2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
工事中
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
なるべく年代順に並べていますが前後が逆転している場合もあります。下の目次も参照してください。
以下は、コトバンク、Wikipediaなどを引用しています。
見出しをクリックすると説明が出てきます。
第三次桂太郎内閣
(1912.12.21~1913.2.20 大正1~2)
第二次西園寺内閣が倒れたあと、後継難から元老はついに内大臣桂太郎を首相に推挙(宮中、府中の別を乱す)、そのため詔勅が出され、また斎藤実(さいとうまこと)海相留任にも詔勅が出された。ここに憲政擁護運動がおこり、桂は政党(後の立憲同志会)を結成して対抗しようとしたが、山県系の反感を買い、また憲政擁護運動が全国に波及し、東京では1913年(大正2)2月10日暴動化したため、翌日総辞職した。後継内閣は山本権兵衛(やまもとごんべえ)によって組織された。
[山本四郎]
『山本四郎著『大正政変の基礎的研究』(1970・御茶の水書房)』▽『山本四郎著『初期政友会の研究』(1975・清文堂出版)』▽『坂野潤治著『大正政変』(1982・ミネルヴァ書房)』
[参照項目] | 桂‐タフト協定 | 桂太郎 | 憲政擁護運動 | 大逆事件 | 地方改良運動 | 日英同盟 | 日露戦争 | 日比谷焼打事件 | 戊申詔書 | ポーツマス条約
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『桂太郎内閣総辞職』
[大正政変]
大正初期の1913年,第3次桂太郎内閣が第1次護憲運動によって崩壊した政変
1912(大正元)年12月,第2次西園寺公望 (きんもち) 内閣が陸軍の要求する2個師団増設を拒否したため,上原勇作陸相が単独で辞職,陸軍が後継陸相を出さないため内閣は総辞職した。後継首相に長州閥で陸軍の長老桂太郎が三たび首相となったが,第1次護憲運動によって53日で総辞職した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 コトバンク『大正政変』
1月12日 - 桜島の大噴火が発生。1月末には対岸の大隅半島と接続(桜島の大正大噴火)。
3月19日 - 辰野金吾設計による東京駅が新築落成
3月20日 - 東京大正博覧会開催( - 7月31日、日本初のエスカレーター登場)
3月- 芸術座公演「復活」(松井須磨子ら)
4月1日 - 宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)第1回公演
4月16日 - 第2次大隈内閣成立
4月20日 - 夏目漱石 「こゝろ」連載開始
12月20日 - 東京駅開業(東海道本線始発駅は新橋駅から東京駅に変更、新橋駅は汐留貨物駅に改称)
2021年
1914年に暴露された海軍首脳とドイツのジーメンス=シュッケルト社の疑獄事件。ドイツ語の読みは「ジーメンス」であるが,日本での報道および歴史上の表記はシーメンスと記される。同社事務員が重要文書を同社から盗み,恐喝した事件の裁判を同年1月 23日付新聞がロイター電で報道して,初めて事実が明るみに出された。第 34帝国議会で取上げられ,衆議院議員島田三郎が軍閥批判の演説を行い,国民運動に発展,同2月 14日倒閣国民大会となり民衆,警官が衝突,数百人の逮捕者を出した。海軍には査問委員会が設けられ,司法当局が捜査に乗出し,ジーメンス社のみならずイギリスのビッカース社,三井物産と海軍首脳の贈収賄事実も判明。3月 24日,山本権兵衛内閣は総辞職し,5月 29日には松本和中将ら海軍将官,佐官が軍法会議で懲役を宣告された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
『1918年米騒動』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95
2019年問題
東京都渋谷区代々木神園町に鎮座。明治天皇・昭憲(しょうけん)皇太后を祀(まつ)る。1920年(大正9)11月創建。1912年(明治45)7月明治天皇が亡くなり、1914年4月その皇后昭憲皇太后が亡くなったあと、国民の間からその神霊を祀り、遺徳を慕い敬仰したいとの気運が高まり、翌1915年明治神宮造営局官制が公布され、江戸初期以来、大名加藤家、井伊(いい)家の下(しも)屋敷の庭園であり、明治時代に代々木御苑(ぎょえん)とされ、明治天皇・昭憲皇太后ゆかりの当地を選び造営することとした。その境内約70万平方メートルの造園整備は全国青年団の勤労奉仕によりなされ、その樹木365種、約12万本も全国より献納された。30万平方メートルに及ぶ外苑は1926年完成。1945年(昭和20)4月本殿以下戦災を受けたが、1958年復興。旧官幣大社。例祭11月3日(明治天皇の誕生日)。
[鎌田純一]
2020年(令和2)、本殿、内拝殿、外拝殿など36棟が重要文化財に指定された。
[編集部 2021年12月14日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国からの献木が植樹された。
また、本殿を中心に厄除・七五三などの祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」明治神宮ミュージアム、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館、神道文化の国際的な発信を行う明治神宮国際神道文化研究所などがある。
新年には毎年のように国内外から観光客が集まり、初詣では例年の参拝者数が全国1位となっている。
戦争によってもたらされた輸出と内需における好景気(大戦景気)が、終戦にともなって終了し、それに留まらず不景気にまで陥る現象のことを指す。この景気循環は日露戦争後や朝鮮戦争の際にも確認できるが、日本では第一次世界大戦後の1920年に発生した不況を指して「戦後恐慌」と呼ぶことが多い。
1918年(大正7年)11月のドイツ国(ドイツ帝国)の敗北により、第一次世界大戦が終結したとき、大戦景気は一時沈静化した。しかし、ヨーロッパの復興が容易でないと当初見込まれ、また、アメリカ合衆国の好景気が持続すると見込まれたこと、さらに、中国(中華民国)への輸出が好調だったことより、景気は再び加熱した。
ヨーロッパからの需要も再び増加して輸出が伸びはじめた1919年(大正8年)後半には金融市場は再び活況を呈し、大戦中を上まわるブーム(大正バブル)となった[2]。このときのブームは、繊維業や電力業が主たる担い手であったが、商品(綿糸・綿布・生糸・米など)・土地・株式などの投機が活発化し、インフレーションが発生している。
1920年(大正9年)3月に起こった戦後恐慌は、第一次世界大戦からの過剰生産が原因である。日本経済は、戦後なおも好景気が続いていたが、ここにいたってヨーロッパ列強が生産市場に完全復帰し、日本の輸出が一転不振となって余剰生産物が大量に発生、株価が半分から3分の1に大暴落した。4月から7月にかけては、株価暴落を受けて銀行の取り付け騒ぎが続出し、169行におよんだ。
1920年代は、「慢性不況」と称されるほどの長期不況が支配し、大戦期の輸出で花形産業となった鉱山、造船、商事がいずれも停滞し、久原・鈴木は破綻し、重化学工業も欧米製品の再流入で苦境に立たされることとなった[3]。1920年代の「慢性不況」は、大戦時の輸出が主な「大戦景気」と戦争直後の「バブル経済」的なブームのあとにきた反動によるものと把握できる。
参考:『戦後恐慌』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%81%90%E6%85%8C
2021年徳永直の著書を聞く問題。
おもに日本文学において,プロレタリアとしての階級的,政治的立場に立ち,社会主義ないし共産主義思想に基づいて現実を描く文学,およびその運動をいう。労働運動の高揚に伴い,1921年小牧近江らによって創刊された雑誌『種蒔く人』をもって組織的な出発とされるが,以後革命運動との関連において,マルクス主義的傾向を強く打出すようになり,『文芸戦線』や「プロレタリア文芸連盟」の文学運動として発展していった。しかし昭和初期にその運動理論をめぐる対立から「ナップ」と「労農芸術家連盟」に分裂し,前者はなかば革命運動を代行する形をとり,ために満州事変下における革命運動の弾圧強化により打撃を受け,戦争の長期化とともに壊滅した。代表的作家に葉山嘉樹,黒島伝治,小林多喜二,徳永直,平林たい子らがいる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
[徳永直]
[生]1899.1.20. 熊本,花園
[没]1958.2.15. 東京
小説家。小学校中退。職を転々としたのち,1922年山川均を頼って上京,印刷工員として労働組合運動に参加。 26年共同印刷の大争議にかかわり,敗北後この争議の経過を描いた『太陽のない街』を『戦旗』に連載,これによりプロレタリア作家として認められた。第2次世界大戦中は『光をかかぐる人々』 (1943) で地味な抵抗を示し,戦後は新日本文学会の結成に参加,『新日本文学』創刊号から亡妻の思い出として下積みの女の一生を描いた『妻よねむれ』 (46~48) を発表。ほかに『八年制』 (37) ,『静かなる山々』 (49~54) ,『草いきれ』 (56) などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分、日本時間、以下同様)に発生した関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。
『関東大震災』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
参考:『関東大震災100年』特設ページ(内閣府・防災のページ) https://www.bousai.go.jp/kantou100/
掲載の関東大震災・阪神大震災・東日本大震災の被害比較表から関東大震災は近年の大震災に劣らぬ規模(範囲は阪神大震災の10倍)の被害であること・経済被害は国家予算の4倍近くであったこと・相模トラフを震源とする海溝型地震であることなどがわかります。
参考:『資料で学ぶ関東大震災』特設ページ(内閣府・防災のページ) https://www.bousai.go.jp/kantou100/siryou.html
[生]1882.4.18. 長野
[没]1959.8.14. 東京
大正・昭和期の実業家。東急コンツェルンの創設者。長野県の農家の二男に生まれる。1911年東京帝国大学法科大学卒業後,農商務省を経て鉄道院に勤務。1920年民間に下り,武蔵電気鉄道(のち東京横浜電鉄)の常務取締役となる。旺盛な事業活動を展開し,1922年に目黒蒲田電鉄を設立,以後,池上電気鉄道,東京横浜電鉄,玉川電鉄,小田急電鉄,京浜電気鉄道,京王電気軌道の各社を合併して 1942年東京急行電鉄に統合,経営合理化,体質強化をはかった。交通事業を主軸にしながら,土地,住宅,百貨店など付帯事業も次々と拡大,いわゆる東急コンツェルンを築いた。1944年東条英機内閣の運輸通信大臣に就任。第2次世界大戦後は公職追放となり,また財閥解体によって傘下から東横百貨店(→東急百貨店),小田急電鉄,京王帝都電鉄(→京王電鉄),京浜急行電鉄の各社が分離独立したが,1951年追放解除とともに東京急行電鉄会長に復帰。分離した各社を再び支配下に収め,東映の再建,白木屋の買収,土地開発や伊豆箱根の観光開発などを手がけ,東急グループを形成した。「事業の鬼」と呼ばれる手腕と覇気に富んだ人物像は,日本の実業界でも異色の存在であった。文化事業として五島育英会,五島美術館の設立,亜細亜大学の経営などを行なった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
写真(絵画)問題として2022年出題
[生]1891.6.23. 東京
[没]1929.12.20. 山口,徳山
洋画家。明治の先覚者,岸田吟香の第9子 (4男) 。 1908年白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に師事。 10年第4回文展に『馬小屋』『若杉』が入選。この頃雑誌『白樺』で後期印象派,フォービスムなどの感化を受け,12年高村光太郎らとフュウザン会を結成。のち北欧ルネサンス様式の影響を受け 15年草土社を創立。デューラー風の神秘的で細密な描写による肖像,静物,風景画を発表。 17年第4回二科展で『初夏の小路』 (下関市立美術館) が二科賞を受け,翌年から娘麗子を主題にした作品を多く制作。 22年春陽会の創立に参加。この頃から歌舞伎,能,長唄などに親しむようになって日本画も描き,関東大震災で京都に移住してからは,初期肉筆浮世絵や中国,宋元画に学び,東洋的な表現を加味した独自の画風を築いた。 29年満州旅行の帰途,38歳で山口県徳山で客死。『劉生画集及芸術観』 (1920) ,『初期肉筆浮世絵』 (26) ,『図画教育論』など著書も多い。主要作品『道路と土手と塀 (切通しの写生) 』 (15,東京国立近代美術館) ,『麗子五歳之像』 (18,同) ,『麗子微笑 (青果持テル) 』 (21,東京国立博物館) ,『村娘於松立像』 (21,東京国立近代美術館)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
昭和の元号を冠した時代(1926‐89)を指すが,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえない。第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな変化を遂げているからである。
1926年12月25日大正天皇が死去し,すでに1921年以来摂政であった皇太子裕仁(ひろひと)親王が践祚(せんそ)して昭和と改元された。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版 コトバンク『昭和時代』
参考:『杉原千畝』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D
1941年3月国民学校令が公布され,同年4月からそれ以前の小学校が国民学校に改められた。初等科6年,高等科2年で,ほかに特修科 (1年) をおくこともできた。「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とした。この名称はドイツのフォルクスシューレによったものであった。教科の編成を改め,教科書も新しく編集された。第2次世界大戦後は 47年の新学制により,初等科は新制の小学校に改められ,高等科は新制の中学校設置の母体となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典