2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
国宝天守を含む現存天守12城の出題は頻発。
参考記事→『現存する天守は12カ所 そのうち国宝は姫路、犬山、松本、彦根、松江の5城 名古屋城天守は戦災で焼失』中日スポーツ東京中日スポーツ https://www.chunichi.co.jp/article/964449
『国宝五城』姫路城HP ほかにもある国宝のお城・姉妹城より
日本で天守が国宝に指定されている5つの城の総称が「国宝五城」
松江城(島根県)姫路城(兵庫県)彦根城(滋賀県)犬山城(愛知県)松本城(長野県)
『国宝天守が5城に!』国宝松本城HP 2015年5月20日より
2015年5月16日、島根県の松江城が国宝の等身を受けました。
これにより、国宝天守は松本城場を含む5城となります!
*5城でHP及びインスタグラムを開設しています。
インスタグラム→https://www.instagram.com/kokuho_gojo.official/
*5城それぞれの公式HP
◎松本城HP→https://www.matsumoto-castle.jp/
◎犬山城HP→https://inuyama-castle.jp/
◎彦根城HP→https://hikonecastle.com/
滋賀県彦根市にある平山城。別名金亀城(こんきじょう)。井伊氏の居城。慶長8(1603)年井伊直勝(→彦根藩)が遺領を継ぐと翌年築城に着手し,元和8(1622)年井伊直孝が全工事を完成した。彦根山上に本丸,西の丸,鐘の丸,山下に二の丸,三の丸を置き,三方は琵琶湖に臨む。南東に三重の堀をめぐらし,周囲約 4kmの規模をもつ。特に天守閣は京極高次の大津城からの移築で 3層3階,全国にもまれな技巧をもつ構造となっている。国の特別史跡に指定され,天守閣や多聞櫓(たもんやぐら)などは国宝。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
彦根城公式HP→https://hikonecastle.com/
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島根県松江市殿町にあった平山城(ひらやまじろ)。江戸時代初期に幕府の山陰側の拠点として築かれた城。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。関ヶ原の戦いの戦功により出雲・隠岐24万石を封じられた堀尾吉晴(ほりおよしはる)は、月山富田城(がっさんとだじょう)(安来市)に入城したが、軍事・経済の中心に適さないとして、1607年(慶長7)に松江の亀田山に築城を開始した。松江城が完成したのは1611年(慶長16)、5層六重の天守閣を中心に6基の櫓(やぐら)を構えた近世城郭である。天守の鉄砲狭間(てっぽうはざま)、軒裏の石落とし、地階には籠城用の大井戸や兵糧蔵など、実戦を想定して築城されたことが随所にみられる。堀尾氏は3代忠晴に世継ぎがなく途絶え、京極忠高(きょうごくただたか)が入城したが嫡子がなく断絶。1638年(寛永15)信州松本から松平直政(まつだいらなおまさ)が入封し、以来松平氏が10代230年、明治維新まで続いた。1875年(明治8)有志らの奔走で天守閣は解体を免れたが、それ以外は取り払われてしまった。現存する天守閣の中で、姫路城、松本城、松江城だけが5層の天守閣を持っている。旧態をよく残し、山陰地方における代表的な近世城郭として国史跡に指定され、天守閣は国の重要文化財に指定された。天守、石垣、土塁(どるい)、櫓台、堀などの遺構が整備され、発掘調査などをもとに2001年(平成13)、南櫓、中櫓、太鼓櫓が復元された。JR山陰本線松江駅からバスで県庁前下車、徒歩10分。◇千鳥城とも呼ばれる。
出典 講談社日本の城がわかる事典
島根県松江市にある平山城。別名は千鳥城。慶長12(1607)年堀尾吉晴が築城に着手し,同 16年完成。縄張り(曲輪,堀などの配置)をしたのは小瀬甫庵という説もある。のち長く松平氏の居城。宍道湖に臨む亀田山の丘陵に壕をめぐらし,地下 1階,四重 5階の望楼風の素朴な天守閣を中心に本丸,二の丸,三の丸を擁し,6基の櫓(やぐら)をもつ。豪壮な石垣は往時を偲ばせる。2015年,天守閣が国宝に指定された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*松江城公式HP→https://www.matsue-castle.jp/
*『松江城執念の軌跡 国宝再指定を決めた「祈祷札」の発見 格下げから65年、ついに悲願達成』産経新聞 2015.6.17
記事中に昭和10年国宝保存法により国宝に一度は指定されながら、昭和25年の文化財保護法施行で国宝指定の基準が変わり、歴史的事実が判然としないなどの理由で重要文化財指定にとどまってしまった松江城。以後、署名を集め、陳情を繰り返すが、指定は覆らなかった。松江市は「松江城国宝化推進室」をもうけ、専門的に調査・分析を進め、松江城の天守創建年の決め手になる、祈祷札に懸賞金をかけるなど市民の協力を呼び掛けていたが、付近の松江神社で「慶長十六」と書かれた棟札を発見。地道な作業で札が打ち付けられていた場所を特定。文化庁の求める新知見の発見という条件をクリアし、無事国宝指定の運びとなった経緯が書かれている。
頻出。2019年日本地理。
姫路城公式サイト『世界遺産 姫路城』姫路市→ https://www.city.himeji.lg.jp/castle/category/10-2-0-0-0-0-0-0-0-0.html
参考: 世界文化遺産・国宝 姫路城 便覧 https://www.himejicastle.jp/
2024.09.30【城内のご見学について】
◆急な坂や階段・段差が多数あります
姫路城は江戸時代初期の平山城で、坂と階段が多く天守までの道のりは軽い山登りに匹敵します。
動きやすい服装でお越しください。
車いすでのご見学には、経験豊かな3名程度の介助者の随行がご本人の安全のために必要です。
また、天守や櫓にはエレベーターも無く、手摺があるものの非常に急で狭い階段になっております。
建物内は車いすでのご見学ができませんので予めご了承ください。
◆暑い時期は熱中症にご注意ください
クーラーなどの空調設備、エレベーター・エスカレーターは城内にはございません。
また、飲み物の自販機は改札入城口を入ってすぐのところにしかございません。
必ずお飲み物をご準備の上、ご入城ください。
◆まれにとげが刺さることがあります
天守などの建物内では靴を脱いでご見学いただきます。まれにとげが刺さる場合がありますので、上履きや靴下をご用意いただくと安心です。
また、建物入口に脱いだ靴を入れる袋をご用意しておりますが、環境保全のため出来るだけ各自で袋をご持参ください。
参考動画:『究極ガイド 2時間でまわる☆☆☆ 2時間でまわる姫路城』NHKオンデマンド https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2023130899SA000/?spg=P202300341400000
(聞き書き)
JR姫路駅を降りると姫路駅が見える。姫路城は日本の世界遺産第一号。天守の高さは石垣を含めると、46m。現存天守の中では最も大きい。櫓や石垣などお城の構造がしっかり残っているのが特徴。敵の侵攻を防ぐため、城内は迷路のようになっている。江戸時代には駅周辺に外堀があって外堀の中は武家屋敷群だった。
桜門橋。武士の姿をしていて一緒に写真に写ってくれるボランティアがいる。秀吉がまず姫路城を作った。
池田輝正(家康の娘婿)が姫路を治めることとなり、秀吉の姫路城を取り壊して新たに姫路城を作った。さらに城主が変わって隣の山を切り開き、広大な西の丸が作られた。姫路城は時代を重ねるにつれて大きくなっていった。
(1)
姫路城の門はかつて80以上あったという。:菱の門(石落とし。筋金(門の扉に鉄板))→三国堀(フォトスポット)(逆さ姫路城)(狭間(さま)から鉄砲・矢で撃たれる)(城内全部では997個現存)(縦長:弓、△・〇:鉄砲、穴によってねらう場所が違う)→いの門、右に進む道がある。敵を惑わせる→ろの門、分かれ道になっている→将軍坂、暴れん坊将軍に頻出したところから。→千田先生登場。信長・秀吉時代の城は板の壁で城を覆って渋を塗り、黒いお城だった。家康は白に消石灰(白しっくい)を塗って防火に努めた。白が家康時代の城。それで姫路城は映画やテレビドラマに江戸城としてよく出る。→ヘアピンカーブ(攻める側を惑わせる)→2種類の石垣。左野面積み、右打込接ぎ(はぎ)。池田輝正と秀吉の時代にそれぞれ作られた。しかし、その差は20年。驚きの進化。扇の勾配(上74度、下65度)も登場。扇の勾配は崩れにくくて敵は上りにくい。→にの門。2階建て。天井を外して2階から槍でさせる。L字に折れ曲がり、坂道。減速させる。→ほの門。土嚢で封鎖可能。屋根の瓦。軒丸瓦や滴水瓦に多くの家紋。歴代城主たちの家紋。揚羽蝶文:池田家。平家の紋。平家の子孫を自称した織田信長から譲り受けた。
池田家→本多家→松平家(奥平)→松平家(結城)→榊原家→酒井家。6家31人の入れ替わり。その数は全国最多。西国を抑える姫路城は徳川幕府にとって重要な場所だった。ゆえに幼少の城主はおかない。国替え。
剣酢漿草(けんかたばみ)文:酒井家。
源氏車文:榊原家。
姫路城は家紋入り瓦の展示場とも呼ばれる。
石垣に姥が石(金網がかかっている)。秀吉が石垣の石が足りなくて困っているときにおばあさんが自分の石臼を差し出した。秀吉は非常に喜び、この話を聞いた人々が我先に石を差し出して石垣ができたという伝説。秀吉は人たらし。(実際には秀吉時代の石垣ではないので作り話?=転用石からの話。姫路城では90個以上もあり、石棺などもある) 。
→水曲輪の坂道。登っていたはずなのになぜか下り坂。これもわな。→大天守の真下に。→せまい桝形。建物に囲まれていて集中攻撃される場所。→大天守の入り口。
(姫路城の内堀の中には姫路市立動物園。動物とお城が写せるフォトスポット。世界遺産の一部になったため大規模な改築ができない。しかしレトロな遊具のレトロなレジャー施設として人気がある。しかし、29年度には移転が決まっているらしい)
(2) 天守
入母屋破風や唐破風など多様な屋根が折り重なった華やかなつくり。外からは5階建てに見えるが、内部は地上6階、地下1階。の7層構造。大天守と3つの小天守(東小天守・乾小天守・西小天守)と繋がっている。連立式天守。鉄壁の防護力。
靴を脱いで大天守に入る。冬は冷えるので厚手の靴下を履いておくとよい。地下から入る。日が差し込まない。穴倉=倉庫として使うことを想定。木の枠の中に簀の子。水を流す→流し。横幅4m。簀の子越しに流れ、樋を通じて中庭に排出される仕組み。籠城を想定。厠。天守の中の厠は珍しく、現存は姫路城のみ。木製の便器の下には、大きな備前焼の壺が置かれている。姫路城の天守にはこのような厠が合計9つある。
階段を登る際には、急階段が多いのでリュックに入れると両手が使える。
1階には中央に大広間が一つと物置が三つある。武者走り(部屋の四方を囲む広い廊下)。
2階。壁一面にずらりと並んだ武具掛け。銃のレプリカが置かれている。他にも槍・弓矢の武具掛けなど、天守全体が武器庫となっている。竹くぎ。火縄銃の火縄をかけていたか。素早く使うために折って使うために折れやすい竹くぎになっている。
3階。武者隠し(がくし)。3階の4隅に。ただし、姫路城は不戦の城だったため、使われることは無かった。東西の大柱。直径およそ1m。樹齢100年以上のもみの木を使用。姫路城の構造の秘密がわかる。東の大柱は、通し柱で、地下から5階まで姫路城を串刺しにしている。耐震構造。震度4でも大天守の頂上の酒瓶も倒れなかった(阪神大震災)。400年間ずっと支えている。西の大柱は、2本の木がくぎも使わずにつなげられている。「相欠き吸付き独鈷引き」というつなぎかた。匠の技と言える。西の大柱は一度、天守が傾いた際に取り換えられている。
(傾いていた姫路城:実は築城直後から傾いていたという伝説。大工の頭・桜井源兵衛。妻が傾いていると指摘され、ショックのあまり、天守から身を投げた。実は設計ミスではなく、重みで石垣が陥没した。「東に傾く姫路のお城 花のお江戸を恋しがる」傾いているのは江戸時代から周知。時代がさがるほど、木材が腐ったりして傾きは大きくなった。昭和初期には大柱の先端が南東へ37センチも傾いていた。そのため、昭和の大修理が行われた。天守を全部解体して、腐った部分をすべて新しくするという大工事。西の大柱は清が腐っていたため、新しい柱に取り換えられた。15年もかかり、1から立て直したようだったので昭和の築城と呼ばれた。姫路城は常にどこか直しているが、それは修理のためだけでなく、この先も築城技術を途切れさせないための工夫である。)
4階はワンフロアの間仕切りの無い大きなスペース。石打棚。156㎝。登って火縄銃を討つための台。石打棚の部分には屋根があるため、窓を高く作ってある。窓に届くため、石打棚が必要だった。また屋根がある理由は、姫路城の見た目の美しさのため。破風が多い。美しさと機能性の見事な調和。
5階。大柱は5階まで。最上階は柱の上に乗っかっている。
6階。最上階。日が差し込む明るい空間。望遠鏡。窓が多い。お殿様のためのスペース。参勤交代から帰ると天守最上階から城下を見下ろしたという。当時は格子もなかった。
総構え。2万6千人が暮らした。最上階からは家島諸島・瀬戸内海・四国の山並みまで見える。船からも姫路城も見える。
西国の豊臣家ゆかりの大名たちは陸路だけでなく、海路も使用。姫路城はその往来も監視。周りの風景に紛れ込まない真っ白な姿がデモンストレーションの役割を果たした。反乱の気持ちをそぐ。最上階に長壁(おさかべ)神社。地元の神様を池田輝正が勧請。
下り階段は急なので気を付ける。
小天守を廻って外に出る。備前丸跡からは大天守が良く見える。写真スポット。
(3)
参考:『姫路城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E
姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。また、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。また、ユネスコの世界遺産(文化遺産)リストにも登録され、日本100名城[などに選定されている。別名は白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)。
参考:『姫路城』ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 https://kotobank.jp/word/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E-120878#w-120878
兵庫県姫路市本町にある平山城。別名,白鷺 (しらさぎ) 城。正平1=貞和2 (1346) 年に赤松貞範が築城したのに始まるという。以来,室町時代は赤松氏によって保たれ,戦国時代には小寺氏が在城した。豊臣秀吉が中国征伐の拠点として,天正8 (1580) 年ここに3層の天守閣を築いた。現在の規模にしたのは,慶長5 (1600) 年城主となった池田輝政で,その後入封した本多,松平,榊原の諸氏が三の丸,西の丸を改修し,寛延2 (1749) 年以来は酒井氏の居城として明治にいたった。城郭は,姫山を利用し,内・中・外の3重の堀をめぐらし,内・中・外の3重の郭からなり,東西約 1635m,南北約 1744mの広大なもの。内部は,本丸,二の丸,三の丸,西の丸からなり,本丸には,外部5層,内部6階の大天守と西,乾,東の3小天守を置き,これらを渡し櫓 (やぐら) で連絡させている。上下左右に多数の櫓,城門,土塀を配し,これに無数の狭間 (さま) を設けて防備を固くしてある。各櫓は千鳥破風 (はふ) や唐破風によって変化に富み,白漆喰 (しっくい) 塗りの白壁の総郭は一大美観を呈し,その構造とともに日本城郭史上の粋をなしている。城址は特別史跡,四つの天守閣および渡し櫓は国宝。 1993年世界遺産 (文化遺産) に登録されている。
姫路城公式HP→https://www.city.himeji.lg.jp/castle/
令和5年30周年。30周年記念事業→ https://www.city.himeji.lg.jp/worldheritage30th/
9/24まで普段は非公開であるエリアの6棟「乾小天守」「イの渡櫓」「ロの渡櫓」「ハの渡櫓」「東小天守」「折廻り櫓」を特別に公開中。
*2019年の出題の選択肢:白帝城は中国重慶市奉節県の長江三峡に新末後漢初の群雄公孫述が築いた城。白鳳城は『日本100名城』の一つ、伊賀上野城の別名。芙蓉城は同じく『日本100名城』の一つ、奈良県高市郡高取町にあった筒井順慶の城高取城の別名。
姫路城 2015年5月撮影(chiyorogi)
愛知県犬山市,木曾川南岸に屹立する平山城。白帝城ともいう。草創期のものは市の南方木下村にあり,木下城と称し,文明年間 (1469~87) 管領斯波義郷の家臣織田郷広が砦を設け,その子広近に守らせたが,斯波氏衰亡ののち,織田氏の支配下に入った。天文6 (1537) 年織田信康が城を現位置に移し,信長のとき柘植与一,次いで池田信輝に与えたが,天正 10 (1582) 年本能寺の変後その子織田信雄の領有となり,その家臣中川定成が城主として在城,小牧・長久手の戦いののち,天正 13 (1585) 年武田清俊,次いで天正 15 (1587) 年土方勘兵衛に与えられた。信雄配流ののち,豊臣秀次の領有となり,天正 18 (1590) 年その実父長尾常閑が城主となる。文禄1 (1592) 年秀次の臣三輪出羽守の手に移り,文禄4 (1595) 年秀次自刃ののち城主は石川貞清 (光吉) に代わる。『金山記大成』には貞清が慶長4 (1599) 年森氏の居城金山城 (岐阜県可児市) の古材を木曾川の流れに乗せて運搬して天守を築いたとみえるが,1964年の解体修理の結果,天守下層は織田信康の頃,上層は慶長5 (1600) 年清洲城主松平忠吉の家臣小笠原吉次により増築されたもので,金山城の古材も石川氏でなく小笠原氏により運搬され,天守以外の櫓 (やぐら) や城門に用いられたことが明らかにされた。天守外観は3層であるが,内部は5階。高さは南側地上より 83尺 (25m) 余。唐破風,千鳥破風を備え,軽快,洒脱のふうがある。慶長 12 (1607) 年小笠原氏が佐倉へ移封後,清洲はのちの尾張藩主徳川義直に与えられ,犬山城にはその家臣平岩親吉が入ったが,慶長 16 (1611) 年平岩氏に嗣子がなく断絶。しばらくは城主がなく,元和2 (1616) 年以後尾張徳川家付家老成瀬正成とその子孫が在城して明治にいたる。現存天守建築のなかで最古の遺構で,1935年国宝指定,第2次世界大戦後も再指定。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
犬山城公式HP→ https://inuyama-castle.jp/
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長野県松本市丸の内にある城跡。別名、深志(ふかし)城。現存する12天守の中では唯一の平城。本丸・二の丸・三の丸はほぼ方形に整地され、外周に総堀をめぐらし、その内側に三の丸、その北寄り外堀の内側が二の丸、さらにその内側の東・南・西に内堀を掘って本丸を置く。三の丸南側の総堀のすぐ南に女鳥羽(めとば)川が総堀と並行して東から西へ流れ、二重の堀としての役割を果たしていた。本丸の西南隅には5重6階の国宝建築である天守があり、北面に乾(いぬい)小天守を渡り櫓(やぐら)で連結し、東面に辰巳附(たつみつけ)櫓・月見櫓を配している。初めは深志城と呼ばれ、甲斐の武田氏が信濃守護・小笠原氏を追放し、信濃支配の拠点としたことから重要性を増すこととなった。武田氏滅亡後、徳川氏の支援を得た小笠原氏が旧領を回復、松本城に改名した。1590年(天正18)、徳川家の関東移封が行われ、小笠原秀政が下総古河(しもうさこが)に移ると、代わりに石川数正が入城、石川数正とその子康長が改築を行い、慶長年間(1596~1615年)に天守をはじめとする城がほぼ完成した。関ヶ原の戦い後は、小笠原・戸田・松平・堀田・水野・戸田氏とめまぐるしく藩主が交代し、明治維新を迎える。戦国時代から幕末まで継続して使われた信州を代表する近世城郭であることから、1930年(昭和5)に国の史跡に指定された。現在では黒門、太鼓門などが復元され、周辺は松本城公園として整備されている。JR篠ノ井線ほか松本駅から徒歩約20分。
出典 講談社国指定史跡ガイド
国宝松本城HP→ https://www.matsumoto-castle.jp/
松本城からのリンクで、松本城場内のストリートビューがみられるのがすごい。
平城の様子がよくわかる。
日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことである。これ以外に存在する天守には、復元天守、復興天守、模擬天守がある。
現存天守は必ずしも創建当時の建物をそのまま保存されているものということではなく、
修復などを繰り返しつつ、ほぼ創建当時のままを維持してきたもの(姫路城・彦根城)
現存天守が在籍していた城が存城であった当時に再建、改築されたものがほぼそのまま残っているもの(犬山城・松本城・高知城・松江城など)
付属する一部の建物を焼失または改築されたもの(宇和島城)
明治維新以降に保存されるまでの経緯で付属する建物を撤去、または損失したことにより主に主体のみが保存されることになったもの(備中松山城・松山城・弘前城・丸亀城など)
損失したが遺材を組み直して再建されたもの(丸岡城)
などである。またこの括りには存城当時、御三階櫓などと呼ばれていた櫓で「事実上の天守」も含まれている。
『現存天守』Wikipediaより
以下は、上記国宝5天守以外の重要文化財の7天守
福井県坂井市にある平山城。天正4 (1576) 年柴田勝豊の築城が初めという。その後,丹羽長秀,そして結城秀康の支城となり,江戸時代には本多氏,次いで有馬氏の居城として受け継がれて明治にいたった。天守閣は戦国時代の創建であり,きわめて古い様式をもち,国の重要文化財に指定されている。 1948年福井地震で崩壊したが,その後復元された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*丸岡城HP→ https://maruoka-castle.jp/
香川県丸亀市にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。讃岐(さぬき)平野にある標高66mの亀山に築かれた。山頂の本丸とそれを囲んで二の丸、三の丸を配し、山麓から本丸まで3層の石垣が造営された。讃岐に入封した生駒親正(いこまちかまさ)が、1597年(慶長2)に高松城の支城として築城を始めた。もともとこの地には、室町時代に築かれた奈良氏の砦があったとされる。1602年(慶長7)に城郭は完成したが、1615年(元和1)の一国一城令により廃城となった。1641年(寛永18)に山崎家治(やまざきいえはる)が入封して丸亀藩を立藩、藩主の居城として丸亀城を再興した。家治は城の改修に着手するが、30年余りの歳月がかかることになる。この間に山崎氏は3代で改易になり、替わって京極高和(きょうごくたかかず)が入城して、城の修築を引き継いだ。1673年(延宝1)に大改修は完了する。現在見られる三重3階の天守と石垣は、この時に築造されたものである。以後、京極氏の居城として明治時代にいたった。1869年(明治2)御殿と藩庁が焼失し、廃藩置県後は現存する建造物以外の櫓(やぐら)や城壁などが解体された。現在城跡のうち内堀以内は亀山公園になっているが、外堀は埋め立てられ市街化が進んだ。天守、大手一の門・二の門、東西土塀、御殿表門、番所、長屋のほか、内堀と石垣がほぼ完全な形で現存する。JR予讃本線丸亀駅から徒歩約10分。◇亀山城、蓬莱城(ほうらいじょう)ともいう。
出典 講談社日本の城がわかる事典
愛媛県宇和島市丸之内にある城跡。別名、鶴島城。リアス式海岸が続く宇和島湾に面する景勝地にあり、標高約80mの丘陵とその一帯に城域が広がっている。山頂の本丸を取り囲むように二の丸、北麓にある三の丸の近くには長門丸、藤兵衛丸を設け、西麓には代右衛門丸、内堀を隔てて侍屋敷のある外郭とし、北と西の1辺は海に面し、東・南・西南の3辺は濠をめぐらし、海水を引き入れていた。本丸の天守からは西海岸に抜ける間道が数本あり、舟小屋や水軍の基地に通じていたという。中世には板島丸串城とも呼ばれ、戦国期の天正~永禄年間(1532~70年)、豊後の大友勢が侵攻した頃には、土豪である家藤監物が守っていたといい、1575年(天正3)に西園寺宣久の居城となった。安土桃山時代には豊臣秀吉の四国討伐によって小早川氏の所領となったが、その後1595年(文禄4)に築城の名手でもあった藤堂高虎(とうどうたかとら)が宇和島に入った。高虎は中世にあった板島丸串城の跡に城を築き、1601年(慶長6)、平面が不等辺五角形に見える縄張りをもつ現在の姿の城が完成した。関ヶ原の戦いの功績により、高虎は伊予国府(今治)に移され、1614年(慶長19)、伊達(だて)政宗の長男秀宗が10万石で入封し、地名が宇和島と変わった。そして2代藩主宗利(むねとし)のとき、大改修が行われ、1671年(寛文11)に現在の天守が完成した。3重3階の層塔形の天守は高さ約16m、装飾性の高い破風(はふ)をもち、御殿建築の意匠が随所にみられ、現存12天守の一つで、重要文化財に指定されている。南の登城口には七つあった門のうち、上(のぼ)り立ち門が残り、城跡一帯は1937年(昭和12)に国の史跡に指定されたが、太平洋戦争の空襲で大手門(追手門)は焼失した。JR宇和島駅から徒歩約25分。
出典 講談社国指定史跡ガイド
*宇和島城公式HP(宇和島市HP内)→ https://www.city.uwajima.ehime.jp/site/uwajima-jo/
岡山県高梁(たかはし)市にあった山城(やまじろ)。近世の山城としては唯一天守などが残る。標高480mの臥牛山(がぎゅうざん)は4つの峰からなり、そのうちの小松山に本丸、二の丸、三の丸が階段状に配され、ほかに大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。城跡は国の史跡に指定され、現存する天守、二重櫓(にじゅうやぐら)、土塀の一部が国の重要文化財となっている。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。この地は山陰と山陽を結ぶ戦略上の要所として知られ、中世から戦乱が絶えなかったところ。1240年(仁治1)に秋葉重信(あきばしげのぶ)がこの地方の地頭となり、大松山に最初の城を築いた。この時は簡単な砦であったとされる。以後、城主はめまぐるしく替わり、戦国時代の三村元親(みむらもとちか)の代に本格的な山城として整備された。しかし、元親は毛利輝元(もうりてるもと)と争い、自刃して果てた。関ヶ原の戦いの後、小堀正次・政一(小堀遠州(えんしゅう))父子が代官として入り、城の改修を行った。同時に、山麓に御根小屋(おねごや)と称する居館を設けた。その後、池田氏、水谷(みずのや)氏と領主は替わるが、現存する天守などの建築物は水谷氏時代に築かれた。水谷氏改易後、安藤・石川・板倉氏と、譜代大名が城主となった。幕府の老中となった板倉氏7代目の勝静(かつきよ)の代に明治維新を迎えた。明治の廃城令により御根小屋は取り壊されたが、現在その跡地には高梁高校がある。JR伯備線備中高梁駅からバス10分で松山城登山口下車、徒歩20分。◇松山城、高梁城ともいう。
出典 講談社日本の城がわかる事典
戦国期~江戸期の城。高知市丸ノ内にある。1588年(天正16)長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が、南北朝期に大高坂(おおたかさ)松王丸の拠(よ)っていた大高坂山に城を築き始めたが、潮江(うしおえ)川(鏡(かがみ)川)と江ノ口川の洪水に苦しめられて放棄。元親は浦戸(うらど)城を居城としていた。1601年(慶長6)長宗我部氏にかわって20万石の大名として土佐に入ってきた山内一豊(やまうちかずとよ)はただちに大高坂山に築城を始め、03年に本丸、二の丸を完成して入城した。三の丸部分まで完成したのは11年で、その前年、名を高知と改めている。一豊時代の天守は1727年(享保12)に焼失し、現在の天守閣は1747年(延享4)に再建されたものであるが、大屋根に望楼をのせ、勾欄廻縁(こうらんかいえん)式の慶長期の古風な様式をとどめている。ほかに大手門、懐徳館(本丸正殿)など建造物も多い。[小和田哲男]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
*高知城公式HP → https://kochipark.jp/kochijyo/
アクセス→JR高知駅、高知空港
別名,鷹ヶ丘城。青森県弘前市にある平山城。津軽氏の居城。初め津軽為信によって築城が計画され,その子信枚 (のぶひら) によって慶長 16 (1611) 年完成。規模は,本丸,7つの郭,天守閣,7つの櫓 (やぐら) ,12の城門から成り,3重の堀をめぐらし,東西 612m,南北 947mもあった。城門5,櫓3,3層の天守閣などが現存する。天守閣はもと5層であったが,寛永4 (27) 年落雷のため焼失し,現存の3層の天守閣は幕末に築造された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
愛媛県松山市にある平山城。慶長七年(一六〇二)加藤嘉明が着工、同一九年ほぼ完成。のち蒲生氏を経て久松(松平)氏が入封。現存の天守閣は嘉永五年(一八五二)以降の再建で、ほかに門、櫓、石垣、堀などが残っている。国重要文化財。国史跡。伊予松山城。
出典 精選版 日本国語大辞典
愛媛県松山市にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。松山平野の中央部に位置する勝山(標高132m)に築城、壮大な石垣の上に天守、小天守のほか多数の櫓(やぐら)がそびえる。関ヶ原の戦いで戦功があった加藤嘉明(よしあき)は、1602年(慶長7)勝山の地形を利用して新城の建設に着手した。勝山は、南北朝時代に南朝方が砦を築き、戦国時代には河野氏が前衛基地とするなど、重要な拠点であった。翌年、城は建設中にもかかわらず、嘉明は居城の松前城(まさきじょう)から勝山に移り、この城を松山城と命名した。嘉明の会津転封後の1627年(寛永4)、蒲生忠知(がもうただとも)が入封、二の丸などの整備を行った。嗣子(しし)がないため蒲生氏が断絶になったあと、1635年(寛永12)松平(久松)定行(さだゆき)が藩主となり、明治維新まで235年間つづいた。1784年(天明4)の落雷で焼失した天守は、1852年(嘉永5)に再建された。現在、城跡は史跡公園となり、天守のほか櫓、門、塀、石垣、堀が現存する。また、昭和時代の放火や空襲などで失った建築物は、ほとんどが復元されている。JR予讃本線松山駅から市内電車10分で大街道下車、徒歩5分。ロープウェイで山上へ。◇伊予松山城(いよまつやまじょう)、金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)ともいう。
出典 講談社日本の城がわかる事典
*松山城公式HP→ https://www.matsuyamajo.jp/
*松山城空撮(youtube)→ https://youtube.com/playlist?list=PLmX8Yrv6IJkdNZgFFVHjpOvz43Wj5YV-_&si=mqdyQSmaX4vdpKSZ
(財)日本城郭協会が財団法人化40周年を迎える記念事業として実施。城郭が、青少年教育や生涯学習の場、さらに子どもたちの総合的な学習の場としても活用されることをねらいとし、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」を選定基準に、100城を選定。文部科学省・文化庁後援。
[選定機関] 日本100名城選定会議
[選定時期] 2006(平成18)年
[観光資源] 会津若松城 | 明石城 | 赤穂城 | 足利氏館(鑁阿寺) | 安土城 | 伊賀上野城 | 一乗谷城 | 犬山城 | 今治城 | 岩国城 | 岩村城 | 上田城 | 宇和島城 | 江戸城 | 大分府内城 | 大阪城 | 大洲城 | 大野城 | 岡崎城 | 岡城 | 岡山城 | 小谷城 | 小田原城 | 飫肥城 | 掛川城 | 鹿児島城(黎明館) | 春日山城 | 月山富田城 | 金沢城 | 金山城 | 川越城 | 観音寺城 | 鬼ノ城 | 岐阜城 | 久保田城 | 熊本城 | 高知城 | 甲府城 | 郡山城 | 小諸城 | 五稜郭 | 佐賀城 | 佐倉城 | 篠山城 | 新発田城 | 島原城 | 首里城 | 白河小峰城 | 駿府城 | 仙台城 | 高岡城 | 多賀城 | 高遠城 | 高取城 | 高松城 | 武田氏館(武田神社) | 竹田城 | 千早城 | 津山城 | 津和野城 | 徳島城 | 鳥取城 | 中城城 | 長篠城 | 今帰仁城 | 名古屋城 | 名護屋城 | 七尾城 | 二条城 | 二本松城 | 根城 | 根室半島チャシ跡群 | 萩城 | 八王子城 | 鉢形城 | 彦根城 | 備中松山城 | 人吉城 | 姫路城 | 平戸城 | 弘前城 | 広島城 | 福岡城 | 福山城 | 松江城 | 松阪城 | 松代城 | 松前城 | 松本城 | 松山城 | 丸岡城 | 丸亀城 | 水戸城 | 箕輪城 | 盛岡城 | 山形城 | 山中城 | 湯築城 | 吉野ヶ里 | 和歌山城
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」
熊本県熊本市にある平山城。銀杏城ともいう。室町時代中期に菊池氏の一族出田氏が千葉城を築城し,のち鹿子木親員(かのこぎちかかず)が改築,隈本城と改称した。天正15(1587)年,豊臣秀吉の九州征伐後,佐々成政が入城したが,翌 16年,成政の死後,加藤清正が入城した。慶長6(1601)年,清正は大規模な築城工事を起こし,同 12年に竣工したといわれ,同時に熊本城と改称した。工事の監督には飯田覚兵衛,森本儀太夫があたり,城の全容は,7層の一ノ天守閣をはじめ,二ノ天守閣,櫓 49,櫓門 18,城門 29,これを擁するに,坪井川を内堀とし,白川と井芹川を外堀とする周囲 9kmに及ぶ豪壮なものとなった。銀杏城の名は清正が築城記念に 2本のイチョウを本丸前に植えたのに由来する。清正の子加藤忠広が,寛永9(1632)年出羽国庄内に配流になると,細川忠利が城主となり,以後明治維新にいたるまで細川氏の居城となった。明治4(1871)年ここに鎮台が置かれ,1877年西南戦争に際し,谷干城以下の籠城戦下において,宇土櫓を残し主要な建造物は焼失した。第2次世界大戦後,天守閣その他が再建された。2016年熊本地震が発生し,建物の損壊や石垣の崩落など大きな被害を受けた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*熊本城公式HP → https://castle.kumamoto-guide.jp/
*『ARで明治の景色を重ねて 熊本城天守閣の修復完成、26日公開
おもてなし 魅せどころ』日本経済新聞 2021.4.13
熊本市長、「天守閣の堂々とした姿を早く見せたかった」
*『[熊本地震6年]実験に2年、熊本城「奇跡の一本石垣」修復本格化…前例なき難作業続く』読売新聞オンライン 2022.04.16
実験結果をもとに2021年から2022年までに463個の石垣を写真と照合しながら元の場所に移した。2022年から2年がかりで上段部分の石垣の積み直しをし、櫓を再建して27年度に飯田丸五階櫓が完成予定との記事。
*『熊本城「第3の天守」が解体修復へ 10年後に再建、間もなく見納め』朝日新聞(会員限定記事)
2023.8.4
宇土櫓の修復開始の記事です。
*石垣の組み方とエジプトのピラミッドに共通点? エジプト学者でyoutuberの河江肖剰氏が、熊本城の再建現場を訪れて熊本城の石垣の秘密を探っています。解説は、熊本城調査研究センター網田龍生所長。
飯田丸五階櫓の一本石垣がなぜ一本で耐えたのかがわかります。石垣全体の3割が崩壊・又は危険なふくらみができたので、積み直しに35年度かかるそうです。
また、熊本城を3次元データで記録に残そうと言う予算が付いた初年度の4月に地震が起きたため、飯田丸五階櫓はまだ残された写真があるが、他はほとんど資料がなかった、石の特定に非常に困難を極めた。今、改めて、再建しながら、3次元データで記録しつつあるという話も。ピラミッドの発掘に長くかかわり、3次元データを詳しく撮って学術的研究を進めている河江氏ならではのインタビュー。
『【熊本城】エジプト考古学者が迫る!難攻不落の日本三名城(戦国時代・加藤清正・日本史・幕末・考古学・歴史・遺跡・ピラミッド)』
https://youtu.be/385GSDKQFGE?si=y8BztwxBr8ADi61y
熊本城竹之丸の長塀
熊本地震で大きく崩落したが再建済み。
参考:『【熊本城】解体工事中の宇土櫓の作業を紹介!』
熊本城公式(youtube) 2024/09/07 https://youtu.be/F0edniYiVTs?si=a13aIe1CfE-tBM9A
熊本城特別見学通路
竹之丸からの七曲りの通路などが大きく崩落・再建中で通行できないが、熊本城の再建を市民や観光客にも共有してもらいたいとの思いで、特別見学通路として空中から熊本城・工事の様子を見ることができるように設置されている。工事中だけの特典。
詳しくは、熊本城HPへ
(塁形が星のような五稜形をなしているところから) 北海道函館市にあった平城。正式名は亀田役所土塁。江戸幕府が北方警備のため箱館奉行所として元治元年(一八六四)完成。フランスの築城法を参考にした日本最初の西洋式城郭。明治維新のとき幕臣榎本武揚(えのもとたけあき)らがこもり官軍と戦った。石垣・濠は原形をとどめ、現在は公園となっている。国特別史跡。
出典 精選版 日本国語大辞典
*五稜郭タワー →https://www.goryokaku-tower.co.jp/
仙台市青葉区の青葉山にあった城。広瀬川に沿う要害の地を占めていた。国分氏の千代(せんだい)城の跡に慶長七年(一六〇二)伊達政宗が築城。以来、明治維新に至るまで伊達氏六二万石の居城。現在も広大な石垣を残し、本丸跡は市街地を一望する公園として整備されている。青葉城。
出典 精選版 日本国語大辞典
*青葉城本丸会館→ https://honmarukaikan.com/
アミューズメントのような楽し気なHP
福島県会津若松市追手町にある城。至徳元年(一三八四)蘆名義広が創築。以後、伊達・蒲生氏らを経て松平氏の居城。戊辰(ぼしん)戦争では一か月の籠城後、開城。会津若松城。鶴ケ城。若松城。黒川城。
出典 精選版 日本国語大辞典
会津城HP→https://www.tsurugajo.com/tsurugajo/
トップページの空撮により、市内を見渡せる場所にあるのがわかる。
東京都千代田区にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定特別史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。扇谷上杉氏の家臣太田道灌が1457年(長禄1)に築いた城がその起源。それ以前の平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、江戸氏の居館があったともいわれる。道灌が暗殺された後は扇谷上杉氏の城となり、次いで小田原の北条氏が同城を攻略し、武蔵進出の拠点とした。1590年(天正18)の小田原の役では、江戸城は開城して豊臣秀吉に接収され、同年8月に北条氏旧領を含む関八州への国替えとなった徳川家康が新たな居城とした。家康が入城した当時の江戸城は、道灌が築城した比較的小規模で質素な城だったといわれる。1603年(慶長8)、家康が幕府を開くと江戸城の本格的な拡張・整備が始まり、家康、秀忠、家光の3代にわたって日本全国の大名が動員され、5層の天守と20基の櫓(やぐら)、西の丸、北の丸などの増設や外郭の整備が行われて、家光の代の1636年(寛永13)に江戸城の総構えが完成し、周囲16kmの内郭を持つ日本最大の城郭となった。しかし、1657年(明暦3)の明暦の大火で天守を含めた多くの建物が焼失した。その後、天守が再建されることはなかった。1868年(慶応4)に、最後の将軍の徳川慶喜が大政を奉還して江戸城を開城し、東京(とうけい)城と改称され、翌年の東京遷都により皇城となった。1888年(明治21)には明治宮殿が完成して宮城と呼ばれるようになった。皇居と呼ばれるようになったのは戦後の1948年(昭和23)で、その翌年には西の丸下と、皇居を取りまく濠周辺が「国民公園皇居外苑」として開放され、さらに1969年(昭和44)には北の丸も外苑の一部として開放された。江戸城は数度の火災によって多くの建物が失われ、大正期の関東大震災でも被害を受けた。伏見櫓、富士見櫓、巽櫓などが現存するが、これらは関東大震災後、解体・復元されたものである。また、江戸城には数多くの城門があったが、桜田門、田安門、清水門が現存し、国の重要文化財になっている。JR東京駅また地下鉄千代田線大手町駅から徒歩約5分。◇千代田城とも呼ばれる。
出典 講談社日本の城がわかる事典
*『特別史跡江戸城跡』環境省 → https://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_01.html
皇居外苑の一つの遺跡として簡単な説明がある。
埼玉県川越市にあった平城。長祿元年(一四五七)太田道真、道灌父子の築城と伝える。戦国時代、扇ケ谷上杉氏、ついで北条氏の居城となった。江戸時代には酒井、堀田、松平氏の居城。嘉永元年(一八四八)再建の本丸御殿の玄関・大広間が現存。国史跡。初雁城。霧がくれ城。
出典 精選版 日本国語大辞典
初雁城
城内の三芳野神社に「初雁の杉」があった。毎年同じ時期に北から初雁が飛来し杉の真上で三声鳴き三度回って南に飛び去った、という故事による。太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折も初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名したとされる。3代目の初雁の杉が神社の社殿裏にある。
霧隠城
城内に「霧吹きの井戸」という井戸があり、普段は蓋をしておくが危急の際は蓋を開くと霧が城を隠したという伝承による。井戸は移築され、現在は市立博物館の前庭にある。
『川越城』Wikipediaより抜粋
*『川越城本丸御殿』川越市HP
https://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/welcome/kankospot/hommarugotenzone/hommarugoten.html
場所や入場料、休館日、開館時間、川越城御城印の頒布についてのお知らせがある。
神奈川県小田原市にあった平山城。鎌倉時代以来の小早川・大森氏の館城を明応四年(一四九五)北条早雲が居城として強化し、その後も拡張され、後北条氏による関東支配の本拠となった。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めで落城し、以来徳川家の重臣が封ぜられていた。石垣、濠、土塁が現存。昭和三五年(一九六〇)天守閣を復元。国史跡。小早川城。小峰城。
出典 精選版 日本国語大辞典
『難攻不落の城 小田原城』→ https://odawaracastle.com/
平成の大改修ページ→ https://odawaracastle.com/news/daikaisyu.html
石川県金沢市にあった平山城。前田氏歴代の居城。天文一五年(一五四六)本願寺信徒により建造された尾山御坊(金沢御堂)に始まり、天正八年(一五八〇)佐久間盛政が築城。同一一年前田利家が封じられ前田氏累代の居城となる。石川門、三十間長屋などが残る。尾山(おやま)城。
出典 精選版 日本国語大辞典
金沢城公園公式HP→ https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/
現在や昔の写真や、断面図、発掘の様子などが豊富かつ体系的にきちんとまとめてあるので非常に参考になる。
石川県金沢市にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。典型的な梯郭式の平城で、多数の櫓(やぐら)を持った城郭である。江戸時代初めには天守を持った城だったが、焼失し、その後、天守は再建されなかった。1546年(天文15)に尾山御坊(おやまごぼう)(御山御坊、金沢御堂とも。浄土真宗の寺院)が建立され、加賀国を支配する加賀一向一揆が拠点としていた。この尾山御坊は空堀や柵などを備えた城塞としての機能を持った寺院だった。これが金沢城の前身である。1580年(天正8)に、織田信長の部将佐久間盛政が尾山御坊を攻め落として信長から加賀一国を与えられ、金沢城と改称し居城とした。盛政が金沢城の初代城主ということになる。1582年(天正10)に本能寺の変で信長が死去すると、盛政は柴田勝家に従い、翌1583年(天正11)の賎ヶ岳の戦いで柴田方として羽柴秀吉(豊臣秀吉)と戦って敗れ、斬首された。同年、秀吉から加増を受けた前田利家が金沢城に入城し、尾山城と改称して居城とした。利家は1587年(天正15)、バテレン追放令により除封されたキリシタン大名の高山右近を招き、尾山城の大規模な修改築を行った。このころ再び金沢城に改称されたといわれているが、尾山城の名前もそのまま用いられていたようである。その後、1592年(文禄1)ごろに、利家から家督を相続した前田利長が金沢城の整備を行った。1602年(慶長7)、金沢城の天守が落雷によって焼失し、その代わりに三階櫓が建造された。このころ、ようやく金沢城という名称が定着。明治維新に至るまで、金沢藩の藩庁が置かれ、藩主の前田氏の居城であった。この間、金沢城は1759年(宝暦9)に宝暦の大火に見舞われている。1873年(明治6)、陸軍省の管轄になり、1875年(明治8)には城址に陸軍第7連隊が置かれた。建物もそのまま破却されず存続したが、1881年(明治14)の火災により石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫を残してすべて焼失してしまった。1898年(明治31)には城跡に陸軍第9師団司令部が設置され、第二次世界大戦が終わるまで存続した。1949年(昭和24)には新設された金沢大学の敷地(丸の内キャンパス)となり、1995年(平成7)に金沢大学が移転すると、金沢城址の所有者が国から石川県に移り、金沢城址公園の整備が始まった。1999年(平成11)には、金沢城の復元整備事業が始まり、菱櫓、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋が復元されて金沢城公園と改称された。現在、2014年(平成26)までを期間に第2期復元整備事業が進められている。城跡には石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫(土蔵)の遺構が現存し、国の重要文化財に指定されているほか、城内に再移築された切手門、前述の復元された櫓や門、長屋がある。また、城外に移築され現存する遺構としては、旧国宝に指定された東照権現(尾崎神社)の本殿、中門、透塀、拝殿、幣殿、尾山神社に移築された二の丸御殿唐門、中村神社拝殿として移築された二の丸能舞台などがある。JR北陸本線金沢駅からバス約15分で兼六園下下車後、徒歩約5分。◇尾山城ともよばれる。
出典 講談社日本の城がわかる事典
岐阜市の金華山(稲葉山)にあった山城。建仁元年(一二一一)二階堂行政が築城し、稲葉山城と称した。応永年間(一三九四‐一四二八)美濃国の守護土岐氏の重臣斎藤氏の居城。永祿一〇年(一五六七)織田信長が清洲城から移り、城下を岐阜と改めた。のちその子信孝、さらに、池田輝政、織田秀信らの居城となり、関ケ原の戦いののち、廃城となった。昭和三一年(一九五六)天守閣を再建。金華山城。稲葉山城。井の口城。
出典 精選版 日本国語大辞典
岐阜県岐阜市にあった山城(やまじろ)。同市指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。戦国時代、道三・義龍・龍興の斎藤氏3代が居城とし、美濃を制圧した織田信長が一時期居城とした城である。長良川河畔の独立峰、金華山(標高328.9m、旧名稲葉山、古くは井口山ともよばれた)にあった城郭で、織田信長が岐阜城と改名するまでは稲葉山城と呼ばれていた。鎌倉時代初めの1201年(建仁1)に二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが岐阜城の始まりといわれる。この砦はその後廃棄されたが、15世紀の中頃、美濃の守護代斎藤利永が、かつての城塞跡を修復して居城とした。1525年(大永5)、斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀叛を起こして稲葉山城を攻撃し、稲葉山城は長井氏の支配下に置かれ、新左衛門尉が城主となった。新左衛門尉の子が長井新九郎規秀(後の斎藤道三)である。道三は1533年(天文2)に家督を継いで稲葉山城の城主となり、斎藤氏の養子となって斎藤利政と名前を改め、美濃国の守護代を継いだ。道三は1539年(天文8)、金華山山頂に城の建設を行い、1541年(天文10)には守護の土岐頼芸を追放して大名としての実質的な権力を掌握した。利政(道三)はその後も稲葉山城を居城としたため、この城は美濃の中心となった。1544年(天文13)、利政は家督を嫡男の斎藤義龍に譲り、剃髪して道三と号した。道三はその後も実権を掌握していたが、しだいに義龍との対立が大きくなり、1556年(弘治2)には父子の間に長良川の戦いが起こり、道三は義龍に討ち取られた。義龍はその後、東美濃に侵攻した尾張の織田信長と対立し武力衝突を繰り返すが、1561年(永禄4)に義龍は急死し、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ、城主となった。この年、十四条の戦いに勝利した織田信長は稲葉山城を攻めたが敗退している。1567年(永禄10)、信長は西美濃三人衆の内応により稲葉山城下に侵攻して稲葉山城の戦いが行われた。この戦いで、龍興は城を捨てて伊勢長島に逃れ、織田氏が稲葉山城を占拠した。信長は居城を小牧山城(愛知県小牧市)から稲葉山城に移して、稲葉山城と城下を岐阜と改め、この城を拠点に天下統一に乗り出した。1576年(天正4)、安土城を築いて居城を移した信長は嫡子の信忠に岐阜城と美濃・尾張の2ヵ国、および織田家の家督を譲った。信忠は岐阜城のさらなる整備・改修を行った。1582年(天正10)6月、信長と岐阜城主の嫡男信忠は本能寺の変で死去した。その直後、信忠家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取ったが、明智光秀が羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に敗れると織田信孝(信長三男)に降伏。清洲会議により信孝が美濃国と岐阜城を相続することになった。信孝は秀吉と対立し、2度にわたって蜂起したが秀吉に敗れ、1583年(天正11)に切腹させられた。同年、池田恒興が大垣城(大垣市)に入城すると、恒興の嫡男元助が岐阜城に入城した。さらに1584年(天正12)、小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討ち死にすると、恒興の二男池田輝政が入城して居城とした。1591年(天正19)、輝政が転封すると、織田秀信(信長の嫡孫、信忠の嫡男)が岐阜13万石の領主として岐阜城に入城した。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで、信秀は石田三成の挙兵に呼応して西軍に与した。このため、秀信が立て籠もった岐阜城は、関ヶ原の戦い前夜に福島正則や池田輝政らに攻められて落城した。戦いの翌年の1601年(慶長6)、徳川家康は岐阜城の廃城を決めた。家康は本多忠勝や奥平信昌に命じて、新たに加納城(岐阜市)を築かせたが、その際、岐阜城の天守や櫓などは加納城に移されたといわれている。1910年(明治43)、岐阜城跡に復興天守が建設され、1956年(昭和31)には鉄筋コンクリート造の3層4階建ての天守に立て替えられ(模擬天守の内部は資料館になっている)、1975年(昭和50)には隅櫓(すみやぐら)(岐阜城資料館)が完成している。現在、城跡は岐阜公園として整備されている。園内には曲輪(くるわ)・石垣・土塁・井戸などの遺構とともに、天守閣・冠木門・隅櫓の模擬建造物がある。また、山麓には信長の居館跡があり冠木門と土塁が復元されているほか、近くに歴史博物館がある。JR東海道本線岐阜駅、あるいは名鉄名古屋本線名鉄岐阜駅からバスで岐阜公園・歴史博物館前下車、金華山ロープウェーに乗り換え約3分で金華山頂駅下車、徒歩約8分(金華山頂の天守まで)。◇古くは稲葉山城とよばれた。
出典 講談社日本の城がわかる事典
*『岐阜城天守閣』岐阜市公式ページ→ https://www.city.gifu.lg.jp/kankoubunka/kankou/1013051/1005097/1005098.html
*『岐阜城パノラマ夜景プロモーションムービー』岐阜市youtube公式チャンネル→ https://youtu.be/DQTIm8c05c4?si=bZDimmKyXtewXiw1
愛知県名古屋市中区にある平城。徳川家康が西南諸大名に命じ慶長一四年(一六〇九)着工、同一九年完成。尾張徳川家の居城で天守閣は加藤清正が造営、金の鯱(しゃち)を飾る。第二次世界大戦で本丸御殿の障壁画、隅櫓などを除き建物の大半が焼失したが、天守閣は昭和三四年(一九五九)再建。金鯱(きんこ)城。金城。蓬左城。楊柳城。
出典 精選版 日本国語大辞典
『特別史跡 名古屋城』公式HP→ https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/
このHPもトップページの映像が美しい。
同HP 調査研究ページ(調査研究センター) → https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/
滋賀県蒲生郡安土町、安土山にあった城。天正四~七年(一五七六‐七九)織田信長が築城。五層七重の天守を持ち、天守閣のはじまりとされる。石垣・堀が現存。城跡に信長をとむらう摠見(そうけん)寺がある。国特別史跡。
出典 精選版 日本国語大辞典
『あづち周遊』→https://www.azuchi-shiga.com/index.html
滋賀県近江八幡市(旧蒲生郡安土町)にあった平山城(ひらやまじろ)。国の特別史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。1579年(天正7)に織田信長が築き、岐阜城(岐阜県岐阜市)から居城を移した。5層7階の天守があったといわれている。その壮麗さは、この城を訪問した宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』などの記録によって知ることができる。安土城は六角氏の居城であった観音寺城(近江八幡市)を手本に総石垣でつくられ、その後の安土桃山時代から江戸時代初期にかけてつくられた多くの城の模範となった。1582年(天正10)に本能寺の変が起きた際、安土城には蒲生賢秀が留守居役として在城していたが、信長の横死を知った賢秀は、子息の蒲生氏郷(がもううじさと)とともに信長の妻子を安土城から退去させ、本拠の日野城(蒲生郡日野町)に匿った。間もなく、明智秀満率いる明智軍が安土城を占拠。山崎の戦いに敗れ、明智軍が安土城を退去後、城は天守・本丸など主要な建物を焼失した。しかし、その後も二の丸を中心に織田氏の居城として使われ、信長の嫡孫秀信が在城した。豊臣秀吉の養子豊臣秀次による八幡山城(近江八幡市)の築城にともない、1585年(天正13)をもって廃城された。その際、安土城の城下町は、秀次の築いた八幡山城の城下に移されたといわれている。城跡には天守台、曲輪(くるわ)、石垣、堀の遺構が残っている。JR琵琶湖線安土駅から徒歩約20分。
出典 講談社日本の城がわかる事典
京都市中京区にある城郭建築。慶長6 (1601) 年から翌々年の間に,徳川家康の宿舎として造営された。平地に築かれた平城で,周囲に堀をめぐらし,本丸は西側にさらに堀で区画されている。本丸の天守は寛延3 (1750) 年の雷火で,本丸御殿その他の櫓 (やぐら) などは天明の大火 (88) で焼失した。現在の本丸御殿は,旧桂宮御所を明治になってから移したもの。寛永3 (1626) 年に大改築された二の丸御殿 (国宝) は,桃山式の殿舎建築の様式を伝える貴重な遺構で,室内は金碧の障壁画や極彩色の丸彫りの装飾が施されている。将軍の宿所として3代将軍家光の代まで使用され,その後は文久3 (1863) 年に 14代将軍家茂が上洛するまで利用されず,15代将軍慶喜はここで大政奉還を決議した。 1884年二条離宮となり,1939年京都市に下賜され,元離宮二条城として史跡に指定。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
『世界遺産 元離宮二条城』HP→ https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/
ドローン映像で、焼け落ちる前の天守閣の高さ50mからの京都市展望の様子が見られる。
二条城 参考動画:『【BS11/KBS京都】「京都浪漫 悠久の物語」第153回「世界遺産元離宮二条城~18年ぶり公開!本丸御殿の魅力~」(BS11で2024年9月9日放送分)』全国無料テレビBS11 (youtube) https://youtu.be/dw1vPGPIkZ0?si=7Izld5AsqOv3mXn0
将軍家が上京する時の宿泊所として建てられた。家康征夷大将軍祝賀。後水尾天皇が行幸のため大規模な改装。本丸御殿・天守。狩野派の壁画。時代が進むにつれて将軍家の状況が無くなり、二条在番が守護。江戸中頃落雷によって天守を焼失。天明の大火で本丸御殿など多くの建物を失った。幕末慶喜が大政奉還の意思を表明。明治元年城内に新政府の太政官が置かれ、明治17年(1884年)皇室の別邸「二条離宮」となった。明治27年(1894年)京都御所の北にあった桂宮御殿が本丸跡に移築され、本丸御殿とされた。江戸幕府由来の武家式の「二の丸御殿」と皇室由来のみやびな「本丸御殿」の二つの五点がある。平成6年(1994年)にユネスコの世界文化遺産の構成要素となった。
金城,錦城ともいい,明治以前は大坂城とも書かれていた。大阪市中央区馬場町にある平城。初めこの地には石山本願寺があったが,天正8 (1580) 年8月,11年余にわたる織田信長との対戦ののち,一向一揆は信長にくだった。その際火災が起り,全伽藍は灰燼に帰した。信長の死後,豊臣秀吉は天下統一の本拠として,この地に新しい形式の城と町づくりを目指し,同 11年,浅野長政,増田 (ました) 長盛を工事奉行に,山村正清を大工棟梁にして築城工事を起した。築城にあたっては,関西三十余国の大名に命じて,日平均数万人の人足を動員し,3年を費やして同 13年に完成した。本丸,二の丸,三の丸の石垣は3里8町 (12km) もの長さであった。石垣は切合せという手法で築かれ,幾里もある周囲の石垣が,全部根本で一つに固められているのがこの城の特徴である。天守閣は,内部は金箔で飾られ,軒瓦にはすべて金を張り,秀吉の桐紋が輝き,2層以下は塗籠め,5層は回廊,高欄を回し,高欄の上に鶴,下に虎の純金の彫刻をはめ,切妻の金具はすべて黄金であったという。現在の大阪城址は当時の東の丸,西の丸,三の丸にあたる。秀吉の死後,慶長3 (98) 年,秀頼が伏見城から移り増築したが,同 19年,大坂冬の陣で外郭がこわされ,外堀が埋められ,翌元和1 (1615) 年,夏の陣で落城の際炎上した。その後,松平忠明が配されて入城しさらに同5年,江戸幕府の直轄領とし,大坂城代に内藤信正を任じ,同6年西国,北国の大名に命じて城の修築を行わせた。その後,火災のたびに修復を重ね,安政5 (1858) 年の修理に際しては,天守の櫓 (やぐら) を残してすべて再建されたというが,明治1 (68) 年,失火によってその大部分が焼失した。現在の天守閣は,1931年大阪市が建造したもので,鉄筋コンクリート建築である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
大阪城天守閣HP→ https://www.osakacastle.net/
特別史跡大阪城公園HP→ https://www.osakacastlepark.jp/
大阪城公園ではロードトレイン・エレクトリックカー・御座船などで気軽に見学できるようになっている。
2019年日本地理に選択肢として出題。
三重県伊賀市にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。伊賀盆地の中央部の標高180mほどの台地の上に築かれていた梯郭式の城郭で、日本有数の高さ約30mの石垣を持つ。1579年(天正7)の伊賀天正の乱で焼失した平楽寺の跡に、織田信雄の家臣滝川雄利が砦を築いたのが上野城の起源。その後、1585年(天正13)に大和郡山から伊賀国に移封された筒井定次によって城が築かれた。史料は残っていないが3層の天守があったといわれる。定次は1608年(慶長13)に、徳川家康により改易させられ、上野城は伊予宇和島から津城(津市)に移った藤堂高虎の持ち城となり、大改修が行われた。築城の名手といわれた高虎は、豊臣氏との関係が険悪になる中で、豊臣氏に対する徳川方の前線拠点として、より深い堀、高い石垣を築き、新たに本丸の南に二の丸を築き、従来の天守のあった場所の西に5層天守を建設した。高虎は当初、今治城(愛媛県今治市)の天守を移築しようと考えたが、その天守が丹波の亀山城(京都府亀岡市)に献上されたために、新たに天守を築いたといわれる。徳川家康は豊臣氏の勢力との対立が激しくなった大坂冬の陣に至る時期、篠山城(兵庫県篠山市)、膳所城(滋賀県大津市)などを築城して、豊臣方の本拠の大坂城を包囲した。上野城の整備もそうした家康の意向によるものである。高虎は一族を城代家老として入城させ、以降、津藩藤堂氏の支城として明治維新まで存続した。高虎により新造された天守は、1612年(慶長17)に嵐により倒壊した。その後、豊臣氏は滅亡し、上野城を堅固な城塞にする必要がなくなったことなどから、天守が再建されることはなかった。また、本丸・二の丸などの主要部分は城代屋敷を除いて未完成のまま明治維新に至った。1869年(明治2)の版籍奉還後、城の建物のほとんどが取り壊されたが、城が小高い丘の上にあったためにほかに転用されないまま、荒廃した城跡が残った。現在、城跡およびその周辺は上野公園になっている。1896年(明治29)、伊賀出身の実業家田中善助が荒廃していた城跡とその周辺の整備を行い公園として開放した。その後、1935年(昭和10)には、衆議院議員の川崎克が私財を投じて模擬天守(大天守・小天守)を建設した。この建物は元の天守を正確に復元した天守ではなく、正式には伊賀文化産業城という。園内には藤堂高虎が築造した高さ約30mの石垣のほか、堀などの遺構が残っている。さらに、県立上野高等学校の敷地内に上野城の武庫が現存している。また、上野公園内には米倉が移築されているほか、伊賀上野出身の松尾芭蕉を祀る俳聖殿や芭蕉翁記念館、伊賀流忍者博物館がある。伊賀鉄道伊賀線上野市駅から徒歩約8分。◇白鳳城ともいう。また、全国各地に上野城があることから、他と区別するため伊賀上野城とよばれることもある。
出典 講談社日本の城がわかる事典
2019年日本地理に選択肢として出題。
奈良県高市郡高取町にあった山城(やまじろ)。戦国時代は筒井順慶(じゅんけい)の詰(つめ)の城。美濃岩村城(岐阜県恵那市)、備中松山城(岡山県高梁市)とともに日本三大山城の一つ。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。南北朝時代に豪族の越智邦澄(おちくにずみ)が標高583mの高取山の頂に砦のような城を築いたのが始まりとされる。織田信長の大和一国一城令により廃城となったが、1584年(天正12)に筒井順慶が大和郡山城の詰(つめ)の城として復興した。1585年(天正13)、大和郡山城主羽柴秀長(ひでなが)の重臣本多正俊が高取城主となり、天守閣・石塁などの本格的な築城を進めた。本多家は利家に嗣子がなく断絶。1640年(寛永17)幕府大番頭の植村家政が2万5000石で入封し、以降、明治維新にいたるまで植村家が14代228年続いた。高取城は山頂に本丸をおき、堀は2.8kmの大規模なものだった。明治初期に建物は取り壊されたが、縄張りはほぼ完全に遺構をとどめ、二の門が子嶋寺に、新御殿表門が石川医院に移築されている。近鉄吉野線壺阪山駅からバスで壺阪寺下車、徒歩20分。◇芙蓉城(ふようじょう)ともいわれた。
出典 講談社日本の城がわかる事典
兵庫県朝来(あさご)市和田山町にあった山城(やまじろ)。安土桃山時代に大坂城防衛のために築き直した城。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。標高353mの古城山山頂に築かれた典型的な山城。但馬守護の山名持豊(もちとよ)(宗全(そうぜん))が丹波(京都府・兵庫県)の細川、播磨(兵庫県)の赤松、出雲(島根県)の尼子(あまご)などに備えるために築いた城である。1431年(永享3)に築城にとりかかり、嘉吉年間(1441~44年)に完成したと伝えられる。初代城主には家臣太田垣光景(みつかげ)が入ったが、1573年(天正1)5代朝廷(とものぶ)のときに播磨龍野城(たつの市)主赤松広秀(ひろひで)に攻められ落城した。広秀が城主になったが、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の中国攻めで秀吉の弟秀長に囲まれ、広秀は戦わずして軍門にくだった。その後秀長の武将桑山重晴(しげはる)が城主となり、1585年(天正13)に再び赤松広秀が城主となった。広秀は現在残る石垣群など城の修築を行った。修築には13年の歳月がかかり、賦役の農民は「田に松が生えた」ほどの困窮に陥ったという。広秀は租税を免除し治水に力を入れるなど善政を施したが、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いで西軍に与したため徳川家康から疎まれ、自刃した。その後竹田城は廃城となった。山頂部一帯に本丸、二の丸、三の丸(南千畳・北千畳・花屋敷)などの石垣がよく原形を保って残っている。JR播但線竹田駅から徒歩50分。◇虎臥(とらふす)城とも呼ばれる。
出典 講談社日本の城がわかる事典
*竹田城跡公式ホームページ(朝来市役所産業振興部観光交流課)→ https://www.city.asago.hyogo.jp/site/takeda/
*竹田城ストリートビュー→ https://www.city.asago.hyogo.jp/site/takeda/3098.html
岡山市にあった平山城。天正元年(一五七三)宇喜多直家が金光氏の石山城を奪取し、増築改修して岡山城と改名。小早川氏を経て慶長八年(一六〇三)池田氏の居城となる。月見、西手の二櫓(やぐら)、石垣、堀が現存。昭和四一年(一九六六)天守閣を再建。丘山城。烏城(うじょう)。金烏城。
出典 精選版 日本国語大辞典精
『岡山城』公式HP→ https://okayama-castle.jp/
佐賀県唐津市鎮西町名護屋にあった平山城。天正一九年(一五九一)豊臣秀吉が朝鮮への出兵の際の本拠地として勝男岳(垣添山)山頂に構築。周囲約一・七キロメートルに及ぶ。島原の乱後に破却。本丸・二の丸・三の丸のほか石垣、礎石が現存。国特別史跡。
出典 精選版 日本国語大辞典
長崎県島原市城内にあった江戸時代の城。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。有明海を臨む雲仙岳(うんぜんだけ)の麓(ふもと)に位置し、城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城(ひらじろ)。高く頑丈な石垣が特徴で、島原藩の政庁であり藩主の居所であった。本丸は周りを水堀で囲まれており、二の丸と廊下橋形式の木橋一本で繋がれている。天守は破風(はふ)をもたない独立式層塔型5重5階(初重の屋根を庇として4重5階とも)で、最上階の廻縁高欄(まわりえんこうらん)を戸板で囲ったため唐造りのようになっていた。松倉重政により1618年(元和4)から7年をかけて築かれたが、火山灰や溶岩流の地盤のため普請は困難をきわめ、携わった領民たちの怨みをかったと伝えられる。1637年(寛永14)に勃発した島原の乱で、島原城は一揆勢の攻撃を受けている。明治以降は廃城となり、建物などは撤去されたが、現在は本丸に天守・櫓(やぐら)・長塀が復元され、城跡公園となっている。島原鉄道島原駅から徒歩5分。◇森岳城、高来城ともいう。
出典 講談社日本の城がわかる事典
公式HP→https://shimabarajou.com/
*島原城七万石武将隊(PR集団)がいる。
*MR天草四郎→ https://shimabarajou.com/mr
富岡城は天草下島の北西、砂州で繋がった陸繋島の富岡半島の南東部の丘陵上にある梯郭式の平山城である。城の南には堀の役割を果たした袋池があり、東部には砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となって海からの外敵を防衛する役割を果たしていた。また、陸からの攻撃は砂州のみしかない。極めて攻撃し難い天然の要害を形成していた。
慶長5年(1600年)天草郡を含む肥後南部を領していた小西行長は、関ヶ原の戦いにおいて西軍方に参陣し敗れた。このため所領は没収され、翌年の慶長6年(1601年)東軍に参陣し功績のあった唐津城主・寺沢広高は天草郡4万2千石を与えられた。広高は肥前唐津から離れたこの地を治めるために、慶長7年(1602年)から慶長10年(1605年)にかけて富岡城を築き番代を置いた。
寛永14年10月28日(新暦1637年12月14日)、藩による重税とキリシタン迫害に堪りかねていた天草の領民は、数日前に代官を殺害した島原の領民に呼応、ともに天草四郎を盟主として蜂起し、島原・天草一揆が始まった。
一揆軍は海を渡り原城に立て籠もる島原の一揆軍と合流し、天草での戦闘は終了した。寛永15年2月28日(新暦1638年4月12日)、原城に立て籠もった一揆は鎮圧された。しかし、一揆の勃発を許した堅高(唐津藩2代藩主)は天草郡を没収された。なお、堅高は正保4年(1647年)に自害し寺沢氏は無嗣断絶となっている。
1994年(平成6年)より城の発掘・復元が計画され、国立国会図書館にある『肥前甘艸富岡城図』をもとに丘陵上の本丸に復元作業が行われた。2005年(平成17年)3月復元作業が終了し石垣や櫓が復元された。本丸の櫓は展示施設「富岡ビジターセンター」となり、天草の歴史・文化・自然などが紹介されている。
『富岡城』Wikipediaより抜粋
参考:『熊本県 富岡ビジターセンター・富岡城』(一般社団法人 天草宝島観光協会)
長崎県南島原市にあった城。領主有馬貴純(たかずみ)が明応5年(1496)に築城。元和2年(1616)松倉重政が入城するが、島原城の築城にともない廃城とされた。寛永14年(1637)に起こった島原天草一揆では一揆勢の拠点となった。現在は石垣と空堀が残る。はらのじょう。はらんじょう。
[補説]平成30年(2018)、大浦天主堂や平戸・天草・五島などの集落とともに、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。
出典 小学館デジタル大辞泉
大分県竹田市にあった城。文治元年(一一八五)緒方惟栄(これひで)の築城。江戸時代は中川氏の居城。石垣が現存し、滝廉太郎が「荒城の月」の曲想を得た所として有名。臥牛(がぎゅう)城。竹田城。
出典 精選版 日本国語大辞典
鹿児島県鹿児島市城山麓にあった平城(ひらじろ)。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。江戸時代初期、1602年(慶長7)に初代薩摩藩主島津家久(忠恒)の命によって築城され、2年後に完成。城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成されていた。北に本丸、南に二の丸が位置していたが、防御には不向きだったため、裏山である城山を籠城(ろうじょう)のための「後詰めの城」としていた。遺構として石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存しており、私学校の石垣には西南戦争の際についたといわれる弾痕が多数残っている。本丸址には黎明館と呼ばれる歴史資料館がある。JR鹿児島本線鹿児島駅から徒歩15分。JR西鹿児島駅から市電・バスで市役所前下車、徒歩5分。◇古くから鶴丸城(つるまるじょう)と呼ばれている。
出典 講談社日本の城がわかる事典
*『鹿児島(鶴丸)』城跡(鹿児島県)HP→ https://www.pref.kagoshima.jp/ab24/cms/documents/kagosimajou/kagosimajou.html
宮崎県日南市にあった平山城(ひらやまじろ)。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。飫肥市街北部の丘陵に曲輪(くるわ)をいくつも並べた群郭式の城である。戦国時代、城の覇権をめぐって伊東氏と島津氏の間で激しい合戦が繰り広げられ、伊東義祐(よしすけ)が飫肥城主の島津忠親(ただちか)を討ち破って城を奪うが、すぐに島津氏の手に戻った。その後、1588年(天正16)、豊臣秀吉の命により、義祐の子祐兵(すけたけ)が伊東家の居城として入城し初代藩主となり、明治初期まで280年間、14代にわたり飫肥藩を治めた。1869年(明治2)、伊東家が大手門前の豫章館(よしょうかん)に移り、1873年(明治6)には、飫肥城内の建物全てが取り壊された。1978年(昭和53)に大手門が復元された。JR日南線飫肥駅から徒歩約15分。
出典 講談社日本の城がわかる事典
沖縄県の今帰仁城、中城城、首里城は、沖縄県の項へ
飛鳥時代から奈良時代頃に、対朝鮮・中国の情勢に応じて西日本各地の山に築造された防衛施設の総称である。従来、文献に見える山城は「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ(さんじょう)、天智紀山城)」、見えない山城は「神籠石系山城(こうごいしけいやまじろ(さんじょう)、神籠石式山城)」と呼び分けられてきたが、近年の発掘調査により両者の違いが必ずしも明確でなくなりつつあり、これらをして「古代山城」と総称される傾向にある。
文献に見える城は12ヶ所(狭義の朝鮮式山城11ヶ所と中国式山城1ヶ所)、見えない城は16ヶ所(いずれも神籠石系山城)があり、合計28ヶ所を数える。これらは基本的に山1つを防御施設としたもので、山の頂上付近を土塁・石塁で区画しており、大規模なものでは区画の外郭線が数キロメートルに及ぶ。これらの山城は古代に役目を終え、一部の城跡では中世に山城や寺社などが設置され現在に至っている。
[朝鮮式山城]
663年の白村江(はくそんこう)の敗戦後,朝鮮からの来襲をおそれた日本政権が国土防衛のため築造した山城。北九州から瀬戸内海沿岸の重要地点に,亡命百済人の指導で朝鮮様式に築かれた。筑紫国大野城・基肄(きい)城,対馬島金田城・讃岐国屋島城・大和国高安城などがある。多くは標高300〜400mの急峻な地形にある。稜線に沿って石塁または土塁を築き,城内に倉庫群があり,谷間に渓流が流れるか泉があるのが特徴。なお北九州・瀬戸内地方に分布し,宗教施設と考えられてきた神籠石(こうごいし)は,近年の発掘調査によって古代の山城遺構であることが確定的となった。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
[大野城]
663年に白村江の戦で敗れた日本が,唐や新羅の侵略を恐れ大宰府の防衛を目的として築いた古代の朝鮮式山城のうちの一つで,国の特別史跡に指定。現在の福岡県宇美町,大野城市,太宰府市にまたがり,基肄城や水城(みずき)とともに長城をなす。尾根上に約6kmにわたり土塁を築き,谷をまたぐ箇所には石塁が設けられた。城内には建物礎石が70棟ほど確認されている。城跡の一部は〈四王寺県民の森〉となり,憩いの場となっている。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
[神籠石]
福岡県久留米市高良大社をめぐる切石列石を古く神籠石と呼んでおり,九州から瀬戸内一帯にみられる山をめぐる列石遺跡をこの名で呼ぶようになった。高良大社のそれから神域を示す施設との説もあったが,近年の調査で列石の上部には版築の城壁が築かれていることがわかり,古代山城施設であることが明らかとなった。列石列が,高い所では山頂を取り巻くように,山脚の近くではいくつかの小さな谷を取り込んで斜面に斜めに築かれる九州型と,列石列が山頂を鉢巻状にめぐる瀬戸内型がみられる。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
弥生時代
[環濠集落]
外敵の侵入を防ぐために周りを柵で囲み、壕を巡らせた集落のこと。弥生時代の代表的な集落の形態とされ、吉野ヶ里遺跡もその一つ。
出典 小学館デジタル大辞泉
古代(7~11世紀)の城は、本州北東部を征服するための拠点として築いた城柵である。
[出羽柵]
奈良時代、東北地方経営のために今の山形県最上川下流付近に置かれた城柵。天平5年(733)今の秋田市内に移され、のち秋田城となった。でわのき。
出典 小学館デジタル大辞泉
[秋田城]
奈良、平安時代、東北経営のため出羽国に置かれた城。城跡は秋田市寺内高清水岡。指定史跡。最上川河口付近にあった出羽柵(いではのき)を、天平五年(七三三)、北進させたことに始まる。土塁の一部が残る。
出典 精選版 日本国語大辞典
[鎮守府]
(「ちんじゅぶ」とも) 奈良・平安時代、陸奥国で蝦夷地経営に当たった軍政機関。養老六年(七二二)頃には鎮・鎮所などと称されたが天平年間(七二九‐七四九)頃に改称。当初多賀城に設けられ、のち胆沢城(岩手県水沢市辺)・平泉などに移り、鎌倉幕府開設に及んで廃止、建武中興の際一時復活した。鎮守。
出典 精選版 日本国語大辞典
[多賀城]
現在の宮城県多賀城市に築かれた古代城柵。大化改新後、東北開拓の根拠地として陸奥国府、その後、鎮守府が置かれた。
出典 精選版 日本国語大辞典
[胆沢城]
岩手県水沢市にあった古代の城柵。延暦二一年(八〇二)、蝦夷征伐の拠点として坂上田村麻呂が築き、ついで多賀城にあった鎮守府を移す。平安中期に機能を低下させたが、前九年の役頃まであったとされる。
出典 精選版 日本国語大辞典
平安中期以降,各地の武士的土豪により築かれ始めた館(たち)には,13世紀頃から堀と土塁を巡らせたものが現れ,南北朝期には本格的な山城や館と城の機能をあわせもった館城(やかたじろ)が一般化した。室町時代には守護の拠点として巨大な館が成立し,天文年間を境に城下と一体化し居住機能を備えた山城が出現。
出典 『城郭』 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
永禄~天正期に地域性豊かな城館が重層的な社会構成に対応して築かれたが,織豊政権による天下統一とともに地域性が失われ,近世城郭は画一的な織豊系城郭として完成した。
出典 『城郭』 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
戦国時代初期まで「城」と呼ばれるものは圧倒的に後者の山城が多かった。領主の居城では、外敵に攻められた際、領主は要害堅固な山城へ籠り(籠城)、防御拠点とした。こうした山城は、麓にある根小屋に対して「詰めの城」と呼ばれた。例としては、武田氏#甲斐武田氏の躑躅ヶ崎館と要害山城などがある。
前者の領主が平時に起居する館は、麓に建てられた。地域によって「根小屋」「館(やかた/たち/たて)」「屋形(やかた)」などと呼ばれ、周囲に堀を巡らし、門に櫓(やぐら)を配置するなど、実質的に城としての機能を備えていた。周囲には、家来の屋敷や農町民の町並み(原始的な城下町)ができた。
戦国時代中期から城の数は飛躍的に増大し、平地に臨む丘陵に築いた平山城(ひらやまじろ)や平地そのものに築いた平城(ひらじろ)が主流となる。防御には優れるが政治的支配の拠点としては不向きであった山城は数が減っていく。
また、この時期の特徴としては「村の城」とも呼ばれる施設が全国的に造られたことも挙げることができる。これは戦乱が日常化したため、地域の住民が戦乱発生時の避難施設として設けたもので、時には領主への抵抗運動や近隣集落との抗争時に立て籠もる軍事施設としても機能した。これらの施設は山頂に平場を作事するなど純粋な軍事施設の「城」に比べると簡素な造りで、狭小であることが多い。
『日本の城』Wikipediaより
一領国一城の制限令をいう。江戸幕府は大名の統制とその軍事力抑制のための策として、大坂落城直後の元和元年(一六一五)六月、諸大名に対し「分国中、居城をば残し置かれ、其の外の城は悉く破却あるべし」と命じた。さらに同年七月発令の武家諸法度第六条にも同趣意の禁制を反復した。その後寛永一二年(一六三五)の武家諸法度の改正によりこの規定はさらに具体的となって、幕府の諸大名統制に相当の効果をあげた。
出典 精選版 日本国語大辞典
*分国中、居城をば残し置かれ、其の外の城は悉く破却あるべし=藩の中の城のうち、(大名の)住んでいる城のみを残して、住んでいない城はすべて壊してしまいなさい。
江戸時代以降の城は、軍事拠点としての意義が縮小し、政治を執り行う政庁としての役割が強くなる。藩の御用金や年貢米を保管するための蔵が城内に設けられ、これらを守ることが城の主な機能となった。また藩の財政を司る勘定所が設置され、歳出と歳入の計画の立案と記録が行われた。
江戸幕府により、1つの大名家につき原則1つの城を残して破却するよう命じる「一国一城令」が諸大名に向けて発布された。各大名はこれに恭順して家臣たちの城を破却し、大名の居城の城内や城下に屋敷を与えて集住させた(「城主大名」も参照)。1万石以下の領主は城を持つことが許されず、陣屋と呼ばれる屋敷を建てて住い、領地支配を行った。このような陣屋の一部は、江戸末期から明治初頭において城郭化や拡張が行われたものもある。
『日本の城』Wikipediaより
明治時代に入ると、各地の城郭は、兵部省(後の陸軍省)の所管となった。1873年(明治6年)に布告された廃城令によって廃城処分(大蔵省所管)となった城は旧城の建物が撤去され、役所や学校などが置かれたり、神社境内や公園として利用されたりした例もあった。「廃城処分」とは、大蔵省の裁量によって処分することである。彦根城や犬山城のように元城主が邸宅として居住した例もある。一方、存城処分となった城は引き続き陸軍省の所管となり、日本陸軍が駐屯した。
廃城令で約190あった城のうち43が破却された。軍の施設や公共施設を設置するために不要な建物や老朽化の進んだ建物、維持が困難となった建物は撤去されていったが、名古屋城や姫路城に代表される一部の城郭建築について保存運動が行われ、参議であった大隈重信に対して町田久成、世古延世によって『名古屋城等保存ノ儀』が進言されたのに加えて、1874年、彦根城天守について明治天皇に対して大隈重信や二条斉敬の妹(皇后の従妹)などによる彦根城保存の上申や陳情があり、天皇の命によって解体から一転して保存されることとなった。さらに、1878年、日本陸軍大佐の中村重遠が当時陸軍卿だった山縣有朋に対して名古屋城と姫路城の保存を進言した。1879年、陸軍予算による両城の保存修繕が加えられることが決定し、正式に国によって保存されることとなった。
『日本の城』Wikipediaより
1930年および翌年の1931年、国宝保存法で城郭建築200棟が国宝に指定。現存天守は指定を受けなかった彦根城天守を含めて19棟を数えた。しかし、日本陸軍の駐屯地となっていた城跡や城下町から発展した各都市は太平洋戦争末期、アメリカ軍の空襲の目標とされた。1945年には、爆撃や広島市への原子爆弾投下により、名古屋城、岡山城、和歌山城、広島城、福山城、大垣城の天守6棟を含めて1930年以降に国宝(現行の文化財保護法の国の重要文化財に相当)に指定されていた現存建築60棟ほどが損失した[16]。戦後、空襲などを免れた城郭建築の内、1949年に松山城の筒井門とその周囲の建物3棟が焼失。同じ年に松前城では町役場の火災から延焼して天守を焼失した。
『日本の城』Wikipediaより
城の種類
城地の地形による分類の一形態。独立丘陵,小山または連山の峰とその山麓一帯に構築物が設けられた城。山や丘の高さには明確な基準はない。典型的な例は,姫路城,松山城などで,通常は山上に本丸,山麓にかけて諸郭が造られた。近世大名の居城が多い。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
近世城郭の築城形式の一種。近世城郭の主流は平山(ひらやま)城であったが,丘陵地がない場合,平たん地に堀や石垣を巡らし,わずかでも堀を掘った土を盛り上げて本丸を構築。政治・交通の中心となり城下町が発達。松本城・名古屋城など。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
城の造り
築城に際しての基本設計を縄張(なわばり)あるいは径始・経始(けいし)といい、その中心は曲輪の配置にあった。“縄張”の語源も曲輪の配置を実地で縄を張って検証したことに由来するとされる。近世に入ると、軍学者たちにより、様々な分類・分析がなされた。縄張の基本的な形式としては、曲輪を本丸・二の丸・三の丸と同心円状に配置する「輪郭式(りんかくしき)」、山や海・川を背後に置き(後堅固)本丸がその方向に寄っている「梯郭式(ていかくしき)」、尾根上などに独立した曲輪を連ねる「連郭式(れんかくしき)」などがあるが、実際にはそれらの複合形を取ることが多い。
『日本の城』Wikipediaより
城を構成する区画で,陣地や屋敷地のために作り出された平場のこと。歴史的名辞や固有名詞としては曲輪の字を用いるが,最近の城郭研究では郭(くるわ∥かく)の字を用いることが多い。山城では背後を削り取り,その土を前面に盛って造成する。単なる屋敷地や畑の段と異なって防御された平場とするために,壁面を急傾斜の切岸状にするほか,縁辺に土塁を盛り上げたり,外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。近世城郭では天守を備えた中心の郭を本丸,その外側に隣接して城主の館邸の設けられた郭を二の丸,さらに外側の家臣屋敷などの並ぶ郭を三の丸と呼ぶのが普通で,その他の諸郭に西の丸などの方角,あるいは人名を冠した呼称が用いられる。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
日本の城郭は,一の丸,二の丸など数個の郭 (くるわ。曲輪とも書く。土塁,石垣で区画された防御単位) から成るが,そのなかで最も主要な郭をいう。本丸には天守と城主の居館があり,したがって最後まで死守すべきものとして,普通,城郭の最深部に位置する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
城郭で、本丸の外がわの郭。
※上杉家文書‐(年月日未詳)(近世か)馬場信房伝授軍法并城取法覚「城とり之第一は馬出之取様肝要に候、たとへ三の丸二の丸へおしこみ候共、そのくるわの内にても持かへすやうに致す物也」
出典 精選版 日本国語大辞典
城郭の二の丸の外側の濠、石塁、または土塀で囲まれた部分。二の丸の外郭。さんのくるわ。
※信長記(1622)一下「敵みかた入みだれ散々にきりあひ撞合(つきあひ)けるが、終(つひ)に三丸(さんノマル)までをし詰、猶息をもつがせずせければ」
出典 精選版 日本国語大辞典
城郭の一部で、本丸の西方にある一郭をいう。本丸に対する西丸。
※松隣夜話(1647頃)上「城主入道謙忠は西の丸穴門の内一段底き地に陣を打」
出典 精選版 日本国語大辞典
天主,殿守などとも書き,天守閣とも。城郭建築の中心をなす櫓(やぐら)で,戦国時代に居宅の上の望楼が発展し,武備を兼ねて堅固になったものとされる。関ヶ原の戦後,構造的にも発達し,外観は3層と5層が多く,白亜の総塗籠(ぬりごめ)の手法がとられるなど美的要素も多くなった。江戸時代には城主の権威の象徴としても重視され,装飾化が進んだ。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
[鯱鉾]
宮殿、楼門、城郭などの屋根の大棟の両端に取り付けられる瓦(かわら)、または金属製の飾り物。トラに似た頭、ハリネズミのように鋭いとげのある皮、ひれをもち、人をかみ、老いると鮫魚になるという、想像上の魚形海獣をかたどっている。雌雄一対をなし、海にすむところから防火の効があるとされ、逆立ちをして反り返った姿につくられている。鴟尾(しび)が変形したものという説もある。名古屋城天守閣上の金の鯱鉾は、もっとも著名である。また、そのいかめしくこわばった形状により、「しゃち(ほ)こだつ」「しゃち(こ)ばる」「しゃちばりかえる」などのことばが派生した。なお、マイルカ科のサカマタ(シャチ)、マツカサウオの異名でもある。[兼築信行]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日
天守の形式は望楼型・層塔型の2つに大別されている。ただし、発展の順序において層塔型が先か望楼型が先かは結論が出ていない。
構造上では、望楼型と層塔型に分けられ、外観上、特異なものには特に規定はないものの復古・略式・唐造・八棟造などと、さらに細かく分けることがある。近現代の復興天守や模擬天守など復興建築も、現存建築に倣って、望楼型・層塔型と分類されている。ここでの望楼型と層塔型は、主に外観と構造による分類によって記す。
望楼型は、入母屋造りの櫓上に小型の望楼を載せたような形式である。おもに、入母屋造の平櫓の上に望楼を載せたようなものや、入母屋造の重箱櫓に望楼を載せたような形のものがある。入母屋造の櫓の上に望楼を別構造で載せているので、初重平面が歪んでいても、上重の矩形は整えることができる。基部の屋根に「入母屋破風」が必ずできるので、堂々としたデザインとなる。
初期望楼型
関ヶ原の戦いを境として、それ以前に造られたとされる岡山城や広島城の天守など、屋根の逓減率が大きく、望楼部分が小さく造られているものを初期望楼型という。
◎主に関ヶ原の戦い以前
広島城大天守
岡山城天守
松本城大天守(創建当時)
など
構造が確認できる現存天守
丸岡城天守
犬山城天守
◎後期望楼型天守(姫路城)
関ヶ原の戦い以降に造られた姫路城天守のような、屋根の逓減率が小さくなり、望楼部分の物見の要素が減少したものを後期望楼型という。
主に関ヶ原の戦いから寛永年間
熊本城大天守
萩城天守
など
構造が確認できる現存天守
彦根城天守
姫路城大天守
松江城天守
『天守』Wikipediaより抜粋
天守の形式は望楼型・層塔型の2つに大別されている。ただし、発展の順序において層塔型が先か望楼型が先かは結論が出ていない。
構造上では、望楼型と層塔型に分けられ、外観上、特異なものには特に規定はないものの復古・略式・唐造・八棟造などと、さらに細かく分けることがある。近現代の復興天守や模擬天守など復興建築も、現存建築に倣って、望楼型・層塔型と分類されている。
層塔型天守は、関ヶ原の戦い後より見られ、元和・寛永年間以降に主流となった型式で、寺院の五重塔のように上から下までデザインに統一感がある。望楼型のように基部と望楼部で平面形を変えることはできず、1層から最上層まで全てきちんとした矩形になる。
上に行くにつれて平面規模が逓減し、最上重の屋根だけを入母屋としたもの。直接基部となるような大入母屋は造られないから、最上層を除くと破風は必須ではないし、実際、破風のないものもある。ただし、単調さを避けるために千鳥破風や唐破風で飾る場合が多い。複数階を貫く大入母屋や、歪んだ平面構造を有さないため、構造的には簡便で大型化し易い。特に中井正清による徳川家の巨大天守ではその特徴が生かされ、外部を作る躯体工事と内部の仕上げを行う造作工事の分離や、各階毎の分担作業による効率化と工期短縮が行われた。
名古屋城天守
小倉城大天守
福山城天守
など
構造が確認できる現存天守
弘前城天守(御三階櫓)
松山城大天守
宇和島城天守
『天守』Wikipediaより抜粋
公の儀式、政務をとり行なう正殿。正寝(せいしん)。⇔奥御殿
出典 精選版 日本国語大辞典
一例:彦根城表御殿(彦根城HP『彦根城 表御殿』より抜粋)
表御殿は、元和(げんな)2年(1616年)に開始された元和期の普請によって新たに建造されたもので、彦根藩の政庁であるとともに藩主の居館(きょかん)でもあった建物です。城郭の構成がほぼ整った元和8年(1622年)頃までには完成していたものと思われます。
以後、表御殿は解体されるまで、250年余を彦根藩の歴史とともに歩みました。
表御殿は、大きく「表向き」と「奥向き」に分けられます。
表向きは、玄関棟、御広間(おんひろま)棟、御書院(ごしょいん)棟、笹之間(ささのま)棟、表御座之間(おもてござのま)棟、台所棟など大きく6棟のまとまりに区分され、これらはさらに数室の部屋から構成されていました。奥向きのほぼ2倍の面積を有しており、公的行事や藩政実務が行われた空間でした。
一方、奥向きは藩主の私的な生活空間として設けられていました。基本的に、江戸城本丸御殿における大奥(おおおく)のような3つの機能をもった空間、つまり藩主の居間の機能をもつ「御殿向(ごてんむき)」、奥向きでの役務を管理する役人や御殿女中の詰所と奥向き台所のある「御広敷(おんひろしき)」、御殿女中の居間・寝所にあたる「長局(ながつぼね)」などに分かれていました。一歩奥向きに入ると、そこは藩主のくつろぎの空間であり、表向きとは往来が厳しく制限されていました。
◎『「表御殿(おもてごてん)」の調査-彦根藩の「表御殿」を復元した彦根城博物館-』(彦根城HP)
[やぐらの起源]
簡単な物見の建物が発達したものとする説。
「矢倉」・「矢蔵」を本来の呼称と見て、武器庫が発達したものとする説。
「矢の坐」すなわち「弓を射る場所」が原型だとする説。
初期の頃は、『後三年合戦絵詞』や『一遍上人絵伝』など中世の絵巻物に見られるように、篭城戦での防御・物見のための仮設の建造物としての要素が強かったが、戦国時代後期、近世城郭が築かれ始めると、櫓の柱は礎石の上に建ち、防火と防弾を考慮して厚い土壁が塗られ、屋根は瓦が葺かれるなど恒久的な建築へと発展した。織田信長の近畿平定の頃からは、その家臣団達の居城に建てられ始め、全国的に広まった。
[安土桃山時代]
豊臣秀吉が天下統一をなし遂げた天正末期より築造され、高石垣とともに瓦葺の櫓は豊臣系大名の築城した城郭に特有の構造と指摘される。特に西国の城では二重櫓や平櫓を多く建て並べた。この頃のものは構造も旧式といわれている望楼型が主流である。
なお、この時代の櫓は天守を除き現存するものがなく、最古の櫓として残るのは関ヶ原の戦い以後の慶長6年(1601年)前後に建てられた熊本城宇土櫓、福山城伏見櫓(伏見城からの移築)である。
[江戸時代以降]
関ヶ原の戦い後、各地に移封され、大幅に加封された外様大名達によって次々に城が築かれ、既存の城も多くで改築を施された。この時期、徳川幕府による天下普請の媒介もあり、近世の築城技術が全国に広まった。天守を除き現存する櫓のほとんどはこの時期に建設されたもので、関ヶ原の戦い以前に上げれたものは現存例がない。現存しないものも含め一城郭内での櫓数は多い順に、広島城76棟、姫路城61棟、津山城60棟であった。
櫓も元和頃までに大きく発達し、構造は新式の層塔型が主流になり、機能では石落とし・狭間が増加し、隠狭間が登場した。
慶長末期になると、外様大名による築城は幕府への遠慮などにより自主的に憚られるようになった。さらに大坂の陣後、1615年(元和元年)7月に2代将軍の徳川秀忠が伏見城で諸大名に発布した武家諸法度によって新規築城が原則禁止されると、天下普請による大坂城再築や、福山城など一部の譜代大名を除いて城は築かれなくなり、櫓も次第に実戦から離れていった。天守を失った城では江戸城の富士見櫓のように櫓が天守を代用することもあった。
明治まで、城には多くの櫓が立ち並んでいたが、廃城令に伴う取り壊しや火災、幕末から明治初頭にかけての日本国内の紛争や第二次世界大戦時の都市空襲などの戦災によって失われた。櫓の現存数は現在109棟である。
『櫓(城郭)』Wikipediaより抜粋
[三重櫓・二十櫓・平櫓]
それぞれ3重・2重・1重の屋根を持つ櫓。階層はこれに準じない場合がある。
[隅櫓(角櫓)]
曲輪の隅に配置される櫓。その方位・位置により二十四方位にちなんだ名称が与えられることが多い。たとえば東南(辰巳)に配置された櫓は、「巽(辰巳)櫓」など。
[多聞櫓(多門櫓)]
多門とは長屋状の建物のことで、明治以降に多聞と書かれることが多くなったといわれる。1565年(永禄8年)成立の『築城記』に載る「ハシリ矢グラ」の形態が発展したものと阿部和彦は解説している。名称の由来は、最初に松永久秀が多聞城にこの長屋形式の櫓を建てたことからと『和事始』に載り、また『甲子夜話』には楠正成(幼名多聞丸)が渡櫓内に多聞天を祀ったからであるという北条氏長談として載せている。宮崎市定は、久秀が中国の城郭建築の城門の上に立てる楼閣(門楼)から発想して創築したものではないかと推測している。
同形の櫓を多聞櫓と呼ばない場合もある。金沢城では「三十間長屋」「五十間長屋」というように多聞櫓を長屋と称し、熊本城では十四間櫓や北十八間櫓と長さで称している。櫓の間を繋ぐように建てられたものは「渡櫓」という。門の上のものは「櫓門」、櫓門から連続した多聞櫓は「続櫓」と呼ばれる。
平時には住居や物置も兼ね、江戸城のように武士の名簿(『江戸城多聞櫓文書』)を保存してあったという例もある。
同じく、『櫓(城郭)』Wikipediaより抜粋
城を含んだ幕府による各国の絵図
17世紀半ばに徳川幕府が各地の城持ち大名に命じて提出させた、統一的な描写の城絵図である。
正保元年(1644年)12月、徳川家光は全国の大名に対して、国絵図・郷帳とともに城絵図の作製を命じた。提出期限を示さなかったため実際の提出年紀はまちまちだが、4~5年のうちに提出されたと考えられている。「城郭を中心とした軍事施設」を主題とした主題図であり、記される文言は原則として、軍事上重要な事柄に限られる。提出された絵図は、江戸城内の紅葉山文庫に収められた。文化年間に幕府書物奉行であった近藤正斎の記録には157点の正保城絵図があったことが記され、これが提出の総数であった可能性が指摘されている。幕府は正保城絵図以降、改めて大名に城絵図を一斉に提出させることはなかったが、藩側の判断で元禄国絵図作製の一環として城内絵図・城下絵図を作製した例もある。正保城絵図の提出は、城の軍事性を完全に幕府が把握するということを通じて、徳川幕府の絶対的な権威を諸大名にはっきり認識させる意味を持っていた。
正保城絵図の表記の基準については幕府から大名に文書によって通達された。
現在、紅葉山文庫の文書・絵図を受け継いだ国立公文書館内閣文庫に伝存する正保城絵図は63点である。すべてが1986年、国の重要文化財に指定された。また紅葉山文庫からの流出品として若松城・高田城・仙台城の城絵図が現存する。
『正保城絵図』Wikipediaより
江戸幕府が、1644年(正保1)初めて諸大名に命じて調進させた国ごとの地図。全国80余枚よりなる。その後、元禄(げんろく)、天保(てんぽう)期に改訂地図が作成されている。[編集部]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[国絵図]
江戸幕府が諸大名に命じて調進させた国ごとの地図。初め1644年(正保1)にこの地図作製の法令が出され、その後、村落や石高(こくだか)の異動を修正するため1696年(元禄9)と1835年(天保6)の2回改訂命令が出て、江戸時代を通じて合計3回つくられた。その年代を冠して、それぞれ正保(しょうほう)、元禄(げんろく)、天保(てんぽう)国絵図とよんでいる。いずれも数年間を費やして全国80余枚の地図が完成した。良質の料紙を用い、2万1600分の1の縮尺により、狩野(かのう)派の御用絵師が極彩色で細密に描いたので、わが国の古地図のうちでもっとも壮大、豪華、美麗な地図ができた。そのほか国絵図の特徴は、内容が正確で信頼性が高いことと、村名や石高を明示した財政地図の性質をもつ点にある。その村名や石高は、姉妹編としてほぼ同時に編集された国ごとの『郷帳(ごうちょう)』と一致する。なお、山、川、道路、一里塚は描かれているが、郡、村の境界や所領関係の記載はない。幕府に献上された国絵図は維新後、明治初期の日本地図作製の参考資料として利用された。「天保国絵図」全部と「元禄国絵図」の一部は国立公文書館に保存されており、その転写、縮写図や、諸藩が調進のためにつくった関連地図類は各地の図書館にも所蔵されている。[福井 保]
『福井保著『内閣文庫所蔵の国絵図について』(『内閣文庫書誌の研究』所収・1980・青裳堂書店)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[郷帳]
江戸幕府の命令で,諸大名らにより国絵図とともに作成・提出された,1国単位に各村の村高を書き上げた帳簿。国郷帳とも称される。1604年(慶長9年),徳川家康は豊臣秀吉による国絵図・御前帳(ごぜんちょう)(検地帳)の作成命令と徴収をほぼ踏襲し,国絵図・御前帳(郷帳)の作成・提出を命じた。その後1644年(正保1年)・1697年(元禄10年)・1831年(天保2年)に作成の命が出され,これにより提出された郷帳はおのおの慶長郷帳・正保郷帳・元禄郷帳・天保郷帳と通称される。作成はその国に領知をもつ大名が担当し,複数の大名がいる場合は担当大名が幕府から指定されたとみられる。ただし天保郷帳は各領主から出された郷村高辻帳をもとに幕府勘定奉行所で集計・作成された。したがって諸大名らの手元に天保郷帳の控は存在しない。正保郷帳は1村ごとの村高・村名,田畑別の高,領主名,芝山・生(は)え山等を記す。なお朱印改の際に領主ごとに作成された領内の村高・村名を記す郷村高辻帳・郷村高帳,地方三帳の一つ成箇(なりか)郷帳(御取箇郷帳)も郷帳と称される。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
江戸幕府が正保年間に作成した日本地図。1644年(正保1年)諸侯に命じて上呈させた〈正保国絵図〉をもとに編纂(へんさん)されたもの。当時としては正確なもので,縮尺は図上2分または4分が1里に相当。前者が現存する。日本全体の正しい平面形,河川,湖沼,街道,航路,城下町,村,駅,港,里数などを記入している。同じ時に松前藩主から上呈された〈正保蝦夷(えぞ)図〉には北海道のほか樺太,千島なども含まれていた。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア