2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表
日本の江戸時代(徳川将軍が治めた時代。1600~1867)は、政治の中心が上方から江戸に移るにつれ、文化も江戸に移行して栄えるようになりました。そして江戸文化で特筆すべきは、権力者からの文化ではなく、市民(町人)を中心とした経済文化であったことです。
戦国時代の殺伐とした戦さ続きの世から、安定した平和の世が続き、食も文化として花開き、沢山の食に関する書物も出版されました。
参考動画:『江戸時代の四大人気飯を再現 寿司・そば・天ぷら・うなぎ』(ショート) 歴史再現めし
https://youtube.com/shorts/2vp4LuKvOco?si=uDgfmMpgZeHV83PO
参考動画:『江戸時代の屋台で食べられていた食事を当時のレシピ通りに7種再現してみた』歴史再現めし https://youtu.be/ppR-et1ESr4?si=PXqHLdxGGF9M1JwS
参考:『江戸の食の四天王』月刊日本橋 https://nihombashi-tokyo.com/jp/history/266.html
[寿司]
参考:『寿司』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8
握り寿司(江戸前寿司)の誕生
大阪の箱寿司が『料理網目調味抄』に記載されたその100年後の江戸、「妖術と いう身で握る 鮓の飯」『俳風柳多留』(文政12年〈1829年〉、作句は1827年)が、握り寿司の文献的初出である[24]。握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎とも言われる(詳しくは江戸前寿司・江戸三鮨を参照)。『守貞謾稿』によれば、握り寿司が誕生すると、たちまち江戸っ子にもてはやされて市中にあふれ、江戸のみならず文政の末には関西にも「江戸鮓」を売る店ができた。天保の末年(1844年)には振り売りで稲荷寿司を売り歩く者も現れた。この頃には巻き寿司も既に定着していた。現代でもポピュラーな寿司はこのころ出揃った。
参考:『江戸前寿司』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%89%8D%E5%AF%BF%E5%8F%B8
狭義に「江戸前寿司」を「東京湾の魚介(江戸前)を使用した寿司」、あるいは「明治の始めくらいまでの技法を中心とした寿司」とすることもあるが、広義には、食材の産地や調理技法などに関わらず、東京で特に多く見られる「握り寿司を中心とした寿司屋で提供されるすし」全般を「江戸前寿司」という(本稿では広義の「江戸前寿司」を対象とする)。
1728年(享保13年)に大坂で創刊された『料理網目調味抄』には、「箱寿司に酢を注ぐ」と記載されているように、それまで寿司と言えば、保存に重きを置いた大坂の箱寿司であった。一方、江戸前寿司は江戸前の海(現在の東京湾の北部西側)は遠浅の干潟を抱えた天然の漁場であり、目の前で取れた魚介類を新鮮なうちに提供することが可能であった[注釈 1]。
北大路魯山人が『握り寿司の名人』にて「戦後、寿司が立ち食いから椅子にかけて食うようになった」と指摘するように、かつては屋台で立ち食いする料理であったことが理解される。握り寿司が誕生、流行していた江戸時代では入店して素材を見繕って注文をして小腹を満たせば早々に勘定を済まして退店するという「せっかち」だった江戸っ子らの食事スタイルが粋とされていた。また、一日中働く彼らの腹をすぐ満たせるよう、大きさは現代の握りずしの二、三倍あったと言われている。
歌川広重の「東都名所高輪二六夜待遊興之図(リンク先は江戸東京博物館HP)」「江戸自慢 高輪二六夜(リンク先は国立国会図書館)」では、浜辺に「寿司」の屋台が出て人々は花火を見て祭のように夜を楽しんでいた様子が描かれている。
江戸時代に生産が始まった食酢を利用した寿司であり、なれ寿司とは全く異なっている。当初は米酢が使用されていたが粕酢が使用されるようになっていった[2]。当時、この江戸前寿司がブームとなってついに寿司の主流となる。さらに関東大震災で被災し近畿に移住した職人により本格的な江戸前にぎりが普及し、戦後の「すし委託加工制度」による影響もあいまって、江戸より100年も前から寿司を食していた近畿人の嗜好も変化するほどであり、江戸前寿司が「寿司」として日本国外にも広がっていった。
[蕎麦]
[天婦羅]
[鰻]