全国通訳案内士試験の最終合格発表は、2026年2月6日(金)です。
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平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
なるべく年代順に並べていますが前後が逆転している場合もあります。下の目次も参照してください。
以下は、コトバンク、Wikipediaなどを引用しています。
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第三次桂太郎内閣
(1912.12.21~1913.2.20 大正1~2)
第二次西園寺内閣が倒れたあと、後継難から元老はついに内大臣桂太郎を首相に推挙(宮中、府中の別を乱す)、そのため詔勅が出され、また斎藤実(さいとうまこと)海相留任にも詔勅が出された。ここに憲政擁護運動がおこり、桂は政党(後の立憲同志会)を結成して対抗しようとしたが、山県系の反感を買い、また憲政擁護運動が全国に波及し、東京では1913年(大正2)2月10日暴動化したため、翌日総辞職した。後継内閣は山本権兵衛(やまもとごんべえ)によって組織された。
[山本四郎]
『山本四郎著『大正政変の基礎的研究』(1970・御茶の水書房)』▽『山本四郎著『初期政友会の研究』(1975・清文堂出版)』▽『坂野潤治著『大正政変』(1982・ミネルヴァ書房)』
[参照項目] | 桂‐タフト協定 | 桂太郎 | 憲政擁護運動 | 大逆事件 | 地方改良運動 | 日英同盟 | 日露戦争 | 日比谷焼打事件 | 戊申詔書 | ポーツマス条約
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『桂太郎内閣総辞職』
[大正政変]
大正初期の1913年,第3次桂太郎内閣が第1次護憲運動によって崩壊した政変
1912(大正元)年12月,第2次西園寺公望 (きんもち) 内閣が陸軍の要求する2個師団増設を拒否したため,上原勇作陸相が単独で辞職,陸軍が後継陸相を出さないため内閣は総辞職した。後継首相に長州閥で陸軍の長老桂太郎が三たび首相となったが,第1次護憲運動によって53日で総辞職した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 コトバンク『大正政変』
1月12日 - 桜島の大噴火が発生。1月末には対岸の大隅半島と接続(桜島の大正大噴火)。
3月19日 - 辰野金吾設計による東京駅が新築落成
3月20日 - 東京大正博覧会開催( - 7月31日、日本初のエスカレーター登場)
3月- 芸術座公演「復活」(松井須磨子ら)
4月1日 - 宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)第1回公演
4月16日 - 第2次大隈内閣成立
4月20日 - 夏目漱石 「こゝろ」連載開始
12月20日 - 東京駅開業(東海道本線始発駅は新橋駅から東京駅に変更、新橋駅は汐留貨物駅に改称)
2021年
1914年に暴露された海軍首脳とドイツのジーメンス=シュッケルト社の疑獄事件。ドイツ語の読みは「ジーメンス」であるが,日本での報道および歴史上の表記はシーメンスと記される。同社事務員が重要文書を同社から盗み,恐喝した事件の裁判を同年1月 23日付新聞がロイター電で報道して,初めて事実が明るみに出された。第 34帝国議会で取上げられ,衆議院議員島田三郎が軍閥批判の演説を行い,国民運動に発展,同2月 14日倒閣国民大会となり民衆,警官が衝突,数百人の逮捕者を出した。海軍には査問委員会が設けられ,司法当局が捜査に乗出し,ジーメンス社のみならずイギリスのビッカース社,三井物産と海軍首脳の贈収賄事実も判明。3月 24日,山本権兵衛内閣は総辞職し,5月 29日には松本和中将ら海軍将官,佐官が軍法会議で懲役を宣告された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
参考:『第一次世界大戦』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英: World War I, the Great War、略称: 第一次大戦、WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国と中央同盟国の間で戦われた世界規模の戦争である。この戦争は全世界の経済大国を巻き込み、連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、大英帝国による三国協商)と中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国が中心)の二つの陣営に分かれて戦われた。イタリア王国は、当初ドイツおよびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を締結していた。しかし、「未回収のイタリア」と呼ばれる地域を巡りオーストリアと対立していたため、後にイギリス、フランスとロンドン密約を結び、連合国側で参戦した。
諸国が参戦するにつれて、両陣営の同盟関係は拡大していった。例として、イギリスと日英同盟を結んでいた大日本帝国は連合国側で、ドイツと密接な関係にあったオスマン帝国は中央同盟国側で参戦した。第一次世界大戦の参戦国および影響を受けた地域は、現代の国家に換算すると約50か国に及ぶ。
7,000万人以上の軍人(うちヨーロッパ人は6,000万人)が動員され、最初の世界大戦になった。第二次産業革命による技術革新、塹壕戦による戦線の膠着、総力戦によって死亡率が大幅に上昇し、戦争に関連するジェノサイドやスペイン風邪による犠牲者を含めると、戦闘員900万人以上、非戦闘員700万人以上が死亡、負傷者2,000万人を出した。使われた砲弾は、13億発でこれは日露戦争で使われた砲弾の500倍だったという。
戦争の長期化により各地で革命が勃発し、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国という4つの帝国が崩壊した。終戦後の戦間期においても、参戦国間の対立関係は解消されず、その結果、21年後の1939年に第二次世界大戦が勃発することとなった。
太平洋戦役
なおドイツ領南洋諸島を占領するか否かについては、日本国内でも意見が分かれていた。参戦を主導した加藤高明外相も、南洋群島占領は近隣のイギリス植民地政府や、同様に近隣に植民地を有するアメリカを刺激するとして、当初は消極的な姿勢を示していた。しかし、9月に入り巡洋艦ケーニヒスベルグを旗艦とするドイツ東洋艦隊によるアフリカ東岸での英艦ペガサス撃沈、エムデンによる通商破壊などの活動が活発化すると、日本の参戦に反対していたイギリス植民地政府の対日世論はほぼ鎮静化した。アメリカにおいても、一時的にハースト系のイエロー・ジャーナリズムを中心に高まっていた人種差別的な対日警戒論も、次第に収束していった。
このような情勢を背景に、日本によるドイツ領南洋諸島の占領が決定された。10月3日から14日にかけて、第一南遣艦隊および第二南遣艦隊に属する巡洋戦艦「鞍馬」「浅間」「筑波」、戦艦「薩摩」巡洋艦「矢矧」「香取」によって、ドイツ領南洋諸島のうち赤道以北の島嶼群(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)が短期間で占領された。これらの島嶼群の領有権は戦後決定するという国際的な合意が存在したため、日本の国民感情には期待感が醸成された。
開戦前に南洋諸島に展開していたドイツ東洋艦隊は、かつて日露戦争においてバルチック艦隊を壊滅させた日本艦隊艦隊が来援することを恐れ、同海域からの撤退を決定した。艦隊はパガン島付近で補給艦からの補給を受けた後、南アメリカ大陸最南端のホーン岬を回航し(ドレーク海峡経由)ドイツ本国への帰還を目指して東太平洋へ向かった。
日本を含む連合国軍は、数か月のうちに太平洋におけるドイツ領のほぼ全てを占領し、ドイツ軍の抵抗は開戦時やニューギニアにおける一部拠点での散発的なものに留まった。ホーン岬を回航してドイツ本国への帰還を目指したドイツ艦隊はイギリス艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦(11月1日)では辛くも勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦(12月8日)に敗北し、壊滅的な打撃を受けた。
日本海軍のアメリカ派遣と欧州派遣
さらに、逃走中の東洋艦隊が、中立国であるアメリカの西海岸地域に移動する可能性があったため、イギリス政府は日本海軍に対し、同艦隊に対する哨戒活動の実施を要請してきた。
日本海軍はこれに応じ、1914年10月1日に戦艦「肥前」と巡洋艦「浅間」および輸送船や工作船などからなる艦隊を編成した。さらに、1913年11月からビクトリアーノ・ウエルタ将軍のクーデターに端を発する内戦(メキシコ革命)で混乱していたメキシコ沿岸地域における邦人保護を目的に派遣されていた「出雲」を「遣米支隊」としてメキシコからカリフォルニア州にかけて派遣した。
この時点において、アメリカとメキシコは第一次世界大戦に参戦していなかったが、連合国である日本とイギリス、アメリカとメキシコの4国がこの艦隊派遣計画を了承していた。
なお、巡洋艦「出雲」は、日本が第一次世界大戦に参戦する直前の8月初旬にマサトラン港へ寄港した際、石炭が不足していたところ、ドイツ海軍所属の軽巡洋艦「ライプツィヒ」と遭遇し、同艦の親日的な士官の厚意によりドイツがマサトラン港に貯蔵していた石炭の提供を受けたという逸話が残されている。。
日本海軍遣米艦隊がアメリカ合衆国西海岸に到着した後、同艦隊はイギリス海軍、カナダ海軍、およびオーストラリア海軍の巡洋艦と共同で、マサトランを拠点とした哨戒活動を実施した。また、遣米艦隊の一部艦艇は、逃走中のドイツ東洋艦隊を追跡してガラパゴス諸島方面へ展開した。その後、巡洋艦「出雲」は、第二特務艦隊の増援部隊として地中海方面のマルタ島へ派遣された。
青島の戦い
11月7日に大日本帝国陸軍とイギリス軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日-11月7日)。
オーストリア=ハンガリー帝国海軍の防護巡洋艦カイゼリン・エリザベートが青島からの退去命令を拒否したため、日本はドイツだけでなくオーストリア=ハンガリー帝国にも宣戦布告を行った。カイゼリン・エリザベートは青島要塞を守備した後、1914年11月に自沈した。
これらの中国戦線において連合国軍に捕虜として拘束されたドイツおよびオーストリア=ハンガリー帝国の軍人・軍属(日独戦ドイツ兵捕虜)と民間人約5,000名は、全員日本本土へ移送され、その後、徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など、日本国内12か所に設置された俘虜収容所に収容され、終戦後の1920年までその身柄を拘束された。
特に、板東俘虜収容所における捕虜の待遇は極めて良好であり、ドイツ兵は地元住民との交流も認められ、地域住民からは「ドイツさん」という愛称で親しまれた。この時期に、ドイツ料理やビールをはじめとする多様なドイツ文化が日本にもたらされた。ベートーヴェンの「交響曲第9番」(通称「第九」)は、この時ドイツ軍捕虜によって演奏され、日本で初めて紹介された。また、敷島製パンの創業者である盛田善平は、ドイツ人捕虜からパン製造技術を習得したことが、パン製造事業に参入する契機となった。
日本海軍艦隊のヨーロッパ派遣
このようにドイツ海軍による無制限潜水艦作戦を再開すると、イギリスをはじめとする連合国から日本に対して、護衛作戦に参加するよう再三の要請が行われた。
1917年1月から3月にかけて日本とイギリス、フランス、ロシア政府は、日本がヨーロッパ戦線に参戦することを条件に、山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結んだ。
これを受けて大日本帝国海軍は、インド洋に第一特務艦隊を派遣し、イギリスやフランスのアジアやオセアニアにおける植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年2月に、巡洋艦「明石」および樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊をインド洋経由で地中海に派遣した。さらに桃型駆逐艦などを増派し、ヨーロッパ・地中海に派遣された日本海軍艦隊は合計18隻となった。
第二特務艦隊は、派遣した艦艇数こそ他の連合国諸国に比べて少なかったものの、他の国に比べて高い稼働率を見せて、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国軍の兵員70万人を輸送するとともに、ドイツ海軍のUボートの攻撃を受けた連合国の艦船から7000人以上を救出した。
その結果、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献し、連合国側の輸送船が大きな被害を受けていたインド洋と地中海で連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。連合国諸国から高い評価を受けた。一方、合計35回のUボートとの戦闘が発生し、多くの犠牲者も出した。
また、日本は欧州の戦場から遠く造船能力に余裕があり、造船能力も高かったことから、1917年にはフランスが発注した樺型駆逐艦12隻を急速建造して、日本側要員によってポートサイドまで回航された上でフランス海軍に輸出している(アラブ級駆逐艦)。
日本のオーストラリア警備
イギリス海軍の要請により巡洋戦艦「伊吹」がANZAC軍団の欧州派遣を護衛することになった。伊吹はフリーマントルを経てウェリントンに寄港しニュージーランドの兵員輸送船10隻を連れ出発し、オーストラリアでさらに28隻が加わり、英巡洋艦「ミノトーア」、オーストラリア巡洋艦「シドニー」、「メルボルン」と共にアデンに向かった。航海途上で「エムデン」によるココス島砲撃が伝えられた。付近を航行していた艦隊から「シドニー」が分離され「エムデン」を撃沈した。
この際、護衛艦隊中で最大の艦であった「伊吹」も「エムデン」追跡を求めたが、結局は武勲を「シドニー」に譲った。このエピソードは「伊吹の武士道的行為」として賞賛されたとする記録がある一方で、伊吹艦長の加藤寛治は、エムデン発見の一報が伊吹にのみ伝えられず、シドニーによって抜け駆けされたと抗議している。
以後の太平洋とインド洋における輸送船護衛はほぼ日本海軍が引き受けていた。ところが1917年11月30日に、オーストラリア西岸フリーマントルに入港する「矢矧」に対して、陸上砲台から沿岸砲一発が発射され、矢矧の煙突をかすめて右舷300mの海上に落下する事件が発生した。
参考:『第一次世界大戦』コトバンク デジタル大辞泉 https://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6-556343
だいいちじ‐せかいたいせん【第一次世界大戦】
三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景として起こった世界的規模の戦争。1914年6月のサラエボ事件をきっかけに開戦。同盟側にはトルコ・ブルガリアなどが、協商側には同盟を脱退したイタリアのほかベルギー・日本・アメリカ・中国などが参加した。4年余りにわたってヨーロッパ戦場を中心に激戦が続いたが、1918年11月、ドイツの降伏によって終結。翌年のパリ講和会議でベルサイユ条約が成立した。欧州大戦。第一次大戦。WWⅠ(World War Ⅰ)。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考:『第一次世界大戦』世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh1501-011.html
(1)概要と世界史的ポイント(2)大戦の原因(3)大戦の経過(4)大戦の終結(5)大戦の結果と影響
第一次世界大戦のもたらしたこと
旧帝国の消滅
イギリスの没落
社会主義国の出現
アメリカの繁栄
東ヨーロッパ諸国の独立
植民地の民族主義運動の激化
新たな武器と総力戦の始まり
勢力均衡論から集団安全保障へ
国際連盟ー集団安全保障
参考:『1915年の政治』Wikipedia 大正4年
1月 日本が中華民国の袁世凱政権に対華21ヶ条を要求する。
5月 袁世凱政権が日本の対華21ヶ条要求を受諾。
6月 ロシア、中華民国、モンゴルがキャフタ協定に調印。モンゴルに対する中華民国の宗主権の存在に合意
7月 日本領台湾の台南庁噍吧哖(タパニー、現・玉井)で武装蜂起(西来庵事件)。
8月 袁世凱が側近の楊度らに帝政復活運動を指示。
10月 日本が戦後の権益に関する連合国側の秘密協定であるロンドン宣言に加入。
12月 中華民国参政院が袁世凱を皇帝に推戴。
袁世凱が中華帝国の皇帝に即位し、元号を洪憲と定める。
雲南督軍の蔡鍔、雲南将軍の唐継堯が昆明市で雲南省の独立を宣言。袁世凱討伐のため約2万人の護国軍(雲南護国軍)を組織(護国戦争)。
参考:『1918年米騒動』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95
1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、1918年(大正7年)に日本で発生した、コメの価格急騰にともなう暴動事件。日本近代史において単に米騒動とした場合は、本事件を指す。
背景
第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)はコメ消費量の増大をもたらし、一方では工業労働者の増加、農村から都市部への人口流出の結果、米の生産量は伸び悩んでいた。1914年(大正3年)の第一次世界大戦開始直後に暴落した米価は約3年半の間ほぼ変わらず推移していたが、1918年(大正7年)の中ごろから上昇し始めた。1917年(大正6年)のシベリア出兵や、大戦の影響によって米の輸入量が減少したことも米価上昇の原因となった。
米価格高騰を見て、次第に米作地主や米取扱業者の売り惜しみや買い占め、米穀投機が発生し始めた。そのなか寺内正毅内閣は1918年(大正7年)8月2日、シベリア出兵を宣言した。これは戦争特需における価格高騰を見越した流通業者や投機筋などの、投機や売り惜しみを加速させた。
大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年(大正7年)の1月に1石15円だった米価は6月には20円、翌7月17日には30円を超え、さらに伊勢の相場師・福寅一派の買いあおりや地方からの米の出回り減少で、8月1日には1石35円、同5日には40円、9日には50円を超え、各地の取引所で立会い中止が相次ぐ異常事態になった。一方で小売価格も7月2日に1升34銭3厘だった相場が、8月1日には40銭5厘、8月9日には60銭8厘と急騰し(当時の労働者の月収が18円 - 25円)、世情は騒然となった。
米価暴騰は一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日、米価高騰を大きく報じたこともあり、社会不安を増大させた。事態を重く見た寺内正毅内閣総理大臣は1918年(大正7年)5月の地方長官会議にて国民生活難に関して言及したが、その年の予算編成において、救済事業奨励費はわずか3万5,000円のみであり、寺内の憂慮を反映した予算とはいえなかった。仲小路廉農商務大臣は、1917年(大正6年)9月1日に「暴利取締令」を出し、米など各物資の買い占めや売り惜しみを禁止したが、効果はなかった。さらに1918年(大正7年)4月には「外米管理令」が公布され、三井物産や鈴木商店など指定七社による外国米の大量輸入が実施されたが、米価は下落しなかった。
このため寺内内閣は警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針を採り、巡査採用数が増員された。生活苦と厳しい抑圧に喘ぐ庶民の怒りは、次第に資本家、特に米問屋、商社など流通業者に向けられるようになっていった。
発生
騒動の発端となった富山県では、1918年(大正7年)「7月上旬」から、中新川郡東水橋町(現・富山市)で「二十五六人」の「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」行動が始まっている。
また折りから、富山県内各港には、北海道への米の積み出しのための積出船が寄航していた。当時の新聞は「魚津町にては、米積み込みの為客月一八日汽船伊吹丸寄港に際し細民婦女の一揆が起こり狼煙を上げたる」と、魚津町(現・魚津市)で一揆発生を報道した。さらに「二十日未明同海岸に於いて女房共四十六人集合し役場へ押し寄せんとせしを、いち早く魚津警察署に於いて探知し、解散せしめ」と、魚津の動きが20日未明(おそらく19日夜間)から起きていた説もある。
7月22日の昼には、富山市西三番町の富豪浅田家の施米にもれた仲間町、中長柄町ほか市内各所の細民200名が市役所に押しかけた。このときは警官の説諭によって解散させられたが、住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた。
そのころ、東水橋町、富山市、魚津町以外にも、東岩瀬町(28日)、滑川町、泊町(31日)等富山県内での救助要請や、米の廉売を要望する人数はさらに増加し、各地で動きが起きていた。翌月8月3日には当時の中新川郡西水橋町(現・富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。
全国への波及
都市での米騒動
8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。8月12日には鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)との捏造記事を書かれたことにより焼き打ちに遭った。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約2万人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市下京区の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ち壊すなどして1升30銭での販売を強要した。
東京市では、北陸での暴動発生の報を受けても主要な政治団体は静観の構えを見せた。しかし、8月10日に宮武外骨を発起人として山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による野外演説会を日比谷公園で8月13日に開催する広告が打たれ、警察が禁止の決定をしたにもかかわらず、当日には約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった。200人の警官が包囲する中で行われた即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れて怒号と興奮が高まっていた。事態は警官との衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行った。浅草方面に向かった一派は翌14日に浅草・本所近辺の米商に押し寄せ、暴力的な廉売交渉を行った。8月15日には軍が出動し、翌16日に暴動は鎮圧され総計299人が検挙されている。東京市での暴動は、ほかの地域と比較して反ブルジョア思想を背景とした都市暴動の性格を持っており、暴動参加者の多くは若年層の男性だった。
炭鉱への飛び火
こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日ごろからは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。この間、米騒動は山口県や福岡県、熊本県での炭鉱での労働争議へ飛び火した。
山口県の炭鉱騒動
8月17日、山口県厚狭郡宇部村(現・宇部市)で賃上げ交渉が決裂したことに伴い、沖ノ山炭鉱や東見初炭鉱の炭鉱夫約3,000人が炭鉱の頭取や所有者の自宅、商店、遊郭などを襲撃した。翌18日に陸軍が出動し、発砲などで13人の死者を出して鎮圧した。軍隊が発砲理由とした坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は、陸軍が発砲を正当化するために捏造したコメントを、大正7年8月23日付『大阪朝日新聞』などが取材なしに記事化したことにより流布された可能性が高いとされる。
騒動の発生地域・参加人員と軍隊出動、検挙者の処遇
「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間にわたる一連の騒動は、最終的に1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された[43]。陸軍が出動した[30][34]ほか、呉市では海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙するなか銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。一方で、水兵が騒動に参加して検挙されたほか、一部の地域では制止すべき警官が暴動を黙認した。
検挙された人員は2万5,000人を超え、8,253名が検事処分を受けた。また7,786名が起訴[注釈 5]され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。
政府などの対応
政府は8月13日に1,000万円の国費を米価対策資金として支出することを発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年(大正7年)末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。
8月13日、閣議は米穀強制買収に1,000万円限度の支出を決定。8月16日、農商務大臣が米穀類を強制買収し得る穀類収用令を公布(緊急勅令)。発動されず、1919年4月5日、同法廃止を公布(勅令)。
8月28日、東京府は米価暴騰に対処し「外鮮米」を指定米商に委託して廉売した。
被差別部落との関わり
米騒動での刑事処分者は8,185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では3割から4割が被差別部落民であり、女性の検挙者35人のうち34人が部落民であった。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったためである。京都市の米騒動も、市内最大の部落である柳原(現・崇仁地区)から始まっており、同地区では50人以上の部落民が逮捕されている。処分は死刑をも含む重いものであった。死刑判決を受けた和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の2人の男性、すなわち中西岩四郎(当時19歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時45歳)も被差別部落民であった。事態を重視した原内閣は1920年(大正9年)、部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。
原内閣の誕生
米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。寺内は体調不良もあり8月31日に元老の山縣有朋に辞意を告げ、9月20日に内閣総辞職を決定した。山縣は元内閣総理大臣の西園寺公望に寺内の後継として総理に就任するよう要請したが、西園寺はこれを固辞し、憲政の常道を重んずる立場から立憲政友会総裁の原敬を推薦した。そして9月27日に原に大正天皇より組閣の大命が降下され、2日後の9月29日に日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。爵位を持たない衆議院議員を首班とする初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。
米騒動発祥の地の石碑。
魚津市大町の十二銀行(北陸銀行の前身)倉庫前には「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」による「米騒動発祥の地」の標柱があり、富山市水橋館町の郷土史料館の敷地内にも記念碑が設置された。
富山発祥説
しかしながら、20世紀末以降、『米騒動の研究』から40年以上の間に積み上げられた新たな事実・資料・見地を織り込み、米騒動に直接参加した女陸仲仕や漁師、軍人など米騒動の目撃者や随伴者への聞き取りを文字化し、新たな視点による分析が加えられた学術書が次々と刊行された。井本三夫編『北前の記憶——北洋・移民・米騒動との関係』(桂書房、1998年)、歴史教育者協議会編・井本三夫監修『図説米騒動と民主主義の発展』(民衆社、2004年)、井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』(桂書房、2010年)などである。
これらの研究では、米騒動がいつどこでどのように始まったのかについては、少なくとも「富山湾沿岸地帯」からであり、「漁村から始まったのではない」、その主体は「海運・荷役労働者の家族」、「都市漁民」の前期プロレタリアであるなどと従来の定説を大幅に改めることになっている[49]。『図説 米騒動と民主主義の発展』では、「1918年夏の米騒動について残っている証言・資料に現れている、最も早い時点での行動は、東水橋町の女性陸仲仕たち20数人によって、7月上旬から始められた、移出米商高松への積出停止の要求の行動です。」とまとめられている。
ストライキとの関係
米騒動と労働者のストライキとの関係についても「労働者階級の闘争は、一九一八(大正七)年七月の末に所謂「騒動」が勃発する以前から、工場におけるストライキという闘争形態を主たる闘争形態として展開しています。」とし、ストライキの参加人員を見ても「一六(大正五)年には八四一三名の参加人員が、実に一七(大正六)年には五万七三〇九名、米騒動の起きた一八年には六万六四五七名というように、官庁統計からいってもこの一七年がひとつの転機になっている」など、米騒動が始まった結果ストライキが頻発するようになったように言われていたのは間違いであることが、早くから指摘されていた。
また、富山県で米騒動が始まるより2 - 3か月早い「18年の4〜5月になると、もう食糧暴動と言えるものも起こっている」とし、「兵庫県赤穂郡相生町にある播磨造船所」で「食料品価格の高騰のなかで、待遇の悪さに怒った労働者数百人が、ラッパを合図に事務所・食堂・炊事場を襲撃して、器物・建物を破壊し炊事夫に暴行を加えた」という新たな事実が掘り起こされてもいる。
参考:『原内閣』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%86%85%E9%96%A3
原内閣(はらないかく)は、衆議院議員・立憲政友会総裁の原敬が第19代内閣総理大臣に任命され、1918年(大正7年)9月29日から1921年(大正10年)11月13日まで続いた日本の内閣。
陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣を除く国務大臣に、原敬が総裁を務める立憲政友会の党員を起用したことから、日本初の本格的政党内閣と言われる。日本史上初の政党内閣は第1次大隈内閣である。
内閣の顔ぶれ・人事
国務大臣
1918年(大正7年)9月29日任命[2]。在職日数1,133日。
内閣総理大臣 原敬 衆議院 立憲政友会 司法大臣兼任 1921年11月4日死亡欠缺 立憲政友会総裁
外務大臣 内田康哉 外務省
内務大臣 床次竹二郎 衆議院 立憲政友会 鉄道院総裁 初入閣
大蔵大臣 高橋是清 貴族院 立憲政友会
陸軍大臣 田中義一 (陸軍中将→)陸軍大将 初入閣
山梨半造 (陸軍中将→)陸軍大将 初入閣
海軍大臣 加藤友三郎 海軍大将 留任
司法大臣 原敬 衆議院 立憲政友会 内閣総理大臣兼任 免兼
大木遠吉 貴族院 立憲政友会 初入閣
文部大臣 中橋徳五郎 衆議院立憲政友会 初入閣
農商務大臣 山本達雄 貴族院 立憲政友会
逓信大臣 野田卯太郎 衆議院 立憲政友会 初入閣
鉄道大臣 (鉄道省未設置→) 1920年5月15日設置
元田肇 衆議院 立憲政友会
内閣の動き
大正中期の国政は、立憲政友会が衆議院において一党優位状態を確立させていたが、天皇への首相の奏請権(事実上の任命権)を持っていた山縣有朋筆頭元老が政友会を嫌っており、同党の原敬総裁の首相就任を拒否していた。しかし1918年、山縣率いる藩閥の直系である寺内正毅が、政友会の協力を得られずに、寺内の健康問題が理由で辞職すると、山縣はついに原を首相に奏請、9月29日、政友会を与党とする原内閣が発足した。
主な政策
シベリア出兵 - ロシア革命への介入を目的として、寺内前内閣は英仏ら欧州列強と協調して派兵をしていたが、原内閣は基本的に米国の方針に追従する立場をとる。1918年10月5日には、バイカル湖以西からの撤兵を閣議決定。陸軍もこれに追従して、平時編成で対応する方針を進言し、12月19日には出兵数を平時の2万人にまで削減する。
その後、1920年1月に米国が完全撤兵を開始すると、原は歩調を合わせて撤兵を指示。陸軍は撤兵に難色を示し、6月には赤軍による日本軍捕虜の処刑が明るみとなり(尼港事件)、世論は強硬論に傾く。しかし原は撤兵を推し進め、統帥権を保持する陸軍参謀本部(上原勇作参謀総長)を屈服させ、7月15日に停戦議定書調印。原死後の1922年10月に完全撤兵し、革命への介入は失敗に終わった。
第一次世界大戦/パリ講和会議 - 1918年11月に欧州大戦が停戦、翌1919年1月より開かれた講和会議には西園寺公望元首相を首席全権として派遣する。日本は戦中、石井菊次郎駐米大使の主導でロンドン宣言に加入、世界秩序の安定に寄与していたことにより戦後処理への発言権を得ており、敗戦国ドイツが失陥した山東省、南洋諸島を編入することとなった。同年6月28日調印。
選挙権拡大 - 普選運動が沸き上がったのに配慮して、公職選挙法を改正、直接国税の要件を従来の10円から3円に引き下げた(1919年3月25日成立、5月23日施行)。翌1920年にも更なる拡大を求める運動は続き、野党も改正案を提出したが、原は更なる拡大には消極的で、対立を口実に衆議院を解散。第14回衆議院議員総選挙(5月10日投開票)で政友会が勝利したことで、機運はしぼむ。
宮中問題 - 1919年11月頃より大正天皇の容態が悪化し、皇太子裕仁親王の摂政就任が現実味を帯びる。貞明皇后は摂政設置に消極的で、更に皇太子の欧州歴訪計画に対して在野右翼の反対運動がおこる。これと前後して宮中某重大事件が発生して山縣筆頭元老が失脚するなどの動揺が起こったが、原は無事に処理した。原の死後、皇太子の摂政就任が実現する。
1921年(大正10年)11月4日、原敬が暗殺されたことにより総辞職。後継には高橋是清蔵相が首相を兼任、政友会の総裁にも就任して、政友会内閣が継続する。
2019年問題
東京都渋谷区代々木神園町に鎮座。明治天皇・昭憲(しょうけん)皇太后を祀(まつ)る。1920年(大正9)11月創建。1912年(明治45)7月明治天皇が亡くなり、1914年4月その皇后昭憲皇太后が亡くなったあと、国民の間からその神霊を祀り、遺徳を慕い敬仰したいとの気運が高まり、翌1915年明治神宮造営局官制が公布され、江戸初期以来、大名加藤家、井伊(いい)家の下(しも)屋敷の庭園であり、明治時代に代々木御苑(ぎょえん)とされ、明治天皇・昭憲皇太后ゆかりの当地を選び造営することとした。その境内約70万平方メートルの造園整備は全国青年団の勤労奉仕によりなされ、その樹木365種、約12万本も全国より献納された。30万平方メートルに及ぶ外苑は1926年完成。1945年(昭和20)4月本殿以下戦災を受けたが、1958年復興。旧官幣大社。例祭11月3日(明治天皇の誕生日)。
[鎌田純一]
2020年(令和2)、本殿、内拝殿、外拝殿など36棟が重要文化財に指定された。
[編集部 2021年12月14日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国からの献木が植樹された。
また、本殿を中心に厄除・七五三などの祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」明治神宮ミュージアム、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館、神道文化の国際的な発信を行う明治神宮国際神道文化研究所などがある。
新年には毎年のように国内外から観光客が集まり、初詣では例年の参拝者数が全国1位となっている。
戦争によってもたらされた輸出と内需における好景気(大戦景気)が、終戦にともなって終了し、それに留まらず不景気にまで陥る現象のことを指す。この景気循環は日露戦争後や朝鮮戦争の際にも確認できるが、日本では第一次世界大戦後の1920年に発生した不況を指して「戦後恐慌」と呼ぶことが多い。
1918年(大正7年)11月のドイツ国(ドイツ帝国)の敗北により、第一次世界大戦が終結したとき、大戦景気は一時沈静化した。しかし、ヨーロッパの復興が容易でないと当初見込まれ、また、アメリカ合衆国の好景気が持続すると見込まれたこと、さらに、中国(中華民国)への輸出が好調だったことより、景気は再び加熱した。
ヨーロッパからの需要も再び増加して輸出が伸びはじめた1919年(大正8年)後半には金融市場は再び活況を呈し、大戦中を上まわるブーム(大正バブル)となった[2]。このときのブームは、繊維業や電力業が主たる担い手であったが、商品(綿糸・綿布・生糸・米など)・土地・株式などの投機が活発化し、インフレーションが発生している。
1920年(大正9年)3月に起こった戦後恐慌は、第一次世界大戦からの過剰生産が原因である。日本経済は、戦後なおも好景気が続いていたが、ここにいたってヨーロッパ列強が生産市場に完全復帰し、日本の輸出が一転不振となって余剰生産物が大量に発生、株価が半分から3分の1に大暴落した。4月から7月にかけては、株価暴落を受けて銀行の取り付け騒ぎが続出し、169行におよんだ。
1920年代は、「慢性不況」と称されるほどの長期不況が支配し、大戦期の輸出で花形産業となった鉱山、造船、商事がいずれも停滞し、久原・鈴木は破綻し、重化学工業も欧米製品の再流入で苦境に立たされることとなった[3]。1920年代の「慢性不況」は、大戦時の輸出が主な「大戦景気」と戦争直後の「バブル経済」的なブームのあとにきた反動によるものと把握できる。
参考:『戦後恐慌』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%81%90%E6%85%8C
2021年徳永直の著書を聞く問題。
おもに日本文学において,プロレタリアとしての階級的,政治的立場に立ち,社会主義ないし共産主義思想に基づいて現実を描く文学,およびその運動をいう。労働運動の高揚に伴い,1921年小牧近江らによって創刊された雑誌『種蒔く人』をもって組織的な出発とされるが,以後革命運動との関連において,マルクス主義的傾向を強く打出すようになり,『文芸戦線』や「プロレタリア文芸連盟」の文学運動として発展していった。しかし昭和初期にその運動理論をめぐる対立から「ナップ」と「労農芸術家連盟」に分裂し,前者はなかば革命運動を代行する形をとり,ために満州事変下における革命運動の弾圧強化により打撃を受け,戦争の長期化とともに壊滅した。代表的作家に葉山嘉樹,黒島伝治,小林多喜二,徳永直,平林たい子らがいる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
[徳永直]
[生]1899.1.20. 熊本,花園
[没]1958.2.15. 東京
小説家。小学校中退。職を転々としたのち,1922年山川均を頼って上京,印刷工員として労働組合運動に参加。 26年共同印刷の大争議にかかわり,敗北後この争議の経過を描いた『太陽のない街』を『戦旗』に連載,これによりプロレタリア作家として認められた。第2次世界大戦中は『光をかかぐる人々』 (1943) で地味な抵抗を示し,戦後は新日本文学会の結成に参加,『新日本文学』創刊号から亡妻の思い出として下積みの女の一生を描いた『妻よねむれ』 (46~48) を発表。ほかに『八年制』 (37) ,『静かなる山々』 (49~54) ,『草いきれ』 (56) などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
参考『水平社宣言から100年、その精神とは 原文と現代語訳』朝日新聞 2022年2月27日
https://www.asahi.com/articles/ASQ2V51TCQ2GPTIL00L.html
参考『全国水平社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E5%9B%BD%E6%B0%B4%E5%B9%B3%E7%A4%BE
国水平社(ぜんこくすいへいしゃ)は、1922年(大正11年)3月、日本で2番目に結成された全国規模の融和団体で、第二次世界大戦以前の日本の部落解放運動団体である。略称は全水(ぜんすい)もしくは単に水平社。第二次世界大戦後に発足した部落解放全国委員会および部落解放同盟の前身である。
背景
融和運動
明治維新の結果、明治天皇によって煥発された解放令により、穢多・非人などの被差別部落民は形の上では封建的な身分関係から解放されたが、実際にはさまざまな差別が残っていた。そのため、多くの部落民は文明開化・殖産興業・富国強兵が進行していく中で貧困に苦しんでいく。これを解決するため融和運動が提唱され、大正3年(1914年)6月7日、板垣退助、大江卓らによって日本最初の全国規模の融和団体となる「帝国公道会」が一君万民・四民平等の理念のもと設立された。これは「日本人は悉く平等に天皇陛下の赤子である」との思想のもと、差別の原因が部落の劣悪な環境や教育水準にあるとし、富裕層の力を借りての部落の経済的向上を目指し、また部落民の意識を高め部落外の人々の同情と理解を求めることで差別を無くそうとするものであった。これらの活動は国粋主義の強いもので、後に博徒系の人々が集まり「大日本国粋会」の設立に繋がる。
左派思想の流入
第一次世界大戦中のロシア革命や米騒動の影響を受け、「人類総てが平等である」という革新思想が萌芽し、従来の融和運動ではなく同和を目指す集会「燕会」が催されると、西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作ら柏原(現・奈良県御所市柏原)の青年は「自分たちの力で部落の解放を勝ち取る」という運動を構想した。これをピューリタン革命の最左派であった水平派(レヴェラーズ)にちなんで新たな運動とし団体名を「水平社」と命名。大正11年(1922年)1月、冊子『よき日のために』を発刊、創立大会への結集を呼びかけた。これにより、大正デモクラシー期の日本において被差別部落の地位向上と人間の尊厳の確立を目的として「全国水平社(以下水平社又は、全水)」が創立された。
創立時の役員
水平社創立発起者は、奈良の西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作、米田富、京都の南梅吉、桜田規矩三、近藤光、福島の平野小剣らであった。
創設者の一員 西光万吉の君民一如・天皇の下の平等・高次的タカマノハラ(高天原)の思想の下で、部落差別解消を目的に結成された、尊皇愛国の同和団体[要出典]。ただし、被差別民一般を視野に入れた組織ではなくあくまで穢多系の被差別者を解放するための組織であり、的ヶ浜事件に見られるように、物吉(癩者)や山窩乞食などには強い差別意識があった。
沿革
結成
全国水平社設立の地
大正11年(1922年)3月3日、京都市岡崎公会堂で創立大会が行われ、日本で2番目の人権宣言といわれる水平社創立宣言を採択した。創立大会ではまた「人間を差別する言動はいっさい許さない」と決議され、各地から集まった代表者たちは、その喜びと決意を口々に述べた。少年代表者である16歳の山田少年は、差別の現実を報告し、「差別を打ち破りましょう。そして光り輝く新しい世の中にしましょう」と呼びかけた。
融和運動との対立
「融和運動では差別が解消されない」として、融和運動を批判し「帝国公道会」などの融和運動との訣別を宣言。差別の原因はあくまで「差別する側」にあるとして、差別への糾弾や啓発に重点を置くことにした。結成の中心となったのは先述の柏原の3青年たちであったが、初代委員長には滋賀県の著名な部落改善運動家であった南梅吉が就任した。全水は翌大正12年(1923年)に結成された朝鮮の被差別民白丁の組織「衡平社」とも連携して差別撤廃の運動を展開した。(しかし、昭和2年(1927年)1月、南梅吉らが左派運動に疑問を呈し「水平社」を割って右派を結集し「日本水平社」を組織。この派閥は融和運動に戻っている)
労農運動との結合
結成当初の水平社は、差別を古くからの因習によるものととらえ、差別者に対する「徹底的糾弾」方針をとっていたが、糾弾闘争の進展は一方で部落の内外の溝を深めるとの反省が出てきた。その一方でアナ・ボル論争などの影響から、大正12年(1923年)11月松田喜一ら若手活動家を中心に結成された全国水平社青年同盟(のち大正14年(1925年)9月「全国水平社無産者同盟」に改組)が階級闘争主義と労農水提携(労農運動と水平社運動の提携)を掲げいわゆる「ボル派」として全水内部で次第に力を増してきた。全水のボル派は、大正13年(1924年)11月、南・平野小剣ら従来の幹部を「スパイ問題」(南・平野らが警察幹部と交際があったというもの)を理由に辞任に追い込み全水本部の主導権を掌握(その後委員長には松本治一郎が就任)、大正15年(1926年)の第5回大会では「部落差別は政治・経済・社会的側面に基づく」との認識に基づき、軍隊内差別や行政による差別を糾弾し労働者・農民の運動と結合する新方針が決議された。
運動の低迷
以上のような「ボル派」の指導権掌握は全水内部の右派や「アナ派」との対立を激化させ、彼らの離反を招く結果となった。右派は南梅吉を中心に融和運動的な日本水平社を結成(1927年(昭和2年) )。大正14年(1925年)10月、全国水平社創立の理念を継承しようとする人々と全国水平社内の無政府主義者との連合体の性格を帯びた組織 「全国水平社青年連盟」が結成された。大正15年(1926年)9月1日には全国水平社青年連盟の無政府主義者によって「全国水平社解放連盟」が結成された。この結果全水の地方組織や運動は一時低迷し、また全水本部を握った左派も、昭和6年(1931年)の全水第11回大会において、部落解放運動を階級闘争の運動のなかに解消すべきとする「全水解消意見」を提案するなど混迷を深めた。
大正15年(1926年)、福岡の歩兵第24連隊内で水平社同人対して差別的な発言が行われたことを契機に、水平社九州連合会と連隊当局との間で差別解消に向けた交渉が始まるが決裂。同年8月9日には、連隊長官舎に爆発物が投げ込まれるなどの武装闘争も行われた結果、同年末までに福岡県をはじめ熊本県、大阪府、奈良県で、爆発物取締罰則及び銃砲火薬類取締法施行規則違反容疑で逮捕者が出た。
復活から消滅まで
運動の低迷に終止符が打たれたのは昭和8年(1933年)である。この年の全水第11回大会で生活改善・差別撤廃闘争を通じ労農提携をめざす「部落委員会」方針が決定され、また大衆的な差別糾弾運動として展開された高松地裁糾弾闘争の高まりにより、全水の運動は復活に向かった。しかし、昭和12年(1937年)の日中全面戦争の開始以降、全水もまた戦争に積極的に協力し、かつての全水青年同盟の中から総力戦構築を通じ差別の撤廃をめざす転向者(朝田善之助ら)も出現するようになった。これらの結果、全水は翼賛体制に取り込まれることを潔しとせず、戦時体制下での結社届けを出すことを拒み、昭和17年(1942年)1月20日に団体としては自然消滅を選択した。
戦後、昭和20年(1945年)10月の志摩会談で水平社運動の再建が協議され、昭和21年(1946年)2月には旧水平社のメンバーや融和事業団体の役員たちが京都に集まり部落解放全国委員会(部落解放同盟の前身)を結成した。
関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分、日本時間、以下同様)に発生した関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。
『関東大震災』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
参考:『関東大震災100年』特設ページ(内閣府・防災のページ) https://www.bousai.go.jp/kantou100/
掲載の関東大震災・阪神大震災・東日本大震災の被害比較表から関東大震災は近年の大震災に劣らぬ規模(範囲は阪神大震災の10倍)の被害であること・経済被害は国家予算の4倍近くであったこと・相模トラフを震源とする海溝型地震であることなどがわかります。
参考:『資料で学ぶ関東大震災』特設ページ(内閣府・防災のページ) https://www.bousai.go.jp/kantou100/siryou.html
[生]1882.4.18. 長野
[没]1959.8.14. 東京
大正・昭和期の実業家。東急コンツェルンの創設者。長野県の農家の二男に生まれる。1911年東京帝国大学法科大学卒業後,農商務省を経て鉄道院に勤務。1920年民間に下り,武蔵電気鉄道(のち東京横浜電鉄)の常務取締役となる。旺盛な事業活動を展開し,1922年に目黒蒲田電鉄を設立,以後,池上電気鉄道,東京横浜電鉄,玉川電鉄,小田急電鉄,京浜電気鉄道,京王電気軌道の各社を合併して 1942年東京急行電鉄に統合,経営合理化,体質強化をはかった。交通事業を主軸にしながら,土地,住宅,百貨店など付帯事業も次々と拡大,いわゆる東急コンツェルンを築いた。1944年東条英機内閣の運輸通信大臣に就任。第2次世界大戦後は公職追放となり,また財閥解体によって傘下から東横百貨店(→東急百貨店),小田急電鉄,京王帝都電鉄(→京王電鉄),京浜急行電鉄の各社が分離独立したが,1951年追放解除とともに東京急行電鉄会長に復帰。分離した各社を再び支配下に収め,東映の再建,白木屋の買収,土地開発や伊豆箱根の観光開発などを手がけ,東急グループを形成した。「事業の鬼」と呼ばれる手腕と覇気に富んだ人物像は,日本の実業界でも異色の存在であった。文化事業として五島育英会,五島美術館の設立,亜細亜大学の経営などを行なった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
写真(絵画)問題として2022年出題
[生]1891.6.23. 東京
[没]1929.12.20. 山口,徳山
洋画家。明治の先覚者,岸田吟香の第9子 (4男) 。 1908年白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に師事。 10年第4回文展に『馬小屋』『若杉』が入選。この頃雑誌『白樺』で後期印象派,フォービスムなどの感化を受け,12年高村光太郎らとフュウザン会を結成。のち北欧ルネサンス様式の影響を受け 15年草土社を創立。デューラー風の神秘的で細密な描写による肖像,静物,風景画を発表。 17年第4回二科展で『初夏の小路』 (下関市立美術館) が二科賞を受け,翌年から娘麗子を主題にした作品を多く制作。 22年春陽会の創立に参加。この頃から歌舞伎,能,長唄などに親しむようになって日本画も描き,関東大震災で京都に移住してからは,初期肉筆浮世絵や中国,宋元画に学び,東洋的な表現を加味した独自の画風を築いた。 29年満州旅行の帰途,38歳で山口県徳山で客死。『劉生画集及芸術観』 (1920) ,『初期肉筆浮世絵』 (26) ,『図画教育論』など著書も多い。主要作品『道路と土手と塀 (切通しの写生) 』 (15,東京国立近代美術館) ,『麗子五歳之像』 (18,同) ,『麗子微笑 (青果持テル) 』 (21,東京国立博物館) ,『村娘於松立像』 (21,東京国立近代美術館)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『モガ・モボ』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%9C%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%AC
モボ・モガとは、それぞれ「モダンボーイ」(modern boy)、「モダンガール」(modern girl)の略語。1920年代(大正9年から昭和4年まで)の都会に、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象に現れた、当時は先端的な若い男女のことを、主に外見的な特徴を指してこう呼んだ。戦前の日本の若者文化では、最も有名な例である。「モダンガール」の語の発案者は新居格だという説もある。
時代背景・社会風俗など
大正年間は、日本が連合国の一員として参戦し、戦勝国となった第一次世界大戦にて日本の国益が大きく増進し、主な戦場であったヨーロッパから遠かったため、戦争状態に置かれた連合国への民需、軍需双方の輸出が増大したこともあり、「戦勝国と中立国両方の利益を得た」と言われた。
国内事情も大戦景気に沸き、消費文化や流行の輸入品(舶来品)が旺盛な消費活動を刺激し、また機械化・合理化された産業発展が女性の社会進出を促し「職業婦人」も加速度的に増加していった。
上流階級の正装として高価で限定された従来の洋装が、産業の機械化と購買力をもった職業婦人とともに若い男女に広がるようになり、イギリスをはじめとするヨーロッパの先進国やアメリカ合衆国の流行の輸入品や風俗の一部を取り入れるようになった。
この時期、「大正デモクラシー」の時流に乗って、男性に限られてはいるがヨーロッパでもまだ多くの国で取り入れられていなかった普通選挙が実施され、教育の分野においては大正自由教育運動がおこり、かつては一部高等子弟にだけ許された高等教育が徐々に一般庶民へも拡大し、個人の自由や自我の拡大が叫ばれ、進取の気風と称して明治の文明開化以来の西洋先進文化の摂取が尊ばれた。
新しい教育の影響も受け、伝統的な枠組にとらわれないモダニズム(近代化推進)の感覚をもった青年男女らの新風俗が、近代的様相を帯びつつある都市を闊歩し脚光を浴びるようになった。
ただし、珍奇な恰好をするのは「ろくな人間ではない」という考えの保守的な一般庶民や田舎の視線からは、洋風の異装をにわかに身に付けた習慣をひけらかす軽薄な風潮だという世間の顰蹙もまた広まった。1928年(昭和3年)に実施された普通選挙の実施により議会制民主主義が根付き、自由な気風が続くかと思われたものの、昭和10年代前半(1930年代後半)に入ると、世界恐慌の影響と支那事変勃発による戦時体制化の中で、こうした華美な風俗は抑制されて姿を潜める結果になった。
「モボ」「モガ」の特徴
男女を問わず、「モダンであること」が最大の特徴である。
ファッション
モボ
山高帽子・ロイド眼鏡・セーラーパンツ・細身のステッキなどが当時の広告などから見て取れる。また、ボードビリアン・二村定一や喜劇俳優・榎本健一の歌『洒落男』の訳詞(詞:坂井透)にも「俺は村中で一番モボだといわれた男(中略)そもそもその時のスタイル/青シャツに真赤なネクタイ/山高シャッポにロイド眼鏡/ダブダブなセーラーのズボン(後略)」とある。
モガ
服装は原則として洋服で、スカート丈はひざ下、ミディアムからロング(当時はこれでも十分短かった)。その他、クロッシェ(釣鐘型の帽子)・ショートカット(「結い髪でなく断髪」の意。いまで言うボブカット)・引眉・ルージュや頬紅などが特徴的(当時、まだ化粧の習慣は一般的ではなかった)。パーマネント・マニキュアなどは昭和に入ってからの流行となる。断髪の髪型は「毛断(モダン)」と呼ばれたりした。その他、フランソワ・コティの香水も好んで使われた。
海外女優のコリーン・ムーア、ノーマ・シアラー、ジョーン・クロフォード、クララ・ボウ、ルイーズ・ブルックスなどの影響を受けたファッションである。
昭和の元号を冠した時代(1926‐89)を指すが,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえない。第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな変化を遂げているからである。
1926年12月25日大正天皇が死去し,すでに1921年以来摂政であった皇太子裕仁(ひろひと)親王が践祚(せんそ)して昭和と改元された。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版 コトバンク『昭和時代』
参考:『同潤会アパート』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E6%BD%A4%E4%BC%9A%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88
同潤会アパート(どうじゅんかいアパート)は、財団法人同潤会が大正時代末期から昭和時代初期にかけて東京・横浜の各地に建設した鉄筋コンクリート造(RC造)集合住宅の総称である。同潤会が建設した同潤会アパートは近代日本で最初期の鉄筋コンクリート造集合住宅として、住宅史・文化史上、貴重な存在であり、居住者に配慮したきめ細かな計画などの先見性が評価されている。
概要
1923年(大正12年)に発生した関東大震災では木造家屋が密集した市街地が大きな被害を受けた。同潤会は復興支援のために設立された団体であり、耐震・耐火の鉄筋コンクリート構造のアパートメントの建設は主要事業の1つであった。
同潤会アパートメントの果たした画期的意義として、防災に強いアパートメントを目指したことが挙げられる。構造を鉄筋コンクリート造にしただけでなく、各戸の障壁を不燃化すると共に、防火扉などを標準仕様にした。
不燃構造の集合住宅としては、1916年以降に建設された軍艦島の集合住宅群が先行事例である。また、不燃構造の公的な住宅としては、横浜市と東京市の事例があった。
同潤会は1924年(大正13年)から1933年(昭和8年)の間に、東京13か所2225戸、横浜2か所276戸のアパートメントと、コンクリート造の共同住宅1か所140戸を建設した。
電気・都市ガス・水道・ダストシュート・水洗式便所など最先端の近代的な設備を備えていた。大塚女子アパートは、完成時はエレベーター・食堂・共同浴場・談話室・売店・洗濯室、屋上には、音楽室・サンルームなどが完備されていて当時最先端の独身の職業婦人羨望の居住施設だった。婦人の社会進出が遅れていた当時にあって、大塚アパートメントに象徴される日本初の女性専用アパートメントを提供したことは、同潤会アパートメントが果たした画期的意義の一つである。
同潤会アパート
同潤会アパート(下表のうち15か所)は、都市生活者の利便のために用意されたアパートメント事業によるもので、土地・建物は同潤会が所有し、入居者は一般募集された。居住者として想定されていたのは主に都市の中間層(サラリーマンなど)だった(大塚女子アパートは独身の職業婦人向け)。
猿江裏町共同住宅はスラムの改善を目的とした不良住宅改良事業によるもので、土地収用法の事業認定を得て同潤会が用地を買収し、居住者を移転させて共同住宅を建設、元の居住者は低額の家賃で入居させた。
設計組織
最初期の中之郷アパートの設計は東京帝国大学建築学科教授内田祥三(同潤会理事)の研究室で行われ、岸田日出刀が関与したという。その後本部組織が独立してからも、建築部長を務めた川元良一をはじめ、鷲巣昌・黒崎英雄・拓殖芳男・土岐達人ら、内田の教え子たちである東京帝国大学建築学科出身者が多く在籍した。「建築非芸術論」で知られる野田俊彦も一時期嘱託として籍を置き、大塚女子アパートの設計に関与した。
平面計画
同潤会アパートは階段室型のプランを基本とした(第2次世界大戦後の公団住宅でも多く採用されたプラン)。ただし、虎ノ門アパート、大塚女子アパート、江戸川アパート(5・6階の独身用)は中廊下型、代官山アパート(独身者棟)、東町アパートは片廊下型である。
猿江裏町共同住宅では片廊下型が採用された。同住宅の設計に関わった中村寛(内務省技師)は片廊下型のプランについて、建設コスト、通風、採光の点で優れるが、プライバシーに難点があり、高級アパートメントには向かないが、労働者向けには適している、と述べている。
設備
電気、ガス、水道の設備を備え、トイレは当初から水洗式を採用した。
当時の東京の一般住宅にまだ内湯は少なく、同潤会アパートでも近隣の銭湯を利用するところが多かった。虎ノ門、大塚、江戸川は浴室があった(江戸川では一部の住居に内湯もあった)。代官山では敷地内に銭湯を設けていた。
同潤会解散後
1941年(昭和16年)、戦時体制下に住宅営団が発足すると、同潤会はこれに業務を引き継いで解散した。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による空襲で山の手方面が大きな被害を受けた際、街路樹が全焼した表参道では同潤会アパート前のケヤキだけが焼け残り、防火壁としての同潤会アパートの機能を実証した。
日本の敗戦後に住宅営団が解散すると、東京都内の同潤会アパートは東京都に引き継がれ、大部分は後に居住者に払下げられた。大塚女子アパートに限っては個人に払い下げると男性が住むようになる事を懸念した住民の要望を受け都営住宅として存続した。横浜の同潤会アパートは建財株式会社[13]が管理することになり、賃貸住宅として存続した。
開発と保存運動
同潤会アパートは老朽化のため順次、建て替えが進められた。跡地が大規模に再開発された事例として、代官山アパート跡地に2000年(平成12年)に完成した「代官山アドレス」、青山アパート跡地に2006年(平成18年)に完成した「表参道ヒルズ」などがある。一方、歴史的建築物として1999年には、日本の近代建築20選(DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)にも選定されている。代官山・青山・大塚女子・江戸川などでは取り壊しに際して保存運動も起こった。しかし、老朽化に伴う建物の劣化が著しく、住人にも建て替え希望者が多かった。立地条件が良い場所が多く、高層化することにより個人負担なしで建て替えが可能など、建て替えによるメリットが大きいと考えられたこともあって保存は困難だった。
2003年(平成15年)に青山・大塚女子・江戸川が取壊し。残る三ノ輪は2009年(平成21年)、上野下は2013年(平成25年)に取壊され、全ての同潤会アパートが姿を消した。
代官山アパートの部材は都市機構の集合住宅歴史館(八王子市)に移設され、室内が復元された。同館は2022年3月に閉館し、2023年9月、北区赤羽台の「URまちとくらしのミュージアム」に移転。
青山アパート東端の1棟が安藤忠雄の設計によって外観が再現された。表参道ヒルズの「同潤館」として商業施設の一部となっている。
江戸川アパート取壊しの際には、部材を江戸東京博物館に移し室内を再現するという新聞報道がされたが、実現しなかった。同館には猿江裏町共同住宅で使われていた郵便受け口が保存されている。
参考:『昭和金融恐慌』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E9%87%91%E8%9E%8D%E6%81%90%E6%85%8C
昭和金融恐慌(しょうわきんゆうきょうこう)は、日本で1927年(昭和2年)3月から発生した経済恐慌である。単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)ともいう。
「金融恐慌」は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本では特に断らない場合はこの1927年(昭和2年)の恐慌を指すことも多い。
1930年(昭和5年)からの昭和恐慌(しょうわきょうこう)とは異なる。
→「金融危機 § 関連項目」、および「1837年恐慌 § 関連項目」も参照
概要
日本経済は第一次世界大戦時の好況(大戦景気)から一転して1920年に戦後不況に陥って企業や銀行は不良債権を抱えた。また、1923年に発生した関東大震災による経済混乱に対応するための震災手形が膨大な不良債権と化していた。折からの不況を受けて中小の銀行は経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。1927年3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相(第1次若槻内閣)が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言[1]したことをきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃し、対応に行き詰った若槻内閣が倒れた。代わって成立した田中義一内閣の高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に大量に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。
背景
昭和金融恐慌の原因としては、未熟な金融システムと、経済的危機に正しく対処し得なかった未熟な政策が挙げられる。
遠因
金融システムの整備が完全ではなかったことから発生した不良債権の処理が適切になされず、金融不安を起こすに至った。大正期からこれらシステムの不備は認識されていたが、充分な手当てがなされる前に恐慌が発生した。
銀行
明治維新期に西洋の経済をモデルとして多くの銀行が設立されたが、その中には、俸禄改革における金融公債(秩禄公債・金禄公債)を資本金として設立されたものが多くあった。設立の意図が資金需要に応える経済的理由によらず公債の資金化を動機とした、いわばなりゆきであったために金融の事情に不案内な者[注 1]が銀行経営に当たることも多かったと指摘されている。また、資本金が実際に払い込まれていないものも多かったという。
日露戦争後には経済が発達し、これに応じるために銀行の設立が推奨された。1890年(明治23年)に改正された銀行条例では、銀行業は一般の私企業とみなされ資本金額の制限が撤廃され、規制や制限もゆるいものであった。この時期、資産家が銀行を設立することや、資金に余裕のある私企業が銀行業を兼業することも行われた。また、特定の企業への融資額を制限する規制条項も撤廃され、融資先が偏る情況を許した[注 2]。
特定企業と結びつきの強い銀行を指して俗に機関銀行という。資産家が豊富な資金を元手に設立したり、私企業の兼業で設立した銀行で、集めた預金を特定企業の業務遂行に充てる。資金を特定の企業に集中して融資することから、その企業の業績が悪化した場合には直接銀行経営が悪影響をこうむる。また、貸出先企業の不透明な経理の影響を蒙って経営が悪化することもしばしばあった。
また、欧州の銀行が両替商に始まり産業の発展に伴う金融機能の要求に応えて銀行業が発達していったのに対し、日本では海外の金融システムをモデルとして先に多くの銀行が設立されたところから、当初は金融の需要が少なく銀行自身が事業を興して需要を作り出す傾向にあった。これも特定の企業へ貸し出しが偏る要因となった。
二十七銀行
東京渡辺銀行
1877年(明治10年)10月に資本金30万円をもって第二十七国立銀行として設立され、1897年(明治30年)7月に資本金100万円(うち21万円払込済)に増資して株式会社二十七銀行とし、1920年(大正9年)2月に景気の熱も冷めやらぬ頃に資本金を500万円(うち200万円払込済)に増資して東京渡辺銀行と改称した。なお、横浜にも渡辺一族の経営する渡辺銀行があったことから、「東京渡辺」銀行と称して区別した。経営者一族の関連企業に多額の貸付を行い機関銀行としての性格が強かったが、これらの融資が戦後不況で焦げ付き関東大震災後に経営が悪化した。そして前述の蔵相の失言で休業した。
台湾銀行
1895年の台湾統治後に大日本帝国政府の国策で設立され、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。台湾における産業の育成に資するところから始まったが、樟脳の取引を介して鈴木商店と関係を深めた。この頃情勢が悪化した中国大陸への融資を縮小し新たな融資先を開拓していたところでもあり、鈴木商店への融資を足がかりとして内地(日本本土)にも経営を広げた。同時に融資額が膨らみ、機関銀行としての性格も強めた。しかし、戦後不況で鈴木商店の経営が悪化すると多額の融資が焦げ付き、追い貸しを行うようになった。その後、金子直吉を鈴木商店の経営から排除し、融資を縮小するべく画策したが失敗に終わっている。
なお、台湾銀行はしばしば経営危機に瀕し都度日銀の特融や大蔵省預金部からの融資を仰いでいた。1920年代に入ると借入金への依存度が増し、特融・預金部の融資に加え、コール市場の融通金にも大きく依拠するようになっていた[2]。
産業構造
殖産興業策の下に産業振興が大いに勧められたが、大正期に至っても日本経済はその多くを生糸などの軽工業に負った。製鉄や造船などの重工業も勃興しつつあり、第一次世界大戦中には英国をはじめ欧州先進国の産業が衰えたのを代替するまでに至ったが製品の質では未だに一歩譲り、欧州諸国が戦後に産業を回復するとアジアに獲得した市場を奪回された。これは戦後の大反動(1920年)の一因となる。
1874年に開業した鈴木商店は1899年に台湾の樟脳の販売権を獲得し、この際に後藤新平と関係を深め政界にも接近した。第一次世界大戦期には海外電報を駆使して収集した情報から戦争の長期化を予測し、これに備えて企業買収や投機を行い多大な利益を上げた。鈴木商店関連の金融機関として第六十五銀行があったが成長する鈴木商店を支えるだけの規模はなく、拡大する資金需要は台湾銀行からの短期的な融資を中心として賄った。株式による資金獲得では株主の意向を排除できないことを嫌った金子直吉の方針と言われるが、これが経営危機において即座に資金難に陥った一因であるといわれる。
また金子直吉の性分として、経営拡大には手腕を発揮したが不採算な事業を畳むことはできなかったといわれる。一方で、経営拡大は日本の産業発展を願う金子の意図に出たものとも言われる。
近因
大正期に入ってから続く不況に喘ぐ日本は第一次世界大戦が始まると一転して船舶需要をはじめとする戦争特需に湧いて終戦後もその熱気は続き、念願だった八八艦隊の整備にも乗り出して造船業界は活況を呈した。だが1920年になると戦後不況が襲い、活況を呈していた造船業界も軍縮の煽りをうけて受注を減らし日本経済全般が苦境に陥った。1923年に関東大震災が発生し、経済的混乱を防ぐべく震災手形の救済策がとられたが、ここに戦後不況で生じた不良債権が大量に紛れ込み、その根本的解消が行われず金融不安をあおっていた。
交易の面では大戦中の1917年に金本位制を一旦停止し、大戦後に復帰の機会を窺がったが、戦後不況と関東大震災からくる日本経済の混乱の中で金解禁は先延ばしとなり、金の裏づけのない円が投機対象とされたことから、円為替は乱高下した。経済的にも交易の面からも円の安定が求められ、早急な金解禁を目指したが、それに先立って日本経済に燻る震災手形をはじめとする不良債権を根本的に解消することが急務となった。また、戦後に経済環境が変化した中で戦前の平価を維持するために緊縮財政がとられ、これも日本経済の不況に輪をかけた。
政界では大正中期より協力体制にあった護憲三派が解体し、交易を重視し金解禁に積極的な憲政会と、北伐から中国東北部の権益を守ための戦費を調達する上で借款を行う都合から金解禁には消極的な立憲政友会の対立、政党と財閥と軍部の関係を背景にした対立、政友本党との連携を巡る政治的混乱が深化した。
第一次世界大戦
1914〜1918年に戦われた第一次世界大戦において主戦場となった欧州より隔絶した日本の参戦は限定的であり、直接の被害を免れた。一方で当時世界の生産の中心であった欧州が戦場となったことから生産や輸出が落ち込み、戦域外の各国が世界の需要を担うこととなり、工業力をつけつつあった日本は余裕を喪った欧州列強に代わって世界の需要に応えてアジアやアフリカの市場を席巻した。併せて戦争に供する物資・兵器の需要が高まり、日本からは船舶の供給、海運業務を中心とする物資・サービスが提供された。この影響でいわゆる「船成金」が生まれるなど日本経済は好況を呈した。このとき、明治以来債務国であったものが債権国に転じ[注 3]、正貨が大いに蓄積された[注 4]。
戦争が終結し、戦争特需が終わると反動で不況になることが危惧された。日本においては日清戦争や日露戦争の後の反動不況の経験もあり十分警戒されたことから重篤な不況に陥らず、およそ戦後半年で反動不況から脱した[注 5]。また、欧州では戦後の復興のための需要がおこり、これに向けて輸出が行われたし、やはり戦禍を直接受けなかった米国の景気は好調で、これも相まって景気は拡大し(戦後ブーム)起業・生産にむけての投資も盛んに行われ、大戦中の好況で資金を蓄えた銀行も積極的に貸し出しを行ってこれを支え、株価・地価も上昇した。だが、その内容はやがて投機へと変質していった。
1920年に入ると経済に変調を来たし3月15日に東京の株式市場が暴落を見せ、4月には大阪の増田ビル・ブローカー銀行が破綻し、経済的混乱から株式市場・商品市場が暫時閉鎖に追い込まれる事態となった。欧州での生産が回復するとアジアやアフリカの市場を喪って日本の輸出も落ち込み、また7月には米国の景気が後退期に入ったことが明らかとなり、好況を前提に事業を拡大していた企業は一転して不良債権を抱えた(1920年の大反動)。拡大路線をとっていた鈴木商店も多大な不良債権を抱えた企業の一つである。
振り返ればこの不況は重篤であったが、当時は景気循環の中のありふれたリセッションであると見誤り不良債権を解消する根本的な対策を怠ったのが政策上の失敗と考えられている。
軍縮
帝国海軍はかねてより主力艦の増強と更新を図るいわゆる八八艦隊計画を推進しており、大戦中に最初の段階である八四艦隊案の下で主力艦長門・陸奥・加賀・土佐・天城・赤城や空母翔鶴[注 6]をはじめとする艦艇の建造を開始していた。戦後も続く好景気もあって1920年に「国防所要兵力第一次改訂」の予算が成立し、八八艦隊の実現に向けて追加の戦艦、巡洋戦艦を中心とする大規模な艦艇建造に着手した。鈴木商店も需要の細った民間船舶から建艦需要拡大が見込まれる軍相手の取引へ経営の軸足を移していたが、直後に大反動に見舞われた。やはり景気の後退した米国でも不況の中で拡大する軍事予算と他国、中でも日本の軍拡を問題視して米国大統領ウォレン・ハーディングが軍縮会議を提唱し、復興の負担にあえぐ欧州諸国等[注 7]も参加して1921年よりワシントン会議が開催された。ここで軍艦の保有・新造を制限する軍縮条約が結ばれ、その取り決めに沿って帝国海軍の正面装備が削減されることとなり、特に造船分野では新造の需要が激減した[注 8]。これに対し政府からは造船企業に対して一定の補償金が支払われたが、海軍が最も多額の取引を行っていた鈴木商店は取引額を減じてダメージを被った。また、鈴木商店傘下の神戸製鋼や関係の深い川崎造船所も受注を減らして業績が悪化した。
関東大震災
→「震災恐慌」および「震災手形」も参照
1923年に関東大震災が発生し、東京・神奈川で被災した企業が振り出していた手形については決済不能となることが危惧され、直ちにモラトリアム令が出され、続けて日銀が手形の再割引を行い(震災手形)、決済困難な手形に流動性を付与することで経済活動の停滞を防ぐべく対応を取った(日銀特融)。しかし、日銀に持ち込まれた多くの手形の中から震災手形としてスタンプを押すものを選別する場面において、真に震災の被害を受けて当座の支払いに困窮したものは同時に生産手段や担保となる資産も喪失していることが多くリスクが大きいとして敬遠された。一方で被災の程度が軽く安全な物件が優先されたほか、折からの不況や投機の失敗で不良債権となった手形は一応の担保が確保されていることから安全な物件とみなされ、これらを再割引の対象として受け入れることがあったと指摘されている[3]。この過程で直接震災に関係ない手形が多数紛れ込むモラルハザードが発生し、戦後不況に起因する不良債権が根本的な解消を見ることなく残りつづけた。
また、震災からの復旧に際して海外からの物資輸入が増大し[注 9]為替で円の下落を招くと共に在庫が滞留し、これが国内の生産を圧迫して不況に輪をかけた。
なお、震災手形による救済策の実施には、鈴木商店の金子の働きかけがあったという俗説もあり、日銀特融を台湾銀行の未決済手形の穴埋めに流用する意図であったと言われる。また、政府もこれを承知で流用を黙認していたとも言われる。
震災手形として再割引した手形の支払期限は1925年9月までの2年とされたが、その内容は前述のように比較的安全なものと、上辺は安全を装っているが実際には投機の失敗でもはや回収の見込みのない悪質なものとがあった。1924年3月の受付期限までに日銀が割り引いた手形は政府補償額である1億円を超える4億3千万円に達したものの、最初の数ヶ月は予想よりも早く決済が進んだ。しかし徐々に決済が滞るようになり、猶予期限が到来する頃には決済の進展がほとんど見られないまま投機で失敗した不良な物件を中心に2億円が未決で残り、やむなく支払期限1年延長を2回繰り返し1927年9月まで猶予したが、金融の不安定要因となり「財界の癌」と呼ばれた。
金本位制と為替変動
19世紀半ばから金本位制による交易体制が確立しつつあり、日本も日清戦争の賠償等として得た金[注 10]を準備金に充てて1897年に貨幣法を施行し、平価を金0.75g=1円(100円=49.875ドル)と定めて本格的金本位制[注 11]を確立した。以後20年は平価・為替が維持された。
第一次大戦が始まると欧州各国は相次いで金本位制を停止し、1917年の4月に参戦した米国が9月に金交換の一時停止を発表したのに追随して日本も事実上金交換を停止[注 12]し、戦後に金本位制へ復帰(金解禁)する機会を窺った。しかし、戦後の大反動の経済混乱の中でその機会を見出せず、関東大震災の後の輸入超過を受けて、それまで概ね平価(100円=49.875ドル)を維持していたものが1924年暮れには40ドルを割り込むまでになった。政府は財界の整理(国際汽船・朝鮮銀行・台湾銀行の整理)を行い、経済状況を改善することで自然に為替が平価に戻るように企図したが、これを先読みした投機筋[注 13]の取引により1925年暮れには49ドル近辺まで急騰し、以後乱高下した。
戦後発足した国際連盟の常任理事国にもなり、五大国の一つに数えられるようになったとはいえまだ日本の経済は小規模であり、兌換を停止し金の裏付けのない通貨「円」は半ば金融商品として投機の対象とされた。このように為替が不安定で、投機筋の思惑で乱高下することは経済にとって好ましいものではなく、交易業や金融業を中心とする経済界から為替の安定のために金解禁を行うことが求められた。また、諸外国は戦後に続々と金本位制に復帰し、1922年4月から5月にかけて開かれたジェノア会議で戦後の貨幣経済についてなされた議論の中で日本に対しても金本位制への復帰が求められた。
一方で金解禁のためには1920年来の不良債権、そして震災手形を根本的に整理・解消することが前提となり、その処理が大きな課題としてつきつけられた。あるいは金解禁を強行すれば企業の経営体質も問われることとなり、不健全な企業は自然に淘汰され自ずと不良債権は解消するとの見方もあった(清算主義)。
なお、金本位制に復帰するにあたり、大戦後の経済状況に応じたレート(新平価)で復帰した国もあり、例えばフランスは通貨を1/5に切り下げ、ドイツ、イタリアも平価を変更した。日本でも関東大震災後の円下落の頃に一応の為替安定を見て経済状況に応じた新平価(100円=40ドル前後)で復帰すべきとの意見もあった。しかし、1919年にいち早く復帰した米国や、世界の金融の中心であった英国が1925年に復帰した際には、戦前の平価を維持しており[注 14]、その中にあってようやく列強に名を連ねるに至った日本が円を切り下げるのは国力の低下をあらわにするものであり一等国としての国家の威信を損ない「国辱」であるという見方から、旧平価(同49.875ドル)での復帰を望む意見が大勢を占めた。また、平価は法律で規定されているところで、特に外交・交易を重視し金解禁に積極的な憲政会が十分な党勢のないままに法改正に臨めば議事の混乱を招く可能性があり変更は容易ではないとみなされていた。結局旧平価での復帰を志向して為替政策上も政策金利の調整や正貨現送の調整で為替を誘導したり、加藤高明内閣の濱口雄幸蔵相が緊縮財政をとるなど経済政策を経て間接的に誘導する政策がとられた。しかし、緊縮財政が採られ物価が下落し、また円高が維持されたことから輸出が奮わず、日本国内の景気は悪化した。
政界
大正期中期には憲政会と立憲政友会の二大政党があり、のちに成立した革新倶楽部を加えて護憲三派と言われた。1922年に立憲政友会の高橋是清が計画した内閣改造の内容を巡って内部で分裂が生じ、政権獲得を優先する床次竹二郎らが1924年に成立した清浦内閣を支持して、立憲政友会を脱党して政友本党をうちたてた。このとき政友本党は最多数となって第一党となったが、超然内閣を支持したことから1924年の総選挙で敗北して議席を減らし、一方で立憲政友会は党勢を盛り返した。清浦内閣が倒れて護憲三派が加藤高明内閣を立てた後、憲政会と立憲政友会の対立、立憲政友会と革新倶楽部の合同によって護憲三派が解体されて1925年8月に憲政会単独内閣となると、立憲政友会と政友本党の間で和解の動きが現れ、特に1926年夏の朴烈事件を機にその傾向に拍車がかかった。同年末には後藤新平の斡旋で立憲政友会と政友本党の提携が成立した(政本提携)が、1927年2月に一転、立憲政友会の政権獲得阻止を図って憲政会と政友本党の提携(憲本提携)が秘密裏に成り、立憲政友会は孤立した。
憲政会には三菱出身の者が参加し[注 15]、一方で立憲政友会は三井と縁が深く三井財閥の出身者も参加していた。この点から、特に立憲政友会が震災関連二法を攻撃することについて三井と競合する鈴木商店を実質的に救済する法律阻止を狙ったとする見方がある。また、震災手形の実態が鈴木商店絡みであると把握した財界関係者が与党憲政会を攻撃する材料として立憲政友会に情報を流したという俗説がある。
憲政会と立憲政友会は共に護憲派であり、その他の政党[注 16]のものと比較すればその政策・主張は相似していた。第二次護憲運動で普通選挙を実現し、また清浦内閣を打倒するまでは一致して協力したが、その目的が達せられると大きな論点を失い、しかし政権獲得のためには自党の主張を盛り立てて支持を集めねばならず、僅かな差異を大きく取り上げ却って対立したといわれる[4]。
また、当時は政党政治における憲政の常道として「内閣が失政によって倒れた時は、次に野党第一党が内閣を担当する」政権交代が慣習として行われていた。ここから、野党は与党の失政を衝き政権から追い落として、次の政権を獲得することを動機の一つとして与党を攻撃することも行われた。
そうした中で、両党の間の政策の差異があらわとなった。憲政会は穏健ないし協調外交政策を取り、経済的にも海外との交易を重視した。その基本となる金本位制への復帰(金解禁)を目指し、それを実現するために緊縮財政を志向した。一方の立憲政友会は積極外交政策を取り、中国東北部の権益を護るために軍事予算の増強を中心とした積極財政を志向した。また、軍事費調達のために借款を行う必要から金解禁には反対の立場を取った。
さらに、1925年、田中義一が陸軍から政界に転じ政友会総裁に迎えられ、田中に近い鈴木喜三郎や久原房之助なども入党したが、彼らは親軍派・国粋主義者に近く、護憲派に対する反感を抱いていた。総裁の権限が強い政友会において田中とその周辺が党の実権を握るようになると、党内の要職は徐々に護憲派から親軍派に取って代わられるようになっていった。
直前の状況
1924年6月に護憲三派連立内閣として加藤高明内閣が成立したが、護憲三派が解体して1925年8月に憲政会単独内閣となった(いわゆる第2次加藤内閣)。この内閣は金解禁を指向し、首相加藤高明の急逝をうけて翌1926年1月に成立した若槻内閣もその方針を引き継いだ。この時憲政会は少数与党[注 17]であり、議会運営に困難が予想された事から現状打開の為に総選挙に打って出る事を求める意見[注 18]が党内からあがり、若槻に大命を降下させるよう取り計らった西園寺もそれを期待した。だが若槻は選挙を渋り[注 19]結局少数与党のままで議会運営に当たることとなった。
1926年の第51回帝国議会については政友本党の協力を得て乗り切ったが、3月に国会の論戦の中で憲政会は、前年に田中が陸軍から立憲政友会に転じた際の持参金300万円の出所を追求した(陸軍機密費横領問題)。10月にはこの問題を担当した検事が轢死体となって発見され、12月には後任の検事が不起訴を決定したが、なお追及の手を緩めなかった。
同じく1926年の夏から秋にかけて朴烈事件、続けて松島遊郭疑獄の騒動が起きた。朴烈事件では予審中の男女被疑者が抱き合う写真が公開され世論が騒然となり、司法大臣江木翼が暴漢によって汚物を投げつけられる事件もおきた。司法当局の能力ひいては政府の統治能力に疑義を生じせしめることで若槻内閣転覆を図った北一輝らの陰謀によるといわれる。一方、松島遊郭事件では、遊郭の移転を巡って不動産業者から政治家に運動費が渡されたという疑惑が持ち上がり、若槻禮次郎が現職の総理大臣でありながら予備審問を受け、また偽証罪で告発されるなど、前代未聞の事態となった。これらは第52回帝国議会冒頭で野党が政府を攻撃する口実となった。
1925年9月に大蔵大臣となった片岡直温は早期金解禁論者であり、かねてより問題となっていた銀行法改正、不良債権の解消、そしてその多くを抱えた台湾銀行の整理を行って金解禁の条件を整えるべく意欲的に取り組んだ[注 20]。具体的には1927年夏頃の金解禁を企図していたとのちに証言している。不良債権を根本的に処理する震災手形関係二法を帝国議会に上程するに際してあらかじめ野党立憲政友会の田中義一総裁と秘密裏に交渉し、協力をとりつけるなど注意を払っていた。ただし、田中は立憲政友会生え抜きではなく、また陸軍から政界に転じてまもなく党内の有力者をまとめきれなかった。
大蔵省は、銀行法の改正の準備を行っていた。また、経営の危うい銀行を整理統合すべく経営者に聴取を行っていた。東京渡辺銀行もその一つで原邦道事務次官らが聴取に当たり、また、併せて4行[注 21]を合併させて新銀行に編成しなおすことが計画されていた。この過程で東京渡辺銀行の内情が悪い様も大蔵省は把握しており、1927年3月14日に同行専務らが登庁したことについて、予断を与えたとも言われる。
日本経済は1920年の大反動から続く慢性的な不況から抜け出せないでいた。巷間では1920年、1922年、1923年にも取り付け騒ぎが起きるなど金融不安が続いており、その中にあっても震災手形の絡んだ不良債権の存在が不安を煽っていた。
中国大陸では、1926年7月から蔣介石が率いる国民党による北伐が行われ、日本が権益を持っていた満州が脅かされつつあった。これに対し与党憲政会の若槻内閣は穏健政策を取り、目立った対応を取らなかった。これは枢密院の反感を買い、のちに若槻内閣が勅令発布を諮った際に拒絶する原因の一つとなる。
第52回帝国議会
1926年12月24日に召集された通常国会である。翌25日に大正天皇が崩御し、皇太子裕仁親王が践祚して昭和に改元した。
議会は26日に開会し、すぐに昭和2年(1927年)に年が改まったが、政界では朴烈事件ならびに松島遊郭疑獄を巡り混乱が続いていた。
一方、経済状況としては円高・物価下落の不況下にあり、また、1920年の大反動時に生じた不良債権が震災手形に姿を変えて、なおもくすぶり続けていた。同時に、震災手形が本来の機能を果たさず実は特定政商[注 22]の救済・延命に用いられていると見る向きからは批判があり、それを許容してきた政府に対しても批判があった。ことに鈴木商店の放漫経営へ多く貸し付けたものが焦げ付いた台湾銀行が多くの震災手形を抱えているとの憶測がなされ非難の目が向けられ、他にも同様に震災手形を抱え込んだ銀行の経営状況が危ぶまれていた。
政府はこれらの震災手形の処理を急ぎ、早期の金解禁を実現する方針をとった。しかし、政府を批判する立憲政友会は朴烈事件ならびに松島遊郭疑獄の非を鳴らして若槻内閣弾劾上奏案を提出し対決姿勢を明らかにした。
若槻首相は立憲政友会総裁田中義一と政友本党総裁床次竹二郎を待合に招き、新帝践祚の折でもあり政争は避けるべきと説き、朴烈事件、松島遊郭事件、陸軍機密費横領問題を巡る論争をやめ、暗に閉会後の退陣[注 23]を条件として今後の議会運営について協力[注 24]を取り付けた(三党首会談)[5]。
加えて、片岡が田中に直談判[注 25]して協力を取り付けるなど条件を整えた上で、1月26日に、震災手形関係二法を議会に上程した。その内容は、来る9月30日が期限となる震災手形を全額処理するために国債を発行し、10年かけて償還するもので、当初は立憲政友会が合意に沿って内閣弾劾上奏案を撤回したうえで審議に応じたことから、法案は3月4日に衆議院で可決成立を見て貴族院に送付された[5][6]。
だがその裏では、三党首会談で若槻が独断で政敵と妥協し、あまつさえ禅譲を約したことを快く思わない憲政会の有志が中心となって政権維持を図り、政友本党に接近して2月26日に提携がなった(憲本提携、または憲本連盟、憲本合同とも)。合同して事実上の新党となって次の組閣の大命を受けることを企図し、仮にそれがかなわないまでも政友本党が政権を取るように図り[注 26]、立憲政友会へ政権が移ることを阻止するためであった。当然秘密を保つべきものであったが、憲政会幹部の不注意からこの提携の存在が露呈した。
三月の恐慌
3月始めに憲本提携が暴露され、その目的が政権維持にあるとわかる[注 27]と、立憲政友会は態度を硬化させた。田中は人を介して片岡に以後の協力が出来ない旨を伝え[5]、既に内閣弾劾上奏案を取り下げており、改めて提出することができないことから、それ以後立憲政友会は震災手形関係二法を政争の具として攻撃にまわった。この時、具体的に震災手形の内情を把握し、その情報を流して攻撃材料を提供したのは財界であるといわれる。
憲政会は当初震災手形関係二法の目的をあくまでも金融の安全を図るためと説明したが、立憲政友会はかねてから震災手形に関わる日銀特融が実質的には特定の政商[注 22]の救済策として用いられているという疑惑を指摘し、これを「政財の癒着」と攻撃して不良債権の具体的内容と金額を示すことを要求した。そして、本法案の目的の実際が鈴木商店への多額の貸し出しを焦げ付かせた台湾銀行の救済にあり、ひいては鈴木商店を援助することにある旨を明らかにするように迫った。
早期の法案成立を目指す与党憲政会は震災手形の内情について少しずつ明らかにし、のちには貴族院において秘密懇談会を開いて具体的な内容と法案の真意を野党側に伝えて法案成立への協力を求めたが、この内情が報道機関に伝わり国民の知るところとなった[5]。かねてから震災手形の内容について台湾銀行が多くの震災手形を持つこと、そして台湾銀行と鈴木商店の癒着ぶりが巷間でも噂されていたが、これが真実と分かり、かつ具体的な不良手形の額として震災手形2億円強のうち台湾銀行が約1億円で、その7割を鈴木商店関連のものが占めていることが明らかとなり経済的危機が一層の真実味をもって受け取られ、円高による景気低迷と相まって不安は一層増した[5]。
片岡蔵相の失言
3月14日、衆議院予算委員会にて審議の始まる直前、当日の決済のための資金繰りに困り果てた東京渡辺銀行の渡辺六郎専務らが午後1時半頃に大蔵次官の田昌(でん あきら)に陳情し、「何らかの救済の手当てがなされなければ本日にも休業を発表せざるを得ない」旨を説明した。田は対応を片岡蔵相に相談すべく議場に赴いたが審議中で直接会えず、事情を書面にしたためて片岡に言付けた。なお、渡辺らは救済を求める意図で陳情したが、大蔵省の側では従前の調査で内情が悪い事を把握しており、休業の報告に来たものと理解していたという。実際に田は予算委員会審議室に向かうに際して原邦道事務次官を渡辺らに引きあわせて「銀行休業の善後策」につき手続き等を相談する様に指示している。
一方で東京渡辺銀行は大蔵省からの助力を得る見込みが立たなかったので改めて金策に走り、第百銀行からの融通を引き出して資金を手当てすることに成功して当日の決済を無事に済ませた。その旨を大蔵省にも電話で伝え、原がその知らせを受けたが、田は既に議場に赴いており、すぐには伝わらなかった。
予算委員会では野党が震災手形処理方法も絡めて苦境に陥っている銀行の処理策を問いただし、銀行破綻をいちいち国が救済するのでは自由競争の原理が壊れるとして反対し、また、国債を宛がい、ひいては国税を使うとなればその使途の詳細を明らかにせねばならぬとして、震災手形を抱える不良銀行や、業績の悪い企業の名を明らかにするように求めた。
これに対し、個々の企業の状況を明かすことは信用不安につながると危惧した片岡蔵相は、破綻した銀行については財産を整理して引受先を見つけて統合する手続きを大臣の責任において着実に行う旨の回答にとどめたが、その中で直近の破綻銀行を例示するにあたり、次官から差し入れられた書面にあった東京渡辺銀行支払停止の情報(正午に支払いを停止した旨と、預金残高等の情報が書面に記載されていた)を交え、
「 ・・・現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました、是も洵まことに遺憾千万に存じますが・・・ 」
と発言した。
ここであえて具体的に破綻銀行の事例について触れたのは、いたずらに原理原則論をもって審議を長引かせることは対応を遅らせ、このように銀行を破綻に追いやり状態を悪化させる結果になる、という牽制の意図から出たという指摘がある。
一方で、片岡に付き従っていた大蔵省文書課長の青木得三は議場から大蔵省に戻って東京渡辺銀行の金策がついたという報告を受け、同行に電話をかけて平常通り営業を続けていることを確認した。青木は片岡の発言が誤っていたことを知り、これが報道されるのを防ぐべく、報道差し止めの権限を持つ内務省警保局長の松村義一にかけあった[注 28]が、松村は片岡がそのような発言をした以上はこれを差し止めることは出来ないとして要請を拒否した。こうして片岡の「東京渡辺銀行破綻」発言は翌日報道された。また、傍聴席で議会でのやり取りを聞いていた新聞記者が慌てて「東京渡辺銀行破綻」の一報を自社に電話で伝えるのを傍聞した預金者が終業間際の東京渡辺銀行に殺到し、取り付け騒ぎが起こった。
翻って「破綻を宣告」された東京渡辺銀行の渡辺六郎専務は、蔵相官邸に赴いて片岡の発言が間違いないと確認すると笑みを浮かべたという[注 29]が、異説には、その専務の人柄から言ってそれはありえないとも言われ、片岡もそれには疑問を抱いている。
いずれにせよ、東京渡辺銀行の首脳陣は同夜に姉妹行のあかぢ貯蓄銀行共々翌日から休業することを決定した。依然危機的経営状況を脱しておらず、早晩休業は避けられないところであり、蔵相の失言にかこつけて休業し、その責任を転嫁したのだと受け取られている。
直後より「いまだ経営している銀行について破綻を宣告し、混乱を招いた」ことについて新聞報道は片岡の発言を「失言」と取り上げ、野党も「休業するつもりの銀行が金策に走るのは不自然」などと指摘して「失言」で銀行を破綻に追い込んだと攻撃した。しかし、片岡はあくまでも「14日に渡辺銀行が休業の報告に来た」とする態度を貫き、のちにこれを裏付ける同行専務直筆の顛末書を示して事態の収拾を図った。なお、この直筆の顛末書についても、事後に片岡らの意に沿う内容で専務が書かされたのではないかという指摘もあるが、専務は何も語っていない。
影響
一定の規模を持った東京渡辺銀行が突如休業したことが新聞で伝えられると金融不安が広まり、関東を中心に取り付け騒ぎが起こった。当初は震災手形を多く所有していると目された銀行が取り付けに遭い、次第に関西にも飛び火した。1927年(昭和2年)3月19日には中井銀行が休業すると[7]同年3月22日には左右田銀行・八十四銀行・中沢銀行・村井銀行も帳簿整理を理由として2週間の休業を宣言した[8]。これに対し日銀が3月21日より非常貸出を実施して沈静化に勤めた。一方で、野党側は片岡の責任を問い、国会は紛糾して乱闘騒ぎにまで発展するが、震災手形関係二法自体は「台湾銀行の整理」[注 30]という付帯決議をつけて3月23日に貴族院で可決され事態は沈静化した。そして26日に帝国議会は閉会した。
四月の恐慌
3月14日の蔵相の「失言」に端を発する取り付け騒ぎは月末までに収まったものの、依然として台湾銀行(台銀)が多くの震災手形を抱え、その他にも経営が危うい銀行が多いことに変わりはなかった。
台銀はかねてから鈴木商店に多額の貸付を行っており、1920年の大反動で鈴木商店の経営が悪化した際に不良債権と化した。震災手形の形で当座の資金を手当てすることに成功したがその決済は滞った。とはいえ、台銀は大日本帝国政府の責任で設立された特殊銀行であり、これが破綻することは帝国政府ひいては日本の対外的な信用にもかかわる重大問題であった。実際にこれまでも台銀が苦境に陥る都度、政府が大蔵省の資金を融通するなどして救済することが繰り返されており、今回についても破綻させることはありえないというのが大方の見方であった。鈴木商店を取り仕切った金子もそれを見越して台銀と鈴木商店との間に深い関係を築き上げたとも言われる。また、一時期は三井をも凌駕する取引高を記録した鈴木の規模からして、これを倒産させる事にでもなれば多数の取引先企業や鈴木に債権を持つ中小銀行を多数巻き込み日本経済に多大な悪影響を及ぼすから政府も整理断行に踏み切らず台銀共々救済するより他にない[注 31]というのが金子の期待する所であった。
そして震災手形関係二法が成立したことで、政府の責任で台銀はじめ各銀行の抱える未決済の震災手形に国債をあてがって穴埋めをし、最終的にそのツケを納税者に回すことが決まった。これにより台銀も鈴木商店も一息つける状況となり、その面では金子の予想通りの展開となった。
しかし、震災手形関係二法に基づく補償が実施されるのを前に、国会審議のなかで台銀が未決済であった2億円余りの震災手形の約半分に上る1億円強の債務を抱え、また鈴木商店への貸し出しが多額であることが明らかになったうえ、震災手形関係二法に殊更「台湾銀行の整理」という付帯決議が加えられた事で、台銀の経営に対する不安が拡大し、コール資金が引き上げられ、資金繰りが悪化した。一方で鈴木商店からも資金が引き上げられ、これを補う資金の融通を台湾銀行に求めたことから、さらに同行の経営は圧迫された。
台銀は3月26日にやむなく鈴木商店との絶縁を決意し、27日に以後新規の融資をしない[注 32]、と伝えた。台銀が絶縁に踏み切ったのは、政府から救済の意図が内内にしめされたからだとも言われる。ことに議会の討論の中に「鈴木商店を倒産させても台銀は維持する」とほのめかすものがあったことを根拠としたという。あるいはいっそ鈴木商店の息の根を止めて損失を確定させれば救済を早くに受けられるという期待もあったという。しかし、台銀と鈴木の絶縁の情報が4月1日に報道されると預金者に動揺が走り取り付け騒ぎが起き、4月5日に鈴木商店は新規取引の停止を発表し事実上休業した。そのあおりで4月8日には鈴木の系列であった六十五銀行が休業を発表した[9]。
この時点で台銀は鈴木商店に3億5千万円の融資をしており、それが焦げ付くとなれば早晩台銀は破綻するとみた各行は一斉にコール市場から融資を引き上げ、また台銀に持っていた債権の回収にかかった。コール資金に大きく依拠していた台銀は即座に行き詰り、大日本帝国政府に救済を要請した。
片岡蔵相は日本銀行に対して台銀への日銀特融を行うように促した。日銀はそれまでの銀行救済に際して都度特融に応じてきたが、台銀については規模が大きいこともあり補償の裏づけのある法律に拠らなければ融通はできないとした。既に帝国議会は閉会していたので片岡は憲法70条の規定に基づき、法律に代えて緊急勅令渙発を諮った[注 33]が、枢密院はこれを憲法違反と断じ[注 34]17日に否決した。枢密院顧問らの中に経済の専門家がおらず経済的危急の事態であるという認識がなかったとも言われる[注 35]が、この動きには幣原喜重郎外務大臣の外交政策(幣原外交)を軟弱外交と捉え強い反感を抱く伊東巳代治・平沼騏一郎といった有力な枢密顧問官らが立憲政友会と通じて倒閣に動いた陰謀があった[注 36]。この責任をとる形で若槻内閣は4月20日に総辞職[注 37]し、組閣の大命が立憲政友会の田中義一に下った。
一方で日銀からの特融を得られなかった台銀は18日に台湾域内を除く内地及び海外の支店を閉めると発表した。特殊銀行であり政府が何らかの救済を行うと見られていたにもかかわらず結局休業してしまったことで全国各地に動揺が走り、取り付け騒ぎは拡大した。
おなじく18日には関西の大手行である近江銀行が期限を設けた臨時休業に入った[10]。これに泉陽銀行が追随するように休業したほか、蒲生銀行(滋賀)、葦名銀行(広島)も休業を発表した。20日には、西荏原銀行(岡山)、広島産業銀行が休業、そして21日には東京の大手行であった十五銀行までもが休業した。十五銀行は華族からの出資を仰ぎ、また宮内省の会計を担当する御用銀行として「庶民がここに口座を開かせていただき預金させていただけるだけでも光栄」と誉れ高く「ここが休業するくらいなら他の銀行もとうに休業している」といわれるほどに高い信用を得ていた。しかし、その内情は従前吸収合併した銀行が抱えていた松方系企業の債権が焦げ付き、不良債権と化したことから経営が悪化しており、ここで休業に至った。
一連の混乱の中で日銀は休日を返上して非常貸出を続けて現金の供給に努めたが、貸し出し規模が前代未聞の額にのぼり、ついに紙幣の在庫が底をつきかける事態に追い込まれた。既に発行を終了して回収済みの古い紙幣や、劣化して使用に耐えられないとして回収した紙幣までも放出したが、なお不足し、各銀行からの現金払い出し要請に対して出金を渋るようになった。
この間、20日に組閣の大命をうけた立憲政友会総裁の田中義一は事態収拾の為に高橋是清を大蔵大臣に任命して組閣し、金融恐慌の解決を図った。
高橋は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施すべく憲法8条の規定[注 38]により緊急勅令[注 39]の渙発を諮問し、枢密院も今次は態度を変えて勅令渙発を容認した。また、モラトリアムの公示(勅令渙発)から施行までの手続きには2日間を要するとみて、手形交換所理事長を兼ねる三井銀行の池田成彬と銀行集会所会長を務める三菱銀行の串田万蔵を通じて全国の銀行に対し22日(金)と23日(土)[注 40]の2日間の一斉休業を要請し、銀行側はこれに応じた。
同時に現金の供給に全力を尽くし、造幣の速度を優先して様式を簡素化し裏面の印刷を省略した200円札[注 41]を急遽制定[注 42]して511万枚刷らせ、銀行休業日にとどまらず日曜日である24日にも銀行に届けた。銀行は潤沢に供給された現金を店頭に積み、支払いに滞りが生じないことをアピールした。25日(月)から500円以上の支払いを猶予するモラトリアムを施行して銀行を開き、取り付けに来た人は店頭に積まれた現金を見て安心したという。加えて、3週間のモラトリアム期間が終了する5月12日までに追加の200円券[注 43]を750万枚刷って銀行に届け、モラトリアム終了後も混乱なく金融恐慌を沈静化させた。無事に混乱が収まったのを見届けた高橋は6月2日を以て蔵相を辞した。
事後処理
休業した銀行は、そのまま他の銀行に救済合併されるものと整理後に営業を再開したものとがあったが、預金の額は削減された。
評価
一般的な恐慌に対して、個人(預金者)の金融に対する不安から取り付け騒ぎが起きたが産業そのものが壊滅には至らなかった点が特異であると言われる。
前述のように金融システムの不備と、危機への対処を誤った点でバブル崩壊との類似点が挙げられることがある。
影響
この取り付け騒ぎに国民は小さな銀行に預金を預けていては危ないと考え、財閥系などの大銀行に対して預金を預けるようになった。
そのため、大銀行(特に五大銀行とも呼ばれる三井・三菱・住友・安田・第一)に預金が集中するようになり、財閥の力はさらに強大化した。
経済的混乱を受けて金解禁は延期された。
政界では、憲本提携から6月に本格的に立憲民政党が発足した。
参考文献
高橋亀吉、森垣淑『昭和金融恐慌史』(1993年、講談社学術文庫)ISBN 4-06-159066-9 - 背景から事後の影響まで全般に網羅している。
佐高信『失言恐慌 ドキュメント東京渡辺銀行の崩壊』(1995年、現代教養文庫)ISBN 4-04-377501-6。- 東京渡辺銀行関係者の視点からの記述も多い
佐高信『失言恐慌 ドキュメント銀行崩壊』(2004年、角川文庫)
佐高信『昭和恐慌の隠された歴史 蔵相発言で破綻した東京渡辺銀行』(2012年、七つ森書館)
大阪朝日新聞経済部編『昭和金融恐慌秘話』(1999年、朝日文庫)ISBN 4-02-261249-5 (2007年9月現在 絶版)
塩田潮『バブル興亡史 : 昭和経済恐慌からのメッセージ』(2001年、日経ビジネス人文庫)ISBN 4-532-19070-3。(2007年9月現在 絶版)
金子直吉伝 白石友治編「金子直吉伝」現代語改
現代日本経済史 7 武田晴人 - 政治的視点からの記述がある
中村吉三郎, 「大正法制史序説」『早稲田法学』 43巻 1-2号 p. 115-129, 1968年, 早稲田大学法学会, ISSN 0389-0546 - 大正期を概観
中村吉三郎, 「昭和法制史稿 -昭和十三年「国家総動員法」の制定まで-」『早稲田法学』47巻 2号 p. 1-37, 1972年, 早稲田大学法学会, ISSN 0389-0546 - 前後も含めて概観
小野展克, 「片岡蔵相失言と新聞報道」『嘉悦大学研究論集』 57巻 1号 p. 1-17, 2014年, 嘉悦大学研究支援・論集編集委員会, NCID AA1171228X, NAID 120005599303 - 片岡蔵相の失言を報ずる新聞報道の分析
神戸大学新聞記事文庫 - 著作権の切れた新聞記事をデータベース化したもの。
手形(貨幣及金融) 第3巻 - 手形に関する記事を集めたもの。1922年1月〜1926年8月。
手形(貨幣及金融) 第4巻 - 手形に関する記事を集めたもの。1926年9月〜1930年4月。
『片岡蔵相の失言から東京渡辺銀行が不安に陥る』 1927年3月15日付 大阪朝日新聞 -「失言」翌日の状況。片岡蔵相の主張が見える。
『問題を起した蔵相 渡辺銀行に関する失言 遂に政治問題と化す』1927年3月16日付 大阪朝日新聞 - 東京渡辺銀行側の当日の事情が見える。
『二通の顛末書 田次官から発表』1927年3月17日付 大阪朝日新聞 - 3月14日当日の状況について次官が認めた顛末書の内容が見える。
『渡辺銀行の休業 自発的の休業か? 渡辺専務の発表と竹内常務の言葉は矛盾する』1927年3月16日付 大阪朝日新聞 - 蔵相と専務の発言の矛盾を指摘している。
『破綻せぬ銀行を破綻したと声明 片岡蔵相口をすべらす』1927年3月15日付 大阪毎日新聞 - 片岡蔵相の主張と、大蔵次官が差し入れたメモの内容が見える。
『コールブローカーの巻』 1933年8月15日付 国民新聞 - コールブローカーの説明の中で台湾銀行がコール資金に依拠していた様と閉鎖に至る経緯が見える。
『台銀の整理方針 震手法実施を機会に鈴木の整理改革も断行』1927年3月30日付 大阪毎日新聞 - 震災手形関係二法の付帯決議の内容が見える。
『大蔵省から見放され鈴木商店破綻に瀕す 金子氏等きのう政府に泣付けるも蔵相、断乎として拒絶す』 - 鈴木商店の金子が片岡蔵相に救援を要請するも拒絶される様が見える。
『緊急勅令案否決され若槻内閣総辞職 きのう枢府本会議の結果 次は田中政友会総裁有力』1927年4月18日付 大阪朝日新聞 - 若槻が諮問した勅令渙発を枢密院が却下した際の事情が見える。
『金融恐慌後十年 (上)』1937年4月25日付 大阪毎日新聞 - 恐慌の10年後に事件を回顧する。データベースには(下)も併せて掲載されている。
『台湾銀行が再度減資するまで (上・下) 島田頭取の演述要旨』1929年9月4・6日付台湾日日新聞 - 金融恐慌の年の秋に台湾銀行の島田頭取の視点で回顧した内容。
参考:『反動不況、ワシントン海軍軍縮条約、関東大震災、次々と襲う逆境』双日歴史館 https://www.sojitz.com/history/jp/era/era_post_16.html
参考:『鈴木商店とその系譜 (詳細)』神戸市 https://www.city.kobe.lg.jp/culture/modern_history/archive/detail/history_07.html
創業
神戸港の貿易に携わった商社のうち、戦前においてもっとも影響力を発揮したのが鈴木商店であった。鈴木岩治郎が鈴木商店を創業したのは明治7年(1874)のことで、このときは神戸の弁天浜で砂糖の輸入に従事していた。その後、岩治郎は手腕を発揮して、「神戸の八大貿易商」の一人となるが、明治27年(1894)に他界してしまう。岩治郎の死後は彼の妻であった鈴木よねが店主となり、樟脳(しょうのう)部門を金子直吉に、砂糖部門を柳田富士松という二人の番頭に任せて事業を継続した。
躍進
その後日清戦争を経て、台湾が日本の植民地とされたこともあり、その開発が進展することになる。そこでは樟脳が特産品であり、薬品や防虫剤等の原料として台湾産が世界の80パーセント以上のシェアを占めていた。直吉は樟脳そのものではなく、注目度の低い副産物である樟脳油の取り扱いに進出することで飛躍を遂げた。
他方で、北九州の大里に製糖所を設立し、製造業への進出を果たす。この製糖所は最終的に先発大手メーカーに売却されることになったが、その際に鈴木商店は莫大な売却益を得ることになった。直吉はこれを元手に積極的な多角化を開始し、タバコ、製鋼、製塩、製粉、セルロイド、人造絹糸(けんし)などの製造に進出し、第一次世界大戦時に大きく発展。その内外支店出張所の総数は70以上に上り、その関連企業の総数は株式会社78社、直営事業所6社にも及んだ。現存している鈴木商店の関連企業の一部を挙げると、双日、帝人、神戸製鋼所、ジャパンマリンユナイテッド(もと播磨造船所)があり、その規模がいかに大きかったのかが分かる。また、大正6年(1917)、鈴木商店の貿易年商は日本一となり、大正8年(1919)には同年のGNPの10パーセントにも相当していた。
倒産
しかし、この積極的な経営の多角化と大躍進が鈴木商店の破綻をもたらす原因となった。この経営の多角化は、貿易で稼いだ利潤を多数の事業に投資し、その事業の資産と株式を担保にして台湾銀行から借り入れることによって進められてきた。ところが、第一次世界大戦後の戦後不況により莫大な手持ち商品と原料製品の価格が下落し、取引先企業の多くが倒産するに及んで、高金利の借入金の返済が滞るようになり、返済のための借入を重ねることになった。また大戦後の不況の下で、大正11年(1922)のワシントン海軍軍縮条約の影響による鈴木系の神戸製鋼所の経営悪化、大正15年(1926)に日本製粉が日清製粉との合併に失敗して資金難を拡大したことなどが、鈴木商店の経営をいっそう悪化させた。また、第一次世界大戦時の鈴木商店の躍進に対し、世間からの風当たりは厳しかった。大正7年(1918)には、富山で始まった米騒動が全国化していくが、この時「鈴木商店が米の買い占めや売り惜しみをしている」という世間の「誤解」により、本店が焼き打ちにあっている。
鈴木商店は他の財閥と異なりグループ内に金融機関を持っておらず、台湾銀行からの借り入れに依存していた。そして昭和2年(1927)に金融恐慌の影響で台湾銀行からの融資が打ち切られると、鈴木商店は倒産することとなった。
鈴木商店の倒産後は、旧鈴木系の企業が整理されることとなる。神戸製鋼所、帝国人絹(じんけん)、帝国樟脳、豊年製油、太陽曹達(ソーダ)などは台湾銀行のもとに営業を続けていくことになり、日本製粉は三井物産へ、大日本セルロイドは三菱へ、東洋製糖は大日本製糖と明治製糖へ、それぞれ譲渡された。そして鈴木商店の子会社の日本商業会社は日商(現在の双日)と改称し、再出発を図った。
砂糖の輸入業から商社として発展し、日本を代表する企業グループを形成した鈴木商店は、その後の日本の工業化に大きな功績を残した。
参考:『鈴木商店』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%95%86%E5%BA%97#
鈴木商店(すずきしょうてん)は、かつて存在した日本の商社(登記上は現存)。樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、財閥(鈴木財閥)の中核として製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、1915年(大正4年)には貿易年商額が15億4,000万円(当時の国家予算は約7億3,500万円)に達し、1917年(大正6年)には当時の日本の国民総生産(GNP)の1割を売り上げる総合商社となった。1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌のあおりを受け、事業を停止した。
参考:『柳条湖事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9D%A1%E6%B9%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
参考:『満州事変』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9D%A1%E6%B9%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
[柳条湖事件]
柳条湖事件(りゅうじょうこじけん、中国語: 柳条湖事件)とは、満洲事変の発端となる鉄道爆破事件のことである。1931年(昭和6年、民国20年)9月18日、満洲(現在の中国東北部)の遼寧省瀋陽市近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、関東軍が南満洲鉄道(満鉄)の線路を爆破した事件である。
その前の6月には黒竜江省で中村大尉事件、次いで吉林省で万宝山事件が発生しており、関東軍はこれらを武力による満蒙問題解決の口実とし、満洲における軍事展開およびその占領を行った。
事件の結果、組織法及び奉天省、間島省など満州国国務院による行政区画が設置されるに至った。
事件名は発生地の「柳条湖」に由来するが、長いあいだ「柳条溝事件」(りゅうじょうこうじけん、英語: Liutiaogou Incident)とも称されてきた(詳細は「事件名称について」節を参照)。なお、発生段階の事件名称としては「柳条湖(溝)事件」のほか「奉天事件」「9・18事件」があるが、その後の展開も含めた戦争全体の名称としては「満洲事変」が広く用いられている。
事件の経緯
1931年(昭和6年、民国20年)9月18日(金曜日)午後10時20分ころ、中華民国遼寧省瀋陽市の北方約7.5キロメートルにある柳条湖付近で、南満洲鉄道(満鉄)の線路の一部が爆発により破壊された。
まもなく、関東軍より、この爆破事件は中国軍の犯行によるものであると発表された。このため、日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで、爆破は張学良ら東北軍の犯行と信じられていた。しかし、実際には、関東軍の部隊によって実行された謀略事件(偽旗作戦)である。
この事件の首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐である。二人はともに陸軍中央の研究団体である一夕会の会員であり、張作霖爆殺事件の計画立案者とされた河本大作大佐の後任として関東軍に赴任した。
爆破を直接実行したのは、奉天虎石台(こせきだい)駐留の独立守備第二大隊第三中隊(大隊長は島本正一中佐、中隊長は川島正大尉)付の河本末守中尉ら数名の日本軍人グループである。現場には河本中尉が伝令2名をともなって赴き、斥候中の小杉喜一軍曹とともに、線路に火薬を装填した。関東軍は自ら守備する線路を爆破し、中国軍による爆破被害を受けたと発表するという、自作自演の計画的行動であった。この計画に参加したのは、幕僚のなかでは立案者の石原と板垣がおり、爆破工作を指揮したのは奉天特務機関補佐官の花谷正少佐と参謀本部付の張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉であった。爆破のための火薬を用意したのは今田大尉であり、今田と河本は密接に連携をとりあっていた。このほか謀略計画に加わったのは、三谷清奉天憲兵分隊長と、河本中尉の上司にあたる第三中隊長の川島大尉など数名であったとされる。
ただ、第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によれば、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第一部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略を知っており、賛意を示していたという。
当時、関東軍は兵力およそ1万であり、鉄道守備に任じた独立守備隊と2年交代で駐箚する内地の1師団(当時は第二師団、原駐屯地は宮城県仙台市)によって構成されていた。事件のおよそ1ヶ月前に当たる同年8月20日に赴任したばかりの本庄繁を総司令官とする関東軍総司令部は、関東州南端の旅順に置かれており、幕僚には参謀長として三宅光治少将、参謀として板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、新井匡夫少佐、武田寿少佐、中野良次大尉が配置されていた。独立守備隊の司令部は長春市南方の公主嶺(現吉林省公主嶺市)に所在し、司令官は森連中将、参謀は樋口敬七郎少佐であった[注釈 6]。第二師団の司令部は奉天南方の遼陽(現遼寧省遼陽市)に設営されており、第三旅団(長春)と第十五旅団(遼陽)が所属、前者に第四連隊(長春)・第二十九連隊(奉天)、後者に第十六連隊(遼陽)・第三十連隊(旅順)などが所属した。
この爆破事件のあと、南満洲鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしているが、関東軍兵士によって立ち入りを断られている。また、爆破そのものは小規模なものであり、レールの片側のみ約80センチメートルの破損、枕木の破損も2箇所にとどまった。爆破直後に、瀋陽午後10時30分着の長春発大連行の急行列車が現場を何事もなく通過していることからも、この爆発がきわめて小規模だったことがわかる。今日では、爆発は線路の破壊よりもむしろ爆音を響かせることが目的であったと見る説も唱えられている。
川島中隊(第二大隊第三中隊)はこのとき、瀋陽の北約11キロメートルの文官屯南側地区で夜間演習中だったが、爆音を聴くや直ちに軍事演習を中止した。中隊長の川島大尉は、分散していた部下を集結させ、北大営方向に南下し、瀋陽の特務機関で待機していた板垣征四郎高級参謀にその旨を報告した。参謀本部編集の戦史では、南に移動した中隊が中国軍からの射撃を受け、戦闘を開始したと叙述している[10]。板垣参謀は特務機関に陣取り、関東軍司令官代行として全体を指揮、事件を中国側からの軍事行動であるとして、独断により、川島中隊ふくむ第二大隊と奉天駐留の第二師団歩兵第二十九連隊(連隊長平田幸広)に出動命令を発して戦闘態勢に入らせ、さらに、北大営および奉天城への攻撃命令を下した[3][5][8]。北大営は、奉天市の北郊外にあり、約7,000名の兵員が駐屯する中国軍の兵舎である。また、市街地中心部の奉天城内には張学良東北辺防軍司令の執務官舎があった。ただし、事件のあったそのとき、張学良は麾下の精鋭11万5,000を率いて北平(現在の北京)に滞在していた。
本庄繁関東軍司令官と石原作戦参謀ら主立った幕僚は、数日前から長春、公主嶺、瀋陽、遼陽などの視察に出かけており、事件のあった9月18日の午後10時ころ、旅順に帰着した。しかし、このとき板垣高級参謀だけは、関東軍の陰謀を抑えるために陸軍中央から派遣された建川美次少将を出迎えるという理由で瀋陽に残っていた。午後11時46分、旅順の関東軍司令部に、中国軍によって満鉄本線が破壊されたため目下交戦中であるという奉天特務機関からの電報がとどけられた。しかし、これは板垣がすでに攻撃命令を下したあとに発信したものであった。
知らせをうけた本庄司令官は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。しかし、石原ら幕僚たちが瀋陽など主要都市の中国軍を撃破すべきという強硬な意見を上申、それに押されるかたちで本格的な軍事行動を決意、19日午前1時半ころより石原の命令案によって関東軍各部隊に攻撃命令を発した。また、それとともに、かねて立案していた作戦計画にもとづき、林銑十郎を司令官とする朝鮮軍にも来援を要請した。本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だったはずだが、その規定は無視された。攻撃占領対象は拡大し、瀋陽ばかりではなく、長春、安東、鳳凰城、営口など沿線各地におよんだ。
深夜の午前3時半ころ、本庄司令官や石原らは特別列車で旅順から奉天へ向かった。これは、事件勃発にともない関東軍司令部を瀋陽に移すためであった。列車は19日正午ころに奉天に到着し、司令部は瀋陽市街の東洋拓殖会社ビルに置かれることとなった。
いっぽう、日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は当初不意を突かれるかたちで多少の反撃をおこなったが、本格的に抵抗することなく撤退した。これは、張学良が、かねてより日本軍の挑発には慎重に対処し、衝突を避けるよう在満の中国軍に指示していたからであった[3]。北大営での戦闘には、川島を中隊長とする第二中隊のみならず、第一、第三、第四中隊など独立守備隊第二大隊の主力が投入され、9月19日午前6時30分には完全に北大営を制圧した。この戦闘による日本側の戦死者は2名、負傷者は22名であるのに対し、中国側の遺棄死体は約300体と記録されている。
奉天城攻撃に際しては、第二師団第二十九連隊が投入された。ここでは、ひそかに日本から運び込まれて独立守備隊の兵舎に設置されていた24センチ榴弾砲(りゅうだんほう)2門も用いられたが、中国軍は反撃らしい反撃もおこなわず城外に退去した。午前4時30分までのあいだに奉天城西側および北側が占領された。瀋陽占領のための戦闘では、日本側の戦死者2名、負傷者25名に対し、中国側の遺棄死体は約500にのぼった。また、この戦闘で中国側の飛行機60機、戦車12台を獲得している。
安東・鳳凰城・営口などでは比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態に入った[15]。しかし、長春付近の南嶺(長春南郊)・寛城子(長春北郊、現在の長春市寛城区)には約6,000の中国軍が駐屯しており、日本軍の攻撃に抵抗した。日本軍は、66名の戦死者と79名の負傷者を出してようやく中国軍を駆逐した。こうして、関東軍は9月19日中に満鉄沿線に立地する満洲南部の主要都市のほとんどを占領した。
9月19日午後6時、本庄繁関東軍司令官は、帝国陸軍中央の金谷範三参謀総長に宛てた電信で、北満もふくめた全満洲の治安維持を担うべきであるとの意見を上申した。これは、事実上、全満洲への軍事展開への主張であった。本庄司令官は、そのための3個師団の増援を要請し、さらにそのための経費は満洲において調達できる旨を伝えた。こうして、満洲事変の幕が切って落とされた。
翌9月20日、瀋陽から改称された奉天市の市長に奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が任命され、日本人による臨時市政が始まった。9月21日、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で混成第三十九旅団に越境を命じ、同日午後1時20分、部隊は鴨緑江を越えて関東軍の指揮下に入った。
参考:『9月18日の柳条湖事件(満州事変)についての注意喚起』在中国日本国大使館 https://www.cn.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_0035.html
[満州事変]
満洲事変(まんしゅうじへん、旧字体: 滿洲事變、英語: Mukden incident)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国遼寧省瀋陽市郊外の柳条湖で、関東軍が満州全土の占領を狙って、開戦の口実にするため、ポーツマス条約により日本に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破、この事件(柳条湖事件)に端を発した日本と中華民国との間の武力紛争(事変)のこと。中華民国側の避戦方針もあって1932年2月初め頃には関東軍はほぼ満洲(中国東北部)全土の都市・鉄道の占領を果たした。日本軍は、3月1日傀儡を立て満州国の建国を宣言させた。1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る。中国側の呼称は九一八事変。
1905年、日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約により、東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権、関東州の租借権などを獲得した。これらの統治機関として、関東都督府と、鉄道付属地の治安維持を目的とした関東軍が設置される。
1912年、辛亥革命によって清国が滅亡、中華民国が成立するが、中央政府は各地に割拠しはじめた軍閥を統制することが出来ず、これが列強と結びつくことにより動乱状態が長期化する。日本は第一次世界大戦中の1915年に二十一か条の要求を中華民国に提示、中華民国との正式な条約を締結、権益の保護を図るも、当時中立国であった中国領に軍事侵入された上で最後通牒を突き付けられて条約を結ばされた立場の中国政府はただちに懲弁国賊条例でこれを実質的に無効化した。また中原地方でのボイコット運動や反日暴動を扇動し、満洲の治安へも波及、悪化する恐れは消えなかった。
この時期の対満外交政策を巡っては、日本の二大政党である憲政会(のち立憲民政党)と立憲政友会との間では見解の相違があり、それぞれの政策担当者の名をとって、「幣原外交」および「田中外交」と呼ばれた。
まず、幣原外交(幣原喜重郎外相)は、権益を有する満洲のみならず、中原も含む「中華」を、一体の固有の領土であることを自明視し、これらをあわせた「中華民国」を、日本と貿易を行う巨大な市場として安定化させることを政策目標とした。そのため、大陸における暴動に対する列強による軍隊の共同派遣は、条約破棄や疎開地への直接の武力攻撃など、明確な国益の毀損がない限りは、これを抑制する態度をとった[3]。
これに対して田中外交(田中義一首相兼外相)は、満洲を市場ではなく、開発の対象とみて、租界の物理的領域を重視する。これは、満洲に隣接する形でソビエト連邦が成立し、また中原および日本国内にも共産主義思想が浸食しはじめていたことも念頭にあった。満洲を、中原とはひとくくりに「中華」としては扱えない、日本にとって特殊な地域であると考え、共産主義をこの一帯から駆逐することを重要視したのである。そして、幣原外交では抑制的であった派兵も、現地の暴動が明白な条約違反を犯した場合のみならず、政情が不安定化した場合も積極的に行い、地方一帯の治安の維持につとめた。
1924年から1927年にかけての憲政会政権(加藤高明内閣→第1次若槻内閣)では、幣原外交が展開されたが、欧米列強と較べても抑制的な派兵方針は世論の顰蹙を買い、遂には南京事件で在留邦人に被害が発生するに及び、1927年6月、内閣総辞職する。
かわって成立した立憲政友会政権(田中義一内閣)では、山東出兵など、派兵を繰り返す。一方で、満洲に地盤を持っていた張作霖軍閥にたいして、帝国陸軍は1916年頃から支援を行い、これと協調して満洲一帯の治安維持をすることを目指していたが、満洲制覇を達成した張は、勢いそのままに華北へ進出、中原を含めた大陸統一の野望を果たそうとする。
日本陸軍では1921年のバーデン=バーデンの密約に始まる、明治維新以来の長州閥追放と総力戦体制の確立を目指す動きは、1927年に二葉会、木曜会の結成と両者が合流した一夕会の成立へと至る。木曜会では総力戦に必要な資源の供給先として満州領有する方針が1929年3月1日の第5回会合で決議された。木曜会と二葉会はメンバーの重複も多く後に合流し一夕会となるが、満州領有方針は一夕会にも引き継がれた。一夕会は1931年8月には陸軍中央部の主要中堅ポストを占めるようになっていた。
1928年5月、北京に出征した張と、中原制覇を目指して北伐の最中の蒋介石が衝突するに及び、田中外相は双方に対し、戦闘が満洲に波及する場合は派兵を行って治安維持活動を行うことを通告。同時に、張軍の武装解除を視野に、関東軍を旅順から奉天へ進出させる。双方この勧告を受け入れ、張は北京を引き揚げる。ここに田中外交による中原・満洲の棲み分けは成功するかに思われたが、6月4日、帰路についた張が乗る列車が爆破され死亡した(張作霖爆殺事件)。これは、関東軍の一部の不満分子の暴発であった。田中外交をすら生ぬるいと断じ、張の排除と、日本による満洲の完全領有を目論んだのである。立案者の河本大作は二葉会に所属していた。
事件後、軍閥を引き継いだ息子の張学良は、蔣との合流を選択。12月29日に易幟を行い、中原と満洲は合同する。一方、田中内閣は事件の処理に失敗し、1929年7月、総辞職した。これにより、満洲地域に中華ナショナリズムによる反日活動が流入し、日本側はこれに対し、立憲民政党政権(浜口内閣→第2次若槻内閣)のもとで復活した幣原外交の下で対峙することを余儀なくされる。
世界恐慌
浜口内閣成立直後の1929年10月、世界恐慌が発生。井上財政のもと金解禁を行った日本はそのあおりを受けて、大不況に突入する。この不況に際し、1918年のロシア革命の直後から、右派陣営の間で論じられていた、共産主義、資本主義の両者を否定する、国家社会主義が、沸騰する。
また、軍部の内部にも、時の国策へ反発する下地が作られていた。きっかけは、第一次世界大戦後の世界的な軍縮の流れがあった。1922年のワシントン条約、1930年のロンドン条約が締結され、いずれも、海軍の軍備額に制限が課せられるようになる。議会は、削った軍事費を民政に回すことを考えてこの方針を押し、軍と対立、特にロンドン条約の時は統帥権干犯問題へと至り、海軍省内の「条約賛成派(条約派)」と、軍令部内の「条約反対派(艦隊派)」との間での対立が残った。
これらの時勢の中、陸軍の中堅以下の将校の間で、政党政治家およびこれに同調する陸軍首脳陣への反発から、軍内および社会の革新を求める動きが起こる。1921年のバーデン=バーデンの密約に始まる、明治維新以来の長州閥追放の動きは、1929年の一夕会の成立へと至る。結成当初は、陸軍省及び参謀本部の人事を通した影響力の拡大を図る合法路線であったが、1930年、世界恐慌が波及した農村の窮状が、農村出身の下級兵士を通じて少壮将校に知れ渡ると、同年、一部急進派は橋本欣五郎中佐を中心に桜会を結成、政治家による「現在の腐敗した政治」を、クーデターにより覆し、軍主導の政権の樹立を目論む。1931年3月、本格的な蜂起を計画するも(三月事件)、新政権の首班に擬せられた宇垣一成陸相が決起を促されると中止を命令。他の幕僚もそれに従って抑止に回ったため、計画は不発に終わる。
しかし、この軍内の下克上の風潮は、国家社会主義思想の軍内部への侵食を呼び起こし、朝野の国家社会主義勢力の動きを勢いづけることになる。
事変勃発直前の満洲
張学良の易幟以降、満洲における日本の権益、在留邦人の利益は毀損を受けた。漢人サイドは「遼寧国民外交協会」を設立、満洲地方を中原地方と一体とする「中華ナショナリズム」のイデオロギーを流布するとともに、満洲地方への漢人の流入、資本の投下を大規模に行うことにより、満洲地域の支配と工業化を強め、日本の利権と衝突していく。更に、張学良の指導のもと、日本人或いは日本側が送り込んだ朝鮮人の小作人に対する漢人地主の契約の打ち切り、あるいは逆に、日本人実業家に対する漢人労働者の争議など、日本側の進出に対する反発・抵抗も強まり、日漢間の衝突は増加の一途をたどる。更に張は、南満洲鉄道の並行線敷設を開始、これは日本の持つ南満洲鉄道の利益に対し決定的に競争を挑む行為であった。
これと前後して、在満日本人の間の、特に若年層により結成されていた満洲青年連盟の間から、満洲地方に、多民族国家の樹立を訴える動きが起こるようになる。元々彼らは、日本権益保護のための内地の積極的な関与を望んでいたのであるが、それが幣原外交が続く限りは望めず、漢民族による「中華ナショナリズム」の名のもとの攻勢に直面する中、少数民族である日本人として、折り合いをつけて自らの居場所を確保する必要に迫られた。そこで1928年5月、第一回満洲青年議会で提出されたのが、「満蒙自治制」であった。すなわち、張軍閥と在満漢人を、「中華ナショナリズム」の名のもとに一体化して敵視するのではなく、両者の間の支配/被支配の関係を認め、在満諸民族の間の連帯と、張軍閥を介しての満洲支配を画策する中原の蔣介石への抵抗を強め、和合的な「民族協和」による新国家建設と、在満日本人の編入を提案したのである。1931年6月13日、満洲青年連盟は、「満洲ニ於ケル現住諸民族ノ協和ヲ期ス」声明を発する。
一方、満洲権益のために駐屯していた関東軍の内部においても、板垣征四郎、石原莞爾両参謀ら一部の間では、武力行使による満洲領有を強行する計画が持ち上がっていた。板垣参謀らの満洲領有の目的は大きく二つあり、第一に、ソ連からの防衛を行うにあたり、主戦場となるであろう北満の平原地帯を先手を打って占有することにより、ソ連を自然的国境線(バイカル湖、黒竜江、興安嶺)以遠に押し込め、安定をもたらせることが期待された。第二に、石原参謀が将来的に起こるであろうと予測していた米国との世界最終戦論に備えて、満洲の資源利用及び国土開発を用いた国力増強であり、内地の人口増加と不況、資源不足などの社会問題の解決策としても期待された。そして、張軍閥を満洲政情の諸悪の根源とみなし、これを追い落とすことによって、地域の諸民族による民政発展を図ること、地方行政機関は人員含めて従来のものを用いること、満洲の行政にかかる費用は内地持ち出しではなく現地の独立採算制をとること等、上述の満洲青年連盟の独立国家構想に近い内容であった[11]。当初関東軍は満蒙領有を計画していたが、結局、9月中旬に満州支配の方式を傀儡国家樹立に変更決定し、10月には「満蒙共和国統治大綱案」を作成、統治方針や政府組織を決めるとともに、各地の軍閥軍人に地域的独立政権をつくらせることとした。
1931年7月、万宝山事件により、満洲地域の騒擾は激しさを増す。現地は"懸案五百件"と呼ばれるほどの混乱であったが、幣原外交は相変わらず張軍閥との交渉からことを進めようとしており、参謀本部もこれに追随していた。
事変の経過
柳条湖事件
事件直後の柳条湖の爆破現場
1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している。関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。これがいわゆる柳条湖(溝)事件である。
戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが判明している[注釈 6]。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。
関東軍の軍事行動
事件現場の柳条湖近くには、国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」(約7,000人が駐屯)がある。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し、北大営を占拠した。張学良が北京に、奉天軍閥主力が長城線以南に結集している間隙を縫った、石原莞爾と板垣征四郎による綿密に練り上げた奇襲作戦であった。関東軍はわずか1万余の関東軍を率い、翌日までに、瀋陽、長春、営口の各都市も占領した。東三省に分散配置されていた奉天残存戦力は、留守部隊とはいえ戦車、航空機、重火器を装備する20万余の大軍であった。関東軍は夜戦訓練を重ね、24サンチ榴弾砲をひそかに奉天に運び入れ、夜襲と威嚇射撃で敵の虚を突く軍事作戦を展開した[13]。満洲北部について参謀本部は当初不拡大の方針を採った。当時北京にあった張学良は、日本側の挑発に乗らないよう無抵抗を指示していたため、北大営は短期間で占領された。戦死者は日本側2人、中国側約300人であった。張学良は、のちに抗戦しない理由を問われ、関東軍が満洲全面占領作戦を展開するとは予想もしていなかったと答えた。
瀋陽占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が瀋陽を奉天に改称して臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルビン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。
中華民国の対応と日中両国外交交渉
事変翌日の9月19日、張学良は顧維鈞と今後の対応を協議し、顧維鈞は以下の2点を提言した[15]。
国民政府に連絡をとり、国際連盟に本件を提訴するよう依頼すること
本庄繁関東軍司令官と早急に会談すること
また9月19日午前、中国(南京国民政府)の宋子文行政院副院長と日本の重光葵駐華公使が会談し、日華直接交渉方針を確認する。重光公使は幣原外相に許可を仰ぐと幣原外相は同意し訓令を発した。だが後日、中国側は前言を撤回する。中国が二国間交渉を打ち切ったのは、日本側が、政府の国策が定まらないまま関東軍が進撃を続けるという状況にあり、日本政府と一対一で交渉しても無益であると見たためであった。
この時点で国際連盟理事会は日本に宥和的で中華民国に冷淡だったが、10月以降の事態拡大により態度は変化していった。連盟理事会は、最終的には制裁に至る可能性もある規約第15条の適用を避け、あくまで規約第11条に基づき、日中両国の和解を促すに留めた。9月30日、日中両国を含む全会一致で、両国に通常の関係回復を促す理事会決議が採択された。中国には責任を持って鉄道付属地外にいる日本人の生命財産を保護することを求め、日本には、保護が確保され次第、軍隊(関東軍)を鉄道附属地に引き揚げることを求めるものであった。後者についてはできる限り速やかにとあるのみで、期限は付されなかった。
9月21日に国民政府に急遽設置された特殊外交委員会の会議が開かれ(10月21日)、顧維鈞は、9月30日付の連盟理事会決議を日本に遵守させるのは不可能だろう、との見通しを示し、連盟の監督と協力の下で、「日中間で直接交渉を行うのがベストだ」と主張した。しかし顧の主張は採用されなかった。
政府首脳部の初動と朝鮮軍の独断出兵
9月19日未明、関東軍より陸軍中央へ打電があり、軍事行動開始を報告するとともに、満洲の治安維持に万全を期すべく、三個師団の増派を求める。これに対して陸軍中央は、関東軍の行動の合理性および軍備力の多寡による増派の必要性については理解しつつも、政府の不拡大方針との間で板挟みになる[21]。
19日午前の閣議において、南陸相は、戦闘は「関東軍の純粋な自衛行為」であると釈明したが、閣僚より攻撃を受け、不拡大の方針が決定。午後、南陸相および金谷範三参謀総長は関東軍へ、政府の不拡大方針にのっとって行動するよう命令。また、朝鮮軍に対しても、満洲出兵を禁ずる通達を行った[22]。一方で同日午後、南陸相は若槻首相に面会。事態の緊迫を説明、軍事行動の拡大(予算の承認)を認めるよう説得を行う。若槻首相の下にはすでに、外務省から、今回の衝突が関東軍の謀略によるものであるとの情報が入っており、不拡大方針を貫徹することに不安を覚えるようになる。
一方の朝鮮軍は、19日8時30分、林銑十郎司令官より、飛行隊2個中隊を早朝に派遣し、混成旅団の出動を準備中との報告が入り、また午前10時15分には混成旅団が午前10時頃より逐次出発との報告が入ったが、参謀本部は部隊の行動開始を奉勅命令下達まで見合わせるよう指示した。これにより朝鮮軍の増援は飛行隊を除いて朝鮮と満洲の国境である新義州で止められた。また、参謀次長の二宮治重は新義州の守備隊に朝鮮軍が国境を越えた場合、直ちに参謀本部に報告するように指示した。20日午後陸軍三長官会議で、関東軍への兵力増派は閣議で決定されてから行うが、情勢が変化し状況暇なき場合には閣議に諮らずして適宜善処することを、明日首相に了解させる、と議決した。
20日夜、関東軍首脳陣は、政府の不拡大方針への対応を検討する。地政学的な重要性から吉林が着目され[注釈 7]、同所の不穏な情勢(その情勢の中には、特務機関の謀略によってつくり上げられたものもあった)、用兵上の見地について議論が行われた末、21日3時、不承認時の処罰覚悟で、吉林への出兵継続を決定する。直ちに出動命令が第2師団に下り、同日6時、陸軍中央へ報告された。吉林は、同日中に熙洽省主席代理より占領承認がなされる。
朝鮮軍はこれに呼応、林司令官は21日12時、独断で混成第39旅団に越境を命じる。この時、林司令官は、政府から禁令が下れば直ちに応じられるように、越境時刻まで指定して通達したが、13時20分、部隊はそのまま日満国境を越境、関東軍の指揮下に入る。林司令官の独断越境に南陸相と金谷参謀総長は恐懼した。18時、南陸相に内示のうえ、金谷参謀総長は単独帷幄上奏によって天皇から直接朝鮮軍派遣の許可を得ようと参内したが、永田鉄山軍事課長らの強い反対があり、独断越境の事実の報告と陳謝にとどまった。21日夜、杉山元陸軍次官が若槻首相を訪れ、朝鮮軍の独断越境を明日の閣議で承認することを、天皇に今晩中に奏上してほしいと依頼したが、若槻首相は断った。林朝鮮軍司令官の独断越境命令は翌22日の閣議で大権干犯とされる可能性が強くなったため、陸軍内では、陸相・参謀総長の辞職が検討され、陸相が辞任した場合、現役将官から後任は出さず、予備役・後備役からの陸相任命も徹底妨害するつもりであった。増派問題は陸相辞任から内閣総辞職に至る可能性があった。
22日、閣議にて南陸相は朝鮮軍の越境の許可を求めたが、幣原外交の継続が困難になることを恐れた閣僚に反対され、認められることはなかった。翌23日も引き続き、南陸相と幣原外相・井上蔵相の間で激論が行われるが、最終的に若槻首相が、「出兵しないうちならとにかく、出兵した後にその経費を出さなければ、兵は一日も存在出来ない」との判断のもと、朝鮮軍派兵の経費を支出することを決定。これにより、朝鮮軍越境は事後承認、合法化された。しかし天皇は内閣の求めに応じて裁可しつつも、軍首脳に対して不快の意を示し、金谷参謀総長に対して「将来を慎むよう」注意を与えた。
南満洲平定を短期間で終えた関東軍は、更にハルビン方面からも不穏な情勢が伝えられるにつけ、大橋忠一在ハルビン総領事からの依頼に応じて、北満進出を認めるよう、陸軍中央に繰り返し依頼する。これに対して陸軍中央は、南陸相、金谷参謀総長ともに、南満洲からのさらなる出兵は、不拡大方針の趣旨からこれを認めないこと、在留邦人の保護は、引き揚げによることとし、更なる軍事行動を遂に認めなかった。
24日、関東軍の統制を達成した政府は、事変に対する最初の声明を発表し、
事変を拡大させないよう努めること
吉林への関東軍の出動の目的は、満鉄付属地の治安維持であり、目的達成の上は直ちに長春へ撤兵すること
満洲における領土獲得の意思は持たないこと
を宣言した。
新秩序形成への動き
奉天占領直後の城内の様子
関東軍は、当初は満洲全域に進駐、日本の領地とすることを計画していたが、上述の9月24日の政府、参謀本部からの北満進出の厳禁の指令を受けて方針を転換、親日地方政権を樹立させて、これと連携することを模索。同月中に、満洲各地の漢人有力者に接触、独立工作を始める。
現地の在留邦人は、関東軍の出動を歓迎し、その治安維持活動に積極的に協力する。事変勃発と同時に、満洲青年連盟は、武装団体を関東軍に提供したほか、進駐地の社会インフラ業務に従事し、事変の民政への影響を抑えた。そして、9月21日、奉天にて全満日本人大会を開催、関東軍の全満洲への進出を支持する旨を決議し、29日、陸相宛の請願において、親日政権の樹立を訴えるとともに、内地への遊説隊の派遣をなおも重ねた。
この在留邦人の動きと連動して、関東軍は事変の解決方針の検討を重ね、10月2日、「満洲問題解決案」を起草する。ここでは、まず方針として「満蒙ヲ独立国トシ之ヲ我保護ノ下ニ置キ在満蒙各民族ノ平等ヲ期ス」と、日本の権益保護を前面に押し出すのではなく、明白に他民族を含めた新国家建設を目標に据えるようになった。
国際連盟での議論
9月21日、中国の施肇基国際連盟代表は、ドラモント事務総長に対して、「国際連盟規約第11条により、事務総長は即時理事会を開いて速やかに明確且つ有効な方法を講ずる」よう要求したことにより、事態は連盟理事会に持ち込まれる。一方の日本は、引き続き、日華二国間の交渉で解決を図ることを主張し続ける。当初は日本側は、現地情勢について確とした情報および関東軍の統制方針を定めることができず、連盟各国への釈明に苦労した。が、24日に日本政府不拡大方針を表明、関東軍の北満進出を一旦押しとめたことで、日本政府による事態収拾に一応のめどはつく。25日には英国より調査団の派遣が、28日には中国より中立的な委員会による交渉の援助を求める提案があったが、日本はいずれも拒否をする。日本側は、不拡大方針によって順次撤兵を行うべく調整中であることから、日本の善処を待つことを希望する。各理事国も、満洲を、従来の軍閥の跋扈するに任せるより、日本の手で管理されることが望ましいと考えるようになる。日本が「保障占領は行わない」旨を宣言したのを受けて、30日、日華両国がむこう2週間以内に「通常関係ノ恢復ヲ促進」するために「一切ノ手段ヲツクスベキコト」を求めて、休会する。
錦州爆撃
連盟理事会で列強の好意的態度を受けた政府・陸軍中央は、関東軍の撤兵を図る。上述の通り、関東軍はこの頃北満進出を厳禁されたかわりに、現地の独立運動の工作を行っていたが、10月3日、金谷参謀総長より関東軍へ打電、「大局ニ処スル策案ハ之ヲ中央当局ノ熱意ト努力トニ委ネヨ」と、現地政局への不関与を命ずる。また時を同じくして、政府・陸軍中央が従来の幣原外交に回帰すべく意見統一を図っているとの情報に接する。政治が元のさやに納まることによって、当初の事変の目的であった社会改革が頓挫することを恐れた関東軍は、陸軍中央に腹を固めさせ、政府へ幣原外交からの脱却するよう圧力をかけさせるべく、張学良軍閥の徹底的な排除を訴える声明書を公表。この時、張は錦州まで退いて再起を伺っていたが、関東軍声明ではその行動を「秩序破壊ノ限リヲ尽クセリ」と糾弾、対して現地における独立の動きに言及し、これに呼応することを訴えた。
関東軍の政治的意図を含んだ声明は衝撃を与えたが、この時点では大手メディアの論調ではこれに対する反発は激しく、政府の協調外交を無にする行為、軍の越権行為であるとの非難が行われる。
しかし、10月8日、関東軍の石原参謀の指導の下、張が本拠としていた錦州を空襲した。編成は88式偵察機6機、中国軍から鹵獲したフランス製ポテー25型軽爆撃機5機の11機。これに石原の乗る観測用の旅客機が同行して計12機。これは関東軍司令官の本庄繁の許可もとらず、石原の独断専行であった事から関東軍の内部でも非難の声があがる。石原は事後、偵察目的で飛行していると対空砲火を受けたため、やむを得ずとった自衛行為であると説明する。しかし計75発もの爆弾を投下しており、88式偵察機には爆弾照準器も爆弾懸吊装置も装備されていないのにも関わらず、瞬発発信管つき25キロ爆弾4発ずつを真田紐で機外に吊るすと言う無理矢理な爆装を施しており、偵察目的であったとは言い難い。空爆は、国際法上は予防措置であり、自衛権の範囲であるが、第一次世界大戦の戦禍の記憶が残る欧州列強はこれに反発、更に、上述の撤兵のための2週間の猶予の間におこった出来事であったことから、連盟内における日本の立場は悪くなる。
施肇基は、国際連盟の理事会を招集し、日本側は犬養毅の娘婿である大日本帝国特命全権大使芳澤謙吉が対応した(滿洲帝国駐箚大日本帝国特命全權大使は関東軍司令官の植田謙吉であった)。後述のとおり、蔣介石は訓令により外交官に錦州を中立区とする案を提起したが、中国国内世論の激しい反発に遭い、12月4日に案を撤回した。
十月事件と国内の政局の不安定化
関東軍が満洲に於いて新国家樹立へ向けた行動を起こすのと軌を一にして、在京の陸軍中央においても、革新思想に基づいたクーデターを起こす陰謀がおこっていた。中心となったのは、桜会の首領であった橋本欣五郎参謀本部ロシア班長であり、10月下旬にも、若槻内閣の閣僚暗殺、荒木貞夫教育総監部本部長を首班とする内閣の発足を実現することを目論んでいた。陸軍首脳部は、計画を掴むと、10月17日、首謀者を検束し、クーデターは未然に阻止される。
クーデター自体は未遂に終わったが、その計画段階において、桜会と関東軍が示し合わせて、内外で同時に革新運動をおこそうとしたのではないかとの疑いが起こる。これは、河本大作と長勇が両者の間の連絡要員として往復する中で、景気づけに両者の連携を各所で吹き込むうちに話が大きくなったものであり、実際には石原ら関東軍の首脳陣は、長期的な展望のないクーデターで内地の政情がいたずらに混乱した場合、国力が大きく低下して、満洲での事変完遂に支障が生じることを恐れて、クーデターには反対の立場であった。
しかし、この桜会周辺の大言壮語が一人歩きした結果、陸軍中央には、関東軍が陸軍中央の統制下から独立して、全満洲への進出などの軍事行動を勝手に始めるのではないか、との風聞が伝わる。桜会の検挙が行われた17日、陸軍中央は関東軍に向けて、独立などの過激な行動は差し控えるよう命令が下る。これについては、関東軍より、独立の意図はないとの抗議を行い、陸軍中央と関東軍の誤解は、一旦は解けることとなる。
この頃陸軍中央は、錦州爆撃で再び独走を始める関東軍と、連盟理事会で各国からの批判を受ける政府との政見の調整を図っていた。関東軍は満洲の中華民国からの完全なる独立を謀っていたが、それは連盟の反発を招くことは必定であった。そこで、陸軍中央としては、満洲の事実上の支配権を確立することを優先して、新政権と中華民国との関係については明言しないという、名を捨てて実を取る方針をとる。この方針は21日、白川義則軍事参議官が満洲訪問、関東軍に直接伝達された。
しかし、関東軍としては、満洲には中華民国から分離独立させた新国家を建てる方針であったことから反発、24日にはその旨を返電した。
一方、政府の側も、連盟から求められる関東軍の撤兵をいかに実現させるかを巡り苦慮していた。連盟における日華両国の対立は、満洲地方の取り扱いに関する取り決めと、関東軍の撤兵の前後が焦点であったが、これに加えて関東軍は、日本政府の交渉相手を、中華民国ではなく、満洲に成立しつつある新政権とするよう主張してきた。この頃になると、政府も世論・メディアの反連盟・親関東軍の強硬論に抗しきれなくなり、国策を巡ってこれら強硬論へ徐々に近づいてゆく。
連盟理事会は、11月16日の次回理事会開催を新たな期限として、24日、休会する。この2日後の26日、日本政府は、満洲事変に関する二度目の声明を発表し、将来の日支関係の基礎となる五大項目を掲げる。これは、連盟理事会の介入を極力排して、二カ国間の交渉で解決を図りたいという意見であるとともに、撤兵の条件を「満洲地方の取り扱いに関する二国間の取り決め」から「満洲における新政権の樹立」にまで延長し、更に、取り決めに関する交渉相手を中華民国から満洲の新政権に変更することを示唆した。これにより、満洲事変に対する日本政府の対内的態度は、一大転換を迎えるに至ったのである[44]。
北満進出
日本政府が、満洲における新政権樹立を黙認したのを受け、次なる焦点は、政府が進出を禁じた北満洲(黒竜江省)への浸透工作であった。関東軍の工作に呼応した張海鵬は、関東軍の武具援助を得て、10月上旬より洮昂線(平斉線)に沿ってチチハルを目指して北上していたが、馬占山率いる黒竜江省軍と嫩江を挟んで対峙、不安定な情勢が10月下旬から11月にかけて続いた。
この時、馬軍は嫩江に架かる南満鉄の橋を破壊しており、北満洲の貨物の輸送が阻害されていた。この状況が長期化するに及び、関東軍は11月2日付で、馬・張両名に最後通牒を発し、鉄橋より10km以遠に後退し、関東軍による鉄橋修復を可能とするよう要求、関東軍の行動を妨害する場合は実力をもって対処すると通告した。そして4日、橋梁修理のために派遣された関東軍と馬軍との間で武力衝突が発生する。
陸軍中央は、橋梁修理のための派兵は認めつつも、嫩江を遠く離れての北満洲一帯への展開を禁じ、橋梁の修理を速やかに終えた後は迅速に撤兵するよう命じた。また、「北満洲一帯の工作用資金」と使途を限定して活動経費を支給するなど、関東軍がまたしても独走しないよう細心の注意を払う。
更に5日には、参謀総長に対して、関東軍に対する委任命令が下る(臨参委命)。これは、天皇による軍に対する指揮権(統帥権)は、参謀本部の輔弼を得て行使されるが、複数の軍が関与する大規模な軍事行動の際には、軍同士の調整が煩雑になることを理由に、統帥権の一部が参謀総長に一時的に分与されるものである。これにより、今まで区処権しかなかった参謀総長が関東軍、朝鮮軍に直接命令を下せるようになった。これは、連盟における世論の更なる硬化を恐れたほかに、北満洲進出によりソ連との間に不測の事態が起こることを恐れたためであった。対して関東軍は、ソ連との北満洲攻略の争いに勝つためには、武力展開による後押しが必要と考えていたことから、参謀本部による干渉に憤慨する。
関東軍と馬軍との戦闘は2日間続いた後、馬軍は退却。大興附近に進駐した関東軍は馬軍の進撃を具申したが、参謀本部はこれを容れなかった。両軍の間での交渉が行われ、馬の下野、チチハルからの撤退を関東軍は要求するが、馬は日本政府の連盟における撤兵の言質を盾に拒否。合意を得られないまま緊張はさらに高まる。
日本での一報を受けて、駐日米国大使ウィリアム・フォーブスは6日、満洲で幣原外相と面会した。
挙国一致内閣の陰謀
政府・陸軍中央の国策が関東軍に引きずられ、国内世論がこの風潮を支持するようになると、若槻首相は、民政党内閣による事態の収拾に不安を抱くようになる。10月下旬、若槻首相は周囲に辞意を漏らすようになる。これを聞きつけた安達内相は、野党政友会との協力内閣(大連立)案を提示、若槻首相の同意の下、政友会との接触を始める。
若槻首相の辞意は、安達内相の動きを察知した幣原外相、井上蔵相の説得で翻意し、内閣はとりあえず、存続する。しかし、安達内相の動きが呼び水となって、民政・政友両党や官界で政権獲得の陰謀が幾通りにも動き始め、「憲政の常道」は崩壊の兆しを見せ始める。11月8日、安達内相は「協力内閣」の談話を発表。10日には政友会が「金解禁の停止」と「国際連盟脱退辞さず」を決議した。
北満軍との戦い
馬軍と対峙していた関東軍は、11月17日に北上を開始。19日にはチチハルを占領する。政府では、例え作戦上の必要によりチチハルへの行軍はやむを得ない場合であっても、同所の占拠は認めず、直ちに引き返させることで合意していた。そのため、19日付の陸相よりの電報においても、チチハルの占拠を認めない旨を関東軍に命じた。
24日には、参謀総長より重ねて、以下の訓令が発せられ、撤兵が命じられる(第一六三号電)。
既定の方策に準拠し斉々チチハル付近には歩兵一連隊内外を基幹とする兵力を残置し師団司令部以下主力は爾他の情勢に顧慮せず速やかにこれをかねて所命の地域に撤収するごとくただちにこれが行動を採るべし
前項残置する部隊も概ね二週間以内に撤収せしむるを要す
関東軍は対応を討議、石原参謀の反発を容れ、撤兵は馬軍の行動及び洮昂線(平斉線)の安全を考慮して関東軍に一任するよう要求。対して参謀総長は、「国軍の信義および国際大局に鑑み」速やかな退却を再度命令する(臨参委命第五号)。本庄司令官は、一旦は命令に服するとともに辞職を決意するが、これに対し石原参謀は、決意の矛盾を指摘して、
軍司令官の腹芸により命令を実行せぬこと
断然辞表を捧呈すべきこと
服行し幕僚を更新すること
のいずれかをとることを要求。本庄司令官は第三案をとり、石原ら幕僚の反発を抑え、チチハルにはわずかな部隊を守備に残して、撤退する。
この後、黒竜江省への侵出は再び政治工作が主となり、張景恵を首班とする新政権の樹立、運営に援助を行った。馬占山に新政府の要職を確約し、関東軍との間に軍事協定が締結されるなど、馬との講和がすすめられた。
宣統帝の脱出と錦州攻撃
11月頃、南満洲では張学良が反転攻勢をかけて錦州に再び軍勢を終結させはじめており、不穏な情勢になりつつあった。土肥原賢二率いる特務機関は、清朝滅亡後天津に滞在していた愛新覚羅溥儀(宣統帝)[注釈 8]の救出と、満洲新国家への援助について宣統帝と合意に達しており、11月8日に発生した第一次天津事件の混乱に乗じて、宣統帝は天津を脱出、旅順に移った。
11月26日、第二次天津事件が発生。同日、関東軍は幕僚らの進言を受けて、天津の友軍の援助のために隷下部隊に錦州方面への進軍を指示し、中央へ報告する。
この直前の24日、連盟理事会は、日華両国に対し、戦線の拡大と人命の損失を伴う行動を厳禁するよう求める決議案を提出しており、政府も関東軍の行動には神経をとがらせていた。27日、金谷参謀総長は天皇の勅許を得たのち、「状況のいかんを問わず遼河以東に撤退すべき」という奉勅命令を発する(臨参委命第七、第八号)。この時点で現地で交戦は始まっていたが、関東軍の保有兵力では錦州を陥落させることは不可能であったことから、29日までに撤退を完了させた。
国連調査の派遣の決定
11月16日、日本軍撤退の期限を迎え、連盟理事会が再開する。理事会の中では、日本への経済制裁や調査団の派遣が検討されていた。日本政府は、第三者のいかなる介入にも反対していたが、日本の連盟代表は、調査団の派遣によって連盟の顔を立てつつ、彼らに満洲の実情を目撃させることにより、味方に引き入れるのが良いと考えていた。21日、理事会において日本側より、調査団の派遣が提案され、決議文作成が行われる。この時、日本外務省は、日本軍の撤退に関し決議文から起源に関する規定を削除することが要求された。
史上初めて空爆による都市攻撃が行われた錦州を中立区とする蒋介石の案は、中国国内世論の激しい反発を受けて12月4日に撤回されていた。
しかし、12月10日、決議案が成立する。この中では、調査団の派遣が決定する一方で、日本軍の撤兵については、鉄道付属地への撤兵を要求しながらも、起源は規定されず、中華民国側が求めた「調査団派遣と同時にただちに日本軍が撤兵すること」は容れられなかった。また、「平和を乱す恐れのある一切の事情」について調査する委員会が設けられたが、日華両国の交渉や軍事取り決めには関与しないこととされた。更に、「馬賊その他満洲における無法分子の行動」に対しては軍事的措置をとることが認められ、調査団の報告が受領されるまでは満洲問題の討議自体が打ち切られるなど、連盟における議論は日本側の有利に終わった。
若槻内閣の崩壊
満洲問題についての調査団派遣の交渉も大詰めを迎えていたが、こんとき錦州爆撃に関する国連緊急理事会は、日本の反対意見を下して、当事者ではないアメリカ合衆国もオブザーバーとして参加させていた。しかしながら国務長官のヘンリー・スティムソンは、幣原外相と駐日米国大使のウィリアム・キャメロン・フォーブス(英語版)の秘密会談の内容を公に曝露し、このことで日本のメディア憤激することになったようである。
米国国務長官が、幣原外相とフォーブス大使の会見内容を公表したことは、日本が米国殊に列国の手前、錦州攻撃に出ずること不可能なりと高を括るに至ったっことのニ理由に基づくもので、が、右は全く日本と理事会とを愚弄せる陰険なる策略で、如何に国際信義を無視するものなるかを如実に示せるものなりとして我が政府当局の憤慨は勿論、連盟首脳部も其の不信行為を痛感し、対支感情の悪化は必然手的なものと言わる。
右に付き日本外務省では芳澤代表に大使適当なる機会に右支那側の非義を糾明し、斯かる不徳行為に基因して、今後錦州方面に如何なる事件が突発する事あるとしても、その責任は支那側にあることを述べて連盟理事会に諒解せしむることを訓令したとのことである。
— 伯剌西爾時報1931年12月11日号「国際の信義原則に悖る米国政府の軽挙 東京からラジオを通じての最近電報」
スティムソンは翌年1月にはジュネーブ海軍軍縮会議(英語版)のアメリカ代表団の団長となった。
12月10日、突如として第2次若槻内閣が閣内不一致により内閣総辞職するという政変が起こる。
政変をおこした首謀者は内相の安達謙藏であった。内務大臣は上述のとおり、民政・政友両党の大連立を推進していたが、12月10日、民政党の富田幸次郎顧問と政友会の久原房之助幹事長の連名による覚書を若槻首相に手交。安達内相はそのまま閣議への出席を拒否し、翌11日、やむを得ず若槻内閣は総辞職するに至った。後継には、政友会の犬養毅総裁が就任する。
派兵範囲の拡大
12月12日に発足した犬養内閣は即日、連盟の決議に基づき、馬賊行為の増大を理由として、遼河以西への日本軍の進出を認める。12月28日には錦州に迫り、張学良は犬養首相からの要請を受けて錦州からの撤兵、1932年(昭和7年)1月3日、日本軍は錦州に入城した。2月のハルビン占領によって、関東軍は満洲地域一帯を制圧した。
一方で、長期的な事変の収拾について、犬養首相は、満洲には別個の地方政権を樹立させつつ、中華民国を認め、日本は経済的利権の確保に留める方針をとる。一方、陸軍三長官の合意の下陸相に就任した荒木貞夫陸相は、急進的な軍事進出を主張しており、真っ向から対立するに至る。犬養首相は、長年の付き合いであった大陸浪人たちと連携し、腹心の萱野長知や山本条太郎を大陸に派遣して別ルートでの交渉にあたらせたが、軍部に察知されて不発に終わる。事態の収拾に関して、1932年1月6日、陸・海・外三省の合意により「支那問題処理方針要綱」が協定される。ここでは、満洲地域の新国家を、中華民国の主権から独立させるとともに、日本の権益を新国家と交渉して擁護することが計画されていた[60]。
翌年1月、中国側の国連代表が辞任したことで、新たに顔恵慶が代表になった。
スティムソン・ドクトリン
錦州陥落直後の1月7日、ヘンリー・L・スティムソン米国国務長官は、中国の領土的、行政的保全を侵害し、ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)に違反する一切の取り決めを承認しない旨を、日華両国に通告する(スティムソン・ドクトリン)。同時に、中国政策における「門戸開放政策」の方針を主張した。
もっともこの宣言は、列強の世論の同意を得たとはいいがたく、英国は「この文書に連名して日本に共同通牒する必要はない」と通告する。また、日本は、芳沢謙吉外相が、「支那不統一の現状を斟酌されたし」と回答している。
1932年初頭の国内情勢と血盟団事件
日本軍は満洲では連戦連勝であったが、32年1月頃から、革新運動の波が内地にも及ぶようになる。これは、関東軍が、内地の改造に先んじて事変貫徹を行っていたのが、満洲全土の制圧の目途が就いたことにより、革新将校から国内の革新断行を要求されるようになったためである。また経済においては1929年9月から始まった世界恐慌の最も進んだ時期であり、1930年に行われた金解禁が大失敗に終わり、1931年12月に犬養毅内閣によって停止されたばかりであった。1932年2月から3月にかけて、井上前蔵相や団琢磨三井合名会社理事長がテロに斃れる(血盟団事件)。そして、与党政友会の内部においても、森恪内閣書記官長が荒木陸相や平沼騏一郎枢密院副議長等の非政党員を首班とする政治工作を行うのを筆頭に、政党政治は内部から崩壊の危機に直面する。犬養首相は、参謀総長閑院宮載仁親王と相談の上で、大元帥である天皇の権威をもって青年将校の免官する強硬措置をとることによる軍部の統制を模索する。しかしこの動きは、天皇の動きが立憲君主の枠を逸脱することを危惧する西園寺公望元老らの危惧により頓挫した。
満洲国の建国
1932年1月から2月にかけて、関東軍は幕僚会議を重ね、新国家建設の段取りの検討を行った。1月末ハルビンに進攻、2月5日にはこれを占領。中華民国側正規軍との戦闘はほぼ終息、その後は地元住民や宗教組織、土匪等を主体とした地域ゲリラとの戦いが五、六年ほど続くことになる。満洲地域内の各地の有力者を招致の上、2月16日より吉林、奉天、黒竜江3省および特別区等の代表が参集して、東北行政委員会が、暫定的な満洲地方の最高行政機関として結成され、関東軍の計画を引き継ぎ、新国家建設の作業が進められた。18日、中原からの独立が宣言され、満洲全土に通告される。新国家建設の促進団体が各地に結成、各省における集会の開催を経て、2月29日、奉天で開かれた全満大会にて、宣統帝を暫定的元首とする決議が採択される。これを受けて、東北行政委員会の使者が宣統帝の下へ派遣され、宣統帝は執政の座に就くことを受諾。3月9日、満洲国は建国を宣言する。
この宣言に対し、犬養内閣は、連盟との決裂を意味する満洲独立の正式な承認に対しては、消極的であった。3月12日の閣議において、「満蒙問題処理方針要綱」を採択する。これは、上述の「支那問題処理方針要綱」を下書きにしたものであったが、中原の国民政府との交渉を忌避する方針や資本家の満洲進出の抑制などの方針が削られ、また字句の上でもより穏当な表現が用いられるなど、連盟と国内世論の板挟みに苦心する。肝心の国家承認については、18日付で、新国家成立の通告を受理した旨を伝えるにとどまり、国家承認そのものは延期された。
世論の急進化と国家承認
5月15日、犬養首相は、国家改造運動に感化された海軍の青年将校らによって暗殺される(五・一五事件)。後継首相を巡っては、鈴木喜三郎が党総裁に就任したが、首班には平沼ら党外の者を迎えようと森が工作するなど、党内が混乱し、政党内閣制は政党側が自滅する形で崩壊する。西園寺元老らは鈴木への大命降下を断念し、斎藤実海軍大将が首相に任命される(斎藤内閣)。
斎藤内閣成立後も、内閣および軍部中枢は、国際社会との協調方針を堅持する。当時、連盟が組織したリットン調査団が現地調査を行っており、連盟および加盟国は、報告書を受けて満洲国承認に関する態度を決する意向であった[70]。この時点で、連盟と、中国大陸に利害関係を持つ列強(特に英仏米ソ)との間では、満洲問題に関して温度差があった。これは、連盟内の中小国は関東軍の動きに批判的であったのに対し、列強は個々の国益の観点から妥協的態度をとる余地があったためである。
英国は、日英同盟が終了して以降も外交的には友好関係にあり、香港をはじめとする自国の権益を中原の混乱から保護するためにも、満洲の日本権益が地域の秩序を保つ実例となることは、英国の権益の安泰につながることであった。またソ連の南下阻止の必要性からも、日本主導による満洲の治安維持はありがたいことであった。
フランスは、インドシナおよび広州湾の権益の安泰という意味で英国と同じ状況にあった。
米国は、伝統的な方針として「機会均等」「門戸開放」を旗印に列強の中国進出を牽制しており、満洲問題について日本と利害が対立する立場であったが、裏を返すと、経済的利害で国策を転換させることができた。当時すでに日米の貿易は盛んであったことから、満洲へ米国資本を呼び込ませ、米国にも現地に権益を有させることによって、協調的な立場をとることは可能とみられていた[74]。当初、フーヴァー大統領は対日経済制裁を避け、道義的非難で応じた。しかし、錦州爆撃ののち態度を硬化させ、スティムソン国務長官は満州問題の不承認政策へと舵を切った。1932年1月に、スティムソンは九カ国条約・パリ不戦条約への挑戦は一切承認しないと宣言した(スティムソン・ドクトリン)。さらに、スティムソンは、上院外交委員長ボラー宛の公開書簡で、ワシントン体制の意義を再確認するとともに、日本の九カ国条約違反によってアメリカはワシントン海軍軍縮条約第19条(フィリピン・グアムの要塞化禁止条項)の拘束から解放されると警告した。
ソ連は、満洲と国境を接していたが、事変勃発直後の1931年12月に、日ソ間での不可侵条約を提案しており、この時点では日本にとっての脅威たりえなかった。
日本側の外交方針としては、政府のみならず、関東軍中枢においても、満洲経営という大事業のために国力を投下する必要から、対外的にむやみに敵対的態度をとるべきではないと考えていた。
しかし、国内世論は満洲の国家承認を強く求めており、6月14日には貴衆両院において、国家承認を求める決議が全会一致で議決された。更に、外相に就任した内田康哉は世論に引きずられて強硬論を押し出し、8月25日にはいわゆる「焦土演説」において、満洲の国家承認に向けて一歩も引かない考えを表明し、世論から喝采を浴びる。森恪は、この時期の政府の政策転換に至る空気を「六十年間模倣し来った西欧の物質文明と袂を別って伝統的日本精神に立帰」えることを意味するものであると評するなど、満洲問題は、連盟理事国として果たしてきた従来の協調外交に対する挑戦的ナショナリズムの象徴となるに至る。
9月15日、日満議定書の締結により、日本は満洲国を国家承認した。
リットン報告書の提出と連盟脱退
10月2日、リットン報告書が公表される。同報告においては、満洲問題の解決策について、事変前への復旧は混乱を招くのみであること、満洲国建国の追認は国際秩序の原則および日華両国の友好関係の点から不適当であることからともに退け、満洲地方の中華民国の潜在的主権を認めた上で、現地には特別な行政組織による自治を行うことを提案する。現地の日本の権益は、日華両国間で締結される条約により保証されることとなっていた。
しかし、日本は既に満州国を国家承認し、満洲地域の中華民国主権からの独立をすでに認めていたため、この報告書を受け入れることを拒否した。苦しい立場に置かれた連盟の日本代表は、上述の通り列強各国との個別交渉を行えば妥協を得られる目算があったことから、そもそも連盟における満洲事変に関する審議や介入を行わないよう説得を行う方針をとった。
しかし、翌1933年2月21日、連盟総会において事変に関する討議がかけられ、24日、報告書は採択される。日本代表団は直ちに会場を退席し、3月27日、日本は正式に脱退を通告する(脱退の正式発効は2年後の1935年3月27日)。
以降、日本は満洲経営に乗り出すが、国際連盟に対する強硬な反対世論は修正されないまま、国際社会から孤立してゆくこととなる。その一方で、国際社会もこの事態に対し軍事手段などの強力な対抗策を取ることはなかった。慶応大学教授の細谷雄一は、当時列国も大恐慌直後のことで軍を派遣するまでの余力がなかったためとし、日本の行為がそのまま放置されたことが、のちのイタリアのエチオピア侵略やヒトラーのオーストリアやチェコ・ズデーデン地方の併合等を招き、パワーポリティクスの復権・帝国主義時代の再来させたとしている。
終結
狭義には、1933年5月末の塘沽停戦協定が、国民政府に日本の満州支配を事実上認めさせたものとして、終わりとされている。実際には、その後もしばらくは地元漢人地主・小作人や宗教団体、匪賊等による抵抗・襲撃活動がなお続き、関東軍は土匪狩りの名の下に散発的に戦闘を行っている。華北分離工作を経て、1937年7月7日の盧溝橋事件の勃発により支那事変(北支事変)に吸収されるまでを満州事変とする見方もある。
参考:『のらくろ』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AE%E3%82%89%E3%81%8F%E3%82%8D
『のらくろ』は、田河水泡の作による日本の漫画作品である。
黒犬の野良犬黒吉、通称のらくろを主人公とする。
概要
大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌『少年倶楽部』にて1931年から連載された。連載のきっかけは、『少年倶楽部』の人気小説『あゝ玉杯に花うけて』の作者である佐藤紅緑が、当時の編集長である加藤謙一に対し、「もっと漫画を載せたらどうか。漫画は家中みんなで読めるし、なにより誌面が明るくなるからね」とアドバイスをしたことにあったという。これをうけて、加藤は田河に漫画作品を依頼。田河は「男の子が好きなものを組み合わせれば人気が出るだろう」と、「犬」と「軍隊」をモチーフとした作品を考案したと述べている。のらくろの姿は、アメリカのアニメ『フィリックス・ザ・キャット』の黒猫フィリックスにヒントを得て発想された。
当初は実際の兵役同様「志願兵で2年満期除隊」という構想で、最初失敗続きだったのらくろが後半少し手柄を上げたのち、めでたく除隊となる予定だった。しかし、非常に人気が出たため、伍長(下士官)に昇進させて作品が続くこととなった。のらくろが少尉になって将校の仲間入りをすると1冊の売れ行きは以前の半分の10万を割った[2]。田河自身も、のらくろを気軽な失敗が出来る下級兵のままにしておくのを望んでいたようだが、一方で、残る読者の子供等はのらくろの出世を望み、10年以上の雑誌連載の末に、結局、のらくろは大尉まで昇進、除隊して大陸の鉱山開発に向かうところで終わる。
「のらくろ」は日本の漫画の黎明期の作品として高い人気を獲得、手塚治虫、長谷川町子(田河の弟子となった)などにも大きな影響を与えた。劇場映画用として短編アニメもすでに戦前につくられている。漫画作品にとどまらず子供向けの商品にも次々にのらくろが登場した(ただし著作権の法律が確立されていなかった時代だったので、ほとんど原作者や出版社の無許諾商品)。
戦前発表の漫画としては稀有な長期連載となっていたが、1941年、太平洋戦争開始直前の状況もあり、内務省の役人から「この戦時中に漫画などというふざけたものは掲載を許さん」という指導が入り、編集長は、やむなく打ち切りにしたと述べている。用紙不足の中で雑誌が売れすぎること、笑わせる作品としてのらくろの失敗が主要テーマとなっていて内容が軍を揶揄しているとみられたことが問題とされたようだとされる。しかし1944年3月から10月まで、『戦時版よみうり』(読売新聞社)に4コマ漫画版の「のらくろ」が掲載されており(田河水包名義)、戦時下であっても必ずしも否定的な評価ばかりではなかった。
戦後の1958年、潮書房の戦記月刊雑誌「丸」において、のらくろ自身の一人称でつづられた挿絵つき「のらくろ自叙伝」が連載された(昭和33年9月号から1年9か月間)。これは戦前版の大尉で退役になるまでの軍隊時代のことを語ったものであるが、掲載紙からも分かるように、すでに大人になったオールドファンを対象に書かれており、完全子供向けであった旧本編とは違い、語り口の違いのほか、大人向けのエピソードが多く加えられている。
その後、漫画としての本編の続編「のらくろ召集令」が、同じ『丸』において、昭和36年1月号 - 昭和38年12月号に連載され、『のらくろの息子』という外伝をはさんで、さらに昭和42年3月号 - 昭和55年12月号にわたり連載、少年倶楽部における昭和6年1月号の開始から、ちょうど満50年の1980年に全編が完結した。続編は「のらくろ自叙伝」の設定も受け継いでいる。のらくろが軍に復帰して活躍、戦後は探偵や旅館勤めなど、職を転々とし、最後は喫茶店主となっている。
戦前の雑誌掲載のもの及び単行本は、1967年から講談社をはじめ、普通社、ろまんす社などから復刻連載版や単行本版が刊行されている。1970年10月からテレビアニメが半年間放映された。
1989年、漫画執筆権を田河の弟子の「のらくろトリオ」(山根青鬼、山根赤鬼、永田竹丸)が継承した。田河と山根赤鬼の死後も、残るふたりによって新作が発表され続けているが、田河の作品よりギャグ漫画色がどちらかといえば強い。現在(2023年時点)でもキャラクター関連商品などが多数販売されている。
ほかに、外伝的なもの、のらくろの息子や孫を登場させたスピンオフ的な作品も多い。スピンオフ的な作品としては以下のようなものがある。
1947年、田河の編集による『漫画トランク』(東京漫画出版社刊・1947年12月20日発行)に掲載。
1956年1月4日 - 同年6月29日に、『中部日本新聞』の夕刊に連載。題名は『のらくろ』だが、のらくろの息子(小学2年[9])が主人公「のらくろ」として登場している。
1966年には、『丸』昭和41年2月号 - 昭和42年2月号に『のらくろの息子』が連載(上述の通り「丸」において本編連載のあいだに発表されたもの)。第4回より『のらくろの息子デス』に改題。デスは「ぼくら(後の『ぼくらマガジン』→『テレビマガジン』・講談社)」版『まんが自衛隊 のらくろ二等兵』(昭和38年6月号~12月号)の主人公でもある。
作品内容
戦前の作品内容
「猛犬軍の『猛犬聯隊』」に野良犬ののらくろが入営。当初は、やせっぽちですぐに音を上げ、失敗を繰り返すばかりであったが、段々と活躍することが増え、山猿軍、チンパンジー軍などの敵を相手にした戦争でも勝利に貢献することたびたび、猛犬連隊に不可欠の存在となり、最終的に、二等卒(二等兵)から士官学校を経て将校となり、大尉にまで進級する。大尉で除隊、予備役となり、大陸に赴き、資源発掘の探検隊を組織、金脈を探し当てる(当初、のらくろをさらに少佐に昇進させるつもりだったが日中戦争下、軍からのクレームで、軍隊を舞台にし続けることができなくなり大尉で除隊させたとも、少佐までいくと前線にはあまり出ないので、動かしにくくなったためとも推察されている)。
連載期間が、満州事変の年にはじまり、太平洋戦争開戦の年に終わっただけに、軍国主義、立身出世主義、大陸渡航奨励の風潮が反映されているものの、完全に子供向けなのもあって、作品全体は明るくユーモアのあふれたものとなっている。
戦時中の4コマ漫画については、のらくろが満州から帰国し「銃後の産業戦士として加わる」決意表明をするところから始まり、戦時下における生活の知恵的な話や、貯蓄報国運動など戦争への協力を呼びかける内容などが多く描かれた。最終話はのらくろが再び召集され前線に向かうところで終わる。
戦後の続編の作品内容
のらくろは予備役大尉として再招集され、中隊長として新兵の教育に当たる。宿敵山猿軍との戦争がふたたびおこるが、互いに物資の窮乏と戦災が市街地近辺でも大きくなったため、市民のあいだに厭戦、反戦気分が高まったため、和平を結ぶこととなり、両軍の軍隊は解散、のらくろは元の野良犬として社会に放り出されることとなる。かつての軍隊仲間が新たな職に就き成功していく中、のらくろは放浪しながら様々な職業に挑戦するが、失敗や運の悪さからいずれも長続きしない。しかし、最終的に喫茶店の店主として自活できるようになり、かつて思いをよせていた女性(牝犬)おぎんちゃんと結婚して、「もう野良犬ではない」というシーンをもって物語は完結する。
ストーリーは戦前のものから連続しているが、戦後の続編はオールドファンを主読者層としており(掲載雑誌は、戦記雑誌の『丸』)戦前のように完全な子供向けではなくなっているうえ、価値観の変化、作者自身の年齢(戦後、続編の連載がはじまった時点で田河は還暦をひとつ越えていた)、また、戦前版より擬人化が進んでおり、若干キャラクターの色付けも変更されているところがあるため、テイストはやや戦前とちがうところがある。
以上の「本編」とは別に、「外伝」的な設定の作品が何作か執筆されており、のらくろが様々な職業についていたり、のらくろの息子や孫を主人公としたものもある(のらくろの息子に関しては、本編の最終単行本「のらくろ喫茶店」で、のらくろ自身が「作者のつくったフィクション」と語る場面がある)。
映像化
1933年に、横浜シネマ(現在のヨコシネ ディー アイ エー)でアニメーション映画の『のらくろ二等兵』が製作され、1934年には『のらくろ伍長』が製作されている。
1935年には、「瀬尾発声漫画研究所」主宰の瀬尾光世によるアニメーション映画『のらくろ二等兵』、『のらくろ一等兵』が映画撮影され公開。戦時下の1938年にも同じく瀬尾の手による、『のらくろ虎退治』(芸術映画社)が公開されている。当時としても少国民らに人気となり、シリーズ化された。時代的にまだカラーフィルムは完成しておらず、いずれも白黒映画(モノクロームムービー)である。
戦後にテレビ放送が盛んになると、連続アニメーションの番組がテレビ向けに量産されるようになったが、1970年10月5日 - 1971年3月29日には、エイケン(TCJ動画センター)によりテレビアニメーション『のらくろ』が放映。主人公のらくろの声は大山のぶ代が務め、カラー映像で放映された。また、1987年10月4日 - 1988年10月2日には、スタジオぴえろによりフジテレビ系列でテレビアニメーション『のらくろクン』が放映された。のらくろ(のら山くろ吉)の孫、のらくろクンを主人公としており、ギャグアニメーション色が強いものであった。のらくろクンの声優は坂本千夏、祖父のくろ吉役を八奈見乗児が務めた。のらくろの世界が人間界と別に存在するという設定になっており、人間界の木下家を間借りして「のらくろ探偵事務所」を開くという、『のらくろ捕物帳』を意識した設定になっている。
主要な設定など
原作に準じた設定で記述する。
登場キャラクター
猛犬聯隊
のらくろ(野良犬黒吉)
主人公。顎と手足以外は真っ黒で、大きい目が特徴。犬種は野良犬だけにおそらく雑種。「野良犬黒吉」(作者自身がこれが本名だと言っているが、のちに戸籍名が「のら山黒吉」ということになっている)を略して「のらくろ」と自称して猛犬聯隊に志願入営してきた。マイペースでそそっかしく短気なところもあるが、性格は明朗快活、ときに孤児であることを悲しむ顔を見せることもある。焼き鳥が好物で戦前版の軍隊時代からよく店に出入りしている(最終的に結婚した相手も焼き鳥屋の娘)。かなりの大食漢で、食べ物に関するエピソードも多い。蛙が大の苦手。
猛犬聯隊に入営当初は、やせっぽちで体力も度胸もなく、失敗ばかりし、重営倉入りなど懲罰を受けるほどであったが、やがて体も立派になっていき、次第に頓知を効かせたり、器用さや度胸のよさを発揮して聯隊の勝利に貢献、トントン拍子に出世する。自分の腕をモチーフに聯隊旗をデザインもした。
曹長で入学した士官学校で(帝国陸軍の少尉候補者制度に準拠)、怪獣を退治したために士官学校を早期卒業し、少尉に進級。その後は官舎に住む。大尉に進級した時に、少佐(第ニ大隊長)に進級したモール大尉のあとを継ぎ、自らがずっと所属してきた第五中隊の中隊長となる。最終的に「大」「日」「本」の三つの勲章を授与されたが、思うところあり退役。大陸に渡り、金脈をさがして探検隊を組織、金山を掘り当てて成功を収める。のちに大陸で再開したブル元連隊長の鉱山会社にはいる。
しかしのち(このあとからが戦後に書かれた続編)、テキサス大佐の指揮下で山猿軍に対し不利となっていた猛犬聯隊から予備役召集を受け、ブル大佐と共に軍隊に戻る。始めは予備役からの復帰将校として、のらくろを知らない部下はなめてかかるが、のらくろが力を見せ始めると、彼らも次第に一目置き、従うようになっていった。山猿との和平が成立し、猛犬聯隊が解散した後は、職を転々とした後、喫茶店で修行をして、自分の店を開業、軍隊務め時代からの行きつけで馴染みであったたい焼き屋(戦後は焼き鳥屋に鞍替えした)の娘のおぎんちゃんと結婚した。
ブル
太った白いブルドッグ。猛犬聯隊の聯隊長、大佐。威厳が漂うガンコ親父風の犬物で、時として感情に任せた行動に出ることがあるが、ひょうきんなところもあり、情が深い。陸軍が好きな一人息子がいる[注釈 4]。のらくろの力を認め、よく重要な任務を命じる。のらくろにとっては厳格な聯隊長であるとともに父親代わりともいえる存在。単行本版では、のらくろが退役するとき、自分が大切にしていた宝刀の「興亜丸」を餞別に贈った。聯隊長の職を退き予備役となってからは大陸にて鉱山会社の社長となったところ、偶然のらくろと再会した。その後、のらくろとともに猛犬聯隊に復帰。軍隊解散後はブル商事を興し社長に就任。のらくろの息子時代には一時期漫画連隊を率いていたことがある。
モール忠太
犬種はテリア。猛犬聯隊第二大隊第五中隊長、階級は大尉、のち、のらくろの大尉進級と同時に少佐に進級、第二大隊長となる。のらくろの直属の上官で、ブル聯隊長と同様に父親的存在でもある。海軍の好きな一人息子がいる。平時は温厚な性格だが、厳しい一面もあり、のらくろが曹長の時に軍人の魂でもある軍刀を紛失した時は、鉄拳制裁の上「お前なんか軍人を辞めてしまえ!」と厳しく叱責した。体格は痩せており、ブル聯隊長と対照的。猛犬聯隊解散後には、議会の議員の選挙に出馬し、次点繰り上げ当選で市議会議員となる。戦後版で、フルネームが判明。なお、テレビアニメ版は体毛色が薄茶色になっている。
デカ
黒い鼻の白い犬(犬種不明)。のらくろが軍曹時代に猛犬聯隊に二等兵として入営、のらくろの班に所属する。のんきで、頼りなさげなところもあるが、体が大きく、怪力の持ち主。入営当初は駆け足が苦手であったが、のらくろに負けない健脚を見せる迄になり、戦場でものらくろを助け、のらくろの右腕ともいえる存在になる。のらくろに負けず劣らずの大食漢で、たい焼きが大好物。のらくろと違い両親が健在の上、兄、姉、弟、姉との五人兄弟という正反対の家族境遇。故郷は山猿とも共生しているので、山猿にも友人がいる。豚軍との戦争の功により、“猛犬”勲章を授与され軍曹に進級。のらくろの退役後には一時期、飛行兵になっている。軍隊解散後はしばらく、旅館従業員などのらくろと行動、職業をともにしていたが、のちにプロレスラーとなり成功した。レスラーになったあとも何かとのらくろを助けている。軍隊では標準語だったが、一般社会に出てからは、軍隊言葉でなかったらお国言葉でしか話せないということで、九州弁、あるいは東北弁が入った話し方になっている。テレビアニメ版では最初からお国言葉でのらくろと同階級。
ハンブル
ブルドッグと別の犬種とのハーフで、半分ブルドッグに似ているので「ハンブル」である。士官学校で出会ったのち、のらくろの一番の親友となったが、『のらくろ伍長』時の「のらくろ突進隊」の回で、ブル大佐から斥候に行くように命令を受ける他の中隊の上等兵としてすでに一度登場している。その後は旅団司令部に配属されていたが、のらくろと一緒(ただしハンブルは階級が軍曹の段階)に士官学校に入学し、連載版では怪獣退治をのらくろと行った事で、のらくろと共に早期卒業を果たしている。その後、のらくろとともに少尉になって、同じ第五中隊に配属となる。官舎はのろくろの隣。ちょっとのんびり屋(拳銃で魚釣りをし、命中しても魚がとれないと嘆いている)だが、勇猛さや智謀ではのらくろに劣らず、将校になってからの進級はのらくろと同時。軍隊在籍中にのらくろに先立っておぎんちゃんに結婚を申し込んだが、ふられた。聨隊解散後は、探偵事務所を開く。「のらくろ捕物帳」ではのらくろを所員として雇った。
爆弾(バクダン)
のらくろの士官学校同期生のひとり(この単行本版における6匹の士官学校同期生設定は、連載版のほうにも引き継がれている。連載版の士官学校回での生徒は、のらくろとハンブルのみが名前のあるキャラクター)。どんぐり眼が特徴で垂れ耳、犬種はビーグルの様な顔付き。『のらくろ総攻撃』によれば、のらくろ、ハンブル、爆弾の3匹が第五中隊下の小隊長である。口が達者で、士官学校時代はのらくろと喧嘩している。のちに工兵としても活躍。士官学校同期の6匹はみな同時に大尉に進級し、それぞれ中隊長となる。戦後は不動産屋を始め、大通りに店を持った。
はちまき(鉢巻)
のらくろの士官学校同期生のひとり。立ち上がった耳の先端が折れ曲がった秋田犬の様な種類。よく頭に鉢巻状に手拭を巻いている(基本的に軍務関係のときはしていなかったが、豚京城を攻略したときや恐竜退治の時は一時的に着けている)。豚軍との戦争中に工兵部隊を引き連れ、河川に架橋した。『のらくろ自叙伝』によれば頭が良いらしい。のらくろやハンブルと一緒に出世する。戦後は聨隊解散後手先の器用さを活かすために板前の修業をし、後に料亭を開店した。
トンガリ
のらくろの士官学校同期生のひとり。耳が真っすぐとんがった日本犬、白い柴犬の様な種類。のらくろが伍長の時に、第三中隊に所属をしていた伍長として初登場し、剣道大会で勝ち進んで来た。決勝戦でのらくろと対戦し、蜂に刺されそうになったのらくろが、蜂から逃げながら討った手に敗北した。その後、単行本版では、のらくろ達と同時に士官学校に入学・卒業している。自ら発言することは少ないものの、頼れる親友でもある。戦後は生命保険の会社などいくつかのブローカーをしている。軍隊では標準語だったが、軍隊を辞てからは、関西弁が入った話し方になっている。
カメ(メガネ)
のらくろの士官学校同期生のひとり。『のらくろ小隊長』では活躍しており、6人の将校を集めた場面では出てくるが、後には影が若干薄くなってしまった。垂耳で顔に特徴がないため(ビーグル[12]容姿)階級章を見ないと他のモブキャラ的な犬たちと区別しにくい。戦後は聨隊解散後メガネをかけて名前(愛称)もメガネと改名(本名は、カメ)、アニメではデカとともにのらくろの戦友としてレギュラーキャラとなっており、「これは問題だ」を口癖にしていた。後に小学校の教師となった。
破片
小さな、ぶち模様のチン。のらくろが大尉時代に猛犬聯隊に二等兵として入営。入営検査で、身長は辛うじて合格域だったが、体重不足のために不合格となった。そこで、のらくろとデカの弁当を勝手に食べて体重を増やし、再検査を願い出て合格することができた。あわてんぼうでそそっかしいが、頓智がきくので「入営時ののらくろに似ている」とモールに言われている。"破片"は渾名で、破片のように小さい体格であったことから名付けられために最初は怒っていた。のらくろが退役するとき一等兵に進級した。単行本では『のらくろ武勇談』のみ登場。連載版では大尉にまで進級して偉くなりすぎたのらくろの後釜のような主人公的とも言いたくなる位置づけのキャラクターであるが、そのためか、のらくろが除隊してからは、戦後の続編も含め未登場。
那智
猛犬聯隊第三大隊第十一中隊長・大尉。『のらくろ総攻撃』で羊の国や豚の国を熊の国から守る猛犬守備隊の隊長として派遣(豚勝将軍からの依頼)されている。垂れ耳の白犬(ビーグル)。熊閣下にそそのかされた豚勝将軍が軍を率いて守備隊に夜襲を仕掛けたときは、難無く撃退した。後に豚勝将軍が再軍備をはじめたので、本国の猛犬聯隊本部へ援軍を要請した。
テキサス
猛犬士官学校生徒隊長兼教官。ブル聯隊長の従兄弟のブルドッグ。階級はブル大佐と同じく大佐。ブル大佐より尾が長く、目が小さく、額に皺がある。のらくろの士官学校同期生はのらくろ以外は軍曹だったので、単行本版ではのらくろも軍曹の軍装になるよう命じた。のちの小隊教練では曹長に戻し、小隊長の任務を命じている。連載版では上官として校長閣下(階級;中将)がいる(連載版では校長がのらくろとハンブルの早期卒業を認めたが、単行本では作者の田河水泡が漫画猛犬軍監督として少尉任官をつかさどっている)。教官としては優秀であるが、実戦は不慣れなため、山猿との戦いで現地視察無しの無謀な作戦を立案したために大敗し、予備役のブル予備大佐とのらくろ予備大尉に召集令が下ることになった。
師団長
中将。セントバーナード。ブル聯隊長の上官。名前は不明。体が大変大きい。作中、のらくろ以外ではあまり登場しない有色(非白色)のキャラクター。のらくろが一等兵時代に開かれた軍旗祭や、軍旗のデザイン制定の回以外はほとんど出てこない。
デブ
戦後の続編で登場。第五中隊所属ののらくろの部下。伍長。太っている。関西弁。怠け者で、演習でも戦闘でも「わて、ええとこのぼんぼんやで。そんな事はようやらんわ」などと言ったりして動こうとしない。戦後版の猛犬聯隊は兵、下士官がたるんでいるとの設定であるが、その代表のキャラクター。しかし、軍隊解散後は経団連の理事になり、のらくろにも手を貸しており、ブルより「あいつは軍隊じゃ役に立たなかったが、社会に出れば成功するんだな」といわれた。
よさぶろう(とび頭与三郎)
戦後版の猛犬聯隊に上等兵として在籍していた。猛犬聯隊解散後は、特技を生かしてとび職の頭をやっており、元上官ののらくろと再会したさいに、「特技を生かした職業につけばどうですか」とアドバイスをした。その後も何度かのらくろを助けている。
猛犬聯隊と戦う敵たち
山猿軍(山猿国)
猛犬聯隊の戦争は、山猿軍との戦いにはじまり、山猿軍との戦いで終わっている。いつも山猿軍が一方的に戦争を仕掛けているのだが最後の戦いで和平、両軍軍隊解散となるまで、一度も猛犬連隊に勝ったことはない。猛犬軍と違いみな軍服を着ている。
ゴリラ軍
山猿に頼まれて猛犬連隊を攻撃した。兵器や数では猛犬連隊に勝っていることも多いが、のらくろたちの活躍により、最後には敗れる。
チンパンジー軍
ブル大佐がデカ二等兵に研がせた日本刀を、チンパンジーが奪い、それをのらくろが取り戻しに行ったのだが、チンパンジーの大将に「欲しけりゃ力で取りに来いとブルへ言え」と言われ戦争になった。
河童軍
猛犬連隊が行軍中に流失している橋を架けなおそうとすると、河童が出てきて「なんだこんな安普請の橋、こわしちゃえ」と橋を壊し始めたので、デカ二等兵を川の中に潜らせて河童の様子を探りに行かせたが、逆に捕虜にされた為に、聯隊長直卒で猛犬聯隊が出動した。川を干す作戦に出られてあっさり敗北。河童軍のみトップは「大将」ではなく「大王」。
カエル軍
のらくろ小隊が、演習で塹壕を掘るところを勝手に見学しようとするカエルを、デカが「軍の機密だ。見ちゃいかん」と蹴とばしたので、カエルが隊長ののらくろに抗議しようとすると、のらくろはカエルが苦手で、デカ一等兵が代わりに対応、腕ずくで追い払ったので、戦争に発展した。
熊軍(熊の国)
猛犬軍の弾薬庫から武器弾薬を盗み出し、戦争になった。戦闘ではのらくろの持つ軍旗を奪ったが敗れた。その後、豊かな豚の国をうばおうとしたが、猛犬連隊の守備軍に追い出されたのち、植民地にしていた羊の国を独立させられて犬軍に敵意を抱いていた豚勝将軍を「豚の方が強いさ。戦闘を開始するなら、武器弾薬を提供するよ」とそそのかし、犬と豚との戦争を始めさせた。
豚軍(豚の国)
豚勝(トンカツ)将軍なるやや間のぬけた独裁的首長が支配している。国民は語尾に「ある」「よろし」をつけるしゃべり方をしている。隣国の熊にそそのかされて猛犬聯隊の守備隊を襲ったが守備隊に敗北。植民地にしていた羊の国を独立させられてしまう。その恨みから再び熊から武器弾薬の支援を受けて戦争準備をはじめたため、猛犬聯隊が海を渡って出動、戦争が始まった。大国ではあるが、全体的に国民はのんびりしていて士気は低く、また国民の多くが隣国と平和に暮らしたいと、独裁者の豚勝将軍を嫌っており、戦争がはじまると、猛犬軍へ協力したりしている[注釈 5]。なお、のらくろが上等兵の時、不寝番の当番で警備中に、猛犬聯隊旗を盗み出した二匹の豚を退治したことがある(その功績でのらくろは伍長に進級)。
その他、山羊の国などが出てくるが、これらは、犬が日本内地と朝鮮、豚は支那(中国漢民族)、熊はソ連(ロシア人)、羊は満州、山羊は蒙古を暗示させるもので、当時の国際情勢と日本の外交政策を反映している。また単行本では他にのらくろの口から、豚国を狙う狸の存在も言及されるが作中には実際に登場しない。但しあくまで「のらくろ」は創作であり、当時の実在の国、国際状況とは必ずしも合致していない。
のらくろ探検隊
大陸で金脈を探すためにのらくろと金剛が組織した5匹からなる探検隊。隊長はのらくろ。このメンバーは戦後の続編には登場しない。
金剛
パグに近い犬種の犬で半島出身。のらくろ同様、大陸で鉱物を探すための前準備をしており、のらくろと意気投合。親友になる。実直、ほがらか、穏健な頼れる性格。
包(ポー)
豚。食いしん坊でのんびり屋。
汗(カン)
山羊。空腹のため、大事な鉱物参考書を食べてしまったことがある。
蘭(ラン)
羊。食事係は楽でいいなとか不平不服を言って金剛と交代したが大変なことを知り反省した。
戦後の続編に登場する一般民
温泉旅館主人
「のらくろ放浪記」において、のらくろとデカがいっとき従業員として働いていた旅館の主人。のらくろを重宝するも、のらくろが探偵業に転職するのをこころよく見送った。
喫茶店マスター
のらくろが自らの喫茶店を持つ前に、働いていた喫茶店のマスター。失敗ばかりするのらくろを辛抱強く使った。
焼き鳥屋主人
のらくろの行きつけの焼き鳥屋「おぎんちゃん」の主人。おぎんちゃんの父。最初はたい焼き屋だった。
おぎんちゃん
のらくろの行きつけの焼き鳥屋の娘。のらくろのことを好きだったが、軍人は死ぬ可能性があるからとのらくろとの結婚を避け、いったん金持ちのところに嫁いだ。のちに、焼き鳥屋の娘はあわないと離縁になって実家に戻ってきたところ、喫茶店に勤めていたのらくろにプロポーズされて結婚する。
その他、ゲスト的登場人物
人も適宜登場する。警察官や荒間凄右衛門など。上記の通り作者の田河水泡自身も登場する。
その他、田河の他作品もゲストで登場している。
他の田河作品からのゲスト
チビちゃん
「目玉のチビちゃん」の主人公である冒険少年。単行本「のらくろ武勇談」で他の田河キャラと共に飛行機で大陸へ赴き、土古豚城陥落の提灯行列メンバーとなる。一緒に出るジャン公と名付けた垂れ耳の白い犬はジャン公二等卒としてのらくろが二等卒時代に一緒に演習に出ていた。
凸凹黒兵衛
田河の漫画「凸凹黒兵衛」の主人公であるオスのウサギで、「凸凹医院」の息子。両親が白ウサギであるのに対し、自分はのらくろ同様の黒い体。のらくろが大陸に渡るときはいつも白ちゃんとともに見送っている。のらくろが大陸へ行く前に住んでいたアパートでは医者になるために勉強中だった。「武勇談」では下記のキャラクターたちと「わらわし隊」を結成して、大陸で戦う猛犬聯隊を慰問で訪れ、白ちゃんとの漫才を披露した。
白ちゃん
黒兵衛のガールフレンドであるメスの白ウサギ。黒兵衛と共に登場。連載版では黒兵衛とふたりでアパートに住んでいた。
八ちゃん
田河の漫画「蛸の八ちゃん」の主人公であるタコ。海底に住んでいたが人間に興味を持ち、人間社会に来ると田河水泡から服をもらって人間になり生活をしている。原作では「大陸行」と「出発」に登場、単行本では「総攻撃」から「武勇談」「探検隊」で登場し、連隊の見送りや慰問を行った。「探検隊」によれば結婚したらしい。
小蛸たち
八ちゃんを追って人間社会にやってきて生活している。「総攻撃」から「武勇談」まで八ちゃんと共に慰問を行った。
スタコラサッチャン
「スタコラサッチャン」(後に「ラッキーサッチャン」→「サッチャンとモンチャン」)の主人公である女学生。「武勇談」で大陸にやって来て、提灯行列メンバーに加わる。
マメゾウ
「マメゾウ」の主人公であるオスの子ゾウ。「総攻撃」ではハンブルにバナナを贈り、「武勇談」で黒兵衛・白ちゃんらと共に大陸に来る。
フサキチ
マメゾウの父でバナナ屋を経営。「武勇談」でマメゾウの祖父・チイ子と共に飛行機で大陸に来た。
チイ子
マメゾウのガールフレンドであるメスの子ゾウ。「武勇談」で大陸に来る。
窓野雪夫
「窓野雪夫さん」(第1話のみ「窓野雪夫君」、後に「雪夫さんと七曜組)の主人公である漫画家。田河水泡の家に住み込んで漫画の勉強をし、後に大陸へ行く。「総攻撃」と「武勇談」に登場、「総攻撃」ではブル聯隊長と会話し、「武勇談」では土古豚城陥落の提灯行列の指揮を担当した。
七曜組
「雪夫さんと七曜組」から参加。大陸で雪夫と共に働く少女たちで、日代・月代・火の子・水江・木の子・お金ちゃん・土子ちゃんの7人からなる。「武勇談」で提灯行列の整理係を担当。
平気の平左衛門
「平気の平左衛門」の主人公にして、その次作「平気の平助」の準主人公。武士だが気合術が得意。「総攻撃」でデカに千人針を贈り、「武勇談」では平助と共に大陸に来る。
平気の平助
「平気の平助」の主人公。平左衛門の息子である少年剣士。「武勇談」に登場。
ご隠居
「愉快なご隠居」の主人公である白髭の老人。「武勇談」で他の田河キャラと共に大陸へ来る。
猛犬聯隊の編制
以下は『のらくろ総攻撃』の冒頭で紹介されたもの。師団長がいるのであるから、師団以下に他の連隊もあるはずで、実際そのような前提で話が進められているときも多いのだが、豚軍との戦争や、山猿軍との和平によっての軍隊解散など、のらくろの所属する猛犬聯隊が、猛犬軍のすべてであるかのように話が進んでいる場合も多い。
(師団長 - 中将(名称不明))
猛犬聯隊長 - ブル大佐
第一大隊長 - 阿蘇少佐
第一中隊長 - 剣大尉
第二中隊長 - 白馬(しろうま)大尉
第三中隊長 - 赤城大尉
第二大隊長 - 穂高少佐
第五中隊長 - モール大尉
第六中隊長 - 六甲大尉
第七中隊長 - ヤケ大尉
第三大隊長 - 金剛少佐
第九中隊長 - 八甲田大尉
第十中隊長 - 大雪(おおゆき)大尉
第十一中隊長 - 那智大尉
機関銃中隊長 - 癇癪(かんしゃく)大尉
歩兵砲隊長 - 轟大尉
(猛犬士官学校校長 - 中将(名称不明))
猛犬士官学校生徒隊長兼教官 - テキサス大佐
猛犬聯隊の主な歴史
以下も『のらくろ総攻撃』の冒頭で紹介されたものを基本としている。
猛犬聯隊創立(昭和6年)
山猿と戦争(昭和7年)
ゴリラと戦争(昭和8年)
軍旗制定(昭和8年)
象狩り(昭和9年)
チンパンジーと戦争(昭和10年)
かっぱ征伐(昭和10年)
蛙討伐(昭和11年)
熊退治(昭和12年)
豚軍と戦争(昭和12年)※単行本版
山猿軍が時々攻めて来る※連載版。守備隊の引き揚げ迄。
退役軍犬の最中に、連載版でも、単行本版(「のらくろ探検隊」)でも、豚軍の敗残兵が出没する。
書誌
戦前発表
雑誌連載版:少年倶楽部1931年(昭和6年)1月号 - 1941年(昭和16年)10月号
タイトルは連載開始時が「のらくろ二等卒」。以後、昇進とともにタイトルは、「のらくろ+階級」となり(ただし、兵制の改正にあわせて「のらくろ一等卒」時に「のらくろ一等兵」に変更されている)、「のらくろ大尉」まで「進級」するが、そこでのらくろは予備役となり、大陸開拓者となるので、その後のタイトルは「のらくろ大陸行」→「のらくろ出発」→「のらくろ大陸」→「のらくろ探検隊」と変わった。基本は1回(1月)につき4ページ1色刷りの読み切りだが、少年倶楽部の特別付録に掲載された場合は「のらくろ大事件」や「のらくろ士官学校」など独自のタイトルがつき、カラー、増ページのものとなっている。日中戦争時には一時連載が休止した。
この雑誌連載や雑誌付録版に関しては、1967年に1冊にまとめられた『のらくろ漫画全集』が講談社から刊行されている(部分的に横書きのところは左書きに変えられ、冒頭は1933年2月号付録の「のらくろ突進隊」となっている)。
その後1975年に、この『のらくろ漫画全集』が文庫形式で『のらくろ漫画集』(少年倶楽部文庫・全4巻)とタイトルを若干変えて出版された。この文庫版では、完成度の低さや全体の統一性に鑑みてと思われるが、いくつか収録されてないエピソードやページがある[注釈 6]。また、戦前の軍国主義、立身出世主義が強く反映しているため、差し替えられているセリフやキャラクター名、文庫ゆえに短くされているセリフが多数ある。
さらに、1988年に、講談社「Super文庫」の一冊として、文庫版『のらくろ漫画集』の4ページ分を1ページに縮小して収録した『のらくろ漫画大全』(文庫と銘打ってあるがサイズはB5版)が刊行された。
上記のものはすべて絶版であるが、1967年出版の『のらくろ漫画全集』は各地の公共図書館に所蔵されている事も多い。
単行本:全ページ3色刷り印刷(『のらくろ上等兵』のみ2色刷り。1部3色刷り)・布装・箱入りの上製本で、戦前に全10巻が刊行された。
のらくろ上等兵
のらくろ伍長
のらくろ軍曹
のらくろ曹長
のらくろ小隊長
のらくろ少尉
のらくろ総攻撃
のらくろ決死隊長
のらくろ武勇談
のらくろ探検隊
この10巻の単行本は、現在の漫画のように、雑誌連載のものをそのまま単行本化したものではなく、『のらくろ総攻撃』『のらくろ決死隊長』『のらくろ武勇談』は豚国との戦争(当時の満州事変・日中戦争をなぞったもの)の3部作ですべて書下ろし、あとの7巻は雑誌連載のエピソードを選んで(一部単行本オリジナル・エピソードもあり)あらためて単行本用に描きなおしたものである。ただし『のらくろ軍曹』までは、雑誌掲載の絵をそのまま転用、加筆したコマも多い。『のらくろ小隊長』は、雑誌付録「のらくろ士官学校の巻」にさらに同期生4匹を加え、大幅にエピソードを加えて新たに描きなおされたものであり、最終巻となった『のらくろ探検隊』は連載終了より先に出版され、かつ単行本の出版は最初からこれが最後と見込まれていたらしく、かなり連載版よりは簡略化されたものとなっている。「のらくろ中尉」と「のらくろ大尉」は、書下ろしの豚国との戦争3部作が出たためもあってか、雑誌連載だけで単行本化はされず、大尉への進級は『のらくろ武勇談』で描かれている。
この全10巻の単行本は1969年に講談社から当時の製本体裁で復刻刊行されたが、冒頭の「復刊の辞」でも断られているように紙質をよくしたため、戦前版よりかなり厚みがついている。
さらにこの単行本版は1984年に「のらくろカラー文庫」として文庫化もされている(シリーズの1~10)。ただし文庫版では、著者の写真や、冒頭の読者への挨拶文などは省かれている[14]。
なお、のらくろ漫画をリバイバル連載したものとしては、他に以下のものがある。
単行本
普通社刊
『のらくろ二等兵』
『のらくろ上等兵』
『のらくろ伍長勤務上等兵』
ろまん書房刊
『のらくろ新品伍長』
『のらくろ伍長』
『のらくろ軍曹』
「漫画常設館」(昭和6年8月、大日本雄辯會講談社発行。戦後は昭和44年12月講談社復刻発行)
『のらくろ二等兵』
(「少年倶楽部」昭和6年新年号~同年8月号分の加筆再録版)
連載漫画
「漫画劇場」(普通社発行)
『のらくろ伍長』昭和38年7月号~
「月刊のらくろ」(ろまん書房発行)
『のらくろ軍曹』昭和39年11月号~昭和40年新年号
『のらくろ曹長』昭和40年2月号
『長編・のらくろ曹長』昭和40年3月号~同年7月号
『長編・のらくろ士官候補生』昭和40年8月号~同年10月号
戦中発表
前述の通り、1944年3月 - 10月にかけて『戦時版よみうり』にて4コマ漫画が連載されていた。戦後、作者の田河自身がその存在に言及することがほぼ無かったため、存在は忘れられていた状態だったが、2020年 - 2025年にかけて『戦時版よみうり』のデジタル化作業が行われたのに合わせ、本作も再発掘された。2025年8月より読売新聞社の紙面データベース『ヨミダス』にて公開される予定で、戦時版をオプション契約した図書館等で閲覧可能になる。
戦後発表
単行本:以下の5巻が、戦前発表のもの同様、雑誌掲載(戦後は戦記月刊雑誌『丸』に連載)のエピソードをもとにして、3色刷り印刷、布装、箱入りの同じ装丁で単行本化され。また同じくそのカラー文庫版とが出版された。2012年には、最後の『のらくろ放浪記』『のらくろ捕物帳』『のらくろ喫茶店』の3冊が「のらくろ 幸福(しあわせ)3部作」として復刊ドットコムからカラー復刻版として出版された。『丸』に連載されたもの自体は(少年倶楽部連載時と同じく1回につき基本4ページ)2023年現在、出版されていない。
のらくろ召集令
のらくろ中隊長
のらくろ放浪記
のらくろ捕物帳
のらくろ喫茶店
のらくろの入営から依願免官までを文章とイラストで綴った『のらくろ自叙伝』は「丸」に昭和33年9月号から1年9か月間連載されたのち、昭和58年3月に光人社から出版された(前述のとおり、大人になったオールドファンを対象としており、少年倶楽部連載当時のエピソードとは異なるもの、付け加えられた話も多い[注釈 7])。のらくろによる語り口はかなり江戸っ子言葉が強いものになっている。
この単行本版は1984年に「のらくろカラー文庫」として文庫化もされている(シリーズの11~15)。[15]。
弟子による作品
田河水泡の弟子である山根青鬼・山根赤鬼兄弟は、1989年に田河水泡公認で『のらくろ』の漫画執筆権を譲り受け、田河の没後も下記作品を執筆した。
ドクターのらくろ奮戦記(1992年、経済調査会、金田武彦監修) 【山根赤鬼のみ執筆】
のらくろの川柳まんが(1998年、あゆみ出版)【山根赤鬼のみ執筆】
のらくろちゃん(2001年-2003年、漫画新聞、日本漫画学院)【山根赤鬼、山根青鬼で交代執筆】)
のらくろちゃん(4コマ版)(-2013年、ウェブサイトコミックターミナル(日本漫画学院)内のコンテンツ『コミタ漫画館』において不定期連載。【山根青鬼のみ執筆】
のらくろ履歴書
「のらくろカラー文庫」15巻「のらくろ喫茶店」(昭和60年刊行)の巻末156~158ページに『のらくろ履歴書』が掲載されている。昭和六年の入営から昭和五十六年の「のらくろ喫茶店」出版まで、時系列でまとめられている。
漫画作品の関連事項
のらくろをイメージキャラクターにする丸運のコンテナ
2023年12月9日、マンガフェスト・セビリアでののらくろのコスプレ。
幼年教育社の尋常小学一年に掲載された芳賀まさをの『チビクロ』は擬人化された犬の軍隊が舞台で小柄な黒犬が主人公というのらくろを模した内容と成っている。のらくろの息子のチビクロとは別物。
手塚治虫の「ユニコ」に登場する猫・チャオものらくろと同じ模様をしている。境遇も同じで箱に入れられて川に流されて捨てられている。手塚自身ものらくろを題材にパロディー漫画を描いている[16]。
漫画のコマで、歩行、走行などの動きを表現する手法として、後方に「土煙」(楕円の側方に太い棒のついたようなもの。棒の向きで動く方向を表し、速いものほどその個数が多い)が用いられた。これは、アメリカのコミックにすでに用いられていた表現である。後に手塚治虫がそれをヒントにヒョウタンツギにしたといわれるが、のらくろによるものか、アメリカからの直輸入かは不明。テレビアニメのエンディングでは、のらくろがこれを不思議に思ってつまみあげたり、七輪で焼いて食べた後に歩き出すと再び発生するというシュールなギャグが挿入された。
田河や「のらくろトリオ」以外の作品ではあるが、1988年に「くまの歩」によりマンガ『のらくろファミリー』が描かれている。のらくろの息子、黒太郎を主人公にしており内容は『のらくろ喫茶店』の続編と思われる設定だった。
作者ゆかりの東京都江東区森下文化センターに「田河水泡・のらくろ館」(運営:公益財団法人 江東区文化コミュニティ財団)があり、近くの高橋商店街は「高橋のらくろ~ド」と名付けられている[注釈 8]。開館5周年の2004年12月18日より、のらくろは江東区の文化親善大使に任命された。また、その親しみやすさから、運送会社「丸運」のイメージキャラクターにもなっている[注釈 9]。
物語中に当時の民俗的資料となる物語が散見される(初午祭りなど現在ではほとんど実施されていない行事が描かれている)。
のらくろの犬種としての名前は存在しないが、特徴から「四つ白」と呼ばれ、縁起が悪いとされていたそうである。その為に生まれてもすぐ捨てられていたという[17]。
作者が一時居住していた縁で東京都北区田端の田端小学校前に、のらくろをモチーフとしたデザインマンホールが1箇所設置されている。
のらくろのテーマ曲として、軍歌「勇敢なる水兵」のメロディーに歌詞を付けた「のらくろの歌」が作られた。この曲は、キングレコードから発売された児童劇レコードの劇中でも歌われた(詳細は勇敢なる水兵#替え歌を参照)。
映画版
のらくろ二等兵・教練の巻、演習の巻(1933年)横浜シネマ商会 [18]
のらくろ伍長 軍旗祭の巻(1934年)横浜シネマ商会 [19]
瀬尾光世の主催していた瀬尾発声漫画で制作されたモノクロ版のアニメ映画。
のらくろ一等兵(1935年)瀬尾発声漫画
のらくろ二等兵(1935年)瀬尾発声漫画
のらくろ虎退治(1938年)瀬尾発声漫画
参考:『五・一五事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
五・一五事件(ごいちごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きたクーデタ事件。
井上日召の影響を受けた海軍青年将校が陸軍士官学校生徒や愛郷塾生らと協力し、内閣総理大臣官邸・立憲政友会本部・日本銀行・警視庁などを襲撃し、第29代内閣総理大臣の犬養毅を暗殺した。
背景
大正時代、衆議院第一党の党首が内閣総理大臣になるという「憲政の常道」が確立したことで議会政治が根付き始めた。しかし、1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況により企業倒産が相次ぎ、失業者は増加、農村は貧困にあえぎ疲弊する一方で、大財閥などの富裕層は富を蓄積して格差が広がり社会不安が増大するが、それらの問題に対処できず富裕層を守るばかりと見られた政党政治が敵視されるようになり、政治の革新が強く求められるようになっていた。国家革新を求める者の中には過激化し、時の首相を暗殺しようとする動き(濱口首相遭難事件)が起こったり、昭和維新を標榜し、政党と財閥を倒し軍事政権の樹立を目指す陸軍将校らによるクーデター未遂事件(三月事件、十月事件)も相次ぐなど、世情は緊迫していった。
海軍でも、ロンドン海軍軍縮条約を締結した内閣に不満を抱いた一部の将校らは、クーデターによる国家改造計画を抱き始める。計画の中心人物だった海軍の藤井斉は、陸海軍共同での決起を目指して一部陸軍将校や民間の井上日召、西田税らと連携し計画を練っていた。しかし、主力と期待された皇道派の陸軍若手将校らは1931年12月成立の犬養内閣で皇道派の荒木貞夫が陸相となったところから必ずしも決起の必要はないと考える者も増え、陸軍将校(後に二・二六事件を起こすメンバーら)は時期尚早であるとして決裂、また、井上日召は、海軍将校らに軍務による制約があり憲兵の監視も受けるなど十分な活動ができないことに見切りをつけ、社会不安を引き起こすための要人テロを民間人側で起こすことに主眼を置く(血盟団事件)など、運動の方向性は分裂していく。藤井は折しも起こった第一次上海事変に出征、実行を目にしないまま戦死することになるが、藤井の同志らは計画実現を目指して行動を続ける。まず、2月11日の紀元節に宮中参内する政府要人らを襲撃、一挙に殺害して社会不安を起こし戒厳令を布告させ、それにより軍が実権を握り、昭和維新・国家改造につなげられることを期待した計画が立てられた。後に血盟団関係者が裁判で語ったところによれば、井上の提案により、このとき海軍軍人らが一部陸軍軍人とともに決起し陸軍側がやった形にみせかけて犬養首相を殺害し、そうすれば大川周明派の陸軍軍人らも座視できず合流、西田税・菅波三郎派の陸軍軍人も呼応させられるのではないかという計画であったという。しかし、海軍軍人らは各地に散らばっていて、また、憲兵らの監視もあり、その意志を確認することにも困難があり、連絡がうまく行かず、この計画は中止となる。
計画
血盟団事件の中心人物である井上日召は同事件後に出頭する直前、藤井斉の同志であった古賀清志海軍中尉と中村義雄海軍中尉に密かに会い、海軍軍人が後に続いて決起する事を確認しあったが、血盟団事件の発生を受けて憲兵隊や特別高等警察は警戒と監視を強め、同志の一人である浜勇治海軍大尉が身柄を拘束されるなど、活動は危機的状況に追い込まれつつあった。古賀と中村は大蔵栄一陸軍中尉や安藤輝三陸軍中尉など陸軍青年将校や陸軍士官学校本科生らと接触し共同での決起を呼びかける。時期尚早と考える青年将校らの反応は鈍かったが、後藤映範ら11名の士官候補生は決起参加に賛同し、計画は海軍将校と陸軍士官候補生とで実行されることとなった。また、古賀は霞ヶ浦の飛行学校から上京する際に、水戸郊外へ赴き農本主義者の橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として参加させる同意を得た。これは軍人だけの決起ではなく、苦しんでいる農民が止むに止まれず立ち上がったという大義名分を示すために必要なものであったと古賀は後に述べている。更に古賀は大川周明を訪れ、数回にわたり多額の資金と拳銃5丁、実弾約150発の提供を受けている。
3月31日、古賀と中村は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。この時の計画案では、襲撃対象は首相官邸、牧野内大臣官邸、立憲政友会、立憲民政党、日本工業倶楽部、華族会館の6か所で、襲撃後は東郷平八郎元帥による戒厳令政府を設立し、権藤成卿、荒木貞夫陸相らによる軍閥内閣を樹立して国家改造を行うというクーデター計画であった。この後、計画は二転三転し、5月13日、土浦の料亭・山水閣で最終の計画(第五次案)が決定した。具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始、
第一段として、海軍青年将校率いる第一組は総理大臣官邸、第二組は内大臣官邸、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行本店に爆弾を投げる。
第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃して決戦を挑み、その後憲兵隊本部に自首する。
これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、電気を止め東京を暗黒化する。
加えて血盟団の残党である川崎長光に依頼し、時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害する裏切者として、この機会に暗殺する。
というものであり、当初の計画にあった戒厳令政府の設立とその後の軍事政権による国家改造というクーデター構想は事実上放棄され、集団テロ計画に変わっている。5月15日が決行日とされたのは、陸軍士官候補生が満州視察旅行から戻るのが前日の14日であり、15日は日曜日のため休暇外出することが出来るし、また来日中のチャールズ・チャップリン歓迎会が首相官邸で行われる予定のため、首相が在邸するはずであるとの理由であった。決起のために用意した武器は、拳銃13丁、手榴弾21発、短刀15口程度であった。
村山格之海軍少尉が2月3日、駆逐艦薄に乗り組んで上海に出征し、4月16日上海に停泊中の海防艦出雲で田崎元武海軍大尉からブローニング拳銃1挺、弾丸50発を入手し、当時通信艇として上海-佐世保間を往復していた駆逐艦楡の乗組員大庭春雄少尉に頼んで佐世保に持ち帰らしめ、同月29日に自らこれを古賀に手渡す。
昭和天皇の弟である高松宮は、その日記に五・一五事件について「主として藤井(斉)少佐の系統で大川周明氏の流れを組む連中なり。田崎(元武)は新田目直寿のつづく共産系であった。新田目は本式の共産党員として活動しているそうな」とある。
経過
決行前日
5月14日、同志三上卓海軍中尉が、電報による連絡を受けて呉から上京し、黒岩勇海軍予備少尉と共に芝の水交社で古賀、中村と合流。三上はこの時点で初めて計画の詳細を知る。満州から帰校した士官候補生らにも翌日の決起が連絡された。古賀ら4名は最終準備を済ませると神楽坂の料亭で最後の酒宴を催した。実はこの日、先に身柄を拘束されていた同志の浜大尉が計画の一部を当局に白状したため、16日に古賀と中村を拘束することになっていた。
決起当日
5月15日朝、西田税の自宅に村中孝次陸軍中尉、栗原安秀陸軍中尉ら陸軍青年将校らが集まり、海軍が陸軍士官候補生を巻き込んで決起する事を危惧して制止策を検討していた。午前10時30分頃、陸軍士官学校生との連絡役であった池松武志・元陸軍士官学校本科生が坂元兼一・陸軍士官学校生と芝で接触し計画の詳細を確認、坂元は士官学校へ戻り同志に計画を伝えた。午後1時30分、菅波三郎陸軍中尉から呼び出された池松と坂元は、菅波から決起を思い止まるよう説得され、計画を教えるよう求められるが、池松らはこの日が決行日であることは明かさずに、説得を振り切って集合場所へ向かう。
三上と黒岩は旅館において話し合い、古賀らには無断で決起の趣旨を記した檄文を作成、謄写機で約1000枚のビラを刷った後、集合場所へ向かった。
首相官邸襲撃
5月15日当日は日曜日で、犬養首相は折から来日していたチャップリンとの宴会の予定変更を受け、終日官邸にいた。夫人の千代子は知人の結婚披露宴に参加するため帝国ホテルに出掛けており、息子で首相秘書官の犬養健も不在だった。訪問者はひいきにしていた料亭の女将、萱野長知、難波清人、往診に来た耳鼻科医の大野喜伊次の4人だけであった。
午後5時5分、三上中尉率いる第一組9人は靖国神社に集合した。三上中尉、黒岩予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春雄、石関栄の5人が表門組、山岸宏海軍中尉、村山海軍少尉、陸軍士官学校本科生の篠原市之助、野村三郎の4人を裏門組としてタクシー2台に分乗して首相官邸に向かった。タクシー車内において武器の分配と計画の最終確認が行われた。ところが、三上の拳銃が表門組車内に見当たらず、途中でタクシーを止め、裏門組から拳銃を受け取った。しかし、その拳銃も故障しており、全弾装填出来ない状態であった。官邸付近に到着すると、三上は拳銃を出して運転手を脅し、表門を突破して表玄関前に車を着けるよう指示した。恐怖した運転手が言われるまま車を進行させ玄関前に着けると、5名は降車し午後5時27分頃、正面玄関から官邸に入った。
対応に出た警視庁の警察官に対し、来客を装い首相に面会したい旨を告げると、警察官は一同を待たせて奥へ向かった。門前にいた守衛が不審に思って駆けつけて来ると、三上らは拳銃を取り出し発砲、警察官の後を追い、手当たり次第に部屋の扉を開けて首相を探した。表の洋館から首相の居室である日本館に続く扉を蹴破った三上らは、そこにいた警備の田中五郎巡査に首相の居場所を尋ねるが、答えなかったため銃撃した(田中巡査は5月26日に死亡する)。
護衛の巡査の一人から変事を知らされたとき、まわりの者は逃げるよう犬養に勧めたが、犬養は「いいや、逃げぬ」と答えたという。犬養の孫の道子は、さして逃げ場もなく醜態をさらしたくなかったのだろうとそのとき居合わせた母は考えたとして語っているが、犬養が海軍将校らの襲撃をどのように理解していたかについては人により意見が分かれる。襲撃側の表門組と裏門組は日本館内で合流、三上が日本館の食堂で犬養首相を発見した。三上は直ちに拳銃を首相に向け引き金を引いたが、一発しか装填されていなかった弾を既に撃ってしまっていたため発射されなかった。三上は首相の誘導で15畳敷の和室の客間に移動するが、途中、大声で全員に首相発見を知らせた。客間に入ると犬養首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで自分の考えを話し、説得しようとしたとみられる。この時、首相と食事をするために官邸に来ていた嫁の犬養仲子と孫の犬養康彦が姿を現したが、黒岩が女中に命じて立ち去らせた。一同起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている時、山岸が突然「問答無用、撃て、撃て」と大声で叫んだ。ちょうどその瞬間に遅れて客間に入って来た黒岩が山岸の声に応じて犬養首相の頭部左側を銃撃、次いで三上も頭部右側を銃撃し、犬養首相に深手を負わせた。すぐに山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出たが、そこに平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩と村山が一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去った。 官邸付近にいた警察官が、不審に思って近づいてくるとこれを拳銃で威嚇、警察官がひるんだ隙に逃走し、拾ったタクシー2台に分乗し桜田門の警視庁本部へ向かった。
三上らは犬養首相が即死したと思っていたが、首相はまだ息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と強い口調で語ったと言う。家族の連絡を受けて駆けつけた大野医師(帰りの車を待つためまだ邸内にいた)が応急処置を施し、事件後に帰宅した息子で首相秘書官の犬養健の問いかけにも応じていた。更に20人を越える医師団が駆け付け、輸血などの処置を受けたが、次第に衰弱、午後9時過ぎに容態が急変し、午後11時26分になって死亡した。
内大臣官邸襲撃
午後5時頃、第二組の古賀中尉以下5名は泉岳寺前にある小屋の二階に集合、計画を確認するとタクシーに乗車して三田の内大臣官邸に向かった。午後5時25分、第二組は内大臣官邸に到着。古賀が邸内に手榴弾を投げ込んで爆発させた。更に古賀は警備の警察官に向かって発砲し負傷させる。池松元陸軍士官学校本科生も手榴弾を投げ込んだが不発であった。古賀は警視庁での決戦を重視し、牧野内府殺害計画を放棄、内大臣官邸については威嚇に止める事として、再びタクシーに乗車した。途中、三上中尉らが準備したビラを街頭に散布し、警視庁に向かった。
襲撃時、牧野内府は在宅していたが、奥座敷にいたため騒ぎに気づかなかったという。古賀は憲兵隊に出頭した後に、牧野内府を殺害しようとしなかった事を同志らに問いただされ、謝罪した。
立憲政友会本部襲撃
午後4時30分頃、第三組の中村海軍中尉以下4人は新橋駅に集合、タクシーに乗って立憲政友会本部に向かった。午後5時30分頃、休日で人影のない政友会本部に到着すると、中村が玄関に向かって手榴弾を投げたが不発であったため、中島忠秋・陸軍士官学校本科生が続いて手榴弾を投擲、玄関の一部に損傷を与えた。一行はすぐに立ち去り、警視庁に向かった。
三菱銀行本店襲撃
第四組である奥田秀夫(明治大学予科生で血盟団の残党)は、単独で行動を開始、三菱銀行本店の偵察を行う。午後7時20分頃、他の組が行動を開始して市内が騒然とする中、奥田は三菱銀行本店に到着、裏庭に向かって手榴弾を投げ込むが、木に当たって路上で爆発し外壁等に損傷を与えただけだった。
その後、奥田は友人宅へ泊まり、翌日自宅に帰ったところを逮捕された。
警視庁襲撃
首相官邸を襲撃した三上中尉ら第一組の先発5名は「決戦」を挑むため警視庁本部前に到着した。しかし、三上らの予想に反して警視庁では何の警戒体制も取られておらず、拍子抜けした三上らは自首するためそのまま麹町の憲兵隊本部へ向かった。その後、政友会本部から転進して来た第三組が警視庁前に到着し手榴弾を投げたが、建物には届かず電柱を爆破したのみに終わる。この時、内大臣官邸から転進してきた第二組もほぼ同時に到着していたが、第三組はそれに気づかずそのまま走り去り、ビラを配布しつつ憲兵隊本部へ向かった。その後、第二組も手榴弾2発を投擲するが、いずれも不発であった。不審に思って近づいてきた警察官に古賀が拳銃を発砲、更に、警視庁の玄関に向かって池松らが発砲し、居合わせた警視庁書記1人と読売新聞記者1人を負傷させると、警視庁を立ち去って憲兵隊本部へ向かう。更にその後、第一組の残りの4名が警視庁前に到着、他の組が襲撃した後を見て、庁内に侵入、警視総監の居場所を尋ねるが、「不在」との回答を受けるとガラス扉を蹴破って立ち去り、憲兵隊本部へ向かった。
このように警視庁での「決戦」を目指しながらも、集合時間さえ決まっておらず、各組がバラバラに行動して連携も取れていなかったことにより、警視庁での「決戦」は失敗に終わった。
日本銀行襲撃
黒岩ら第一組4名は警視庁を襲撃した後、自首するために憲兵隊本部に到着したものの、成果に物足りなさを感じ日本銀行を襲撃することにした。再び車に乗って日本銀行正門前に到着した4名は手榴弾を投げて爆発させ、敷石等に損傷を与えたが、そのまま再び憲兵隊本部へ戻った。
変電所襲撃
別働隊の農民決死隊7名は、午後7時ごろに東京府下の変電所6ヶ所(尾久の東京変電所、鳩ヶ谷変電所、淀橋変電所、亀戸変電所、目白変電所、田端変電所)を襲い「帝都暗黒」を目論み、配電盤を破壊したり、配線を切断するなどの破壊活動を行なったが、単に変電所内設備の一部を破壊しただけに止まり、停電はなかった。
西田税宅襲撃
事件当日にも、西田税の自宅には陸軍青年将校らが集まり、海軍が陸軍士官候補生を巻き込んで決起する事を制止しようと検討していた。陸軍将校らが立ち去った後、血盟団員の川崎長光が西田宅を訪れ面会を求めた。西田は面識のある川崎を招き入れ、書斎で2人で会話していたところ、川崎が隙を見て突如拳銃を発射した。西田が反撃して格闘となるが、川崎は更に拳銃を連射し西田に瀕死の重傷を負わせ逃亡した。西田は病院に搬送され一命を取り留めた。
出頭・検挙
第一組・第二組・第三組の計18人は午後6時10分までにそれぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込み自首した。一方、警察では1万人を動員して徹夜で東京の警戒にあたった。
6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。
7月24日、愛郷塾の橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。
9月18日、拳銃を提供したとして紫山塾の本間憲一郎が検挙された。
11月5日、本間憲一郎の拳銃提供に関連して天行会の頭山秀三が検挙された。
裁判
事件に関与した海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。起訴までの間に、陸海軍と司法省の間で調整が図られ、陸海軍側は反乱罪を軍人以外にも適用する事を主張したが、司法省の反対により反乱罪の民間人への適用は見送られた。
海軍軍法会議
海軍軍法会議は1933年(昭和8年)5月17日、予審を終えて反乱罪・同予備罪で古賀海軍中尉、三上海軍中尉ら10名を起訴した[3]。三上らは公判において自分たちの主張を国民に訴えかけて広めることにより、公判を通じて国家改革を進める事を獄中で誓い合った。7月24日、公判が開始されたが、この際、被告人達には新調した軍服を着ることが特別に許可された。古賀中尉は自分の思想的背景について述べ、政党政治家や財閥などの特権階級を批判した。三上中尉は政治家、財閥、高級軍人らを徹底的に批判し、天皇親政による国家改革の必要を説くなど計3日間にわたって公判で自説を展開し注目を集めた。他の被告人も日本の現状を批判し、犬養首相には個人的恨みはないが国家改革のために仕方なく襲撃したことを述べた。公判は28回にわたって開かれ、9月11日、論告・求刑が行われた。山本検察官は古賀中尉を反乱罪の首魁とし、三上中尉、黒岩予備少尉も首謀者として3名に死刑を、中村中尉ら3名は同罪で無期禁錮、伊東少尉ら3名は反乱予備罪で禁錮6年、塚野大尉は同罪で禁錮3年とそれぞれ求刑した。弁護人は被告人らの愛国心を訴えて情状酌量を求めた。検察官の論告文は事件を暴挙として批判し軍人として政治に関与する事を戒める内容であったが、これは被告人らがロンドン海軍軍縮条約への批判を行っていたことから、海軍内の条約賛成派が主導したものであった。これに対し、条約反対派からは強い反発が起こり、両派の対立抗争が判決に影響を与えることとなった。11月9日、判決が言い渡され、古賀、三上に禁錮15年、黒岩に禁錮13年、中村ら3名に禁錮10年、伊東ら3名に禁錮2年、塚野に禁錮1年という、求刑に比べて遥かに軽い判決が下された。判決文では事件を重罪に当たるものとしながら、被告人らの憂国の志を褒め称える内容となっていた。
陸軍軍法会議
陸軍軍法会議は1933年(昭和8年)5月17日、反乱罪・同予備罪で元陸軍士官候補生11名を起訴し、7月25日、公判が開始された。公判において後藤映範は明治維新の勤皇志士について述べ、五・一五事件を桜田門外の変になぞらえた。篠原市之助は犬養首相には何の恨みもないが支配階級の象徴として仕方なく襲撃したことを述べた。他の被告人も東北の農村の窮状を涙ながらに訴えて政界・財界の腐敗を糾弾するなど自説を展開し、決起に至った動機が日本の革新であることを主張した。公判は8回開かれ、8月19日に論告・求刑が行われ、匂坂春平検察官は被告人全員に対し禁錮8年を刑した。反乱罪は主導者については全て死刑という重罪であったが、元陸軍士官候補生の被告人らは従属的立場で犯行に関わったのみであるという理由であった。この際、軍人である匂坂検察官が被告人の人間性について褒め称えたりするなど、被告人らに対する陸軍側の擁護的姿勢が見て取れる。9月19日、被告人ら全員に求刑より軽い禁錮4年の判決が下された。
東京地方裁判所
東京地方裁判所は1933年(昭和8年)5月11日、予審を終え民間人被告人20名を爆発物取締罰則違反などの罪で起訴し、9月26日に公判が開始され、23回の公判が開かれた。10月30日に論告・求刑が行われ、橘、長崎に無期懲役、大川ら4名に懲役15年、他の被告に12年から7年の懲役が求刑された。翌1934年(昭和9年)2月3日、判決が言い渡され、橘が無期懲役、大川ら3名が懲役15年、他の被告らが懲役12年から7年となった。首相を射殺した実行犯で首謀者の三上中尉ら軍人が禁錮15年であるのに対し、民間人参加者への判決は相対的に非常に重いものとなっている。
当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり[17]、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが後に起こる二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、実際二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によってうかがえる。
報道と世論
事件発生直後の午後5時30分頃から、ラジオの臨時ニュースで首相官邸襲撃が報じられ、事件を伝える新聞各社の号外が当日中に配られた。事件当夜、翌日の新聞に事件に関する記事の掲載を禁じることが陸軍から要請され、一度は掲載禁止が決定された。しかし既に号外等で報道されている状態で情報を遮断すれば、却って社会の不安を煽るという内務省からの意見を受けて報道が許可される。しかし、犯人の氏名や事件と軍との関係について等は報道が禁じられ、事件後1年間は内務省により報道管制が敷かれた。ただし、当日の読売新聞号外には既に「三上海軍中尉ら18名」と実名報道されている。翌日発行の東京朝日新聞号外では「主犯陸海軍人十七名」と報じているものの、氏名は伏せ字となっている。報道管制に対し、在京新聞各社は共同で内務省に抗議している。また信濃毎日新聞など地方紙では事件に関して軍部批判を掲載する新聞もあった。
事件の1年後、報道管制が解除され、1933年(昭和8年)5月17日には陸軍省、海軍省、司法省が合同で事件の概要を公表した。この中で犯人達の動機について、政党・財閥・特権階級の退廃を打破し国家の革新を目指した純粋なものである旨が強調され、新聞各紙によって報道された。荒木貞夫陸軍大臣は被告人らに同情的なコメントを発したが、この時点で事件から1年間が経過しており、国民の関心はあまり高くはなかった。一方で大角岑生海軍大臣は、もし首謀者達を無罪にすれば後の禍根になると述べ、山本孝治にその旨を論告に入れるよう提案し山本検察官も同意している。
首謀者達は自分たちの行動を桜田門外の変に見立てていたが、三上卓は朝鮮との関係が強く古賀清志は泉岳寺前の小屋に集結する、土足で屋敷内に侵攻している、東京憲兵隊本部に自首していることから、永井荷風は「彼らは忠臣蔵をも意識した行動をとっていた」と述べる(ただし、古賀清志は自著で「泉岳寺の小屋の二階に当日タクシーで運転手を脅し行った」と記すのみで赤穂義士や赤穂事件に全く言及していない)など赤穂浪士になぞらえたりする識者もいた。
しかし、事件の公判が開始され、純粋に国家について憂い日本の現状を打破するために決起したという法廷での被告人らの主張が報道されると、政党政治や財閥などに不満を抱いていた国民の間で、被告人らに同情しその行為を称揚する世論が盛り上がり、公判を通じて自らの主張を国民に訴えようとした三上中尉らの目論見に沿った展開となっていった。被告人らを称揚する劇が上演され、三上中尉が作詞した「青年日本の歌」が広く歌われ、被告人らを讃える「昭和維新行進曲」のレコードがヒットしたりするなど、被告人らを英雄的に扱う動きが社会現象となった。
公判中の8月には被告人らに対する減刑嘆願運動が全国で盛り上がり始め、大日本生産党、日本国家社会党などの政治団体が中心となって各地で減刑を求める集会が開かれたほか、左翼団体[26]とは別に多くの個人が嘆願書を出したり、青年団や企業が署名を集めたりした。しかし、民間人被告への減刑運動は大きな盛り上がりが見られないまま判決を迎えている。
「話せばわかる」
犬養が殺害される際に、犬養と元海軍中尉山岸宏との間で交わされた「話せばわかる」「問答無用、撃て!」というやり取りはよく知られているが、「話せばわかる」という言葉は犬養の最期の言葉というわけではない。前述の通り、犬養は銃弾を撃ち込まれたあとも意識があったとされている。なお、山岸は次のように回想している。
『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答いらぬ。撃て。撃て』と言ったんです。
また、元海軍中尉三上卓は裁判で次のように証言している。
食堂で首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手をあげ『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ』と申された。私が『靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか』というと何か話そうとされた。
その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て』と叫んだ。黒岩勇が飛び込んできて一発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかみに小さな穴があき血が流れるのを目撃した。
孫の犬養道子は著書『花々と星々と』にて、現場に居た母親の証言を引用する形で、祖父の発言を次のように述懐している。
『まあ、せくな』ゆっくりと、祖父は議会の野次を押さえる時と同じしぐさで手を振った。『撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう。ついて来い』 そして、日本間に誘導して、床の間を背に中央の卓を前に座り、煙草盆をひきよせると一本を手に取り、ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、『まあ靴でもぬげや、話を聞こう』
「黒幕」説
事件には裏で関与した「黒幕」がいたのではないかとする説がある。
犬養はロンドン軍縮会議の海軍力削減における統帥権干犯問題では海軍に協力して時の政府を攻撃、自身の内閣では皇道派の荒木貞夫を陸相にすえる等、軍に協力的な姿勢をとることが多かった。そのため、なぜ犬養が暗殺対象となったかについては疑問も多く、諸説ある。内閣を倒し戒厳令を施行させ軍人内閣を作り国家改造を果たす為にたまたま時の首相が犬養であったからとする説、犬養が満州進出に反対の立場をとり中国側との交渉に動いていたため植民地主義者の森恪などが策謀したのではないかとする説)、それ以前の2月11日段階での決起案で犬養を暗殺し陸軍のしわざに見せれば大川一派も含めた陸軍軍人らも決起するだろうと血盟団の井上日召が提案し採用されていたことからその案がそのまま踏襲されたとする説などである。
事件当夜、首相官邸に駆けつけた書記官長の森恪の不自然な行動から、森が事件に関与しているのではないかという噂は事件直後から政界に広まっていた。森は犬養首相襲撃の急報を受けて直ちに官邸に駆けつけたが直接書記官長室へ入って引き篭もったまま、重体の犬養首相を見舞おうともしなかった事を、森の元部下の植原悦二郎が証言している。外務大臣の芳澤謙吉は、事件当夜の官邸で森が「青年将校を大量に免官しようとしていた犬養首相が間違っている」という趣旨の発言をしたことから、陸軍と親しかった森が事件と関係していると疑った。また、新聞記者であった木舎幾三郎は事件当夜の官邸で森に会った際に笑顔で手を握られたため不審に思ったという。他にも、森が犬養首相の死を喜んでいるかのような態度であったことを感じたという証言が複数あり、森が事件の裏にいるのではないかという臆測が広まっていた。
孫の犬養道子も著作で「森が兵隊に殺させようとしている」という情報が、政友会幹事の久原房之助から親族を通じて伝えられたことを記録している。
作家の松本清張は、襲撃者達が犬養首相の動向を知っていたり、首相官邸の見取図を持っていた事などから、内報者がいた可能性を指摘している。犬養首相の暗殺で有名な事件だが、首相官邸・立憲政友会(政友会)本部・警視庁とともに、牧野伸顕内大臣も襲撃対象とみなされた。しかし「君側の奸」の筆頭格で、事前の計画でも犬養に続く第二の標的とみなされていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に犬養と中国問題で対立し、軍部と通じていた森恪などが裏で糸を引いていたのでは、と推測している。
だが、中谷武世は古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したもので、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたが、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ており、また中谷は大川と政党人との関係が希薄だったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している。
また森は大川と関係が悪かった北一輝との方が親しかったため、大川から森に計画が知らされたとは考えにくく、そもそも計画の主目的は犬養首相暗殺ではないことから、首相周辺の内通者の存在自体が必須でなかったという見解もある。
なお、右翼巨頭の頭山満は犬養の政治的盟友とされているが、その三男の頭山秀三が頭山満の右翼・任侠世界での後継者となっていて、奇怪なことに、犬養暗殺用の拳銃は武器持出しが困難な海軍将校のために秀三がそれと知った上で用立てており、さらに先立つ血盟団事件では、頭山満の腹心とでもいうべき本間憲一郎(頭山満の元秘書。当時は茨城の国家主義団体「紫山塾」の長で、頭山秀三の右翼団体「天行会」の理事であった)のつてとされるが、犬養の暗殺まで企てていた血盟団首領の井上日召を頭山満自身が匿っている。
この他、中国進出をめぐって対立しがちであった荒木陸相の責任を問う考えも強い。事件後に荒木陸相が見舞いに来たが、犬養の娘の操(芳澤外相の妻)に「あなたがやった」と言われ、荒木は、崩折れたように畳廊下に手をつき、長い間その背を震わせていたという。
後継首相の選定
事件で殺害された犬養首相の後継の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望にたいして後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、この時は西園寺は興津から上京し、牧野内大臣の勧めもあって、首相経験者の山本権兵衛・若槻禮次郎・清浦奎吾・高橋是清、陸海軍長老の東郷平八郎元帥海軍大将・上原勇作元帥陸軍大将、枢密院議長の倉富勇三郎などから意見を聴取した。
当時、誰を首相にするかについては様々な意見があった。
総裁を暗殺された政友会は事件後すぐに鈴木喜三郎を後継の総裁に選出し、政権担当の姿勢を示していた。
昭和天皇からは鈴木貫太郎侍従長を通じて後継内閣に関する希望が西園寺に告げられた。その趣旨は、首相は人格の立派な者、協力内閣か単独内閣かは問わない、ファッショに近いものは絶対に不可、といったものであった。
陸軍の内部では平沼騏一郎という声が強く、政友会でも森恪らはこれに同調していた[28]。また陸軍の革新派には荒木貞夫をかつぎだし軍人内閣を作れという要求もあった。いずれにせよ陸軍は政党内閣には反対であった。
結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために退役海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。斎藤は民政・政友両党の協力を要請、挙国一致内閣を組織する。西園寺はこれは一時の便法であり、事態が収まれば憲政の常道に戻すことを考えていたとされる。ともかくもここに8年間続いた憲政の常道の終了によって政権交代のある政治及び政党政治は崩壊し、第二次大戦後まで復活することはなかった。
GHQによる調査
1945年(昭和20年)12月14日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し五・一五事件をはじめとした、1932年(昭和7年)から1940年(昭和15年)までに発生したテロ事件に係る文書(警察記録、公判記録などいっさいの記録文書)の提出を求めた。提出命令に先立ち、同年12月6日までにA級戦犯容疑者の逮捕命令が出されていた。
関係者
実行者
首相官邸襲撃隊
三上卓 - 海軍中尉で「妙高」乗組。反乱罪で有罪(禁錮15年)。1938年(昭和13年)に出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与
山岸宏 - 海軍中尉。禁錮10年
村山格之 - 海軍少尉。禁錮10年
黒岩勇 - 海軍予備少尉。反乱罪で有罪(禁錮13年)
野村三郎 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
後藤映範 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
石関栄 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
八木春雄 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
内大臣官邸襲撃隊
古賀清志 - 海軍中尉。反乱罪で有罪(禁錮15年)。1938年(昭和13年)7月に古賀清志らは特赦で出獄し、山本五十六海軍次官と風見章内閣書記官長のところへ挨拶に行って、それぞれ千円(2018年現在の貨幣価値で500万円)ずつもらったという。
坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
菅勤 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
西川武敏 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
池松武志 - 元陸軍士官学校本科生。禁錮4年
立憲政友会本部襲撃隊
中村義雄 - 海軍中尉。禁錮10年
中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
金清豊 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
民間人
橘孝三郎 - 「愛郷塾」主宰。刑法犯(爆発物取締罰則違反、殺人及殺人未遂)で有罪(無期懲役)。1940年(昭和15年)に出所
大川周明 - 反乱罪で有罪(禁錮5年)
本間憲一郎 - 「柴山塾」主宰。禁錮4年
頭山秀三 - 玄洋社社員。頭山満の三男
反乱予備罪
伊東亀城 - 海軍少尉。禁錮2年、執行猶予5年
大庭春雄 - 海軍少尉。禁錮2年、執行猶予5年
林正義 - 海軍中尉。禁錮2年、執行猶予5年
塚野道雄 - 海軍大尉。禁錮1年、執行猶予2年
裁判関係
高須四郎 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議判士長・海軍大佐
西村琢磨 - 陸軍第一師団軍法会議判士長・陸軍砲兵中佐
神垣秀六 - 東京地方裁判所裁判長・判事
木内曽益 - 検事。東京地方裁判所に係属した被告事件の主任検事。
山本孝治 - 検察官
藤尾勝夫 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議判士
高頼治 - 法務官
大和田昇 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議判士
木阪義胤 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議判士
大野小郎 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議補充判士
清瀬一郎 - 弁護人
林逸郎 - 弁護人
花井忠 - 弁護人
浅水鉄男 - 海軍中尉、特別弁護人
参考:『満州国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E5%9B%BD
清が領有していた満洲(または、外満洲)と呼ばれる地域のうち、外満洲はアイグン条約及び北京条約でロシア帝国に割譲され、内満洲の旅順・大連は日露戦争までは旅順(港)大連(湾)租借に関する条約でロシアの、戦後はポーツマス条約と満洲善後条約により日本の租借地となっていた。さらに内満洲ではロシアにより東清鉄道の建設が開始され、義和団の乱の際には進駐して来たロシア帝国陸軍が鉄道附属地を中心に展開し、満洲を軍事占領した。朝鮮半島と満洲の権益をめぐる日露戦争の後、長春(寛城子)以北の北満洲にロシア陸軍が、以南の南満洲にロシアの権益を引き継いだ日本陸軍が南満洲鉄道附属地を中心に展開して半植民地の状態だった。
清朝は満洲族の故地満洲に当たる東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)には総督を置かず、奉天府と呼ばれる独自の行政制度を持っていたが、光緒33年(1907年)の東北改制を機に、他の省に合わせて東三省総督を設置し、管轄地域の軍政・民政の両方を統括させた。歴代の総督はいずれも袁世凱の派閥に属し、東三省は袁世凱の勢力圏であった。
1912年の清朝滅亡後は中華民国(北京政府)が清朝領土の継承を主張し、袁世凱の臨時大総統就任に伴ない、当時の東三省総督趙爾巽も奉天都督に任命され、東三省も中華民国の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂、内戦状態に陥り、満洲では、趙爾巽の部下だった張作霖が日本の後押しもあって台頭し、奉天軍閥を形成し、満洲を実効支配下に置くようになった。
また日本は1922年(大正11年)の支那ニ関スル九国条約第1条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、張作霖率いる奉天軍閥を満洲を実効支配する地方政権と見なして交渉相手とし、協定などを結んでいた。北伐により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたところを日本軍によって殺される(張作霖爆殺事件)と、後を継いだ息子の張学良は、1928年(昭和3年)12月29日に奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順(易幟)させた。実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に青天白日満地紅旗が掲げられる事になった。
1929年、日本は南京国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。
1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月1日の満洲国建国に至った。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。
満洲国皇帝・溥儀
満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。しかし後世においては、実質的に日本の関東軍が占領した日本の植民地であり、傀儡国家であったとする見解が一般的である。
満洲国は建国以降、日本、特に関東軍と南満洲鉄道の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた[8]。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとした。このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。
しかし1937年11月29日にイタリアが満洲国を承認。 続いて同年12月2日にフランコ体制下のスペイン、1938年5月12日にはドイツさらにタイ王国などの第二次世界大戦の日本の同盟国や友好国、枢軸陣営寄りの中立国や、エルサルバドルやポーランド、コスタリカなどの後の連合国の構成国も満洲国を承認した。さらに国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置した。またイギリスやアメリカ合衆国、フランスなど国交を樹立していなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。
第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を破った赤軍(ソ連陸軍)による関東軍への攻撃と、その後の日本の降伏により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の占領下となり、その後国共内戦で中国国民党と中国共産党が争奪戦を行い、最終的に1949年に建国された中華人民共和国の領土となっている。
日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」という修飾と共に呼称する。
国名
1932年(大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。この国号は、1934年(康徳元年)3月1日に溥儀が皇帝に即位しても変更されなかった。ただし、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用された[15]。帝制実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または「The Manchou Empire」と定められた。
歴史
満洲地方には、ツングース系、モンゴル系、扶余系など多くの国や民族が勃興し、あるいは漢民族王朝が一部を支配下に置いたり撤退したりしていた。土着民族として濊貊・粛慎・東胡・挹婁・夫余・勿吉・靺鞨・女真などが知られるが、その来歴や相互関係については不明な点が多い[17]。満洲南部から朝鮮半島の一部にかけては遼東郡、遼西郡が置かれるなど、中華王朝の支配下にあった時期が長い。土着民族による国家としては高句麗、渤海国、女真族(後の満州族)の金、後金(清)などが知られる。モンゴル系であり東胡の子孫とされる鮮卑族による前燕などや鮮卑の子孫とされる契丹族による遼が支配した事もある。チベット系の氐族の立てた前秦の支配が及んだ事もある。12世紀以降、金、元、明、清と、首都を中国本土に置く、あるいは移した王朝による支配が続いていた。 清朝の中国支配の後、満洲族の中国本土への移出が続き満洲の空洞化が始まった。当初清朝は漢人の移入によって空洞化を埋めるべく1644年(順治元年)より一連の遼東招民開墾政策を実施した[18]。この開墾策は1668年(康熙7年)に停止され、1740年(乾隆5年)には、満洲は後金創業の地として本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。旗人たちも首都北京に移住したため満洲の地は「ほぼ空白地」[19]と化していた。19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満洲地域には無数の移民が流入しはじめた。研究者[20]の試算によれば1851年に320万人の満洲人口は1900年には1239万人に増加した[19]。1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満洲地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。内モンゴル(奉天から哈爾濱・北安に至る満洲鉄道沿線の西側)については、蒙地と呼ばれモンゴルの行政区画である「旗」の地域があり、清朝の時代は封禁政策により牧地の開墾は禁止されていたが実際は各地域で開墾が行われ(蒙地開放)「県」がおかれていた。これらの地域は「旗」からは押租銀や蒙租を、「県」からは税を課され、蒙租は旗と国とが分配していた。また土地の所有権(業主権)は入植者になく永佃権や永租権が与えられ開放蒙地の所有権はモンゴル人王公・旗に帰属するとされていた[21]。これらの地域ではモンゴル人と入植した漢人との間でしばしば民族対立が生じており、1891年の金丹道暴動事件では内モンゴルのジョソト盟地域に入植した漢人の秘密結社が武装し現住モンゴル人に対して虐殺をおこなっていた。その後、秘密結社が葉志超により鎮圧されたが、入植した漢人に対して復讐事件が生じていた[注釈 5]。
清朝はアヘン戦争後の1843年に締結された虎門寨追加条約により領事裁判権を含む治外法権を受け入れることになった。
ロシア帝国もまたアロー戦争後の1858年に天津条約を締結して同等の権利を獲得することに成功し、1860年の北京条約でアムール川左岸および沿海州の領有権を確定させていた。
日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期の1823年、経世家の佐藤信淵が満洲領有を説き[23]、幕末の尊皇攘夷家の吉田松陰も似た主張をした[24]。明治維新後の日本は1871年(明治4年)の日清修好条規において清国と対等な国交条約を締結した。さらに日清戦争後の下関条約及び日清通商航海条約により、清国に対する領事裁判権を含めた治外法権を得た。
ロシアは日清戦争直後の三国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897年のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として1898年3月には旅順(港)大連(湾)租借に関する条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得した。日本は、すでに外満洲(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなした。1900年(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと日英同盟を結んだ。
日露両国は1904年から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は戦勝国となり、南樺太割譲、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招いた。駐日ポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている[25]。
清朝から中華民国へ
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1911年から1912年にかけての辛亥革命により満洲族による王朝は打倒され(駆除韃虜)、漢民族による共和政体中華民国が成立したが、清朝が領土としていた満洲・モンゴル・トルキスタン・チベットなど周辺地域の政情は不安定となり、1911年にモンゴルは独立を宣言、1913年にはチベット・モンゴル相互承認条約が締約されチベット・モンゴルは相互に独立承認を行った。
満洲は中華民国臨時大総統に就任した袁世凱が大きな影響力を持っていたため、東三省総督の体制、組織をそのまま引き継ぎ、中華民国の統治下に入っている。この中に、東三省総督の趙爾巽の下で、革命派の弾圧で功績を上げた張作霖もいた。しかし、袁世凱と孫文が対立し、中華民国が分裂、内戦状態に入ると、張作霖が台頭し、奉天軍閥を形成し、日本の後押しも得て、満洲を実効支配下に置いた。
日本は日露戦争後の1905年に日清協約(満洲善後条約の付属協約[26])、1909年には間島協約において日清間での権益・国境線問題について重要な取り決めをおこなっていたが、中華民国成立によりこれらを含む過去の条約の継承問題が発生していた。
満蒙問題と日中対立
第一次世界大戦に参戦した日本は1914年(大正3年)10月末から11月にかけイギリス軍とともに山東半島の膠州湾租借地を攻略占領し(青島の戦い)その権益処理として対華21カ条要求を行い、2条約13交換公文からなる取り決めを交わした。この中に南満洲及東部内蒙古に関する条約など、満蒙問題に関する重要な取り決めがなされ、満洲善後条約や満洲協約、北京議定書・日清追加通商航海条約などを含め日本の中国特殊権益が条約上固定された。日本と中華民国によるこれら条約の継続有効(日本)と破棄無効(中国)をめぐる争いが宣戦布告なき戦争[注釈 6]へ導くこととなる。
1917年(大正6年)、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。旧ロシア帝国の対外条約のすべてを無効とし継承を拒否したソビエトに対し、第一次世界大戦に参戦していた連合国は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分により干渉戦争を開始した(シベリア出兵)。日本はコルチャーク政権を支持しボリシェヴィキを攻撃したが、コルチャク政権内の分裂やアメリカを初めとする連合国の撤兵により失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、満蒙は「日本の生命線」と見なされるようになった。とくに1917年及び1919年のカラハン宣言は人民によりなされた共産主義政府であるソビエトが旧ロシア帝国の有していた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権など)の無効・放棄を宣言したものであり、孫文をはじめとした中華民国政府を急速に親ソビエト化させ、あるいは1920年には上海に社会共産党が設立され、のち1921年の中国共産党第一次全国代表大会につながった。
その間の1919年には満洲鉄道が2~3万人の組合員からなる満鉄消費組合を結成して日本人向けの市場を寡占しはじめて日本人小売商らの利益が害されたため、満洲商業会議所連合会は満鉄消費組合撤廃活動を1930年まで4次に渡って展開した。結果的には和解に至ったが、これらの活動が満洲輸入組合及び満洲輸入組合連合会の設立に繋がった[28]。
1928年7月19日、第一次国共合作により北伐を成功させた蔣介石の南京国民政府は一方的に日清通商航海条約の破棄を通告し、日本側はこれを拒否して継続を宣言したが、中国における在留日本人(朝鮮人含む)の安全や財産、及び条約上の特殊権益は重大な危機に晒されることになった。
満洲は清朝時代には「帝室の故郷」として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。清末の袁世凱は満洲の自勢力化をもくろむとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲における日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。また、日中両軍が衝突した1919年の寛城子事件(長春事件)では張作霖の関与が疑われたが日本政府は証拠をつかむことができなかった。
さらに中国内地では蔣介石率いる中国国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況のなか1920年3月には、外満洲のニコラエフスク(尼港)で赤軍によって日本軍守備隊の殲滅と居留民が虐殺される尼港事件が起き、満洲が赤化されていくことについての警戒感が強まった。1920年代後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって万里の長城以東の全満洲を中国国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。
満洲事変
1928年(昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民革命軍に敗れて満洲へ撤退した。田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断し、張作霖を殺害した(張作霖爆殺事件)。河本らは自ら実行したことを隠蔽する工作を事前におこなっていたものの、報道や宣伝から当初から関東軍主導説がほぼ公然の事実となり、張作霖の跡を継いだ張学良は日本の関与に抵抗し楊宇霆ら日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。
日本国内の問題として、世界恐慌や昭和恐慌と呼ばれる不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、1890年代以後、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。
満洲国建国とその経緯
柳条湖事件発生から4日後の1931年9月22日、関東軍の満蒙領有計画は陸軍首脳部の反対で実質的な独立国家案へと変更された[29]。参謀本部は石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。
翌1932年2月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。2月16日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。2月18日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。
東北行政委員会の旗
1932年3月1日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と命名された。国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。
その後、1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号は康徳に改元)。国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。
満洲国をめぐる国際関係
一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、中華民国は国際連盟にこの事件を提起し、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、イギリス人の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とするリットン調査団の派遣を決議した。1932年3月から6月まで日本、中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、同年10月2日に至って報告書を提出し、満洲の地域を「法律的には完全に支那の一部分なるも」とし、満洲国政権を「現在の政権は純粋且自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」とし、「満洲に於ける現政権の維持及承認も均しく不満足なるべし」と指摘した。その上で満洲地域自体には「本紛争の根底を成す事項に関し日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり」と表現し、中華民国の法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲に中国主権下の満洲国とは異なる自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を提案した。
同年9月15日に齋藤内閣のもとで政府として満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。
リットン報告書をもとに連盟理事会は「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」を作成し、1933年2月24日には国際連盟総会で同意確認の投票が行われた。この結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立した。日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。
隣国かつ仮想敵国でもあったソビエト連邦は、当時はまだ国際連盟未加盟であり、リットン調査団の満洲北部の調査活動に対しての便宜を与えなかっただけでなく[37]、建国後には満洲国と相互に領事館設置を承認するなど事実上の国交を有していたが、正式な国家承認については満洲事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。1935年にソ連は満洲国内に保有する北満鉄路を満洲国政府に売却した。国境に関しても日満-ソ連間に認識の相違があり、張鼓峰事件などの軍事衝突が起きている。
中華民国と満州国との関係、というより日本軍(関東軍)と中華民国との間は、その後も戦争状態が続くが、1933年5月の塘沽協定で一応の和平が成立する。しかし、満州国を中華民国は承認しないままであり、その後、中国領の非武装地帯への日本軍の特務機関による自治運動(実際は日本軍の侵略)が新たな紛争をうみ、日中戦争へとつながる。 1932年7月、満洲国内の郵政接受が断行されると、満洲と中国間の郵便は遮断されることとなった。その後、日本と中国の間で山海関の返還など情勢緩和が続くと、1934年4月、国際連盟が「満洲国の郵便物は事務的、技術的に取り扱うべし」との決議を行う。国民政府側も「通郵は文化機関」との判断から、満洲国不承認の原則と切り離して郵便協定の交渉につくことを受諾。同年12月までに協定が成立し、1935年1月からは普通郵便が、翌2月からは小包、為替の取り扱いが始まった。
モンゴル人民共和国との間にも国境に関して認識の相違があり、1939年にはノモンハン事件などの紛争が起きた。
1941年4月13日、日ソ間の領土領域の不可侵を約した日ソ中立条約締結に伴い、日本のモンゴル人民共和国への及びソ連の満洲国への領土保全と不可侵を約す共同声明が出された。
統治
日本軍占領後、各地で各種宗教・政治思想で結びついた団体による抗日ゲリラ闘争が起こった。一時は燎原の火のように満洲各地に広がり、関東軍にもとても終結するとは思えないような時期もあったといわれるが、関東軍は殲滅を繰り返し、1935年頃には治安は安定していった。その過程で平頂山事件のような事件も起きているが、このような事件は氷山の一角で、1932年9月には暫行懲治盗匪法を制定、この条文では清朝の法制にもあった臨陣格殺が定められ、軍司令官や高級警察官が匪賊を裁判なしで自己の判断で処刑する権限を認めていたため、関東軍ないし実質的に日本人が指導する現地警察はこれを濫用し、各地で匪賊とされた者らの殺戮が繰り返され、彼らの生首が見せしめに晒されることが横行していたとされる。とくに満鉄及びその付属地を警備する独立守備隊は質が悪く、現地住民らに恐れられたという。東京大学東洋文化研究所教授の安冨歩によれば、ゲリラ鎮圧は最終的に成功したものの、この成功が経済構造・社会構造の異なる中国本土でも同様にうまくいくと日本軍を誤信させ、後の日中戦争拡大に繋がっていったのではないかという。林博史によれば、この満洲でのやり方は、山下奉文中将を通じて、後の日中戦争や太平洋戦争におけるマレー・シンガポール占領期にも持ち込まれた。
第二次世界大戦へ
大東亜戦争(第二次世界大戦)に日本が開戦する直前の1941年12月4日、日本の大本営政府連絡会議は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止する一方、在満洲の連合国領事館(奉天に英米蘭、ハルビンに英米仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を行わさせた。また館員らは警察により軟禁され、1942年に運航された交換船で帰国した。
このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、第二次世界大戦の下で、満洲国軍が日本軍に協力してイギリスやアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどとと戦っている南方や太平洋、インド洋やオーストラリア方面に進出するということも無かった。
日本の敗色が濃くなった1944年の下半期に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にイギリス領インド帝国のイギリス軍基地内に展開したアメリカ軍のボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで低下した。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招くことになった。
また、戦争後期には大豆等の穀物を徴発、しかし、連合軍の通商破壊により船で日本本土や南方に輸送することが出来なくなり、満洲で飢餓が始まる中、満洲の鉄道沿線や朝鮮の釜山の港で大豆等が野晒しで腐っていったという。一方で、代わりに日本から入れる筈の衣類・繊維がやはり通商破壊のため、あるいは南方優先ということで満洲には入らず、1944年頃の冬には凍死する者、(成長とともに服が合わなくなるため)衣類無しでオンドルに頼って過ごさねばならない子供らが続出したとされる。
1945年2月11日にソ連、アメリカ、イギリスはヤルタ会談を開き、満洲を中華民国へ返還、北満鉄路・南満洲鉄道をソ連・中華民国の共同管理とし、大連をソビエト海軍の租借地とする見返りとして、ソ連が参戦することを満洲国政府に秘密裏に決定した。なおこの頃満洲国の駐日本大使館は、東京の麻布町から神奈川県箱根に疎開する。
1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本は1国で連合国との戦いを続けることになる。太平洋戦線では3月には硫黄島が、6月には沖縄がアメリカ軍の手に落ち、アメリカ軍やイギリス軍機による本土への攻撃が行われるなど、日本の敗戦は時間の問題となっていた。
ソ連の満洲侵攻
1945年6月、日本は終戦工作の一環として、満洲国の中立化を条件に未だ日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦に和平調停の斡旋を求めたが、既にソ連はヤルタ会談での秘密協定に基づき、ドイツ降伏から3か月以内の対日参戦を決定していたため、日本の提案を取り上げなかった。
8月8日、ソ連は1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、直後に対日参戦した。ソ連軍は満洲国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。ソ連は参戦にあたり、直前に駐ソ日本大使に対して宣戦布告したが、満洲国に対しては国家として承認していなかったため、外交的通告はなかった。満洲国は防衛法(1938年4月1日施行)を発動して戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。
関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者は8月10日、憲兵の護衛付き特別列車で脱出した。満洲国を防衛する日本の関東軍は、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかったため、国境付近で多くの部隊が全滅した。そのため、ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、主に満蒙開拓移民をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果彼らは武器も持たないまま置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。
一説にはとくに初期のソ連軍兵士らは囚人兵が主体だったともいわれ、軍紀が乱れ、戦時国際法の基礎教育もなく、兵士らによる日本人居留民に対する殺傷や強姦、略奪事件が多発した。また、それを怖れる日本人居留民や開拓団らの中には集団自決に奔るもの、あるいは逆に、ソ連軍将校らと取引し未婚の若い女性らを自ら犠牲に差出すものも続出したという。8月14日には葛根廟事件が起こっている[47][48]。戦後、このような形で強姦され妊娠し、博多港に引き揚げてきた女性のためにと厚生省引揚援護局が、二日市に診療所を設け、当時違法であったが中絶手術を行った。もっとも満洲でとくに初期にはソ連兵による強姦が多発したのは間違いないが、開拓移民を多く出した石川県の満蒙開拓団関係者の依頼で開拓団史をまとめた藤田繁の調査・検証によれば、この二日市での中絶のケースでは、ソ連兵による強姦と考えるにはその多くが妊娠時期が合わなかったという[50]。実際には暴行ばかりでなく、外地で生き延びるために、満洲や朝鮮等で現地の男性あるいは同じ引揚者の日本人男性らと一時的にでも夫婦同然となるような生活を送るしかなかった女性らが、郷里帰還を前にして中絶の選択を迫られた等の事情が考えられることを示唆している(参照:二日市保養所)。
滅亡
皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。
2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化市で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した[51]。退位詔書は20日に公布する予定だったが、実施できなかった。
8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場より飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。
その後の満洲地域
日本兵と日本人入植者
占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。その後ソ連軍により、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる(シベリア抑留)。
ソ連軍の侵攻を中国人や蒙古人の中には「解放」と捉える人もおり、ソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が一部で起こったため、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。中華民国政府に協力し反乱を起こしたことから日本人数千名が中国共産党の八路軍に虐殺された通化事件も発生した。
また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者たちは後々まで困窮した。
ソ連軍政下
満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では3か月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌1946年4月までソ連軍の軍政が続き、撫順市や長春市などには八路軍が進出して中国共産党が人民政府をつくっていた(東北問題)。この間、ソ連軍は、東ヨーロッパの場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰った。
中華民国
1946年5月にはソ連軍は撤退し、満洲は蔣介石率いる中華民国に移譲された。中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。しかしその後国共内戦が再開され、中華民国軍は、人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に移転することとなる。
中華人民共和国
1948年秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の中国人民解放軍が満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2・高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。
旧満洲国軍興安軍である東モンゴル自治政府自治軍はウランフによって人民解放軍に編入され、中国によるチベット併合などに投入された。
1949年に中国共産党は中華人民共和国を成立させ、満洲国領だった東モンゴル地域に新たに内モンゴル自治区を設置した。文化大革命の混乱の最中の時代には、「満洲国時代に教育を受けた多くのモンゴル人達」は「内モンゴル人民革命党に関係する者」として紅衛兵達により粛清された(内モンゴル人民革命党粛清事件)。ソ連軍から引き渡された満洲国関係者の多くは撫順戦犯管理所で中国共産党の思想改造を受けた。元満洲国皇帝の溥儀も同所に収監された。溥儀は毛沢東によって、中国共産党がロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその一家を虐殺したソ連より優越している証左とするために優待を受けた。溥儀は釈放後、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。
関東州 - 日露戦争後の満洲善後条約により、日本の中国からの租借地とされたが、満洲国建国後は満洲国領土の一部とされ、満洲国からの租借地とされた。
国籍法の不存在
満洲国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、満洲国籍を有する者の範囲は法令上明確にされず、慣習法により定まっているものとする学説が有力であった。国籍法が制定されなかった背景として、二重国籍を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、日本の統治下にあった朝鮮人を日本国民として扱っていた朝鮮政策との整合性の問題や、白系ロシア人の帰化問題などがあった。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。日本人が満洲国で出生した場合には国籍が不明確になるが、満洲国の特命全権大使にその旨を届け出て、大使が内地の本籍地にそれを回送することで日本人として内地の戸籍に登録された。
満洲国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされた。議会政治でも専制政治でもなく王道政治(哲人政治)を行うことが謳われた。「王道主義」の策定に当たって橘樸が大きな役割を果たした。共和制国家であるアメリカ合衆国をモデルとするとしていたものの、皇帝を国家元首とする立憲君主制国家である。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。
その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織(ロシアファシスト党)を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断交した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。
国家機関
満洲国政府は、国家元首として執政(後に皇帝)、諮詢機関として参議府、行政機関として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院、監察機関として監察院を置いた。
国務院には総務庁が設置され、官制上は首相の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した(総務庁中心主義)。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。
元首
元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀がつき、1937年(康徳4年)3月1日に公布された帝位継承法第一条により、溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた[69]。
帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している(なお、溥儀にはこの時点で実子がおらず、その後も死去するまで誕生していない)。
国民
満洲国は瓦解に至るまで国籍法を定めず、法的な国民の規定はなされなかった。結果、移民や官僚も含めた満洲居住の日本人は日本国籍を有したままであり、敗戦後、法的な障害無しに日本へ引き揚げる事が出来た。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は「満洲国人民」として扱われた。
行政
1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には軍政部大臣の張景恵が首相に就任した。
しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長官や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。
公務員の約半分が日本内地人で占められ、高い地位ほど日本人占有率が高かった。これらの日本内地人は日本国籍を有したままである。俸給、税率面でも日本人が優遇された。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。これに対し、石原莞爾は強く批難していた。しかし、台湾人(満洲国人)の謝介石は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど[70]、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。しかし、これも日本に従順である事が前提で、初代首相の鄭孝胥も関東軍を批判する発言を行ったことから、半ば解任の形で辞任に追い込まれている。
省長等の地方長官は建国当初は現地有力者が任命される事が多かったが、これも次第に日本人に置き換えられていった。
選挙・政党
憲法に相当する組織法には、一院制議会として立法院の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、満洲国協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、実質的に民意を汲み取る機関として期待された。
法制度
憲法に相当する組織法や人権保障法をはじめ、民法や刑法などの基本法典について、日本に倣った法制度が整備された。当時の日本法との相違としては、組織法において、各閣僚や合議体としての内閣ではなく、首相個人が皇帝の輔弼機関とされたこと、刑法における構成要件はほぼ同様であるが、法定刑が若干日本刑法より重く規定されていること、検察庁が裁判所から分離した独自の機関とされたことなどが挙げられる。
標準時
満洲国版図では日露中の支配域ごとに異なる標準時が用いられていたが、満洲国は東経120度を子午線とし、UTC+8を標準時として統一した。1937年1月1日に日本標準時に合わせてUTC+9に変更された[71]。変更後の子午線は東経135度となり、満洲国内を通っていない。
外交
外交関係
日本は建国宣言が出されて約半年後の1932年9月に承認し、エルサルバドルとコスタリカは1934年と早期に承認した。
バチカンは1934年2月20日に吉林駐在司教ガスペーを満洲国におけるローマ教皇庁代表に任命し、その旨を1934年4月18日にガスペーより外交部大臣・謝介石宛の書簡によって伝えた。カトリック教団は満洲事変以前から満洲で活動しており、北平大司教の管轄下に置かれていたが、満洲国成立により教区を中国から分離させ、吉林駐在司教ガスペーが管轄することを決定した。これを以って、事実上の満洲国承認と考えられており、当時は「宗教的承認」とも称されていた。但し、バチカンは満洲国に外交使節団を派遣することはなく、公館も開設されなかった。
エチオピア侵略で経済制裁を受け国際連盟を脱退したイタリアは、1937年12月に承認した。
ドイツは1936年に日本と防共協定を結んでいたが、一方で当初は満洲国承認は行わず、中独合作で中華民国とも結ばれていたこともあり極東情勢に不干渉の立場をとっていた。しかし防共協定が日独伊三国防共協定になった翌年の1938年2月に承認した。さらに、ドイツ側の希望により同年5月満独修好条約が締結された。
第二次世界大戦の勃発後にもフィンランドをはじめとする枢軸国、タイなどの日本の同盟国、クロアチア独立国やスペインなどの枢軸国の友好国、ドイツの占領下にあったデンマークなど、合計20か国が満洲国を承認した(1939年当時の世界の独立国は60か国ほどであった)。
外交活動
満洲国は上記の国のうち、日本と南京国民政府に常駐の大使を、ドイツとイタリアとタイに常駐の公使を置いていた[83]。1932年(昭和7年)、東京市麻布区桜田町50番地(現在の東京都港区元麻布3丁目4番33号)の後藤一蔵伯爵邸を27万円で取得し、翌1933年(昭和8年)、満洲国代表公署(後の大使館)が正式に移転した。ここは日本国と中華民国との間の平和条約の締結後に中華民国大使館となり、日中国交正常化後に中華人民共和国大使館に代わった[84][注釈 11]。
1941年(康徳8年)にはハンガリーやスペインとともに防共協定に加わっている。一方、日独伊三国同盟には加盟せず、第二次世界大戦においても連合国への宣戦布告は行っていない。しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すほか、軍の主導権を握る位置に日本人が多数送られていた上に、軍備の多くが日本から提供もしくは貸与されているなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には枢軸国の一部であったとも解釈できる[誰によって?]。
また、経済部大臣の韓雲階を団長にした「満洲帝国修好経済使節団」がイタリアやバチカン、ドイツやスペインなどの友好国を訪問し、教皇ピウス12世やベニート・ムッソリーニ、アドルフ・ヒトラーらと会談している。また1943年(康徳10年)に東京で開催された大東亜会議にも張景恵国務総理大臣が参加し、タイや自由インドなど各国の指導者と会談している[85]。
外交上の交渉接点があった諸国
満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。奉天とハルピンにはアメリカとイギリスの総領事館、ハルピンにはソ連とポーランドの総領事館など13の総領事館が設置されていた。
ソビエト連邦とは満洲国建国直後から事実上の国交があり、イタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した[81]。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内のチタとブラゴヴェシチェンスク[86]に満洲国の領事館設置を認めた[37]。さらに日ソ中立条約締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道讓渡協定により北満鉄道(東清鉄道から改称)を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉を行っていた。
また、満洲国を正式承認しなかったドミニカ共和国やエストニア、リトアニアなども満洲国と国書の交換を行っていた。このほか、バチカン(ローマ教皇庁)は、教皇使節(Apostolic delegate)を満洲国に派遣していた。
軍事
満洲国の国軍は、1932年(大同元年)4月15日公布の陸海軍条例(大同元年4月15日軍令第1号)をもって成立した。日満議定書によって日本軍(関東軍)の駐留を認めていた満洲国自体の性質上もあり、「関東軍との連携」を前提とし、「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、軍隊というより関東軍の後方支援部隊、準軍事組織や国境警備隊としての性格が強かった。
後年、太平洋戦争の激化を受けた関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、ソ連対日参戦の際は所轄上部機関より離反してソ連側へ投降・転向する部隊が続出し、関東軍の防衛戦略を破綻させた。
経済
政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、日中戦争(日華事変)による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を排するため、一業界につき一社を原則とした。
三井財閥や三菱財閥の財閥系企業をはじめとする多くの日本企業が進出したほか、国交樹立していたドイツやイタリアの企業であるテレフンケンやボッシュおよびフィアットも進出していた。なお、日産コンツェルンは1937年(康徳4年)に持株会社の日本産業を満洲に移転し、満洲重工業開発(満業)を設立している。さらに国交のないアメリカの大企業であるフォード・モーターやゼネラルモーターズおよびクライスラーやゼネラル・エレクトリック等、イギリスの香港上海銀行なども進出し、1941年7月に日英米関係が悪化するまで企業活動を続けた。
エネルギー
三菱とアメリカ合衆国のアソシエイテッド石油(Associated Oil)は1931年に合弁で三菱石油を設立し、三菱石油は1934年(昭和9年)2月、資本金500万円で大連に満洲石油を設立し、翌年1月に大連製油所が建設。1936年には、満州石油と渤海石油(Pohai Petroleum Company)が共同で天津の大華火油(Ta Hua Petrorium、1932年設立)を買収するなど事業を拡大し、1938年には子会社として蒙彊石油(もうきょうせきゆ)も設立した。
また日本帝国は、北樺太での石油試掘と同様に、ジャライノールや阜新で油脈の試掘を行っていたが、そのことは当時は軍事機密であった。滅亡後の1950年代に大慶油田が見つかるが、当時発見には至らなかった。
通貨
法定通貨は満洲中央銀行が発行した満洲国圓(圓、yuan)で、1圓=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、同じく法幣の意味をもつ満洲国の通貨は「国幣」と表記して区別した。中華民国の銀圓・法幣(及び現在の人民元、台湾元、香港元)と同様、漢字で「元」と表記したが、満洲国内の貨幣法では、日本国と同様に「圓」(円)の表記が採用された。
貨幣法(教令第25号)の公布は、満洲国が成立した同年(1932年)6月11日である。 金解禁が世界的な流れとなる中で日本では金解禁が行われていたが、通貨は中華民国と同じく銀本位制でスタートし、現大洋(袁世凱弗、孫文弗と呼ばれた銀元通貨)と等価とされたが、1935年11月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行した。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の朝鮮券も使用されていたが、1935年(昭和10年)11月4日に日本政府が「満洲国の国幣価値安定及幣制統一に関する件」を閣議決定したことにより、満洲国内で流通していた日本側の銀行券は回収され、国幣に統一された。
満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947年に中華民国中央銀行が発行した東北九省流通券(東北流通券)に交換され、流通停止となった。
満洲国建国以前の貨幣制度は、きわめて混乱していた。すなわち銅本位の鋳貨(制銭、銅元)および紙幣(官帖、銅元票)、銀本位の鋳貨(大洋銭、小洋銭、銀錠)および紙幣(大洋票、小洋票、過爐銀、私帖)があり、うち不換紙幣が少なくなかった。ほかに外国貨幣である円銀、墨銀、日本補助貨、日本銀行券、金票(朝鮮銀行券)、鈔票(横浜正金銀行発行の円銀を基礎とした兌換券)などが流通し、購買力は一定せず、流通範囲は一様でなかった。満洲国建国直後に満洲中央銀行が設立されるとともに旧紙幣の回収整理が開始され、1935年(康徳2年)8月末までにほとんどすべてが回収された。
こうして貨幣は国幣に統一され、鈔票の流通は関東州のみとなり、その額は小さく、金票は1935年(康徳2年)11月4日の満洲国幣対金円等値維持に関する日満両国政府による声明以来、金票から国幣に換えられることが増えて、満鉄、関東州内郵便局および満洲国関係の諸会社の国幣払実施とあいまって国幣の使用範囲は広がった。国幣は円単位で、純銀 23.91g の内容を有すると定められたが、本位貨幣が造られないためにいわば銀塊本位で、兌換の規定が無いために変則の制度であった。
貨幣は百圓、十圓、五圓、一圓、五角の紙幣、一角、五分、一分、五厘の鋳貨(硬貨)が発行され、紙幣は無制限法貨として通用された。紙幣は満洲中央銀行が発行し、正貨準備として発行額に対して3割以上の金銀塊、確実な外国通貨、外国銀行に対する金銀預金を、保証準備として公債証書、政府の発行または保証した手形、その他確実な証券または商業手形を保有すべきことが命じられた。後に鋳貨の代用として一角、五分の小額紙幣が発行された。
やがて軍の軍費要求はもとより私用同然の物資調達を安易にこれに頼ろうとする日本人官吏層の堕落等から、満洲中央銀行は実体としての正貨準備と関係なく様々な便法を駆使して紙幣を濫発、インフレを急速化させ、住民を困窮させていくことになる。もともと経済力では中国が日本より上回っていると見られていたこと、中国には英国からの経済支援があったこともあるが、日中戦争中に同様な現象が中国本土においても惹き起こされ、これは日本軍が勝っても日本側の法幣や軍票の値打ちは上がらないといわれる事態の一因となっている。
郵政事業
中華郵政が行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「満華通郵切手」が発行されていた。
同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手[95]も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、1935年の「皇帝訪日紀念」や1942年の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。
1944年の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。郵便貯金事業も行っており、1941年には「貯金切手」も発行している。
満洲国で最後の発行となった郵便切手は、1945年5月2日に発行された満洲国皇帝の訓民詔書10周年を記念する切手である。予定ではその後、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手が発行を計画されていたが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。だが第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。
アヘン栽培
日本は内地及び朝鮮を除いてアヘン(阿片)専売制と漸禁政策を採用しており、満洲地域でもアヘン栽培は実施されていた。名目上はモルヒネ原料としての薬事処方方原料の栽培だが、これらアヘン栽培が馬賊の資金源や関東軍の工作資金に流用され、上海などで売りさばかれた。
1932年(大同元年)に阿片法(大同元年11月30日教令第111號)が制定され、アヘンの吸食が禁止された。ただし未成年者以外のアヘン中毒者で治療上必要がある場合は、管轄警察署長の発給した証明書を携帯した上で政府の許可を受けた阿片小売人から購入することができた。
交通・通信
鉄道
日本の半官半民の国策会社・南満洲鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した東清鉄道南満洲支線を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。同社は満洲国内における鉄道経営を中心に、フラッグ・キャリアの満洲航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラストラクチャー整備も行った。
新京〜大連・旅順間を本線として各地に支線を延ばしていた。「超特急」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車「あじあ」の運行など、主に日本から導入された南満洲鉄道の車両の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。
一方、満洲国成立前から満鉄に対抗して中国資本の鉄道会社が満鉄と競合する鉄道路線の建設を進めていた。これらの鉄道会社は、満洲国成立後に公布された「鉄道法」に基づいて国有化され、満洲国有鉄道となった。しかし満洲国鉄による独自の鉄道運営は行われず、即日満鉄に運営が委託されて、実際には満洲国内のほぼすべての鉄道の運営を満鉄が担うことになった。新規に建設された鉄道路線、1935年にソビエト連邦との交渉の末に満洲国に売却された北満鉄路(東清鉄道)など私鉄の接収・買収路線も全て満洲国鉄に編入され、満鉄が委託経営を行っていた。特に新規路線は建設から満鉄に委託と、「国鉄」とは名ばかりで全てが満鉄にまかせきりの状況であった。この他にも満鉄は朝鮮半島の朝鮮総督府鉄道のうち、国境に近い路線の経営を委託されている。車両などは共通のものが広く使われていたが、運賃の計算などでは満鉄の路線(社線)と満洲国鉄の路線(国線)に区別が設けられていた。しかしこれも後に旅客規程上は区別がなくなり、事実上一体化した。
満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、沿線各駅一帯に広大な南満洲鉄道附属地(満鉄附属地)を抱えていた。満鉄附属地では満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄がこれらの行政を行っていた。首都新京特別市(現在の長春市)や奉天市(現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地だった。都市在住の日本人の多くは満鉄附属地に住み、日本企業も満鉄附属地を拠点として治外法権の特権を享受し続け、満洲国の自立を阻害する結果となったため、1937年に満鉄附属地の行政権は満洲国へ返還された。
満鉄・国鉄の他にも、領内には小さな私鉄がいくつも存在した。これらの中には国有化され、改修されて満洲国鉄の路線となったものや、満洲国鉄が並行する路線を敷設したために補償買収されてから廃止になったものもある。
1940年前後から、満鉄が請負の形で積極的にこれら私鉄の建設に携わるようになり、戦争末期の頃には相当数の路線が満鉄の手によって建設されるようになっていた。ただしその多くが竣工する前、竣工しても試運転をしただけの状態で満洲国崩壊に遭って建設中止となり、未成線になっている。
この他、首都・新京を始めとして奉天・哈爾濱など主要都市の市内には路面電車が敷設されていた。新京及び奉天では地下鉄建設計画もあったが、実現しなかった[96][97]。
航空
1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたフラッグ・キャリアの満洲航空が、新京飛行場を拠点に満洲国内と日本(朝鮮半島を含む)を結ぶ定期路線を運航していた。
中島AT-2やユンカースJu 86、ロッキード L-14 スーパーエレクトラなどの外国製旅客機の他にも、自社製の満洲航空MT-1や、ライセンス生産したフォッカー スーパーユニバーサルなどで満洲国内の主都市を結んだ他、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航することを目的とした系列会社である国際航空を設立した。
満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。
通信・放送
電話・ファックスなどの通信業務やラジオ放送業務も、1933年に設立された満洲電信電話(MTT)に統合された。放送局はハルビン、新京、瀋陽などに置かれており[98]、ロシア人を中心に作られたハルビン交響楽団、後に日本人を中心に作られた新京交響楽団による音楽演奏も毎週これら放送局だけでなく、日本租借地にある大連放送局へも中継された。聴取者から聴取料を徴収していたが、内地に先駆けて広告も扱っており、また海外へ外国語による放送も行われていた。
言語
「満語」と称された標準中国語と日本語が事実上の公用語として使用された。軍、官公庁においては日本語が第一公用語であり、ほとんどの教育機関で日本語が教授言語とされた。モンゴル語、ロシア語などを母語とする住民も存在した。また、簡易的な日本語として協和語もあった。1938年1月以降、中国語(満語)、日本語、モンゴル語(蒙古語)が「国語」と定められ授業で教えられた。
大本の教祖である出口王仁三郎は布教活動の一環としてエスペラントの普及活動も行っており、満洲国の建国に際し、信奉者である石原莞爾の協力を得てエスペラントを普及させる計画があったが実現しなかった。
教育
満洲国の教育の根本は、儒教であった[101]。教育行政は、中央教育行政機関は文教部であり、文教部大臣は教育、宗教、礼俗および国民思想に関する事項を掌理した。大臣の下には次長が置かれ、さらに部内は総務、学務および礼教の3司に分けられ、それぞれ司長が置かれた。総務司は秘書、文書、庶務および調査の4科に、学務司は総務、普通教育および専門教育の3科に、礼教司は社会教育および宗教の2科に分けられ、それぞれ教育行政を掌した。視学機関は、督学官が置かれた。地方教育行政は、各省では省公署教育庁が、特別市では市政公署教育科が、各県では県公署教育局が、それぞれ管内の教育行政を司った。
最高学府として国立大学の建国大学の他、大同学院、ハルピン学院などが設置された。
小学校は、修業年限は6年で、初級小学校4年+高級小学校2年とするのが本体であったが、初級小学校のみを設けることも認められた。教育科目は、初級小学校は修身、国語、算術、手工、図画、体操および唱歌であり、高等小学校は、初級小学校のそれのほかに歴史、地理および自然の3科目が加えられ、その地方の特状によっては日本語をも加えられた。後に、初級小学校は国民学校、高級小学校は国民優級学校にそれぞれ改称された。教科書は、建国以前に用いられていた三民主義教科書に代わってあらたに国定教科書が編纂された。僻地では、寺子屋ふうの「書房」がなおも初等教育機関として残されていた。
また、中国人の子弟を対象とした「公学堂」という小学校が、旅順、大連など満州各地に設置された[102]。公学堂は日本の植民地学校の中で中国人を外国人として扱った唯一の学校であり、関東州では1903年から、満州附属地では満鉄が1909年から直接運営したため、それぞれ独自の教則を持っていた[102]。満鉄における1923年以降の教育課程は、初等科4年、高等科2年で、満6歳以上の中国人に入学資格があり、科目は日本語が中心だった[102]。実際には公学堂で学ぶ日本人生徒も、小学校で学ぶ中国人生徒もあり、運動会などのスポーツ大会では合同で競った[103]。教員は内地の師範学校卒業生で小学校訓導経験者が派遣されたほか、現地採用の中国人助教諭がいた[102]。教員には佐藤慎一郎、菊池秋雄、渡部精元など、生徒には爵青、疑遅などがいる。
中学校は、初級および高級の2段階で、修業年限はそれぞれ3年で、併置されるのが原則で、初級中等には小学校修了者を入学させた。教科目は初級は国文、外国語、歴史、地理、自然科、生理衛生、図画、音楽、体育、工芸(農業、工業、家事の1科)および職業科目で、一定範囲の選択科目制度が認められ、高級は普通科、師範科、農科、工科、商科、家事科その他に分かれ、その教育は職業化されていた。
師範教育は、小学校教員は、省立師範学校および高級中学師範科で、養成された。省立師範学校は修業年限3年、初級中学校卒業者を入学させた。普通科目のほかに教育、心理その他を課し、最上級の生徒は付属小学校その他の小学校で教生として教育実習を行った。ほか実業教育機関として職業学校があった。
ただし、日本人のほとんどは、満鉄が管轄する付属地の日本人学校に通っていた。1937年の治外法権撤廃により付属地が消滅した後も、教育、神社、兵事に関する事項は日本の管轄に残され、日本人が通う学校は駐満全権大使が管轄し、日本国内に準じて運営された。この方針は日本人開拓団の学校にも適用され、日本人学校は満洲国の教育制度の外に置かれていた。
文化
映画
1928年に南満洲鉄道が広報部広報係映画班、通称「満鉄映画部」を設け、広報(プロパガンダ)用記録映画を製作していた。その後1937年に設立された国策映画会社である「満洲映画協会」が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。
漫画
田河水泡の当時の人気漫画「のらくろ」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜のため、大陸建設の夢のため、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。
序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、東洋は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった朝鮮生まれの犬、シナ生まれの豚、満洲生まれの羊、蒙古生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していたところの「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。
雑誌
新京の藝文社が1942年1月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満洲公論」に改題。
服装
多民族国家・満洲国では、各民族の衣装が混在していた。
一方、後任の張景恵は、「協和(会)服」と呼ばれる満洲国協和会の公式服を着用することが多かった。国民服に似たデザインと色だが、国民服より先に考案された。階層によって材質・デザインに違いがあったとされるが、上は国務総理大臣から下は一般学生まで、民族を問わず広く着用され、石原莞爾や甘粕正彦のような日本人の軍人・官僚・有力者も着用した。協和服には、飾緒のような金モールと、満洲国国旗と同じ色をした五色の房からなる儀礼章が付属した。ループタイのように首からかけて玉留めで締め、左胸に房をかける形で佩用する。慶事には房の赤と白、弔事には黒と白の部分を強調することで対応した。
なお、宮廷行事等では、日本の大礼服と酷似したものが用いられた。
スポーツ
1927年には同志社大学ラグビー部が遠征に来て8試合行った[106]。1928年1月に満州代表による日本遠征が行われ明治大学などと対戦し、同年には満州ラグビー協会が誕生し、日本の西部ラグビー協会(西日本担当、現在の関西ラグビーフットボール協会と九州ラグビーフットボール協会)の支部となった。
1932年に満洲国体育協会が設立された。満洲国の国技はサッカーであり[108]、満洲国蹴球協会やサッカー満洲国代表チームも結成されている。野球でも、日本の都市対抗野球大会に参加したチームがあり、日本プロ野球初の海外公式戦として、1940年に夏季リーグ戦を丸々使って満洲リーグ戦が行われている。
建国当初の満洲国ではオリンピックへの参加も計画されており、1932年5月21日に満洲国体育協会はロサンゼルスオリンピック(1932年7月開催)への選手派遣を同オリンピックの組織委員会に対して正式に申し込んでいるが、結局参加は出来なかった。ちなみに、派遣する選手としては陸上競技短距離走の劉長春や、中距離走の于希渭(謂)などが挙げられていた(ただし劉は満洲国代表としての出場を拒否し、中華民国代表として出場している)。
1936年に開催されたベルリンオリンピックへの参加も見送られたが、1940年に開催される予定であった東京オリンピックには選手団を送る予定であった。しかし、日中戦争の激化などを受けて同大会の開催が返上されたため、オリンピックに参加することはできなかった。なおその後、実質的な代替大会である東亜競技大会が開催されている。
音楽
満洲国へは多くの日本人音楽家が渡り、西洋音楽の啓蒙活動を行った。満洲国建国以前よりこの地には白系ロシア人を中心としたハルビン交響楽団が存在したが、これに加えて日本人を中心に新京交響楽団が結成され、両者は関東軍の後援を受けてコンサートや放送のための演奏を行った。1939年には「新満洲音楽の確立及び近代音楽の普及」を目的として新京音楽院が設立された。
園山民平は音楽教育や満洲民謡の収集・研究に尽力した他、満洲国国歌を作曲した。その他、指揮者の朝比奈隆、作曲家の太田忠、大木正夫、深井史郎、伊福部昭、紙恭輔などの音楽家が日本から短期間招かれ、例えば太田は「牡丹江組曲」、大木は交響詩「蒙古」、深井は交響組曲「大陸の歌」、伊福部は音詩「寒帯林」、紙は交響詩「ホロンバイル」を作曲した。
崔承喜は1940年代当時、世界的に有名な舞踏家であるが、当時の満洲、および中国各地を巡業していた。
国花
満洲国の国花は「蘭」とされることが多いが、「蘭」は「皇室の花(ローヤル・フラワー)」であり、日本における菊に相当するものであった。いわゆる「国花(ナショナル・フラワー)」は高粱であり、1933(大同2)年4月に決定されたとの記録がある。
現在
満洲国の消滅後は、満洲族も数ある周辺少数民族の一つと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内で排除されている(「満洲族」を「満族」と呼び、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。例外的に地名として満洲里[116]がその名をとどめている程度である。また、「中国共産党満洲省委員会」のように歴史的な事柄を記述する場合、満洲という言葉は変更されずに残されている。今日、満洲国の残像は歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にのみ存在する。
参考:『日満議定書』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%BA%80%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8
日満議定書(にちまんぎていしょ)は、1932年9月15日に大日本帝国と満洲国の間で調印された議定書(条約)である。
全権は、日本側が武藤信義陸軍大将(関東軍司令官)、満洲国側は鄭孝胥国務総理。満洲国首都新京の執政府において、両人が午前9時10分、署名・調印を完了した。
関東軍は前年9月18日に開始した軍事行動により、中華民国東北部の満洲全域を制圧(満州事変)。1932年3月1日に建国させた満洲国に対して、日本政府は、この議定書を以て国家の承認を行なった[1]。議定書では満洲国における日本軍の駐屯(第2条)が明記され、また附属文書(交換公文)において満洲国国防の関東軍・日本軍への委任[4]が取り決められた。
議定書による取り決め事項
議定書の調印によって、下記の事項が取り決められた。また同時に補足条約ともいえる書簡の交換も行っている。
議定書の内容
この議定書で交わされた約定は主に以下の3点である。
満洲国の承認
満洲での日本の既得権益の維持(関東州は租借地として引き続き日本が直接統治)
共同防衛の名目での関東軍駐屯の了承
交換書簡の内容
過去に交わされた下記の文書について、引き続き行使する事。
1.1932年3月10日に満洲国執政(愛新覚羅溥儀)から送付され、5月10日に関東軍司令官(本庄繁)から回答された書簡の件
具体的な内容としては、
満洲国の国防は関東軍に委託し、その経費は満洲国が負担する。
関東軍が国防上必要とする場合、既設の鉄道、港湾・水路、航空路の管理と新設の工事については、日本もしくは日本指定の機関に委託する。
関東軍が必要とする各種の施設について、極力援助を行う。
日本人を参与として登用する他、中央・地方の官僚にも日本人を登用するが、その人選は関東軍司令官の推薦とし、解職には関東軍司令官の同意が必要とする(参議の人数については両国協議のうえ増減する)。
の4点。
2.1932年8月7日に満洲国国務総理(鄭)と関東軍司令官(本庄)との間で交わされた、満洲国政府の鉄道、港湾・水路、航空路等の管理並びに二線路の敷設管理に関する協約とそれに基づく附属協定
3.1932年8月7日に満洲国国務総理(鄭)と関東軍司令官(本庄)との間で交わされた、航空会社(満洲航空)設立に関する協定
4.1932年9月9日に満洲国国務総理(鄭)と関東軍司令官(武藤)との間で交わされた、国防上必要な鉱業権の設定に関する協定
議定書全文(現代口語訳)
日本は、満洲国が住民の意思で成立した独立の国家である事を確認した。また満洲国は、これまで中華民国が諸外国と結んでいた条約・協定を可能な限り満洲国にも適用する事を宣言した。そのため日本政府と満洲国政府は、日満両国の「良い隣人」としての関係をより強め、お互いにその領土権を尊重し、東洋の平和を確保しようと、次のように協定する。
1. 満洲国は満洲国領域内で、将来日満両国間で個別の条約を締結しない限り、従来日本国と日本国民が中華民国との間で締結した条約・協定・その他の取り決めや公私の契約によって得ていた全ての権利利益を認め、これを尊重する。
2. 日本国と満洲国の一方の領土や治安に対する脅威は、同時にもう一方の平穏に対する脅威であるという事実を認識し、両国は共同で国家の防衛に当たるべきである事を約束する。このため、日本軍は満洲国内に駐屯する事とする。
本議定書は署名の日から効力を生じる。
本議定書は日本語文・中国語文で2通作成し、日本語文と中国語文とで解釈が異なる場合には、日本語文の文面で解釈することとする。
以上の証拠として次の名の者は、各本国政府から正当な委任を受けて、本議定書に署名調印する。
昭和7年9月15日すなわち大同元年9月15日新京においてこれを作成する。
日本国特命全権大使 武藤信義(印)
満州国国務総理 鄭孝胥(印)
ウィキソースに日満議定書の原文があります。
締結日の日満両国
満洲国執政溥儀は午後2時より午餐会を開き、満洲国側からは鄭や張景恵参議府議長ら35人が、日本側からは武藤や小磯国昭関東軍参謀長ら22人が列席し、武藤の音頭取りにより乾杯し、満洲国の悠久と溥儀の萬歳、両国の親善を祈念した。
日本国内でも各地で慶祝行事が開かれたほか、内田康哉外務大臣がラジオを通じて午後7時25分より、世界に向けて満洲国を承認したことなどを説明した。
参考:『国際連盟』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%A2%E7%8C%AE%E3%81%A8%E8%84%B1%E9%80%80%E3%81%BE%E3%81%A7
日本の貢献と脱退まで
(1938年(昭和13年)11月5日、天羽英二国際会議帝国事務局長が国際労働機関を含む関連機関への協力中止を国際連盟に通達したことを報じた官報)
大日本帝国(日本)は脱退まで常任理事国であり、国際連盟事務局次長には新渡戸稲造、杉村陽太郎が選出されるなど中核的役割を担っていた。国際連盟に大日本帝国が加入した内閣総理大臣は原敬(原内閣)であった。日本は、理事国として毎年分担金(1933年時点で60万円※現在価値で約60億円)[230] を拠出する必要があった。
柳条湖事件を契機に、大日本帝国が満洲全土を制圧すると(満洲事変)、清朝最後の皇帝・溥儀を執政にする満洲国を建国した。これに抗議する中華民国は連盟に提訴。連盟ではイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン(リットン卿)を団長とするリットン調査団を派遣する。リットンは「日本の満洲における“特殊権益”は認めたが、満洲事変は正当防衛には当たらず、日本軍は満鉄附属地域まで撤退した後、日本を含めた外国人顧問の指導下で自治政府を樹立するようにされるべきである」と報告書に記した。これが「リットン報告書」である。
1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟特別総会においてリットン報告が審議され、この報告書を元とした国際連盟特別総会報告書が採択され、表決の結果は賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム = 現タイ王国)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項および6項 についての条件が成立した。この表決および同意確認直後、席上で松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、立場を明確にして総会から退場した。
その後、同年3月27日、大日本帝国は正式に国際連盟に脱退を表明し、同時に脱退に関する詔書が発布された。なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年(昭和10年)3月27日となった。
脱退宣言ののちの猶予期間中、1935年まで大日本帝国は分担金を支払い続け、また正式脱退以降も国際労働機関(ILO)には1940年(昭和15年)まで加盟していた(ヴェルサイユ条約等では連盟と並列的な常設機関であった)。その他、アヘンの取締りなど国際警察活動への協力や、国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。
しかし、1938年(昭和13年)9月30日に国際連盟が「規約第16条の制裁発動」が可能であることを確認する決議をすることで、日本政府はこれらの「連盟諸機関に対する協力」の廃止も決定した。国際連盟から受任していた南洋諸島の委任統治については、1945年(昭和20年)9月2日に第二次世界大戦でポツダム宣言受諾により敗戦するまで、引き続き大日本帝国の行政下におかれた。
参考:『室戸台風』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E6%88%B8%E5%8F%B0%E9%A2%A8
室戸台風(むろとたいふう)は、1934年(昭和9年)9月21日に高知県室戸岬付近に上陸し、京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした台風。記録的な最低気圧・最大瞬間風速を観測し、高潮被害や強風による建物の倒壊被害によって約3,000人の死者・行方不明者を出した。枕崎台風(1945年)、伊勢湾台風(1959年)と並んで昭和の三大台風の一つに数えられる。
人的被害は、死者2,702人、不明334人、負傷者14,994人。家屋の全半壊および一部損壊92,740棟、床上・床下浸水401,157棟、船舶の沈没・流失・破損27,594隻という被害を出した。
9月21日午前5時頃に高知県室戸岬西方に上陸。上陸時の気圧として911.6ヘクトパスカル(684水銀柱ミリメートル)という数値を観測した。台風は淡路島付近を通過し、午前8時頃に阪神間に再上陸、京都付近を経て若狭湾に出た。台風進路右側では強風のため建造物の倒壊被害が大きく、特に木造校舎の倒壊により児童・教員など学校関係者に多くの犠牲者が出た。また、大阪湾岸では高潮により大きな被害が出た。京阪神地方における被害は「関西風水害」の名で呼ばれる。
因みに、室戸台風には台風番号が付けられていない。台風番号が導入されたのは1953年のことである。このため、室戸台風も含めてその前に発生した台風には台風番号が一部の例外を除いて存在しない。
観測記録
室戸岬上陸時の中心気圧は911.6ヘクトパスカルであり、日本本土に上陸した台風の中で観測史上最も上陸時の中心気圧が低い台風である。これは同緯度の台風における中心気圧の最低記録として、いまだに破られていない(ただし、台風の正式な統計は1951年(昭和26年)から開始されたため、この記録は参考記録扱いとされる)。
当時、中央気象台付属室戸測候所では最大瞬間風速60m/sを観測したのを最後に観測機が故障し、正確な数値は分かっていない。なお、建築基準法の「耐風性」は2000年(平成12年)に改正されるまで、速度圧の基準が高さ15mにおける室戸台風の推定最大瞬間風速約63m/sを基に定められていた。
参考:『26.国体明徴に関する声明案』国立公文書館 誕生日本国憲法 帝国憲法下の主張 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/tanjo_kenpo/contents/2_02.html
戦前、金森徳次郎は法制局長官として天皇機関説事件の対応に当たっていました。
天皇機関説とは、天皇を法人としての国家の最高機関として捉え、親政を行うのではなく、政府機関の助言をききながら統治する仕組みを大日本帝国憲法の正統な解釈と考えた学説で、従来は立憲主義的統治の根拠として通説的な立場にありました。
しかし、東京帝国大学名誉教授・美濃部達吉の憲法学説(「天皇機関説」)に対して、昭和10(1935)年2月18日の貴族院で貴族院議員菊池武夫が「国体に対する緩慢なる謀叛」であると非難し、政府に断固たる措置を求めたことから天皇機関説事件が始まります。国家主義団体や在郷軍人会、立憲政友会などが天皇機関説攻撃を繰り広げ、貴族院議員であった美濃部は議員を辞職することになりました。
政府は当初、学問上の問題は政治から切り離すという姿勢をとっていましたが、事態の収束のため軍部の要求を容れながら、8月3日と10月15日の2度にわたって「国体明徴こくたいめいちょうに関する声明」を出し事態の終息を図りました。
資料は、金森が自ら作成した第1次声明案に更に鉛筆書きで修正を加えたものです(8月3日に発表した内容)。資料一枚目の図は国のかたちを捉えて天皇と声明文にあった「万民一体」の関係を表現したものと考えられます。この言葉は軍部との折衝の過程で削除されますが、日本国憲法の国民統合の象徴としての天皇という考え方にも繋がるものでした。
『天皇機関説事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
天皇機関説事件(てんのうきかんせつじけん)とは、1935年(昭和10年)に起こった事件。天皇機関説という大日本帝国憲法の解釈学説が不敬であるとして攻撃された。天皇機関説は「統治権は法人である国家に属し、国の最高機関である天皇が国務大臣の輔弼を受けて行使する」として、軍事に関する天皇大権への内閣の権限を根拠付けた。内閣からの軍事への権限行使を排除したい皇道派の人々と 政権獲得を目論む野党立憲政友会が、当時の岡田内閣を倒閣させるための政争の具としたことで、天皇機関説攻撃で結びついた[1]。
経緯
1935年(昭和10年)2月18日、貴族院本会議の演説において、菊池武夫議員(男爵議員・陸軍中将・在郷軍人議員)が、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授・帝国学士院会員議員)の天皇機関説を国体に背く学説であるとして「緩慢なる謀叛であり、明らかなる叛逆になる」とし、美濃部を「学匪」「謀叛人」と非難、井田磐楠らと貴衆両院有志懇談会をつくり機関説排撃を決議した。
事件の評価
昭和天皇
昭和天皇はもともと天皇機関説に好意的で、むしろ議会の内外で行われる天皇機関説排撃の動きには不快感を抱いていた。天皇機関説を排撃するために在郷軍人会が出したパンフレットに目を通した昭和天皇は侍従武官長の本庄繁に「こうした在郷軍人の行いはやりすぎではないのか」と言ったという(4月24日)。 また5月16日には天皇機関説排撃の勢いが、天皇の信頼する一木喜徳郎枢密院議長に及ぶ可能性を心配した発言をしたり、5月22日には海軍の出光武官に「軍部が自分の意に従わずじて、天皇主権説を唱えているのは、矛盾ではないか?」という指摘をしている。
評価
天皇機関説事件は当時の通説だった美濃部説が暴力によって駆逐され事実上の憲法改正が行われた「合法無血クーデーター」とも言われる。これを久野収と鶴見俊輔は「顕教による密教討伐」と呼んだ。 「国民全体には天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員したうえで、国政を運営する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用する」という明治憲法体制下の「国体」は天皇の絶対主権という顕教を信じる大衆に破壊され、「下からはじまった超国家運動の衝撃」は2・26事件で頂点に達することになる。
戦後の天皇機関説
第二次世界大戦後、ポツダム宣言に基づく改正憲法の気運が高まる中、明治憲法を支持する美濃部は枢密院にて現行の憲法を天皇機関説解釈に戻せば議会制民主主義は復活できると新しい憲法に断固反対した。政府、日本自由党、日本社会党の憲法草案は、すべて天皇機関説に基づいて構成されたものであった。しかし、天皇を最高機関とせず国民主権原理に基づく日本国憲法が成立するに至り、天皇機関説は解釈学説としての使命を終えた。
参考:『二・二六事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター事件。
皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、昭和天皇は激怒し、最終的に青年将校は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。
概要
昭和初期から、陸軍では統制派と皇道派の思想が対立し、また、海軍では艦隊派と条約派が対立していた。統制派の中心人物であった永田鉄山らは、1926年(大正15年/昭和元年)には第1次若槻内閣下で、諸国の国家総動員法の研究を行っていた永田は、当時陸軍歩兵中佐であった。後に首相となる東條英機も統制派である。
一方、その後の犬養内閣は、荒木貞夫陸軍大将兼陸軍大臣や教育総監真崎甚三郎陸軍大将、陸軍軍人兼貴族院議員の菊池武夫を中心とする、ソビエト連邦との対立を志向する皇道派を優遇した。皇道派の青年将校(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)のうちには、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えている元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し諸々の政治問題が解決すると考え、「昭和維新、尊皇斬奸」などの標語を掲げる者もあった。
しかし、満洲事変に続く五・一五事件ののち、斎藤内閣は青年将校らの運動を「脅しが効く存在」として暗に利用する一方、官僚的・立法的な手続により軍拡と総力戦を目指す統制派(ソ連攻撃を回避する南進政策)を優遇した。行政においても、1934年には司法省がナチス法を喧伝しはじめ[4]、帝国弁護士会がワシントン海軍軍縮条約脱退支持の声明を行い、陸軍大臣には統制派の林銑十郎陸軍大将が就任し、皇道派を排除しはじめた。1935年7月、皇道派の重鎮である真崎が辞職勧告を受けるに至っては、陸軍省内で陸軍中佐相沢三郎による「相沢事件」が発生し、当時は陸軍軍務局長となっていた統制派主導者の永田鉄山が死亡した。岡田内閣や林ら陸軍首脳らはこれに対し、皇道派将校が多く所属する第一師団の満州派遣を決定する。
皇道派の青年将校たちは、その満州派遣の前、1936年(昭和11年)2月26日未明、部下の下士官兵1483名を引き連れて決起した。決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。元首相兼海軍軍人斎藤実は殺害されたが後継の岡田啓介首相は無傷であった。
さらに将校らは、林銑十郎ら陸軍首脳を通じ、昭和天皇に「昭和維新の実現」を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。自ら「近衛師団を率いて鎮圧するも辞さず」との意向を示す。これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「反乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。
叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの考えが斟酌されることはなく廣田内閣の陸軍大臣寺内寿一の下、一審制裁判により、事件の首謀者ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間思想家の北一輝らが銃殺刑に処された。これをもってクーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃された。
参考:『2・26事件とは? 日本を揺るがした陸軍将校のクーデター』NHKアーカイブス戦争を伝えるミュージアム https://www.nhk.or.jp/archives/sensou/special/warmuseum/11/
参考:『【二・二六事件】陸軍将校によるクーデター事件 地形図から見てみよう』日曜アカデミー(youtubeチャンネル) https://youtu.be/jkxGShh1Ae8?si=WIwTFmbTQi7KLN_N
参考:『二・二六事件 「兵に告ぐ」』放送年度:1936年度 https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009060037_00000
参考:『西安事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
西安事件(せいあんじけん)は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国陝西省長安県(現:西安市)で起きた、張学良・楊虎城らによって蔣介石国民政府軍事委員会(中国語版)委員長が拉致・監禁された事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細は未だ不明だが、この事件を機に第一次国共内戦が終了し、第二次国共合作が成立した。
参考:『1936年ベルリンオリンピック』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/1936%E5%B9%B4%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF
1936年ベルリンオリンピック(1936ねんベルリンオリンピック)は、1936年8月1日から8月16日まで、ドイツのベルリンで行われた第11回オリンピック競技大会。ベルリン1936(Berlin 1936)と呼称される。
概要
開催決定
ベルリンは1916年のオリンピック開催都市として一度は開催が予定されていたが、第一次世界大戦によって中止された。さらにドイツは第一次世界大戦に敗北し、国土が荒廃し経済危機に陥ることとなった。
しかし、1931年にフランスのパリで行われた第11回夏季オリンピックの開催地投票においてベルリンがスペインのバルセロナを43対16で破って再び開催地の地位を獲得したことで、開催に向けての準備が進められた(夏季五輪は開催が取りやめとなった場合でも開催地に選択されたことが「みなし回次」として残るため、今回のベルリンでの開催決定は公式上は2度目として形式的な記録に残る)。
「ヒトラーのオリンピック」
その翌年の1932年11月ドイツ国会選挙の後に首相に任命されドイツの政権を獲得し、反ユダヤ主義政策を打ち出し同国の国民からの支持を背景に当時隆盛を誇っていたアドルフ・ヒトラーは、当初オリンピックを「ユダヤ人の祭典」であるとしてベルリン開催に難色を示した。反ユダヤ・反フリーメイソンのヒトラーにとってオリンピックとは「ユダヤとフリーメイソンによる発明」とされていた。
しかし、側近から「大きなプロパガンダ効果が期待できる」との説得を受けて、開催することに同意した。開会式ではプロパガンダの一環として第一回マラソン優勝者のスピリドン・ルイスが招待されたりもしている。
ヒトラーがオリンピックの開催を決めた後は、オリンピックを「アーリア民族の優秀性と自分自身の権力を世界中に見せつける絶好の機会」と位置づけ、ベルリンだけでなくドイツが国の総力を挙げて開催準備を進め、短期間でオリンピック・スタジアム(オリンピアシュタディオン)や選手村、空港や道路、鉄道やホテル、さらに当時まだ実験段階であったテレビ中継などの受け入れ態勢の整備が進められた。
初の聖火リレー
この大会において、プロパガンダ効果を高めることを目的に古代オリンピックの発祥地であるギリシャのオリンピアで聖火を採火し、松明で開会式のオリンピアシュタディオンまで運ぶ「聖火リレー」が初めて実施された。これは彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想に適ったものでもあった。
聖火リレーのコースは、オリンピアを出発してブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由し、ドイツ国内へ入るというものであった。
なお、ドイツ政府は聖火リレーのルート調査のためにルート途上の各国の道路事情を綿密に調査したが、1939年に勃発した第二次世界大戦においてドイツ軍がこの調査結果を活用し、後日ドイツ軍がルートを逆進する形で侵攻を行ったという逸話が残っている。この説には反論もあるが一般的にはこれが通説となっている。
第二次世界大戦前最後の大会
この大会の3年後、1939年9月にドイツによるポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が勃発し第12回東京大会と第13回ロンドン大会が中止されたため、この大会が大戦前最後の大会となってしまった。次の夏季オリンピックは世界大戦終結後の1948年(第14回ロンドン大会)まで12年の間隔が開くこととなる。
大会ハイライト
(日本関連)
前回のロサンゼルス大会に引き続き、平沼亮三が日本選手団長を務めた。
陸上の10,000メートル、5,000メートルに出場した村社講平は共に4位とメダルはならなかったものの、小柄な村社が大柄なフィンランドの選手達(イルマリ・サルミネン、アルヴォ・アスコラ、ボルマリ・イソ=ホロ)を相手に果敢に先行する姿がドイツの観衆達の熱狂的な共感を呼び、日本においてもベルリンオリンピック最初の国民的英雄となった。
陸上三段跳びの田島直人が金メダルを獲得し3大会連続の日本の勝利を見せ、また走幅跳びでも銅メダルを獲得する活躍をみせた。
陸上棒高跳びでは西田修平と大江季雄の日本勢が、アメリカ勢との熾烈な争いの末、それぞれ銀・銅メダルを獲得。2人はメダルを半分ずつに割って『友情のメダル』を作成した(後に、西田修平のメダルは早稲田大学に、大江季雄のメダルは秩父宮記念スポーツ博物館に、それぞれ寄贈された)。
女子二百メートル平泳ぎでは前畑秀子が、地元ドイツのゲネンゲルの激しい追い込みを僅差で押さえ、金メダルを獲得した。ラジオ放送での河西三省アナウンサーの「前畑頑張れ」の連呼の実況は、日本の聴取者に熱狂的な興奮を巻き起こした。
サッカーでは初出場の日本チームが優勝候補のスウェーデンを破る歴史的番狂わせを演じ(ベルリンの奇跡)ベスト8に進出した。
芸術競技では、日本画家の藤田隆治が混合絵具(Mixed Painting)の部に作品「アイスホッケー」で参加して銅メダルを獲得し、作品はナチス買上げとなった。洋画家の高田力蔵も、Zwei Formen賞(二部賞)を受賞した。
報道
日本の報道合戦
読売新聞社は写真原稿輸送のため、1936年8月に1機を現地で購入、ベルリン-東京3日間の連絡飛行を企画したが、ソビエト連邦上空の飛行許可が下りず、結局船便で輸入された。この機体は「よみうり6号機(登録記号J-BACC)」として使用された。
大阪毎日新聞は、ロサンゼルス前大会において、ライバルの大阪朝日新聞が日本代表応援歌詞を公募して大ヒット曲を生み出したことに鑑み、子会社東京日日新聞を参画させて当大会の応援歌を懸賞公募した。この結果、山本塊二の詩が当選。『あげよ日の丸』の曲題を付し、前大会の朝日製応援歌と同じく山田耕筰作曲、中野忠晴の歌唱で日本コロムビアレーベルから発売させた。これに対し朝日は前大会応援歌『走れ大地を』を再発売する奇策で対抗したところこれが大当たりをとり、朝日の大逆転勝利となった。
参考:『白バイ』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E3%83%90%E3%82%A4
白バイ(しろバイ)とは、警察が主に交通取締業務に必要な各種装備を取り付けた白塗りのオートバイの日本での呼称である。英語圏では単にPolice motorcycle(警察のオートバイ)と呼ばれる。
日本
日本の警察のオートバイ(Police motorcycle)の中でも、専門の訓練を受けた白バイ隊員が乗務する特別な車両を「白バイ」と呼ぶ。白バイは装備や規格は警察庁で規定していて、主に大型自動二輪車が用いられる。警察で一般的に用いられるオートバイは黒バイなどと呼ばれ区別されている。
歴代白バイ
1918年(大正7年)1月1日に警視庁が初めてオートバイを取締りに使用した[4]。ただし、当時車体は青色塗装で「青バイ」と呼ばれた[4]。更に「警視庁史」によれば、正式呼称も「青バイ」ではなくて「赤バイ」である。
「白バイ」として初採用されたのは1936年(昭和11年)8月1日で、日本国外の警察で利用されている自動二輪車に倣って白色に変更された。 警視庁の白バイは、1940年(昭和15年)6月には一度廃止されたものの、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)12月10日から復活。サイドカー5台、オートバイ10台による再出発となった。
現在はCB1300SUPER BOL D'ORやFJR1300等をベースとした、1990年代まで主流であった750 cc(立方センチメートル)を大幅に上回る大排気量車が採用されている。これらの車種は発進から約3秒程で時速100 km/h(キロメートル毎時)に到達する極めて高い加速性能を有する。高速道路交通警察隊や皇宮警察本部の白バイには、ゴールドウイングをベースとした特別仕様車も存在し、主に要人警護や各種イベント・パレードなどで運用されるほか、サイドカーも存在する。
またマラソンや駅伝など、公道コースにて争われる陸上競技の先導用に、排気ガスを出さない電動スクーターを採用する動きもあり、2020年2月には警視庁が初の電動スクーターとしてBMW C Evolutionを導入した。
参考:『白バイの歴史 ~“交通機動隊が出来るまで”を紹介~』新潟県警察 https://www.pref.niigata.lg.jp/site/kenkei/hikaru-corner-sirobi-rekisi-sirobi-rekisi-1-sirobi-rekisi-1.html
貴重な写真
参考:『白バイ今昔物語』長野県警察の歴史 長野県警察 https://www.pref.nagano.lg.jp/police/rekishi/siro.html
年代ごとの白バイの写真
参考:『白バイは、最初は白くなかった!?』パナソニックEW友の会 https://panasonic.co.jp/ew/company/tomo/watch/webmaga/zatsugaku/seikatsu/56.html
全国各地、交通安全で活躍する白バイ。実は最初は白ではなく、赤色だったことを知っていますか? 1918年(大正7年)、自動車の増加に伴って交通事故も増加する中、警視庁では機動力を活かした取締りを行うため、警察用のオートバイが導入されました。この時のバイクの車体カラーが赤色だったため「赤バイ」と呼ばれていました。当時は赤色で塗られた自動車が少なく、目立つ色だったのが理由で採用されたようです。しかし次第に赤色の自動車が増えてきたため、1936年(昭和11年)、それまで警視庁にあった「赤バイ」を白に塗った「白バイ」が誕生しました。車体を白色にした理由は、ヨーロッパの各国やアメリカの白バイにならったもので、大変に目立つ色であるからとされています。また、白色は「平和と清潔」を表す色であり、白バイ隊員は、交通事故のない、安全で快適な交通社会をつくるために活動する「平和の戦士」という意味があるとも言われています。現在、白バイは法律により緊急自動車とされ、法律で白色と定められています。
参考:『盧溝橋事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
盧溝橋事件、ルーコウチアオじけん、中国語: 七七事件; 簡体字: 卢沟桥事变; 繁体字: 盧溝橋事變)は、1937年(昭和12年)7月7日に中華民国北平市(現在の北京市)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件。1937年7月7日夜、豊台に駐屯して付近の河原で夜間演習中、中国側から日本軍に対し実弾が撃ち込まれた事や、点呼時に兵士の1人が所在不明だった事などを契機に発生したと言われている。比較的小規模な戦闘が繰り返された後、9日には中国側からの申し入れにより一時停戦状態となったが、その後も小競り合いが続き、幾つかの和平交渉が行われたものの(後述)、結果として支那事変の発端となったとされる。中国では一般的に七七事変と呼ばれる。まれに、後述する英語名を直訳してマルコ・ポーロ橋事件と表記される場合もある。英語ではMarco Polo Bridge Incident、Battle of Marco Polo Bridgeと呼ばれる。
概要
1937年7月6・7日、豊台に駐屯していた日本軍支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)および歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。
中国側は許可を出してはいないが、北京議定書では議定書に基づく駐留軍には演習権が認められており、中国側の許可は不要であった。ただし、第3大隊は北京議定書に示されていない豊台に駐留していた。第3大隊第8中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後10時40分頃永定河堤防の中国兵が第8中隊に対して実弾を発射したため、演習を中止し、集合ラッパにて部隊を集めた際にさらに十数発の銃撃を受け、点呼してみると1名の兵士がいなくなっていた[11]。そのため清水中隊長はこの件を乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告するとともに、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの五里店に移動し7月8日午前1時ごろ到着した。7月8日午前0時ごろに急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。牟田口連隊長は豊台部隊へ一文字山の占拠、および夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた[12]。その後、一木大隊長は兵が無事発見されたことを知ったが、以前の事件の和平交渉で牟田口連隊長がその穏健ぶりを冷笑されたことがあったので、この際、強硬な態度を示しておこうと考え、一文字山へと進み、前進してくる日本軍に危険を感じた中国軍から午前4時頃発砲を受ける。
事態を重く見た日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斎及び冀察外交委員会専員林耕宇等も中佐と同行していた。その交渉中に、一木大隊は攻撃を受けたのであるが、一木は牟田口連隊長にこれを報告、応戦の許可を得る。この戦闘において日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上であった。
午前9時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。
北平の各城門は8日午後0時20分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後8時には戒厳令を施行し、憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。
森田中佐は8日朝現地に到着して盧溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の原状復帰を主張して応じなかった。
中国側は9日午前7時旅長及び参謀を盧溝橋に派遣し、中国軍部隊の撤退を更に督促させ、その結果中国側は午後0時10分、同地の部隊を1小隊を残して永定河右岸に撤退を完了した(残った1小隊は保安隊到著後交代させることになった)が、一方で永定河西岸に続々兵力を増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、日本軍が廊坊をこえた場合には応戦出来る戦備を整えつつある状況であった。この日午後4時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉のため天津をたち北平に向った。
11日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは盧溝橋東北方約2kmの五里店付近に集結したが、当時砲を有する七、八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にあり、かつ長辛店及び盧溝橋には兵力を増加し永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。
一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥ったため、11日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のあることを察知すると急遽態度を翻し、午後8時、北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議(中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、盧溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各種団体取締を行うなど)を受け入れ、二十九軍代表の張自忠・張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。
参考:『盧溝橋事件』世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh1504-061.html
日中戦争の勃発
・1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突し、日中戦争の始まりとなった事件。日本軍への発砲をきっかけに交戦状態となったが、誰が発砲したかについては現在も定説はない。日本政府(近衛文麿内閣)および軍中枢は自衛権の発動を口実に陸海軍を増派、事実上の戦争となったが、宣戦布告は行わず、当初は北支事変と称し、戦闘が上海に拡大した後の9月2日に支那事変と命名した。
なぜ日本軍が北京郊外にいたか なおこの時の日本軍とは、支那駐屯軍といい、義和団戦争(北清事変)後の1901年に締結された北京議定書で清が外国軍の北京などへの駐屯を認めたときに設置された軍隊。その後、列強はほとんど撤兵したが、日本はこの時の駐屯権を邦人保護を理由に継続して北京及び天津などに支那駐屯軍を置き、演習などをつづけていた。支那駐屯軍は、満州に駐屯する関東軍とは別な海外駐屯軍であって、両者に指揮命令関係はない。関東軍は1931年に満州事変を実行して満州全域を支配下に収め、満州国建国をリードし、さらに熱河作戦で満州国の領土を拡張し、さらに隣接する内蒙古にも侵出を図った。
支那駐屯軍の増強 満州事変は1933年5月の塘沽停戦協定でいったん停戦が成立が成立したが、支那駐屯軍は関東軍に対抗する形で、中国の華北地方への侵出をはかり、1935年頃から華北分離工作を開始した。政府・軍中央も華北の豊かな資源を獲得する意図でそれに追随して支那駐屯軍の増強を進め、1936年5月には一挙に3倍の約5600に増兵され、盧溝橋近くの豊台にも駐屯するようになっていた。それに対して中国側は抗議したが、日本は無視して実戦さながらの演習をくり返し、いつ衝突が起こっても良いように準備していた。
盧溝橋について
盧溝橋は北京(当時は北平といった)西南部郊外の永定河に架かる橋で、金代の1189年に完成し、元代にマルコ=ポーロがこの橋を渡ったことが『東方見聞録』にも現れる名所である。盧溝橋と蘆溝橋が長い間混用されてきたが、1981年に中国政府が橋のたもとに立つ清の乾隆帝直筆の「盧溝暁月」碑を尊重して、盧溝橋に統一することを決定した。<秦郁彦『盧溝橋事件の研究』1996 東京大学出版会 p.112>
参考:『昭和23年(1948年) ヘレン・ケラー女子来訪』 NHKアーカイブス
https://www.nhk.or.jp/archives/jidai/special/today/0830/
昭和23年の8/30、ヘレン・ケラー女史が東京を訪れた。映像は当時の様子。2度目の来日を果たした彼女は戦後間もない日本各地で講演を行い、人々を勇気づけた。貴重な肉声を聴けるシーンも。
ヘレン・ケラー女史は昭和12年(1937年)、23年(1948年)、30年(1955年)と、3回にわたって来日。1度目の来日時、横浜港の客船待合室で財布を盗まれてしまったが、この事件の報道後、盗まれた金額の10倍以上の寄付が日本各地から集まったという。2度目の来日の際は、戦後間もない日本人に向け、全国で講演を行った。
参考:『ヘラン・ケラー』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC
ヘレン・アダムズ・ケラー(Helen Adams Keller、1880年6月27日 - 1968年6月1日)は、アメリカ合衆国の作家、障害者権利の擁護者、政治活動家、講演家である。アラバマ州タスカンビアに生まれ、生後19か月時に病気が原因で視力と聴力を失った。その後はホームサインを使って主に意思疎通を行っていたが、7歳の時に初めての教師で生涯にわたる友となるアン・サリヴァンと出会った。サリヴァンはケラーに言葉や読み書きを教えた。盲学校と聾学校、そして普通学校で教育を受けた後、ケラーはハーバード大学のラドクリフ・カレッジに通い、バチェラー・オブ・アーツの学位を得た初めての盲ろう者となった。
ケラーは1924年から1968年までアメリカ盲人財団(AFP)に勤めた。この間、ケラーはアメリカ合衆国各地で講演を行い、世界中の35か国へ旅して視覚障害者を支持した。
ケラーは多くの作品を残した作家でもあり、動物からマハトマ・ガンディーに至るまで幅広い題材に関する14冊の本と数百もの演説とエッセイを書いた。ケラーは、障害を持つ人々や女性参政権、労働者の権利、世界平和のため運動を起こした。1909年、アメリカ社会党に入党した。ケラーはアメリカ自由人権協会の創立会員であった。
ケラーの1903年の自伝『わたしの生涯』により、彼女の受けた教育とサリヴァンとの人生が公となった。自伝はウィリアム・ギブスンによって舞台劇『奇跡の人』に翻案され、さらに同題名の映画『奇跡の人』にもなった。ケラーの出生地はアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定され、保存されている。1954年以降は、博物館として運営されており[2]、毎年「ヘレン・ケラーの日」を後援している。
ケラーは、1971年にアラバマ州女性殿堂入りした。2015年6月8日に新たに設立されたアラバマ州作家殿堂に殿堂入りした初の12人のうちの1人となった。
日本との関係、訪日
ケラーは少女時代に、日本から渡米留学していた若き教育者石井亮一と面会しており、ヘレンが初めて会った日本人とされている。石井は日本初の知的障害児者教育・福祉施設「滝乃川学園」を創立し、「日本の知的障害児者教育・福祉の父」と言われている。ケラーを快く思わない者も少なくなく、日本の外交官重光葵の手記『巣鴨日記』[7]によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、ケラーのニュースが耳に入ってきた際、ケラーのことを「あれは盲目を売り物にしているんだよ」とこき下ろす者もいた。このことに関して重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人の為めに悲しむべし」と元将官たちを痛烈に批判すると同時に、彼らの見解の偏狭さを嘆いている。
幼少時、ケラーは同じく盲目の塙保己一を手本に勉強したという。塙のことは母親から言い聞かされていたとされる。1937年4月26日、ケラーは渋谷の温故学会を訪れ、人生の目標であった保己一の座像や保己一の机に触れている。ケラーは「先生(保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語っている。
1931年11月、小室篤次牧師がケラーと対談した。ケラーは野口英世の伝記に感銘を受け、さらにサリヴァンと一緒に来日したいと語った。小室の著書『ヘレン・ケラー』に寄せた序文では、塙保己一と熊谷鉄太郎について言及している。
1934年8月になると、岩橋武夫(日本ライトハウス館長)が平安丸で渡米し、ケラーの来日について言及した。同年末に岩崎はケラーと会談し、1935年秋の日本訪問が決定する[13][14]。だが同行予定のサリヴァンが健康問題を抱えており、1935年秋の訪日は延期された。
1936年(昭和11年)4月29日、中山昌樹牧師(明治学院教授)と対談。この頃、ケラーと共に来日予定だったサリヴァンの病気が重くなった。亡くなる直前、サリヴァンが病床にあるという理由で来日をためらっていたケラーに「日本に行っておあげなさい」と遺言したという。 10月20日にサリヴァンが死去し、その後、改めて来日が決まる。
1937年(昭和12年)4月、訪日する。8月上旬に離日するまで、日本列島各地を訪問、朝鮮半島にも足を延ばした。 4月15日、浅間丸に乗りトムソンや小室篤次牧師とともに横浜港に到着した。横浜港の埠頭で財布(ハンドバッグ)を盗まれてしまったが、そのことが報道されると、日本全国の多くの人々からヘレン宛に手紙や現金が寄せられた。ケラーはその見舞金を日本の社会事業に寄付すると共に「私に対する同情を、今も不遇な立場に置かれている日本人の障害者に向けてほしい」との声明を発表した。4月16日、高松宮宣仁親王および喜久子妃に拝謁する。同日、新宿御苑で観桜会が開催され、昭和天皇・香淳皇后が行幸啓。観桜会に出席したケラーは、昭和天皇に拝謁した。4月18日夜、東京を出発。4月19日には大阪、4月29日には盲人教育者の斎藤百合が主催する催しで東京・日本青年館で講演、4月30日には埼玉、そして5月以降も7月半ばまで日本各地を次々と旅して回った。
この訪日でケラーは「日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子と会った。「彼女は私より不幸な人、そして、私より偉大な人」と賞賛した。4月29日に早稲田大学、同4月東京盲学校(現:筑波大学附属視覚特別支援学校)にて講演を行い、5月7日に滋賀県立盲学校で記念植樹を行い、同日午後1時40分より滋賀大学の前身・彦根高等商業学校で講演を行い、午後3時7分彦根発の列車で大津に向い、彦根と大津の間に位置する近江兄弟社、近江兄弟社女学校(現:近江兄弟社高等学校)を訪問、5月10日に同志社女子専門学校にて講演を行い、 6月に石川県立盲学校にて講演を行い、7月1日に東北学院にて講演を行った。
秋田県での講演会の際に記念として秋田犬を所望し(報道では、秋田県側がケラーへの土産として秋田犬を選んだ)、秋田警察署の小笠原巡査部長が飼育していた仔犬(神風号)が贈られた。朝日新聞社の神風号に因んだ名前である。なお、神風号は渡米から間もなく犬ジステンパーで死亡した。ケラーの落胆を知った日本の外務省が秋田県と相談し[41]、日本政府を通じ小笠原から秋田犬の「剣山号」が贈られている。
8月10日、神戸港より秩父丸に乗りアメリカへの帰途についた。
1948年(昭和23年)8月、2度目の訪日。2か月滞在して全国を講演してまわった。これを記念して2年後の1950年(昭和25年)、財団法人東日本ヘレン・ケラー財団(現:東京ヘレン・ケラー協会)と財団法人西日本ヘレンケラー財団(現:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団)が設立されている。
1955年、3度目の訪日も実現し熱烈な歓迎を受けた。訪日の理由の1つは、1954年(昭和29年)に没した朋友岩橋武夫に花を手向けるためであった。 ケラーは空港で岩橋の名を叫び、岩橋の家では泣き崩れたという。勲三等瑞宝章を授けられた。
死後、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られた。
参考:『東亜新秩序』Wikipedia
東亜新秩序(とうあしんちつじょ)は、1938年(昭和13年)11月3日及び同年12月22日に、時の内閣総理大臣近衛文麿(第1次近衛内閣)が発表した声明に登場する構想である。
反共主義によるもの(抗日容共な国民党政府の否定、大日本帝国・満洲国・中華民国3カ国の連帯による共同防共の達成)と、汎アジア主義によるもの(東洋文化の道徳仁義に基づく「東亜に於ける国際正義の確立」、東洋古来の精神文化と西洋近代の物質文化を融合した「新文化の創造」)の両方を含む。ただし、東洋文化については日本文化をますます醇化発展させ、中国文化その他に新生命を吹き込んで更生再建させる所に「新文化の創造」の要諦があるとされた。当時中国の人々は、徳に対する受感性は特に大きいものの、面子においては俠義を尊び、実践においては事大主義を尊び、まことに言行が不一致であり、官吏においてはピンハネや賄賂が横行していたとされる。また、中国の学生は、予備教育を受けずに正味の学問へと進みたがり、政治運動に時間を浪費し、学問の精神が培われず、そのため自然科学が興らないでいるとされた。
前史
1923年、中華民国の鉄道において臨城事件が起こり、多数の英米人が被害を受けたため、英米を中心に列強による中華民国の鉄道警備管理共同案が議論された。また、中華民国の内政全ての共同管理案も議論されていた。この共同管理案の勝手な議論は中華民国革命政府側の反発を招き、中華民国革命政府はソ連へと近づいた。
1924年、孫文は、大アジア主義講演に於いて、西洋文化を取り入れながらも、東洋の王道、道徳仁義および国家的道徳により、西洋の覇道に対抗することを主張した。また、孫文は、東の日本及び西のトルコを、「亜細亜の最も信頼すべき番兵である」と評価した。ただし、革命に始まる孫文が協力者の赤露を評価していたのと異なり、尊王論に始まる近代日本はロシア内戦の頃より赤露を敵視していた (反共主義)。
孫文の死後、蔣介石は反共主義方針を取り、国共内戦へと突入させた。その後、蔣介石は中ソ紛争を行うが、ソ連に敗北してしまい、ソ連とハバロフスク議定書を結んでしまう。1932年、日本は東三省に於いて王道政治を掲げる満洲国を誕生させた。
1933年5月、ソ連のトロツキストと繋がりを持つとされる元ドイツ参謀のハンス・フォン・ゼークト[8]が、蔣介石の軍事顧問となった(中華民国の戦争準備とドイツ軍事顧問団の支援も参照)。1935年5月2日、ゼークトの提案に基づき中華民国秘密警察の藍衣社が親日要人へのテロ事件を起こしたため、日本は抗議し、1935年6月27日、日本と中華民国は梅津・何応欽協定を結んだ。日本は、国民党政府側に「外蒙等ヨリ来ル赤化勢力ノ脅威カ日満支三国共通ノ脅威タルニ鑑ミ支那側ヲシテ外蒙接壌方面ニ於テ右脅威排除ノ為我方ノ希望スル諸般ノ施設ニ協力セシムルコト」(広田三原則)を提示したが、交渉に失敗する。
1938年1月16日、近衛文麿は第一次近衛声明において、「爾後国民政府を対手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす」と発表した。
経済統合については、世界恐慌や政治的意図により起こされたブロック経済の問題があり、経済戦において日満支経済ブロックが必要とされていた。また、ソ連の第二次五ヶ年計画完成による極東軍備の完成及び赤化攻勢の強化は差し迫った危機であった。ソ連からの亡命者のゲンリフ・リュシコフの情報により、日本の軍事力がソ連に追いつけないことが判明することとなる。
第二次近衛声明
第二次近衛声明(だいにじこのえせいめい)は第1次近衛内閣が1938年11月3日に発表した支那事変に関する声明である。東亜新秩序建設の声明(とうあしんちつじょけんせつのせいめい)、東亜新秩序声明(とうあしんちつじょせいめい)とも呼ばれる。
この声明では、大日本帝国の支那事変における目的が「東亜新秩序の建設」であるとし、中華民国民の協力と国民政府の刷新を求め、列強への牽制を述べている。
国民政府との和解を妨げる第一次近衛声明での「対手とせず」を修正する意図があったと解されている。
後史
1940年11月30日、日本と中華民国汪兆銘政権(更生新支那)は日華基本条約を結び、日本と満洲国と中華民国汪兆銘政権の三国は共同で日満華共同宣言を行った。1941年には華北に華北防共委員会が設置された。
参考『零式艦上戦闘機』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B6%E5%BC%8F%E8%89%A6%E4%B8%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F
零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は、第二次世界大戦期における大日本帝国海軍の艦上戦闘機。略称は零戦(ぜろせん/れいせん)。試作名称は十二試艦上戦闘機(略称は十二試艦戦)。
概要
零式艦上戦闘機は、1936年に大日本帝国海軍に制式採用された九六式艦上戦闘機の後継機として開発され、日中戦争から太平洋戦争にかけて戦場で活躍した。
最大約3,300キロメートルの長大な航続距離(増槽タンク装備時・巡航のみ)、翼内に対爆撃機用の20ミリ固定機銃2門、機首部分に7.7ミリ固定機関銃2門を装備した重武装、格闘戦を重視した優れた運動性能、そして空力的洗練と防弾装備をなくし軽量化を徹底追求した機体設計は1000馬力級の「栄」エンジンの性能を極限まで引き出すに至り、一躍世界の戦闘機の頂点に立った。
大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、F4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となったが、後継機である十七試艦上戦闘機「烈風」の開発が大幅に遅れたことにより、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機だった。
大戦末期には、戦闘爆撃機や特攻機としても改造され使用された。
開発元は三菱重工業(以下「三菱」)。三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産が行われており、総生産数の6割以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の1万機以上。
名称
当時の日本の軍用機の名称には採用年次の「皇紀」の下2桁を冠する規定があり、零戦が制式採用された1940年(昭和15年)は神武天皇即位紀元(略称・皇紀)2600年にあたるので、その下2桁の「00」から「零式」とされた。
「零戦」と略され「れいせん」「ぜろせん」と呼ばれる。このうち「ぜろせん」と読むことについて「戦時中、英語は敵性語として使用を制限されていたから『ぜろせん』と読むのは誤り」「“ゼロファイター”の和訳が戦後に一般化した」[要出典]と言われることがあるが、太平洋戦争中の1944年11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際には「荒鷲[注釈 2]などからは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されていることから、「ぜろせん」が誤りというわけではない。
1940年当初の名称は「零式○号艦上戦闘機○型」とされ、発動機の換装を一号、二号、機体の改修を一型、二型と表していた。しかし、1942年4月に最初の桁が機体の改修回数、次の桁が発動機の換装回数を示すように変更されたので表記が逆転し、既存の一号一型/一号二型はそれぞれ零式艦上戦闘機一一型/二一型と改称された。各桁の数字は異なる意味をもつ符号であって、2桁の数値ではないので、(「じゅういちがた」/「にじゅういちがた」という読み方ではなく)各桁を独立して読んで「いちいちがた」/「にいいちがた」と呼ぶ。1943年1月に、二号零戦/二号零戦改と仮称されていた新型零戦は三二型/二二型と命名された。 同年8月に、武装などの種別を示す甲・乙・丙を付与する規定が追加された。 同8月に、二二型改と呼ばれていた主翼の翼端を丸型に切り落とした新型零戦は五二型と命名された。
三菱における符号は、零式艦上戦闘機◯型をA6M◯と表記し、例えば、一一型/ 二一型ならA6M1/ A6M2(a)と表記され、五二型ならA6M5などと表記された。また、最後に付く文字(アルファベット)は、その機体の武装や発動機(エンジン)が変更されたりしたことを表している。
連合軍が零戦に付けたコードネームはZeke(ジーク)だが、パイロットからは直訳調のZero Fighter(ゼロファイター)やZero(ゼロ)と呼ばれた。ただし、三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なって翼端が角張っていたためか別機種と判断され、Hamp(当初はHap)というコードネームが付けられた。
特徴
構造
零戦は、速力、上昇力、航続力の各数値を優れたものとするために、軽量化を徹底している。同時期の艦上戦闘機であるF4Fワイルドキャットが構造で機体強度を確保していたのに対し、零戦はより強度の高い素材を使用して部材の肉を抜き重量を削減した。軽量化は骨格にとどまらず、ボルトやねじなどに至るまで徹底したという。
しかし、これら軽量化策は想定外の強度低下を招き、初期の飛行試験では設計上耐えられるはずの条件下での機体の破壊を招いた。1940年3月、十二試艦戦2号機が昇降舵マスバランスの疲労脱落によるフラッタにより空中分解しテストパイロットの奥山益美が殉職、さらに1941年4月、二一型135号機と140号機がバランスタブ追加の改修をした補助翼と主翼ねじれによる複合フラッタにより、急降下中に空中分解して下川万兵衛大尉が殉職、開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚などの大掛かりな改修が行われている。設計主務者の堀越技師は、設計上高い急降下性能があるはずの零戦にこのような事態が発生した原因として、設計の根拠となる理論の進歩が実機の進歩に追い付いていなかったと回想している[11]。操縦席の横に補強した脚置き場を設置し、胴体フィレット下と胴体側面に引き込み式のハンドルとステップを取り付けている。そのステップと一部のハンドルは操縦席から手が届かず、離陸前に整備員が押し込む必要があった。
生産段階でも多数の肉抜き穴や、空気抵抗を減らす目的で製造工程が複雑な沈頭鋲を機体全面に使用するなど、生産工程が増える設計となっているが、少数精鋭の艦戦ということで工数の多さが許容されたからである。大戦中期以降は後継機の開発が遅れたため生産数を増やす必要に迫られたことで設計を変更し、工数を減らす努力が続けられたが、設計段階から生産効率を考慮したP-51マスタングと比較すると零戦の生産工数は3倍程度もあり、生産側の負担となった。
米軍が鹵獲した零戦二一型の機体調査に携わったチャンス・ヴォートのエンジニアから、V-143戦闘機と引き込み脚やカウリング・排気管回りなどが類似していると指摘されたため、零戦そのものがV143のコピー戦闘機であるという認識が、大戦中だけでなく現在でも一部海外で存在する。しかし、この説は開発開始時期の相違によって否定されている。降着装置が半引き込み式で、尾部の突起が少々長いが、外形、寸法、各種数値が似ているグロスター社のF.5/34をコピー元とする説もあるが、零戦の寸法は、翼面荷重や馬力荷重を九六式艦上戦闘機と同程度に収めるように決められた数値である。しかも、グロスターのF.5/34が前近代的な鋼管骨組み構造であるのに対し、零戦は九六式艦戦と同じ応力外皮(モノコック)構造なので、コピー説は否定されている。似ているのは、機体形状に関して冒険を避け、当時主流の設計にまとめられた結果である。
零戦には九六式艦戦同様、全面的な沈頭鋲の採用、徹底的な軽量化と空気力学的洗練、主翼翼端の捻り下げ、スプリット式フラップ、落下式増槽などがある。主翼と前部胴体の一体化構造は、陸軍の九七式戦闘機(中島製)に採用された技術で、フレーム重量を軽減するが、翼の損傷時の修理に手間取るという欠点がある。
降着装置
降着装置を下ろした状態。主翼の上に棒が飛び出している。
零戦の降着装置は、油圧作動式の引込み脚であり、空気抵抗を削減するために主脚及び尾輪を機体内へ引き込む設計とした。引込み式の降着装置は日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機に次いで2番目の採用となる。主脚は萱場製作所製のオレオ式緩衝装置を備えていた。主脚は主翼中程から胴体側へと内側に折りたたまれた。これは主翼の構造がやや複雑になる反面、強度や安定性に優れ安全性が高い。油圧が少なくて済むよう、主脚は左脚が引き込まれた後、右脚が引き込まれた。降着装置の作動状態は尾輪も含め操縦席左側の脚位置表示灯[12][13]で確認できるとともに、主翼上面に棒が飛び出して主脚が出た事を知らせる機構も併用している。主脚カバーには、整備員が荷重状態がわかるように、青と赤のストライプが塗られていた。これを青・黄・赤の三色とするのは、実は戦後に零戦のプラモデルの塗装例によって広まった誤解である。胴体側の車輪カバーは、引き込んだ主脚が爪を押して閉める機械式ロックを採用した。トラブルで脚が出せないときは、応急脚出し引手(応急用手動ポンプ)で脚を下ろした。
主翼
二本桁構造で翼弦の30 %位置を左右一直線として前桁を通し、後桁は図面計測で63 %位置を通っている。超々ジュラルミンESD材は桁のみに使われ約30 kgの重量軽減になると計算された。翼型は九六艦戦、九六陸攻、九七司偵等で実績がある三菱B-9翼型の肉付けとNACA23012系の矢高線を組み合わせた「三菱118番翼型」を採用。翼面荷重は海軍が要求する旋回性能、離着艦性能に応えるため当時の世界的趨勢より思いきって低くし試作機段階で105 kg/m2以下を狙った。
中央翼弦長、中央翼厚は主脚引込、燃料タンク、翼内砲の必要容積から定まったが[17]、翼厚の%について設計主務の堀越技師は書き残していない。翼型断面図の寸法[注釈 8]から計算すると、1番リブ位置で約14.26 %[注釈 9]、12番リブ位置で約14.21 %となる。1番/12番リブは共に取付角2度で、2.5度の捩り下げはその外側から始まりサインカーブ状、なだらかに捩られている。21番リブ位置で約11.11 %、取付角0度[注釈 11]、26番リブ位置で約9.01 %、取付角−0.5度である(翼厚については付根14.4 %、翼内砲取付部15 %、翼端9 %とする資料もある)。
最大矢高は翼弦の2 %、外翼で徐々に増して翼端で3 %。上面図で見る翼端は丸く見えるが円弧ではなく放物線である。
超々ジュラルミン
住友金属工業が開発した新合金である超々ジュラルミンを主翼主桁に使用した。後に米国でも同様の合金が実用化されている。日本・英語圏ともESDと呼ばれるが、日本では「超々ジュラルミン」の英訳である「Extra Super Duralumin」の略であるのに対し、英語圏では「E合金」と「Sander合金」をベースに作られた「Duralumin」という意味の略号である。ちなみに現在のJIS規格では、7000番台のアルミ合金に相当する。
剛性低下式操縦索
人力の操舵では操縦装置を操作した分だけ舵面が傾くが、高速飛行時と低速時では同一の舵角でも舵の利きが異なるため、操縦者は速度に合わせて操作量を変更しなければならない。そこで零戦では操縦索を伸び易いものにして、もし高速飛行時に操縦桿を大きく動かした場合でも、気流の抵抗で動きにくくなっている舵面との間で操縦索が引き伸ばされることで舵角が付き過ぎないよう補正されるようにしている。この仕組みは昇降舵につながる操縦索だけに用いられた。
従来は、主任設計者である堀越二郎の記述により、剛性低下操縦方式の採用は零戦からだと思われていた。しかし近年、曽根嘉年が残した資料によって、剛性低下操縦方式はすでに九六式艦上戦闘機二号二型から導入されていたこと、この発想の原点は本庄季郎が設計をとりまとめた九六式陸上攻撃機の先行試作機である八試特殊偵察機だったことなどが明らかになっている。
光像式照準器(九八式射爆照準器、俗称OPL)
海軍では大戦間期の1932年にルヴァロワ光学精機社製照準器を試験的に輸入して以来、慣例的にOPLと呼称していた光像式照準器を日本の戦闘機で初採用した。従来の照準器は「眼鏡式」と呼ばれ、照準用望遠鏡が前面風防から突き出ていたので空気抵抗が増し、搭乗員はスコープを覗き込む際に窮屈な姿勢となって視界も制限された。これに対し光像式照準器(ハーフミラーに遠方に焦点を合わせた十字を投影する)はキャノピー内に配置されるので、空気抵抗を低減できるうえに照準操作もしやすく、望遠鏡式とは異なって照準器を覗き込まないので、視界が狭くなることもない。九八式照準器は輸入したハインケルHe 112に装備されていたレヴィ2b光像式照準器をコピーしたものであるが、大戦後半には、輸入したユンカースJu 88に装備されていたレヴィ12C光像式照準器をコピーした四式射爆照準器に更新されている。一方、大戦末期のアメリカ機は照準器内に加速度を検出するジャイロを持ち、偏差角がある射撃さえ自動補正して表示することが可能なK-14型照準器を装備していた。
発動機
零戦五四丙/六四型を除き、制式採用時より中島飛行機製「栄」エンジンを搭載する。零戦の性能向上が不十分だった原因として、発動機換装による馬力向上の失敗がある。
雷電・紫電の穴埋めとして零戦の武装・防弾の強化及び高速化を図った五三丙型(A6M6c)の開発を開始、水メタノール噴射装置の追加によって出力向上を図った栄三一型(離昇1,300馬力を予定)の搭載が予定されており、武装・防弾を強化しても最高速度を580 km/h台までの向上が可能と試算されていた。栄三一型の開発は比較的順調に進み、五三丙型試作一号機を用いて実用審査が行われていた。しかし、1944年秋頃に多発した零戦のプロペラ飛散事故の原因が栄二一型の減速遊星歯車の強度不足であることが判明し、対策を必要とする零戦(五二型系列約300機)の改修に海軍の栄三一型審査担当者が追われ、栄三一型の審査は一時中断された。そしてこの時に始まったフィリピン戦に対応するため、審査未了で生産できない栄三一型の代わりに栄二一型が装備されることになったものの、審査と平行して生産されていた栄三一型用の調整は困難かつ実効がほとんど認められず、性能低下の一因ともなる水メタノール噴射装置は倉庫で埃を被ることになった。
一方で、同時期に陸軍の栄三一型審査担当者は審査完了しており、水メタノール噴射装置の可能性を実感した結果、これを改良した栄三二型(離昇1,300馬力)を搭載した一式戦闘機三型を1944年7月から量産開始した。この結果、大量生産された零戦五二丙型(A6M5c)は栄二一型(離昇1,130馬力)装備のまま武装・防弾だけを強化したので正規全備重量が3,000 kg近くに増加し、急降下性能の向上は見られたが、零戦の持ち味であった運動性能と上昇力がともに低下した機体が量産されるに至った。この混乱が治まった後に栄三一型の審査は再開されたものの、すでに審査終了が1945年の初頭になっていた。その後、零戦六二型(A6M7)には栄三一甲/乙型(離昇1,210馬力)、これと併行して零戦六三型(A6M7)には栄三一型(離昇1,300馬力を予定)を1945年2月から量産開始させたが、その大多数は水メタノール噴射装置を廃した栄三一甲/乙型を搭載した零戦六二型(A6M7)で、一部は保管され審査完了待ち状態だった栄三一型を零戦六三型(A6M7)に装備した。2機種を競合させて零戦六二型(A6M7)の生産を優先させた理由は、水メタノール噴射装置自体の重量が約100 kgと70 Lの水メタノールタンクで合わせて約170 kg以上の重量があったため、零戦の運動性能が損なわれると判断されたからである。水メタノール噴射装置の不具合とそれによって引き起こされる稼働率の低下も問題になったと考えられる。運動性能を重視して稼働率の高い零戦六二型(A6M7)か、速度性能を重視して稼働率の低い零戦六三型(A6M7)を競合させた結果、前者の方を量産するに至った。
零戦に栄より大馬力を期待できる金星を装備するという案は、十二試艦戦の装備発動機選定以降も繰り返し浮かび上がっている。まず、零戦二一型の性能向上型であるA6M3の装備発動機を検討する際に栄二一型と共に金星五〇型が候補として挙がったが、最終的には栄二一型を採用、次に1943年秋に中島飛行機での誉増産に伴って栄の減産が計画されたため、零戦にも金星六〇型への発動機換装が検討されたが、航続距離の低下とより高速重武装の雷電二一型(J2M3)の生産開始が近く、中止になっている。1945年、中島飛行機において誉のさらなる増産に伴い、中島での栄は生産中止となり、再び零戦の金星六二型への発動機換装が計画された。発動機換装型の零戦五四型(A6M8)は、艦上爆撃機彗星三三型のプロペラとプロペラスピナーを流用した間に合わせ的な機体だが、発動機換装により正規全備で3,100 kgを超える機体に零戦各型で最速となる572.3 km/hの速度と五二甲型(A6M5a)並みの上昇力となったが航続距離は大幅低下、局地戦闘機的な性格が強い機体となる。性能向上型としては成功したように思える五四型だが、試作一号機が1945年4月に完成する数か月前に、金星を生産する三菱の発動機工場がB-29の爆撃(名古屋大空襲)によって壊滅し、結局は試作機2機が完成したに過ぎず、零戦は最後まで栄を搭載せざるを得なかった。
開戦前の海軍は栄二一型に換装した性能向上型の零戦、後の零戦三二型に期待しており、三菱の他にライセンス生産を行う中島飛行機でも三二型の大量生産計画が立てられていた。しかし、三二型は出力向上と引き換えに燃費は悪化し、過給器を改良したぶん寸法が大型化したエンジンのためエンジン後方にあった胴体内燃料タンクの容量を減じなければならず、折しも実戦配備時期が長大な距離を飛行したあとの空戦を強いられたガダルカナル攻防戦には航続距離の問題から投入できないことが判明し、改良型の栄二一型の不調もあって、中島飛行機での零戦三二型のライセンス生産は中止、1944年前半まで零戦二一型の生産を続けている。
設計者の堀越は1944年9月の社内飛行試験報告において軍に対し、工作精度の低下、劣悪な燃料から生産機は設計値から25 %の性能低下、とした試算、実験報告をしている。アメリカ軍が現代のハイオクガソリンと遜色ない100オクタンのガソリンを安定的に使用できたのに対し、日本軍の航空91揮発油は額面上では91オクタンであるものの実際には87程度、航空87揮発油(87オクタン)は85程度という証言もあり[24]、ガソリンの品質悪化により不調や性能低下が誘発された。
定速回転プロペラ
恒速回転プロペラとも呼ばれ、回転数を一定に保つため、プロペラピッチ変更[注釈 18]を自動的に行うもので、操縦席にあるプロペラピッチ変更レバーにより任意でのピッチ変更も可能である[注釈 19]。日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機についで3番目に装備された。零戦に使用されたのは当時多くの機体に使われていたハミルトン・スタンダード製の油圧式可変プロペラを海軍向けのプロペラを生産していた住友金属工業がライセンス生産したものである。
アメリカの参戦により以降に開発された改良型や新型の情報、そして、より精密な加工に必要な工作機械が入手できなくなった。これらの対策として住友金属では独自に改良型の試作が行われ一〇〇式司令部偵察機三型にピッチの変更範囲を35度に拡大した ペ26 が採用されたが、素材や工作機械の精度により性能の向上は限定的であった。住友金属ではドイツのVDM社からライセンス生産権を得た電動式ガバナーを備えた定速4翅プロペラも生産しており雷電などに採用されたが、構造が複雑で生産工程数や部品点数が多く振動問題もあったため、零戦は旧式ではあるが信頼性の高いハミルトン式の採用が続いた。大戦前の旧式プロペラが改良されなかったことは発動機とともに速度向上の足かせとなった。
機銃
爆撃機など大型機を一撃で撃墜するため、当時としては強力な20ミリ機銃搭載が求められており、初期型から機首の7.7ミリ機銃(九七式七粍七固定機銃)2挺に加え翼内に20ミリ機銃2挺を搭載しており、当時としては高火力な機体となった。大戦後期には機首の九七式7.7ミリ機銃2挺に替えて、三式13.2ミリ機銃を機首に1挺、両翼内に1挺ずつ、計3挺搭載した型も登場した。
7.7ミリ機銃の弾丸は、当時のイギリス軍の歩兵銃であり日本海軍でも国産化していた留式七粍七旋回機銃と同じ7.7 × 56R弾(.303ブリティッシュ弾)であった。これは輸入した複葉機の時代からのものであり、この歩兵用の重機関銃を航空機用に改良したヴィッカースE型同調機銃を、毘式七粍七固定機銃(後に九七式固定機銃)として国産化したものであった。7.7ミリ機銃を機首上部に配置したので、操縦席の正面パネルは計器類を下に寄せたレイアウトとなっている。またプロペラ回転面を通して発射するため同調装置を介しているが、安全に撃てるエンジン回転数の範囲が狭く3000回転を超えると弾がプロペラをこすりはじめたと言い、F6Fと戦う場合など4000回転以上に回す時は 7.7ミリ機銃は使えなかった[26]。
零戦搭載の20ミリ機銃は、エリコンFFをライセンス生産した九九式一号銃、FFLをライセンス生産した九九式二号銃および両者の改良型であった。初速は一号銃 (FF) が600 m/s、二号銃 (FFL) が750 m/sであり、携行弾数は60発・ドラム給弾(九九式一号一型・一一型 - 三二型搭載)、100発・大型ドラム弾倉(九九式一号三型または九九式二号三型・二一型 - 五二型搭載)、125発・ベルト給弾(九九式二号四型・五二甲型以降搭載)となっていた。
20ミリ機銃は大型機対策として搭載したものだが、防御力が高くて7.7ミリ機銃では効果の薄いF4Fにも有効であり、空戦でも活躍したことは多くの搭乗員が認めている。しかし、携行弾数60発(初期型)を2斉射で全弾消費するパイロットもおり、多数のF4Fを相手にする際は弾数が不足しがちであった[27]。他にも7.7ミリ機銃との弾道の違い、旋回による発射時のG制限などが欠点として指摘されている。これに対応して携行弾数を増加させる改修が施されている。大戦中盤からは一号銃から銃身を長くして破壊力を上げた二号銃が搭載されるようになった。
九九式一号銃の初速では、弾丸の信管の不具合もあってB-17フライングフォートレスの防弾板を至近距離でなければ貫通できないことを海軍鹵獲の実物で確認したので、高初速の二号銃の採用で弾道、貫通力が改善し、先行して信管の改良も実施した。
携行弾数は、初期の60発ドラム弾倉が、改良され最終的にベルト給弾化、125発に増加した。エリコンFFシリーズは弾倉が機銃構造の一部に含まれるので、ベルト給弾化は困難であり、本家スイスだけでなく技術先進国のドイツでも実施されず、日本の九九式二号四型が唯一の事例であった。
20ミリ機銃は威力を活かして重装甲のB-17やF4Fを数発で撃墜し、米軍に脅威を与えた。しかし「照準が難しく、修正しているうちに弾が無くなる」ため、戦闘機との格闘戦においては使い難いという欠点があり、用兵側は一号銃に不満をもっていた。威力に関しても、F6Fなど防御力が向上した戦闘機が登場したこともあり、ミッドウェー海戦で沈んだ空母「加賀」の直掩隊は、さらなる威力増大を求めている[28]。
大戦後期にアメリカ軍が12.7ミリ機関銃6ないし8門を装備したF6FやP-51を投入してくると、機首の九七式7.7ミリ機銃2挺に替えて、三式13.2ミリ機銃を計3挺(機首1・翼内2)搭載した型も登場した。
零夜戦と呼ばれる斜め銃装備の零戦はドラム弾倉の20ミリ機銃1挺を追加、当初は操縦席後方の胴体左側面から銃身が出ており、発射方向は左方30度/上方10度(30度説も有り)に固定されていた。しかし地上での整備中に暴発が起き3人が命を落としたため、より安全と思われる装備位置、操縦席後方風防の左寄りに銃身が来るよう変更された。発射方向は正面上方30度で、銃身貫通部の風防周辺をジュラルミン外板で補強されている。前方固定武装の引金がスロットルレバーにあるのに対し、斜め銃は操縦桿の引金で発射した。
防弾
零戦は、徹底した軽量化のために防弾装備(防弾燃料タンク・防弾板・防弾ガラス・自動消火装置)は搭載されなかった。初陣から防弾装備の追加は要望されていたものの、重量増によって運動性や航続距離とのトレードオフになること、各種装備の実用化が遅れたこと、さらに連合国軍の反撃に対応するため改修による生産数や飛行性能の低下が許容できなかったことなどから先送りされた。それでも、1943年末からは翼内タンクの炭酸ガス噴射式自動消火装置が、1944年からは操縦席の防弾ガラスや防弾鋼板が順次装備され、一部の機体は胴体タンクを自動防漏式としていたが、最後まで不足が指摘されていた。
零戦は涙滴型の風防を備えており、特に後方視界が広く取れた点では同時期の他国戦闘機と比して後方警戒がしやすい利点があった。そのため運動性能と視界の良さを生かして、攻撃を受ける前に避けるという方法で防御力の弱さをカバーするパイロットも多かったが、それには熟練の技術が必要で短期間の訓練で投入された新人には難しく、気象条件や位置に左右されるなど限界もあった。
設計者の堀越は、開発時に防弾を施さなかったことは優先順位の問題であり、戦闘機の特性上仕方がないと語っている。当時は大馬力エンジンがなく、急旋回等で敵弾を回避することもできる戦闘機では、防弾装備は他性能より優先度が低く、海軍からも特に注文はなかったという。防弾装備が必要とされたのは搭乗員練度の低下によるもので、分不相応なものだったと回想している。技術廠技術将校岸田純之助は「パイロットを守るために速力や上昇力、空戦性能を上げて攻撃を最大の防御にした。防弾タンクやガラスを装備すれば敵に攻撃を受けやすくなる[32]、日本の工業力から見ても零戦の設計が攻撃優先になったのは仕方ない選択。日本は国力でアメリカに劣っていたため、対等に戦うにはどこか犠牲にしなければならない、防御装備には資金がいるので限られた資源でどう配分するか常に考える必要があった」と語っている。
通信装置
コックピット周辺
零戦には前作の九六式艦戦同様に無線電話・電信機が装備され、当初は九六式空一号無線電話機(対地通信距離100 km、電信・電話共用)を搭載していた。ミッドウェー海戦の戦訓は「直衛機は電話を工用し、制空隊・直衛隊の電波を同一となすの要あるものと認む」と述べている。大戦後半はより高性能の三式空一号無線電話機(対地通信距離185 km、電信・電話共用)に変更している。アメリカ軍は、アリューシャンで鹵獲した二一型に装備されていた九六式空一号無線電話機を軽量化のため最小限の装置だけを搭載していると評価し、マリアナで鹵獲した五二型に装備されていた三式空一号無線電話機を「自軍無線機に匹敵する性能をもつ」と評価した。ただし「取付方法や防湿対策に問題がある」とも評価していた。事実、高度や気温で不調となることが多く信頼性が低いので、軽量化目的で無線機(約40 kg)を下ろすベテランもおり、現場では手信号が多用された。
この他に艦上機型である二一型からは、単座機では困難な洋上航法を補助する装置として無線帰投方位測定器が新たに搭載されている。これはアメリカのフェアチャイルドが開発したものを輸入・国産化したもので、輸入品はアメリカでの呼称そのままにク式(クルシー式の略)無線帰投方位測定器と呼ばれ、後に国産化されたものは一式空三号無線帰投方位測定器と呼ばれた。これらも絶縁処理やノイズ対策の未熟さや整備マニュアルの不徹底により不調となる例が多かった。
なお同時期の多くの単発戦闘機と同様、電探や敵味方識別装置は装備されていない。
性能
格闘性能
高い運動性能を持ち、同世代の戦闘機よりも横・縦とも旋回性能がズーム機動を除き格段に優れる。20ミリ機銃2挺という強力な武装に加え、気化器が多重の弁(0Gバルブ / 中島製)を持つため、マニュアル上、背面飛行の制限がない[注釈 21]。これは戦闘機にとっては非常に重要で、急激な姿勢変化に対するエンジンの息継ぎを考慮しないで済むため、機体の空力特性 = 旋回性能限界としての操縦が可能である。ただし、持続的なマイナスG状態での飛行では米軍機同様のエンジンストールが発生することが米軍の鹵獲機試験で判明しており、大戦後期の攻略戦法に取り入れられている。初期の米国戦闘機に「ゼロとドッグファイトを行なうな」「零戦と積乱雲を見つけたら逃げろ」という指示があったのは、同じ姿勢変化を追随して行なうとエンジン不調につながるからでもあった。一方、低速域での操縦性を重視し巨大な補助翼を装備したため、低速域では良好な旋回性能の反面、高速飛行時には舵が重く機動性が悪かった。
零戦は操縦は極めて容易なため搭乗員の養成、戦力向上が比較的短時間に行えた。
搭乗員の藤田怡与蔵は「零戦は戦闘機として必須のあらゆる特性を一身兼備、1千馬力から100パーセントの効率をしぼり出して再現したようなバランスのよくとれた高性能を持っていた。特に昇降舵操舵に対してはどこまでも滑らかで崩れず、いかなる速度と迎え角においても、ピシッときまる天下一品の応答をしてくれた。調教の行きとどいた駿馬とでもいったふうにパイロットの動かす通りに動いてくれた」と語っている。
零戦の格闘性能は、後継機にも影響を与えた。烈風(当時は十七試艦戦)の研究会において、花本清登少佐(横須賀航空隊戦闘機隊長)は実戦で零戦が敵を制しているのは速度だけではなく格闘性能が優れているためで、次期艦戦でも速度をある程度犠牲にしても格闘性能の高さに直結する翼面荷重を低くすべきと主張し、空技廠飛行実験部の小林淑人中佐もこれを支持している。
横転性能
本庄季郎技師の研究による「軽くて効きが良い」弦長比の小さい舵が補助翼(エルロン)にも採用されている。補助翼は昇降舵や方向舵より操作が軽いことが求められるが、固定脚の九六艦戦に比べ飛行する速度域が急降下を含め拡大しており、全域で満足な舵を得るのが難しくなっていた。操縦者の見解は厳しく、堀越自身も「本機は翼幅が12 mと大きく低速で十分な横揺れ加速度が得られず、中速度以上では重過ぎて効き不足だった」と書いている。後に空技廠の提案で高速時の操舵を軽くできるバランスタブを補助翼後縁に追加し、高速 / 空戦時の横転性能改善を確認したが、低速で舵が軽くなり過ぎる欠点を併発。さらに1941年4月に発生した下川大尉の空中分解で事故原因としてバランスタブが疑われ、後に直接関係がない事が判明するもバランスタブは廃止された。三二型は主翼幅を11 mに減じ、さらに補助翼内端を約20 cm削って補助翼面積が減少したが操舵が軽くなり横転性能は向上した。なおフラップと補助翼の間にはどちらでもない固定部が20 cm残った[45]。二二型は主翼幅、補助翼幅とも二一型と同じに戻されたがバランスタブが復活[46]。五二型で再び翼幅11 mとし三二型と同じく補助翼内端が削られたがフラップが延長され固定部は無い。翼端を丸めた分、三二型より補助翼面積が減り、バランスタブが再び廃止されている。五二型試作機の試験飛行は横須賀航空隊にいた本田稔が担当し、最終仕上げに尽力したという。
零戦が採用した金属骨組みに羽布張りの補助翼は軽量化で有利となる反面、高速で舵角を取ると骨と骨の間の羽布面が風圧でたわみ、舵軸から遠い後縁ほど角度が急になる。これは操舵を軽くするバランスタブと逆の効果を産み、舵を押し戻すので操舵が重くなる。スピットファイアがV型で採用した金属外皮の補助翼は変形せず高速域で良く効いたという。
速力
軽量化のため、非力なエンジンにもかかわらず270 kn (500 km/h)超の最高速度を出した。しかし急降下に弱く急降下速度に制限があった。徹底した軽量化により機体強度の限界が低かったといういわば零戦の宿命ともいえるもので、初期型の急降下制限速度は、F4Fなどの米軍機よりも低い340 kn (630 km/h)であった。試作二号機や二一型百四十号機と百三十五号機が急降下試験の際に空中分解事故を起しており、原因解析の結果を受けて、以降の量産機では、主翼桁のシャープコーナーの修正・昇降舵マスバランスの補強・主翼外板厚の増加などの対策が施され、急降下性能の改善が図られた。五二型以降では更に外板厚増加などの補強が行われ、急降下制限速度は400 kn (741 km/h)まで引き上げられている。
航続性能
零戦は大戦初期において、長航続距離で遠隔地まで爆撃機を援護し同時侵攻できた数少ない単発単座戦闘機である。陸軍の一式戦闘機隼も航続距離は長いほうだったが、実戦では零戦の方が長距離作戦に投入されることが多かった。もともと艦隊防空を主任務とする艦戦は、常に艦船上空に滞空させて対空監視(戦闘哨戒)を行う必要がある。零戦が開発された1936年当時、レーダーは実用段階まで至っていない。艦戦が運用される航空母艦は、陸上基地とは異なり早期警戒のための対空見張り網を構築できないからである。このような運用を前提とする場合、滞空時間が長ければ長いほど、交代機が故障で上空に上がれないなどの突発的な事態において防空網に穴が空きにくいという利点がある。後述の十二試艦上戦闘機計画要求書にあるように、航続力が距離ではなく滞空時間で指定されていることも、こうした運用に基づくものである。当時の米軍戦闘機ではF4F-3の航続距離845 mi (734 nmi; 1,360 km)でも長い部類であった。
長大な航続力は作戦の幅を広げ戦術面での優位をもたらす。実際、開戦時のフィリピン攻略戦などは、当時の常識からすると空母なしでは実施不可能な距離があったが、零戦は遠距離に配備された基地航空隊だけで作戦を完遂した。ただし、自動操縦装置や充分な航法装置のない零戦で大航続力に頼った戦術は搭乗員に過度の負担と疲労を与えた。また、洋上を長距離進出後に母艦へ帰還するには、搭乗員が高度な技量と経験をもつ必要があった。
零戦の航続力はそれまでの単座戦闘機と比べて長大だったため、長距離飛行の技術が操縦員に求められた。単座戦闘機搭乗員にとって、誘導機なしの戦闘機だけの洋上航法は、ベテランでも習得困難な技術だった。しかし1940年の龍驤戦闘機隊分隊長の菅波政治大尉、1941年の瑞鶴戦闘機隊分隊長の佐藤正夫大尉らは、単座戦闘機の洋上航法の技量に優れ熱心だった。当時の洋上航法は、操縦しながら航法計算盤を使って計算し、海面の波頭、波紋の様子を観察し、ビューフォート風力表によって『風向、風力』を推定し、風で流された針路を『偏流修正』し、『実速』(実際の対地速度、当時の呼称)を計算し飛行距離、飛行時間を算出予測する航法だった。その航法精度は、洋上150海里を進出して変針し、そののち方向、時間を距離計算して帰投し、その地点からの矩形捜索によって晴天目視で母艦艦隊位置確認可能な誤差範囲(例えば20海里)に収める程度の精度だった。単座戦闘は複座・多座の攻撃機爆撃機に比較して無線電信電話機能も弱く、ジャイロ航法支援機器もなかったが、実戦で母艦に単機帰投した例も多かった。
航続力において二一型は傑出しているように見えるが、これは落下式増槽に加え、胴体内タンクに正規全備時の62 Lの倍を超える145 Lの燃料を搭載するという例外的な運用を行った場合のことである。これと同じ条件、即ち落下式増槽を含む全燃料タンクを満載にした状態での航続距離を比較すると、零戦後期型の二二型や五二型各型と二一型の間に大きな差はない(いずれも正規で1,900km程度、過荷で最大3,300km前後の飛行が可能)。燃料タンクの小さい三二型でも二一型の85 %程度はある(ただし栄より燃費の悪い金星を搭載した五四型は航続性能が大幅に減少している)。また、二一型以前の零戦は胴体内燃料タンクを満載にした状態では飛行制限があるが、三二型や二二型、五二型には燃料満載時の制限はない。三二型は開戦からおよそ半年後に配備が開始されたが、この時期はガダルカナル島奪還作戦の開始直前にあたり、二一型より航続距離の短い三二型はガダルカナル島奪還作戦に投入できず、せっかくの新型機がラバウルで居残りになっていた。このため、この時期のラバウルの現地司令部は上層部に二一型の補充を要求している。また、これは海軍上層部でも問題となって、海軍側の三二型開発担当者が一時辞表を提出しただけには留まらず、零戦の生産計画が見直されるほどの事態となっている。
燃料搭載量は、二一型は正規全備時に胴体内タンク62L+主翼内タンク380Lの合計442Lを搭載し、この状態では巡航速度333km/hで約5時間半の飛行(航続距離約1,900km)が可能であった。過荷全備時は胴体内タンクを満載にし、さらに330L増槽を装備することで、合計855Lの燃料を搭載して約3,330kmを飛行可能となる。三二型では、発動機の大型化による機体容量圧迫に伴い、胴体内タンク容量が145L→60L、増槽容量が330L→320Lに減少した。これを相殺するため、主翼内燃料タンクが大型化され、容量が380L→420Lに増加した。しかしタンク容量は合計800Lに減少したうえ、これに発動機の燃費悪化の影響も加わったため、二一型に比べて航続距離が15%程度低下してしまった。その後は三二型で低下した航続性能を再び延伸すべく、改良により燃料タンク容量の増加が図られた。主翼内タンク容量は、三二型後期では430Lに増加。二二型や五二型以降は主翼内にさらに90Lの補助燃料タンクを新設し、主翼内タンク容量は合計520Lに増加した。これらの改良により、燃料搭載量は合計900L程度にまで増加し、二一型と同等の航続性能を取り戻すことが出来た。
末期型となる五三丙型~六四型では、燃料タンクに防弾処理を施したためにタンク容量が減少し、また胴体内タンクを水メタノール噴射装置用のタンクに転用したためガソリン搭載量が減少し、加えて発動機をより大出力の栄三一型/金星六二型に換装したため燃費が悪化した。これらの影響により、かつての特徴だった長大な航続力は失われた。しかし戦争末期には局地戦闘機としての運用が主となっていたため、もはや長距離飛行が必要な局面は殆ど無くなっていた。
アメリカ軍による評価
太平洋戦争末期のアメリカ軍航空技術情報センター (ADRC) による零戦への評価は下記のとおり。
零戦の高い旋回率、機動性、優れた飛行特性は、戦闘機の特性として最も望ましいものである。貧弱な性能、劣った武装、高速時の重い操舵性、過度の脆弱性は戦闘機として望ましくないものである。アメリカの水準と比べると非常に軽い構造で、装甲板、セルフシーリング燃料タンクを装備していない。このような特徴から、戦闘機としては非常に脆弱なものとなっている。
歴史
十二試艦上戦闘機
零戦の仕様は「昭和十一年度 航空機種及性能標準」の艦上戦闘機の項に基づいて決定されている。
「昭和十一年度 航空機種及性能標準」
機種:艦上戦闘機
使用別:航空母艦(基地)
用途:敵攻撃機の阻止撃攘
敵観測機の掃討
座席数:1
特性:速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適し、且つ戦闘機との空戦に優越すること
航続力:正規満載時全力1時間
機関銃:口径 7.7 mm 700発 × 2。
機関砲:口径 20 mm 60発 × 2。
通信力:電信300浬、電話30浬
実用高度:3,000 m 乃至 5,000 m
記事:
離着陸性能良好なること。離艦距離 合成風力10 m/sにおいて70 m以内
増槽併用の場合6時間以上飛行し得ること
促進可能なること
必要により 30 kg 爆弾を2個携行し得ること
開発は1937年10月5日に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。
「十二試艦上戦闘機計画要求書」
用途:掩護戦闘機として敵軽戦闘機より優秀な空戦性能を備え、要撃戦闘機として敵の攻撃機を捕捉撃滅しうるもの
最大速力:高度4000メートルにて270ノット以上
上昇力:高度3000メートルまで3分30秒以内
航続力:正規状態、公称馬力で1.2乃至1.5時間(高度3000 m)/過荷重状態、落下増槽をつけて高度3000メートルを公称馬力で1.5時間乃至2.0時間、巡航速力で6時間以上
離陸滑走距離:風速向かい風秒速12メートルにて70メートル以下
着陸速度:58ノット以下
滑走降下率:3.5 m/s 乃至 4 m/s
空戦性能:九六式二号艦戦一型に劣らぬこと
銃装:20ミリ機銃2挺、7.7ミリ機銃2挺、九八式射爆照準器
爆装:60 kg爆弾 又は 30 kg爆弾 × 2発
無線機:九六式空一号無線電話機、ク式三号無線帰投装置
その他の装置:酸素吸入装置、消火装置など
引き起こし強度:荷重倍数 7、安全率 1.8
「十二試艦上戦闘機計画要求書」は1937年5月に原案がメーカーに提示され、10月に正式な文書として交付された。そのため、変更点もあって内容が微妙に違うものも残っている。「目的」が「攻撃機の阻止撃攘を主とし尚観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機を得るにあり」というものもある。堀越二郎によれば、5月のものに比べて特に航続距離の要求が強くなったという。十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は、堀越技師らが「ないものねだり」と評するほど高いものであり、中島飛行機が途中で辞退、零戦は三菱単独開発となった。前作の九六式艦上戦闘機に続き堀越二郎技師を設計主務者として開発した。堀越は海軍からのあまりに高い性能要求に悩んだとされているが、晩年は「あまり苦労しなかった」とも語っている。
1938年1月17日、十二試艦戦計画要求に関する官民研究会で、日中戦争から帰還した第二連合航空隊航空参謀源田実少佐が飛行機隊の集団使用、遠距離進出などの新境地を開拓した経験から実戦での九六式艦戦や九五式艦戦の働きを説明して格闘性能と航続距離の必要を訴える。
1938年4月10日、三菱A6M1計画説明書を海軍に提出した堀越二郎は、3日後(4月13日)に開かれた十二試艦戦計画説明審議会において、格闘力、速度、航続距離のうち優先すべきものを1つ上げてほしいと要望した。すると横須賀航空隊飛行隊長の源田実には日中戦争の実戦体験から「どれも基準を満たしてもらわなければ困るがあえて挙げるなら格闘性能(空戦性能)、そのための他の若干の犠牲は仕方ない」と返答された。一方で、航空廠実験部の柴田武雄には実地経験から「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し、格闘性能は搭乗員の腕で補う」と返答された。どちらも平行線ながら正論であり、堀越は真剣な両者の期待に応えることにした。
1938年秋、前線の戦闘機部隊である12空から提出された意見は、速力・航続力よりも軽快な運動性に重点をおくこと、機銃口径は10ないし13ミリを適度とし、初速の小さい翼上20ミリ機銃は戦闘機に百害あって一利なしというものであり、大航続力、20ミリ機銃に伴った機体の大型化にも反対だった。
1939年3月16日、A6M1試作一号機完成。4月1日に岐阜県の陸軍各務原飛行場で試作一号機が初飛行。試作2号機までは瑞星一三型だったが出力不足で試作3号機からエンジンを換装した。5月1日栄一二型を装備した3号機をA6M2とした。翌1940年7月24日に、A6M2零式一号艦上戦闘機一型が一一型として制式採用された。
太平洋戦争開始前の日中戦争(支那事変)
1940年(昭和15年)7月15日、大陸戦線(中国戦線)にて101号作戦のため、第二連合航空隊に横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦13機が進出した。零戦はまだ実用試験中のものであり、全力空中戦闘をするとシリンダーが過熱し焼け付くおそれがあった。また、機体への加速度 (G) が大きくなると脚が飛び出すこと、同様にGがかかると20 mm機銃が射撃できなくなる点が未解決のままであった。これらの問題に対して、技術廠から飛行機部の高山捷一技術大尉、発動機部の永野治技術大尉が解決にあたり、技術者、整備員、搭乗員が一体となって解決した。
零戦の最初の出撃は8月19日の九六式陸上攻撃機護衛任務だったが、あいにく会敵しなかった。翌日にも伊藤俊隆大尉指揮のもと出撃したが会敵せず、悪天候のため出撃は翌月に延ばされた。第1回出撃時に燃料補給のため宜昌飛行場に着陸する際、1機(藤原喜平二空曹)が着陸に失敗し転覆。これが事実上最初の喪失となった。
9月12日、ようやく三度目の出撃となり、重慶上空に1時間も留まったが、これも会敵しなかった。基地に戻ると、敵は交戦を避け、去った後に大編隊を飛ばせて日本軍機を追い払っているように見せているということが判明した。進藤大尉はこれを逆手に取り、翌日再び出撃、ようやく敵機の大編隊と遭遇した。相手は日本機を初撃墜した国民党空軍の精鋭である第四大隊(志航大隊、指揮官・鄭少愚少校)、および第三大隊率いるアメリカ・ソ連・国民党の戦闘機34機(I-15 × 19、I-16 × 15、I-15、I-16とも初飛行が1933年で、零戦より旧式機)で、うち1機がこの直前急激な発進による故障のため帰還しており実際に戦闘に参加したのは33機である。初陣で動揺していた日本軍とは対照的に、経験豊富だった国民党軍は奇襲で撃墜されてもすぐさま編隊を立て直し奥地へ誘い込もうとしたが、やがてスピード・火力ともに優れた新鋭機の前に圧倒され次々と撃墜されていった。
この戦闘で初陣を飾った13機の零戦は、味方機に損失を出さずに、機銃が故障した白根斐夫中尉以外の12機全てが1機以上を撃墜する戦果を挙げた。進藤大尉はそれぞれの戦果を加味した結果、撃墜は27機と判断、マスコミはこの戦果を一斉に報じた。ただし、実際の中国側記録によると、被撃墜13機、被撃破11機(うち10人戦死、負傷8人)である。零戦隊は13機中3機(大木芳男二空曹、三上一禧二空曹、藤原喜平二空曹)が被弾、さらに1機(高塚寅一一空曹)が主脚故障によって着陸に失敗し転覆した。この際、パイロットたちから防弾について「攻撃機にあるような防弾タンクにしてほしい」と不満が出たが、高山捷一技術大尉は零戦の特性である空戦性能、航続距離が失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し、効果を発揮するべきと説明した。大西瀧治郎はそれに対し「今の議論は技術官の言う通り」と言って収めてパイロットたちは黙った。
その後も大陸戦線での零戦の活躍は続き、初陣から1年後の1941年8月までの間、戦闘による損失は対空砲火による被撃墜3機だけで、空戦による被撃墜機はないまま、太平洋戦争開戦前の中国大陸では零戦の一方的勝利に終わった。
太平洋戦争緒戦
太平洋戦争の中期まで、空戦性能において優越する零戦を装備した日本海軍航空隊は、グラマンF4FワイルドキャットやカーチスP-40などを装備する連合国軍に対して優勢だった。また、零戦は約2200キロの航続距離をもっていた(当時連合軍の戦闘機がロンドンとベルリン間(片道約900キロ)を飛行し空戦を実施して帰還することは困難であった)。零戦は太平洋戦争初期に連合軍航空兵力の主力を撃破した。その空戦性能と長大な航続距離によって、連合軍将兵の心の中に零戦に対する恐怖心を植え付けた。
当時、主に交戦した米海軍機のグラマンF4Fワイルドキャットは、零戦に対して防弾と急降下性能で勝っていたが速度・上昇力・旋回性能に関して零戦に劣っていた。海軍は真珠湾奇襲攻撃の1941年12月8日から、1942年3月までのジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜ないしは地上で破壊した。この数のうち零戦の戦果は471機、83 %を占めるとされる。太平洋戦争のはじめの1か月の全作戦中、陸上基地・空母からの零戦による敵の損害は65 %であった。
対アメリカ戦の始まりとなった真珠湾攻撃は奇襲であったためアメリカ軍戦闘機との空戦の機会の少なかった零戦は主に飛行場へ機銃掃射をおこなった。その直後のフィリピン爆撃では台湾から出撃する陸攻隊を掩護しフィリピンを攻撃するという当時の単座戦闘機としては例の無い長距離作戦を成功させ、植民地フィリピン駐留のアメリカ陸軍航空隊を制圧した。南太平洋においてもラバウルからガダルカナル島やニューギニアへの攻撃に活躍した。
太平洋戦争初期の1942年3月までのアメリカ陸軍航空部隊のジャワ作戦での消耗と零戦隊の優勢、同部隊のオーストラリアへの撤収があった。ラエ基地では1942年の5・6・7月の間、ほとんど連日空戦があったという。ラエの零戦隊は連日奮戦していた。彼我の機数では零戦隊が劣勢であった[81]。ラエ基地からは、ニューギニアにおける連合軍の拠点ポートモレスビーに爆撃に向かう一式陸上攻撃機の護衛任務として出撃を繰り返しており、迎撃してきたアメリカ陸軍航空隊とオーストラリア軍のP-39との空戦となった。P-39はこれまで主にソビエト連邦へレンドリースされていたが、ドイツ空軍のメッサーシュミット Bf109やフォッケウルフ Fw190と互角以上に戦い、多くのエースパイロットを生み出し、エリート部隊の第153親衛戦闘機連隊のわずか20機のP-39は、2か月の間に45機のドイツ軍戦闘機と18機の爆撃機を撃墜し、損失はたったの8機という大活躍をしていた。
しかし、零戦の搭乗員から見ると組みやすいという印象で、「大空のサムライ」こと坂井三郎によれば、その性能は芳しいものではなかったという評価であり、初のポートモレスビーへの爆撃機護衛任務で一撃で2機のP-39を撃墜している。また、坂井の上官である「ラバウルの貴公子」こと笹井醇一中尉もポートモレスビー上空において、1列縦隊で飛行するP-39の3機編隊を三段跳びをするように次々と撃墜したこともあった。
1942年5月8日には人類史上初の空母同士の海戦となった珊瑚海海戦が行われた。米軍第17任務部隊は空母「ヨークタウン」と「レキシントン」上空の戦いで、日本軍機動部隊攻撃隊69機(零戦18機・九九式艦上爆撃機23機・九七式艦上攻撃機18機)に対し零戦22機・艦爆11・雷撃機31機を直掩航空隊(F4Fワイルドキャット、SBDドーントレス爆撃機)と対空砲火で撃墜したと記録している。日本軍機動部隊に帰投した機は46機で、零戦17機が帰投するも1機が不時着した。この戦闘における戦果は日本側も過大に見積もっており、グラマン戦闘機32機、ダグラス急降下爆撃機17機撃墜を記録したが、実際の損害はF4F 6機、SBD 15機喪失である。
「1942年6月におこなわれたミッドウエー海戦における米陸海軍戦闘機への零戦の優勢」。「当時ブリュースター・バッファロー とグラマンF4Fワイルドキャットが使用されていた」。
アメリカ戦略空軍司令部作戦部長補佐代理ジョン・N・ユーバンク准将は「ニューギニアやラバウルで我々が遭遇した日本軍は、本当に熟練した操縦士だった。我々は最優秀の敵と戦っているのだということを一時も疑ったことはなかった」と回想している。
アメリカ軍の公式記録によれば、大戦初期の零戦対連合国軍機(主に英国連邦軍と中華民国軍並びに義勇軍)とのキルレシオは 12 : 1 とされている。対米軍機でいえば、太平洋戦争開戦時からミッドウェー海戦までの零戦対F4Fワイルドキャットとのキルレシオは 1: 1.7 としているが、前述の通りミッドウェー海戦以前で零戦とF4Fの対決はウェーク島の戦いと珊瑚海海戦だけであり、前者なら第二航空戦隊の零戦6機は損失無しに対しF4Fは2機撃墜され、 後者はMO機動部隊の零戦は日本軍攻撃隊は喪失機無し、MO機動部隊直掩隊の2機喪失に対し第17任務部隊はF4Fを上空直掩隊の6機、及びMO機動部隊攻撃隊の8機の計14機が喪失している(両者とも不時着機や行方不明機を除いた数値であるので、実数とは合わない)。 真珠湾攻撃に参加した「飛龍」所属の1機がニイハウ島に不時着する事件が発生したが、アメリカ軍の調査が行われる前に機体は燃やされたため弱点も露見せず、対策は行われなかった。
零戦鹵獲と大戦中期
1943年9月、占領されたニュージョージア島ムンダ飛行場に放棄された零戦三二型 (A6M3) の残骸
1942年6月、アメリカ軍はアリューシャン列島のダッチハーバーに近いアクタン島の沼地に不時着した零戦(アクタン・ゼロ[注釈 25])をほぼ無傷で鹵獲することに成功した。この機体の徹底的な研究によって、零戦が優れた旋回性能と上昇性能、航続性能をもつ一方で、高速時の横転性能や急降下性能に問題があること[注釈 26]が明らかとなり、アメリカ軍は「零戦と格闘戦をしてはならない」「背後を取れない場合は時速300マイル以下で、ゼロと空戦をしてはならない」「上昇する零戦を追尾してはならない」という「三つのネバー (Never)」と呼ばれる勧告を、零戦との空戦が予想される全てのパイロットに対して行った。
不要な装備を除き、なるべく機体を軽くするように指示した。弱点を衝いた対抗策として優位高度からの一撃離脱戦法と「サッチウィーブ」と呼ばれる編隊空戦法がアメリカ軍に広く普及することになった。一撃離脱戦法とサッチウィーブが徹底された1942年年間の零戦とF4Fのキルレシオは1 : 5.9とされたが、上述のようにアメリカ軍の公式撃墜数と被撃墜数を合わせたものであり、裏付けは取れていない。
1942年8月からガダルカナル島の戦いが始まる。前進基地が整備されるに従い、三二型もガダルカナル戦に投入可能となった。三二型は翼幅を1 m切断して最高速度1.5 ノット向上し、増産も簡易化したが、他の性能が低下、操縦性、格闘戦の上から改悪であると周防元成、藤田怡与蔵、坂井三郎といったパイロットを始め、ガダルカナル島奪還作戦で航続力、空戦性能の劣化に対して反対の声が上がった。結局、翼は元に戻され、左右に45リットルタンク各1を増設することになった[95]。
1942年12月までにはスピットファイアを含む英陸軍航空部隊は、西南太平洋戦域で零戦によって壊滅されていた。
1943年にオーストラリアのダーウィンでスピットファイアMk.Vとの戦闘が数度生起している。この一連の戦闘では、一式陸攻を援護して単発機の限界に近い長距離を進攻する零戦隊を、自隊の基地近くで待ち伏せし迎撃するというスピットファイアMk.V隊に有利な状況であったが、零戦隊が優勢に戦っている。正確な日程は不明だが、ダーウィン上空の空戦で、スピットファイアの損失17対し零戦の損失はわずか2機という一方的な勝利も記録されている。この結果に対してフライングタイガーズの司令官だったクレア・シェンノート将軍は「英空軍の戦術はカルワザ的な日本軍に対しては自殺行為だった」と発言している。戦闘は一般に零戦有利といわれる低空に限らず高高度でも行われ、当初格闘戦であったスピットファイア隊の戦闘スタイルも一撃離脱へと切り替えられたが、最後まで零戦隊の優勢は変わらなかった。バトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍戦闘機を圧倒し、「英国を救った戦闘機」などとも称されたスピットファイアですらも、零戦相手には苦戦を強いられた。
ジョン・ベダー著『スピットファイア』によると、初期の戦闘においては大きな差はなかったものの、次第に零戦が優位に変わり、スピットファイアには燃料切れやエンジントラブルで帰投できない機体が相次いだという。また、豪英空軍の証言として「エンジンの出力低下が激しかった」「機関砲が凍結した」などがあり、スピットファイアが南太平洋の環境に適応できず、次第に劣化していったと記載されている。
零戦隊を率いていた鈴木少佐はスピットファイアの優秀性を認めており、侵攻に際しては飛行時間1,000時間以上のベテランパイロットだけで隊を編成したとの談話を残している。最終的にこの一連の戦闘における喪失機の総計は零戦5機(未帰還機は3機)に対し、スピットファイア42機(未帰還機は26機)となり、零戦隊の圧倒的な勝利で終わっている。ただし、1942年当時スピットファイアはMk. XIIまで改良が重ねられていたが、当時インド洋の制海権は日本軍が握っていたために改良型の供給が不可能であり、オーストラリア軍は改良前のMk.Vを継続して使用していた。
1943年に入ると、零戦の優位に陰りが見られるようになっていた。1943年4月に連合艦隊長官山本五十六大将のもとで、連合艦隊、軍令部、航空本部、航空隊などが揃って行った「い号作戦」研究会での戦訓には、零戦の優秀性を認めつつも「戦闘機と言えど将来においては防御を考慮すべき。被撃墜の大半は火災による。これを防げば戦闘能力は驚異的に向上する」というものも含まれていた。そのため重量と効果の問題など研究が進められ、1943年末生産の五二型には翼内燃料タンクに自動消火装置が装備され、五二乙型には風防前部に防弾ガラス、座席後部に防弾鋼板を装備するなど、この頃から零戦に防弾が導入されていった。
連合軍も次々と新鋭機を投入し零戦を脅かし始めた。大型・高速・重武装の米陸軍機ロッキードP-38ライトニングはその長大な航続距離から太平洋戦域に多数投入されていた。当初は零戦を含む軽快な日本軍機にドッグファイトに持ち込まれて苦戦することも多く、零戦搭乗員からは「ぺろハチ」などとあだ名を付けられるほどであったが、戦闘を重ねるに連れて対策を講じ、その高速性や重武装を活かした戦術に転換して零戦の難敵になっていった。アメリカ海軍と海兵隊は2,000馬力級エンジンを装備する、チャンスヴォートF4UコルセアとグラマンF6Fヘルキャットを戦場に投入した。しかし、F4Uコルセアも戦場投入当初はP-38と同様に、その機体特性を活かすことができず、零戦に対して苦戦している。1943年2月14日、ガダルカナル島に進出していた海兵隊戦闘機隊 VMA-124 のコルセア12機が、PB4Y4機の爆撃任務を陸軍のP-38・P-40と協同で行った。このとき、ブーゲンビル島上空で零戦に迎撃され、アメリカ軍各機は零戦の運動性に翻弄されて、コルセア2機、PB4Y2機、P-40とP-38の陸軍機6機の合計10機を撃墜されたのに対して、零戦は1機撃墜と惨敗を喫している。コルセアの初陣はほろ苦いものとなり、この日がバレンタインデーであったことから「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれることとなった。
日本軍の一大航空拠点となったラバウルには、1943年末から1944年初めにかけて、アメリカ軍が連日にわたって戦爆連合の大編隊を差し向け続けたが、その機数は1週間の間に延べ1,000機にも及んだ。ラバウル基地に集結した日本軍航空隊はラバウル航空隊とも呼ばれた。ラバウル航空隊の零戦とアメリカ軍新鋭戦闘機隊との間で死闘が繰り広げられ、零戦は数も性能も勝るアメリカ軍戦闘機相手に善戦し、多数の撃墜を報告している。1944年1月17日の迎撃戦では、合計117機のアメリカ軍戦爆連合[104]を零戦79機で迎撃し、69機の撃墜を報告しながら全機無事に帰還している 。この日の様子を報道した日本ニュースのフィルムにも登場したエースパイロット岩本徹三は、自身の撃墜記録202機のうち142機をラバウルで撃墜したとされ「零戦虎徹」と呼ばれた。ラバウルでは他にも、西沢広義、杉田庄一、坂井三郎、奥村武雄など、零戦による多くのエースパイロットが誕生することとなった。
しかし、アメリカ軍パイロットも次第に、新鋭戦闘機の性能を活かした零戦対策を確立しつつあった。零戦に攻撃されたときにはまずは高速急降下を行い、その後急上昇してかわして、その後は高速性能と頑丈な機体を最大限活用して、水平、上昇、下降のあらゆる局面での飛行速度で零戦の機動性を打ち破る戦術が取られ、零戦は苦戦するようになっていく。機体性能や戦術のほかにも、前線が伸び切り補給が行き届かなくなった日本と、莫大な生産力を有するアメリカを中心とした連合国軍との戦況は完全に逆転しており、補給や補充も含めて総合的にも零戦の優位は完全に揺らいでいた。
大戦末期
零戦の実用化に目処が立った頃、海軍は三菱に十四試局地戦闘機(J2M1。後の雷電)の開発を指示している。しかし、試算により十四試局戦の性能が今ひとつであることが判明すると、より大馬力の発動機に換装した十四試局戦改/試製雷電 (J2M2) の開発を三菱に命じ、これを次期主力戦闘機(艦上戦闘機ではない)として零戦の減産と雷電の大増産計画を立てる一方、同じ頃に川西が提案してきた十五試水上戦闘機 (N1K1) の局地戦闘機化(後の紫電一一型、紫電二一型(紫電改))を許可している。しかし、雷電が数々のトラブルで早期戦力化が不可能、紫電一一型・二一型の実用化はまだ先という状況になったことから、この両機種の代替として零戦の武装・防弾の強化及び高速化に泥縄的に取り組まざるを得なくなってしまった。そのため、アメリカ軍が投入した新鋭戦闘機F6FヘルキャットやF4Uコルセアなどに対して零戦は劣勢を強いられていたが、雷電や烈風など零戦の後継機の開発に遅れた日本海軍は零戦の僅かな性能向上型でこれらに対抗せざるを得なかった。
しかし、武装強化や防弾装備の強化は却って零戦の最大の強みでもあった運動性の低下を招くこととなり、藤田怡与蔵によれば「操縦性、格闘力は何といっても二一型が優れていたので、二一型に若いパイロットたちを乗せ、五二型には自分たち古参のパイロットが乗って邀撃戦を展開した。その効き目は予期以上だった。空中でやられたのは五二型に乗っていた歴戦のベテランばかりで、その反対に、何機落とした、おれは2機だ、などと鼻息荒く帰投してくるのは、二一型で戦ってきた若い操縦者たちだった」という。
さらに、1943年から続々と就航したエセックス級航空母艦で編成されたアメリカ軍機動部隊搭載の大量の艦載戦闘機が日本軍を圧倒していく。また、これまでの激戦による消耗で戦闘機搭乗員の質の低下が著しく、その後継の育成にも失敗しアメリカ軍戦闘機パイロットとの質の格差は拡大する一方であった。日本軍戦闘機搭乗員によれば、1944年に入ると戦場の雰囲気はそれまでと一変して、零戦では性能が勝る大量のアメリカ軍戦闘機に対して防戦一方となってしまったという。特にF6Fヘルキャットは零戦にとって最大の難敵となり、コルセアと同様の機体の頑丈さと高速性能に加えて、機動性、運動性にも優れていたので、エースパイロット坂井三郎少尉は「零戦でF6Fヘルキャットから逃れられるのは、アメリカ軍パイロットが経験不足のときだけだ」と述べている。また、アメリカ軍の対空能力も飛躍的に進化しており、各空母に設置された戦闘指揮所(CIC)が、充実したレーダーを活用して、効率的な艦載戦闘機による迎撃戦闘を管制・指揮し、新兵器近接信管(VT信管)も含めた圧倒的な対空兵器によって日本軍の通常の航空攻撃を実質的に無力化してしていた。
大戦末期において零戦の運用にかなりの混乱も見られている。艦上爆撃機彗星が、小型空母や商船などを改修した改造空母では運用困難であったため、零戦に大型爆弾用懸吊・投下装置を設置、艦上爆撃機の代用(戦爆)として運用することとした。零戦戦爆はマリアナ沖海戦で勇躍して出撃したが、アメリカ軍機動部隊の戦闘指揮所(CIC)に管制された大量のF6Fヘルキャットが迎撃に飛来したので、爆装した零戦はその動きの鈍さから一方的に撃墜されて壊滅的な損害を被り、その様子は後日「マリアナの七面鳥撃ち」とアメリカ軍側から揶揄されてしまうこととなった。
あ号作戦のためマリアナ諸島に配置される予定であった第三〇一海軍航空隊戦闘三一六飛行隊には、アメリカ軍機動部隊艦載機迎撃のため、当時最新型の五二型が優先的に配備されたが、飛行長であった美濃部正少佐が、戦闘機搭乗員の消耗によって水上機から配置転換された熟練搭乗員の訓練において、「水上機パイロット出身者は零戦で訓練すれば、空中戦もすぐに上達する」などと楽観的に考えて、戦爆の訓練を優先し、空戦の訓練をほとんど行わせなかった。したがって、戦闘三一六飛行隊の練度に向上が見られず、訓練方針を問題視した航空隊司令の八木勝利中佐が、美濃部を問い質したところ、「そんなに短期間で空戦訓練ができるわけがない」「戦闘機の任務は空中戦ばかりではありません」などと反抗したので、八木は美濃部を更迭している[122]。結局、戦闘三一六飛行隊の戦闘機搭乗員は技術的には未熟のまま前線に出ることとなり、1944年6月11日、サイパンの戦いの前のアメリカ軍機動部隊による空襲の迎撃戦闘で、F6Fヘルキャットに一方的に撃墜されて、出撃した全機が未帰還となる惨敗を喫した。
その後、美濃部は夜間戦闘機部隊「芙蓉部隊」の指揮官となり、重武装、重装甲型の零戦五二丙型型が配備されたが、ここでも美濃部は、空戦の訓練を一切行わせず、芙蓉部隊の戦闘機搭乗員は空戦技術をほとんど持たなかった。この美濃部の方針によって、戦艦大和による海上特攻の際には、第五航空艦隊司令部からの戦艦大和の護衛要請を、多数の零戦を擁していたのにも拒否している。沖縄戦で美濃部は、1945年4月下旬より芙蓉部隊の零戦をアメリカ軍飛行場への機銃掃射に投入したが、アメリカ軍の激烈な対空砲火で、戦果はなかったのにもかかわらず損害が続出したので、まもなく任務継続不可能となり、早くも5月5日以降には艦船や潜水艦を発見したら銃撃するという索敵攻撃任務に回している。しかし、夜間戦闘機隊と称しても芙蓉部隊の零戦に夜間戦闘用の装備はなかったので、その後も芙蓉部隊の零戦夜戦隊はめぼしい戦果のないまま、夜間戦闘の装備が充実していたアメリカ軍の対空砲火や夜間戦闘機に撃墜されて損害が積み重なり、空戦では1機の撃墜戦果もなかったのに対し、1945年5月15日までに戦闘内外で零戦39機を失い、搭乗員の戦死率も60 %と非常な高率となった。このように大戦初期から中期には見られなかった零戦の大きな損害が見られるようになっていく。
また、敵手に落ちたマリアナ諸島の飛行場が拡張整備され、1944年11月6日の航空偵察で地上に並ぶB-29を撮影した海軍は、零戦による硫黄島からの片道攻撃で、駐機するB-29を銃撃し焼き払う事を計画、第二五二海軍航空隊で「第1御盾隊」を編成した。このとき準備された零戦について兵器員、杉本寅夫(二五二空、戦闘三一七飛行隊)は「五二型の新品で武装は13ミリ機銃5梃(両翼各2梃、胴体1梃)、20ミリは装備しておらず、現地にて製造番号、日の丸とも真っ黒に塗り潰された」と書いている。出撃は1944年11月27日で、偵察機「彩雲」 2機の誘導を受けた零戦12機がB-29が展開するサイパン島のイズリー飛行場を襲撃した。奇襲は成功し、午前10時40分から、零戦は地上に並んでいたB-29を3度にもわたって徹底的に機銃掃射し、4機爆破炎上、6機大破、23機損傷という大戦果を挙げている。零戦は最後まで攻撃を続け、激しい対空砲火と迎撃してきたP-47に撃墜され、1機だけが生還したが、不時着基地として指定されていたパガン島に到達したとき、執拗に追跡してきたP-47に撃墜され全滅した。
零戦戦爆がアメリカ軍機動部隊に通用しないのは明らかであったが[134]、日本軍は捷一号作戦の作戦準備として、フィリピンにおいて零戦戦爆に反跳爆撃の訓練を行わせていた。しかし、ダバオ誤報事件で零戦を多数損失すると、もはや戦爆での運用は困難となり、やがてフィリピンに連合軍が侵攻してくると、関行男大尉ら戦爆として訓練していた零戦搭乗員によって、1944年10月20日最初の神風特別攻撃隊が編成され、それ以降も終戦まで零戦は特別攻撃隊に使用された。フィリピンの戦いや硫黄島の戦いで零戦は、護衛空母「セント・ロー」や「ビスマーク・シー」の撃沈を含めて、多数のアメリカ軍艦船を撃沈破するといった戦果を挙げている。沖縄戦では、特別攻撃隊に対応してさらに強化された連合国軍の警戒網を突破するために日本陸軍側も戦術を工夫して突入を成功させ、零戦の特攻による確実な戦果としては、空母「エンタープライズ」や「バンカーヒル」を大破炎上させている。沖縄戦で零戦は特攻機の主力として、延べ602機が出撃し、うち320機が未帰還となったが、公式記録上、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と甚大なものであり、その大部分は特攻による損害で、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている。
アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島からは、新型爆撃機ボーイングB-29が日本本土に来襲し、日本本土空襲が激化した。海上からも日本本土に接近した連合軍機動部隊の艦載機が来襲したので、それらを迎撃する日本本土の各航空隊に零戦は配備されたが、性能の劣後は明らかになっており、迎撃戦の主力は海軍は雷電、紫電改、陸軍は三式戦闘機、四式戦闘機、五式戦闘機などとなっていった。
しかし、熟練搭乗員が操縦する零戦は空戦においても依然として活躍しており、真珠湾攻撃にも参加したエースパイロット岡嶋清熊大尉が率いた戦闘三〇三飛行隊は、制空任務や特攻機護衛任務で敢闘、1945年3月18日に開始された九州沖航空戦では、3月18日から19日にかけての2日間で12機の敵機撃墜を報告している。岡嶋自身も出撃しているが、機銃が故障で射撃ができなくなってしまったのにもかかわらず、2機のF4Uコルセアと空戦を行い、技量の劣る部下の安部正治一飛曹をF4Uコルセアが捉えようとするたびに、岡嶋は攻撃をするふりをして追い払い、最後はF4Uコルセアは諦めて帰還したので、岡嶋は故障した機銃で見事に自機と安部機を守りきっている。後日には、鹿児島県鹿屋市笠ノ原基地上空で邀撃戦を行い、単機で侵入してきたF6Fヘルキャットを撃墜、その後に新たに現れたF6Fも巧みにかわして生還している[142]。その後は沖縄戦に参加。岡嶋は「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念の持ち主であり、最後まで空戦任務に拘り続けた。岡嶋が率いた戦闘三〇三飛行隊は連日の激戦で、沖縄戦中に89名の戦闘機搭乗員のうち38名を失ない戦死率は43 %にも上ったが、これは特攻隊として編成された第二〇五海軍航空隊の103名の特攻隊員中戦死者35名(戦死率34 %)よりも高い戦死率となっている。
硫黄島が硫黄島の戦いでアメリカ軍に攻略されると、P-51マスタングやP-47サンダーボルトといったアメリカ陸軍の新鋭戦闘機も来襲するようになった。特にP-51マスタングは、最高速度が704 km/hと零戦を133 km/hも上回り、上昇力も急降下速度も比較にならないほどの高性能であり、第二次世界大戦中の最優秀戦闘機とも評され、もはや零戦には対抗困難な次世代の戦闘機であった。日本軍は本土決戦を見据えた戦力温存策で、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになっており、零戦とP-51の交戦記録は少ないながらも、1945年8月3日に第三〇二海軍航空隊のエースパイロット森岡寛大尉が撃墜を記録している。この時、対空砲に被弾し相模湾上空で機外に脱出した米パイロットの救助活動が展開されており、これを援護するためP-51 4機が高度1000mほどの低空を飛行していた。五二丙型に乗る森岡大尉が零戦4機の先頭に立ち、太陽を背に優位から攻撃。ジョン・J・コネフ少尉のP-51が命中弾を受けて発火、海面に突っ込む確実な撃墜であった。
零戦は終戦時まで戦い続け、1945年8月15日午前5時30分に、房総沖から来襲したアメリカ・イギリスの艦載機約250機を第三〇二海軍航空隊の零戦8機、雷電4機、第二五二海軍航空隊が零戦15機で迎撃、F6Fヘルキャット4機、シーファイア1機、TBFアベンジャー1機を撃墜したが、零戦8機を失っている。終戦後の8月17日にアメリカ軍爆撃機B-32 ドミネーターを攻撃したのも零戦と言われ、B-32 ドミネーターは被弾しながらも撃墜は免れたが、第二次世界大戦におけるアメリカ兵最後の戦死者となるアンソニー・マルキオーネ軍曹を出している。
戦後
終戦時に残存していた零戦は1,166機であり、これは日本軍航空機では九三式中間練習機に次ぐ機数であった。残った零戦は、イギリスやアメリカ、オーストラリアなど連合国軍によりテスト用に持ち去られた分以外はすべて廃棄処分にされ、完全な形で日本に残っていた機体は少ないが、廃棄された機体や残骸から復元した機体が展示品として国内に複数存在する。
2017年時点で飛行可能な復元機は5機(二二型2機と、五二型、二一型、複座二二型、各1機)存在するが、全てアメリカにある。オリジナルの栄エンジンを搭載するのは五二型61-120号機1機だけで、これも破損やFAA(アメリカ連邦航空局)の安全基準に適合させるため、キャブレターなどはB-25のR-2600から取り出した部品を使っている。他はP&WのR-1830など、サイズが近く入手性の良いエンジンで代用している。
アメリカ国内での操縦には、飛行機の操縦士(単発ピストン)の他、FAAが定めた零式艦上戦闘機の機種限定ライセンス『MI-A6M』が必要となる。ポール・アレンは個人で3機(飛行可能1機)を所有、全てフライング・ヘリテージ・コレクションで公開し、飛行可能な1機は定期的にデモ飛行を行っている。
2016年(平成28年)1月27日、ゼロエンタープライズ・ジャパンが「零戦里帰りプロジェクト」で復元し、アメリカで登録した機体(N553TT)を海上自衛隊の鹿屋航空基地で試験飛行させた。戦後の日本国内で、日本人所有の零戦が飛行するのは初。2017年にはレッドブル・エアレース・ワールドシリーズの千葉大会でデモ飛行を行った。
参考:『日独伊三国同盟』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
日独伊三国同盟
正式名称 日本國、獨逸󠄁國及󠄁伊太利國間三國條約󠄁
Dreimächtepakt zwischen Deutschland, Italien und Japan (ドイツ語)
PATTO TRIPARTITO FRA L'ITALIA, LA GERMANIA E IL GIAPPONE (イタリア語)
署名 1940年(昭和15年)9月27日
署名場所 ベルリン、総統官邸
発効 1940年9月27日(第6条)
失効 1945年5月7日
締約国 原加盟国
大日本帝国(日本)
ドイツ国
イタリア王国
加盟国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国
スロバキア共和国の旗 スロバキア共和国
ブルガリアの旗 ブルガリア王国
クロアチア独立国
ユーゴスラビア王国の旗 ユーゴスラビア王国(枢軸国加入)
文献情報 昭和15年10月21日官報第4137号条約第9号
条文リンク 条約本文 - 国立国会図書館デジタルコレクション
日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい、旧字体: 日獨伊三國同盟󠄁、独: Dreimächtepakt、伊: Patto tripartito)は、1940年(昭和15年)9月27日にベルリンの総統官邸で調印された日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟である。正式名称は「日本国、独逸国及伊太利国間三国条約」である。
ヨーロッパ戦争、日中戦争に参戦していない国(主にアメリカを想定)からの攻撃に対する相互援助を約束した。第二次世界大戦における枢軸国の原型となり、その後複数の枢軸側に与した国や友好国も加盟した。
概要
日独伊三国間条約では1936年(昭和11年)の日独防共協定、1937年(昭和12年)の日独伊防共協定では曖昧だった三国の協力関係が具体化され、アジアにおける日本の指導的地位およびヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認と、調印国いずれか1か国が、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線や日中戦争に参加していない国から攻撃を受ける場合に相互に援助するとの取り決めがなされた。
このため、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)率いるドイツと対立するイギリスやオランダと日本の関係が悪化し、アメリカ合衆国の対日感情も悪化することになった。また、ドイツにとっては、ヨーロッパ戦線におけるアメリカの参戦を牽制する狙いがあった。
なお、この三国は、フランス、アメリカ合衆国、スペイン、ポルトガルなどに比べると植民地獲得が遅れていたと言われるが、日本とイタリアにおいては、第一次世界大戦の戦勝国としてイギリスやフランス、オランダに比べ少ないながらも植民地を所有していた。
日本は1895年(明治28年)に日清戦争に勝利し、台湾を併合した他に天津租界を領有していた。また、日露戦争に勝利した結果、朝鮮(大韓帝国)を1910年(明治43年)に併合し、日本領土として日本語教育やインフラストラクチャーの拡充を進めていた。 日露戦争勝利後の1905年(明治38年)9月に締結されたポーツマス条約によって、ロシア帝国から譲渡された東清鉄道(中東鉄道)南満洲支線(長春・旅順間鉄道)を運営していた。
さらに第一次世界大戦の戦勝国となった結果、ヴェルサイユ条約によって1920年に国際連盟の委任統治領として、ドイツが植民地としていたグアムを除く赤道以北などのサイパンやパラオ、ポナペなどの南洋諸島を託され、国際連盟規約により軍事基地は設営できぬものの、事実上の植民地として運営していた。
イタリアは1914年からの第一次世界大戦までには、アフリカの紅海沿岸にあるエリトリア(イタリア領エリトリア)、 保護領を経て植民地となったソマリア(イタリア領ソマリランド)、そして後にリビアとして統一される元オスマン帝国領のトリポリタニア(イタリア領トリポリタニア)とキレナイカ(イタリア領キレナイカ、伊土戦争後に獲得)へと植民地を広げた。アフリカ以外では、トルコ沖のドデカネス諸島(イタリア領エーゲ海諸島、伊土戦争後に獲得)と日本同様に天津租界を領有していた。第一次世界大戦中のイタリアはアルバニア南部を占領してオーストリア=ハンガリー帝国の手に渡ることを防ぎ、1917年からヴロラ戦争が1920年に起きるまでの間にはそこへイタリア保護領アルバニア (1917-1920)を成立させた。
しかし日本もイタリアも1920年代後半の大恐慌以降、これらの植民地を持ちながらも経済不況にあえいでいて(例えば朝鮮は併合したものの、運営は赤字であった)、経済不況を救う鍵を軍事力による更なる領土拡大に求めていた。
イタリアでベニート・ムッソリーニとともに政権を握ったファシスト党は、帝国の規模を拡大して領土回復主義者の要求(未回収のイタリア)を満たそうとした。日本も五・一五事件や二・二六事件など、度重なる軍事クーデターや政党政治家の暗殺により軍部の発言力が強くなっていた。またドイツは、第一次世界大戦で30年近く保持していた各地の植民地をすべて失い、経済不況を救う鍵を同じく領土拡大に求めていた。
締結に至る経緯
日独伊三国同盟への動きは、1938年夏から1939年夏までの日独伊防共協定強化への動きと、1940年夏から三国同盟締結に至るまでの動きの二つに分けられる。前者は対ソ同盟を目指したもので、独ソ不可侵条約の締結により頓挫した。後者の交渉ではソ連を加えた4か国による対米同盟を日独外相は望んでいたが、全ての関係者の思惑が一致したわけではなかった。
日本側の利害関係
既に日中戦争で莫大な戦費を費やしていた日本は、中華民国を支援するイギリスとアメリカと鋭く対立していた。日本政府は日独伊防共協定を強化してドイツと手を結び、イギリスとアメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとしていた。また日本がアジア太平洋地域の英米仏蘭の植民地を支配することを、事前にドイツに了解させる意図もあった。
ドイツ側の利害関係
ドイツ側の狙いはアメリカがイギリス側で参戦するなら、アメリカは日本とドイツに対する二正面作戦のリスクを冒すことになるという威嚇効果を得て、アメリカ参戦を防ぐことにあった。
反英親ソの外相リッベントロップは三国同盟にソ連を加えた四国同盟に発展させ、巨大反英ブロックを形成する構想をもっていたが、1940年秋にバルカン半島やフィンランドを巡って独ソ関係が悪化しつつあり、1940年11月12日のモロトフ訪独も平行線で終わり、ヒトラーは対ソ作戦の準備を開始することになる。
イタリア側の利害関係
かつてオーストリア問題を巡ってドイツと対立していたイタリアは、英仏の警告を振り切って行ったエチオピア侵攻によって、国際連盟を脱退するなど孤立を深めていった。それ以降イタリアはドイツに接近し、1936年のスペイン内戦ではともにフランシスコ・フランコを支援し、10月にいわゆるベルリン・ローマ枢軸構想を掲げた。また軍部が日本との間に軍事協力を模索する動きもあった。
一方でイタリアと英仏の緊張緩和も行われ、しだいに英仏・伊関係は修復されていったが、1939年4月にアルバニアへの侵攻・併合を行うと、再びイタリアの立場は孤立化した。これに対抗するべく5月には独伊軍事同盟条約(鋼鉄協約)に調印している。第二次世界大戦勃発は、ムッソリーニにとっては誤算だった。イタリアの経済状態は貧弱であり、軍部は参戦に否定的であり、ムッソリーニも「日本が日中戦争に勝利する1942年」までは戦争はできないと判断していた。しかし戦争においてドイツが優勢になると、ムッソリーニは枢軸側での参戦に傾いていった。海軍は日本からのゴムとタイヤの輸入に期待を示していたが、ガレアッツォ・チャーノ外相や陸軍にとって日本は余りに遠すぎ、期待を持てない相手であった。
第一次交渉
1936年11月に日独防共協定が締結された後、中華民国を援助する英米を牽制する目的と、独伊の中華民国への武器売却を完全に止めさせるために、軍事同盟への発展を唱える動きがあった。
特に駐独大使大島浩、駐伊大使白鳥敏夫は熱心で、同盟案に参戦条項を盛り込むべきと主張し、独伊政府にも参戦の用意があると内談していた。1938年7月に開催された五相会議において同盟強化の方針が定まり、1939年3月の会議で決定された。この時平沼騏一郎首相が同盟強化案を昭和天皇に奏上しているが、参戦条項は盛り込まないこと、大島・白鳥両大使が暴走すれば解任することなどを確認している。
しかしドイツは参戦条項を盛り込むべきと要求。これに陸軍内部からも呼応する声が多く、陸軍大臣の板垣征四郎以下陸軍主流は同盟推進で動いた。一方英米協調派が主流を占めた海軍には反対が多く、海軍大臣の米内光政以下、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美は特に「条約反対三羽ガラス」と条約推進派(親独派)から呼ばれていた。また軍令部総長として形の上では海軍の最高権威者だった伏見宮博恭王をはじめ、前海相の永野修身、元首相・海相の岡田啓介、さらに小沢治三郎、鈴木貫太郎など、陸軍でも石原莞爾・辰巳栄一などが条約締結に反対していた。その他内大臣の湯浅倉平、外相の有田八郎、蔵相の石渡荘太郎、元老の西園寺公望も反対派だった。そもそも昭和天皇が参戦条項には反対しており、5月9日に参謀総長の閑院宮載仁親王が参戦条項を認めてもよいという進言を行った際には明確に拒否している[18]。しかし5月に第一次ノモンハン事件が勃発し、その最中の8月27日に独ソ不可侵条約が締結されると平沼内閣は総辞職し、三国同盟論も一時頓挫した。平沼の後の阿部内閣と米内内閣では三国同盟案が重要な課題となることはなかった。
同盟締結
1940年になってフランスが敗北し、ドイツが俄然有利になると三国同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍ではこの「バスに乗り遅れるな」という声が高まり、本国が敗北し亡命政府の統治下となったオランダ領インドネシアや、イギリス領マレー半島を確保しようとする「南進論」の動きが高まった。陸軍首脳は親英米派の米内内閣倒閣に動き、近衛文麿を首班とする第2次近衛内閣が成立した。陸軍は独伊との政治的結束などを要求する「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」案を提出し、近衛もこれを承認した。近衛内閣には外相として松岡洋右が入閣したが、松岡は日・独・伊・ソ4か国同盟を主張していた。一方、農相の石黒忠篤らは反対派だった。9月5日には吉田善吾が病気を理由に海相を辞任し、後任に及川古志郎が就任した。
9月7日にはドイツから特使ハインリヒ・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。松岡は南進論を選んだ際にアメリカが対日戦を考える可能性は高く、同盟を結んでも阻止できる確率は「五分五分」と見ていたが、現在のままでは米英のいいなりになると主張、同盟締結を強硬に主張した。近衛もほぼ同意見で、9月13日の四相会議、14日の大本営政府連絡会議、16日の閣議を経て同盟締結の方針が定まった。しかし一方で松岡は、条約が想定しているドイツ・アメリカ戦争について、日本が自動的に参戦することを避けようとしていた。松岡と自動参戦の明記を求めるスターマーの交渉の結果、条約本文ではなく交換公文において「第三条の対象となる攻撃かどうかは、三国で協議して決定する」こととなり、自動参戦条項は事実上空文化した。及川海軍大臣も近衛・松岡・木戸らの説得により条約締結賛成にまわった。及川が述べた賛成理由は「これ以上海軍が条約締結反対を唱え続けることは、もはや国内の情勢が許さない、ゆえに賛成する」という消極的なものだった。また及川とともに松岡らの説得を受けた海軍次官の豊田貞次郎は、英独戦への参加義務や、米独戦への自動参戦義務もないことで、「平沼内閣時に海軍が反対した理由はことごとく解消したのであって、(三国同盟が)できたときの気持ちは、他に方法がないということだった」と回想している。
9月15日に海軍首脳会議が開かれたが、阿部勝雄軍務局長が経過を報告し終わると、伏見宮軍令部総長が「ここまできたら仕方ないね」と発言、大角岑生軍事参議官が賛成を表明、それまで同盟に反対していた山本五十六連合艦隊司令長官は「条約が成立すれば米国と衝突するかも知れない。現状では航空兵力が不足し、陸上攻撃機を二倍にしなければならない」と発言して会議は終わった。
同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は「今しばらく独ソの関係を見極めた上で締結しても遅くないのではないか」と危惧を表明したが、近衛首相は「(ドイツを)信頼致してしかるべし」と奉答した。天皇は続いて「アメリカと事を構える場合に海軍はどうだろうか。海軍大学の図上演習ではいつも対米戦争は負けると聞いた」と、戦争による敗北の懸念を伝えたが、近衛は日露戦争の際に伊藤博文首相が「万一敗北に至れば単身戦場に赴いて討ち死にする」と語ったことを引き合いに出し、及ばずながら誠心奉公すると回答した。これを近衛から伝え聞いた松岡や中野正剛らは号泣したという。ただし伊藤の話は金子堅太郎から近衛が聞いたというもので、西園寺公望はそもそも疑わしいと見ていた。昭和天皇は調印三日前に木戸幸一内大臣に、三国同盟は「日英同盟の時のようにただ慶ぶというのでなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告するとともに、神様のご加護を祈りたい」と話したという。
9月19日の第三回御前会議で原嘉道枢密院議長は「…本条約は米国を目標とする同盟条約で、これを公表することにより、米国の欧州戦線への参戦を阻止しようとする独伊の考えである。米国は最近、英国に代り東亜の番人を以て任じ、日本に対し圧迫を加えているが、なお日本を独伊側に加入せしめないため、かなり手控えているだろう。然るにこの条約発表により、日本の態度が明白となれば、日本に対する圧迫を強化し、極力蒋介石を援助して日本の事変遂行を妨ぐるだろうし、又、独伊に対し宣戦していない米国は、日本に対しても経済圧迫を加え、日本に対し石油、鉄を禁輸する共に、日本より物資を購入せず、長期にわたり日本を疲弊、戦争に堪えざるに至らしむる如く計るだろうと考える…」と質問した。またヨーロッパ戦線にアメリカが参戦した際に日本が参戦しなければならないのかという議論もあったが、松岡は手続き上の問題が残されていると言って押し切り、同盟締結は正式に決定された。
9月26日の枢密院では深井英五顧問官は「条約の前文には、万邦をしてその所を得しむとあるが、ヒットラーは嘗て『他の民族に対し弱肉強食は天地の公道なり』と揚言しており、思想観念が相反するではないか」と述べ、石塚英蔵顧問官は「ドイツ国との条約は過去の経験上、十全を期し難し、政府は如何にして彼の誠意を期待し得るか」と警告し、石井菊次郎は「由来、ドイツと結んで利益を受けた国はない。…ヒットラーも危険少なからぬ人物である。わが国と防共協定を結んでおきながら、それと明らかに矛盾する独ソ不可侵条約を結んだ…」と述べた。しかし結果的には承認された。
9月27日、東京の外相官邸とベルリンの総統官邸において調印が行われた。
日独伊三国同盟条約調印書
条約原文は英文テキストでこれにベルリンで署名調印され、約3週間後に日本で印刷されたテキストを駐日ドイツ大使館クーリエに依りドイツに運ばれ改めて署名調印された。現在見られるのは後者の方で外務省外交史料館に展示されている。
条約調印式はベルリンで行われ、ドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、イタリア外相ガレアッツォ・チャーノ、日本からは特命全権大使の来栖三郎が条約に調印した。
締結直後の反応
条約締結後の外務省情報部長須磨弥吉郎は10月4日、「9月27日は日本のみならず世界の史的転換への一日であった」とラジオ演説を行い、条約の意義を強調した。当時アメリカは第三条の自動参戦条項が松岡によって骨抜きにされていたことを知らず、対日警戒感をいっそう強めた。
条約締結を知った駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーは日米両国の友好関係継続は「絶望」になったとみなし、「これは、過去に私が知っていた日本ではない」と嘆いた。イギリスは10月に閉鎖される予定だった援蒋ビルマルート(支那事変で日本と国民政府の対立の際、英米ソが国民政府を軍事援助するためのルート)の継続を通知した。中国国民党との和平交渉桐工作も中止が命令された。
アメリカが自動参戦条項の実態を知ったのは、終戦後の1946年に、連合国軍に抑留されたオットとスターマーを尋問した時と見られている。
同盟拡大の動き
1940年11月にハンガリー、ルーマニア、スロバキア独立国が、1941年(昭和16年)3月にはブルガリア、6月にはクロアチア独立国が軍事同盟に加盟した。またユーゴスラビアも1941年3月末に[10]しているが、加盟に反対する国軍がクーデターを起こし、親独政権が崩壊した結果、加盟は取り消されている。さらに1941年11月にはデンマークも加盟した。
また枢軸国の一員となったフィンランドは1940年8月にドイツと密約を、やはり枢軸国として名を連ねたタイも1941年12月日本と日泰攻守同盟条約をそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。満州国は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は日本と一体化していた。また防共協定に加盟したスペイン(フランコ政権)も三国同盟には加わらなかったが、戦争の前半期においては協力的な関係を持った(第二次世界大戦下のスペイン)。
ドイツとソ連の間では重大な動きがあった。1940年11月15日、ソ連のモロトフ外相は駐ソ・ドイツ大使をクレムリンに招き、ソ連は「日独伊ソ四国同盟」を締結する準備があると告げた。条件は、ドイツ軍のフィンランドからの撤退、ソ連ブルガリア協定の締結、ボスポラスとダーダネルス両海峡における海軍基地建設のための長期借地権、北サハリンにおける日本の石炭・石油採掘権の放棄だった。スターリンは四国同盟の調印を了承していたが、ソ連侵攻を考えていたヒトラーは返答しなかった。スターリンは最後まで四国同盟締結の希望を失わず、ドイツ軍の奇襲を許してしまった。
松岡外相は三国同盟にソ連も参加させた四国によるユーラシア枢軸構想(四国連合構想)によってアメリカに対抗しようと考えていた。松岡はそのため1941年3月から独・ソ・伊三国を歴訪し、それぞれの指導者を歴訪した。この結果日ソ間で結ばれたのが日ソ中立条約である。リッベントロップも同じような構想を抱いていた。イタリアは既に1933年に伊ソ友好中立不可侵条約を結んでいた[30]。しかし日伊に通告なく始められた独ソ戦によってその構想は消えてしまった。近衛は、独ソ戦によって三国同盟の意味が無くなったとして同盟を破棄することも考えたが、陸軍の反発を恐れて結局この考えを公に提起することは無かった。松岡は直ちに対ソ攻撃するよう主張したが、陸軍内部ではソ連の敗北が明らかになってから参戦する「熟柿論」が台頭したため、結局参戦を見合わせた。
同盟の実態
同盟条約の条文に拠れば、いずれか1か国が現在戦争に関係していない国から攻撃を受けた場合にのみ相互援助義務が生じる。このため、1941年6月22日未明に独ソ戦が始まった後の1941年7月には、日本はドイツに呼応して挟撃する動き(関東軍特種演習)を見せたものの結局はソビエト連邦と中立関係を保った。
一方、日本が1941年12月8日に英米と開戦した後、相互援助義務は生じないにもかかわらず、ヒトラーとムッソリーニは12月11日にアメリカに対して宣戦布告した。その後日独伊3国によって、日独伊単独不講和協定(1941年12月11日締結、17日公布)が締結され、さらに翌年1月18日には共通の戦争指導要綱に関して日独伊新軍事協定も結ばれて同盟関係は強化された。連合国側も同様に1月1日に連合国共同宣言を発し、世界は二大同盟による戦争に突入した。
しかし合同幕僚長会議などを設置し緊密に連絡を取り合っていた連合国に対し、枢軸国では戦略に対する協議はほとんど行われなかった。対ソ宣戦、対米宣戦の事前通知は行われなかった。日独伊共同作戦についても、後述のように日本・ドイツや日本・イタリアの海軍作戦こそ行われ成功したが、両国本土から数千キロ離れた日本と両国の陸空軍の共同作戦は、同盟関係が保たれている間一度として行われなかったなど、一枚岩の同盟とは言えなかった。
同盟初期の関係
日本は1941年12月に第二次世界大戦へ参戦したマレー作戦以前から、ドイツに対しイギリスに察知されない範囲、中立義務に違反しない範囲で以下のような情報を提供していた。
英国の部隊および艦船の動静に関する情報
補給船に対する食糧・燃料や分品などの提供
武装商船・補給船への基地の提供
ドイツ商船の日本回航時の偵察援助
ドイツ補給船の入渠および修理
駐英武官報告からの英国情報、特に艦艇の被害状況やロンドン空襲の効果
1940年11月22日、パウル・ヴェネッカー駐日武官はオットー・シュニーヴィント海軍軍令部長に「ドイツにとり第一の、かつ最も重要な目標は英国の屈服であり、日本の対英参戦こそ、この方向への第一歩である。…日本を扇動して南方へ攻勢をとらせるよう全力を傾注すべきと思考する。日本陸軍首脳もこの見解に反対でないので、海軍の説得に成功すれば、この方向へ進出することへの障害はすべて除去されるであろう」という電報を発した。12月27日、ドイツ海軍総司令部がヒトラーに日本軍のシンガポール攻略は英国の戦意を喪失させるが、米国の介入を招くことはないであろうと意見具申を行い、翌1941年1月18日にドイツはシンガポール攻略を日本に要請した。2月23日、リッベントロップ外相が大島浩大使に「自らの利益のためにも、可及的速やかに参戦されたい。決定的打撃はシンガポール攻略であろう。日本が講和条約締結までに手中に入れたい東南アジアの資源地帯を確保しておくことが、日本の国益や新秩序建設のためにも必要であろう。また、米国が参戦し艦隊をアジアに派遣するほど軽率ならば、戦争を電撃的に終わらせる最大の好機となるであろう。すべての仕事は日本艦隊が片付けると確信している」とシンガポール攻略を要請すると、大島大使は「自分も同意見であり、…現在は陸・海軍ともにシンガポール攻略を準備中で、5月までには完了するであろう」と回答した。3月4日、オイゲン・オット駐日独大使は、杉山元参謀総長および永野修身軍令部総長などを大使館に招き、「ドイツの英本土上陸作戦に呼応してシンガポールを攻略するのがよいではないか。米国の戦争準備ができる前に英国が崩壊に瀕した場合は、米国が戦争に入ることはないと思います」とシンガポール攻略を要請した。3月13日、ヴェネカー武官は近藤信竹海軍軍令部次長を訪問し、英国を屈服させれば米国は対英支援を中止し参戦はしないであろう。現在のような有利な態勢は今後50年ないし100年内に二度と訪れることはなく、今が絶好の好機であると説得したが、近藤少将の回答は変わらなかった。親独派の関根郡平少将が海軍省からシンガポール攻略の主張を控えるよう注意されるなど、海軍のシンガポール攻略熱は低下していた。オット大使はシンガポール問題は対ソ問題であると報告した。
松岡洋右外相は1941年3月27日と4月4日にヒトラーと会談し、可及的速やかにイギリス領シンガポールを攻略することが日本の利益である、またドイツにとってもきわめて重要であるとシンガポール攻略と強く要請された。しかし、海軍の態度は、4月9日に陸軍に送付した対南対策では、「もっぱら外交に依る。好機に投ずる武力行使なし。自存自衛のため初めて起つ。英国勢力の駆逐なし」であり、英国が敗れた場合でも「好機にあらず。対日武力圧力はむしろ加わる。日本は米が対日武力圧力を加え来たりたる場合、初めて南方に武力行使をなすべし」という消極的なものであった。
日独伊共同作戦
数少ない日本とドイツとイタリア三国間、日本とドイツまたは日本とイタリアの二国間の軍による共同作戦が行われたのは、イギリスとその植民地のインド、アフリカ、オーストラリア、マレー半島を結ぶ上に、スエズ運河につながることから、長年イギリスが支配していたインド洋における海軍の作戦であった。
なお、隣国である独伊間の陸空軍の共同作戦は行われたものの、両国本土から数千キロ離れた日本と両国の陸空軍の共同作戦は、同盟関係が保たれている間一度として行われなかった。
セイロン沖海戦
1942年2月18日、クルト・フリッケ(de:Kurt Fricke)独海軍作戦部長から、当時日本海軍がイギリス海軍を放逐しつつあったインド洋への潜水艦の派遣が要請され、「米英の造船能力に鑑み、日本が月に20万トンから30万トンを撃沈できれば、イギリスは両手を挙げるであろう」と、海上交通破壊戦の重要性を強調された。ついで3月27日にもフリッケ中将から、現在の戦局重点は中近東、スエズ、エジプトにあり、日本海軍がドイツ、イタリアのエジプト進攻に呼応して、アフリカ東方海域を北上する船舶を攻撃し、連合国の補給路を遮断することを強く要請された。
その後4月上旬に行われたセイロン沖海戦で日本海軍は、イギリス海軍の空母1隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦2隻を撃沈し、その結果イギリス海軍の残存艦艇は、5月上旬に親独のヴィシー政府軍から奪ったアフリカ大陸南部沿岸のマダガスカルに避難した。
マダガスカルの戦い
5月31日に日本海軍は残存イギリス海軍艦艇を壊滅すべく、大型潜水艦でマダガスカルを攻撃し、1隻を撃沈し1隻を大破させ、さらに上陸した水兵が小規模な戦闘をおこなった。
さらにドイツおよびヴィシー政権からマダガスカル奪還作戦への協力を依頼されたものの、この時点における最大の目的を貫徹していた日本海軍にとって、補給が困難な上に主戦場から遠く離れているマダガスカルは軍事戦略的に重視しておらず、ドイツ海軍およびヴィシー政府軍による増援要請があったからといっても更なる戦力を割いてまで制圧するための追加派遣は行わなかった。
追加派遣要請
さらにミッドウェー作戦を計画中でアフリカ沿岸までに大量の艦船を派遣するほどの戦力がなかったため、5月31日の作戦以降は日本海軍による目立った作戦行動や、日本陸軍戦力の上陸およびヴィシー・フランス軍への支援および援助行動は行われなかった。しかしインド洋へのドイツからの派遣要請はミッドウェー敗戦後も続き、6月22日にはフリッケ中将から、「スエズ作戦が全戦局に及ぼす影響は極めて大きく、ミッドウェー海戦ではアメリカ軍が辛くも勝利したものの、太平洋各地で敗戦を重ねる連合国軍による大規模な反攻は数ヶ月間はあり得ない」という意見を根拠に、日本海軍のさらなるインド洋進出を強く要請された。
この要請に日本海軍はインド洋派遣中の仮装巡洋艦と潜水艦の派遣期間を延長すると応じたが、ドイツ海軍の不満は強かった。7月19日にはイタリア軍参謀次長からフリータウン港付近の輸送船を撃沈するよう要請された。6月20日、ドイツ軍が北アフリカのトブルクを占領すると、7月7日と11日に永野軍令部総長は、第二艦隊と第三艦隊を基幹とする兵力でインド洋中部さらに西部に進出する作戦を上奏した。
9月7日、フリッケ作戦部長は日本がインド洋のアフリカ沿岸部に部隊を派遣しなかったため「戦略的に時期遅れとなってしまった」と非難し、野村中将も「三国同盟の対敵目標は軍事協定で合意したとおり、英米でなければならぬのに、対ソ戦を重視するドイツの戦争指導は三国同盟の趣旨に反する」と反論するなど、日独間には摩擦と亀裂が深まった。
アメリカ軍およびオーストラリア国防軍と対峙するソロモンとニューギニア方面の作戦の都合上、日本軍にとって重要性が低かった大規模なインド洋での作戦が中止されると、独伊両国の不満が高まり、「日本が勝手にアメリカと戦争を始め、ドイツ、イタリアを引っ張り込んだが、同盟国が苦戦しているのに協力しない、日本は利己一点張りである」という非難や、「こんなことならアメリカに対して宣戦布告を行うべきでなかった」といった非難が聞かれるようになった。
三国共同作戦
これらの作戦は主に日本とドイツ、または日本とイタリアの二国間の間で行われたものであったが、イタリアが連合国軍に降伏するまでの短期間ではあったものの、インド洋と中国において日独伊三国の共同作戦が行われた。
1942年8月6日には、日本海軍の伊号第三十潜水艦がインド洋を経由してドイツ占領下のフランスのロリアンに派遣された。その後1944年にかけて日本海軍の潜水艦がドイツとの間を往復し、インド洋と大西洋では共同で通商破壊作戦も行った(遣独潜水艦作戦)。
また、ドイツ海軍からも潜水艦と封鎖突破船16隻が派遣され(柳船)、日本軍占領下のペナンとシンガポールを拠点にインド洋で日本海軍の協力の元通商破壊作戦を行い、連合国軍の輸送船などを撃沈、鹵獲している。また一部の封鎖突破船は横浜港を拠点に太平洋でも活動した。
イタリア海軍は日本の開戦当時、イタリア極東艦隊が天津租界周辺と日本本土周辺において共同活動を行ったほか、ドイツ軍占領下のフランスのボルドー軍港にドイツ海軍との協同作戦基地を保持し、1943年3月にドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。またイタリア海軍は、日本が占領下に置いたシンガポールに潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。
しかし、9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、工作船や海防艦、客船などは日本軍に接収、もしくはイタリア海軍により自沈され、5隻の潜水艦はシンガポールの潜水艦基地でドイツ海軍に接収され、ここに日独伊三国の共同作戦は終了した。
日伊連絡飛行
1942年には、イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域との飛行を行うことを計画し、グイドーニア・モンテチェーリオからイタリアと離陸後戦争状態にあったソビエト連邦を避けて、ドイツ占領下のウクライナのザポリージャ、アラル海北岸、バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空、モンゴル上空を経由し、6月30日に日本占領下の内モンゴル、包頭に到着した。
その後東京へ向かい7月16日まで滞在し、7月18日包頭を離陸してウクライナのオデッサを経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、この任務を完遂した。外交上の理由による日本の不同意にもかかわらずイタリアは8月2日にこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった。
なおその後日本軍が逆のコースで飛行しようとしたが、輸送機が行方不明になりとん挫した。またドイツ軍も同様の飛行を行おうとしたが、長距離飛行に適した機材が無いとの理由から断念している。
同盟の消滅
1943年(昭和18年)10月13日、連合国に降伏したイタリア王国はドイツに宣戦し、同盟を破棄した。日独両国は共同声明を発して同盟を再確認し、さらに三国同盟にはドイツの影響を受けたイタリア社会共和国が加わったが、1944年(昭和19年)に入ると東欧の同盟国は次々に離脱した。1945年(昭和20年)4月25日にイタリア社会共和国は解体され、同年5月7日にドイツが降伏し、残った日本政府はこの日付で同盟条約の失効を確認している。同年5月15日、外務当局の談話として、日独伊三国協定及び日独伊三国条約並びに関連のある帝国とドイツその他の欧州諸国との間に特殊協力関係を想定した諸条約は失効したものと認められる旨の発表を行った。
関連人物
大島浩(駐ドイツ日本大使、1938-39年、1940-45年)
松岡洋右(日本外相)
アドルフ・ヒトラー
来栖三郎(駐ドイツ日本大使、同盟締結時の日本代表)
ベニート・ムッソリーニ
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
ガレアッツォ・チャーノ(イタリア外相、同盟締結時の伊代表)
光延東洋
フォスコ・マライーニ
参考:『杉原千畝』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D
参考:『真珠湾攻撃』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83
1941年3月国民学校令が公布され,同年4月からそれ以前の小学校が国民学校に改められた。初等科6年,高等科2年で,ほかに特修科 (1年) をおくこともできた。「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とした。この名称はドイツのフォルクスシューレによったものであった。教科の編成を改め,教科書も新しく編集された。第2次世界大戦後は 47年の新学制により,初等科は新制の小学校に改められ,高等科は新制の中学校設置の母体となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『大和 (戦艦)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
◎参考『カイロ宣言(1943年11月)』国際的取決め(内閣府) https://www8.cao.go.jp/hoppo/mondai/03.html
1943年のカイロ宣言では、日本について、第1次世界大戦により得た太平洋の諸島、満州、台湾及び澎湖島、朝鮮、それに「暴力および貪欲により日本国が略取した」他のすべての地域から追い出さなければならないと宣言しました。
南樺太、千島列島についてははっきり述べていませんが、千島列島は、樺太千島交換条約によって平和裏に我が国が譲り受けたものであり、暴力および貪欲により略取された地域ではありません。
ましてや、日本固有の領土である歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島が、カイロ宣言に述べられた「日本国の略取したる地域」にあたらないことは言うまでもないことです。
◎参考『カイロ宣言』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AD%E5%AE%A3%E8%A8%80
カイロ宣言(カイロせんげん、Cairo Declaration)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)に開かれたカイロ会談を経て示された宣言。軍事行動を前提とした連合国の対日方針などが定められた。
概要
対日方針を協議するため1943年(昭和18年)11月22日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蔣介石中華民国国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された「カイロ宣言」。蔣は会談で、ルーズベルトの問いに答え、皇室存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。米国が起草した宣言案を英国が修正し、日本の降伏と、満洲・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。
蔣介石のカイロ会談参加
この会談後、中華民国は国際社会における声望を一定の位置に高めた。チャーチルの回顧録によると、カイロ会談は蔣介石もしくは宋美齢にとっては権力の絶頂だった。蔣介石は支援がふんだんに貰えると聞いて夫人同伴でカイロに来た。そして日本を無条件降伏させるまで戦う事を約束した。チャーチルはカイロ会談への蔣介石の出席に反対していた。一方、ルーズベルトは蔣介石を出席させ、中華民国に過剰な期待をかけていた。
ルーズベルトの狙いは、抗日戦を断念して連合国の戦線から脱落する恐れがあった中華民国を、米英ソの三巨頭に加えて祭り上げ、台湾の割譲や常任理事国入りさせて激励させて士気を高めさせることだったと言われている。呂秀蓮元副総統も「カイロ会議は当時のルーズベルト大統領が中華民国と日本が単独講和をし、蔣介石・元総統が講和を安易に受け入れるのを避け、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還させるためのもの」と述べた。
ただしルーズベルトは中国戦線の実態を認識していなかった。中華民国は開戦以来から対日戦に劣勢であり、中国共産党軍との連携にも消極的で、国共内戦すら再発しかねなかった。しかも1942年に日本軍がビルマの援蔣ルートを遮断したため、装備・物資がヒマラヤ越えでしか供給されなくなった。
ルーズベルトはカイロ会談後の12月6日、中華民国へ派遣されている外交官やジョセフ・スティルウェルから、次日本軍に攻勢されれば国民党政府が倒壊すると冷水を浴びせられた。スティルウェルは中華民国からアメリカ軍が日本本土を空襲計画することにも反対した。日本軍の内陸部侵攻を招くためだった。大日本帝国陸軍はカイロ宣言の翌年、大陸打通作戦を成功。中華民国軍の対日戦線をほぼ崩壊させた。
そこでアメリカは、中国大陸を反攻拠点とする当初計画を変更。マリアナ・フィリピン経由で日本を攻略することにした。カイロ宣言は戦術的誤算があったことになる。蔣介石はカイロ会談後、連合国の重要会議であるテヘラン会談、ヤルタ会談とポツダム会談に招かれなくなった。蔣介石は1944年には裏で繆斌を通じた対日和平工作を行った。
カイロ宣言の有効性について
台湾独立派を中心にカイロ宣言は外交的に有効な宣言ではなかったとする主張がなされている。
民進党政権の主張
2008年3月、当時の中華民国総統・陳水扁はインタビューの中で、中華人民共和国がカイロ宣言を根拠に台湾の領有を主張していることに対して、同宣言は
時間と日付が記されていない
3首脳のいずれも署名がなく、事後による追認もなく、授権もない
そもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に過ぎない
と発言している。
陳は、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが1955年2月1日の議会答弁で「『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できない」と答えたと主張し、「3人(ルーズベルト、チャーチル、蔣)にはそもそもコンセンサスなどなく、そのため署名もなかったのだということが見てとれる」と述べている。ただしこの答弁でチャーチルは、中国(China)とはどの中国を指すか(中華人民共和国か中華民国か)との問いに明確に返答しておらず、また、実際の議事録でカイロ宣言を明示的に否定したくだりはない。
「台湾の声」の主張
独立派系のEメールマガジン「台湾の声」は日本の国立国会図書館に対し、各国代表によるカイロ宣言への署名は行われていないとして、署名について言及している記事を訂正すべきであるとの主張を行った。「台湾の声」は、図書館側が事実関係について調査した結果、「11月27日に各国代表による署名が行われた」との確かな資料は発見できなかったとして、カイロ宣言に関する記事から「署名」のくだりを削除したと報じた。
後のポツダム宣言には第8条に「カイロ宣言の条項は履行すべき」と明記されており、連合国の元首により署名され、更に日本の降伏文書には「ポツダム宣言の条項を受け、履行すべき」と明記し、連合国とともに日本にも署名されたが、これについても、無署名のものに対して「宣言」としていること自体が誤りでありポツダム宣言の第8条「カイロ宣言の条項は履行すべき」の部分は無効であるとの主張がある。
中華民国外交部の見解
中華民国の外交部(外務省に相当)は2014年1月21日付で見解を発表しており[9]、カイロ宣言は法的実質拘束力があり法的効力要件を備えた条約協定であることに疑いの余地はないとしている。根拠は以下の通り。
1945年7月26日のポツダム宣言の第8条がカイロ宣言を参照しており、1945年9月2日の日本の降伏文書でポツダム宣言受諾が明記されている。
ウィーン条約法条約第2条によれば、名称は条約の特性に影響しない。
国際司法裁判所は1978年のエーゲ海大陸棚事件で、共同コミュニケが国際協定となることができると指摘している。
ジェニングス元国際司法裁判所長による『オッペンハイム国際法』第1巻第9版には「未調印および仮調印の文書、例えばプレスリリースであっても国際協定とすることができる」と説明されている。
常設国際司法裁判所は1933年4月15日に東部グリーンランド事件に関する判決の中で、一国の外相が外国の公使に対してその職務範囲内で答えたことは、その当該国を拘束するものであると指摘している。したがって、3カ国の首脳が発表した正式な宣言は、法的には調印国に対して拘束力をもつ。
カイロ宣言は、米国国務省が1969年に出版した『米国1776-1949条約及び国際協定編纂』(Bevans, Treaties and Other International Agreements of the United States of America 1776-1949)第3冊に収録されている。米国政府から見てもカイロ宣言は法的拘束力をもつ文書である。
米国のトルーマン大統領は1950年1月5日の記者会見で「台湾はすでに蒋介石総統に引き渡しており、米国および連合国は過去4年の間に中国が台湾の主権を有していることを認識した」と発言している。
1959年に米国国務省法律顧問室が台湾の地位問題について発表した文書では、台湾がカイロ宣言等の一連の国際文書に基づきすでに中華民国に返還され、当時の連合国もこれを受け入れたとの立場を改めて表明している。
アメリカとイギリスの見解
アメリカ政府はこの宣言を意志表明であり、正式に実施・実行されたことはないとみなしている[10]。
1950年11月、アメリカ国務省は、台湾と澎湖諸島の主権を中国に回復する正式な行為はまだ行われていないと発表した。
1955年2月、ウィンストン・チャーチルはカイロ宣言は時代遅れであると述べた。チャーチルは下院で演説し、カイロ宣言は「共通の目的の表明に過ぎず」、台湾の将来の主権問題はサンフランシスコ平和条約では未決定のままであると述べた[。1955年5月、イギリス政府高官はこの見解を繰り返し、「中国国民党は1945年に台湾と澎湖諸島の軍事占領を開始した。しかし、これらの地域は1952年まで日本の主権下にあった。」とし、次のように述べている。
「カイロ宣言」は意志の表明という形で表現されたものであり、単なる意志の表明に過ぎないから、その時点の意志を述べている限りにおいて拘束力を持つに過ぎず、それだけでは主権を移譲することはできない。
1971年4月、アメリカ国務省の報道官はプレスリリースで、アメリカ政府は台湾の地位は未確定とみなしており、カイロ宣言は連合国の目的声明であり、正式に実施・実行されることはなかったと述べた[10]。
日本政府の見解
日本は「台湾が中華人民共和国の不可分の一部だと表明する中国の立場を理解し尊重する」が承認はしないという立場から、カイロ宣言は「領土を定めたものではない」としている。
1961年3月、参議院予算委員会で日本共産党の議員が「カイロ宣言、ポツダム宣言、降伏文書の精神により、台湾は中国に返還された」と発言したが、外務大臣は「カイロ宣言の条項が履行されるべきことはポツダム宣言に明記されており、日本の降伏文書に従って、我々はポツダム宣言に従うと発表した。しかし、いわゆる日本の降伏文書は、休戦の性質を有しており、領土処分の性質を有していない。」と答えた。
日本はカイロ宣言の当事者ではないが、連合国による政策の宣言と認識
第二次世界大戦後の日本の領土を法的に確定したのはサンフランシスコ平和条約であり、カイロ宣言やポツダム宣言は日本の領土処理について、最終的な法的効果を持たない。
参考:『学徒出陣』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%87%BA%E9%99%A3
参考:『東京都』歴史 Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD#%E6%AD%B4%E5%8F%B2_2
桃太郎の海鷲映像 youtube
『アニメ 桃太郎の海鷲(うみわし) 1943年製作』古典邦画集PD
https://youtu.be/FIVbQyrq85k?si=jCh7Tng0_P8jlWkw
参考:『桃太郎の海鷲』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E6%B5%B7%E9%B7%B2
『桃太郎の海鷲』(ももたろうのうみわし)は、日本政府より国策アニメ映画製作の命を受け、1942年に藝術映画社で製作され、戦時下の1943年3月25日に公開されたアニメ映画。日本初の長編アニメ映画といわれることがある。
解説
日本海軍がハワイを奇襲した真珠湾攻撃をモデルにしており、桃太郎を隊長とする機動部隊が鬼ヶ島へ「鬼退治(空襲)」を敢行し、多大な戦果を挙げるという内容である。
本作では『海軍省製作協力』ということもあり、瀬尾光世らに霞ヶ浦海軍航空隊での調査も許された。このため、本作は漫画といえども精緻な描写が特徴的となっている。
撮影では当時、国内では先駆けて藝術映画社が導入した四段マルチプレーン撮影台が駆使され[4]、雲の中を軍用機が飛ぶシーンなど立体的な構図を可能にした。
当時の子供たちである少国民を対象に戦意高揚目的に制作された映画ではあるものの、随所に平和への願いが暗示されている箇所がある。また、この時の興行収入は64万円であった(当時の米1升が公定価0.5円)。
姉妹編に『桃太郎 海の神兵』(1945年)がある。
制作前、瀬尾は海軍将校から制作の参考のためとして(日本軍が占領地で接収した)ディズニー映画を鑑賞する機会を持ったが、生き生きとしたキャラクターの動きやカラー製作、当時の日本とは比べようもない制作技術の高さに衝撃を受け「これは勝てない」と考えたという。 スタッフであった持永只仁は、『桃太郎の海鷲』完成後に、瀬尾より海軍省の試写室で『ファンタジア』などを見た旨の話を聞いたと記している。
上映時間は37分間であり、日本で作成された漫画映画では異例の長編映画となった(それまでの国産アニメは10分程度という常識であった)。1943年の封切映画館入場者数で68本中9位とヒット作になり、文部省推薦映画に選ばれるなど、アニメの社会的地位を高めた記念碑的作品である。
スタッフ
企画:海軍省
後援:海軍省報道部
脚本:栗原有茂
演出:瀬尾光世
撮影:瀬尾光世、持永只仁
技術・構成:持永只仁、田辺利彦、橋本珠子、塚本静世
音楽:伊藤昇
製作:藝術映画社、大村英之助
配給:映画配給社
参考:『日本本土空襲』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2
参考:『レイテ沖海戦』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%86%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
参考:『東京大空襲』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
◎参考『ポツダム宣言(1945年)』国際的取決め 内閣府ホームページ https://www8.cao.go.jp/hoppo/mondai/03.html
1945年7月のポツダム宣言では、カイロ宣言の条項は履行されなければならず、また、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びにわれらの決定する諸小島に限らなければならない(第八項)と述べています。
戦争の結果としての領土の最終的処理は平和条約によって初めて行われるものであるためその意味では、ポツダム宣言のこの規定は、平和条約と別に、それだけでは領土処理について法的効果を持ちうるものではありません。
しかも、「われらの決定する諸小島」と述べているにすぎず、この内容を具体的にはっきりさせたものではなく、したがって北方四島が連合国の決定によって日本から分離された事実はありません。
◎ポツダム宣言原文(国立国会図書館) ポツダム宣言
◎参考『ポツダム宣言』キッズネット Gakken x 朝日新聞 https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary06500328/
第二次世界大戦において日本の無条件降伏を要求し,戦争終結の条件を提示したアメリカ合衆国・イギリス・中華民国(当時)の共同宣言。13項目からなり,軍国主義をのぞくこと,連合国軍が日本を占領すること,武装を解除し民主化を進めることなどを定めている。第二次世界大戦でドイツが降伏したあとの1945年7月,ドイツのベルリン郊外にあるポツダムにおけるアメリカ合衆国・イギリス・ソ連(当時)の3巨頭会談で採択さいたくされ,中華民国の同意を得えて7月26日に発表された。ソ連は8月8日の対日宣戦布告のときにくわわった。
コーチ
日本は8月14日にポツダム宣言を受け入れることを決定,翌日,敗戦が天皇のラジオ放送により国民に知らされた。
資料
ポツダム宣言のおもな内容
日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づる過誤を犯さしめたる者の権力及および勢力は永久に除去せられざるべからず。(6項)
連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は,吾等われらのここに指示する基本的目的の達成たっせいを確保するため,占領せらるべし。(7項)
カイロ宣言の条項は履行せらるべく,また日本国の主権は本州・北海道・九州及および四国並ならびに吾等われらの決定する諸小島に局せらるべし。(8項)
日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後,各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営なむ機会を得しめらるべし。(9項)
◎参考『ポツダム宣言』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80
ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英: Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年 )7月26日にアメリカ、イギリス、中華民国の政府首脳の連名において日本に対して発された全13か条で構成される宣言。正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって「米英支三国宣言」ともいう。ソビエト連邦は後の対日参戦時に当宣言に参加した(玉院放送→米英支蘇)。日本政府は1945年8月14日に当宣言を受諾し、8月15日に宣言受諾を国民に発表、9月2日に連合国への降伏文書調印に至って第二次世界大戦・太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した(日本の降伏)。
概要
ナチス・ドイツ降伏(英語版)後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の連合国主要3カ国の首脳(アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルおよびクレメント・アトリー、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について討議された(ポツダム会談)。
ポツダム宣言はこの会談の期間中である1945年7月26日、アメリカ大統領のトルーマン、イギリス首相のチャーチル、中華民国国民政府主席の蔣介石の3首脳連名で日本に対して発せられた降伏勧告である。ソ連は対日参戦に踏み切った1945年8月8日にこの宣言に参加した。
この宣言は全13か条で構成され、日本の降伏条件として、軍国主義勢力の排除、民主的で平和的な政府が樹立されるまでの連合国軍による占領、植民地と占領地の放棄、軍隊の解散、戦犯の処罰などの要求を突きつけた上で、日本政府が「全日本軍隊の無条件降伏」を即座に宣言しない場合には「迅速かつ完全なる壊滅」がもたらされると結んでいた[4]。日本政府はこの宣言に対して当初「黙殺」するという立場を取ったが、8月6日と9日に広島と長崎に原子爆弾が投下され、8月8日にソ連が中立条約を破って対日参戦すると、政府内でも一定の条件下での宣言受諾を主張する勢力が台頭した。
1945年8月10日午前2時、昭和天皇は国体護持(天皇制存続)のみを条件とする東郷茂徳外務大臣の受諾案に賛同し、ポツダム宣言の受諾を決定した。この決定は10日午前9時に中立国であるスイスとスウェーデンに向けて打電された。日本の受諾通告を受け、11日には連合国による回答(バーンズ回答)が発されたが、その内容が天皇制存続を明示的に保証するものではなかったことで、日本側で受諾反対論が再燃した。
8月14日午前、昭和天皇はバーンズ回答によって先の決定を変更する意思はないとして、ポツダム宣言の受諾を最終決定した。同日、日本政府は本宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、この事は翌8月15日に国民にラジオ放送を通じて発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する戦艦ミズーリ甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。
国際法上は降伏の勧告(提示)に対して受諾を通告した時点で停戦(降伏)が成立する(ハーグ陸戦条約付属書5章)が、降伏文書の作成は、これらを確実に履行するために文書として固定する意義があった。アジア各地および日本本土においても部隊単位での降伏式は順次執り行われ、最後の降伏式は10月25日、台湾の日本軍により中華民国国民政府軍に対して行われた。以降、ポツダム宣言の規定に従い、日本本土はGHQの下で間接統治が行われ、琉球および小笠原諸島はアメリカ軍の、台湾は中華民国軍の、樺太千島はソビエト軍の、朝鮮はアメリカ軍およびソビエト軍の直接統治に入った。
ポツダム宣言の全文
日本語訳文 ポツダム宣言(ウィキソース)を参照
英語原文 Potsdam Declaration(ウィキソース)を参照
宣言の策定と発表
背景
1943年1月のカサブランカ会談において、連合国は枢軸国のドイツ、イタリア、日本に対し、無条件降伏を要求する姿勢を明確化した。この方針はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領の意向が強く働いたものであり、11月17日のカイロ宣言においてもこの姿勢は確認された。ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンやイギリスのウィンストン・チャーチル首相は条件を明確化したほうが良いと考えていたが、結局ルーズベルトの主張が通った。政府内のグループには「天皇制維持などの条件を提示したほうが、早期に対日戦が終結する」という提案を行う者も存在したが、大きな動きにはならなかった。ルーズベルト大統領が閣僚たちに相談もせずに突然決めたこの方針は、敵国の徹底抗戦を招き、無用に戦争を長引かせるとして、陸海軍の幹部はもとより、国務長官のコーデル・ハルも反対したが、ルーズベルトは死去するまでこの方針に固執した。
この方針は、表明されてから8ヶ月後に早くも破綻した。1943年9月にイタリアが連合国に和平を打診してきたとき、連合国側は無条件降伏を突きつけなかった。これまでと同じく、休戦協定によって戦闘が停止したのち、立場の強い側が弱い側に、自分に有利な終戦協定を押しつけるという従来の形で終戦がもたらされた。敗北した側が条件にこだわるのは当然であったが、ルーズベルトはあくまで勝者の論理で、漠然としか考えていなかった。
1945年2月のヤルタ会談においてはルーズベルトが既に病身であったために強い姿勢に出られず、樺太、千島列島、満洲における権益などの代償を提示してソ連に対して対日戦への参加を要請した。4月12日にルーズベルトが死去し、副大統領に就任してわずか3か月であったハリー・S・トルーマンが急遽大統領となった。トルーマンは外交分野の経験は皆無であり、また外交は主にルーズベルトが取り仕切っていたため、アメリカの外交政策は事実上白紙に戻った上で開始されることとなった。トルーマン大統領は就任後、4月16日のアメリカ議会上下両院合同会議で、前大統領の無条件降伏方針を受け継ぐと宣言し、4月22日、日本とドイツに無条件降伏を求める方針に変わりはないことをソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相に伝えたが、彼もまた、それをどう規定するのかはっきり考えてなかった。
5月7日にドイツが無条件降伏して崩壊した後、できる限り早期に対日戦争を終結させる必要に迫られ、トルーマン大統領は日本に降伏を呼びかけるために、無条件降伏を定義する必要に迫られた。そこで彼は5月8日、戦争情報局が用意し、大統領軍事顧問ウィリアム・リーヒが賛同した、次のような無条件降伏の定義と和平の呼びかけを、日本に対して発表した。「我々の攻撃は日本の陸軍と海軍が無条件降伏して武器を置くまでやむことはないだろう。日本国民にとって無条件降伏とは何を意味するのか。それは戦争が終わることを意味する。日本を現在の災厄へ導いた軍事的指導者の影響力が除去されることを意味する。無条件降伏とは日本国民の絶滅や奴隷化を意味するのではない。」またアメリカ政府による日本に降伏を求める、アメリカ海軍情報局から戦争情報局に出向していたエリス・M・ザカライアス海軍大佐の「ザカライアス放送」が8月4日までに14回行われている。もともとアメリカ軍の幹部は、無条件降伏が政治的スローガンにすぎず、早期和平の妨げになると思っていたので、無条件降伏とは軍事に限定されるのであって、政治的なものではないことを明らかにすることによって、日本に受け入れられやすいものにしようとした。しかし日本政府は5月9日に徹底抗戦を改めて表明するなど、これを受け入れる姿勢をとらなかった。
降伏勧告路線の本格化
アメリカ合衆国政府内では、日本を降伏に追い込む手段として、原子爆弾の開発・使用、日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦。コロネット作戦やその前哨であるオリンピック作戦等を包括する総合計画)、ソ連の対日参戦の三つの手段を検討していた。原子爆弾はその威力によって日本にショックを与えることができると考えられ、開発計画が進展していた。一方で陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルを中心とする軍は、日本降伏には日本本土侵攻作戦が必要であるが膨大な犠牲を伴うことが予想され、それを軽減するためにはソ連の参戦が必要であると考えていた。ソ連の参戦は日本軍を大陸に釘付けにするとともに、ソ連を仲介として和平を試みていた日本に大きなショックを与えるとみられていた。
一方で国務次官ジョセフ・グルーをはじめとする国務省内のグループは、政治的解決策を模索していた。グルーは日本が受け入れ可能な降伏可能案を提示して降伏に応じさせる、「条件付き無条件降伏」を提案していた。5月28日には天皇制を保障した降伏勧告案をトルーマン大統領に提示した。一方陸軍長官ヘンリー・スティムソンは無条件降伏原則を破ることに否定的であったが、日本本土侵攻作戦の犠牲者数想定が膨大なものとなると、グルーやジョン・マックロイ陸軍次官補、ハーバート・フーヴァー元大統領らの意見に従い、降伏条件提示に傾くようになった。
1945年6月18日のホワイトハウスにおける会議で、日本本土侵攻作戦が討議された。スティムソンは日本本土侵攻作戦に賛成の意を示しつつも、政治的解決策が存在することをほのめかした。マックロイはこの会議の最中発言せず、会議終了直前にトルーマンがマックロイの意見を問いただした。マックロイは「閣下は別の方策をお持ちだと思います。それは徹底的に検討されるべき方法で、もし我々が通常の攻撃および上陸以外の方法を検討しないのであれば、どうかしていると言われても仕方の無い事だと思いますよ。」「我々が良しとする条件を日本政府に対して説明してやる事です。」と答え、政治的解決策の重要性を主張した。トルーマンが具体的にどういう条件かと聞いたところ、マックロイは「私は、日本が国家として生存する事を許し、また立憲君主制という条件でミカド(天皇)の保持を認めるという事です」と答えた。トルーマンは「それはまさに私が考えていたことだ」と答え、スティムソンも「(この案が表明されたことは)たいへん喜ばしい」と同意した。マックロイは原爆の投下についても事前に日本に警告を行うべきであるとしたが、もし爆発が失敗した場合にアメリカの威信に傷が付くという反発を受けた。トルーマンはマックロイに日本に対するメッセージについて検討するべきであると命じたが、原爆については言及しないようにと付け加えた。これはトルーマンも対日降伏勧告の意志を持っていたが、マーシャルらの手前自ら主張することは好ましくないと考え、マックロイらに口火を切らせたとも見られている。これ以降、スティムソン、マックロイらを中心とした陸軍が日本への降伏勧告案について検討を本格化するようになった。
三人委員会
6月19日、陸軍、海軍、国務省の検討機関である三人委員会(Committee of Three)、すなわちスティムソン、ジェームズ・フォレスタル海軍長官、グルーらによって対日降伏勧告の討議が始まった。フォレスタルの回想によると、対日降伏勧告には大統領付参謀長ウィリアム・リーヒ元帥やアーネスト・キング、チェスター・ニミッツといった海軍首脳も賛成していると述べられた。この日の午後、スティムソンの起草による対日降伏勧告のための大統領覚書の口述筆記が開始された。6月26日の三人委員会ではスティムソンがこの覚書案となる「対日計画案」を提示した。
6月26日の対日計画案
我々が日本に対して行使しようとしている力は多様かつ圧倒的である。この力を行使した場合、日本の破壊は不可避であり徹底的となる。
連合国は世界征服の挙に出て国を欺いた者達の権力と勢力を除去する。
日本の主権は日本本土諸島に限定され、日本が再び戦争を起こし、それを支持することができないよう無力化する。
我々は日本の国を滅亡させ、日本民族を絶滅させる意志を持たない。
日本から軍国主義の影響が排除された場合、我々は日本が生存に必要な産業を保持することを認める。やがては日本と互恵的な貿易関係を構築することを認める。
前記の目的が達成され、日本国民の多数を代表する平和的政権が成立すれば、連合軍は日本から撤退する。
この降伏勧告はアメリカとイギリス、そしてもしソ連が参戦していた場合にはソ連の首脳も加えた名義で公表されるとしていた。また、スティムソンは個人的意見として現皇統における立憲君主制を排除しないことを付け加えれば降伏は実現しやすいであろうと述べた。また宣言発表のタイミングは日本本土侵攻作戦が行われる前、日本が狂信的な絶望に追い込まれる前に行う必要があるとした。またソ連の参戦が行われても、ソ連軍の侵攻があまり進展しないうちに行うのが望ましいとした。委員会では、この勧告が実際に行われて失敗した場合でもアメリカ国民の戦意高揚の効果があり、無害で済むと判定され、スティムソンの原案をグルーとフォレスタルは承認した。
勧告文の検討
三人委員会は実際の降伏勧告文を策定する小委員会を結成させ、そのチームに検討を行わせる事とした。この委員会はマックロイ、海軍長官特別補佐官のコレア大佐、国務次官補特別補佐官のユジーン・ドゥーマン、国務省極東課長ジョセフ・ウィリアム・バランタインらによって構成されていた。トルーマンはポツダム会議のために7月6日にはアメリカを離れるため、委員会はそれまでに宣言案を策定する必要があった。6月27日に最初の委員会が開かれた。最初の会議にはコレアとドゥーマンは欠席したため、バランタイン以外のメンバーは全員が陸軍関係者であった。討議においてはスティムソン案を原案とすることとなっており、マックロイが実質的な委員会の主宰者となった。しかしバランタインが国務省案の降伏勧告案を提議したため、議論は難航することとなった。国務省案は以前グルーが大統領に提出していたドゥーマン案を元としており、天皇制の存続については極めてぼやかした表現となっていた。このため国務省案は会議によって退けられ、再びスティムソン案を中心として討議されることとなった。この日の会議で陸軍作戦部(OPD)のファーヒー大佐が宣言の発出者に蔣介石を加えるべきであることや、連合国と日本が交渉を行うべきでないことなどの意見を述べた。
翌6月28日の会議でドゥーマンは天皇制保障の文言を入れるべきでないと主張した。グルーら国務省内の知日派は天皇制保障が不可欠であると考えていたが、これらの意見は対日融和的であると批判され、国務省内でも世論の反発を怖れ、彼ら知日派は孤立する傾向があった。グルーやダレスをはじめとする共和党の保守派にとって、戦争に勝利するだけでは不十分であり、天皇制を維持することが重要であった。それは、戦後の日本に穏健な資本主義勢力を残し、そこにアメリカの金融資本を投入することで、アメリカの金融機関や企業が長期的かつ安定的に利益を得られる基盤を築けると考えられていたからである。ドゥーマンはこの降伏勧告を日本が受け入れる可能性は極めて低いと考えており、文言に対するアメリカ世論の反発を防ごうと考えていた。1945年6月のギャラップ調査によると33%が昭和天皇の処刑を求め、17%が裁判を、11%が生涯における拘禁、9%が国外追放するべきであると回答するなど、天皇に対するアメリカ世論は極めて厳しかった。
スティムソンら陸軍は天皇制保障が必要不可欠であると考えており、議論は紛糾した。しかし陸軍が議論の主導権を握り、OPDのチャールズ・H・ボーンスティール3世が、国務省案を一部参考にしながらもスティムソン案を基本的な原案とする箇条書きの草案を作成することとなった。ボーンスティールは周囲からの助言も受けて6月29日までに草案を策定した。6月29日の早朝にボーンスティール草案がマックロイの元に届けられた。この日の委員会でボーンスティール草案が採択されたが、国務省はこの草案は国務省で再検討されなければならないと条件をつけた。またOPDは同時期に宣言発表のタイミングとしてソ連の対日参戦直後が最も効果的であるという勧告を行っている。マックロイはスティムソンにボーンスティール草案を送付し、6月30日からスティムソンとともに草案の修正作業を行った。スティムソンは「かなりの修正をした」と回顧録に残している。7月2日、スティムソンはこの修正草案と6月26日の「対日計画案」一部修正したものをトルーマンに提出した。この修正草案は13条となっており、「現皇統による立憲君主制を排除しない」という文言も入ったものであり、第二項で「日本国が無条件降伏するまで」という文言はあるものの、日本軍隊の無条件降伏を求めたものであった。
発表直前の修正
7月3日、ジェームズ・F・バーンズが新たな国務長官に就任した。バーンズはトルーマンに信頼された私的な助言者であり、彼の就任はスティムソンの大統領に対する影響力を低下させた。バーンズは対日強硬派であり、国務次官補アーチボルト・マクリーシュをはじめとする親中国派は巻き返しを図った。7月6日、国務省はスティムソン草案のさらなる改訂を要求し、7月7日の幹部会で草案が「日本」「日本政府」に呼びかけていた部分が「日本国民」に変更された。省内の混乱を見たバーンズはコーデル・ハル元国務長官に相談し、直接天皇制に言及した天皇制保障条項を一旦削除することを考えるようになった。バーンズは占領の際に天皇制が利用できるかどうかを見た上で、天皇制の存続をアメリカが決定できるようにと考えていた。
ポツダム会談の公式日程では対日問題は議題とならなかった。一方でスティムソンは日本がソ連に和平仲介を求めていることを察知し、日本がソ連の懐に飛び込む前に日本を降伏させるべきと考えた。そのためこの会談中に降伏勧告を発するべきと主張し、リーヒ参謀長の支持を得たものの、バーンズは反対した。またリーヒ参謀長は、草案第二項において「日本の無条件降伏」となっていた部分を「日本軍の無条件降伏」と改め、天皇制保障条項を「日本国民は自らの政治形態を決定できる」と天皇に言及しない形に改めるよう提案した。トルーマンは公表の意思を固め、リーヒの提唱した変更を行うと決定した。スティムソンは天皇制に言及しないことが日本の降伏拒否を招くのではないかと懸念し、もし日本側がこの一点で戦い続けるならば大統領が外交チャンネルを通じて「口頭で保証」を与えるように提案した。トルーマンはスティムソンの意見を承諾し、後の国務省による回答につながることになる。
7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。会談に参加しなかった蔣介石には、電報で草案が伝えられた。蔣介石は宣言文の一か所だけを直してきた。それは自分は国家元首だから、(元首でない)チャーチルより前に自分の名前が置かれるべきである、ということであった。7月26日、「ポツダム宣言」として知られる降伏勧告がトルーマン、チャーチル、蔣介石の名で発表された。また、宣言文はポツダム協定の付属議定書に「検討されたアメリカ提案」として付記された。この時点では、ソ連はまだ日本と開戦しておらず、署名には名を連ねていない。
日本への伝達
ベルリン時間の7月26日午後9時20分の宣言の発表と同時にトルーマン大統領は戦時情報局 (OWI) に対し、この宣言をあらゆる手段で日本国民に周知させることを指示した。これに基づき東部戦時時間午後4時(東京時間7月27日午前5時)OWI の西海岸の短波送信機から英語の放送が始まった。重要な部分は4時5分から日本語で放送された。日本語の全文 OWIサンフランシスコ支部が作成し、ワシントンD.C.の国務省の言語専門家が電話でチェックしたのち、午後6時(東京時間午前7時)サンフランシスコから放送された。その後、日本語の放送は西海岸の11の短波送信機、ホノルルの短波送信機、サイパンの中波送信機が繰り返した。全ての定時番組は中止され宣言の放送を繰り返した。西海岸からは20の言語で宣言が放送された。その後数日間に渡って一定間隔で宣言の放送が繰り返された。日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。
発表後の反応
ウィキソースに「バーンズ回答」など関連文書の英語原文があります。
ウィキソースに大東亞戰爭終結ノ詔書の原文があります。
鈴木貫太郎内閣
ポツダム宣言の発表をうけた日本政府(鈴木貫太郎内閣)では、この宣言に対する対応を検討した。宣言文の翻訳に携わったのは条約局第一課長下田武三であった。外務省定例幹部会は受諾はやむを得ないが、未だ交渉の余地はあり、「黙っているのが賢明で、新聞にはノー・コメントで掲載するよう指導するのが適当である」という決定を行った。これをうけた外務大臣東郷茂徳は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言した。しかし、陸海軍からはいずれ本宣言は世論に伝わるため「断固抵抗する大号令」を発せられるよう指導するよう主張した。結局は東郷の意見が通り、ポツダム宣言を公式に報道するものの、政府は内容について公式な言及をしないということが閣議決定された。
7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表した。ところが翌28日の新聞報道では、讀賣報知(読売新聞)で「笑止、対日降伏条件」、毎日新聞で「笑止! 米英蔣共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などという新聞社による論評が加えられていた。また、陸軍からは「政府が宣言を無視することを公式に表明するべきである」という強硬な要求が行われ、同日、鈴木貫太郎首相は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ(記事見出しは全て現代仮名遣いに修正)、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺(Mokusatsu)」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore(無視)」と英語に翻訳され、またロイターとAP通信では「reject(拒否)」と訳され報道された。東郷は「鈴木の発言が閣議決定違反である」と抗議している。なお、ラジオ・トウキョウがどのように応えたかは確認されていない。
トルーマンは、7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記載したように、日本側の拒否は折り込み済みであった。むしろ宣言のみによる降伏ではなく、宣言の拒否が原子爆弾による核攻撃を正当化し、また組み合わせて降伏の効果が生まれると考えていた。8月6日には広島市への原子爆弾投下が行われ、広島市における甚大な被害が伝えられた。また8月9日(日本時間)の未明にはソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始(ソ連対日参戦)、ポツダム宣言に参加した。これらに衝撃を受けた鈴木首相は、同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、意見を求めた。強く反対する者はおらず、また会議の最中に長崎市への原子爆弾投下が伝えられたこともあり、「国体の護持」「自発的な武装解除」「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に、宣言の受諾の方針が優勢となった。しかし、陸軍大臣阿南惟幾はなおも戦争継続を主張し、議論は昭和天皇臨席の最高戦争指導会議に持ち越された。
受諾
10日未明の御前会議でもポツダム宣言の受諾につき、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)と、これに自主的な軍隊の撤兵と内地における武装解除、戦争責任者の日本による処断、保障占領の拒否の3点を加えて条件とする陸軍大臣案とが対立して決定を見ず、午前2時過ぎに議長の鈴木から、昭和天皇に聖断を仰ぐ奏上が為された。天皇は外務大臣案(原案)を採用すると表明、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞いていたが計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げた。次いで、軍の武装解除や戦争責任者の引き渡しは忍びないが、大局上三国干渉時の明治天皇の決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案で受諾することを決心したと述べる。このあと、「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下受諾する」とした外務大臣案に対して、枢密院議長の平沼騏一郎元首相から異議が入り、その結果“「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する”という回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され、スウェーデンとスイスに向けて送信された。これとは別に同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また受諾方針については勅語の発表まで公表を行わないことにした。
大西洋標準時(以下本パラグラフのみ)8月10日7時、アメリカはこの電文を傍受した。これを受けたアメリカ政府内では、日本側の申し入れを受け入れるべきであるというスティムソン、フォレスタル、リーヒに対し、バーンズは「我々がなぜ無条件降伏の要求から後退しなければならないのか分からない。もし条件を付けるとすれば、日本側ではなくアメリカ側から提示するべきだ。」と反対した。結局フォレスタルの提案で、肯定的な返事をするが、アメリカ政府の立場について誤解を与えない回答を行うべきであるという決定が下された。これにしたがってバーンズを中心とした国務省で対日回答案の検討が開始され、10日の閣議で決定された。回答案は英・ソ・中の三国に伝達され、同意が求められた。イギリスは同意したが、ソ連は日本が条件をつけようとしていることを非難した。しかし翌日未明には反対を撤回し、かわりに日本占領軍の最高司令官を米ソから一人ずつ出すという案を提案してきた。W・アヴェレル・ハリマン駐ソ大使はこれを拒否し、結局バーンズの回答案が連合国の回答として決定された。
この「バーンズ回答」は、「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属(subject to)する」としながらも、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」というものであった。スティムソンによると、この回答の意図は、「天皇の権力は最高司令官に従属するものであると規定することによって、間接的に天皇の地位を認めたもの」[54]であった。また、トルーマンは自身の日記に「彼らは天皇を守りたかった。我々は彼らに、彼を保持する方法を教えると伝えた。」と記している。
回答案は8月11日の正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受した。"subject to"の訳について「制限の下に置かれる」だと解釈する外務省と「隷属する」だと解釈する軍部の間の対立があり、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相もこれに同調した[51]。東郷外相は正式な公電が到着していないと回答して時間稼ぎを行ったが、一時は辞意を漏らすほどであった[51]。8月13日午前2時になって駐スウェーデン公使岡本季正から、バーンズ回答は日本側の申し入れを受け入れたものであるという報告が到着し、外務省の主張に力を与えた。この日の閣議は二回行われ、二回目には宣言の即時受諾が優勢となった。一方でアメリカでは日本の回答が遅いという世論が起きており、この日の夕刻にはアメリカ軍が東京に日本の申し入れとバーンズ回答を記したビラを散布している。
8月14日に改めて御前会議を開き、昭和天皇のいわゆる「聖断」による宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。
8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定をラジオ放送による昭和天皇の肉声を通して国民に発表(玉音放送)。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日、更に正式に終戦協定及び降伏が調印されたのは9月2日である。宣言受諾とその発表を巡っては国内で混乱が見られ、宣言受諾が決定したという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、15日未明に一部部隊が皇居の一部や社団法人日本放送協会などを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった(宮城事件)。なお、クーデターが起きる中、阿南惟幾陸相は15日早朝に自決している。
その後も8月中は、国内ではポツダム宣言受諾に反対する右翼団体構成員らによる松江騒擾事件や集団自決事件、陸軍将校等が地方の放送局を占拠する事件が相次いだ。その一方では、ソ連や中国との間で戦闘が継続した。9月2日、日本政府は米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した。降伏文書の最終文節には、バーンズ回答にあった「"subject to"」の内容が盛り込まれ、日本政府はこれを「制限ノ下ニ置カルル」と訳した。その後も各戦線に残存していた日本軍と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。
「無条件降伏」の当否
日本の降伏が「無条件降伏」にあたるかに関して、軍事的意味においてはポツダム宣言受諾が「無条件降伏」にあたることについての異論は見受けられないが、第12条等による記述が明確に条件に該当するかについては異論がある。
国家に対する降伏については、ポツダム宣言自体が政府間の一つの条件であり、第5条には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されているとし、「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第13条および降伏文書第2項にも使用されているが、これはいずれも日本の「軍隊」に関することであって、このためにポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を失うものであると解すべきではないとする説がある。
ポツダム宣言第12条は「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府の樹立」を求めており、バーンズ回答では「日本の最終的な政治形態はポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意思によって確立される」となっていた。これは、天皇制問題を日本国民の意思に委ねるという連合国による保証であった。
そもそもルーズベルトの「無条件降伏」による「国家間の戦争終結方式」の提起は、英国・ソ連など連合国として参戦していた諸国を困惑させるものであった。またアメリカ政府内でルーズベルトとトルーマンの「無条件降伏」観に違いがあり、トルーマンの対日政策も当初は「条件付無条件降伏論」に立脚しながら占領初期に「条件」の契約性の否認を表明しており、揺れがある。
連合国としてではないが、米国内の通達としてトルーマン大統領からマッカーサー元帥に対し行われた通達において、「われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない」趣旨の指令があり、米国大統領の対日政策の基本認識が示されている。この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場もある。
これを受けて、1945年9月3日に連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。これに対して重光外相は、ダグラス・マッカーサー最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが(フレンスブルク政府)日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は布告の即時取り下げを行い、占領政策は日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本)。
ポツダム宣言と領土問題
ポツダム宣言8条の規定は戦後日本の領土問題あるいは外交問題の焦点としてしばしば論じられる。
なお、日本政府は「第二次世界大戦後の日本の領土を法的に確定したのはサンフランシスコ平和条約であり、カイロ宣言やポツダム宣言は日本の領土処理について、最終的な法的効果を持たない」としている。
ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア連邦)については対日宣戦布告の8月8日にポツダム宣言への参加を表明しており、これは日ソ中立条約の廃止通告後の処理に違反している。ソビエトはポツダム宣言や降伏文書に参加したもののサンフランシスコ平和条約に署名しておらず、南樺太および千島列島の領土権は未確定である。ソ連は1945年9月3日までに歯舞諸島に至る全千島を占領し、1946年1月の連合軍最高司令官訓令SCAPIN第677号(指定島嶼部での日本政府の行政権停止訓令)直後に自国領土への編入宣言を行った。この時点での占領地の自国への併合は形式的には領土権の侵害であり、とくに北方四島については1855年の日露和親条約以来一貫した日本領土であり平和的に確定した国境線であったため、台湾や満洲・朝鮮などとは異なり、カイロ宣言およびその条項を引き継ぐポツダム宣言に明白に違反するとされている。一方でソビエトはヤルタ会談における協定による正当なものと主張している。その後、返還を条件に個別の平和条約締結交渉が行われることになっていたが日ソ共同宣言の段階で停滞しており、2025年現在も戦争状態が終了したのみで平和条約の締結は実現していない。
中華人民共和国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しておらず(当時国家として存在しなかった。成立は1949年(昭和24年))、サンフランシスコ平和条約に署名もしていない。直接の領土に関する規範は日中共同声明および日中平和友好条約が基礎であり、日中共同声明において(台湾について)ポツダム宣言8項に立脚して処理することと声明し、日中平和友好条約において領土保全の相互尊重を正式に締約した。また中華民国についてはポツダム宣言、降伏文書に参加しているがサンフランシスコ平和条約に参加しておらず、直接の領土に関する規定は日華平和条約(1952年8月5日発効)による。ただし1972年(昭和47年)9月29日に共同声明発出・平和友好条約締結による日中国交回復のために「終了」(事実上破棄)された。南沙諸島は1938年の領有宣言以来、日本領として台湾の一部を形成していたが、ポツダム宣言受諾による台湾の放棄が規定化されるなかで1949年フィリピンによる領有宣言、サンフランシスコ条約による日本の正式な放棄後の1973年にはベトナムの併合宣言、翌1974年の中華人民共和国の抗議声明など係争の対象となっている。
北マリアナ諸島については1899年にドイツ帝国領となり、第一次世界大戦の後、日本の委任統治下にあったが、ポツダム宣言受託による行政権放棄に従い、1947年にアメリカ合衆国の信託統治に変更され、現在は北マリアナ自治領を形成している。
ポツダム宣言の効力等
日本政府は「ポツダム宣言第6項は当時の連合国側の政治的意図を表明した文章であり、その詳細について政府としてお答えする立場にない」「ポツダム宣言は日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)により連合国との間で戦争状態が終結されるまでの間の連合国による日本国に対する占領管理の原則を示したものであり、ポツダム宣言の効力は日本国との平和条約が効力を発生すると同時に失われた」としている。
ポツダム宣言の受諾に伴い施行された主な法令
1945年
Supreme Command for Allied Powers Instruction Note(昭和20年9月2日):通称「SCAPIN」
「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(昭和20年勅令第542号):通称「ポツダム緊急勅令」
昭和二十年勅令第五百四十二号(「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件)施行ニ関スル件(昭和20年勅令第543号)
昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク国防保安法廃止等ニ関スル件(昭和20年勅令第568号)
昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク航海ノ制限等ニ関スル件(昭和20年運輸省令第40号)
昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件(昭和20年勅令第730号)
1946年
昭和二十年勅令第五百四十二号ポツダム宣言の受諾に伴ひ発する命令に関する件に基く東亜海運株式会社の解散に関する勅令(昭和21年勅令第563号)
1947年
公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令(昭和22年勅令第1号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く陸軍刑法を廃止する等の政令(昭和22年政令第52号)
1952年
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く警察関係命令の措置に関する法律(昭和27年法律第13号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く大蔵省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年法律第43号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く農林関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年法律第73号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律(昭和27年法律第81号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く文部省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年法律第86号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く経済安定本部関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年法律第88号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く連合国財産及びドイツ財産関係関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年法律第95号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く建設省関係命令の措置に関する法律(昭和27年法律第98号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く厚生省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年法律第120号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年法律第126号)
ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く法務府関係諸命令の措置に関する法律(昭和27年法律第137号)
1959年
連合国財産の返還等に伴う損失の処理等に関する法律(昭和34年法律第165号)
◎終戦の玉音放送(音声を聞くことができます)宮内庁 https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html
◎参考:『戦時録音資料より 昭和天皇 終戦の玉音放送』終戦まとめ NHK https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0110556
映像と解説あり
◎参考:『玉音放送』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%9F%B3%E6%94%BE%E9%80%81
玉音放送(ぎょくおんほうそう、旧字体: 玉音󠄁放送󠄁)とは、1945年(昭和20)8月15日、昭和天皇自らが太平洋戦争終結の決定を国民に伝えるために行った放送の呼称[1]。同日正午(日本標準時)に、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された「大東亜戦争終結ノ詔書」[2](だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送を指す[3][4]。「玉音」とは、天皇の声のこと[5]。
この放送は、第二次世界大戦における枢軸国側の日本のポツダム宣言受諾による終戦(日本の降伏)を日本国民に伝える目的であり、以降、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を終戦の日(終戦記念日)と呼び、日本政府主催で全国戦没者追悼式を日本武道館で行い、放送が行われた正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に日本が降伏し交戦状態が終了したのは、それから半月後の対連合国への降伏文書が調印された同年9月2日、戦争が完全に終結したのはサンフランシスコ平和条約が発行した1952年(昭和27年)4月28日のことである。
概要
第二次世界大戦末期の大日本帝国は、1944年以降全土が連日空襲に晒される等、敗勢は覆しがたく、鈴木貫太郎内閣は1945年6月から連合国への降伏を模索するも、継戦を主張してクーデターを辞さない構えの陸軍主戦派の脅威に直面、これに突き上げられた阿南惟幾陸相が閣議や最高戦争指導会議で強硬論を吐いたことで政府中枢がまとまらず、8月10日、次いで14日の2度にわたって、異例の昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾(降伏)の決定を余儀なくされる。14日の聖断に際して、天皇は、戦禍に傷ついた国民の慮り、また軍民の動揺を抑えるべく、「国民に呼びかけることが良ければ私は何時でもマイクの前にも立つ」と発言[6]。この発言を受けて、降伏に当たり渙発される予定であった「大東亜戦争終結ノ詔書」を、天皇自ら朗読、録音したものをラジオ放送によって直接国民に届けることが決定。史上初めて、天皇の肉声(玉音)が広く国民に達せられることとなった。同日夜、宮城(皇居)内で天皇がレコードに吹き込みを行い、翌15日正午の特別放送において、玉音が放送されることとなった。
詔書全文
御署名原本「大東亜戦争終結ノ詔書」
1頁目
1頁目
2・3頁目
2・3頁目(2頁目に補入や、紙を貼って訂正を行った跡が見られる)
4・5頁目
4・5頁目(5頁目の本文最終行に御璽の印影が被さっている)
6・7頁目
6・7頁目
詔書の題名は『大東亜戦争終結ノ詔書』(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)、通称は「終戦詔書」(しゅうせんしょうしょ)とも呼ばれる[7]。
原文
→「s:大東亞戰爭終結ノ詔書#原文」を参照
全815文字とされるが、異説もある(本文は802文字)。
現代仮名遣い・常用漢字・ひらがな
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ
朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず ひいて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何をもってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排擠 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ
御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎
現代語訳
玉音放送全文の現代語訳[8]。
私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。
私は、帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。
そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、全ての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。
先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、正に日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、元より私の本意ではない。
しかしながら、交戦状態も既に4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。
それ所か、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。
それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、更には人類の文明をも破滅させるに違いない。
そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)に詫びることができようか。
これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。
私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。
日本国民であって戦場で没し、職責の為に亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。
更に、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。
考えて見れば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。
あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。
然し、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いを堪え、永遠に続く未来の為に平和な世を切り開こうと思う。
私は、ここにこうして、この国の形を維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごす事ができる。
感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、或は仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、その為に人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒める所である。
正に国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。
あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動して欲しい。
御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎
詔書の作成
大まかな内容は迫水久常内閣書記官長が作成した。当初、迫水書記官長は「分かりやすい口語体による放送にしよう」と考えており、内閣嘱託の木原通雄とともに案を創作し始めたが、「一人称と二人称をどうするか」という基本的な点で行き詰まってしまった。つまり、それまで天皇が国民に直接語りかけることなどなかったため、天皇が自分自身のことを何と呼ぶのか、また、国民に対して「おまえたち」と言うのか「みなさん」と言うのか、適当な表現を考えつかず、結局実現はできずに、無難で済む文語体にすることとなった[9]。
その後、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修した[注釈 1]。また、御前会議での天皇の発言が陪席していた迫水によって詔書案に組み入れられたため、天皇の意思が直接反映された。
天皇の聖断を経て、14日夜、詔書案が閣議にかけられたが、ここでも、クーデターを恐れた阿南陸相が「戦局日ニ非(あらざる)ニシテ」の改訂を求め、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施され、第7案まで作成された。喫緊の間かつ、きわめて秘密裏に作業が行われたため、起草・正本の作成に十分な時間がなく、字句の修正が佐野小門太理事官(内閣総務課)による詔書原本の浄書[11]と並行して行われた。清書された詔書に重大な欠落が見つかり、佐藤朝生内閣官房総務課長が書き込むよりほかにないと決断、佐野小門太理事官によって脱落した文字が脇かっこをして小さな文字で挿入して完成された異例の詔書を、佐藤総務課長が閣議中の鈴木貫太郎首相に届けている[12]。そのため最終的に完成した詔書原本は、正本であるにもかかわらず、補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られる。また、1頁10行の原稿のうち、御璽の押印で7行分のスペースをとることから、押印する頁の本文は最大3行までとするのが慣例であったが、この詔書の正本では4行目に及んでおり、この頁の狭い余白に押印を行ったため、印影が本文にかぶさるという、異例な形式の詔書となった。天皇の裁可、鈴木首相以下16名の大臣の副書を得て詔書は発効し(14日付)、同日の官報号外にて告示された[13]。また、詔書は渙発は中立国のスイスおよびスウェーデン駐在の日本公使館を通じて連合各国にも伝達された。
なお、詔書渙発を伝える15日の朝刊は、玉音放送終了後の同日午後に配達される特別措置がとられた。
もう一つの詔書案
広く知られている終戦詔書の他に外務省が作成したもう一つの詔書案がある。
8月10日の御前会議のあと、外務省政務局長の安東義良は東郷茂徳外務大臣に呼ばれ、詔書案を作成するよう極秘の指示を受けた。安東は詔書案を作成するのは内閣の仕事であることを認識していたが、クーデターの噂が流れるなか、もし総理大臣官邸が襲撃を受けるようなことになれば詔書案どころではなくなるため、それに備えて外務省が作成すると解釈してあえて「なぜ外務省が?」と問うことはしなかった。安東は詔書案を11日の朝に東郷大臣に渡したが、結局この詔書案が日の目を見ることはなかった。迫水久常もこの詔書案があることを知らなかった。戦後になってから安東が蔵書を整理していると、偶然本の間に挟まっている詔書案の下書きを発見したことにより、存在が明らかになった。安東は「案を大臣に渡す前に、大東亜省次官の田尻愛義に見せて賛同を得た」と言っているが、田尻は戦後に読売新聞社のインタビューに対し、「そのことについては記憶がない」と述べている[14]。
安東義良が作成した詔書案
敕語
朕󠄂ハ東亞ノ安定ヲ確保シ、以テ世界ノ平󠄁和ニ寄與シ、列國トノ交󠄁誼ヲ篤クシ、萬邦󠄂共榮ノ樂ヲ偕ニセンコトヲ冀ヒタルモ、帝󠄁國ノ自存自衞ノ爲止ムナク米英兩國ト釁端ヲ開クニ至リ、茲ニ四年ニ垂ントス
此閒󠄁朕󠄂カ勇󠄁武ナル陸海󠄀將兵ハ挺󠄀身國難󠄀ニ赴キ、朕󠄂カ百僚有司ハ碎身職務ニ勵精󠄀シ、朕󠄂カ忠誠󠄁ナル衆󠄁庶ハ困苦缺乏ニ耐ヘテ其本分󠄁ヲ盡シタルニ拘ラス、戰遂󠄂ニ利アラス、戰爭ハ益󠄁〻慘烈トナリ朕󠄂カ赤子ノ犧牲日ニ月󠄁ニ增大シ將ニ國本ヲ危󠄁クスルニ至レリ、而モ交󠄁戰相手國ノ流血モ止ル處知ラス人類󠄀ノ不幸之ニ過󠄁キル無シ
朕󠄂ハ戰爭ノ慘禍󠄀ヨリ人類󠄀ヲ救フノ道󠄁ハ卽時干戈ヲ收ムル外無キヲ思ヒ、敢テ米英支及󠄁蘇聯ノ參加セル共同宣言ノ條件ヲ受諾スヘク決意󠄁シ、朕󠄂カ政府ニ命シ交󠄁戰各國トノ交󠄁涉ニ當ラシム
帝󠄁國ノ拂フ犧牲ハ甚大ナリ、來ラントスル艱難󠄀ヲ克服󠄁シテ悠久ナル皇國ノ生命ヲ護持スルハ朕󠄂カ忠良ナル衆󠄁庶ニ信倚スル所󠄁ナリ、汝有衆感情󠄁ノ激發ニ動セス、冷靜苦難󠄀ヲ忍󠄁フノ眞勇󠄁ヲ發揮シ、一𦤶協力平󠄁和ト復興ノ大業ニ邁進󠄁センコトヲ期󠄁セヨ
— 安東義良、読売新聞編『昭和史の天皇 4玉音放送まで』中公文庫 p.472 2012年
玉音の録音と放送
録音
終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は、日本放送協会の専務理事経験がある初代内閣情報局次長の久富達夫が、同局総裁の下村宏に提案したものというのが通説である。
日本放送協会へは宮中での録音について14日13時に通達があり、15時に録音班8名(大橋八郎会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)[15]が参内(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。用意されたレコードは、日本電気音響(後の日本コロムビア〈二代目〉→デノン→デノン コンシューマー マーケティング〈≒ディーアンドエムホールディングス〉)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製の、SP盤規格準拠のアセテート盤(セルロースコーティング録音盤)に録音された。この録音盤は1枚で3分間しか録音できないため、朗読に約5分かかる玉音放送は複数枚(テイク2は2枚組および3枚組)にわたって録音された。
録音の用意は16時には完了し、18時から録音の予定であったが、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音作業はずれ込み、『昭和天皇実録』によると、昭和天皇は警戒警報発令中の23時25分に部屋に入る。石渡荘太郎宮内大臣や藤田尚徳侍従長立ち合いの下朗読が行われた[16]。1度目の録音後、聴取した天皇の発案(声が低かったため)により2度目のテイクをとり、こちらは接続詞が抜けていたことから、天皇から更に「3度目の録音を」と提案されたが、「下村がこれを辞退した」という(下村宏『終戦秘史』)。2回のテイクにより、玉音盤は合計2種(テイク1が計7枚、テイク2が計5枚)製作された。作業は翌15日1時ごろまでかかって終了する。1回目に録音した録音盤を「副盤(「副本」とも呼ばれる[17])」、2回目に録音した録音盤を「正盤(「正本」とも呼ばれる[17])」と定められた。
丁度この頃、陸軍主戦派が暴発して実力行使に踏み切る(宮城事件)。一部の部隊は玉音放送を阻止するために玉音盤を狙って皇居へ進軍(近衛歩兵第2連隊第3大隊長佐藤好弘大尉指揮)、坂下門付近で丁度退出しようとしていた下村総裁以下録音班と遭遇してこれを拘束・監禁する。録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀古賀秀正少佐の指示により、録音盤の捜索が行われたが[15]、録音盤は、録音後に徳川義寛侍従により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫に、他の書類に紛れ込ませる形で保管されていたため発見されなかった。宮城事件も翌朝までには鎮圧され、玉音放送の阻止は防がれた。事件鎮圧後、「正盤」は東京放送会館へ、「副盤」は第一生命館の予備のスタジオへと持ち込まれた[18]。
放送
玉音放送を聞く人々
8月15日午前中に配布された玉音放送予告の特報(朝日新聞)
予告放送
玉音放送は、14日21時のニュースと15日7時21分のニュースの2回、予告が行われた。内容として「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う[注釈 2]」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後1時ごろに配達されるところもあること」などであった。
本放送
玉音放送を伝える番組は、正午より開始。玉音盤の再生自体は約5分間であったが、その前後の終戦関連ニュースなどを含む放送は約37分半であった。
番組内容は以下の通り。番組全体の進行は和田信賢NHKアナウンサー(当時の呼称は「放送員」)がつとめており、特記なき文は、和田放送員によるアナウンスである。
正午の時報
「只今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様、ご起立願います」
「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」(下村宏情報局総裁)
国歌君が代奏楽
大東亜戦争終結ノ詔書(玉音盤再生)
国歌君が代奏楽
「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村総裁)
玉音放送の解説(以下全文)・「謹んで詔書を奉読いたします」
終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)
「謹んで詔書の奉読を終わります」 以降、終戦関連ニュース(項目名は同盟通信から配信されたニュース原稿のタイトル)
内閣告諭(14日付の鈴木首相の内閣告諭)
これ以上国民の戦火に斃れるを見るに忍びず=平和再建に聖断降る=(終戦決定の御前会議の模様を伝える内容)
交換外交文書の要旨(君主統治者としての天皇大権を損しない前提でのポツダム宣言受諾とバーンズ回答の要旨、これを受けたポツダム宣言受諾の外交手続き)
一度はソ連を通じて戦争終結を考究=国体護持の一線を確保=(戦局の悪化とソ連経由の和平工作失敗と参戦、ポツダム宣言受諾に至った経緯)
万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん(昭和天皇による終戦決意)
ポツダム宣言(ポツダム宣言の要旨)
カイロ宣言(カイロ宣言の要旨)
共同宣言受諾=平和再建の大詔渙発=(終戦に臨んでの国民の心構え)
緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の開催経過)
鈴木総理大臣放送の予告(14時からの「大詔を拝し奉りて」と題する放送予告。実際には内閣総辞職を決定する閣議が行われたため、19時のニュースに続いて放送された)
8. 昭和天皇の録音盤再生後の解説文(日本放送協会 和田信賢放送員[19])
畏くも天皇陛下におかせられましては、万世の為に太平を開かんと思し召され、きのう政府をして、米英支蘇四国に対して、ポツダム宣言を受諾する旨、通告せしめられました。
畏くも天皇陛下におかせられましては、同時に詔書を渙発あらせられ、帝国が四ヶ国の共同宣言を受諾するのやむなきに至った所以を御宣示あらせられ、きょう正午、畏き大御心より詔書を御放送あらせられました。
この未曾有の御事は拝察するだに畏き極みであり、一億等しく感泣いたしました。
我々臣民は、ただただ詔書の御旨を必謹誓って国体の護持と民族の名誉保持のため、滅私の奉公を誓い奉る次第でございます。
謹んで詔書を奉読いたします。(詔書奉読)
上述のように、放送を即時に広く伝達するため10 kWに規制されていた出力を60 kW[注釈 3]に増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらに短波により東亜放送を通じて中国占領地、満洲、朝鮮、台湾、南方諸地域にも放送された[20]。
また、国際放送(ラジオ・トウキョウ)では平川唯一が厳格な文語体による英語訳文書(Imperial Rescript on the Termination of the War)を朗読し、国外向けに放送した。この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載された。
以降の放送
玉音放送のあと、15日中のラジオ放送は下記の4回行われた。
15時(40分間)
17時(20分間)
19時(40分間)
21時(18分間)
その後
戦後の始まりとしての受容
玉音放送自体は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていた。実際に、日本の陸海軍は玉音放送をもって比較的スムーズに日本の降伏を受け入れ、日本社会はGHQ統治へと移行してゆく。
以降、メディアにおいて戦時下の日本を取り上げる際には、資料映像として玉音放送が流れることが多い。その中でも時に切り取られて放送されるのは、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分であり、戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である[注釈 4][注釈 5]。
ブラジルの日系人社会にも玉音放送の内容が伝わったもののの、敗戦を信じない「勝ち組」と敗戦を認識した「負け組」を生んだ。1945年(昭和20年)10月13日、赤十字社を通じてブラジルに終戦詔書が届けられたものの、詔書を受容できない者も多く決定的な対立を招いた。両者の対立は長きにわたりブラジル社会に大きな影を落とした[22]。
玉音盤
玉音盤(副盤)
(玉音放送で流すべく、天皇の肉声(玉音)を録音したレコード盤)
NHK放送博物館所蔵
玉音盤は放送後、昭和天皇の住まいで防空施設も兼ね備えていた「御文庫」に長らく収蔵されたのち三の丸尚蔵館に、その後宮内庁の倉庫に移された[23][24]。再生や複製が繰り返されるうちに音が劣化していったものと推定される[25]。
実際に放送で再生された正盤は、2014年(平成26年)末の時点で、2枚組で録音された音声の再生に成功した(3枚組はうち1枚が再生不可能)。戦後70年に当たる翌2015年(平成27年)にデジタルリマスターが実施され、8月1日にこの原盤と復元音声、1946年(昭和21年)5月24日に放送された食糧問題に関する御言葉を録音した原盤も公開[26][27](これは1962年にフォノシートに収録され、同じものが1995年にCD化されている)、これに合わせる形で、御文庫の防空壕も1965年(昭和40年)以来となる内部の状況を写真や映像を公開した[23][28][25][29][30][31]。これに先立ち6月30日には天皇、皇后、皇太子・徳仁親王(現・天皇)、秋篠宮文仁親王の4人がこの復元された音声を聞いたという[23][28]。
放送では使われなかった副盤計7枚は1975年(昭和50年)、放送開始50周年記念事業の一環として、宮内庁からNHK放送博物館に移されたが、ひび割れなど時間の経過による劣化により再生不可能な状態となっていた[23]。現在は修復措置を施したうえ、窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている。
一方、メディアで放映され、一般的に知られてきた玉音放送の音声は、実際に録音した原本ではなく、終戦の翌年、GHQの命令で複製されたものを録音作業にあたったNHK職員が余分に制作し個人で保管していたもので、その後、NHKに渡されたものとされる[23][28]。NHKに渡された複製盤はその後さらにLPレコード化され、2015年時点ではLPがNHK浜松支局内のライブラリーに保管され[32]、2017年には同ライブラリーがNHKアーカイブス(川口本館)に統合されたことに伴い川口に移された(元の複製盤は行方がわかっていない)。
玉音に類似するもの
この玉音放送以降、天皇の肉声がメディアで流れることはタブーでなくなったが、天皇が国民に直接訴えかける内容のものが収録、公開された事例は数少ない。
食糧問題に関する御言葉:飯米獲得人民大会による混乱を受けて、1946年(昭和21年)5月24日に放送された。
東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば:東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)・福島第一原子力発電所事故の状況を憂慮し、防災関係者を労い、被災者を激励する内容。
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば 天皇としての職務の引退及び退位等の意思に関し、全国民に理解を求める内容。
後者2例は、第125代天皇明仁によるもので、事前にビデオに収録された映像をテレビ各局が放送した。宮内庁での正式名称は天皇陛下のおことばとされているが、直接国民に思いを訴える放送として、上記昭和天皇の『終戦の詔書』での事例と酷似しているとして[33][34]、一部で「平成の玉音放送」と称された[35][36]。
エピソード
公式には終戦の詔書が最初の玉音放送であるが、1928年(昭和3年)12月2日の大礼観兵式に、ラジオ放送のマイクが昭和天皇の肉声を意図せず拾ってしまい、これが放送されるというアクシデントが一度起こっている。宮中筋は「天皇の肉声を放送する事は憚りあり」として、これを数日後に封印されたことがあった[37]。
佐藤卓己『八月十五日の神話』(ちくま新書、2005年)では、「報道機関には前もって日本の降伏が知らされ、記者は敗戦を知ってうなだれるポーズを撮影した写真を、放送前にあらかじめ準備した」といった捏造記事の制作が紹介されている。
詔書作成の過程で安岡正篤は「時運ノ趨ク所」(じうんのおもむくところ)は「成り行きまかせ」の意味であるため天皇の言葉としてふさわしくない、ここは道義の至上命令を意味する「義命ノ存スル所」[注釈 6]に変えるべきだ、と迫水久常に進言した。迫水はこれを受けて文案を作り直したが、そのあとの閣議で、漢和辞典に出ていないような難しい言葉では国民が理解できないだろうという意見があり、元に戻されてしまった。これについて安岡は「不見識きわまりない」と憤慨し、以後詔書について話すことを一切拒んだ[39]。
詔書の原案では「遺族ニ想ヲ致セハ断腸ノ思ヒアリ」となっていた。安岡は「断腸ノ思ヒ」は私情であり公の場で使うべきでないとして「五内為ニ裂ク」(ごだいためにさく)に変更するように指示した。この点も閣議で難解と指摘された。迫水は安岡から聞いたとおり、これは「五臓が引き裂かれる思い」の意味であって公に使える、と説明するとこのまま受け入れられた。迫水はのちになって「五内為ニ裂ク」は難解の見本のようなものと回想している[40]。
連合国軍の攻撃は、アメリカ軍は数日前から兵庫県宝塚市などに8月15日の空襲予告を行っていたが[41]、15日未明の土崎空襲を最後に爆撃を停止した。しかしイギリス軍では、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に向かったグラマン TBF アヴェンジャーらが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡した。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、脱出したフレッド・ホックレー少尉が陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により処刑される事件も発生した(一宮町事件)。
当時玉音放送を聞いた国民は、玉音そのものからは「論旨はよくわからなかった」という証言が多い。これは、天皇の朗読に独特の節回しがあり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたためである。また、当時はラジオの放送品質が悪かったうえ、電波管制のために全国共通の周波数(860キロサイクル)を用いていた状態で、前述のとおり電波出力を通常より大きくしていたため、放送局間の地域では相互の電波が干渉し、却って受信状態が非常に悪くなってしまった(『真空管の伝説』p.167)。大半の人は、放送を聴く周囲の人々の雰囲気などで事情を把握したという[42][43]。
関連番組
アニメンタリー 決断 第25話「最後の決断」(竜の子プロダクション制作・日本テレビ系、1971年放送) - ポツダム宣言受諾から御前会議、玉音放送に至るまでの、下村総裁をはじめ、徹底抗戦を唱え玉音盤を奪取しようとする陸軍の一部将校など、さまざまな立場からの決断が描かれている。
連続テレビ小説「本日も晴天なり」(第35話=第6週・その5 1981年11月13日 NHK総合テレビジョンにて生放送)[44] - 玉音放送の当時の音源を交えて再現したもの。原本の和田に相当する進行役の本多を山本紀彦が演じた。
ザ・スクープスペシャル「終戦特別企画 誰も知らない玉音放送 "日本のいちばん長い日"の真実」(テレビ朝日、2011年8月14日放送)
NHK BSプレミアム「玉音放送を作った男たち[45]」 - 下村宏ら玉音放送の制作状況や放送に携わった人々をドラマ形式で。テレビマンユニオン製作(NHK、2015年8月1日放送)
ニコニコ生放送「【終戦の日】玉音放送」 - ニコ生終戦特別企画として玉音放送をノーカットで配信[46][47]。2015年以降、毎年8月15日正午からノーカットで配信する。