全国通訳案内士試験の最終合格発表は、2026年2月6日(金)です。
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参考:『稲作の歴史 大規模な新田開発が次々と行われた「江戸時代」(1603年~1868年)』クボタのたんぼ [学んで楽しい!たんぼの総合情報サイト](Kubota) https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/history/formation/generation_03.html
目次
参考:『石高』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98
石高(こくだか)とは、近世の日本において土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで約300年間、大名・旗本の収入および知行や軍役など諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。
概要
太閤検地以後江戸時代を通じて、田畑や屋敷などの土地の価値に至るまで面積に石盛という一定の係数をかけて米の生産力に換算して石単位で表示するようになった。このような制度を石高制と言い、米以外の農作物や海産物の生産量も、米の生産量に換算されて表された。大名をはじめとする武士の所領からの収入や俸禄を表す場合も石高を用いた。特に領民の場合には「百姓高所持(ひゃくしょうだかしょじ)」、武士(特に大名)の場合には「石高知行制(こくだかちぎょうせい)」と称されることがある。明治時代の地租改正まで続いた。
一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。つまり石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味していた。江戸時代の軍役令によると、大名は幕府の命に応じて表高1万石あたり概ね2百人程度の軍勢(非戦闘員を含む)を動員する義務を課せられていた。ただし石高は一般に玄米の体積を元に算出するのが常であり、実際には成人男性であれば1日玄米5合、年間玄米約1.8石が標準的な扶持米として支給されていた。
なお、農民に対する年貢徴収は原則としては石高を元にしているものの、初期の検地が年貢の徴収よりも領主の領知高及びそれに基づく公儀への諸役負担を確定させることを目的としていたことや村請制のもとで重視されたのは村単位の石高(村高)であったことから、個々の農民に対する年貢徴収基準として石高が用いられるようになったのは17世紀後期以後とされている。実際に江戸時代の土地証文に石高の記載が登場するのは寛文・延宝年間が上限とされ、それ以前の農民生活において石高は身近な概念ではなかったとみられている。
旧国別石高の変遷
江戸幕府開府直後の一部旧国の郡別石高・正保以降の全国の郡別石高
以下に太閤検地高(慶長3年(1598年)の石高)、慶長郷帳記載の石高に近いと考えられる江戸時代初期高、寛永十年巡見使国絵図記載の石高、正保郷帳・元禄郷帳・天保郷帳記載の石高、地租改正直前の明治5年(1873年)の石高をまとめる。寛永以前に関しては国高、正保以降に関しては国高・郡高までを記載する。陸奥国、出羽国については領分別(ここでいう領分とは郷帳・国絵図作成のための地区分担を指し、実際の藩の所領とは異なる)と明治以降に新設された旧国(磐城国・岩代国・陸前国・陸中国・陸奥国・羽前国・羽後国)別の石高集計も記載する。一部地域では明治に至るまで貫高制が敷かれていたが、本表では奥州仙台領の正保郷帳の貫高に限り石高に換算し(高1貫文 =高10石)、関東・東海地方の永高・金高・貫高は石高に換算しなかった(通常は高永1貫文=高金1両=高5石)[2]。なお1石=10斗=100升 =1,000合=10,000勺=100,000才(撮)=1,000,000 毛(弗、扎)であり、石よりも下の桁は石を単位とする小数で示す。江戸幕府開府直後の一部旧国の郡別石高と、正保以降の全国の郡別石高については旧国郡別石高の変遷の項を参照。
太閤検地
太閤検地は天正10年(1582年)に始まり、慶長3年(1598年)まで再検地を含めて全国で実施された。文禄2年(1593年)の年次の入っている『大日本六十六国並二島絵図』、文禄3年(1594年)の石高を記載している『当代記』、慶長3年(1598年)旧暦8月の年月の入っている『日本賦税』など、国高を記載する複数の史料が知られているが、その数字にほとんど差異はなく、ほぼ同一の史料からの引用と思われる。なお出羽国の石高は明らかに異常であるが、置賜郡などの上杉景勝の出羽国内領分が陸奥国の石高に加算されている可能性が指摘されている。
慶長郷帳・国絵図
慶長9年(1604年)、江戸幕府は諸国の有力大名に郷帳と国絵図の提出を命じ、慶長15年(1610年)までに上納が完了した。しかしながら慶長郷帳・慶長国絵図の正本は現存せず、郷帳の写本は飛騨国、壱岐国、大和国の3国分、国絵図の模写は西国の11国1島分に限られており、郷帳・国絵図の提出が命じられたのは西日本のみではないかとする説もあり、慶長郷帳・国絵図製作の全容は不明な点が多い。郷帳には田畑内訳を含めた村高と物成が列記され、領知関係や、必要に応じて小物成高、寺社領高、荒地・損害等の付記が行われているが、新田高の記載はなく、使役や格式等を決める表高と内高の乖離が始まっている。本表では島原松平文庫『御当家雑記』収録「日本国知行高之覚」記載の江戸時代初期高を仮に慶長郷帳高とする。「日本国知行高之覚」には出羽国高について「内拾万石上杉弾正分入」との注釈があり、上杉景勝が慶長14年(1609年)に10万石の軍役を免除されたことと関係すると思われる。なお徳川所領を中心に幾つかの国で石高が減っているが、これは再検地の際に石盛が改訂されたことや、表高優先の石高を設定したことと関連する。また国境も頻繁に変えられており、例えば西宮市立郷土資料館蔵『慶長十年摂津国絵図』によると摂津国石高は29万0068石6斗、外に欠郡内東成6万1080石が河内国御帳入とあり、慶長年間中頃から寛永年間まで一時的に淀川以東の闕郡(住吉郡・東成郡と西成郡の一部)が河内国に編入され、正保年間前には再び摂津国所属となったことが判る。
寛永十年巡見使国絵図
寛永10年(1633年)に幕府から諸国へ巡見使が派遣された際、諸国の有力大名より国絵図が徴取された。国絵図の徴収は前年の寛永9年(1632年)に突然命じられたものであったため、大部分の諸藩は慶長国絵図の写しを提出したとみられ、石高が実際に増えた国は、三河国、陸奥国、越後国、対馬国に限られる。寛永十年巡見使国絵図の正本は現存しないが、国絵図の模写は岡山大学附属図書館の池田家文庫に尾張国・播磨国の2国分を除いてほぼ完全に伝わっており、本表に寛永十年巡見使国絵図記載の石高をまとめる。
正保郷帳・国絵図
正保元年(1644年)、江戸幕府は諸国の有力大名に郷帳と国絵図の提出を命じ、慶安4年(1651年)頃までには上納がほぼ完了したとみられる。正保郷帳の正本は現存しないが、郷帳の写本は副本等を含めて33国36点が残存している。正保郷帳には田畑内訳を含めた村高が列記され、領知関係や、必要に応じて小物成高、寺社領高、荒地・損害等の付記が行われている。また表高(拝領高、朱印高)に相当する本田高(本地高)の外に、新田高の併記もあるが、正保郷帳の国高・郡高はあくまでも表高を原則とする。また正保国絵図の模写も22国2点が残存しており、郡別村数、郡別・領分別石高等が記載されているが、新田高は原則として記載されていない。正保郷帳記載の本田高に新田高を加算することで内高(実高)を算出することは可能であるが、本表ではあくまでも表高の集計値を正保郷帳高として扱う。なお現存する正保郷帳分だけで新田高を合算しても100万石前後となり、表高と内高の解離がかなり進んでいたといえる。また正保郷帳・国絵図が残存していない旧国については、前後に作成された郷村帳などから推計された石高を掲載しており、今後の研究により数字が変わる可能性もある。
元禄郷帳・国絵図
元禄10年(1697年)、江戸幕府は諸国の有力大名に郷帳と国絵図の提出を命じ、元禄15年(1702年)頃までには上納がほぼ完了したとみられる。元禄郷帳では記述が簡素化され、国郡村別の石高のみが記載された。元禄郷帳・元禄国絵図共に正本は現存しないが、写本・副本は多数残存している。正保郷帳と同様に石高は表高を原則とする。
天保郷帳・国絵図
天保2年(1831年)、江戸幕府は諸国の有力大名に郷帳の提出を命じ、天保5年(1834年)までに上納が完了した。続いて天保6年(1835年)、国絵図の改訂を命じ、天保9年(1838年)までに上納が完了した。天保郷帳・天保国絵図の正本は全て明治政府に引き継がれ、国立公文書館に保存されている。天保郷帳を作成するに当たり、幕府は表高(拝領高)に込高、新田高、改高を加えて集計した内高の報告を要求しており、天保郷帳記載の数字は全て内高である。ただし諸藩は内高報告には極めて慎重であり、例えば長州藩では支藩を含めて防長領国の総内高を97万0941石8斗1升5合5勺1才と把握していたが、幕府には寛政4年(1792年)の内検高89万4282石1斗を報告した。また薩摩藩は表高をもって内高であるという建前を貫いているなど、天保郷帳には各藩が把握していた内検高とは異なる内高がかなり掲載されている。
明治5年石高
明治6年(1873年)より大蔵省租税寮が主導となって地租改正が実施されるが、直前の明治5年(1872年)末の全国の石高の状況が各府県より租税寮に報告されている。明治初期の石高については複数の統計資料が現存するが、東京大学史料編纂所蔵『郡村石高帳』、太政官正院地誌課編『日本地誌提要』、内務省地理局『地理局雑報』、一橋大学附属図書館社会科学統計情報研究センター所蔵『明治六年国郡高反別調』、陸軍参謀局編『明治八年 共武政表』等に記載されている旧国別石高はほぼ同一であり、これらを明治5年石高としてまとめる。[9]なお同様に明治初期の石高を記載する史料として明治10年代初期に内務省地理局地誌課によってまとめられた『旧高旧領取調帳』が存在するが、この史料は廃藩置県前に各府藩県がまとめた明治3年以前の石高、廃藩置県後に政府の統一基準で各府県が算出し直した明治4年、明治5年の石高、地租改正の途中で算出し直した明治6年以降の石高など、複数の基準による石高統計が混ざっている。
享保6年田畑数
以上のほかに参考として、享保6年(1721年)に徳川吉宗の命で各地より報告された田畑の耕地面積をまとめた『町歩下組帳』記録の旧国別田畑数を本表にまとめる(同時にまとめられた人口調査については江戸時代の日本の人口統計#旧国別調査人口の変遷の項を参照)。なお面積の単位は1町=10段(反)=100畝=3,000歩(坪)=30,000合(厘)=300,000勺(毛)と十進数ではない換算が含まれており、町・歩の二組の数字を掲載する(例えば山城国の田数11,405.8311.20は1万1405町8段3畝11歩2合0勺を意味する)
〇「1 年貢と諸役」国税庁租税資料ライブラリー https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/shiryou/library/01.htm
〇参考:『5分で解ける!江戸時代の社会経済3(第2問)に関する問題』トライ https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12861/question-2/
原則として米を納める、メインの本年貢に当たる農民の税負担を 本途物成 (ほんとものなり)といいます。
それ以外の、米以外で納める雑税に当たる農民の税負担は 小物成 といいます。
〇参考:『本途物成』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%80%94%E7%89%A9%E6%88%90
本途物成(ほんとものなり)とは近世日本において、土地に賦課された租税のうち、検地によって石高が示された田畑および屋敷地に課税されたもの。江戸幕府や諸藩が賦課した年貢の中でも中心的な地位を占め、本年貢(ほんねんぐ)・取箇(とりか)とも称された。また、単に「本途」「物成」とも呼ばれた。
概要
近世日本において農民が負担した年貢(租税)のもっとも基本的な負担であり、反対に武士(幕府・藩)からみればもっとも基本的な収入であった。
原則的には検地が可能な田畑や屋敷地が賦課の対象であり、検地が困難あるいは不可能な山林原野湖沼河海に対してはそれらからの生産物に対して賦課する小物成が適用された(ただし、山林原野湖沼河海であっても、野高・楮高・海高など、生産量に対する石盛による石高換算が設定されている地域においては、本途物成の賦課対象となった)。小物成以外にも各種の付加税・高掛物・夫役・浮役などの賦課が行われており、こうした雑税と区別する意味で、本途物成・本年貢の用語が用いられた。
本途物成は基本的には米で納めることが原則であるが、畑における本途物成(畑方物成)では麦や大豆、漆などの農作物による現物納が行われ、地域によっては金納との併用も行われた(関東畑永法・半石半永法など)。また、時代が下るにつれて米の現物納であった田における本途物成(田方物成)の地域でも、石代納や金納が一部で行われるようになった。これは貨幣経済の影響が大きくなったことによって、領主経済における米の位置づけが低下したことが影響しているとされている。更に専売制や営業税、御用金などの商工業を対象とした賦課が登場したことによって本途物成の地位は落ち込むことになる。天保年間には幕府の年貢収入全体における米納の割合は4割にまで低下していった。
◎参考:『5分でわかる!農民統制』トライ https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12838/point-3/
田畑永代売買禁(令)1643年・田畑勝手作禁(令)→分地制限令1673年
◎参考『分地制限令』中津川市古文献アーカイブ https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012130
農民が田畑を分割相続することによって、耕地が細分されて零細化をまねき、貢租負担者としての小農民経営の再生産維持が出来なくなり、年貢徴収に支障をきたすため、幕府は延宝元年(一六七三)六月、分地制限令(日本経済資料第二巻)を発した。名主は高二〇石、百姓は高一〇石以上持たぬ限り、田畑を配分することを禁止した。また正徳三年(一七一三)には、配分の分も残りともに高にして一〇石、面積で一町あることを必要とし、高二〇石、面積二町以下の配分を禁止した。享保七年(一七二二)には、高一〇石面積一町以上の者は、その余分を配分することが出来るように改めたが、宝暦九年(一七五九)には再び正徳三年の令に戻した。
分地は分家によってなされるが、江戸初期の分家は隠居分家が行われ、財産分与は均等分割であった。隠居分家というのは、二人の男子がある場合は、長男に嫁を取って跡目を譲ると、親は財産の二分の一を持って次男を連れて隠居し、次男を独立させるのである。三子の場合もこれに準ずるわけであるが、山間のこの地域では高にして二〇石以上を有する者は少なかったため三等分すると本家の体面が保てなくなるので、財産の二分の一を本家長男がとり、残り二分の一を次男・三男に等分して分与されるようになった。
江戸初期年代の検地帳・新田畑見取帳・名寄帳など、土地・年貢関係の帳をみると、分家・分地の関係がよくわかる。年代を異にする帳があれば、それを照合してみると、土地の移動・増減・家数などの推移や部落の成り立ちなど知ることが出来るが、山口村・馬籠村とも一冊も残されていない。江戸初期家康の蔵入地となり、元和元年に尾張藩に編入された裏木曽の川上村の様子をみると、寛永初期の地押帳・新田畑見取帳には、同一字名(後部落)の田畑のほとんどが一人の名請人になっており、わずか一、二人の分付名請人がある。この名請人は部落の草分けの家とみられる人で、代表して名請している。分付名請人には屋敷地の名請がない。この様子からみると、まだ分家が進んでいないように思える。それから二~三〇年後の慶安・寛文年代の同帳では、各部落とも数人の名請人がみられるようになり、分付請人もある。延宝年代(一六七三~八〇)後の帳には、分付名請人は姿を消している。この様子からみると分付請人は次第に分家していったと思われ、早いものは寛永年代に分家が始まり、寛文年代ころには各部落とも分家が一段落していたとみられる。
山口村庄屋楯家四代の伝六覚書に隠居分家の記事がある。これによると初代楯惣左衛門は三留野から山口村万場に来て荒地を開墾した。その年代は確かでないが天正の末年ころとみられる。次男の太郎兵衛は元和元年大坂夏の陣に軍夫として従軍した。後分家した。
次に二代惣左衛門は万治元年(一六五八)長男藤十郎に跡目を譲り、次男惣兵衛を連れて隠居分家した。四代目伝六の正徳二年(一七一二)の由緒書によると、当時第一次分家は二代目太郎右衛門、第二次分家は二代目勘十郎になっている。これを図示すると次のようになる。
(表)
右の二回の分家における財産分与は、どのように行なわれたのであろうか。四代目伝六の覚書のうちに、元禄元年(一六八八)の楯家の年貢の記録がある。楯家ではこの年まで分家の年貢分も本家の名儀で上納していたが、この年からそれぞれの負担分を上納することにしたので、そのための覚書である。
御年貢米 三石六斗七升弐合
口米 七升三合四勺四才
俵ニ〆 九俵三斗弐升五合四勺四才
但俵三斗八升入
内訳
四俵三斗五升弐合七勺弐才 太郎右衛門
三俵壱斗五升五合弐勺弐才 伝六郎
壱俵壱斗九升七合五勺 勘十郎
〆九俵三斗弐升五合四勺四才
この年貢高の書上げからみると、分家の財産分与は、第一次分家太郎右衛門分は均等分割分与で、一石八斗七升二合七勺二才ずつである。第二次分家では本家四分の三、分家四分の一の割になっている。下欄の表に見るように本家の一石四斗余は、当時の山口村の一戸当り平均年貢高一石〇九を少し上回る程度であったから、これ以上の分与は出来なかったとみえる。
(表)第27表 楯庄屋家 分家財産分与表(年貢高)
災害・害虫の知識不足による行事の発達 虫送り・鳥追い・風祭り・雨ごい
江戸時代には150回ほどの飢饉があり、大飢饉も30回ほど発生した。
農村は荒れて、都市への流入が激しくなった。
農業指導者
江戸時代の三大農学者 宮崎安貞・佐藤信淵・大倉永常
参考:『大蔵永常(おおくらながつね) -実践的能楽で農村改革-』1985年9月号 広報おおいた(大分県) https://www.pref.oita.jp/site/archive/200595.html
日田市中央公民館内の大蔵永常記念館ホールにある大蔵永常の胸像。昭和52年9月製作。平山史郎作。
独自の実践的農学で江戸の農村改革に大きな業績を残した大蔵永常(おおくらながつね(日田出身))が江戸に没したのは万延元年、93歳であったという。明和5年、日田隈町で半農半商の二男坊に生まれる。彼の生涯を決定したのは天明の大飢饉であった。5ヵ年にわたる凶荒で、全国の餓死者90万よ、その最飢えた農民がなだれ込んだ。農民である永常の血は騒ぐ。そして「百姓も現金になる作物を」の発想が生まれる。当時の農民は米は年貢に取られ、残りの雑穀で生きる自給自足であった。その農民を貨幣経済の枠に組み入れることは画期的な発想ではあったが、至難の業でもあった。大阪、江戸を中心に全国を旅し、農村の実態を研究しては次々に出版を重ねた。農具の改良をといた「農具便利論」、ウンカ防除法の「除蝗録(じょこうろく)」、二期作を進めた「再種方(さいしゅほう)」など、わかりやすい実学書は農家経営と農民意識に大きな影響を与えた。
参考:『大倉永常』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%B0%B8%E5%B8%B8
大蔵 永常(おおくら ながつね、明和5年〈1768年〉- 万延元年12月16日〈1861年1月26日〉?)は、江戸時代の農学者。宮崎安貞・佐藤信淵とともに江戸時代の三大農学者の一人。三河国田原藩産物御用掛や遠江国浜松藩の興産方を務める。
人物
通称、亀太郎・徳兵衛・喜内。字は猛純。号は亀翁、愛知園主人、黄葉園主人。田原藩在住時代は日田喜太夫と称す。浜松興産方の頃には「金無し大先生」とあだ名がつけられたといわれる。ちなみに、永常の名は、祖先が、古代から中世にかけて日田を統治していた大蔵姓日田氏ということにちなみ、代々、"永"の字を名乗る慣わしがあったことにて名乗ったとされている。
経歴
1768年(明和5年)、豊後国日田郡(現在の大分県日田市隈町二丁目)の製蝋問屋㊂鍋屋に営む職人の伊助の次男として生まれる。当主である祖父伝兵衛も綿屋と号する綿花を栽培する職人であったが、先祖は武士で豊後大蔵氏の一族であった。
初め父と同じ問屋で丁稚として働くが、天明の大飢饉に際して現金化できる作物の必要性に気づき、大阪や江戸を中心に全国を旅し、農村の実態を研究した。やがて、米麦等の穀類の増産や副業的な特用作物の栽培と製造・加工等の多角経営を行うことを主張する。
寛政8年(1796年)彼が29歳の時、長崎より大阪に渡り、苗木商を営む。その傍ら初の著書である『農家益』を著し、その後も次々の同様の農業書を著した。出版を刊行していくにつれて、社会的地位が向上すると、次第に交友が豊かになっていき、この頃には大塩平八郎の縁故者を妻として娶っている。
1834年(天保5年)、67歳にして、田原藩江戸詰家老の渡辺崋山の推挙により田原藩に六人扶持で仕官し、興産方産物掛という農業指導者の役職に就いた。田原移住後は日田喜太夫と称した。しかし、1839年(天保10年)の蛮社の獄で崋山が蟄居となったため、崋山と親しかった永常も追放された。岡崎藩に移住するも病気の妻と未婚の娘を抱えた生活は貧窮を極めたが、1842年(天保13年)浜松藩に興産方として仕官した。その後、天保の改革の失敗や妻の死去もあり、浜松から江戸へ移るが、87歳以降の詳細は不明。永常の死後、『広益国産考』(1859年刊)が刊行された。
1917年(大正6年)、正五位を追贈された。
主要著書
永常は未刊のものも含め、生涯で約80冊もの農書を執筆した[1]。集大成的な意味を持つ最後の『広益国産考』を除いて個々の著作の扱う主題はきわめて限定的である。またすぐに内容を察することのできる平明な題名も特徴の一つである。
『農家益』(全3巻・1802年(享和2年)刊)
永常の第1作。ハゼノキの栽培法と製蝋技術を解説したもの。
『老農茶話』(全1巻、1804年(文化元年)刊)
稲の「はさ掛け」(収穫後の稲束の乾燥)や、シナノキの樹皮から繊維を取り縄や布を織るための方法を述べたもの。
『農家益後篇』(全2巻・1810年(文化7年)刊)
正篇に続きハゼノキについて扱う。
『農具便利論』(全3巻・1822年(文政5年)刊) 鍬を始めとする、あらゆる種類の農具を各部分の寸法・重量も含め詳細に図解したもの。全般的に農具に関する記述が乏しい日本農書のなかで、農具を主題とした著作であること、また読者からの情報提供を呼びかけ増補を期した点で画期的である。
『再種方』(1824年(文政7年)刊)
『豊稼録』(1824年刊)
害虫の防除を中心に扱ったもの。
『除蝗録』(1826年(文政9年)刊)
稲の害虫であるウンカの防除法(鯨油を水田に流す)を述べたもの。前記『豊稼録』の内容を訂正・増補。挿絵は長谷川雪旦。
『製葛録』(1828年(文政11年)刊)
葛の採取やクズ粉の製法などを述べたもの。
『油菜録』(1829年(文政12年)刊)
菜種の栽培法を解説したもの。
『農家肥培論』(文政年間後期の成立で刊行は明治期)
『綿圃要務』(1834年(天保5年)刊)
畿内・山陽地方における棉作を解説したもの。
『門田之栄』(1835年(天保6年)刊)
『製油録』(1836年(天保7年)刊)
菜種油の絞り方について解説したもの。
『国産考』(1842年(天保13年)刊)
後の『広益国産考』第1巻・第2巻に当たる部分。
『山家薬方集』
『後編除蝗録』
『救民日用食物能毒集』
『勧善夜話後編』
『農家益続篇』(1854年(安政元年)刊)
『広益国産考』(全8巻・1859年(安政6年)刊)
ハゼノキ・棉・サトウキビ・茶などの工芸作物やさまざまな加工製品など販売に有利な60種類の品目をとりあげ解説し、同時に各藩の支援による特産物育成を主張した。永常の農学の集大成とされる。
参考:『佐藤信淵の墓』杉並区 https://www.city.suginami.tokyo.jp/documents/7580/139.pdf
参考:『平田 篤 胤 と佐 藤 信 淵』首都圏秋田県人連合会 https://akitakenjinkai.jp/admin/wp-content/uploads/2023/09/%E2%97%90%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4%E3%81%A8%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5%E3%80%80%E6%97%85%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%80%80%E2%91%B1.pdf
安永 5(1776)年、佐竹藩士の家に生まれた。20 歳の時、脱藩して江戸に上り、職業を転々としながら、文字通り刻苦勉励して学問に励んだ。本居宣長に私淑して入門を申し出たが、宣長の病没で果たせず、「没後の門人」と自称した。宣長の古道説を継承しつつ、文化 9(1812)年に『霊能真柱』を著して独自色を強め、復古神道(外来思想の影響を受けない、日本古来の純粋な精神に回帰しようという神道説)を提唱した。この書は「死後の魂の安寧」を説いたもので、篤胤 46歳の時、仁孝天皇に献上された。天保11(1840)年、『天朝無窮暦』を出版。激しく儒教を攻撃し、尊皇を鼓吹するその言説は、幕府の暦制を批判するものとして忌避され、<著述差止のうえ国許帰還>を命じられた。天保14(1843)年、のちに戊辰戦争で活躍する多くの門人を抱えたまま秋田で逝去した。享年 67
宣長の復古神道は、幕末の尊王攘夷思想の支柱となり、また、明治政府の政治理念や国家神道形成の背
景となり、戦中・戦後の日本の軍国主義にまで影響を及ぼしたとも言われる。一方、『仙境異聞』や『勝五郎再生記聞』などの幽冥界に関わる考察は、後世、柳田国男や折口信夫らに注目され、日本民俗学の先駆者の一人と見なされた。また、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに「国学の四大人」と称されている。
明和 6(1769)年、現在の秋田県羽後町で、秋田藩士として医学・農政・鉱山学等を家学とする佐藤家に生まれた。16 歳の時、父の遺訓に従って江戸に上り、蘭学をはじめ農政・経済・天文・地理・兵学ほかあらゆる分野を探求。47 歳の時に平田篤胤の門人となり、篤胤の復古神道の影響を受けた。また、吉田神道の問題に触れて、町奉行所から<江戸払い>を命じられて諸国を遊歴。自説を開陳して歩くとともに、『混同秘策』『経済要録』『農政本論』等を著した。特に、『混同秘策』は、国内統治論と世界征服論を主張した<奇書>として有名で、戦時中の「大東亜共栄圏」構想に影響を与えたとも言われる。また、江戸湾を埋め立てて都市建設を図る構想や、京都のほかに、江戸を「東京」に、大坂を「西京」と改称して、新たな都制を施行することを提唱した。江戸払いを赦された翌年、嘉永 3(1850)年に江戸で逝去した。享年 81。
信淵の思想は、独創的かつ先進的で、時代に理解されない一面もあったが、世を治め、民の苦しみを救う<経世済民>思想を根幹としていた。著書『草木六部耕種法』の評価は高く、宮崎安貞、大蔵永常とともに、「近世の三大農学者」と称されている。
参考:『佐藤信淵』コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5-69330#goog_rewarded
さとう‐のぶひろ【佐藤信淵】
[1769~1850]江戸後期の経済学者。出羽の人。字は元海。宇田川玄随・平田篤胤らに師事。その学問は農政・物産・海防・兵学・天文・国学など広範に及んだ。著「経済要録」「農政本論」など。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考:『さとうのぶひろ【佐藤信淵】』キッズネット https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary03100313/
(1769〜1850)江戸えど時代後期の農政家・思想家。出羽国(秋田県)の医師の家に生まれ,江戸に出て天文・地理・経済・国学などを学び,蘭学の知識も得た。そして,各地の農村をめぐって産業をさかんにする方法を研究。多くの書物をあらわして,幕府や諸藩に富国策や社会改革論を説といた。
参考:『佐藤信淵』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5
佐藤 信淵(さとう のぶひろ、明和6年6月15日(1769年7月18日) - 嘉永3年1月6日(1850年2月17日))は、江戸時代後期の思想家で、経世家(経済学者)、農学者、兵学者、農政家でもある。本業は医師。出羽国雄勝郡西馬音内前郷村または郡山村(ともに、現秋田県雄勝郡羽後町)出身。通称(幼名)は百祐(ももすけ)、字は元海、号は松庵・万松斎・融斎・椿園。幼少から父の佐藤信季と各地を旅行して見聞を広め、のち江戸に出て儒学を井上仲竜、国学を平田篤胤、神道を吉川源十郎にそれぞれ学び、さらに本草学・蘭学を宇田川玄随や大槻玄沢に、天文暦数を木村泰蔵に学んだ。その学問は農政・物産・海防・兵学・天文・国学など広範に及び、主著に『宇内混同秘策』『経済要録』『農政本論』がある。
参考:『宮崎安貞(市政だより西区版 令和2年9月1日号掲載) 』福岡市 https://www.city.fukuoka.lg.jp/nishiku/c-shinko/charm/event/sounanda_nishiku_miyazakiyasusada.html
(抜粋)
安貞は、元和9年(1623)、現在の広島県に生まれました。25歳の時に福岡藩主黒田忠之に仕え、辞職後は、九州・山陽・近畿の諸国を巡り、草木や作物の植え付けなど農業の研究を積み重ねました。
後に現在の西区女原に住み、農家として積極的に開墾事業と農業の発展に尽くしました。安貞が開拓にあたった場所は、彼の名前にちなみ「宮崎開き」と名付けられました。
元禄10年(1697)に刊行した「農業全書」は、わが国初の農学書として知られ、明治に至るまで版を重ね、福岡が農業県として発展する上で、大きな役割を果たしました。
安貞の書斎は、女原にあり、県指定史跡にも認定されています。一部手を加えられていますが、現在も執筆当時の情景をしのぶことができます。
参考:『宮崎安貞』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%AE%89%E8%B2%9E#
宮崎 安貞(みやざき やすさだ、元和9年(1623年) - 元禄10年7月23日(1697年9月8日))は、江戸時代前期の農学者。通称は文大夫。
概要
安芸広島藩士・宮崎儀右衛門の二男として広島に生まれる。子どもの頃は、山林奉行の父に従って、山歩きをした。 25歳のとき家を出て、筑前福岡藩黒田氏に山林奉行として仕え200石を給されるが、30歳を過ぎて職を辞した。翌1652年(承応元)、筑前国女原村(みょうばるむら、現在の福岡市西区)の知行地に隠居し、農耕のかたわら農業技術の改良に努めた。諸国(山陽道・畿内・丹波・吉野・伊勢・紀伊)をめぐって老農の話を聞き取りし、また、山林原野の様子や河川の水利を観察した。一方、1661年(寛文元)39歳の時、京都にいた同藩の儒学者貝原益軒などとも交流し中国の農業に関する書物や本草書を研究した。一方で、自ら農業にいそしみ、知行地とその周辺地域の新田開発・干拓事業・植林を進め、農民を指導した。
中国の最新の農書『農政全書』(徐光啓、明代1639年刊)を参考にしながら経験と研究を元に1695年(元禄8年)73歳で稿を成し、1697年(元禄9年)「農業全書」を京都で出版した。本書は地理学的な記述が豊富である。 同年の7月23日に死去した。享年75。
同書は明治以前の最高の農書と評価される。大蔵永常・佐藤信淵とともに江戸期の三大農学者と称された。
明治44年(1911年)、正五位を追贈された。
福岡県立糸島農業高等学校は、宮崎安貞の業績を称え、1949年8月から1955年3月迄の間「福岡県立安貞高等学校」と改名された時期があった。
著作
宮崎安貞編録、貝原楽軒刪補『農業全書』京都 : 柳枝軒藏版, 元禄9序[1696]