2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
出処:J-LIS地方公共団体情報システム機構
2021年日本地理に吉野川を中心とした徳島県全体についての出題があった。
四国の中央部を東流する川。通称四国三郎。全長 194km。四国山地の中央部を占める石鎚山脈南斜面に発して東流,高知県,徳島県の県境付近で流路を北に変え,四国山地を横切る横谷となり,大歩危・小歩危の峡谷を形成する。銅山川,祖谷川の支流を合わせて再び東流,四国山地の北縁をなす中央構造線に沿って縦谷を流れ,徳島市で紀伊水道に注ぐ。四国第1の長流で,流域は四国4県に及ぶ。上流部では深い峡谷を形成し,多くのダムが建設されて四国の電源地帯になっている。古くから四国の南北を結ぶ交通路として重要な役割を果たしてきた。三好市の池田付近から下流は徳島平野で,細長い谷底平野では畑作が中心。河口部の三角州は江戸時代に開発された新田が多く,豊富な水量と地下水に恵まれ,その一部は徳島工業地区を形成している。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
徳島県美馬みま市の地名。吉野川北岸に位置し、江戸時代より藍の集散地として発達。うだつ(袖壁)を備えた歴史的建造物の並ぶ一画は、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている。
出典 小学館デジタル大辞泉
地区名:美馬市脇町南町
種別:商家町
面積:約5.3ヘクタール
選定年月日:昭和63年12月16日
特徴:美馬市脇町南町伝統的建造物群保存地区は、徳島県の中央、吉野川北岸に位置する。
江戸時代より阿波藍の集散地として繁栄した。
18世紀初頭以降の各時期の町屋が数多く残り、かつての繁栄をよく示している。町屋は本瓦葺・大壁造の重厚な構えと装飾的な「うだつ」などに特色がみられる。
[阿波藍]
江戸時代、阿波徳島藩が専売品とした特産の染料。藍は紅花とともに染料の代表といわれたが、阿波(徳島県)で本格的な栽培が行われるようになったのは、1585年(天正13)に蜂須賀家政(はちすかいえまさ)が入部して旧領の播州(ばんしゅう)(兵庫県)から種子と技術を導入し、栽培を保護、奨励したことに始まると伝えられる。1625年(寛永2)には藩の藍方役所が置かれ、藍の保護と統制に乗り出しているが、1733年(享保18)に藍方奉行所(ぶぎょうしょ)を新設して葉藍(はあい)専売制の強化を図った。1800年(寛政12)の調査では作付面積1600町歩、藍玉(あいだま)生産高17万9000俵で、その主産地は吉野川下流域の名東(みょうどう)、名西(みょうざい)、板野(いたの)、阿波、麻植(おえ)の各郡にまたがり、全国の市場をほぼ独占して藩財政を支えていた。しかし19世紀末にドイツから化学染料が大量輸入されたことにより急速に衰退していった。[三好昭一郎]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[うだつ]
建築用語。梁上の短柱,すなわち束 (つか) 。うだち (宇太知,宇立) ともいう。また,妻壁には必ずうだつがあるところから,転じて妻壁をいう。なお,切妻造民家の妻に一段高く屋根をふいたところを本卯建 (ほんうだつ) といい,さらにその下方が軒下に出て袖壁となったものを袖卯建 (そでうだつ) というようになった。元来は家の格を示すものであったが,塗屋造では防火壁になる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事
2021年にこのキャラクターの名前を問う出題があった(徳島県の特産物を同時に問う)。
徳島県で主に活動する地域キャラクター。1993年登場。同年開催の「東四国国体」のマスコットキャラクターとして制作。また2003年開催の「ねんりんピック」のマスコットキャラクターにも採用。その後県のイメージキャラクターとして各所で活躍。同県の特産品であるすだちがモチーフ。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
徳島県三好市東祖谷、美馬市木屋平、那賀郡那賀町木沢の間に位置する標高1,955mの山。徳島県の最高峰で、深田久弥の日本百名山に四国では石鎚山とともに選定され、徳島県では県のシンボルとされている。別名太郎笈(たろうぎゅう)と呼ばれ、南西側の次郎笈と対峙する。
剣山は千数百メートルの山々が連なる四国山地の東部にあり、同じく四国山地西部の愛媛県の石鎚山に次いで近畿以西の西日本では2番目の高峰である。一帯は剣山国定公園に指定され、山頂には一等三角点「剣山」が設置されていて、一等三角点百名山にも選ばれている。
修験道の山として古くから知られ山岳信仰の対象とされ、一ノ森経由の表参道の登山拠点には藤之池本坊龍光寺と劔山本宮劔神社があり、見ノ越には円福寺と劔神社がある。また、中腹には西島神社と劔神社の本社である大劔神社、山頂には劔山本宮宝蔵石神社などがあり、山頂近くには「行場」と呼ばれる修行用の難所や祠がある。
伝えによれば安徳天皇の剣を山頂に埋め、これを神体としたから剣山と呼ばれるようになったという。
劔山御神水(つるぎさんおしきみず)は、山頂部の石灰岩が風化した浸水性のある岩石で、積雪や雨水が帯水され少しずつ湧水している。祖谷川の源流であり、水量は少ないが常に湧き出ている。大劔神社の御神水とされている。
環境省レッドリストにより「絶滅のおそれのある地域個体群」に評価されているツキノワグマの四国山地個体群が分布している。これらのことより、国指定剣山山系鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積10,139ha、うち特別保護地区1,189ha)。
ニホンジカの急増が問題になっており、シカが下草を食べることで昆虫が減少しコマドリが従来の生息域で見られなくなるなど、影響が出ている。
4月中旬~11月末頃運行の剣山登山リフト(冬季は運休)は、見ノ越駅(標高1420m)から登山道中央付近の西島駅(標高1750m)までの全長830mを15分で結ぶ、残りは刀掛ノ松コース(尾根道コース)だと900m約40分で山頂エリアに達し、もう一つの大劔神社経由のコースだと1200m約60分で山頂エリアに達する[9]。日本百名山の中では筑波山や伊吹山、大台ヶ原山と並び、最も登りやすい山のひとつでもある。さらに頂上標識から約1時間で次郎笈へ、頂上ヒュッテから約40分で一ノ森へ行ける。
参考:『剣山』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E5%B1%B1
参考動画:『【四国のチベット】山奥の限界集落にポツンと“世界一のコンビニ” その魅力は?【徳島】』2022年1月7日放送分 ABCテレビニュース(youtube) https://youtu.be/HLaTNGHJOfA?si=LQES3p5Imrci-VCF
世界一美しいコンビニ
標高1000mの山々に囲まれた山あいの町で徳島県と高知県の県境の村である徳島県那賀町木藤地区(旧木藤村)は、自然豊かで四国のチベットとも呼ばれるが、この村に未来コンビニがある。人口1000人の村の生活を支え、交流を生み出している。2020年4月オープン。
大きな窓に黄色い柱で姿は近未来的。世界一美しいコンビニと呼ばれるが、
世界三大デザイン賞レッド・ドット・デザイン・アワード(ドイツ)『ベスト・オブ・ザ・ベスト』受賞
日本最大級の空間デザインアワード日本空間デザイン賞2021(日本)『ショップ空間部門金賞』及びグランプリ『KUKAN OF THE YEAR 2021』W受賞
German Design Award(ドイツ)『エクセレント・アーキテクチャースペシャルメンション賞』
など10冠を獲得し、世界一美しいコンビニとなっている。
黄色の柱は、トラス構造となっているが、黄色く塗ることで名産の木藤ゆずをイメージしたデザインとなっている。
店内には地元で作られたゆず製品が並び、「ゆずカフェ」も併設されている。
8:00AM~7:00PM 木曜定休
コンビニと言うよりはスーパーのような品ぞろえも多い。近くのスーパーまで車で一時間。買い物弱者を救うのが目的の一つ。コンビニを作ったのは地元出身の実業家の会社で、ゆずの生産・加工、キャンプ場の運営などを行っている。代表の藤田氏は、収益をしっかり上げることが重要とし、他県や東京からも来てもらって「外貨」をしっかり稼ぐことを考えないで地元の人だけが便利なだけでは持続の可能性が困難なことになってしまうと考えている。斬新で洗練されたデザインも県外から人を呼び込むだというが、一日に400人の人が訪れ、購入客数がオープン以来、のべ約5万5000人が、この人口1000人の村のコンビニを訪れている。
観光施設としての役割と子供たちがアートに触れる機会を作る役割もある。子供の買い物体験、カフェを利用して読み聞かせ会、他地域との交流会の場ともなっており、毎日魅力を世界に発信してもいる。
詳しくはホームページ→https://mirai-cvs.jp/
参考:『小豆島ってどんな島?』(小豆島旅ナビ) https://shodoshima.or.jp/what/
小豆島は、瀬戸内海国立公園の中心地で、広さはわが国で19番目の島。20余の属島を含め、169.86㎢の面積をもつ。
人口は約2万8千人。(2017年現在) 古くは、吉備・備前の児島郡に属したが、弥生時代から塩が生産され、御名代地や皇室、神社などの塩荘園として発展した。瀬戸内海の要衝にあって、漁業、造船、廻船業も盛んであったが、豊臣家の蔵入地となり、さらに江戸幕府からも加子浦に指定された。 また、10世紀ごろからこの島は海賊の拠点のひとつであったようで、紀州熊野水軍や伊予村上水軍とも連携があった。近世に幕府などの直轄地となったのは、島の水軍利用のためである。 江戸時代、良質で知られた塩が生産過剰になると、醤油の産地に転換、素麺、石材などとともに、島の経済を支えてきた。江戸中期には、讃岐高松藩の預り地となり後期には、島の東部が伊予松山藩の預り地になるなど、離島らしいいくつもの変遷がみられた。 1838年には島の西部が美作津山藩領となったが、明治になって香川県に所属、1878年に小豆郡を形成した。44を数えた村が次第に統合され、1957年に土庄町・内海町・池田町の3町になった。2006年には内海町・池田町が合併して小豆島町が発足し、現在は土庄町・小豆島町の2町から成る。(2017年現在)
参考:『小豆島』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E5%B3%B6
小豆島(しょうどしま)は、瀬戸内海・播磨灘にある島。行政区分は香川県小豆郡に属し[注釈 1]、小豆島町、土庄町の2町からなり、人口は2万5881人(2020年度推計)。近年、人口が減少の一途をたどっており、2013年6月24日に隣接する沖之島とあわせて、国土交通省より「離島振興法」の指定を受けた。
古代には「あずきしま」と呼ばれ、その後、中世までは「しょうずしま」と呼ばれた。素麺、醤油、佃煮、胡麻油、オリーブなどの生産が盛んであり、いずれも日本有数の生産地となっている。特にオリーブは国内栽培の発祥地として広く知られる。また、小説『二十四の瞳』の作者壺井栄の故郷としても知られ、小豆島をロケ地として、同小説はこれまで2回映画化された。
小豆島は、香川県の県庁所在地高松市の約20km北東沖に位置し、同県最大の島である[3]。 正確には2つの島で、両島間にはギネスブック認定の世界で最も幅の狭い土渕海峡(最狭幅は9.93メートル)があるが古くから橋で陸続きであり、慣例的に1つの地域として扱われている。特に区別する際には小さい方の島(海峡を挟んで西側の島)を前島(まえじま)と呼ぶこともある。
瀬戸内海では淡路島に次いで2番目の面積で、日本の島においては19番目の大きさである。横に向いた牛が西を見ているような特徴的な形で海岸線は変化に富み、多数の半島と入江がある。南側には池田湾、内海湾がある。温暖な瀬戸内海式気候を活かし、オリーブやミカン、スモモなどの栽培が行われている。
本州島、四国島から橋梁、トンネルなどでつながっていない非架橋の島としては、瀬戸内海で最多の人口を有する島である。また、2023年時点では空路が存在しないため、船でしか渡れない離島としては日本国内で最多の人口を有する島である。1日に発着するフェリーの本数は日本有数である。
2023年日本地理に出題。
参考:『直島に初めて来られる方へ~まずお読み下さい』直島観光旅サイト https://naoshima.net/naoshima/
参考:『直島 香川の島旅にでかけよう』うどん県旅ネット(公益社団法人香川県観光協会)
https://www.my-kagawa.jp/shimatabi/feature/shimatabi/naoshima
参考:『直島町』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E5%B3%B6%E7%94%BA
直島町(なおしまちょう)は、香川県の町で、香川郡に属する。瀬戸内海上に浮かぶ直島を中心とした直島諸島の島々で構成される。
いくつかの島は、三菱マテリアル直島製錬所の操業により煙害ではげ山となっていたが、戦後まもなくから植林の努力は続いている。特に荒神島の緑は近年見事なまでに復活している。北側一帯の木が枯れたように見えるのは2004年(平成16年)1月の山林火災のためであり、現在は煙害は無いに等しい。
直島の南側は緑豊かな海岸となっており、瀬戸内海国立公園に指定されている。
本土の陸地自体への距離は当町が所属する香川県よりも岡山県の方が近いが、県庁所在地への距離は香川県の方が近く、岡山県庁(岡山市)が約23.1kmなのに対し香川県庁(高松市)は約14kmである。井島は岡山県と香川県の県境が存在し、南側が直島町に属している。井島は日本本土以外で唯一島内に県境を持つ有人島であるが、現時点で直島町側は無人となっている。
名所・観光スポット・祭事・催事
家プロジェクト「はいしゃ」
ベネッセアートサイト直島 …ベネッセコーポレーションが島内各地で行ってきたアート活動が、古民家や路地など美術館内部に納まらない規模になってきたため、2004年(平成16年)7月より「Benesse Island 直島文化村」ほか島内のアート活動の総称をベネッセアートサイト直島に改称した。以前からの企業コレクションであった美術品も多いが、ベネッセハウスの構造や瀬戸内の景観、集落の歴史などを踏まえて、直島だけのために構想し制作・設置され、直島以外では見られないサイトスペシフィックな作品が増えてきたのが特徴。
ベネッセハウス
ホテル部分(本館「ミュージアム」、小型ケーブルカーで登る山頂の別館「オーヴァル(旧称アネックス)」、新館「パーク棟」・「ビーチ棟」)
美術館部分(旧称・直島コンテンポラリーアートミュージアム)
テラスレストラン
スパ(アロマセラピー・サロン。温泉ではない)
シーサイドパーク(旧称・直島国際キャンプ場)琴弾地浜に面する。2005年(平成17年)9月1日から新ホテル(ビーチ、スイート2006年(平成18年)5月20日オープン)建設のため廃止
家プロジェクト …島内の集落の古民家の保存、修復などに現代美術のインスタレーションを組み合わせたもの。名前は屋号やかつてあった寺社に由来。
角屋(宮島達男作品を展示)
南寺(ジェームズ・タレル作品を展示。設計:安藤忠雄)
きんざ(内藤礼作品を展示)※事前予約制
護王神社(設計:杉本博司)
石橋(千住博作品を展示)
碁会所(須田悦弘作品を展示)
はいしゃ(大竹伸朗作品を展示)
本村ラウンジ&アーカイブ(空間設計:西沢立衛) …アートサイト直島の資料の収集と公開。
地中美術館 クロード・モネ、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレルの3人の作品を、本人たちの構想を最大限生かしながら設置するために、山の上の塩田跡の地下に建設された。設計は安藤忠雄。地下にありながら自然光を採り入れ1日のうちでも時間によって作品の見え方が変化するのも魅力のひとつである。公益財団法人福武財団が運営する。2018年8月1日より予約制となり、事前にオンラインで15分ごとの日時指定によるオンラインチケットを購入する必要がある。予約なしで訪問する場合、予約の空き状況により入館を待ったり、繁忙日の場合入館できない場合もある[15]。
ふるさと海の家「つつじ荘」(設計 石井和紘) …琴弾地浜に面した公設民営宿泊施設。
昭和50年代に大ヒットした演歌『おやじの海』を記念した碑がある。作詞作曲者は直島出身、現在も直島在住でマルチな活動をしながら作詞作曲も続ける佐義達雄、歌唱は秋田県出身で当時直島製錬所で佐義と同じ職場で働いていた村木賢吉。職場で知り合ったアマチュアの自主制作した楽曲が全国ヒットのミリオンセラーに輝くことは当人達にとってもまったく予想外だった。
2006年(平成18年)4月から新体制で運営。大広間、大広間付属の台所、オートキャンプ場などが改装され従前には団体が宿泊できた大広間には宿泊できなくなった。オートキャンプ場に旧国際キャンプ場のパオが移転したため、テント持込でキャンプができる場所は事実上直島から無くなった。「琴反地」「泊ヶ浦」「姫泊」「納言様」の個室は従来どおり宿泊可能。
直島建築作品(設計 石井和紘)
直島町役場、直島幼児学園、直島小学校、直島中学校、総合福祉センター、直島町体育館、直島町民武道館など。学校・体育施設が島の中央に文教地区を形成している。各施設を一連の建築作品群にするアイデアはかつての町長・三宅親連のもので、1970年代以来一貫して石井和紘が手がけており、風土に合った意匠や、町の将来の飛躍をシンボライズしたデザインが特徴である。特に本村にある直島町役場は、安土桃山時代の名建築「飛雲閣」を参考に設計され集落の中に溶け込んでいる。
直島釣り公園
島の南端に固定桟橋や浮き桟橋、釣りいかだが海に浮かんでいる。好スポットとして人気が高い。
007(赤い刺青の男)記念館
直島町、ベネッセハウスが小説の『007/赤い刺青の男』に実名で登場することを記念して創られた、007資料展示ルーム(特記事項参照)。
直島銭湯「I♥湯」
大竹伸朗の美術作品かつ銭湯。大竹が得意とする手法「スクラップブック」をふんだんに用いた大胆なデザインが若者に人気。
なおしま・みやのうら海の駅
2006年(平成18年)10月4日にオープンしたSANAA設計によるフェリー・ターミナル。新鋭の建築家チームSANAAの設計。海の駅の名を冠してはいるが島外からのビジターが持ち船を係留できる施設ではない。乗船券売り場、売店、待ち合いホール、カフェ、観光案内所、ギャラリーがある。
2023年日本地理試験で象頭山に触れる出題があった。
参考:『象頭山』文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/139607
象頭山は愛宕山琴平山大麻山などからなる独立山であって、那珂平野の南端に位置し、その地理的環境からまことに美しいながめが数か所にある。たとえばその一つである大麻山の山頂北端にあって東から北え、北から西えと視野を展開させると、前方に那珂の平野があり、瀬戸の多島海を隔てて遠く中国の山脈が横たわる。
那珂平野はよく耕作された田畑の中に池が点在しその間に白壁の農家が散見されてこの地方独特の田園風景をなしている。平野を南から北え流れる土器川はその白く光る水流とその堤防の濃緑の松並木とによって讃岐富士の名で知られる端麗な姿の飯野山のふもとを飾り、飯野山をして焦点的存在たらしめている。瀬戸内海には、大槌島、与島、本島、広島、高見島、佐柳島、眞鍋島、粟島など多数の島が白砂青松のよそおいを紺青の海上に浮び、白帆はこれらの間に点々とし、その西部には仁尾、詫間、観音寺の景勝地があり、遠く燧灘につらなる。そして秋冬の候空気のすみわたった日には中国山脈の山容は多島海のかなたにけむり空気さらに透徹する日には山脈を越えて伯耆の大山をも望みうるという。また目をひるがえして南方を望めれば、四国山脈と阿讃山脈との連峯がそびえ、北方の風景に対して対照的役割をなしている。以上いわば那珂平野の人文的景観と内海と山脈との自然的景観とから、かもし出されるながめは、まことに特殊な風景美を構成しているということができる。その他の数ヶ所の展望地点からも大麻山北端とほぼ同型の風景をながめえられるが、地点の高低差はこの風景を変化あらしめている。
金比羅宮はうつそうたる壮叢と神園にとりかこまれている。社叢には往古からみだりにおのを入れないと伝えられる処女林的林相を有するところがあり、神園には花樹が豊かである、これらの樹林には多数の鳥類がすんでおり、そのにぎやかなさえずりは植物の靜的美に動的美を与えている。そして神社の建築と千三百餘級の石階と典型的門前町との存在は、ここにも自然と人文との融合と対照とが見られ、特殊な風景美を構成している。しかもこれらの自然が交通至便の市街地に接しているということは他にその比を見ないところである。
象頭山のうち特に琴平山は暖帯林の自然の姿を残した代表的のところでおもな樹種はクスシイ、サカキ、ヒサカキ、アオキ、イヌビワ、モミ、カゴノキ、イヌガヤなど最も多くこれに、ヤマモモ、イヌグス、オヌノキ、ヤマモカシ、イチイガシ、ヤブツバキ、ヤブニツケイ、タラヨウ、サンゴジユ、ダンコウバイ、ウラジロガシ、モツコク、アラカシ、クサギ、アカマツ、スギ、カヤ、ムラサキシキブ、アビ、アカメガシワ、ハリギリ、クリ、シロダモ、ウリハダカエデ、クヤノミズキ、イヌツゲ、イモノキ、ザイフリボク、シキミ、ウラジロノキ、カラスザンショウ、オンツツジ、イズセンリコウ、ネジキ、ヤマツツジ、ガマズミ、コナラ、その他多くの常緑落葉の樹種を交え、その下にウラジロ、コ■クモトシダ、シンガシラなどの草木や小かん木が見られる。特にその中腹以上におけるクスの自然林は自生北限に近いものとして注目に値する。
参考:『象頭山』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%A1%E9%A0%AD%E5%B1%B1_(%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%8C)
象頭山(ぞうずさん)は、香川県の西部に位置する山である。この独立峰の山塊全体を琴平山とすると南側半分が象頭山であり、北側半分は大麻山(おおさやま)であり、両方合わせた全体を「象頭山」として瀬戸内海国立公園、名勝、天然記念物に指定され、香川のみどり百選にも選ばれている。
2023年日本地理に金刀比羅宮に触れた出題があった。
公式HP 『金刀比羅宮のご紹介』金刀比羅宮 https://www.konpira.or.jp/?stageID=hp_about&language=JAPANESE
同HP『由緒』 https://www.konpira.or.jp/articles/20200814_history/article.htm
同HP『各社・施設の時間』https://www.konpira.or.jp/?stageID=hp_time&language=JAPANESE
御本宮
御扉 《開》午前7時 《閉》午後5時
御祈祷
授与所 午前9時~午後5時(御祈祷の受付は午後4時半まで)
参考:『金刀比羅宮』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%88%80%E6%AF%94%E7%BE%85%E5%AE%AE
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現と称し、通称は「讃岐の金毘羅さん(さぬきのこんぴらさん)」で知られる。明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」である。
御朱印:金刀比羅宮(本宮前神札授与所)・白峰宮・厳魂神社(奥宮)
真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合の金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。金毘羅大権現は隆盛し、本堂本尊十一面観音を凌駕し、後発の寺中であった金光院が全山を支配することとなる。目にあたる部分に寺院があり山容が象の頭に見えることから、また、釈迦が千人の弟子に説法をしたと云われるインドの伽耶山も象頭山と呼ばれ山容が似ていることから当山は象頭山と呼ばれた。
明治初年に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、金毘羅権現の奉斎は廃止とし大物主を主祭神とする神社となり、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。
当初はあらゆる分野の人々に信仰されていたが、19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
長く続く参道の石段は奥社まで1368段ある。例大祭に合わせて毎年、石段を利用した「こんぴら石段マラソン」が開かれている。
愛媛県松山市にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。松山平野の中央部に位置する勝山(標高132m)に築城、壮大な石垣の上に天守、小天守のほか多数の櫓(やぐら)がそびえる。関ヶ原の戦いで戦功があった加藤嘉明(よしあき)は、1602年(慶長7)勝山の地形を利用して新城の建設に着手した。勝山は、南北朝時代に南朝方が砦を築き、戦国時代には河野氏が前衛基地とするなど、重要な拠点であった。翌年、城は建設中にもかかわらず、嘉明は居城の松前城(まさきじょう)から勝山に移り、この城を松山城と命名した。嘉明の会津転封後の1627年(寛永4)、蒲生忠知(がもうただとも)が入封、二の丸などの整備を行った。嗣子(しし)がないため蒲生氏が断絶になったあと、1635年(寛永12)松平(久松)定行(さだゆき)が藩主となり、明治維新まで235年間つづいた。1784年(天明4)の落雷で焼失した天守は、1852年(嘉永5)に再建された。現在、城跡は史跡公園となり、天守のほか櫓、門、塀、石垣、堀が現存する。また、昭和時代の放火や空襲などで失った建築物は、ほとんどが復元されている。JR予讃本線松山駅から市内電車10分で大街道下車、徒歩5分。ロープウェイで山上へ。◇伊予松山城(いよまつやまじょう)、金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)ともいう。
出典 講談社日本の城がわかる事典
[道後温泉]
愛媛県中部,松山市街地の東,石手川沿いにある温泉。松山平野の北東部に位置する。歴史は古く『万葉集』にも記述がみられる。泉質はアルカリ単純泉。泉温は 50℃前後。神経痛,胃腸病などにきく。明治期から 1955年頃まで湯量が少く公営の共同浴場だけであったが,現在ではボーリングにより増量し,内湯化が進んだ。 1892年から3年半かけて建築された木造3階建ての道後温泉本館 (重要文化財) は温泉情緒豊かな共同浴場で,夏目漱石の小説『坊つちやん』の舞台としても有名。四国ばかりでなく全国各地から観光客が多く,上流域は奥道後温泉に続く。付近には道後公園や史跡の松山城跡,四国八十八ヵ所第 51番札所の石手寺がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[夏目漱石]
[生]慶応3(1867).1.5. 江戸
[没]1916.12.9. 東京
小説家,英文学者。本名,金之助。 1893年東京大学英文科卒業。松山中学校教師 (1895) ,第五高等学校教授 (97) ,イギリス留学 (1900) などを経て第一高等学校,東大の教壇に立った。 1905年から高浜虚子のすすめで『倫敦 (ロンドン) 塔』『吾輩は猫である』などを執筆,続く『坊つちやん』『草枕』でゆるがぬ声価を確立。 07年朝日新聞社に入社して創作に専念,『虞美人草』 (07) ,『三四郎』,『それから』 (09) ,『門』 (10) などを書き,自然主義の告白性と対立する客観小説を完成。また鈴木三重吉や芥川龍之介,久米正雄ら多くの俊秀を育てた。 10年の修善寺での大患以後,死の危機を自覚した生の認識が一層深まり,『行人 (こうじん) 』 (12~13) ,『こゝろ』『明暗』など晩年の大作では知識人の孤独な内面に光をあて,自意識の不安と苦悩を描いた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
愛媛県中部,肱川支流小田川流域にある町。西部は内山盆地が広がり,東部は平地に乏しく,1200m以上の山が連なる。 1890年町制。 1955年五城村,大瀬村,立川村,満穂村の4村と合体。 2005年五十崎町,小田町と合体。中山川と小田川の流域は地味も肥沃で農産物が豊富。中世は曾根城の城下町,江戸時代は高昌寺の門前町,宿場町として発展。大洲半紙の集散地で,紙役所も置かれた。六日市,八日市,廿日市などの定期市が開かれ,その地名が現在も残る。幕末から大正末期まで「さらしろう」の日本一の生産地であった。当時の「さらしろう」の商家の家並みが八日市筋に残っており,国の伝統的建造物群保存地区に指定されている。葉タバコ,木材,クリの集散地。五十崎は大洲和紙の製造で有名。 JR内子線,国道 56号線,379号線,380号線が通る。面積 299.43km2。人口 1万5322(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[さらしろう(晒蝋)]
日光でさらした木蝋。
[愛媛県内子町]→重要伝統的建造物群公式HP
種別:精鑞町。
選定年月日:昭和57年4月17日
内子座、本芳我家住宅、せだわ。
四国で1番目、全国で18番目に選定された。保存地区の活用として、古民家をリノベーションした一棟貸しの宿やゲストハウスが運営されている。また、水車を復活させ、水車まつりを行ったり、石畳を敷き、照葉樹林の植林を実施するなど。グリーンツーリズム。
2022年出題。
愛媛県大洲市にある施設。明治時代に木蝋の輸出などで財を成した貿易商の別荘。臥龍院(主屋)、不老庵(茶室)などが国の重要文化財に指定されている。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
2022年に肱川が設問に鵜飼が選択肢として出題。日本三大鵜飼。
[肱川]
愛媛県下最大の河川で、延長103キロメートル。流域面積1210平方キロメートル。一級河川。西予(せいよ)市、上浮穴(かみうけな)郡、伊予市、喜多郡、大洲(おおず)市一帯を流域とする。肱川本流の水源は、西予市宇和町久保の正信(まさのぶ)の標高460メートルの所で、ここから南流し宇和盆地を通過し、野村盆地に入ってから北東に迂回(うかい)し黒瀬川をあわせる。さらにその下流で北西に向きを変え、鹿野川(かのがわ)ダムに達し、河辺(かわべ)川、小田川をあわせ大洲盆地に入り、ここで矢落(やおち)川が合流する。ここから北西にほぼ直線状に先行性河川となって伊予灘(なだ)に流入する。このように肱川は支流が多く、大小あわせて311もある。また水量が豊かで、河川勾配(こうばい)が小さいため古来水害が多く、とくに大洲盆地では河川が周辺から集中するので、江戸時代から大洪水が頻発した。1953年(昭和28)以降肱川総合開発により、鹿野川ダム、野村ダムが建設され、洪水防止だけでなく、広く南予の水資源の供給に役だっている。
[深石一夫]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[大洲(おおず)市]
大洲市(おおずし)は、愛媛県の南予地方に位置する市。
肱川の中下流域からなり、特に旧大洲地域は肱川と矢落川とが合流する地点で盆地を形成している。さらにその下流に向かっては谷を形成しつつ、長浜地域にて伊予灘に注ぎ込む。山は、肱川支流の河辺川源流では標高1000mを越える地点もあるが、それ以外は500〜800mの比較的なだらかな山々が連なっている。
(観光スポット)
おはなはん通り - 1966年から翌年に放送されたNHK連続テレビ小説『おはなはん』のロケ地。なまこ壁の家や腰板張りの土蔵群などが並ぶ。
大洲市立博物館
大洲市肱川風の博物館・歌麿館
おおず赤煉瓦館
ポコペン横丁
大洲まちの駅 あさもや - キタ・マネジメントが運営。
臥龍山荘 - 臥龍淵に立つ山荘で、明治時代に4年の歳月をかけて建てられた数寄屋造の名建築。国の重要文化財。
長浜大橋 - 肱川河口にかかる全国的にも珍しい道路開閉橋。1935年(昭和10年)完成。稼働中のものとしては日本国内唯一、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録され、2014年に国の重要文化財に指定された。
肱川あらし
肱川あらし展望公園 - 肱川河口一帯を一望出来る展望台付き公園。肱川あらしの観察ポイント。
白滝公園 - 県内屈指の滝と紅葉が見所。毎年11月23日には「るり姫祭り」が催される。
鹿野川ダム - 肱川中流、肱川町にあるダム。1959年(昭和34年)3月完成。
道の駅清流の里ひじかわ
坂本龍馬脱藩の道
青島 - 長浜沖に浮かぶ小島。100匹の猫が住む島として観光客が増えている。
河辺ふるさと公園
樫谷棚田
古学堂
(温泉・温浴施設)
小薮温泉 - 肱川上流の小薮渓谷に1870年代から湧くと伝えられ、以来湯治場として賑わう名湯。1913年(大正2年)築の木造3階建てで、2000年(平成12年)に国の登録有形文化財に登録されている「小薮温泉」が一軒宿。
(文化・名物)祭事・催事
鵜飼い
いもたき
るり姫祭り(長浜町白滝)
大洲まつり
大洲川まつり花火大会
つつじまつり
観光さくらまつり など
なお、選択肢に有る火振り漁は四万十川(高知)、シロウオ漁で有名なのは、和歌山の湯浅町(四国では徳島県椿川)、よさこい祭りの元祖は、高知県である。
大洲城城泊HP→ https://castlestay.ozucastle.com/
2019年日本地理に出題。2024日本地理に出題。
桂浜は、高知市の浦戸湾口にある海岸。竜王岬と竜頭(りゅうず)岬の間に砂浜が広がる景勝の地で、月の名所としても知られ、市立都市公園に指定されている。背後の台地には坂本龍馬(りょうま)の銅像をはじめ、大町桂月(けいげつ)記念碑や吉井勇の歌碑などがある。国民宿舎のある台地頂上付近は長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が戦国末期に築城した浦戸城跡でもある。1972年(昭和47)浦戸湾北岸の種崎(たねざき)との間に浦戸大橋が架橋され、浦戸湾周回が可能になった。[正木久仁]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
公式→https://katsurahama-park.com/
参考:『桂浜公園』高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/katsurahamakouen.html
場所: 高知市浦戸
問い合わせ先: 088-841-4140(桂浜公園管理事務所)
URL :桂浜公園公式ホームページ
アクセス:
■「J R高知駅」,「はりまや橋」からとさでん交通桂浜行きで約30分
■高知自動車道「高知 I C」から車で約30分
■高知龍馬空港からタクシー,車で約30分
■空港連絡バス利用の場合「はりまや橋」まで約30分,「はりまや橋」からとさでん交通桂浜行きで約30分
参考:『桂浜』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%B5%9C
桂浜(かつらはま)は、高知県高知市浦戸に位置し太平洋に臨む海岸。土佐民謡「よさこい節」にも詠われ、そして太平洋を望んで立つ坂本龍馬の銅像がある浜辺は、高知を代表する名所の一つとして知られる。日本の渚百選。四国八十八景26番。四国のみずべ八十八カ所。
概要
桂浜は一般的には龍頭岬(上龍頭岬)と龍王岬(下龍頭岬)の間に延びる本浜という砂浜をいう。また龍頭岬の東側には東浜、龍王岬の西側には西浜がある。本浜には休憩所があり、2021年12月28日に展望台や飲食スペースを備えた鉄筋コンクリート造りの新休憩所がオープンした。
龍王岬には竜王宮があり鳥居が立っている。桂浜の近くには、1591年(天正19年)長宗我部元親が北側の丘陵部に浦戸城を築き、一時この地が岡豊城に代わって土佐の中心地になった時期もあった。しかし、初代土佐藩主として土佐入りした山内一豊がこの地では手狭であると感じ、1603年(慶長8年)高知城を築いて移ったため浦戸城は廃城となった。現在は、坂本龍馬記念館・桂浜水族館・大町桂月記念碑などの文学碑等がある。坂本龍馬像は高知県の青年有志の募金活動により1928年5月に完成したものである。
昔から月見の名所としても知られ、毎年中秋の名月の夜になると地元出身の歌人・大町桂月を偲びながら文芸を語り酒を酌み交わす「名月酒供養」が開催される。
桂浜の砂浜は、潮流が速いため遊泳は禁止されている。
近隣の浦戸地区には、回天および震洋の格納庫の跡がある。
桂浜公園
1951年(昭和26年)3月20日には桂浜公園が開園した。1971年(昭和46年)10月8日には都市計画が決定されており、公園面積は22.5ha、高知市の都市公園(風致公園)になっている。
他の選択肢
2019年:大浜海岸は徳島県他。五色浜は愛媛県。琴引浜は京都市丹後半島。
2024年:虹の松原は、佐賀県唐津市の唐津湾沿岸に広がる松原。舞子浜(設問には舞子の浜とあるが、舞子浜と書いてまいこのはまとよむのが正しい)は、兵庫県神戸市垂水区の海岸。和歌浦は、和歌山市南部,紀伊水道にのぞむ和歌浦湾北部の海岸。
2024年日本地理に、地図上に示された黒潮の影響からスキューバダイビングや磯釣りの適地として知られ、クロマグロの養殖も行われている柏島の名称を選択する設問があった。
参考:『大堂・柏島』大月町観光サイト https://www.town.otsuki.kochi.jp/kanko/info/kashiwajima.php
参考:『柏島』一版社団法人 大月町観光協会 https://otsuki-kanko.jp/tourism/content1
参考:『柏島』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E5%B3%B6
柏島(かしわじま)は、高知県幡多郡大月町にある島である。足摺宇和海国立公園に指定されている。
概要
宿毛湾の南に突き出た大月半島の先端に位置し、2本の橋で半島と繋がっている。柏島橋は1967年(昭和42年)に、新柏島大橋は1993年(平成5年)に、それぞれ竣工した。自動車、バイクなどで直接行ける場所としては高知県最西端である。
島の大半は丘陵で北東に向かってなだらかに傾斜している。北東の平坦部に集落があり、漁港もここにある。南側が最も高く山上に柏島灯台があり、南岸から南西岸にかけては断崖となっている。
豊後水道と太平洋の境にあり、黒潮の流入で周囲の海は温暖である。このため1,000種類近い魚種が確認でき、島の北部にはテーブルサンゴなどのサンゴ礁がある。スキューバダイビング、釣りなどのレジャーで賑わう。島の東側と半島で囲まれた入り江では鯛の養殖が行われている。松竹映画・釣りバカ日誌14 お遍路大パニック!(2003年(平成15年)公開)のロケ地となった。
柏島石堤
柏島石堤は、江戸時代初期、土佐藩執政の野中兼山によって慶安 - 寛文年間(1648年 - 1673年)の26年間にわたり建造された防波堤である。島の北、東、南の3面に馬蹄状に築いた。規模は、長さ690m(6町20間)、高さ3m(1間4尺)、幅1.8m(1間)。 これにより、波浪が激しく漁業に不向きであった島を土佐西部有数の好漁場に変え、島民の生活安定が図られた。高知県文化財(記念物・史跡)に指定されている。
更に島の南岸と半島側の間に、長さ272m(2町30間)、高さ2.7m(1間半)の突堤を築いて砂を敷き浅瀬を造って漁場とした。現在、この突堤の上には防波堤が築かれている。
黒潮本まぐろとは、高知県西部の大月町が有する「宿毛湾」で養殖されている本まぐろ(クロマグロ)。
参考:『高知は鰹だけじゃない!日本一を獲得した「黒潮本まぐろ」とは?』七和海岸通り市場 https://nanawa.co.jp/blog/column/kochi-kurosio-honmaguro/
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2024年他の選択肢:鷹島は佐賀県唐津市肥前町の星賀港の西方沖の島(元寇の激戦地)、日振島は愛媛県西部、宇和海にある島(藤原純友の本拠地)、姫島は高知県宿毛市、沖の島の西にある無人島(ダイビングスポット)。他に長崎、山口、愛知、大分にも存在。
高知県香美(かみ)市土佐山田町にある洞窟。この洞窟は、秋芳洞(山口県)・龍泉洞(岩手県)とともに日本三大鍾乳洞の一つに数えられ、1931年(昭和6)に発見され、1934年(昭和9年)に国の天然記念物および史跡に指定された。この洞窟は三宝山(さんぽうさん)の中腹にある延長4kmの鍾乳洞で、3つある洞窟のうち東本洞の約1kmが公開されている。山腹に入り口があり、出口は上方にある。洞窟内にはコウモリなどの洞窟動物が約100種生息。出口付近には古代人の穴居生活跡があり、石灰華に包まれて固着した土器は「神の壺」と呼ばれ、そのほか弥生土器、石器、炉跡などが見つかっている。洞名の起こりは承久の変後に、土佐に配流された土御門(つちみかど)上皇が入洞した時、錦の蛇が現れ、上皇を案内したとされ、天皇の乗り物「龍駕」が転じて「龍河」となったとの伝説がある。龍河洞博物館には出土遺物などを展示。JR土讃線土佐山田駅から土佐電鉄バス「龍河洞」下車、徒歩すぐ。
出典 講談社国指定史跡ガイド
*選択肢のうち、同じ三大鍾乳洞の秋芳洞は山口県、龍泉洞は岩手県。
残る昇竜洞も鍾乳洞で、奄美群島国定公園の沖永良部島西部にある。
参考:『足摺岬』(土佐清水市 観光情報) https://www.city.tosashimizu.kochi.jp/kanko/g01_ashizurimisaki.html
参考:『足摺岬・亀串・四万十川』土佐清水観光協会 https://www.shimizu-kankou.com/
参考:『足摺岬エリア 観光マップ』土佐清水市 https://www.city.tosashimizu.kochi.jp/kanko/area_ashizuri.html
参考:『足摺岬』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E6%91%BA%E5%B2%AC
足摺岬(あしずりみさき)は、高知県南西部土佐清水市に属し、太平洋(フィリピン海)に突き出る足摺半島の先端の岬。足摺宇和海国立公園に指定されている。
古くは嵯陀岬とも称された[1]。また元々は「足摺崎(あしずりざき)」が正式名称であったが、観光地化の進展に伴って改称の議論が起き、広く通称として呼ばれていた「足摺岬(あしずりみさき)」が正式呼称となった。
概要
足摺半島南東端に位置する南向きの岬である。白皇山(標高433メートル)を中心とする花崗岩台地が隆起と沈降を繰り返すとともに、太平洋の荒波による浸蝕で形成された地形である[1]。
岬周辺は足摺岬園地として整備されており、延長2kmの自然遊歩道の突き当たりには足摺岬展望台がある[2]。また、足摺岬の東側の天狗の鼻には2023年(令和5年)12月に展望広場が整備された[3]。このように海岸部の各所から日の出、日の入りが一望できる。
周囲はツバキ・ウバメガシ・ビロウ等の亜熱帯植物が密生する。特に松尾神社境内にある松尾のアコウ自生地は国の天然記念物に指定されている[1]。沖合いはカツオの好漁場。一方で台風銀座でもあり、しばしば暴風に見舞われる。
北緯32度43分24秒、東経133度1分12秒に位置し、一般には四国最南端の地(岬)として認識されているが、正確には最南端ではない。四国本土の最南端は足摺岬の西方約1キロメートルにある「長碆」の南端部付近で、離島を含めた四国地方全体の最南端は宿毛市に属する沖の島にある。なお、長碆の先端部は陸地から安全に行きつくのは不可能である。
土佐清水市の大岐と三崎を基部とし足摺岬を先端とした区域で、白皇山を最高峰とする半島が「足摺半島」である。さらに、足摺半島を含む、宿毛市と四万十市を基部とし足摺岬を先端とした区域で、今ノ山(標高868メートル)を最高峰とする半島が「渭南半島」である。
四国八十八景(40番)「海の秘境クルーズ 黒潮による造形美」として、遊覧船からの景観が選定されている。
2024年日本地理に、江戸時代に遭難して米国の捕鯨船に救助され、後に幕末の日本で航海術や英語を教授するなど活躍した人物(生家は足摺岬)の名前を選択する問題が出た。
参考:『ジョン万次郎の生涯』ジョン万次郎資料館 https://www.johnmung.info/john_syougai.htm
参考:『中浜万次郎』コトバンク(デジタル大辞泉・日本大百科全書・朝日日本歴史人物事典など) https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E6%B5%9C%E4%B8%87%E6%AC%A1%E9%83%8E-107832#w-1097133
参考:『ジョン万次郎』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E4%B8%87%E6%AC%A1%E9%83%8E
ジョン万次郎(ジョン まんじろう、旧字体:ジョン萬次󠄁郞、英語:John Manjirō、1827年1月27日〈文政10年1月1日〉 - 1898年〈明治31年〉11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての日本の旗本・翻訳家・教育家である。アメリカ合衆国を訪れた最初の日本人の一人であり、日米和親条約の締結に尽力した。通訳・教授などでも活躍した。
アメリカ人からはジョン・マン(英語:John Mung)という愛称でも呼ばれた。帰国後は本名として中浜 万次郎(なかはま まんじろう、旧字体:中濱 萬次󠄁郞)を名乗った。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、1938年(昭和13年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたことによって広まったもので、それ以前には使用されていない。
帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。
嘉永6年(1853年)7月8日にペリーが江戸に来航し、7月17日に江戸を後にしたが、来春の黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、7月25日に万次郎は幕府に召聘されて江戸へ行き(8月30日着)、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は江川英龍の配下となり、江川は長崎で没収された万次郎の持ち物を返還させた。勘定奉行川路聖謨からアメリカの情報を聞かれ、糾問書にまとめられている。1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書(英語版)』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。
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2024年日本地理 他の選択肢
音吉:
音吉(おときち 英語: John Mathew Ottoson、文政2年(1819年) - 慶応3年(1867年)1月18日)は、江戸時代の水主・漂流民[1]。後にはジョン・マシュー・オトソン(英語: John Matthew Ottoson)と名乗った。名は乙吉とも記される。山本音吉とも。ロンドンに初めて上陸した日本人(1835年)とされ、マカオに現存する最古とされる日本語訳の聖書の編纂に関係し、モリソン号事件では漂流民として船に乗り、上海でデント商会(英語版)に勤めた。1849年のイギリス船マリナー号の浦賀来航に際し、中国人「林阿多」(リン・アトウ)と名乗り通訳として同行し、更に1854年の日英和親条約締結の際に通訳としてイギリス側に同行した。また、初めてイギリスに帰化した日本人とされており[3][4][5]、ほぼ地球を一周した。(『音吉』Wikipedia)
浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ):
浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、旧字体:濱田彥藏、天保8年8月21日(1837年9月20日) - 明治30年(1897年)12月12日)は幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる[2]。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)。幼名は彦太郎(ひこたろう)。日本人で初めてアメリカ合衆国の市民権を取得した(1858年)。帰国後は「アメ彦」の通称で知られた。(『浜田彦蔵』Wikipedia)
大黒屋光太夫:
大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年〈1751年〉 - 文政11年4月15日〈1828年5月28日〉)は、江戸時代後期の伊勢国奄芸郡白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。
天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に面会して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。
幕府老中の松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などで度々取りあげられている。(『大黒屋光太夫』Wikipedia)
2024年日本地理最終問題でジオパークに属する室戸岬の地形を問う出題があった。
参考:『室戸岬』室戸市教育委員会 https://www.city.muroto.kochi.jp/kyoiku/kyoi/pages/pages093.html
最御崎寺(東寺)、中岡慎太郎像、津呂王子宮、室戸灯台、御厨人窟、目洗いの池、行水の池、ビシャゴ岩、水掛地蔵、椎名の捕鯨山見跡、日沖の大礁、滋賀丸遭難碑(日沖)(昭和19年米軍による民間輸送船の撃沈事件)、日沖の港、
善導寺のソテツ、野中兼山の碑(津呂)、風力発電所、堀内輝重顕彰碑(ブリ落網を開発)を取り上げて解説。全般的に空海関連の土地が多いように思う。(空海は、香川県の生まれで、室戸岬荒磯乱礁のほとりで苦行修行)
参考:『室戸岬』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E6%88%B8%E5%B2%AC
室戸岬(むろとざき、むろとみさき)は、高知県室戸市に属し、太平洋(フィリピン海)に突き出る室戸半島の先端の岬。国の名勝、室戸阿南海岸国定公園に指定、日本新八景、四国八十八景22番に選定されている。北緯33度14分34秒 東経134度10分35秒座標: 北緯33度14分34秒 東経134度10分35秒。波乗り(サーフィン)の名所でもある。
地理
室戸半島
安芸山地が太平洋に落ち込む南端で、太平洋に大きく突き出し、紀伊水道と土佐湾を分ける。泥岩・砂岩・斑れい岩により、海岸段丘や岩礁、奇岩が形成され、冬でも温暖で、亜熱帯植物が繁茂する。当岬から西側は海岸段丘が発達している。地球上では、間氷期に海水面が高く、高い位置の土地が削られて海食崖になり、氷期になると海水面が下がり、低い位置の土地が削られて海食崖になる、ということを繰り返している。当岬周辺ではこれに加え、第四紀後半以降千年あたり2mという速さで土地が隆起していて、ふたたび間氷期になったときには、かつての海食崖は元の位置より高い位置にあり、水没せずに陸地上の地形として残り、これを繰り返し、階段状の地形が形成された。当岬付近の隆起は、大地震に伴う陸地の急激な隆起に起因していると推定されていて、この大地震については、南海トラフのメガスラストの活動によるという説と、室戸半島の東縁に分布する南北走向・西傾斜のメガスラストから分岐した断層の活動による説がある[2]。なお、西の羽根川と東の尾崎川を基部として室戸岬を先端とした区域で、大角山(標高709m)を最高峰とする半島が室戸半島である。 黒潮の流れる沖合いは台風銀座でもあり、当岬は強風で知られる。1934年(昭和9年)の室戸台風や1961年(昭和36年)の第2室戸台風では台風が付近に上陸し、その名を残すこととなった。後者では測候所の風速計が壊れてしまい、最大瞬間風速は「84.5m/s以上」と記録されるにとどまっている。
周辺の名所・旧跡・観光スポット
その知名度の割には、交通の不便さ(フェリー廃止やバスの減便など近年さらに不便になりつつある)もあってあまり俗化されていない。岬にはバス停付近に民宿や土産物屋が数軒並ぶだけであるが、その分混雑や騒音には無縁であり雄大な光景を味わうには絶好の場所である。また、磯釣りや沖合でのイカ釣りも盛んである。
三か所の「恋人の聖地」:室戸岬展望台・標高45m、室戸岬灯台展望台・標高145m、スカイライン山頂展望台(津呂山高岡園地)・標高258.3m
室戸岬灯台:当岬上部には室戸岬灯台が立ち、1899年(明治32年)初点灯で海抜154.7m、実効光度と光達距離で日本一を誇り、「日本の灯台50選」の一つで、歴史的価値から保存灯台ともされている。
中岡慎太郎像
御厨人窟: 修行中の空海(弘法大師)がこの地で悟りを得たという伝承がある。
室戸山最御崎寺:四国八十八箇所第24番札所
青年大師像(来影寺):高さ21mの空海19歳の像
室戸岬測候所
シレストむろと:室戸海洋深層水を利用した健康増進施設でスパとレストランがある。
室戸世界ジオパークセンター:無料
むろと廃校水族館:大人600円
夫婦岩 :室戸市 鹿岡鼻(かぶかはな)北緯33度21分11.37秒 東経134度12分10.21秒
ゴロゴロ浜: 国道55号のゴロゴロ休憩所付近の海岸で往時はお遍路さんはこの浜辺を歩いて通過していた。北緯33度29分12.45秒 東経134度15分28.69秒
参考:『Muroto de あそぼ』一版社団法人 室戸市観光協会 #ジオパワむろと https://www.muroto-kankou.com/
歴史・自然・パワースポット、遊ぶ・体験、海山グルメ(店紹介)、お宿・遍路宿、特産品、季節のイベントに分けて紹介。
参考:『室戸岬周辺観光マップ』室戸市 https://www.city.muroto.kochi.jp/pages/page0290.php
観光マップ(マップ編・解説編)がダウンロードできます。
室戸ユネスコ世界ジオパーク→ https://www.muroto-geo.jp/
参考:『室戸ユネスコ世界ジオパーク』日本ジオパークネットワーク https://geopark.jp/geopark/muroto/
参考:『室戸ジオパーク』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E6%88%B8%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF
室戸ジオパーク(むろとジオパーク、英: Muroto Geopark)は、高知県室戸市全域をエリアとするジオパークである[1][2]。2011年(平成23年)には世界ジオパークに認定され[3]、室戸ユネスコ世界ジオパーク(むろとユネスコせかいジオパーク、英: Muroto UNESCO Global Geopark)または室戸世界ジオパーク[4]の名称が使用される。
概要
室戸岬南方のフィリピン海プレートがユーラシアプレートに沈み込み、そのひずみで発生する地震による隆起で室戸市周辺には海成段丘が形成されている。また、これらの地震活動で室戸岬周辺では隆起によって化石の発掘など付加体の形成過程を見ることができる。室戸ジオパークは、このような地殻変動に着目しており、2018年(平成30年)時点で合計88サイトが設定されている。
2008年(平成20年)に日本ジオパークの認定を受け、2011年(平成23年)に国内では5件目の世界ジオパークとして室戸市全域が選ばれた。
沿革
2008年(平成20年)
6月:室戸ジオパーク推進協議会を設立[9]。
12月8日:日本ジオパークに認定[8][9]。
2011年(平成23年)9月18日:世界ジオパークに認定[8][9]。
2015年(平成27年)
4月29日:室戸世界ジオパークセンターが市立室戸東中学校跡地にオープン[10][11]。
11月17日:世界ジオパークが国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の正式事業として認定される[12]。以降、室戸ユネスコ世界ジオパークという名称も用いている。