開通すると、人の往来が減少し、店舗も減っていった[3]。
戦後、嘉右衛門町という名称が封建的だという理由で、「寿町」への町名変更が検討されたが、歴史を重んじる気風から現在の名が維持された[4]。現在は、日光例幣使道の町として、街並み保存が図られている。
『桐生市桐生新町(群馬県)』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」文化庁
特 徴 当地区は、町立て当初からの敷地形態と共に、当時から生産が行われ、近代の桐生を代表する産業となった絹織物業を中心に発展した町である。江戸後期から昭和初期に建てられた主屋や土蔵、ノコギリ屋根の工場など、絹織物業に係る様々な建造物が一体となり、製織町として特色ある歴史的な環境を今日に伝え絹織物業で発展した町、桐生を示す象徴的な地区となっている。
『桐生新町重要伝統的建造物群保存地区』桐生市 https://www.city.kiryu.lg.jp/kankou/spot/denken/index.html
桐生の歴史は古く、今から約400年前に天満宮を起点として桐生新町ができました。本町一・二丁目には、現在でも織物関係の蔵や町屋、ノコギリ屋根工場など歴史的な建造物が多くみられます。また、当時の土地の区画(敷地割)もよく残されています。
これらの地域は、「桐生は日本の機どころ」と上毛かるたにもうたわれているように、織物業で栄えた桐生の歴史を今に伝える市民の財産です。先人たちは、様々な時代を乗り越え、このまちを守り続けてきました。
これからの、未来の子供たちへ誇れるまちとして残していくために、本町一丁目及び二丁目の全域並びに天神町一丁目の一部は、重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建地区)として選定されています。
また、重伝建地区全体が、平成27年4月より文化庁が認定する『日本遺産「かかあ天下 ぐんまの絹物語」』の構成文化財の一つとなっています。
参考:『桐生新町』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E7%94%9F%E6%96%B0%E7%94%BA
桐生新町(きりゅうしんまち)は、上野国(群馬県)山田郡にあった町である。現在の桐生市本町と横山町にあたる。町屋や土蔵、鋸屋根の織物工場など多種多様な建造物が残されており、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。2015年4月24日、「かかあ天下-ぐんまの絹物語-」の構成文化財として日本遺産にも認定される。
概要
桐生新町は上野国の東部を占める桐生領の拠点として、桐生川の渓口に位置する山田郡荒戸村と久保村の一部を割いて建設された。当初は荒戸新町と呼ばれたが、後に桐生新町と改称された。桐生織の産地である桐生地域は、両毛機業地帯の中心地として栄えた。現在も町立て当初の地割りが残っている。
歴史
桐生は天正18年(1590年)に徳川氏の領地となったが、それまでの由良氏の城下町(久保村、現在の梅田町一丁目)が手狭であったことから、荒戸原の赤城ノ森(現在の天神町一丁目)から久保村の南端(現在の本町二丁目)までの土地に新町を建設することを計画した。徳川氏の代官であった大久保長安の命を受け、桐生領に派遣された手代の大野八右衛門によって、天正19年(1591年)から慶長11年(1606年)にかけて段階的に建設された。
天正19年(1591年)に、久保村から下瀞堀に通じる街道を幅5間に拡げ、その街道の両側に、間口6間から6間3尺ほど、奥行き40間ほどの短冊状の町割りを行い、新町一丁目・二丁目とした。隣接する丘陵地に陣屋を構え、桐生陣屋と新町を結ぶ通路に沿って横町(現在の横山町)が建設され、久保村の梅原天神社(桐生天満宮)が赤城ノ森に移されるなど、町並みが整えられた。
慶長10年(1605年)には、南の下瀞堀(現在のコロンバス通り)まで町割りを行い、三丁目から六丁目が建設された。新宿村の浄運寺が六丁目に移され、慶長11年(1606年)に新町が完成する。
以後、桐生新町は市場町として栄え、天満宮境内で開かれていた絹市は、元禄2年(1689年)からは三丁目の市神社境内でも開かれるようになった。元文3年(1738年)に京都から高機が伝わり、複雑な紋様を特徴とする「飛紗綾」が織られるようになると、新町で開かれる絹市は「紗綾市」と呼ばれ、関東有数の絹市として発展した。
明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、桐生新町は新宿村、安楽土村、下久方村、上久方村平井と合併して桐生町となった。
『中之条町六合赤岩(群馬県)』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」文化庁
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_14.pdf
特 徴
六合赤岩伝統的建造物群保存地区は、中之条町六合地区の南端に位置している。屋敷地は緩やかな傾斜地に石垣を築き、前庭を中心に主屋、および蔵や小屋などの付属屋が配置されている。切妻造平入の総2階建が大半であり、正面端部を外壁より前に張り出させた「デバリ(出梁)」が特徴である。屋敷地の周囲には、丘陵地に石垣で造成された農地が広がり、その中に建てられた小規模な納屋や、山林と集落の境界上に点在する宗教施設、山林等の自然環境が伝統的建造物群と一体となった歴史的風致を良く伝えている。
選 定 に よ る
効 果
当地区では、平成7年から町並み保存の事業に取り組みが行われており、平成18年7月の重要伝統的建造物群保存地区選定と相まって、官民一体となり地域の活性化に取り組んでいる。選定前後の来街者効果は落ち着きつつあるが、修理事業や電線類の地中化を進めると共に、案内所の運営やふれあい感謝祭の開催、地区内ガイドの育成などの住民の取り組みにより保存と活用が両立されている。
町では周辺の自然観光資源や歴史遺産と一体となった活用を模索し、周遊ルートの核として保存整備に力を入れている。
参考:『赤岩 (中之条町)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B2%A9_(%E4%B8%AD%E4%B9%8B%E6%9D%A1%E7%94%BA)
赤岩(あかいわ)は、群馬県吾妻郡中之条町南西部にある大字。その中心部である山村・養蚕集落は重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)として選定されている(選定名称は「中之条町六合赤岩伝統的建造物群保存地区」)。郵便番号は377-1311。面積は13.23km2。
概要
赤岩地区は白砂川左岸の河岸段丘の段丘面上に発達した集落で、旧・六合村を構成する「赤岩」・「日影」・「小雨」・「生須」・「太子」・「入山」の大字のひとつであった。近代養蚕技術の移入によって発展した。山村・養蚕集落として2006年(平成18年)7月5日に群馬県内で初めて重要伝統的建造物群保存地区として選定された。選定範囲は東西約1070m、南北約930m、面積63haに及ぶ。集落内には赤岩神社や小さな堂、水の神や馬頭観音像など村人の信仰と深く結びついた建物、石碑、墓地などが点在している。2015年4月24日には、「かかあ天下-ぐんまの絹物語-」の構成文化財として日本遺産にも認定される。
重要伝統的建造物群保存地区データ
名称 – 中之条町六合赤岩重要伝統的建造物群保存地区(選定当時は「六合村赤岩重要伝統的建造物群保存地区」)
種別 - 山村・養蚕集落
面積 - 63ha
所在地 - 群馬県吾妻郡中之条町大字赤岩
選定年月日 - 2006年(平成18年)7月5日
地理
群馬県の南西部を南北に流れる白砂川が形成した河岸段丘の段丘面上に位置し、集落が立地する場所の標高は約690〜710mである 。 集落は南北に走る道(赤岩本道 )に沿って家々が立ち並ぶ街村形態を呈し、その周囲を石垣で造成された農地が取り囲んでいる。集落の背後(東側)には山林が広がっており、また河岸段丘の段丘面上に位置しているため水利に恵まれず、主たる農地の土地利用は畑となっているが、集落の南側には田も広がる。背後の山は近年までは木材やかやなど生活に必要な資源の供給地であって、重伝建の選定範囲にも含まれている。2004年(平成16年)現在、赤岩地区には61世帯、178人が暮らす。
河川
白砂川
歴史
赤岩地区は河岸段丘の段丘面上に位置しているため水利に恵まれず、元来は田畑からの収穫だけでは生計が成り立つ家は少なかった。そのため副業としての養蚕が発達したと考えられているが、その開始時期は定かではない。幕末にはすでに行われていたという説もある。1788年(天明8年)の赤岩に残る絵図には、農業のほかに男は山仕事、女は麻布を行うと書き添えられている。1803年(享和3年)には集落が大火に見舞われた。1877年(明治10年)に作成された『上野国郡村誌』には養蚕と麻が主要な産業とある。明治初期には前橋に繭が出荷され、林業や麻の生産から、養蚕へと中心産業が変化した。明治後期には高山社からの養蚕指導の授業員派遣を受け、1917年(大正6年)には赤岩出身の高山社卒業生が近代的な養蚕の指導にあたった。養蚕は昭和30年代頃まで非常に盛んで村のほとんどが営んでいた。
1900年(明治33年)以来、吾妻郡六合村の所属であったが、2010年(平成22年)3月28日には吾妻郡中之条町に編入合併された。
2007年(平成19年)1月に「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産暫定リストに追加され、赤岩地区も当初は構成資産に含められていた(のちに構成資産見直しの過程で候補から外れた)。
建造物
赤岩地区には養蚕が盛んであった頃の特徴的な建造物が現在でも数多く存在する。
湯本家住宅
3階建てで、1・2階は文化3年(1806年)、3階は蚕室として明治30年(1897年)に建設された。1999年(平成11年)に旧六合村の重要文化財に指定された。1803年(享和3年)の大火でほとんどが焼け落ちたため、主屋を土壁と置屋根の土蔵造りにして再建した。また、湯本家は江戸時代から医者を務めており、幕末には蘭学者であった高野長英がかくまわれていたとされ、2階には「長英の間」が残されている。
赤岩神社
旧六合村が発足する1900年(明治33年)以前に存在した旧赤岩村には数多くの神社があったが、赤岩神社は1908年(明治41年)に旧赤岩村内にあった5つの神社(諏訪神社・熊野神社・神明神社・飯綱神社・稲荷神社)を合祀して成立した。境内は旧飯綱神社の敷地を引き継いでいる。毎年春と秋には祭礼が執り行われている。
上の観音堂(かみのかんのんどう)
赤岩で最も古い建築物で、1764年(宝暦14年)に建てられた。堂内には聖観音立像、右に薬師如来像、左に不動明王像が安置されている。赤岩に現存する唯一の茅葺き屋根で、地区住民により葺き替えが行われるなど大切に維持されている。
毘沙門堂
創建時期ははっきりとしないが、1786年(天明3年)の「御料所御私領耕地絵図」に「びしゃもん堂」と記されていることから、これ以前の創建であると考えられている。坂上田村麻呂が創立したとされる新潟県浦佐の善光寺の毘沙門天を祀っている。現在の堂は1921年(大正10年)に赤岩に住んでいた大工の湯本茂十郎によって再建されたものである[11]。赤岩地区の他の堂と異なり、この堂のみ集落内の屋敷地の通り沿いに置かれている。
向城の観音堂(むこんじょうのかんのんどう)
1811年(文化8年)に再建されたものと考えられている。堂内正面に簡易な吊り仏壇があり、本尊である聖観音立像のほか、地蔵菩薩立像、位牌などを祀っている。もとは茅葺き屋根であったが、現在は鉄板屋根である。
東堂
建立年代は正面の虹梁絵図から19世紀前半に建てられたものと考えられている。赤岩の社寺の中で唯一集落の南西の方角に建っている。堂内仏壇には、地蔵菩薩像を中心に十王などの像が安置され、百万遍念仏のための大きな数珠が木箱に納められている。
稚蚕飼育所跡(どむろの家;どむろんち)
卵から孵ったばかりの蚕(稚蚕)の飼育は非常に難しいため、共同で飼育する目的で1962年~1963年(昭和37年~38年)頃に建てられた。土室(どむろ)とも呼ばれる。内部には養蚕のための温度調節設備が残っており、共同稚蚕飼育が始まった頃の養蚕技術が分かる貴重な施設となっている。1971年(昭和46年)に地区公民館が建てられるまでは、寄合の場でもあった。
かいこの家(かいこんち)
1932年(昭和7年)建築の典型的な養蚕農家の建物である。2階には養蚕の用具や資料が展示されている。
◎『甲州市塩山下小田原上条 (山梨県)』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」文化庁 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_35.pdf
特 徴
甲州市塩山下小田原上条地区は、甲府盆地東部に広く分布する養蚕に即して発展した独特の形式の民家が、周囲の畑地や自然環境とともにまとまって残り、養蚕が盛んであった頃の形態を良く残す山村集落である。
明治時代に養蚕が主産業になると、江戸時代に建築された茅葺切妻造主屋には、特徴的な「突き上げ屋根」が付加され、昭和時代中期まで建築された養蚕推奨型の桟瓦葺切妻造主屋とともに、明治期以降の養蚕ぶりを今に伝えている。また保存地区は、地形を利用した神仏と村民の住み分けや、接点としての観音堂の集会所利用など、江戸時代から続く習慣が今も保存されている。
◎『重伝建地区「甲州市塩山下小田原上条」』甲州市 https://www.city.koshu.yamanashi.jp/docs/2021020500057/
養蚕の隆盛をいまに伝える 上条集落
甲州市塩山下小田原の上条集落は、甲府盆地を眼下に望む山麓に位置する山村集落です。
江戸時代中期から昭和にかけて建てられた地域独特の形式をもつ民家や蚕室がまとまって保存され、それらが周囲の畑地や自然環境と一体となって、江戸時代以来の伝統的な集落の形態を良くとどめています。
この「歴史的風致」を後世に伝えていくため、地元の方々のご協力をいただく中で、平成27年2月に甲州市の「伝統的建造物群保存地区」の地区決定を行いました。そして5月15日に国の文化審議会から「重要伝統的建造物群保存地区」選定の答申をいただき、7月8日に官報告示(文部科学省告示第121号)され、正式に決定となりました。
山梨県内では2地区目、全国では110地区目となる重伝建地区をぜひご覧ください。
◎『甲州市塩山下小田原上条伝統的建造物群保存地区』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%B8%82%E5%A1%A9%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E4%B8%8A%E6%9D%A1%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E7%9A%84%E5%BB%BA%E9%80%A0%E7%89%A9%E7%BE%A4%E4%BF%9D%E5%AD%98%E5%9C%B0%E5%8C%BA
塩山の読みは、「えんざん」
甲州市塩山下小田原上条伝統的建造物群保存地区(こうしゅうしえんざんしもおだわらかみじょうでんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)は、山梨県甲州市にある伝統的建造物群保存地区。国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。甲州市塩山下小田原の一部、約15.1haの範囲である。
概要
甲州市塩山下小田原(旧:塩山市下小田原)にある上条集落は、江戸時代には畑作を中心とした山村集落として栄え、明治時代中期以降に政府の振興策などから養蚕に転じた[1]。屋根裏で養蚕を行うため、江戸時代に建築された茅葺切妻造の主屋には屋根前面の中央部を切り上げた特徴的な「突き上げ屋根」が付加されるようになり、昭和時代中期までには棟に越屋根を上げた桟瓦葺切妻造の主屋も建てられ、地域独特の形式を持つ民家が周囲の環境と一体となって、明治時代以降の養蚕ぶりをつ伝えている[1]。また、地形を利用した神仏と村民の住み分けや接点としての観音堂の集会所利用など、江戸時代から続く習慣が今も保存されている。
2014年に伝統的建造物群保存地区条例が施行され、2015年に重要伝統的建造物群保存地区選定の申請書を提出し、同年7月8日に正式に選定された。県内では早川町の赤沢に続き2地区目の選定となった。
重要伝統的建造物群保存地区データ
地区名称:甲州市塩山下小田原上条
種別:山村・養蚕集落
選定年月日:2015年7月8日
選定基準:(3)伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
面積:15.1ha
主な建造物・施設
もしもしの家
観音堂
福蔵院
『川越市川越(埼玉県) 』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」文化庁 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_15.pdf
特 徴: 川越の城下町は、室町時代後期に上杉・北条氏により基礎が築かれ、江戸時代初期に近世城下町として整備された。以後、舟運や街道の整備と併せ商業都市として繁栄する。町割は慶安年間(1648~1652)に定められた形態を幕末まで踏襲し、今日の道路形態からその様子を推量することができる。保存地区は、町割における町人地の中心部に該当する。今日に見る町並みは、明治26年(1893)の川越大火後に建築された黒漆喰塗の蔵造り町家を始め、近代洋風建築等も含め、多様な建築様式の伝統的建造物が建ち並び、特色ある歴史的景観を伝えている。
『川越市川越伝統的建造物群保存地区保存計画-重要伝統的建造物群保存地区 -移りゆく暮らし 変わらない町並み-』川越市 https://www.city.kawagoe.saitama.jp/shisei/toshikei/1010554/1010635/1010636/1004111.html
1.伝統的建造物群保存地区制度
伝統的建造物群保存地区制度は、伝統的建造物群及び周囲の環境が一体をなして形成している歴史的風致を維持するため、伝統的建造物群の主として外観上認められるその位置、形態、意匠等の特性について、その周囲の環境と合わせて保持することを目的として、昭和50年の文化財保護法改正時に創設された制度である。
2.川越市川越伝統的建造物群保存地区の概要
種別重要伝統的建造物群保存地区名称川越市川越伝統的建造物群保存地区所在地埼玉県川越市幸町の全部、元町1丁目、元町2丁目及び仲町の各一部面積約7.8ヘクタール条例制定年月日平成10年6月23日(条例第19号)都市計画決定年月日平成11年4月9日保存計画決定年月日平成11年4月9日選定年月日平成11年12月1日(文部省告示第197号)選定理由重要伝統的建造物群保存地区選定基準〔1〕
「(1)伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの」による。
川越市川越伝統的建造物群保存地区は、札の辻を北端とし、仲町を南端とする中央通り沿いの南北約430メートル、東西約200メートル、面積約7.8ヘクタールの範囲で、近世初期以来の十ヶ町四門前の町人地の枢要部を占めている。地区内では江戸時代から蔵造りの町家が一部建築されていたが、明治26年(1893年)の大火後、その復興にあたって、商人たちはこぞって防火性能の高い蔵造りを取り入れ、地区内には明治40年(1907年)頃までに重厚な蔵造り町家の立ち並ぶ町並みが形成された。さらに、大正以降近代洋風建築や洋風外観の町家等も加わり、各時代の特色を反映した建築が共存するようになった。
地区内の地割りは、寛永15年(1638年)の大火の翌年に藩主となった松平信綱によって城の拡張とともに復興された町割りを基本とし、複雑な街路形態を反映して一体ではないが概ね間口数間、奥行15から20間の短冊型である。伝統的建造物の約8割が町家で、その多くは蔵造り町家と土蔵であるが、一部真壁造り町家や洋風外観の町家もある。蔵造り町家は、表通りに面して巨大な鬼瓦・影盛を持つ切妻もしくは入母屋の屋根、桟瓦葺・平入・二階建ての黒漆喰塗りの店蔵を構え、その奥に座敷、中庭を挟んで離れ座敷、土蔵などを棟を分けて配置している。蔵造り町家の一階は、主として土戸を収納する戸袋が両袖または片袖にあり、揚戸で戸締りをしていた。二階は主として観音開の土扉で、一部に横長の格子窓が見られる。川越の蔵造り町家で最古のものは、寛政4年(1792年)建築の大沢家住宅で、18世紀末の川越の蔵造り町家の姿を伝えている。この他、大正7年(1918年)建築の埼玉りそな銀行川越支店(旧第八十五銀行本店)等の近代洋風建築があり、また背後には伝統的外観の和風住宅や洋風住宅、社寺等が分布し、時の鐘が地区のシンボルとしてそびえている。
川越市川越伝統的建造物群保存地区は、江戸初期の町割の上に、主として明治初期から末期に建築された重厚な蔵造り町家を中心に近代洋風建築等も含めた伝統的建造物が立ち並び、特色ある歴史的景観を良く伝えている。
3.伝建地区内での建築行為等の手続きについて
「川越市伝統的建造物群保存地区保存条例」及び「川越市伝統的建造物群保存地区保存条例施行規則」に基づき、伝統的建造物群保存地区内すべての建築物・工作物等においては、その現況を変更するときに、あらかじめ、市役所に申請をして許可を受けることが必要になります。
※詳細は以下の「4.パンフレット」より、「伝建地区の概要」、「伝建地区内の建築行為の許可と流れ」をご参照ください。
また、許可に先んじて、住民組織である「川越町並み委員会」において、町づくり規範に基づく協議を行います。事前相談・協議は期間を要するため、早めに市役所へご相談ください。
建築行為等の完了後には、現状変更行為完了届を提出してください。
※各書式はご相談を受けてからお渡ししています。
許可を受けなければならない行為は、次のとおりです。
建築物・工作物等の新築、増築、改築、移転又は除却
建築物・工作物等の修繕、模様替え又は色彩の変更でその外観を変更することとなるもの
宅地の造成などの土地の形質の変更
木竹の伐採など
※伝統的建造物の除却は原則として認められません。
※外観を変更しない内部のみの改装は、対象になりません。
※外観の軽微な変更であっても対象となる可能性があり、また一部助成の対象となる可能性もありますので、外観を変更される際は、その程度にかかわらずご相談ください。
4.パンフレット 各種
↑↓画像はchat-GPG
日本地理-関東地方での説明と同じです。
参考:『香取市佐原(千葉県)』(文化庁「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/93738601_16.pdf
参考:『香取市佐原の伝統的建造物群保存地区と景観形成地区について』(香取市) https://www.city.katori.lg.jp/living/sumai/machinamihozon.html
参考:『佐原の町並み』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%8E%9F%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%A6%E3%81%BF
千葉県香取市佐原(旧下総国)の市街地にある歴史的建造物が残る町並みである。商家町として栄え、古くから”北総の小江戸”、”水郷の町”と称された。1996年に関東地方で初めて重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。2009年には平成百景、2018年には佐倉市(城下町)・成田市(門前町)・銚子市(港町)とともに日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」に認定された。
佐原の町並みは、佐原が最も栄えていた江戸時代末期から昭和時代前期に建てられた木造町家建築、蔵造りの店舗建築、洋風建築などから構成されている。重要伝統的建造物群保存地区内の、市街地を東西に走る通称香取街道、南北に流れる小野川沿い、及び下新町通りなどに江戸の雰囲気そのままに土蔵造りの商家や町屋が軒を連ねた町並みを見ることができる。小野川に架かる樋橋は日本の音風景100選に選定されている。小野川沿いは電線類地中化が進んでおり良質な景観形成の向上が行われている。
地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律(歴史まちづくり法)に基づき策定した香取市歴史的風致維持向上計画について、2019年(平成31年)3月26日付けで文部科学大臣、農林水産大臣、国土交通大臣により計画が認定された[4]。香取神宮本殿・ 楼門およびその周辺地域と、佐原の山車行事や香取神宮の式年神幸祭などからなる歴史的風致の維持向上を図るため、歴史的建造物の保存修理に係る事業や、山車の巡行沿いの電線類地中化や修景整備事業、佐原の山車行事で用いる用具の保存修理に関する事業などが位置づけられている。
小野川沿いを中心とした地区では江戸の影響を多少なりとも受けた佐原の大祭(7月の本宿祇園祭と10月の新宿秋祭り)が行われ豪華絢爛な山車が引き回される。佐原の大祭は川越氷川祭・常陸國總社宮大祭とともに関東三大祭りの一つであり、2016年(平成28年)12月にユネスコ世界無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録されている。
参考:『サムライロードって?外国人が急増する意外なスポット【しらべてみたら】』FNNプライムオンラインCh. https://youtu.be/wh1eB48-uws?si=vohX7YRzptc0TbGx
に千葉・香取市が登場。
◎『早川町赤沢(山梨県)』「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」文化庁 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_36.pdf
特 徴 早川町赤沢は,山梨県の南西部に位置し,東に身延山,西に七面山を望む山腹にある集落である。鎌倉時代から700年の歴史を持ち日蓮宗の信仰登山と密接にかかわり,身延山久遠寺と霊山七面山を結ぶ参詣の宿場町として栄えてきた。
家屋はトタン葺きとなっているが下地は板葺である。旅籠は通りに面した部分に建てられていて、どこからでも客室に入れるよう土間・廊下が設けられている。また、マネギ板と呼ぶ講中札が下がり日本の原風景を残している。集落は緩斜面に立地する性質上、各家は山手に石垣を背負い、谷に向かって開かれた屋敷配置となっている。
◎『重要伝統的建造物群保存地区 赤沢宿』奥山梨はやかわ(日本でいちばん人口が少ない町 早川町観光協会) https://hayakawakankou.jp/archives/spot/akasawasyuku/
信仰とやすらぎの里 赤沢宿
赤沢は赤沢は中世のころから聖地身延山と霊場七面山とを結ぶ参道の宿場として知られてきました。 江戸初期、徳川家康の側室お万の方の功績により、七面山の女人禁制が解かれ、身延講などが盛んになるにつれ、七面山への参拝者が急増し赤沢の旅籠、強力、駕籠人足を利用する人たちも多く、宿場として活気がありました。 大正から昭和期にかけて身延線の開通とともに参詣客も急増し、赤沢宿も隆盛をきわめたが、迂回道路の整備や交通の便がよくなるに従い、昭和30年代ころより宿を利用する者は激減しています。 現在も講中宿の家並みと石畳は住時の佇まいを今に残し、昔の歴史景観を歩いてるような風情があります。
平成5年に国の重要伝統的建造物群保存地区として認定されました。
◎『赤沢宿 国選定重要伝統的建造物群保存地区(選定日H5.7.14)』早川町 https://www.town.hayakawa.yamanashi.jp/tour/spot/cultural/kenzoubutu.html
1 保存地区面積25.6ha(森林、畑含む)
2 伝統的建造物 84戸(主屋、蔵、外便所、付属屋)
3 工作物 39件(石碑、石塔、石仏、門)
4 環境物件 118件(石垣、湧水池、古道)
早川町赤沢は中世の頃から、聖地身延山と霊場七面山を結ぶ参道の宿場として知られて来た。
江戸時代初期、徳川家康の側室・お万の方の功績により、七面山の女人禁制が解かれたこと、同・中期頃になり山岳信仰の富士講、身延講などの講が盛んになったこと等の影響もあり、七面山への参詣者は急増した。また、それに伴い七面山の参道が整い、途中には寺や坊が置かれるようになると、自然と赤沢の宿の利用者も多くなり講中宿場としての形態が次第に整ってきた。
明治の初期には参詣客を案内する強力、駕籠人足、荷を専門に運ぶ荷背負い業も増え、赤沢34戸の内9軒が旅籠屋を営むようになったのである。
大正から昭和期にかけて、身延線の開通と共に参詣客が急増し、赤沢宿も隆盛をきわめたが、迂回道路の整備や交通の便が良くなるに従い、昭和30年代頃から宿を利用する者は激減してきている。
選定を受けた赤沢宿は、近世から昭和初期にかけて七面山への講中宿・旅籠として発達してきた。集落にはこの往時の隆盛の過程を示す伝統的建造物や民具が多く、保存状態も良い。町並や参道、敷地の形態、石畳、古道、石段など周囲の山々と良く調和し、歴史的自然的景観をよく残している。
伝統的家屋の建築年代は、古いものでは寛政4年(1792)や、天保4年(1833)の物がある。当時は小屋組構造、平入切妻屋根、草葺き屋根や笹板葺き石置屋根が一般的であった。旅籠屋も平屋であったが、明治中期から大正期にかけで、入母屋2階建に増築されている。
見学自由
※土地への立ち入り、建物等は持主のものになりますのでご配慮をお願いします。
所在地:早川町赤沢地内
問合先:早川町教育委員会TEL:0556-45-2547
(8時30分~17時15分、土・日・祝日は休み)
◎参考:『赤沢』Wikipedia
赤沢(あかさわ[4])は、山梨県南巨摩郡早川町にある集落。日蓮宗の総本山である身延山と、同じく日蓮宗の霊山である七面山とに参拝する客の宿場として栄えた。集落は重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。郵便番号は409-2733[2]。
講中宿の軒下にはマネギ板と呼ばれる、各地から訪れる講中の名前を記した板が掲げられている。
地理
赤沢宿は山梨県南西部の早川町南部、南アルプスの南東端に位置し、富士川の支流である早川の更に支流、七面山に源をもつ春木川右岸の標高500~600メートルにかけての急斜面山腹に集落を形成している。東に身延山(標高1148メートル)、春木川をはさんで西に七面山(標高1982メートル)など1000メートル級の山々に囲まれ、後述する身延山から七面山参拝へ向かう参拝ルートの中間に位置している。本来このような急斜面の地形の土地に集落が形成されることは少ないが、江戸期に参拝客の増加に伴い講中宿と呼ばれる宿泊施設や参拝に関連した生業が営まれたことによって、他に例を見ない集落形態を作った。
重要伝統的建造物群保存地区として選定された現在でも、集落へ向かう車道は山肌を這うような見通しの悪い狭い道路で、大型車はおろか乗用車でさえ擦れ違いが困難である。路線バスは麓にある早川町乗合バスのバス停まで行く必要がある(大人の健常者で徒歩15~20分程度)。
歴史
赤沢の草分けとされる家は2軒あり、そのうち1軒は1274年(文永11年)に来住したという伝承を持つ。また、赤沢の檀那寺である日蓮宗長徳山妙福寺は、もともと真言宗の寺であったが、1277年(建治3年)、日蓮の高弟、日朗との宗旨問答に負けて日蓮宗に改宗したとの由緒を持つことから、この時期には人家があったことが推測される。
もう1軒の草分けが来住したのは1582年(天正10年)とされ、1591年(天正19年)の検地帳には17戸の家数が記載されている。 検地帳などからは、近世から現代まで戸数30戸前後で推移していることがわかる。 江戸時代の早い段階で、隣の小縄村、高住村と一括されて「小縄高住赤沢村」として公式の文書に登場するようになる。3村一括の状態は、1874年(明治7年)に本建村赤沢区となるまで続いた。 1889年(明治22年)には、本建村と硯島村との間で組合村が成立したが、1911年(明治44年)には解消。1956年(昭和31年)には、本建村の合併により、早川町赤沢となった。
近世後半から第二次世界大戦前までは参詣客が多く、赤沢が最も栄えた時期と考えられる。人々は、参詣客相手の旅館や食堂、案内役・荷物持ちのほか、七面山敬慎院への物資運搬、身延山と七面山との連絡役、林業、木工業などを生業としていた。
景観と建造物
赤沢は、1993年に重要伝統的建造物群保存地区として選定された。地区の種別は山村・講中宿で、選定基準は「(3)伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの」。
山の中腹に位置する山間集落であり、家屋以外に畑や水場なども一体的な景観をなしており、街道の両側に建物が軒を並べるという一般的な宿場町とは違った景観を形成している。
建物の造りとしては、座敷の2辺を囲む周り土間が特徴である。これは、大勢の参拝客が一斉にわらじを脱いで家に上がれるようにとの理由からである。板葺き石置き屋根が一般的であるが、江戸屋、大阪屋といった主な旅館では、大正時代にトタン屋根が導入され、伝建地区においても、その歴史的経緯からトタン屋根が認められている。
参詣客
身延山・七面山参詣は、自動車交通の一般化以前は、身延山久遠寺から奥の院に登り、そこから赤沢に降りて1泊し、翌日七面山に登るというコースが一般的であった。
江戸時代、庶民の物見遊山が一般化する過程で客が増えたと考えられ、最盛期である明治期には、総戸数40戸程度の集落に9軒の旅館があった。最も客の多い夏の時期には旅館だけでは客を泊めきれず、旅館の蔵や周囲の民家にも宿泊したという記録がある。また、1晩泊まるのではなく、第1陣の客が何時間か仮眠のあと出発すると第2陣を泊め、その後は第3陣と、3交代で泊めたという話も地元に伝わっている。
しかし、七面山登山口までの車道が整備されると、参詣客は身延山を往復し、その後七面山登山口にバスで来て七面山を往復して帰る、というコースを取るようになり、中継点である赤沢から客足が遠のくこととなった。
利用客の減少や後継者がいないなどの問題があり、1990年代前半に6軒あった旅館は2000年前後には3軒に減少、2005年からは、営業を続ける旅館は1軒のみである。
参考:『輪島・黒島地区の伝統的街並み保存 輪島市が修理の補助拡大を検討』朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASS4X4PZYS4XPTIL001M.html
参考:『若狭町熊川宿(福井県)』重要伝統的建造物群保存地区一覧と各地区の保存・活用の取組み https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_34.pdf
福井県若狭地方のほぼ中央部,山峡にある熊川宿は,江戸時代に京都と小浜を結ぶ若狭街道の物資流通の中継拠点として繁栄しました。
街道に沿って用水路が流れ,江戸時代から明治,大正の伝統的な建物が軒を連ね,歴史的な町並み景観を良好に伝えています。
参考:『若狭熊川宿とは』熊川宿HP https://kumagawa-juku.com/
若狭と京都との交易の拠点として発展した宿場町。平成27年重伝建選定。平成27年日本遺産認定。
参考:『熊川宿』若狭三方五湖観光協会 https://www.wakasa-mikatagoko.jp/search/entry/tourism-008.html
もと熊川の村役場であった「宿場館」。若狭街道。鯖街道。京都。
参考:『熊川宿(鯖街道) 若狭から京都を結ぶ重要な宿場』福井県公式観光サイト ふくいドットコム https://www.fuku-e.com/spot/detail_1135.html
熊川の宿は、若狭から京都を結ぶ重要な宿場で、特に天正17年以来発展を続けました。奉行所・番所・お蔵屋敷の跡が残り、情緒あふれる街道沿いには、昔ながらの用水路が流れています。豊臣時代から藩政末期におよぶ古文書・御用日記なども保存されています。熊川宿は、重要伝統的建造物群保存地区に選定され、往年の繁栄を偲ぶ町並みが保存されています。
平成27年に熊川宿を含む鯖街道が「~御食国若狭と鯖街道~」として日本遺産に認定されました。
参考:『道の駅若狭熊川宿』 公式サイト https://kumagawajuku.jp/index.html
参考:『熊川宿』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E5%B7%9D%E5%AE%BF
熊川宿(くまがわじゅく)は、福井県三方上中郡若狭町にある 若狭と京都を結ぶ旧鯖街道の宿場。若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、2015年4月24日、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 - 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
室町時代に沼田氏が山城を築いた地にあり、1589年に小浜城主・浅野長政が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街道)の宿場町として整備した。熊川宿は近江との国境近く、小浜と今津のほぼ中間点に位置し、江戸時代を通して鯖街道随一の宿場町として繁栄した。
参考動画:『若一調査隊】鯖街道沿いに残る古き宿場町 福井県「熊川宿」建物に残された数々の工夫』読売テレビニュース(youtube) https://youtu.be/jYbvwGcx1kY?si=tUKw0ioy-zGIP93V
鯖街道ミュージアム。鯖街道=周山街道・鞍馬街道・若桜街道。一番中心は若桜街道。浅野長政が整備・開発。像・孔雀がはじめて日本に上陸したのが小浜。将軍に献上。
日本海の海山里の幸を馬借が熊川宿を起点に京都に運んでいた。熊川宿から1㎞いかないところに滋賀県との県境。熊川番所。取り締まり。税金の取り立て。本二階(現代の二階建てと同じ高さ。新しいもの)。厨子(つし)二階(江戸時代。2階が古い町屋)。街道を通るえらい人たちを二階から見下ろすのは失礼だった。2階は十人が住まなかった。平入りと妻入が混在。前川(水路)に「かわと」というへこみ(水洗い場)。上ノ町(かみんちょう)、中ノ町(なかんちょう)、下ノ町(しもんちょう)があり、一番にぎわったのが中ノ町。手裏剣打ち体験。虫籠(むしこ)窓。袖壁(防災用。類焼を防ぐ)。漆喰で塗り固めて燃えるのを防ぐ。
荷蔵(にくら):街道沿いにある蔵。街道で運搬する荷物を一時的にため置く場所だったので街道に面している。問屋(といや)など。ちなみに家の裏にあるのは、文庫蔵・宝蔵と言う。
駒つなぎ:街道を往来する馬をつないでおく輪。
ガッタリ:旅人が座ったり、商品を置いておく台。荻野家住宅(淳文)。熊川で最も古い。
起り(むくり)屋根:真ん中が膨らんだ屋根。木組みから膨らんでいる。とても手間がかかる。奢侈の象徴だが、屋根の丸みは上人が頭をたれて客を迎える姿、商人の姿勢と称した。
御蔵道:松木(まつのき)神社(昭和8年にできた。義民として名高い松木庄左エ門を祀る)の境内に当たるところに米蔵が10数棟も並んでいた。小浜から北川(一級河川)づたいに熊川までは困れてきた米を米蔵まで運んだ道。
芋車:用水で里いもを洗う。
↓
御食国(みけつくに)
日本三大葛:熊川葛(福井)、吉野葛(奈良)、秋月葛(福岡)
まる志ん。特選鯖寿し3500円。青ネギ&へしこガレット、サバサンド。
下ノ町(しもんちょ)。まがり:矩(かね、直角を取るための金指しと同じように直角になった曲がり角)まがり。廟魚のために道を曲げてある。赤い建物。ベンガラ(酸化鉄)。木賃宿。伊勢参り、竹生島参りに行く人々。3~4日で3000~4000人の旅人。一番後にできた。
参考:『中山道・木曽路 奈良井宿観光協会 | 懐かしい宿場町へようこそ』奈良井宿観光協会 https://www.naraijuku.com/narai/
参考:『木曽路の宿場町マップ -奈良井宿』国土交通省中部整備局 https://www.cbr.mlit.go.jp/iikoku/drive/kisoji/narai.html
参考:『奈良井宿観光案内所』塩尻観光協会 https://tokimeguri.jp/guide/naraijuku-annaijo/
参考:『奈良井宿』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E4%BA%95%E5%AE%BF
奈良井宿(ならいじゅく)は、中山道34番目の宿場(→中山道六十九次)。現在の長野県塩尻市奈良井に位置する。
概要
塩尻市(旧楢川村)の奈良井川上流に位置する、標高900m台の河岸段丘下位面に発達した集落である[1]。現在は重要伝統的建造物群保存地区として、繁栄した当時の町並みが保存されている。山あいに寺社を擁し、宿場、蕎麦などの食事処、土産物店など、観光できる街並みに整備されている。
木曽路十一宿[2]の江戸側から2番目で、11宿の中では最も標高が高い。難所の鳥居峠を控え、多くの旅人で栄えた宿場町は「奈良井千軒」といわれた[3]。江戸寄りから下町、中町、上町に分かれ、中町と上町の間に鍵の手[4]がある。
水場は、山側に6ヶ所ある。江戸時代から曲げ物、櫛、木曽漆器などの木工業が盛んで、旅の土産物として人気があった。
参考:『【若一調査隊】日本一長い宿場町・中山道「奈良井宿」皇女とともに3万人の"花嫁行列”が通った風情ある街並みで歴史散策』読売テレビニュース(youtube) https://www.youtube.com/watch?v=30-lc8HfVfM
長野県ほぼ中央に位置する塩尻市にある標高およそ940mの宿場町が奈良井宿。JR奈良井駅(1909年)からの散策路をたどる。旧中山道のうち、鳥居峠から馬籠峠の内を木曽路といい、11宿ある。その中の一つが奈良井宿。電線が埋設されていて電柱が無いので一層昔の風情が感じられる。新しい家も景観に合わせて作られており、風情があるがもともとの風景を残した奈良井宿の姿は、専念寺からの道である。
上町(かみまち)・中町(なかまち)(道路幅が一番広い)・下町(しもまち)(下町が一番奈良井駅に近い)が奈良井川に沿って約1㎞も並んでいる。日本最長の宿場町である。中山道六十九次(東海道と共通の大津と草津を除けば六十七次)。中山道のちょうどど真ん中にあるのが34番目の奈良井宿。旅籠、漆器などのお土産屋。木曽は日本三美林。木曽檜。駿府城、名古屋城、江戸城にも使われる。切りすぎないように伐採に厳しい条件。漆に必要な湿度が70%であることと銹土と漆を混ぜる。銹土がとれる。塗櫛。大火頻繁→防火設備。1837年以降は大火がなかった。江戸時代の建物が残った。奈良井五山。大名が沢山通るが、本陣で泊まり切れない人を寺でも泊めたのではないか。
首がなく赤ちゃんを抱いた十字架に見える飾りをつけた像が大宝寺の森から現代になって見つかった。マリア像?
手塚家住宅(上問屋資料館(重文):明治天皇ご昼食(行在所)。天然のイワナを語実だけ召し上がった。1602年からおよそ270年問屋を勤めた。現在の建物は1840年の物。当時の資料が展示されている。皇族や公家の姫君が嫁ぐ際に利用していたので、中山道は「姫街道」と呼ばれていた。最大の人数で江戸に下ったのは、皇女和宮の行列。3万人、20㎞の大行列。
大事な用事の時は川越えの多い東海道より中山道が使われた。16~17日くらいで歩いていたという。1日30㎞弱? 普通に1時間4㎞歩くと言われているので7時間ほどで30㎞になる計算。
中村邸(重文):他に先駆けて昭和40年代から、町並みの保存に努めた。それが重伝建の指定につながった。中村邸がそのきっかけとなった。1843年に建てられた中村邸は、奈良井宿の町屋の特徴を詰め込んだ建物で、鎧庇、猿頭(さるがしら)、雪も降るが、屋根の傾斜はゆるい。街道沿いなので旅人に雪が落ちないように、一方だけに日が当たって重みのバランスが崩れて家に負担がかからない構造。はずせる蔀戸。商売の品を置ける。終点に鎮(しずめ)神社。1618年に疫病がはやった際、病を鎮めるために関東から勧進した。町並み保存の先駆的意味。ここから重伝建エリアが広がった。
とうみしうんのじゅく
あすけ
1585年近江八幡の町を気付き始めた。八幡山城。豊臣秀次。
よさのちょうかや。
当地区の選定において、選定種別として漁村、また選定区域内に海が含まれており、それらは国の重要伝統的建造物群保存地区の選定としては全国で初めてのことであった。江戸時代末期から昭和初期にかけ舟屋や主屋が連続して建てられ、伝統的建造物を残す漁村である。伊根湾口にある青島と伊根湾、また伊根湾をとり囲むようにある魚付林などの周辺環境と一体となって歴史的風致を形成している地区である。
地区名称:伊根町伊根浦伝統的建造物群保存地区。
所在地:京都府与謝郡伊根町字亀島、字平田、字日出の各一部
種別:漁村
選定年月日:2005年(平成17年)7月22日
選定基準:伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの
保存地区面積:310.2ha
伝統的建造物:460件
京都府与謝郡伊根町の伊根湾(伊根浦)沿いの海面すれすれに立ち並ぶ船倉兼民家で、1階に船の収納庫、上階に住居を備えた、この地区独特の伝統的建造物である。この景観に人口2千人ほどの町に年間30万人超の観光客が訪れている。
山の急な斜面が伊根湾の海岸線まで迫っていることから、元の集落は現在の集落のように海沿いに並んでいたのではなく、現・集落の背後にある山の中腹が生活圏となっており、住居や畑、 道路や寺社などが段々に建ち並んでいた。そのため出漁のたびに浜へ降り作業をするが、海岸線からすぐ傾斜が急な山の斜面となり、平地が少なく漁具を干したり漁船を陸地に上げるには狭く手間もかかる。そのため先人たちは、永年協力しあい山を削り僅かな平地を造り主屋や蔵を建て、海を埋めたて海際ぎりぎりに漁具、漁船を収納する舟倉としての舟屋を建て漁業への利便を図ったのが、舟屋の始まりとされる。当初、有力者などが狭い浜に主屋を建て住居が山腹から浜へ移っていき、次第に伊根湾沿岸部約5 km全域にわたり主屋や舟屋が連続する現在の町並みが形成されていった。
『伊根の舟屋』Wikipediaより抜粋
やぶしおおやちょう。
うつぶきたまがわ。
『倉吉打吹玉川(鳥取県)』文化庁→https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/94105901_77.pdf
鳥取県の中央にある倉吉は、江戸時代から明治・大正時代にかけて、商工業都市として繁栄した。保存地区は豊かな意匠を持つ町家が建ち並ぶ本町通りと、土蔵群と石橋が連続する玉川沿いからなる。赤褐色の石州瓦の屋根、軒まわりの海老状に曲がった腕木や持送り板、腰格子や繊細な出格子等の意匠に地域的特色があらわれている。
参考:『倉吉市打吹玉川』文化遺産オンライン(文化庁) https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/125367
参考:『倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区』倉吉市 https://www.city.kurayoshi.lg.jp/5172.html
参考:『倉吉市打吹玉川』全国伝統的建造物群保存地区協議会 https://www.denken.gr.jp/archive/kurayoshi-utubukitamagawa/index.html
参考:『打吹玉川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%90%B9%E7%8E%89%E5%B7%9D
打吹玉川(うつぶきたまがわ)は、鳥取県倉吉市にある伝統的建造物群保存地区である。通称は白壁土蔵群(しらかべどぞうぐん)。国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている(選定名:「倉吉市打吹玉川伝統的建造物群保存地区」)。
概要
打吹山山麓を流れる玉川沿いに位置する。地区の南方に位置する打吹山には、中世に打吹城が築かれ当地区はその城下町として発達した。打吹城は元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となる。寛永9年(1632年)以降、当地は鳥取藩主池田家家老の荒尾氏が治めることとなり、打吹山麓に倉吉陣屋が置かれた(陣屋の跡地は成徳小学校となっている)。
伝統的建造物群保存地区は陣屋跡の北方に位置し、江戸時代初期から大正時代まで商業都市として栄えた地区で、江戸時代末期から昭和前期までの伝統的建造物は本町通りの石州瓦の町家群や玉川沿いの土蔵群をはじめ約100棟が現存する。1998年(平成10年)に4.7ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区として選定され、2010年(平成22年)には既選定地区の西に位置する西仲町、西町などの区域4.5ヘクタールが追加選定された。
2016年(平成28年)10月21日に発生した鳥取県中部地震により、建物の漆喰壁が剥がれ落ちるなどの被害が発生した。
参考記事:『【朝刊先読み!】鳥取県中部地震から丸5年 復旧道半ば』山陰中央新報デジタル 2021/10/20 18:15 https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/110490
倉吉市文化財課によると、白壁土蔵群は伝統的建造物351棟のうち242棟が被災した。9月末現在、8割を超える200棟が修理を終え、1棟が修理中。工事未着手の建物は空き家や土蔵などで、引き続き、個別に修理相談しながら対応していく。
わかさちょうわかさ。
だいせんちょうところご。
おおだしゆのつ
ゆたかまちみたらい。
ともちょう。
ひやこまち。
むぎちょうてばじま。
しわくほんじまちょうかさしま。
せいよしうわちょううのまち。
しんかわたごもり。
しおたつ。
しいばそん。
いずみしいずみふもと。
せんだいしいりきふもと。
参考:『加世田麓』(薩摩の武士が生きた町 武家屋敷群「麓」を歩く)南さつま市 https://kagoshima-fumoto.jp/minamisatsuma/
参考:『【日本遺産】加世田麓の武家屋敷群めぐり』 - 南さつま市観光協会 https://kanko-minamisatsuma.jp/feature/9161/
参考:『加世田麓重要伝統的建造物群保存地区』南さつま市 https://www.city.minamisatsuma.lg.jp/living/kyoiku-bunka-sports/bunka/kasedafumoto/
参考:『加世田麓武家屋敷群』かごしまの旅(鹿児島県観光サイト) https://www.kagoshima-kankou.com/guide/53595
南さつま市加世田は、薩摩藩の外城として栄え、100年以上前の郷士の民家が今でも残っています。明治時代以降の加世田の繁栄を示す建築群や規模の大きな民家、近代和風の住宅、そして下見坂貼りの洋風医院建築など、築50年以上の建築が100棟前後現存しています。水路沿いに、石垣やイヌマキ、武家門の美しい町並みを見ることができます。加世田には明治維新後の文化遺産が多数残されており、これまであまり意識されてこなかった鹿児島の近代史を語り継ぐ景観が佇んでいます。また250年前から変わらない「用水路に架かる石橋を渡って武家門をくぐる」景観は、ここ加世田麓でしか見ることができません。
となきそんとなきじま。