2025年11月23日(日)歴史能力検定受験日です。
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平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
なるべく年代順に並べていますが前後が逆転している場合もあります。下の目次も参照してください。
以下は、コトバンク、Wikipediaなどを引用しています。
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第三次桂太郎内閣
(1912.12.21~1913.2.20 大正1~2)
第二次西園寺内閣が倒れたあと、後継難から元老はついに内大臣桂太郎を首相に推挙(宮中、府中の別を乱す)、そのため詔勅が出され、また斎藤実(さいとうまこと)海相留任にも詔勅が出された。ここに憲政擁護運動がおこり、桂は政党(後の立憲同志会)を結成して対抗しようとしたが、山県系の反感を買い、また憲政擁護運動が全国に波及し、東京では1913年(大正2)2月10日暴動化したため、翌日総辞職した。後継内閣は山本権兵衛(やまもとごんべえ)によって組織された。
[山本四郎]
『山本四郎著『大正政変の基礎的研究』(1970・御茶の水書房)』▽『山本四郎著『初期政友会の研究』(1975・清文堂出版)』▽『坂野潤治著『大正政変』(1982・ミネルヴァ書房)』
[参照項目] | 桂‐タフト協定 | 桂太郎 | 憲政擁護運動 | 大逆事件 | 地方改良運動 | 日英同盟 | 日露戦争 | 日比谷焼打事件 | 戊申詔書 | ポーツマス条約
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『桂太郎内閣総辞職』
[大正政変]
大正初期の1913年,第3次桂太郎内閣が第1次護憲運動によって崩壊した政変
1912(大正元)年12月,第2次西園寺公望 (きんもち) 内閣が陸軍の要求する2個師団増設を拒否したため,上原勇作陸相が単独で辞職,陸軍が後継陸相を出さないため内閣は総辞職した。後継首相に長州閥で陸軍の長老桂太郎が三たび首相となったが,第1次護憲運動によって53日で総辞職した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 コトバンク『大正政変』
1月12日 - 桜島の大噴火が発生。1月末には対岸の大隅半島と接続(桜島の大正大噴火)。
3月19日 - 辰野金吾設計による東京駅が新築落成
3月20日 - 東京大正博覧会開催( - 7月31日、日本初のエスカレーター登場)
3月- 芸術座公演「復活」(松井須磨子ら)
4月1日 - 宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)第1回公演
4月16日 - 第2次大隈内閣成立
4月20日 - 夏目漱石 「こゝろ」連載開始
12月20日 - 東京駅開業(東海道本線始発駅は新橋駅から東京駅に変更、新橋駅は汐留貨物駅に改称)
2021年
1914年に暴露された海軍首脳とドイツのジーメンス=シュッケルト社の疑獄事件。ドイツ語の読みは「ジーメンス」であるが,日本での報道および歴史上の表記はシーメンスと記される。同社事務員が重要文書を同社から盗み,恐喝した事件の裁判を同年1月 23日付新聞がロイター電で報道して,初めて事実が明るみに出された。第 34帝国議会で取上げられ,衆議院議員島田三郎が軍閥批判の演説を行い,国民運動に発展,同2月 14日倒閣国民大会となり民衆,警官が衝突,数百人の逮捕者を出した。海軍には査問委員会が設けられ,司法当局が捜査に乗出し,ジーメンス社のみならずイギリスのビッカース社,三井物産と海軍首脳の贈収賄事実も判明。3月 24日,山本権兵衛内閣は総辞職し,5月 29日には松本和中将ら海軍将官,佐官が軍法会議で懲役を宣告された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
参考:『第一次世界大戦』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英: World War I, the Great War、略称: 第一次大戦、WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国と中央同盟国の間で戦われた世界規模の戦争である。この戦争は全世界の経済大国を巻き込み、連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、大英帝国による三国協商)と中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国が中心)の二つの陣営に分かれて戦われた。イタリア王国は、当初ドイツおよびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を締結していた。しかし、「未回収のイタリア」と呼ばれる地域を巡りオーストリアと対立していたため、後にイギリス、フランスとロンドン密約を結び、連合国側で参戦した。
諸国が参戦するにつれて、両陣営の同盟関係は拡大していった。例として、イギリスと日英同盟を結んでいた大日本帝国は連合国側で、ドイツと密接な関係にあったオスマン帝国は中央同盟国側で参戦した。第一次世界大戦の参戦国および影響を受けた地域は、現代の国家に換算すると約50か国に及ぶ。
7,000万人以上の軍人(うちヨーロッパ人は6,000万人)が動員され、最初の世界大戦になった。第二次産業革命による技術革新、塹壕戦による戦線の膠着、総力戦によって死亡率が大幅に上昇し、戦争に関連するジェノサイドやスペイン風邪による犠牲者を含めると、戦闘員900万人以上、非戦闘員700万人以上が死亡、負傷者2,000万人を出した。使われた砲弾は、13億発でこれは日露戦争で使われた砲弾の500倍だったという。
戦争の長期化により各地で革命が勃発し、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国という4つの帝国が崩壊した。終戦後の戦間期においても、参戦国間の対立関係は解消されず、その結果、21年後の1939年に第二次世界大戦が勃発することとなった。
太平洋戦役
なおドイツ領南洋諸島を占領するか否かについては、日本国内でも意見が分かれていた。参戦を主導した加藤高明外相も、南洋群島占領は近隣のイギリス植民地政府や、同様に近隣に植民地を有するアメリカを刺激するとして、当初は消極的な姿勢を示していた。しかし、9月に入り巡洋艦ケーニヒスベルグを旗艦とするドイツ東洋艦隊によるアフリカ東岸での英艦ペガサス撃沈、エムデンによる通商破壊などの活動が活発化すると、日本の参戦に反対していたイギリス植民地政府の対日世論はほぼ鎮静化した。アメリカにおいても、一時的にハースト系のイエロー・ジャーナリズムを中心に高まっていた人種差別的な対日警戒論も、次第に収束していった。
このような情勢を背景に、日本によるドイツ領南洋諸島の占領が決定された。10月3日から14日にかけて、第一南遣艦隊および第二南遣艦隊に属する巡洋戦艦「鞍馬」「浅間」「筑波」、戦艦「薩摩」巡洋艦「矢矧」「香取」によって、ドイツ領南洋諸島のうち赤道以北の島嶼群(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)が短期間で占領された。これらの島嶼群の領有権は戦後決定するという国際的な合意が存在したため、日本の国民感情には期待感が醸成された。
開戦前に南洋諸島に展開していたドイツ東洋艦隊は、かつて日露戦争においてバルチック艦隊を壊滅させた日本艦隊艦隊が来援することを恐れ、同海域からの撤退を決定した。艦隊はパガン島付近で補給艦からの補給を受けた後、南アメリカ大陸最南端のホーン岬を回航し(ドレーク海峡経由)ドイツ本国への帰還を目指して東太平洋へ向かった。
日本を含む連合国軍は、数か月のうちに太平洋におけるドイツ領のほぼ全てを占領し、ドイツ軍の抵抗は開戦時やニューギニアにおける一部拠点での散発的なものに留まった。ホーン岬を回航してドイツ本国への帰還を目指したドイツ艦隊はイギリス艦隊の追跡・迎撃を受け、東太平洋におけるコロネル沖海戦(11月1日)では辛くも勝利したものの、南大西洋のフォークランド沖海戦(12月8日)に敗北し、壊滅的な打撃を受けた。
日本海軍のアメリカ派遣と欧州派遣
さらに、逃走中の東洋艦隊が、中立国であるアメリカの西海岸地域に移動する可能性があったため、イギリス政府は日本海軍に対し、同艦隊に対する哨戒活動の実施を要請してきた。
日本海軍はこれに応じ、1914年10月1日に戦艦「肥前」と巡洋艦「浅間」および輸送船や工作船などからなる艦隊を編成した。さらに、1913年11月からビクトリアーノ・ウエルタ将軍のクーデターに端を発する内戦(メキシコ革命)で混乱していたメキシコ沿岸地域における邦人保護を目的に派遣されていた「出雲」を「遣米支隊」としてメキシコからカリフォルニア州にかけて派遣した。
この時点において、アメリカとメキシコは第一次世界大戦に参戦していなかったが、連合国である日本とイギリス、アメリカとメキシコの4国がこの艦隊派遣計画を了承していた。
なお、巡洋艦「出雲」は、日本が第一次世界大戦に参戦する直前の8月初旬にマサトラン港へ寄港した際、石炭が不足していたところ、ドイツ海軍所属の軽巡洋艦「ライプツィヒ」と遭遇し、同艦の親日的な士官の厚意によりドイツがマサトラン港に貯蔵していた石炭の提供を受けたという逸話が残されている。。
日本海軍遣米艦隊がアメリカ合衆国西海岸に到着した後、同艦隊はイギリス海軍、カナダ海軍、およびオーストラリア海軍の巡洋艦と共同で、マサトランを拠点とした哨戒活動を実施した。また、遣米艦隊の一部艦艇は、逃走中のドイツ東洋艦隊を追跡してガラパゴス諸島方面へ展開した。その後、巡洋艦「出雲」は、第二特務艦隊の増援部隊として地中海方面のマルタ島へ派遣された。
青島の戦い
11月7日に大日本帝国陸軍とイギリス軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略した(青島の戦い、1914年10月31日-11月7日)。
オーストリア=ハンガリー帝国海軍の防護巡洋艦カイゼリン・エリザベートが青島からの退去命令を拒否したため、日本はドイツだけでなくオーストリア=ハンガリー帝国にも宣戦布告を行った。カイゼリン・エリザベートは青島要塞を守備した後、1914年11月に自沈した。
これらの中国戦線において連合国軍に捕虜として拘束されたドイツおよびオーストリア=ハンガリー帝国の軍人・軍属(日独戦ドイツ兵捕虜)と民間人約5,000名は、全員日本本土へ移送され、その後、徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など、日本国内12か所に設置された俘虜収容所に収容され、終戦後の1920年までその身柄を拘束された。
特に、板東俘虜収容所における捕虜の待遇は極めて良好であり、ドイツ兵は地元住民との交流も認められ、地域住民からは「ドイツさん」という愛称で親しまれた。この時期に、ドイツ料理やビールをはじめとする多様なドイツ文化が日本にもたらされた。ベートーヴェンの「交響曲第9番」(通称「第九」)は、この時ドイツ軍捕虜によって演奏され、日本で初めて紹介された。また、敷島製パンの創業者である盛田善平は、ドイツ人捕虜からパン製造技術を習得したことが、パン製造事業に参入する契機となった。
日本海軍艦隊のヨーロッパ派遣
このようにドイツ海軍による無制限潜水艦作戦を再開すると、イギリスをはじめとする連合国から日本に対して、護衛作戦に参加するよう再三の要請が行われた。
1917年1月から3月にかけて日本とイギリス、フランス、ロシア政府は、日本がヨーロッパ戦線に参戦することを条件に、山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島におけるドイツ権益を日本が引き継ぐことを承認する秘密条約を結んだ。
これを受けて大日本帝国海軍は、インド洋に第一特務艦隊を派遣し、イギリスやフランスのアジアやオセアニアにおける植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団の護衛を受け持った。1917年2月に、巡洋艦「明石」および樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊をインド洋経由で地中海に派遣した。さらに桃型駆逐艦などを増派し、ヨーロッパ・地中海に派遣された日本海軍艦隊は合計18隻となった。
第二特務艦隊は、派遣した艦艇数こそ他の連合国諸国に比べて少なかったものの、他の国に比べて高い稼働率を見せて、1917年後半から開始したアレクサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国軍の兵員70万人を輸送するとともに、ドイツ海軍のUボートの攻撃を受けた連合国の艦船から7000人以上を救出した。
その結果、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献し、連合国側の輸送船が大きな被害を受けていたインド洋と地中海で連合国側商船787隻、計350回の護衛と救助活動を行い、司令官以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。連合国諸国から高い評価を受けた。一方、合計35回のUボートとの戦闘が発生し、多くの犠牲者も出した。
また、日本は欧州の戦場から遠く造船能力に余裕があり、造船能力も高かったことから、1917年にはフランスが発注した樺型駆逐艦12隻を急速建造して、日本側要員によってポートサイドまで回航された上でフランス海軍に輸出している(アラブ級駆逐艦)。
日本のオーストラリア警備
イギリス海軍の要請により巡洋戦艦「伊吹」がANZAC軍団の欧州派遣を護衛することになった。伊吹はフリーマントルを経てウェリントンに寄港しニュージーランドの兵員輸送船10隻を連れ出発し、オーストラリアでさらに28隻が加わり、英巡洋艦「ミノトーア」、オーストラリア巡洋艦「シドニー」、「メルボルン」と共にアデンに向かった。航海途上で「エムデン」によるココス島砲撃が伝えられた。付近を航行していた艦隊から「シドニー」が分離され「エムデン」を撃沈した。
この際、護衛艦隊中で最大の艦であった「伊吹」も「エムデン」追跡を求めたが、結局は武勲を「シドニー」に譲った。このエピソードは「伊吹の武士道的行為」として賞賛されたとする記録がある一方で、伊吹艦長の加藤寛治は、エムデン発見の一報が伊吹にのみ伝えられず、シドニーによって抜け駆けされたと抗議している。
以後の太平洋とインド洋における輸送船護衛はほぼ日本海軍が引き受けていた。ところが1917年11月30日に、オーストラリア西岸フリーマントルに入港する「矢矧」に対して、陸上砲台から沿岸砲一発が発射され、矢矧の煙突をかすめて右舷300mの海上に落下する事件が発生した。
参考:『第一次世界大戦』コトバンク デジタル大辞泉 https://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6-556343
だいいちじ‐せかいたいせん【第一次世界大戦】
三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との対立を背景として起こった世界的規模の戦争。1914年6月のサラエボ事件をきっかけに開戦。同盟側にはトルコ・ブルガリアなどが、協商側には同盟を脱退したイタリアのほかベルギー・日本・アメリカ・中国などが参加した。4年余りにわたってヨーロッパ戦場を中心に激戦が続いたが、1918年11月、ドイツの降伏によって終結。翌年のパリ講和会議でベルサイユ条約が成立した。欧州大戦。第一次大戦。WWⅠ(World War Ⅰ)。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考:『第一次世界大戦』世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh1501-011.html
(1)概要と世界史的ポイント(2)大戦の原因(3)大戦の経過(4)大戦の終結(5)大戦の結果と影響
第一次世界大戦のもたらしたこと
旧帝国の消滅
イギリスの没落
社会主義国の出現
アメリカの繁栄
東ヨーロッパ諸国の独立
植民地の民族主義運動の激化
新たな武器と総力戦の始まり
勢力均衡論から集団安全保障へ
国際連盟ー集団安全保障
参考:『1915年の政治』Wikipedia 大正4年
1月 日本が中華民国の袁世凱政権に対華21ヶ条を要求する。
5月 袁世凱政権が日本の対華21ヶ条要求を受諾。
6月 ロシア、中華民国、モンゴルがキャフタ協定に調印。モンゴルに対する中華民国の宗主権の存在に合意
7月 日本領台湾の台南庁噍吧哖(タパニー、現・玉井)で武装蜂起(西来庵事件)。
8月 袁世凱が側近の楊度らに帝政復活運動を指示。
10月 日本が戦後の権益に関する連合国側の秘密協定であるロンドン宣言に加入。
12月 中華民国参政院が袁世凱を皇帝に推戴。
袁世凱が中華帝国の皇帝に即位し、元号を洪憲と定める。
雲南督軍の蔡鍔、雲南将軍の唐継堯が昆明市で雲南省の独立を宣言。袁世凱討伐のため約2万人の護国軍(雲南護国軍)を組織(護国戦争)。
参考:『1918年米騒動』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95
1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、1918年(大正7年)に日本で発生した、コメの価格急騰にともなう暴動事件。日本近代史において単に米騒動とした場合は、本事件を指す。
背景
第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)はコメ消費量の増大をもたらし、一方では工業労働者の増加、農村から都市部への人口流出の結果、米の生産量は伸び悩んでいた。1914年(大正3年)の第一次世界大戦開始直後に暴落した米価は約3年半の間ほぼ変わらず推移していたが、1918年(大正7年)の中ごろから上昇し始めた。1917年(大正6年)のシベリア出兵や、大戦の影響によって米の輸入量が減少したことも米価上昇の原因となった。
米価格高騰を見て、次第に米作地主や米取扱業者の売り惜しみや買い占め、米穀投機が発生し始めた。そのなか寺内正毅内閣は1918年(大正7年)8月2日、シベリア出兵を宣言した。これは戦争特需における価格高騰を見越した流通業者や投機筋などの、投機や売り惜しみを加速させた。
大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年(大正7年)の1月に1石15円だった米価は6月には20円、翌7月17日には30円を超え、さらに伊勢の相場師・福寅一派の買いあおりや地方からの米の出回り減少で、8月1日には1石35円、同5日には40円、9日には50円を超え、各地の取引所で立会い中止が相次ぐ異常事態になった。一方で小売価格も7月2日に1升34銭3厘だった相場が、8月1日には40銭5厘、8月9日には60銭8厘と急騰し(当時の労働者の月収が18円 - 25円)、世情は騒然となった。
米価暴騰は一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日、米価高騰を大きく報じたこともあり、社会不安を増大させた。事態を重く見た寺内正毅内閣総理大臣は1918年(大正7年)5月の地方長官会議にて国民生活難に関して言及したが、その年の予算編成において、救済事業奨励費はわずか3万5,000円のみであり、寺内の憂慮を反映した予算とはいえなかった。仲小路廉農商務大臣は、1917年(大正6年)9月1日に「暴利取締令」を出し、米など各物資の買い占めや売り惜しみを禁止したが、効果はなかった。さらに1918年(大正7年)4月には「外米管理令」が公布され、三井物産や鈴木商店など指定七社による外国米の大量輸入が実施されたが、米価は下落しなかった。
このため寺内内閣は警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針を採り、巡査採用数が増員された。生活苦と厳しい抑圧に喘ぐ庶民の怒りは、次第に資本家、特に米問屋、商社など流通業者に向けられるようになっていった。
発生
騒動の発端となった富山県では、1918年(大正7年)「7月上旬」から、中新川郡東水橋町(現・富山市)で「二十五六人」の「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」行動が始まっている。
また折りから、富山県内各港には、北海道への米の積み出しのための積出船が寄航していた。当時の新聞は「魚津町にては、米積み込みの為客月一八日汽船伊吹丸寄港に際し細民婦女の一揆が起こり狼煙を上げたる」と、魚津町(現・魚津市)で一揆発生を報道した。さらに「二十日未明同海岸に於いて女房共四十六人集合し役場へ押し寄せんとせしを、いち早く魚津警察署に於いて探知し、解散せしめ」と、魚津の動きが20日未明(おそらく19日夜間)から起きていた説もある。
7月22日の昼には、富山市西三番町の富豪浅田家の施米にもれた仲間町、中長柄町ほか市内各所の細民200名が市役所に押しかけた。このときは警官の説諭によって解散させられたが、住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた。
そのころ、東水橋町、富山市、魚津町以外にも、東岩瀬町(28日)、滑川町、泊町(31日)等富山県内での救助要請や、米の廉売を要望する人数はさらに増加し、各地で動きが起きていた。翌月8月3日には当時の中新川郡西水橋町(現・富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。
全国への波及
都市での米騒動
8月10日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。8月12日には鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)との捏造記事を書かれたことにより焼き打ちに遭った。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約2万人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市下京区の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ち壊すなどして1升30銭での販売を強要した。
東京市では、北陸での暴動発生の報を受けても主要な政治団体は静観の構えを見せた。しかし、8月10日に宮武外骨を発起人として山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による野外演説会を日比谷公園で8月13日に開催する広告が打たれ、警察が禁止の決定をしたにもかかわらず、当日には約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった。200人の警官が包囲する中で行われた即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れて怒号と興奮が高まっていた。事態は警官との衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行った。浅草方面に向かった一派は翌14日に浅草・本所近辺の米商に押し寄せ、暴力的な廉売交渉を行った。8月15日には軍が出動し、翌16日に暴動は鎮圧され総計299人が検挙されている。東京市での暴動は、ほかの地域と比較して反ブルジョア思想を背景とした都市暴動の性格を持っており、暴動参加者の多くは若年層の男性だった。
炭鉱への飛び火
こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日ごろからは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。この間、米騒動は山口県や福岡県、熊本県での炭鉱での労働争議へ飛び火した。
山口県の炭鉱騒動
8月17日、山口県厚狭郡宇部村(現・宇部市)で賃上げ交渉が決裂したことに伴い、沖ノ山炭鉱や東見初炭鉱の炭鉱夫約3,000人が炭鉱の頭取や所有者の自宅、商店、遊郭などを襲撃した。翌18日に陸軍が出動し、発砲などで13人の死者を出して鎮圧した。軍隊が発砲理由とした坑夫のダイナマイト(爆弾)使用は、陸軍が発砲を正当化するために捏造したコメントを、大正7年8月23日付『大阪朝日新聞』などが取材なしに記事化したことにより流布された可能性が高いとされる。
騒動の発生地域・参加人員と軍隊出動、検挙者の処遇
「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間にわたる一連の騒動は、最終的に1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された[43]。陸軍が出動した[30][34]ほか、呉市では海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙するなか銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。一方で、水兵が騒動に参加して検挙されたほか、一部の地域では制止すべき警官が暴動を黙認した。
検挙された人員は2万5,000人を超え、8,253名が検事処分を受けた。また7,786名が起訴[注釈 5]され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。
政府などの対応
政府は8月13日に1,000万円の国費を米価対策資金として支出することを発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年(大正7年)末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。
8月13日、閣議は米穀強制買収に1,000万円限度の支出を決定。8月16日、農商務大臣が米穀類を強制買収し得る穀類収用令を公布(緊急勅令)。発動されず、1919年4月5日、同法廃止を公布(勅令)。
8月28日、東京府は米価暴騰に対処し「外鮮米」を指定米商に委託して廉売した。
被差別部落との関わり
米騒動での刑事処分者は8,185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では3割から4割が被差別部落民であり、女性の検挙者35人のうち34人が部落民であった。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったためである。京都市の米騒動も、市内最大の部落である柳原(現・崇仁地区)から始まっており、同地区では50人以上の部落民が逮捕されている。処分は死刑をも含む重いものであった。死刑判決を受けた和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の2人の男性、すなわち中西岩四郎(当時19歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時45歳)も被差別部落民であった。事態を重視した原内閣は1920年(大正9年)、部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。
原内閣の誕生
米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。寺内は体調不良もあり8月31日に元老の山縣有朋に辞意を告げ、9月20日に内閣総辞職を決定した。山縣は元内閣総理大臣の西園寺公望に寺内の後継として総理に就任するよう要請したが、西園寺はこれを固辞し、憲政の常道を重んずる立場から立憲政友会総裁の原敬を推薦した。そして9月27日に原に大正天皇より組閣の大命が降下され、2日後の9月29日に日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。爵位を持たない衆議院議員を首班とする初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。
米騒動発祥の地の石碑。
魚津市大町の十二銀行(北陸銀行の前身)倉庫前には「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」による「米騒動発祥の地」の標柱があり、富山市水橋館町の郷土史料館の敷地内にも記念碑が設置された。
富山発祥説
しかしながら、20世紀末以降、『米騒動の研究』から40年以上の間に積み上げられた新たな事実・資料・見地を織り込み、米騒動に直接参加した女陸仲仕や漁師、軍人など米騒動の目撃者や随伴者への聞き取りを文字化し、新たな視点による分析が加えられた学術書が次々と刊行された。井本三夫編『北前の記憶——北洋・移民・米騒動との関係』(桂書房、1998年)、歴史教育者協議会編・井本三夫監修『図説米騒動と民主主義の発展』(民衆社、2004年)、井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』(桂書房、2010年)などである。
これらの研究では、米騒動がいつどこでどのように始まったのかについては、少なくとも「富山湾沿岸地帯」からであり、「漁村から始まったのではない」、その主体は「海運・荷役労働者の家族」、「都市漁民」の前期プロレタリアであるなどと従来の定説を大幅に改めることになっている[49]。『図説 米騒動と民主主義の発展』では、「1918年夏の米騒動について残っている証言・資料に現れている、最も早い時点での行動は、東水橋町の女性陸仲仕たち20数人によって、7月上旬から始められた、移出米商高松への積出停止の要求の行動です。」とまとめられている。
ストライキとの関係
米騒動と労働者のストライキとの関係についても「労働者階級の闘争は、一九一八(大正七)年七月の末に所謂「騒動」が勃発する以前から、工場におけるストライキという闘争形態を主たる闘争形態として展開しています。」とし、ストライキの参加人員を見ても「一六(大正五)年には八四一三名の参加人員が、実に一七(大正六)年には五万七三〇九名、米騒動の起きた一八年には六万六四五七名というように、官庁統計からいってもこの一七年がひとつの転機になっている」など、米騒動が始まった結果ストライキが頻発するようになったように言われていたのは間違いであることが、早くから指摘されていた。
また、富山県で米騒動が始まるより2 - 3か月早い「18年の4〜5月になると、もう食糧暴動と言えるものも起こっている」とし、「兵庫県赤穂郡相生町にある播磨造船所」で「食料品価格の高騰のなかで、待遇の悪さに怒った労働者数百人が、ラッパを合図に事務所・食堂・炊事場を襲撃して、器物・建物を破壊し炊事夫に暴行を加えた」という新たな事実が掘り起こされてもいる。
2019年問題
東京都渋谷区代々木神園町に鎮座。明治天皇・昭憲(しょうけん)皇太后を祀(まつ)る。1920年(大正9)11月創建。1912年(明治45)7月明治天皇が亡くなり、1914年4月その皇后昭憲皇太后が亡くなったあと、国民の間からその神霊を祀り、遺徳を慕い敬仰したいとの気運が高まり、翌1915年明治神宮造営局官制が公布され、江戸初期以来、大名加藤家、井伊(いい)家の下(しも)屋敷の庭園であり、明治時代に代々木御苑(ぎょえん)とされ、明治天皇・昭憲皇太后ゆかりの当地を選び造営することとした。その境内約70万平方メートルの造園整備は全国青年団の勤労奉仕によりなされ、その樹木365種、約12万本も全国より献納された。30万平方メートルに及ぶ外苑は1926年完成。1945年(昭和20)4月本殿以下戦災を受けたが、1958年復興。旧官幣大社。例祭11月3日(明治天皇の誕生日)。
[鎌田純一]
2020年(令和2)、本殿、内拝殿、外拝殿など36棟が重要文化財に指定された。
[編集部 2021年12月14日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国からの献木が植樹された。
また、本殿を中心に厄除・七五三などの祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」明治神宮ミュージアム、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館、神道文化の国際的な発信を行う明治神宮国際神道文化研究所などがある。
新年には毎年のように国内外から観光客が集まり、初詣では例年の参拝者数が全国1位となっている。
戦争によってもたらされた輸出と内需における好景気(大戦景気)が、終戦にともなって終了し、それに留まらず不景気にまで陥る現象のことを指す。この景気循環は日露戦争後や朝鮮戦争の際にも確認できるが、日本では第一次世界大戦後の1920年に発生した不況を指して「戦後恐慌」と呼ぶことが多い。
1918年(大正7年)11月のドイツ国(ドイツ帝国)の敗北により、第一次世界大戦が終結したとき、大戦景気は一時沈静化した。しかし、ヨーロッパの復興が容易でないと当初見込まれ、また、アメリカ合衆国の好景気が持続すると見込まれたこと、さらに、中国(中華民国)への輸出が好調だったことより、景気は再び加熱した。
ヨーロッパからの需要も再び増加して輸出が伸びはじめた1919年(大正8年)後半には金融市場は再び活況を呈し、大戦中を上まわるブーム(大正バブル)となった[2]。このときのブームは、繊維業や電力業が主たる担い手であったが、商品(綿糸・綿布・生糸・米など)・土地・株式などの投機が活発化し、インフレーションが発生している。
1920年(大正9年)3月に起こった戦後恐慌は、第一次世界大戦からの過剰生産が原因である。日本経済は、戦後なおも好景気が続いていたが、ここにいたってヨーロッパ列強が生産市場に完全復帰し、日本の輸出が一転不振となって余剰生産物が大量に発生、株価が半分から3分の1に大暴落した。4月から7月にかけては、株価暴落を受けて銀行の取り付け騒ぎが続出し、169行におよんだ。
1920年代は、「慢性不況」と称されるほどの長期不況が支配し、大戦期の輸出で花形産業となった鉱山、造船、商事がいずれも停滞し、久原・鈴木は破綻し、重化学工業も欧米製品の再流入で苦境に立たされることとなった[3]。1920年代の「慢性不況」は、大戦時の輸出が主な「大戦景気」と戦争直後の「バブル経済」的なブームのあとにきた反動によるものと把握できる。
参考:『戦後恐慌』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%81%90%E6%85%8C
2021年徳永直の著書を聞く問題。
おもに日本文学において,プロレタリアとしての階級的,政治的立場に立ち,社会主義ないし共産主義思想に基づいて現実を描く文学,およびその運動をいう。労働運動の高揚に伴い,1921年小牧近江らによって創刊された雑誌『種蒔く人』をもって組織的な出発とされるが,以後革命運動との関連において,マルクス主義的傾向を強く打出すようになり,『文芸戦線』や「プロレタリア文芸連盟」の文学運動として発展していった。しかし昭和初期にその運動理論をめぐる対立から「ナップ」と「労農芸術家連盟」に分裂し,前者はなかば革命運動を代行する形をとり,ために満州事変下における革命運動の弾圧強化により打撃を受け,戦争の長期化とともに壊滅した。代表的作家に葉山嘉樹,黒島伝治,小林多喜二,徳永直,平林たい子らがいる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
[徳永直]
[生]1899.1.20. 熊本,花園
[没]1958.2.15. 東京
小説家。小学校中退。職を転々としたのち,1922年山川均を頼って上京,印刷工員として労働組合運動に参加。 26年共同印刷の大争議にかかわり,敗北後この争議の経過を描いた『太陽のない街』を『戦旗』に連載,これによりプロレタリア作家として認められた。第2次世界大戦中は『光をかかぐる人々』 (1943) で地味な抵抗を示し,戦後は新日本文学会の結成に参加,『新日本文学』創刊号から亡妻の思い出として下積みの女の一生を描いた『妻よねむれ』 (46~48) を発表。ほかに『八年制』 (37) ,『静かなる山々』 (49~54) ,『草いきれ』 (56) などがある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分、日本時間、以下同様)に発生した関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。
『関東大震災』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
参考:『関東大震災100年』特設ページ(内閣府・防災のページ) https://www.bousai.go.jp/kantou100/
掲載の関東大震災・阪神大震災・東日本大震災の被害比較表から関東大震災は近年の大震災に劣らぬ規模(範囲は阪神大震災の10倍)の被害であること・経済被害は国家予算の4倍近くであったこと・相模トラフを震源とする海溝型地震であることなどがわかります。
参考:『資料で学ぶ関東大震災』特設ページ(内閣府・防災のページ) https://www.bousai.go.jp/kantou100/siryou.html
[生]1882.4.18. 長野
[没]1959.8.14. 東京
大正・昭和期の実業家。東急コンツェルンの創設者。長野県の農家の二男に生まれる。1911年東京帝国大学法科大学卒業後,農商務省を経て鉄道院に勤務。1920年民間に下り,武蔵電気鉄道(のち東京横浜電鉄)の常務取締役となる。旺盛な事業活動を展開し,1922年に目黒蒲田電鉄を設立,以後,池上電気鉄道,東京横浜電鉄,玉川電鉄,小田急電鉄,京浜電気鉄道,京王電気軌道の各社を合併して 1942年東京急行電鉄に統合,経営合理化,体質強化をはかった。交通事業を主軸にしながら,土地,住宅,百貨店など付帯事業も次々と拡大,いわゆる東急コンツェルンを築いた。1944年東条英機内閣の運輸通信大臣に就任。第2次世界大戦後は公職追放となり,また財閥解体によって傘下から東横百貨店(→東急百貨店),小田急電鉄,京王帝都電鉄(→京王電鉄),京浜急行電鉄の各社が分離独立したが,1951年追放解除とともに東京急行電鉄会長に復帰。分離した各社を再び支配下に収め,東映の再建,白木屋の買収,土地開発や伊豆箱根の観光開発などを手がけ,東急グループを形成した。「事業の鬼」と呼ばれる手腕と覇気に富んだ人物像は,日本の実業界でも異色の存在であった。文化事業として五島育英会,五島美術館の設立,亜細亜大学の経営などを行なった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
写真(絵画)問題として2022年出題
[生]1891.6.23. 東京
[没]1929.12.20. 山口,徳山
洋画家。明治の先覚者,岸田吟香の第9子 (4男) 。 1908年白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に師事。 10年第4回文展に『馬小屋』『若杉』が入選。この頃雑誌『白樺』で後期印象派,フォービスムなどの感化を受け,12年高村光太郎らとフュウザン会を結成。のち北欧ルネサンス様式の影響を受け 15年草土社を創立。デューラー風の神秘的で細密な描写による肖像,静物,風景画を発表。 17年第4回二科展で『初夏の小路』 (下関市立美術館) が二科賞を受け,翌年から娘麗子を主題にした作品を多く制作。 22年春陽会の創立に参加。この頃から歌舞伎,能,長唄などに親しむようになって日本画も描き,関東大震災で京都に移住してからは,初期肉筆浮世絵や中国,宋元画に学び,東洋的な表現を加味した独自の画風を築いた。 29年満州旅行の帰途,38歳で山口県徳山で客死。『劉生画集及芸術観』 (1920) ,『初期肉筆浮世絵』 (26) ,『図画教育論』など著書も多い。主要作品『道路と土手と塀 (切通しの写生) 』 (15,東京国立近代美術館) ,『麗子五歳之像』 (18,同) ,『麗子微笑 (青果持テル) 』 (21,東京国立博物館) ,『村娘於松立像』 (21,東京国立近代美術館)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
昭和の元号を冠した時代(1926‐89)を指すが,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえない。第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな変化を遂げているからである。
1926年12月25日大正天皇が死去し,すでに1921年以来摂政であった皇太子裕仁(ひろひと)親王が践祚(せんそ)して昭和と改元された。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版 コトバンク『昭和時代』
参考:『同潤会アパート』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E6%BD%A4%E4%BC%9A%E3%82%A2%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88
同潤会アパート(どうじゅんかいアパート)は、財団法人同潤会が大正時代末期から昭和時代初期にかけて東京・横浜の各地に建設した鉄筋コンクリート造(RC造)集合住宅の総称である。同潤会が建設した同潤会アパートは近代日本で最初期の鉄筋コンクリート造集合住宅として、住宅史・文化史上、貴重な存在であり、居住者に配慮したきめ細かな計画などの先見性が評価されている。
概要
1923年(大正12年)に発生した関東大震災では木造家屋が密集した市街地が大きな被害を受けた。同潤会は復興支援のために設立された団体であり、耐震・耐火の鉄筋コンクリート構造のアパートメントの建設は主要事業の1つであった。
同潤会アパートメントの果たした画期的意義として、防災に強いアパートメントを目指したことが挙げられる。構造を鉄筋コンクリート造にしただけでなく、各戸の障壁を不燃化すると共に、防火扉などを標準仕様にした。
不燃構造の集合住宅としては、1916年以降に建設された軍艦島の集合住宅群が先行事例である。また、不燃構造の公的な住宅としては、横浜市と東京市の事例があった。
同潤会は1924年(大正13年)から1933年(昭和8年)の間に、東京13か所2225戸、横浜2か所276戸のアパートメントと、コンクリート造の共同住宅1か所140戸を建設した。
電気・都市ガス・水道・ダストシュート・水洗式便所など最先端の近代的な設備を備えていた。大塚女子アパートは、完成時はエレベーター・食堂・共同浴場・談話室・売店・洗濯室、屋上には、音楽室・サンルームなどが完備されていて当時最先端の独身の職業婦人羨望の居住施設だった。婦人の社会進出が遅れていた当時にあって、大塚アパートメントに象徴される日本初の女性専用アパートメントを提供したことは、同潤会アパートメントが果たした画期的意義の一つである。
同潤会アパート
同潤会アパート(下表のうち15か所)は、都市生活者の利便のために用意されたアパートメント事業によるもので、土地・建物は同潤会が所有し、入居者は一般募集された。居住者として想定されていたのは主に都市の中間層(サラリーマンなど)だった(大塚女子アパートは独身の職業婦人向け)。
猿江裏町共同住宅はスラムの改善を目的とした不良住宅改良事業によるもので、土地収用法の事業認定を得て同潤会が用地を買収し、居住者を移転させて共同住宅を建設、元の居住者は低額の家賃で入居させた。
設計組織
最初期の中之郷アパートの設計は東京帝国大学建築学科教授内田祥三(同潤会理事)の研究室で行われ、岸田日出刀が関与したという。その後本部組織が独立してからも、建築部長を務めた川元良一をはじめ、鷲巣昌・黒崎英雄・拓殖芳男・土岐達人ら、内田の教え子たちである東京帝国大学建築学科出身者が多く在籍した。「建築非芸術論」で知られる野田俊彦も一時期嘱託として籍を置き、大塚女子アパートの設計に関与した。
平面計画
同潤会アパートは階段室型のプランを基本とした(第2次世界大戦後の公団住宅でも多く採用されたプラン)。ただし、虎ノ門アパート、大塚女子アパート、江戸川アパート(5・6階の独身用)は中廊下型、代官山アパート(独身者棟)、東町アパートは片廊下型である。
猿江裏町共同住宅では片廊下型が採用された。同住宅の設計に関わった中村寛(内務省技師)は片廊下型のプランについて、建設コスト、通風、採光の点で優れるが、プライバシーに難点があり、高級アパートメントには向かないが、労働者向けには適している、と述べている。
設備
電気、ガス、水道の設備を備え、トイレは当初から水洗式を採用した。
当時の東京の一般住宅にまだ内湯は少なく、同潤会アパートでも近隣の銭湯を利用するところが多かった。虎ノ門、大塚、江戸川は浴室があった(江戸川では一部の住居に内湯もあった)。代官山では敷地内に銭湯を設けていた。
同潤会解散後
1941年(昭和16年)、戦時体制下に住宅営団が発足すると、同潤会はこれに業務を引き継いで解散した。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による空襲で山の手方面が大きな被害を受けた際、街路樹が全焼した表参道では同潤会アパート前のケヤキだけが焼け残り、防火壁としての同潤会アパートの機能を実証した。
日本の敗戦後に住宅営団が解散すると、東京都内の同潤会アパートは東京都に引き継がれ、大部分は後に居住者に払下げられた。大塚女子アパートに限っては個人に払い下げると男性が住むようになる事を懸念した住民の要望を受け都営住宅として存続した。横浜の同潤会アパートは建財株式会社[13]が管理することになり、賃貸住宅として存続した。
開発と保存運動
同潤会アパートは老朽化のため順次、建て替えが進められた。跡地が大規模に再開発された事例として、代官山アパート跡地に2000年(平成12年)に完成した「代官山アドレス」、青山アパート跡地に2006年(平成18年)に完成した「表参道ヒルズ」などがある。一方、歴史的建築物として1999年には、日本の近代建築20選(DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築)にも選定されている。代官山・青山・大塚女子・江戸川などでは取り壊しに際して保存運動も起こった。しかし、老朽化に伴う建物の劣化が著しく、住人にも建て替え希望者が多かった。立地条件が良い場所が多く、高層化することにより個人負担なしで建て替えが可能など、建て替えによるメリットが大きいと考えられたこともあって保存は困難だった。
2003年(平成15年)に青山・大塚女子・江戸川が取壊し。残る三ノ輪は2009年(平成21年)、上野下は2013年(平成25年)に取壊され、全ての同潤会アパートが姿を消した。
代官山アパートの部材は都市機構の集合住宅歴史館(八王子市)に移設され、室内が復元された。同館は2022年3月に閉館し、2023年9月、北区赤羽台の「URまちとくらしのミュージアム」に移転。
青山アパート東端の1棟が安藤忠雄の設計によって外観が再現された。表参道ヒルズの「同潤館」として商業施設の一部となっている。
江戸川アパート取壊しの際には、部材を江戸東京博物館に移し室内を再現するという新聞報道がされたが、実現しなかった。同館には猿江裏町共同住宅で使われていた郵便受け口が保存されている。
参考:『柳条湖事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9D%A1%E6%B9%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
参考:『満州事変』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9D%A1%E6%B9%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6
[柳条湖事件]
柳条湖事件(りゅうじょうこじけん、中国語: 柳条湖事件)とは、満洲事変の発端となる鉄道爆破事件のことである。1931年(昭和6年、民国20年)9月18日、満洲(現在の中国東北部)の遼寧省瀋陽市近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、関東軍が南満洲鉄道(満鉄)の線路を爆破した事件である。
その前の6月には黒竜江省で中村大尉事件、次いで吉林省で万宝山事件が発生しており、関東軍はこれらを武力による満蒙問題解決の口実とし、満洲における軍事展開およびその占領を行った。
事件の結果、組織法及び奉天省、間島省など満州国国務院による行政区画が設置されるに至った。
事件名は発生地の「柳条湖」に由来するが、長いあいだ「柳条溝事件」(りゅうじょうこうじけん、英語: Liutiaogou Incident)とも称されてきた(詳細は「事件名称について」節を参照)。なお、発生段階の事件名称としては「柳条湖(溝)事件」のほか「奉天事件」「9・18事件」があるが、その後の展開も含めた戦争全体の名称としては「満洲事変」が広く用いられている。
事件の経緯
1931年(昭和6年、民国20年)9月18日(金曜日)午後10時20分ころ、中華民国遼寧省瀋陽市の北方約7.5キロメートルにある柳条湖付近で、南満洲鉄道(満鉄)の線路の一部が爆発により破壊された。
まもなく、関東軍より、この爆破事件は中国軍の犯行によるものであると発表された。このため、日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで、爆破は張学良ら東北軍の犯行と信じられていた。しかし、実際には、関東軍の部隊によって実行された謀略事件(偽旗作戦)である。
この事件の首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐である。二人はともに陸軍中央の研究団体である一夕会の会員であり、張作霖爆殺事件の計画立案者とされた河本大作大佐の後任として関東軍に赴任した。
爆破を直接実行したのは、奉天虎石台(こせきだい)駐留の独立守備第二大隊第三中隊(大隊長は島本正一中佐、中隊長は川島正大尉)付の河本末守中尉ら数名の日本軍人グループである。現場には河本中尉が伝令2名をともなって赴き、斥候中の小杉喜一軍曹とともに、線路に火薬を装填した。関東軍は自ら守備する線路を爆破し、中国軍による爆破被害を受けたと発表するという、自作自演の計画的行動であった。この計画に参加したのは、幕僚のなかでは立案者の石原と板垣がおり、爆破工作を指揮したのは奉天特務機関補佐官の花谷正少佐と参謀本部付の張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉であった。爆破のための火薬を用意したのは今田大尉であり、今田と河本は密接に連携をとりあっていた。このほか謀略計画に加わったのは、三谷清奉天憲兵分隊長と、河本中尉の上司にあたる第三中隊長の川島大尉など数名であったとされる。
ただ、第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によれば、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第一部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略を知っており、賛意を示していたという。
当時、関東軍は兵力およそ1万であり、鉄道守備に任じた独立守備隊と2年交代で駐箚する内地の1師団(当時は第二師団、原駐屯地は宮城県仙台市)によって構成されていた。事件のおよそ1ヶ月前に当たる同年8月20日に赴任したばかりの本庄繁を総司令官とする関東軍総司令部は、関東州南端の旅順に置かれており、幕僚には参謀長として三宅光治少将、参謀として板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、新井匡夫少佐、武田寿少佐、中野良次大尉が配置されていた。独立守備隊の司令部は長春市南方の公主嶺(現吉林省公主嶺市)に所在し、司令官は森連中将、参謀は樋口敬七郎少佐であった[注釈 6]。第二師団の司令部は奉天南方の遼陽(現遼寧省遼陽市)に設営されており、第三旅団(長春)と第十五旅団(遼陽)が所属、前者に第四連隊(長春)・第二十九連隊(奉天)、後者に第十六連隊(遼陽)・第三十連隊(旅順)などが所属した。
この爆破事件のあと、南満洲鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしているが、関東軍兵士によって立ち入りを断られている。また、爆破そのものは小規模なものであり、レールの片側のみ約80センチメートルの破損、枕木の破損も2箇所にとどまった。爆破直後に、瀋陽午後10時30分着の長春発大連行の急行列車が現場を何事もなく通過していることからも、この爆発がきわめて小規模だったことがわかる。今日では、爆発は線路の破壊よりもむしろ爆音を響かせることが目的であったと見る説も唱えられている。
川島中隊(第二大隊第三中隊)はこのとき、瀋陽の北約11キロメートルの文官屯南側地区で夜間演習中だったが、爆音を聴くや直ちに軍事演習を中止した。中隊長の川島大尉は、分散していた部下を集結させ、北大営方向に南下し、瀋陽の特務機関で待機していた板垣征四郎高級参謀にその旨を報告した。参謀本部編集の戦史では、南に移動した中隊が中国軍からの射撃を受け、戦闘を開始したと叙述している[10]。板垣参謀は特務機関に陣取り、関東軍司令官代行として全体を指揮、事件を中国側からの軍事行動であるとして、独断により、川島中隊ふくむ第二大隊と奉天駐留の第二師団歩兵第二十九連隊(連隊長平田幸広)に出動命令を発して戦闘態勢に入らせ、さらに、北大営および奉天城への攻撃命令を下した[3][5][8]。北大営は、奉天市の北郊外にあり、約7,000名の兵員が駐屯する中国軍の兵舎である。また、市街地中心部の奉天城内には張学良東北辺防軍司令の執務官舎があった。ただし、事件のあったそのとき、張学良は麾下の精鋭11万5,000を率いて北平(現在の北京)に滞在していた。
本庄繁関東軍司令官と石原作戦参謀ら主立った幕僚は、数日前から長春、公主嶺、瀋陽、遼陽などの視察に出かけており、事件のあった9月18日の午後10時ころ、旅順に帰着した。しかし、このとき板垣高級参謀だけは、関東軍の陰謀を抑えるために陸軍中央から派遣された建川美次少将を出迎えるという理由で瀋陽に残っていた。午後11時46分、旅順の関東軍司令部に、中国軍によって満鉄本線が破壊されたため目下交戦中であるという奉天特務機関からの電報がとどけられた。しかし、これは板垣がすでに攻撃命令を下したあとに発信したものであった。
知らせをうけた本庄司令官は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。しかし、石原ら幕僚たちが瀋陽など主要都市の中国軍を撃破すべきという強硬な意見を上申、それに押されるかたちで本格的な軍事行動を決意、19日午前1時半ころより石原の命令案によって関東軍各部隊に攻撃命令を発した。また、それとともに、かねて立案していた作戦計画にもとづき、林銑十郎を司令官とする朝鮮軍にも来援を要請した。本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だったはずだが、その規定は無視された。攻撃占領対象は拡大し、瀋陽ばかりではなく、長春、安東、鳳凰城、営口など沿線各地におよんだ。
深夜の午前3時半ころ、本庄司令官や石原らは特別列車で旅順から奉天へ向かった。これは、事件勃発にともない関東軍司令部を瀋陽に移すためであった。列車は19日正午ころに奉天に到着し、司令部は瀋陽市街の東洋拓殖会社ビルに置かれることとなった。
いっぽう、日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は当初不意を突かれるかたちで多少の反撃をおこなったが、本格的に抵抗することなく撤退した。これは、張学良が、かねてより日本軍の挑発には慎重に対処し、衝突を避けるよう在満の中国軍に指示していたからであった[3]。北大営での戦闘には、川島を中隊長とする第二中隊のみならず、第一、第三、第四中隊など独立守備隊第二大隊の主力が投入され、9月19日午前6時30分には完全に北大営を制圧した。この戦闘による日本側の戦死者は2名、負傷者は22名であるのに対し、中国側の遺棄死体は約300体と記録されている。
奉天城攻撃に際しては、第二師団第二十九連隊が投入された。ここでは、ひそかに日本から運び込まれて独立守備隊の兵舎に設置されていた24センチ榴弾砲(りゅうだんほう)2門も用いられたが、中国軍は反撃らしい反撃もおこなわず城外に退去した。午前4時30分までのあいだに奉天城西側および北側が占領された。瀋陽占領のための戦闘では、日本側の戦死者2名、負傷者25名に対し、中国側の遺棄死体は約500にのぼった。また、この戦闘で中国側の飛行機60機、戦車12台を獲得している。
安東・鳳凰城・営口などでは比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態に入った[15]。しかし、長春付近の南嶺(長春南郊)・寛城子(長春北郊、現在の長春市寛城区)には約6,000の中国軍が駐屯しており、日本軍の攻撃に抵抗した。日本軍は、66名の戦死者と79名の負傷者を出してようやく中国軍を駆逐した。こうして、関東軍は9月19日中に満鉄沿線に立地する満洲南部の主要都市のほとんどを占領した。
9月19日午後6時、本庄繁関東軍司令官は、帝国陸軍中央の金谷範三参謀総長に宛てた電信で、北満もふくめた全満洲の治安維持を担うべきであるとの意見を上申した。これは、事実上、全満洲への軍事展開への主張であった。本庄司令官は、そのための3個師団の増援を要請し、さらにそのための経費は満洲において調達できる旨を伝えた。こうして、満洲事変の幕が切って落とされた。
翌9月20日、瀋陽から改称された奉天市の市長に奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が任命され、日本人による臨時市政が始まった。9月21日、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で混成第三十九旅団に越境を命じ、同日午後1時20分、部隊は鴨緑江を越えて関東軍の指揮下に入った。
参考:『9月18日の柳条湖事件(満州事変)についての注意喚起』在中国日本国大使館 https://www.cn.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_0035.html
[満州事変]
満洲事変(まんしゅうじへん、旧字体: 滿洲事變、英語: Mukden incident)は、1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国遼寧省瀋陽市郊外の柳条湖で、関東軍が満州全土の占領を狙って、開戦の口実にするため、ポーツマス条約により日本に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破、この事件(柳条湖事件)に端を発した日本と中華民国との間の武力紛争(事変)のこと。中華民国側の避戦方針もあって1932年2月初め頃には関東軍はほぼ満洲(中国東北部)全土の都市・鉄道の占領を果たした。日本軍は、3月1日傀儡を立て満州国の建国を宣言させた。1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る。中国側の呼称は九一八事変。
1905年、日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約により、東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権、関東州の租借権などを獲得した。これらの統治機関として、関東都督府と、鉄道付属地の治安維持を目的とした関東軍が設置される。
1912年、辛亥革命によって清国が滅亡、中華民国が成立するが、中央政府は各地に割拠しはじめた軍閥を統制することが出来ず、これが列強と結びつくことにより動乱状態が長期化する。日本は第一次世界大戦中の1915年に二十一か条の要求を中華民国に提示、中華民国との正式な条約を締結、権益の保護を図るも、当時中立国であった中国領に軍事侵入された上で最後通牒を突き付けられて条約を結ばされた立場の中国政府はただちに懲弁国賊条例でこれを実質的に無効化した。また中原地方でのボイコット運動や反日暴動を扇動し、満洲の治安へも波及、悪化する恐れは消えなかった。
この時期の対満外交政策を巡っては、日本の二大政党である憲政会(のち立憲民政党)と立憲政友会との間では見解の相違があり、それぞれの政策担当者の名をとって、「幣原外交」および「田中外交」と呼ばれた。
まず、幣原外交(幣原喜重郎外相)は、権益を有する満洲のみならず、中原も含む「中華」を、一体の固有の領土であることを自明視し、これらをあわせた「中華民国」を、日本と貿易を行う巨大な市場として安定化させることを政策目標とした。そのため、大陸における暴動に対する列強による軍隊の共同派遣は、条約破棄や疎開地への直接の武力攻撃など、明確な国益の毀損がない限りは、これを抑制する態度をとった[3]。
これに対して田中外交(田中義一首相兼外相)は、満洲を市場ではなく、開発の対象とみて、租界の物理的領域を重視する。これは、満洲に隣接する形でソビエト連邦が成立し、また中原および日本国内にも共産主義思想が浸食しはじめていたことも念頭にあった。満洲を、中原とはひとくくりに「中華」としては扱えない、日本にとって特殊な地域であると考え、共産主義をこの一帯から駆逐することを重要視したのである。そして、幣原外交では抑制的であった派兵も、現地の暴動が明白な条約違反を犯した場合のみならず、政情が不安定化した場合も積極的に行い、地方一帯の治安の維持につとめた。
1924年から1927年にかけての憲政会政権(加藤高明内閣→第1次若槻内閣)では、幣原外交が展開されたが、欧米列強と較べても抑制的な派兵方針は世論の顰蹙を買い、遂には南京事件で在留邦人に被害が発生するに及び、1927年6月、内閣総辞職する。
かわって成立した立憲政友会政権(田中義一内閣)では、山東出兵など、派兵を繰り返す。一方で、満洲に地盤を持っていた張作霖軍閥にたいして、帝国陸軍は1916年頃から支援を行い、これと協調して満洲一帯の治安維持をすることを目指していたが、満洲制覇を達成した張は、勢いそのままに華北へ進出、中原を含めた大陸統一の野望を果たそうとする。
日本陸軍では1921年のバーデン=バーデンの密約に始まる、明治維新以来の長州閥追放と総力戦体制の確立を目指す動きは、1927年に二葉会、木曜会の結成と両者が合流した一夕会の成立へと至る。木曜会では総力戦に必要な資源の供給先として満州領有する方針が1929年3月1日の第5回会合で決議された。木曜会と二葉会はメンバーの重複も多く後に合流し一夕会となるが、満州領有方針は一夕会にも引き継がれた。一夕会は1931年8月には陸軍中央部の主要中堅ポストを占めるようになっていた。
1928年5月、北京に出征した張と、中原制覇を目指して北伐の最中の蒋介石が衝突するに及び、田中外相は双方に対し、戦闘が満洲に波及する場合は派兵を行って治安維持活動を行うことを通告。同時に、張軍の武装解除を視野に、関東軍を旅順から奉天へ進出させる。双方この勧告を受け入れ、張は北京を引き揚げる。ここに田中外交による中原・満洲の棲み分けは成功するかに思われたが、6月4日、帰路についた張が乗る列車が爆破され死亡した(張作霖爆殺事件)。これは、関東軍の一部の不満分子の暴発であった。田中外交をすら生ぬるいと断じ、張の排除と、日本による満洲の完全領有を目論んだのである。立案者の河本大作は二葉会に所属していた。
事件後、軍閥を引き継いだ息子の張学良は、蔣との合流を選択。12月29日に易幟を行い、中原と満洲は合同する。一方、田中内閣は事件の処理に失敗し、1929年7月、総辞職した。これにより、満洲地域に中華ナショナリズムによる反日活動が流入し、日本側はこれに対し、立憲民政党政権(浜口内閣→第2次若槻内閣)のもとで復活した幣原外交の下で対峙することを余儀なくされる。
世界恐慌
浜口内閣成立直後の1929年10月、世界恐慌が発生。井上財政のもと金解禁を行った日本はそのあおりを受けて、大不況に突入する。この不況に際し、1918年のロシア革命の直後から、右派陣営の間で論じられていた、共産主義、資本主義の両者を否定する、国家社会主義が、沸騰する。
また、軍部の内部にも、時の国策へ反発する下地が作られていた。きっかけは、第一次世界大戦後の世界的な軍縮の流れがあった。1922年のワシントン条約、1930年のロンドン条約が締結され、いずれも、海軍の軍備額に制限が課せられるようになる。議会は、削った軍事費を民政に回すことを考えてこの方針を押し、軍と対立、特にロンドン条約の時は統帥権干犯問題へと至り、海軍省内の「条約賛成派(条約派)」と、軍令部内の「条約反対派(艦隊派)」との間での対立が残った。
これらの時勢の中、陸軍の中堅以下の将校の間で、政党政治家およびこれに同調する陸軍首脳陣への反発から、軍内および社会の革新を求める動きが起こる。1921年のバーデン=バーデンの密約に始まる、明治維新以来の長州閥追放の動きは、1929年の一夕会の成立へと至る。結成当初は、陸軍省及び参謀本部の人事を通した影響力の拡大を図る合法路線であったが、1930年、世界恐慌が波及した農村の窮状が、農村出身の下級兵士を通じて少壮将校に知れ渡ると、同年、一部急進派は橋本欣五郎中佐を中心に桜会を結成、政治家による「現在の腐敗した政治」を、クーデターにより覆し、軍主導の政権の樹立を目論む。1931年3月、本格的な蜂起を計画するも(三月事件)、新政権の首班に擬せられた宇垣一成陸相が決起を促されると中止を命令。他の幕僚もそれに従って抑止に回ったため、計画は不発に終わる。
しかし、この軍内の下克上の風潮は、国家社会主義思想の軍内部への侵食を呼び起こし、朝野の国家社会主義勢力の動きを勢いづけることになる。
事変勃発直前の満洲
張学良の易幟以降、満洲における日本の権益、在留邦人の利益は毀損を受けた。漢人サイドは「遼寧国民外交協会」を設立、満洲地方を中原地方と一体とする「中華ナショナリズム」のイデオロギーを流布するとともに、満洲地方への漢人の流入、資本の投下を大規模に行うことにより、満洲地域の支配と工業化を強め、日本の利権と衝突していく。更に、張学良の指導のもと、日本人或いは日本側が送り込んだ朝鮮人の小作人に対する漢人地主の契約の打ち切り、あるいは逆に、日本人実業家に対する漢人労働者の争議など、日本側の進出に対する反発・抵抗も強まり、日漢間の衝突は増加の一途をたどる。更に張は、南満洲鉄道の並行線敷設を開始、これは日本の持つ南満洲鉄道の利益に対し決定的に競争を挑む行為であった。
これと前後して、在満日本人の間の、特に若年層により結成されていた満洲青年連盟の間から、満洲地方に、多民族国家の樹立を訴える動きが起こるようになる。元々彼らは、日本権益保護のための内地の積極的な関与を望んでいたのであるが、それが幣原外交が続く限りは望めず、漢民族による「中華ナショナリズム」の名のもとの攻勢に直面する中、少数民族である日本人として、折り合いをつけて自らの居場所を確保する必要に迫られた。そこで1928年5月、第一回満洲青年議会で提出されたのが、「満蒙自治制」であった。すなわち、張軍閥と在満漢人を、「中華ナショナリズム」の名のもとに一体化して敵視するのではなく、両者の間の支配/被支配の関係を認め、在満諸民族の間の連帯と、張軍閥を介しての満洲支配を画策する中原の蔣介石への抵抗を強め、和合的な「民族協和」による新国家建設と、在満日本人の編入を提案したのである。1931年6月13日、満洲青年連盟は、「満洲ニ於ケル現住諸民族ノ協和ヲ期ス」声明を発する。
一方、満洲権益のために駐屯していた関東軍の内部においても、板垣征四郎、石原莞爾両参謀ら一部の間では、武力行使による満洲領有を強行する計画が持ち上がっていた。板垣参謀らの満洲領有の目的は大きく二つあり、第一に、ソ連からの防衛を行うにあたり、主戦場となるであろう北満の平原地帯を先手を打って占有することにより、ソ連を自然的国境線(バイカル湖、黒竜江、興安嶺)以遠に押し込め、安定をもたらせることが期待された。第二に、石原参謀が将来的に起こるであろうと予測していた米国との世界最終戦論に備えて、満洲の資源利用及び国土開発を用いた国力増強であり、内地の人口増加と不況、資源不足などの社会問題の解決策としても期待された。そして、張軍閥を満洲政情の諸悪の根源とみなし、これを追い落とすことによって、地域の諸民族による民政発展を図ること、地方行政機関は人員含めて従来のものを用いること、満洲の行政にかかる費用は内地持ち出しではなく現地の独立採算制をとること等、上述の満洲青年連盟の独立国家構想に近い内容であった[11]。当初関東軍は満蒙領有を計画していたが、結局、9月中旬に満州支配の方式を傀儡国家樹立に変更決定し、10月には「満蒙共和国統治大綱案」を作成、統治方針や政府組織を決めるとともに、各地の軍閥軍人に地域的独立政権をつくらせることとした。
1931年7月、万宝山事件により、満洲地域の騒擾は激しさを増す。現地は"懸案五百件"と呼ばれるほどの混乱であったが、幣原外交は相変わらず張軍閥との交渉からことを進めようとしており、参謀本部もこれに追随していた。
事変の経過
柳条湖事件
事件直後の柳条湖の爆破現場
1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の張作霖爆殺事件の現場から、わずか数キロの地点である。爆発自体は小規模で、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過している。関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作と発表し、直ちに軍事行動に移った。これがいわゆる柳条湖(溝)事件である。
戦後のGHQの調査などにより、本事件は河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが判明している[注釈 6]。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、関東軍の虎石台独立守備隊の河本末守中尉指揮の一小隊が爆破を実行した。
関東軍の軍事行動
事件現場の柳条湖近くには、国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」(約7,000人が駐屯)がある。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し、北大営を占拠した。張学良が北京に、奉天軍閥主力が長城線以南に結集している間隙を縫った、石原莞爾と板垣征四郎による綿密に練り上げた奇襲作戦であった。関東軍はわずか1万余の関東軍を率い、翌日までに、瀋陽、長春、営口の各都市も占領した。東三省に分散配置されていた奉天残存戦力は、留守部隊とはいえ戦車、航空機、重火器を装備する20万余の大軍であった。関東軍は夜戦訓練を重ね、24サンチ榴弾砲をひそかに奉天に運び入れ、夜襲と威嚇射撃で敵の虚を突く軍事作戦を展開した[13]。満洲北部について参謀本部は当初不拡大の方針を採った。当時北京にあった張学良は、日本側の挑発に乗らないよう無抵抗を指示していたため、北大営は短期間で占領された。戦死者は日本側2人、中国側約300人であった。張学良は、のちに抗戦しない理由を問われ、関東軍が満洲全面占領作戦を展開するとは予想もしていなかったと答えた。
瀋陽占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が瀋陽を奉天に改称して臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルビン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。
中華民国の対応と日中両国外交交渉
事変翌日の9月19日、張学良は顧維鈞と今後の対応を協議し、顧維鈞は以下の2点を提言した[15]。
国民政府に連絡をとり、国際連盟に本件を提訴するよう依頼すること
本庄繁関東軍司令官と早急に会談すること
また9月19日午前、中国(南京国民政府)の宋子文行政院副院長と日本の重光葵駐華公使が会談し、日華直接交渉方針を確認する。重光公使は幣原外相に許可を仰ぐと幣原外相は同意し訓令を発した。だが後日、中国側は前言を撤回する。中国が二国間交渉を打ち切ったのは、日本側が、政府の国策が定まらないまま関東軍が進撃を続けるという状況にあり、日本政府と一対一で交渉しても無益であると見たためであった。
この時点で国際連盟理事会は日本に宥和的で中華民国に冷淡だったが、10月以降の事態拡大により態度は変化していった。連盟理事会は、最終的には制裁に至る可能性もある規約第15条の適用を避け、あくまで規約第11条に基づき、日中両国の和解を促すに留めた。9月30日、日中両国を含む全会一致で、両国に通常の関係回復を促す理事会決議が採択された。中国には責任を持って鉄道付属地外にいる日本人の生命財産を保護することを求め、日本には、保護が確保され次第、軍隊(関東軍)を鉄道附属地に引き揚げることを求めるものであった。後者についてはできる限り速やかにとあるのみで、期限は付されなかった。
9月21日に国民政府に急遽設置された特殊外交委員会の会議が開かれ(10月21日)、顧維鈞は、9月30日付の連盟理事会決議を日本に遵守させるのは不可能だろう、との見通しを示し、連盟の監督と協力の下で、「日中間で直接交渉を行うのがベストだ」と主張した。しかし顧の主張は採用されなかった。
政府首脳部の初動と朝鮮軍の独断出兵
9月19日未明、関東軍より陸軍中央へ打電があり、軍事行動開始を報告するとともに、満洲の治安維持に万全を期すべく、三個師団の増派を求める。これに対して陸軍中央は、関東軍の行動の合理性および軍備力の多寡による増派の必要性については理解しつつも、政府の不拡大方針との間で板挟みになる[21]。
19日午前の閣議において、南陸相は、戦闘は「関東軍の純粋な自衛行為」であると釈明したが、閣僚より攻撃を受け、不拡大の方針が決定。午後、南陸相および金谷範三参謀総長は関東軍へ、政府の不拡大方針にのっとって行動するよう命令。また、朝鮮軍に対しても、満洲出兵を禁ずる通達を行った[22]。一方で同日午後、南陸相は若槻首相に面会。事態の緊迫を説明、軍事行動の拡大(予算の承認)を認めるよう説得を行う。若槻首相の下にはすでに、外務省から、今回の衝突が関東軍の謀略によるものであるとの情報が入っており、不拡大方針を貫徹することに不安を覚えるようになる。
一方の朝鮮軍は、19日8時30分、林銑十郎司令官より、飛行隊2個中隊を早朝に派遣し、混成旅団の出動を準備中との報告が入り、また午前10時15分には混成旅団が午前10時頃より逐次出発との報告が入ったが、参謀本部は部隊の行動開始を奉勅命令下達まで見合わせるよう指示した。これにより朝鮮軍の増援は飛行隊を除いて朝鮮と満洲の国境である新義州で止められた。また、参謀次長の二宮治重は新義州の守備隊に朝鮮軍が国境を越えた場合、直ちに参謀本部に報告するように指示した。20日午後陸軍三長官会議で、関東軍への兵力増派は閣議で決定されてから行うが、情勢が変化し状況暇なき場合には閣議に諮らずして適宜善処することを、明日首相に了解させる、と議決した。
20日夜、関東軍首脳陣は、政府の不拡大方針への対応を検討する。地政学的な重要性から吉林が着目され[注釈 7]、同所の不穏な情勢(その情勢の中には、特務機関の謀略によってつくり上げられたものもあった)、用兵上の見地について議論が行われた末、21日3時、不承認時の処罰覚悟で、吉林への出兵継続を決定する。直ちに出動命令が第2師団に下り、同日6時、陸軍中央へ報告された。吉林は、同日中に熙洽省主席代理より占領承認がなされる。
朝鮮軍はこれに呼応、林司令官は21日12時、独断で混成第39旅団に越境を命じる。この時、林司令官は、政府から禁令が下れば直ちに応じられるように、越境時刻まで指定して通達したが、13時20分、部隊はそのまま日満国境を越境、関東軍の指揮下に入る。林司令官の独断越境に南陸相と金谷参謀総長は恐懼した。18時、南陸相に内示のうえ、金谷参謀総長は単独帷幄上奏によって天皇から直接朝鮮軍派遣の許可を得ようと参内したが、永田鉄山軍事課長らの強い反対があり、独断越境の事実の報告と陳謝にとどまった。21日夜、杉山元陸軍次官が若槻首相を訪れ、朝鮮軍の独断越境を明日の閣議で承認することを、天皇に今晩中に奏上してほしいと依頼したが、若槻首相は断った。林朝鮮軍司令官の独断越境命令は翌22日の閣議で大権干犯とされる可能性が強くなったため、陸軍内では、陸相・参謀総長の辞職が検討され、陸相が辞任した場合、現役将官から後任は出さず、予備役・後備役からの陸相任命も徹底妨害するつもりであった。増派問題は陸相辞任から内閣総辞職に至る可能性があった。
22日、閣議にて南陸相は朝鮮軍の越境の許可を求めたが、幣原外交の継続が困難になることを恐れた閣僚に反対され、認められることはなかった。翌23日も引き続き、南陸相と幣原外相・井上蔵相の間で激論が行われるが、最終的に若槻首相が、「出兵しないうちならとにかく、出兵した後にその経費を出さなければ、兵は一日も存在出来ない」との判断のもと、朝鮮軍派兵の経費を支出することを決定。これにより、朝鮮軍越境は事後承認、合法化された。しかし天皇は内閣の求めに応じて裁可しつつも、軍首脳に対して不快の意を示し、金谷参謀総長に対して「将来を慎むよう」注意を与えた。
南満洲平定を短期間で終えた関東軍は、更にハルビン方面からも不穏な情勢が伝えられるにつけ、大橋忠一在ハルビン総領事からの依頼に応じて、北満進出を認めるよう、陸軍中央に繰り返し依頼する。これに対して陸軍中央は、南陸相、金谷参謀総長ともに、南満洲からのさらなる出兵は、不拡大方針の趣旨からこれを認めないこと、在留邦人の保護は、引き揚げによることとし、更なる軍事行動を遂に認めなかった。
24日、関東軍の統制を達成した政府は、事変に対する最初の声明を発表し、
事変を拡大させないよう努めること
吉林への関東軍の出動の目的は、満鉄付属地の治安維持であり、目的達成の上は直ちに長春へ撤兵すること
満洲における領土獲得の意思は持たないこと
を宣言した。
新秩序形成への動き
奉天占領直後の城内の様子
関東軍は、当初は満洲全域に進駐、日本の領地とすることを計画していたが、上述の9月24日の政府、参謀本部からの北満進出の厳禁の指令を受けて方針を転換、親日地方政権を樹立させて、これと連携することを模索。同月中に、満洲各地の漢人有力者に接触、独立工作を始める。
現地の在留邦人は、関東軍の出動を歓迎し、その治安維持活動に積極的に協力する。事変勃発と同時に、満洲青年連盟は、武装団体を関東軍に提供したほか、進駐地の社会インフラ業務に従事し、事変の民政への影響を抑えた。そして、9月21日、奉天にて全満日本人大会を開催、関東軍の全満洲への進出を支持する旨を決議し、29日、陸相宛の請願において、親日政権の樹立を訴えるとともに、内地への遊説隊の派遣をなおも重ねた。
この在留邦人の動きと連動して、関東軍は事変の解決方針の検討を重ね、10月2日、「満洲問題解決案」を起草する。ここでは、まず方針として「満蒙ヲ独立国トシ之ヲ我保護ノ下ニ置キ在満蒙各民族ノ平等ヲ期ス」と、日本の権益保護を前面に押し出すのではなく、明白に他民族を含めた新国家建設を目標に据えるようになった。
国際連盟での議論
9月21日、中国の施肇基国際連盟代表は、ドラモント事務総長に対して、「国際連盟規約第11条により、事務総長は即時理事会を開いて速やかに明確且つ有効な方法を講ずる」よう要求したことにより、事態は連盟理事会に持ち込まれる。一方の日本は、引き続き、日華二国間の交渉で解決を図ることを主張し続ける。当初は日本側は、現地情勢について確とした情報および関東軍の統制方針を定めることができず、連盟各国への釈明に苦労した。が、24日に日本政府不拡大方針を表明、関東軍の北満進出を一旦押しとめたことで、日本政府による事態収拾に一応のめどはつく。25日には英国より調査団の派遣が、28日には中国より中立的な委員会による交渉の援助を求める提案があったが、日本はいずれも拒否をする。日本側は、不拡大方針によって順次撤兵を行うべく調整中であることから、日本の善処を待つことを希望する。各理事国も、満洲を、従来の軍閥の跋扈するに任せるより、日本の手で管理されることが望ましいと考えるようになる。日本が「保障占領は行わない」旨を宣言したのを受けて、30日、日華両国がむこう2週間以内に「通常関係ノ恢復ヲ促進」するために「一切ノ手段ヲツクスベキコト」を求めて、休会する。
錦州爆撃
連盟理事会で列強の好意的態度を受けた政府・陸軍中央は、関東軍の撤兵を図る。上述の通り、関東軍はこの頃北満進出を厳禁されたかわりに、現地の独立運動の工作を行っていたが、10月3日、金谷参謀総長より関東軍へ打電、「大局ニ処スル策案ハ之ヲ中央当局ノ熱意ト努力トニ委ネヨ」と、現地政局への不関与を命ずる。また時を同じくして、政府・陸軍中央が従来の幣原外交に回帰すべく意見統一を図っているとの情報に接する。政治が元のさやに納まることによって、当初の事変の目的であった社会改革が頓挫することを恐れた関東軍は、陸軍中央に腹を固めさせ、政府へ幣原外交からの脱却するよう圧力をかけさせるべく、張学良軍閥の徹底的な排除を訴える声明書を公表。この時、張は錦州まで退いて再起を伺っていたが、関東軍声明ではその行動を「秩序破壊ノ限リヲ尽クセリ」と糾弾、対して現地における独立の動きに言及し、これに呼応することを訴えた。
関東軍の政治的意図を含んだ声明は衝撃を与えたが、この時点では大手メディアの論調ではこれに対する反発は激しく、政府の協調外交を無にする行為、軍の越権行為であるとの非難が行われる。
しかし、10月8日、関東軍の石原参謀の指導の下、張が本拠としていた錦州を空襲した。編成は88式偵察機6機、中国軍から鹵獲したフランス製ポテー25型軽爆撃機5機の11機。これに石原の乗る観測用の旅客機が同行して計12機。これは関東軍司令官の本庄繁の許可もとらず、石原の独断専行であった事から関東軍の内部でも非難の声があがる。石原は事後、偵察目的で飛行していると対空砲火を受けたため、やむを得ずとった自衛行為であると説明する。しかし計75発もの爆弾を投下しており、88式偵察機には爆弾照準器も爆弾懸吊装置も装備されていないのにも関わらず、瞬発発信管つき25キロ爆弾4発ずつを真田紐で機外に吊るすと言う無理矢理な爆装を施しており、偵察目的であったとは言い難い。空爆は、国際法上は予防措置であり、自衛権の範囲であるが、第一次世界大戦の戦禍の記憶が残る欧州列強はこれに反発、更に、上述の撤兵のための2週間の猶予の間におこった出来事であったことから、連盟内における日本の立場は悪くなる。
施肇基は、国際連盟の理事会を招集し、日本側は犬養毅の娘婿である大日本帝国特命全権大使芳澤謙吉が対応した(滿洲帝国駐箚大日本帝国特命全權大使は関東軍司令官の植田謙吉であった)。後述のとおり、蔣介石は訓令により外交官に錦州を中立区とする案を提起したが、中国国内世論の激しい反発に遭い、12月4日に案を撤回した。
十月事件と国内の政局の不安定化
関東軍が満洲に於いて新国家樹立へ向けた行動を起こすのと軌を一にして、在京の陸軍中央においても、革新思想に基づいたクーデターを起こす陰謀がおこっていた。中心となったのは、桜会の首領であった橋本欣五郎参謀本部ロシア班長であり、10月下旬にも、若槻内閣の閣僚暗殺、荒木貞夫教育総監部本部長を首班とする内閣の発足を実現することを目論んでいた。陸軍首脳部は、計画を掴むと、10月17日、首謀者を検束し、クーデターは未然に阻止される。
クーデター自体は未遂に終わったが、その計画段階において、桜会と関東軍が示し合わせて、内外で同時に革新運動をおこそうとしたのではないかとの疑いが起こる。これは、河本大作と長勇が両者の間の連絡要員として往復する中で、景気づけに両者の連携を各所で吹き込むうちに話が大きくなったものであり、実際には石原ら関東軍の首脳陣は、長期的な展望のないクーデターで内地の政情がいたずらに混乱した場合、国力が大きく低下して、満洲での事変完遂に支障が生じることを恐れて、クーデターには反対の立場であった。
しかし、この桜会周辺の大言壮語が一人歩きした結果、陸軍中央には、関東軍が陸軍中央の統制下から独立して、全満洲への進出などの軍事行動を勝手に始めるのではないか、との風聞が伝わる。桜会の検挙が行われた17日、陸軍中央は関東軍に向けて、独立などの過激な行動は差し控えるよう命令が下る。これについては、関東軍より、独立の意図はないとの抗議を行い、陸軍中央と関東軍の誤解は、一旦は解けることとなる。
この頃陸軍中央は、錦州爆撃で再び独走を始める関東軍と、連盟理事会で各国からの批判を受ける政府との政見の調整を図っていた。関東軍は満洲の中華民国からの完全なる独立を謀っていたが、それは連盟の反発を招くことは必定であった。そこで、陸軍中央としては、満洲の事実上の支配権を確立することを優先して、新政権と中華民国との関係については明言しないという、名を捨てて実を取る方針をとる。この方針は21日、白川義則軍事参議官が満洲訪問、関東軍に直接伝達された。
しかし、関東軍としては、満洲には中華民国から分離独立させた新国家を建てる方針であったことから反発、24日にはその旨を返電した。
一方、政府の側も、連盟から求められる関東軍の撤兵をいかに実現させるかを巡り苦慮していた。連盟における日華両国の対立は、満洲地方の取り扱いに関する取り決めと、関東軍の撤兵の前後が焦点であったが、これに加えて関東軍は、日本政府の交渉相手を、中華民国ではなく、満洲に成立しつつある新政権とするよう主張してきた。この頃になると、政府も世論・メディアの反連盟・親関東軍の強硬論に抗しきれなくなり、国策を巡ってこれら強硬論へ徐々に近づいてゆく。
連盟理事会は、11月16日の次回理事会開催を新たな期限として、24日、休会する。この2日後の26日、日本政府は、満洲事変に関する二度目の声明を発表し、将来の日支関係の基礎となる五大項目を掲げる。これは、連盟理事会の介入を極力排して、二カ国間の交渉で解決を図りたいという意見であるとともに、撤兵の条件を「満洲地方の取り扱いに関する二国間の取り決め」から「満洲における新政権の樹立」にまで延長し、更に、取り決めに関する交渉相手を中華民国から満洲の新政権に変更することを示唆した。これにより、満洲事変に対する日本政府の対内的態度は、一大転換を迎えるに至ったのである[44]。
北満進出
日本政府が、満洲における新政権樹立を黙認したのを受け、次なる焦点は、政府が進出を禁じた北満洲(黒竜江省)への浸透工作であった。関東軍の工作に呼応した張海鵬は、関東軍の武具援助を得て、10月上旬より洮昂線(平斉線)に沿ってチチハルを目指して北上していたが、馬占山率いる黒竜江省軍と嫩江を挟んで対峙、不安定な情勢が10月下旬から11月にかけて続いた。
この時、馬軍は嫩江に架かる南満鉄の橋を破壊しており、北満洲の貨物の輸送が阻害されていた。この状況が長期化するに及び、関東軍は11月2日付で、馬・張両名に最後通牒を発し、鉄橋より10km以遠に後退し、関東軍による鉄橋修復を可能とするよう要求、関東軍の行動を妨害する場合は実力をもって対処すると通告した。そして4日、橋梁修理のために派遣された関東軍と馬軍との間で武力衝突が発生する。
陸軍中央は、橋梁修理のための派兵は認めつつも、嫩江を遠く離れての北満洲一帯への展開を禁じ、橋梁の修理を速やかに終えた後は迅速に撤兵するよう命じた。また、「北満洲一帯の工作用資金」と使途を限定して活動経費を支給するなど、関東軍がまたしても独走しないよう細心の注意を払う。
更に5日には、参謀総長に対して、関東軍に対する委任命令が下る(臨参委命)。これは、天皇による軍に対する指揮権(統帥権)は、参謀本部の輔弼を得て行使されるが、複数の軍が関与する大規模な軍事行動の際には、軍同士の調整が煩雑になることを理由に、統帥権の一部が参謀総長に一時的に分与されるものである。これにより、今まで区処権しかなかった参謀総長が関東軍、朝鮮軍に直接命令を下せるようになった。これは、連盟における世論の更なる硬化を恐れたほかに、北満洲進出によりソ連との間に不測の事態が起こることを恐れたためであった。対して関東軍は、ソ連との北満洲攻略の争いに勝つためには、武力展開による後押しが必要と考えていたことから、参謀本部による干渉に憤慨する。
関東軍と馬軍との戦闘は2日間続いた後、馬軍は退却。大興附近に進駐した関東軍は馬軍の進撃を具申したが、参謀本部はこれを容れなかった。両軍の間での交渉が行われ、馬の下野、チチハルからの撤退を関東軍は要求するが、馬は日本政府の連盟における撤兵の言質を盾に拒否。合意を得られないまま緊張はさらに高まる。
日本での一報を受けて、駐日米国大使ウィリアム・フォーブスは6日、満洲で幣原外相と面会した。
挙国一致内閣の陰謀
政府・陸軍中央の国策が関東軍に引きずられ、国内世論がこの風潮を支持するようになると、若槻首相は、民政党内閣による事態の収拾に不安を抱くようになる。10月下旬、若槻首相は周囲に辞意を漏らすようになる。これを聞きつけた安達内相は、野党政友会との協力内閣(大連立)案を提示、若槻首相の同意の下、政友会との接触を始める。
若槻首相の辞意は、安達内相の動きを察知した幣原外相、井上蔵相の説得で翻意し、内閣はとりあえず、存続する。しかし、安達内相の動きが呼び水となって、民政・政友両党や官界で政権獲得の陰謀が幾通りにも動き始め、「憲政の常道」は崩壊の兆しを見せ始める。11月8日、安達内相は「協力内閣」の談話を発表。10日には政友会が「金解禁の停止」と「国際連盟脱退辞さず」を決議した。
北満軍との戦い
馬軍と対峙していた関東軍は、11月17日に北上を開始。19日にはチチハルを占領する。政府では、例え作戦上の必要によりチチハルへの行軍はやむを得ない場合であっても、同所の占拠は認めず、直ちに引き返させることで合意していた。そのため、19日付の陸相よりの電報においても、チチハルの占拠を認めない旨を関東軍に命じた。
24日には、参謀総長より重ねて、以下の訓令が発せられ、撤兵が命じられる(第一六三号電)。
既定の方策に準拠し斉々チチハル付近には歩兵一連隊内外を基幹とする兵力を残置し師団司令部以下主力は爾他の情勢に顧慮せず速やかにこれをかねて所命の地域に撤収するごとくただちにこれが行動を採るべし
前項残置する部隊も概ね二週間以内に撤収せしむるを要す
関東軍は対応を討議、石原参謀の反発を容れ、撤兵は馬軍の行動及び洮昂線(平斉線)の安全を考慮して関東軍に一任するよう要求。対して参謀総長は、「国軍の信義および国際大局に鑑み」速やかな退却を再度命令する(臨参委命第五号)。本庄司令官は、一旦は命令に服するとともに辞職を決意するが、これに対し石原参謀は、決意の矛盾を指摘して、
軍司令官の腹芸により命令を実行せぬこと
断然辞表を捧呈すべきこと
服行し幕僚を更新すること
のいずれかをとることを要求。本庄司令官は第三案をとり、石原ら幕僚の反発を抑え、チチハルにはわずかな部隊を守備に残して、撤退する。
この後、黒竜江省への侵出は再び政治工作が主となり、張景恵を首班とする新政権の樹立、運営に援助を行った。馬占山に新政府の要職を確約し、関東軍との間に軍事協定が締結されるなど、馬との講和がすすめられた。
宣統帝の脱出と錦州攻撃
11月頃、南満洲では張学良が反転攻勢をかけて錦州に再び軍勢を終結させはじめており、不穏な情勢になりつつあった。土肥原賢二率いる特務機関は、清朝滅亡後天津に滞在していた愛新覚羅溥儀(宣統帝)[注釈 8]の救出と、満洲新国家への援助について宣統帝と合意に達しており、11月8日に発生した第一次天津事件の混乱に乗じて、宣統帝は天津を脱出、旅順に移った。
11月26日、第二次天津事件が発生。同日、関東軍は幕僚らの進言を受けて、天津の友軍の援助のために隷下部隊に錦州方面への進軍を指示し、中央へ報告する。
この直前の24日、連盟理事会は、日華両国に対し、戦線の拡大と人命の損失を伴う行動を厳禁するよう求める決議案を提出しており、政府も関東軍の行動には神経をとがらせていた。27日、金谷参謀総長は天皇の勅許を得たのち、「状況のいかんを問わず遼河以東に撤退すべき」という奉勅命令を発する(臨参委命第七、第八号)。この時点で現地で交戦は始まっていたが、関東軍の保有兵力では錦州を陥落させることは不可能であったことから、29日までに撤退を完了させた。
国連調査の派遣の決定
11月16日、日本軍撤退の期限を迎え、連盟理事会が再開する。理事会の中では、日本への経済制裁や調査団の派遣が検討されていた。日本政府は、第三者のいかなる介入にも反対していたが、日本の連盟代表は、調査団の派遣によって連盟の顔を立てつつ、彼らに満洲の実情を目撃させることにより、味方に引き入れるのが良いと考えていた。21日、理事会において日本側より、調査団の派遣が提案され、決議文作成が行われる。この時、日本外務省は、日本軍の撤退に関し決議文から起源に関する規定を削除することが要求された。
史上初めて空爆による都市攻撃が行われた錦州を中立区とする蒋介石の案は、中国国内世論の激しい反発を受けて12月4日に撤回されていた。
しかし、12月10日、決議案が成立する。この中では、調査団の派遣が決定する一方で、日本軍の撤兵については、鉄道付属地への撤兵を要求しながらも、起源は規定されず、中華民国側が求めた「調査団派遣と同時にただちに日本軍が撤兵すること」は容れられなかった。また、「平和を乱す恐れのある一切の事情」について調査する委員会が設けられたが、日華両国の交渉や軍事取り決めには関与しないこととされた。更に、「馬賊その他満洲における無法分子の行動」に対しては軍事的措置をとることが認められ、調査団の報告が受領されるまでは満洲問題の討議自体が打ち切られるなど、連盟における議論は日本側の有利に終わった。
若槻内閣の崩壊
満洲問題についての調査団派遣の交渉も大詰めを迎えていたが、こんとき錦州爆撃に関する国連緊急理事会は、日本の反対意見を下して、当事者ではないアメリカ合衆国もオブザーバーとして参加させていた。しかしながら国務長官のヘンリー・スティムソンは、幣原外相と駐日米国大使のウィリアム・キャメロン・フォーブス(英語版)の秘密会談の内容を公に曝露し、このことで日本のメディア憤激することになったようである。
米国国務長官が、幣原外相とフォーブス大使の会見内容を公表したことは、日本が米国殊に列国の手前、錦州攻撃に出ずること不可能なりと高を括るに至ったっことのニ理由に基づくもので、が、右は全く日本と理事会とを愚弄せる陰険なる策略で、如何に国際信義を無視するものなるかを如実に示せるものなりとして我が政府当局の憤慨は勿論、連盟首脳部も其の不信行為を痛感し、対支感情の悪化は必然手的なものと言わる。
右に付き日本外務省では芳澤代表に大使適当なる機会に右支那側の非義を糾明し、斯かる不徳行為に基因して、今後錦州方面に如何なる事件が突発する事あるとしても、その責任は支那側にあることを述べて連盟理事会に諒解せしむることを訓令したとのことである。
— 伯剌西爾時報1931年12月11日号「国際の信義原則に悖る米国政府の軽挙 東京からラジオを通じての最近電報」
スティムソンは翌年1月にはジュネーブ海軍軍縮会議(英語版)のアメリカ代表団の団長となった。
12月10日、突如として第2次若槻内閣が閣内不一致により内閣総辞職するという政変が起こる。
政変をおこした首謀者は内相の安達謙藏であった。内務大臣は上述のとおり、民政・政友両党の大連立を推進していたが、12月10日、民政党の富田幸次郎顧問と政友会の久原房之助幹事長の連名による覚書を若槻首相に手交。安達内相はそのまま閣議への出席を拒否し、翌11日、やむを得ず若槻内閣は総辞職するに至った。後継には、政友会の犬養毅総裁が就任する。
派兵範囲の拡大
12月12日に発足した犬養内閣は即日、連盟の決議に基づき、馬賊行為の増大を理由として、遼河以西への日本軍の進出を認める。12月28日には錦州に迫り、張学良は犬養首相からの要請を受けて錦州からの撤兵、1932年(昭和7年)1月3日、日本軍は錦州に入城した。2月のハルビン占領によって、関東軍は満洲地域一帯を制圧した。
一方で、長期的な事変の収拾について、犬養首相は、満洲には別個の地方政権を樹立させつつ、中華民国を認め、日本は経済的利権の確保に留める方針をとる。一方、陸軍三長官の合意の下陸相に就任した荒木貞夫陸相は、急進的な軍事進出を主張しており、真っ向から対立するに至る。犬養首相は、長年の付き合いであった大陸浪人たちと連携し、腹心の萱野長知や山本条太郎を大陸に派遣して別ルートでの交渉にあたらせたが、軍部に察知されて不発に終わる。事態の収拾に関して、1932年1月6日、陸・海・外三省の合意により「支那問題処理方針要綱」が協定される。ここでは、満洲地域の新国家を、中華民国の主権から独立させるとともに、日本の権益を新国家と交渉して擁護することが計画されていた[60]。
翌年1月、中国側の国連代表が辞任したことで、新たに顔恵慶が代表になった。
スティムソン・ドクトリン
錦州陥落直後の1月7日、ヘンリー・L・スティムソン米国国務長官は、中国の領土的、行政的保全を侵害し、ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)に違反する一切の取り決めを承認しない旨を、日華両国に通告する(スティムソン・ドクトリン)。同時に、中国政策における「門戸開放政策」の方針を主張した。
もっともこの宣言は、列強の世論の同意を得たとはいいがたく、英国は「この文書に連名して日本に共同通牒する必要はない」と通告する。また、日本は、芳沢謙吉外相が、「支那不統一の現状を斟酌されたし」と回答している。
1932年初頭の国内情勢と血盟団事件
日本軍は満洲では連戦連勝であったが、32年1月頃から、革新運動の波が内地にも及ぶようになる。これは、関東軍が、内地の改造に先んじて事変貫徹を行っていたのが、満洲全土の制圧の目途が就いたことにより、革新将校から国内の革新断行を要求されるようになったためである。また経済においては1929年9月から始まった世界恐慌の最も進んだ時期であり、1930年に行われた金解禁が大失敗に終わり、1931年12月に犬養毅内閣によって停止されたばかりであった。1932年2月から3月にかけて、井上前蔵相や団琢磨三井合名会社理事長がテロに斃れる(血盟団事件)。そして、与党政友会の内部においても、森恪内閣書記官長が荒木陸相や平沼騏一郎枢密院副議長等の非政党員を首班とする政治工作を行うのを筆頭に、政党政治は内部から崩壊の危機に直面する。犬養首相は、参謀総長閑院宮載仁親王と相談の上で、大元帥である天皇の権威をもって青年将校の免官する強硬措置をとることによる軍部の統制を模索する。しかしこの動きは、天皇の動きが立憲君主の枠を逸脱することを危惧する西園寺公望元老らの危惧により頓挫した。
満洲国の建国
1932年1月から2月にかけて、関東軍は幕僚会議を重ね、新国家建設の段取りの検討を行った。1月末ハルビンに進攻、2月5日にはこれを占領。中華民国側正規軍との戦闘はほぼ終息、その後は地元住民や宗教組織、土匪等を主体とした地域ゲリラとの戦いが五、六年ほど続くことになる。満洲地域内の各地の有力者を招致の上、2月16日より吉林、奉天、黒竜江3省および特別区等の代表が参集して、東北行政委員会が、暫定的な満洲地方の最高行政機関として結成され、関東軍の計画を引き継ぎ、新国家建設の作業が進められた。18日、中原からの独立が宣言され、満洲全土に通告される。新国家建設の促進団体が各地に結成、各省における集会の開催を経て、2月29日、奉天で開かれた全満大会にて、宣統帝を暫定的元首とする決議が採択される。これを受けて、東北行政委員会の使者が宣統帝の下へ派遣され、宣統帝は執政の座に就くことを受諾。3月9日、満洲国は建国を宣言する。
この宣言に対し、犬養内閣は、連盟との決裂を意味する満洲独立の正式な承認に対しては、消極的であった。3月12日の閣議において、「満蒙問題処理方針要綱」を採択する。これは、上述の「支那問題処理方針要綱」を下書きにしたものであったが、中原の国民政府との交渉を忌避する方針や資本家の満洲進出の抑制などの方針が削られ、また字句の上でもより穏当な表現が用いられるなど、連盟と国内世論の板挟みに苦心する。肝心の国家承認については、18日付で、新国家成立の通告を受理した旨を伝えるにとどまり、国家承認そのものは延期された。
世論の急進化と国家承認
5月15日、犬養首相は、国家改造運動に感化された海軍の青年将校らによって暗殺される(五・一五事件)。後継首相を巡っては、鈴木喜三郎が党総裁に就任したが、首班には平沼ら党外の者を迎えようと森が工作するなど、党内が混乱し、政党内閣制は政党側が自滅する形で崩壊する。西園寺元老らは鈴木への大命降下を断念し、斎藤実海軍大将が首相に任命される(斎藤内閣)。
斎藤内閣成立後も、内閣および軍部中枢は、国際社会との協調方針を堅持する。当時、連盟が組織したリットン調査団が現地調査を行っており、連盟および加盟国は、報告書を受けて満洲国承認に関する態度を決する意向であった[70]。この時点で、連盟と、中国大陸に利害関係を持つ列強(特に英仏米ソ)との間では、満洲問題に関して温度差があった。これは、連盟内の中小国は関東軍の動きに批判的であったのに対し、列強は個々の国益の観点から妥協的態度をとる余地があったためである。
英国は、日英同盟が終了して以降も外交的には友好関係にあり、香港をはじめとする自国の権益を中原の混乱から保護するためにも、満洲の日本権益が地域の秩序を保つ実例となることは、英国の権益の安泰につながることであった。またソ連の南下阻止の必要性からも、日本主導による満洲の治安維持はありがたいことであった。
フランスは、インドシナおよび広州湾の権益の安泰という意味で英国と同じ状況にあった。
米国は、伝統的な方針として「機会均等」「門戸開放」を旗印に列強の中国進出を牽制しており、満洲問題について日本と利害が対立する立場であったが、裏を返すと、経済的利害で国策を転換させることができた。当時すでに日米の貿易は盛んであったことから、満洲へ米国資本を呼び込ませ、米国にも現地に権益を有させることによって、協調的な立場をとることは可能とみられていた[74]。当初、フーヴァー大統領は対日経済制裁を避け、道義的非難で応じた。しかし、錦州爆撃ののち態度を硬化させ、スティムソン国務長官は満州問題の不承認政策へと舵を切った。1932年1月に、スティムソンは九カ国条約・パリ不戦条約への挑戦は一切承認しないと宣言した(スティムソン・ドクトリン)。さらに、スティムソンは、上院外交委員長ボラー宛の公開書簡で、ワシントン体制の意義を再確認するとともに、日本の九カ国条約違反によってアメリカはワシントン海軍軍縮条約第19条(フィリピン・グアムの要塞化禁止条項)の拘束から解放されると警告した。
ソ連は、満洲と国境を接していたが、事変勃発直後の1931年12月に、日ソ間での不可侵条約を提案しており、この時点では日本にとっての脅威たりえなかった。
日本側の外交方針としては、政府のみならず、関東軍中枢においても、満洲経営という大事業のために国力を投下する必要から、対外的にむやみに敵対的態度をとるべきではないと考えていた。
しかし、国内世論は満洲の国家承認を強く求めており、6月14日には貴衆両院において、国家承認を求める決議が全会一致で議決された。更に、外相に就任した内田康哉は世論に引きずられて強硬論を押し出し、8月25日にはいわゆる「焦土演説」において、満洲の国家承認に向けて一歩も引かない考えを表明し、世論から喝采を浴びる。森恪は、この時期の政府の政策転換に至る空気を「六十年間模倣し来った西欧の物質文明と袂を別って伝統的日本精神に立帰」えることを意味するものであると評するなど、満洲問題は、連盟理事国として果たしてきた従来の協調外交に対する挑戦的ナショナリズムの象徴となるに至る。
9月15日、日満議定書の締結により、日本は満洲国を国家承認した。
リットン報告書の提出と連盟脱退
10月2日、リットン報告書が公表される。同報告においては、満洲問題の解決策について、事変前への復旧は混乱を招くのみであること、満洲国建国の追認は国際秩序の原則および日華両国の友好関係の点から不適当であることからともに退け、満洲地方の中華民国の潜在的主権を認めた上で、現地には特別な行政組織による自治を行うことを提案する。現地の日本の権益は、日華両国間で締結される条約により保証されることとなっていた。
しかし、日本は既に満州国を国家承認し、満洲地域の中華民国主権からの独立をすでに認めていたため、この報告書を受け入れることを拒否した。苦しい立場に置かれた連盟の日本代表は、上述の通り列強各国との個別交渉を行えば妥協を得られる目算があったことから、そもそも連盟における満洲事変に関する審議や介入を行わないよう説得を行う方針をとった。
しかし、翌1933年2月21日、連盟総会において事変に関する討議がかけられ、24日、報告書は採択される。日本代表団は直ちに会場を退席し、3月27日、日本は正式に脱退を通告する(脱退の正式発効は2年後の1935年3月27日)。
以降、日本は満洲経営に乗り出すが、国際連盟に対する強硬な反対世論は修正されないまま、国際社会から孤立してゆくこととなる。その一方で、国際社会もこの事態に対し軍事手段などの強力な対抗策を取ることはなかった。慶応大学教授の細谷雄一は、当時列国も大恐慌直後のことで軍を派遣するまでの余力がなかったためとし、日本の行為がそのまま放置されたことが、のちのイタリアのエチオピア侵略やヒトラーのオーストリアやチェコ・ズデーデン地方の併合等を招き、パワーポリティクスの復権・帝国主義時代の再来させたとしている。
終結
狭義には、1933年5月末の塘沽停戦協定が、国民政府に日本の満州支配を事実上認めさせたものとして、終わりとされている。実際には、その後もしばらくは地元漢人地主・小作人や宗教団体、匪賊等による抵抗・襲撃活動がなお続き、関東軍は土匪狩りの名の下に散発的に戦闘を行っている。華北分離工作を経て、1937年7月7日の盧溝橋事件の勃発により支那事変(北支事変)に吸収されるまでを満州事変とする見方もある。
参考:『モガ・モボ』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%9C%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%AC
モボ・モガとは、それぞれ「モダンボーイ」(modern boy)、「モダンガール」(modern girl)の略語。1920年代(大正9年から昭和4年まで)の都会に、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象に現れた、当時は先端的な若い男女のことを、主に外見的な特徴を指してこう呼んだ。戦前の日本の若者文化では、最も有名な例である。「モダンガール」の語の発案者は新居格だという説もある。
時代背景・社会風俗など
大正年間は、日本が連合国の一員として参戦し、戦勝国となった第一次世界大戦にて日本の国益が大きく増進し、主な戦場であったヨーロッパから遠かったため、戦争状態に置かれた連合国への民需、軍需双方の輸出が増大したこともあり、「戦勝国と中立国両方の利益を得た」と言われた。
国内事情も大戦景気に沸き、消費文化や流行の輸入品(舶来品)が旺盛な消費活動を刺激し、また機械化・合理化された産業発展が女性の社会進出を促し「職業婦人」も加速度的に増加していった。
上流階級の正装として高価で限定された従来の洋装が、産業の機械化と購買力をもった職業婦人とともに若い男女に広がるようになり、イギリスをはじめとするヨーロッパの先進国やアメリカ合衆国の流行の輸入品や風俗の一部を取り入れるようになった。
この時期、「大正デモクラシー」の時流に乗って、男性に限られてはいるがヨーロッパでもまだ多くの国で取り入れられていなかった普通選挙が実施され、教育の分野においては大正自由教育運動がおこり、かつては一部高等子弟にだけ許された高等教育が徐々に一般庶民へも拡大し、個人の自由や自我の拡大が叫ばれ、進取の気風と称して明治の文明開化以来の西洋先進文化の摂取が尊ばれた。
新しい教育の影響も受け、伝統的な枠組にとらわれないモダニズム(近代化推進)の感覚をもった青年男女らの新風俗が、近代的様相を帯びつつある都市を闊歩し脚光を浴びるようになった。
ただし、珍奇な恰好をするのは「ろくな人間ではない」という考えの保守的な一般庶民や田舎の視線からは、洋風の異装をにわかに身に付けた習慣をひけらかす軽薄な風潮だという世間の顰蹙もまた広まった。1928年(昭和3年)に実施された普通選挙の実施により議会制民主主義が根付き、自由な気風が続くかと思われたものの、昭和10年代前半(1930年代後半)に入ると、世界恐慌の影響と支那事変勃発による戦時体制化の中で、こうした華美な風俗は抑制されて姿を潜める結果になった。
「モボ」「モガ」の特徴
男女を問わず、「モダンであること」が最大の特徴である。
ファッション
モボ
山高帽子・ロイド眼鏡・セーラーパンツ・細身のステッキなどが当時の広告などから見て取れる。また、ボードビリアン・二村定一や喜劇俳優・榎本健一の歌『洒落男』の訳詞(詞:坂井透)にも「俺は村中で一番モボだといわれた男(中略)そもそもその時のスタイル/青シャツに真赤なネクタイ/山高シャッポにロイド眼鏡/ダブダブなセーラーのズボン(後略)」とある。
モガ
服装は原則として洋服で、スカート丈はひざ下、ミディアムからロング(当時はこれでも十分短かった)。その他、クロッシェ(釣鐘型の帽子)・ショートカット(「結い髪でなく断髪」の意。いまで言うボブカット)・引眉・ルージュや頬紅などが特徴的(当時、まだ化粧の習慣は一般的ではなかった)。パーマネント・マニキュアなどは昭和に入ってからの流行となる。断髪の髪型は「毛断(モダン)」と呼ばれたりした。その他、フランソワ・コティの香水も好んで使われた。
海外女優のコリーン・ムーア、ノーマ・シアラー、ジョーン・クロフォード、クララ・ボウ、ルイーズ・ブルックスなどの影響を受けたファッションである。
参考:『五・一五事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
五・一五事件(ごいちごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きたクーデタ事件。
井上日召の影響を受けた海軍青年将校が陸軍士官学校生徒や愛郷塾生らと協力し、内閣総理大臣官邸・立憲政友会本部・日本銀行・警視庁などを襲撃し、第29代内閣総理大臣の犬養毅を暗殺した。
背景
大正時代、衆議院第一党の党首が内閣総理大臣になるという「憲政の常道」が確立したことで議会政治が根付き始めた。しかし、1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況により企業倒産が相次ぎ、失業者は増加、農村は貧困にあえぎ疲弊する一方で、大財閥などの富裕層は富を蓄積して格差が広がり社会不安が増大するが、それらの問題に対処できず富裕層を守るばかりと見られた政党政治が敵視されるようになり、政治の革新が強く求められるようになっていた。国家革新を求める者の中には過激化し、時の首相を暗殺しようとする動き(濱口首相遭難事件)が起こったり、昭和維新を標榜し、政党と財閥を倒し軍事政権の樹立を目指す陸軍将校らによるクーデター未遂事件(三月事件、十月事件)も相次ぐなど、世情は緊迫していった。
海軍でも、ロンドン海軍軍縮条約を締結した内閣に不満を抱いた一部の将校らは、クーデターによる国家改造計画を抱き始める。計画の中心人物だった海軍の藤井斉は、陸海軍共同での決起を目指して一部陸軍将校や民間の井上日召、西田税らと連携し計画を練っていた。しかし、主力と期待された皇道派の陸軍若手将校らは1931年12月成立の犬養内閣で皇道派の荒木貞夫が陸相となったところから必ずしも決起の必要はないと考える者も増え、陸軍将校(後に二・二六事件を起こすメンバーら)は時期尚早であるとして決裂、また、井上日召は、海軍将校らに軍務による制約があり憲兵の監視も受けるなど十分な活動ができないことに見切りをつけ、社会不安を引き起こすための要人テロを民間人側で起こすことに主眼を置く(血盟団事件)など、運動の方向性は分裂していく。藤井は折しも起こった第一次上海事変に出征、実行を目にしないまま戦死することになるが、藤井の同志らは計画実現を目指して行動を続ける。まず、2月11日の紀元節に宮中参内する政府要人らを襲撃、一挙に殺害して社会不安を起こし戒厳令を布告させ、それにより軍が実権を握り、昭和維新・国家改造につなげられることを期待した計画が立てられた。後に血盟団関係者が裁判で語ったところによれば、井上の提案により、このとき海軍軍人らが一部陸軍軍人とともに決起し陸軍側がやった形にみせかけて犬養首相を殺害し、そうすれば大川周明派の陸軍軍人らも座視できず合流、西田税・菅波三郎派の陸軍軍人も呼応させられるのではないかという計画であったという。しかし、海軍軍人らは各地に散らばっていて、また、憲兵らの監視もあり、その意志を確認することにも困難があり、連絡がうまく行かず、この計画は中止となる。
計画
血盟団事件の中心人物である井上日召は同事件後に出頭する直前、藤井斉の同志であった古賀清志海軍中尉と中村義雄海軍中尉に密かに会い、海軍軍人が後に続いて決起する事を確認しあったが、血盟団事件の発生を受けて憲兵隊や特別高等警察は警戒と監視を強め、同志の一人である浜勇治海軍大尉が身柄を拘束されるなど、活動は危機的状況に追い込まれつつあった。古賀と中村は大蔵栄一陸軍中尉や安藤輝三陸軍中尉など陸軍青年将校や陸軍士官学校本科生らと接触し共同での決起を呼びかける。時期尚早と考える青年将校らの反応は鈍かったが、後藤映範ら11名の士官候補生は決起参加に賛同し、計画は海軍将校と陸軍士官候補生とで実行されることとなった。また、古賀は霞ヶ浦の飛行学校から上京する際に、水戸郊外へ赴き農本主義者の橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として参加させる同意を得た。これは軍人だけの決起ではなく、苦しんでいる農民が止むに止まれず立ち上がったという大義名分を示すために必要なものであったと古賀は後に述べている。更に古賀は大川周明を訪れ、数回にわたり多額の資金と拳銃5丁、実弾約150発の提供を受けている。
3月31日、古賀と中村は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。この時の計画案では、襲撃対象は首相官邸、牧野内大臣官邸、立憲政友会、立憲民政党、日本工業倶楽部、華族会館の6か所で、襲撃後は東郷平八郎元帥による戒厳令政府を設立し、権藤成卿、荒木貞夫陸相らによる軍閥内閣を樹立して国家改造を行うというクーデター計画であった。この後、計画は二転三転し、5月13日、土浦の料亭・山水閣で最終の計画(第五次案)が決定した。具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始、
第一段として、海軍青年将校率いる第一組は総理大臣官邸、第二組は内大臣官邸、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行本店に爆弾を投げる。
第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃して決戦を挑み、その後憲兵隊本部に自首する。
これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、電気を止め東京を暗黒化する。
加えて血盟団の残党である川崎長光に依頼し、時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害する裏切者として、この機会に暗殺する。
というものであり、当初の計画にあった戒厳令政府の設立とその後の軍事政権による国家改造というクーデター構想は事実上放棄され、集団テロ計画に変わっている。5月15日が決行日とされたのは、陸軍士官候補生が満州視察旅行から戻るのが前日の14日であり、15日は日曜日のため休暇外出することが出来るし、また来日中のチャールズ・チャップリン歓迎会が首相官邸で行われる予定のため、首相が在邸するはずであるとの理由であった。決起のために用意した武器は、拳銃13丁、手榴弾21発、短刀15口程度であった。
村山格之海軍少尉が2月3日、駆逐艦薄に乗り組んで上海に出征し、4月16日上海に停泊中の海防艦出雲で田崎元武海軍大尉からブローニング拳銃1挺、弾丸50発を入手し、当時通信艇として上海-佐世保間を往復していた駆逐艦楡の乗組員大庭春雄少尉に頼んで佐世保に持ち帰らしめ、同月29日に自らこれを古賀に手渡す。
昭和天皇の弟である高松宮は、その日記に五・一五事件について「主として藤井(斉)少佐の系統で大川周明氏の流れを組む連中なり。田崎(元武)は新田目直寿のつづく共産系であった。新田目は本式の共産党員として活動しているそうな」とある。
経過
決行前日
5月14日、同志三上卓海軍中尉が、電報による連絡を受けて呉から上京し、黒岩勇海軍予備少尉と共に芝の水交社で古賀、中村と合流。三上はこの時点で初めて計画の詳細を知る。満州から帰校した士官候補生らにも翌日の決起が連絡された。古賀ら4名は最終準備を済ませると神楽坂の料亭で最後の酒宴を催した。実はこの日、先に身柄を拘束されていた同志の浜大尉が計画の一部を当局に白状したため、16日に古賀と中村を拘束することになっていた。
決起当日
5月15日朝、西田税の自宅に村中孝次陸軍中尉、栗原安秀陸軍中尉ら陸軍青年将校らが集まり、海軍が陸軍士官候補生を巻き込んで決起する事を危惧して制止策を検討していた。午前10時30分頃、陸軍士官学校生との連絡役であった池松武志・元陸軍士官学校本科生が坂元兼一・陸軍士官学校生と芝で接触し計画の詳細を確認、坂元は士官学校へ戻り同志に計画を伝えた。午後1時30分、菅波三郎陸軍中尉から呼び出された池松と坂元は、菅波から決起を思い止まるよう説得され、計画を教えるよう求められるが、池松らはこの日が決行日であることは明かさずに、説得を振り切って集合場所へ向かう。
三上と黒岩は旅館において話し合い、古賀らには無断で決起の趣旨を記した檄文を作成、謄写機で約1000枚のビラを刷った後、集合場所へ向かった。
首相官邸襲撃
5月15日当日は日曜日で、犬養首相は折から来日していたチャップリンとの宴会の予定変更を受け、終日官邸にいた。夫人の千代子は知人の結婚披露宴に参加するため帝国ホテルに出掛けており、息子で首相秘書官の犬養健も不在だった。訪問者はひいきにしていた料亭の女将、萱野長知、難波清人、往診に来た耳鼻科医の大野喜伊次の4人だけであった。
午後5時5分、三上中尉率いる第一組9人は靖国神社に集合した。三上中尉、黒岩予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春雄、石関栄の5人が表門組、山岸宏海軍中尉、村山海軍少尉、陸軍士官学校本科生の篠原市之助、野村三郎の4人を裏門組としてタクシー2台に分乗して首相官邸に向かった。タクシー車内において武器の分配と計画の最終確認が行われた。ところが、三上の拳銃が表門組車内に見当たらず、途中でタクシーを止め、裏門組から拳銃を受け取った。しかし、その拳銃も故障しており、全弾装填出来ない状態であった。官邸付近に到着すると、三上は拳銃を出して運転手を脅し、表門を突破して表玄関前に車を着けるよう指示した。恐怖した運転手が言われるまま車を進行させ玄関前に着けると、5名は降車し午後5時27分頃、正面玄関から官邸に入った。
対応に出た警視庁の警察官に対し、来客を装い首相に面会したい旨を告げると、警察官は一同を待たせて奥へ向かった。門前にいた守衛が不審に思って駆けつけて来ると、三上らは拳銃を取り出し発砲、警察官の後を追い、手当たり次第に部屋の扉を開けて首相を探した。表の洋館から首相の居室である日本館に続く扉を蹴破った三上らは、そこにいた警備の田中五郎巡査に首相の居場所を尋ねるが、答えなかったため銃撃した(田中巡査は5月26日に死亡する)。
護衛の巡査の一人から変事を知らされたとき、まわりの者は逃げるよう犬養に勧めたが、犬養は「いいや、逃げぬ」と答えたという。犬養の孫の道子は、さして逃げ場もなく醜態をさらしたくなかったのだろうとそのとき居合わせた母は考えたとして語っているが、犬養が海軍将校らの襲撃をどのように理解していたかについては人により意見が分かれる。襲撃側の表門組と裏門組は日本館内で合流、三上が日本館の食堂で犬養首相を発見した。三上は直ちに拳銃を首相に向け引き金を引いたが、一発しか装填されていなかった弾を既に撃ってしまっていたため発射されなかった。三上は首相の誘導で15畳敷の和室の客間に移動するが、途中、大声で全員に首相発見を知らせた。客間に入ると犬養首相は床の間を背にしてテーブルに向って座り、そこで自分の考えを話し、説得しようとしたとみられる。この時、首相と食事をするために官邸に来ていた嫁の犬養仲子と孫の犬養康彦が姿を現したが、黒岩が女中に命じて立ち去らせた。一同起立のまま客間で首相を取り囲み、三上が首相といくつかの問答をしている時、山岸が突然「問答無用、撃て、撃て」と大声で叫んだ。ちょうどその瞬間に遅れて客間に入って来た黒岩が山岸の声に応じて犬養首相の頭部左側を銃撃、次いで三上も頭部右側を銃撃し、犬養首相に深手を負わせた。すぐに山岸の引き揚げの指示で9人は日本館の玄関から外庭に出たが、そこに平山八十松巡査が木刀で立ち向かおうとしたため、黒岩と村山が一発ずつ平山巡査を銃撃して負傷させ、官邸裏門から立ち去った。 官邸付近にいた警察官が、不審に思って近づいてくるとこれを拳銃で威嚇、警察官がひるんだ隙に逃走し、拾ったタクシー2台に分乗し桜田門の警視庁本部へ向かった。
三上らは犬養首相が即死したと思っていたが、首相はまだ息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と強い口調で語ったと言う。家族の連絡を受けて駆けつけた大野医師(帰りの車を待つためまだ邸内にいた)が応急処置を施し、事件後に帰宅した息子で首相秘書官の犬養健の問いかけにも応じていた。更に20人を越える医師団が駆け付け、輸血などの処置を受けたが、次第に衰弱、午後9時過ぎに容態が急変し、午後11時26分になって死亡した。
内大臣官邸襲撃
午後5時頃、第二組の古賀中尉以下5名は泉岳寺前にある小屋の二階に集合、計画を確認するとタクシーに乗車して三田の内大臣官邸に向かった。午後5時25分、第二組は内大臣官邸に到着。古賀が邸内に手榴弾を投げ込んで爆発させた。更に古賀は警備の警察官に向かって発砲し負傷させる。池松元陸軍士官学校本科生も手榴弾を投げ込んだが不発であった。古賀は警視庁での決戦を重視し、牧野内府殺害計画を放棄、内大臣官邸については威嚇に止める事として、再びタクシーに乗車した。途中、三上中尉らが準備したビラを街頭に散布し、警視庁に向かった。
襲撃時、牧野内府は在宅していたが、奥座敷にいたため騒ぎに気づかなかったという。古賀は憲兵隊に出頭した後に、牧野内府を殺害しようとしなかった事を同志らに問いただされ、謝罪した。
立憲政友会本部襲撃
午後4時30分頃、第三組の中村海軍中尉以下4人は新橋駅に集合、タクシーに乗って立憲政友会本部に向かった。午後5時30分頃、休日で人影のない政友会本部に到着すると、中村が玄関に向かって手榴弾を投げたが不発であったため、中島忠秋・陸軍士官学校本科生が続いて手榴弾を投擲、玄関の一部に損傷を与えた。一行はすぐに立ち去り、警視庁に向かった。
三菱銀行本店襲撃
第四組である奥田秀夫(明治大学予科生で血盟団の残党)は、単独で行動を開始、三菱銀行本店の偵察を行う。午後7時20分頃、他の組が行動を開始して市内が騒然とする中、奥田は三菱銀行本店に到着、裏庭に向かって手榴弾を投げ込むが、木に当たって路上で爆発し外壁等に損傷を与えただけだった。
その後、奥田は友人宅へ泊まり、翌日自宅に帰ったところを逮捕された。
警視庁襲撃
首相官邸を襲撃した三上中尉ら第一組の先発5名は「決戦」を挑むため警視庁本部前に到着した。しかし、三上らの予想に反して警視庁では何の警戒体制も取られておらず、拍子抜けした三上らは自首するためそのまま麹町の憲兵隊本部へ向かった。その後、政友会本部から転進して来た第三組が警視庁前に到着し手榴弾を投げたが、建物には届かず電柱を爆破したのみに終わる。この時、内大臣官邸から転進してきた第二組もほぼ同時に到着していたが、第三組はそれに気づかずそのまま走り去り、ビラを配布しつつ憲兵隊本部へ向かった。その後、第二組も手榴弾2発を投擲するが、いずれも不発であった。不審に思って近づいてきた警察官に古賀が拳銃を発砲、更に、警視庁の玄関に向かって池松らが発砲し、居合わせた警視庁書記1人と読売新聞記者1人を負傷させると、警視庁を立ち去って憲兵隊本部へ向かう。更にその後、第一組の残りの4名が警視庁前に到着、他の組が襲撃した後を見て、庁内に侵入、警視総監の居場所を尋ねるが、「不在」との回答を受けるとガラス扉を蹴破って立ち去り、憲兵隊本部へ向かった。
このように警視庁での「決戦」を目指しながらも、集合時間さえ決まっておらず、各組がバラバラに行動して連携も取れていなかったことにより、警視庁での「決戦」は失敗に終わった。
日本銀行襲撃
黒岩ら第一組4名は警視庁を襲撃した後、自首するために憲兵隊本部に到着したものの、成果に物足りなさを感じ日本銀行を襲撃することにした。再び車に乗って日本銀行正門前に到着した4名は手榴弾を投げて爆発させ、敷石等に損傷を与えたが、そのまま再び憲兵隊本部へ戻った。
変電所襲撃
別働隊の農民決死隊7名は、午後7時ごろに東京府下の変電所6ヶ所(尾久の東京変電所、鳩ヶ谷変電所、淀橋変電所、亀戸変電所、目白変電所、田端変電所)を襲い「帝都暗黒」を目論み、配電盤を破壊したり、配線を切断するなどの破壊活動を行なったが、単に変電所内設備の一部を破壊しただけに止まり、停電はなかった。
西田税宅襲撃
事件当日にも、西田税の自宅には陸軍青年将校らが集まり、海軍が陸軍士官候補生を巻き込んで決起する事を制止しようと検討していた。陸軍将校らが立ち去った後、血盟団員の川崎長光が西田宅を訪れ面会を求めた。西田は面識のある川崎を招き入れ、書斎で2人で会話していたところ、川崎が隙を見て突如拳銃を発射した。西田が反撃して格闘となるが、川崎は更に拳銃を連射し西田に瀕死の重傷を負わせ逃亡した。西田は病院に搬送され一命を取り留めた。
出頭・検挙
第一組・第二組・第三組の計18人は午後6時10分までにそれぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込み自首した。一方、警察では1万人を動員して徹夜で東京の警戒にあたった。
6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。
7月24日、愛郷塾の橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。
9月18日、拳銃を提供したとして紫山塾の本間憲一郎が検挙された。
11月5日、本間憲一郎の拳銃提供に関連して天行会の頭山秀三が検挙された。
裁判
事件に関与した海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。起訴までの間に、陸海軍と司法省の間で調整が図られ、陸海軍側は反乱罪を軍人以外にも適用する事を主張したが、司法省の反対により反乱罪の民間人への適用は見送られた。
海軍軍法会議
海軍軍法会議は1933年(昭和8年)5月17日、予審を終えて反乱罪・同予備罪で古賀海軍中尉、三上海軍中尉ら10名を起訴した[3]。三上らは公判において自分たちの主張を国民に訴えかけて広めることにより、公判を通じて国家改革を進める事を獄中で誓い合った。7月24日、公判が開始されたが、この際、被告人達には新調した軍服を着ることが特別に許可された。古賀中尉は自分の思想的背景について述べ、政党政治家や財閥などの特権階級を批判した。三上中尉は政治家、財閥、高級軍人らを徹底的に批判し、天皇親政による国家改革の必要を説くなど計3日間にわたって公判で自説を展開し注目を集めた。他の被告人も日本の現状を批判し、犬養首相には個人的恨みはないが国家改革のために仕方なく襲撃したことを述べた。公判は28回にわたって開かれ、9月11日、論告・求刑が行われた。山本検察官は古賀中尉を反乱罪の首魁とし、三上中尉、黒岩予備少尉も首謀者として3名に死刑を、中村中尉ら3名は同罪で無期禁錮、伊東少尉ら3名は反乱予備罪で禁錮6年、塚野大尉は同罪で禁錮3年とそれぞれ求刑した。弁護人は被告人らの愛国心を訴えて情状酌量を求めた。検察官の論告文は事件を暴挙として批判し軍人として政治に関与する事を戒める内容であったが、これは被告人らがロンドン海軍軍縮条約への批判を行っていたことから、海軍内の条約賛成派が主導したものであった。これに対し、条約反対派からは強い反発が起こり、両派の対立抗争が判決に影響を与えることとなった。11月9日、判決が言い渡され、古賀、三上に禁錮15年、黒岩に禁錮13年、中村ら3名に禁錮10年、伊東ら3名に禁錮2年、塚野に禁錮1年という、求刑に比べて遥かに軽い判決が下された。判決文では事件を重罪に当たるものとしながら、被告人らの憂国の志を褒め称える内容となっていた。
陸軍軍法会議
陸軍軍法会議は1933年(昭和8年)5月17日、反乱罪・同予備罪で元陸軍士官候補生11名を起訴し、7月25日、公判が開始された。公判において後藤映範は明治維新の勤皇志士について述べ、五・一五事件を桜田門外の変になぞらえた。篠原市之助は犬養首相には何の恨みもないが支配階級の象徴として仕方なく襲撃したことを述べた。他の被告人も東北の農村の窮状を涙ながらに訴えて政界・財界の腐敗を糾弾するなど自説を展開し、決起に至った動機が日本の革新であることを主張した。公判は8回開かれ、8月19日に論告・求刑が行われ、匂坂春平検察官は被告人全員に対し禁錮8年を刑した。反乱罪は主導者については全て死刑という重罪であったが、元陸軍士官候補生の被告人らは従属的立場で犯行に関わったのみであるという理由であった。この際、軍人である匂坂検察官が被告人の人間性について褒め称えたりするなど、被告人らに対する陸軍側の擁護的姿勢が見て取れる。9月19日、被告人ら全員に求刑より軽い禁錮4年の判決が下された。
東京地方裁判所
東京地方裁判所は1933年(昭和8年)5月11日、予審を終え民間人被告人20名を爆発物取締罰則違反などの罪で起訴し、9月26日に公判が開始され、23回の公判が開かれた。10月30日に論告・求刑が行われ、橘、長崎に無期懲役、大川ら4名に懲役15年、他の被告に12年から7年の懲役が求刑された。翌1934年(昭和9年)2月3日、判決が言い渡され、橘が無期懲役、大川ら3名が懲役15年、他の被告らが懲役12年から7年となった。首相を射殺した実行犯で首謀者の三上中尉ら軍人が禁錮15年であるのに対し、民間人参加者への判決は相対的に非常に重いものとなっている。
当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり[17]、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが後に起こる二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、実際二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によってうかがえる。
報道と世論
事件発生直後の午後5時30分頃から、ラジオの臨時ニュースで首相官邸襲撃が報じられ、事件を伝える新聞各社の号外が当日中に配られた。事件当夜、翌日の新聞に事件に関する記事の掲載を禁じることが陸軍から要請され、一度は掲載禁止が決定された。しかし既に号外等で報道されている状態で情報を遮断すれば、却って社会の不安を煽るという内務省からの意見を受けて報道が許可される。しかし、犯人の氏名や事件と軍との関係について等は報道が禁じられ、事件後1年間は内務省により報道管制が敷かれた。ただし、当日の読売新聞号外には既に「三上海軍中尉ら18名」と実名報道されている。翌日発行の東京朝日新聞号外では「主犯陸海軍人十七名」と報じているものの、氏名は伏せ字となっている。報道管制に対し、在京新聞各社は共同で内務省に抗議している。また信濃毎日新聞など地方紙では事件に関して軍部批判を掲載する新聞もあった。
事件の1年後、報道管制が解除され、1933年(昭和8年)5月17日には陸軍省、海軍省、司法省が合同で事件の概要を公表した。この中で犯人達の動機について、政党・財閥・特権階級の退廃を打破し国家の革新を目指した純粋なものである旨が強調され、新聞各紙によって報道された。荒木貞夫陸軍大臣は被告人らに同情的なコメントを発したが、この時点で事件から1年間が経過しており、国民の関心はあまり高くはなかった。一方で大角岑生海軍大臣は、もし首謀者達を無罪にすれば後の禍根になると述べ、山本孝治にその旨を論告に入れるよう提案し山本検察官も同意している。
首謀者達は自分たちの行動を桜田門外の変に見立てていたが、三上卓は朝鮮との関係が強く古賀清志は泉岳寺前の小屋に集結する、土足で屋敷内に侵攻している、東京憲兵隊本部に自首していることから、永井荷風は「彼らは忠臣蔵をも意識した行動をとっていた」と述べる(ただし、古賀清志は自著で「泉岳寺の小屋の二階に当日タクシーで運転手を脅し行った」と記すのみで赤穂義士や赤穂事件に全く言及していない)など赤穂浪士になぞらえたりする識者もいた。
しかし、事件の公判が開始され、純粋に国家について憂い日本の現状を打破するために決起したという法廷での被告人らの主張が報道されると、政党政治や財閥などに不満を抱いていた国民の間で、被告人らに同情しその行為を称揚する世論が盛り上がり、公判を通じて自らの主張を国民に訴えようとした三上中尉らの目論見に沿った展開となっていった。被告人らを称揚する劇が上演され、三上中尉が作詞した「青年日本の歌」が広く歌われ、被告人らを讃える「昭和維新行進曲」のレコードがヒットしたりするなど、被告人らを英雄的に扱う動きが社会現象となった。
公判中の8月には被告人らに対する減刑嘆願運動が全国で盛り上がり始め、大日本生産党、日本国家社会党などの政治団体が中心となって各地で減刑を求める集会が開かれたほか、左翼団体[26]とは別に多くの個人が嘆願書を出したり、青年団や企業が署名を集めたりした。しかし、民間人被告への減刑運動は大きな盛り上がりが見られないまま判決を迎えている。
「話せばわかる」
犬養が殺害される際に、犬養と元海軍中尉山岸宏との間で交わされた「話せばわかる」「問答無用、撃て!」というやり取りはよく知られているが、「話せばわかる」という言葉は犬養の最期の言葉というわけではない。前述の通り、犬養は銃弾を撃ち込まれたあとも意識があったとされている。なお、山岸は次のように回想している。
『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答いらぬ。撃て。撃て』と言ったんです。
また、元海軍中尉三上卓は裁判で次のように証言している。
食堂で首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手をあげ『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ』と申された。私が『靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか』というと何か話そうとされた。
その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て』と叫んだ。黒岩勇が飛び込んできて一発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかみに小さな穴があき血が流れるのを目撃した。
孫の犬養道子は著書『花々と星々と』にて、現場に居た母親の証言を引用する形で、祖父の発言を次のように述懐している。
『まあ、せくな』ゆっくりと、祖父は議会の野次を押さえる時と同じしぐさで手を振った。『撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう。ついて来い』 そして、日本間に誘導して、床の間を背に中央の卓を前に座り、煙草盆をひきよせると一本を手に取り、ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、『まあ靴でもぬげや、話を聞こう』
「黒幕」説
事件には裏で関与した「黒幕」がいたのではないかとする説がある。
犬養はロンドン軍縮会議の海軍力削減における統帥権干犯問題では海軍に協力して時の政府を攻撃、自身の内閣では皇道派の荒木貞夫を陸相にすえる等、軍に協力的な姿勢をとることが多かった。そのため、なぜ犬養が暗殺対象となったかについては疑問も多く、諸説ある。内閣を倒し戒厳令を施行させ軍人内閣を作り国家改造を果たす為にたまたま時の首相が犬養であったからとする説、犬養が満州進出に反対の立場をとり中国側との交渉に動いていたため植民地主義者の森恪などが策謀したのではないかとする説)、それ以前の2月11日段階での決起案で犬養を暗殺し陸軍のしわざに見せれば大川一派も含めた陸軍軍人らも決起するだろうと血盟団の井上日召が提案し採用されていたことからその案がそのまま踏襲されたとする説などである。
事件当夜、首相官邸に駆けつけた書記官長の森恪の不自然な行動から、森が事件に関与しているのではないかという噂は事件直後から政界に広まっていた。森は犬養首相襲撃の急報を受けて直ちに官邸に駆けつけたが直接書記官長室へ入って引き篭もったまま、重体の犬養首相を見舞おうともしなかった事を、森の元部下の植原悦二郎が証言している。外務大臣の芳澤謙吉は、事件当夜の官邸で森が「青年将校を大量に免官しようとしていた犬養首相が間違っている」という趣旨の発言をしたことから、陸軍と親しかった森が事件と関係していると疑った。また、新聞記者であった木舎幾三郎は事件当夜の官邸で森に会った際に笑顔で手を握られたため不審に思ったという。他にも、森が犬養首相の死を喜んでいるかのような態度であったことを感じたという証言が複数あり、森が事件の裏にいるのではないかという臆測が広まっていた。
孫の犬養道子も著作で「森が兵隊に殺させようとしている」という情報が、政友会幹事の久原房之助から親族を通じて伝えられたことを記録している。
作家の松本清張は、襲撃者達が犬養首相の動向を知っていたり、首相官邸の見取図を持っていた事などから、内報者がいた可能性を指摘している。犬養首相の暗殺で有名な事件だが、首相官邸・立憲政友会(政友会)本部・警視庁とともに、牧野伸顕内大臣も襲撃対象とみなされた。しかし「君側の奸」の筆頭格で、事前の計画でも犬養に続く第二の標的とみなされていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に犬養と中国問題で対立し、軍部と通じていた森恪などが裏で糸を引いていたのでは、と推測している。
だが、中谷武世は古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したもので、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたが、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ており、また中谷は大川と政党人との関係が希薄だったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している。
また森は大川と関係が悪かった北一輝との方が親しかったため、大川から森に計画が知らされたとは考えにくく、そもそも計画の主目的は犬養首相暗殺ではないことから、首相周辺の内通者の存在自体が必須でなかったという見解もある。
なお、右翼巨頭の頭山満は犬養の政治的盟友とされているが、その三男の頭山秀三が頭山満の右翼・任侠世界での後継者となっていて、奇怪なことに、犬養暗殺用の拳銃は武器持出しが困難な海軍将校のために秀三がそれと知った上で用立てており、さらに先立つ血盟団事件では、頭山満の腹心とでもいうべき本間憲一郎(頭山満の元秘書。当時は茨城の国家主義団体「紫山塾」の長で、頭山秀三の右翼団体「天行会」の理事であった)のつてとされるが、犬養の暗殺まで企てていた血盟団首領の井上日召を頭山満自身が匿っている。
この他、中国進出をめぐって対立しがちであった荒木陸相の責任を問う考えも強い。事件後に荒木陸相が見舞いに来たが、犬養の娘の操(芳澤外相の妻)に「あなたがやった」と言われ、荒木は、崩折れたように畳廊下に手をつき、長い間その背を震わせていたという。
後継首相の選定
事件で殺害された犬養首相の後継の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望にたいして後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、この時は西園寺は興津から上京し、牧野内大臣の勧めもあって、首相経験者の山本権兵衛・若槻禮次郎・清浦奎吾・高橋是清、陸海軍長老の東郷平八郎元帥海軍大将・上原勇作元帥陸軍大将、枢密院議長の倉富勇三郎などから意見を聴取した。
当時、誰を首相にするかについては様々な意見があった。
総裁を暗殺された政友会は事件後すぐに鈴木喜三郎を後継の総裁に選出し、政権担当の姿勢を示していた。
昭和天皇からは鈴木貫太郎侍従長を通じて後継内閣に関する希望が西園寺に告げられた。その趣旨は、首相は人格の立派な者、協力内閣か単独内閣かは問わない、ファッショに近いものは絶対に不可、といったものであった。
陸軍の内部では平沼騏一郎という声が強く、政友会でも森恪らはこれに同調していた[28]。また陸軍の革新派には荒木貞夫をかつぎだし軍人内閣を作れという要求もあった。いずれにせよ陸軍は政党内閣には反対であった。
結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために退役海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。斎藤は民政・政友両党の協力を要請、挙国一致内閣を組織する。西園寺はこれは一時の便法であり、事態が収まれば憲政の常道に戻すことを考えていたとされる。ともかくもここに8年間続いた憲政の常道の終了によって政権交代のある政治及び政党政治は崩壊し、第二次大戦後まで復活することはなかった。
GHQによる調査
1945年(昭和20年)12月14日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し五・一五事件をはじめとした、1932年(昭和7年)から1940年(昭和15年)までに発生したテロ事件に係る文書(警察記録、公判記録などいっさいの記録文書)の提出を求めた。提出命令に先立ち、同年12月6日までにA級戦犯容疑者の逮捕命令が出されていた。
関係者
実行者
首相官邸襲撃隊
三上卓 - 海軍中尉で「妙高」乗組。反乱罪で有罪(禁錮15年)。1938年(昭和13年)に出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与
山岸宏 - 海軍中尉。禁錮10年
村山格之 - 海軍少尉。禁錮10年
黒岩勇 - 海軍予備少尉。反乱罪で有罪(禁錮13年)
野村三郎 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
後藤映範 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
石関栄 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
八木春雄 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
内大臣官邸襲撃隊
古賀清志 - 海軍中尉。反乱罪で有罪(禁錮15年)。1938年(昭和13年)7月に古賀清志らは特赦で出獄し、山本五十六海軍次官と風見章内閣書記官長のところへ挨拶に行って、それぞれ千円(2018年現在の貨幣価値で500万円)ずつもらったという。
坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
菅勤 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
西川武敏 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
池松武志 - 元陸軍士官学校本科生。禁錮4年
立憲政友会本部襲撃隊
中村義雄 - 海軍中尉。禁錮10年
中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
金清豊 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生。禁錮4年
民間人
橘孝三郎 - 「愛郷塾」主宰。刑法犯(爆発物取締罰則違反、殺人及殺人未遂)で有罪(無期懲役)。1940年(昭和15年)に出所
大川周明 - 反乱罪で有罪(禁錮5年)
本間憲一郎 - 「柴山塾」主宰。禁錮4年
頭山秀三 - 玄洋社社員。頭山満の三男
反乱予備罪
伊東亀城 - 海軍少尉。禁錮2年、執行猶予5年
大庭春雄 - 海軍少尉。禁錮2年、執行猶予5年
林正義 - 海軍中尉。禁錮2年、執行猶予5年
塚野道雄 - 海軍大尉。禁錮1年、執行猶予2年
裁判関係
高須四郎 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議判士長・海軍大佐
西村琢磨 - 陸軍第一師団軍法会議判士長・陸軍砲兵中佐
神垣秀六 - 東京地方裁判所裁判長・判事
木内曽益 - 検事。東京地方裁判所に係属した被告事件の主任検事。
山本孝治 - 検察官
藤尾勝夫 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議判士
高頼治 - 法務官
大和田昇 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議判士
木阪義胤 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議判士
大野小郎 - 海軍横須賀鎮守府軍法会議補充判士
清瀬一郎 - 弁護人
林逸郎 - 弁護人
花井忠 - 弁護人
浅水鉄男 - 海軍中尉、特別弁護人
参考:『満州国』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E6%B4%B2%E5%9B%BD
清が領有していた満洲(または、外満洲)と呼ばれる地域のうち、外満洲はアイグン条約及び北京条約でロシア帝国に割譲され、内満洲の旅順・大連は日露戦争までは旅順(港)大連(湾)租借に関する条約でロシアの、戦後はポーツマス条約と満洲善後条約により日本の租借地となっていた。さらに内満洲ではロシアにより東清鉄道の建設が開始され、義和団の乱の際には進駐して来たロシア帝国陸軍が鉄道附属地を中心に展開し、満洲を軍事占領した。朝鮮半島と満洲の権益をめぐる日露戦争の後、長春(寛城子)以北の北満洲にロシア陸軍が、以南の南満洲にロシアの権益を引き継いだ日本陸軍が南満洲鉄道附属地を中心に展開して半植民地の状態だった。
清朝は満洲族の故地満洲に当たる東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)には総督を置かず、奉天府と呼ばれる独自の行政制度を持っていたが、光緒33年(1907年)の東北改制を機に、他の省に合わせて東三省総督を設置し、管轄地域の軍政・民政の両方を統括させた。歴代の総督はいずれも袁世凱の派閥に属し、東三省は袁世凱の勢力圏であった。
1912年の清朝滅亡後は中華民国(北京政府)が清朝領土の継承を主張し、袁世凱の臨時大総統就任に伴ない、当時の東三省総督趙爾巽も奉天都督に任命され、東三省も中華民国の統治下に入った。しかし、袁世凱と孫文の対立から中華民国は分裂、内戦状態に陥り、満洲では、趙爾巽の部下だった張作霖が日本の後押しもあって台頭し、奉天軍閥を形成し、満洲を実効支配下に置くようになった。
また日本は1922年(大正11年)の支那ニ関スル九国条約第1条により中華民国の領土的保全の尊重を盟約していたが、中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、張作霖率いる奉天軍閥を満洲を実効支配する地方政権と見なして交渉相手とし、協定などを結んでいた。北伐により北京政府が崩壊し、北京政府を掌握していた張作霖が満洲に引き揚げてきたところを日本軍によって殺される(張作霖爆殺事件)と、後を継いだ息子の張学良は、1928年(昭和3年)12月29日に奉天軍閥を国民政府(南京政府)に帰順(易幟)させた。実質的には奉天軍閥の支配は継続していたが、満洲に青天白日満地紅旗が掲げられる事になった。
1929年、日本は南京国民政府を中華民国の代表政府として正式承認した。
1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領される。その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)3月1日の満洲国建国に至った。元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。
満洲国皇帝・溥儀
満洲国は建国にあたって自らを満洲民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による五族協和と王道楽土を掲げた。しかし後世においては、実質的に日本の関東軍が占領した日本の植民地であり、傀儡国家であったとする見解が一般的である。
満洲国は建国以降、日本、特に関東軍と南満洲鉄道の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた[8]。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中華民国の主権下にあるべきとした。このことが1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。
しかし1937年11月29日にイタリアが満洲国を承認。 続いて同年12月2日にフランコ体制下のスペイン、1938年5月12日にはドイツさらにタイ王国などの第二次世界大戦の日本の同盟国や友好国、枢軸陣営寄りの中立国や、エルサルバドルやポーランド、コスタリカなどの後の連合国の構成国も満洲国を承認した。さらに国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置した。またイギリスやアメリカ合衆国、フランスなど国交を樹立していなかった国も国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。
第二次世界大戦末期の1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を破った赤軍(ソ連陸軍)による関東軍への攻撃と、その後の日本の降伏により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡。満洲地域はソ連の占領下となり、その後国共内戦で中国国民党と中国共産党が争奪戦を行い、最終的に1949年に建国された中華人民共和国の領土となっている。
日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」という修飾と共に呼称する。
国名
1932年(大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。この国号は、1934年(康徳元年)3月1日に溥儀が皇帝に即位しても変更されなかった。ただし、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用された[15]。帝制実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または「The Manchou Empire」と定められた。
歴史
満洲地方には、ツングース系、モンゴル系、扶余系など多くの国や民族が勃興し、あるいは漢民族王朝が一部を支配下に置いたり撤退したりしていた。土着民族として濊貊・粛慎・東胡・挹婁・夫余・勿吉・靺鞨・女真などが知られるが、その来歴や相互関係については不明な点が多い[17]。満洲南部から朝鮮半島の一部にかけては遼東郡、遼西郡が置かれるなど、中華王朝の支配下にあった時期が長い。土着民族による国家としては高句麗、渤海国、女真族(後の満州族)の金、後金(清)などが知られる。モンゴル系であり東胡の子孫とされる鮮卑族による前燕などや鮮卑の子孫とされる契丹族による遼が支配した事もある。チベット系の氐族の立てた前秦の支配が及んだ事もある。12世紀以降、金、元、明、清と、首都を中国本土に置く、あるいは移した王朝による支配が続いていた。 清朝の中国支配の後、満洲族の中国本土への移出が続き満洲の空洞化が始まった。当初清朝は漢人の移入によって空洞化を埋めるべく1644年(順治元年)より一連の遼東招民開墾政策を実施した[18]。この開墾策は1668年(康熙7年)に停止され、1740年(乾隆5年)には、満洲は後金創業の地として本格的に封禁され、漢人の移入は禁止され私墾田は焼き払われ流入民は移住させられていた(封禁政策)。旗人たちも首都北京に移住したため満洲の地は「ほぼ空白地」[19]と化していた。19世紀前半には封禁政策は形骸化し、満洲地域には無数の移民が流入しはじめた。研究者[20]の試算によれば1851年に320万人の満洲人口は1900年には1239万人に増加した[19]。1860年にはそれ以前には禁止されていた旗人以外の満洲地域での土地の所有が部分的に開放され、清朝は漢人の移入を対露政策の一環として利用しはじめた(闖関東)。内モンゴル(奉天から哈爾濱・北安に至る満洲鉄道沿線の西側)については、蒙地と呼ばれモンゴルの行政区画である「旗」の地域があり、清朝の時代は封禁政策により牧地の開墾は禁止されていたが実際は各地域で開墾が行われ(蒙地開放)「県」がおかれていた。これらの地域は「旗」からは押租銀や蒙租を、「県」からは税を課され、蒙租は旗と国とが分配していた。また土地の所有権(業主権)は入植者になく永佃権や永租権が与えられ開放蒙地の所有権はモンゴル人王公・旗に帰属するとされていた[21]。これらの地域ではモンゴル人と入植した漢人との間でしばしば民族対立が生じており、1891年の金丹道暴動事件では内モンゴルのジョソト盟地域に入植した漢人の秘密結社が武装し現住モンゴル人に対して虐殺をおこなっていた。その後、秘密結社が葉志超により鎮圧されたが、入植した漢人に対して復讐事件が生じていた[注釈 5]。
清朝はアヘン戦争後の1843年に締結された虎門寨追加条約により領事裁判権を含む治外法権を受け入れることになった。
ロシア帝国もまたアロー戦争後の1858年に天津条約を締結して同等の権利を獲得することに成功し、1860年の北京条約でアムール川左岸および沿海州の領有権を確定させていた。
日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期の1823年、経世家の佐藤信淵が満洲領有を説き[23]、幕末の尊皇攘夷家の吉田松陰も似た主張をした[24]。明治維新後の日本は1871年(明治4年)の日清修好条規において清国と対等な国交条約を締結した。さらに日清戦争後の下関条約及び日清通商航海条約により、清国に対する領事裁判権を含めた治外法権を得た。
ロシアは日清戦争直後の三国干渉による見返りとして李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功し(露清密約)、1897年のロシア艦隊の旅順強行入港を契機として1898年3月には旅順(港)大連(湾)租借に関する条約を締結、ハルピンから大連、旅順に至る東清鉄道南満洲支線の敷設権も獲得した。日本は、すでに外満洲(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企図するロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなした。1900年(明治33年)、ロシアは義和団の乱に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと日英同盟を結んだ。
日露両国は1904年から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は戦勝国となり、南樺太割譲、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招いた。駐日ポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている[25]。
清朝から中華民国へ
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1911年から1912年にかけての辛亥革命により満洲族による王朝は打倒され(駆除韃虜)、漢民族による共和政体中華民国が成立したが、清朝が領土としていた満洲・モンゴル・トルキスタン・チベットなど周辺地域の政情は不安定となり、1911年にモンゴルは独立を宣言、1913年にはチベット・モンゴル相互承認条約が締約されチベット・モンゴルは相互に独立承認を行った。
満洲は中華民国臨時大総統に就任した袁世凱が大きな影響力を持っていたため、東三省総督の体制、組織をそのまま引き継ぎ、中華民国の統治下に入っている。この中に、東三省総督の趙爾巽の下で、革命派の弾圧で功績を上げた張作霖もいた。しかし、袁世凱と孫文が対立し、中華民国が分裂、内戦状態に入ると、張作霖が台頭し、奉天軍閥を形成し、日本の後押しも得て、満洲を実効支配下に置いた。
日本は日露戦争後の1905年に日清協約(満洲善後条約の付属協約[26])、1909年には間島協約において日清間での権益・国境線問題について重要な取り決めをおこなっていたが、中華民国成立によりこれらを含む過去の条約の継承問題が発生していた。
満蒙問題と日中対立
第一次世界大戦に参戦した日本は1914年(大正3年)10月末から11月にかけイギリス軍とともに山東半島の膠州湾租借地を攻略占領し(青島の戦い)その権益処理として対華21カ条要求を行い、2条約13交換公文からなる取り決めを交わした。この中に南満洲及東部内蒙古に関する条約など、満蒙問題に関する重要な取り決めがなされ、満洲善後条約や満洲協約、北京議定書・日清追加通商航海条約などを含め日本の中国特殊権益が条約上固定された。日本と中華民国によるこれら条約の継続有効(日本)と破棄無効(中国)をめぐる争いが宣戦布告なき戦争[注釈 6]へ導くこととなる。
1917年(大正6年)、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。旧ロシア帝国の対外条約のすべてを無効とし継承を拒否したソビエトに対し、第一次世界大戦に参戦していた連合国は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分により干渉戦争を開始した(シベリア出兵)。日本はコルチャーク政権を支持しボリシェヴィキを攻撃したが、コルチャク政権内の分裂やアメリカを初めとする連合国の撤兵により失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、満蒙は「日本の生命線」と見なされるようになった。とくに1917年及び1919年のカラハン宣言は人民によりなされた共産主義政府であるソビエトが旧ロシア帝国の有していた対中権益(領事裁判権や各種条約による治外法権など)の無効・放棄を宣言したものであり、孫文をはじめとした中華民国政府を急速に親ソビエト化させ、あるいは1920年には上海に社会共産党が設立され、のち1921年の中国共産党第一次全国代表大会につながった。
その間の1919年には満洲鉄道が2~3万人の組合員からなる満鉄消費組合を結成して日本人向けの市場を寡占しはじめて日本人小売商らの利益が害されたため、満洲商業会議所連合会は満鉄消費組合撤廃活動を1930年まで4次に渡って展開した。結果的には和解に至ったが、これらの活動が満洲輸入組合及び満洲輸入組合連合会の設立に繋がった[28]。
1928年7月19日、第一次国共合作により北伐を成功させた蔣介石の南京国民政府は一方的に日清通商航海条約の破棄を通告し、日本側はこれを拒否して継続を宣言したが、中国における在留日本人(朝鮮人含む)の安全や財産、及び条約上の特殊権益は重大な危機に晒されることになった。
満洲は清朝時代には「帝室の故郷」として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷・山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。清末の袁世凱は満洲の自勢力化をもくろむとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲における日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。また、日中両軍が衝突した1919年の寛城子事件(長春事件)では張作霖の関与が疑われたが日本政府は証拠をつかむことができなかった。
さらに中国内地では蔣介石率いる中国国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況のなか1920年3月には、外満洲のニコラエフスク(尼港)で赤軍によって日本軍守備隊の殲滅と居留民が虐殺される尼港事件が起き、満洲が赤化されていくことについての警戒感が強まった。1920年代後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって万里の長城以東の全満洲を中国国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。
満洲事変
1928年(昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民革命軍に敗れて満洲へ撤退した。田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断し、張作霖を殺害した(張作霖爆殺事件)。河本らは自ら実行したことを隠蔽する工作を事前におこなっていたものの、報道や宣伝から当初から関東軍主導説がほぼ公然の事実となり、張作霖の跡を継いだ張学良は日本の関与に抵抗し楊宇霆ら日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日、満洲事変(柳条湖事件)を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。
日本国内の問題として、世界恐慌や昭和恐慌と呼ばれる不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、1890年代以後、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。
満洲国建国とその経緯
柳条湖事件発生から4日後の1931年9月22日、関東軍の満蒙領有計画は陸軍首脳部の反対で実質的な独立国家案へと変更された[29]。参謀本部は石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。
翌1932年2月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。2月16日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。2月18日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。
東北行政委員会の旗
1932年3月1日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と命名された。国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。
その後、1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号は康徳に改元)。国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。
満洲国をめぐる国際関係
一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、中華民国は国際連盟にこの事件を提起し、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、イギリス人の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とするリットン調査団の派遣を決議した。1932年3月から6月まで日本、中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、同年10月2日に至って報告書を提出し、満洲の地域を「法律的には完全に支那の一部分なるも」とし、満洲国政権を「現在の政権は純粋且自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」とし、「満洲に於ける現政権の維持及承認も均しく不満足なるべし」と指摘した。その上で満洲地域自体には「本紛争の根底を成す事項に関し日本と直接交渉を遂ぐるに充分なる自治的性質を有したり」と表現し、中華民国の法的帰属を認める一方で、日本の満洲における特殊権益を認め、満洲に中国主権下の満洲国とは異なる自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を提案した。
同年9月15日に齋藤内閣のもとで政府として満洲国の独立を承認し、日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟総会に送り、満洲国建国の正当性を訴えた。
リットン報告書をもとに連盟理事会は「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」を作成し、1933年2月24日には国際連盟総会で同意確認の投票が行われた。この結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立した。日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。
隣国かつ仮想敵国でもあったソビエト連邦は、当時はまだ国際連盟未加盟であり、リットン調査団の満洲北部の調査活動に対しての便宜を与えなかっただけでなく[37]、建国後には満洲国と相互に領事館設置を承認するなど事実上の国交を有していたが、正式な国家承認については満洲事変発生から建国後まで終始一定しない態度を取り続けた。1935年にソ連は満洲国内に保有する北満鉄路を満洲国政府に売却した。国境に関しても日満-ソ連間に認識の相違があり、張鼓峰事件などの軍事衝突が起きている。
中華民国と満州国との関係、というより日本軍(関東軍)と中華民国との間は、その後も戦争状態が続くが、1933年5月の塘沽協定で一応の和平が成立する。しかし、満州国を中華民国は承認しないままであり、その後、中国領の非武装地帯への日本軍の特務機関による自治運動(実際は日本軍の侵略)が新たな紛争をうみ、日中戦争へとつながる。 1932年7月、満洲国内の郵政接受が断行されると、満洲と中国間の郵便は遮断されることとなった。その後、日本と中国の間で山海関の返還など情勢緩和が続くと、1934年4月、国際連盟が「満洲国の郵便物は事務的、技術的に取り扱うべし」との決議を行う。国民政府側も「通郵は文化機関」との判断から、満洲国不承認の原則と切り離して郵便協定の交渉につくことを受諾。同年12月までに協定が成立し、1935年1月からは普通郵便が、翌2月からは小包、為替の取り扱いが始まった。
モンゴル人民共和国との間にも国境に関して認識の相違があり、1939年にはノモンハン事件などの紛争が起きた。
1941年4月13日、日ソ間の領土領域の不可侵を約した日ソ中立条約締結に伴い、日本のモンゴル人民共和国への及びソ連の満洲国への領土保全と不可侵を約す共同声明が出された。
統治
日本軍占領後、各地で各種宗教・政治思想で結びついた団体による抗日ゲリラ闘争が起こった。一時は燎原の火のように満洲各地に広がり、関東軍にもとても終結するとは思えないような時期もあったといわれるが、関東軍は殲滅を繰り返し、1935年頃には治安は安定していった。その過程で平頂山事件のような事件も起きているが、このような事件は氷山の一角で、1932年9月には暫行懲治盗匪法を制定、この条文では清朝の法制にもあった臨陣格殺が定められ、軍司令官や高級警察官が匪賊を裁判なしで自己の判断で処刑する権限を認めていたため、関東軍ないし実質的に日本人が指導する現地警察はこれを濫用し、各地で匪賊とされた者らの殺戮が繰り返され、彼らの生首が見せしめに晒されることが横行していたとされる。とくに満鉄及びその付属地を警備する独立守備隊は質が悪く、現地住民らに恐れられたという。東京大学東洋文化研究所教授の安冨歩によれば、ゲリラ鎮圧は最終的に成功したものの、この成功が経済構造・社会構造の異なる中国本土でも同様にうまくいくと日本軍を誤信させ、後の日中戦争拡大に繋がっていったのではないかという。林博史によれば、この満洲でのやり方は、山下奉文中将を通じて、後の日中戦争や太平洋戦争におけるマレー・シンガポール占領期にも持ち込まれた。
第二次世界大戦へ
大東亜戦争(第二次世界大戦)に日本が開戦する直前の1941年12月4日、日本の大本営政府連絡会議は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止する一方、在満洲の連合国領事館(奉天に英米蘭、ハルビンに英米仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を行わさせた。また館員らは警察により軟禁され、1942年に運航された交換船で帰国した。
このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、第二次世界大戦の下で、満洲国軍が日本軍に協力してイギリスやアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどとと戦っている南方や太平洋、インド洋やオーストラリア方面に進出するということも無かった。
日本の敗色が濃くなった1944年の下半期に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にイギリス領インド帝国のイギリス軍基地内に展開したアメリカ軍のボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで低下した。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招くことになった。
また、戦争後期には大豆等の穀物を徴発、しかし、連合軍の通商破壊により船で日本本土や南方に輸送することが出来なくなり、満洲で飢餓が始まる中、満洲の鉄道沿線や朝鮮の釜山の港で大豆等が野晒しで腐っていったという。一方で、代わりに日本から入れる筈の衣類・繊維がやはり通商破壊のため、あるいは南方優先ということで満洲には入らず、1944年頃の冬には凍死する者、(成長とともに服が合わなくなるため)衣類無しでオンドルに頼って過ごさねばならない子供らが続出したとされる。
1945年2月11日にソ連、アメリカ、イギリスはヤルタ会談を開き、満洲を中華民国へ返還、北満鉄路・南満洲鉄道をソ連・中華民国の共同管理とし、大連をソビエト海軍の租借地とする見返りとして、ソ連が参戦することを満洲国政府に秘密裏に決定した。なおこの頃満洲国の駐日本大使館は、東京の麻布町から神奈川県箱根に疎開する。
1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本は1国で連合国との戦いを続けることになる。太平洋戦線では3月には硫黄島が、6月には沖縄がアメリカ軍の手に落ち、アメリカ軍やイギリス軍機による本土への攻撃が行われるなど、日本の敗戦は時間の問題となっていた。
ソ連の満洲侵攻
1945年6月、日本は終戦工作の一環として、満洲国の中立化を条件に未だ日ソ中立条約が有効であったソビエト連邦に和平調停の斡旋を求めたが、既にソ連はヤルタ会談での秘密協定に基づき、ドイツ降伏から3か月以内の対日参戦を決定していたため、日本の提案を取り上げなかった。
8月8日、ソ連は1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、直後に対日参戦した。ソ連軍は満洲国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。ソ連は参戦にあたり、直前に駐ソ日本大使に対して宣戦布告したが、満洲国に対しては国家として承認していなかったため、外交的通告はなかった。満洲国は防衛法(1938年4月1日施行)を発動して戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。
関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者は8月10日、憲兵の護衛付き特別列車で脱出した。満洲国を防衛する日本の関東軍は、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかったため、国境付近で多くの部隊が全滅した。そのため、ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、主に満蒙開拓移民をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果彼らは武器も持たないまま置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。
一説にはとくに初期のソ連軍兵士らは囚人兵が主体だったともいわれ、軍紀が乱れ、戦時国際法の基礎教育もなく、兵士らによる日本人居留民に対する殺傷や強姦、略奪事件が多発した。また、それを怖れる日本人居留民や開拓団らの中には集団自決に奔るもの、あるいは逆に、ソ連軍将校らと取引し未婚の若い女性らを自ら犠牲に差出すものも続出したという。8月14日には葛根廟事件が起こっている[47][48]。戦後、このような形で強姦され妊娠し、博多港に引き揚げてきた女性のためにと厚生省引揚援護局が、二日市に診療所を設け、当時違法であったが中絶手術を行った。もっとも満洲でとくに初期にはソ連兵による強姦が多発したのは間違いないが、開拓移民を多く出した石川県の満蒙開拓団関係者の依頼で開拓団史をまとめた藤田繁の調査・検証によれば、この二日市での中絶のケースでは、ソ連兵による強姦と考えるにはその多くが妊娠時期が合わなかったという[50]。実際には暴行ばかりでなく、外地で生き延びるために、満洲や朝鮮等で現地の男性あるいは同じ引揚者の日本人男性らと一時的にでも夫婦同然となるような生活を送るしかなかった女性らが、郷里帰還を前にして中絶の選択を迫られた等の事情が考えられることを示唆している(参照:二日市保養所)。
滅亡
皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い、通化省臨江県大栗子に8月13日夕刻到着。同地に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知った。
2日後の8月17日に、国務総理大臣の張景恵が主宰する重臣会議は通化市で満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲国は誕生から僅か13年で滅亡した[51]。退位詔書は20日に公布する予定だったが、実施できなかった。
8月19日に旧満洲国政府要人による東北地方暫時治安維持委員会が組織されたが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場より飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。
その後の満洲地域
日本兵と日本人入植者
占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。その後ソ連軍により、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる(シベリア抑留)。
ソ連軍の侵攻を中国人や蒙古人の中には「解放」と捉える人もおり、ソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が一部で起こったため、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。中華民国政府に協力し反乱を起こしたことから日本人数千名が中国共産党の八路軍に虐殺された通化事件も発生した。
また、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京や大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、ようやく1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。さらに、帰国した「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓団や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者たちは後々まで困窮した。
ソ連軍政下
満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では3か月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌1946年4月までソ連軍の軍政が続き、撫順市や長春市などには八路軍が進出して中国共産党が人民政府をつくっていた(東北問題)。この間、ソ連軍は、東ヨーロッパの場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰った。
中華民国
1946年5月にはソ連軍は撤退し、満洲は蔣介石率いる中華民国に移譲された。中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。しかしその後国共内戦が再開され、中華民国軍は、人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に移転することとなる。
中華人民共和国
1948年秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党の中国人民解放軍が満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2・高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。
旧満洲国軍興安軍である東モンゴル自治政府自治軍はウランフによって人民解放軍に編入され、中国によるチベット併合などに投入された。
1949年に中国共産党は中華人民共和国を成立させ、満洲国領だった東モンゴル地域に新たに内モンゴル自治区を設置した。文化大革命の混乱の最中の時代には、「満洲国時代に教育を受けた多くのモンゴル人達」は「内モンゴル人民革命党に関係する者」として紅衛兵達により粛清された(内モンゴル人民革命党粛清事件)。ソ連軍から引き渡された満洲国関係者の多くは撫順戦犯管理所で中国共産党の思想改造を受けた。元満洲国皇帝の溥儀も同所に収監された。溥儀は毛沢東によって、中国共産党がロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその一家を虐殺したソ連より優越している証左とするために優待を受けた。溥儀は釈放後、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。
関東州 - 日露戦争後の満洲善後条約により、日本の中国からの租借地とされたが、満洲国建国後は満洲国領土の一部とされ、満洲国からの租借地とされた。
国籍法の不存在
満洲国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、満洲国籍を有する者の範囲は法令上明確にされず、慣習法により定まっているものとする学説が有力であった。国籍法が制定されなかった背景として、二重国籍を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、日本の統治下にあった朝鮮人を日本国民として扱っていた朝鮮政策との整合性の問題や、白系ロシア人の帰化問題などがあった。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は満洲国人民として扱われた。日本人が満洲国で出生した場合には国籍が不明確になるが、満洲国の特命全権大使にその旨を届け出て、大使が内地の本籍地にそれを回送することで日本人として内地の戸籍に登録された。
満洲国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされた。議会政治でも専制政治でもなく王道政治(哲人政治)を行うことが謳われた。「王道主義」の策定に当たって橘樸が大きな役割を果たした。共和制国家であるアメリカ合衆国をモデルとするとしていたものの、皇帝を国家元首とする立憲君主制国家である。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。
その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織(ロシアファシスト党)を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断交した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。
国家機関
満洲国政府は、国家元首として執政(後に皇帝)、諮詢機関として参議府、行政機関として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院、監察機関として監察院を置いた。
国務院には総務庁が設置され、官制上は首相の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した(総務庁中心主義)。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。
元首
元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀がつき、1937年(康徳4年)3月1日に公布された帝位継承法第一条により、溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた[69]。
帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している(なお、溥儀にはこの時点で実子がおらず、その後も死去するまで誕生していない)。
国民
満洲国は瓦解に至るまで国籍法を定めず、法的な国民の規定はなされなかった。結果、移民や官僚も含めた満洲居住の日本人は日本国籍を有したままであり、敗戦後、法的な障害無しに日本へ引き揚げる事が出来た。1940年(康徳7年)に「暫行民籍法」(康徳7年8月1日勅令第197号)が制定され、民籍に記載された者は「満洲国人民」として扱われた。
行政
1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には軍政部大臣の張景恵が首相に就任した。
しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長官や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。
公務員の約半分が日本内地人で占められ、高い地位ほど日本人占有率が高かった。これらの日本内地人は日本国籍を有したままである。俸給、税率面でも日本人が優遇された。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。これに対し、石原莞爾は強く批難していた。しかし、台湾人(満洲国人)の謝介石は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど[70]、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。しかし、これも日本に従順である事が前提で、初代首相の鄭孝胥も関東軍を批判する発言を行ったことから、半ば解任の形で辞任に追い込まれている。
省長等の地方長官は建国当初は現地有力者が任命される事が多かったが、これも次第に日本人に置き換えられていった。
選挙・政党
憲法に相当する組織法には、一院制議会として立法院の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、満洲国協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、実質的に民意を汲み取る機関として期待された。
法制度
憲法に相当する組織法や人権保障法をはじめ、民法や刑法などの基本法典について、日本に倣った法制度が整備された。当時の日本法との相違としては、組織法において、各閣僚や合議体としての内閣ではなく、首相個人が皇帝の輔弼機関とされたこと、刑法における構成要件はほぼ同様であるが、法定刑が若干日本刑法より重く規定されていること、検察庁が裁判所から分離した独自の機関とされたことなどが挙げられる。
標準時
満洲国版図では日露中の支配域ごとに異なる標準時が用いられていたが、満洲国は東経120度を子午線とし、UTC+8を標準時として統一した。1937年1月1日に日本標準時に合わせてUTC+9に変更された[71]。変更後の子午線は東経135度となり、満洲国内を通っていない。
外交
外交関係
日本は建国宣言が出されて約半年後の1932年9月に承認し、エルサルバドルとコスタリカは1934年と早期に承認した。
バチカンは1934年2月20日に吉林駐在司教ガスペーを満洲国におけるローマ教皇庁代表に任命し、その旨を1934年4月18日にガスペーより外交部大臣・謝介石宛の書簡によって伝えた。カトリック教団は満洲事変以前から満洲で活動しており、北平大司教の管轄下に置かれていたが、満洲国成立により教区を中国から分離させ、吉林駐在司教ガスペーが管轄することを決定した。これを以って、事実上の満洲国承認と考えられており、当時は「宗教的承認」とも称されていた。但し、バチカンは満洲国に外交使節団を派遣することはなく、公館も開設されなかった。
エチオピア侵略で経済制裁を受け国際連盟を脱退したイタリアは、1937年12月に承認した。
ドイツは1936年に日本と防共協定を結んでいたが、一方で当初は満洲国承認は行わず、中独合作で中華民国とも結ばれていたこともあり極東情勢に不干渉の立場をとっていた。しかし防共協定が日独伊三国防共協定になった翌年の1938年2月に承認した。さらに、ドイツ側の希望により同年5月満独修好条約が締結された。
第二次世界大戦の勃発後にもフィンランドをはじめとする枢軸国、タイなどの日本の同盟国、クロアチア独立国やスペインなどの枢軸国の友好国、ドイツの占領下にあったデンマークなど、合計20か国が満洲国を承認した(1939年当時の世界の独立国は60か国ほどであった)。
外交活動
満洲国は上記の国のうち、日本と南京国民政府に常駐の大使を、ドイツとイタリアとタイに常駐の公使を置いていた[83]。1932年(昭和7年)、東京市麻布区桜田町50番地(現在の東京都港区元麻布3丁目4番33号)の後藤一蔵伯爵邸を27万円で取得し、翌1933年(昭和8年)、満洲国代表公署(後の大使館)が正式に移転した。ここは日本国と中華民国との間の平和条約の締結後に中華民国大使館となり、日中国交正常化後に中華人民共和国大使館に代わった[84][注釈 11]。
1941年(康徳8年)にはハンガリーやスペインとともに防共協定に加わっている。一方、日独伊三国同盟には加盟せず、第二次世界大戦においても連合国への宣戦布告は行っていない。しかしながら日本と同盟関係を結び日本軍(関東軍)の駐留を許すほか、軍の主導権を握る位置に日本人が多数送られていた上に、軍備の多くが日本から提供もしくは貸与されているなど、軍事上は日本と一体化しており実質的には枢軸国の一部であったとも解釈できる[誰によって?]。
また、経済部大臣の韓雲階を団長にした「満洲帝国修好経済使節団」がイタリアやバチカン、ドイツやスペインなどの友好国を訪問し、教皇ピウス12世やベニート・ムッソリーニ、アドルフ・ヒトラーらと会談している。また1943年(康徳10年)に東京で開催された大東亜会議にも張景恵国務総理大臣が参加し、タイや自由インドなど各国の指導者と会談している[85]。
外交上の交渉接点があった諸国
満洲国は正式な外交関係が樹立されていない諸国とも事実上の外交上の交渉接点を複数保有していた。奉天とハルピンにはアメリカとイギリスの総領事館、ハルピンにはソ連とポーランドの総領事館など13の総領事館が設置されていた。
ソビエト連邦とは満洲国建国直後から事実上の国交があり、イタリアやドイツよりも長い付き合いが存在した[81]。満洲国が1928年の「ソ支間ハバロフスク協定」にもとづき在満ソビエト領事館の存続を認めるとソ連は極東ソ連領の満洲国領事館の設置を認め、ソ連国内のチタとブラゴヴェシチェンスク[86]に満洲国の領事館設置を認めた[37]。さらに日ソ中立条約締結時には「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重する声明を発するなど一定の言辞を与えていたほか、北満鉄道讓渡協定により北満鉄道(東清鉄道から改称)を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉を行っていた。
また、満洲国を正式承認しなかったドミニカ共和国やエストニア、リトアニアなども満洲国と国書の交換を行っていた。このほか、バチカン(ローマ教皇庁)は、教皇使節(Apostolic delegate)を満洲国に派遣していた。
軍事
満洲国の国軍は、1932年(大同元年)4月15日公布の陸海軍条例(大同元年4月15日軍令第1号)をもって成立した。日満議定書によって日本軍(関東軍)の駐留を認めていた満洲国自体の性質上もあり、「関東軍との連携」を前提とし、「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、軍隊というより関東軍の後方支援部隊、準軍事組織や国境警備隊としての性格が強かった。
後年、太平洋戦争の激化を受けた関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、ソ連対日参戦の際は所轄上部機関より離反してソ連側へ投降・転向する部隊が続出し、関東軍の防衛戦略を破綻させた。
経済
政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、日中戦争(日華事変)による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を排するため、一業界につき一社を原則とした。
三井財閥や三菱財閥の財閥系企業をはじめとする多くの日本企業が進出したほか、国交樹立していたドイツやイタリアの企業であるテレフンケンやボッシュおよびフィアットも進出していた。なお、日産コンツェルンは1937年(康徳4年)に持株会社の日本産業を満洲に移転し、満洲重工業開発(満業)を設立している。さらに国交のないアメリカの大企業であるフォード・モーターやゼネラルモーターズおよびクライスラーやゼネラル・エレクトリック等、イギリスの香港上海銀行なども進出し、1941年7月に日英米関係が悪化するまで企業活動を続けた。
エネルギー
三菱とアメリカ合衆国のアソシエイテッド石油(Associated Oil)は1931年に合弁で三菱石油を設立し、三菱石油は1934年(昭和9年)2月、資本金500万円で大連に満洲石油を設立し、翌年1月に大連製油所が建設。1936年には、満州石油と渤海石油(Pohai Petroleum Company)が共同で天津の大華火油(Ta Hua Petrorium、1932年設立)を買収するなど事業を拡大し、1938年には子会社として蒙彊石油(もうきょうせきゆ)も設立した。
また日本帝国は、北樺太での石油試掘と同様に、ジャライノールや阜新で油脈の試掘を行っていたが、そのことは当時は軍事機密であった。滅亡後の1950年代に大慶油田が見つかるが、当時発見には至らなかった。
通貨
法定通貨は満洲中央銀行が発行した満洲国圓(圓、yuan)で、1圓=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、同じく法幣の意味をもつ満洲国の通貨は「国幣」と表記して区別した。中華民国の銀圓・法幣(及び現在の人民元、台湾元、香港元)と同様、漢字で「元」と表記したが、満洲国内の貨幣法では、日本国と同様に「圓」(円)の表記が採用された。
貨幣法(教令第25号)の公布は、満洲国が成立した同年(1932年)6月11日である。 金解禁が世界的な流れとなる中で日本では金解禁が行われていたが、通貨は中華民国と同じく銀本位制でスタートし、現大洋(袁世凱弗、孫文弗と呼ばれた銀元通貨)と等価とされたが、1935年11月に日本円を基準とする管理通貨制度に移行した。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の朝鮮券も使用されていたが、1935年(昭和10年)11月4日に日本政府が「満洲国の国幣価値安定及幣制統一に関する件」を閣議決定したことにより、満洲国内で流通していた日本側の銀行券は回収され、国幣に統一された。
満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947年に中華民国中央銀行が発行した東北九省流通券(東北流通券)に交換され、流通停止となった。
満洲国建国以前の貨幣制度は、きわめて混乱していた。すなわち銅本位の鋳貨(制銭、銅元)および紙幣(官帖、銅元票)、銀本位の鋳貨(大洋銭、小洋銭、銀錠)および紙幣(大洋票、小洋票、過爐銀、私帖)があり、うち不換紙幣が少なくなかった。ほかに外国貨幣である円銀、墨銀、日本補助貨、日本銀行券、金票(朝鮮銀行券)、鈔票(横浜正金銀行発行の円銀を基礎とした兌換券)などが流通し、購買力は一定せず、流通範囲は一様でなかった。満洲国建国直後に満洲中央銀行が設立されるとともに旧紙幣の回収整理が開始され、1935年(康徳2年)8月末までにほとんどすべてが回収された。
こうして貨幣は国幣に統一され、鈔票の流通は関東州のみとなり、その額は小さく、金票は1935年(康徳2年)11月4日の満洲国幣対金円等値維持に関する日満両国政府による声明以来、金票から国幣に換えられることが増えて、満鉄、関東州内郵便局および満洲国関係の諸会社の国幣払実施とあいまって国幣の使用範囲は広がった。国幣は円単位で、純銀 23.91g の内容を有すると定められたが、本位貨幣が造られないためにいわば銀塊本位で、兌換の規定が無いために変則の制度であった。
貨幣は百圓、十圓、五圓、一圓、五角の紙幣、一角、五分、一分、五厘の鋳貨(硬貨)が発行され、紙幣は無制限法貨として通用された。紙幣は満洲中央銀行が発行し、正貨準備として発行額に対して3割以上の金銀塊、確実な外国通貨、外国銀行に対する金銀預金を、保証準備として公債証書、政府の発行または保証した手形、その他確実な証券または商業手形を保有すべきことが命じられた。後に鋳貨の代用として一角、五分の小額紙幣が発行された。
やがて軍の軍費要求はもとより私用同然の物資調達を安易にこれに頼ろうとする日本人官吏層の堕落等から、満洲中央銀行は実体としての正貨準備と関係なく様々な便法を駆使して紙幣を濫発、インフレを急速化させ、住民を困窮させていくことになる。もともと経済力では中国が日本より上回っていると見られていたこと、中国には英国からの経済支援があったこともあるが、日中戦争中に同様な現象が中国本土においても惹き起こされ、これは日本軍が勝っても日本側の法幣や軍票の値打ちは上がらないといわれる事態の一因となっている。
郵政事業
中華郵政が行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「満華通郵切手」が発行されていた。
同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手[95]も多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、1935年の「皇帝訪日紀念」や1942年の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。
1944年の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。郵便貯金事業も行っており、1941年には「貯金切手」も発行している。
満洲国で最後の発行となった郵便切手は、1945年5月2日に発行された満洲国皇帝の訓民詔書10周年を記念する切手である。予定ではその後、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手が発行を計画されていたが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。だが第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。
アヘン栽培
日本は内地及び朝鮮を除いてアヘン(阿片)専売制と漸禁政策を採用しており、満洲地域でもアヘン栽培は実施されていた。名目上はモルヒネ原料としての薬事処方方原料の栽培だが、これらアヘン栽培が馬賊の資金源や関東軍の工作資金に流用され、上海などで売りさばかれた。
1932年(大同元年)に阿片法(大同元年11月30日教令第111號)が制定され、アヘンの吸食が禁止された。ただし未成年者以外のアヘン中毒者で治療上必要がある場合は、管轄警察署長の発給した証明書を携帯した上で政府の許可を受けた阿片小売人から購入することができた。
交通・通信
鉄道
日本の半官半民の国策会社・南満洲鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した東清鉄道南満洲支線を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。同社は満洲国内における鉄道経営を中心に、フラッグ・キャリアの満洲航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラストラクチャー整備も行った。
新京〜大連・旅順間を本線として各地に支線を延ばしていた。「超特急」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車「あじあ」の運行など、主に日本から導入された南満洲鉄道の車両の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。
一方、満洲国成立前から満鉄に対抗して中国資本の鉄道会社が満鉄と競合する鉄道路線の建設を進めていた。これらの鉄道会社は、満洲国成立後に公布された「鉄道法」に基づいて国有化され、満洲国有鉄道となった。しかし満洲国鉄による独自の鉄道運営は行われず、即日満鉄に運営が委託されて、実際には満洲国内のほぼすべての鉄道の運営を満鉄が担うことになった。新規に建設された鉄道路線、1935年にソビエト連邦との交渉の末に満洲国に売却された北満鉄路(東清鉄道)など私鉄の接収・買収路線も全て満洲国鉄に編入され、満鉄が委託経営を行っていた。特に新規路線は建設から満鉄に委託と、「国鉄」とは名ばかりで全てが満鉄にまかせきりの状況であった。この他にも満鉄は朝鮮半島の朝鮮総督府鉄道のうち、国境に近い路線の経営を委託されている。車両などは共通のものが広く使われていたが、運賃の計算などでは満鉄の路線(社線)と満洲国鉄の路線(国線)に区別が設けられていた。しかしこれも後に旅客規程上は区別がなくなり、事実上一体化した。
満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、沿線各駅一帯に広大な南満洲鉄道附属地(満鉄附属地)を抱えていた。満鉄附属地では満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄がこれらの行政を行っていた。首都新京特別市(現在の長春市)や奉天市(現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地だった。都市在住の日本人の多くは満鉄附属地に住み、日本企業も満鉄附属地を拠点として治外法権の特権を享受し続け、満洲国の自立を阻害する結果となったため、1937年に満鉄附属地の行政権は満洲国へ返還された。
満鉄・国鉄の他にも、領内には小さな私鉄がいくつも存在した。これらの中には国有化され、改修されて満洲国鉄の路線となったものや、満洲国鉄が並行する路線を敷設したために補償買収されてから廃止になったものもある。
1940年前後から、満鉄が請負の形で積極的にこれら私鉄の建設に携わるようになり、戦争末期の頃には相当数の路線が満鉄の手によって建設されるようになっていた。ただしその多くが竣工する前、竣工しても試運転をしただけの状態で満洲国崩壊に遭って建設中止となり、未成線になっている。
この他、首都・新京を始めとして奉天・哈爾濱など主要都市の市内には路面電車が敷設されていた。新京及び奉天では地下鉄建設計画もあったが、実現しなかった[96][97]。
航空
1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたフラッグ・キャリアの満洲航空が、新京飛行場を拠点に満洲国内と日本(朝鮮半島を含む)を結ぶ定期路線を運航していた。
中島AT-2やユンカースJu 86、ロッキード L-14 スーパーエレクトラなどの外国製旅客機の他にも、自社製の満洲航空MT-1や、ライセンス生産したフォッカー スーパーユニバーサルなどで満洲国内の主都市を結んだ他、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航することを目的とした系列会社である国際航空を設立した。
満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。
通信・放送
電話・ファックスなどの通信業務やラジオ放送業務も、1933年に設立された満洲電信電話(MTT)に統合された。放送局はハルビン、新京、瀋陽などに置かれており[98]、ロシア人を中心に作られたハルビン交響楽団、後に日本人を中心に作られた新京交響楽団による音楽演奏も毎週これら放送局だけでなく、日本租借地にある大連放送局へも中継された。聴取者から聴取料を徴収していたが、内地に先駆けて広告も扱っており、また海外へ外国語による放送も行われていた。
言語
「満語」と称された標準中国語と日本語が事実上の公用語として使用された。軍、官公庁においては日本語が第一公用語であり、ほとんどの教育機関で日本語が教授言語とされた。モンゴル語、ロシア語などを母語とする住民も存在した。また、簡易的な日本語として協和語もあった。1938年1月以降、中国語(満語)、日本語、モンゴル語(蒙古語)が「国語」と定められ授業で教えられた。
大本の教祖である出口王仁三郎は布教活動の一環としてエスペラントの普及活動も行っており、満洲国の建国に際し、信奉者である石原莞爾の協力を得てエスペラントを普及させる計画があったが実現しなかった。
教育
満洲国の教育の根本は、儒教であった[101]。教育行政は、中央教育行政機関は文教部であり、文教部大臣は教育、宗教、礼俗および国民思想に関する事項を掌理した。大臣の下には次長が置かれ、さらに部内は総務、学務および礼教の3司に分けられ、それぞれ司長が置かれた。総務司は秘書、文書、庶務および調査の4科に、学務司は総務、普通教育および専門教育の3科に、礼教司は社会教育および宗教の2科に分けられ、それぞれ教育行政を掌した。視学機関は、督学官が置かれた。地方教育行政は、各省では省公署教育庁が、特別市では市政公署教育科が、各県では県公署教育局が、それぞれ管内の教育行政を司った。
最高学府として国立大学の建国大学の他、大同学院、ハルピン学院などが設置された。
小学校は、修業年限は6年で、初級小学校4年+高級小学校2年とするのが本体であったが、初級小学校のみを設けることも認められた。教育科目は、初級小学校は修身、国語、算術、手工、図画、体操および唱歌であり、高等小学校は、初級小学校のそれのほかに歴史、地理および自然の3科目が加えられ、その地方の特状によっては日本語をも加えられた。後に、初級小学校は国民学校、高級小学校は国民優級学校にそれぞれ改称された。教科書は、建国以前に用いられていた三民主義教科書に代わってあらたに国定教科書が編纂された。僻地では、寺子屋ふうの「書房」がなおも初等教育機関として残されていた。
また、中国人の子弟を対象とした「公学堂」という小学校が、旅順、大連など満州各地に設置された[102]。公学堂は日本の植民地学校の中で中国人を外国人として扱った唯一の学校であり、関東州では1903年から、満州附属地では満鉄が1909年から直接運営したため、それぞれ独自の教則を持っていた[102]。満鉄における1923年以降の教育課程は、初等科4年、高等科2年で、満6歳以上の中国人に入学資格があり、科目は日本語が中心だった[102]。実際には公学堂で学ぶ日本人生徒も、小学校で学ぶ中国人生徒もあり、運動会などのスポーツ大会では合同で競った[103]。教員は内地の師範学校卒業生で小学校訓導経験者が派遣されたほか、現地採用の中国人助教諭がいた[102]。教員には佐藤慎一郎、菊池秋雄、渡部精元など、生徒には爵青、疑遅などがいる。
中学校は、初級および高級の2段階で、修業年限はそれぞれ3年で、併置されるのが原則で、初級中等には小学校修了者を入学させた。教科目は初級は国文、外国語、歴史、地理、自然科、生理衛生、図画、音楽、体育、工芸(農業、工業、家事の1科)および職業科目で、一定範囲の選択科目制度が認められ、高級は普通科、師範科、農科、工科、商科、家事科その他に分かれ、その教育は職業化されていた。
師範教育は、小学校教員は、省立師範学校および高級中学師範科で、養成された。省立師範学校は修業年限3年、初級中学校卒業者を入学させた。普通科目のほかに教育、心理その他を課し、最上級の生徒は付属小学校その他の小学校で教生として教育実習を行った。ほか実業教育機関として職業学校があった。
ただし、日本人のほとんどは、満鉄が管轄する付属地の日本人学校に通っていた。1937年の治外法権撤廃により付属地が消滅した後も、教育、神社、兵事に関する事項は日本の管轄に残され、日本人が通う学校は駐満全権大使が管轄し、日本国内に準じて運営された。この方針は日本人開拓団の学校にも適用され、日本人学校は満洲国の教育制度の外に置かれていた。
文化
映画
1928年に南満洲鉄道が広報部広報係映画班、通称「満鉄映画部」を設け、広報(プロパガンダ)用記録映画を製作していた。その後1937年に設立された国策映画会社である「満洲映画協会」が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。
漫画
田河水泡の当時の人気漫画「のらくろ」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜のため、大陸建設の夢のため、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。
序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、東洋は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった朝鮮生まれの犬、シナ生まれの豚、満洲生まれの羊、蒙古生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していたところの「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。
雑誌
新京の藝文社が1942年1月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満洲公論」に改題。
服装
多民族国家・満洲国では、各民族の衣装が混在していた。
一方、後任の張景恵は、「協和(会)服」と呼ばれる満洲国協和会の公式服を着用することが多かった。国民服に似たデザインと色だが、国民服より先に考案された。階層によって材質・デザインに違いがあったとされるが、上は国務総理大臣から下は一般学生まで、民族を問わず広く着用され、石原莞爾や甘粕正彦のような日本人の軍人・官僚・有力者も着用した。協和服には、飾緒のような金モールと、満洲国国旗と同じ色をした五色の房からなる儀礼章が付属した。ループタイのように首からかけて玉留めで締め、左胸に房をかける形で佩用する。慶事には房の赤と白、弔事には黒と白の部分を強調することで対応した。
なお、宮廷行事等では、日本の大礼服と酷似したものが用いられた。
スポーツ
1927年には同志社大学ラグビー部が遠征に来て8試合行った[106]。1928年1月に満州代表による日本遠征が行われ明治大学などと対戦し、同年には満州ラグビー協会が誕生し、日本の西部ラグビー協会(西日本担当、現在の関西ラグビーフットボール協会と九州ラグビーフットボール協会)の支部となった。
1932年に満洲国体育協会が設立された。満洲国の国技はサッカーであり[108]、満洲国蹴球協会やサッカー満洲国代表チームも結成されている。野球でも、日本の都市対抗野球大会に参加したチームがあり、日本プロ野球初の海外公式戦として、1940年に夏季リーグ戦を丸々使って満洲リーグ戦が行われている。
建国当初の満洲国ではオリンピックへの参加も計画されており、1932年5月21日に満洲国体育協会はロサンゼルスオリンピック(1932年7月開催)への選手派遣を同オリンピックの組織委員会に対して正式に申し込んでいるが、結局参加は出来なかった。ちなみに、派遣する選手としては陸上競技短距離走の劉長春や、中距離走の于希渭(謂)などが挙げられていた(ただし劉は満洲国代表としての出場を拒否し、中華民国代表として出場している)。
1936年に開催されたベルリンオリンピックへの参加も見送られたが、1940年に開催される予定であった東京オリンピックには選手団を送る予定であった。しかし、日中戦争の激化などを受けて同大会の開催が返上されたため、オリンピックに参加することはできなかった。なおその後、実質的な代替大会である東亜競技大会が開催されている。
音楽
満洲国へは多くの日本人音楽家が渡り、西洋音楽の啓蒙活動を行った。満洲国建国以前よりこの地には白系ロシア人を中心としたハルビン交響楽団が存在したが、これに加えて日本人を中心に新京交響楽団が結成され、両者は関東軍の後援を受けてコンサートや放送のための演奏を行った。1939年には「新満洲音楽の確立及び近代音楽の普及」を目的として新京音楽院が設立された。
園山民平は音楽教育や満洲民謡の収集・研究に尽力した他、満洲国国歌を作曲した。その他、指揮者の朝比奈隆、作曲家の太田忠、大木正夫、深井史郎、伊福部昭、紙恭輔などの音楽家が日本から短期間招かれ、例えば太田は「牡丹江組曲」、大木は交響詩「蒙古」、深井は交響組曲「大陸の歌」、伊福部は音詩「寒帯林」、紙は交響詩「ホロンバイル」を作曲した。
崔承喜は1940年代当時、世界的に有名な舞踏家であるが、当時の満洲、および中国各地を巡業していた。
国花
満洲国の国花は「蘭」とされることが多いが、「蘭」は「皇室の花(ローヤル・フラワー)」であり、日本における菊に相当するものであった。いわゆる「国花(ナショナル・フラワー)」は高粱であり、1933(大同2)年4月に決定されたとの記録がある。
現在
満洲国の消滅後は、満洲族も数ある周辺少数民族の一つと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内で排除されている(「満洲族」を「満族」と呼び、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど)。例外的に地名として満洲里[116]がその名をとどめている程度である。また、「中国共産党満洲省委員会」のように歴史的な事柄を記述する場合、満洲という言葉は変更されずに残されている。今日、満洲国の残像は歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にのみ存在する。
参考:『国際連盟』Wikipediaより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%A2%E7%8C%AE%E3%81%A8%E8%84%B1%E9%80%80%E3%81%BE%E3%81%A7
日本の貢献と脱退まで
(1938年(昭和13年)11月5日、天羽英二国際会議帝国事務局長が国際労働機関を含む関連機関への協力中止を国際連盟に通達したことを報じた官報)
大日本帝国(日本)は脱退まで常任理事国であり、国際連盟事務局次長には新渡戸稲造、杉村陽太郎が選出されるなど中核的役割を担っていた。国際連盟に大日本帝国が加入した内閣総理大臣は原敬(原内閣)であった。日本は、理事国として毎年分担金(1933年時点で60万円※現在価値で約60億円)[230] を拠出する必要があった。
柳条湖事件を契機に、大日本帝国が満洲全土を制圧すると(満洲事変)、清朝最後の皇帝・溥儀を執政にする満洲国を建国した。これに抗議する中華民国は連盟に提訴。連盟ではイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン(リットン卿)を団長とするリットン調査団を派遣する。リットンは「日本の満洲における“特殊権益”は認めたが、満洲事変は正当防衛には当たらず、日本軍は満鉄附属地域まで撤退した後、日本を含めた外国人顧問の指導下で自治政府を樹立するようにされるべきである」と報告書に記した。これが「リットン報告書」である。
1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟特別総会においてリットン報告が審議され、この報告書を元とした国際連盟特別総会報告書が採択され、表決の結果は賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム = 現タイ王国)、投票不参加1国(チリ)であり、国際連盟規約15条4項および6項 についての条件が成立した。この表決および同意確認直後、席上で松岡洋右日本全権は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、立場を明確にして総会から退場した。
その後、同年3月27日、大日本帝国は正式に国際連盟に脱退を表明し、同時に脱退に関する詔書が発布された。なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年(昭和10年)3月27日となった。
脱退宣言ののちの猶予期間中、1935年まで大日本帝国は分担金を支払い続け、また正式脱退以降も国際労働機関(ILO)には1940年(昭和15年)まで加盟していた(ヴェルサイユ条約等では連盟と並列的な常設機関であった)。その他、アヘンの取締りなど国際警察活動への協力や、国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。
しかし、1938年(昭和13年)9月30日に国際連盟が「規約第16条の制裁発動」が可能であることを確認する決議をすることで、日本政府はこれらの「連盟諸機関に対する協力」の廃止も決定した。国際連盟から受任していた南洋諸島の委任統治については、1945年(昭和20年)9月2日に第二次世界大戦でポツダム宣言受諾により敗戦するまで、引き続き大日本帝国の行政下におかれた。
参考:『室戸台風』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E6%88%B8%E5%8F%B0%E9%A2%A8
室戸台風(むろとたいふう)は、1934年(昭和9年)9月21日に高知県室戸岬付近に上陸し、京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした台風。記録的な最低気圧・最大瞬間風速を観測し、高潮被害や強風による建物の倒壊被害によって約3,000人の死者・行方不明者を出した。枕崎台風(1945年)、伊勢湾台風(1959年)と並んで昭和の三大台風の一つに数えられる。
人的被害は、死者2,702人、不明334人、負傷者14,994人。家屋の全半壊および一部損壊92,740棟、床上・床下浸水401,157棟、船舶の沈没・流失・破損27,594隻という被害を出した。
9月21日午前5時頃に高知県室戸岬西方に上陸。上陸時の気圧として911.6ヘクトパスカル(684水銀柱ミリメートル)という数値を観測した。台風は淡路島付近を通過し、午前8時頃に阪神間に再上陸、京都付近を経て若狭湾に出た。台風進路右側では強風のため建造物の倒壊被害が大きく、特に木造校舎の倒壊により児童・教員など学校関係者に多くの犠牲者が出た。また、大阪湾岸では高潮により大きな被害が出た。京阪神地方における被害は「関西風水害」の名で呼ばれる。
因みに、室戸台風には台風番号が付けられていない。台風番号が導入されたのは1953年のことである。このため、室戸台風も含めてその前に発生した台風には台風番号が一部の例外を除いて存在しない。
観測記録
室戸岬上陸時の中心気圧は911.6ヘクトパスカルであり、日本本土に上陸した台風の中で観測史上最も上陸時の中心気圧が低い台風である。これは同緯度の台風における中心気圧の最低記録として、いまだに破られていない(ただし、台風の正式な統計は1951年(昭和26年)から開始されたため、この記録は参考記録扱いとされる)。
当時、中央気象台付属室戸測候所では最大瞬間風速60m/sを観測したのを最後に観測機が故障し、正確な数値は分かっていない。なお、建築基準法の「耐風性」は2000年(平成12年)に改正されるまで、速度圧の基準が高さ15mにおける室戸台風の推定最大瞬間風速約63m/sを基に定められていた。
参考:『二・二六事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター事件。
皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、昭和天皇は激怒し、最終的に青年将校は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。
概要
昭和初期から、陸軍では統制派と皇道派の思想が対立し、また、海軍では艦隊派と条約派が対立していた。統制派の中心人物であった永田鉄山らは、1926年(大正15年/昭和元年)には第1次若槻内閣下で、諸国の国家総動員法の研究を行っていた永田は、当時陸軍歩兵中佐であった。後に首相となる東條英機も統制派である。
一方、その後の犬養内閣は、荒木貞夫陸軍大将兼陸軍大臣や教育総監真崎甚三郎陸軍大将、陸軍軍人兼貴族院議員の菊池武夫を中心とする、ソビエト連邦との対立を志向する皇道派を優遇した。皇道派の青年将校(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)のうちには、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えている元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し諸々の政治問題が解決すると考え、「昭和維新、尊皇斬奸」などの標語を掲げる者もあった。
しかし、満洲事変に続く五・一五事件ののち、斎藤内閣は青年将校らの運動を「脅しが効く存在」として暗に利用する一方、官僚的・立法的な手続により軍拡と総力戦を目指す統制派(ソ連攻撃を回避する南進政策)を優遇した。行政においても、1934年には司法省がナチス法を喧伝しはじめ[4]、帝国弁護士会がワシントン海軍軍縮条約脱退支持の声明を行い、陸軍大臣には統制派の林銑十郎陸軍大将が就任し、皇道派を排除しはじめた。1935年7月、皇道派の重鎮である真崎が辞職勧告を受けるに至っては、陸軍省内で陸軍中佐相沢三郎による「相沢事件」が発生し、当時は陸軍軍務局長となっていた統制派主導者の永田鉄山が死亡した。岡田内閣や林ら陸軍首脳らはこれに対し、皇道派将校が多く所属する第一師団の満州派遣を決定する。
皇道派の青年将校たちは、その満州派遣の前、1936年(昭和11年)2月26日未明、部下の下士官兵1483名を引き連れて決起した。決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。元首相兼海軍軍人斎藤実は殺害されたが後継の岡田啓介首相は無傷であった。
さらに将校らは、林銑十郎ら陸軍首脳を通じ、昭和天皇に「昭和維新の実現」を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。自ら「近衛師団を率いて鎮圧するも辞さず」との意向を示す。これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「反乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。
叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの考えが斟酌されることはなく廣田内閣の陸軍大臣寺内寿一の下、一審制裁判により、事件の首謀者ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間思想家の北一輝らが銃殺刑に処された。これをもってクーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃された。
参考:『2・26事件とは? 日本を揺るがした陸軍将校のクーデター』NHKアーカイブス戦争を伝えるミュージアム https://www.nhk.or.jp/archives/sensou/special/warmuseum/11/
参考:『【二・二六事件】陸軍将校によるクーデター事件 地形図から見てみよう』日曜アカデミー(youtubeチャンネル) https://youtu.be/jkxGShh1Ae8?si=WIwTFmbTQi7KLN_N
参考:『西安事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
西安事件(せいあんじけん)は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国陝西省長安県(現:西安市)で起きた、張学良・楊虎城らによって蔣介石国民政府軍事委員会(中国語版)委員長が拉致・監禁された事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細は未だ不明だが、この事件を機に第一次国共内戦が終了し、第二次国共合作が成立した。
参考:『杉原千畝』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D
1941年3月国民学校令が公布され,同年4月からそれ以前の小学校が国民学校に改められた。初等科6年,高等科2年で,ほかに特修科 (1年) をおくこともできた。「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とした。この名称はドイツのフォルクスシューレによったものであった。教科の編成を改め,教科書も新しく編集された。第2次世界大戦後は 47年の新学制により,初等科は新制の小学校に改められ,高等科は新制の中学校設置の母体となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典