全国通訳案内士試験の最終合格発表は、2026年2月6日(金)です。
古都京都の文化遺産(世界文化遺産)→ 世界遺産としての説明は、こちらに掲載
[構成要素]
賀茂別雷神社(上賀茂神社)(京都市北区)
賀茂御祖神社(下鴨神社)(京都市左京区)
教王護国寺(東寺)(京都市南区)
清水寺(京都市東山区)
延暦寺(滋賀県大津市坂本本町・京都市左京区)
醍醐寺(京都市伏見区)
仁和寺(京都市右京区)
平等院(宇治市)
宇治上神社(宇治市)
高山寺(京都市右京区)
西芳寺(苔寺)(京都市西京区)
天龍寺(京都市右京区)
鹿苑寺(金閣寺)(京都市北区)
慈照寺(銀閣寺)(京都市左京区)
龍安寺(京都市右京区)
本願寺(西本願寺)(京都市下京区)
二条城(京都市中京区)
京都人が冗談交じりに言うのは、京都御所は今も天皇の住まいであり、ちょっと150年ほど東の方に行幸にお出かけになって未だお帰りでないだけのだそうである。
京都御所について
京都御所地図と建物案内
アクセス
京都の御所と離宮の栞
資料(検索機能付き)
美しい写真も豊富でみやすいホームページ。
参考:『京都御所』宮内庁 https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/
各建造物の説明とアクセスが詳しい。写真豊富。
参考:『宮内庁参観案内 京都御所』宮内庁 https://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html
参考:『宮内庁 皇居・京都御所・離宮参観 京都御所施設案内』宮内庁 https://sankan.kunaicho.go.jp/multilingual/kyoto/index.html
清所門からお入りください。
申込手続不要でどなたでもご自由に参観していただけます。
※入場時に手荷物検査を行います。
参考:『京都御所 参観要綱』 https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/visit
京都御所は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設である。。
1337年(建武4年)から1869年(明治2年)までの間の内裏・禁中・禁裏・宮中(歴代天皇並びに後宮や世子などが居住し朝廷として儀式・公務を執り行った場所の事で、現在の皇居とほぼ同義)。現存する建物は概ね1855年(安政2年)に造営した安政度内裏である。現在の京都御所は、宮内庁京都事務所が管理している。
平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明治2年(1869年)、明治天皇の東京行幸時まで存続した。明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。
土御門東洞院殿は、1337年9月26日(建武4年9月2日)に北朝2代光明天皇が居住して以降[8]、明治天皇の東京奠都に至るまで約530年間にわたって使用され続けた内裏である。当初は東西一町南北半町の敷地だったが、足利義満によって敷地が拡大され、その後織田信長や豊臣秀吉による整備を経て現在の様相がほぼ固まった。内裏は江戸時代だけでも慶長度(1613年)、寛永度(1642年)、承応度(1655年)、寛文度(1662年)、延宝度(1675年)、宝永度(1709年)、寛政度(1790年)、安政度(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長度と寛永度は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建となっている。
徳川11代将軍・家斉は、当時蟄居中であった老中松平定信に命じ、有職故実の大家裏松固禅(光世)の書『大内裏考證(だいだいりこうしょう)』を参考とし、寛政の造営は有職故実を重んじ、平安京の古制に則って再建された。これが寛政2年(1790年)の寛政度の造営である。
その後、嘉永7年(1854年)4月6日から4月7日、この御所の東南にある大宮御所芝御殿孝順院(掌侍)住居から出火し、内裏も焼失した。
現在の造営は、徳川13代将軍・家定が、孝明天皇の勅命を受け、老中阿部正弘に命じて再建される。安政2年(1855年)11月23日に再建がなり、これが安政度の造営といわれる。
慶応元年(1865年)~慶応2年(1866年)2月以降、現在の形となった。
現在は京都御所の元であった土御門東洞院(4,363坪)の約8倍である。
総面積 3万3400坪(110,413.2㎡)
南北東側446m、西側450m、東西北側244.5m、南側248.5m
参考:『京都御所』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E6%89%80
京都御苑の中央北部にある。(東西約250m、南北約450mの)築地塀と清流の溝に囲まれた広い域内の建物で、現在のものは江戸末期の1855年(安政2)に再建したもので、一部は平安朝の古制を模しております。御所は東西南北に6門と歴代天皇が即位した紫宸殿。また、北側に皇后宮常御殿などがあります。小御所前には大きな池を配した優雅な庭園があります。清所門から入退出できます。
営業時間
9:00~16:20(最終退出17:00)
アクセス
地下鉄「今出川」駅下車、徒歩約5分
市バス「烏丸今出川」下車、徒歩約5分
参考:『京都御所』京都観光オフィシャルサイト<京都観光NAVI> https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=331
参考:『京都御苑』一般財団法人国民公園協会 https://fng.or.jp/kyoto/
参考:『京都御苑』環境省 https://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/
京都御苑は、京都府京都市上京区にある環境省所管の国民公園。京都御所の周囲の緑地で旧公家町の一帯を指す。
京都市の中心部に位置し、東西南北を寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通に区切られた区域。東西約700m、南北約1300mの範囲で、総面積は92ヘクタール。その内、環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタールである。江戸時代から遺る9ヶ所の外周御門と6ヶ所の切り通しを持つ。
明治の東京奠都の際、公家町として御所を囲んでいた公家屋敷の大半が引越し廃れてしまったため、その荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により緑化を行い住民憩いの場とした。約140あった宮家と公家の邸宅が撤去されて皇宮付属地として整備され、戦後、国民公園となった。
現在は京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所の築地内は宮内庁が、2005年4月に開館した京都迎賓館は内閣府が、それ以外は環境省が管理している。
多くの木々が生い茂る公園内には、京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所、皇宮警察本部京都護衛署などの宮内庁・皇宮警察関連の施設をはじめ、公家屋敷の遺構、公園の管理を行う環境省京都御苑管理事務所の他、一般社団法人国民公園協会が管理を行うグラウンドやテニスコートに各休憩所、資料館、レストラン、カフェ、土産店、大型駐車場などもあり、市民の憩いの場になっている。
参考:『京都御苑』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E8%8B%91
参考:『京都御苑』そうだ京都、行こう(JR東海公式) https://souda-kyoto.jp/guide/spot/kyotogyoen.html
公式ホームページ→ https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/overview/
参考:『世界遺産 二条城』京都府 https://www.pref.kyoto.jp/isan/nijyoujo.html
参考:『二条城の歴史と特徴・見どころ』刀剣ワールド城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16962_tour_043/
参考:『二条城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E
二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある日本の城。江戸時代の徳川将軍家の平城であり近代においては皇室の離宮の役割を担った。正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)である。
京都市街の中にある平城で、足利氏・織田氏・豊臣氏による二条城もあったが(旧二条城跡について)、現存するものは徳川宗家の城のみである。当城は京都御所の裏鬼門に位置する。築城理由には都および朝廷のある京都に江戸城の分身の役割として徳川家康は京都御所・公家町(現:京都御苑および冷泉家一帯)および洛中の守護並び上洛時の居城として造営した城である[3]。
二条城では徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、江戸幕府による禁中並公家諸法度の公布、後水尾天皇の行幸、幕末期は徳川慶喜の居城となり大政奉還の上奏、離宮時代には大正天皇の行啓や饗宴の儀など徳川幕府の始まりと終わりをはじめ日本の歴史を見届けてきた歴史的に重要な場所である。
小堀遠州の代表作と知られる特別名勝・二の丸庭園から国宝・二の丸御殿黒書院を眺める。
明治維新により徳川将軍家から接収された二条城は、1884年に皇室の「二条離宮」へ変遷した。その後、1939年(昭和14年)二条離宮は京都市に恩賜され、元離宮二条城と改称、そして現在に至る。
城内全体が国の史跡に指定されている他、狩野探幽をはじめとする狩野派一門など各名工らが荘厳華麗な金碧画から可憐な花鳥画までの障壁画と多彩な透彫欄間や飾金具ともに日本唯一本来の徳川将軍家城郭御殿完全遺構である二の丸御殿(6棟)が国宝に、旧桂宮邸である本丸御殿をはじめ22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、小堀遠州の代表作と知られる二の丸庭園が特別名勝に指定されている。
城外史跡には、築城時代からの史跡二条城外堀護岸が存在する。
1994年(平成6年)にユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に歴史的および文化的価値の高さから洛中唯一の城郭建築として「古都京都の文化財」として登録された。
参考動画:『二条城・本丸御殿『18年ぶりの一般公開』を前に調査!通常非公開の建物では“特別な朝食”を堪能【福島暢啓の潜入!今昔探偵】【現場から生中継】(2024年8月26日)』MBS NEWS(youtube) https://youtu.be/zN_n4YVVpbg?si=FpaVZSYPerYK53b9 阪神淡路大震災でゆがみが生じてしまい、安全な見学のため18年・16億円かけて耐震補強工事をしていたのが今年秋の公開に至った。大正天皇や昭和天皇が皇太子時代に訪れたが、特に大正天皇は新婚旅行で宿泊した。
京都錦市場商店街HP→ https://www.kyoto-nishiki.or.jp/about/ 誰が読んだかくそ小路や伊藤若冲との関係など参考になる読み物がたっぷり。
参考:『京都市錦市場商店街』京都観光オフィシャルサイト「京都観光Navi」(京都市) https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=4&tourism_id=1174
参考:『錦市場』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E5%B8%82%E5%A0%B4
錦市場(にしき いちば、英語: Nishiki Market)は、京都府京都市中京区のほぼ中央に位置する錦小路通のうち、「寺町通 - 高倉通」間に存在する食品販売中心の商店街である。魚、京野菜といった生鮮食材のほか、乾物や漬物、おばんざい(京言葉で日常の惣菜)などの加工食品を商う老舗・専門店が集まる市場。
参考:『京都府京都市 京都錦市場商店街』中小企業庁 頑張る商店街77道 https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=4&tourism_id=1174
平原通、広小路、大通、東銀座、栄通、西一条中央、名門通の7商店街、駅前東、北平原通の2商店会及び都通り振興会
所在地:京都市
会員数:126商店
商店街の類型:超広域型商店街
ブランディング:
京都錦市場商店街は、京都市のほぼ中心に位置し、日頃から生鮮や加工食品を販売する「京の台所」として多くの市民に親しまれてきた。
また食への関心が高まるなかで、同商店街は観光スポットとしても注目を集め、京野菜などの食材を使った料理を提供する店も増えてきている一方、異業種の出店や観光俗化による「錦らしさ」の喪失が危惧されている。
さらに最近京都市内はもとより首都圏など同商店街以外で「錦市場」を名乗った飲食店や商品が目立ち始めていることに危機感を抱いていた。
平成17年1月京都府内の商店街では初めて「錦市場」の商標登録を取得。錦らしさ、錦ブランド。「錦流」文化創出イベントの実施。「錦らしさ」を追求するテナントミックス。
事業の効果:
(1)商標登録取得による責任の共有化
「錦市場」ブランドの乱用防止はもとより、組合員が商品の製造、品質管理、販売の全てにおける「錦市場」ブランドとしての責任を自覚し、食へのこだわりを再認識した効果は大きい。
(2)世界の「錦市場」としての第一歩
海外提携具体化の促進とイタリアと日本両地でのイベント開催や交易、市場のビジョン策定へ向けた足がかりとなった。
(3)「錦らしさ」の新陳代謝
商店街(市場)としての絆を大切にし、円滑な新陳代謝が図られ、概ね「錦らしさ」のテナントミックスは順調に進捗している。
ニデック京都タワー 公式→ https://www.kyoto-tower.jp/about/
参考:『京都タワー』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC
ニデック京都タワー(ニデックきょうとタワー)は、京都府京都市下京区にある塔である。京阪グループの京阪ホテルズ&リゾーツ株式会社が運営している。ニデックがネーミングライツを取得し2024年4月1日から現在の名前で営業している。
京都駅烏丸中央口前に大きく聳え立っている。台座となっている京都タワービルを含めた高さは131メートルあり、京都市内では最も高い建造物である。
1953年(昭和28年)、京都駅北側の土地に建っていた京都中央郵便局が移転することが決まり、移転後の跡地の活用が検討されていた。またこの土地は国際文化観光都市たる京都の表玄関、京都駅の真正面に当たる物であり、それに相応しくまた公共性に富む土地活用が求められていた。京都商工会議所主催の懇談会で株式会社物産観光センター(のちに株式会社京都産業観光センター)の設立が決まり、翌1959年4月11日、創立した。
当初は屋上に展望台などを作る程度は検討されていたものの、巨大なタワーを建てる事は想定していなかった。だが検討の結果、建物の内部に影響を与えずにタワーを建築出来る事が判明し、山田守(建築家)の設計管理および京都大学工学部建築学教室棚橋諒教授の構造設計により建造されることとなった。この際、単なる鉄骨による無骨なタワーでは京都の表玄関には相応しくないとして、白い円筒状の優雅なデザインが採用された。キッチュなデザインとも評される。建築には日本で初めて、炭酸ガス半自動溶接機が大々的に使用されたという。
1963年(昭和38年)2月7日の地鎮祭後、建物は同年8月13日に立柱式、翌1964年(昭和39年)8月31日に開館[* 2][10]。タワーは1964年2月3日に立柱式、12月28日の開業であった。
その構造は、鉄骨を一切使わず、厚さ12ミリメートルから22ミリメートルの特殊鋼板シリンダーを溶接で繋ぎ合わせ、円筒型の塔身を作ったもの(モノコック構造)となっており、タワー外部に仮設タワーとクレーンを設け引き上げを行った。工期は約1年10カ月、総工費は38億6400万円であった。
タワーの姿は、市内の町家の瓦葺きを波に見立て、海のない京都の街を照らす灯台をイメージしたものである。
タワー上部の展望台からは、京都市内および周辺のほか、天気の良い日には大阪市街を望むこともできる。
台座のビルにはホテルや名店街が入居する。また、展望台や名店街ではタワーに関するグッズなどの販売も行われている。
開業40周年を機に作成されたマスコットキャラクターが、2004年(平成16年)12月たわわちゃんとして正式に誕生した。
2014年(平成26年)の開業50周年に向けたエレベーター改修工事や外壁の塗り直しのため、展望室や台座のビルにあるレストランなどは2012年(平成24年)12月2日から2013年(平成25年)3月まで休業となり、4月1日からリニューアルオープンしている。なお、このリニューアルを機に、レストランは喫茶・軽食も提供するラウンジに営業形態を変更した。なお工事期間中も、ホテルや土産店の営業は続けられていた。
2024年3月、京阪ホールディングスは地元企業でモーター大手のニデックとの間で本タワーの命名権契約を締結したことを発表した。同年4月から2029年3月末までの5年間、本タワーの名称は「ニデック京都タワー」となった。
真宗大谷派東本願寺HP 基本情報→https://www.higashihonganji.or.jp/about/higashihonganji/
参考:『東本願寺』そうだ京都に行こう
東山・祇園
頻出。
京都祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く京都の夏の風物詩である。
7月1日~7月31日
祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。
一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)[注釈 1]の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。
宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。
祇園祭は数々の三大祭の一つに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社・下鴨神社の葵祭、平安神宮の時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭、神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市の高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。
江戸時代、関ヶ原の戦いで一度祇園祭が中止されたが、町人によって復活した。
祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王が仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのである。なお、祇園の語源については、祇園精舎の項目を参照。
その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭」に変更された(ただし「祇園」という名称自体は前述の通り仏教由来である)。
疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で[2]、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた[3]。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。
864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされており、2019年(令和元年)には祭の1150周年を祝うほど、長い歴史を持っている。
御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆であるばかりでなく、陰陽道や修験道の儀式も含まれていた。真夏の祭となったのは、上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと考えられる。
876年(貞観18年)には、播磨国広峯から牛頭天王が京都に遷座し、現在の八坂神社の地に落ち着いた。そこに祇園社として祭られ、感神院と号して比叡山延暦寺に属した。中世を通じて、祇園社は延暦寺の末寺とされ、山門(延暦寺)の洛中支配の拠点となった。比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が行われない時は、祇園御霊会も連動して中止・延期されることが多かった。
(以上、祇園祭wikipedia、京都市観光オフィシャルサイトおよび祇園祭連合会HPによる)
*山鉾について(祇園祭連合会HP)→山鉾一覧
*祇園祭行事日程(7/1~7/31)(祇園祭連合会HP)→行事日程および巡幸路(前祭、後祭マップ)
慈照寺(じしょうじ)は、日本の京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院。大本山相国寺の境外塔頭。山号は東山(とうざん[1])。本尊は釈迦如来。観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られている。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山(本来その寺の開山でない僧を開山として信仰すること )である。
「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。
室町幕府8代将軍足利義政は文明5年(1473年)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺(現・浄土院)のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。義政が山荘造営を思い立った当初(1465年)は、実際の造営地の約1キロメートル南、南禅寺子院の一つであった恵雲院(戦国時代に廃寺)の所在地を考えていたが、応仁の乱後に変更された。
当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父で第3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。
延徳2年(1490年)2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年「慈照寺」に改められた。なお、造営自体が完了したのは義政死去後である。
拝観
本日の開閉門時間 午前5時から午後4時
※各所受付は午前9時~(2024年6月12日現在)
庭園拝観(友禅庵・方丈庭園・共通券 大人:300円・400円・500円)
友禅苑 午前9時~午後4時
方丈庭園 午前9時~午後3時50分
※共通券販売は午後3時20分まで
方丈庭園は御影堂から入ります。
知恩院三門前から御影堂前まで、無料シャトルバスを運行しています。
(三門からはかなりの階段がある傾斜地です)
参考:HP→『浄土宗総本山 知恩院』https://www.chion-in.or.jp/
京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。
なお他流で門跡に当たる当主・住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。浄土門主・法主推戴委員会により推戴される。
知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(現・岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。法然は東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺)を建てると、そこに入った。
「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名を唱えれば極楽往生できるとする思想である。この思想はいわゆる旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。
法然は建永2年(1207年)の承元の法難で讃岐国(現・香川県)に流罪となったが、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻る。その際、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。しかし、翌建暦2年(1212年)1月25日に80歳で没した。
参考:『知恩院』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%A9%E9%99%A2
知恩院は東山の麓に位置し、浄土宗の総本山であり、800年以上の歴史がある。平安時代に浄土宗の開祖法然上人によって開かれ、『御影堂(みえいどう)』、『三門』(日本最大規模)の2つの国宝を持ち、国の名勝『方丈庭園』など多くのみどころがある。知恩院は徳川家康の母於大の方の永代菩提寺になったため、江戸時代に入ってから壮大な建物群が次々建てられた。権威の象徴ともいえる。
三門は高さ約24m、横幅は約50mの大きさで屋根瓦は約7万枚、著名な東大寺南大門よりさらに大きい。三門に「華頂山」と書かれた勅額がかかっていて、遠くからは建物との比率上小さく見えるが、実は畳2畳ほどの大きな扁額である。また、三門は、通常の山号の山ではなく、『空門』『無相門』『無願門』(浄土宗において、悟りに通じる三つの解脱の境地を表わす門=三解脱門)から、三門と呼ぶ。三門の上にも宝冠釈迦牟尼仏像(重文)他、十六羅漢像など壮麗な仏像群が安置されている。(年一回のみ公開)
三門から階段を上った中段に主要な建物が並んでいる。法然上人のお姿(御影)が祀られる御影堂(国宝。家光再建)は、木造建築としては国内5番目と言う壮大な建物。屋根瓦は9万枚近く。もう一つのご本尊阿弥陀如来坐像は阿弥陀堂(1911年再建)に安置されている。この阿弥陀堂で毎朝のお勤めの一番最初の念仏(南無阿弥陀仏(=仏さまを信じて従います、の意味。南無阿弥陀仏を唱えらることで救われる、等しく極楽浄土へ往生できるというのが法然上人(浄土宗)の教え))が唱えられている。
法然上人が知恩院の地に草庵を結んで布教を始めたのが浄土宗の始まり。その後徳川家に庇護されて発展した。
経典を治めた経蔵(重文)の内部の八角輪蔵には徳川秀忠が納めた『宋版一切経』約6千帖が安置されており、この輪蔵を一周すれば、6千帖のお経を読んだと同じ功徳を得られるという。
*知恩院の七不思議
三方正面真向きの猫(狩野信政筆)
忘れ傘(御影堂軒裏に名工左甚五郎が魔除けに隠したと伝えられる。白狐説も)
鴬貼りの廊下
白木の棺
抜け雀
大杓子
瓜生石
方丈(重文) 内部非公開 寛永18年建立。
方丈庭園(指定名勝) 公開(要・拝観料) 若一さんは二十五菩薩(来迎)の庭をお勧めしていた。石が菩薩、植栽(植木)が雲をあらわす。経蔵の左から上がった所には法然上人の御廟があり、右上には鐘楼がある。
知恩院の鐘は大晦日の独特の除夜の鐘で京都の風物詩として広く知られている。
参考:『【若一調査隊】除夜の鐘でおなじみ!浄土宗の総本山・知恩院の荘厳な世界観 800年の歴史とその魅力に迫る』読売テレビニュース https://youtu.be/E5Dn-AOJUG0?si=2vg8tHKbtlLaPtWx
京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。
元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改名された。
京都盆地東部、四条通の東端に鎮座する。境内東側にはしだれ桜で有名な円山公園が隣接していることもあって、地元の氏神(産土)としての信仰を集めるとともに観光地としても多くの人が訪れている。
正月三が日の初詣の参拝者数は近年では約100万人と京都府下では伏見稲荷大社に次ぐ2位となっている。また東西南北四方から人の出入りが可能なため、楼門が閉じられることはなく伏見稲荷大社と同じように夜間でも参拝することが出来る(防犯のため、監視カメラ設置。また、夜間でも有人の警備は行われている)。
2020年(令和2年)12月23日付けで本殿が国宝に、摂社末社など26棟の建造物が重要文化財に指定された。
参考:『八坂神社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
祇園さんとして古くから京都の人々に親しまれてきた八坂神社のお祭りが祇園祭である。
日本三大祭りでもある祇園祭は平安時代(約1150年前)に疫病が鎮まるようにと始まった祭りである。
参拝時間:24時間ご参拝可能。
社務所の受付時間:午前9時~午後5時
ご祈祷の受付時間:午前9時~午後4時
服装:なるべく神前にふさわしいフォーマルな服装で。
礼節:鳥居の前では一礼、帰りも一礼。神様の通り道中央を避け、両端を歩く、御朱印や授与品は参拝の後に。詳しくはHP。
参考:『八坂神社について』八坂神社公式HP https://www.yasaka-jinja.or.jp/about/
公式HP→https://www.heianjingu.or.jp/shrine/heianjingu.html
京都市左京区にある神社。794年(延暦13年)に桓武天皇により長岡京から平安京へ都が移され、1895年(明治28年)に遷都1100年を記念して桓武天皇と孝明天皇を祭神とし創建された。
1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に場所を移して1893年(明治26年)9月3日に地鎮祭が執り行われた。社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院を模し、実物の8分の5の規模で復元されて1895年(明治28年)に完成した。博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を行った天皇である第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。
平安神宮の周辺は岡崎公園として整備されており、文化ゾーンになっている。大鳥居を挟んで西には京都府立図書館、京都国立近代美術館、ロームシアター京都、東には京都市美術館、京都市動物園などがある。
参考:『平安神宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E7%A5%9E%E5%AE%AE
2023年日本地理の京都の出題で名称を問う設問があった。
◎2024年の開催は→2024年10月21日~10が22日
参考:『京都三大祭り 時代祭について』平安神宮 https://www.heianjingu.or.jp/festival/jidaisai.html
時代祭は、毎年10月22日(雨天順延)に行われる平安神宮の大祭で、京都が日本の首都として千有余年にわたって培ってきた伝統工芸技術の粋を、動く歴史風俗絵巻として内外に披露することを主眼としています。このため各時代行列に使用する衣裳や祭具の一つ一つが、厳密な時代考証をもとに作製された"本物"であるところにその特徴があります。
維新勤王隊の奏する笛や太鼓の音色を先頭に、約2,000名・約2キロにわたる行列は順次、明治維新時代から平安京の造営された延暦時代にさかのぼり、歴史と伝統の都・京都三大祭の一つとして、京都の秋を代表する祭となっています。
参考:『時代祭「どんな祭?」』京都観光オフィシャルサイト「京都観光Navi」https://ja.kyoto.travel/event/major/jidai/
平安遷都1100年を記念して明治28(1895)年に始まった時代祭は、平安神宮の大祭です。明治維新時代から平安京の造営された延暦時代まで、約2000人の市民が、時代時代のスタイルに扮して、京都のまちを練り歩く時代風俗行列がみどころです。
参考:『時代祭』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%A5%AD
時代祭(じだいまつり)は、平安神宮の例大祭(10月22日)に附属する年中行事である。神宮創建と平安遷都を祝して明治時代より始められた京都三大祭りの一つ。
平安神宮の例大祭は桓武天皇の平安京遷都を記念するもので、神宮から二基の神輿(天皇の乗物をかたどった紫の鳳輦)を京都御所まで神幸させて建礼門前に仮設した行在所において祭典を執り行う。その日の午後、ふたたび平安神宮へ還御する際に、これら神輿の帰り道を先導する形で行われる風俗行列を時代祭と呼ぶ。
平安時代から幕末までの各時代の首都であった京都でしかできない祭であり、京都民が主体となる住民あげての祭りであるが、葵祭や祇園祭に比べると歴史は浅い。
久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」をおこないました。三十三間堂は、その御所に長寛2年(1164)造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されました。
拝観時間
4月1日~11月15日
8時30分~17時
11月16日~3月31日
9時~16時
※受付終了は閉門時間の30分前
拝観料
一般 600円(550円)
※括弧内は団体料金(25名以上)
公式HP→『蓮華王院 三十三間堂』https://www.sanjusangendo.jp/
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、京都市東山区三十三間堂廻町にある天台宗の寺院。本尊は千手観音。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある妙法院の飛地境内であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。洛陽三十三所観音霊場第17番札所。
この地には元々後白河上皇(1127年 - 1192年)が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂としての三十三間堂である。上皇が眠る「法住寺陵」は三十三間堂の東隣にある。
本堂西側の軒下(長さ約121m)を南から北に矢を射通す弓術の競技。安土桃山時代に行われ始め、江戸時代前期に各藩の弓術家により盛んに行われ、京の名物行事となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜き、その本数を競った。
堂内中央に鎌倉時代の仏師湛慶作の本尊千手観音坐像を安置。本尊の左右には長大な階段状の仏壇があり、左右の仏壇に各500体(50体X10段)の千手観音立像が立ち並ぶ。千手観音立像は本尊の背後にもう1体あり、計1,001体となる。
参考:『三十三間堂』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E9%96%93%E5%A0%82
参考:『南禅寺』公式HP https://nanzenji.or.jp/about_rinzaishu
臨済宗南禅寺派の本山。1291年(正応4)亀山法皇の離宮を賜り、無関普門(大明国師)が開山。室町時代は隆盛を極め、「五山之上」に列せられた。応仁の乱で焼失した伽藍を‘黒衣の宰相’といわれた以心崇伝によって復興。境内には勅使門、三門、法堂、方丈の伽藍が一直線に、その周辺に12の塔頭が並ぶ。三門(重文)は、藤堂高虎の寄進。方丈(国宝)は、大方丈と小方丈に分かれ、大方丈は御所の殿舎を、小方丈は、伏見城殿舎を移築したと伝えられる。小方丈の襖絵、狩野探幽筆「水呑の虎」は名高い。大方丈の前庭(名勝)は伝小堀遠州作で「虎の子渡し」と呼ばれ、江戸初期の代表的な枯山水庭園として知られる。
建立:1291(正応4)年
参考:『南禅寺』京都市HP https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=436
京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山の寺院。山号は瑞龍山。本尊は釈迦如来。開山は無関普門(大明国師)。開基は亀山法皇。正式には太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と号する。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つ。
参考:『南禅寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%A6%85%E5%AF%BA
京都市東山区にある、京都の代表的な繁華街及び歓楽街。
現在の八坂神社は明治以前は祇園社(ぎおんしゃ)と称し、鴨川一帯までの広大な境内地を保有していたため、この界隈のことを祇園と称する。その鳥居前町は元々は四条通に面していたが、明治以降に鴨川付近から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展した。舞妓がいることでも有名な京都有数の花街であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがある。現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らいだが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれる。北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいる。また、鴨川を西に挟んだ対岸には三条通から四条通にかけて花街である先斗町があり、夏期頃には先斗町のお茶屋、料亭、各レストラン、バーが鴨川納涼床を設置し風流な光景が広がる。
なお、名の由来となった祇園社(感神院)は祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神とされていたのでこの名になった。
参考:『祇園』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92
一見さん(いちげんさん)は、あるお店に何らの面識なく初めて訪れた人のことである。
一見さんお断りと言えば、そのようにお店に全く関わりのない初めての人は入店を断られる場合がある事を意味する。そのような店に入るためには、利用前歴がある人物から何らかの形で紹介をされるか、または販売店の場合は、商品を購入する前提(ウインドウショッピングしない)で訪れる必要がある。
主に京都の料亭にそのような店が多いと言われているが、最近は緩くなっており、一見さんでも入店可能な店も増えている。
いわゆる待合茶屋の一部では、財布を持ち歩かない旦那でも遊べるよう置屋に支払う芸妓の費用、料理屋に支払う酒や仕出し費用、タクシー代に至るまで茶屋側が後日まとめて清算、請求するという伝統的な料金システム(売掛)を採っているため、売掛金の回収が担保できない一見さんでは利用できないという事情がある。その中でもインバウンドを含めた観光客が気軽に利用できるように、予約は必要としながらも受け入れを模索する店も現れている。
参考:『一見さん」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A6%8B%E3%81%95%E3%82%93
お店側の主張としては、なじみのお客様のニーズを先回りしてくみ取ってより承久のサービスを提供できるるように初めてのお客様よりもなじみのお客様を大事にしたいという精神体とも聞いている。
京都市の南北の通りの一つ。北は三条通から南は安井北門通まで約1km、祇園の中心を通るメインストリートである。 四条通を境に北側と南側で雰囲気は大きく異なる。四条通以北は、バー、クラブ、飲食店、居酒屋などが入居するテナントビルが立ち並ぶ。 四条通以南はもともと建仁寺の領地であったものが明治政府の神仏分離令と上知令の発布によって建仁寺の領地は没収された同時に、祇園甲部の移転により建仁寺と四条通までの間が明治期以降発展した。由緒ある茶屋や料理屋が立ち並ぶ。2001年に電線類地中化、石畳の整備が完成し、情緒ある町並みへと生まれ変わった。
参考:『花見小路通』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%A6%8B%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E9%80%9A#
甲部(花見小路)
令和6年度は、4月1日~30日の一か月間、第150回記念公演『都をどり百五十回源氏物語舞扇』が行われた。内容としては、
一幕仕立ての早変わりで四季を表現(ヨイヤサー)
日本の伝統美を目の当たりに(京友禅と西陣織)
芸妓・舞妓が生演奏(都をどりは~)
毎年、新作の舞を発表
創始は明治5年。東京遷都の後の京都を再考するべく、日本で初めての博覧会を開催した際、付博覧として芸妓・舞妓の舞を披露したのが始まり。
参考:公式ウェブサイト「都をどり祇園甲部歌舞会』」(英文あり) https://miyako-odori.jp/miyako/
4月1日 - 30日にかけて、京都市の祇園甲部歌舞練場で開催される、祇園甲部の芸妓・舞妓による舞踊公演。1872年(明治5年)に始まり、春秋の二回行なった年や太平洋戦争、新型コロナ禍に伴う休演を経て、2024年(令和6年)で150回に達した。
第1回京都博覧会の余興として、万亭の杉浦治郎右衛門と、当時新進であった井上流家元の井上八千代(三世 片山春子)が企画したことに始まる。初演は1872年4月20日(明治5年3月10日)で、京都府知事槇村正直の勧めで都踊、鴨川踊、東山名所踊が競演し、ことに都踊が好評で、以後ほぼ毎年継続した。槇村が作詞を、井上が伊勢古市の亀の子踊り(伊勢音頭の総踊り)を参考に振付を担当した。舞台まで両側の花道が設えられ、今までの舞台とは一味違う革新的で、花道からお揃いの衣装を着けた踊り子たちが登場して観客を驚かせた。
明治時代末期に、八景で構成される現在のスタイルが確立した。京都および日本各地の名所(日光東照宮や三保の松原など)、四季、歌舞伎作品や『源氏物語』といった幅広い題材をとりいれ、その年の干支や話題にちなみ、新たなる志向で上演され続けている。
参考:『都をどり』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E3%82%92%E3%81%A9%E3%82%8A
参考:『鴨川納涼床 鴨川西岸 二条〜五条』【京都市公式】京都観光オフィシャルサイト「京都観光Navi」 https://ja.kyoto.travel/tourism/article/coolness/
期間 5月1日~9月30日
※店舗により、開催期間が異なります。詳しくは各店舗へ直接お問い合わせください。
内容 夏の兆しが感じられる5月。鴨の河原(鴨川)の水辺には“京の夏の風物詩 ― 納涼床”が早くも始まります。鴨川の納涼床は、歴史も古く、桃山時代に始まると伝えられています。鴨川西岸、二条から五条の間の料亭・旅館など約100店余りが、河原に「床」を組んで営業。
アクセス 市バス5・17・205「四条河原町」または「河原町三条」
ホームページ http://www.kyoto-yuka.com
問い合わせ パンフレット入手先:京都総合観光案内所(JR京都駅ビル2F)
TEL 075(343)0548
参考:『納涼床』Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/%E7%B4%8D%E6%B6%BC%E5%BA%8A
参考:『今日の風物詩 鴨川納涼床への誘い』京都鴨川納涼床協同組合 https://www.kyoto-yuka.com/
参考:『納涼床』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E6%B6%BC%E5%BA%8A
納涼床(のうりょうゆか、のうりょうどこ)、あるいは川床(大阪北浜では「かわゆか」、京都鴨川では「ゆか」、貴船、高雄では「かわどこ」と読むのが一般的)は京都や大阪の夏の風物詩の一つである。料理店や茶屋が川の上や、屋外で川のよく見える位置に座敷を作り、料理を提供する。
5月ごろから9月ごろまで、京都の鴨川、貴船、高雄、鷹峯などで楽しむことができる。
【鴨川納涼床】
先斗町の鴨川納涼床 料亭・割烹などが納涼床を出して軒を連ねている。
開催内容
毎年5月1日から9月30日まで設営される。月間によってそれぞれ「皐月の床」(5月)、「本床」(6月7月8月)、「後涼み」(9月)と呼称される。二条から五条にかけて4つのエリア(上木屋町、先斗町、西石垣、下木屋町)で構成され、90軒余りの店が並ぶ。懐石、割烹、京料理などの和食だけでなく、中華料理、西洋料理、焼肉、喫茶などの店舗でも納涼床を楽しめる。基本的に夜の納涼床が中心であるが、5月・9月は昼の納涼床も楽しめる。(食中毒防止のため、6・7・8月は昼の納涼床は営業しない)
京都府鴨川条例においては、特に「鴨川の右岸の二条大橋から五条大橋までの区間において、飲食を提供するために設置される高床形式の仮設の工作物」(同条例14条)を同条例における鴨川納涼床と定義し、それらについては知事が河川法許可の審査基準を定めるものとしている。
歴史
江戸時代前期の文献(『案内者』〈寛文2年、1662年〉、『日次紀事』〈貞享2年、1685年〉)によれば、鴨川での床が年中行事化したのは17世紀の初頭とみられ、18世紀末頃までは祇園会の前祭から後祭までの期間に限定して設営していたようである。当初は茶屋が鴨川の中州や浅瀬に床几程度のものを臨時に設置していたが、その後、茶屋本体に付随したある種の固定化された床が出現する。文政2年(1819年)刊行の『扁額軌範』の記述からみて、固定化された床は少なくとも19世紀の初頭には確実にあったとみられ、17世紀後半の作品ともいわれる「四条河原風俗図巻」に見られる床が夕涼みを描写したものであれば、その歴史はさらに1世紀以上遡ることができる。
明治時代になると7月から8月にかけて四条大橋を中心に北は竹村屋橋(四条大橋の北約200mにあった橋)から南は団栗橋にかけて設営された。しかし、1894年(明治27年)の鴨川運河開削や1915年(大正4年)の京阪電車鴨東線の延伸などで左岸からは消滅した。
1929年(昭和4年)には半永久的な床を出すことが禁止された。さらに1934年(昭和9年)の室戸台風と1935年(昭和10年)の集中豪雨で壊滅的な被害を受けた。また、第二次世界大戦中は灯火管制などから営業は自粛された。
1952年(昭和27年)に景観保護のため「納涼床許可基準」が策定され規則が整備された。
【貴船の川床】
貴船口駅から貴船神社に向けて少し歩くと20軒ほどの店が床を並べている。京料理や流しそうめんを楽しむことができる。自然が多く情緒溢れる床である。川の上に床をつくる。
【高雄の川床】
京都市内より気温が3~5度低く夏の別天地として知られる高雄。清滝川に張り出すように一段高い位置にたてられた床で屋根が有るのが特徴。天然鮎、京野菜など旬の食材を使った川床料理を楽しむことができる。また6月中旬から7月中旬頃まで、天然記念物の源氏ぼたるも見ることができる。期間はお昼 5月初旬から11月末まで。夜 6月1日~9月末頃まで。
【大阪川床「北浜テラス」】
水都大阪のシンボル「中之島」に面して、北浜1丁目から2丁目の土佐堀川左岸に設けられる川床。背景の梅田のビル街や高速道路、中之島のバラ園や赤レンガの大阪市中央公会堂、時折遊覧船が行く穏やかな土佐堀川(旧淀川)など、都会と自然が融合した広大な空間を楽しめる。3月下旬の川床開きから秋・寒くなるまで運用されているが、常設の為一部店舗は冬季も営業している。
銀閣寺と南禅寺(正確には、若王子神社)の間を結ぶ、約2kmに渡る散歩道。20世紀初期の哲学者である京都大学教授 西田幾太郎(きたろう)が、毎朝この道を歩いて思想に耽っていたことにちなんで名付けられた。脇を流れる運河は、日本最大の湖である琵琶湖から引かれた疎水である。付近を流れる白川は標高に従って北から南へ向かって流れる一方で、人工的に作られた疎水は南から北へ流れている。桜の名所としても有名であり、道沿いには日本画家 橋本関雪によって寄贈された関雪桜が並んでいる。
参考:『哲学の道』京都市HP https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=2684
京都府京都市左京区にある琵琶湖疏水分線に沿った歩道である。
永観堂付近にある熊野若王子神社前の冷泉通若王子橋を南端として始まり、東山山麓の琵琶湖疏水に沿って銀閣寺西の今出川通銀閣寺橋を北端として続く約1.5kmの散歩道。幅員は広くないが、沿道に多くの樹木が植わる。沿道の横には、熊野若王子神社から大豊神社参道までは琵琶湖疏水分線が山裾に沿って流れ、疏水の山側は自然の森となっており、対岸側に桜並木がある。春は桜、初夏は木々の緑、秋は紅葉と四季折々に景色が変化する自然の美しい区間で、京都で最も人気のある散歩道として訪れる人が多く、桜の季節や紅葉の季節には多くの観光客でにぎわう。近年は廃業した喫茶店に住み着いた多くの猫が有名になりつつある区間でもある。それより北側は両側が住宅地となり、疏水の両岸に桜並木が植えられている。歩道も東側にもある場合があるが、よく整備されているのは西側だけである。日本の道100選にも選ばれている。
明治の頃、文人が多く住むようになり「文人の道」と称されていた。その後、京都大学の哲学者・西田幾多郎や田辺元らが好んで散策し[1]、思案を巡らしたことから「哲学の小径」といわれたり、「散策の道」「思索の道」「疏水の小径」などと呼ばれた。1972年(昭和47年)、地元住民が保存運動を進めるに際し、相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。これにちなみ、1981年(昭和56年)に道の中ほどの法然院近くに、西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑が建てられた。
参考:『哲学の道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E9%81%93
幕末と明治維新を専門に扱っている日本で唯一の博物館。
開館時間
10:00~17:30
※最終入館時間は閉館30分前
休館日
毎週月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館)
※展示替え日及び年末年始に休館日がございます。。
入館料
大人 900円
高校生・大学生 500円
小中学生 300円
団体割引(20人以上) 各100円引き
お支払いは現金でお願いいたします。カード等はお使いいただけませんので、ご注意ください。
霊山歴史館友の会 会員の方は、入館料無料です(要会員証提示)。
会員の同伴者は団体料金でご入館いただけます。
身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳をお持ちの方と介助者(お1人のみ)は団体料金でご入館いただけます。
霊山歴史館の公式LINE@と友だちになると、入館料100円割引クーポンを差し上げます(初回のみ)。
参考:『幕末維新ミュージアム 京都東山 霊山歴史館』HP https://www.ryozen-museum.or.jp/
参考:幕末維新ミュージアム『霊山歴史館』京都観光オフィシャルサイト 京都観光NAVI
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=11&tourism_id=763
参考:『霊山歴史館』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%B1%B1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E9%A4%A8
参考:『【若一調査隊】坂本龍馬暗殺の真相 遺品からわかる歴史の真実 京都・霊山歴史館 坂本龍馬を切った刀に隠された秘密とは!?』読売テレビニュースCh.
https://youtu.be/yzqQZFn2ims?si=bGML7FVF1YFDdar3
1970年開館。松下幸之助が初代館長。
博物館の手前には、坂本龍馬・中岡慎太郎・桂小五郎(木戸孝允)らの墓がある霊山墓地もある。
博物館の中には、坂本龍馬が暗殺されたときの竜馬を切った刀・西郷隆盛が自刃の際、介錯した刀・近江屋事件の再現模型(勾配天井で斜めになっていたため、刺客は脇差で竜馬を襲った。竜馬はとっさに刀で受けようとしたが刺客はその竜馬の刀ごと振り下ろし、刀は頭を割ったという状況がわかる。ほぼ即死)(近江屋は、京都の高知藩御用達醤油商)・坂本龍馬のリアルな人形・竜馬が姉に宛てたイラスト入りの手紙・高杉晋作の扇面和歌・近藤勇の所用刀・同鎖帷子など数々の貴重な資料が常設展に展示されている。
公式サイト→『音羽山 清水寺』 https://www.kiyomizudera.or.jp/
拝観時間:
6:00開門~18:00閉門(7.8月は18:30閉門)
春、夏、秋の夜間特別拝観期間中は21:00受付終了
なお、お守り授与所、納経所(ご朱印)での授与は
8:00頃からとなりますので、ご了承の上お参りください。
参考:『清水寺』京都観光オフィシャルサイト「京都観光Navi 」観光スポット・サービス情報 https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=267
参考:『清水寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AF%BA
清水寺(きよみずでら、英: Kiyomizu-dera Temple)は、京都市東山区清水1丁目にある北法相宗の大本山の寺院。山号は音羽山。本尊は十一面千手観世音菩薩。正式には音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら)と号する。もとは法相宗に属していたが、現在は独立して北法相宗を名乗る。西国三十三所第16番札所。洛陽三十三所観音霊場第10から14番札所。境内(敷地面積)は約13万 m2。
清水寺は法相宗(南都六宗の1つ)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場である。鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名であり、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。
本尊 十一面千手観世音菩薩(秘仏)
創建年 伝・宝亀9年(778年)
開山 伝・延鎮
本堂は、国宝。徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建された。「清水の舞台」とも呼ばれる。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大なケヤキの柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている。なお、釘はいっさい使われていない。このような構造を「懸造(かけづくり)」、あるいは「舞台造」といい、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)の所説に基づくものである。
思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」というが、清水寺塔頭・成就院に残る『成就院日記』の記録によれば、実際に飛び降りた人が元禄7年(1694年)から元治元年(1864年)の間に未遂を含み235件[注 1]、死亡者は34人に上り、生存率は85.4パーセントであった。飛び降りた動機は自分の病気の治癒や母親の眼病、暇がほしいといった、「観音様に命を預けて飛び降りれば、命は助かり願いがかなう」という熱い信仰心によるもので決して自殺する目的では無かったことに留意する必要がある。なお、1872年(明治5年)に京都府は「舞台飛び落ち」は封建的な悪習であるとして禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで、「飛び落ち」は影をひそめた。
参考:NHKオンデマンド『究極ガイド 2時間でまわる☆☆☆ 2時間でまわる清水寺』
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024137339SA000/?spg=P202300341400000
清水寺は開創778年、本尊は千手観音(秘仏)。観応信仰が盛んでそのご利益をもとめて年間約500万人の観光客が訪れる。バスで五条坂降車。早朝(ハイシーズンは9時でも大混雑)の拝観がおすすめ。番組では清水寺を3つのエリア(仁王門三重の塔を中心に小さなお堂を巡るエリア・清水の舞台とご本尊を中心としたご利益スポット・清水の水のエリア)に分けて巡る。
まずは善光寺堂の地蔵菩薩・如意輪観音(本尊・宝輪宝珠)や首振り地蔵(祇園の)・釈迦三尊像(善光寺型)を見る。首振り地蔵は茶屋街で親切で人気のあった幇間(たいこもち)鳥羽八が亡くなった時、この世では借金で首が回らなかったけれど、あの世ではよく回りますようにと芸妓たちが首がグルグル回る地蔵を奉納したという。首がグルグル回るので今では好きな人がいる方向にそっと回せば恋が実るという恋愛成就のスポットとして有名になっているという。(ただし回しすぎで本物は首が落ちてしまったので堂前に首が落ちないレプリカが置かれている)
丹色に塗られた仁王門をくぐる。高さ14m幅10m室町時代に建てられ、重要文化財。扁額は3櫃の一人、藤原行成の物。一対の狛犬はどちらも大きく口を開け、大きく仏の教えを広めている。門の左右には3.7mの京都でも最大級の仁王像。清水寺参詣曼荼羅
右手に曲がると春には八重紅しだれという見事な桜が並ぶ。境内にはその他の種類を含む1000本の桜があるという。
八重紅しだれを過ぎると江戸時代の絵師で虎を得意とした岸駒(岸派・がんく)の虎の絵をもとに描いた「岸駒の石灯篭」がある。どの角度でも虎と目が合うと言われている。八方にらみの虎(夜な夜な灯篭を抜け出して境内の警備をしているという)。
四神相応の考えから平安京の東西南北(玄武・青龍・朱雀・白虎)をそれぞれの神獣が守っていると考えられていたが、この西門前の祥雲青龍像に象徴される青龍が京都の東を守っている。また華やかな西門(さいもん)(重文・江戸時代)の裏から望む西向きの景色は京都の景色が一望(標高およそ100m)できるとともに、西の極楽浄土を想う(日想感)景色でもある。
西門を振り返ればすぐ三重の塔(高さ31m、重文。江戸時代・大日如来)が見える。南東の角だけ鬼瓦ではなく、竜(水神)がいる(火事が多かったので防火効果を願って)。
次に随求堂では真っ暗闇の胎内巡りが体験できる(9:00~16:00)。階段を降りるとしだれ桜とソメイヨシノが寄り添う姿が。三重の塔と桜が一緒に撮れるベストスポットだ。逆光モードやフラッシュを焚いて桜もきれいに撮ろう。
その先の鎮守堂は向背(前に出っ張った屋根)付きの切妻式の春日造になっている。神仏習合の名残だ。成就院に向かって歩くと沢山の小さな石仏が見える。明治の廃仏毀釈で捨てなければならなくなった京都のあちこちにあった仏を人々が捨てる忍びずここに持ち寄ったという。廃仏毀釈では清水寺は廃寺こそ免れなかったが寺領は10分の1にされてしまったという。
成就院は応仁の乱後、再建資金の事務所として使われた。幕末の尊王攘夷派の月照上人がいた。西郷隆盛と親交があり、薩摩へ下向したが追われて海へ身を投げた。西郷の月照上人に宛てた碑がある。舌切り茶屋。
(以上第1エリア)
番組ではこの間京都駅南の京都ヘリポートからの遊覧観光を紹介していた。
(以下第2エリア)
第2エリアは経堂の奥の田村堂(重文)から始まる。征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂は妊娠中の妻に鹿を食べさせようと音羽山を訪れた際に僧の延鎮と出会った。延鎮は殺生を止め、観音の功徳を解いて、田村麻呂と共に音羽山に寺を建てることに尽力した。田村麻呂は屋敷を解体しその木材でお寺を建てた。妻も無事出産し、お寺によく参詣したので、身分の高い女性たちが清水寺を訪れるようになった。清少納言も訪れたという。
田村堂前で本堂拝観券を購入。轟門(重文)をくぐり、本堂へ入る前に入り口左にある、本堂の腰長押を見る。
[参考] Suzuki Harunobu, Public domain, via Wikimedia Commons (清水の舞台から飛び降りる美人 鈴木晴信)
参考:『五山送り火』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B1%B1%E9%80%81%E3%82%8A%E7%81%AB
五山送り火(ござんのおくりび)(京都五山送り火とも言う)は、毎年8月16日に京都府京都市左京区にある如意ヶ嶽(大文字山)などで行われるかがり火。宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」と呼ばれることがある。
京都の名物行事・伝統行事。葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都四大行事の一つとされる[1][2]。
毎年8月16日に
「大文字」(京都市左京区浄土寺・如意ヶ嶽(大文字山)。20時00分点火)
「松ケ崎妙法」(京都市左京区松ヶ崎・西山及び東山。20時05分点火)
「船形万灯籠」(京都市北区西賀茂・船山。20時10分点火)
「左大文字」(京都市北区大北山・大文字山。20時15分点火)
「鳥居形松明」(京都市右京区嵯峨鳥居本・曼荼羅山。20時20分点火)
以上の五山で炎が上がり、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされる。
点火時間は1962年までまちまちだったが、1963年から観光業界からの要請により、大文字が20時ちょうどの点火となり、反時計回りに20時10分から松ヶ崎妙法、20時15分から船形万灯籠および左大文字、20時20分から鳥居形松明と固定化した。
2014年に51年ぶりに点火時間が変更され、松ケ崎妙法および船形万灯籠がそれぞれ5分点火時間が早まった。この変更により5山が5分おきに点火されていくことになる。
なお、近年では「大文字」が最初に点火されているが、1956年頃までは「大文字」は最後に点火されていた、とする文献がある。これは大文字が五山の中でも横綱格であるから、という理由からであるという。
また、日本の太陽暦移行後は20時よりの点火となっているが、それ以前のいわゆる旧暦の時代は、1時間程度早かった、と言う説が2014年、在野の歴史研究者である青木博彦により打ち出された。これは本居宣長 1756年 『在京日記』などの資料を分析した結果であるという。
送り火の様子
江戸時代前期以降、京都の文化や地理を記した書籍が好んで発刊されるようになった。これらでは送り火についても取り上げている。これより前の時期、京都における民間の習俗について触れた史料は乏しく、そのため、送り火については江戸時代以降の史料を中心に見るより他ない。
(旧暦の)7月16日の夕刻、あるいは晩に点火する。
その性質から、聖霊の送り火(精霊の送り火)、亡魂の送り火などと呼んでいた。
大文字山の西北の面に大の字の跡があり、それに点火する。多くの史料でこの山について取り上げているが、当時は大文字山という呼称はなく、史料により、如意が嶽、如意宝山(『出来斎京土産』)、慈照寺山(『雍州府志』)、浄土寺山(『日次紀事(ひなみきじ)』)などの差が見受けられる。これらはいずれも同一の山を指していると考えられる。
大の字の跡以外に、妙法、船形(『雍州府志』では船形、『案内者』・『出来斎京土産』では帆かけ舟)にも点火した。妙法については、『日次紀事』などで松ケ崎の山としているほか、『花洛細見図』では大文字山と対になる形で松ケ崎のあたりに「法」の字が描かれている。船形については多くの史料で北山の所在としているが、明確な所在地は記されていない。
左大文字について、史料上の初出は『扶桑京華志』であるが、他山と比較して取り上げている史料の数が乏しい。
鳥居形について、史料上の初出は他の四山より大きく遅れており、江戸時代中期も終わる頃に発刊された『翁草』とされるが、それ以前の絵図にも鳥居形と察せられる送り火の様子が掲載されている。
参考:『如意ケ嶽』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E3%83%B6%E5%B6%BD
如意ヶ嶽(にょいがたけ、にょいがだけ)は日本の京都、東山に存在する山。標高472メートルで、山頂は京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町。他の表記・呼称は如意ヶ嶽、如意嶽、如意岳、如意ヶ峰(にょいがみね)、如意山(にょいやま)など。また如意ヶ嶽は京都市左京区と滋賀県大津市の境ともなっており、鹿ヶ谷から池ノ谷地蔵を経て園城寺へ至る山道は「如意越」(にょいごえ)と呼ばれ、これは京と近江の近道とされ、如意ヶ嶽の戦いなど合戦の舞台になったことがあるほか、城跡も残っている(後述)。また古来より信仰を集めた山であり、山中にはかつて大規模な山岳寺院・如意寺(にょいじ)が在った。
支峰(西峰)として標高465.4メートルの大文字山(だいもんじやま)があり、8月16日に執り行われる京都の伝統行事、五山の送り火の大文字として著名であり、逸話も多い。この大文字山はその山上から京都市内を一望でき、ハイキングコースとしても人気がある。
参考:『豊国神社』京都十六社朱印めぐり https://kyoto-16sha.jp/toyokunijinja/
参考:『豊国神社』京都観光オフィシャルサイト京都観光Navi
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=433
太閤豊臣秀吉公を祀る豊国神社の総本社。出世開運・良縁成就の神様として崇敬される。
豊臣秀吉公を奉斎、境内には北政所おね様を祀る貞照神社も鎮座し、出世開運・良縁成就の神様として崇敬される。
神社正面には伝伏見城遺構の国宝唐門がそびえ、重要文化財「 豊国祭礼図屏風」「名物骨喰藤四郎」など多数の宝物を所蔵している。
飛地境内の阿弥陀ヶ峯には秀吉公の墓所豊国廟がある。宝物館拝観有料。9月18日は「例祭」で、旧暦8月18日が祭神・豊臣秀吉の命日に当たる。翌9月19日、茶道・藪内流家元による献茶式がある。
建立:1880(明治13)年
50名以上の団体の場合、一度に入館できない場合がある。(宝物館)
■唐門
豊国神社にある桃山時代建築の国宝建造物。本殿正面に建つ四脚唐門。南禅寺金地院から移築された。伏見城の遺構と伝えられ、欄間や扉などに豪華な装飾が施されている。常時公開…境内、拝観自由
■紙本著色「豊国祭礼図屏風」
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財絵画。豊国神社の豊国大明神臨時祭礼を描いた狩野内膳筆の六曲一双屏風。宝物館に陳列している。常時公開…宝物館(有料)
■鉄灯籠
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財工芸品。豊国神社廃絶後、妙法院に伝来し、豊国神社再興後返納された。宝物館にて常設展示。釜大工天下一辻与二郎實久作。常時公開…宝物館(有料)。
基本情報
正式名称 豊国神社
よみがな とよくにじんじゃ
通称名称 豊国神社
よみがな ほうこくじんじゃ
住所・所在地 京都市東山区大和大路正面茶屋町
アクセス 京阪電車「七条」下車、徒歩約10分
市バス「博物館三十三間堂前」下車、徒歩約5分
開催日時 -
営業時間 9:00~16:30(宝物館)
定休日 無休
TEL 075-561-3802
ホームページ http://www.kyoto-16sha.jp/toyokunijinja/
参考動画:『【若一調査隊】壮大な社殿はなぜ消えた?今も残る体の一部とは?豊臣秀吉の死後の謎』読売テレビニュース https://www.youtube.com/watch?v=uKMd26YxItw
京都市東山区。豊臣秀吉のお墓と神社。阿弥陀が峰と呼ばれる丘に豊国(とよくに)廟(豊臣秀吉の墓)がある。戦国の三英傑のうち、豊臣秀吉の主君であった織田信長は遺体すら発見されていない。徳川家康の遺体は、栃木県日光市の日光東照宮、または、静岡県の久能山東照宮に埋葬されていると伝わる。それでは秀吉はどこに埋葬されているのだろうか。
豊国廟付近は、もともとは鳥辺野(とりべの)と言い、人が亡くなった時に遺体を運び入れる京都の三大葬送地一つであった。古くから位の高い人も鳥辺野に運ばれて埋葬されている。
秀吉は遺言で火葬ではなく、阿弥陀が峰に葬ってほしい、神様として祀られたいと遺した。駐車場の辺りに神社が作られ、北野天満宮のような八棟造り、権現造りのようなスタイルの壮大な社殿を持つ神社であったことが文献で知られる。
慶長3年(1598)8月18日 豊臣秀吉が伏見城で死去(享年63) 朝鮮出兵中のため秘匿
慶長4年(1599)2月18日 秀吉の死が公表
4月13日 阿弥陀が峰に埋葬
4月18日 壮大な規模の豊国社創建
その広さは、約30万坪。現在の三十三間堂や京都国立博物館辺りまでの広い社域であった。
1615年(慶長20年) 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。その直後に家康は豊臣の存在の抹消のため、豊国神社の破却を命じた。しかし北政所の懇願で、破却ではなく、放置してつぶすことになった。
豊国大明神の神号は剥奪、秀吉の祭祀は一切禁止、参詣も禁止。
その状態が明治になるまで260年以上続いた。その間に壮大な社殿も失われたが、没後300年後に秀吉の遺体は掘り起こされ、阿弥陀が峰の山頂に安置された。
しかし、改葬するために遺骨を探した時もいろんな異説があり、改葬時に学者が関与していおらず、阿弥陀が峰のどの辺りに最初埋葬されたのか、場所を特定する情報が残っていない。
山頂に向かう階段のかたわらに秀吉の側室の京極竜子と秀吉の孫「国松」の墓がひっそりと建っている。
大坂夏の陣で大阪城が落城し、国松の父、祖母である秀頼、淀殿はそこで自害した。国松は一旦逃げ延びたが、徳川家康によって捕らえられ、京都の市中を引き回しの上、六条河原で公開処刑されたとされる。国松はわずか8歳であったが、大変立派な態度で、市中を引き回されるときも堂々とし、刑場でも徳川家康が父秀頼との約束を破ったことは、人間として非常に情けないことだと抗議の言葉を残し、堂々たる態度で首をはねられたと言う。その後、国松の遺体を引き取ったのが、京極竜子だった。竜子の縁のある誓願寺というお寺に墓を作ってやった。京極竜子は淀殿の従姉でもある。誓願寺に有った二人の墓は、明治44年豊国廟へ移された。
明治30年没後300年に阿弥陀が峰山頂に豊国廟が作られ、その時に発掘調査で甕に入った三遺体(ミイラ)が発見され、これはおそらく秀吉公の者であろうとされて、山頂にお祀りされるようになった。
明治元年(1868) 明治天皇が豊臣秀吉の名誉回復宣言
明治13年(1880) 方向寺大仏殿跡地に豊国神社が再建
明治30年(1897)~31年 阿弥陀が峰山頂に石造五輪塔建立
(甕に入った遺体を発見。改葬)
秀吉は武家の棟梁である征夷大将軍職につかず、朝廷の役職である「関白」職であり、それは天皇の補佐をする仕事である。それだけ天皇を敬う気持ちの強い人物であり、かつ、新しい天皇の世の中がやってきたという事で豊臣秀吉が名誉を回復できたと思われる。
阿弥陀が峰中腹「中門」
中門付近に秀吉が最初に埋葬されたのではないかと言われている。ただし、その場所は今となってはわからない。
頂上には伊藤忠太という設計家で高さ10m、重さ47トン。ミイラ状で見つかったので取り出した際にばらばらと崩れた。それで絹布で包みなおしてさらに桐の箱に入れて安置したと伝わる。
頂上からは清水寺の舞台が見える。阿弥陀が峰からは京都が一望できるため、秀吉がここで眠りたいと思ったのではないかとみられている。
豊国神社
豊国大明神
唐門は国宝。秀吉が建てた伏見城に有ったものとされる。彫刻の鶴は、日光東照宮の眠り猫や三猿と同じ左甚五郎の作と言われる。
参考:『豊国神社』京都十六社朱印めぐり https://kyoto-16sha.jp/toyokunijinja/
参考:『豊国神社』京都観光オフィシャルサイト京都観光Navi
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=433
太閤豊臣秀吉公を祀る豊国神社の総本社。出世開運・良縁成就の神様として崇敬される。
豊臣秀吉公を奉斎、境内には北政所おね様を祀る貞照神社も鎮座し、出世開運・良縁成就の神様として崇敬される。
神社正面には伝伏見城遺構の国宝唐門がそびえ、重要文化財「 豊国祭礼図屏風」「名物骨喰藤四郎」など多数の宝物を所蔵している。
飛地境内の阿弥陀ヶ峯には秀吉公の墓所豊国廟がある。宝物館拝観有料。9月18日は「例祭」で、旧暦8月18日が祭神・豊臣秀吉の命日に当たる。翌9月19日、茶道・藪内流家元による献茶式がある。
建立:1880(明治13)年
50名以上の団体の場合、一度に入館できない場合がある。(宝物館)
■唐門
豊国神社にある桃山時代建築の国宝建造物。本殿正面に建つ四脚唐門。南禅寺金地院から移築された。伏見城の遺構と伝えられ、欄間や扉などに豪華な装飾が施されている。常時公開…境内、拝観自由
■紙本著色「豊国祭礼図屏風」
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財絵画。豊国神社の豊国大明神臨時祭礼を描いた狩野内膳筆の六曲一双屏風。宝物館に陳列している。常時公開…宝物館(有料)
■鉄灯籠
豊国神社にある桃山時代作の重要文化財工芸品。豊国神社廃絶後、妙法院に伝来し、豊国神社再興後返納された。宝物館にて常設展示。釜大工天下一辻与二郎實久作。常時公開…宝物館(有料)。
基本情報
正式名称 豊国神社
よみがな とよくにじんじゃ
通称名称 豊国神社
よみがな ほうこくじんじゃ
住所・所在地 京都市東山区大和大路正面茶屋町
アクセス
京阪電車「七条」下車、徒歩約10分
市バス「博物館三十三間堂前」下車、徒歩約5分
開催日時 -
営業時間 9:00~16:30(宝物館)
定休日 無休
TEL 075-561-3802
ホームページ http://www.kyoto-16sha.jp/toyokunijinja/
参考動画:『【若一調査隊】壮大な社殿はなぜ消えた?今も残る体の一部とは?豊臣秀吉の死後の謎』読売テレビニュース https://www.youtube.com/watch?v=uKMd26YxItw
京都市東山区。豊臣秀吉のお墓と神社。阿弥陀が峰と呼ばれる丘に豊国(とよくに)廟(豊臣秀吉の墓)がある。戦国の三英傑のうち、豊臣秀吉の主君であった織田信長は遺体すら発見されていない。徳川家康の遺体は、栃木県日光市の日光東照宮、または、静岡県の久能山東照宮に埋葬されていると伝わる。それでは秀吉はどこに埋葬されているのだろうか。
豊国廟付近は、もともとは鳥辺野(とりべの)と言い、人が亡くなった時に遺体を運び入れる京都の三大葬送地一つであった。古くから位の高い人も鳥辺野に運ばれて埋葬されている。
秀吉は遺言で火葬ではなく、阿弥陀が峰に葬ってほしい、神様として祀られたいと遺した。駐車場の辺りに神社が作られ、北野天満宮のような八棟造り、権現造りのようなスタイルの壮大な社殿を持つ神社であったことが文献で知られる。
慶長3年(1598)8月18日 豊臣秀吉が伏見城で死去(享年63) 朝鮮出兵中のため秘匿
慶長4年(1599)2月18日 秀吉の死が公表
4月13日 阿弥陀が峰に埋葬
4月18日 壮大な規模の豊国社創建
その広さは、約30万坪。現在の三十三間堂や京都国立博物館辺りまでの広い社域であった。
1615年(慶長20年) 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。その直後に家康は豊臣の存在の抹消のため、豊国神社の破却を命じた。しかし北政所の懇願で、破却ではなく、放置してつぶすことになった。
豊国大明神の神号は剥奪、秀吉の祭祀は一切禁止、参詣も禁止。
その状態が明治になるまで260年以上続いた。その間に壮大な社殿も失われたが、没後300年後に秀吉の遺体は掘り起こされ、阿弥陀が峰の山頂に安置された。
しかし、改葬するために遺骨を探した時もいろんな異説があり、改葬時に学者が関与していおらず、阿弥陀が峰のどの辺りに最初埋葬されたのか、場所を特定する情報が残っていない。
山頂に向かう階段のかたわらに秀吉の側室の京極竜子と秀吉の孫「国松」の墓がひっそりと建っている。
大坂夏の陣で大阪城が落城し、国松の父、祖母である秀頼、淀殿はそこで自害した。国松は一旦逃げ延びたが、徳川家康によって捕らえられ、京都の市中を引き回しの上、六条河原で公開処刑されたとされる。国松はわずか8歳であったが、大変立派な態度で、市中を引き回されるときも堂々とし、刑場でも徳川家康が父秀頼との約束を破ったことは、人間として非常に情けないことだと抗議の言葉を残し、堂々たる態度で首をはねられたと言う。その後、国松の遺体を引き取ったのが、京極竜子だった。竜子の縁のある誓願寺というお寺に墓を作ってやった。京極竜子は淀殿の従姉でもある。誓願寺に有った二人の墓は、明治44年豊国廟へ移された。
明治30年没後300年に阿弥陀が峰山頂に豊国廟が作られ、その時に発掘調査で甕に入った三遺体(ミイラ)が発見され、これはおそらく秀吉公の者であろうとされて、山頂にお祀りされるようになった。
明治元年(1868) 明治天皇が豊臣秀吉の名誉回復宣言
明治13年(1880) 方向寺大仏殿跡地に豊国神社が再建
明治30年(1897)~31年 阿弥陀が峰山頂に石造五輪塔建立
(甕に入った遺体を発見。改葬)
秀吉は武家の棟梁である征夷大将軍職につかず、朝廷の役職である「関白」職であり、それは天皇の補佐をする仕事である。それだけ天皇を敬う気持ちの強い人物であり、かつ、新しい天皇の世の中がやってきたという事で豊臣秀吉が名誉を回復できたと思われる。
阿弥陀が峰中腹「中門」
中門付近に秀吉が最初に埋葬されたのではないかと言われている。ただし、その場所は今となってはわからない。
頂上には伊藤忠太という設計家で高さ10m、重さ47トン。ミイラ状で見つかったので取り出した際にばらばらと崩れた。それで絹布で包みなおしてさらに桐の箱に入れて安置したと伝わる。
頂上からは清水寺の舞台が見える。阿弥陀が峰からは京都が一望できるため、秀吉がここで眠りたいと思ったのではないかとみられている。
豊国神社
豊国大明神
唐門は国宝。秀吉が建てた伏見城に有ったものとされる。彫刻の鶴は、日光東照宮の眠り猫や三猿と同じ左甚五郎の
京都市右京区、大堰(おおい)川の下流保津(ほづ)川が京都盆地に流れ出て桂(かつら)川となる地の左岸一帯をいう。東は太秦(うずまさ)に続き、西は小倉山(おぐらやま)の山麓(さんろく)、北は丹波(たんば)高地の一部をなす西山山地の山麓の地域。かつて桂川の氾濫原(はんらんげん)であったが、7世紀に秦(はた)氏一族が改修して田野が開けたという。平安時代以降は天皇や貴族たちが遊猟や遊楽にしばしば訪れ、また嵯峨天皇の離宮嵯峨院(現、大覚寺)、後嵯峨上皇の亀山殿(現、天竜寺)、藤原定家の山荘など貴紳の邸宅や寺院が置かれた。文学の舞台ともなり、歌枕(うたまくら)の地でもあった。『枕草子(まくらのそうし)』には「野は嵯峨野」とある。江戸時代には蔬菜(そさい)栽培が盛んになり、竹林も増加した。昭和初年までは葛野(かどの)郡嵯峨村であったが、1931年(昭和6)京都市へ編入。付近一帯は天竜寺、大覚寺をはじめ、『源氏物語』の「賢木(さかき)」に記される野宮(ののみや)神社、『平家物語』の祇王寺(ぎおうじ)、俳人去来の住んだ落柿舎(らくししゃ)、定家ゆかりの厭離庵(えんりあん)、法然上人(ほうねんしょうにん)(源空)の住んだ二尊院、月の名所の広沢池(ひろさわのいけ)や大沢池(おおさわのいけ)、嵯峨釈迦(しゃか)堂とよばれる清凉寺(せいりょうじ)、無縁仏を集めた化野(あだしの)念仏寺などの名所旧跡、愛宕神社参詣道の嵯峨鳥居本(とりいもと)の民家(門前町が重要伝統的建造物群保存地区に選定)などが点在し、対岸の嵐山(あらしやま)とともに洛西(らくせい)の観光地として、全国から訪れる人が多い。JR山陰本線(嵯峨野線)のほかに、京福電鉄嵐山線、阪急電鉄嵐山線が通じ、保津川沿いに嵯峨野観光鉄道(トロッコ列車)が走る。また観光道路の嵐山・高雄パークウェイの入り口がある。近年、急激な都市化の影響によって、かつての嵯峨野のおもかげは、風致地区以外で失われつつあるのは惜しまれる。[織田武雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
年中無休
拝観料金 大人600円
拝観時間
3月1日~11月30日 午前8時~午後5時
12月1日~2月末日 午前8時半~午後4時半
駐車場 石庭拝観者に限り、無料
拝観平均時間 30分~40分
HP→『大雲山 龍安寺』 http://www.ryoanji.jp/smph/history/index.html
京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。大本山妙心寺の境外塔頭。山号は大雲山。本尊は釈迦如来。開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。有名な石庭で知られる。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。
この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450年)敷地内に龍安寺を建立した。初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の境内地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。
細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、応仁2年(1468年)に焼失した。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、旧地(現在地)に戻すが、勝元は文明5年(1473年)に没す。
長享2年(1488年)勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興された。寺では特芳を中興開山と称している。明応8年(1499年)には方丈が上棟された。その後、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。
1975年(昭和50年)にイギリスの女王エリザベス2世とエディンバラ公フィリップが日本を公式訪問した折、5月10日午後、方丈庭園(石庭)に立ち寄った。
明治時代初期の廃仏毀釈によって衰退し、1895年(明治28年)には狩野派の手による方丈の襖絵90面が他の寺院に売却されていたが、他寺に売却された後、再び売りに出され、九州の炭坑王・伊藤伝右衛門により買い取られている。その後、第二次世界大戦後に流出してしまい、その多くは所在が分からなくなっている。現在はアメリカのメトロポリタン美術館やシアトル美術館に襖絵の一部が所蔵されているのが分かっている。
そんな中、所在不明となっていた襖絵のうち2010年(平成22年)に「群仙図」4面と「琴棋書画図」2面がアメリカのニューヨークでオークションに出品され、龍安寺が買い戻している。また、2018年(平成30年)には「芭蕉図」9面が、静岡県のコレクターを経て、龍安寺が買い戻している。
参考:『龍安寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%AE%89%E5%AF%BA
参考:『植物博士のパパが京都で初めて見る日本庭園に言葉を失う【初来日】』Ori&Kaito【世界バイク旅】Ch. https://youtu.be/9eXXLzfMhwM?si=GpSd0Rg1ZdEl6wZe
室町幕府の3代将軍足利義満が北山殿に設けた3層の住宅系建築。最上層に舎利を安置するため舎利殿とよばれた。創建は1398年(応永5)頃。1950年(昭和25)放火で焼失し,55年に再建。初層は法水院,2層は潮音洞といい観音像を安置,3層は究竟頂(くきょうちょう)といい阿弥陀三尊・舎利などを安置した。外部を金箔でおおい,室町中期にはすでに金閣とよばれた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
『臨済宗相国寺派 鹿苑寺 金閣寺について』相国寺HP→https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/about/
写真出処 (伝源頼朝像)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/76/Minamoto_no_Yoritomo.jpg
京都神護寺が所蔵する三幅の肖像画。「絹本著色伝源頼朝像、絹本著色伝平重盛像、絹本著色伝藤原光能像」の名称で1951年(昭和26年)に国宝に指定された。
絹本著色、掛幅装。サイズは伝源頼朝像が縦143cm、横112.8cm、伝平重盛像が縦143cm、横112.2cm、伝藤原光能像が縦143cm、横111.6cmで、人物はほぼ等身大に表される。三像とも絹を複数貼り合わせるのではなく、一枚絹(1幅1舗)に描かれている。作者は藤原隆信と伝えられている。
所有者は神護寺。伝頼朝像、伝重盛像は京都国立博物館、伝光能像は東京国立博物館にそれぞれ寄託されている。毎年5月1日から5日に開かれる神護寺の曝涼(虫干し)展では、伝頼朝像、伝重盛像の2像は神護寺に里帰りし一般公開される(有料)。伝光能像も、東博の常設展などで定期的に公開される。
通説では、源頼朝・平重盛・藤原光能の肖像画とされ、12世紀末の似絵の名手藤原隆信の作とされてきた。しかし、1995年に頼朝像は足利直義、重盛像は足利尊氏、光能像は足利義詮の肖像画であるとする新説が発表され、以後、像主・成立時期などをめぐって論争が続いている(後述)。なお、論争の過程で、三像の成立は早くとも藤原隆信の死(1205年)以降であることが明らかとなっており、隆信を三像作者とする説は、通説・新説いずれからも既に否定された。ただし、通説支持者から三像は隆信が描いた原画を元に作成されたとする説も出されている
公式:『仁和寺について』仁和寺公式ホームページ https://ninnaji.jp/about_outline/
仁和寺(にんなじ)は、京都市右京区御室大内にある真言宗御室派の総本山の寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」の構成資産として、世界遺産に登録されている。
概要
皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。
御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。『徒然草』に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。当寺はまた、宇多天皇を流祖とする華道「御室流」の家元でもある。
普段は境内への入場は無料であり、本坊御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。
宿坊で宿泊客を受け入れている。御室会館のほか、「松林庵」(しょうりんあん)を改修して高級宿坊としている。
歴史
当寺は平安時代前期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建てられ始めた。しかし、光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて元号をとって仁和寺と号した。
当寺の初代別当は天台宗の幽仙であった。しかし、昌泰2年(899年)10月に宇多天皇が当寺で出家して宇多法皇となると、翌11月には東寺にて真言宗の益信を戒師として出家し[4]、これを機に当寺の別当を真言宗の観賢に交替させている。これによって当寺は真言宗の寺院として定着することとなった。法皇は、延喜4年(904年)には当寺の伽藍の南西に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて当寺に住するようになる。そのため、当寺は「御室御所」とも称された。
その後、代々の別当は宇多天皇の子孫が務めていた。また、天暦6年(952年)4月には朱雀法皇が当寺に移り、8月に崩御している。
こうした流れの中、三条天皇の皇子である性信入道親王が当寺の別当の上に新設された検校に任じられた。これ以降、当寺は皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった[6]。仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括した。非皇族で仁和寺門跡になった人物に九条道家の子法助と足利義満の子法尊の2名がいるが、ともに当時の朝廷における絶対的な権力者の息子でかつ後に准后に叙せられるなど皇族門跡に匹敵する社会的地位を有していた。
寛弘7年(1010年)に藤原道長の妻である源倫子の御願によって、観音院潅頂堂が建立される[4]。元永2年(1119年)4月に金堂、東西回廊、鐘楼、経蔵、三面僧房、観音院、潅項院等が焼亡するが、12月には金堂は早くも再建され、保安2年(1122年)に観音院、潅項院も再建されている[4]。
天養元年(1144年)に鳥羽法皇の発願によって、孔雀明王堂が建立される。
室町時代にはやや衰退していたが、応仁の乱(1467年 - 1477年)が勃発すると東軍の兵によって焼かれてしまい伽藍は全焼した。ただ、被害を被る前に本尊の阿弥陀三尊像などは院家であった真光院に運び出されており、焼失を免れている。この後、当寺は本尊と共に双ヶ丘の西麓にある西方寺へ寺基を移している。
天正19年(1591年)に当寺は関白豊臣秀吉によって860石の朱印地を得[4]、次いで元和3年(1617年)に江戸幕府将軍徳川秀忠によって1,500石の朱印地を得ている。
『仁和寺御伝』によると、寛永11年(1634年)7月24日、仁和寺第21世覚深法親王は上洛していた将軍徳川家光に仁和寺の再興を申し入れ、承諾されている。これにより、当寺は幕府の支援を得て伽藍が整備されることとなった。また、寛永年間(1624年 - 1645年)の御所(現・京都御所)建て替えに伴い、御所の紫宸殿(現・金堂)、清涼殿(現・御影堂)、常御殿などが当寺に下賜されて境内に移築されるなどし、正保3年(1646年)にようやく伽藍の再建が完了した。
この江戸時代の再建に際しては、門跡補佐の僧・顕證が当寺で使われている仁和寺の寺号入りの軒丸瓦のデザインや、再建される伽藍の配置構想や金堂に祀る仏像の選定などを行っている。また、経典・密教経典の儀軌などの聖教、当寺に伝わる古文書の管理・収蔵のために経蔵の建立を発願し、完成させている[7]。霊宝館に顕證上人像が収蔵されているが、小さく、衣体も顕證が普段使用していた袈裟を身に着けているという。
慶応3年(1867年)、第30世純仁法親王が還俗して小松宮彰仁親王となった。そして、これ以降皇室出身者が当寺の門跡となることはなかった。ここに当寺は宮門跡「御室御所」としての歴史を終えた[5]。また、1887年(明治20年)には宸殿などの御殿が焼失してしまったが、亀岡末吉の設計により1914年(大正3年)に再建されている[4][5]。
太平洋戦争での日本の敗戦が濃厚となった1945年(昭和20年)1月20日以降、数度にわたり元内閣総理大臣の近衛文麿が当寺を訪れ、昭和天皇が退位して仁和寺で出家するという計画について当寺の門跡と話し合い、出家後の居所などを検討している。1月26日、文麿の別荘陽明文庫において、文麿と昭和天皇の弟宮・高松宮宣仁親王との間で、昭和天皇の出家について会談がもたれた。霊明殿に掲げられている扁額「霊明殿」の文字は、文麿が当寺を訪れた際に揮毫したもので絶筆であるという[8]。
1946年(昭和21年)に真言宗御室派が大真言宗から分離独立し、当寺はその総本山となった。
当寺の南西には光孝天皇後田邑陵(小松山陵)があり、また北には光孝天皇御室陵墓参考地がある。さらに北に行くと大内山に宇多天皇大内山陵があるが、この場所は金堂から見て真北にあたる。
御室桜
御室桜
仁和寺の桜には特に「御室桜(おむろざくら)」の名が付いており、境内の一部にある桜林は国の名勝に指定されている。
江戸時代から名高く、貞享元年(1684年)の『雍州府志』には「今御室清水為一双」、享保3年(1718年)の貝原益軒の『京城勝覧』には「春は此御境内の奥に八重ざくら多し。洛中洛外にて第一とす」と絶賛されていた。
約200本あり、八重咲き。樹高が低いのは、この地の岩盤が固く、深く根を張れないためという。「花(鼻)が低い」ということから「お多福桜」ともいう。このことから京都では、背が低くて鼻が低い女性のことを「御室の桜のような」と評することがあるという。満開は例年4月20日過ぎと遅く、桜の名所の多い京都で季節の最後を飾る。御室桜は日本さくら名所100選に選定されている。
クローン技術による増殖の研究が行われている。
『仁和寺』ホームページ
2024
京都市道183号衣笠宇多野線
京都市道183号衣笠宇多野線(きょうとしどう183ごう きぬがさうたのせん)は、金閣寺前交差点[注釈 1](京都府京都市北区)から福王子交差点(同市右京区)に至る、主要地方道である京都市道。沿線に金閣寺、龍安寺、仁和寺といった名刹を抱える観光道路であり、きぬかけの路(きぬかけのみち)の愛称がつけられている。
概要
別名は鞍馬口通、木辻通、一条通。現道は1963年(昭和38年)11月に開通し、以来「観光道路」と呼ばれていたが、1991年(平成3年)に地元の運動により愛称を公募した結果、第59代宇多天皇が真夏に雪見をしたく、絹を掛けたと伝えられる故事を持つ衣笠山(=きぬかけの山)にちなんで「きぬかけの路」と命名された。 当初の通称「観光道路」から明らかなように、著名な寺院などの観光地を連絡しており、観光シーズンには観光バスや自家用車などで混雑する。
沿道には観光客向けの土産物店や飲食店が並ぶ。地域有志により「きぬかけの路推進協議会」が組織され、沿道を含めた地域の環境保全や活性化のための活動が行われている。 2014年(平成26年)にはこの道のゆるキャラ、平安貴族の妖怪をモチーフとしたきぬか怪(ケ)さんが誕生した。
毎年行われる京都マラソンのコースの一部になっている。
『京都市道183号衣笠宇多野線』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E9%81%93183%E5%8F%B7%E8%A1%A3%E7%AC%A0%E5%AE%87%E5%A4%9A%E9%87%8E%E7%B7%9A
参考:『桂離宮』(宮内庁) https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/katsura-rikyu
参考:『桂離宮』京都観光オフィシャル「京都観光Navi」
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=330
正式名称:桂離宮
よみがな :かつらりきゅう
住所・所在地 :京都市西京区桂御園
アクセス :
阪急電鉄「桂」下車、徒歩約20分
市バス「桂離宮前」下車、徒歩約15分
定休日 定休日 月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12/28~1/4)、行事等の実施のため支障のある日
※必ずカレンダーをご確認願います。
TEL 075-211-1215(宮内庁京都事務所参観係)
◎観覧は事前に参観申し込みが必要。参観申し込み要領(PDF)→ https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/pdf/visit-old-1A3_ja.pdf
[Tip]10月15日に観月会有り(要事前申し込み・入場無料・18歳以上で、付き添いなしで歩ける人。車いす不可。8月27日まで受け付け)。
参考:『桂離宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E9%9B%A2%E5%AE%AE
桂離宮(かつらりきゅう)は、京都市西京区桂にある皇室関連施設。江戸時代の17世紀に皇族の八条宮家の別邸として創設された建築群と庭園からなる。総面積は付属地を含め約6万9千平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである。離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)に宮内省所管となってからで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の朝廷文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。現在は宮内庁京都事務所により管理されている。創建以来火災に遭うこともなく、ほぼ完全に創建当時の姿を今日に伝えている。昭和39年(1964年)に農地7千平方メートルを買い上げ景観保持の備えにも万全を期している。
桂離宮は最古の回遊式庭園として知られ、庭園と建物が一体となって、日本的な美を形成している。作庭者については、古くから小堀遠州とする伝承があるが、遠州自身が作庭を直接差配したとは考えがたい。実際に作庭に携わった可能性のある人物としては、遠州の義弟である中沼左京、遠州の門下である玉淵坊などの名前が挙げられている。
桂離宮は八条宮家初代の智仁親王(1579年 - 1629年)によって基礎が築かれた。智仁親王は正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、御殿は明治時代、離宮となった二条城に本丸御殿として移築されている)。
桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定される。書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠親王(1619年 - 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、1881年に断絶し、桂離宮は1883年から宮内省の管轄になった。第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。1976年から実施された大修理で、文化庁が調査のため、中書院の地下の発掘作業をしていた時、人工的な池の跡が発見された。そこには桂離宮が造られる以前の遺物が多数見つかっており、智仁親王が発見した桂殿の跡地に造られたとされる証拠となった。
桂離宮の敷地総面積は約7万平方メートルであるが、これには北側の緑地と南側の農地を含んでおり、庭園部分の面積は約5万8千平方メートルである。庭園は多くの入江と複雑な汀線をもつ池を中心とし、池には大小5つの島がある。池の西岸の平坦地には古書院、中書院、新御殿が北東から南西へ雁行形に並ぶ。中書院と新御殿の間には小規模な「楽器の間」がある。これらの建物は一時に建てられたものではなく、元和初年から寛文初年(1615年頃 - 1662年頃)にかけて順次建立されたものである。古書院の西には「御末所」と「臣下控所」、中書院の西には「旧役所」があるが、これらは明治時代に書院群の修理が行われた際に建てられたものである。他の建物としては茶屋として松琴亭、賞花亭、笑意軒、月波楼の4棟、持仏堂の園林堂がある。古記録によれば茶屋は5棟あったが、残り1棟の竹林亭は現存しない。
ドイツの建築家ブルーノ・タウト、ヴァルター・グロピウスといった、外国の建築家も桂離宮を、簡素さの中に美と深い精神性を表した建築及び庭園として高く評価した。昭和8年(1933年)に来日したブルーノ・タウトは桂離宮の簡素な美を絶賛し、その知名度を国際的に高めた[14]。古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感興を「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」(篠田英雄訳)と表現した。
桂離宮および足立美術館(島根県)の庭については、「NHKスペシャル 驚異の庭園 ~美を追い求める 庭師たちの四季~」NHKオンデマンド(2024年2月11日放送)に詳しい。庭師たちの過剰なまでの美への追及によって庭園が管理されている事が良くわかる。
参考:『東寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%AF%BA
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の総本山の寺院。山号は八幡山。本尊は薬師如来。真言宗の根本道場であり、教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。寺紋は雲形紋(東寺雲)。食堂(本尊・十一面観音)は洛陽三十三所観音霊場第23番札所。
当寺は平安京鎮護のための朝廷の官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。このため国宝や重要文化財を含む文化財が多数残る。明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、中でも長者の筆頭である東寺一長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任する慣例だった。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。1934年(昭和9年)に国の史跡に指定、1994年(平成6年)には「古都京都の文化財」の構成資産として世界文化遺産の一つに登録された。
寺号
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でもどちらを見出し語とするかはまちまちである。さらに正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。
なお、宗教法人としての登録名は「教王護国寺」である。「教王」とは王を教化するとの意味であり、この名称には鎮護国家の密教寺院という意味合いが込められている。法人名称であるため、境内にある建造物の国宝・重要文化財を指定する『官報』告示にも「教王護国寺五重塔」等と表示されている。
ただし、「東寺」も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。そもそも平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり、「教王護国寺」は特殊な場合以外には用いられなかった。平安時代の公式の記録や信頼できる文書類にも「教王護国寺」という名称は一切見えず、すべて「東寺」である。正式の文書における「教王護国寺」の初出は仁治元年(1240年)である。国宝に指定されている後宇多天皇の宸翰『東寺興隆条々事書』(延慶8年(1308年))、後宇多天皇宸翰『庄園敷地施入状』、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年(1591年)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に「東寺」と表記されている。現在でも南大門前の石柱に「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には「東寺」とあり、宝物館の名称を「東寺宝物館」とするなど、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している。
歴史
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した当寺の記録書『東宝記』によれば、当寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)に藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立されたという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから実在を疑問視する向きもあるが、当寺では古くからこの延暦15年(796年)を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁14年(823年)に真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が、嵯峨天皇から当寺を下賜され、真言密教の根本道場としたと『弘法大師二十五箇条遺告』(御遺告)に記されている。この時から当寺は国家鎮護の官寺であるととも真言密教の根本道場となった。また、当寺の教えの中心となる建物は本堂である金堂ではなく、講堂である。講堂は当寺が空海に下賜されてから工事がはじめられ、承和6年(839年)に完成している。
当寺は平安時代後期に一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中で後白河法皇の皇女である宣陽門院は空海に深く帰依した。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、当寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院である。「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から当寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。毎月21日の御影供の日には当寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。また、文覚上人の依頼を受け、運慶が諸像の修復を行っている。
中世以後の当寺は後宇多天皇、後醍醐天皇、足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。なかでも、尊氏は新田義貞と合戦をした際に当寺に立てこもり、東大門の扉を固く閉ざし危機を脱したといわれる。このことから東大門は不開門といわれるようになった。
当寺は応仁の乱からの戦火は免れていたものの、文明18年(1486年)に発生した土一揆のために金堂や講堂、南大門などの主要堂塔のほとんどが焼失した。しかし、延徳3年(1491年)には講堂が再建されている。
天正19年(1591年)に豊臣秀吉により2,030石の知行が認められ、金堂は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されている。五重塔は落雷で焼失してしまったが、寛永21年(1644年)に徳川家光によって再建が行われた。
1868年(明治元年)10月21日に南大門が失火で焼失したが、1895年(明治28年)に、豊臣秀頼が慶長6年(1601年)に建てた三十三間堂の西大門を、当寺の南大門(重要文化財)として移築している。
1943年(昭和18年)に玉体安穏と敵国降伏の祈願が行われた。
1965年(昭和40年)に固く閉ざされていた金堂、講堂が初めて一般公開された。
何度かの火災を経て、当寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
なお、当寺の執行は代々にわたって空海の母方の叔父である阿刀大足の子孫が弘仁14年(823年)から1871年(明治4年)まで務めていた。
金堂
国宝。東寺の中心堂宇で諸堂塔のうち最も早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建された。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。建築様式は和様と大仏様(天竺様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。
なお、金堂は豊臣秀吉の造立した方広寺初代大仏殿(京の大仏)を模したものとの伝承がある。秀吉の造立した方広寺大仏殿を描いた絵図資料として、慶長11年(1606年)作とされる狩野内膳の『豊国祭礼図屏風』があるが、それに描かれた大仏殿の外観と東寺金堂の外観が極めて類似している。金堂には大仏殿のように、堂外から内部に安置されている仏像の御顔を拝顔できるようにする観相窓が設けられているが、それの高さは、安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないので、窓を開けても如来の光背しか見えず、観相窓としては無用の代物になってしまっているという 。ただし明かり取り窓としては機能しているという。これは本来この建物のデザインは、大仏を安置するために意匠されたもので、丈六の薬師如来像を安置するために意匠されたものではない(東寺のために意匠されたものではない)ためとされている。江戸時代に刊行された『都名所図会』には金堂について「本尊は薬師仏、脇士は日天・月天なり。焼失の後、豊臣秀頼公の再建なり。洛東大仏殿の模形なり。」と記されている。
金堂の修理工事では、金堂の棟札が確認された。それには豊臣秀頼の寄進によることや片桐且元を奉行として造立工事がなされたことが記されていた。また方広寺の鐘銘に類似した「国家太平 臣民快楽」の文言の記載があった。方広寺の鐘銘では「国家安康 君臣豊楽」と刻字され、それが徳川家康の諱を分断して呪詛し、豊臣を君主とする意図があると徳川方に解釈され、方広寺鐘銘事件さらには大坂の陣での豊臣家滅亡に発展した。
木造薬師如来および両脇侍像(重要文化財) -
像高は中尊(薬師如来)が288センチメートル、左脇侍(向かって右)の日光菩薩が290センチメートル、右脇侍(向かって左)の月光菩薩が289センチメートル。中尊が座す裳懸座の腰回りに12体の十二神将像が立つ。三尊像は寄木造、漆箔仕上げ、玉眼(眼の部分に水晶を嵌め込む)。台座に付属する十二神将像は寄木造、彩色、玉眼。中尊の像内納入の木札、十二神将像の像内銘や納入品、および、東寺長者を務めた義演の日記である『義演准后日記』の記載などから、この三尊像は慶長7年から同9年(1602年 - 1604年)にかけて、七条大仏師康正が康理、康猶、康英らとともに制作したことがわかる。中尊の台座を蓮華座でなく裳懸座とする点、中尊が左手に薬壺(やくこ)を持たない点などは古い要素で、本像が平安時代前期の当初像の形制にならって制作されたことを窺わせる(薬師如来の像は、左手に薬壺を捧持する形が一般的だが、奈良市の薬師寺にある金堂薬師如来像(奈良時代)のような古像は薬壺を持っていない)。
講堂
重要文化財。金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されておらず、天長2年(825年)に空海により着工されて、承和6年(839年)に完成した。この頃は講堂と金堂の周囲を廻廊が巡る形をとっていた。この創建当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆による火災で焼失するが、わずか5年後の延徳3年(1491年)に再建されている。単層入母屋造で純和様である。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置し、立体曼荼羅を構成する。
立体曼荼羅
講堂の須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩、五菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、空海没後の承和6年(839年)に開眼供養が行われているが(『続日本後紀』)、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像である。
これら21体の仏像群からなる立体曼荼羅(以下「講堂立体曼荼羅」)については、他に例のない尊像構成であることから、空海がいずれの経典に基づき、どのような意図で構想したものか明らかでなく、その教理的背景については古くから論争がある。
講堂立体曼荼羅の表す意味について、東密(真言系密教)では古くから「仁王経曼荼羅」(にんのうぎょうまんだら)を表したものであると伝承されてきた。仁王経曼荼羅とは、鎮護国家を祈念する修法である仁王経法の本尊となるもので、『仁王念誦儀軌』を所依経典とする。
諸仏
五仏坐像(重要文化財) - 金剛界大日如来を中心とし、周囲に宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来、阿閦如来を配す。大日如来像は明応6年(1497年)、仏師康珍の作。宝生如来、不空成就如来、阿閦如来の各像は江戸時代の作で、阿弥陀如来像は頭部のみ平安時代の古像のものを流用し、体部は江戸時代の作である。「木造大日如来坐像 附 金剛界四仏坐像」として重要文化財に指定され、大日如来以外の4躯は重要文化財の附(つけたり)指定とされている。大日如来像は像高285センチメートル。像内銘と『東寺長者補任』の記載等から、明応2年から同6年(1493 - 1497年)にかけて、東寺大仏師康珍によって造立されたことがわかる。寄木造、漆箔仕上げ、玉眼(眼の部分に水晶を嵌め込む)。光背には37体の化仏(けぶつ、小型の仏像)があるが、これは金剛界曼荼羅成身会(じょうじんね)の三十七尊を表したもの。大日如来自体は室町時代の作だが、化仏37体のうちの1体は創建期の平安時代前期(9世紀)のものである。
五大菩薩坐像(国宝) - 金剛波羅蜜菩薩(金剛波羅蜜多菩薩とも)を中心に、周囲に金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業菩薩、金剛薩埵の各像を配す。中尊の金剛波羅蜜菩薩像は江戸時代の作。他の4体は後世の補修が多いが、当初像である。一木造に乾漆を併用し、作風・技法ともに奈良時代風が強い。金剛波羅蜜像を除く4躯が「木造五大菩薩坐像 4躯」として国宝に指定され、金剛波羅蜜像は国宝の附(つけたり)指定とされている。
五大明王像(国宝) - 不動明王像を中心に、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王像を配す。東寺御影堂の不動明王像とともに、明王像としては日本最古の作例である。
梵天坐像・帝釈天半跏像(国宝) - 梵天像は法隆寺などにある奈良時代の像と異なり、4面4臂の密教像であり、4羽の鵞鳥が支える蓮華座上に坐す。帝釈天像は甲を着け、白象に乗り、左脚を踏み下げる。両像の台座、帝釈天像の頭部などは後補である。
四天王立像(国宝) - 4体のうち持国天像は表情に怒りをあらわにし、激しい動きを見せるが、他の3体(増長天、広目天、多聞天)の表現は抑制されている。多聞天像は後補部分が多いが、修理の際に後世の彩色を除去したところ、面部などは当初部分が良好に保存されていることが確認された。
東寺講堂内立体曼荼羅仏像配置模式図(リンク)
講堂安置の仏像一覧
群像名 像名 現存像の制作年代 文化財指定
五仏
(五智如来) 大日如来 室町時代 重要文化財
阿閦如来 江戸時代 重要文化財(附指定)
宝生如来 江戸時代 重要文化財(附指定)
阿弥陀如来 江戸時代(頭部平安時代) 重要文化財(附指定)
不空成就如来 江戸時代 重要文化財(附指定)
五菩薩
(五大菩薩) 金剛波羅蜜(多)菩薩 桃山〜江戸時代 国宝(附指定)
金剛薩埵(菩薩) 平安時代 国宝
金剛宝菩薩 平安時代 国宝
金剛法菩薩 平安時代 国宝
金剛業菩薩 平安時代 国宝
五大明王
不動明王 平安時代 国宝
降三世明王 平安時代 国宝
軍荼利明王 平安時代 国宝
大威徳明王 平安時代 国宝
金剛夜叉明王 平安時代 国宝
梵天帝釈天 梵天 平安時代 国宝
帝釈天 平安時代(頭部後補) 国宝
四天王 持国天 平安時代 国宝
増長天 平安時代 国宝
広目天 平安時代 国宝
多聞天 平安時代(補修多し) 国宝
五重塔
国宝。東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)に空海による創建に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)に徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。諸仏は寛永20年(1643年)から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。北にある池は瓢箪池といい、五重塔とともに池泉回遊式庭園の要素になっている。
初重内部の安置仏像は以下の通り(菩薩像の像名は寺伝による)[24]。
東面:阿閦如来、弥勒菩薩、金剛蔵菩薩
南面:宝生如来、除蓋障菩薩、虚空蔵菩薩
西面:阿弥陀如来、文殊菩薩、観音菩薩
北面:不空成就如来、普賢菩薩、地蔵菩薩
境内
金堂(国宝) - 慶長8年(1603年)に豊臣秀頼による再建。解説は既述。
講堂(重要文化財) - 延徳3年(1491年)再建。解説は既述。
五重塔(国宝) - 寛永21年(1644年)に徳川家光による再建。解説は既述。
瓢箪池
東大門(重要文化財) - 建久9年(1198年)再建。慶長10年(1605年)大改修。建武3年(1336年)6月、新田義貞に攻められた足利尊氏がこの門を閉めて難を逃れたという故事により「不開門」(あかずのもん)と呼ばれる。
宝蔵(重要文化財) - 慶賀門の南側、掘割で囲まれた中に建てられている。平安時代後期建立の校倉(あぜくら)造の倉庫で、東寺にある現存最古の建造物である。床板は大きな建物の扉を転用したもので、金堂の扉とも羅城門の扉ともされる。
慶賀門(重要文化財)
食堂(じきどう) - 講堂の後方、境内の北寄りに建つ。観音堂とも呼ばれる。初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定されるが、慶長地震で倒壊した。約200年後の寛政12年(1800年)にようやく再建工事が始められた。この江戸時代再建の食堂は1930年(昭和5年)に火災で焼失し[25]、現在の建物はその後の再建で1933年(昭和8年)に完成したものである[26]。旧本尊の千手観音立像はこの時の火災で焼損したが、1965年(昭和40年)から修理が実施され、現在は寺内の宝物館に安置されている。現在の食堂には明珍恒男作の十一面観音像が本尊として安置されている[26]。洛陽三十三所観音霊場第23番札所。納経所[注 6] は当堂の中にあり、写経会や展示会も行われる。木造四天王立像は、1930年(昭和5年)12月21日の「弘法市(終い弘法)」の日に食堂が失火で焼失した際、内部に安置されていた本尊千手観音立像と四天王像(いずれも旧国宝)も焼損。千手観音像は旧国宝指定解除はされず、修復された。四天王像は焼損の程度が大きかったため修復不可能と判断され指定解除されたが[27]、2018年(平成30年)度に重要文化財に再指定された[28][29]。この四天王像は表面が黒焦げ状態にはなっているものの、像の概形は残っている。1993年(平成5年)から合成樹脂注入による表面の硬化が行われ、現在は再建された食堂に安置されている。像高3メートルを超える日本でも最大級の四天王像である。
夜叉神堂(やしゃがみどう) - 講堂と食堂の中間に建つ東西2棟の小堂。東が雄夜叉(本地文殊菩薩)、西が雌夜叉(本地虚空蔵菩薩)を祀る。
北大門(重要文化財)
宝物館 - 北大門を出た左側にある。鉄筋コンクリート造の3階建ての建物で、1963年(昭和38年)に完成し1965年(昭和40年)10月から一般公開されている。春や秋の観光シーズンにのみ特別展を行い、寺宝を展示している。
弁天堂 - 北大門を出た右側にある。音楽・技芸・財産を司るという弁才天を祀る。
善女大龍王社
蓮池
太元堂 - 北大門を出た右側にある。鎮護国家を司るという大元帥明王と四天王を祀る。大元帥明王は憤怒の形相であるといわれている。
観智院 - 北大門を出て櫛笥(くしげ)小路(平安時代以来そのままの幅で残っている京都市内ただひとつの小路)を進んだ右側に位置する。塔頭であるが、別格本山となっている。学僧であった杲宝を1世として延文4年(1359年)[注 7]に子院として創建された。杲宝は『東宝記』という、東寺の創建から室町時代に至る寺史をまとめた。これは弟子の賢宝により補足完成され、国宝になっている。観智院は東寺のみならず真言宗全体の勧学院と位置づけられ、多くの学僧を輩出している。経蔵である金剛蔵には膨大な文書・典籍・聖教類が所蔵されていたが、現在は東寺宝物館に移されている。通常非公開であるが春秋などに特別公開される場合がある。
宝菩提院 - 弘安2年(1279年)創建と伝えられる。櫛笥小路沿いの観智院の北側にある塔頭で、別格本山となっている。元は観智院と櫛笥小路を挟んで東西対称に建てられていたが、1881年(明治14年)「総黌」(そうこう)開学に伴い現在地に移転した。総黌は、現在の種智院大学ならびに洛南高等学校の母体である。観智院の道をはさんで向かい側には、宝菩提院の正門であった古い本瓦葺きの門がある。現在は東寺西院流能禅方の本流本山となっている。
地蔵院
北総門(重要文化財)
東寺保育園
洛南会館 - 2022年(令和4年)12月20日閉館[30]
大日堂 - そもそもは御影堂の礼拝所であり、その後に尊牌堂となり、後に大日如来像を安置して大日堂となった。2000年(平成12年)に大改修が行われた。浜田泰介の障壁画がある。
鐘楼
経蔵
西門
御影堂(大師堂、国宝) - かつて空海が住房としていた境内西北部の「西院」(さいいん)と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂である。前堂、後堂、中門の3部分からなる複合仏堂で、全体を檜皮葺きとする。1958年(昭和33年)の国宝指定時の名称は「大師堂」であるが、寺では主に「御影堂」の名称を用いている。当初の堂は康暦元年(1379年)の火災による焼失後、その翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年(1390年)、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。後堂(南側)には空海の念持仏とされる不動明王坐像(国宝、9世紀)を安置する。厳重な秘仏で非公開であるが、日本の不動明王像としては最古の作例の一つである。北側の前堂には弘法大師坐像(国宝)を安置する。この像は東寺の親厳の依頼により、天福元年(1233年)に運慶の4男である康勝が製作したもので、空海の弟子の真如が描いた空海の肖像とほぼ同じといわれている。この像は庶民の信仰を広く集めており、像の前では毎朝6時に「お大師様」に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が執り行われ、多くの参拝者が集まる。
大黒堂 - 三面大黒天を祀る。
毘沙門堂 - 大風で天元元年(978年)に倒壊した羅城門の上層から食堂に移されていた国宝・兜跋毘沙門天像(現在は宝物館に収蔵)を安置するために文政5年(1822年)に建立され、1994年(平成6年)に修復された。京都の都七福神(毘沙門天)を祀る。
本坊
庫裏
寺務所
小子房 - 1934年(昭和9年)の再建。内部は6個の部屋(鷲の間、雛鶏の間、勅使の間、牡丹の間、瓜の間、枇杷の間)からなる。各部屋の障壁画は堂本印象により描かれた。南北朝時代には光厳上皇が洛中での戦いが治まるまで小子房に入り、御所としていた。
庭園「澄心苑」 - 七代目小川治兵衛(植治)による作庭[31]。
蓮花門(国宝) - 鎌倉時代再建の八脚門。本坊西側で、小子房の西の門である。空海が高野山金剛峯寺に向かう時に使っていた門で、最後の旅立ちのとき空海の足元に蓮の花が咲き足跡にも蓮の花が咲いていたという伝説から門の名称となった。
本坊表門
勅使門
灌頂院(重要文化財) - 境内南西隅に位置する。伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式)などの儀式を執り行うための堂で、内部には仏像は安置されていない。床は石畳になっており、土足厳禁となっている。
灌頂院北門(重要文化財)
灌頂院東門(重要文化財)
穴門
鎮守八幡宮 - 南大門を入った左側にある。1868年(明治元年)に焼失後、1世紀以上を経た1992年(平成4年)に再建。空海が自ら彫ったとされる東寺の鎮守神・僧形八幡神像と女神像2体を安置する。これらの像は日本最古の神像とされる。薬子の変の際、空海はここで嵯峨天皇勝利の祈祷を行っている。
八島社殿 - 南大門を入った右側にある。東寺以前より鎮座され祭神は地主神とも大己貴神ともいわれる。
南大門(重要文化財) - もともとは慶長6年(1601年)に方広寺(京の大仏)の寺領に組み込まれていた三十三間堂の西大門として豊臣秀頼により建てられた八脚門。以前の南大門が1868年(明治元年)に焼失したため1895年(明治28年)に移築された。幅約18メートル高さ約13メートルで東寺で最大の門。
不二桜 - 弘法大師帰朝1200年記念の2006年(平成18年)に、信徒総代の森紙業元代表・藤定輝好より寄贈された八重紅枝垂れ桜。岩手県盛岡市の旧家が育てたものを三重県鈴鹿市の農園から移植された。
文化財
国宝
(建造物)
金堂
五重塔
大師堂(御影堂)
蓮花門
観智院客殿
(絵画)
絹本著色真言七祖像(絵画) - 真言宗の祖師7人の肖像画。7幅のうち5幅は空海が唐から持ち帰ったもので、損傷甚大とはいえ、唐時代絵画の数少ない遺品としてきわめて貴重。
絹本著色五大尊像 - 宮中で正月の8日から14日までの間行われた後七日御修法(前述)の際に道場に掛けられた仏画。平安後期の作。
絹本著色両界曼荼羅(伝・真言院曼荼羅) - 日本に伝わる両界曼荼羅のうち、もっとも著名なもの。鮮烈な色彩とインド風の濃い諸仏の官能的な肢体が特色。「西院曼荼羅」とも称する。平安時代初期(9世紀)の作。
絹本著色十二天像 六曲屏風一双 - 鎌倉時代、宅磨派の作。
(彫刻)
木造五大菩薩坐像 4躯(金剛薩埵・金剛法・金剛宝・金剛業)附 木造金剛波羅蜜菩薩坐像 - 講堂安置。
木造五大明王像(不動明王・降三世明王・大威徳明王・軍荼利明王・金剛夜叉明王 の5躯) - 講堂安置。
木造梵天・帝釈天像 - 講堂安置。
木造四天王立像 - 講堂安置。
木造不動明王坐像・天蓋 - 大師堂(御影堂)安置。
木造弘法大師坐像(康勝作) - 大師堂(御影堂)安置。
木造兜跋毘沙門天立像 - 像高189.4センチメートル。もと平安京の羅城門に安置されていたと伝わる像[32]。天元3年(980年)羅城門が倒壊したとき、何者かによって、瓦礫の中から掘り出され、東寺に運ばれたという。使われている木は、中国産の魏氏桜桃である。中国・唐時代の作。宝物館に安置。1968年の公開時に左手に持っていた宝塔(約24センチメートル)が盗難に遭って不明となっており、2015年に行われた修理に合わせて宝塔の複製品が新たに作られ、2016年の春の特別展でほぼ半世紀ぶりに元の姿で公開された[32]。
木造僧形八幡神坐像1躯、女神坐像2躯、附・武内宿禰坐像:鎮守八幡宮安置。平安初期の作。日本の神像の最古作の1つ。
(工芸品)
密教法具(伝弘法大師将来。金銅金剛盤、金銅五鈷鈴、金銅五鈷杵) - 唐時代。
犍陀穀糸袈裟・横被(けんだこくし けさ・おうひ)(附:修多羅および組紐2条) - 唐時代の染織工芸品。空海の請来品。
海賦蒔絵袈裟箱(かいぶまきえ けさばこ) - 平安時代初期の漆工芸品。上記袈裟を収納するためのもの。
紫檀塗螺鈿金銅装舎利輦(したんぬりらでんこんどうそう しゃりれん) - 舎利会(しゃりえ:仏陀の遺骨をたたえる年中行事)で用いるもので、神社の神輿に似ている。「紫檀塗螺鈿金銅荘」とは、黒漆塗に朱漆で木目を描き(紫檀塗)、螺鈿(貝殻を用いた装飾)と金銅(銅に金メッキしたもの)で飾ったという意味である。
(書跡・典籍、古文書)
弘法大師筆尺牘(風信帖)(こうぼうだいしひつせきとく・ふうしんじょう) - 「尺牘」とは漢文体の手紙のこと。空海自筆の手紙3通を巻物に仕立てたもので、日本の書道史上きわめて貴重な作品である。1通目の手紙(最澄あて)の冒頭の「風信雲書」という句に因んで「風信帖」と通称される。
弘法大師請来目録 - 空海が唐から持ち帰った品の目録で、筆者は最澄である。
後宇多天皇宸翰東寺興隆条々事書御添状(ごうだてんのうしんかん とうじこうりゅうじょうじょうことがき おんそえじょう)-「宸翰」は「天皇の自筆」の意。弘法大師に帰依した後宇多天皇が、出家の翌年に東寺の発展を願って書き記したもの。
東宝記 12巻、1冊(附:目録1冊) - 南北朝時代から室町時代に成立した、東寺の公式記録書。
重要文化財
(建造物)
講堂
慶賀門
東大門
南大門
北大門
北総門
宝蔵
灌頂院、同北門、同東門
五重小塔
(絵画)
絹本著色十一面観音像
絹本著色不空羂索観音像
絹本著色両界曼荼羅図(一括指定)
絹本著色両界曼荼羅図残欠 2枚(甲本)附:曼荼羅断片及び軸板2枚、錦残欠等一括
絹本著色両界曼荼羅図残欠 2枚(乙本)附:曼荼羅断片及び軸板2枚、錦残欠等一括
絹本著色両界曼荼羅図 2幅(永仁本)
絹本著色両界曼荼羅図 2幅(元禄本)附:絹本著色両界曼荼羅図断片一括
絹本著色両界曼荼羅図(敷曼荼羅)
紙本著色弘法大師行状絵詞 12巻
紙本墨画蘇悉地儀軌契印図(伝宗叡請来)
紙本墨画胎蔵曼荼羅略記 2巻
密教図像 10点(火羅図 1幅、仁王経法本尊像 5幅、聖天像 1幅、大元帥明王像(六面八臂像)1幅、大元帥明王像(六面八臂像)1幅、大元帥明王像(四面八臂像)1幅、大元帥曼荼羅図(十八面三十六臂像)1幅、大元帥曼荼羅図(四面八臂像)1幅、請雨経曼荼羅図 1幅、六大黒天像 1幅)
(彫刻)
木造薬師如来及両脇侍像(金堂安置、本尊)(薬師如来像台座下に十二神将像がある) 中尊像内納入木札等に慶長八年、同九年、七条大仏師康正法印、治部法眼、左京法橋康猶、右京康英の銘がある
木造大日如来坐像(講堂安置) 像内に明応二年十一月廿七日、大仏師法眼康珍等の銘がある 附:金剛界四仏坐像
木造千手観音立像(旧食堂本尊) 白毫内に金製舎利容器を納める(附:檜扇(右脇手前膊内納入)元慶元年十二月墨書)
木造聖僧文殊(しょうそうもんじゅ)坐像(旧食堂安置)
木造地蔵菩薩立像(旧食堂安置)
木造四天王立像(焼損)(所在食堂)
木造夜叉神立像 2軀
木造観音菩薩・梵天・帝釈天立像(二間観音)
木造獅子狛犬 一対
木造獅子(仏像台座の一部)
木造五大虚空蔵菩薩像(伝恵運将来)(所在観智院)
(工芸品)
鈸子(ばっし)一対・銅鑼 1口 文保二年銘
金銅大鋺(おおまり) 2口・金銅鋺 7口・金銅皿 5枚・金銅鋺蓋 8枚(附:金銅角蓋1枚)
金銅舎利塔
金銅鉢 5口
金銅羯磨 4口
刻文脇息
漆皮箱
水精念珠(附:黒漆独鈷文蒔絵合子 永徳二年銘)
法会所用具類(ほうえ しょようぐるい):明細は後出。
木造彩色大壇
(書跡・典籍、古文書)
絹本著色弘法大師像 画賛(伝後宇多院宸翰)あり(談義本尊)
悉曇蔵 巻三、巻八 巻八に天慶五年の奥書
宋版一切経(うち和刻本7帖、補写本18帖)6,087帖
宋版大般若経(うち補写本9帖)642帖
大般若経 597巻(附 経帙残欠(題簽札3枚を含む)一括、経箱6合、竹帙3帙)[38][39]
大般若経(神泉苑寄進経)587帖
大仏頂陀羅尼 雍熙二年僧盛算伝得記
仏説灌頂経 12帖 巻第四、七に天平勝宝六年の奥書
本朝明匠略伝 下 文永十一年書写奥書
東寺観智院聖教類(しょうぎょうるい) 15,402件
弘法大師遺告(絹本)
後醍醐天皇塔供養御願文
舎利奉請文(3通)2巻、1幅
庄園敷地施入状 後宇多院宸翰 2巻
東寺文書(645通) 96巻、77幅、21冊、26通、1鋪
東寺霊宝蔵文書(236通) 8巻、27冊、200通、1鋪
東寺学衆方評定引付 101冊
東寺光明真言講過去帳並現在帳 36巻(附 文書箱1合)
(歴史資料)
東寺御影堂牛玉宝印板木
東寺稲荷御出講枡[42] - 永正十六年九月吉日周善等連署刻銘。
(考古資料)
平安京古瓦 3箇(三彩釉鬼瓦、緑釉鐙瓦、緑釉宇瓦)
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、毎日新聞社が2000年に刊行した『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)による。
国指定史跡
教王護国寺境内 - 1934年(昭和9年)3月13日指定。
京都府指定有形文化財
絹本著色不動明王三童子像(絵画) - 2017年(平成29年)3月17日指定。
絹本著色弘法大師像(観智院伝来)(絵画) - 2017年(平成29年)3月17日指定。
絹本著色弘法大師像(宝菩提院伝来)(絵画) - 2017年(平成29年)3月17日指定。
京都市指定有形文化財
梵鐘(工芸品) - 2007年(平成9年)4月1日指定。
関連文化財
旧蔵の国宝・重要文化財
以下は東寺旧蔵で第二次大戦後に寺の所有を離れた国宝・重要文化財である(国宝・重要文化財指定後に寺を離れたものに限る)。
(国宝)
絹本著色十二天像 12幅(京都国立博物館蔵) - 平安時代後期の色彩華麗な仏画。
絹本著色山水屏風(せんずいびょうぶ)(京都国立博物館蔵) - 密教の儀式の際、道場に立てられた屏風。平安時代後期。
牛皮華鬘(ごひけまん)(奈良国立博物館蔵)
後宇多院宸記(国立歴史民俗博物館蔵)
三宝絵詞(東京国立博物館蔵)
入唐求法巡礼行記(岐阜県・法人蔵) - 円仁著の写本。
類聚名義抄(天理大学蔵・天理大学附属天理図書館保管)
(重要文化財)
(京都国立博物館蔵)木造十二天面 7面
(奈良国立博物館蔵)七大寺日記
(国立歴史民俗博物館蔵)後醍醐院消息
(MOA美術館蔵)絹本著色吉祥天曼荼羅図(旧称:求聞持曼荼羅図)、絹本著色童子経曼荼羅図、諸尊図像、伝法正宗定祖図、九曜星図像、仁王経法図像、太元明王図像、白描曼荼羅集、星曼荼羅図残欠、白銅水瓶、彩絵曲物笥、黒漆螺鈿礼盤、雑伎彩絵唐櫃
(天理大学附属天理図書館蔵)古文尚書巻第十一、世俗諺文上巻、類聚三代格巻第三、作文大躰、古文孝経、蒙求 康永四年書写、蒙求 建永元年及建保六年奥書、文選巻第廿六
(岐阜県・法人蔵)絹本著色閻魔天像、絹本著色愛染明王像、絹本著色宝楼閣曼荼羅図、雲龍図 円山応挙筆、銅造菩薩立像
(愛知県・法人蔵)絹本著色仏眼曼荼羅図、絹本著色普賢延命像
(兵庫県・個人蔵)絹本著色八字文殊菩薩及び八大童子・善財童子像
東寺伝来文書
東寺伝来の文書群のうち、下記が国宝・重要文化財に指定されている。東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)以下3件は第二次世界大戦後に京都府庁および京都大学に譲渡されたもの。滋賀県庁所有分は江戸時代に流出したものである。
東寺百合文書(京都府立京都学・歴彩館蔵、国宝、世界記憶遺産)
東寺観智院伝来文書典籍類(京都府立京都学・歴彩館蔵、重要文化財)
教王護国寺文書(京都大学総合博物館蔵、重要文化財)
東寺文書(滋賀県立琵琶湖博物館蔵、重要文化財)
行事
弘法市
毎月21日は弘法大師の縁日とされ「弘法市」が開かれる。この市は俗に「弘法さん」と呼ばれて親しまれており、特に12月21日の「終い弘法」と1月の「初弘法」は多くの人々でにぎわう[48]。
年中行事
1月3日:修正会
1月8 - 14日:後七日後修法
1月21日:初弘法
3月:春の彼岸会
6月15日:降誕会
8月15日:献灯法要
9月:秋の彼岸会
11月15日:鎮守八幡菩薩会
12月21日:終い弘法
ご詠歌
東寺のご詠歌:身は高野(たかの)、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり
弘法大師 :空海の こころのうちに 咲く花は 弥陀よりほかに 知るひとぞなき
洛陽三十三所:洛陽や たつねめぐりて まいるらん たれに東寺の うちのかんのん
大日如来 :ひのめぐみ つみとがのゆき きえはてて あまねくてらす みとやなるらん
薬師如来 :輪王の 深き誓いの 護国寺に 瑠璃の御法(みのり)の 声ぞ絶えせぬ
前後の札所
洛陽三十三所観音霊場
22 城興寺 - 23 東寺 - 24 長圓寺
真言宗十八本山
8 泉涌寺 - 9 東寺 - 10 勧修寺
西国愛染十七霊場
7 大聖寺 - 8 東寺 - 9 覚性律庵
京都十三仏霊場
11 隨心院 - 12 東寺 - 13 法輪寺
京都十二薬師霊場
1 平等寺 - 2 東寺 - 3 水薬師寺
都七福神(毘沙門天)
神仏霊場巡拝の道
83 城南宮 - 84 東寺 - 85 善峯寺
所在地
京都府京都市南区九条町1
アクセス
JR東海道本線(琵琶湖線・JR京都線)・山陰本線(嵯峨野線)・奈良線、JR東海道新幹線、近鉄京都線、京都市営地下鉄烏丸線 京都駅より徒歩約15分。
近鉄京都線 東寺駅より徒歩約10分。
バス
京都駅前バス停から
B3乗り場から京都市営バス208号系統水族館西大路駅行きで東寺南門前下車
C4乗り場から京都市営バス42号系統洛西口駅前行きで東寺東門前下車(1時間に1本程度)
C4乗り場から京都市営バス16号系統南区総合庁舎方面行きで東寺西門前下車(1時間に2本程度)
C4乗り場から京都市営バス19号系統横大路車庫行きで東寺南門前下車(1時間に1本程度)
京都駅八条口から
F1乗り場から京都市営バス71号系統・特71号系統松尾橋行きで東寺東門前下車(日中は1時間に2本程度)
F1乗り場から京都まちづくり交通研究所(京都市営バスが受託運行)「東寺・梅小路エクスプレス」で東寺東門前下車(土曜・休日のみ運行・1時間に4本程度)
G1乗り場から京都市営バス16号系統南区総合庁舎方面行きで東寺西門前下車(1時間に2本程度)
G1乗り場から京都市営バス19号系統横大路車庫行きで東寺南門前下車(1時間に1本程度)
H6番乗り場から京阪バス26号経路京阪淀駅行きで東寺南門下車(1日2往復のみ)
阪急電鉄京都本線 大宮駅前「四条大宮」バス停から
3乗り場から京都市営バス18号系統久我石原町行きで東寺東門前下車(1時間に2本程度)
3乗り場から京都市営バス特18号系統久世橋東詰行きで東寺東門前下車(1時間に1本程度・平日は1時間に1 - 2本)
3乗り場から京都市営バス71号・特71号系統京都駅八条口行きで東寺東門前下車(日中は1時間に2本程度)
3乗り場から京都市営バス207号系統東寺・東福寺方面行きで東寺東門前下車(10分前後おき)
京阪本線 淀駅前バス停から
京阪バス26号経路京都駅八条口行きで東寺南門下車(1日2往復のみ)
東寺 国宝三重の塔
2019年11月8日撮影(ちよろぎ)
『伏見稲荷大社とは』伏見稲荷大社 https://inari.jp/about/
参考:『伏見稲荷大社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%A4%A7%E7%A4%BE
伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は、京都府京都市伏見区深草薮之内町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は単立神社となっている。
旧称は「稲荷神社」。1946年に現社名に改称した(後述)。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本宮である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)。現存する旧社家は大西家。
現在は「伏見」を冠しているが、伏見の中心部大手筋からは北へ4キロメートルほど離れた深草地区にある。また、藤森神社の氏子圏のほぼ中央に鎮座する当社の氏子圏は北西に離れた鴨川の対岸、東寺や京都駅周辺の南区や下京区に広がる。
概要
大鳥居
京都盆地東山三十六峰最南端の霊峰稲荷山の西麓に鎮座する稲荷信仰の御本社。その信仰は稲荷山の3つの峰を神そのものとして崇拝したことを源流とする。初め農耕の神として祀られ、のちに殖産興業の性格が加わって衆庶の篤い信仰を受けた。神が稲荷山に降り立ったという縁起から、2月の初午の日は古来より多くの参拝者で賑わう。清少納言が自らの稲荷詣を『枕草子』に記すほか、『蜻蛉日記』『今昔物語集』など古典にもしばしば登場する。平安時代、東寺(=教王護国寺)の造営にあたって鎮守神となるや、真言密教と結び付いてその信仰を拡大、次第に神位を高めて『延喜式』名神大社に列し、天慶5年(942年)に正一位の極位を得た。この間、延喜8年(908年)に左大臣藤原時平が三箇社を修営(『年中行事秘抄』)、その後源頼朝や足利義教らが社殿の造営、修造に関わったが、応仁の乱にてすべて焼亡。乱後、社僧による勧進の下で再建が始まり、明応8年(1499年)に至って遷宮を迎えた。近世まではこれら勧進僧たちが稲荷信仰の普及や稲荷講の結成に大きく関与したという。
明治政府の神仏分離令によって、本願所のほか境内の仏堂がすべて廃寺となる一方、崇敬者による鳥居の奉納や私的な「お塚」の建立が稲荷山中で顕著化し、現在の伏見稲荷大社を特徴づけるものとなった。稲荷祭の最終日に東寺の僧侶らが東門(慶賀門)の前に供物を並べ、還幸する下社の神輿に読経をあげる儀式があり、古くから続く両社寺の深い関係を今に伝えている。
祭神
祭神は以下の五柱。これらの神々は稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている。
主祭神である宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、田中大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(1つの社殿に合祀する形)に祀っている。
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ) - 下社(中央座)
佐田彦大神(さたひこのおおかみ)- 中社(北座)
大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ) - 上社(南座)
田中大神(たなかのおおかみ) - 下社摂社(最北座)
四大神(しのおおかみ) - 中社摂社(最南座)
稲荷神は元来、五穀豊穣を司る神であったが、時代が下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されるようになった。
田中大神および四大神について
摂社の祭神、田中大神と四大神については由緒がはっきり分かっておらず、伏見稲荷大社では「稲荷神と何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着神的傾向が濃厚」としている。
下社の摂社に祀られる田中大神は、その名のとおり田の神ではないかと考えられるが、かつては大己貴神や猿田彦神、鴨建角身命などとも同一視された。
中社の摂社に祀られる四大神についても諸説があり、一柱の神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確には分かっていない。江戸時代の国学者、前田夏蔭によれば「若年神、夏高津日神、秋比売神、久久年神」の四柱とされるが、これらの神々は宇迦之御魂神と同一視されることもある穀物神・オオゲツヒメの御子神であり、四季を表す神とも考えられる。
歴史
「秦氏の祖霊として創建」の縁起
「イナリ」の縁起としては『山城国風土記』にあったとされる秦伊侶具のものが有名である。
風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。
— 逸文『山城国風土記』
(大意)風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。秦中家忌寸[注 7]などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を使って的として矢を射ったところ、餅が白鳥に変わって飛び立ち、この山に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。後になって子孫はその過ちを悔いて社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。
この秦氏について、もともと山城国紀伊郡深草近辺に在住していたことが見え(「秦大津父」『日本書紀』欽明紀)、また、
秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午[注 8]、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒
— 『稲荷社神主家大西(秦)氏系図』
とあり、秦氏と賀茂神社との関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し祈請すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ、とも伝えている。
上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていたが、『類聚国史』にある淳和天皇の天長4年(827年)正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた。以降、『延喜式神名帳』には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次・新甞の幣帛を受けた。
なお、この木を植える伝承は験(しるし)の杉として現代にも伝わっている。
「弘法大師が出会った竜頭太」の縁起
東寺などに伝わる文献では、以下のように空海と稲荷神の関係が伝承されている。これらの説話は平安時代初期を舞台としているが、文献自体の成立は14世紀頃である点には留意すべきである。
『稲荷大明神流記』などにはこうある。
稲荷大明神流記 眞雅記云ゝ
弘仁七年孟夏之比。大和尚斗藪之時於紀州田邊宿遇異相老翁。其長八尺許骨高筋太内大權氣外示凡夫相。 見和尚快語曰「吾有神道聖在威徳也。方今菩薩到此所弟子幸也」。和尚曰「於霊山面拝之時、誓約未忘此主他生、形異心同。 予有秘教紹隆之願。神在仏法擁護之誓、諸共弘法利生、同遊覚台。 夫帝都坤角九條一坊、有一大伽藍、号東寺。為鎮護国家、可興密教霊場也。必々奉待々々而巳」。 化人曰「必参会」。守和尚之𣳬[注 10]命等云々。 同十四年正月十九日。和尚忝賜東寺。為密教道場也、因之請来法文曼荼羅道具等、悉納大経蔵畢。 其後同四月十三日、彼紀州之化人来。臨東寺南門。荷稲提椙葉、率両女二子矣。和尚歓喜、授与法味、道俗帰敬、備飯献果。
爾後暫寄宿二階柴守、其間点当寺杣山。定利生勝地。一七ヶ日夜之間、依𣳬[注 10]鎮壇法示荘厳。額然而円現矣、為後生記綱目耳。
— 『稲荷大明神流記』
(大意)弘仁7年(816年)4月頃、紀州国の熊野で修行中の空海(弘法大師)は田辺の宿で常人とは思えない老翁に出会った。身の丈は八尺[注 11]、立派な体躯で威厳が感じられるが、それを表に出さない顔立ちだった。その老人は空海に会えたことを喜んで語った。「自分は(以前そなたに会ったことのある)神である。そなたには威徳がある。私とともに修行して弟子となるがよい」空海は答えた。「霊山であなたに会った時の約束は、たとえ見かけが変わろうと心は同じであり、まだ忘れていません。私は密教を広めたいという願いが有ります。あなたには仏法でそれを守ってくださるようお願いします。京の都の西南の方角の九条というところに東寺という大伽藍があります。ここで私は国家を護るための密教を興すのです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください」。睦まじく語らい合って約束を交わした。
弘仁14年(823年)正月19日、空海は東寺を賜って道場を開くため法文や曼荼羅、道具等を運び、経蔵を納めて真言の道場とした。この年の4月13日、紀州の神が東寺の南門にやってきた。神は椙(すぎ)の葉を持ち稲を担ぎ、2人の婦人と2人の子供を連れていた。空海は大喜びで崇敬の心で一行を食事や菓子でもてなし、周りもこれに倣った。しばらく一行は八条二階の柴守(しばのかみ)の家に留まり、その間に空海は東寺の杣(すぎ)山に17日間祈祷して神に鎮まっていただいた。この事が現在まで伝わる由縁となっている。
また、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』では
古老傳云、彼の三の御山の竜頭太は、和銅年中より以来、既に百年に及ぶまで、当山麓にいほりを結て、昼は田を耕し、夜は薪をこるを業とす。其の面竜の如し。顔の上に光ありて、夜を照らす事昼に似り、人是を竜頭太と名く。其の姓を荷田氏と云ふ。稲を荷ける故なり。而に弘仁の比に哉、弘法大師此山をとして難業苦業し給けるに、彼翁来て申し曰く。我は是当所の山神也。仏法を護持すべき誓願あり。願くは大徳常に真密の口味を受け給ふべし。然者愚老忽に応化の威光を耀て、長く垂述の霊地をかざりて、鎮に弘法の練宇を守るべしと。大師服膺せしめ給ひて、深く敬を致し給ふ。是以其面顔を写して、彼の神体とす。種々の利物連々に断絶する事なし。彼の大師御作の面は当社の竈戸殿に案置せらる。
— 『稲荷大明神縁起』
(大意)古老が言い傳えについて言うことには、100年の昔の和銅年間から竜頭太という者が稲荷山の麓に家を構えて住んでおり、昼は田を耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていた。その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。姓は荷田、名は竜頭太といった。これは稲を背負っていたからという。(中略)空海はその顔を面に写し神体として祀り、それからは収穫が絶えることがなくなった。この面は東寺の竈戸殿に祀ってある。
とあり、当時伏見稲荷大社の社家であった荷田氏の出自を述べていて、社家が秦氏の出身としている。社家の荷田氏は、「和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、この神は、秦氏人等が禰宜・祝として春秋の祭りに仕えた」。伝統的な社家には、この秦氏を出自とする荷田氏、西大路氏、大西氏、森氏などがいる。なお、東寺が空海(弘法大師)作という面を竈戸殿に置いた由来についてここでは述べられていない。縁起にある竜頭太は自ら稲荷山の山神を名乗り、「その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。」とあり、これは後光を背した羅刹天を想起させる。
平安期の隆盛
天長4年(827年)、淳和天皇が病に倒れたため占わせたところ、東寺の塔を建てるために稲荷山の樹を伐ったことの祟りであることがわかり大中臣雄良が派遣され、それまで秦氏の私社であった稲荷大神に初めて従五位下の神階が下賜された。以来、京の人々から巽の福神(東南方向の福の神)との崇敬を集めた。現在の東寺との関係はここに端緒があるとする。社では稲荷山に明神が鎮座した和銅4年2月壬午を記念日として初午大祭を興し、稲荷祭もこの頃から始まったとされている。稲荷祭は神幸祭(稲荷のお出で)が、旧暦3月中の午の日に、還幸祭(稲荷のお旅)が旧暦4月上の卯の日、と定められていた。
延喜8年(908年)には藤原時平の寄進により社殿が造営され、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には名神大社、また二十二社の上七社に列し、天慶5年(942年)に正一位が授けられた。当時は伊勢神宮は天皇以外による奉幣が禁止されており、京からも近い当社が多くの参詣者を集めるようになった。平安時代の隆盛が『今昔物語』などにも見え、『枕草子』には初午に7度も詣でる元気な女性がいて羨ましかった、とある。こうして稲荷祭は下鴨の葵祭、八坂の祇園祭とならぶ人気を博し、貴顕からの奉幣も盛んに行われた。延久4年(1072年)には、初の行幸として、後三条天皇が訪れ、この後鎌倉時代まで、祇園社とあわせての両社行幸が恒例となった。
鎌倉時代に進んだ神仏習合
しかし、『山城国風土記』よりも後の鎌倉時代の成立とみられる『年中行事秘抄』では、「くだんの社、立ち初めの由、たしかなる所見無し」とあり、確かな由緒は不確かだとしている。
この頃になると、神仏習合が進み、神社の祭神にも本地仏が解釈されるようになる。また、それまで三座だった祭神が五座となる。前出の『稲荷大明神流記』には、
一、大明神。本地十一面。(上御前是也)
二、中御前。本地千手。(大明神之当御前也)
三、大多羅之女。本地如意輪。(下御前是也。大明神之前御前也)
四、四大神。本地毘沙門。(中御前御子。即同宿中御前)
五、田中。本地不動。(先腹大多羅之女郎子也)
とある。
このような仏教系の伝承に、後に伏見稲荷の眷属とされる狐に関する伝承が現れている。
時は平安初期の弘仁年間(810年 - 824年)のこと、平安京の北郊、船岡山の麓に、全身に銀の針を並べ立てたような年老いた白狐の夫婦が棲んだ。夫婦は心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていたが、狐という畜生の身であっては、願いを果たすべくもない。そこで、夫婦は意を決し、五匹の子狐を伴って稲荷山に参拝し祈った。「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神の厳かな託宣がくだった。「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」明神からは男狐はオススキ、女狐はアコマチという名を授けられたという。
— 真雅[注 15]『稲荷流記』他
また中国から派生したと思われる狐に関する寓話(「九尾の狐」や「玉藻前」など)から、次第に仏の像容を白狐にまたがる女天形と解釈して、日本独自の形容を持った荼枳尼天を併せた。由来についても様々に解釈や説話がある。
実は、これらの説話は、先の東寺を開いた空海の縁起と合わせ、平安時代初期を舞台とする説話が、鎌倉時代から室町時代初期の頃に世に広まりはじめてきていることには留意すべきである。空海の興した真言密教はこの頃には熊野の修験道とともにすでに広く認知されていたが、同じく隆盛した比叡山の天台宗の密教とは内容が異なるとして、「台密」が京の鎮守であったのに対して「東密」はこの時代以降に「教王護国寺」の名を称するようになる(「密教」の項を参照)。護国として実際に帰依した天皇や皇族が多く、増えすぎた貴族が没落して都落ちし、緩みはじめた律令を背景に郡司、郷司として、後には守護や地頭などとして荘園地主となり、武家を興したり擁したりして台頭し始める時期にあたる。これに呼応するように全国に熊野社や稲荷社が勧請されて急速に広まった時期にもあたる。これらの説話は講を通して武士や作人といった民衆にも広まり、祖霊の塚に稲荷社を建てたり[注 16]眷属である狐を併せていったりすることになる。
山麓への遷座
この頃、地方領主や軍事貴族からの荘園の寄進の倣いが起こり、有力となった寺社が独自の僧兵や神人を持つようなると武家同士や寺社同士の争いに巻き込まれるようになる。社家一族のうち、羽倉氏はこの頃、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒して社家を継いだことが疑われているが、江戸期の国学の大家である荷田春満はこの氏族から出ている。
永享10年(1438年)、後花園天皇の勅命で、室町幕府6代将軍足利義教により、それまで山頂にあった稲荷の祠を山麓に移した、とする伝承が藤森神社に伝わっている。これによると、現在社地となっている稲荷山麓の当地に天平宝字3年(759年)から藤尾社という舎人親王、その父の天武天皇を祀る神社があったが、これを稲荷社地にするために藤尾社を南にある藤森神社境内の東殿へ遷座した、現在の藤森にあった真幡寸神社を藤森から西に移した(現在の城南宮)、という。つまりそれまで稲荷社は稲荷山山中(現在の一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)に限る狭い範囲にあった。このことは、現在でも稲荷大社が藤森神社氏子圏のほぼ中央に位置し、かつ東寺との関わりから自身の氏子圏は鴨川以西の京都駅周辺に限られることからも首肯される。また清少納言が『枕草子』に記すところでは、稲荷参拝に際してあえぎあえぎ登山している様子がうかがえ、このころやはり稲荷社は山上の社であったと考えられる。現在、山中四つ辻から北に下る道を「御幸道」と呼び、さらにその下方に「車坂」の地名が残るのも、かつての参宮路の名残だと考えられる。なお、藤森神社には永享10年に将軍足利義教から寄進された重要文化財の「八幡宮」「大将軍社」2棟が建つが、これも義教による稲荷遷座に伴うものと推測される。応仁の乱が始まると、東軍の細川勝元側の足軽大将骨皮道賢が稲荷社に陣を置き、後方から西軍の山名宗全側を撹乱・攻撃するゲリラ戦を展開していたが、翌応仁2年(1468年)3月に西軍の攻撃を受けて道賢は討死し、稲荷社は山上の建物を含めてすべて焼きつくされた。
勧進による復興
応仁の乱の戦渦は甚大であり、文明18年(1486年)に起きた土一揆では伏見稲荷大社の神宮寺の役割を果たしていた東寺の伽藍も焼失、終戦後は稲荷祭でさえ執り行えなかった年があったという。そこで伏見稲荷本願所に真言宗東寺の末寺であった愛染寺を改めて神宮寺とし、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝され、神仏習合が進んでいった。また愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理、円阿弥によって諸国勧進も進められた。このころの勧進とは、寺社造営のために寄進を募ることだった。伏見城を築城した豊臣秀吉は、天正16年(1588年)、母の大政所の平癒を祈願、成就したことから大規模な寄進を行い、現在の楼門はその折の建立という。
商人に人気となる江戸時代
戦国時代を経て江戸幕府を開いた徳川宗家は浄土宗に帰依し、幕僚として仕えた天海は天台宗の僧であり、稲荷神の崇敬は朝廷の他、専ら町人や商人によって行われた。特に活発となった商いの成功(結願)を祈る商人には人気があった。狐が棲む穴ぐらを見つけては稲荷神を勧請する者まで現れる。併せて、勧請された稲荷神社に「正一位」を冠するものが出てくるのもこの頃である。これは徳川家康が死後東照宮へ神格化されて正一位を追贈されたように朝廷が認める神格の最高格を意味し、奉行所から当社へ名の使用について問い合わせがあったことも記されている。そして結願の礼として本社に赤い鳥居を奉納する習慣が広まり、膨大な千本鳥居を形成するに至るのである。また、江戸時代には境内に愛染寺の他に浄土宗の浄安寺と西光寺も設けられ、神仏習合の色合いは濃かった。
現在伏見稲荷大社の楼門内に、江戸時代に社家から出た国学の大家・荷田春満の旧宅が保存されている。隣設して荷田春満を祭神とする東丸神社(あずままろじんじゃ)があるが、この神社は旧宅の一角に建てられているため、伏見稲荷大社の摂末社ではなく独立した神社である。1903年(明治36年)に規模の割に高い社格の府社に列し、学問の神として信仰されている。
明治から現在まで
慶応4年(=明治元年、1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは伏見中心部の御香宮に拠点を置いた新政府軍によって幕府軍の北上が阻止されており、御香宮から北へ離れた稲荷村の稲荷社は被害を免れた。しかし、同年の神仏分離・廃仏毀釈によって4月4日に愛染寺は閉門とされ、後に廃絶、翌5日には浄安寺と西光寺は廃絶、境内にあった仏堂に仏像、本殿内で祀られていた仏像も廃された。文化財の保存の点では戦禍よりも神仏分離のほうが影響は大きかったわけである。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている。また、明治政府は稲荷社から領地をすべて召し上げ、境内地も4分の1に減らされた。
1871年(明治4年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となった。
文学者の坂口安吾は「伏見稲荷の俗悪極まる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることが出来ない。見るからに醜悪で、てんで美しくはないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに如かざる」ものではなく、その在り方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。」と評価している。
戦後の1946年(昭和21年)に近代社格制度の廃止に伴い宗教法人化したが、神社本庁に入らずに独立した単立宗教法人となった。これは神社本庁が伊勢神宮を本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。宗教法人化とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称したが、これは近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは社名が単に「稲荷神社」となり、他の多くの稲荷神社と混同することを避けるためである。
境内
山麓
表参道の一番鳥居から楼門、外拝殿(舞殿)、内拝殿、本殿が一直線に並ぶ。本殿の背後に、斎場と千本鳥居から続く稲荷山の神蹟群がある。千本鳥居をはじめとする信者の寄進による鳥居は山中に約1万基あると言われる[35]。本殿右には稲荷神明水がある。
本殿(重要文化財) - 明応3年(1494年)再建。五間社流造で、屋根は檜皮葺。
内拝殿 - 本殿正面前に所在。
外拝殿(重要文化財) - 舞殿。内拝殿前に所在。天保11年(1840年)再建。桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造で、屋根は檜皮葺。軒下四周に吊るされた12基の鉄製灯篭には、黄道12宮(おとめ座、ふたご座など)の透かし彫りが見られる。これは「星曼荼羅」などにも見られ、密教の影響を示すものと考えられる[37]。
権殿(重要文化財) - 寛永12年(1635年)建立。本殿の左後方に所在。五間社流造で、屋根は檜皮葺。
授与所 - 本殿の左脇に所在。朱印所。おみくじ授与。
神饌所
神楽殿 - 本殿の右脇に所在。
御茶屋(重要文化財) - 本殿の右脇奥に所在。非公開。江戸時代前期の造営。後水尾上皇より下賜され、仙洞御所から移築された。桁行7.6メートル・梁間7.9メートル、一重、入母屋造で、屋根は上部を桟瓦葺とし、腰廻を檜皮葺とする。玄関には車寄を付す。
松の下屋(京都市指定有形文化財・京都市指定名勝) - 1917年(大正6年)築。
茶室「瑞芳軒」(京都市指定有形文化財) - 1919年(大正8年)築。
供待(京都市指定有形文化財)
表門(京都市指定有形文化財)
東丸神社(あずままろじんじゃ) - 伏見稲荷大社の境内にあるが摂末社ではなく、独立した神社である。
荷田春満旧宅
楼門(重要文化財) - 天正17年(1589年)に豊臣秀吉によって再建。三間一戸、入母屋造で、屋根は檜皮葺。
南回廊(重要文化財) - 楼門に接続する廻廊。元禄7年(1694年)建立。桁行五間、梁間一間、一重、切妻造で、屋根は檜皮葺。
北回廊(重要文化財) - 楼門に接続する廻廊。元禄7年(1694年)建立。桁行五間、梁間一間、一重、切妻造で、屋根は檜皮葺。
儀式殿
講務本庁
社務所
池
供物所
神馬舎
稲荷山中腹
千本鳥居 - 奥社への参道に密に並ぶ鳥居をいう。二股に分かれている。
奥宮(重要文化財) - 安土桃山時代の造営。三間社流造で、屋根は檜皮葺。
奥社「奥の院」 - 奉拝所。おもかる石、願掛け絵狐(絵馬のかわりに狐)などがある。
伏見神寶神社(ふしみかんだからじんじゃ) - 伏見稲荷大社の境内にあるが摂末社ではなく、独立した神社である。
参道
二番鳥居
一番鳥居
稲荷山
神体山である稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、標高233メートル。3つの峰(一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)が連なるが、かつては古墳で、それぞれに円墳が確認されている。三ノ峰からは二神二獣鏡が出土している。この山々「お山」を中世には「下ノ塚」「中ノ塚」「上ノ塚」と呼び、奥社奉拝所の先にある山々を巡拝できる参道には、そこかしこに人々が石碑に「白狐大神」や「白龍大神」などの神名を刻んで祀られた無数の小さな祠(その数、1万基、あるいはそれ以上とも言われる)の「お塚」が奉納されており、「お塚信仰」と呼ばれている。
参拝者の中には、「お塚」の前にひざまづいて「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおり、日本で神仏分離が行われる前の信仰(神仏習合を参照)が今でも保たれているのを見ることができる。奥社奉拝所の奥に「おもかる石」という石がある。この石は試し石のひとつで、願いを念じて持ち上げた時、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないといわれている。
また稲荷山には信者から奉納された約1万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。
応仁の乱で焼失する前は稲荷山の山中にお社があったが、再建はされず現在は神蹟地として残っている。明治時代に以下の七神蹟地を確定し、親塚が建てられた。お塚は、その周りを取り囲む形となっている。親塚の神名が本殿に祀られる五柱の神名とは異なるが古くからそういう名前で伝わっているとされ、理由は定かではない。
七神蹟地、およびその親塚にある神名
一ノ峰(上之社神蹟) - 末広大神
二ノ峰(中之社神蹟) - 青木大神
三ノ峰(下之社神蹟) - 白菊大神
荒神峰(田中社神蹟) - 権太夫大神
間ノ峰(荷田社神蹟) - 伊勢大神
御膳谷遙拝所 - 往古に三ヶ峰に神供をした所と伝えられている。
釼石(長者社神蹟) - 社殿の後ろに御神体の剱石があり長者社には加茂玉依姫(かもたまよりひめ)を祀る。
御旅所
東寺の東、油小路東寺道交差点北西角に御旅所が所在する。
所在地:京都市南区西九条池ノ内町98。
摂末社
摂社
田中神社(京都市東山区本町)
本殿合祀
田中社 - 本殿に合祀。
四大神 - 本殿に合祀。
境外摂社
田中神社(京都市東山区本町)
末社
白狐社(重要文化財)
参道
熊野社(重要文化財)
藤尾社(重要文化財)
霊魂社
稲荷山 中腹
上末社
長者社(重要文化財)
荷田社(重要文化財)
五社相殿(重要文化財)
両宮社(重要文化財)
白狐社(重要文化財) - 稲荷大神の眷属を祀る。元禄7年(1694年)建立。一間社春日造、檜皮葺。
産婆稲荷 - 祭神:産婆大明神
熊鷹社 - 祭神:熊鷹大神
玉山稲荷社 - 祭神:玉山稲荷大神
稲荷山 山頂付近
田中社 - 祭神:田中大神
大杉社 - 祭神:大杉大神、磐根大神
眼力社 - 祭神:眼力大神、石宮大神、常吉大神
傘杉社 - 祭神:傘杉大神
薬力社 - 祭神:薬力大神
長者社 - 祭神:加茂玉依姫
上社神蹟 - 祭神:大宮能売大神、末廣大神
大岩大神
中社神蹟 - 祭神:猿田彦、青木大神
荷田社御神蹟 - 祭神:伊勢大神
下社神蹟 - 祭神:宇迦之御魂、白菊大神
境外末社
松明殿稲荷神社(京都市下京区稲荷町)
祭事
大山祭(1月5日)
本殿の儀
御饌石の上に供物を捧げたという故事に基づく。
山上の儀(御膳谷祈祷殿)
斎土器に中汲酒を盛ったものを御饌石に供えて、五穀豊穣と家業繁栄を祈る。
初午大祭(はつうまたいさい)(2月初午の日)
稲荷大神が稲荷山の三ヶ峰に初めて鎮座した和銅4年2月の初午の日をしのび、大神の神威を仰ぐ祭
稲荷祭(4月20日最寄の日曜-5月3日)
平安時代に起源を持つ祭りで4月20日最寄の日曜の「神幸祭」、4月下旬の「区内巡幸」、5月3日の「還幸祭」まで氏子地域の御旅所に神輿が置かれる。
田植祭(6月10日)
神前に捧げられる料米の稲苗を神田へ植える祭で、「御田舞」が演奏される中、早乙女らによって田植が行われる。
本宮祭(もとみやさい)(7月土用入り後の最初の日曜または祝日)
前日の宵宮には境内の提灯や灯籠に一斉に灯を入れる万灯神事が行われる。
講員大祭(10月体育の日の前々日・前日)
伏見稲荷大社の神徳を広く宣揚し、全国の講員が参拝して神恩に奉賽するとともに、家内安全・生業繁栄を祈願する祭。
火焚祭(ひたきさい)(11月8日)
「おひたきまつり」とも言われ、社前に火を焚く神事。伏見稲荷大社では丁度初午に相対するものであるとしている。
大祓式(12月31日)
「師走の大祓」と称され、後半年の罪穢れを祓い、形代を河海に流して新年を迎える行事。
その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。
文化財
重要文化財
伏見稲荷大社 8棟(建造物) - 1909年(明治42年)4月5日に本殿を指定、2014年(平成26年)1月27日に権殿・外拝殿・楼門・南北廻廊(南廻廊)・南北廻廊(北廻廊)・奥宮・白狐社を追加指定[40]。
本殿
権殿
外拝殿
楼門
南北廻廊(南廻廊)
南北廻廊(北廻廊)
奥宮
白狐社
附:長者社、荷田社、五社相殿、両宮社、熊野社、藤尾社、城州稲荷社御修復御入用金高目録帳9冊
伏見稲荷大社御茶屋 - 1927年(昭和2年)4月25日指定。
京都市指定文化財
有形文化財
伏見稲荷大社松の下屋及び茶室(瑞芳軒)(建造物) - 2018年(平成30年)3月30日指定[42]。
松の下屋 1棟
茶室(瑞芳軒) 1棟
附指定:門1棟、供待1棟
紙本墨書伏見稲荷大社絵図(古文書) - 桃山時代。天正十七年継長書の銘がある。1994年(平成6年)4月1日指定[43]。
板絵著色繋馬図長澤盧雪筆(絵画) - 江戸時代。2002年(平成14年)4月1日指定[43]。
有形民俗文化財
稲荷祭山車「天狗榊」懸装品 10点 - 2003年(平成15年)4月1日指定[44]。
名勝
伏見稲荷大社松の下屋 - 2017年(平成29年)3月31日指定[45]。
その他
しるしの杉
平安時代後期に熊野詣が盛んになると、京の公家や民衆は参詣の途中で伏見稲荷に立ち寄り、縁起に因む杉木の枝を頂いて身体につけることが流行した(『為房卿記』など)。『平治物語』でも平清盛が急な六波羅への警備にも「先ず稲荷の杜にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして(略)」とある。「初午参詣で皆が杉木の枝をとっていくので稲荷山の杉はすっかり葉がなくなった」と詠んだ藤原光俊の歌が残っている。
外国人観光客の増加
近年は外国人観光客からも観光地として人気があり、トリップアドバイザーによる2013年の「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では2位を、2014年の調査では広島平和記念資料館を抜いて1位を獲得。その後も2019年まで6年連続で1位となっている。駅のごく近くに赤い鳥居が続く非常に日本的な風景が広がり、拝観料不要で閉門時間が無く、稲荷山のお山巡りで欧米人が好むウォーキングができることなどから高評価を得ているとされる。平日のほとんどの日で外国人観光客の方が日本人よりも多くなっており、日没後も稲荷山に登る外国人が多くなっている。なお、本殿付近はライトアップされており、稲荷山への参道も脇道以外は全区間で街灯が1晩中点灯されており夜間の参拝も容易である。ただし、イノシシが出没することがあり注意を呼びかける表示がある。
参集殿
参道の右側に以前は参集殿という神社直営の宿泊施設があった。1963年(昭和38年)に建てられた老朽化した建物ではあったが、境内に安く宿泊でき部屋も広かったが、耐震基準を満たしていなかったこともあり2020年(令和2年)5月限りで閉館し既に解体され、跡地は駐車場の拡張に使われた。同様の理由で参道の左側にあった「儀式殿」も2024年に解体された。
ドキュメンタリー
新日本紀行「お稲荷さんの山 〜京都・伏見〜」(1973年、NHK)
刊行物
機関誌「朱」を発行している。内容は「稲荷」に関する論文・随想など。
鳥居
稲荷鳥居:稲荷神社特有の鳥居で赤には魔除けの効果があるとされる。
間あき鳥居:真ん中が空いている鳥居、上が空いていることから出世にご利益があるとされる。
奴彌鳥居:日本に数基しかないとされる鳥居で荷田社前に存在する。
前後の札所
神仏霊場巡拝の道
122 今熊野観音寺 - 123 伏見稲荷大社 - 124 三室戸寺
現地情報
所在地
京都市伏見区深草薮之内町68番地
拝観
24時間稲荷山を含む境内に入り参拝できる。拝観料の類はなく無料で参拝できる。ただしお守りなどを販売する「授与所」は、7時 - 18時頃のみにしか開いていない。稲荷山の茶屋等の営業時間や休日はそれぞれ異なる。また、荷田春満旧宅が観光シーズンなどに特別公開されることがあるが、この時は特別公開部分のみ有料となる。
交通アクセス
鉄道
JR西日本奈良線 稲荷駅(稲荷大社のすぐ前)- 京都駅からの所要時間は約5分。正月3が日および一部行楽シーズンを除いて快速列車は停車しない。
京阪電気鉄道京阪本線 伏見稲荷駅(徒歩約5分)- 大阪の京橋駅から特急を利用する場合の所要時間は約45分だが、特急は伏見稲荷駅に停車しないため丹波橋駅で準急あるいは普通への乗り換えが必要。また、快速特急「洛楽」は京橋駅を出ると七条駅まで停車しないため注意が必要となる。
バス
京都駅および竹田駅(一部中書島・横大路車庫まで延長)とを結ぶ京都市営バス南5号系統・急行105号系統および京都駅八条口と醍醐バスターミナルとを結ぶ京阪バス6A号経路で「稲荷大社前」バス停下車 - 京都市営バスは日中は1時間に2本ずつ、計4本が、京阪バスは同1時間に1本が運転されている。
大原・貴船・鞍馬など
2019年11月9日ちよろぎ撮影
上賀茂神社(賀茂別雷(かもわけいかづち)神社)
2019年11月9日 ちよろぎ撮影
[参考動画]
交通オタク系youtuberスーツ旅行さんの京都旅行動画 JR東海の案件動画で、ぷらっとずらし旅の京都ぐるっと観光動画です。スーツ旅行さんの動画は、自分が調べた「点」が、線になり、面になり、空間になるので、重宝しています。彼は旅行業務取扱管理者の資格を持っているのでわかりやすいし、何度見ても興味深いです。
[そうだ京都、行こう]2泊3日で巡る京都観光 https://youtu.be/QYrDd9HqGvA
JR東海さんのキャンペーン中の宣伝動画なので、本来は見られない場所も映像で紹介しています。確認のため見ておくことも大事かなと思っています。
また、建仁寺さんからの説明で、京都のお寺はなぜ美しいのか、美しいものを見て美しいと思うことによって、おのれの内に元来いらした仏様の存在に改めて気づくようにと美しい庭や美しい仏像・建物があると紹介し、動画全体がそのように作成されているような感じがします。