2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
古都京都の文化遺産(世界文化遺産)→ 世界遺産としての説明は、こちらに掲載
[構成要素]
賀茂別雷神社(上賀茂神社)(京都市北区)
賀茂御祖神社(下鴨神社)(京都市左京区)
教王護国寺(東寺)(京都市南区)
清水寺(京都市東山区)
延暦寺(滋賀県大津市坂本本町・京都市左京区)
醍醐寺(京都市伏見区)
仁和寺(京都市右京区)
平等院(宇治市)
宇治上神社(宇治市)
高山寺(京都市右京区)
西芳寺(苔寺)(京都市西京区)
天龍寺(京都市右京区)
鹿苑寺(金閣寺)(京都市北区)
慈照寺(銀閣寺)(京都市左京区)
龍安寺(京都市右京区)
本願寺(西本願寺)(京都市下京区)
二条城(京都市中京区)
京都人が冗談交じりに言うのは、京都御所は今も天皇の住まいであり、ちょっと150年ほど東の方に行幸にお出かけになって未だお帰りでないだけのだそうである。
京都御所について
京都御所地図と建物案内
アクセス
京都の御所と離宮の栞
資料(検索機能付き)
美しい写真も豊富でみやすいホームページ。
参考:『京都御所』宮内庁 https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/
各建造物の説明とアクセスが詳しい。写真豊富。
参考:『宮内庁参観案内 京都御所』宮内庁 https://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html
参考:『宮内庁 皇居・京都御所・離宮参観 京都御所施設案内』宮内庁 https://sankan.kunaicho.go.jp/multilingual/kyoto/index.html
清所門からお入りください。
申込手続不要でどなたでもご自由に参観していただけます。
※入場時に手荷物検査を行います。
参考:『京都御所 参観要綱』 https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/visit
京都御所は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設である。。
1337年(建武4年)から1869年(明治2年)までの間の内裏・禁中・禁裏・宮中(歴代天皇並びに後宮や世子などが居住し朝廷として儀式・公務を執り行った場所の事で、現在の皇居とほぼ同義)。現存する建物は概ね1855年(安政2年)に造営した安政度内裏である。現在の京都御所は、宮内庁京都事務所が管理している。
平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明治2年(1869年)、明治天皇の東京行幸時まで存続した。明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。
土御門東洞院殿は、1337年9月26日(建武4年9月2日)に北朝2代光明天皇が居住して以降[8]、明治天皇の東京奠都に至るまで約530年間にわたって使用され続けた内裏である。当初は東西一町南北半町の敷地だったが、足利義満によって敷地が拡大され、その後織田信長や豊臣秀吉による整備を経て現在の様相がほぼ固まった。内裏は江戸時代だけでも慶長度(1613年)、寛永度(1642年)、承応度(1655年)、寛文度(1662年)、延宝度(1675年)、宝永度(1709年)、寛政度(1790年)、安政度(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長度と寛永度は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建となっている。
徳川11代将軍・家斉は、当時蟄居中であった老中松平定信に命じ、有職故実の大家裏松固禅(光世)の書『大内裏考證(だいだいりこうしょう)』を参考とし、寛政の造営は有職故実を重んじ、平安京の古制に則って再建された。これが寛政2年(1790年)の寛政度の造営である。
その後、嘉永7年(1854年)4月6日から4月7日、この御所の東南にある大宮御所芝御殿孝順院(掌侍)住居から出火し、内裏も焼失した。
現在の造営は、徳川13代将軍・家定が、孝明天皇の勅命を受け、老中阿部正弘に命じて再建される。安政2年(1855年)11月23日に再建がなり、これが安政度の造営といわれる。
慶応元年(1865年)~慶応2年(1866年)2月以降、現在の形となった。
現在は京都御所の元であった土御門東洞院(4,363坪)の約8倍である。
総面積 3万3400坪(110,413.2㎡)
南北東側446m、西側450m、東西北側244.5m、南側248.5m
参考:『京都御所』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E6%89%80
京都御苑の中央北部にある。(東西約250m、南北約450mの)築地塀と清流の溝に囲まれた広い域内の建物で、現在のものは江戸末期の1855年(安政2)に再建したもので、一部は平安朝の古制を模しております。御所は東西南北に6門と歴代天皇が即位した紫宸殿。また、北側に皇后宮常御殿などがあります。小御所前には大きな池を配した優雅な庭園があります。清所門から入退出できます。
営業時間
9:00~16:20(最終退出17:00)
アクセス
地下鉄「今出川」駅下車、徒歩約5分
市バス「烏丸今出川」下車、徒歩約5分
参考:『京都御所』京都観光オフィシャルサイト<京都観光NAVI> https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=331
参考:『京都御苑』一般財団法人国民公園協会 https://fng.or.jp/kyoto/
参考:『京都御苑』環境省 https://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/
京都御苑は、京都府京都市上京区にある環境省所管の国民公園。京都御所の周囲の緑地で旧公家町の一帯を指す。
京都市の中心部に位置し、東西南北を寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通に区切られた区域。東西約700m、南北約1300mの範囲で、総面積は92ヘクタール。その内、環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタールである。江戸時代から遺る9ヶ所の外周御門と6ヶ所の切り通しを持つ。
明治の東京奠都の際、公家町として御所を囲んでいた公家屋敷の大半が引越し廃れてしまったため、その荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により緑化を行い住民憩いの場とした。約140あった宮家と公家の邸宅が撤去されて皇宮付属地として整備され、戦後、国民公園となった。
現在は京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所の築地内は宮内庁が、2005年4月に開館した京都迎賓館は内閣府が、それ以外は環境省が管理している。
多くの木々が生い茂る公園内には、京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所、皇宮警察本部京都護衛署などの宮内庁・皇宮警察関連の施設をはじめ、公家屋敷の遺構、公園の管理を行う環境省京都御苑管理事務所の他、一般社団法人国民公園協会が管理を行うグラウンドやテニスコートに各休憩所、資料館、レストラン、カフェ、土産店、大型駐車場などもあり、市民の憩いの場になっている。
参考:『京都御苑』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E8%8B%91
参考:『京都御苑』そうだ京都、行こう(JR東海公式) https://souda-kyoto.jp/guide/spot/kyotogyoen.html
公式ホームページ→ https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/overview/
参考:『世界遺産 二条城』京都府 https://www.pref.kyoto.jp/isan/nijyoujo.html
参考:『二条城の歴史と特徴・見どころ』刀剣ワールド城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16962_tour_043/
参考:『二条城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E
二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある日本の城。江戸時代の徳川将軍家の平城であり近代においては皇室の離宮の役割を担った。正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)である。
京都市街の中にある平城で、足利氏・織田氏・豊臣氏による二条城もあったが(旧二条城跡について)、現存するものは徳川宗家の城のみである。当城は京都御所の裏鬼門に位置する。築城理由には都および朝廷のある京都に江戸城の分身の役割として徳川家康は京都御所・公家町(現:京都御苑および冷泉家一帯)および洛中の守護並び上洛時の居城として造営した城である[3]。
二条城では徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、江戸幕府による禁中並公家諸法度の公布、後水尾天皇の行幸、幕末期は徳川慶喜の居城となり大政奉還の上奏、離宮時代には大正天皇の行啓や饗宴の儀など徳川幕府の始まりと終わりをはじめ日本の歴史を見届けてきた歴史的に重要な場所である。
小堀遠州の代表作と知られる特別名勝・二の丸庭園から国宝・二の丸御殿黒書院を眺める。
明治維新により徳川将軍家から接収された二条城は、1884年に皇室の「二条離宮」へ変遷した。その後、1939年(昭和14年)二条離宮は京都市に恩賜され、元離宮二条城と改称、そして現在に至る。
城内全体が国の史跡に指定されている他、狩野探幽をはじめとする狩野派一門など各名工らが荘厳華麗な金碧画から可憐な花鳥画までの障壁画と多彩な透彫欄間や飾金具ともに日本唯一本来の徳川将軍家城郭御殿完全遺構である二の丸御殿(6棟)が国宝に、旧桂宮邸である本丸御殿をはじめ22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、小堀遠州の代表作と知られる二の丸庭園が特別名勝に指定されている。
城外史跡には、築城時代からの史跡二条城外堀護岸が存在する。
1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に歴史的および文化的価値の高さから洛中唯一の城郭建築として「古都京都の文化財」として登録された。
参考動画:『二条城・本丸御殿『18年ぶりの一般公開』を前に調査!通常非公開の建物では“特別な朝食”を堪能【福島暢啓の潜入!今昔探偵】【現場から生中継】(2024年8月26日)』MBS NEWS(youtube) https://youtu.be/zN_n4YVVpbg?si=FpaVZSYPerYK53b9 阪神淡路大震災でゆがみが生じてしまい、安全な見学のため18年・16億円かけて耐震補強工事をしていたのが今年秋の公開に至った。大正天皇や昭和天皇が皇太子時代に訪れたが、特に大正天皇は新婚旅行で宿泊した。
京都錦市場商店街HP→ https://www.kyoto-nishiki.or.jp/about/ 誰が読んだかくそ小路や伊藤若冲との関係など参考になる読み物がたっぷり。
参考:『京都市錦市場商店街』京都観光オフィシャルサイト「京都観光Navi」(京都市) https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=4&tourism_id=1174
参考:『錦市場』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E5%B8%82%E5%A0%B4
錦市場(にしき いちば、英語: Nishiki Market)は、京都府京都市中京区のほぼ中央に位置する錦小路通のうち、「寺町通 - 高倉通」間に存在する食品販売中心の商店街である。魚、京野菜といった生鮮食材のほか、乾物や漬物、おばんざい(京言葉で日常の惣菜)などの加工食品を商う老舗・専門店が集まる市場。
参考:『京都府京都市 京都錦市場商店街』中小企業庁 頑張る商店街77道 https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=4&tourism_id=1174
平原通、広小路、大通、東銀座、栄通、西一条中央、名門通の7商店街、駅前東、北平原通の2商店会及び都通り振興会
所在地:京都市
会員数:126商店
商店街の類型:超広域型商店街
ブランディング:
京都錦市場商店街は、京都市のほぼ中心に位置し、日頃から生鮮や加工食品を販売する「京の台所」として多くの市民に親しまれてきた。
また食への関心が高まるなかで、同商店街は観光スポットとしても注目を集め、京野菜などの食材を使った料理を提供する店も増えてきている一方、異業種の出店や観光俗化による「錦らしさ」の喪失が危惧されている。
さらに最近京都市内はもとより首都圏など同商店街以外で「錦市場」を名乗った飲食店や商品が目立ち始めていることに危機感を抱いていた。
平成17年1月京都府内の商店街では初めて「錦市場」の商標登録を取得。錦らしさ、錦ブランド。「錦流」文化創出イベントの実施。「錦らしさ」を追求するテナントミックス。
事業の効果:
(1)商標登録取得による責任の共有化
「錦市場」ブランドの乱用防止はもとより、組合員が商品の製造、品質管理、販売の全てにおける「錦市場」ブランドとしての責任を自覚し、食へのこだわりを再認識した効果は大きい。
(2)世界の「錦市場」としての第一歩
海外提携具体化の促進とイタリアと日本両地でのイベント開催や交易、市場のビジョン策定へ向けた足がかりとなった。
(3)「錦らしさ」の新陳代謝
商店街(市場)としての絆を大切にし、円滑な新陳代謝が図られ、概ね「錦らしさ」のテナントミックスは順調に進捗している。
ニデック京都タワー 公式→ https://www.kyoto-tower.jp/about/
参考:『京都タワー』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC
ニデック京都タワー(ニデックきょうとタワー)は、京都府京都市下京区にある塔である。京阪グループの京阪ホテルズ&リゾーツ株式会社が運営している。ニデックがネーミングライツを取得し2024年4月1日から現在の名前で営業している。
京都駅烏丸中央口前に大きく聳え立っている。台座となっている京都タワービルを含めた高さは131メートルあり、京都市内では最も高い建造物である。
1953年(昭和28年)、京都駅北側の土地に建っていた京都中央郵便局が移転することが決まり、移転後の跡地の活用が検討されていた。またこの土地は国際文化観光都市たる京都の表玄関、京都駅の真正面に当たる物であり、それに相応しくまた公共性に富む土地活用が求められていた。京都商工会議所主催の懇談会で株式会社物産観光センター(のちに株式会社京都産業観光センター)の設立が決まり、翌1959年4月11日、創立した。
当初は屋上に展望台などを作る程度は検討されていたものの、巨大なタワーを建てる事は想定していなかった。だが検討の結果、建物の内部に影響を与えずにタワーを建築出来る事が判明し、山田守(建築家)の設計管理および京都大学工学部建築学教室棚橋諒教授の構造設計により建造されることとなった。この際、単なる鉄骨による無骨なタワーでは京都の表玄関には相応しくないとして、白い円筒状の優雅なデザインが採用された。キッチュなデザインとも評される。建築には日本で初めて、炭酸ガス半自動溶接機が大々的に使用されたという。
1963年(昭和38年)2月7日の地鎮祭後、建物は同年8月13日に立柱式、翌1964年(昭和39年)8月31日に開館[* 2][10]。タワーは1964年2月3日に立柱式、12月28日の開業であった。
その構造は、鉄骨を一切使わず、厚さ12ミリメートルから22ミリメートルの特殊鋼板シリンダーを溶接で繋ぎ合わせ、円筒型の塔身を作ったもの(モノコック構造)となっており、タワー外部に仮設タワーとクレーンを設け引き上げを行った。工期は約1年10カ月、総工費は38億6400万円であった。
タワーの姿は、市内の町家の瓦葺きを波に見立て、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたものである。
タワー上部の展望台からは、京都市内および周辺のほか、天気の良い日には大阪市街を望むこともできる。
台座のビルにはホテルや名店街が入居する。また、展望台や名店街ではタワーに関するグッズなどの販売も行われている。
開業40周年を機に作成されたマスコットキャラクターが、2004年(平成16年)12月たわわちゃんとして正式に誕生した。
2014年(平成26年)の開業50周年に向けたエレベーター改修工事や外壁の塗り直しのため、展望室や台座のビルにあるレストランなどは2012年(平成24年)12月2日から2013年(平成25年)3月まで休業となり、4月1日からリニューアルオープンしている。なお、このリニューアルを機に、レストランは喫茶・軽食も提供するラウンジに営業形態を変更した。なお工事期間中も、ホテルや土産店の営業は続けられていた。
2024年3月、京阪ホールディングスは地元企業でモーター大手のニデックとの間で本タワーの命名権契約を締結したことを発表した。同年4月から2029年3月末までの5年間、本タワーの名称は「ニデック京都タワー」となった。
真宗大谷派東本願寺HP 基本情報→https://www.higashihonganji.or.jp/about/higashihonganji/
参考:『東本願寺』そうだ京都に行こう
東山・祇園
頻出。
京都祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く京都の夏の風物詩である。
7月1日~7月31日
祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。
一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)[注釈 1]の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。
宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。
祇園祭は数々の三大祭の一つに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。
江戸時代、関ヶ原の戦いで一度祇園祭が中止されたが、町人によって復活した。
祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王が仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのである。なお、祇園の語源については、祇園精舎の項目を参照。
その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭」に変更された(ただし「祇園」という名称自体は前述の通り仏教由来である)。
疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で[2]、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた[3]。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。
864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされており、2019年(令和元年)には祭の1150周年を祝うほど、長い歴史を持っている。
御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆であるばかりでなく、陰陽道や修験道の儀式も含まれていた。真夏の祭となったのは、上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと考えられる。
876年(貞観18年)には、播磨国広峯から牛頭天王が京都に遷座し、現在の八坂神社の地に落ち着いた。そこに祇園社として祭られ、感神院と号して比叡山延暦寺に属した。中世を通じて、祇園社は延暦寺の末寺とされ、山門(延暦寺)の洛中支配の拠点となった。比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が行われない時は、祇園御霊会も連動して中止・延期されることが多かった。
(以上、祇園祭wikipedia、京都市観光オフィシャルサイトおよび祇園祭連合会HPによる)
*山鉾について(祇園祭連合会HP)→山鉾一覧
*祇園祭行事日程(7/1~7/31)(祇園祭連合会HP)→行事日程および巡幸路(前祭、後祭マップ)
慈照寺(じしょうじ)は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。大本山相国寺の境外塔頭。山号は東山(とうざん[1])。本尊は釈迦如来。観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られている。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山(本来その寺の開山でない僧を開山として信仰すること )である。
「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。
室町幕府8代将軍足利義政は文明5年(1473年)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺(現・浄土院)のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。義政が山荘造営を思い立った当初(1465年)は、実際の造営地の約1キロメートル南、南禅寺子院の一つであった恵雲院(戦国時代に廃寺)の所在地を考えていたが、応仁の乱後に変更された。
当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父で第3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。
延徳2年(1490年)2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年「慈照寺」に改められた。なお、造営自体が完了したのは義政死去後である。
拝観
本日の開閉門時間 午前5時から午後4時
※各所受付は午前9時~(2024年6月12日現在)
庭園拝観(友禅庵・方丈庭園・共通券 大人:300円・400円・500円)
友禅苑 午前9時~午後4時
方丈庭園 午前9時~午後3時50分
※共通券販売は午後3時20分まで
方丈庭園は御影堂から入ります。
知恩院三門前から御影堂前まで、無料シャトルバスを運行しています。
(三門からはかなりの階段がある傾斜地です)
参考:HP→『浄土宗総本山 知恩院』https://www.chion-in.or.jp/
京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。
なお他流で門跡に当たる当主・住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。浄土門主・法主推戴委員会により推戴される。
知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(現・岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。法然は東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺)を建てると、そこに入った。
「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名を唱えれば極楽往生できるとする思想である。この思想はいわゆる旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。
法然は建永2年(1207年)の承元の法難で讃岐国(現・香川県)に流罪となったが、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻る。その際、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。しかし、翌建暦2年(1212年)1月25日に80歳で没した。
参考:『知恩院』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2
知恩院は東山の麓に位置し、浄土宗の総本山であり、800年以上の歴史がある。平安時代に浄土宗の開祖法然上人によって開かれ、『御影堂(みえいどう)』、『三門』(日本最大規模)の2つの国宝を持ち、国の名勝『方丈庭園』など多くのみどころがある。知恩院は徳川家康の母於大の方の永代菩提寺になったため、江戸時代に入ってから壮大な建物群が次々建てられた。権威の象徴ともいえる。
三門は高さ約24m、横幅は約50mの大きさで屋根瓦は約7万枚、著名な東大寺南大門よりさらに大きい。三門に「華頂山」と書かれた勅額がかかっていて、遠くからは建物との比率上小さく見えるが、実は畳2畳ほどの大きな扁額である。また、三門は、通常の山号の山ではなく、『空門』『無相門』『無願門』(浄土宗において、悟りに通じる三つの解脱の境地を表わす門=三解脱門)から、三門と呼ぶ。三門の上にも宝冠釈迦牟尼仏像(重文)他、十六羅漢像など壮麗な仏像群が安置されている。(年一回のみ公開)
三門から階段を上った中段に主要な建物が並んでいる。法然上人のお姿(御影)が祀られる御影堂(国宝。家光再建)は、木造建築としては国内5番目と言う壮大な建物。屋根瓦は9万枚近く。もう一つのご本尊阿弥陀如来坐像は阿弥陀堂(1911年再建)に安置されている。この阿弥陀堂で毎朝のお勤めの一番最初の念仏(南無阿弥陀仏(=仏さまを信じて従います、の意味。南無阿弥陀仏を唱えらることで救われる、等しく極楽浄土へ往生できるというのが法然上人(浄土宗)の教え))が唱えられている。
法然上人が知恩院の地に草庵を結んで布教を始めたのが浄土宗の始まり。その後徳川家に庇護されて発展した。
経典を治めた経蔵(重文)の内部の八角輪蔵には徳川秀忠が納めた『宋版一切経』約6千帖が安置されており、この輪蔵を一周すれば、6千帖のお経を読んだと同じ功徳を得られるという。
*知恩院の七不思議
三方正面真向きの猫(狩野信政筆)
忘れ傘(御影堂軒裏に名工左甚五郎が魔除けに隠したと伝えられる。白狐説も)
鴬貼りの廊下
白木の棺
抜け雀
大杓子
瓜生石
方丈(重文) 内部非公開 寛永18年建立。
方丈庭園(指定名勝) 公開(要・拝観料) 若一さんは二十五菩薩(来迎)の庭をお勧めしていた。石が菩薩、植栽(植木)が雲をあらわす。経蔵の左から上がった所には法然上人の御廟があり、右上には鐘楼がある。
知恩院の鐘は大晦日の独特の除夜の鐘で京都の風物詩として広く知られている。
参考:『【若一調査隊】除夜の鐘でおなじみ!浄土宗の総本山・知恩院の荘厳な世界観 800年の歴史とその魅力に迫る』読売テレビニュース https://youtu.be/E5Dn-AOJUG0?si=2vg8tHKbtlLaPtWx
京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。
元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。
京都盆地東部、四条通の東端に鎮座する。境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、地元の氏神(産土)としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。
正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっている。また東西南北四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく伏見稲荷大社と同じように夜間でも参拝することが出来る(防犯のため、監視カメラ設置。また、夜間でも有人の警備は行われている)。
2020年(令和2年)12月23日付けで本殿が国宝に、摂社末社など26棟の建造物が重要文化財に指定された。
参考:『八坂神社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
祇園さんとして古くから京都の人々に親しまれてきた八坂神社のお祭りが祇園祭である。
日本三大祭りでもある祇園祭は平安時代(約1150年前)に疫病が鎮まるようにと始まった祭りである。
参拝時間:24時間ご参拝可能。
社務所の受付時間:午前9時~午後5時
ご祈祷の受付時間:午前9時~午後4時
服装:なるべく神前にふさわしいフォーマルな服装で。
礼節:鳥居の前では一礼、帰りも一礼。神様の通り道中央を避け、両端を歩く、御朱印や授与品は参拝の後に。詳しくはHP。
参考:『八坂神社について』八坂神社公式HP https://www.yasaka-jinja.or.jp/about/
公式HP→https://www.heianjingu.or.jp/shrine/heianjingu.html
京都市左京区にある神社。794年(延暦13年)に桓武天皇により長岡京から平安京へ都が移され、1895年(明治28年)に遷都1100年を記念して桓武天皇と孝明天皇を祭神とし創建された。
1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に場所を移して1893年(明治26年)9月3日に地鎮祭が執り行われた。社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院を模し、実物の8分の5の規模で復元されて1895年(明治28年)に完成した。博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を行った天皇である第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。
平安神宮の周辺は岡崎公園として整備されており、文化ゾーンになっている。大鳥居を挟んで西には京都府立図書館、京都国立近代美術館、ロームシアター京都、東には京都市美術館、京都市動物園などがある。
参考:『平安神宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE
2023年日本地理の京都の出題で名称を問う設問があった。
◎2024年の開催は→2024年10月21日~10が22日
参考:『京都三大祭り 時代祭について』平安神宮 https://www.heianjingu.or.jp/festival/jidaisai.html
時代祭は、毎年10月22日(雨天順延)に行われる平安神宮の大祭で、京都が日本の首都として千有余年にわたって培ってきた伝統工芸技術の粋を、動く歴史風俗絵巻として内外に披露することを主眼としています。このため各時代行列に使用する衣裳や祭具の一つ一つが、厳密な時代考証をもとに作製された"本物"であるところにその特徴があります。
維新勤王隊の奏する笛や太鼓の音色を先頭に、約2,000名・約2キロにわたる行列は順次、明治維新時代から平安京の造営された延暦時代にさかのぼり、歴史と伝統の都・京都三大祭の一つとして、京都の秋を代表する祭となっています。
参考:『時代祭「どんな祭?」』京都観光オフィシャルサイト「京都観光Navi」https://ja.kyoto.travel/event/major/jidai/
平安遷都1100年を記念して明治28(1895)年に始まった時代祭は、平安神宮の大祭です。明治維新時代から平安京の造営された延暦時代まで、約2000人の市民が、時代時代のスタイルに扮して、京都のまちを練り歩く時代風俗行列がみどころです。
参考:『時代祭』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%A5%AD
時代祭(じだいまつり)は、平安神宮の例大祭(10月22日)に附属する年中行事である。神宮創建と平安遷都を祝して明治時代より始められた京都三大祭りの一つ。
平安神宮の例大祭は桓武天皇の平安京遷都を記念するもので、神宮から二基の神輿(天皇の乗物をかたどった紫の鳳輦)を京都御所まで神幸させて建礼門前に仮設した行在所において祭典を執り行う。その日の午後、ふたたび平安神宮へ還御する際に、これら神輿の帰り道を先導する形で行われる風俗行列を時代祭と呼ぶ。
平安時代から幕末までの各時代の首都であった京都でしかできない祭であり、京都民が主体となる住民あげての祭りであるが、葵祭や祇園祭に比べると歴史は浅い。
久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」をおこないました。三十三間堂は、その御所に長寛2年(1164)造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されました。
拝観時間
4月1日~11月15日
8時30分~17時
11月16日~3月31日
9時~16時
※受付終了は閉門時間の30分前
拝観料
一般 600円(550円)
※括弧内は団体料金(25名以上)
公式HP→『蓮華王院 三十三間堂』https://www.sanjusangendo.jp/
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、京都市東山区三十三間堂廻町にある天台宗の寺院。本尊は千手観音。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある妙法院の飛地境内であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。洛陽三十三所観音霊場第17番札所。
この地には元々後白河上皇(1127年 - 1192年)が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂としての三十三間堂である。上皇が眠る「法住寺陵」は三十三間堂の東隣にある。
本堂西側の軒下(長さ約121m)を南から北に矢を射通す弓術の競技。安土桃山時代に行われ始め、江戸時代前期に各藩の弓術家により盛んに行われ、京の名物行事となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜き、その本数を競った。
堂内中央に鎌倉時代の仏師湛慶作の本尊千手観音坐像を安置。本尊の左右には長大な階段状の仏壇があり、左右の仏壇に各500体(50体X10段)の千手観音立像が立ち並ぶ。千手観音立像は本尊の背後にもう1体あり、計1,001体となる。
参考:『三十三間堂』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E9%96%93%E5%A0%82
参考:『南禅寺』公式HP https://nanzenji.or.jp/about_rinzaishu
臨済宗南禅寺派の本山。1291年(正応4)亀山法皇の離宮を賜り、無関普門(大明国師)が開山。室町時代は隆盛を極め、「五山之上」に列せられた。応仁の乱で焼失した伽藍を‘黒衣の宰相’といわれた以心崇伝によって復興。境内には勅使門、三門、法堂、方丈の伽藍が一直線に、その周辺に12の塔頭が並ぶ。三門(重文)は、藤堂高虎の寄進。方丈(国宝)は、大方丈と小方丈に分かれ、大方丈は御所の殿舎を、小方丈は、伏見城殿舎を移築したと伝えられる。小方丈の襖絵、狩野探幽筆「水呑の虎」は名高い。大方丈の前庭(名勝)は伝小堀遠州作で「虎の子渡し」と呼ばれ、江戸初期の代表的な枯山水庭園として知られる。
建立:1291(正応4)年
参考:『南禅寺』京都市HP https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=436
京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山の寺院。山号は瑞龍山。本尊は釈迦如来。開山は無関普門(大明国師)。開基は亀山法皇。正式には太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と号する。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つ。
参考:『南禅寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%A6%85%E5%AF%BA
京都市東山区にある、京都の代表的な繁華街及び歓楽街。
現在の八坂神社は明治以前は祇園社(ぎおんしゃ)と称し、鴨川一帯までの広大な境内地を保有していたため、この界隈のことを祇園と称する。その鳥居前町は元々は四条通に面していたが、明治以降に鴨川付近から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展した。舞妓がいることでも有名な京都有数の花街であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがある。現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らいだが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれる。北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいる。また、鴨川を西に挟んだ対岸には三条通から四条通にかけて花街である先斗町があり、夏期頃には先斗町のお茶屋、料亭、各レストラン、バーが鴨川納涼床を設置し風流な光景が広がる。
なお、名の由来となった祇園社(感神院)は祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神とされていたのでこの名になった。
参考:『祇園』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92
一見さん(いちげんさん)は、あるお店に何らの面識なく初めて訪れた人のことである。
一見さんお断りと言えば、そのようにお店に全く関わりのない初めての人は入店を断られる場合がある事を意味する。そのような店に入るためには、利用前歴がある人物から何らかの形で紹介をされるか、または販売店の場合は、商品を購入する前提(ウインドウショッピングしない)で訪れる必要がある。
主に京都の料亭にそのような店が多いと言われているが、最近は緩くなっており、一見さんでも入店可能な店も増えている。
いわゆる待合茶屋の一部では、財布を持ち歩かない旦那でも遊べるよう置屋に支払う芸妓の費用、料理屋に支払う酒や仕出し費用、タクシー代に至るまで茶屋側が後日まとめて清算、請求するという伝統的な料金システム(売掛)を採っているため、売掛金の回収が担保できない一見さんでは利用できないという事情がある。その中でもインバウンドを含めた観光客が気軽に利用できるように、予約は必要としながらも受け入れを模索する店も現れている。
参考:『一見さん」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A6%8B%E3%81%95%E3%82%93
お店側の主張としては、なじみのお客様のニーズを先回りしてくみ取ってより承久のサービスを提供できるるように初めてのお客様よりもなじみのお客様を大事にしたいという精神体とも聞いている。
京都市の南北の通りの一つ。北は三条通から南は安井北門通まで約1km、祇園の中心を通るメインストリートである。 四条通を境に北側と南側で雰囲気は大きく異なる。四条通以北は、バー、クラブ、飲食店、居酒屋などが入居するテナントビルが立ち並ぶ。 四条通以南はもともと建仁寺の領地であったものが明治政府の神仏分離令と上知令の発布によって建仁寺の領地は没収された同時に、祇園甲部の移転により建仁寺と四条通までの間が明治期以降発展した。由緒ある茶屋や料理屋が立ち並ぶ。2001年に電線類地中化、石畳の整備が完成し、情緒ある町並みへと生まれ変わった。
参考:『花見小路通』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%A6%8B%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E9%80%9A#
甲部(花見小路)
令和6年度は、4月1日~30日の一か月間、第150回記念公演『都をどり百五十回源氏物語舞扇』が行われた。内容としては、
一幕仕立ての早変わりで四季を表現(ヨイヤサー)
日本の伝統美を目の当たりに(京友禅と西陣織)
芸妓・舞妓が生演奏(都をどりは~)
毎年、新作の舞を発表
創始は明治5年。東京遷都の後の京都を再考するべく、日本で初めての博覧会を開催した際、付博覧として芸妓・舞妓の舞を披露したのが始まり。
参考:公式ウェブサイト「都をどり祇園甲部歌舞会』」(英文あり) https://miyako-odori.jp/miyako/
4月1日 - 30日にかけて、京都市の祇園甲部歌舞練場で開催される、祇園甲部の芸妓・舞妓による舞踊公演。1872年(明治5年)に始まり、春秋の二回行なった年や太平洋戦争、新型コロナ禍に伴う休演を経て、2024年(令和6年)で150回に達した。
第1回京都博覧会の余興として、万亭の杉浦治郎右衛門と、当時新進であった井上流家元の井上八千代(三世 片山春子)が企画したことに始まる。初演は1872年4月20日(明治5年3月10日)で、京都府知事槇村正直の勧めで都踊、鴨川踊、東山名所踊が競演し、ことに都踊が好評で、以後ほぼ毎年継続した。槇村が作詞を、井上が伊勢古市の亀の子踊り(伊勢音頭の総踊り)を参考に振付を担当した。舞台まで両側の花道が設えられ、今までの舞台とは一味違う革新的で、花道からお揃いの衣装を着けた踊り子たちが登場して観客を驚かせた。
明治時代末期に、八景で構成される現在のスタイルが確立した。京都および日本各地の名所(日光東照宮や三保の松原など)、四季、歌舞伎作品や『源氏物語』といった幅広い題材をとりいれ、その年の干支や話題にちなみ、新たなる志向で上演され続けている。
参考:『都をどり』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E3%82%92%E3%81%A9%E3%82%8A
参考:『鴨川納涼床 鴨川西岸 二条〜五条』【京都市公式】京都観光オフィシャルサイト「京都観光Navi」 https://ja.kyoto.travel/tourism/article/coolness/
期間 5月1日~9月30日
※店舗により、開催期間が異なります。詳しくは各店舗へ直接お問い合わせください。
内容 夏の兆しが感じられる5月。鴨の河原(鴨川)の水辺には“京の夏の風物詩 ― 納涼床”が早くも始まります。鴨川の納涼床は、歴史も古く、桃山時代に始まると伝えられています。鴨川西岸、二条から五条の間の料亭・旅館など約100店余りが、河原に「床」を組んで営業。
アクセス 市バス5・17・205「四条河原町」または「河原町三条」
ホームページ http://www.kyoto-yuka.com
問い合わせ パンフレット入手先:京都総合観光案内所(JR京都駅ビル2F)
TEL 075(343)0548
参考:『納涼床』Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/%E7%B4%8D%E6%B6%BC%E5%BA%8A
参考:『今日の風物詩 鴨川納涼床への誘い』京都鴨川納涼床協同組合 https://www.kyoto-yuka.com/
参考:『納涼床』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E6%B6%BC%E5%BA%8A
納涼床(のうりょうゆか、のうりょうどこ)、あるいは川床(大阪北浜では「かわゆか」、京都鴨川では「ゆか」、貴船、高雄では「かわどこ」と読むのが一般的)は京都や大阪の夏の風物詩の一つである。料理店や茶屋が川の上や、屋外で川のよく見える位置に座敷を作り、料理を提供する。
5月ごろから9月ごろまで、京都の鴨川、貴船、高雄、鷹峯などで楽しむことができる。
【鴨川納涼床】
先斗町の鴨川納涼床 料亭・割烹などが納涼床を出して軒を連ねている。
開催内容
毎年5月1日から9月30日まで設営される。月間によってそれぞれ「皐月の床」(5月)、「本床」(6月7月8月)、「後涼み」(9月)と呼称される。二条から五条にかけて4つのエリア(上木屋町、先斗町、西石垣、下木屋町)で構成され、90軒余りの店が並ぶ。懐石、割烹、京料理などの和食だけでなく、中華料理、西洋料理、焼肉、喫茶などの店舗でも納涼床を楽しめる。基本的に夜の納涼床が中心であるが、5月・9月は昼の納涼床も楽しめる。(食中毒防止のため、6・7・8月は昼の納涼床は営業しない)
京都府鴨川条例においては、特に「鴨川の右岸の二条大橋から五条大橋までの区間において、飲食を提供するために設置される高床形式の仮設の工作物」(同条例14条)を同条例における鴨川納涼床と定義し、それらについては知事が河川法許可の審査基準を定めるものとしている。
歴史
江戸時代前期の文献(『案内者』〈寛文2年、1662年〉、『日次紀事』〈貞享2年、1685年〉)によれば、鴨川での床が年中行事化したのは17世紀の初頭とみられ、18世紀末頃までは祇園会の前祭から後祭までの期間に限定して設営していたようである。当初は茶屋が鴨川の中州や浅瀬に床几程度のものを臨時に設置していたが、その後、茶屋本体に付随したある種の固定化された床が出現する。文政2年(1819年)刊行の『扁額軌範』の記述からみて、固定化された床は少なくとも19世紀の初頭には確実にあったとみられ、17世紀後半の作品ともいわれる「四条河原風俗図巻」に見られる床が夕涼みを描写したものであれば、その歴史はさらに1世紀以上遡ることができる。
明治時代になると7月から8月にかけて四条大橋を中心に北は竹村屋橋(四条大橋の北約200mにあった橋)から南は団栗橋にかけて設営された。しかし、1894年(明治27年)の鴨川運河開削や1915年(大正4年)の京阪電車鴨東線の延伸などで左岸からは消滅した。
1929年(昭和4年)には半永久的な床を出すことが禁止された。さらに1934年(昭和9年)の室戸台風と1935年(昭和10年)の集中豪雨で壊滅的な被害を受けた。また、第二次世界大戦中は灯火管制などから営業は自粛された。
1952年(昭和27年)に景観保護のため「納涼床許可基準」が策定され規則が整備された。
【貴船の川床】
貴船口駅から貴船神社に向けて少し歩くと20軒ほどの店が床を並べている。京料理や流しそうめんを楽しむことができる。自然が多く情緒溢れる床である。川の上に床をつくる。
【高雄の川床】
京都市内より気温が3~5度低く夏の別天地として知られる高雄。清滝川に張り出すように一段高い位置にたてられた床で屋根が有るのが特徴。天然鮎、京野菜など旬の食材を使った川床料理を楽しむことができる。また6月中旬から7月中旬頃まで、天然記念物の源氏ぼたるも見ることができる。期間はお昼 5月初旬から11月末まで。夜 6月1日~9月末頃まで。
【大阪川床「北浜テラス」】
水都大阪のシンボル「中之島」に面して、北浜1丁目から2丁目の土佐堀川左岸に設けられる川床。背景の梅田のビル街や高速道路、中之島のバラ園や赤レンガの大阪市中央公会堂、時折遊覧船が行く穏やかな土佐堀川(旧淀川)など、都会と自然が融合した広大な空間を楽しめる。3月下旬の川床開きから秋・寒くなるまで運用されているが、常設の為一部店舗は冬季も営業している。
銀閣寺と南禅寺(正確には、若王子神社)の間を結ぶ、約2kmに渡る散歩道。20世紀初期の哲学者である京都大学教授 西田幾太郎(きたろう)が、毎朝この道を歩いて思想に耽っていたことにちなんで名付けられた。脇を流れる運河は、日本最大の湖である琵琶湖から引かれた疎水である。付近を流れる白川は標高に従って北から南へ向かって流れる一方で、人工的に作られた疎水は南から北へ流れている。桜の名所としても有名であり、道沿いには日本画家 橋本関雪によって寄贈された関雪桜が並んでいる。
参考:『哲学の道』京都市HP https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=2684
京都府京都市左京区にある琵琶湖疏水分線に沿った歩道である。
永観堂付近にある熊野若王子神社前の冷泉通若王子橋を南端として始まり、東山山麓の琵琶湖疏水に沿って銀閣寺西の今出川通銀閣寺橋を北端として続く約1.5kmの散歩道。幅員は広くないが、沿道に多くの樹木が植わる。沿道の横には、熊野若王子神社から大豊神社参道までは琵琶湖疏水分線が山裾に沿って流れ、疏水の山側は自然の森となっており、対岸側に桜並木がある。春は桜、初夏は木々の緑、秋は紅葉と四季折々に景色が変化する自然の美しい区間で、京都で最も人気のある散歩道として訪れる人が多く、桜の季節や紅葉の季節には多くの観光客でにぎわう。近年は廃業した喫茶店に住み着いた多くの猫が有名になりつつある区間でもある。それより北側は両側が住宅地となり、疏水の両岸に桜並木が植えられている。歩道も東側にもある場合があるが、よく整備されているのは西側だけである。日本の道100選にも選ばれている。
明治の頃、文人が多く住むようになり「文人の道」と称されていた。その後、京都大学の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが好んで散策し[1]、思案を巡らしたことから「哲学の小径」といわれたり、「散策の道」「思索の道」「疏水の小径」などと呼ばれた。1972年(昭和47年)、地元住民が保存運動を進めるに際し、相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。これにちなみ、1981年(昭和56年)に道の中ほどの法然院近くに、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑が建てられた。
参考:『哲学の道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E9%81%93
幕末と明治維新を専門に扱っている日本で唯一の博物館。
開館時間
10:00~17:30
※最終入館時間は閉館30分前
休館日
毎週月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館)
※展示替え日及び年末年始に休館日がございます。。
入館料
大人 900円
高校生・大学生 500円
小中学生 300円
団体割引(20人以上) 各100円引き
お支払いは現金でお願いいたします。カード等はお使いいただけませんので、ご注意ください。
霊山歴史館友の会 会員の方は、入館料無料です(要会員証提示)。
会員の同伴者は団体料金でご入館いただけます。
身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳をお持ちの方と介助者(お1人のみ)は団体料金でご入館いただけます。
霊山歴史館の公式LINE@と友だちになると、入館料100円割引クーポンを差し上げます(初回のみ)。
参考:『幕末維新ミュージアム 京都東山 霊山歴史館』HP https://www.ryozen-museum.or.jp/
参考:幕末維新ミュージアム『霊山歴史館』京都観光オフィシャルサイト 京都観光NAVI
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=11&tourism_id=763
参考:『霊山歴史館』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%B1%B1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E9%A4%A8
参考:『【若一調査隊】坂本龍馬暗殺の真相 遺品からわかる歴史の真実 京都・霊山歴史館 坂本龍馬を切った刀に隠された秘密とは!?』読売テレビニュースCh.
https://youtu.be/yzqQZFn2ims?si=bGML7FVF1YFDdar3
1970年開館。松下幸之助が初代館長。
博物館の手前には、坂本龍馬・中岡慎太郎・桂小五郎(木戸孝允)らの墓がある霊山墓地もある。
博物館の中には、坂本龍馬が暗殺されたときの竜馬を切った刀・西郷隆盛が自刃の際、介錯した刀・近江屋事件の再現模型(勾配天井で斜めになっていたため、刺客は脇差で竜馬を襲った。竜馬はとっさに刀で受けようとしたが刺客はその竜馬の刀ごと振り下ろし、刀は頭を割ったという状況がわかる。ほぼ即死)(近江屋は、京都の高知藩御用達醤油商)・坂本龍馬のリアルな人形・竜馬が姉に宛てたイラスト入りの手紙・高杉晋作の扇面和歌・近藤勇の所用刀・同鎖帷子など数々の貴重な資料が常設展に展示されている。
公式サイト→『音羽山 清水寺』 https://www.kiyomizudera.or.jp/
拝観時間:
6:00開門~18:00閉門(7.8月は18:30閉門)
春、夏、秋の夜間特別拝観期間中は21:00受付終了
なお、お守り授与所、納経所(ご朱印)での授与は
8:00頃からとなりますので、ご了承の上お参りください。
参考:『清水寺』京都観光オフィシャルサイト「京都観光Navi 」観光スポット・サービス情報 https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=267
参考:『清水寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AF%BA
清水寺(きよみずでら、英: Kiyomizu-dera Temple)は、京都市東山区清水1丁目にある北法相宗の大本山の寺院。山号は音羽山。本尊は十一面千手観世音菩薩。正式には音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら)と号する。もとは法相宗に属していたが、現在は独立して北法相宗を名乗る。西国三十三所第16番札所。洛陽三十三所観音霊場第10から14番札所。境内(敷地面積)は約13万 m2。
清水寺は法相宗(南都六宗の1つ)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場である。鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名であり、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。
本尊 十一面千手観世音菩薩(秘仏)
創建年 伝・宝亀9年(778年)
開山 伝・延鎮
本堂は、国宝。徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建された。「清水の舞台」とも呼ばれる。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大なケヤキの柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている。なお、釘はいっさい使われていない。このような構造を「懸造(かけづくり)」、あるいは「舞台造」といい、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)の所説に基づくものである。
思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」というが、清水寺塔頭・成就院に残る『成就院日記』の記録によれば、実際に飛び降りた人が元禄7年(1694年)から元治元年(1864年)の間に未遂を含み235件[注 1]、死亡者は34人に上り、生存率は85.4パーセントであった。飛び降りた動機は自分の病気の治癒や母親の眼病、暇がほしいといった、「観音様に命を預けて飛び降りれば、命は助かり願いがかなう」という熱い信仰心によるもので決して自殺する目的では無かったことに留意する必要がある。なお、1872年(明治5年)に京都府は「舞台飛び落ち」は封建的な悪習であるとして禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで、「飛び落ち」は影をひそめた。
参考:NHKオンデマンド『究極ガイド 2時間でまわる☆☆☆ 2時間でまわる清水寺』
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024137339SA000/?spg=P202300341400000
清水寺は開創778年、本尊は千手観音(秘仏)。観応信仰が盛んでそのご利益をもとめて年間約500万人の観光客が訪れる。バスで五条坂降車。早朝(ハイシーズンは9時でも大混雑)の拝観がおすすめ。番組では清水寺を3つのエリア(仁王門三重の塔を中心に小さなお堂を巡るエリア・清水の舞台とご本尊を中心としたご利益スポット・清水の水のエリア)に分けて巡る。
まずは善光寺堂の地蔵菩薩・如意輪観音(本尊・宝輪宝珠)や首振り地蔵(祇園の)・釈迦三尊像(善光寺型)を見る。首振り地蔵は茶屋街で親切で人気のあった幇間(たいこもち)鳥羽八が亡くなった時、この世では借金で首が回らなかったけれど、あの世ではよく回りますようにと芸妓たちが首がグルグル回る地蔵を奉納したという。首がグルグル回るので今では好きな人がいる方向にそっと回せば恋が実るという恋愛成就のスポットとして有名になっているという。(ただし回しすぎで本物は首が落ちてしまったので堂前に首が落ちないレプリカが置かれている)
丹色に塗られた仁王門をくぐる。高さ14m幅10m室町時代に建てられ、重要文化財。扁額は3櫃の一人、藤原行成の物。一対の狛犬はどちらも大きく口を開け、大きく仏の教えを広めている。門の左右には3.7mの京都でも最大級の仁王像。清水寺参詣曼荼羅
右手に曲がると春には八重紅しだれという見事な桜が並ぶ。境内にはその他の種類を含む1000本の桜があるという。
八重紅しだれを過ぎると江戸時代の絵師で虎を得意とした岸駒(岸派・がんく)の虎の絵をもとに描いた「岸駒の石灯篭」がある。どの角度でも虎と目が合うと言われている。八方にらみの虎(夜な夜な灯篭を抜け出して境内の警備をしているという)。
四神相応の考えから平安京の東西南北(玄武・青龍・朱雀・白虎)をそれぞれの神獣が守っていると考えられていたが、この西門前の祥雲青龍像に象徴される青龍が京都の東を守っている。また華やかな西門(さいもん)(重文・江戸時代)の裏から望む西向きの景色は京都の景色が一望(標高およそ100m)できるとともに、西の極楽浄土を想う(日想感)景色でもある。
西門を振り返ればすぐ三重の塔(高さ31m、重文。江戸時代・大日如来)が見える。南東の角だけ鬼瓦ではなく、竜(水神)がいる(火事が多かったので防火効果を願って)。
次に随求堂では真っ暗闇の胎内巡りが体験できる(9:00~16:00)。階段を降りるとしだれ桜とソメイヨシノが寄り添う姿が。三重の塔と桜が一緒に撮れるベストスポットだ。逆光モードやフラッシュを焚いて桜もきれいに撮ろう。
その先の鎮守堂は向背(前に出っ張った屋根)付きの切妻式の春日造になっている。神仏習合の名残だ。成就院に向かって歩くと沢山の小さな石仏が見える。明治の廃仏毀釈で捨てなければならなくなった京都のあちこちにあった仏を人々が捨てる忍びずここに持ち寄ったという。廃仏毀釈では清水寺は廃寺こそ免れなかったが寺領は10分の1にされてしまったという。
成就院は応仁の乱後、再建資金の事務所として使われた。幕末の尊王攘夷派の月照上人がいた。西郷隆盛と親交があり、薩摩へ下向したが追われて海へ身を投げた。西郷の月照上人に宛てた碑がある。舌切り茶屋。
(以上第1エリア)
番組ではこの間京都駅南の京都ヘリポートからの遊覧観光を紹介していた。
(以下第2エリア)
第2エリアは経堂の奥の田村堂(重文)から始まる。征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂は妊娠中の妻に鹿を食べさせようと音羽山を訪れた際に僧の延鎮と出会った。延鎮は殺生を止め、観音の功徳を解いて、田村麻呂と共に音羽山に寺を建てることに尽力した。田村麻呂は屋敷を解体しその木材でお寺を建てた。妻も無事出産し、お寺によく参詣したので、身分の高い女性たちが清水寺を訪れるようになった。清少納言も訪れたという。
田村堂前で本堂拝観券を購入。轟門(重文)をくぐり、本堂へ入る前に入り口左にある、本堂の腰長押を見る。
[参考] Suzuki Harunobu, Public domain, via Wikimedia Commons (清水の舞台から飛び降りる美人 鈴木晴信)
参考:『五山送り火』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B1%B1%E9%80%81%E3%82%8A%E7%81%AB
五山送り火(ござんのおくりび)(京都五山送り火とも言う)は、毎年8月16日に京都府京都市左京区にある如意ヶ嶽(大文字山)などで行われるかがり火。宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」と呼ばれることがある。
京都の名物行事・伝統行事。葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都四大行事の一つとされる[1][2]。
毎年8月16日に
「大文字」(京都市左京区浄土寺・如意ヶ嶽(大文字山)。20時00分点火)
「松ケ崎妙法」(京都市左京区松ヶ崎・西山及び東山。20時05分点火)
「船形万灯籠」(京都市北区西賀茂・船山。20時10分点火)
「左大文字」(京都市北区大北山・大文字山。20時15分点火)
「鳥居形松明」(京都市右京区嵯峨鳥居本・曼荼羅山。20時20分点火)
以上の五山で炎が上がり、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる。
点火時間は1962年までまちまちだったが、1963年から観光業界からの要請により、大文字が20時ちょうどの点火となり、反時計回りに20時10分から松ヶ崎妙法、20時15分から船形万灯籠および左大文字、20時20分から鳥居形松明と固定化した。
2014年に51年ぶりに点火時間が変更され、松ケ崎妙法および船形万灯籠がそれぞれ5分点火時間が早まった。この変更により5山が5分おきに点火されていくことになる。
なお、近年では「大文字」が最初に点火されているが、1956年頃までは「大文字」は最後に点火されていた、とする文献がある。これは大文字が五山の中でも横綱格であるから、という理由からであるという。
また、日本の太陽暦移行後は20時よりの点火となっているが、それ以前のいわゆる旧暦の時代は、1時間程度早かった、と言う説が2014年、在野の歴史研究者である青木博彦により打ち出された。これは本居宣長 1756年 『在京日記』などの資料を分析した結果であるという。
送り火の様子
江戸時代前期以降、京都の文化や地理を記した書籍が好んで発刊されるようになった。これらでは送り火についても取り上げている。これより前の時期、京都における民間の習俗について触れた史料は乏しく、そのため、送り火については江戸時代以降の史料を中心に見るより他ない。
(旧暦の)7月16日の夕刻、あるいは晩に点火する。
その性質から、聖霊の送り火(精霊の送り火)、亡魂の送り火などと呼んでいた。
大文字山の西北の面に大の字の跡があり、それに点火する。多くの史料でこの山について取り上げているが、当時は大文字山という呼称はなく、史料により、如意が嶽、如意宝山(『出来斎京土産』)、慈照寺山(『雍州府志』)、浄土寺山(『日次紀事(ひなみきじ)』)などの差が見受けられる。これらはいずれも同一の山を指していると考えられる。
大の字の跡以外に、妙法、船形(『雍州府志』では船形、『案内者』・『出来斎京土産』では帆かけ舟)にも点火した。妙法については、『日次紀事』などで松ケ崎の山としているほか、『花洛細見図』では大文字山と対になる形で松ケ崎のあたりに「法」の字が描かれている。船形については多くの史料で北山の所在としているが、明確な所在地は記されていない。
左大文字について、史料上の初出は『扶桑京華志』であるが、他山と比較して取り上げている史料の数が乏しい。
鳥居形について、史料上の初出は他の四山より大きく遅れており、江戸時代中期も終わる頃に発刊された『翁草』とされるが、それ以前の絵図にも鳥居形と察せられる送り火の様子が掲載されている。
参考:『如意ケ嶽』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E3%83%B6%E5%B6%BD
如意ヶ嶽(にょいがたけ、にょいがだけ)は日本の京都、東山に存在する山。標高472メートルで、山頂は京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町。他の表記・呼称は如意ヶ嶽、如意嶽、如意岳、如意ヶ峰(にょいがみね)、如意山(にょいやま)など。また如意ヶ嶽は京都市左京区と滋賀県大津市の境ともなっており、鹿ヶ谷から池ノ谷地蔵を経て園城寺へ至る山道は「如意越」(にょいごえ)と呼ばれ、これは京と近江の近道とされ、如意ヶ嶽の戦いなど合戦の舞台になったことがあるほか、城跡も残っている(後述)。また古来より信仰を集めた山であり、山中にはかつて大規模な山岳寺院・如意寺(にょいじ)が在った。
支峰(西峰)として標高465.4メートルの大文字山(だいもんじやま)があり、8月16日に執り行われる京都の伝統行事、五山の送り火の大文字として著名であり、逸話も多い。この大文字山はその山上から京都市内を一望でき、ハイキングコースとしても人気がある。
参考:『豊国神社』京都十六社朱印めぐり https://kyoto-16sha.jp/toyokunijinja/
参考:『豊国神社』京都観光オフィシャルサイト京都観光Navi
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=433
太閤豊臣秀吉公を祀る豊国神社の総本社。出世開運・良縁成就の神様として崇敬される。
豊臣秀吉公を奉斎、境内には北政所おね様を祀る貞照神社も鎮座し、出世開運・良縁成就の神様として崇敬される。
神社正面には伝伏見城遺構の国宝唐門がそびえ、重要文化財「 豊国祭礼図屏風」「名物骨喰藤四郎」など多数の宝物を所蔵している。
飛地境内の阿弥陀ヶ峯には秀吉公の墓所豊国廟がある。宝物館拝観有料。9月18日は「例祭」で、旧暦8月18日が祭神・豊臣秀吉の命日に当たる。翌9月19日、茶道・藪内流家元による献茶式がある。
建立:1880(明治13)年
50名以上の団体の場合、一度に入館できない場合がある。(宝物館)
■唐門
豊国神社にある桃山時代建築の国宝建造物。本殿正面に建つ四脚唐門。南禅寺金地院から移築された。伏見城の遺構と伝えられ、欄間や扉などに豪華な装飾が施されている。常時公開…境内、拝観自由
■紙本著色「豊国祭礼図屏風」
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財絵画。豊国神社の豊国大明神臨時祭礼を描いた狩野内膳筆の六曲一双屏風。宝物館に陳列している。常時公開…宝物館(有料)
■鉄灯籠
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財工芸品。豊国神社廃絶後、妙法院に伝来し、豊国神社再興後返納された。宝物館にて常設展示。釜大工天下一辻与二郎實久作。常時公開…宝物館(有料)。
基本情報
正式名称 豊国神社
よみがな とよくにじんじゃ
通称名称 豊国神社
よみがな ほうこくじんじゃ
住所・所在地 京都市東山区大和大路正面茶屋町
アクセス 京阪電車「七条」下車、徒歩約10分
市バス「博物館三十三間堂前」下車、徒歩約5分
開催日時 -
営業時間 9:00~16:30(宝物館)
定休日 無休
TEL 075-561-3802
ホームページ http://www.kyoto-16sha.jp/toyokunijinja/
参考動画:『【若一調査隊】壮大な社殿はなぜ消えた?今も残る体の一部とは?豊臣秀吉の死後の謎』読売テレビニュース https://www.youtube.com/watch?v=uKMd26YxItw
京都市東山区。豊臣秀吉のお墓と神社。阿弥陀が峰と呼ばれる丘に豊国(とよくに)廟(豊臣秀吉の墓)がある。戦国の三英傑のうち、豊臣秀吉の主君であった織田信長は遺体すら発見されていない。徳川家康の遺体は、栃木県日光市の日光東照宮、または、静岡県の久能山東照宮に埋葬されていると伝わる。それでは秀吉はどこに埋葬されているのだろうか。
豊国廟付近は、もともとは鳥辺野(とりべの)と言い、人が亡くなった時に遺体を運び入れる京都の三大葬送地一つであった。古くから位の高い人も鳥辺野に運ばれて埋葬されている。
秀吉は遺言で火葬ではなく、阿弥陀が峰に葬ってほしい、神様として祀られたいと遺した。駐車場の辺りに神社が作られ、北野天満宮のような八棟造り、権現造りのようなスタイルの壮大な社殿を持つ神社であったことが文献で知られる。
慶長3年(1598)8月18日 豊臣秀吉が伏見城で死去(享年63) 朝鮮出兵中のため秘匿
慶長4年(1599)2月18日 秀吉の死が公表
4月13日 阿弥陀が峰に埋葬
4月18日 壮大な規模の豊国社創建
その広さは、約30万坪。現在の三十三間堂や京都国立博物館辺りまでの広い社域であった。
1615年(慶長20年) 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。その直後に家康は豊臣の存在の抹消のため、豊国神社の破却を命じた。しかし北政所の懇願で、破却ではなく、放置してつぶすことになった。
豊国大明神の神号は剥奪、秀吉の祭祀は一切禁止、参詣も禁止。
その状態が明治になるまで260年以上続いた。その間に壮大な社殿も失われたが、没後300年後に秀吉の遺体は掘り起こされ、阿弥陀が峰の山頂に安置された。
しかし、改葬するために遺骨を探した時もいろんな異説があり、改葬時に学者が関与していおらず、阿弥陀が峰のどの辺りに最初埋葬されたのか、場所を特定する情報が残っていない。
山頂に向かう階段のかたわらに秀吉の側室の京極竜子と秀吉の孫「国松」の墓がひっそりと建っている。
大坂夏の陣で大阪城が落城し、国松の父、祖母である秀頼、淀殿はそこで自害した。国松は一旦逃げ延びたが、徳川家康によって捕らえられ、京都の市中を引き回しの上、六条河原で公開処刑されたとされる。国松はわずか8歳であったが、大変立派な態度で、市中を引き回されるときも堂々とし、刑場でも徳川家康が父秀頼との約束を破ったことは、人間として非常に情けないことだと抗議の言葉を残し、堂々たる態度で首をはねられたと言う。その後、国松の遺体を引き取ったのが、京極竜子だった。竜子の縁のある誓願寺というお寺に墓を作ってやった。京極竜子は淀殿の従姉でもある。誓願寺に有った二人の墓は、明治44年豊国廟へ移された。
明治30年没後300年に阿弥陀が峰山頂に豊国廟が作られ、その時に発掘調査で甕に入った三遺体(ミイラ)が発見され、これはおそらく秀吉公の者であろうとされて、山頂にお祀りされるようになった。
明治元年(1868) 明治天皇が豊臣秀吉の名誉回復宣言
明治13年(1880) 方向寺大仏殿跡地に豊国神社が再建
明治30年(1897)~31年 阿弥陀が峰山頂に石造五輪塔建立
(甕に入った遺体を発見。改葬)
秀吉は武家の棟梁である征夷大将軍職につかず、朝廷の役職である「関白」職であり、それは天皇の補佐をする仕事である。それだけ天皇を敬う気持ちの強い人物であり、かつ、新しい天皇の世の中がやってきたという事で豊臣秀吉が名誉を回復できたと思われる。
阿弥陀が峰中腹「中門」
中門付近に秀吉が最初に埋葬されたのではないかと言われている。ただし、その場所は今となってはわからない。
頂上には伊藤忠太という設計家で高さ10m、重さ47トン。ミイラ状で見つかったので取り出した際にばらばらと崩れた。それで絹布で包みなおしてさらに桐の箱に入れて安置したと伝わる。
頂上からは清水寺の舞台が見える。阿弥陀が峰からは京都が一望できるため、秀吉がここで眠りたいと思ったのではないかとみられている。
豊国神社
豊国大明神
唐門は国宝。秀吉が建てた伏見城に有ったものとされる。彫刻の鶴は、日光東照宮の眠り猫や三猿と同じ左甚五郎の作と言われる。
参考:『豊国神社』京都十六社朱印めぐり https://kyoto-16sha.jp/toyokunijinja/
参考:『豊国神社』京都観光オフィシャルサイト京都観光Navi
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=433
太閤豊臣秀吉公を祀る豊国神社の総本社。出世開運・良縁成就の神様として崇敬される。
豊臣秀吉公を奉斎、境内には北政所おね様を祀る貞照神社も鎮座し、出世開運・良縁成就の神様として崇敬される。
神社正面には伝伏見城遺構の国宝唐門がそびえ、重要文化財「 豊国祭礼図屏風」「名物骨喰藤四郎」など多数の宝物を所蔵している。
飛地境内の阿弥陀ヶ峯には秀吉公の墓所豊国廟がある。宝物館拝観有料。9月18日は「例祭」で、旧暦8月18日が祭神・豊臣秀吉の命日に当たる。翌9月19日、茶道・藪内流家元による献茶式がある。
建立:1880(明治13)年
50名以上の団体の場合、一度に入館できない場合がある。(宝物館)
■唐門
豊国神社にある桃山時代建築の国宝建造物。本殿正面に建つ四脚唐門。南禅寺金地院から移築された。伏見城の遺構と伝えられ、欄間や扉などに豪華な装飾が施されている。常時公開…境内、拝観自由
■紙本著色「豊国祭礼図屏風」
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財絵画。豊国神社の豊国大明神臨時祭礼を描いた狩野内膳筆の六曲一双屏風。宝物館に陳列している。常時公開…宝物館(有料)
■鉄灯籠
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財工芸品。豊国神社廃絶後、妙法院に伝来し、豊国神社再興後返納された。宝物館にて常設展示。釜大工天下一辻与二郎實久作。常時公開…宝物館(有料)。
基本情報
正式名称 豊国神社
よみがな とよくにじんじゃ
通称名称 豊国神社
よみがな ほうこくじんじゃ
住所・所在地 京都市東山区大和大路正面茶屋町
アクセス
京阪電車「七条」下車、徒歩約10分
市バス「博物館三十三間堂前」下車、徒歩約5分
開催日時 -
営業時間 9:00~16:30(宝物館)
定休日 無休
TEL 075-561-3802
ホームページ http://www.kyoto-16sha.jp/toyokunijinja/
参考動画:『【若一調査隊】壮大な社殿はなぜ消えた?今も残る体の一部とは?豊臣秀吉の死後の謎』読売テレビニュース https://www.youtube.com/watch?v=uKMd26YxItw
京都市東山区。豊臣秀吉のお墓と神社。阿弥陀が峰と呼ばれる丘に豊国(とよくに)廟(豊臣秀吉の墓)がある。戦国の三英傑のうち、豊臣秀吉の主君であった織田信長は遺体すら発見されていない。徳川家康の遺体は、栃木県日光市の日光東照宮、または、静岡県の久能山東照宮に埋葬されていると伝わる。それでは秀吉はどこに埋葬されているのだろうか。
豊国廟付近は、もともとは鳥辺野(とりべの)と言い、人が亡くなった時に遺体を運び入れる京都の三大葬送地一つであった。古くから位の高い人も鳥辺野に運ばれて埋葬されている。
秀吉は遺言で火葬ではなく、阿弥陀が峰に葬ってほしい、神様として祀られたいと遺した。駐車場の辺りに神社が作られ、北野天満宮のような八棟造り、権現造りのようなスタイルの壮大な社殿を持つ神社であったことが文献で知られる。
慶長3年(1598)8月18日 豊臣秀吉が伏見城で死去(享年63) 朝鮮出兵中のため秘匿
慶長4年(1599)2月18日 秀吉の死が公表
4月13日 阿弥陀が峰に埋葬
4月18日 壮大な規模の豊国社創建
その広さは、約30万坪。現在の三十三間堂や京都国立博物館辺りまでの広い社域であった。
1615年(慶長20年) 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。その直後に家康は豊臣の存在の抹消のため、豊国神社の破却を命じた。しかし北政所の懇願で、破却ではなく、放置してつぶすことになった。
豊国大明神の神号は剥奪、秀吉の祭祀は一切禁止、参詣も禁止。
その状態が明治になるまで260年以上続いた。その間に壮大な社殿も失われたが、没後300年後に秀吉の遺体は掘り起こされ、阿弥陀が峰の山頂に安置された。
しかし、改葬するために遺骨を探した時もいろんな異説があり、改葬時に学者が関与していおらず、阿弥陀が峰のどの辺りに最初埋葬されたのか、場所を特定する情報が残っていない。
山頂に向かう階段のかたわらに秀吉の側室の京極竜子と秀吉の孫「国松」の墓がひっそりと建っている。
大坂夏の陣で大阪城が落城し、国松の父、祖母である秀頼、淀殿はそこで自害した。国松は一旦逃げ延びたが、徳川家康によって捕らえられ、京都の市中を引き回しの上、六条河原で公開処刑されたとされる。国松はわずか8歳であったが、大変立派な態度で、市中を引き回されるときも堂々とし、刑場でも徳川家康が父秀頼との約束を破ったことは、人間として非常に情けないことだと抗議の言葉を残し、堂々たる態度で首をはねられたと言う。その後、国松の遺体を引き取ったのが、京極竜子だった。竜子の縁のある誓願寺というお寺に墓を作ってやった。京極竜子は淀殿の従姉でもある。誓願寺に有った二人の墓は、明治44年豊国廟へ移された。
明治30年没後300年に阿弥陀が峰山頂に豊国廟が作られ、その時に発掘調査で甕に入った三遺体(ミイラ)が発見され、これはおそらく秀吉公の者であろうとされて、山頂にお祀りされるようになった。
明治元年(1868) 明治天皇が豊臣秀吉の名誉回復宣言
明治13年(1880) 方向寺大仏殿跡地に豊国神社が再建
明治30年(1897)~31年 阿弥陀が峰山頂に石造五輪塔建立
(甕に入った遺体を発見。改葬)
秀吉は武家の棟梁である征夷大将軍職につかず、朝廷の役職である「関白」職であり、それは天皇の補佐をする仕事である。それだけ天皇を敬う気持ちの強い人物であり、かつ、新しい天皇の世の中がやってきたという事で豊臣秀吉が名誉を回復できたと思われる。
阿弥陀が峰中腹「中門」
中門付近に秀吉が最初に埋葬されたのではないかと言われている。ただし、その場所は今となってはわからない。
頂上には伊藤忠太という設計家で高さ10m、重さ47トン。ミイラ状で見つかったので取り出した際にばらばらと崩れた。それで絹布で包みなおしてさらに桐の箱に入れて安置したと伝わる。
頂上からは清水寺の舞台が見える。阿弥陀が峰からは京都が一望できるため、秀吉がここで眠りたいと思ったのではないかとみられている。
豊国神社
豊国大明神
唐門は国宝。秀吉が建てた伏見城に有ったものとされる。彫刻の鶴は、日光東照宮の眠り猫や三猿と同じ左甚五郎の
京都市右京区、大堰(おおい)川の下流保津(ほづ)川が京都盆地に流れ出て桂(かつら)川となる地の左岸一帯をいう。東は太秦(うずまさ)に続き、西は小倉山(おぐらやま)の山麓(さんろく)、北は丹波(たんば)高地の一部をなす西山山地の山麓の地域。かつて桂川の氾濫原(はんらんげん)であったが、7世紀に秦(はた)氏一族が改修して田野が開けたという。平安時代以降は天皇や貴族たちが遊猟や遊楽にしばしば訪れ、また嵯峨天皇の離宮嵯峨院(現、大覚寺)、後嵯峨上皇の亀山殿(現、天竜寺)、藤原定家の山荘など貴紳の邸宅や寺院が置かれた。文学の舞台ともなり、歌枕(うたまくら)の地でもあった。『枕草子(まくらのそうし)』には「野は嵯峨野」とある。江戸時代には蔬菜(そさい)栽培が盛んになり、竹林も増加した。昭和初年までは葛野(かどの)郡嵯峨村であったが、1931年(昭和6)京都市へ編入。付近一帯は天竜寺、大覚寺をはじめ、『源氏物語』の「賢木(さかき)」に記される野宮(ののみや)神社、『平家物語』の祇王寺(ぎおうじ)、俳人去来の住んだ落柿舎(らくししゃ)、定家ゆかりの厭離庵(えんりあん)、法然上人(ほうねんしょうにん)(源空)の住んだ二尊院、月の名所の広沢池(ひろさわのいけ)や大沢池(おおさわのいけ)、嵯峨釈迦(しゃか)堂とよばれる清凉寺(せいりょうじ)、無縁仏を集めた化野(あだしの)念仏寺などの名所旧跡、愛宕神社参詣道の嵯峨鳥居本(とりいもと)の民家(門前町が重要伝統的建造物群保存地区に選定)などが点在し、対岸の嵐山(あらしやま)とともに洛西(らくせい)の観光地として、全国から訪れる人が多い。JR山陰本線(嵯峨野線)のほかに、京福電鉄嵐山線、阪急電鉄嵐山線が通じ、保津川沿いに嵯峨野観光鉄道(トロッコ列車)が走る。また観光道路の嵐山・高雄パークウェイの入り口がある。近年、急激な都市化の影響によって、かつての嵯峨野のおもかげは、風致地区以外で失われつつあるのは惜しまれる。[織田武雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
年中無休
拝観料金 大人600円
拝観時間
3月1日~11月30日 午前8時~午後5時
12月1日~2月末日 午前8時半~午後4時半
駐車場 石庭拝観者に限り、無料
拝観平均時間 30分~40分
HP→『大雲山 龍安寺』 http://www.ryoanji.jp/smph/history/index.html
京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。大本山妙心寺の境外塔頭。山号は大雲山。本尊は釈迦如来。開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。有名な石庭で知られる。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。
この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450年)敷地内に龍安寺を建立した。初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の境内地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。
細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、応仁2年(1468年)に焼失した。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、旧地(現在地)に戻すが、勝元は文明5年(1473年)に没す。
長享2年(1488年)勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興された。寺では特芳を中興開山と称している。明応8年(1499年)には方丈が上棟された。その後、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。
1975年(昭和50年)にイギリスの女王エリザベス2世とエディンバラ公フィリップが日本を公式訪問した折、5月10日午後、方丈庭園(石庭)に立ち寄った。
明治時代初期の廃仏毀釈によって衰退し、1895年(明治28年)には狩野派の手による方丈の襖絵90面が他の寺院に売却されていたが、他寺に売却された後、再び売りに出され、九州の炭坑王・伊藤伝右衛門により買い取られている。その後、第二次世界大戦後に流出してしまい、その多くは所在が分からなくなっている。現在はアメリカのメトロポリタン美術館やシアトル美術館に襖絵の一部が所蔵されているのが分かっている。
そんな中、所在不明となっていた襖絵のうち2010年(平成22年)に「群仙図」4面と「琴棋書画図」2面がアメリカのニューヨークでオークションに出品され、龍安寺が買い戻している。また、2018年(平成30年)には「芭蕉図」9面が、静岡県のコレクターを経て、龍安寺が買い戻している。
参考:『龍安寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA
参考:『植物博士のパパが京都で初めて見る日本庭園に言葉を失う【初来日】』Ori&Kaito【世界バイク旅】Ch. https://youtu.be/9eXXLzfMhwM?si=GpSd0Rg1ZdEl6wZe
室町幕府の3代将軍足利義満が北山殿に設けた3層の住宅系建築。最上層に舎利を安置するため舎利殿とよばれた。創建は1398年(応永5)頃。1950年(昭和25)放火で焼失し,55年に再建。初層は法水院,2層は潮音洞といい観音像を安置,3層は究竟頂(くきょうちょう)といい阿弥陀三尊・舎利などを安置した。外部を金箔でおおい,室町中期にはすでに金閣とよばれた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
『臨済宗相国寺派 鹿苑寺 金閣寺について』相国寺HP→https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/about/
写真出処 (伝源頼朝像)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/76/Minamoto_no_Yoritomo.jpg
京都神護寺が所蔵する三幅の肖像画。「絹本著色伝源頼朝像、絹本著色伝平重盛像、絹本著色伝藤原光能像」の名称で1951年(昭和26年)に国宝に指定された。
絹本著色、掛幅装。サイズは伝源頼朝像が縦143cm、横112.8cm、伝平重盛像が縦143cm、横112.2cm、伝藤原光能像が縦143cm、横111.6cmで、人物はほぼ等身大に表される。三像とも絹を複数貼り合わせるのではなく、一枚絹(1幅1舗)に描かれている。作者は藤原隆信と伝えられている。
所有者は神護寺。伝頼朝像、伝重盛像は京都国立博物館、伝光能像は東京国立博物館にそれぞれ寄託されている。毎年5月1日から5日に開かれる神護寺の曝涼(虫干し)展では、伝頼朝像、伝重盛像の2像は神護寺に里帰りし一般公開される(有料)。伝光能像も、東博の常設展などで定期的に公開される。
通説では、源頼朝・平重盛・藤原光能の肖像画とされ、12世紀末の似絵の名手藤原隆信の作とされてきた。しかし、1995年に頼朝像は足利直義、重盛像は足利尊氏、光能像は足利義詮の肖像画であるとする新説が発表され、以後、像主・成立時期などをめぐって論争が続いている(後述)。なお、論争の過程で、三像の成立は早くとも藤原隆信の死(1205年)以降であることが明らかとなっており、隆信を三像作者とする説は、通説・新説いずれからも既に否定された。ただし、通説支持者から三像は隆信が描いた原画を元に作成されたとする説も出されている
公式:『仁和寺について』仁和寺公式ホームページ https://ninnaji.jp/about_outline/
仁和寺(にんなじ)は、京都市右京区御室大内にある真言宗御室派の総本山の寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」の構成資産として、世界遺産に登録されている。
概要
皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。
御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。『徒然草』に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。当寺はまた、宇多天皇を流祖とする華道「御室流」の家元でもある。
普段は境内への入場は無料であり、本坊御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。
宿坊で宿泊客を受け入れている。御室会館のほか、「松林庵」(しょうりんあん)を改修して高級宿坊としている。
歴史
当寺は平安時代前期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建てられ始めた。しかし、光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて元号をとって仁和寺と号した。
当寺の初代別当は天台宗の幽仙であった。しかし、昌泰2年(899年)10月に宇多天皇が当寺で出家して宇多法皇となると、翌11月には東寺にて真言宗の益信を戒師として出家し[4]、これを機に当寺の別当を真言宗の観賢に交替させている。これによって当寺は真言宗の寺院として定着することとなった。法皇は、延喜4年(904年)には当寺の伽藍の南西に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて当寺に住するようになる。そのため、当寺は「御室御所」とも称された。
その後、代々の別当は宇多天皇の子孫が務めていた。また、天暦6年(952年)4月には朱雀法皇が当寺に移り、8月に崩御している。
こうした流れの中、三条天皇の皇子である性信入道親王が当寺の別当の上に新設された検校に任じられた。これ以降、当寺は皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった[6]。仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括した。非皇族で仁和寺門跡になった人物に九条道家の子法助と足利義満の子法尊の2名がいるが、ともに当時の朝廷における絶対的な権力者の息子でかつ後に准后に叙せられるなど皇族門跡に匹敵する社会的地位を有していた。
寛弘7年(1010年)に藤原道長の妻である源倫子の御願によって、観音院潅頂堂が建立される[4]。元永2年(1119年)4月に金堂、東西回廊、鐘楼、経蔵、三面僧房、観音院、潅項院等が焼亡するが、12月には金堂は早くも再建され、保安2年(1122年)に観音院、潅項院も再建されている[4]。
天養元年(1144年)に鳥羽法皇の発願によって、孔雀明王堂が建立される。
室町時代にはやや衰退していたが、応仁の乱(1467年 - 1477年)が勃発すると東軍の兵によって焼かれてしまい伽藍は全焼した。ただ、被害を被る前に本尊の阿弥陀三尊像などは院家であった真光院に運び出されており、焼失を免れている。この後、当寺は本尊と共に双ヶ丘の西麓にある西方寺へ寺基を移している。
天正19年(1591年)に当寺は関白豊臣秀吉によって860石の朱印地を得[4]、次いで元和3年(1617年)に江戸幕府将軍徳川秀忠によって1,500石の朱印地を得ている。
『仁和寺御伝』によると、寛永11年(1634年)7月24日、仁和寺第21世覚深法親王は上洛していた将軍徳川家光に仁和寺の再興を申し入れ、承諾されている。これにより、当寺は幕府の支援を得て伽藍が整備されることとなった。また、寛永年間(1624年 - 1645年)の御所(現・京都御所)建て替えに伴い、御所の紫宸殿(現・金堂)、清涼殿(現・御影堂)、常御殿などが当寺に下賜されて境内に移築されるなどし、正保3年(1646年)にようやく伽藍の再建が完了した。
この江戸時代の再建に際しては、門跡補佐の僧・顕證が当寺で使われている仁和寺の寺号入りの軒丸瓦のデザインや、再建される伽藍の配置構想や金堂に祀る仏像の選定などを行っている。また、経典・密教経典の儀軌などの聖教、当寺に伝わる古文書の管理・収蔵のために経蔵の建立を発願し、完成させている[7]。霊宝館に顕證上人像が収蔵されているが、小さく、衣体も顕證が普段使用していた袈裟を身に着けているという。
慶応3年(1867年)、第30世純仁法親王が還俗して小松宮彰仁親王となった。そして、これ以降皇室出身者が当寺の門跡となることはなかった。ここに当寺は宮門跡「御室御所」としての歴史を終えた[5]。また、1887年(明治20年)には宸殿などの御殿が焼失してしまったが、亀岡末吉の設計により1914年(大正3年)に再建されている[4][5]。
太平洋戦争での日本の敗戦が濃厚となった1945年(昭和20年)1月20日以降、数度にわたり元内閣総理大臣の近衛文麿が当寺を訪れ、昭和天皇が退位して仁和寺で出家するという計画について当寺の門跡と話し合い、出家後の居所などを検討している。1月26日、文麿の別荘陽明文庫において、文麿と昭和天皇の弟宮・高松宮宣仁親王との間で、昭和天皇の出家について会談がもたれた。霊明殿に掲げられている扁額「霊明殿」の文字は、文麿が当寺を訪れた際に揮毫したもので絶筆であるという[8]。
1946年(昭和21年)に真言宗御室派が大真言宗から分離独立し、当寺はその総本山となった。
当寺の南西には光孝天皇後田邑陵(小松山陵)があり、また北には光孝天皇御室陵墓参考地がある。さらに北に行くと大内山に宇多天皇大内山陵があるが、この場所は金堂から見て真北にあたる。
御室桜
御室桜
仁和寺の桜には特に「御室桜(おむろざくら)」の名が付いており、境内の一部にある桜林は国の名勝に指定されている。
江戸時代から名高く、貞享元年(1684年)の『雍州府志』には「今御室清水為一双」、享保3年(1718年)の貝原益軒の『京城勝覧』には「春は此御境内の奥に八重ざくら多し。洛中洛外にて第一とす」と絶賛されていた。
約200本あり、八重咲き。樹高が低いのは、この地の岩盤が固く、深く根を張れないためという。「花(鼻)が低い」ということから「お多福桜」ともいう。このことから京都では、背が低くて鼻が低い女性のことを「御室の桜のような」と評することがあるという。満開は例年4月20日過ぎと遅く、桜の名所の多い京都で季節の最後を飾る。御室桜は日本さくら名所100選に選定されている。
クローン技術による増殖の研究が行われている。
『仁和寺』ホームページ
2024
京都市道183号衣笠宇多野線
京都市道183号衣笠宇多野線(きょうとしどう183ごう きぬがさうたのせん)は、金閣寺前交差点[注釈 1](京都府京都市北区)から福王子交差点(同市右京区)に至る、主要地方道である京都市道。沿線に金閣寺、龍安寺、仁和寺といった名刹を抱える観光道路であり、きぬかけの路(きぬかけのみち)の愛称がつけられている。
概要
別名は鞍馬口通、木辻通、一条通。現道は1963年(昭和38年)11月に開通し、以来「観光道路」と呼ばれていたが、1991年(平成3年)に地元の運動により愛称を公募した結果、第59代宇多天皇が真夏に雪見をしたく、絹を掛けたと伝えられる故事を持つ衣笠山(=きぬかけの山)にちなんで「きぬかけの路」と命名された。 当初の通称「観光道路」から明らかなように、著名な寺院などの観光地を連絡しており、観光シーズンには観光バスや自家用車などで混雑する。
沿道には観光客向けの土産物店や飲食店が並ぶ。地域有志により「きぬかけの路推進協議会」が組織され、沿道を含めた地域の環境保全や活性化のための活動が行われている。 2014年(平成26年)にはこの道のゆるキャラ、平安貴族の妖怪をモチーフとしたきぬか怪(ケ)さんが誕生した。
毎年行われる京都マラソンのコースの一部になっている。
『京都市道183号衣笠宇多野線』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E9%81%93183%E5%8F%B7%E8%A1%A3%E7%AC%A0%E5%AE%87%E5%A4%9A%E9%87%8E%E7%B7%9A
参考:『桂離宮』(宮内庁) https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/katsura-rikyu
参考:『桂離宮』京都観光オフィシャル「京都観光Navi」
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=330
正式名称:桂離宮
よみがな :かつらりきゅう
住所・所在地 :京都市西京区桂御園
アクセス :
阪急電鉄「桂」下車、徒歩約20分
市バス「桂離宮前」下車、徒歩約15分
定休日 定休日 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12/28~1/4)、行事等の実施のため支障のある日
※必ずカレンダーをご確認願います。
TEL 075-211-1215(宮内庁京都事務所参観係)
◎観覧は事前に参観申し込みが必要。参観申し込み要領(PDF)→ https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/pdf/visit-old-1A3_ja.pdf
[Tip]10月15日に観月会有り(要事前申し込み・入場無料・18歳以上で、付き添いなしで歩ける人。車いす不可。8月27日まで受け付け)。
参考:『桂離宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E9%9B%A2%E5%AE%AE
桂離宮(かつらりきゅう)は、京都市西京区桂にある皇室関連施設。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮家の別邸として創設された建築群と庭園からなる。総面積は付属地を含め約6万9千平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の朝廷文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。現在は宮内庁京都事務所により管理されている。創建以来火災に遭うこともなく、ほぼ完全に創建当時の姿を今日に伝えている。昭和39年(1964年)に農地7千平方メートルを買い上げ景観保持の備えにも万全を期している。
桂離宮は最古の回遊式庭園として知られ、庭園と建物が一体となって、日本的な美を形成している。作庭者については、古くから小堀遠州とする伝承があるが、遠州自身が作庭を直接差配したとは考えがたい。実際に作庭に携わった可能性のある人物としては、遠州の義弟である中沼左京、遠州の門下である玉淵坊などの名前が挙げられている。
桂離宮は八条宮家初代の智仁親王(1579年 - 1629年)によって基礎が築かれた。智仁親王は正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、御殿は明治時代、離宮となった二条城に本丸御殿として移築されている)。
桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定される。書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠親王(1619年 - 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、1881年に断絶し、桂離宮は1883年から宮内省の管轄になった。第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。1976年から実施された大修理で、文化庁が調査のため、中書院の地下の発掘作業をしていた時、人工的な池の跡が発見された。そこには桂離宮が造られる以前の遺物が多数見つかっており、智仁親王が発見した桂殿の跡地に造られたとされる証拠となった。
桂離宮の敷地総面積は約7万平方メートルであるが、これには北側の緑地と南側の農地を含んでおり、庭園部分の面積は約5万8千平方メートルである。庭園は多くの入江と複雑な汀線をもつ池を中心とし、池には大小5つの島がある。池の西岸の平坦地には古書院、中書院、新御殿が北東から南西へ雁行形に並ぶ。中書院と新御殿の間には小規模な「楽器の間」がある。これらの建物は一時に建てられたものではなく、元和初年から寛文初年(1615年頃 - 1662年頃)にかけて順次建立されたものである。古書院の西には「御末所」と「臣下控所」、中書院の西には「旧役所」があるが、これらは明治時代に書院群の修理が行われた際に建てられたものである。他の建物としては茶屋として松琴亭、賞花亭、笑意軒、月波楼の4棟、持仏堂の園林堂がある。古記録によれば茶屋は5棟あったが、残り1棟の竹林亭は現存しない。
ドイツの建築家ブルーノ・タウト、ヴァルター・グロピウスといった、外国の建築家も桂離宮を、簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園として高く評価した。昭和8年(1933年)に来日したブルーノ・タウトは桂離宮の簡素な美を絶賛し、その知名度を国際的に高めた[14]。古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感興を「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」(篠田英雄訳)と表現した。
桂離宮および足立美術館(島根県)の庭については、「NHKスペシャル 驚異の庭園 ~美を追い求める 庭師たちの四季~」NHKオンデマンド(2024年2月11日放送)に詳しい。庭師たちの過剰なまでの美への追及によって庭園が管理されている事が良くわかる。
東寺 国宝三重の塔
2019年11月8日撮影(ちよろぎ)
大原・貴船・鞍馬など
2019年11月9日ちよろぎ撮影
上賀茂神社(賀茂別雷(かもわけいかづち)神社)
2019年11月9日 ちよろぎ撮影
[参考動画]
交通オタク系youtuberスーツ旅行さんの京都旅行動画 JR東海の案件動画で、ぷらっとずらし旅の京都ぐるっと観光動画です。スーツ旅行さんの動画は、自分が調べた「点」が、線になり、面になり、空間になるので、重宝しています。彼は旅行業務取扱管理者の資格を持っているのでわかりやすいし、何度見ても興味深いです。
[そうだ京都、行こう]2泊3日で巡る京都観光 https://youtu.be/QYrDd9HqGvA
JR東海さんのキャンペーン中の宣伝動画なので、本来は見られない場所も映像で紹介しています。確認のため見ておくことも大事かなと思っています。
また、建仁寺さんからの説明で、京都のお寺はなぜ美しいのか、美しいものを見て美しいと思うことによって、おのれの内に元来いらした仏様の存在に改めて気づくようにと美しい庭や美しい仏像・建物があると紹介し、動画全体がそのように作成されているような感じがします。