2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
以下のコンテンツの選択は、以下の動画を参考にさせていただきました。(資料は別)
→
[【ひとり旅】東京観光! 渋谷・六本木・銀座などを見学 ] スーツ旅行/ Suit Travel
[【関東大震災100年】東京観光を通して、震災復興を学ぶ2日間] スーツ旅行/Suit Travel
東京都千代田区有楽町と中央区銀座との間にあった外堀にかかっていた橋。また、その付近一帯の俗称。寛永六年(一六二九)伊達政宗が架橋。宝永四年(一七〇七)御門内に南町奉行所が置かれた。第二次世界大戦後、堀が埋め立てられたために橋は撤去されたが、「数寄屋橋公園」として名をとどめている。
出典 精選版 日本国語大辞典
東京都千代田区にあるショッピングセンター。1967年オープン。有楽町駅前にある「東京交通会館ビルディング」の商業施設としての名称。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
[南町奉行所]
江戸町奉行所の一つ。慶長6 (1601) 年八重洲河岸に設置。のち呉服橋などを経て数寄屋橋に移転。江戸の司法警察を司り,北町奉行所と月番で政務にあたった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
(江戸初期、織田有楽斎(おだうらくさい)の屋敷があったところから名づけられた) 東京都千代田区の町名、およびJR有楽町駅付近一帯の通称。映画館・劇場・デパートなどがあり銀座に接する繁華街。
出典 精選版 日本国語大辞典
[織田有楽斎]
安土桃山時代の武将で、また茶人。信長の末弟。名は長益。関ケ原の戦では徳川家康に従い、大和に三万石を領有。後年京都で茶道に専念し、有楽流をひらく。有楽。天文一六~元和七年(一五四七‐一六二一)
出典 精選版 日本国語大辞典
読売会館(よみうりかいかん)は、東京都千代田区有楽町一丁目の有楽町駅そばに所在する商業ビルである。所有者は当初は株式会社よみうりだったが、2000年代に読売新聞グループ本社傘下の株式会社読売不動産へ承継した。
設計者は村野藤吾、構造はSRC造(基礎は木田式深礎工法)。1957年にオープン。地下2階・地上9階建てで、6階までは商業区画、7階から9階までは有楽町よみうりホールとなっている。地下1階とよみうりホールには飲食店が出店している。地下2階で東京メトロ有楽町線有楽町駅地下通路と直結する。
商業区画にはかつてそごうの東京1号店(直営店)である有楽町そごうが入居していたが、退去後の2001年には大手家電量販店のビックカメラ有楽町店が開店した。
一般紙時代の報知新聞社が本社を構え、大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中は読売新聞社も一時移転し『讀賣報知』の題号で発行していた、読売グループにとって由緒ある場所である。
『読売会館』wikipedia
新有楽町ビルヂング(しんゆうらくちょうビルヂング)は、東京都千代田区有楽町一丁目にあるオフィスビルである。
本ビルが立地する一帯には、山手線・京浜東北線有楽町駅に近い東側に毎日新聞東京本社、丸の内仲通りに面した西側には丸ノ内日活劇場と農協会館が立っていた。丸ノ内日活劇場は1954年(昭和29年)に完成した座席数1425席の映画館であるが、テレビの普及で映画産業に翳りが見えた時期であり、1964年7月に三菱地所に売却。同劇場を解体した跡に1965年2月に「新有楽町国際ビル(仮称)」の第1期工事を着工した。
三菱地所は第1期部分に引き続き第2期部分を建設すべく、農協および毎日新聞社と立ち退き交渉を行った。このうち、農協会館は1939年竣工で老朽化が進み、大手町の農協ビルに移転が決まっていたことから、かねてより売却の折衝が進められていた。1965年1月に三菱地所が同会館を取得し、新国際ビルヂング建設中の第一生命保険の仮移転先として暫定使用した。一方、毎日新聞社の前身の東京日日新聞社は三菱地所からの借地を含む土地に1917年(大正6年)竣工の社屋と1922年竣工の新館、1938年竣工の毎日館(開館当時は東日館)の3館で業務を行っていた。毎日館には大阪市立電気科学館に次ぐ日本で2番目のプラネタリウムである東日天文館があり、戦災で焼失した後は1951年に開局したラジオ東京のスタジオが開設された。このスタジオでは、1953年9月6日に南隣で発生したスバル座火災の際に、日本初の火災実況放送を行っている[2]。その後ラジオ東京→東京放送ラジオ部門は1961年に港区・赤坂地区に移転。さらに毎日新聞社は周辺の交通渋滞により新聞の輸送に支障をきたしていることや、社屋が手狭になったことから移転を決定。1965年11月に敷地を売却し、1966年秋に完成したパレスサイドビルディングに移転した。
ビル名称は一時期「有楽町ビルヂング」の仮称となったのち1966年1月に「新有楽町ビルヂング」と正式に決まり、地下3階・地上9階建、延床面積4074坪の第1期部分が1967年1月に完成した。その後1967年3月に農協会館と毎日新聞の社屋の解体が完了し、同年9月より本体工事を着工した。1階のテナントとなるモルガン銀行の要望により、その区画の施工を早め1969年3月に部分開業させた後、同年6月に全面完成した。本ビルの竣工により丸の内仲通りの東側は丸ノ内ビルヂングから有楽町ビルヂングまで途切れずに三菱地所により整備されたこととなり、丸ノ内総合改造計画に一定のめどが立ったことから、6月27日に行われた竣工披露式典では、渡辺武次郎三菱地所初代社長の会長就任と中田乙一前副社長の社長就任の披露も合わせて執り行われた。
2021年7月29日に三菱地所より、有楽町エリアの再構築の一環として、有楽町ビルヂングと共に当ビルを建て替えることを発表した。なお、三菱地所の関係者によれば、「オフィスや飲食店を中心とした複合ビル」を構想しているという。また、2021年11月12日に行われた三菱地所の2022年3月期第2四半期の決算説明会において、「丸の内への今後のテナント誘致戦略」について問われた際に、この有楽町ビルヂングとの建て替えに関し「銀座との結節点としてファッションやメディア系のテナント誘致や、様々な実証実験の場としての活用等も検討している。」と説明した。
『新有楽町ビルヂング』Wikipediaより抜粋
東京都千代田区にある複合施設。1997年開館。8つのホール、31の会議室がある。2021年に開催された第32回オリンピック夏季大会ではウエイトリフティング、第16回パラリンピック夏季大会ではパワーリフティング競技が行われた。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
当初の東京府庁は、現・千代田区立内幸町ホールの場所にあった。
『東京都日比谷・有楽町 4.経済と行政の中心地』三井住友トラスト不動産に詳しい。
[三菱一号館]
1894年(明治27年)、現在の東京都千代田区丸の内に建設された洋風事務所建築で、煉瓦造の建物内に銀行や商社、郵便局が入居していた[1]。1968年(昭和43年)老朽化のため三菱地所が解体したが、2009年(平成21年)同社により美術館として復元された。
[三菱一号館美術館]
東京都千代田区にある美術館。平成22年(2010)創立。不動産開発の三菱地所が開設・運営する私設美術館。明治27年(1894)丸の内地区最初の近代オフィスビルとしてジョサイア・コンドル設計で建設された三菱一号館を復元。19世紀近代美術を中心とした企画展を開催。三菱一号館歴史資料室・三菱センターデジタルギャラリーを併設。
URL:http://mimt.jp/
住所:〒105-0005 東京都千代田区丸の内2-6-2
電話:03-5777-8600
出典 講談社日本の美術館・博物館INDEX
総合不動産会社。三菱合資会社の建築課業務を引き継ぎ 1937年設立。1953年三菱本社第二会社の陽和不動産,開東不動産,1972年名菱不動産,北菱不動産を合併。1984年三菱地所ホーム設立。1990年アメリカ合衆国のロックフェラーグループに資本参加。設立当初は三菱合資会社から丸ノ内ビルヂングと同敷地の所有権および丸の内地区その他の土地建物営業権を譲り受け,丸の内を中心に一大ビジネスセンターの経営にあたった。戦後は 1952年新丸ノ内ビル,1958年大手町ビルをはじめ次々に近代的ビルディングを建設。ビル賃貸では日本最大。丸の内再開発の完了を機に住宅事業に進出,マンション分譲,住宅地造成・分譲,別荘地開発など不動産販売事業の拡充に努めている。神奈川県横浜市の再開発計画「みなとみらい21」を手がけ,1993年に超高層ビルの横浜ランドマークタワーを建設した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
明治初期の実業家で、三菱財閥の創業者。名は寛、号は東山。土佐の人。幕末に土佐藩の長崎貿易を担当。明治四年(一八七一)三川商会(明治六年三菱商会に改称)を起こし、以後、三井財閥とともに財界を二分する大勢力となった。天保五~明治一八年(一八三四‐八五)
出典 精選版 日本国語大辞典
東京都千代田区の地名。皇居の東に位置する。東京駅があり、丸ビル・新丸ビルなどの立ち並ぶオフィス街。江戸城郭の内部なのでこの名があり、大名屋敷があった。
出典 小学館デジタル大辞泉
[皇居外苑]
1 皇居の周囲に位置する公園。旧皇室苑地の一部を一般に開放した国民公園の一つ。皇居前広場を中心とする「皇居外苑地区」、皇居の北側に位置する「北の丸地区」(北の丸公園)、12の濠ほりが皇居を取り巻く「皇居外周地区」に大別される。総面積約115ヘクタール。
2 1のうち、皇居正門の外側に広がる、皇居前広場を中心とする区域。
出典 小学館デジタル大辞泉
[二重橋]
(江戸時代は木橋であり、その安全を期するために橋桁を二重にかけていたところから呼ばれた) 東京都千代田区、皇居正門の堀にかかる二つの橋のうち、二の橋の皇居正門鉄橋(てつばし)の俗称。一般には、一の橋の皇居正門石橋を含めて呼ばれることが多い。
※雑俳・柳多留‐一四八(1838‐40)「一重(ひとへ)には知れぬ深慮の二重橋」
出典 精選版 日本国語大辞典
江戸明治の世界、振り返ると高層ビル群
[江戸城]
東京都千代田区にあった江戸幕府の本城。現在の皇居。中世の江戸氏の居館跡に、長禄元年(1457)太田道灌(おおたどうかん)が築城。のち、天正18年(1590)の徳川家康関東移封入城後、3代将軍家光に至る数回の工事で完成。その後、数度の火災と改修を繰り返したが、本丸は幕末に焼失。明治になって皇居となり、西の丸跡に宮殿が建てられた。富士見櫓(やぐら)・伏見櫓・桜田二重櫓のほか多くの城門を残す。千代田城。
出典 小学館デジタル大辞泉
詳しくは、日本の城の項の江戸城を参照。
[桜田門]
[1] 江戸城内郭(うちぐるわ)門の一つ。城の南西、霞が関の北東にあたる。江戸時代は内桜田門、外桜田門をいい、現在は外桜田門だけをいう。小田原門。
[2] (一)に面して警視庁があるところから、俗に警視庁や警察をいう。
出典 精選版 日本国語大辞典
[明治生命館]
東京都千代田区にある生命保険会社の本社ビル。 1934年竣工。明治以来の半世紀にわたる様式建築習熟の頂点とされる。設計は様式建築の鬼才といわれる岡田信一郎。ルスティカ石積みのベースメント,5階分通したコリント式の大オーダー,2段重ねのアティックという3層構成による堂々たるファサードとともに,秀逸な全体のプロポーション,細部装飾の充実が目を引く。構造設計は内藤多仲が担当,設備は所員をアメリカに派遣して最新技術の導入をはかった。岡田は遺作となったこの建物の完成を見ることなく 32年永眠した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[静嘉堂文庫美術館]
東京都世田谷区にある美術館。平成4年(1992)創立。三菱第二代社長の岩崎弥之助と息子の岩崎小弥太が収集した東洋古美術品のコレクションを公開する。俵屋宗達の紙本金地著色(ちゃくしょく)源氏物語関屋及澪標図など、国宝7点を所蔵。
URL:http://www.seikado.or.jp/
住所:〒157-0076 東京都世田谷区岡本2-23-1
電話:03-3700-0007
出典 講談社日本の美術館・博物館INDEX
↓
[静嘉堂文庫美術館移転]
創設130周年の2022年(令和4)10月、岩﨑彌之助が美術館建設を願っていた東京丸の内の、重要文化財・明治生命館1階にて展示活動を始めました。
『静嘉堂について~沿革』静嘉堂文庫美術館による
東京都千代田区にある郵便局。郵政民営化直前の分類では集配普通郵便局だった。
東京都千代田区にある複合施設。2013年オープン。旧東京中央郵便局敷地に位置する38階建ての高層ビル。低層棟では旧東京中央郵便局の建物を一部保存・再生している。東京中央郵便局のほか、国際カンファレンスセンター、商業施設「KITTE(キッテ)」やミュージアム、オフィスなどが入る。建物は第56回BCS賞を受賞。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
千代田区の東部、現在丸の内(まるのうち)と称される地域にほぼ該当する。江戸時代には江戸城内堀(馬場先堀・日比谷堀)と外堀に挟まれた範囲で、大名屋敷が立並んでいたことからこの通称が生れた。もともと一帯は湿地であったが、文禄年間(一五九二―九六)の江戸城西丸造営に伴う残土などで埋立てられ、武家屋敷地として整備された。慶長―寛永期(一五九六―一六四四)には馬場先(ばばさき)堀・日比谷(ひびや)堀沿いの八代洲(やよす)河岸には、埋立て前もと日比谷入江の漁民たちによる町屋が開け、魚介類をはじめさまざまな商品が売買された。慶長一一~一二年の江戸城拡張工事によって一帯が江戸城内に組込まれることになると、慶長八年から神田山の切崩し土による豊島洲崎(現中央区日本橋浜町から新橋辺り)の埋立が行われて市街地が形成され、町屋は同地に移転した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」
*湿地の埋め立て地をあてがわれたのは、外様大名である。
1914(大正3年)年に創建された東京の表玄関で、国の重要文化財に指定されている。辰野金吾により設計され、その堂々たる姿で、多くの人々に愛されてきたが、45年、戦災により南北のドームと屋根・内装が焼失した。終戦直後の47年には、3階建てだった駅舎が2階建てに縮小したものの、復旧工事が完了した。その後、2007年から5年4カ月の歳月をかけてリニューアルを実施、創建当時の3階建ての姿に甦った。2012年10月、グランドオープン。総工費は500億円。開発主体であるJR東日本は、皇居に面する丸の内口は低層の再開発にとどめる一方、余った容積率を周辺のビルに売却して「大改造」の資金を確保した。今回の「保存・復原工事」では、外観を創建時の姿に忠実に再現するとともに、鉄骨煉瓦造の下に地下躯体を新設し、機能拡大の工事を行った。巨大地震にも耐えうる建築とするため、「免震工法」で施工されている。
(2012-10-02)
出典 朝日新聞出版知恵蔵mini
2014年6月11日にオープンした、東京都港区虎ノ門にある超高層ビルの名称。店舗やオフィス、ホテル、住宅などを配した複合施設であり、六本木ヒルズや表参道ヒルズほか多数の不動産を都内などに所有・運営する森ビル株式会社が開発し運営している。
東京を始め、日本の多くの都市は太平洋戦争の空襲により、壊滅的な被害を受けた。この戦災復興のために各地で都市計画が進められ、東京にもいくつかの計画道路などが構想された。このうち、東京都江東区有明から、新橋・虎ノ門を経て、赤坂見附・四谷を通り、水道橋を抜けて神田に至る、総延長約14キロメートルの道路計画が環状第2号線である。この道路は首都の中心部を貫通するため、民有地の収用などが難航し、計画が大幅に遅滞していた。1989年に立体道路制度が創設されたことにより、道路の区域を立体的に定めてその上下に建築物を建設できるようになり、当地にも適用が検討された。98年にこの制度を適用した、道路事業と再開発事業を合わせた環状第2号線の新橋・虎ノ門地区の都市計画が決定した。この虎ノ門街区に当たるのが虎ノ門ヒルズである。このため、同ビルの地下にも環状2号線が通り、その地下トンネル部分への入り口が近辺に設けられている。
同ビルのフロア構成は、1~4階がレストランなどの商業エリア、4~5階には最大2000人収容のホール、6~35階はオフィスエリアとなっている。37階にスパを配し、46階まではレジデンスとして分譲や賃貸の居住エリア、47~52階にはハイアット系のホテル「アンダーズ東京」がオープンしている。ドラえもんをもとにした、耳があるモノクロ模様のネコ型ロボット「トラのもん」がビルのマスコットを務める。
(金谷俊秀 ライター / 2014年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」
中央区南西の一画。江戸時代には京橋川に架かる京橋の南、現銀座一―四丁目の表通りに面した一部は新両替(しんりようがえ)町一―四丁目で、この辺りに江戸時代初期に銀座が置かれていたことから銀座一―四丁目とも称され、京橋南一―四丁目の呼称もあった(「御府内備考」など)。この四町は明治二年(一八六九)に銀座一―四丁目と改称され、正式に銀座の町名が誕生した。同五年に鉄道が横浜―新橋(しんばし)(現港区)間に開通し、新橋駅に隣接した銀座は東京における外国先進文化の流入口となり、また丸の内(まるのうち)(現千代田区)の官庁街、江戸時代以来の商業・金融の中心地日本橋、築地の外国人居留地に近接した地域として独自に発展した。明治五年二月の大火により銀座地区の大半が焼失、その機会をとらえて明治政府はイギリスのロンドンの繁華街にならい西洋風の煉瓦街を建設した。原則として表通りに一等煉瓦家屋、横丁に二等煉瓦家屋、裏通りに三等煉瓦家屋を配置し、同一〇年には一千四〇〇余戸の煉瓦家屋が完成した。表通りは一五間幅として車道と歩道を分け、両側に松・桜・楓の街路樹を植え、さらに家屋部分に歩廊を設け二階にバルコニーを配するという、これまでの日本にない西洋風の町並が出現した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」
東京都、木村屋総本店が製造・販売する銘菓。小豆のこしあんが入った餡パン。創業者の木村安兵衛とその次男、木村英三郎が考案した。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
[木村屋總本店] https://www.kimuraya-sohonten.co.jp/
株式会社松屋が運営する百貨店・松屋の本店。東京都中央区銀座に店舗を置く。松屋は1869年創業。銀座店は1925年に開店し、翌年に本店となった。開店当初は贅を尽くした内外装で注目を集めたが、太平洋戦争終結後は52年まで連合軍に接収され、53年の改装によりモダンな外装へと姿を変えた。64年には東京オリンピックの開催に合わせて増築を実施。その後、2001年の全館改装を経て、12年にも大規模な改装が行われ、13年9月14日に新装開店した。この改装では売り場面積の3割がリニューアルされ、30~40代の女性向け高級品が大幅に拡充された。
(2013-9-18)
出典 朝日新聞出版知恵蔵mini
東京都中央区の北部,日本橋川にかかる橋の名称であるとともに,旧日本橋区にあたる地名。1603年(慶長8)日本橋が架けられて以来,付近一帯の地名となった。翌年,全国里程の原点と定められ,東海道をはじめとする五街道の起点となった。現在も日本国道路元標が橋のたもとにある。現在のアーチ型石橋は1911年に架けられたもので,長さ49m,幅27m,ルネサンス様式を模している。 浅井了意《江戸名所記》に,人の行きかいは〈螘(あり)の熊野まいりのごとし〉とあるように,江戸の交通・運輸の中心としてにぎわい,橋の南詰には高札場,晒(さらし)場が設けられた。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
魚市場のある河岸の意味。日本橋から江戸橋にかけての河岸に魚市場があったことに由来する。日本橋の魚市場は,慶長年間(1596~1615)に開かれたとされ,幕府の特許を得た魚問屋が営業,江戸の隆盛とともに,本小田原町,本船町,安針町を中心として栄えた。関東大震災後,東京都中央区築地に移転してからは,東京都中央卸売市場(築地市場)の通称として用いられるようになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
東京都中央区にある百貨店。前身「越後屋」の開業は1673年、1900年に座売りを全廃し、1904年に「三越呉服店」設立。1927年に建てられた本店建物は「三越日本橋本店」として国の重要文化財に指定されている。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
参考:
*『三越呉服店(日本橋三越本店)のライオン像 (関東大震災)』NHKアーカイブス 災害
大正一二年(一九二三)九月一日午前一一時五八分、関東地方を襲った大地震。マグニチュード七・九、震源地は相模湾の北西隅付近の海底。被害は東京を中心に湘南地方、三浦半島、房総半島全域におよび、死者一〇万、全壊、焼失、流失家屋五八万戸をだした。関東地震。
出典 精選版 日本国語大辞典
参考:
*『関東大震災 日本橋一帯が燃え尽きた日』SORA (ウェザーニュース気象アーカイブ)
松雪キャスターの取材で、「日本橋区(当時)には約2万3000世帯あったそうですが、焼失所帯率が93.2%で、市中で一番多かったといわれている」と記している。
*内閣府の資料は→『「関東大震災100年」 特設ページ』
防災担当大臣のメッセージと共に当時の数値記録が記載されています。
*『関東大震災』wikipedia
この地震の震源の位置は研究者によって見解が異なっており、相模湾のほぼ中央部を震源とする説(今村明恒[1924]の北緯34.98度、東経139.37度、ハーバート・ターナー[1927]の北緯35.0度、東経139.5度)、相模湾の北部を震源とする説(Matuzawa[1928]の北緯35.27度、東経139.33度、ベノー・グーテンベルグ、チャールズ・リヒター[1954]の北緯35.25度、東経139.5度、宇佐美龍夫[1966]の北緯35.2度、東経139.3度)、神奈川県秦野市付近を震源とする説(金森博雄、宮村摂三[1970]の北緯35.4度、東経139.2度)、山梨県の河口湖付近を震源とする説(Hirano[1924])などがある。また震源の深さについては金森と宮村が0-10kmと推定している。地震の規模を表すマグニチュード(M)は、7.9から8.3の推定が有る。
[忠犬ハチ公]
秋田犬。出生(1923)の翌1924年から東京帝国大学農学部教授上野英三郎(うえのひでさぶろう)(1871―1925)に飼われて、朝夕山手(やまのて)線渋谷駅に教授を送迎し、1925年(大正14)の教授の死後もその姿を求めて、死ぬ(1935)まで渋谷駅を離れなかったという。東京・青山の上野家墓地に葬られたが、剥製(はくせい)は上野の科学博物館にある。1934年(昭和9)渋谷駅西口広場に安藤照(しょう)(1892―1945)制作の銅像が建てられたが、第二次世界大戦中の1945年(昭和20)4月、戦力資源としての金属回収のため撤去された。戦後の1947年8月、照の息子士(たけし)(1923―2019)の手により再建されて、若者たちはじめ人々の待ち合わせの目印ともなっている。[佐藤農人]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日
渋谷駅ハチ公前広場青ガエルの跡地に誕生した「新観光案内所」
〒150ー0043東京都渋谷区道玄坂2丁目1ー1
営業時間:10:00~20:00 ※12/29~1/3は休業
渋谷スクランブル交差点(しぶやスクランブルこうさてん、英: Shibuya Crossing)は、渋谷駅の北西隣にあるスクランブル交差点。正式名称は渋谷駅前交差点であり、「渋谷駅前のスクランブル交差点」等の表記もある。
都内屈指の繁華街であり流行の発信地でもある渋谷で最も人が多く行き交う場所であり、日本の都市風景を象徴する存在として「世界で最も有名な交差点」とも言われる。また、1回の歩行青信号で1000人以上が行き交うため「世界で最も混雑している交差点」とも言われる。日本における流行の発信地であると共に、外国人観光客に人気のスポットでもある。
『渋谷スクランブル交差点』Wikipediaより抜粋
[渋谷スクランブルスクエア]
東京都渋谷区の渋谷駅直上に建設される大規模複合施設。商業施設やオフィス、産業交流施設、展望施設からなる。東棟・中央棟・西棟の3棟で構成され、建物の一部が渋谷駅に直結する。地上47階、地下7階で、建物の高さは渋谷エリアで最も高い約230メートルとなる。東京急行電鉄株式会社、東日本旅客鉄道株式会社、東京地下鉄株式会社が共同出資する「渋谷スクランブルスクエア株式会社」が運営する。2019年11月に東棟が開業し、28年に中央棟・西棟が開業する予定となっている。
(2019-7-31)
出典 朝日新聞出版知恵蔵mini
[SHIBUYA SKY]
SHIBUYA SKY(渋谷スカイ、しぶやスカイ)は、東京都渋谷区渋谷2丁目にある展望台。渋谷駅に直結した超高層ビル「渋谷スクランブルスクエア」東棟の45階、46階、屋上に位置する(出入口は14階)。地上229mから広がる360度の景色を眺めるにとどまらず、一連の体験を通じて知的好奇心を刺激し、想像力を育む施設となっている[1]。キャッチコピーは「展望せよ。渋谷。世界。自分。未来。(英語表記はOpen your eyes. Shibuya, The world, Yourself , The future.)」。
概要
東急東横線渋谷駅旧地上駅舎跡地北部及び東急百貨店東横店東館跡地の再開発計画(渋谷スクランブルスクエア東棟)は「渋谷駅街区開発計画I期」として2013年(平成25年)6月17日に東京都より都市再生特別措置法に基づく都市再生特別地区の都市計画決定がなされ、2014年(平成26年)8月から本格的な工事に着手していた。当初は展望施設の無い高層ビルとして計画されていたが、渋谷を訪れる人々に対する都市の魅力をさらに高めるため、2015年(平成27年)に計画を一部変更し、ビル最上部に屋外と屋内からなる展望施設を設置することとなった。
SHIBUYA SKYの設計は日建設計 と乃村工藝社が、演出はライゾマティクスが手がけた。
混雑した渋谷の街から解放される舞台のような場所として、敢えて何もない巨大なデッキ空間を設けて、空とつながる都市の公園とした。
ライゾマティクスは展望台を「空間装置」と捉え、SHIBUYA SKYの入口から出口までを一貫した「体験ストーリー」で演出している。「一度自分を“日常”から切り離して“非日常”を体験し、そしてまたいつもの“日常”に戻る」という巡礼様式や通過儀礼の流れをヒントに、その体験構造を施設全体の体験ストーリーに盛り込み、日常から「分離」し、再び日常に戻る「統合」までの一連の流れを、14階にあるエントランスからすべての空間に当てはめた。プロジェクトディレクターの有國恵介は、この演出のインスピレーション源となった場所として広島県宮島の「弥山展望台」を挙げている。
2019年(令和元年)11月1日に渋谷スクランブルスクエアとともに開業した。
『SHIBUYA SKY』Wikipediaより抜粋
渋谷川(しぶやがわ)は、渋谷駅南方から天現寺橋までの2.4kmを流れる二級河川。
古川(ふるかわ)は渋谷川の下流であり、天現寺橋下の笄川合流点から浜崎橋先の河口までの4.4kmの二級河川。
「渋谷」が地形上の「谷」であることは明白であるが、「渋」については渋谷川を流れる渋色(赤茶色)の水に由来する、という説がある。流域では渋谷粘土層と呼ばれる特有の地層が水を遮るため、上層にある関東ローム層(赤土層)に染み込んだ雨水は、その鉄分を溶かし込みながら川へと排出され、水を赤茶色に染めるのだという。現在も、渋谷で湧いている井戸水には、全国平均の24倍にあたる鉄分が検出されている。 一方で、「渋谷」および「渋谷川」の由来は、今の大和市渋谷地区(旧・渋谷村)を出自とする渋谷氏一族が周辺地域に居を構えたことによるとする説や、「塩谷(しおや)」が「渋谷(しぶや)」に変わったとする説もある。
古川は江戸時代から昭和初期頃までは新堀川、金杉川とも言われていたが現在は使われていない。
流路
渋谷ストリーム北辺の「稲荷橋」地点を起点とし、広尾、麻布の台地下を流下して、芝公園の南側を通り、東京湾に注ぐ。
渋谷川では1986年から、老朽化した護岸を包み込む形でコンクリート護岸による河川改修が行われているが、天現寺橋から下流の古川では、古い石積護岸が今も残る。赤羽橋から河口までは、昭和30年代から防潮堤が整備されている。
また、天現寺出入口付近より下流は首都高速2号目黒線が、一ノ橋JCTより下流は都心環状線が直上を通っている。
『渋谷川』Wikipediaより抜粋
2020年開催の東京オリンピック・パラリンピックの主会場となる国立競技場。現在東京都新宿区にある国立霞ヶ丘陸上競技場を全面建て替えして建設する予定。開閉式ドーム屋根を備え、収容人数は8万人、コンサートなどのイベントにも利用できる計画。19年ラグビーワールドカップ日本大会の会場にもなる見通しで、15年秋着工、19年春完成の予定。
事業主体の日本スポーツ振興センター(JSC)は12年2月、1964年東京五輪で使用した国立競技場の全面建て替え計画を発表、同年にコンペを実施し、世界各国の建築家からデザインを募集した。新国立競技場には、明治神宮外苑の狭いスペースで立体的に多くの観客を収容、スポーツ以外の催しや災害時の緊急避難所としても活用し、環境にも配慮するという条件を提示した。当然、バリアフリーやVIP席、駐車場などの充実も求められる。この結果、46件の応募があり、イラク出身で英国に事務所を置くザハ・ハディド氏のデザインが最優秀賞に決まった。
建設費は当初、1300億円と想定していたが、2013年9月の東京五輪招致を受けて改めて試算したところ、最大約3000億円まで膨らむ可能性があると分かった。流線形のアーチで屋根を支える斬新なデザインや、延べ床面積が12年ロンドン五輪主会場の3倍近い約29万平方メートルとなることなどが要因と考えられるため、政府は計画の縮小を検討した。この結果、ベースとなるデザインは生かすものの、通路の幅や柱を細くするなど周辺整備を見直し、総工費は1852億円になると公表、東京都に一部負担を求めている。
世界的建築家の槇文彦氏は計画の見直しを求める要望書を文部科学省と東京都に提出した。その中で建設予定地は風致地区であり歴史的経緯を無視したデザインであること、災害時に8万人を安全に誘導することは難しくオリンピック後の維持管理という点からも大規模スタジアムには問題があることなどから、床面積の縮小を図り、ロンドンなどに準じて一部を仮設のスタンドとすべきであると指摘している。
(若林朋子 ライター / 2013年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」
東京都新宿区にある野球場。大正15年(1926)完成。グラウンド面積は1万2659平方メートル。プロ野球東京ヤクルトスワローズの本拠地。東京六大学野球のリーグ戦や全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会など、大学野球の主要な球場としても使用される。正式名称は明治神宮野球場。
出典 小学館デジタル大辞泉
神宮外苑の再開発に関連して、神宮球場の建て替えにも共産党を中心として反対運動が繰り広げられているよう。
東京都港区北西端から新宿区、渋谷区にまたがる緑地。面積約30万平方メートル。明治時代、青山練兵場であったが、明治天皇崩御(ほうぎょ)の際、葬場となり、明治神宮が創立されたとき、記念施設として民間の献金により外苑が造成された。1919年(大正8)起工、1926年完成した。明治天皇・昭憲(しょうけん)皇太后の事績を描いた絵画を陳列した聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)があり、青山通り(国道246号)から絵画館前へ通ずるイチョウ並木は、東京におけるもっとも美しい街路樹の一つである。この絵画館を中心として、国立競技場、神宮球場、秩父宮ラグビー場(ちちぶのみやらぐびーじょう)、東京体育館、日本青年館、明治記念館などスポーツ、文化施設が集まっている。JR中央線千駄ヶ谷駅・信濃町駅、都営地下鉄大江戸線国立競技場駅、東京地下鉄銀座線外苑前駅および、都営地下鉄大江戸線、東京地下鉄銀座線・半蔵門線の青山一丁目駅に近い。[沢田 清]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
銀座線(ぎんざせん)は、東京都台東区の浅草駅から渋谷区の渋谷駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は3号線銀座線。
路線名は経由地である繁華街の銀座に由来する。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「オレンジ」(#ff9500、橙)、路線記号はG。
1927年(昭和2年)に浅草駅 - 上野駅間で営業を開始した、日本で最初の“本格的”な地下鉄である。当時のポスターでは「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチコピーが使われ、アジア・オセアニア地域でも初めての地下鉄路線である。
『東京メトロ銀座線』Wikipediaより抜粋
東京都渋谷区にあるショッピングセンター。1979年オープン。道玄坂二丁目、道玄坂下交差点に面した角地に立地する。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
109(イチマルキュー)は、東急の完全子会社である株式会社SHIBUYA109エンタテイメントが展開するファッションビルおよびテナント、ブランドの名称。
[名称の由来]
由来は「東急(とうきゅう)」の読みを数字の「10-9」 → 「いち・まる・きゅう」にあてた語呂合わせから。また、「営業時間が午前10時から午後9時まで」という意味も盛り込まれている。
[概要と沿革]
*SHIBUYA109(渋谷)
所在地 〒150-0043
東京都渋谷区道玄坂二丁目29-1
座標 北緯35度39分34秒 東経139度41分56.5秒座標: 北緯35度39分34秒 東経139度41分56.5秒
開業日 1979年4月28日
正式名称 道玄坂共同ビル
施設所有者 丸国産業株式会社、三丸興産株式会社ほか(土地・建物)
株式会社SHIBUYA109エンタテイメント(建物賃借)
施設管理者 株式会社SHIBUYA109エンタテイメント(施設運営)
商業施設面積 10,220 m²
店舗数 121店
営業時間 物販/10:00-21:00
飲食 7F/11:00-22:30、8F/11:00-23:00
前身 戦後の闇市 ・焼け跡マーケット(恋文横丁)
→三丸(1948-1979年)
→ファッションコミュニティー109 (1979-1989年)
外部リンク https://www.shibuya109.jp/
東京都渋谷区宇田川町周辺で展開するセゾングループの渋谷公園通りの開発に対抗して、東急グループが東急百貨店本店に続く東急本店通り(現:文化村通り)に顧客を吸引するために、東急モールズデベロップメント (TMD) の前身である旧「東急商業開発」(当時の社名はティー・エム・ディー)が1979年(昭和54年)4月に渋谷区道玄坂二丁目の道玄坂下交差点に面した鋭角の角地にオープンさせた「ファッションコミュニティ109」(現:SHIBUYA109)が初の店舗であり、今なお売上の多くを占める旗艦店である。
開業当初は20代後半から30代の女性向けテナントを集積させていたが、その後方針を転換。現在では店内のほとんどが10代後半から20代前半の女性向けのテナントで占められている。その購買層からは「マルキュー」の略称で呼ばれている。鋭角の立地を活かした円柱形のエレベーター・タワー(シリンダーと呼ぶ)が特徴の設計は、ポストモダン建築で有名な竹山実による。アルミパネルで覆われたその壁面は、渋谷スクランブル交差点などからも容易に見通せるため、化粧品、携帯電話や旬の歌手などの広告が掲げられ、その時々の商業戦略をうかがうことができる。
また、正面玄関前および道玄坂側の店舗前にある「109スクエア」は、シリンダー広告と連動、あるいは単独でのイベントスペースとなっている。新製品のプロモーション、サンプリング、タレントの出演など、店舗の顧客層をターゲットにすることはもちろん、地の利により多数の通行人の目に付きやすいため、週末を中心に宣伝媒体の一つとして利用されている。なお、シリンダー広告のスポンサーの決定後にイベントスペースのスポンサーが決定するため、広告が競合する場合は利用できないことがある。
渋谷のシンボルとして定着しているため、『ガメラ3 邪神覚醒』、『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』、『ドラゴンヘッド』、『日本沈没』など多くの作品で破壊される描写が登場する。この他、かつてはBunkamuraなどとともに東急線の車両のつり革に広告を出しており、地方に譲渡されたこれらの車両には当時の広告がいまだに残っているものもある。
開業40周年を迎える2019年(平成31年)4月にはイメージの一新を図るため、これまで親しまれてきた109のロゴマークを一般公募で募集したものに変更した。
『SHIBUYA109』Wikipediaより抜粋
[東急グループ]
東急電鉄株式会社を中核とする企業集団。鉄道輸送と沿線の開発を事業としてきた同社は、第二次世界大戦後から1950年代にかけて関連会社を設立し、企業グループの基盤を形成した。敗戦直後会社再編成が行われ、1948年(昭和23)百貨店業務を分離し東横百貨店(現、東急百貨店)をグループ会社として設立、続いて同年東急車輛(しゃりょう)製造(現、総合車両製作所)を設立した。その後、東急不動産(1953)、東急観光(1956。2004年グループから離脱。トップツアーを経て、現、東武トップツアーズ)、東急建設(1959)、伊豆急行(1959)、東急エージェンシー(1961)、東急ホテルチェーン(1968。現、東急ホテルズ)、東急ケーブルテレビジョン(1983。現、イッツ・コミュニケーションズ)などを設立。2019年(令和1)時点で、232社、5法人。代表企業の持株会社東急の資本金は1217億円(2019)、また中核企業となる東急電鉄の売上高1407億7800万円(2020年3月。連結ベース)。事業分野は開発、交通、流通、レジャーおよび文化事業にわたる。
開発分野では鉄道沿線の住宅開発に始まり、地域総合開発、リゾート開発に業績をあげ、交通分野では鉄道やバス、流通分野には百貨店、スーパーマーケット、運送、そして広告代理店も含まれる。レジャー産業部門ではホテル、レジャー施設などを経営する。社会還元としての文化事業には育英事業、学校経営、社会事業が含まれている。五島育英会(ごとういくえいかい)、東急財団(とうきゅう環境財団、とうきゅう留学生奨学財団、五島記念文化財団を2019年に統合)、亜細亜学園(あじあがくえん)、大東急記念文庫を含む五島美術館などがそれで、なかでも五島美術館は創業者五島慶太のコレクションの公開で、国宝・重要文化財を含む。このほか「電車とバスの博物館」(川崎市)も開設し社会教育の一助としている。[森 真澄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[五島慶太]
実業家。東急グループの創始者。長野県の小林家に生まれ、結婚後五島姓となる。1911年(明治44)東京帝国大学卒業。農商務省、鉄道院を経て、1920年(大正9)武蔵(むさし)電気鉄道常務に就任。1924年同鉄道は東京横浜電鉄と改称、専務となる。また1922年目黒蒲田(かまた)電鉄を設立し、専務に就任。その後両社の社長となり、1939年(昭和14)二つを合併して東京横浜電鉄とする。1942年には小田急電鉄、京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)を統合、東京急行電鉄(現、東急電鉄)とした。1944年、東条英機内閣の運輸通信大臣に就任。第二次世界大戦後、公職追放が解けるや交通分野を中心として多角経営を推進した。旺盛(おうせい)な事業活動から「強盗慶太」の異名をとる。1952年(昭和27)東京急行電鉄会長となる。[前田和利]
『五島慶太伝記並びに追想録編集委員会編・刊『五島慶太の追想』(1960)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[東急電鉄(株)]
東京の南西部に104.9キロメートル(2019)の路線を有する民営鉄道。東急グループの一つである。渋谷―横浜間(東横線)、渋谷―中央林間間(田園都市線、2000年8月まで渋谷―二子玉川(ふたこたまがわ)間は新玉川線とよばれていた)、目黒―日吉(ひよし)間(目黒線)、蒲田(かまた)―多摩川(たまがわ)間(東急多摩川線)、大井町―溝の口間(大井町線)、五反田―蒲田間(池上(いけがみ)線)のほか、世田谷(せたがや)線、こどもの国線などがある。このうち東横線は横浜高速鉄道みなとみらい21線および東京地下鉄副都心線と、田園都市線は東京地下鉄半蔵門線と、また目黒線は東京地下鉄南北線および都営地下鉄三田線と直通運転を行い、半蔵門線は東武鉄道に、南北線は埼玉高速鉄道に、副都心線は東武鉄道東上線および西武鉄道にそれぞれ結ばれている。
会社の発祥は1923年(大正12)開業の目黒蒲田電鉄(かつての目蒲線など)で、ついで東京横浜電鉄(現、東横線)が開業。両社の経営にあたっていた五島慶太(ごとうけいた)は、隣接の池上電気鉄道(現、池上線)や玉川電気鉄道(現、田園都市線、世田谷線など)を合併し、さらに、東京近郊の交通調整策に沿って1942年(昭和17)に小田急電鉄、京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄)、1944年京王電気軌道(現、京王電鉄)を合併、東京急行電鉄を組織した。1948年(昭和23)には京王帝都電鉄(現、京王電鉄)、小田急電鉄、京浜急行電鉄の3鉄道を分離独立させた。もともと目黒蒲田電鉄は、郊外に理想的な住宅地を開こうと設立された田園都市株式会社の子会社として生まれたものであり、田園調布をはじめとする沿線は関東大震災後住宅地としていち早く発展した。1966年以後開通していった田園都市線は多摩田園都市を新たに開き、民間企業によるニュータウン建設の代表的な例となっている。そのほか全国各地や海外にも多角的な事業を展開し、いわゆる東急グループを形成した。2019年(令和1)9月2日に東京急行電鉄から東急へ社名を変更し、鉄道事業は同年10月1日に分社化されて東急電鉄となり、東急の子会社となった。[和久田康雄・青木 亮 2020年11月13日]
『『東京急行電鉄50年史』(1973・東京急行電鉄)』▽『『鉄道ピクトリアル7月臨時増刊号 東京急行電鉄』(2004・鉄道図書刊行会)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
東京都渋谷区にある複合施設。2000年オープン。京王電鉄渋谷駅上にあり、ホテル、オフィス、商業施設などが入る。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
渋谷マークシティ(しぶやマークシティ)は、東京都渋谷区道玄坂一丁目にある、株式会社渋谷マークシティが運営する複合商業施設である。京王井の頭線の渋谷駅や商業施設、ホテル、オフィス、バスターミナルなどの機能を有する。2000年度グッドデザイン賞受賞(建築・環境デザイン部門)。
「イースト」(EAST=東)と「ウェスト」(WEST=西)の2棟のビルからなり、東京地下鉄渋谷駅構内側線(渋谷車庫)、京王電鉄渋谷駅に跨って建てられている。
渋谷マークシティは、京王帝都電鉄(現:京王電鉄)、帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄〈東京メトロ〉)、東京急行電鉄(現:東急)が所有する土地、合計約1万4000 m2を一体として有効活用を図り、鉄道施設上空利用施設として老朽化した既存施設を更新し、鉄道施設の改良に併せて、ホテル・オフィス等2棟の高層ビルを建設。さらに鉄道施設上部を利用して東西を貫く遊歩道を設置し、鉄道の相互アクセスの改善と道玄坂を含めた街の回遊性を高め、副都心である渋谷の活性化に資するとの方針に基づき建設された。
ハチ公広場側、京王井の頭線渋谷駅上に「マークシティイースト」、道玄坂上側、東京メトロ車両基地上に「マークシティウエスト」が建てられた。また、敷地は渋谷駅から道玄坂上にかけて16mの高低差があり、道玄坂上でマークシティウエストの4階レベルとなる。この特性を利用し、鉄道施設上部に敷地を貫通する遊歩道を設置して、店舗を配置することで新しいショッピングモール「マークシティモール」を誕生させた。
施設は1994年に着工し、2000年4月7日にオープンした。渋谷は若者の街として知られているが、その中でもあえて『オトナ発信地』をコンセプトとして、渋谷で生活する20歳代後半以上の女性をターゲットに設定した。渋谷マークシティのオープンは渋谷駅周辺の人の流れを変えたといわれた。
「SHIBIYA MARK CITY(渋谷マークシティ)」の「MARK」の名称は、Mailは遊歩道(ショッピングモール等の街区の特徴をPR)、Accessは交通の便のよさ(街区の利便性を強調)、Railroadは鉄道会社(営団(当時)・東急・京王の三者による事業の架け橋)、Keyは渋谷のキーポイント(情報発信地区の中心)という、4つのコンセプトワードに由来する。
運営会社は上記三社の持分出資であり、ホテル、オフィス、マークシティモールの各商業区画は三社の共有物件である。京王井の頭線が入線する渋谷駅部分は京王電鉄の持ち分であり京王グループの物販店が出店している。
『渋谷マークシティ』Wikipediaより抜粋
東京都墨田区押上にあるテレビ放送用鉄塔。高さ約 634m。関東地方における地上デジタルテレビ放送の電波送信が,都心部に林立する高層ビル群によって障害を受ける可能性があることから,超高層のテレビ塔として計画された。2008年7月14日着工,2012年2月29日竣工。電波塔としての役割に加え,東京の下町を代表するランドマークとなり地域活性化に貢献することを目指した。また都心の大規模なインフラストラクチャーとしての役割や,ワンセグの受信可能地域の拡大も期待された。構造設計に際しては日本の伝統美と最新技術の融合がはかられた。タワーの平面は,足元は一辺約 68mの三角形で,上へ伸びるに従い円形へと変化する。側面には伝統的な日本建築などにみられる凸凹に湾曲する面(そり,むくり)が採用された。この形状によって高い塔の圧迫感を軽減し,周辺地域の日照問題にも対応した。耐震性を高めるため,塔本体のゆれを心柱によって相殺する,五重塔と同様の構造となっている。地上本体の鉄骨重量は約 4万1000t。放送施設のほか 2ヵ所の展望施設があり,地上 350mの東京スカイツリー天望デッキ,450mの東京スカイツリー天望回廊からは広大な景色が楽しめ,観光名所ともなっている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
タワーとしては高さ世界一。のべ58万人が関わる一大プロジェクト。
参考:『新プロジェクトX~挑戦者たち~ 🈟 東京スカイツリー 天空の大工事』(NHKプラス)
https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024040606418?playlist_id=d7267c5c-5953-4374-90f4-5768431d70c6
4月13日まで視聴可能
参考:『東京スカイツリー』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BC
参考:『東京スカイツリー』公式HP https://www.tokyo-skytree.jp/
NHK放送センター(エヌエイチケイほうそうセンター)は、東京都渋谷区神南2丁目にある日本放送協会(NHK)の施設。いわゆる「本部」であり、放送法第17条(旧第8条)における「主たる事務所」である。
全国ネットワーク番組の大半がここで制作・発信されているほか、関東甲信越地方向けブロック放送の拠点も兼ねている。衛星放送を行う衛星放送局と日本国外向けの国際放送(NHKワールドTV・NHKワールド・ラジオ日本)を行う国際放送局がある。
最寄りの駅は、東京メトロ千代田線の代々木公園駅、小田急電鉄の代々木八幡駅、JRの原宿駅、および渋谷駅(JR・東京メトロ・東急電鉄・京王電鉄)。
所在地は、かつての日本占領アメリカ軍居住区域・ワシントンハイツの一部である。当時の阿部眞之助NHK会長が池田勇人首相に「NHKはオリンピックのホスト局なので、主会場の国立競技場の近くに放送施設を作りたい」と「ワシントンハイツ跡地が最適なので、将来的にNHK本部もそこに移すつもりなので何とか払い下げてもらえませんか」と頼み、池田が「オリンピック放送は是非とも成功させていただきたい」と払い下げを決めた。ワシントンハイツは1964年に日本に返還され、跡地に選手村、代々木競技場などとともに東京オリンピックの放送センターが建設された。これは五輪後正式にNHKの本部施設として位置付けられ、10年近くかけて日比谷地区にあった旧東京放送会館から引っ越しを進めていった。
NHKの本部でもある渋谷の放送センターは、最も古い施設で、建設から既に半世紀近くが経過し、耐震性確保および省エネルギー化において、そのことが障害となる傾向がみられたため、2010年頃から「長期的課題」として全施設の建て替えについて検討に入ることとなった。
しかし、国会でも建て替え計画に対する疑念の声は、少なからず上がっており、2016年(平成28年)2月15日の第190回国会・衆議院予算委員会会合で、自由民主党の後藤田正純は『何故渋谷の一等地にあるのか』『民間に売却して成長戦略を立てられる最高の土地』『NHKの不祥事が相次ぐ中で、3,000億円の巨費を投じて建て替えは冗談ではない』などと手厳しく批判し、これに対して、総務大臣高市早苗は『合理性や妥当性の面から国民に対する説明責任を果たして欲しい』と発言した上で、『(放送法17条によって、NHKが「主たる事務所を東京都に置く」と定められている事を説明した上で)地方創生に貢献することも大切だ』と提案している。
また、2006年(平成18年)9月には東京都知事(当時)の石原慎太郎が「(NHKが)中央区の築地市場跡地に移転する」と発言したが、NHKは「築地への移転の計画はない」と即座に否定している。
2016年(平成28年)8月30日、NHKが放送センター建て替えの基本計画を発表した。それによると、工事は2020年(令和2年)9月に着工し、第1期工事(情報棟)は放送開始100周年にあたる2025年に完成する。その後第2期工事(制作・事務棟および公開棟)を行い、全体の竣工が2036年(令和18年)になる。建物の建設費(放送設備費は含まない)で1,700億円を見込んでいる。
『NHK放送センター』Wikipediaより抜粋
神奈川県丹沢山地南東にそびえる大山の阿夫利神社への参詣者が利用したすべての道筋の総称。阿夫利神社は江戸時代に広く関東,東海一円の人々,特に農民の信仰を集めた。柏尾 (戸塚宿の北) から長後,用田,門沢橋経由,羽鳥 (藤沢宿の西) から寒川神社,田村,伊勢原経由,日本橋から青山,二子,溝口,江田,長津田,下鶴間,厚木経由 (矢倉沢往還とも呼ぶ) ,小田原から二宮,泰野経由,東京板橋清水坂上から練馬,田無,八王子経由でそれぞれ大山にいたるものが主要な道筋。以上のなかでも矢倉沢往還は最も重要で東海道の脇往還として利用され,現在も国道として交通量が多い。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
東京都世田谷区東部,玉川通り (大山街道) に沿う地区。地名は昔,大山街道と津久井往還の分岐点に3軒の茶屋があり,大山参りの旅人の目標になったことにちなむ。東京急行電鉄田園都市線の三軒茶屋駅があり,同世田谷線の起点。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2008年3月21日、青山学院の建築物である「青山学院間島記念館」および「青山学院ベリーホール」が国登録有形文化財(建造物)に登録されました。この二つの建造物は、「意匠的にすぐれた近代洋風建築であり、保存状態が極めて良好である」との評価を受けて、文化庁文化審議会において登録が決定しました。青山学院の建築物としては、初めての国登録有形文化財となりました。
1929(昭和4)年に図書館として建設されました。関東大震災後の校舎復興を機に、中央図書館を新築することになり、校友会会長であり理事であった間島弟彦氏がその資金の寄付を申し出られ、死後に愛子夫人がその遺志を継いで建設されました。
【構 造】
正面にコリント式の円柱を連ね、それが高い基壇をなす一階部分に載る姿は古代ローマ神殿を思わせるところがあり、本格的な古典主義的構成を持つ建築物です。
『青山学院の文化財建築物 間島記念館・ベリーホール』青山大学HP
[表参道]
東京都渋谷区神宮前(原宿)・港区北青山・南青山(青山)にある参道。また、その周辺一帯の通称である。
明治神宮の参道の一つ。現在の都道413号線のうち、青山通りから原宿駅前の神宮橋交差点(明治神宮前)に至る区間が相当する。
1919年に明治神宮の参道として整備された大通りが「表参道」そのものであるが、現在ではその通りを中心とする原宿・青山地域を漫然と指して「表参道」と称することも一般的である。
『表参道』Wikipediaより抜粋
[表参道ケヤキ並木] のちほど
[基本情報]
所在 北青山三丁目 表参道交差点前
住所 東京都港区北青山3-6-12(東京メトロ 表参道駅 徒歩1分)
連絡先 赤坂地区総合支所 03-5413-7011(代表)
建立者 港区赤坂地区総合支所、区政六十周年記念事業実行委員会
建立年 平成19年1月
※H22.11発行「平成22年度 全国戦災史実調査報告書」より
(調査時期H22.7~10月/情報提供元は、赤坂地区総合支所)
[碑文]
和をのぞむ
太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、
赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により
逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。
戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない
世界の平和を祈ります。
港区政六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。
平成十九年一月
港区赤坂地区総合支所
区政六十周年記念事業実行委員会
『「山の手空襲」追悼碑』総務省一般戦没者の追悼 追悼施設より
[旧同潤会アパート]
関東大震災(1923)後に、財団法人同潤会が建設した、鉄筋コンクリート構造の集合住宅。同潤会は関東大震災の翌年、内務省が、義捐金(ぎえんきん)を元に設立したもので、被災者のための仮設住宅や木造住宅の建設を行った。
1926年(大正15)から34年(昭和9)にかけて、中之郷(墨田区)、代官山(だいかんやま)(渋谷区)、青山(渋谷区)、柳島(やなぎしま)(墨田区)、山下町(横浜市中区)、平沼町(横浜市神奈川区)、三田(みた)(港区)、三ノ輪(みのわ)(荒川区)、鶯谷(うぐいすだに)(荒川区)、上野下(台東区)、清砂通(きよすなどおり)(江東区)、虎ノ門(とらのもん)(千代田区)、住利(すみとし)共同住宅(江東区)、大塚女子(文京区)、東町(江東区)、江戸川(新宿区)の計16か所に建設されており(竣(しゅん)工順、( )内は現在の地名)、総住戸数は約2800戸。日本初の本格的な耐震耐火構造をもつだけでなく、集会室や中庭などを備えた先進的な設計が行われていて、その後建設された日本の集合住宅に大きな影響を与えた。1941年(昭和16)に同潤会が解散した後は住宅営団に、第二次世界大戦後の一時期東京都に管理が引きつがれた後、居住者に払い下げられた。ただし、働く女性のために建てられた大塚女子アパートだけは、東京都の管理下に残された。
建物が老朽化し、また戦争により被害を受けた建物もあったことから、1980年代以降再開発が進められた。建築史や生活文化史において記念碑的な価値をもつため、アパートの保存や再生を求める運動もあったが、2003年(平成15)には青山、江戸川、清砂通、大塚女子アパート、2009年には三ノ輪アパートが取り壊され、最後まで残っていた上野下アパートも2013年に解体された。[編集部]
『宮沢小五郎編『同潤会十八年史』(1993・青史社)』▽『佐藤滋他著『同潤会のアパートメントとその時代』(1998・鹿島出版会)』▽『『同潤会アパートメント写真集』(2000・建築資料研究社)』出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[表参道ヒルズ]
東京・表参道のケヤキ並木に並行して建てられた、安藤忠雄設計の低層ビルディング。1927年の竣工以来、長らくこの地域で親しまれてきた同潤会青山アパートの取り壊し決定に伴い、新しいビルディングとして建設が計画された。建物の全長は約250mで、坂道の斜面に応じて部分ごとに高低が調節されている。また屋上緑化が進められるなど、周囲の景観に違和感なく溶け込むように様々な配慮がされている。建物の内部は、メーンエントランスのある本館のほか、レジデンス機能のある西館とかつての面影を残した同潤館の3つに大別される。このうち本館は、内部全体が大きな吹き抜けとなっており、多くのショップやブティックが入居した地上6階地下6階の全層は、緩やかなスロープによってスパイラル状に繋がれている。オープンに当たって、新たな情報やファッションの発信拠点となることを意図して「メディアシップ」と命名された。多くのブランドビルが立ち並ぶこの界隈でも一際目立つランドマークであり、2006年2月11日のオープン以来、多くの人々に親しまれている。
(暮沢剛巳 建築評論家 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」
東京都渋谷区代々木に鎮座する元官幣大社。祭神は明治天皇とその皇后の昭憲皇太后。 1915年造営を始め,20年竣成。旧代々木御料地を中心とする内苑には,全国から 365種,約 10万本の木が献納され,菖蒲苑を中心に都内では珍しい人工林をなす。外苑は天皇の葬儀が行われた旧青山練兵場跡で,絵画館を中心に,神宮野球場など多くのスポーツ施設がある。旧社殿は戦災で焼失したが,その後近代の神社建築の粋を集めて,58年再建された。例祭は明治天皇の誕生日 (旧明治節) の 11月3日。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
東京都港区南青山二丁目にある東京都立の霊園である。
青山霊園は、樹木が生い茂る武蔵野の面影を留める港区の北西に位置し、ビル街の中にある園内には桜並木が縦横に走る落ち着いた雰囲気を保っている。面積は約26haで、明治に入り会津藩出身の桐生氏が開いた現在の附属立山墓地(青山霊園立山地区)が興りとされ、隣接してのちの青山霊園への造成へとつながっていった。
1872年(明治5年)、美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主・青山家の下屋敷跡に開設された。当初は神葬祭墓地であった。1874年(明治7年)9月1日、市民のための公共墓地となった。1889年(明治22年)、東京府から東京市に移管された。1926年(大正15年)、斎場の建物のすべてが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となった。現在は東京都の所管である。
明治維新の功労者や文学者・科学者・芸術家・政治家等の著名人墓所が数多くある。維新の三傑である大久保利通、細井和喜蔵の『女工哀史』の印税で建てられた「解放運動無名戦士墓」も存在、忠犬ハチ公の墓もある。附属立山墓地には、永田鉄山、木村兵太郎、相楽総三なども眠っている。
『青山霊園』Wikipediaより抜粋
wikipedia中に、青山霊園に葬られた著名な人々の一覧がある。例)大久保利通、池田隼人、国木田独歩、北里柴三郎、黒田清隆、後藤新平、志賀直哉、乃木希典・静子など
[乃木坂]
東京都港区北部,赤坂8丁目,明治天皇崩御に際し殉死した乃木希典をまつる乃木神社脇の坂。神社の隣に旧乃木邸がある。東京地下鉄千代田線が通る。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[乃木神社]
陸軍大将乃木希典(まれすけ)をまつる神社で,各地にある。乃木大将は,明治天皇大葬の1912年9月13日の夜,夫人静子とともに殉死した。各地に追悼の運動がおこり,東京都港区赤坂の乃木邸(府社),栃木県那須郡の別荘(県社),山口県下関市の生地(県社),京都市伏見区の桃山御陵近く(府社),さらに北海道函館市にも乃木神社が創建され,護国の神,武人の鑑として崇敬された。いずれも夫人を併祀し,例祭日は9月13日。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
[旧乃木邸](乃木公園)
乃木坂駅を出てすぐの外苑東通りと乃木坂に面した公園です。日清・日露戦争を戦った陸軍大将乃木希典(1849~1912)の邸宅地でしたが、乃木将軍の遺言により、公園として東京市に寄贈され、大正2年に開設されました。現在は港区により管理されています。
旧乃木邸・馬小屋が保存されているエリアの南側には、ベンチの置かれた休憩スペースが2カ所あります。2カ所の休憩スペースは階段でつながり、階段下ではサクラの大木が枝を広げ、夏には空間を覆うように葉を茂らせて、涼しい木陰をつくっています。サクラの花が見ごろの時期は、階段上からの鑑賞もおすすめです。
園内の随所にステンレスパイプのモニュメントが配置され、植栽や旧乃木邸の趣と調和して、美術館の屋外展示のようなアート空間となっています。
*旧乃木邸・馬小屋について
旧乃木邸は、日清・日露戦争の両戦役に従事し、明治天皇崩御の後に殉死された陸軍大将乃木希典の邸宅です。現存する家屋は、乃木大将がドイツ留学中に見たフランス連隊本部を参考にして、自らの設計により明治35 年(1902)に新築されたものです。明治期の将官の邸宅は接客を目的とする豪華な建物が多かったのに比べ、旧乃木邸の外観は黒塗りの板張りで飾り気がなく、内部も極めて簡素かつ合理的に造られており、明治期の和洋折衷建築としても貴重なものとなっています。
馬小屋は母屋が改築される以前の、明治22 年(1889)に建てられました。煉瓦造り、日本瓦葺きの平屋建てで、母屋より立派であったことから、「新坂の馬屋敷」と称されて評判になったといいます。煉瓦は英国から取り寄せるほどのこだわりぶりで、馬を大切にした乃木大将の人柄が偲ばれます。
『乃木公園・旧乃木邸』AKASAKA PARKS HP 公園紹介から抜粋
[乃木希典]
明治時代の軍人。長州萩藩出身。1886年川上操六らと渡独し軍事研究。陸軍少佐として西南戦争に参加,軍旗を薩軍に奪われたのを一生の恥とした。日清戦争に歩兵第一旅団長として従軍。台湾総督を経て,日露戦争には大将・第3軍司令官となり苦戦の末旅順を陥落させた(旅順攻略)。学習院長在職中,妻静子とともに明治天皇に殉死。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
参考:『旧前田家本邸 重要文化財(建造物)』目黒区 https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/kyumaedakehontei.html
参考:『歴史を訪ねて 旧前田家本邸』目黒区 https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/kyumaeda.html
参考:『旧前田家本邸』東京都生涯学習情報 https://www.syougai.metro.tokyo.lg.jp/sesaku/maedatei.html
参考:『都立施設 重要文化財(建造物)・歴史的建築物 旧前田家本邸洋館』東京都 https://uniquevenues-jp.metro.tokyo.lg.jp/venues/metropolitan/11803/
旧前田家本邸洋館は、1920年代後半に加賀百万石といわれる大大名、前田家第16代当主にして侯爵であった前田利為によって建設された当時の大邸宅建築を代表する建物です。
この建物の設計や暖房、電気設備などは、当時の最新技術を駆使して作られたもので、洋館1階は外交団や皇族を招いて晩餐会を行なう重要な社交の場、2階は家族の生活の場として実際に使われた歴史ある華族の邸宅です。1階の食堂、客室など4つの部屋で開催されるレセプション・パーティーには、特別で非日常の時間が流れます。
住所:
〒153-0041 東京都目黒区駒場4-3-55
Webサイト:
http://www.syougai.metro.tokyo.jp/sesaku/maedatei.html
問合わせ先:
ユニークベニューワンストップ総合支援窓口(東京観光財団内)
TEL:
03-5579-8870
E-mail:
tokyouniquevenues@tcvb.or.jp
東京都港区六本木の旧防衛庁跡地に立つ大型複合施設の通称。防衛庁(現・防衛省)が市谷に移転した後の2001年、東京都は「赤坂9丁目地区再開発地区計画」を告示、三井不動産を中心とする6社のコンソーシアムが落札によって用地の売却を公示した。国際コンペの結果、施設の設計はスキッドモア・オーウィングス・アンド・メリル(SOML)に依頼され、07年3月30日にグランドオープンした。施設内にはホテル、住居、商業施設、病院、公園など約130の施設がひしめいているが、その中にはサントリー美術館や21_21 DESIGN SIGHTのような文化施設も含まれている。施設の総床面積は約57万平方メートルに達し、またシンボルでもあるミッドタウンタワーは、高さ248mと都内の高層ビルでも随一を誇る。「デザイン」を前面に押し出すなど、他の再開発プロジェクトと比べてもそのコンセプトはかなり異色であり、また隣接する檜町公園と合わせて約4ヘクタールの緑地帯を確保するなど、緑が多いのも特徴である。グランドオープン以来多くの来場者でにぎわいを見せており、またミッドタウンタワーでは館内に設置された多くの美術作品を見て回る「ユビキタス・アートツアー」も実施されている。
(暮沢剛巳 建築評論家 / 2008年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」
東京都港区六本木(ろっぽんぎ)にある美術館。2007年(平成19)1月に、独立行政法人国立美術館国立新美術館として開館した。東京国立近代美術館、国立西洋美術館(東京都)、京都国立近代美術館、国立国際美術館(大阪市)に続く、5番目の独立行政法人国立美術館となる。
自館の所蔵品(コレクション)をもたない美術館であり、日展など美術団体への発表会場提供や公募展、共催展を中心に運営するが、自主企画展も開催し、美術資料の収集や教育普及事業も行う。事業内容として、(1)展覧会事業、(2)情報収集・提供事業、(3)教育普及事業、という三つの柱を掲げており、美術振興の拠点となるアートセンターとしての役割を果たす新しいタイプの美術館を志向している。
建築設計者は黒川紀章(くろかわきしょう)。総工費約350億円。波打つような巨大なガラス壁面を用いた外観が特徴。施設は、東京大学生産技術研究所跡地に建設され、敷地面積は約3万平方メートル、建築面積は1万2989平方メートル、延床面積は4万9834平方メートル、地上4階・地下1階建て。展示面積は1万4000平方メートルあり、国内最大級となる。1000平方メートルの展示室10室、2000平方メートルの展示室2室があり、同時に複数展開催が可能となっている。ほかにアートライブラリー(図書館)、講堂、研修室、レストラン、カフェ、ミュージアムショップなどがある。免震装置による地震対策、雨水の再利用、省エネ・省資源設計、車いす対応などのバリアフリー環境、東京地下鉄千代田線乃木坂(のぎざか)駅に直結する連絡通路などの設備がある。
開館記念展は、自主企画展「20世紀美術探検」。初代館長は、元東宮大夫(とうぐうだいぶ)の林田英樹(はやしだひでき)(1942― )。所在地は東京都港区六本木7-22-2。[編集部]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
「国立新美術館(港区六本木6)の別館が9月6日より、一般に公開されている。
国立新美術館が建つ敷地には、1928年に建設された旧陸軍歩兵第三聯隊の兵舎があった。兵舎はその後、近衛歩兵第五聯隊、近衛歩兵第七聯隊が使用し、戦後は一旦在日米軍に接収された。その後は、東京大学の生産技術研究所として修繕を加えて利用され、2001年に研究所が駒場に移転した後に解体、現在の美術館が建設された。
兵舎は、地上3階・地下1階の4層構造。上から見て「日」の字型の構造を持ち、モダンなデザインや旧陸軍としては初の鉄筋コンクリート造の兵舎建築となるなど、建築史的にも注目される。 別館は、兵舎の一部を保存し、改良を加えたもの。館内には兵舎に関する資料の展示コーナ等を設ける。
展示内容は、兵舎の記録保存調査をまとめた図書や映像資料のほか、兵舎の写真や平面図、模型など。開館時間は13時~17時。木曜・金曜のみ開館(木曜・金曜が祝日の場合と12月25日~1月8日は休館)。観覧無料。
2007.10.11
『旧陸軍兵舎を一部保存、国立新美術館別館が一般公開』六本木新聞様の記事を借用させていただいています。
[六本木ヒルズ]
東京都港区にある複合施設。超高層ビル森タワーを中心に、映画館や美術館・ショッピングモール・レストラン・ホテル・住居棟などがある。
出典 小学館デジタル大辞泉
[六本木ヒルズ展望台 東京シティビュー]
(東京都港区六本木6-10-1 六本木ヒルズ 森タワー52階)
「恋人の聖地プロジェクト」指定の地域遺産。
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」
52F
屋内 展望台
屋内展望台では絶景が楽しめるほか、ミュージアム・クオリティのギャラリースペース「スカイギャラリー」にて、「都市型エンターテイメント」をテーマに、眺望と融合したイベントや展覧会を開催します。
スカイデッキ
オープンエアの屋上 スカイデッキは、大空と風を体感でき、都心にいながら星空観望までも楽しめる特別な空間です。
当面、臨時休業いたします。
『TOKYO CITY VIEW』HPより
立憲政体の国家において、立法会議の行われる建物の総称。各国それぞれの伝統により、固有の名称をもつ。日本においては、衆議院および参議院が置かれ、国会の議事が行われる建物の通称である。衆議院では通常「議事堂」という。所在地は東京都千代田区永田町1丁目。
[福永和彦]
日本の国会議事堂の歴史目次を見る
1881年(明治14)明治天皇の勅諭による国会開設の決定以来、議事堂の建築が建議されてきたが、1890年の第1回帝国議会の召集にまにあわせるため、現在の東京都千代田区霞が関(かすみがせき)1丁目(現、経済産業省構内)の位置に木造の仮議事堂が建築された。以来1891年、1925年(大正14)の二度の火災にあい、そのつど、木造の仮議事堂を再建して1936年(昭和11)に至った。その間の1894年日清(にっしん)戦争に際しては、広島市内に臨時の仮議事堂が建築され、第7回(臨時)帝国議会が開かれている。また、第一次仮議事堂焼失の際、貴族院仮議場として山下町の帝国ホテル食堂(当初は華族会館内)を、衆議院仮議場として虎ノ門(とらのもん)の元工部大学校を使用した。
議事堂本建築の計画は、1886年に内閣に臨時建築局が設置されて、議事堂および中央官衙(かんが)建築に関する準備調査に着手し、1887年には建築予定敷地を現在位置(当時の麹町(こうじまち)区永田町1丁目)とすることが閣議により決定されたが、具体的計画の立案は財政事情などのため大幅に遅延した。その間、1899年の議院建築調査会の設置をはじめ、敷地の調査、地盤調査、材料調査等も実施され、官民各界における、建築様式、設計方法などの議論も活発に行われながらも、数次にわたる計画の休止、延伸を繰り返したうえ、1917年(大正6)当時の大蔵省に設置された議院建築調査会の発足と、それによる1918年度からの予算計上によりようやく設計着手の運びとなった。設計者については、朝野の多くの議論ののち、「建築意匠設計はこれを国内一般の懸賞競技に付する」ことが決定された。また、第一次、第二次仮議事堂の設計や、当初の本建築計画の際は、当時の日本の技術水準、不平等条約改正の政略面などから外国人建築家の協力を受けていたが、技術力の充実、国粋主義傾向の台頭などにより、応募者は日本人のみとし、材料もやむをえぬもの以外は国産品に限ることとした。このような経過を経て1919年に二段階方式の競技設計が実施され、渡辺福三の作品が一等当選となったが、結局その設計案は参考とするにとどめ、大蔵省営繕(えいぜん)管財局(当初臨時議院建築局。技師長矢橋賢吉)の手により実施設計がまとめられ、1920年着工、1936年に帝国議会議事堂として竣工(しゅんこう)した。
[福永和彦]
国会議事堂の概要目次を見る
鉄骨鉄筋コンクリート造地上3階(一部4階、中央塔屋9階)建て、外装花崗岩(かこうがん)石積み。延べ床面積5万3466平方メートル、様式は「近世式」と称している。正面向かって左側に衆議院、右側に参議院を配し、それぞれ独立の玄関をもつ。また中央塔屋下に中央玄関があり、国会の開会式、選挙後の衆・参両院議員の初登院、そのほか特別の場合に利用される。主要室数390、小室を含め約450室を有し、廊下延長は約4.64キロメートル。建築資材は、ステンドグラス、錠前などのほかは全面的に国産品を使用。内外装石材は広く日本全国から求めている。建築費用は竣工時累算2580万円、工事従事者は延べ254万人。
両議院の議場は左右両翼の2階にあり、それぞれ743平方メートル。議席は演壇を中心として同心の半円状に配列され、各議員の議席は指定されている。演壇後方に議長席、その向かって左側に事務総長席があり、議長席の両翼前列に大臣席、後列に事務局職員席がある。参議院議場には正面中央に、開会式の際用いられる御席(おんせき)がある。傍聴席、報道席などは議場吹抜け上部3階に設けられている。委員会の開かれる衆議院の委員室は16室、参議院の委員会室は18室であるが、両議院ともその約半数は構内に新築された分館内に設けられている。中央玄関から中央階段を経て到達する建物中央西側の3階には、天皇の御休所(ごきゅうしょ)とその付属室があり、その下の2階には大臣室があって、国会開会中はここで定例閣議が開かれる。付属施設としては、道路を隔てた議事堂西側に議員会館3棟があり、議員1人ごとに事務室が提供されている。また正面東側に公園施設として国会前庭があり、その北地区内に憲政資料を展示する憲政記念館がある。議事堂正面北側に国立国会図書館がある。
[福永和彦]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日銀の職員または元職員と一緒ならば素晴らしいお食事がおやすくできるらしい…
東京都港区六本木にある坂の名。かつて芋問屋があったことに由来するとされる。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
東京都港区海岸一丁目にあった離宮。寛永年間(一六二四‐四四)、加藤嘉明が創始。のち、紀州家浜屋敷となり、明治九年(一八七六)離宮となり外国賓客の接待所とされたが、大正一三年(一九二四)東京市に下賜され公園となる。現称は旧芝離宮恩賜庭園(国名勝)。
出典 精選版 日本国語大辞典
東京都港区の東部、山手(やまのて)・京浜東北線の浜松町駅の西側にある地区。慶長(けいちょう)年間(1596~1615)増上(ぞうじょう)寺代官奥住久右衛門(おくずみくえもん)が名主を兼ねていたことから久右衛門町とよばれていたが、1696年(元禄9)駿河(するが)(静岡)浜松出身の権兵衛(ごんべえ)が名主となったことから浜松町に改名したという。西に増上寺、東京タワー、東に竹芝桟橋(たけしばさんばし)がある。駅前にある世界貿易センタービルは1970年(昭和45)竣工(しゅんこう)、地上40階、高さ152メートル。東京国際空港(羽田空港)へのモノレールの発着所がある。 [沢田 清]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
東京都港区芝公園にある浄土宗関東大本山。山号は三縁山。もと貝塚村(千代田区)にあった真言宗の光明寺を、元中2=至徳2年(1385)聖聡が改宗して現名称に改め、のち徳川家康の入府とともに徳川家の菩提所(ぼだいしょ)となって興隆した。慶長3年(1598)現在地に移転。関東十八檀林の一。
出典 小学館デジタル大辞泉
*徳川将軍家墓所*
戦災にて焼失した旧徳川家霊廟は、現在の大殿南北(左右)に建ち並ぶ壮麗なものであったと伝えられています。昭和33年夏、文化財保護委員会が中心となって、発掘された土葬の遺体は、綿密な調査が行われた後、東京・桐ヶ谷にて荼毘にふされ現墓所に改葬されました。
当山に埋葬されているのは、2代秀忠、5代将軍兄弟の綱重、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の他、女性では将軍正室として2代秀忠夫人崇源院、6代家宣夫人天英院、11代家斉夫人広大院、13代家定夫人天親院、14代家茂夫人静寛院の5人、将軍の側室としては3代家光の桂昌院、6代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人です。
正面右側に2代秀忠公の墓所があります。焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものでありました。しかし、惜しくも木造のため、戦災で焼失。現在は、内室崇源院と共に合祀されています。
静寛院宮の宝塔は当時のもので、実際、家茂公と並んで祀られていました。
宝塔の形は御夫婦同じ物でありましたが、家茂の石塔に対して青銅製です。明治になってから造られた墓は、将軍の墓に対し、すべての点において荒削り、不揃いであることからこんなところにも時代の変遷を感じることができるでしょう。
特徴として菊の御紋章が掘り出されています。
『徳川将軍家墓所~徳川家霊廟~』増上寺HPより抜粋
[参考]
*初代家康の墓所は→ 久能山東照宮、日光東照宮、大樹寺、高野山
*三代家光は→日光山輪王寺
*徳川将軍のうち、4代家綱と5代綱吉の霊廟は上野寛永寺に、2代秀忠、6代家宣および7代家継の霊廟は増上寺に営まれたが、「享保の改革」を行った8代将軍吉宗は御霊屋の建立を禁止した。このため、吉宗以後の将軍の霊は既存の霊廟に合祀されるようになり、奥院の宝塔のみが新設されるようになった[4]。なお、9代家重、12代家慶、14代家茂の宝塔は増上寺、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の宝塔は寛永寺にあり、15代慶喜の墓は谷中霊園に隣接する寛永寺徳川家墓所にある。
『有章院霊廟』Wikipediaより抜粋
*増上寺近隣マップ 観光コース(増上寺HP)→ https://www.zojoji.or.jp/route/
Aコース
増上寺から芝東照宮・東京タワーコース
Bコース
増上寺から愛宕神社・虎の門ヒルズコース
コース
増上寺から浜離宮・竹芝コース
すべて2時間
詳しくは上のurlへ
東京都港区芝公園にある放送用鉄塔。高さ 333m。1958年12月23日竣工。正方形の断面をもった立体トラスの鋼構造で,地上 145mと 150mに大展望台があり,250mの特別展望台は観光名所ともなっている。フランスのエッフェル塔を目標として構想された。エッフェル塔が鉄材約 7300tを要したのに対し,東京タワーは約 3600tでできている。エッフェル塔竣工の約 70年後につくられたとはいえ,風が強く地震の多い悪条件下でこの所要鋼材重量の差が生じたのは,科学技術の進歩によるものとされている。放送施設のほか,高さをいかした公害調査のため,風向風速計,硫黄酸化物測定器などが取り付けられた。2013年5月31日,地上デジタルテレビ放送の電波送信施設が東京スカイツリーに正式に切り替えられた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
創設者は前田久吉で、日本の「塔博士」とも称される内藤多仲らが設計(詳細は設計を参照)。 高さは333メートル[1]と広報されており、海抜では351メートル。塔脚の中心を基準とした塔脚の間隔は88.0メートル。総工費約30億円、1年半(197万4,015時間/543日間)と延べ21万9,335人の人員を要して完成した[6]。地上125メートル(海抜約150メートル)と223.55メートル(海抜約250メートル)に展望台を有するトラス構造の電波塔である[7]。
昼間障害標識として、頂点より黄赤色(インターナショナルオレンジ)と白色を交互に配した塗装となっている。テレビおよびFMラジオのアンテナとして放送電波を送出(#送信周波数・出力を参照)、また東日本旅客鉄道(JR東日本)の防護無線用アンテナとして緊急信号を発信するほか、東京都環境局の各種測定器なども設置されている。
完成当初は日本一高い建造物だったが、高さが日本一だったのは1968年6月26日に小笠原諸島が日本に返還され南鳥島ロランタワーと硫黄島ロランタワーに抜かれるまでの約9年半と、対馬(長崎県)のオメガタワーが解体されてから東京スカイツリーに抜かれるまでの約11年間である。自立式鉄塔に限れば、東京スカイツリーに抜かれるまでの約51年半は日本一の高さだった。2020年現在は、東京スカイツリーに次ぐ日本で2番目に高い建造物である。なお、重量については約4,000トンとされる。
株式会社 TOKYO TOWER(英: TOKYO TOWER Co.,Ltd)は、東京都港区芝公園に本社を置く東京タワーの建主であり、管理ならびに運営を行っている。
この塔の売り上げは観光による収入が5割を超えている。東京近辺を目的地とする修学旅行などにおける定番の行き先として定着している。開業翌年の1959年に当時上野動物園が持つ年間入場者記録360万人を大幅に抜き、来塔者513万人(1 - 12月)を記録。一時落ち込みはあったが、現在は年間300万人が来塔している。
2018年(平成30年)9月30日、地上デジタルテレビ放送への完全統合後も、東京タワーから送信を続けてきた放送大学地上波放送が、放送衛星を利用した衛星放送に統合されたことを受けて廃止となることから、東京タワーのテレビ放送の常時送信が終了となった。なおラジオ放送のinterfm、TOKYO FMは継続して東京タワーからの送信を行っているほか、地デジ・NHK-FMの予備送信所機能も継続されている
『東京タワー』Wikipediaより抜粋
東京都港区の地名。現行行政地名としては海岸一丁目から海岸三丁目。住居表示実施済み区域である。海岸一丁目は芝地区総合支所管内、海岸二・三丁目は芝浦港南地区総合支所管内に属している。郵便番号は一〜二丁目が105-0022(銀座局管区)、三丁目が108-0022(高輪局管区)。
地理
東京都港区西部の東京港に面した沿岸に位置する。町域の大部分が「隅田川口改良計画」の東京港埋立1・2号地および「東京港修築事業計画」の埋立8号地に当たり、四方を運河や海に囲まれる。町域の北は運河を挟んで中央区浜離宮庭園に接し、北西の一部は東新橋に接する。西は浜松町および芝浦に、南は港南に接する。東は東京港に面し、対岸は中央区豊海町である。町域の大部分を倉庫・企業の事業所・工場などが占めており住宅は少ないが、ゆりかもめが開通して以来、竹芝駅周辺を中心にホテルや商業施設が立ち並ぶようになった。
歴史
現在の海岸の町域は、海岸一丁目を除いて以前はほとんどが東京湾の浅瀬であった。
1678年(延宝6年) - 老中・大久保忠朝が芝金杉の地(現在の海岸一丁目)を拝領し、屋敷を構える。幕末までの間に、この屋敷の周辺に藩邸・御鷹場・鉄砲訓練場が置かれた。
1868年(明治元年) - 東京府の成立に伴い東京府の所属となる。
1872年(明治5年) - 芝浜崎町が成立し、また屋敷は有栖川宮邸となる。
1876年(明治9年) - 有栖川宮邸が芝離宮となる。
『海岸(東京都港区)』Wikipediaより抜粋
東京都港区,芝公園と東京タワーに隣接するホテル。 1964年開業。敷地面積約4万 9968m2。建物は地上 11階,地下3階。客室数 484室,収容人員 881名。資本金 10億 1000万円。グループのプリンスホテルズは北海道から九州まで 59ホテルを数え,海外にもハワイ,アラスカなど 10ホテルを展開中。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[有章院霊廟]
江戸幕府7代将軍徳川家継の霊廟建築。芝増上寺(東京都港区芝公園)に造営された。建物は豪華な彩色や彫刻で飾られていたが、1945年、太平洋戦争の空襲で大部分が焼失した。
江戸幕府第7代将軍・徳川家継は、正徳6年(1716年)4月30日に死去。霊廟は増上寺境内北側に設けられた。霊廟の造営は翌享保2年(1717年)に完成している。霊廟は1930年5月23日、当時の国宝保存法に基づき国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定された。1945年、太平洋戦争の空襲で大部分の建物が焼失。家継の墓所は1958年に発掘調査が行われた後、改葬されており、現在は増上寺安国殿裏の徳川家墓所に墓塔が建てられている。
有章院霊廟は増上寺本堂北側の北御霊屋の北半部を占め、東を正面として営まれていた。所在地は現在の港区芝公園、東京プリンスホテルの敷地にあたる。霊廟建物群の配置はおおよそ次のようであった(太字の建物は旧国宝)。霊廟の入口には二天門、これをくぐると左前方に勅額門があり、勅額門の左右に外透塀がある。勅額門をくぐり参道を進むと、右に鐘楼、左に水盤舎、その斜め後方に井戸屋形があった。参道を進んだ正面には中門及び前廊、その左右に左右廊があり、左右廊から発する内透塀が御霊屋を囲む。御霊屋は本殿・相之間・拝殿を一体とした権現造である。相之間の右方(北)に渡廊が接続し、本殿背後には奥院(墓所)への入口である仕切門がある。奥院は2区画に分かれ、左(南)の区画に有章院、右の区画に惇信院の宝塔(墓塔)がある。奥院の各区画は唐門及び前廊、透塀、拝殿、中門、波板塀、宝塔から構成される。
霊廟は1945年3月10日および同年5月25日に空襲に遭い、旧国宝指定物件の21棟のうち、二天門と奥院宝塔を除く19棟、附指定の7棟のうち宝塔を除く6棟、附指定の銅鐘、附指定の銅燈籠12基のうち8基、惇信院宝塔の附指定の銅燈籠6基のうち2基が焼失した。これら焼失物件は、1949年10月13日の官報告示で正式に指定解除された。
焼け残った二天門及び奥院宝塔、並びに附指定の惇信院宝塔及び銅燈籠8基は1950年の文化財保護法施行後は重要文化財となった。
戦災焼失をまぬがれた銅燈籠8基は原位置から移動したため、1957年7月24日付けで重要文化財の指定を解除された。同じく戦災焼失をまぬがれた奥院宝塔と、附指定の惇信院宝塔は、墓地の改葬に伴い、1958年5月14日付けで重要文化財の指定を解除された。以上により、有章院霊廟関係の重要文化財で指定解除されていないのは二天門のみとなった。
徳川家霊廟に埋葬されていた徳川将軍、夫人、側室らの遺骨は1958年に学術調査が実施された後、桐ケ谷斎場で荼毘に付され、増上寺安国殿裏の増上寺御霊屋(徳川将軍家墓所)に改葬された。
増上寺安国殿裏の増上寺御霊屋(徳川将軍家墓所)には、有章院宝塔、惇信院宝塔を含む旧重要文化財の宝塔8基(下記)が移設されている。また、旧文昭院霊廟奥院中門(銅製、旧重要文化財)が同墓所入口の門として転用されている。
『有章院霊廟』Wikipediaより抜粋
[御成御門]
[1] 寺院や大名の家で、宮家、摂家、将軍などを迎えるときに使用する門。御成門。
※一目玉鉾(1689)二「妙国寺〈略〉駿河大納言殿のに立られし御成(オナリ)御門を爰にひかれ」
[2] 特に、江戸城の外桜田門および神田橋門の通称。芝の増上寺、上野の寛永寺参詣のとき必ずこの門から出入りしたところからいう。
出典 精選版 日本国語大辞典
御成門交差点の付近に同名の門があった。かつての増上寺域の北端に当たり、門は徳川将軍家専用の参詣門として設置されたものであった。
『御成門』Wikipediaより抜粋
公式ページ→ https://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/shiba/08.html
給水所のため、飲食禁止。
参考:
『市民生活をささえる水道』西新橋通信
http://www.diaprc.co.jp/nishi/siba-miz.html
東京水道発祥の地。
東京都港区の芝公園北側にある洪積台地。標高 26m。山上の愛宕神社前にある男坂の石段は,寛永 11 (1634) 年曲垣平九郎 (まがきへいくろう) が乗馬のまま昇降し,手折った梅花を3代将軍徳川家光に献上したとして知られる (講談「寛永三馬術」などに脚色) 。 1925年この地に社団法人日本放送所 (日本放送協会の前身) が設けられ,ラジオ放送の発祥地であった。現在,NHK放送文化研究所および放送博物館がおかれている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[NHK放送博物館]
東京都港区にある企業博物館。昭和31年(1956)創立。放送業の日本放送協会が運営。テレビ・ラジオなどの放送関連資料を保存、一部を公開する。
URL:http://www.nhk.or.jp/museum/
住所:〒105-0002 東京都港区愛宕2-1-1
電話:03-5400-6900
出典 講談社日本の美術館・博物館INDEX
[愛宕神社]
愛宕神社
[現在地名]港区愛宕一丁目
愛宕山に鎮座する。祭神は火産霊命・罔象女命・日本武尊。旧村社。本地仏は行基彫刻と伝える勝軍地蔵。天正一〇年(一五八二)本能寺の変に際し、徳川家康が堺さかい(現大阪府堺市)を出発して大和路から近江紫香楽しがらき(現滋賀県信楽町)に入り、多羅尾四郎右衛門の屋敷に宿泊したときに地蔵を献上されたという。慶長八年(一六〇三)家康に供奉して勝軍の法を修めた僧春音の撰によって桜田(さくらだ)の藤六郎の山に仮殿を建て、同一〇年本社・幣殿・拝殿が建てられた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」
HP→ https://www.ogasawaratei.com/
東京・新宿区河田町に、道行く人も思わず足を止めて眺める瀟洒な洋館があります。
昭和初期に小笠原長幹伯爵の邸宅として建てられたスパニッシュ様式の館は75年の時を経て甦りました。
小笠原伯爵邸
〒162-0054
東京都新宿区河田町10-10
tel: 03-3359-5830 / fax :03-3359-5831
レストランの営業時間
Lunch : 11:30~15:00
Dinner : 18:00~23:00
現在、ディナー営業は22時までとさせていただいております
tel: 03-3359-5830
(定休日無・但し年末年始を除く/予約制)
参考:『小笠原伯爵邸』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%BC%AF%E7%88%B5%E9%82%B8
小笠原伯爵邸(おがさわらはくしゃくてい)は、東京都新宿区にある建築物。東京都選定歴史的建造物(第66号)。
旧小倉藩藩主家だった華族の小笠原家当主小笠原長幹伯爵の邸宅として1927年(昭和2年)に現在地に建てられた。建物は当時流行のスパニッシュ様式で鉄筋コンクリート造の地上2階、地下1階建て。敷地は江戸時代の小倉藩下屋敷跡地である。戦後、1948年(昭和23年)に米軍に接収され、4年後に東京都に返還されて1975年(昭和50年)まで東京都福祉保健局中央児童相談所として使用されたが、その後は用途を失って放置され、一時は取り壊しも検討された。
2000年(平成12年)になって管理していた都生活文化局から民間貸出の方針が示され、同年12月には箱根等でレストランを経営するインターナショナル青和が借り手に決定。本間建設株式会社の修復工事を経て2002年(平成14年)6月にレストラン「小笠原伯爵邸」としてオープンした。
設計:曽禰中條建築事務所(共同経営者の一人である曽禰達蔵は小倉藩の分家にあたる旧唐津藩出身)
参考:『東京都庁』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%81
東京都庁(とうきょうとちょう、英: Tokyo Metropolitan Government)は、地方公共団体である東京都の行政機関。長は東京都知事。
所在地 東京都新宿区西新宿二丁目8番1号
参考:『東京都庁見学のご案内』東京都財務局
第一本庁舎、第二本庁舎、都議会議事堂などが見学できる。
また、都庁にはアートワークと称される日本の現代美術を代表数r作家や代表的な外国の作家のほか、市民や若手作家による公募作品も展示されている。
展望室は、地上202メートルの高さから東京のまちを一望できる。
南展望室
入室可能時間:9時30分~21時30分
※毎月第1及び第3火曜日(祝日の場合は翌平日)は休室日です。
北展望室
入室可能時間:9時30分~17時00分
※毎月第2及び第4月曜日(祝日の場合は翌平日)は休室日です。
※南展望室の休室日は21時30分まで入室可能です。
※都庁おもいでピアノは、南展望室に設置しています。北展望室にはございませんので、ご注意ください。
展望室へは、第一本庁舎1階から「展望室専用エレベータ」をご利用ください。
※閉庁日(土・日・祝日)は、2階の出入口は閉鎖されています。1階正面玄関へお回りください
2019年日本地理 東京の名所とJR駅のつながりを問う問題があった。
東京都台東区、JR御徒町(おかちまち)駅と上野駅との間の商店街の通称。第二次大戦直後、飴屋やアメリカ進駐軍の放出物資・横流し品を扱う店が多かった。アメヤ横丁。
出典 小学館デジタル大辞泉
Google map(東京駅~アメヤ横丁商店街)
東京駅
〒100-0005 東京都千代田区丸の内1丁目
電車山手線各停上野・池袋方面(内回り)
6 分 (3 駅) 定刻 · 4 番ホーム · 乗換地点 ID: JY01
↓
御徒町駅 (最寄り駅)
徒歩 約 3 分、210 m
↓
上野アメ横商店街
〒110-0005 東京都台東区上野6丁目10
料金: 150円
切符などの情報
JR東日本
2019年日本地理 東京都の名所と付近の駅名の組み合わせが出題。
東京都台東区西部,上野公園の北西に続く地区。江戸時代以来の寺町で,1874年開設の谷中霊園がある。幸田露伴の小説《五重塔》で有名な天王寺(感応寺)五重塔は1957年放火により焼失。天王寺は富籤(とみくじ)でも知られた。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
Google map(東京駅~谷中霊園)→
東京駅
電車山手線各停上野・池袋方面(内回り)
12 分 (6 駅) 定刻 · 4 番ホーム · 乗換地点 ID: JY01
↓
日暮里駅(最寄り駅)
徒歩 約 2 分、450 m
↓
谷中霊園
〒110-0001 東京都台東区谷中7丁目5−24
料金: 170円
切符などの情報
JR東日本
金町駅は、それぞれ、亀有公園(JR亀有駅)、柴又帝釈天、矢切の渡し(京成柴又駅)に近いが、()内の駅の方が近い。京成線とJR線の乗り換えは、金町駅である。
東京都台東区東部,隅田川西岸にある地名。江戸時代より浅草(せんそう)寺の門前町として栄え,明治以降も繁華街として発展した。1878年東京市15区制によって寺を中心とする南北に長い地区が浅草区となり,1947年に下谷区と合併して台東区の一部となった。1873年浅草寺域は浅草公園に指定され,のち園地は一区観音堂,二区仲見世,三区伝法院,四区木馬館一帯,五区花屋敷一帯,六区興行街の6区画に整備された。そのうち六区の興行街は1903年に日本最初の常設映画館〈電気館〉ができて東京の大衆娯楽の代表地となり,浅草公園の代名詞ともなった。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
東京都台東区にある遊園地。1853年オープン。日本最初の遊園地とされる。現存する最古のローラーコースターがある。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
東京都台東区浅草の浅草寺の西側にある遊園地。 1853年(嘉永6年)開園で、日本最古の遊園地とされる。
敷地面積5,800m2。国産初、日本で現存最古のローラーコースターがある。現在はバンダイナムコアミューズメントの子会社である株式会社花やしきが運営している。
1853年(嘉永6年)に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。当時の敷地面積は約8万m2だった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用され、ブランコが唯一の遊具だった。
明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。
この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、丸山伝右衛門宅から移築した五階建ての楼閣を奥山閣(おうざんかく)と名付けて、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。
大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺した。この震災以降に子供むけの娯楽場へと変わり、鬼退治、木馬、豆汽車などが人気であった。
赤字続きのため徐々に規模を縮小し、まず1935年(昭和10年)に仙台市立動物園に動物を売却。 翌年の春先には動物の移送を終え、木馬などの遊具も取り壊して事実上閉園した。1939年(昭和14年)、須田町食堂(「聚楽」)が買収し、名称も「食堂遊園地浅草楽天地」に変更。
松竹によって合資会社浅草花屋敷が設立され、天野鉄男が支配人に就任。劇場や映画館と共に再度遊戯施設「劇場楽天地」が設けられたが、1942年(昭和17年)には強制疎開によりついに取り壊された。終戦直後、敷地内は不法占拠されていたが、1946年8月に東京都から合資会社浅草花屋敷に対する借地権の回復が認められる。それでも不法占拠は継続されていたが、天野は当時、あらかわ遊園や豊島園も受託していた実績があった東洋娯楽機の山田貞一に共同経営を持ちかけ、山田の尽力で何とか敷地が回復。1947年(昭和22年)春に遊園地「浅草花屋敷」として再開園。2年後には東洋娯楽機に経営自体が委ねられ「浅草花やしき」と改名。のちの花やしきの園長を務めた高井初恵(山田の娘)の夫である高井清が支配人に就任した。
そして1953年(昭和28年)に国産初のローラーコースターなど現在もあるアトラクションが登場し始めた。天野の関係する中映も園内に植物園を設置していた。長らく入園料を取らず、利用する施設ごとに回数券などで料金を支払う形を取っていた。
しかし、近隣の場外馬券場 (現在のWINS浅草)から流れた労務者達が園内を占拠し、また彼らが泥酔状態であることも少なくなかったため、園内の風紀が乱れており、運営上悩みの種だった。併設していたゲームセンターが少年達のたまり場となっていた点を浅草警察署から勧告を受けていたことと、またもともと収益が上がりにくいことを理由に1985年(昭和60年)の風営法改正に伴い回数券とは別に入園料の徴収を開始した。有料化しても懸念していた客足は衰えはなく、むしろ風紀絡みの悩みが一掃できた。
1996年(平成8年)3月、日本初となるタワー型垂直打ち上げ式アトラクション「スペースショット」がオープンした。
2004年(平成16年)にトーゴ(旧・東洋娯楽機)が会社更生手続きの開始を申し立てたことにより、地元浅草の企業としてバンダイグループ (本社: 台東区駒形)が支援に乗り出すこととなり、バンプレストの子会社、株式会社花やしき(株式会社ピアザ・サービスより改称)が8月31日にその事業を承継した。なお、トーゴに経営を委ねた元の地権者である合資会社浅草花屋敷は、その後長らく休眠会社となった後、2002年(平成14年)、株式会社松竹シネマエンタープライズに改称して松竹系地方映画館の経営会社に業態変更。2006年(平成18年)2月28日、経営していた映画館全てを閉鎖して会社を解散した。
2007年(平成19年)3月10日には、10年ぶりの大型アトラクション「DISK-O」がオープンした。バンプレストの事業再編に伴い、2008年(平成20年)4月1日をもって直接の親会社がバンプレストと同じバンダイナムコグループのナムコ(2代目法人、現在のバンダイナムコアミューズメント)に移行した。
『浅草花やしき』Wikipediaより抜粋
参考:
*『7 浅草花屋敷:「遊園」から「遊園地」へ』国立国会図書館所蔵写真帳から~写真の中の明治・大正 コラム<東京>
*『第13回 浅草花やしきの変遷』e-navilife.com らいふ東京都台東区 台東区地域情報 台東区今昔物語
*『浅草花やしきについて』『浅草花やしきの歴史』浅草花やしき公式HP
東京都慰霊堂は、大正12年(1923年)9月1日に発生した、関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内(現在の23区の中心部)で最も被害の大きかった被服廠跡に、震災7年後の昭和5年(1930年)に完成しました。
当初は「震災記念堂」と名付けられ、横網町公園開園と同日の同年9月1日に落成式典が行われています。
設計にあたっては、公開コンペを実施するなど、先進的でしたが、さまざまな事情で結果として、コンペ1等案は採用されませんでした。この間に交わされた多くの議論の末、新たに設計を担当することとなった伊東忠太氏(工学博士)は、鉄筋コンクリート構造を採用しつつ、日本旧来の宗教的様式を現す建築とすることを基本としました。
しかし、外観は神社仏閣様式であるものの、納骨室のある三重塔は中国、インド風の様式を取り入れ、平面的には教会で見られるバシリカ様式(内部に列柱を設け空間を分ける)とし、内部の壁や天井にはアラベスク的紋様も採用されています。つぶさにみると多くの宗教的要素を取り入れた折衷的構成となっています。
完成以来、毎年9月1日をはじめ、慰霊の行事が行われてきました。
その後、太平洋戦争中の東京空襲で亡くなった方のご遺骨も慰霊塔に納められ、昭和26年(1951年)、名称を「東京都慰霊堂」と改めました。震災、戦災合わせて約163,000体の御遺骨が安置されています。
平成11年(1999年)には東京都の歴史的建造物に選定されました。
平成25年(2013年)11月から平成28年(2016年)3月にかけて、耐震補強並びに外壁等の美装化、銅葺き屋根の全面葺き替えなどのリニューアル工事を行いました。
建築面積
1,246.18㎡
構造
鉄骨鉄筋コンクリート造
階数
慰霊堂 地上1階、地下1階/慰霊塔 地上4階
最高高さ
慰霊堂 20.9m/慰霊塔 40.9m
『東京都慰霊堂 慰霊堂の歴史』都立横網町公園-震災・戦災の記憶- HPより
東京都墨田区横網二丁目3番25号
JR両国駅または大江戸線両国駅から徒歩。
[東京都復興記念館]
東京都復興記念館は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、また官民協力して焦土と化した東京を復興させた当時の大事業を永久に記念するため、震災記念堂(現東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年(1931年)に建てられました。
震災の記念品などは当初震災記念堂に展示する予定でしたが、昭和4年(1929年)に開催された帝都復興展覧会に出品された資料も加わり、その数が膨大となったことから予定を変更して「復興記念館」を建設し、展示することとしたものです。
大震災の被害、救援、復興を表す、遺品や被災物、絵画、写真、図表などが展示されました。
その後、第二次世界大戦の空襲により東京都下で亡くなった方々の遺骨を震災記念堂に合祀したため、記念館においても、東京空襲の被害や当時の状況、復興に向けた取り組みを伝える写真、図表などの展示を加えました。
平成元年(1989年)には、震災記念屋外展示場の解説等も充実させています。
平成11年(1999年)には東京都の歴史的建造物に選定されました。
平成29年(2017年)11月から31年(2019年)3月にかけて、基礎の補強や壁の増量などの耐震化工事を実施し、設備を含めて大幅に改修しました。
令和2年(2020年)8月には、外装タイルの補修や正面柱上の怪獣像の復元などが完了しています。
『東京都復興記念館 記念館の歴史』都立横網町公園-震災・戦災の記憶- HPより
大量の死者を引き起こした火災旋風の図示なども展示されているという。
東京都中央区日本橋浜町2丁目にある劇場。江戸時代末期富田某三兄弟の「三人兄弟の芝居」という菰張 (こもばり) 芝居が前身。 1873年両国橋畔の興行禁止にあい,久松町に喜昇座として転身。 79年改築して久松座と改称,その時の座頭は助高屋高助。火事,台風の災を受けるなどして廃座。 85年千歳座として再建。9世市川団十郎,5世尾上菊五郎,1世市川左団次らの名優の出勤する気鋭の座となった。 90年全焼。 93年座名も日本橋座から明治座と改称。左団次はこの座に拠り,団十郎,菊五郎の拠る歌舞伎座と対抗した。 1907年帰朝した2世左団次は翌年新興行法を実施して失敗。 12年伊井蓉峰の手に渡り,さらに中村伝九郎に,19年には松竹の所有となる。関東大震災後,浜町金座通りに移る。 50年松竹から独立。第2次世界大戦にも焼失,58年再建。 90年6月公演を最後に高層ビル化のため取りこわされ,93年3月新築開場した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考(ホームページ):『旧岩崎家住宅(東京都台東区池之端一丁目) 洋館』文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199459
参考:『「三菱紳士」が暮らした邸宅』旧岩崎家茅町本邸旧岩崎家茅町本邸 | 三菱グループサイト https://www.mitsubishi.com/ja/minikite/vol13.html
参考:『時の風が吹く庭園 旧岩崎邸庭園』公益財団法人 東京都公園協会 https://www.tokyo-park.or.jp/park/kyu-iwasaki-tei/index.html
旧岩崎邸庭園は1896年(明治29年)に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸として造てられました。往時は約1万5,000坪の敷地に、20棟もの建物が並んでいました。現在は3分の1の敷地となり、現存するのは 洋館・撞球室・和館の3棟です。木造2階建・地下室付きの洋館は、鹿鳴館の建築家として有名な英国人ジョサイア・コンドルの設計で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。館内の随所に見事なジャコビアン様式(17世紀初の英国建築様式)の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。
別棟として建つコンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は当時の日本では非常に珍しいスイスの山小屋風の木造建築で、洋館から地下道でつながっていま す。洋館と結合された書院造りの和館は当時の名棟梁大河喜十郎の手によるものと言われています。床の間や襖には、明治を代表する日本画家・橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる障壁画などが残っています。現存する大広間を中心に 巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。
大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。
昭和27年(1952)年に国有財産となりました。戦後GHQに接収され、返還後、最高裁判所司法研修所として使用(~1970年)されました。昭和36年(1961年)に洋館と撞球室が重要文化財に指定。昭和44年(1969年)に和館大広間は洋館東脇にある袖塀とともに、平成11年(1999年)に煉瓦塀を含めた敷地全体と実測図がそれぞれ重要文化財に指定されました。
参考:『旧岩崎邸庭園』文京区 https://www.city.bunkyo.lg.jp/b014/p003739.html
文京区と台東区にかかるこの地は、三菱財閥を興した岩崎弥太郎の本邸であった。
明治29年(1896)、岩崎家3代久弥が、イギリス人建築家のジョサイア・コンドルに設計を依頼した洋館と撞球室(ビリヤードルーム)と和館からなる。
本格的な洋風建築と和風建築の融合されたものであった。
平成13年10月1日より都立庭園として開園した。
【所在地】台東区池之端1-3-45[地図]
【お問い合わせ先】03-3823-8340
【交通のご案内】
東京メトロ千代田線「湯島」駅より徒歩約3分
東京メトロ銀座線「上野広小路」駅より徒歩約10分
都営地下鉄大江戸線「上野御徒町」駅より徒歩約10分
JR山手線「御徒町」駅より徒歩約15分
【開園時間】9時00分~17時00分(入園は16時30分まで)
【休園日】年末・年始(12月29日~翌年1月1日)
【入園料】
一般:400円(小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料)
65歳以上:200円
一般団体(20名以上):320円
65歳以上の団体(20名以上):160円
※身体障害者手帳、愛の手帳、精神障害者保健福祉手帳または療育手帳持参の方と付添の方は無料
※無料公開日:みどりの日(5月4日)、都民の日(10月1日)
参考:『旧岩崎邸庭園』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E9%82%B8%E5%BA%AD%E5%9C%92
根岸
所在地: 〒110-0003 東京都台東区根岸3丁目7−15
参考:『今も残っている明治の洋館「陸奥宗光の別邸」』 KOYADO HOTEL https://koyado.jp/hotel-blog/tourist/history/mutsu/
現存する都内最古の住宅用洋館のひとつ
建物の正面一面がガラス窓
内観は見学不可
大磯
所在地: 〒255-0004 神奈川県中郡大磯町東小磯286−7
参考:『百年名家 #194
明治政界の奥座敷「大磯邸園」~旧大隈重信別邸と陸奥宗光別邸跡~』BS朝日 2019年4月7日(日)
https://www.bs-asahi.co.jp/100nen/lineup/prg_194/
今回は神奈川県大磯町に広がる「明治記念大磯邸園」を訪ねます。湘南発祥の地として知られる大磯町は、相模湾に面した風光明媚な環境と温暖な気候から、明治以降政財界人の別荘地として人気を博しました。そのため大磯は“明治政界の奥座敷”とも称されています。今回2人が訪ねるのは、そのうちの「旧大隈重信別邸」と「陸奥宗光別邸跡」。長い間企業所有の施設として非公開でしたが、明治150年にあたる平成30年に大磯邸園という名で特別公開されました。旧大隈重信別邸は明治30年竣工の木造の平屋建て。
東京都葛飾区四つ木一丁目にある、京成電鉄押上線の駅。
サッカー漫画『キャプテン翼』の作者高橋陽一が四ツ木出身のため、2019年からキャプテン翼のラッピングを初め、現在ではキャプテン翼の9つの銅像を聖地巡りするサッカー好きのインバウンド客が増加している。
キャプテン翼はワールドカップ出場級の選手たちも好きなサッカー漫画の一つだ。
参考:『四ツ木駅』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E3%83%84%E6%9C%A8%E9%A7%85
参考:『キャプテン翼』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%97%E3%83%86%E3%83%B3%E7%BF%BC
参考:『高橋陽一』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E9%99%BD%E4%B8%80
参考:『「キャプテン翼」ゆかりの街・葛飾区四つ木を歩く 「あの場面」追体験できるラッピング駅 キャラ銅像訪ねる散策ルート』nippon.com https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900277/
参考動画:『外国人絶賛!日本の“意外”な場所【しらべてみたら】』FNNプライムオンライン(youtube) https://youtu.be/4lByrE2A4AU?si=AWi-xNxi5e25v7Bi
2021年日本地理に出題。高尾山の生物多様性(自然環境)、山中の寺院、名物の食べ物を問うた。
東京都八王子市の南西端、関東山地南東端に位置する標高599メートルの山。1950年(昭和25)都立高尾陣馬(じんば)自然公園、さらに1967年明治の森高尾国定公園に指定。東海自然歩道の起点でもある。全山鬱蒼(うっそう)とした木立(こだち)に覆われ、野鳥など動物の種類も多く、大都市に近接しながら深山幽谷を訪ねた思いがする。また、山頂の真言宗智山(ちさん)派大本山薬王院有喜寺(やくおういんゆうきじ)の人工美も、展望台、遊園地などの諸施設とともに、参詣(さんけい)・観光に訪れる人を多くしている。1967年京王帝都電鉄(現、京王電鉄)が新宿―高尾山口間に直通運転を開始したため、登山のケーブルカーとともに交通を至便にし、大都市近郊のレクリエーションの場とした。また、小仏(こぼとけ)峠や陣馬山、相模湖(さがみこ)方面へのハイキングコースとしてもにぎわうようになった。山麓(さんろく)には土産(みやげ)物店などがたくさん並んで門前町の景観をもなしている。自然公園法に基づく特別保護地区として自然美に恵まれた山と渓谷が、都心から容易に日帰りできる範囲にある例は、外国にもないといってよい。[菊池万雄]
[参照項目] | 薬王院
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
参考:高尾山公式HP
参考:『高尾山にミシュラン3ツ星を引き寄せたゴミ対策。「世界で愛される山」となった秘密とは』(LIFULL HOME'S PRESS)
都心から近く、年間登山者数300万人と世界一の登山者数を誇る高尾山ならではの悩み、観光客のゴミのはんぱないポイ捨てにゴミ箱をなくし、観光客自身でのごみの持ち帰りを定着させた取組に関する記事。きっかけはミシュランガイド掲載。
参考:『高尾山が三つ星に-「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」仏で発行』(八王子経済新聞) 2009年
2021年の日本地理に高尾山山中の寺院で多くの参拝者が訪れる寺社としてその名前を問う出題があった。
東京都八王子市高尾(たかお)町にある真言(しんごん)宗智山(ちさん)派の大本山。高尾山薬王院有喜(ゆうき)寺が正式名称。本尊は薬師如来(にょらい)。成田山新勝(しんしょう)寺、川崎の平間(へいけん)寺(川崎大師)とともに真言宗関東三山の一つ。744年(天平16)聖武(しょうむ)天皇の勅願により行基(ぎょうき)が創建したと伝えられる。1375年(天授1・永和1)俊源(しゅんげん)が高尾山中に籠(こも)り飯縄権現(いづなごんげん)(不動明王の化身)を勧請(かんじょう)して祀(まつ)り、それ以来修験道(しゅげんどう)の修行道場となった。1560年(永禄3)北条氏康(うじやす)が山林540町余を寄進し、北条氏照(うじてる)は五重塔を建立した。安永(あんえい)年間(1772~1781)に秀興(しゅうこう)が住持となってから寺運は興隆した。当寺は薬師信仰の本堂と飯縄権現信仰の本社、すなわち真言と修験の教行一致した道場として江戸時代から民間の信仰を集めた。寺域の高尾山上には江戸初期建立の本堂、奥の院、仁王(におう)門(いずれも都重要文化財)などが杉木立のなかに点在している。寺宝は地蔵菩薩(ぼさつ)像、不動明王両童子像、上杉輝虎(てるとら)筆両界曼荼羅(まんだら)制札など多数ある。3月第2日曜日に行われる「火渡り祭」は名高い。[祖父江章子]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
*高尾山さる園
*たこ杉
*浄心門(薬王院参道入り口)
*高尾山トリックアート美術館
*高尾599ミュージアム
*桜の名所(エドヒガンザクラ) 正名山地蔵院 大光寺
*修行の場 三密の道 苦抜け門
*六根清浄石車
*願叶輪潜
*天狗焼き
2021年日本地理には高尾山の麓の商店街の名物料理を問う出題有り。検索の結果、とろろそばのみ見つかった。
残りのくるみゆべしは東北から北関東で食べられている。力うどん(焼いた餅入りうどん)は全国的にみられるが、この記事には大阪発祥とあった。→記事
都まんじゅうも地域が特定しにくかったが、wikipediaによれば、九州から上京して都まんじゅう屋を作ったものがいるとのこと。
2020年日本地理に伊豆諸島に関する出題があった。三宅島の火山、名産の草木染め絹織物、三宅島、八丈島、大島の場所を地図上で問うもの。
[伊豆諸島]
東京都の南,富士火山帯に属する火山島群。東京都に属し,大島,三宅,八丈,小笠原の各支庁に分れる。南北約 50kmに点在。伊豆七島 (大島,利島,新島,神津島,三宅島,御蔵島,八丈島) と式根島,青ヶ島,鳥島のほか,ごく小さい島々や岩礁も含まれる。神津島,新島,式根島の3島は流紋岩系,御蔵島は安山岩系,大島,三宅島,八丈島,利島などは玄武岩系。黒潮の本流が八丈島と御蔵島の間を平均して流れ,全島が海洋性の亜熱帯気候下にあり,常緑暖帯林が発達。伊豆七島および式根島は富士箱根伊豆国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[(伊豆)大島]
東京都,伊豆諸島中最大で最北端にある火山島。活火山で,常時観測火山。通称伊豆大島。富士火山帯に属する。島の中央に最高峰の三原山(758m)がある。複式成層火山(→複式火山)で火口原には溶岩が堆積,寄生火山も多い。有史以来,数多くの噴火が記録されている。今日もなお活動中で,1986年11月の大噴火では,全島民に避難命令が出された。南部の波浮港(はぶこう)は爆裂火口の跡で漁港,避難港として利用。島の周囲は海食崖が発達し,東岸では標高 150m以上にもなる。海洋性気候で冬でもそれほど冷え込まない。冬季の西風は強く,海は荒れる。常緑広葉樹林が発達し,ツバキ,ツツジの植生で知られ,北東部,泉津の大島海浜植物群落,シイノキ群叢は国の天然記念物。サクラ株(オオシマザクラの巨木)は国の特別天然記念物。女性のあんこ姿,つばき油は有名。古くは流刑地であったが,今日では観光客が多く,本土から航空路と船便がある。一島で大島町を構成。富士箱根伊豆国立公園に属する。面積 91.05km2。人口 8461(2010)。
[三原山]
東京都、伊豆大島にある火山。特にその中央火口丘をいう。富士火山帯に属する複式成層火山で、白石山などからなる外輪山が中央火口丘を囲み、四〇余の寄生火山をもつ。噴煙などは御神火(ごじんか)と呼ばれる。昭和六一年(一九八六)に大噴火。標高七六四メートル。大島火山。内輪山。
出典 精選版 日本国語大辞典
[椿油]
ツバキの種子から圧搾法により採油される不乾性油。産額は少ないが日本の特産油で、伊豆諸島、九州南部が有名である。種子の含油量35%程度。ヨウ素価80~85。凝固点は低く、零下10℃で一部分、零下15℃で全部が凝固する。主要成分脂肪酸はオレイン酸で含有量は80~90%。リノール酸を2~6%、飽和脂肪酸を10%程度含んでいる。オレイン酸原料としてはオリーブ油に勝る。リノール酸の含有量が少ないから、自動酸化しにくい。このために日本では古くから頭髪用油として用いている。食用油としての用途もある。油かすは、サポニンを含み洗浄作用をもっているが、肥料としても使われる。[福住一雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
[三宅島][雄山]
東京都,伊豆諸島の中央部にある円形の火山島。活火山で,常時観測火山。全島が東京都三宅村に属する。中央の雄山(おやま。775m)は複式火山で,カルデラ内には大路池(たいろいけ),新澪池(しんみょういけ)の火口湖,山腹や海岸には側火口や寄生火口丘がある。山麓に神着(かみつき),伊豆,伊ヶ谷,阿古,坪田の 5集落がある。赤場暁(あかばっきょう)は 1940年の大噴火でできた溶岩原。富士箱根伊豆国立公園に属する。火山活動が活発で,過去数多くの噴火が記録されており,2000年6月に始まった噴火では約 2500年ぶりにカルデラが形成され,二酸化硫黄(硫黄酸化物)を含む大量の火山ガスが放出された。2000年9月,この噴火により全島避難勧告が出されたが,2005年から住民の帰島と復興が進められた。面積 55.44km2。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[八丈島]
伊豆諸島の火山島で、日本の気象庁によると火山活動度ランクCの活火山である。隣の八丈小島と区別するため、八丈本島もしくは八丈大島と呼ばれることもある。東京都心から南方287kmの海上にあり、行政区分は東京都八丈町である。自動車の登録は品川ナンバーである。くさや、明日葉、ハイビスカス、島焼酎が特産品で、1964年(昭和39年)には富士箱根伊豆国立公園に指定された。
東京都の本州島側地域の南方287キロメートル、御蔵島の南南東約75キロメートルにあり、東山(別名:三原山・標高701メートル)と西山(別名:八丈富士・標高854メートル)のふたつの火山が接合した北西-南東14キロメートル、北東-南西7.5キロメートルのひょうたん型をした島。面積は山手線の内側とほぼ同じ(面積の比較)。羽田空港から飛行機で片道55分で行けることと、沖縄と比べても安価な旅費で済むため、手軽なリゾート地として親しまれている。
富士火山帯に属する火山島で、東山は約10万年前から約3700年前まで活動し、約4万年前にカメソウノ鼻火砕流、鴨川火砕流を噴出した噴火で、山頂部に6×4.5kmの東山カルデラを形成したと考えられている。完新世内では約4千年前と約6.6千年前に規模の大きな噴火が発生している。最終噴火は有史以前であり、歴史記録上の噴火はない。西山は数千年前から活動を始めた新しい火山で、山頂に直径約500メートルの火口がある。1487年(文明19年/長享元年)12月、1518年(永正15年)2月、1522年(大永2年) - 1523年(大永3年)、1605年(慶長10年)10月、1606年(慶長11年)1月に噴火が記録されており、特に1606年の記録には、海底噴火によって火山島ができたとされる。なお、最後の噴火の記録については1605年といわれたり1606年といわれたり、多くの資料において統一がされておらず、また八丈島誌などには最後の噴火を富士山宝永噴火の1707年(宝永4年)とする説もある。ただしこれについては伝聞などによる記録の為、信憑性に疑問が残されている。
海底地形では、八丈島を含む地塊は島の北側では北方約25kmにある黒瀬(黒瀬堆)が地塊の北縁になっており、島の南側では南八丈堆が島棚の南端になっている。
八丈島の緯度は大分県大分市と殆ど同じ(北緯33度6分)であるため、ハワイ(北緯18度55分)や沖縄(北緯26度12分)よりも遥かに高緯度になり、常夏とは言い難い環境となっている。
気候は暖流である黒潮の影響を受け、ケッペンの気候区分で言う所の温暖湿潤気候(Cfa)となっている。1991年〜2020年の平年値では年平均気温は18.0℃となっており、高温多湿。年間を通して風が強く、雨が多いのが特徴。なお、雪は全く降らないというわけではなく、数年に一度の頻度で降る。
[黄八丈]
〘名〙 織物の一つ。黄色の地に、茶、とび色の縞柄(しまがら)のある、糸織りの絹織物。きはち。
※浮世草子・好色二代男(1684)五「いやいや、上物は黄(キ)八丈(シャウ)の裙に、水車付たる女」
出典 精選版 日本国語大辞典
[富士箱根伊豆国立公園]
東京都,山梨県,静岡県,神奈川県の 1都 3県に広がり,富士山,箱根山,伊豆半島,伊豆諸島などを含む自然公園。面積 1216.95km2。1936年富士箱根国立公園として指定。1955年伊豆半島地域を追加指定し,現名称に変更。1964年,伊豆七島国定公園(1955指定)の区域を編入。富士山を中心に北麓に富士五湖,北西斜面に青木ヶ原樹海などの景勝地があり,山麓各所に風穴など火山の形成に伴う特殊地形が多い。箱根山は複式火山(三重式)の典型で,火山,温泉,渓谷,湖,多彩な植物など自然景観は変化に富み,観光施設も完備した日本有数の国際観光地。旧東海道の通過地でもあり交通関係の史跡も多い。伊豆半島では箱根峠,天城山,達磨山が連なる尾根筋と海岸線一帯が指定地域。温泉に恵まれ,温暖な気候とともに明るい風景美が特色。伊豆西海岸は海食が激しく,絶壁,奇岩に富む海岸の景勝地。伊豆諸島は大島から八丈島までの約 200kmにわたる火山列島で,亜熱帯性植物も多い。自動車道路,ホテルなど観光施設が整備されているが,これらの建設による自然破壊も問題となっている。三宅島南西海岸の一部は三宅島海域公園地区に指定されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[明日葉料理]
[島寿司]
歴史・由来・関連行事:島ずしとはすしネタにする魚を薄く切って醤油ベースの液に漬けて、酢飯で握った八丈島の郷土料理。
伊豆諸島で獲れる魚をネタにしていることから島ずしとされ、東京ではこの漬けた製法で作られたネタを現在も「ヅケ」と呼んでいる。元々は、船で沖に出る際、鮮度を保つ工夫としてヅケにしていたが、伊豆諸島は温暖な地域のため、江戸からすし文化が伝わった明治以降、地域独自の技法が発達した。一般的にはすしにはワサビを用いるが、八丈島や小笠原諸島では当時ワサビが手に入らなかったため、代わりに練りがらしを使ったり、醤油に「青とう」という島唐辛子の熟していない実を漬け込んだ「島とう醤油」を使用したりと島によって食し方は少しずつ異なる。伊豆諸島北部では刺身を食べる際にもこの島とう醤油を使っている。握りで食するのが基本であるが、甘酢生姜や島のりを混ぜた酢飯にネタをのせて、ちらしずし風にして食すこともある。
食習の機会や時季:八丈島ではハマトビウオを、小笠原諸島ではサワラをそれぞれ「春トビ」と呼んで島ずしにして節分の日に食べる風習がある。春トビは春を告げる魚「春告魚(はるつげうお)」と呼ばれ、島ずしのネタとして各家庭で食されてきた。また、冠婚葬祭にも欠かせない一品。
飲食方法:寿司だねを食べやすい大きさに切り、醤油、酒、みりんで漬けにする。砂糖と塩、酢で調味した酢飯で握る。
保存・継承の取組:(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
八丈島では島内にある寿司店「銀八」「あそこ寿司」、割烹料理店「宝亭」、八丈島空港内の「アカコッコ」で食することができる。島内のホテルや民宿の食事でも提供しており、八丈島空港の売店でもすし折りとして、またスーパーでも販売されている。
農林水産省 うちの郷土料理『東京都 島ずし(しまずし)』より抜粋
[八丈焼酎]
八丈島で焼酎づくりが始まったとされるのは、江戸時代末期の1853年。現在も島には、創業100年以上の歴史を誇る八丈島酒造をはじめ、八丈興発、坂下酒造、樫立酒造の4社の焼酎蔵元があります。さつま芋焼酎を少しブレンドして甘味を残した芋・麦ブレンド焼酎「八重椿」(八丈島酒造)や、香ばしい香りの芋・麦ブレンド焼酎「黒潮」(坂下酒造)、まろやかな風味で女性でも飲みやすい麦焼酎「島の華」(樫立酒造)、芋特有のさわやかな風味が特徴の芋焼酎「情け嶋 芋」(八丈興発)など、各酒蔵では芋・麦・芋麦ブレンドの個性あふれる焼酎がつくられています。
『23.島に行ったら味わいたい、個性あふれる島焼酎』(TOKYO ELEVEN ISLAND(伊豆諸島と小笠原諸島))より
島の位置確認のこと。