全国通訳案内士試験の最終合格発表は、2026年2月6日(金)です。
(上図の出典:WIKIMEDIA COMMONS 江戸東京博物館.JPG)
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
目次
徳川時代ともいう。徳川家康が征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた慶長8 (1603) 年から 15代将軍慶喜の大政奉還によって王政復古が行われた慶応3 (1867) 年にいたる 265年間,江戸が政治の中心であった時代。安土桃山時代と合せて近世と呼ばれることが多い。幕府と諸藩がこの時代の支配機構をなしたため幕藩体制の時代ともいわれ,封建社会の一時期を占める。この時代の始めには,慶長8年説のほかに,家康が関ヶ原の戦いに勝った同5年をとる説もある。幕府政治を中心としてこの時代の推移をみると,幕府の創立から3代将軍家光の時代までは,その確立期 (1600~51) と考えられ,反徳川勢力の一掃,大名統制,職制の確立,鎖国などの諸政策が強力に推進された。5代将軍綱吉の元禄期 (88~1704) から新井白石の正徳の治にかけて,幕政の安定期 (1651~1716) が続き,文治政治が最高潮に達し,将軍側近勢力が幕政を主導し,商品経済が進展した。貨幣経済の進展は商人勢力を伸ばした反面,武士階級の窮乏を招き,また農村社会の構造を変えはじめた。8代将軍吉宗が享保の改革を行い,田沼意次が商業政策を推進し,松平定信が寛政の改革を行い,水野忠邦が天保の改革を試みたのは,幕府財政の建直しと封建支配の強化を意図したもので,動揺期 (16~1843) に対応したものである。 11代将軍家斉の時代を過ぎると,国内政治の動揺に加えて外圧が加わり,やがてペリー来航により,日本の国際社会への参加は必然となるが,なお国内には開国と攘夷,尊王と佐幕の争いが絶えず,また百姓一揆,打毀 (うちこわし) も激化し,ついに大政奉還,王政復古を迎えた (43~67) 。江戸時代には,皇室はその権力を失い,将軍,大名,武士層が,支配階級として農,工,商の庶民階級にのぞんだ。経済面では,自然経済の維持ができなくなり,商品経済への移行,工業化への傾向が現れた。幕初以来朱子学が支配階級の指導理念として尊重されたが,幕藩制の動揺期には国学,洋学が展開した。文芸は,元禄期にはまだ上方を中心としていたが (→元禄文化 ) ,化政期 (04~30) には江戸に中心が移った (→化政文化 ) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『江戸時代』
[三浦按針]
没年:元和6.4.24(1620.5.26)
生年:1564.9.24
安土桃山・江戸初期,日本に来た最初のイギリス人で,徳川家康の政治顧問。本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)。ケント州ジリンガムに生まれ,造船所の徒弟を経て海軍に入る。1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊のリーフデ号の航海士としてオランダ最初の太平洋回りアジア渡航に参加,慶長5(1600)年に豊後(大分県)の臼杵に近い佐志生に漂着,大坂に送られて徳川家康と会見する。同船のオランダ人ヤン・ヨーステンと共に家康に信頼され,相模国三浦郡逸見村(横須賀市)で200石と江戸日本橋に邸宅を与えられた。日本名を名乗り家康の外交顧問を務めるとともに幾何学,地理学,造船技術など西洋諸学を教えた。 その建造した2隻のヨーロッパ式帆船のうち1隻は上総(千葉県)に漂着したフィリピンの前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがメキシコに帰るときに使用され太平洋を往復した。慶長16(1611)年に彼がジャワ在留のイギリス人あてに書いた日本事情を知らせる手紙は,当時,ジャワのバンタムに商館をおいていたイギリス東インド会社を刺激し,同18年,ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持って平戸へ来航する機縁となった。アダムズは駿府でセーリスを家康に会わせ,貿易許可の朱印状と平戸に商館を置くことを認めさせた。アダムズ自身,イギリス東インド会社と契約を結んで俸給を得た。彼はセーリスの帰国の際,日本を離れる許可を得たが,結局そのままとどまった。日本人の妻とのあいだに2子がある。自ら朱印船貿易家としても活躍し,シャム,アンナン,トンキンに渡航もしている。徳川秀忠の代になると幕府との関係が薄れ,平戸で病没した。夫婦を祭った按針塚が領地の横須賀市に現存する。『大日本史料』12の33(元和6年4月24日条)に三浦按針についての史料が網羅されている。
(春名徹)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日
2020年出題。
慶長8年(1603)徳川家康が江戸に開いた武家政権。慶応3年(1867)の大政奉還まで、15代265年間存続。執政の組織は、老中・若年寄・大目付・目付および寺社・勘定・町の三奉行を中心とし、必要に応じて老中の上に大老が置かれた。また、地方には京都所司代・大坂城代・遠国奉行などを置いた。徳川幕府。
[補説]将軍は次の15人。
第1代 徳川家康
第2代 徳川秀忠
第3代 徳川家光
第4代 徳川家綱
第5代 徳川綱吉
第6代 徳川家宣
第7代 徳川家継
第8代 徳川吉宗
第9代 徳川家重
第10代 徳川家治
第11代 徳川家斉
第12代 徳川家慶
第13代 徳川家定
第14代 徳川家茂
第15代 徳川慶喜
出典 小学館デジタル大辞泉 コトバンク『江戸幕府』
初代 徳川家康
二代 徳川秀忠
三代 徳川家光
四代 徳川家綱
五代 徳川綱吉
六代 徳川家宣
七代 徳川家継
八代 徳川慶喜
九代 徳川家重
十代 徳川家治
十一代 徳川家斉
十二代 徳川家慶
十三代 徳川家定
十四代 徳川家茂
十五代 徳川慶喜
参考:『徳川将軍一覧』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7
<平成30年(2018年)の問題>
以下、政治の中心が誰にあったかを問わず、将軍位についている将軍の時代とする。
武家諸法度 1615年に江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法(武家法) (秀忠時代)
大坂の陣 江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦。 冬の陣:慶長19年(1614年) 夏の陣:慶長20年(1615年) (秀忠時代)
参勤交代 全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に参覲し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行う制度 。将軍に対する大名の服属儀礼として始まったが、寛永12年(1635年)に徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された。 (家光時代)
島原の乱 島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、江戸時代の大規模な反乱・内戦である。 寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結。(家光時代)
玉川上水 江戸市中への飲料水が流れていた上水道。江戸の六上水の一つ。 取水口から送水先までは全て現代の東京都内にあり、一部区間は現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。 幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは承応2年(1653年)の正月で、同年4月4日に着工した 。承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された。(家綱時代)
慶安の変 慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった事件。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義であった。慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子・徳川家綱が継ぐこととなった。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始したが、密告者が出て露見した。 (家綱時代)
大日本史 日本の歴史書。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書 。
赤穂事件 18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家の吉良義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野長矩が切腹に処せられた事件(元禄14年(旧暦)(1701年))。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った事件を指すものである(元禄15年)(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件』としている場合もある)。 (綱吉時代)
参考:『改易~大名改易』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E6%98%93#%E5%A4%A7%E5%90%8D%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%98%93
改易(かいえき)は、江戸時代においては、武士に対して行われた士籍を剥奪する刑罰。士分以上の者の社会的地位を落とす身分刑であるが、禄や拝領した家屋敷を没収されることから、財産刑でもあるとする見解もある。また大名の所領を没収、減封、転封することを改易と呼ぶこともある。
大名の改易
大名の所領を全て収公することを除封ともいい、所領(知行)の一部を削減することは減封または減知という。元の所領は没収するが別の小さな所領を与えて移動(転封)を命じる場合もある。改易された大名は、まず預という刑罰で親族宅に謹慎か配流(流罪)が命じられることが多く、その後に吟味されて、罪の内容によって、斬首、切腹、蟄居、閉門、逼塞、差控など、他の刑罰が追加で下され、最終的な処分が決定した。
幕府の公式文書で「改易」の語が用いられることはほとんどなく、『廃絶録』には除封された大名のうち「改易」とされた大名は15家にとどまる。このうち11家は慶長から寛永年間にかけての大名であり、中期以降は植村恒朝・本多忠央・金森頼錦・小堀政方の4家である。福島正則の川中島への減転封は公式文書を含む同時代史料には「改易」の語はないが、後世の家譜類には「改易」という言葉が用いられる。藤田恒春は大名の「改易」は大名自身の領地が没収され、嫡子が改易となることが本来の大名改易であるとしている。
大名改易の歴史
関ヶ原の役の戦後処理によって(藤野保の『幕藩体制下の研究』によれば)徳川氏によって87の大名家が改易された。その石高の合計は440万石余で、このほか大規模に減封された大名3名の石高が207万石余もあったため、没収された総石高は622万石余に及んだ。石田三成、小西行長、宇喜多秀家、長宗我部盛親を始めとして、いわゆる西軍に属して、徳川氏に対する軍事的敵対行動によって処分されたものである。さらに三成、行長らは斬首、増田長盛は切腹、秀家は遠流、盛親は蟄居と、各々刑罰が加算された。
大坂の役で豊臣家が滅ぼされて以後、公儀に対する戦争が無くなると、敗者に対する処分としての改易とは別に、江戸幕府が大名統制の基本政策として行った改易が現れ、徳川家康・秀忠・家光の初期3代の将軍によって強行された。関ヶ原の処分の後から慶安4年(1651年)までの改易は、約130家で、総石高は1,200万石もの多きに及んだ。この時期には、松平忠輝・松平忠直・徳川忠長といった大身の一門・親藩に対する改易が目立つのであるが、数としては福島氏や加藤氏のような外様大名の改易が多かった。関ヶ原後の移転によりほとんどの外様大名は遠隔地に転封されていたが、幕府はこれらをさらに改易や減封に追いやって、没収で生じた空白地を天領(幕府直轄領)にしたり親藩・譜代大名を新たに配置したりして、将軍権力の絶対優位を確立しようとしたからである。
改易の理由としては、世嗣断絶(無嗣断絶)と幕法違反によるものが多かった。幕府が、初め末期養子を禁じて許さなかったことと、外様大名に厳しく目を光らせていたからである。武家諸法度制定(1615、1635年)前後の幕法違反については、福島正則や里見忠義が城の無断修築を咎められて改易された件がよく知られる。3代将軍家光の時代には、旧豊臣系の加藤氏・堀尾氏・蒲生氏・京極氏をはじめとする外様大名26家と一門・譜代大名17家が改易された。初期3代の恐怖の処置により、幕府直轄領は拡大して譜代大名の適正な配置が現出したので、譜代大名は絶えず移封の下命を心配しなければならなかったものの、外様大名は骨抜きにされ、幕府に絶対服従の態度をとるようになったのである。
しかし4代将軍家綱の時代に入り、幕府の政治方針に大きな変化が現れた。すなわち、前3代の強圧的な大名整理がすでに十分に奏功して幕府に敵対しようとする大名勢力は一掃されたので、これ以上諸大名を圧迫する恐怖政策は、平和維持を目的とする文治政治の展開には却って弊害があると考えるに至ったのである。改易による藩の取潰しは必然的に多くの浪人を発生させるが、 慶安4年の由比正雪による慶安の変(由比正雪の乱)と翌年の別木庄左衛門(戸次庄左衛門)の承応の変は、生活に追い詰められた浪人が幕府の治安政策の上で大きな障害となり得ることを明らかにした。すでに骨抜きにされ、幕府に対する敵対意識をほとんど失っている大名の戦国的な行動を心配するよりも、むしろ彼らを改易して浪人を作り出す方がより重大な危険を孕んでいたのである。幕府としては治安問題の関心が大名対策から浪人対策へと移っていたので、もはやこれ以上大名への圧迫を続けることは全く得策ではなかった。幕府はこれまでの大名敵視政策を改め、その先達として末期養子の禁令を緩めて、50歳以下の者に限り末期養子を取ることを認め、後年には17歳以上の者とさらに緩和した。元禄5年(1692年)、郡上藩藩主の遠藤常久が死去して、本来であれば無嗣断絶で改易となるところであったが、家綱の側室(瑞春院)の親族(後の遠藤胤親)が家督を継ぐことで改易を免れた例がある。
5代将軍綱吉の時代になると改易は再び増加したが、対象は一門や譜代大名に移っており、一門・親藩の政治干渉を防ぎ、政治安定の実現に主眼があって、綱吉の時代に改易された45件のうち28件が一門・譜代の大名であった。6代将軍家宣以降になると改易は極端に減少し、8代将軍吉宗時代においては「最早改易策による大名取潰しはおこなわれない段階に」達して、無嗣断絶でも末期養子と減知に留める寛大な処置が取られることが多くなった。また、初期の大久保忠隣や本多正純、中期以後の松平乗邑、田沼意次、林忠英、水野忠邦のように、幕府内部の権力闘争に敗れたかそれに連座して、改易された幕臣の大名や旗本も多くいたが、後期の改易は藩での失政や幕府政治の権力争いに関係するものばかりだった。
一方で、幕府が大名を敵視しなくなっても、大名本人が問題となって改易となることがあった。全体を通じて、大名の不行跡や刃傷沙汰、乱心(発狂)といった、広い意味での公序良俗・秩序違反の咎で改易とされた事例が思いのほか多く、赤穂事件の浅野長矩などのように大名同士が事件を起こした張本人であるという事例も少なくなかった。喧嘩両成敗は幕府の法ではなかったにもかかわらず、吉良義央のような幾つかの例外を除いて、刃傷沙汰では被害者も加害者と同様に改易の対象として罰せられた。御家騒動などで家中が揉めて幕府に裁定を委ねる事例があるが、どちらか一方の意見が汲み取られることはむしろ稀で、両派に罰が下されることが通常であり、減知は免れずに家中不行届を理由に改易となることもあった。藩主の失政や苛政により一揆や騒動が起きたという事例が多数あり、大名本人がその地位に就く適性を欠く場合には、不適格者の処分としての改易はむしろやむを得ない処置であったと言える。
改易の処分を受けた後、大名はそれぞれ蟄居や配流といった個別の刑罰に服した。失政や刃傷沙汰を起こした者は切腹となることが多く、島原の乱の原因を作った松倉勝家は切腹ではなく打首となった。ただし処罰後に許され、大名本人または子孫や一族の者が小大名や旗本に取り立てられ家名が存続することは少なくなかった。御家大事の論理を幕府は秩序の維持に有益と考えて重視したからである。譜代・親藩の中には、改易・蟄居処分のあとに許されて、その子孫が旧知とほぼ同じ待遇で復帰した例がある。外様大名でも、改易された有馬晴信の子直純は、例外的にそのまま跡を継ぐことが許された。
改易の申渡しの配慮
改易は領主から家臣と居城、所領を奪い、領国を解体して大名支配を無力化することを意味したので、一つ間違えば反乱の原因とも成り得た。そのため、幕府の側も周到な準備をして、城明渡しの前には諸事に対して万全の配慮を払った。
元和5年(1619年)の安芸・備後50万石の外様大名福島正則の改易では、将軍秀忠が上洛して正則の嫡男福島忠勝を京都建仁寺に呼び寄せ、正則は江戸に留め置かれた状態で、改易を言い渡すが、幕府は正則に対して牧野忠成と花房正成を上使として派遣し、安芸・備後国の所領を召し上げて替地として津軽国に4.5万石を与える旨を伝えた際、同時に在江戸の諸大名に命じて兵を集めて正則の屋敷を取り囲ませるほどの警戒を見せた。正則は粛々と命令を受け入れるほかになかった。
元和8年(1622年)10月の宇都宮15.5万石の譜代大名本多正純の改易は、正純が最上義俊の改易(最上騒動)を伝える上使として山形城に派遣された折りに言い渡された。上使として伊丹康勝と高木正次が追って派遣され、11か条の不審を詰問し、正純は次々と申し開きをしたが、3か条については答えられずに改易されたという。ちなみに正純は出羽(佐竹氏預け)に配流となるが、宇都宮を没収する替地として5.5万石を提示されるが「罪があって御処分ならば受けられぬ」として断る気骨を見せている。
寛永9年(1632年)5月の肥後52万石の外様大名加藤忠広の改易では、忠広は突然老中より「不審の儀がある」として江戸に召喚され、22日に品川宿に着くと江戸に入ることを許さずに池上本門寺で待機するように命じられた。25日に酒井忠勝を徳川御三家に遣わして密議を行い、26日に紀伊和歌山藩主徳川頼宣(夫人が忠広の姉)を江戸に登城させて家光と協議すると、28日に御三家で再び密議をして、29日に再度、頼宣が登城を命じられて忠広の処遇について内達があった。こうして幕府は慎重を期して、徳川頼宣の了解をとりつけた上で、6月1日の拝賀の嘉慶にきた諸大名を前に、老中の口から加藤氏の改易を発表した。諸大名は大変に驚きおののいたが、3日、幕府は肥後国はもちろん全国の各大名の国元に宛に奉書を出して、処分を知らしめた。
この3例は、居城と家臣団から改易大名を切り離した状態を狙ったり、またそのような状況を意図的に作った上で処分を言い渡しており、これは改易を契機とする抗戦を予防するためで、幕府が反乱の芽を摘みとるために細心の注意を払って改易を行っていたことがわかる。
改易では、申渡しの次の段階である国元での城の明渡しについても、細心の注意が払われた。明渡しを告げる「上使」となる幕臣が派遣されるほか、責任者となる「城請取」役の大名が選任され、受け取った後の城を警備する「在番」役の周辺の大名を指名し、万事を監督して将軍に報告する「御目付」となる幕臣も併せて派遣された。没収される藩の石高や城の規模によって、城請取や在番の大名の人数は大幅に増え、それに伴って家臣や動員される人員も大掛かりなものになった。しかし、豊臣家が滅ぼされて以後、武力で抵抗をした大名は皆無で、誰一人として幕府に公然たる反抗をせずに、大人しく取潰されることを受け入れ、無抵抗で城と領地を幕府へ明渡した。福島氏や加藤氏は豊臣以来の大名として強力な存在だったにもかかわらず、他に応援を求めて徳川氏に抗戦するなどという姿勢は微塵も見せなかった。大名は尽く各個撃破されてしまっていたのである。
改易された大名の家臣への扱いは不明なことが多いが、天明7年(1787年)に改易された小堀政方の家臣(近江小室藩)のうち、身寄りがないものに対しては3年間に渡って扶持が行われた。
幕末の改易
幕末には安政の大獄後の彦根藩、第一次長州征伐後には長州藩に対して大幅な減封が行われた。
戊辰戦争によって幕府が崩壊すると、明治新政府は奥羽越列藩同盟に参加した諸侯等に対して処分を行った。仙台藩伊達家、米沢藩上杉家など21家は減封とされ、請西藩林家と会津藩松平家は城地を没収された。このうち会津藩主会津松平家については容保の子慶三郎(松平容大)にあらためて3万石が下賜された。このため、戊辰戦争に関わる新政府処分によって諸侯の身分を失ったのは請西藩林家ただ一家である。これらの諸侯は新たに華族の身分が与えられた。
明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還により諸侯は領主としての地位を失い、行政官としての知藩事となった。ただし知藩事が死亡または隠居した際には血縁者が後継となり、実質的には世襲されていた。明治4年(1871年)7月2日、太政官札贋造事件で福岡藩知事黒田長知は免職され、後任の福岡藩知事に有栖川宮熾仁親王が就任した。その直後の7月14日には廃藩置県を迎え、知藩事は中央から任命される知事に代えられた。ただし、黒田家はこの処分によって華族の身分を喪失したわけではなく、罷免後も旧知藩事に対する家禄をそのまま受け取っていた。
関ヶ原の戦いで改易・減封された大名家
順番、石高等は特に出典表記のないものは『廃絶録』による。ここでは自刃は任意の自決を、切腹は処罰として定められたものをさして記した。斬首(その後に梟首ともなる)が一番重い刑罰である。「※」の付いたものは廃絶録にない人物。
大名 通称 年月 禄高 没収/減封された領地 陣営 処罰・その後
織田秀信 岐阜中納言 1600.8 13.5万石 美濃岐阜 西軍 配流(高野山蟄居)
宇喜多秀家 備前中納言 1600.9- 57.4万石 備前岡山 西軍 配流(八丈島遠流)
織田秀雄 大野宰相 1600.9- 5.0万石 越前大野 西軍 除封、隠居
丹羽長重 加賀守 1600.9- 12.5万石 加賀小松 西軍 除封、後に再封(常陸古渡藩)
木下勝俊 少将 1600.9- 6.2万石 若狭小浜 逃亡 除封、後に再封(足守藩)
立花宗茂 左近将監 1600.10 13.2万石 筑後柳河 西軍 浪人、後に再封(棚倉藩)
小早川秀包 筑後守 1600.10 13万石 筑後久留米 西軍 除封、毛利本家に帰参(吉敷毛利家)
前田利政 能登守 1600.11 21.5万石 能登七尾→宗家へ編入 西軍 除封、隠居
長宗我部盛親 宮内少輔 1600.11 22.2万石 土佐浦戸 西軍 浪人、後に大坂の陣で斬首
小西行長 摂津守 1600.9- 20万石 肥後宇土 西軍 斬首
増田長盛 右衛門尉 1600.9- 20万石 大和郡山 西軍 配流(高野山蟄居)[注釈 9]
石田三成 治部少輔 1600.9- 19.4万石 近江佐和山 西軍 斬首
青木一矩 紀伊守 1600.10 20[40]/8万石 越前北庄 西軍 除封、前田利長に降伏
小川祐忠 土佐守 1600.9- 7万石 伊予今治 寝返 浪人、病死。子が再封(日田藩)とも。
太田一吉 飛騨守 1600.10 6.5万石 豊後臼杵 西軍 浪人
瑤甫恵瓊 安国寺 1600.9- 6.0万石 伊予国内 西軍 斬首
毛利勝信 壱岐守 1600.9- 6.0万石 豊前小倉 西軍 配流(山内家預け)
山口正弘 玄蕃允 1600.8 6.0万石 加賀大聖寺 西軍 自刃(落城)
長束正家 大蔵大輔 1600.9- 5.0万石 近江水口 西軍 切腹(捕縛)
大谷吉継 刑部少輔 1600.9 5.0万石 越前敦賀 西軍 自刃(戦場にて)
丹羽長正 備中守 1600.9- 5.0万石 越前東郷 西軍 浪人、後に豊臣家へ仕官
青山宗勝 修理亮 1600.9- 4.6万石 越前丸岡 西軍 浪人
田丸直昌 中務大輔 1600.9- 4.5万石 美濃岩村 西軍 配流(堀氏預け)、後に赦免
南条元忠 中務大輔 1600.9- 6.0[43]/4万石 伯耆羽衣石 西軍 浪人、後に豊臣家へ仕官
真田昌幸 安房守 1600.12 3.8万石 信濃上田→沼田真田家へ編入 西軍 配流(高野山蟄居)
小野木公郷 縫殿助 1600.10 4.0[44]/3.1万石 丹波福知山 西軍 切腹
伊藤盛正 彦兵衛 1600.9- 3.0万石 美濃大垣 西軍 浪人、後に前田家へ仕官
小野寺義道 遠江守 1600.9- 3.0万石 出羽横手 西軍 配流(津和野・坂崎氏預け)
原勝胤 隠岐守 1600.9- 3.0万石 美濃太田山 西軍 自刃(後に梟首)
新庄直頼 駿河守 1600.9- 3.0万石 摂津高槻 西軍 配流(蒲生家預け、後に再封・麻生藩)
石田正継 隠岐守 1600.9- 3.0万石 近江国内 西軍 自刃(落城)
島津豊久 中務大輔 1600.9 2.86万石 日向佐土原→宗家へ編入 西軍 戦死
堀内氏善 安房守 1600.9- 2.7万石 紀伊新宮 西軍 除封・蟄居、後に肥後加藤家に仕官
木下頼継 山城守 1600.9 2.5万石 越前国内 西軍 浪人、病死
斎村政広 左兵衛佐 1600.10 2.2万石 但馬竹田 西軍 切腹
氏家行広 内膳正 1600.9- 2.2万石 伊勢桑名 西軍 浪人
岡本良勝 下野守 1600.9- 2.2万石 伊勢亀山 西軍 切腹
木下利房 宮内少輔 1600.9- 3.0[45]/2万石 若狭高浜 西軍 除封、後に再封
木下一元 美作守 1600.9- 2.0万石 不明 西軍 除封
木下延重 周防守 1600.9- 2.0万石 播磨国内 西軍 除封
荒木重堅 備中守 1600.9- 2.0万石 因幡若桜 西軍 切腹
滝川雄利 下総守 1600.10 2.0万石 伊勢神戸 西軍 除封、後に再封(片野藩)
垣見家純 和泉守 1600.9 2.0万石 豊後富来 西軍 戦死(謀殺)
福原長堯 右馬助 1599.12 2.0万石 豊後杵築(※前年に除封) 西軍 切腹
多賀秀種 出雲守 1600.9- 2.0万石 大和宇多 西軍 浪人、堀家に居候
丸毛兼利 三郎兵衛 1600.8 2.0万石 美濃福束 西軍 浪人、逃亡後に前田家へ仕官
赤座直保 備後守 1600.9- 2.0万石 越前今庄 寝返 浪人、前田家へ仕官
杉若氏宗 主殿頭 1600.9- 1.9万石 紀伊田辺 西軍 除封
筑紫広門 上野介 1600.10 1.8万石 筑後山下 西軍 浪人、加藤家に居候
高橋直次 主膳正 1600.10 1.8万石 筑後内山 西軍 浪人、後に旗本に仕官
横浜茂勝 民部少輔 1600.9- 1.7万石 播磨国内 西軍 除封
寺田光吉 播磨守 1600.9- 1.5万石 大和国内 西軍 除封
氏家行継 志摩守 1600.9- 1.5万石 近江国内 西軍 除封、細川家に仕官
熊谷直陳 内蔵允 1600.9 1.5万石 豊後安岐 西軍 戦死(謀殺)
石田正澄 木工頭 1600.9- 1.5万石 近江国内 西軍 自刃(落城)
宇多頼忠 下野守 1600.9- 1.3万石 大和国内 西軍 自刃(落城)
平塚為広 因幡守 1600.9 1.2万石 美濃垂井 西軍 戦死
石川貞清 備前守 1600.9- 1.2万石 尾張犬山 西軍 浪人、剃髪・茶人に
石川頼明 掃部頭 1600.9- 1.2万石 播磨国内 西軍 切腹(ただし梟首)
石川貞通 備後守 1600.9- 1.2万石 山城国内 西軍 配流(南部家預け)
糟屋武則 内膳正 1600.9- 1.2万石 播磨加古川 西軍 浪人、後に旗本へ仕官
池田秀氏 伊予守 1600.9- 2.0万石 伊予大洲 西軍 配流(藤堂家預け、後に仕官)
奥山正之 雅楽助 1600.10 1.1万石 越前国内 西軍 浪人、剃髪
戸田勝成 武蔵守 1600.9 2.0[46]/1万石 越前安居 西軍 戦死
垣屋恒総 隠岐守 1600.9- 1.0万石 因幡浦住 西軍 自刃(逃亡後)
松浦秀任 伊予守 1600.9 1.0万石 伊勢井生 西軍 戦死
赤松則英 上総介 1600.9- 1.0万石 阿波住吉 西軍 自刃(逃亡後)
寺西直次 備中守 1600.9- 1.0万石 近江・越前国内 西軍 浪人、前田家へ仕官
上田重安 主水正 1600.9- 1.0万石 越前国内 西軍 浪人、後に浅野家へ仕官
早川長政 主馬首 1600.9- 2.0万石[47]/1万石 豊後府内 西軍 浪人、後に大坂の陣に参加
岸田忠氏 伯耆守 1600.9- 1.0万石 大和岸田 西軍 配流(南部家預け)
木村由信 宗左衛門 1600.9- 1.0万石 美濃北方 西軍 戦死(謀殺)
高木盛兼 十郎左衛門 1600.8 1.0万石 美濃高須 西軍 浪人、堀尾家へ仕官
山崎定勝 右京進 1600.9- 1.0万石 伊勢竹原 西軍 除封、後に豊臣家へ仕官
河尻秀長 肥前守 1600.9- 1.0万石 美濃苗木 西軍 戦死
中江直澄 式部少輔 1600.9- 1.0万石 不明 西軍 配流(伊達家預け)
寺西是成 下野守 1600.9- 1.0万石 伊勢国内 西軍 浪人、剃髪
堅田元慶 兵部少輔 1600.9 1.0万石 安芸等の内 西軍 除封、毛利本家に帰参
高田治忠 豊後守 1600.9- 1.0万石 丹波国内 西軍 除封
三好房一 丹後守 1600.9 1.0万石 河内国内 東軍 除封(理由不明)、後に旗本として任官
木村秀望 弥市右衛門 1600.9- 1.4万石/1万石 豊後国内 西軍 浪人
毛利輝元 中納言 1600.10 108.5/100万石 安芸広島→36.9万石 西軍 減封・隠居、嫡男秀就が長州藩主
毛利秀元 甲斐守 1600.10 20万石 周防山口→長府5万石 西軍 減封、長府藩主
吉川広家 蔵人頭 1600.10 14.2万石 出雲富田→岩国2.7万石 内応 減封、岩国領主[注釈 14]
上杉景勝 中納言 1601.8 120万石 陸奥会津→米沢30万石 西軍 減封、米沢藩主
日根野吉明 丹後守 1602 2.8万石 信濃高島→下野壬生1.5万石 東軍 減封(幼少のため)、壬生藩主
多賀谷重経 修理大夫 1601.2 6.0万石 常陸下妻 中立 浪人
山川朝信 民部少輔 1601 2.0万石 下野山川 東軍 除封(東軍内通のため)
佐竹義宣 右京大夫 1602.5.8 54.57万石 常陸水戸→出羽等21.58万石 中立 減封、久保田藩主
岩城貞隆 忠次郎 1601 12万石 陸奥磐城平 中立 除封、後に再封(信濃中村藩)
秋田実季 藤太郎 1602 19万石 出羽秋田→常陸宍戸5万石 東軍 減封(讒言により)、常陸宍戸藩主
佐藤方政 才次郎 1600.8 2.0万石 美濃上有知 西軍 浪人、大坂の陣で戦死
山口修弘 右京亮 1600.8 1.3万石 加賀国内 西軍 自刃(落城)
青木俊矩 右衛門佐 1600.10 2.0万石 越前国金剛院 西軍 除封
宮部長煕※ 兵部少輔 1600.10 13.1万石 因幡鳥取 西軍 配流(南部家預け)
溝江長晴※ 彦三郎 1600.9- 1.1(1.07)万石 越前金津 西軍 浪人、井伊家へ仕官
池田長政※ 河内守 1600.9- 1.0万石 不明 西軍 除封
服部正栄※ 土佐守 1600.9- 1.0万石 近江国内 西軍 浪人、後に豊臣家へ仕官
蒔田広定※ 左衛門権佐 1600.9- 1.0万石 伊勢雲出→備中1万石 西軍 配流、後に安堵・再封(浅尾藩)
矢部定政※ 豊後守 1600.9- 1.0万石 不明 西軍 除封
宮城豊盛※ 丹波守 1600.9- 1.0万石 摂津・豊後国内→5,000石 西軍 減封(通報の功で改易を免れ、旗本に)
相馬義胤※ 長門守 1600 6.0万石 陸奥中村 中立 除封(※後に安堵・相馬中村藩)
日根野弘就※ 治部法印 1600.10 1.6万石 三河国内 中立 除封
江戸時代以降の改易
江戸時代に改易・減封された大名
順番は年代順。石高等は特に出典表記のないものは『廃絶録』による。「※」の付いたものは廃絶録にない人物。
参 考
東照宮(家康)時代1600-1616台徳院(秀忠)時代1616-1632大猷院(家光)時代1632-1651厳有院(家綱)時代1651-1680常憲院(綱吉)時代1680-1709文昭院(家宣)時代1709-1712有章院(家継)時代1713-1716有徳院(吉宗)時代1716-1745惇信院(家重)時代1745-1760浚明院(家治)時代1760-1786文恭院(家斉)時代1787-1837慎徳院(家慶)時代1837-1853昭徳院(家茂)時代1858-1866
大名 領地 禄高 年代 改易理由 対処・その後
※木曾義利 下総阿知戸藩 1.0万石 1600 事件:上松義豊の殺害 関ヶ原の戦い以前だが、家康によって改易されている
小早川秀秋 備前岡山藩 51万石 1602 無嗣断絶 死去
武田信吉 常陸水戸藩 15万石 1603 無嗣断絶 遺領は異母弟徳川頼将が相続
大島光義 美濃関藩 1.8万石 1604 所領分知 遺領を分知したため大名格を失い旗本に
堀鶴千代 越後蔵王堂藩 3.0万石 1606 無嗣断絶 遺領は後見人堀直寄に還付
西尾吉次 武蔵原市藩 1.2万石 1606 無嗣断絶 酒井重忠の子・西尾忠永を婿養子として相続
松平忠吉 尾張清洲藩 52万石 1607 無嗣断絶 遺領は異母弟徳川義利が相続。後に藩庁を名古屋に移転(尾張藩)
天野康景 駿河興国寺藩 1.0万石 1607 出奔:殺人犯引渡し拒否 子天野康宗が旗本として存続
稲葉通孝 豊後臼杵藩内分 1.4万石 1607 無嗣断絶 内分遺領は兄稲葉典通に還付。子稲葉通照が旗本として存続
津田信成 山城御牧藩 1.3万石 1607 乱暴狼藉 除封
稲葉通重 美濃清水藩 1.2万石 1607 乱暴狼藉 配流(常陸筑波)
※龍造寺高房 肥前佐賀藩 35.7万石 1607 無嗣断絶 遺領と龍造寺氏の家督は鍋島勝茂が相続
筒井定次 伊賀上野藩 20万石[63] 1608 訴訟:家老の直訴 配流(鳥居忠政/藤堂高虎預け)後に豊臣方の疑いで切腹
前田茂勝 丹波八上藩 5.0万石 1608 乱心:家臣多数を殺害 配流(堀尾忠晴預け)弟前田正勝が旗本として存続
中村一忠 伯耆米子藩 17.5万石 1609 無嗣断絶 除封
木下勝俊/木下利房 備中足守藩 2.5万石 1609 御家騒動[注釈 18] 浪人、勝俊は京都東山に隠棲、利房は功あって足守藩主に復帰
松平忠頼 遠江浜松藩 5.0万石 1609 事件:殺人被害[注釈 19] 死去、子松平忠重は旗本を経て1622年に佐貫藩主等に復帰
水野忠胤 三河水野藩 1.0万石 1609 引責:松平忠頼殺害事件 切腹
皆川広照 信濃飯山藩 4.0万石 1609 失脚:松平忠輝乱行非難 蟄居、後に赦免され常陸府中藩1万石に再封
小笠原吉次 常陸笠間藩 3.0万石 1609 連座:私曲 配流、武蔵に隠棲
※桑山清晴 和泉谷川藩 1.0万石 1609 将軍の勘気 蟄居、旧領は父桑山元晴の養老料だったため、父に還付
堀忠俊 越後高田藩 30万石 1610 御家騒動:堀直清対堀直寄 配流(鳥居忠政預け)
※小川光氏 豊後日田藩 2.0万石 1610 無嗣断絶 死去(※従来は幕領代官と見られていた)
浅野長重 下野真岡藩 2.0万石 1611 他藩相続のため 真壁藩5万石を相続
金森長光 美濃上有知藩 2.0万石 1611 無嗣断絶 死去、家老3人は旗本へ
平岩親吉 尾張犬山藩 12.3万石 1611 無嗣断絶 死去、養嗣子早世
有馬晴信 肥前日野江藩 4.0万石 1612 事件:岡本大八事件 切腹、家康の恩赦で子有馬直純が相続
松平忠清 三河吉田藩 3.0万石 1612 無嗣断絶 急死、弟松平清昌は旗本として存続
山口重政 常陸牛久藩 1.5万石 1613 公命違反 配流(武蔵国)蟄居、1628年に牛久藩再興
大久保忠佐 駿河沼津藩 2.0万石 1613 無嗣断絶 死去
里見忠重 上野板鼻藩 1.0万石 1613 勤務怠慢 浪人、子孫は越後高田藩に仕える[注釈 23]
石川康長 信濃松本藩 8万石 1613 連座:大久保長安事件 配流(毛利高政預け)
高橋元種 日向延岡藩 5.0万石 1613 連座:富田信高改易 配流(立花宗茂預け)
石川康勝 信濃奥仁科藩 1.5万石 1613 連座:石川康長改易 浪人、大坂夏の陣で戦死
富田信高 伊予宇和島藩 12万石 1613 訴訟 配流(鳥居忠政預け)、次男は後に旗本
浅野長晟 備中足守藩 2.5万石 1613 他藩相続のため 兄幸長の死により紀州藩を相続
大久保忠隣 相模小田原藩 5.5万石 1614 公命違反 配流(井伊直孝預け)
佐野信吉 下野佐野藩 3.9万石 1614 連座:富田信高改易 配流(小笠原秀政預け)子久綱・公當は旗本として存続
里見忠義 安房館山藩 12万石 1614 公命違反 転封、伯耆国倉吉藩3万石に移転
井伊直孝 上野白井藩 1.0万石 1615 他藩相続のため 幕命で兄直勝を安中藩に移して彦根藩を相続
奥平信昌 美濃加納藩 5.0万石分 1615 所領収公:隠居料返納 死去により加納藩10万石中5万石の隠居料を返納
豊臣秀頼 摂津大坂藩 65.74万石 1615 豊臣家滅亡・大坂の陣 自刃
古田重然 不明 1.0万石 1615 豊臣方加担が発覚 切腹
池田忠雄 淡路洲本藩 6.3万石 1615 他藩相続のため 兄忠継が急死したため、備前岡山藩を相続
織田信重 伊勢林藩 1.0万石 1615 御家騒動 除封
福島高晴 大和宇陀松山藩 3.0万石 1615 豊臣方密通を家臣が密告 浪人、伊勢山田に蟄居
大須賀忠次 遠江横須賀藩 6.0万石 1615 他藩相続のため 叔父榊原康勝の死去により館林藩11万石を相続
松平忠輝 越後高田藩 45万石 1616 将軍の勘気 配流(九鬼守隆、金森重頼、諏訪頼水預け)
藤田信吉 下野西方藩 1.5万石 1616 無嗣断絶 死の経緯は諸説あり[注釈 29]
大久保忠為 美濃大垣新田藩 1.0万石 1616 不明 死去
坂崎直盛 石見津和野藩 4.0万石 1617 事件:千姫事件 自害(家臣に殺されたとも)
池田利隆 播磨姫路藩 39万石 1617 所領収公:嫡男光政幼少 鳥取藩22万石へ移封
本多正重 下総舟戸藩 1.0万石 1617 所領収公 死去、2,000石を収公されて大名格を失う
松平定行 遠江掛川藩 3.0万石 1617 所領収公:本家の加増 父松平定勝が桑名藩に移ったため掛川を返納
伊奈忠政 武蔵小室藩 1.3万石 1618 所領収公:嫡男熊蔵幼少 熊蔵は小室2,800石に減封、大名格を失う
村上忠勝 越後村上藩 9万石 1618 御家騒動 配流(松平康重預け)
近藤政成 信濃近藤藩 1.0万石 1618 所領収公:嫡男重直幼少 重直は5,000石に減封、残りは伯父堀親良に付与
関一政 伯耆黒坂藩 5.0万石 1618 御家騒動 養子関氏盛は旗本として存続
福島正則 安芸広島藩 49.82万石 1619 幕法違反:城の無断修理 高井野藩4.5万石へ減封
土岐定義 摂津高槻藩 2.0万石 1619 所領収公:嫡男頼行幼少 死去、頼行は守谷藩1万石へ減封
※伊奈忠勝 武蔵小室藩 1.3万石 1619 無嗣断絶 早世、弟伊奈忠隆は旗本として存続
市橋長勝 越後三条藩 4.13万石 1620 所領収公:養嗣子長政幼少 死去、甥長政は仁正寺藩2万石へ減封
田中忠政 筑後柳河藩 32.5万石 1620 無嗣断絶 死去、兄田中吉興が近江・三河・上野で併せて2万石で再封
由良貞繁 常陸牛久藩 1.0万石 1621 無嗣断絶 死去、弟由良忠繁は1,000石与えられ旗本として存続
最上義俊 出羽山形藩 57万石 1622 御家騒動:最上騒動 若年により恩赦、大森藩1万石へ減封
織田長益 大和国内 1.0万石 1622 所領収公:隠居料返納 死去
本多正純 下野宇都宮藩 15.5万石 1622 将軍の勘気:釣天井事件 配流(佐竹義宣預け)孫本多正之は旗本として存続
本多正勝 下野小山藩 1.0万石 1622 連座:本多正純改易 配流(佐竹義宣預け)後に食録1,000石を付与される
成田泰之 下野烏山藩 2.0万石 1622 無嗣断絶 甥成田房長に跡を継がせることを希望したが許されず
松平忠直 越前福井藩 67万石 1623 将軍の勘気:不行跡 配流(竹中重義預け)弟忠昌が相続、子光長は高田藩に
西尾嘉教 美濃揖斐藩 2.5万石 1623 無嗣断絶 死去、弟西尾氏教は旗本して存続
田中吉官 近江三河内 2.0万石 1623 連座:組中の罪 浪人、後に恩赦されて2,000石で旗本に
青山忠俊 上総大多喜藩 4.5万石 1623 将軍の勘気 蟄居、後に食禄1,000石を賜る。子宗俊は1648年に再封
内藤清政 安房勝山藩 3.0万石 1623 無嗣断絶 死去、1626年に甥内藤正勝が2万石で再封
本多紀貞 上野白井藩 1.0万石 1624 無嗣断絶 死去
福島正則 信濃高井野藩 4.5万石 1624 幕法違反:無断火葬 死去、子正利[注釈 35]3千石・孫正勝2千石で旗本として存続
高台院 河内国内 1.6万石 1624 所領収公 死去、木下利次に3,000石を付与
仁賀保挙誠 出羽仁賀保藩 1.0万石 1625 所領分知 死去、長男7千石・次男2千石・三男千石に分知し、大名格失う
※滝川正利 常陸片野藩 2.0万石 1625 所領収公:病弱無嗣 自主的に所領返上、養嗣子滝川利貞は旗本に
根津信直 上野豊岡藩 1.0万石 1626 無嗣断絶 死去
本多忠刻 播磨姫路新田藩 10万石 1626 無嗣断絶 死去、弟本多政朝が継ぐ
松平重忠 遠江横須賀藩 4.0万石 1626 無嗣断絶 死去、松平重直が婿養子となって3万石で継ぐ
蒲生忠郷 陸奥会津藩 60万石 1627 無嗣断絶 死去、弟蒲生忠知が継いで伊予松山藩20万石に減封
蒲生忠知 出羽上山藩 4.0万石 1627 他藩相続のため 伊予松山藩主になった
松下重綱 陸奥二本松藩 5.0万石 1628 所領収公:嫡男長綱幼少 死去、長綱は三春藩3万石に減封
徳永昌重 美濃高須藩 5.07万石 1628 勤務怠慢:遅延[注釈 36] 配流(酒井忠勝、戸沢政盛預け)[注釈 37]
別所吉治 但馬八木藩 1.5万石 1628 勤務怠慢:仮病[注釈 38] 浪人、子別所守治が赦免され旗本
内藤正勝 安房勝山藩 2.0万石 1629 所領収公:嫡男重頼幼少 死去、子重頼は5,000石で旗本として存続
桑山貞晴 大和御所藩 2.63万石 1629 無嗣断絶 死去、弟桑山栄晴は3,000石で旗本として存続
近藤秀用 遠江井伊谷藩 1.07万石 1631 所領分知 死去、孫貞用5,550石・三男用将5千石に分知し、大名格を失う
酒井直次 出羽左沢藩 1.2万石 1631 無嗣断絶 死去
織田長則 美濃野村藩 1.0万石 1631 無嗣断絶 死去
三浦重勝 下総三浦藩 3.3万石 1631 無嗣断絶 死去
※池田政綱 播磨赤穂藩 3.5万石 1631 無嗣断絶 死去、弟池田輝興が継ぐ
脇坂安信 美濃脇坂藩 1.0万石 1632 事件:刃傷被害[注釈 39] 浪人
加藤忠広 肥後熊本藩 52万石 1632 不明[注釈 40] 配流(酒井忠勝預け)出羽丸岡藩1万石に減封
最上義俊 出羽大森藩 1.0万石 1632 無嗣断絶 死去、弟最上義智は5,000石で旗本として存続
徳川忠長 駿河府中藩 55万石 1632 将軍の勘気:不行跡 配流(安藤重長預け)・自害
鳥居忠房 甲斐谷村藩 3.8万石 1632 連座:徳川忠長改易 配流(鳥居忠恒預け)
朝倉宣正 遠江掛川藩 2.5万石 1632 連座:徳川忠長改易 配流(松平清匡預け)
長谷川守知 美濃長谷川藩 1.0万石 1632 所領分知 死去、嫡男正尚に千石・三男守勝3千石に分知。大名格喪失
酒井重澄 下総生実藩 2.5万石 1633 将軍の勘気:不敬 配流(水野勝成預け)後に自害、子重知は旗本として存続
堀尾忠晴 出雲松江藩 24万石 1633 無嗣断絶 死去
竹中重義 豊後府内藩 2.0万石 1634 事件:密貿易 切腹
蒲生忠知 伊予松山藩 20万石 1634 無嗣断絶 死去
高木正成 安房・上総内 1.0万石 1635 所領収公 死去、3,000石減知
菅沼右京 美濃加納藩 10万石 1635 無嗣断絶 早世(4歳)
鳥居忠恒 出羽山形藩 24万石 1636 無嗣断絶 死去、弟鳥居忠春は高遠藩3万石に入封
京極忠高 出雲松江藩 24.4万石 1637 無嗣断絶 死去、先祖の功績で恩赦、甥京極高和が龍野藩6万石に減封
本多政武 大和高取藩 2.5万石 1637 無嗣断絶 死去
松倉勝家 肥前島原藩 6万石 1638 引責:島原の乱 斬首[注釈 43]、養子の弟松倉重利も配流(生駒正俊預け)
寺沢堅高 肥前唐津藩 12.3万石 1638 引責:キリシタン蜂起 減知4万石
片桐孝利 大和竜田藩 4.5万石 1638 無嗣断絶 弟片桐為元を末期養子として1万石に減封
真田熊之助 上野沼田藩 3.0万石 1638 無嗣断絶 早世(7歳) 本家真田信之に還付
佐久間三五郎 信濃飯山藩 3.0万石 1638 無嗣断絶 早世(9歳)
成瀬之虎 下総栗原藩 1.5万石 1638 無嗣断絶 早世(5歳)
本多犬千代 下野榎本藩 2.8万石 1640 無嗣断絶 早世(5歳)
池田輝澄 播磨山崎藩 6.5万石 1640 御家騒動:脱藩 蟄居、甥池田光仲預けで鳥取藩内鹿野で堪忍料1万石
生駒高俊 讃岐高松藩 17.3万石 1640 御家騒動:生駒騒動 配流・出羽矢島藩1万石[注釈 45]に減封
三枝守昌 安房三枝藩 1.0万石 1640 所領分知 死去、嫡男守全7千石・次男諏訪頼増3千石の分知で大名格を失う
池田長常 備中松山藩 6.5万石 1641 無嗣断絶 死去、弟池田長信は1,000石旗本として存続
堀直定 越後村上藩 10万石 1642 無嗣断絶 早世(7歳)
那須資重 下野那須藩 1.7万石 1643 無嗣断絶 死去、末期養子許されず。父那須資景が旗本として存続
加藤明成 陸奥会津藩 40万石 1643 御家騒動:会津騒動 配流、嫡男加藤明友に堪忍料・石見吉永藩1万石
加藤明利 陸奥二本松藩 3.0万石 1643 乱心 先年死去(1641年)この年に子加藤明勝は3,000石で旗本に
一柳直家 伊予川之江藩 2.86万石 1644 無嗣断絶 婿養子直次を後継とする届け出を怠る。直次は小野藩主に
松下長綱 陸奥三春藩 3.0万石 1644 乱心 配流(山内忠義預け)子松下長光は旗本として存続
松平清道 播磨姫路新田藩 3.0万石 1644 無嗣断絶 早世(11歳)
池田輝興 播磨赤穂藩 3.5万石 1645 乱心:妻女を殺傷 配流(池田光政預け)子池田政種は3,000石で旗本に
杉原重長 但馬豊岡藩 2.74万石 1645 無嗣断絶 前年死去、末期養子を不許可だったが、外孫重玄が1万石で再封
皆川成郷 常陸府中藩 1.9万石 1645 無嗣断絶 死去、弟皆川秀隆は5,000石で旗本に
柳生宗矩 大和柳生藩 1.25万石 1646 所領分知 死去、嫡男三厳8,500石・次男宗冬4,000石に分知して、大名格失う
寺沢堅高 肥前唐津藩 8.3万石 1647 無嗣断絶 酒狂いで自害
松平忠憲 信濃小諸藩 4.5万石 1648 無嗣断絶 前年死去、この年に弟松平康尚が那須藩1万石に再封
菅沼定昭 丹波亀山藩 3.8万石 1648 無嗣断絶 前年死去、この年に弟定実7,000石・定賞3,000石で旗本として存続
古田重恒 石見浜田藩 5.5万石 1648 無嗣断絶 横死
※真田信重 信濃埴科藩 1.7万石 1648 無嗣断絶 死去、所領は父真田信之に還付
稲葉紀通 丹波福知山藩 4.5万石 1649 苛政:住民殺害 謀反の噂があって前年自殺、この年に詮議(病のためとされた)
織田信勝 丹波柏原藩 3.4万石 1650 無嗣断絶 死去、叔父織田信当は旗本として存続
本多勝行 大和国内 4万石 1650 無嗣断絶 早世(12歳)父政勝に遺領還付
内藤信広 上総・安房内 1.5万石 1650 連座:キリシタン家臣死刑 前年死去、減知7千石、嫡男信光5,000石、ニ男三男四男に各千石分知
松平定政 三河刈谷藩 2.0万石 1651 事件:幕閣の批判 永蟄居(兄松平定行預け)子定知らは旗本として存続
平岡頼資 美濃徳野藩 1.0万石 1653 御家騒動:廃嫡 死去、子平岡頼重が旗本として存続
杉原重玄 但馬豊岡藩 1.0万石 1653 無嗣断絶 早世(17歳)大叔父杉原義正は旗本として存続
※加藤忠広 出羽丸岡藩 1.0万石 1653 無嗣断絶 死去
※宮城豊嗣 但馬清富藩 1.3万石 1653 無嗣断絶 死去
片桐為次 大和竜田藩 1.0万石 1655 無嗣断絶 早世(14歳)弟且昭は3,000石で旗本に
日根野吉明 豊後府内藩 2.0万石 1656 無嗣断絶 死去、御家騒動があって末期養子の願いを取り下げた
山崎治頼 讃岐丸亀藩 4.5万石 1657 無嗣断絶 早世(7歳)叔父山崎豊治に5千石付与し存続、後に交代寄合
北条氏重 遠江掛川藩 3.0万石 1658 無嗣断絶 落馬死。義兄北条繁広は旗本として存続
生駒高俊 出羽矢島藩 1.0万石 1659 所領分知 死去。長男高清8千石・次男俊明2千石に分知。大名格喪失
堀田正信 下総佐倉藩 10万石 1660 事件:幕閣の批判 配流(弟脇坂安政→酒井忠直→蜂須賀綱通預け)
上杉綱勝 出羽米沢藩 30万石 1664 無嗣断絶 死去。外甥上杉綱憲を末期養子として15万石に減知
松平重利 下野皆川藩 1.05万石 1665 無嗣断絶 早世(7歳)
一柳直興 伊予西条藩 2.5万石 1665 勤務怠慢/失政 配流(前田綱紀預け)
池田政直 播磨福本藩 1.0万石 1665 所領分知 死去。弟政武7,000石・政済3,000石分知
京極高国 丹後宮津藩 7.82万石 1666 訴訟/御家騒動 配流(南部重信預け)子達も配流
水野元知 上野安中藩 2.0万石 1667 乱心:妻女を殺傷 配流(水野忠職預け)子水野元朝は旗本として存続
高力隆長 肥前島原藩 3.7万石 1668 失政 配流(伊達綱村預け)子高力忠弘は旗本として存続
奥平忠昌 下野宇都宮藩 11万石 1668 幕法違反:家臣に殉死者 死去。減知2万石
酒井忠解 出羽大山藩 1.0万石 1668 無嗣断絶 死去。末期養子は不許可。遺領は鶴岡藩に還付
池田邦照 播磨新宮藩 1.0万石 1670 無嗣断絶 早世(13歳)弟池田重教は3千石で旗本として存続
伊達宗勝 陸奥一関藩 3.0万石 1671 御家騒動:伊達騒動 配流(山内豊昌預け)子宗興も配流(小笠原忠雄預け)
土井利久 下総古河藩 10万石 1675 無嗣断絶 早世(10歳)叔父土井利益を7万石で再封
土井利益 常陸・下総内 1.0万石 1675 他藩相続のため 古河藩を相続
新庄直矩 常陸麻生藩 2.3万石 1676 無嗣断絶 早世(17歳)末期養子は不許可で、父直好を1万石で再封
黒田長寛 筑前直方藩 4.0万石 1677 他藩相続のため 福岡藩を相続して支藩解消
土井利直 下総大輪藩 1.0万石 1677 無嗣断絶 死去。末期養子が不許可で減知5,000石。養子土井利良は旗本で存続
池田恒行 播磨山崎藩 3.0万石 1678 無嗣断絶 早世
土屋直樹 上総久留里藩 2.0万石 1679 乱心 所領収公。子逵直は3,000石で旗本として存続
戸川安風 備中庭瀬藩 2.0万石 1679 無嗣断絶 早世(9歳)弟戸川達富は5,000石で旗本として存続
堀通周 常陸玉取藩 1.2万石 1679 乱心 所領収公。弟堀利雄を養子として3,000石で旗本として存続
永井尚長 丹後宮津藩 7.36万石 1680 事件:刃傷被害 死亡。弟永井直円が大和新庄藩1万石で再封
内藤忠勝 志摩鳥羽藩 3.5万石 1680 事件:刃傷沙汰 切腹
加賀爪直清 武蔵高坂藩 1.0万石 1681 不正:領地改 配流(山内豊昌預け)→閉門(兄石川総良預け)
酒井忠明 上野伊勢崎藩 2.0万石 1681 他藩相続のため 厩橋藩を相続
松平光長 越後高田藩 26万石 1681 御家騒動:越後騒動 配流(松平定直預け)→1687年赦免、堪忍料3万石[注釈 58]
真田信利 上野沼田藩 3.0万石 1681 勤務怠慢 配流(奥平昌章預け)
酒井忠能 駿河田中藩 4.0万石 1681 将軍の勘気 逼塞→配流(井伊直興預け)後に赦免され旗本
松平直矩 播磨姫路藩 15万石 1682 連座:松平光長改易 閉門→所領収公:減知7万石、日田藩に再封
松平近栄 出雲広瀬藩 3.0万石 1682 連座:松平光長改易 閉門→所領収公:減知2万石
板倉重通 武蔵岩槻藩 6.0万石 1682 失脚 所領収公:減知1万石、坂木藩に転封
本多政利 播磨明石藩 6.0万石 1682 苛政 所領収公、岩瀬藩1万石に再封
本多利長 遠江横須賀藩 5.0万石 1682 失政 所領収公、村山藩1万石に再封
桑山一尹 大和新庄藩 1.1万石 1682 不敬 閉門(弟一慶・一矩預け)
稲葉正往 摂津・河内内 3.0万石 1683 他藩相続のため 小田原藩を相続
徳川徳松 上野館林藩 25万石 1683 無嗣廃絶 夭折
土方雄隆 陸奥窪田藩 1.8万石 1684 御家騒動 配流(榊原政邦預け)別の弟雄賀は旗本として存続
有馬豊範 筑後松崎藩 1.0万石 1684 連座:土方雄隆改易 閉門(有馬頼元預け)所領は久留米藩に還付
稲葉正休 美濃青野藩 1.2万石 1684 事件:大老暗殺 死去
松平重治 上総佐貫藩 1.5万石 1684 勤務怠慢 配流(保科正容預け)子勝秀は旗本として存続
松平綱昌 越前福井藩 52.52万石 1686 乱心:家臣殺害 蟄居(江戸鳥越の福井藩邸)前藩主昌明が25万石に減封で再任
溝口政親 越後沢海藩 1.0万石 1687 乱心:酒乱 配流(兄加藤明英預け)
那須資徳 下野烏山藩 2.0万石 1687 幕法違反 配流(津軽信政預け)1698年に恩赦。1,000石で旗本に。
佐久間勝親 信濃長沼藩 1万石 1688 将軍の勘気 閉塞(丹羽長次預け)
大久保忠増 上総・常陸内 1.0万石 1688 昇進:若年寄就任 所領収公、後に小田原藩を相続
堀田正英 常陸北条藩 1.3万石 1688 所領収公 死去。二男正矩3,000石・三男正章2,000石で旗本になった
喜多見重政 武蔵喜多見藩 2.0万石 1689 勤務怠慢 配流(松平定重預け)
坂本重治 相模深見藩 1.0万石 1689 勤務怠慢 逼塞→減知7,800石
本多忠周 陸奥白河藩 1.0万石 1689 勤務怠慢 逼塞→減知3,000石
山内豊明 土佐中村藩 3.0万石 1689 将軍の勘気 配流(青山忠重預け)所領は土佐藩に還付。1692年に恩赦。
鳥居忠則 信濃高遠藩 3.0万石 1689 引責:のぞき 閉門→自害。嫡男忠英は能登下村藩1万石に再封
遠藤常久 美濃八幡藩 2.4万石 1692 無嗣廃絶 早世(7歳)遠藤胤親を末期養子として上総常陸内に1万石で再封
松平忠弘 陸奥白河藩 15万石 1692 御家騒動:白河騒動 蟄居→減知5万石で山形藩に再封
本多政利 陸奥大久保藩 1.0万石 1693 事件:殺人 配流(酒井忠真・水野忠之預け)→押込置
水谷勝美 備中松山藩 5.0万石 1693 無嗣断絶 死去。養嗣子も1ヶ月後に死去。弟勝時は旗本として存続
堀田正虎 下野大宮藩 2.0万石 1694 他藩相続のため 福島藩を相続
織田信武 大和宇陀松山藩 2.8万石 1695 乱心:家臣殺害[注釈 79] 自害。嫡男織田信休を2万石に減封
本多重益 越前丸岡藩 4.3万石 1695 失政 配流(池田仲澄預け)後に旗本
西郷寿員 下野上田藩 1.0万石 1695 勤務怠慢 減知5,000石
小出重興 和泉陶器藩 1.3万石 1696 無嗣断絶 死去。弟重昌を末期養子としたがこれも死去した[注釈 81]
森長武 美作津山新田藩 2.0万石 1696 所領収公 死去。末期養子の弟森長基が乱心し、支藩解消
小出英及 但馬出石藩 4.5万石 1696 無嗣断絶 早世(3歳)
森長成 美作津山藩 18.6万石 1697 無嗣断絶 前年死去。末期養子衆利が乱心。父長継を西江原藩2万石に再封
水野勝岑 備後福山藩 10.1万石 1698 無嗣断絶 早世(2歳)親戚水野勝長が継ぎ、西谷藩1万石に再封
小笠原長胤 豊前中津藩 8.0万石 1698 苛政 閉門(小笠原忠雄預け)弟長円を4万石で減封
伊丹勝守 甲斐徳美藩 1.0万石 1698 乱心 自害。所領収公
戸田忠真 不明 1.0万石 1698 昇進:寺社奉行就任 所領収公
伊達村和 陸奥中津山藩 3.0万石 1699 事件:土器町事件 逼塞(伊達綱村預け)従者2名死罪。所領は仙台藩に還付
浅野長矩 播磨赤穂藩 5.0万石 1701 事件:赤穂事件 切腹。相続は許されず、弟長広は旗本として存続
丹羽氏音 美濃岩村藩 1.9万石 1702 訴訟/失政 閉門。高柳藩に減封
松平忠充 伊勢長島藩 1.0万石 1702 乱心※ 幽閉。嫡男康顕5千石・二男尚慶に1千石を分知して旗本に
松平近憲 出雲松江新田藩 1.0万石 1704 他藩相続のため 松江藩を相続。
阿部正喬 武蔵・相模内 1.0万石 1704 他藩相続のため 忍藩を相続。
松平頼職 越前高森藩 3.0万石 1705 他藩相続のため 紀州藩を相続するが急死。所領収公
松平頼方 越前葛野藩 3.0万石 1705 他藩相続のため 紀州藩を相続。所領収公
井伊直朝 遠江掛川藩 3.5万石 1705 乱心/幕法違反 強制隠居・減知1.5万石。分家直矩を養嗣子として与板藩に再封
前田利昌 加賀大聖寺新田藩 1万石 1709 事件:織田秀親を殺害 切腹。遺領は大聖寺藩に還付
本多忠孝 播磨姫路藩 15万石 1709 無嗣断絶 早世(13歳)分家本多忠良が末期養子となり村上藩5万石に再封
松平宗胡 越前高森藩 2.0万石 1711 無嗣断絶 早世(8歳)
屋代忠位 安房北条藩 1.0万石 1712 失政:万石騒動 逼塞・所領没収
毛利元次 周防徳山藩 4.5万石 1716 訴訟:前年の万役山事件 配流(戸沢正庸預け)所領は萩藩に還付[注釈 86]
小笠原長邕 豊前中津藩 4.0万石 1716 無嗣断絶 早世(6歳)弟長興が安志藩1万石で立藩
毛利元矩 長門長府藩 5.0万石※ 1718 無嗣断絶 早世(15歳)親戚匡広が3.8万石で再封
浅野長経 安芸三次藩 5.0万石 1719 無嗣断絶 早世(13歳)弟長寔が再封
黒田長清 筑前直方藩 5.0万石 1720 無嗣断絶 子継高は福岡藩をすでに相続していたため遺領を還付して支藩解消
浅野長寔 安芸三次藩 5.0万石 1720 無嗣断絶 早世(10歳)遺領は広島藩に還付
松平宗昌 越前松岡藩 5.0万石 1721 他藩相続のため 弟松平吉邦の死去により福井藩30万石を相続
本多忠村 大和郡山藩 12万石 1722 無嗣断絶 早世(11歳)弟忠烈が5万石で再封
本多忠烈 大和郡山藩 5.0万石 1723 無嗣断絶 早世(8歳※)
内田正偏 下野鹿沼藩 1.3万石 1724 乱心:妻に斬りかかる 強制隠居・蟄居・減知3,000石、嫡男正親は小見川藩に移封
蜂須賀宗員 阿波富田藩 5.0万石 1725 他藩相続のため 兄の死去で、実父蜂須賀綱矩のもとに戻り支藩解消
水野忠恒 信濃松本藩 7万石 1725 事件:刃傷沙汰 配流(秋元喬房預け)蟄居(叔父水野忠穀預け)
京極高寛 但馬豊岡藩 3.5万石 1726 無嗣断絶 早世(10歳)弟高永が1.5万石で再封
松平浅五郎 美作津山藩 10万石 1726 無嗣断絶 早世(14歳)従兄長煕が養子となり5万石で再封
松平明矩 陸奥白河新田藩 1.0万石 1727 他藩相続のため 松平基知の養子となって支藩解消
松平義真 陸奥梁川藩 3.0万石 1729 無嗣断絶 早世(16歳)
佐竹義堅 出羽久保田新田藩 1.0万石 1732 他藩相続のため 佐竹義峯の養子となって支藩解消
井伊直定 近江彦根新田藩 1.0万石 1734 他藩相続のため 井伊直惟の養子となって支藩解消
松平乗邑 下総佐倉藩 6.0万石 1745 失脚:専横 強制隠居・蟄居・老中罷免・減知1万石
植村恒朝 上総勝浦藩 1.1万石 1751 幕法違反[注釈 90] 配流(植村家道預け)後に恩赦、養子寿朝は旗本として存続
安藤信尹 美濃加納藩 6.5万石 1755 御家騒動:安藤騒動 強制隠居・減知1.5万石
本多忠央 遠江相良藩 1.0万石 1758 失政:郡上一揆 配流(松平長孝預け)若年寄罷免
金森頼錦 美濃八幡藩 3.8万石 1758 失政:郡上一揆 配流(南部利雄預け)子頼興は旗本として存続
松平定静 松山新田藩 1.0万石 1765 他藩相続のため 伊予松山藩15万石を相続
田沼意次 遠江相良藩 5.7万石 1786 失脚/汚職 強制隠居・謹慎・老中辞職・減知2万石
稲葉正明 安房館山藩 1.3万石 1786 連座:田沼意次失脚 減知3,000石
田沼意次 遠江相良藩 3.7万石 1787 失脚/汚職 相良城破却・減知2.7万石、子意知は移封
小堀政方 近江小室藩 1.63万石 1788 汚職・苛政(伏見騒動) 配流(大久保忠顕預け)奉行罷免、甥政優は旗本として存続
松前章広 蝦夷松前藩 無高 1807 失政 松前領(東)/西蝦夷地の没収、代わりに9,000石を付与
酒井忠全 播磨姫路新田藩 1.0万石 1817 無嗣断絶 早世(3歳)
仙石久利 但馬出石藩 5.8万石 1835 御家騒動:仙石騒動 閉門・減知2.8万石
林忠英 上総貝淵藩 1.8万石 1841 失脚 強制隠居・若年寄罷免・減知8,000石
水野忠邦 遠江浜松藩 7万石 1845 失脚:天保の改革失敗 強制隠居・減知2万石
堀親寚 信濃飯田藩 2.7万石 1845 連座:水野忠邦失脚 強制隠居・老中罷免・減知1万石
本郷泰固 駿河川成島藩 1.0万石 1859 勤務怠慢 強制隠居・若年寄罷免・減知5,000石、大名格失う
久世広周 下総関宿藩 6.8万石 1862 引責:坂下門外の変 強制隠居・減知1万石
井伊直憲 近江彦根藩 35万石 1862 連座:故井伊直弼糾弾 減知10万石
間部詮勝 越前鯖江藩 5.0万石 1862 失脚 強制隠居・減知1万石
酒井忠義 若狭小浜藩 11.35万石 1862 失脚:寺田屋事件余波 強制隠居・京都所司代解任・減知1万石
久世謙吉 下総関宿藩 5.8万石 1862 連座:父広周失脚 減知1万石
安藤鏻之助 陸奥磐城平藩 5.0万石 1862 連座:父信正失脚 減知2万石
※松平頼徳 常陸宍戸藩 1.0万石 1864 引責:天狗党事件関与 切腹、明治になり父松平頼位が再封
堀親義 信濃飯田藩 1.7万石 1864 勤務怠慢 逼塞・役職解任、減知2,000石
戸田忠恕 下野宇都宮藩 7.78万石 1865 勤務怠慢 減知2.78万石
参考:『福島正則』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E5%89%87
福島 正則(ふくしま まさのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日本の武将で、大名。賤ヶ岳の七本槍の一人としても知られている。安芸国広島藩主、後に信濃高井野藩の初代藩主。
改易と晩年
ウィキソースに微妙公御夜話の原文「福島正則遠流広島城引渡の覚」があります。
元和5年(1619年)、家康死後まもない頃、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。正則はその2ヶ月前から届けを出していたが、先年にも一国一城令発布後にもかかわらず新規に築城を行ったとして、毛利家から報告を受けた幕府より該当城の破却を命じられた後のことでもあり、幕府からは正式な許可が出ていなかった。福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、求められた「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。これにより「破却が不十分である」と咎められる。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否するなどしたため、怒った将軍・徳川秀忠の上使として牧野忠成と花房正成が江戸芝愛宕下の正則の屋敷に派遣され、安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減転封の命令を受けることとなった。移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した。
元和6年(1620年)9月、忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上した。
寛永元年(1624年)7月13日、正則は高井野(長野県高山村)で死去した。享年64。高井野での生活はわずか5年間であったが領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残した。
幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収された。福島家は取り潰されたが、幕府は正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本とした。福島正利が嗣子なく没した後は一旦断絶したが、福島忠勝の孫・正勝が家を再興し、代々御書院番などを務めた。
<平成30年(2018年)の問題>
【年 表】
平安時代末期から鎌倉時代初期:江戸重継が現在の東京に本拠地を置く。(当該wikipediaによれば所在は諸説あるとのこと)
15世紀:扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を築城した。江戸幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
文明18年(1486年) :太田道灌の没後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。
天正18年(1590年) :豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(現在の静岡市)から江戸に入った。江戸幕府を開いた徳川将軍家の祖である家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
慶長8年(1603年): 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。
慶長11年(1606年):諸大名から石材を運送させ、増築した。
この後もたびたび天下普請が行われたが、最後に万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行われ、一連の天下普請は終了する。
徳川江戸城の築城においては、町づくりを含め、伊豆の石材(伊豆石)は欠かせないものであった。壮大な石垣用の石材は、ほとんど全てを相模西部から伊豆半島沿岸の火山地帯で調達し、海上を船舶輸送して築いたものである。
本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。
以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。江戸時代後期に伊能忠敬が作成した『大日本沿海輿地全図』大図の第90図には江戸城が描かれているが、城内の建物群配置は機密であったため空白で、諸街道に通じる九つの門のみが記されている(南から時計回りに幸橋御門、虎御門、赤坂御門、四ツ谷御門、市ケ谷御門、牛込御門、小石川御門、筋違御門と両国橋近くの浅草橋御門)。
明暦3年(1657年):明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失し、その後、天守が再建されることはなかった 。
安政2年(1855年): 安政大地震により石垣、櫓、門など多大な被害を受ける。
文久3年(1863年):将軍の御殿としての最初の本丸御殿は1606年(慶長11年)に完成、その後1622年(元和8年)、1637年(寛永14年)(同16年焼失)、同17年(明暦の大火で焼失)、1659年(万治2年)(1844年(天保15年)焼失)、1845年(弘化2年)(1859年(安政6年)焼失)、1860年(万延元年)(1863年(文久3年)焼失)と再建・焼失を繰り返した。文久の焼失以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西ノ丸御殿に移した。
慶応4年(1868年):戊辰戦争の最初の局面である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍は、江戸に逃亡した徳川慶喜に対して追討令を発布。 3月15日を江戸総攻撃の日と定め、江戸城に対する包囲網を完成させた。しかし、徳川家存続に向けた交渉の全権を委任された旧幕府陸軍総裁の勝海舟と東征軍参謀である西郷隆盛との会談が実現し、それにより、江戸城の無血開城が決定した。
明治元年(1868年):4月11日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。(江戸開城)
明治2年(1869年): 東京奠都。皇城と称される。
1873年(明治6年):皇居として使用していた西ノ丸御殿が焼失。正院は焼失文書の一部復旧を命じた。
1888年(明治21年):明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称される。
1923年(大正12年)9月1日 関東大震災で残っていた建造物は大きな被害を受け、和田倉門(櫓門)は復旧されなかった。他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修された。
1945年(昭和20年) 太平洋戦争末期のアメリカ軍による空襲で大手門が焼失。
1948年(昭和23年) 皇居と改称された。
1967年(昭和42年)空襲で焼失した大手門が木造で復元された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(21番)に選定された。
[現存遺構]:
1956年(昭和31年)3月26日 外堀跡が「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定。
1960年(昭和35年)5月20日、「江戸城跡」として国の特別史跡に指定された。
現在、桜田門、田安門、清水門(以上は、国の重要文化財に指定されている)が遺構として現存している。
関東大震災で倒壊後、最初は内部はコンクリート造り、後に木造で復元された富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓、桜田巽櫓や、同心番所、百人番所、大番所なども宮内庁管理のため、重要文化財などには指定されていないが現存する。
川越の喜多院と氷川神社には、3代将軍家光誕生の間とされる江戸城の江戸期移築建物が残る。移築建物と川越城御殿の二つの御殿が見られる。
近年[いつ?]、都市再開発の動きに伴い、丸の内や、霞が関の文部科学省で外堀の石垣(リンク先文科省)が地中より発掘された。
1910年(明治43年)に蓮池御門を名古屋城正門として移築したが、1945年(昭和20年)の名古屋大空襲で焼失し、後に復元された。
東京都千代田区千代田(千代田は全体が皇居の敷地内の為、一般参賀などを除き部外者の自由な立ち入りは出来ない)
交通アクセス
皇居東御苑へ徒歩圏の駅は竹橋駅(東京メトロ東西線)、大手町駅(東京メトロ各線・都営三田線)、東京駅(JR東日本在来線・新幹線各線および東京メトロ丸ノ内線)、東京メトロ千代田線二重橋前駅など。皇居外苑や皇居ランニングコースともなっている公道上からも、かつての江戸城を望見できる。
2020年、2023年出題
千代田城ともいう。東京都千代田区丸の内の皇居にあたり,平城。徳川氏の居城で,江戸幕府の所在地。平安時代末から鎌倉時代にかけては,平良文の孫秩父将常の子孫江戸氏の居館であった。康正2 (1456) 年,太田道灌が居館として築城を始め,翌長禄1 (57) 年落成。江戸城と称した。当時は石垣がなく,土塁と3重の堀のみであった。文明 18 (86) 年道灌の死後,上杉定正が領有し,家臣曾我豊後守が城代となった。大永4 (1524) 年,北条氏綱に敗れ,北条氏の領有となり,氏綱が江戸に入って修築した。永禄4 (61) 年頃,太田三楽が奪取したが,天正5 (77) 年再度北条氏の領有となり,修築。同 18年,小田原落城後,徳川家康の居城となった。慶長9 (1604) 年,増築工事に着手し,秀忠,次いで家光にいたって,寛永 13 (36) 年に完成。本丸,西の丸,三の丸,二の丸,紅葉山,吹上御苑,代官町を合せた中心部の面積は 22万 2182坪 (73万 3200m2) ,周囲は 20町 15間 (2200m) で,総面積は 29万 549坪 (95万 8811m2) 。特色は,外郭が浅草付近から内へ内へと入っている螺旋形で,これらの線上には城門が配置された。城門は外郭に 25,内郭に 11,城内に 87,城橋は内外で 30,櫓 (やぐら) ,多聞 (たもん) 類では,大天守,小天守各1,三重櫓6,二重櫓 10,単層櫓4,多聞 26という豪壮なもの。その後,数回の火災があり,明暦3 (57) 年の江戸の大火で焼失した天守以外は,諸大名の手伝いで修理。規模は完成時より縮小されたが,徳川氏 15代,265年間続いた。慶応3 (1867) 年,徳川慶喜が大政奉還すると,明治1 (68) 年,有栖川宮熾仁親王が東下入城し,鎮守府をおき,同年4月開城,10月遷都後,東京城さらに皇城と改称。 1873年,皇城炎上とともに工事を起し,88年に完成,宮城と改称した。 1948年皇居と改称。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『江戸城』
東京都千代田区にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定特別史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。扇谷上杉氏の家臣太田道灌が1457年(長禄1)に築いた城がその起源。それ以前の平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、江戸氏の居館があったともいわれる。道灌が暗殺された後は扇谷上杉氏の城となり、次いで小田原の北条氏が同城を攻略し、武蔵進出の拠点とした。1590年(天正18)の小田原の役では、江戸城は開城して豊臣秀吉に接収され、同年8月に北条氏旧領を含む関八州への国替えとなった徳川家康が新たな居城とした。家康が入城した当時の江戸城は、道灌が築城した比較的小規模で質素な城だったといわれる。1603年(慶長8)、家康が幕府を開くと江戸城の本格的な拡張・整備が始まり、家康、秀忠、家光の3代にわたって日本全国の大名が動員され、5層の天守と20基の櫓(やぐら)、西の丸、北の丸などの増設や外郭の整備が行われて、家光の代の1636年(寛永13)に江戸城の総構えが完成し、周囲16kmの内郭を持つ日本最大の城郭となった。しかし、1657年(明暦3)の明暦の大火で天守を含めた多くの建物が焼失した。その後、天守が再建されることはなかった。1868年(慶応4)に、最後の将軍の徳川慶喜が大政を奉還して江戸城を開城し、東京(とうけい)城と改称され、翌年の東京遷都により皇城となった。1888年(明治21)には明治宮殿が完成して宮城と呼ばれるようになった。皇居と呼ばれるようになったのは戦後の1948年(昭和23)で、その翌年には西の丸下と、皇居を取りまく濠周辺が「国民公園皇居外苑」として開放され、さらに1969年(昭和44)には北の丸も外苑の一部として開放された。江戸城は数度の火災によって多くの建物が失われ、大正期の関東大震災でも被害を受けた。伏見櫓、富士見櫓、巽櫓などが現存するが、これらは関東大震災後、解体・復元されたものである。また、江戸城には数多くの城門があったが、桜田門、田安門、清水門が現存し、国の重要文化財になっている。JR東京駅また地下鉄千代田線大手町駅から徒歩約5分。◇千代田城とも呼ばれる。
出典 講談社日本の城がわかる事典
<平成30年(2018年)の日本歴史問題>尾張藩が出題されている
[御三家]
徳川将軍家の一族である尾州、紀州、水戸の三家をいう。尾張は家康の第九子義直、紀伊は第十子頼宣、水戸は第十一子頼房が藩祖、代々、徳川氏を称した。親藩のなかで別格待遇をうけた。おのおの独立した藩をかまえ、尾張家は名古屋城主、尾張一国・美濃一部(現愛知県・岐阜県)、紀伊家は和歌山城主、紀伊一国・伊勢松坂(現和歌山県・三重県)、水戸家は水戸城主、常陸一国(現茨城県)を治めた。
参考:『精選版 日本国語大辞典』
[尾張藩]
尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、「名古屋藩」とも呼ばれた。明治の初めには名古屋藩を正式名称と定めた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石(新田開発の結果、実高は100万石近くに達したと言われる)。 木曽の御用林から得られる木材資源は藩財政の安定に寄与する重要なものであった。財政には比較的余裕があったことから、領民には四公六民の低い税率が課されたという。 尾張藩は、一般的に、江戸時代を通じて一揆がなかった藩とされている。
関ヶ原の戦いの戦功(先陣)により徳川家康の四男・松平忠吉が入封(清洲藩、52万石)する。しかし慶長12年(1607年)に忠吉に嗣子がなく死去して天領となった。
代わって1607年に甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である徳川義直(藩祖)が47万2344石で転封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、尾張藩が成立した。
初代藩主・徳川義直は着任当初まだ幼少であったため、初期の藩政は家康の老臣たちによって行なわれたが、成長してからは義直自ら米の増産を目的とした用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めて藩政を確立している。
参考:『尾張藩』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E8%97%A9
当時の居城であった清須城は、水害などの危険性が高いため新たに築城の必要があったため、1609年(慶長14)、これを受けて家康は、名古屋台地に城を造るよう名古屋遷府令を発した。
家康は、豊臣方への包囲網を築くため、公儀普請によって各地の城の整備を進めていました。丹羽篠山城、丹羽亀山城、伊賀上野城、姫路城、江戸城などに続き、名古屋城も1610年(慶長15)から公儀普請(大名普請)によって築城が始まった。加藤清正、福島正則など、西国や北国の諸大名20名が動員されました(天下普請)。普請による築城には、彼らの経済力を削ぐ目的もあったとされている。
具体的には、外様大名には石垣建造の担当箇所がそれぞれに割り振られた。天守台の石垣は、名手とされた加藤清正が自ら申し出て、3ヶ月とかからずに築き上げた。1612年(慶長17)には、大・小天守が完成。大天守大棟には金鯱が上げられ、尾張徳川家の象徴となる天守になった。同年に本丸御殿建設にも着工し、1615年(元和元)に完成しています。当時の最先端にして高度な技術が駆使されて名古屋城は築かれた。
参考:『特別史跡 名古屋城 名古屋城の歴史』https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/history/kinse/
実際には大名普請では、上記の加藤清正のように将軍家に認めてもらえてもらえたり、他の大名たちへの競争心から幕府の強制というよりも競って普請に参加した一面もあると言われる。
[紀州藩]
江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。
紀伊国は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、甲斐国主であった浅野幸長に与えられ、外様の浅野家の治める紀州藩が成立した。元和5年(1619年)の福島正則改易に伴い浅野家が安芸国・広島藩に移されると、それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・徳川頼宣が浅野の旧領に南伊勢を加えた55万5千石で入部、紀伊徳川家の治める親藩の紀州藩が成立した。
参考:『紀州藩』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E8%97%A9
紀州藩からは、8代将軍徳川吉宗、14代将軍家茂が出ている。ただし、家茂の父徳川斉順は子だくさん将軍の徳川家斉の七男であり、清水徳川家(御三卿)当主を経て紀州徳川家を継いでいる。
参考:『徳川斉順』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E9%A0%86
[水戸藩]
家康の五男武田信吉の死後入封した十男徳川頼宜が和歌山藩(紀州藩)に転封して紀伊徳川家の祖となった後、1606年頼宜の同母弟で十一男の徳川頼房が6歳で、水戸徳川家25万石の祖となった。1626年より房が従三位権中納言に叙任される。これ以後、水戸徳川家は権中納言(中納言の唐名は黄門)に任官された。
水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩であり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持っていたともいわれている。そのため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、内高が表高を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。
頼房は事情により三男光圀を継嗣とし、庶長子松平頼重は讃岐高松藩12万石を与えられた(水戸入りは1619年)。光圀は学問を好み、『大日本史』の編纂を開始し、水戸藩に尊王の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた水戸学は幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた。
15代将軍の徳川慶喜は、水戸藩9代藩主徳川斉昭の七男である。御三卿の一橋家を経て15代将軍となっている。
御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に創立した徳川将軍家の一門。三卿(さんきょう)とも。以下の3家が該当する。
田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)
一橋徳川家(一橋家) - 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)
清水徳川家(清水家) - 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)
御三卿は大名として藩を形成することはなく、実質的には将軍家の身内、いわば「部屋住み」として扱われる存在で、将軍家に後嗣がない際は後継者を提供したほか、御三家をはじめ他の大名家へも養子を提供する役割を果たした。
しかし、御三卿の格式は尾張家と紀州家に準じるものとされたが、屋敷・賄料(経費)・家臣のいずれをも幕府から与えられており、一般的な大名に比べると独立性が非常に弱く、あくまで将軍家の身内にとどまるものだった。
御三卿は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、1731年(享保16年)に次男の宗武(田安家初代)へ、1740年(元文5年)に四男の宗尹(一橋家初代)へそれぞれ江戸城内に屋敷を与えたことに始まり、この時は御両典(甲府家・館林家)の例に倣い、2人を指して「御両卿」(ごりょうきょう)と呼んだ。その後、吉宗の長男で第9代将軍となった徳川家重が、1759年(宝暦9年)に次男の重好(清水家初代)へ屋敷を与えたことで「御三卿」の体裁が整った。以後、将軍家に後嗣がないときは御三家および御三卿から適当な者が選定された。実際、一橋家から第11代将軍徳川家斉と第15代将軍徳川慶喜が出ており、明治維新後は田安家の徳川家達が徳川宗家を相続している。
参考:『御三卿』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%8D%BF
吉宗次男徳川宗武(田安家)(1731)・吉宗四男徳川宗尹(一橋家)(1740)・9代家重次男重好(清水家)(1759)
五街道・参勤交代については→ 江戸の交通の項でもふれています。
2022年出題 妻籠・馬籠は頻出
妻籠宿(つまごじゅく)は、中山道42番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡南木曽町。蘭川(あららぎがわ)東岸に位置する。
現代においては、隣接する馬籠宿((旧長野県木曽郡山口村) 、現在は岐阜県中津川市)と、馬籠峠を越える旧中山道史蹟と合わせて木曽路を代表する観光名所として、外国人を含めて訪れる旅行者が多い。(wikipedia)
重要伝統的建造物群保存地区→ https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/judenken_ichiran.html
[角館]
秋田県東部,仙北市南部の旧町域。横手盆地北部,玉川と檜木内川の合流点に位置し,東は岩手県に接する。1889年町制。1955年中川村,雲沢村,白岩村の 3村と合体。2005年田沢湖町,西木村と合体して仙北市となった。戦国時代末期は蘆名氏の城下町,近世には佐竹氏北家の城下町として発展。今日でも武家屋敷,古い商家が残り,「秋田の小京都」と呼ばれる。武家町の東勝楽丁(ひがしかつらくちょう),表町上丁(おもてまちかみちょう),表町下丁は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定。武家屋敷街のシダレザクラは国の天然記念物,檜木内川堤のサクラ並木は国の名勝に指定されている。木材,薪炭の集散地で,藩士の内職から発展したといわれるサクラの皮を使った工芸品は特産。玉川の抱返り渓谷は景勝地で,田沢湖とともに,田沢湖抱返り県立自然公園に指定。9月に行なわれる角館祭りのやま行事(→角館のお祭り)は国の重要無形民俗文化財に指定されており,2016年に「山・鉾・屋台行事」の一つとして国際連合教育科学文化機関 UNESCOの世界無形遺産に登録された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『角館』
参考:『糸割符』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E5%89%B2%E7%AC%A6
糸割符(いとわっぷ)とは、江戸時代の日本における生糸輸入の方式である。江戸幕府が特定の商人集団(糸割符仲間)に独占的輸入権と国内商人への独占的卸売権を与えていた。白糸割符ともいう。
概要
江戸時代初期、日本において最も重要な輸入品は、中国産の生糸(白糸)であった。だが、生糸の輸入に関し外国商人が値段決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要があった。一方、外国商人側も朝鮮出兵の失敗や関ヶ原の戦いの影響によって生じた日本の国内経済の混乱による販売不振に悩まされていた。
そこで幕府は1604年(慶長9年)、御用商人茶屋四郎次郎を主導者として京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせ、その糸割符仲間に輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。当初3か所であったが、後に1631年(寛永8年)に江戸・大坂を加え5か所となった。当初はポルトガル商人だけであったが、1633年(寛永10年)に中国(明→清)商人、1635年(寛永12年)にはオランダ商人にも適用された。また、1641年(寛永18年)には貿易港としての地位を失った代償として平戸も加えられて6か所となった。後には博多などの平戸以外の九州諸都市にも配分されて従来の5か所から分離され、「分国配分」と呼ばれる規定外の枠組みとされた。
糸割符に参加できた都市(京都・堺・長崎・江戸・大坂)はいずれも天領都市であり、後から参加を許された平戸藩にある平戸の場合も同藩に莫大な収入を与え続けていたオランダとの貿易の権利を幕府が剥奪した代償としては余りに安い対価であった。これは幕府とその影響下にある商人による貿易利益の独占を図ったものであるとも言える。
1655年(明暦元年)中国商人の抵抗(この背景には鄭成功がいたと言われている)を受け糸割符仲間は解散し、市法売買となった。1685年(貞享2年)に復活(ただし、平戸以下の分国配分は復活させず)されて幕末まで続いたが、日本国内における生糸の生産が増加し、輸入生糸の重要性(新しい糸割符制度は日本国内産生糸を保護と生糸の輸入制限の意図を兼ね備えていた)が低下したことから次第に有名無実化した。
平成30年(2018年)出題
瑞巌寺 宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院である。 日本三景の一つ、松島にあり、山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。江戸時代に入り、松島を含む仙台藩を領した伊達政宗は禅僧虎哉宗乙の勧めで円福寺復興を思い立ち、慶長9年(1604年)から14年(1609年)までの全面改築で完成させた。今に伝わる桃山文化(桃山建築)の本堂(及び庫裏、廊下)などの国宝建築を含む伽藍は、伊達政宗の造営によるものである。この折、寺の名を改めて「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と称した。 江戸時代前期の元禄2年(1689年)に俳人松尾芭蕉が参詣したことにちなみ、毎年11月第2日曜日には芭蕉祭が行われる。また、大晦日には火防鎮護祈祷である「火鈴巡行」と一般も撞ける除夜の鐘が有名である。 五大堂(重要文化財)、本堂障壁画 161面、附:障壁画22面、杉戸絵28面 (重要文化財)
1609年(慶長14年)、オランダとの正式国交が開けた時に平戸に設置され、ヤックス・スペックスが初代商館長となった(オランダの東インド会社)。民家72戸分を立ち退かせて建設した。1628年にタイオワン事件で一時閉鎖されたが、1632年に再開。しかし1640年、建物の破風に西暦年号が記されているのを口実に江戸幕府はオランダ商館の取り壊しを命じ、当時の商館長フランソワ・カロンがこれを了承、1641年に長崎の出島へ移転した。以後、幕末に至るまでオランダ船の発着、商館員の居留地は出島のみに限定された。
参考:『オランダ商館』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E5%95%86%E9%A4%A8
参考:『平戸オランダ商館の歴史』(平戸オランダ商館) https://hirado-shoukan.jp/history/
参考:『平戸オランダ商館』(ながさき旅ネット) 大航海時代の1639年築造倉庫を復元
参考:『己酉約条』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%B1%E9%85%89%E7%B4%84%E6%9D%A1
己酉約条(きゆうやくじょう)とは、慶長14年(1609年)、対馬の宗氏と李氏朝鮮の間で結ばれた条約のこと。慶長条約とも。1605年に徳川家康が朝鮮との講和を実現したことをうけて結ばれた。己酉とは、条約締結年の干支。全12条。これにより、文禄・慶長の役以来断絶していた朝鮮との貿易が再開された。内容は朝鮮に対馬から渡航する使者の資格や、歳遣船数を20隻に制限すること、港は釜山に限定し倭館で取引すること、日本人の漢城への出入り禁止などについて定めたもの。明治初期の対馬藩の版籍奉還まで効力を持った。
2022年徳川将軍の任期と併せて出題
江戸幕府によるキリスト教信仰禁止令。1612年(慶長17)春、本多正純(ほんだまさずみ)の与力(よりき)岡本大八と肥前(長崎県)の大名有馬晴信(ありまはるのぶ)の贈収賄事件が発覚し、両者がキリシタンであり、また徳川家康の旗本などにも信者がいることが判明した。この岡本大八事件を契機にして、幕府は同年8月6日(陽暦9月1日)、「伴天連(バテレン)門徒御制禁也。若有違背之族者忽不可遁其罪科事」と全国的にキリスト教信仰禁止を布告。続いて13年(慶長18)12月23日(陽暦翌年2月1日)、僧崇伝(すうでん)によって伴天連追放文が起草され、神道、仏教、儒教の三教一致思想を基礎とする「神国思想」によるキリスト教排撃が宣言された。これと前後して宣教師や有力信徒高山右近(うこん)らの追放が準備され、14年9月右近ら148名は長崎からマカオ、さらにマニラへ追放され、また各地でキリシタン弾圧が開始された。以後この両法令は、禁教政策の祖法とされ、キリシタン禁制政策が推進された。
[村井早苗]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 禁教令『コトバンク』
徳川将軍家(徳川将軍一覧Wikipediaより)
1.徳川家康 1603~1605
2.徳川秀忠 1605~1623
3.徳川家光 1623~1651
4.徳川家綱 1651~1680
5.徳川綱吉 1680~1709
6.徳川家宣 1709~1712
7.徳川家継 1713~1716
7.徳川吉宗 1716~1745
[徳川秀忠時代の禁教]
家康死去の同年元和2年にはキリシタン禁制に関連して、中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定した。
元和3年(1617年)5月26日に秀忠は諸大名へ所領安堵の黒印・朱印状を与え、同年には寺社への所領安堵状を発している。またこの年に秀忠は諸勢を率いて上洛し、7月21日に参内する。この上洛で秀忠は畿内周辺の大名転封、朝鮮やポルトガル人との面談、畿内周辺の寺社への所領安堵を行い、それまで家康が行っていた朝廷・西国大名・寺社・外交交渉を自身が引き継ぐことを示した。翌元和4年には熊本藩家中の内紛である牛方馬方騒動を裁いた。
元和5年に秀忠は再び上洛して、伏見・京のみならず大坂・尼崎・大和郡山を巡っている。この間、およつ御寮人事件に関係した公家の配流、福島正則の改易、大坂の天領化と大坂城の修築と伏見城の破却、徳川頼宣の駿府から紀伊への転封を始めとした諸大名の大規模な移動を命じた。京ではキリシタンの大規模な処刑を命じており、方広寺門前の正面橋近辺で、彼らを方広寺大仏(京の大仏)に向かいあうように磔にし、火あぶりで処刑した(京都の大殉教)。正面橋東詰には現在「元和キリシタン殉教の地」という碑が建てられている。聖母女子短期大学教授の三俣俊ニは、キリシタンを通常の刑場でなく、大仏門前で処刑したのは、彼らに対するせめてもの情けだったのではないかとしている。
[島原の乱]
天草一揆ともいう。寛永 14 (1637) 年から翌 15年にかけて肥前島原と天草島のキリシタン信徒が起した一揆。この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で,住民にもキリスト教徒が多かったが,関ヶ原の戦いののち,天草の領主は小西氏から寺沢氏に代り,さらに元和1 (15) 年島原の領主が松倉氏に代った。松倉氏は農民に対して過重な年貢の負担を強制し,滞納する者には過酷な刑罰を課した。また江戸幕府の禁教政策におけるこの地方のキリシタン弾圧は特にきびしかった。このようななかで寛永 14年(1637) 11月有馬村で代官と農民の衝突が起り,これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起した。これに商人,手工業者,船頭なども加わり,さらに天草の農民がこれに呼応して蜂起し,豪農益田甚兵衛の子四郎時貞 (→益田四郎時貞 ) が首領に推され,小西家牢人 (浪人) や村落代表によって指導部が構成された。一揆は松倉藩兵を破り城代家老を戦死させ原城にたてこもった。幕府は同 12月,鎮圧のため板倉重昌を派遣し近隣諸藩の兵を指揮させたが,一揆の勢力は強く,その数3万 8000人であったといわれる。翌年元旦,総攻撃をかけたが落ちず,重昌は戦死した。幕府は,老中松平信綱を派遣し,信綱は十数万の包囲軍による兵糧攻めや,一時的ではあったがオランダ商船『レイプ』号に依頼して海上から砲撃させるなどしたが,農民は頑強に抵抗した。しかし,食糧や弾薬が尽き,ついに2月末,幕府軍の総攻撃によって陥落した。幕府は 40万両余の費用と数千の武士を失い,一方松倉重次を処刑し,寺沢氏の所領を没収した。以後禁教は一層きびしくなり鎖国を促進した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『天草の乱』
慶長19年(1614)冬、京都、方広寺の鐘銘事件を口実に徳川家康が豊臣氏を大坂城に攻めた戦い。秀頼の軍の奮戦で城は落ちず、いったん和議を結んだ。→大坂夏の陣
出典 小学館デジタル大辞泉
徳川方に取り込まれた織田有楽斎などの甘言により、秀頼が執政片桐勝元を解任、蟄居を命じたのも開戦のきっかけとなったと言われる。
参考:『大坂の陣』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
元和元年(1615)夏、徳川方が冬の陣の和議の条件に反して大坂城内堀を埋めたため豊臣方が兵を挙げ、徳川家康らに攻め落とされた戦い。淀君よどぎみと秀頼の母子は自害し、豊臣氏は滅亡。→大坂冬の陣」
出典 小学館デジタル大辞泉について
[武家諸法度]
江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法。武家とは大名をいう。徳川家康が元和1 (1615) 年大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした直後,諸大名を伏見城に集め,これを発布したため『元和令』ともいう。文武をたしなむべきこと以下居城修補の届出制,婚姻の許可制,参勤交代制など基本的義務 13条を定めている。3代将軍徳川家光のとき 19条となり,その後若干の改訂を経,8代吉宗のとき,5代綱吉の『天和令』を採用してから,幕末までほぼこれによった。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ,これに違反した大名に厳罰を加えた。5代綱吉は,『武家諸法度』を改訂し,天和3 (83) 年以後『諸士法度』に代えてこれを旗本にも適用した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
武家諸法度原文→ http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_hatto_front.html#r
[禁中並公家諸法度]
江戸時代の朝廷や公家を統制するための法令。正しくは禁中方御条目。公家諸法度とも。1615年崇伝の起草により徳川家康が制定。主として天皇の行為が細かく直接に規定され江戸時代を通じて朝廷対策の根本法となった。大名対策の根本法たる武家諸法度はしばしば改訂されたが公家諸法度は不変。
出典:百科事典マイペディア
禁中並公家諸法度(当初は「公家諸法度」)は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた法度である。豊臣氏滅亡後の慶長20年7月17日(1615年9月9日)、二条城において大御所(前将軍)・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、元関白・二条昭実の3名の連署をもって公布された。署名は、二条昭実、秀忠、家康の順である。漢文体、全17条。発布されたときは「公家諸法度」であったが17世紀末に語頭に「禁中並」が加えられた。呼称を変更したのみで内容の変更はされておらず、その内容は江戸幕府終焉まで変わらなかった。これは何度も改定が行われた武家諸法度とは対照的である。
この法度の制定に先立ち、幕府は朝廷への干渉を強めていた。その端緒は、慶長14年(1609年)に発覚した女官らの密通事件(猪熊事件)である。事件後の慶長16年(1611年)、豊臣政権から徳川幕府への過渡期の朝廷をたくみに采配した後陽成天皇が退位し、後水尾天皇が即位した。慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」が定められた。さらに、慶長20年(1615年)の公家諸法度に至って、公家のみならず天皇までを包含する基本方針を確立した。以後、この法度により、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定することとなった。
参考:『禁中並公家諸法度』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6
江戸幕府との関係も良好で、慶長16年(1611年)12月26日に実子が無いため大甥で九条忠栄(甥、後の九条幸家)の長男・松鶴を迎え、慶長18年(1613年)2月17日に松鶴に大御所徳川家康の偏諱を賜って康道とした。以後、二条家の歴代当主は徳川将軍家からの偏諱を受けるのが通例となった(二条家は室町時代には足利将軍家からも偏諱を受け、五摂家の中では武家と一番親しい家柄であった)。
参考:『二条昭実』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%98%AD%E5%AE%9F
参考:『世襲親王家』世襲親王家 Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A5%B2%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%AE%B6#%E4%B8%96%E8%A5%B2%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%AE%B6%EF%BC%88%E5%9B%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%AE%B6%EF%BC%89
伏見宮 応永16年(1409年) 栄仁親王(崇光天皇皇子) 正長元年(1428年)、3代貞成親王の第一皇子・彦仁王が後花園天皇として皇位継承。昭和22年(1947年)、26代博明王の代で皇籍離脱。博明王に男子がおらず、断絶見込み。
桂宮 天正17年(1589年)智仁親王(正親町天皇皇孫) 当初は八条宮、後に常磐井宮、京極宮。明治14年(1881年)、12代淑子内親王の薨去により断絶。
有栖川宮 寛永2年(1625年) 好仁親王 (後陽成天皇皇子) 当初は高松宮。承応3年(1654年)、2代良仁親王が後西天皇として皇位継承。明治41年(1908年)に11代目予定の栽仁王が20歳の若さで薨去。大正2年(1913年)、10代目威仁親王の薨去後、大正天皇の第三皇子・宣仁親王(威仁親王の義孫)が高松宮と宮号を改めて祭祀を継承。平成16年(2004年)、宣仁親王妃喜久子の薨去により断絶。
閑院宮 宝永7年(1710年) 直仁親王(東山天皇皇子) 安永8年(1780年)、2代典仁親王の第二皇子・兼仁親王が光格天皇として皇位継承。昭和22年(1947年)、7代春仁王の代で皇籍離脱。春仁王に男子がおらず、昭和63年(1988年)に断絶。
世襲親王家(せしゅうしんのうけ)は、日本の皇室において、当代の天皇(今上天皇)との血縁の遠近に関わらず、代々天皇の猶子(養子)となって親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続け、天皇に世継ぎがない場合に次の天皇を立てることになっていた宮家をいう。定親王家ともいう。
概説
律令制度においては、当初は天皇の兄弟姉妹や子女のみが親王・内親王とされていた。しかし、二世王から皇位についた淳仁天皇および光仁天皇は、とくに詔して兄弟姉妹および子女を親王・内親王とした。それ以来、天皇の子女であっても親王宣下を受けてはじめて親王・内親王となり、また天皇の孫以降の世代であっても天皇の猶子(養子)として親王宣下を受けることによって親王・内親王となる慣行が成立した。特定の皇族を関連する地名等にちなんで「〜宮」と称することは奈良時代より存在したが、鎌倉時代以降、邸宅や所領の伝領とともに家号としての宮号が生まれ、さらに傍系の皇族が代々にわたって親王宣下を受けて宮号を世襲していく世襲親王家が誕生した。
当主が宮号を名乗り、かつ親王宣下をこうむって世襲したことが明確に確認できる宮家の初例は、亀山法皇の皇子である恒明親王に始まる常盤井宮である。亀山法皇は晩年に誕生した恒明親王を寵愛し、将来、皇位を継がせるよう遺言したが、後宇多上皇はそれを履行しなかった。しかし、恒明親王は亀山法皇より生母を経て伝領した上皇御所常磐井殿を始めとして多くの所領を伝領したこともあり、常盤井宮は16世紀中頃まで約250年間にわたって存続した。また、後二条天皇の第一皇子の邦良親王は、大覚寺統の正嫡と定められたが即位前に亡くなり、邦良親王の王子である康仁親王も光厳天皇の皇太子とされながら、のちに後醍醐天皇によって廃された。康仁親王の子孫は木寺宮と号し、15世紀半ばまで存続した。この2つの宮家が世襲親王家の嚆矢である。
常盤井宮・木寺宮に次いで創設された世襲親王家が伏見宮である。伏見宮は北朝第三代崇光天皇の第一皇子の栄仁親王に始まる。観応の擾乱に巻き込まれて廃位された崇光天皇は、その後、皇子の即位に力を尽くしたが果たさず、やがて栄仁親王の王子である貞成親王は洛南伏見の居所にちなんで伏見宮と号した。その後、貞成親王の王子である彦仁王が後小松上皇の猶子となって皇位を継ぎ(後花園天皇)、後花園天皇は弟の貞常親王に対し、永世「伏見殿」と称することを認めた。伏見宮には天皇との「水魚」の関係、すなわち天皇を支える立場となることが期待された。 その後、天正17年(1589年)に桂宮(当初は八条宮)、寛永2年(1625年)に有栖川宮(当初は高松宮)、宝永7年(1710年)に閑院宮が創設された。伏見宮とあわせて、この4つの世襲親王家を四親王家と呼ぶ。江戸時代、四親王家は皇統の備えとして考えられ、皇位継承の候補であった。なお、世襲親王家の当主を継承しない皇族は、原則として入寺か公家との養子縁組、女性皇族の場合には婚姻の道をたどった。
明治時代になると、明治22年(1889年)に公布された皇室典範によって永世皇族制が採用され、世襲親王家の制度は廃止された[13]。四親王家についても、その他の宮家と同様、男子に恵まれない場合は断絶することとされ、桂宮は明治14年(1881年)、有栖川宮は大正2年(1913年)にそれぞれ断絶した。また、あわせて親王宣下の制度も廃止されたため、伏見宮・閑院宮の宮号の継承者の身位も、親王ではなく王となった。両宮家は、敗戦後の昭和22年(1947年)、GHQの指令により皇籍離脱した。
2022年写真問題として出題。
京都市西京区に所在するもと桂宮 (八条宮) 家の別荘。初代智仁親王 (1579~1629) が元和6 (1620) ~寛永1 (24) 年頃に創設。明治初年桂宮家の廃絶によって離宮となった。当初は現在古書院と呼ばれる建物1棟に庭を配したものであったらしいが,智仁の子智忠の代に2度にわたって増築され,中書院,楽器の間,新御殿が加わって美しい雁行をみせる現在の姿となった。庭園も改修を重ねており,現在は月波 (げっぱ) 楼,松琴亭,賞花亭,笑意軒の4つの茶屋および園林堂が苑内に配されている。建物は数寄屋造のデザインを凝らしたものであり,庭も飛石,灯籠,手水鉢にいたるまで細かい配慮が行届いている。宮内庁所管。来日したドイツの建築家 B.タウトが近代建築の理念につながる美学があると絶賛して以来,広く知られるにいたった。 1976~82年にかけて大規模な解体修理が行われ,増改築の過程が明らかになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『桂離宮』
元和9年(1623年)には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられた。同年3月5日には、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられる。同年6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹・和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。
秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。家光は将軍になるや守役の青山忠俊を老中から罷免して、寛永2年(1625年)には改易に処した(忠俊の子の青山宗俊が後に旗本を経て大名に復帰)。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条城行幸のために再び上洛するが、将軍・家光に対して大御所・秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣および左近衛大将に昇格した。
寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。
参考:『徳川家光』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
スペイン船の来航を禁止。 1624年
[寛永寺]
東京都台東区にある天台宗の寺院。東叡山円頓院と号す。寛永2(1625)年,天海僧正が開山。江戸時代には諸大名の寄進などにより盛大であったが,慶応4(1868)年,戊辰戦争で彰義隊の本拠となって多くの伽藍を焼失。慈眼堂,霊廟,東照宮などを残す。寺域の大部分は上野恩賜公園となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブ
東京都台東区上野にある天台宗の寺。東叡山寛永寺円頓院と号す。天海の創建にかかり1624年着工。京都の御所と比叡山の関係にならい,江戸城の鬼門,上野忍ヶ岡に建てた。1654年に後水尾天皇の皇子守澄法親王が日光山と寛永寺を統括する座主(ざす)となり,輪王寺宮,管領宮,日光御門主と称された。創建に当たっては各大名の寄進により,36堂を建設,1698年根本中堂が完成して壮麗をきわめた。戊辰(ぼしん)戦争の時,彰義隊がここを根拠としたため,全山焦土と化した。
→関連項目上野公園|家相|護持院|不忍池|忍岡|増上寺|天台宗|左甚五郎|輪王寺
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
[天海]
東京都台東区西部にある上野恩賜公園,不忍池,上野広小路付近一帯の総称。江戸時代徳川家の廟所寛永寺の建立により発展。寺域は明治維新後上野公園として開放され,1924年に宮内省から東京市に下賜され上野恩賜公園と改称された。東京国立博物館,国立科学博物館,東京都美術館,上野動物園,東京文化会館,国立西洋美術館,東京芸術大学などの文化・教育諸施設が集中。上野駅周辺から広小路にかけては浅草と並ぶ庶民的繁華街。旅館,食堂,衣料店などが並ぶ。不忍池の弁財天は庶民信仰の対象として有名。湖畔には料亭,料理店が立地。JR上野駅は東北本線,常磐線,高崎線,上信越線などの列車の起点で東京の北玄関となっていたが,東北新幹線や上越新幹線の東京―上野間の開業によりその役割が代わった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『上野』
国立新美術館(六本木)
東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園)
国立国際美術館(大阪市北区中之島)
東照大権現の神号を得た徳川家康をまつる神社。全国各地に所在し,そのうち栃木県日光市の日光東照宮が特に有名で,元別格官幣社。元和2 (1616) 年に没した家康の遺体はいったん駿河国の久能山に葬られたが,遺言により元和3 (1617) 年下野国日光山に改葬された。その後,寛永 11 (1634) ~13年に将軍徳川家光が社殿の大々的な改築を行ない,現在の日光東照宮ができた。すべて漆塗りで極彩色が施され,当代の建築装飾が集約されている。社殿の形式は権現造の典型的なもので,最もよく知られている陽明門をはじめ5件8棟が国宝に指定されている。 1999年には近隣の二荒山神社,輪王寺とともに世界遺産の文化遺産に登録。なお東照宮は初め東照社と称し,正保2 (1645) 年東照宮号を朝廷から授けられた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
<平成30年(2018年)の問題>
*輪王寺 栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。明治初年の神仏分離令以後、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称される。近世まではこれらを総称して「日光山」(日光三所権現)と呼ばれていた。現在、「日光山」は輪王寺の山号とされている。また、「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもある。
輪王寺の境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。
創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。国宝、重要文化財など多数の文化財を所有し、徳川家光を祀った大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い。
近世に入って、天台宗の高僧・天海(家康の参謀、秀忠・家光にも重んじられた。天海版大蔵経:天海が作られた木製活字)(輪王寺慈眼堂に廟所あり)が貫主(住職)となってから復興が進んだ。元和3年(1617年)、徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた際に、本堂は、現在日光二荒山神社の社務所がある付近に移された。
承応2年(1653年)には3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が設けられた。東照宮と異なり仏寺式の建築群である大猷院霊廟は近代以降、輪王寺の所有となっている。
明暦元年(1655年)、後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺した。以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称された。
*二荒山神社 正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と称される。古くは「日光三社権現」と称された。
二荒山神社の境内は東照宮、輪王寺の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。
二荒山神社は古来より修験道の霊場として崇敬された。江戸時代になり幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財指定の主な社殿が造営された。また、国宝指定の刀剣2口や多数の刀剣等の重要文化財を現在に伝えているほか、境内は国の史跡「日光山内」に包括されている。
*日光東照宮 日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられる。輪王寺、日光二荒山神社を含めた二社一寺は、「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。JR日光駅、東武日光駅にかけて門前町が形成され、参拝者や外国人を含む観光客が多く訪れる 。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」とも呼ばれ、東照宮の公式サイトにも「日光東照宮」と書かれている。 寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、荘厳な社殿への大規模改築が行われた。
徳川家康の神格化である東照大権現の本地仏には薬師如来が当てられた 。明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中の施設が一部にある(後述)。1873年(明治6年)に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、1985年(昭和60年)に神社本庁を離れて単立神社となった。(なお、平成25年度から平成30年度まで(2013年から2018年までの期間)に小西美術工藝社により「平成の修理」が陽明門でも行われている。この修理の「三猿」の塗り直しにおいて「目がおかしい」との批判があった)
*日光東照宮陽明門 日光東照宮の陽明門は、建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と称されている 。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建つ。門の左右は袖塀を介して東西廻廊につながる。門を入ると正面が唐門で、その先には拝殿がある。(陽明門の装飾に関して詳しい説明がwikipediaにある)
<平成30年(2018年)の問題>
*出羽三山 山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集めている。 三山のうち、羽黒山には3社の神を併せて祀る三神合祭殿と、宗教法人の社務所(鶴岡市羽黒町手向字手向7番地)とがある。
出羽三山は、出羽三山神社の社伝によれば崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。
江戸時代の初期、羽黒山の宥誉別当が徳川将軍家の庇護を受けるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山・月山は天台宗に改宗した。その際宥誉は天海上人の弟子となり、師の名を一字もらい天宥と改名した。天台宗への改宗に湯殿山は反発し、湯殿山派のみ真言宗となった。 江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称せられた。東北地方、関東地方の広い範囲からの尊敬を集め、多くの信徒が三山詣でを行った。出羽三山参詣は、「霞場(かすみば)」と呼ばれる講を結成して行われた。
*修験道 修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている 。修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになった。その信仰の源は、すでに8世紀からみられた仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の動きの中に求められる。神仏習合は徐々に広まり、神社の境内に神宮寺が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社がそれぞれ建てられ、神職、あるいは僧職が神前で読経を行うなどした。そして、それらの神仏習合の動きと、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道という独自の信仰が成立していった。
*立石寺(りっしゃくじ) 山寺(やまでら)の通称で知られる。山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていた。最上義守の母・春還芳公尼(しゅんげんほうこうに)は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光(よしあき)も立石寺を保護した。義光の時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられている。最上氏が山寺を崇敬し保護するという関係は、最上氏が改易される元和2年(1622年)まで続いていった
元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に書かれている。当地では名句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を詠んでおり、参道に句碑と「せみ塚」[14]がある。
武家諸法度の改定。参勤交代の義務化 1635
日本人の海外渡航禁止 1635
2021年出題
長崎県南部,長崎市の中心市街地を流れる中島川河口にある地区。寛永 10 (1633) 年の鎖国令により,ポルトガル人の隔離を目的として,河口の沿岸に扇形の埋立地「出島」が造成された。完成は寛永 13 (1636) 年。面積約1万 3000m2で,市街地との連絡は1本の橋のみであった。島原の乱後,ポルトガル人が追放され,平戸のオランダ商館がここに移されて,西欧の文物を取り入れる窓として幕末まで存続した。明治以降は周囲が埋め立てられて,往時の面影をほとんど失い,現在の出島地区には史跡の一部が残されているほか,新聞社,病院,倉庫などが雑居。国の史跡の出島和蘭商館跡や聖公会の教会を復元した出島資料館などがある。その東端の新しい出島岸壁は,外国および県内離島航路の発着場となっている。
平戸のオランダ商館、出島に移転 1641
1637年(寛永14年)10月25日(1637年12月11日)から1638年(寛永15年)2月28日(1638年4月12日)まで、島原・天草地域で引き起こされた、百姓を主体とする大規模な武力闘争事件である[4]。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱(しまばら・あまくさのらん)、とも呼ばれる。
島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、江戸時代の大規模な反乱・内戦である。
幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人は全員が死亡し、助命されたのは一揆勢に捕縛され、城中に連行された松倉家の家臣筋の絵師山田右衛門作と口之津蔵奉行の家族だけである。
ただし、幕府軍の総攻撃の前に多くの投降者や一揆からの脱出者が出たとする説もある。城に籠城した者は全員がキリシタンの百姓だったわけではなく、キリシタンでないにもかかわらず強制的に一揆に参加させられた百姓や、或いは戦火から逃れるために一揆に参加した百姓も少なくなかった。一揆からの投降者が助命された例や、一揆に参加させられた百姓の中に、隙を見て一揆から脱走した例、正月晦日の水汲みの口実で投降した例などがあることが各種史料から確認されている。
参考:『島原の乱』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
参考:『原城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%9F%8E
↓平成4年から、島原の乱がおこった原城では発掘調査が行われており、およそ7万点の遺物が発見されている。原城は面積約42万平方メートル、海に突き出た高台にある。調査では十字架、銃弾、砲弾などが発見されている(有馬キリシタン遺産記念館に展示)。
古文書を読み解くと松倉・の飢饉時の重税による過酷な弾圧に苦しんだ(背中に火をつける事)農民がキリスト教に救いを求め一揆をおこしたが、小西家滅亡後の天草の浪人たちが農民を引き込むために「やがてこの国に一人の善人が現れる」という予言を用いて天草四郎と言う青年を担ぎ上げシンボルとしてまとめ上げて言った。四郎は原城の本丸近く(教会か?)に住んでマジック(めくらしの術)を使い(『四郎乱日記』(天草キリシタン館))、キリスト教の奇跡を起こして見せ人々を惹きつけた。なお一揆後は四郎を見たものは無いと記されている。番組では教会にこもって祈り続け、浪人たちが四郎を神格化して神の伝令が下ったと農民たちに伝えたと推論している。
参考:『歴史探偵 天草四郎と島原の乱』(2023年5月24日放送)(NHKオンデマンド) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2023127810SA000/
参考:『世界遺産 原城二ノ丸跡から出土 一揆当時の砲弾、銃弾か』(長崎新聞)
2019/03/09 [11:00] 公開
https://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=476917100830671969
<平成30年(2018年)の問題>
小江戸(こえど)とは「江戸のように栄えた町」「江戸時代を感じさせる町」といった意味合いで使われる、都市の比喩的な表現。代表例としては、川越(埼玉県川越市)、佐原(千葉県香取市佐原)、栃木宿(栃木県栃木市)が挙げられる。 「小江戸」という言葉がクローズアップされたきっかけは、1996年に開催された「小江戸サミット」である。千葉県夷隅郡大多喜町・神奈川県厚木市・山梨県甲府市、静岡県磐田市(旧磐田郡竜洋町)掛塚・滋賀県彦根市なども、小江戸と呼ばれることがある。
*栃木宿(下野国)(栃木県) 吹上藩の城下町であり(ごく初期しか城は持たず、陣屋だったが)、また日光例幣使街道の宿場町(栃木宿)でもあった。蔵の街としても知られている。全国京都会議にも参加しており、「小江戸」と「小京都」の両方を名乗っているが、小江戸サミット参加以降は「小京都」よりも「小江戸」を観光のキャッチフレーズとして使用することが多い。2年に1度、江戸の祭礼の影響を少なからず受けたとちぎ秋まつりが行われている。
*川越(武蔵国)(埼玉県) 「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と江戸時代から謳われ、喜多院には江戸城の建物の一部が移築されている(春日局)。松平信綱・柳沢吉保といった江戸幕府の重臣や親藩が藩主を務めた川越藩の城下町であり幕府から重視されてきた。古く鎌倉幕府の有力御家人であった河越氏と江戸氏は同族で、室町時代に太田道灌が川越城と江戸城を築城し川越街道で結ぶなど古来から武蔵国内で特殊な関係にあった。江戸時代以降は新河岸川の舟運で江戸と深く結びついた。旧市街地北部の7.8ヘクタールの区域が重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。「COEDOビール」など市内特産品にも小江戸の名が冠される。また西武新宿線本川越~西武新宿間を走る特急「小江戸」も川越に因んだものである。江戸の天下祭の往時の姿を最もよく伝える川越まつりが行われている。
*佐原(下総国)(千葉県) 「“北総の小江戸”、”水郷の町”」と呼ばれ「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われた商家町。
伊能忠敬が商人として活躍していた町であり、利根川水運の拠点のひとつ。江戸との交流が隆盛を極め、醸造業や商業が大きく発展。
小野川沿いと香取街道沿いの7.1ヘクタールの区域が1996年、関東地方で初めて重要伝統的建造物群保存地区として選定された。小野川沿いを中心とした地区は、江戸の雰囲気そのままに土蔵造りの商家や町屋が軒を連ね、江戸の影響を多少なりとも受けた佐原の大祭では豪華絢爛な山車が引き回される。近年では北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並みとして佐倉(城下町)・成田(門前町)・銚子(漁港・港町)とともに日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」に認定された。
○栃木宿(栃木県栃木市)
○川越(埼玉県川越市)
○佐原(千葉県香取市)
江戸時代,寛永年間 (1624~44) に日本海,瀬戸内海を経て大坂にいたる西廻海運に就航した廻船。北陸では「べんざい」 (弁財船) と称した。 18世紀末には航路は蝦夷地まで延び,北陸,奥羽,松前の米穀や海産物を買入れて下関海峡を経て瀬戸内海に出て大坂にいたり,ここで積荷を売りさばいては酒,塩,雑貨を仕入れ,北国で売払って巨利を得た。買積商内 (かいづみあきない) と呼ばれるように,運賃積によらず船主が売買問屋を兼ねた。近江商人や北陸筋の商人が船主であった。加賀の銭屋五兵衛は有名。幕末から明治初期が最盛期で,中期以降は,汽船や内陸鉄道網の発達によって衰微していった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[東廻り航路]
江戸時代,日本海沿岸から津軽海峡を経て太平洋を南下し,江戸に至る航路
元来奥州諸藩の蔵米輸送は川舟で北上川・阿武隈川河口に下り,廻船で下総銚子まで運び,また川舟で利根川・江戸川経由で江戸に送った。1670年,幕命で河村瑞賢が外海江戸廻りの直航コースを開き,相模の三崎から江戸に入る航路を開発,費用・損害を軽減し,大いに利用度を高めた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
[西廻り航路]
江戸時代,日本海沿岸から西に進み,下関・瀬戸内海を経て大坂に至る航路
寛文年間(1661〜73)加賀藩が下関経由で大坂へ廻米したのに始まり,1671年河村瑞賢が出羽最上地方の幕府米を西廻りで廻送するため西廻り航路を整備してから発達した。北前船が就航。これにより従来の敦賀〜小浜〜琵琶湖〜大津〜京都を通る廻米は衰退。日本の沿岸航路が完成し,大坂・京都・江戸の三都を中心とする全国市場の成立を可能にした。この経済社会の発展を基盤に,上方中心の元禄文化が興隆した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
黄檗宗大本山萬福寺 https://www.obakusan.or.jp/about/
参考:『隠元隆琦』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E5%85%83%E9%9A%86%E7%90%A6
参考:『黄檗宗』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%AA%97%E5%AE%97
隠元隆琦(いんげん りゅうき、特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、厳統大師)は、明末清初の禅宗の仏教僧。江戸時代初期に来日し、日本黄檗宗の祖となった。俗姓は林氏。福建省福州府福清県の出身。
隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅と様々教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。
なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、京の宇治に煎茶としての茶の製法と喫し方を持ち込み、煎茶道の開祖ともされる。また、普茶料理と呼ばれる精進料理を広めた。能書家としても知られ、木庵性瑫・即非如一とともに「黄檗の三筆」と称される。江戸時代前期の文化のうち、隠元の影響が見られるこれらを「黄檗文化」と総称することもある。
経歴
生い立ちから来日まで
万暦20年(日本の文禄元年)11月4日(1592年12月7日)、福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれる。俗名は林曽炳。3人兄弟の末っ子。父の林徳龍は、在田と号した。6歳の時、父の林徳龍は湖南・湖北方面に赴き、以後、消息を絶つ。
10歳で仏教に発心する(16歳という説もあり)が、出家修道は母に許されなかった。
20歳の時、母や長兄から妻帯を勧められるが「父の行方も知らないでいるのは子として不幸である。父に会ってからのちに妻帯しても遅くない」といって断った。21歳の時に消息不明の父を浙江に捜したが果たせなかった。
23歳の時、寧波府の普陀山の潮音洞主の下に参じ、在俗信者でありながら1年ほど茶頭として奉仕した。
28歳の時、母死す。印林寺で黄檗山の僧である鑑源興寿に会い古黄檗で出家するよう勧められ、万暦48年(1620年)に出家した。29歳で、生地である福清の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度した。
33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して、これに随行した。35歳で[要出典]黄檗山の費隠通容から印可を受けた。38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り、45歳で費隠に嗣法した。
その後、萬福寺を出て獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり[要出典]、崇禎10年(1637年)に晋山し、黄檗山の主を7年間務めた。後に退席したが、明末清初の動乱が福建にも及ぶ中、順治3年(1646年)に再度晋山し、再び9年間務めた。
来日以降
江戸時代初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した。
当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死した。隠元への来日招請は四度に及び、二十人以上の弟子を率いて、鄭成功が仕立てた船に乗り、承応3年(1654年)7月5日夜に長崎へ来港した。随行した弟子には良静・良健・独癡・大眉・独言・良演・惟一・無上・南源・独吼らがおり、月洲筆『普照国師来朝之図』にこのときの模様が描かれている。
隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。
明暦元年(1655年)、崇福寺に移る。同年、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた江戸幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。
隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し、万治元年(1658年)には、幕府第4代将軍・徳川家綱と会見した。その結果、万治3年(1660年)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、母国の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。
寛文3年(1663年)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修した。
黄檗宗開教以降
これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となったが、当初から黄檗宗と名乗っていたわけではない。本人は歴とした臨済宗を嗣法している自負があったので、臨済正宗を名乗っている。もっとも、宗風や叢林としての規矩清規は当時の中国・明時代の臨済禅に倣っていたことから、既に日本に根付いていた臨済宗とは趣を異にし、その違いにより、自ずから一派を形成する方向に向かったものである。
隠元の『黄檗清規』は、乱れを生じていた当時の禅宗各派の宗統・規矩の更正に大きな影響を与え、特に卍山道白らによる曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされた。
隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した。
萬福寺の住職の地位にあったのは3年間で、寛文4年(1664年)9月に後席は弟子の木庵性瑫に移譲し、松隠堂に退いた。
松隠堂に退隠後、82歳を迎えた寛文13年(1673年)正月、隠元は死を予知し身辺を整理し始め、3月になり、体調がますます衰え、4月2日には[要出典]後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡された[2]。4月3日に遺偈を認めて示寂。世寿82歳。
国師号・大師号
寛文13年(1673年)に後水尾法皇から「大光普照国師」号の特諡を賜った後、50年ごとの遠忌に皇室より諡号を賜わることが慣例となった。
享保7年(1722年)、霊元上皇より「仏慈広鑑国師」
明和9年(1772年)、後桜町上皇より「径山首出国師」
文政5年(1822年)、光格上皇より「覚性円明国師」
明治5年(1872年)は、当時の仏教排除政策を背景として、なし。なお国師号・大師号の宣下は、明治9年(1876年)に再開された。
大正6年(1917年)、大正天皇より「真空大師」
昭和47年(1972年)、昭和天皇より「華光大師」
令和4年(2022年)、今上天皇より「厳統大師」
語録・著作
『隠元禅師語録』16巻
『普照国師広録』30巻
『黄檗隠元禅師雲涛集』1巻
『弘戒法儀』1巻
『黄檗山寺志』1巻
『黄檗清規』
『普照国師語録』3巻
『普照国師法語』2巻
『松堂集』2巻
『太和集』2巻
弟子
嗣法者は23名で、うち3人が日本人である。
[黄檗宗]
黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本の三禅宗のうち、江戸時代開府はじめの明朝復興の願いに始まった一宗派。江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592 - 1673年)を開祖とする。本山は、隠元隆琦の開いた京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺。
概要
黄檗宗の名は、中唐の僧の黄檗希運(? - 850年)の名に由来する。
教義・修行・儀礼・布教は日本臨済宗と異ならないとされる。黄檗宗の宗風の独自性は、日本臨済宗の各派が鎌倉時代から室町時代中期にかけて宋と元の中国禅を受け入れて日本化したのに比較して隠元の来日が新しいことと、明末清初の国粋化運動の下で意図的に中国禅の正統を自任して臨済正宗を名乗ったことによるとされる。
黄檗僧が伝える近世の中国文化は、医学・社会福祉・文人趣味の展開とも関係する。
歴史
時代背景
日本の江戸時代元和・寛永(1615年 - 1644年)のころ、明朝の動乱から逃れた多くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住していた。とくに福州出身者たちによって興福寺(1624年)、福済寺(1628年)、崇福寺(1629年)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明僧も多く招かれていた。
創始
承応3年(1654年)、中国臨済宗の僧の隠元隆琦により始まる。隠元隆琦の禅は、鎌倉時代の日本臨済宗の祖である円爾(1202年 - 1280年)や無学祖元(1226年 - 1286年)等の師でもある無準師範(1177年 - 1249年)の法系を嗣ぐ臨済禅であり、当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗っていた。宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。
隆盛
幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、鉄眼道光(1630年 - 1682年)らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めた。また元文5年(1740年)に第14代住持として和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に中国から住職を招聘してきた。こうした活動から次第に教勢が拡大し、萬福寺の塔頭は33カ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。
明治7年(1874年)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、明治9年(1876年)、黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。
現在も臨済宗とは共同で財団法人を運営しており、公式ウェブサイトも両者合同で設置されている。
鉄眼一切経
隠元隆琦の法孫に当たる鉄眼道光は艱難辛苦の末に、隠元隆琦のもたらした明版大蔵経を元版とした『鉄眼版(黄檗版)一切経』といわれる大蔵経を開刻・刊行した。これによって日本の仏教研究は飛躍的に進んだばかりか、出版技術も大きく進歩発展した。一方、了翁道覚(1630年 - 1707年)は錦袋円(きんたいえん)という漢方薬の販売により、収益金で鉄眼の一切経の開刻事業を援助する一方、完成本を誰もが見られるようにする勧学院を各地に建て、日本の図書館の先駆けとなった。後に鉄眼一切経は重要文化財に指定され、黄檗山万福寺山内の宝蔵院で現在も摺り続けられている。
萬福寺における新年法要
黄檗唐音
黄檗宗に於ける読経は、現在も近世中国語の発音で行われており、これを「黄檗唐韻(とういん)」と呼ぶ。
明和・文化の大火と江戸三大大火。江戸時代最大の被害。天守を含む江戸城を初めとして多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失、死者も3万(『上杉年譜』など)から10万(『本所回向院記』『山鹿素行年譜』など)と記録されている。天守はこののち再建されることは無かった(役目を終えていたため)。
火災後、身元不明の遺体は幕府が本所牛島新田に船で運び埋葬し、供養のため現在の回向院が建立された。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助を行った。松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行し、1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行い、災害復旧に力を注いだ。松平信綱は米相場の高騰を見越して、幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。それを受けて、地方の商人が江戸で大きな利益を得られるとして米を江戸に送り、幕府が直接に商人から必要数の米を買いつけて府内に送ったため、府内に米が充満して米価も下がった。
復興対策としては、区画整理のための建築制限令の公布、両国橋の架設、神社仏閣の移転(燈明が火元。浅草・駒込・三田などへ移転)、屋根の防火対策、広小路・火除土手の設置などが行われた。
江戸城を防備するために、それまで隅田川には千住大橋しか架けられていなかったが、川向こうの本所方面に逃げられずに焼け死んだ人たちが多かったことから、大火後、本所方面の開発に合わせて、万治2(1659)年、隅田川にはじめての橋として両国橋が架けられた。
参考:『明暦の大火』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
参考:『明暦の大火とエピソード』(東京消防庁) https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/libr/qa/qa_30.htm
参考:『第2章 明暦大火の出火・延焼経過』(内閣府防災情報)(PDF) (延焼図有り)
シャクシャインの戦い(江戸時代)とコシャマインの戦い(平安時代)のセットで出題。どちらがどちらか間違えないよう。
1669年6月にアイヌでシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌ2部族の抗争、報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した。日本の元号の「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起とも呼ばれている。シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったが、鉄砲の威力で松前藩勢の優位の展開となり、償いの宝物などの提出、シャクシャインらは助命という条件で和議となった。戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた和睦の申し出だったが、シャクシャインはこの和睦に応じ11月16日(10月23日)、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。
参考:『シャクシャインの戦い』Wikipedia
寛文九年(一六六九)、蝦夷(えぞ)地(北海道)で松前藩の不公平な交易方針に反対するアイヌの首長シャクシャインが起こした反松前・反和人の戦い。全北海道に広がったが、鉄砲を持つ松前藩が優勢となり、和議の席でシャクシャインは殺された。以後、松前藩のアイヌ搾取が強められた。
参考:『シャクシャインの戦い』精選版 日本国語大辞典
江戸時代前期、江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉によって制定された「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称。1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総体である。
保護する対象は、捨て子[注釈 2]や病人、高齢者、そして動物である。対象とされた動物は、犬、猫、鳥、魚、貝、虫などにまで及んだ。
漁師の漁は許容され、一般市民はそれを買うことが許されたとの説もある。
貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[5]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている[6]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている。
根崎光男はまた、天和3年(1683年)に綱吉の子・徳松が5歳で病死しているが、この頃から死や血の穢れを意識した政策である服忌令の制定が進められており、子の死によって綱吉の思考に、生類憐れみの観念が助長されていったとみている。
かつては跡継ぎがないことを憂いた綱吉が、母桂昌院が帰依していた隆光僧正の勧めで発布したという説が知られていた。ただし、隆光を発端と見る説は近年後退しつつある[3]。この説は太宰春台が著者ともされる『三王外記』によるものであるが、隆光が知足院の住侍として江戸に滞在するようになった貞享3年(1686年)以前から、生類憐れみ政策は開始されている。
『生類憐みの令』Wikipediaより抜粋 後でまとめる事
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4
江戸時代における江戸幕府の直轄地。天領は俗称である。幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代からで、幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまりである。その後、天領の呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。
江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)だった。その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)の呼び名もある。
上記の観点から、近年は幕府の直轄地の呼称は「天領」から「幕領」と呼ぶ傾向になっている。
天領は、豊臣政権時代の徳川氏の蔵入地が基である[1]。関ヶ原の戦い、大坂の陣などでの没収地を加えて、17世紀末には江戸幕府直轄地は約400万石となった。その地からの年貢収入は江戸幕府の財政基盤となった。
京都、大坂、長崎など重要な都市や、佐渡金山などの鉱山、湯の花から明礬を生産していた明礬温泉も天領とされた。佐渡、甲斐、飛騨、隠岐は一国まるごと天領となった。
また、蝦夷錦や俵物の産地であった蝦夷地では、1799年(寛政11年)には東蝦夷地(北海道太平洋岸および北方領土や得撫郡域)が、1807年(文化4年)には和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸や樺太およびオホーツク海岸)が天領となり、このとき奉行所は宇須岸館に置かれ奥羽諸藩が警固に就いた。文化6年(1809年)に西蝦夷地から、樺太が北蝦夷地として分立。松田伝十郎による改革で、山丹交易を幕府直営とした。1821年(文政4年)には一旦松前藩領に復した。1855年(安政2年)になると、和人地の一部と蝦夷地全土が松前藩領から再び天領とされているが、1859年(安政6年)の6藩分領以降に奥羽諸藩の領地となった地域もあった。箱館奉行所は、幕末の元治元年(1864年)から五稜郭に置かれた。
幕府直轄の各領地には代官処がつくられ、郡代や代官・遠国奉行が支配した。また預地として近隣の大名に支配を委託したものもあった。観光地として有名な岐阜県高山市の高山陣屋は、江戸幕府が飛騨国を直轄領として管理するために設置した代官所・郡代役所である。
江戸時代末期に老中首座となった水野忠邦は、天保の改革の一環として上知令(江戸城大坂城の十里四方を天領とする)を発令したため、天領の石高は増えたが、周辺に領地を持つ大名から大きく非難された。
参考:『天領』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%A0%98
<平成30年(2018年)の問題>
*天領とは
江戸幕府の直轄領(幕府領,幕領)の俗称。御料所ともいう。江戸時代の全国の土地は,皇室領,寺社領,大名領,旗本知行所(→知行所),幕府直轄領に分かれていた。そのうち幕府直轄領は約 400万石を占め,全体の 15.8%に相当した。田畑だけでなく全国の主要な鉱山,港湾,交通・商業の重要地点が編入されており,鉱山では佐渡や生野などが代表的な例である(→生野銀山,佐渡鉱山)。全国 68ヵ国中 47ヵ国に置かれ,幕府の主要な財源となった。江戸幕府の場合は豊臣氏の太閤蔵入地ほど多くはなかった。他の大名領に比較して年貢率も低いのが特色で,勘定奉行の指揮下にある郡代や代官が支配した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク)
*日本遺産 「飛騨匠の技・こころ - 木とともに、今に引き継ぐ1300年 」(以下、飛騨高山観光公式サイト、日本遺産ポータルサイトによる)
◎ストーリー
「飛騨工制度」は古代に木工技術者を都へ送ることで税に充てる全国唯一の制度で、
飛騨の豊かな自然に育まれた「木を生かす」技術や感性と、
実直な気質は古代から現代まで受け継がれ、高山の文化の基礎となっている。
市内には中世の社寺建築群や近世・近代の大工一門の作品群、伝統工芸など、
現在も様々なところで飛騨匠の技とこころに触れることができる。
これは私たちが木と共に生きてきた
1300年の高山の歴史を体感する物語である。
◎主な構成文化財
〇飛騨工(ひだのたくみ)制度 飛騨工制度は、古代における租税制度の中で、飛騨国1国のみに対して特別に定められた制度である。養老2年(718)に制定された養老令賦役令の斐陀国条に、庸、調といった税の代わりに年間100人程の匠丁(技術者)を都へ派遣することが定められている。この匠丁が飛騨工である。 飛騨では、奈良時代以前の古代寺院が14箇寺以上と、全国でもまれにみる密度で確認されており、飛騨工制度ができる以前から寺院を建てる高い建築技術をもっていたことがわかる。都の造営にあたり木工技術者の需要が高まり、その優れた技術力を活用するため、この制度が設けられたのである。 その他、『源氏物語』や『今昔物語集』にも飛騨工が優れた木工技術者として描写されている。古代に都で飛騨工が建てた記録が残る建造物には、甲賀宮、平城宮、平安宮などの宮殿や、西大寺、石山寺、西隆寺などの寺院等が知られており、建築物のほか建具、家具の製作に携わっていた。 飛騨工制度は鎌倉時代、古代律令制度の終焉とともに消滅するが、飛騨匠(飛騨工制度消滅後の飛騨の木工技術者について「飛騨匠」と記載する)はその後も全国で建築活動を行っている。鎌倉時代の飛騨匠の手による建造物として、西明寺本堂や三重塔(共に国宝・滋賀県)が現存する。また、現在も「飛騨匠の祖」として崇敬を集める飛騨権守・藤原宗安は、1311年に長滝寺の大講堂(明治32年焼失・岐阜県郡上市)の大工頭を務めている。
〇国府盆地の中世社寺建築群(飛騨匠の残した建造物) 古代寺院跡の多い国府盆地には、中世に遡る建造物も多く残されており、飛騨の社寺建築の流れを知ることができる。荒城神社本殿は明徳元年(1390)再建であり、阿多由太神社本殿は室町時代初期の建立、熊野神社本殿は室町時代後期の建立と伝わる。いずれもサワラやヒノキ、スギを多く用いて作られるが、現在では入手困難なほどの良材を使用している。安国寺経蔵は応永15年(1408)建立で、内部の輪蔵(回転書架で、一回転すると納入された経典をすべて詠んだことになる)は、日本現存最古のものである。
〇高山城とゆかりの建築群 近世初期、天正16年(1588)から慶長8年(1603)まで16年の年月をかけて飛騨匠たちが建てた高山城(金森長親。1695年(元禄8年)金森氏国替えで天領となったため、高山城は棄却 )は、「城郭の構え、およそ日本国中に五つともこれ無き見事なるよき城地」であったと、近世中期の地誌にも書かれた名城であった。城は元禄8年(1695)に取り壊されたが、それ以前に高山城から移築された建物が東山の寺院群等の建物として残されており、それらを巡ることで今は無き名城高山城をしのび、商家町として発達する以前、城下町として出発したころの高山を感じることができる。
〇近世・近代の匠達 飛騨の社寺建築の美しさの一つに、屋根の優美さがある。飛騨の山々の形に似た美しさを見せる社寺建築の屋根の曲線は、親方から代々伝わる口伝を基に、棟梁の感性によって形作られる。装飾で飾られても、全体を見るとすっきりと簡素に見えるのも、職人の技と感性によるものである。町人文化が発達した近世以降、制作者である職人に加え、発注者であり文化の主要な担い手である旦那衆、作品を評価する周囲の町人の三者の優れた感性によって、高山では多くの名建築や工芸品が生まれてきた。
近世飛騨の社寺建築は、和様を基本として柱上の組み物などに他地域とは異なる独自性が見られる。通常のヒノキやスギでなく、カツラやクリ、マツなど多彩な木材を使うことも大きな特徴であり、ここにも木材を知り尽くした飛騨匠の技を見ることができる。この時代、代々木工を職とする一門が多く現われ、飛騨匠の技の伝承がなされた。このうち、飛騨権守・藤原宗安の直系とされるのが、江戸時代中期以降4代にわたり「水間相模守」を名乗り、優れた彫刻を特徴とした水間一門である。
〇木を生かす伝統工芸
木の美しさを生かす技は、建築以外にも発揮された。400年前に高山で生まれた飛騨春慶は、江戸時代初期、打ち割った木の木目を生かすために透明な漆で盆に仕上げたことに始まる漆器で、透明で木地の木目が見える漆を用いるため、素材の見立て、加工から漆塗まで全てにわたって高い技術が要求される。宗猷寺には山中を移動しながら木地椀などを作った江戸時代中期以降に築かれた木地師の集団墓地が残されている。一位一刀彫は江戸時代後期、色彩を施さず、イチイの木が持つ木の美しさを生かした彫刻として完成された。これらの伝統工芸の技術や木工技術の粋を結集して作られたのが高山祭屋台である。
*高山祭 岐阜県高山市の春秋の祭り。高山市を南北に分け、南は山王(さんのう)社(日枝(ひえ)神社)の氏子、北は桜山八幡(はちまん)(八幡神社)の氏子になっている。日枝神社の祭りは4月14、15日で山王祭といい、八幡神社の祭りは10月9、10日(もとは旧暦9月14、15日)で八幡祭といった。高山祭(山王祭と八幡祭)の特色は、豪華な屋台の練行(れんぎょう)である。本居宣長(もとおりのりなが)の弟子、田中大秀(おおひで)が、神社を復興し神事を盛大にするため始めたといわれており、文化・文政(ぶんかぶんせい)(1804~1830)のころ、舶来の織物や材料をふんだんに使い、彫刻の名人を抱え、莫大(ばくだい)な財力を投じて屋台30台をつくった。その後保存と修理に努めて、いまは春祭12台、秋祭11台が曳(ひ)き出される。四輪の台車の上に三段重ねの屋台を構えたもので、上段は4本柱に切妻屋根をかけ、中段には氈(せん)を巡らし、黒漆で全体を塗って金色の金具が打ち付けてある。上段には各町内で趣向を凝らした人形を設け、下の台の中で綱によって操作して踊りをさせるものもある。当日は神輿(みこし)の渡御(とぎょ)に続いてこの屋台を繰り出し、囃子(はやし)につれて市中を練る。この行事は、国の重要無形民俗文化財の指定を受けており、代表的な屋台は屋台会館に展示され、観覧することができる。
[井之口章次]『山本茂実著『高山祭』(朝日文庫)』出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク)
岐阜県高山市で毎年開催される、4月14~15日の日枝神社例祭「春の山王祭」[1]と、10月9~10日の櫻山八幡宮例祭「秋の八幡祭」の総称である[2]。
「屋台」と呼ばれる山車を曳いて市街を巡幸することから、京都市の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭や日本三大美祭の一つに数えられる。重要有形民俗文化財および重要無形民俗文化財に指定されている。
山王祭は江戸時代前半、元禄5年(1692年)の記録に40年前から3年ごとに祭礼が行われていたとの記録があることから、その歴史は飛騨高山藩主金森頼直治世下の慶安5年(1652年)まで遡ることができる。ただし、この時点では屋台が曳行されたとの記録はない。屋台の創建は最も古い屋台の創建が宝暦年間であることから、屋台が祭に加わったのはそれ以降と考えられる。 八幡祭は享保元年(1716年)の記録が最も古い。その後、享保3年に4台の屋台(猩々、高砂、湯ノ花、浮嶋太夫夫婦)を曳いたとの記録がある。
初期の屋台は祭の度に建造と解体を繰り返していたため50年ほどで部品が劣化して新造していたが、天保年間に起きた火災で多くの屋台が焼失したことを契機として、屋台蔵が普及して屋台を解体せずに済むようになったことで屋台の寿命が延び、高価な彫刻などが取り付けられるようになった。江戸時代には高山の町に多くの豪商がおり、京都から織物や金具を買い付けて取り付けるなどしてその華やかさを競った。第二次世界大戦後、高山祭を支えていた豪商が没落して屋台の維持管理が困難になったことから山王祭と八幡祭の屋台組が合同して1951年(昭和26年)に高山屋台保存会を結成。これ以降二つの祭りは高山祭と呼ばれて文化財として一括して扱われるようになるが、それぞれの祭りを担う屋台組や組織はそれぞれ独立している。
2016年(平成28年)12月1日、エチオピアのアディスアベバで開催されていたユネスコ無形文化遺産条約第11回政府間委員会において、「高山祭の屋台行事」を含む日本の「山・鉾・屋台行事」のユネスコ無形文化遺産代表一覧の記載(ユネスコ無形文化遺産登録)が決定した。 (Wikipedia)
*飛騨郡代 江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つ。飛騨国全域ならびに美濃国の山間部、越前国および加賀国の一部に所在した幕府直轄領の民治を司る行政官であり代官である。勘定奉行支配で席次は西国郡代に次ぎ、焼火間詰。役高は四百俵。
1588年(天正16年)より飛騨国一円は飛騨高山藩金森氏によって治められてきたが、1692年(元禄5年)幕府は当時の藩主金森頼旹を出羽国上山藩へ移封し、飛騨国を幕府領とした。これは幕府が飛騨の豊富な木材資源と鉱物資源(金・銀・銅・鉛など)に着目し、幕府財政の安定を図る目的があったと考えられている。以後、高山城を廃城とし、高山城の下屋敷を高山陣屋として行政を行なった。
高山陣屋は、江戸時代の建物が唯一現存する天領陣屋である。
第21代の飛騨郡代は、小野高福(幕末の三舟、政治家であり、剣・禅・書の達人の山岡鉄舟の父)。
1709年から1716年の間、江戸幕府において、6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継のもとで、儒学者新井白石が進めた文治政治である。5代将軍徳川綱吉の政治を立て直すため、貨幣の質を戻したり、貿易を制限したりした。
参考:『正徳の治』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%BE%B3%E3%81%AE%E6%B2%BB
参考:『雨森芳洲先生と芳洲庵の紹介』東アジア交流館雨森芳洲庵 https://housyuuan.sakura.ne.jp/housyuu.html
雨森芳洲(1668~1755)は、江戸時代中期の儒学者で、朝鮮との外交に活躍した人です。
芳洲は、雨森村(現長浜市高月町雨森)の医者の家に生まれたといい、22歳のとき、九州と朝鮮半島との中間に浮かぶ島・対馬藩(現長崎県対馬市)に仕えました。その頃は鎖国の時代でしたが、隣国朝鮮とは「通信の国」として、徳川幕府は善隣友好の交わりを結んでいたのです。その交流の窓口が対馬藩でした。
芳洲は儒者として対馬藩に仕えましたが、31歳から外交の実務を担当する役職を命じられて、数々の業績をあげました。
当時の朝鮮外交は、「筆談外交」と言われる時代でしたが、芳洲は「ことばを知らで如何に善隣ぞや」と釜山に三年間留学して、朝鮮のことばを習得しました。
44歳と51歳の時には、朝鮮通信使の真文役として江戸往復の旅に随行して大活躍しました。61歳の時、主君に上申した『交隣提醒』の著作には、「互いに欺かず争わず真実を以って交わる」という、国際社会の現代にも通用する「誠信外交」の秘訣が述べられています。
また芳洲は、生涯学習の先駆者でもあります。晩年になっても向学の心は衰えることなく、一万首の和歌づくりを志し、『古今和歌集』一千遍詠みを二年かけて完了し、88歳の生涯を終わるまでに二万首の詠草を成し遂げました。
2017年10月、日本と韓国の共同提案で申請された「朝鮮通信使に関する記憶:17~19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」がユネスコ「世界の記憶」に登録されました。
登録件数は111件333点あり、その内36点が芳洲先生の著作等です。
◎芳洲庵とは
芳洲庵は1984年(昭和59年)に芳洲先生の出身地に建設したものです。
ここは、芳洲先生の生涯をたどり、思想や業績を顕彰するとともに、東アジアとの交流と友好を目指す拠点施設です。
大きなケヤキのそびえる敷地からは、遠く己高山に連なる山々が望めます。
静かな佇まいの庵内には、芳洲先生の著書や遺品、芳洲先生が深く関わった朝鮮通信使の資料などを展示しており、また、研修室では芳洲の朝鮮通信使についての講座、国際交流、人権学習、まちづくりなどの講話を聞くことができます。
芳洲庵は、これからも芳洲の「誠信の心」を内外に発信しながら、東アジアの平和と友好のふるさとづくりのために、多くのみなさんに活用していただくことを願っています。
参考:『雨森芳洲』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E6%A3%AE%E8%8A%B3%E6%B4%B2#
雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう、一説に、あめのもり ほうじゅう) 寛文8年5月17日(1668年6月26日) - 宝暦5年1月6日(1755年2月16日))は、江戸時代中期の儒者。諱は俊良、のち誠清(のぶきよ)、通称は藤五郎・東五郎、号は芳洲、字を伯陽、漢名として雨森東を名乗った。中国語、朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった。新井白石・室鳩巣らともに木下門下の五先生や十哲の1人に数えられた。
木下順庵門下
寛文8年(1668年)、近江国伊香郡雨森村(現在の滋賀県長浜市高月町雨森)の町医者の子として生まれた。
延宝7年(1679年)、12歳の頃から京都で医学を学び、貞享2年(1685年)頃、江戸へ下って朱子学者・木下順庵門下に入った[4]。同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとともに秀才を唱われ、元禄2年(1689年)、木下順庵の推薦で、当時、中継貿易で潤沢な財力をもち、優秀な人材を探していた対馬藩に仕官し、江戸藩邸勤めを経て元禄5年(1692年)に対馬国へ赴任した。この間、長崎で中国語を学んだこともある。
対馬藩朝鮮方佐役
元禄11年(1698年)、朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐役)を拝命。元禄15年(1702年)、初めて朝鮮の釜山へ渡り、元禄16年(1703年)から同18年(1705年)にかけて釜山の倭館に滞在して、朝鮮語を学んだ。倭館への訪問回数は合わせて七回にのぼる。この間、朝鮮側の日本語辞典『倭語類解』の編集に協力し、自らも朝鮮語入門書『交隣須知』を作成した。また、江戸幕府将軍の就任祝いとして派遣される朝鮮通信使に、6代・徳川家宣の正徳元年(1711年)と8代・徳川吉宗の享保4年(1719年)の2回、通信使の江戸行に随行した。なお、吉宗の時の使節団の製述官であった申維翰が帰国後に著した『海遊録』に、雨森芳洲活躍の姿が描かれている。
対馬藩の文教や朝鮮外交文書の専門職の真文役(記者)となった。篤実な人格で人々に信頼を獲得して、名分や徳業を重視して、熱心に子弟の教育にあたった。
江戸時代,8代将軍徳川吉宗が幕政建直しのために行なった改革。幕府三大改革のなかで最初に行われたことから,のちの改革の目標となった。吉宗の将軍襲職の享保1 (1716) 年に始り,その在職中に行われた。江戸時代中期になると,封建制の矛盾が次々と現れ,また幕府制度の矛盾も表面化して,幕藩体制の危機は深刻化していた。そこで吉宗は,農村対策として定免制を施行して年貢収納の強化をはかり,生産量を増すために新田開発やサツマイモ (甘藷) の栽培を奨励して農民の生活の安定をはかろうとした。都市の商業資本に対しては株仲間の公認や通貨の統一に努め,おもにその統制に力を注いだ。高利貸資本の圧迫により貧窮の状態にあった旗本や御家人のために上米 (あげまい) の制や相対済 (あいたいすまし) 令を出すことによって救済につとめ,一方幕府内部において人材登用のため足高 (たしだか) の制を定めて幕政運営の硬直化を防ごうとした。その他法典の編纂に努めた。『公事方御定書』の制定や『御触書寛保集成』の編集はその成果である。吉宗は目安箱を設置して広く庶民の意見を聞き,前代までの文治政治による装飾化を嫌って実用主義的な立場で政治を行なった。その傾向は文化面においても現れた。医学や洋学の奨励はその現れである。しかしこの改革も享保の飢饉と米価下落のために十分な成果をみず,幕府の安定は一時的なものに終った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『享保の改革』
上米の制、目安箱の設置、公事方御定書などを抑える
江戸時代、金銀貸借、売掛金などに伴う訴訟に公権力は関与しないとして、相対(当事者同士)で解決するよう命じた法令。 債権そのものの消滅を意味する棄捐(きえん)令と区別される。 相対済令は、1661年(寛文1)から1843年(天保14)に至るまで8回出されている。
江戸幕府の基本法典。享保の改革を推進した8代将軍・徳川吉宗の下で作成された。上巻・下巻の2巻からなる。上巻は警察や行刑に関する基本法令81通を、下巻は旧来の判例を抽象化・条文化した刑事法令などを収録した。特に下巻は『御定書百箇条』(おさだめがきひゃっかじょう)と呼ばれている。
編纂は老中の松平乗邑を主任に、勘定奉行、寺社奉行、江戸町奉行の石河政朝の三奉行が中心となる。年表などでは寛保2年(1742年)成立とされるが、改訂作業が続けられており最終的に確定したのは宝暦4年(1754年)である。
奥書には「奉行中之外不可有他見者也」と記され、本来は幕府の司法中枢にあった者のみが閲覧できる文書だった。
参考:『公事方御定書』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E4%BA%8B%E6%96%B9%E5%BE%A1%E5%AE%9A%E6%9B%B8
公事方=訴訟を扱う機関。
上巻には法令、つまり守るべき決まりごと81条が書かれています。下巻には、過去の判例をもとに、上巻の法律を破ったり、罪を犯したりした場合の刑罰について定め、訴訟・裁判の手続きなども記されていました。
条文と判例に基づいて裁判が行われるようになったため、それ以前と比べ格段に迅速化したのです。とは言え、複数の役人が議論を重ねるため、様々な解釈の違いが生まれることもあったと言われています。
参考:『公事方御定書』(刀剣ワールド) https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/kujikataosadamegaki/
2020年出題。
浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)の『仮名手本(かなでほん)忠臣蔵』の略称。近年では赤穂(あこう)浪士の仇討(あだう)ちを題材にした戯曲・小説類の総称ともいえる。浅野内匠頭(たくみのかみ)の刃傷(にんじょう)は、事件の翌年1702年(元禄15)3月、早くも江戸・山村座の『東山栄華舞台(ひがしやまえいがのぶたい)』という小栗判官(おぐりはんがん)の芝居に脚色され、事件落着直後の1703年2月16日には江戸・中村座で義士討入りを暗示した『曙曽我夜討(あけぼのそがのようち)』を上演し、3日間で中止を命ぜられたという。その後も歌舞伎で数回脚色されたが、浄瑠璃で近松門左衛門が1706年(宝永3)10月の大坂・竹本座に書いた『碁盤太平記(ごばんたいへいき)』は、足利(あしかが)時代の「太平記」を世界にした構成と高師直(こうのもろなお)(吉良義央(きらよしなか))、塩冶判官(えんやはんがん)(浅野内匠頭)、大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)(大石内蔵助(くらのすけ))、寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)などの役名を後代に伝え、なかでも竹田出雲(いずも)・三好松洛(みよししょうらく)・並木千柳(せんりゅう)合作の浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』(1748)が大好評を博し、歌舞伎に移されても最高の人気狂言になってからは、これを母体に無数の書替えものが生まれた。
浄瑠璃では近松半二(はんじ)の『太平記忠臣講釈(ちゅうしんこうしゃく)』、福内鬼外(ふくうちきがい)(平賀源内)の『忠臣伊呂波実記(いろはじっき)』、明治期の作という『増補忠臣蔵』(本蔵下屋敷(ほんぞうしもやしき))など、歌舞伎では奈河七五三助(ながわしめすけ)の『義臣伝読切講釈(よみきりこうしゃく)』(現行名題(なだい)『忠臣連理(れんり)の鉢植(はちうえ)』、俗に「植木屋」)と『いろは仮名四十七訓(しじゅうしちよみ)』(弥作(やさく)の鎌腹(かまばら)、鳩(はと)の平右衛門)、三升屋二三治(みますやにそうじ)の『裏表忠臣蔵』(蜂(はち)の巣の平右衛門、道行旅路の花聟(はなむこ)、宅兵衛(たくべえ)上使)、河竹黙阿弥(もくあみ)の『忠臣蔵後日建前(ごにちのたてまえ)』(女定九郎)、『仮名手本硯高島(すずりのたかしま)』(赤垣源蔵)、舞踊として3世桜田治助(じすけ)の『仮名手本忠臣蔵』、黙阿弥の『忠臣蔵形容画合(すがたのえあわせ)』など。以上、おもな作品の名題に多く使われているように、「忠臣蔵」は赤穂義士劇の代名詞のようになり、その傾向は近年にも及び、昭和期には真山青果(まやませいか)の『元禄(げんろく)忠臣蔵』が生まれている。
[松井俊諭]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『忠臣蔵』
[赤穂浪士]
江戸中期、主君浅野長矩(あさのながのり)の仇(あだ)を報ずると称して吉良義央(きらよしなか)を討った赤穂浅野家の遺臣をいう。1701年(元禄14)3月14日、幕府の年賀に対する答礼のための勅使が到着する直前に、江戸城本丸松之廊下で勅使接待の役にあった浅野長矩(播磨(はりま)赤穂城主5万3500石)が、突然吉良義央(旗本、高家肝煎(こうけきもいり))に斬(き)りかかって傷を負わせる事件が起きた。幕府は、浅野の行為を時と所をわきまえぬ犯罪とみなし、ただちに切腹を命じて所領を没収した。浅野の動機は不明であるが、吉良が儀礼上の指示を十分与えなかったためであるともいわれ、浅野家中をはじめ巷間(こうかん)ではそのうわさを信じた。そこで、幕府がこの事件を単純な犯罪とみたのに対して、吉良との間の喧嘩(けんか)とみ、両成敗の処分を期待した浅野側では、幕府の処分を片落ちとし、吉良を、浅野を破滅に陥れた仇敵(きゅうてき)とみなした。そして改易(かいえき)、切腹の処分によって失われた浅野家の名誉は、浅野家が再興され吉良に処分が加えられるか、または亡君の遺志を継いで吉良を殺し両成敗の処分を事実上完成させることで回復されると考えた。前者は家老であった大石良雄(おおいしよしお)以下多数の考えであり、長矩の弟大学(だいがく)による浅野家の取り立てを幕府に嘆願した。しかし翌1702年7月に大学は広島の浅野本家に御預けとなってこの計画は挫折(ざせつ)し、多くの家臣は離散した。後者は堀部武庸(ほりべたけつね)(安兵衛)らいわゆる急進派の意図であったが、浅野家再興の望みがなくなったのちは大石らもこれに合流。そして12月14日大石以下の浅野家遺臣が江戸・本所(ほんじょ)にあった吉良邸に乱入し、吉良義央を殺害してその首を高輪(たかなわ)の泉岳(せんがく)寺の長矩の墓前に献げ、大目付(おおめつけ)に自首した。幕府では大石以下の行為は「公儀を恐れざるの段、重々不届き」であるとして切腹を命じ、1703年2月4日全員が死についた。吉良邸に討ち入ったのは47人ともいわれるが、このとき死んだのは46人(寺坂信行を除く)である。
彼らは死後、義士、義人として世にたたえられた。彼らが亡君の遺志を継いで吉良を殺し仇讐(きゅうしゅう)を報ずることによって、浅野家の名誉を回復したことが、家臣、武士としての「義」にあたると考えられたからである。大名の「家」は江戸時代における政治的単位であり、また閉鎖的な武士の共同体でもあったから、その首長=主君たる大名に生命を捧(ささ)げ、主家の名誉のために死を賭(と)することは確かに「義」ではあったろう。だが、もしその主君が幕府=将軍に敵対していたとすれば、同じ行為も幕府からみれば「非義」となる。浅野長矩はその犯罪行為のために幕府から死刑に処せられた。大石以下の者は「主人の讐(あだ)を報ず」と申し立て吉良を討ったが、幕府の論理では、吉良は単に被害者にすぎず、大石らは幕府の処分を不満とし吉良を殺害することでそれに反抗したものとみるほかはない。彼らが死刑に処せられたのはそのためであり、単に徒党の禁を犯したなどの事情によるのではない。赤穂浪士の評価にはこの二つの見方ができる。幕府も斬罪(ざんざい)とはせず切腹とし、墓に葬ることを認めたのであるから、その情状は酌量したのである。同時に吉良家も、当主義周(よしちか)の討入り当日の仕方が「不埒(ふらち)」であるとの理由で断絶させられた。彼らを「義士」とする者は室鳩巣(むろきゅうそう)以下多数であり、その行為を「非義」として批判した佐藤直方(なおかた)、太宰春台(だざいしゅんだい)らは少数派であったが、家臣たる武士はだれでも四十六士同様この二つの立場にその身を引き裂かれないとも限らなかったから、問題はきわめて深刻であった。それが将軍―大名、大名―家臣という二重の主従制の下に生きる徳川武士の運命であったのである。そのうえで家臣としての「義」がより重視されたことは、幕藩制という制度または組織を考えるうえで注目に値する。近松門左衛門の『碁盤太平記(ごばんたいへいき)』、竹田出雲(いずも)らの『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』をはじめとして、後世この事件に題材をとった文芸作品は数多いが、作者が武士身分でなかったためか、大名、家臣間の主従関係のみに目を奪われ、単なる仇討ものになっていて、幕藩制の二重の主従関係の下での武士の「義」ははたして何かという、この事件の核心的な問題はほとんど見逃されてしまっている。
[田原嗣郎]
『石井紫郎編『日本思想大系 27 近世武家思想』(1974・岩波書店)』▽『田原嗣郎著『赤穂四十六士論』(1978・吉川弘文館)』
[補完資料] | 赤穂浪士一覧
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『赤穂浪士(日本史)』
参考:『岐阜・木曽三川の宝暦治水に尽力 薩摩義士の慰霊祭 4年ぶりの通常開催 鹿児島市 (23/05/25 19:50)』鹿児島ニュースKTS https://youtu.be/zntn-PQa_4w?si=SaKeBMSlGLwEUV5m
参考:『宝暦治水の千本松原に苗木植樹 児童約70人が薩摩義士を偲ぶ 岐阜県海津市』ぎふチャン公式チャンネル https://youtu.be/10-M3ivSMPM?si=Vj33oq3nyt7dZX-0
参考:『宝暦治水事件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E6%B2%BB%E6%B0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6
宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん、ほうりゃくちすいじけん)は、江戸幕府によって行われた木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水事業、いわゆる宝暦治水の過程で、薩摩藩士51名が自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害したとされる事件。
宝暦治水は宝暦4年(1754年)2月から宝暦5年(1755年)5月まで行われた。実際の工事に当たっては薩摩藩などが御手伝普請として、人足・資金の負担を行い、多くの犠牲者を出した。濃尾平野の治水対策のため木曽川、長良川、揖斐川を分流する工事であり、三川分流治水ともいう。
明治時代中期からの顕彰活動によって薩摩藩士が治水事業で自害した「薩摩義士」であるという評価が広まったが、2000年代頃からは宝暦治水の自体の評価や藩士や平田の自害を再検討する研究も行われている。
背景
木曽川・長良川・揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し、統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。
通説では、木曽川地域には慶長13年(1608年)より幕府の主導により御囲堤と呼ばれる大規模な堤防が築かれていたが、この堤には軍事的な意味があったため、右岸地域である美濃国側では尾張藩の3尺(91cm)以上低い堤しか造ってはいけなかったとされている。ただし御囲堤の建造時期や規模には様々な議論があり、犬山から弥富までとする通説の建造地域は当時の流域と合わないことや、同時代史料に建造を示すものがないこと、3尺の制限が存在することを間接的にも証明するものがないことなどが指摘されている。原昭午は尾張藩の史料から御囲堤の完成時期は寛政年間(1789年~1801年)であるとしている。
1735年(享保20年)、美濃郡代であった井沢為永(井沢弥惣兵衛)が三川の調査の上で分流工事を立案したが、この時はあまりに大規模な案であり、財政難のため幕府の許可が下りなかったとされる。この際に立案された計画が後に宝暦治水に利用されたといわれているが、確たる証拠はない。また、原昭午は井沢が立案に関与したという事実を示す資料が一切ないことを指摘している。ただし、それ以前も以降も輪中地域の住人は三川分流を幕府へ度々願い出ていた。幕府は1747年(延享4年)に二本松藩主・丹羽高庸に対し、井沢の案を規模縮小した形での治水工事を命じたが、これが完成してもなお抜本的解決にはなり得なかった。三川地域の御手伝普請は宝暦までの間に5回行われている。
時代が下るにつれて木曽三川流域は、土砂の堆積や新田開発による遊水地の減少により洪水による被害がさらに激化していった。高木家文書では1741年(寛保元年)から1745年(延享2年)までの5年間で、流域244か村の損耗率が、8割以上の村が108か村、5割から7割が84か村、3割が52か村となっていたとしている。1753年(宝暦3年)12月28日、9代将軍・徳川家重は薩摩藩主・島津重年に正式に川普請工事を命じた。
揖斐川西岸への水の流入を防ごうとすると長良川の常水位が上がり、その沿岸地域が水害の危険にさらされ、また長良川への木曽川からの流入を減らそうとすると木曽川沿岸で溢流の可能性が高まるという濃尾平野の西低東高の構造により、輪中同士および尾張藩との利害が対立し、また河川工学や土木工学が未発達だったこともあって、いずれの工事も河川を完全に締め切り、あるいは切り離したりすることはできなかった。
幕府側の総責任者は勘定奉行・一色政沆であり、代官吉田久左衛門、美濃郡代青木次郎九郎がこの下に付き、幕府目付等がその監督に当たった。また川通奉行として美濃国石津郡に所領を持つ美濃衆の高木三家がこれにあたった。このうち西高木家の高木新兵衛は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇っている。1754年(宝暦4年)1月16日、薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。
工事の計画
工事は二期に分けられ、第一期は水害によって破壊された堤防などの復旧が行われ、第二期は治水を目的とした工事が行われた。第二期の工事は輪中地域の南部を四つの工区に分けて行われた。一の手は桑原輪中(岐阜県羽島市)から神明津輪中(愛知県稲沢市祖父江町)までで、木曽川と長良川を繋ぐ逆川(岐阜県羽島市)に木曽川から長良川への流入を阻む洗堰を設け、木曽川に猿尾堤を築く工事を含んだ。二の手は森津輪中(愛知県弥富市)から田代輪中(三重県桑名郡木曽岬町)を工区とし、筏川の開削と浚渫が行われた。三の手はが奉行となり墨俣輪中(岐阜県大垣市)から本阿弥輪中(岐阜県海津市)を担当として、長良川と揖斐川を繋ぐ大榑川に洗堰を設けて長良川から揖斐川への流入を抑える工事を含む。四の手金廻輪中(岐阜県海津市)から長島輪中(三重県桑名市)に至る地域を含み、木曽川と揖斐川の合流地点に食違堤(食違堰)を設けて木曽川から揖斐川への流入を抑えることを狙った。当初の計画では五の手も工事が行われる予定であったが、これは実施されなかった。
幕府側の役人としては一の手に石野三次郎と西高木家の高木新兵衛、二の手は大久保荒之助と美濃郡代青木次郎九郎、三の手淺野左膳と東高木家の高木内膳、四の手には新美又四郎と北高木家の高木玄蕃が配され、御普請見廻に吉田久左衛門がついた。
通説においては、幕府側が薩摩藩に対して普請情報を秘匿する、村役人が普請役人を饗応する際には一汁一菜と規制し、さらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示するなど、薩摩藩に対して意図的な冷遇策を取っていたとされる[8]。しかし、薩摩藩から普請情報提供を求められた西高木家は、一旦は非公開が原則であるとしてこれを拒絶したものの、工事に支障が出るためとして情報の公開に応じている。当時幕府は普請の元請けにかかる金額などは諸大名に情報提供を行わないことを原則としていたが、実際には大名側に筒抜けになっており、幕府側もそれを承知していた。東高木家は薩摩藩が情報を知らなかったことを「正直一偏而働キ無之(正直一辺倒で努力をしていない)」と酷評している。また、当時は普請役人の接遇においては、村方に一汁一菜のお触れを出すことは珍しいことではなかった。
工事においては人足は幕府が出し、その賃金は薩摩藩が支払うという形となった。また木材については幕府が負担している。幕府は薩摩藩に対し、流域の村に人足を出させ、それに賃金を支払う村請による工事を命じた。薩摩藩はこれは費用がかかりすぎるため、直接町人を雇用する町請を取りたいと申請した。しかし幕府は賃金を支払えば村の人々に対する援助となり、自らが住む村の工事となれば計画以上のものができるとして、村請で行うように命じた。幕府は役人を除いた小奉行30人、徒士100人、足軽200人の合計330人を提示したが、実際に薩摩藩が工事開始時点で派遣したのは小奉行32人、徒士164人、足軽231人の合計427人であった。
工事の負担金額については事前に以下のような負担割合が計画されていた。
経緯
宝暦3年12月25日(1754年)、幕府より薩摩藩に対し、木曽川三川工事への助役が命じられた。当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した[要出典]。薩摩藩主島津重年は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日に幕府へ送った。
同年1月29日に総奉行・平田靱負、1月30日に副奉行・伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発した。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。
同年2月16日に大坂に到着した平田はその後も大坂に残り、工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し、同年閏2月9日に美濃大牧(岐阜県養老郡養老町)に入った。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い、着工した。雪解け水によって水流が増す時期を避けるため、5月22日には第一期工事が終了した。第二期工事は9月21日に始まり、翌宝暦5年(1755年)3月28日に終わった。
犠牲者
平田は国元への書状で徒士48人、足軽44人が不足しているとして派遣の要請を行っている。また江戸藩邸には徒士30人、足軽40人の派遣を要請している。このように薩摩藩の現場では大きな人手不足の状態となっていた。
1754年(宝暦4年)8月、薩摩工事方に赤痢が流行した。8月25日付の薩摩藩士佐久間源太夫による幕府への報告書では、半数近くが病気となっており、数十名の死者が出たという。このため佐久間は、鹿児島から増援を送るよう求めている。同時期には江戸でも病気が流行しており、薩摩藩の『清水盛富年代記』では、江戸屋敷だけで200人の病死者が出たとしている。
工事が行われた地域の口承では薩摩藩士に多くの自害者が出たとされており、明治時代以降に検証活動を通して広まったことで通説となっている。『岐阜県治水史』によれば、1754年(宝暦4年)4月14日、薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、それに対する抗議の自害であったとされる。『岐阜県治水史』は第二期工事中に36名の自害者の名・戒名・命日を記しているが、詳細は全て不明であるとしている。また工事全体では54名の自害者が出、うち薩摩藩関係者は52名としている。1900年に建立された『宝暦治水之碑』では合計49人の切腹者と、32人の病死者が出たとしている。『岐阜県治水史』においては33名の病死者のうち32名が薩摩藩関係者、1人は町人であったとしている。
薩摩藩以外では高木新兵衛家臣の内藤十左衛門と、幕府小人目付竹中伝六が自害している。内藤は地元の庄屋が指示に従わず、不備が指摘されたために主君への累を及ぼさないため切腹したとしている。さらに人柱として1名が殺害された[要出典]。
工事の終結
1755年(宝暦5年)3月28日の第二期工事終了後、4月16日から5月22日にかけて幕府目付による検分が行われた[13]。5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。その翌日の5月25日早朝、美濃大牧の本小屋(大巻薩摩工事役館跡)で平田は死亡した。『岐阜県治水史』をはじめとする通説においては、平田は多くの自害者と病死者を出したことと、膨大な工事費を費やしたことを藩主に謝罪するために切腹したとされるが、島津家で編纂された史料においては病死とされる。辞世の句は「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」であったとされる。5月26日には副奉行の伊集院が江戸に向かい、到着後幕府に報告した。幕府からは工事の終了を祝って関係者に報賞が出された。
支出
『宝暦治水薩摩義士参考文書 全』に引用されている「重年公御譜中(本文)」には、薩摩藩江戸藩邸は30万両の費用が必要であると見積もっていたことが記されている。これをうけて平田靱負は治水資金の調達のため、大坂において銀師合計22万298両の借金を行い、不足分は国産品の売上や藩士からの拠出でまかなったことが記されている。薩摩藩の負債は宝暦3年(1753年)の時点で67万両であったが、治水からおよそ50年後の享和元年(1801年)には117万両となっており、薩摩藩が膨大な借財を抱える一因となったという評価もある。
実際に薩摩藩が支出した額を記した史料は残っておらず、薩摩藩が負担した治水費用の正確な額は不明である。明治の大改修時に岐阜県知事をつとめた野村政明が「歴史地理」第16号において、薩摩藩が二十余年かけて元利合わせて270万両の償還を行ったと述べたように、260万両を超える膨大な金額であるという話や、平田が借りようとした金額は30万両であったが、利子7万両が差し引かれたなどという俗説も広まっていた。昭和2年(1927年)、川村俊秀は『薩藩と宝暦之治水 上』において平田の借金は当初の額から22万両であったことを立証した上で、藩士からの拠出金や特産品の売却によって得た金額についての推定を行っている。この中で川村は薩摩藩の人口などを基準に計算を行い、どれだけ集めても12万両程度であるとして、「此の点よりしても藩が当時十五万両の金を其民力に集め得たものとは到底認められないのである」と記した。『岐阜県治水史』の編纂者の一人である伊藤信は昭和29年(1954年)の『宝暦治水と薩摩藩士』において川村の計算式を引用し、「(藩士の拠出や特産品売上は)十五万両には達せないのである」とはしたものの、その後の文章では15万両と大坂での借金22万両を合計して「薩藩が実際治水費に投ぜし昔(当)年の現金総額は(中略)実に四十万両に近い金である。」として、40万両が薩摩藩負担費用であるとした。この40万両という記述は『岐阜県史』などに置いても踏襲され、薩摩藩が支払った費用は約40万両というのが通説化している。
実際の工事では工事が進んでいた場所が水害に見舞われ、工事済みの部分が破壊されることもあった。当時の工事は実際の河川の流れにどのように影響するかを観察し、段階的に工事を進める、見試し工法によって工事が進められたため、工事の設計が途中で変更されることがしばしばあり、当初予想されたよりも多額の費用が必要となることもあった。一例では、大榑川洗堰工事においては第一期工事後に当初の設計よりも規模を小さくする変更が行われているが、工事中断中に堰場が削れてしまい、水中埋め籠で補修することとなった。洗堰の予算は3946両が見込まれていたが、実際には4988両の費用を要することとなった。
幕府側の支出は工事後に作成された勘定帳によれば、一の手は材木1928本・金2398両、二の手は金877両、三の手は材木1040本・金2186両、四の手は材木41本・金4370両であった。
その後
薩摩藩では治水事業が終了した後も管理のために現地に代官を派遣したが、後に彼らは尾張藩に組み込まれている。また高木三家は水行奉行として河川管理を継続した。
宝暦治水は大きな成果を上げ、下流地域は300か村に渡って水害が減少することとなった[32]。この縁から、後述するように鹿児島県と友好を結ぶ都市が多く現れた。 しかし必ずしも成功ばかりだったわけではなく、水学や工学が未熟であったことから来る誤設計や中途決壊、それに伴う怨嗟の声があったのも事実である。一例として、大榑川洗堰は竣工直後の5月29日の出水により破損し、近隣の農村に大きな被害を出した[32]。宝暦7年(1757年)には地元百姓の手によって堰を補修する許可が出され、翌年に完成している。
宝暦9年(1759年)には土砂流入に悩まされた揖斐川流域の住民が、見試しのために不完全な締切となっていた油島の完全な締切工事を求めて提訴し、一方で木曽川沿いの98か村は締切が水害の原因となるとしてこれに反対している。また長良川中・上流域においては洪水が増加するという問題を残した。1900年頃の名森村村長はこの治水によって名森の周辺である森部輪中が大変な被害を受けたと述べており、この地域には宝暦治水に対する否定的な評価があったことが知られる。これは完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促したためと指摘されている。下流域に置いても日常的に悪水が溜まるなど、良好な状態とは言えなかった。また堤防は水害のたびに決壊したが、対症療法として修築が行われるにとどまった。天明4年(1784年)には、長良川流域の81ヶ村が、大榑川洗堰の撤去を求め、200ヶ村を巻き込む大争論が起こっている。
御手伝普請はその後も続けられ、薩摩藩は文化13年(1816年)と文久元年(1861年)に御手伝普請に参加している。
明治維新後に高木三家による河川管理が終了したこともあり、笠松県権知事長谷部恕連は抜本的な河川対策を新政府に求めた。明治10年(1877年)に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事が開始され、明治33年(1900年)に竣工した。
宝暦治水の顕彰
水害が頻発した1880~90年代より、多度村(現桑名市)の豪農西田喜兵衛による薩摩義士顕彰運動が盛んとなった。明治23年(1890年)に発刊された『治水雑誌』創刊号では宝暦治水が大きく取り上げられ、宝暦治水で薩摩藩士に多くの自害者が出、平田も切腹したという見方が広まった。平田が切腹したと明記された「宝暦治水之碑」は西田によって建立されたものである。明治33年(1900年)には木曽三川分流工事の竣工式が行われ内閣総理大臣山縣有朋、大蔵大臣松方正義らが参列した。竣工式に続いては「宝暦年度以降治水上ノ功績顕著ナル死歿者招魂祭」が「宝暦治水之碑」の前で行われ、山縣・松方・西田、そして旧薩摩藩主島津忠義の代理川村純義が祝詞を読んだ。岐阜県の社会教育活動家岩田徳義も検証活動に力を入れた人物であり、死亡した薩摩藩士を「薩摩義士」と名付けた。
岩田の働きかけもあり、大正5年12月(1916年)には平田に従五位を追贈された。大正15年(1926年)には池辺村村長山田貞策らが「薩摩義士顕彰会」を設立し、薩摩義士の事績を教科書に掲載するよう請願する、大牧役館跡に「平田終焉地記念碑」建立、「薩摩義士の墓」の発見などの活動を行った。昭和5年(1938年)には「薩摩堰遺跡記念碑」が建立された。
昭和13年(1938年)には、平田靱負ら85名の薩摩藩士殉職者を「祭神」として顕彰するために「治水神社」(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立された。神社名の石碑は薩摩藩出身の東郷平八郎が揮毫した。
この顕彰活動においては薩摩義士の功績は「赤穂義士以上である」などと強調される傾向になり、また幕府と薩摩藩の対立がより強調されるようになった。こうした書籍には「傲慢ナル意地悪キ幕府刻吏ノ頤使命令」や 「幕吏ノ検査峻刻」などの表現が盛り込まれていることもある。
昭和43年(1968年)には新たな岐阜県薩摩義士顕彰会が発足した。昭和55年(1980年)には「薩摩堰遺跡記念碑」の地に、輪之内町の寺に眠る薩摩義士8名を祭神とした薩摩堰治水神社が建立された。 平成24年(2012年)には中学校教科書に採用されている。
鹿児島県における顕彰活動
一方の鹿児島県では大正9年(1920年)の薩摩義士記念碑建立まで、「薩摩義士」についてはほとんど知られていなかったという。明治34年(1901年)に花田仲之助によって設立された報徳会は、教育勅語を主体とする教化組織であり、明治44年(1911年)には鹿児島県下に219の組織を持つ巨大な組織となっていた。大正6年(1917年)、岩田徳義は報徳会において「薩摩義士」の事績について講演を行い、この席で薩摩義士顕彰会の設立と義士記念碑の建立、毎年祭典を行うことなどが取り決められた。大正10年(1921年)には顕彰会の事業が鹿児島県教育会に移管され、小学校などの教育にも「薩摩義士」が取り入れられるようになった。大正14年(1925年)には宝暦治水薩摩義士常夜燈、昭和13年(1938年)には平田靱負銅像が建立されている。
昭和30年(1955年)には薩摩義士遺徳顕彰会が設立され、昭和36年(1961年)には新たな鹿児島県薩摩義士顕彰会が発足した[40]。 平成6年(1994年)には薩摩義士顕彰会が『薩摩義士』の刊行を開始した。
研究史
同時代、もしくは江戸時代中に記録された宝暦治水に付いての史料は『蒼海記』、『宝暦治水御用状留』、「尾濃勢州川通御普請御用雑録」「濃尾勢州川通御手伝御普請御用中御状留」「両代官御連名之御状留」などの『高木家文書』所収の文書が知られる。ただし、この文書には高木家家臣内藤十右衛門の自害については記録されているが、薩摩藩士の死については触れられていない。
宝暦治水で薩摩藩士に多くの死者が出たことは同時代史料からも明らかであるが、死因が病死や事故死ではなく自害であるという説が広まったのは、明治23年(1890年)に発行された『治水雑誌』創刊号によるものである。『治水雑誌』においては、薩摩藩士の切腹は「口碑(伝承)」によって伝わっていたとされる。治水雑誌の発起人西村捨三や顕彰活動に従事した西田喜兵衛なども調査を行ったが、自害を裏付ける文献は見つからなかった。一方の薩摩藩の公式記録でも平田を始めとした薩摩藩士の死因に関する文書は過去帳などを除いてほとんどなく、切腹を裏付ける同時代文書は存在していない。
平田靱負についても薩摩藩の史料は宝暦4年から病気であり、吐血して病死し、山城国伏見の大黒寺に葬られたとしている。『治水雑誌』創刊号発刊の時点では平田は自害したとはされておらず、その際の調査でも墓碑は発見されていなかったが、「宝暦治水之碑」においては平田が割腹したとされた。西田喜兵衛は明治40年(1907年)の『濃尾勢三大川宝暦治水誌 上』において、海蔵寺の末寺安龍院に平田靱負の墓があるとしているが[50]、『治水雑誌』創刊号の時点では安龍院には名前不明の「平田」という人物が葬られたとされており、戒名も平田靱負のものとは異なっている。
西田喜兵衛らが切腹者の特定に用いたのは墓地のあった寺の報告である。寺側は墓碑銘に「薩摩国」とあることと「宝暦四年」に没したことを根拠に治水関係者と断定し、また切腹による死であると認定していた。
戦前に編纂が開始され、1953年に出版された『岐阜県治水史』は初めて複数の一次史料を分析し、木曽三川地域治水史の変遷と問題点を指摘したものであり、現在の治水史研究の基礎となった。一方で『岐阜県治水史』は薩摩義士顕彰活動の文脈に依拠して幕府と薩摩藩の対立を強調し、幕府が薩摩藩に厳しい立場で臨んだという表現が小説的に描かれ、薩摩藩士が抗議の切腹を行ったことが記されている。ただし「薩摩義士」の切腹日や姓名はあるものの、「これ等の人々個々の屠腹原因事情等については、今日これを明らかにし得ないのは、洵に遺憾に堪えない」と詳細が不明であると述べられている。『高木家文書』には高木家家臣内藤十左衛門の切腹が記載されているが、『岐阜県治水史』ではこれを「暗夜に一道の光明」として、薩摩藩士が切腹したことの傍証であるとしている。このような「薩摩義士」観・宝暦治水観は『岐阜県史』などにも受け継がれ、木曽三川流域地域で共有・再生産が行われている。
2000年代頃からは宝暦治水の評価や、薩摩藩士自害者の存在、幕府と薩摩藩の対立であるといった構図を前提とする通説に対して疑問を示す研究も行われている。通説では幕府と薩摩藩の対立関係を強調する事が多いが、徳川吉宗時代から徳川将軍家と薩摩藩主島津氏は度重なる血縁関係で結ばれるなど、他の外様大名よりも優遇された存在であった。
影響
宝暦治水が縁による姉妹県盟約
岐阜県と旧薩摩藩の大部分を継承する鹿児島県は、1971年(昭和46年)7月27日に姉妹県盟約を締結しており、両県は、県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。2007年(平成19年)より岐阜県では他県への教職員派遣を止めることにしたが、鹿児島県のみ継続している。鹿児島県で発生した平成5年8月豪雨の際は、岐阜県より復旧支援の土木専門職員が派遣され支援にあたった。 1991年(平成3年)に岐阜県と鹿児島県の姉妹県盟約20周年を記念して鹿児島県木のカイコウズが岐阜県道56号線沿道に植栽され、「薩摩カイコウズ街道」の愛称が付されている。
宝暦治水が縁による姉妹都市
1963年(昭和38年)岐阜県大垣市と鹿児島県鹿児島市がフレンドリーシティ提携締結。 2011年(平成23年)には災害時相互応援協定を締結している。
1970年(昭和45年)岐阜県海津市と鹿児島県霧島市が友好提携を結んでいる。
関連作品
小説
杉本苑子『孤愁の岸』 上下、講談社文庫。 ISBN 4-06-131745-8、ISBN 4-06-131746-6
第48回直木賞受賞、舞台公演では平田靱負役を竹脇無我や古谷一行が演じた。
平田靱負、伊集院十蔵以外の登場人物は本作独自の名称に変更され、史実にはない設定が幾つかある。
岸武雄『千本松原』あかね書房。ISBN 4-251-06384-8。
豊田穣『恩讐の川面』新潮社、1984年。ISBN 4-10-315109-9。
漫画
みなもと太郎 『宝暦治水伝 波闘』
元々は河川環境管理財団からの依頼による描き下ろし漫画で、現在はマンガ図書館Zにて公開されている。のち『風雲児たち』のエピソードとして、潮出版社版では第30巻(最終巻)、リイド社版では3巻から4巻にかけて収録している。
平田弘史 『薩摩義士伝』
中島徳博 『霧の柩』(1978年)
アニメ映画
せんぼんまつばら 川と生きる少年たち - 岸武雄の小説『千本松原』を原作とするアニメ作品。
参考:『【過酷】岐阜の最南端から北へ縦断したら日本一の標高越えだった』富山の遊び場! TVチャンネル
田沼時代 1786~
御用金令の失敗を受けて、天明6年(1786年)、新たに構想されたのが貸金会所の設立である。これはある種の「政府系銀行」「国債」ともいえる先進的な試みであった。天明の大飢饉により資金繰りに困窮している諸大名への融資を行うため、諸国の寺社・山伏は、その規模などに応じて最高15両を、全国の百姓は持ち高100石につき銀25匁を、諸国の町人は所持する家屋敷の間口の広さ1間につき銀3匁を、この年から5年間毎年幕府に対して支払うように命令した。貸金会所を通じて年利7 %で大名に貸し出され、5年後以降7 %の貸付利息から事務手数料を引いた利息をつけて出資者に返済されるという仕組みである。ほぼ全国民に対する強制的な徴収である一方で、5年後に利息がついて返ってくる仕組みであり、現代にも通ずる先進的な試みではあったが、負担を求められる側にとってはたださらなる負担を強いられるだけにしか見えず、しかも天明の大飢饉の真っただ中での「増税」案ということもあって反発が大きかった。また借り手である大名の方も、確かに市中金利よりも低金利で借りられるメリットはあるが、原資は領民でもある百姓・町人から取り立てた金であり、幕府の「貸金会所」を通じて借りるということは藩の内情を幕府に知られてしまうことになる。この点で大名たちからも反発が大きく、結局発令の2ヵ月後には早くも関東の大水害などを理由に御用金令は撤回された。
『田沼意次』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1
江戸後期,11代将軍徳川家斉の初世,老中松平定信が担当した幕政の改革(1787〜93)
定信は田沼時代に続き天明の飢饉による幕政動揺に非常な決意をもって就任,享保の改革を理想に財政再建・農村復興をはかった。まず農民の出稼ぎを禁じ,社倉・義倉を設け,囲米 (かこいまい) を命じた。江戸では町費節約の七分金積立(七分積金),人足寄場の設立を実施。また倹約令・風俗矯正・出版統制などをきびしくした。武士には文武をすすめ,棄捐令 (きえんれい) で旗本・御家人の負債を整理,寛政異学の禁で朱子学の振興をはかった。さらにロシア船の接近に対し,海岸防備を主張する林子平を幕政批判で処分したが,みずから伊豆・相模などの巡視も行った。こうして幕政は緊張し財政面でも一時回復したが,その緊縮政策は将軍側近の反感をかい,1793年尊号一件を機に在職7年で引退。しかし,その後も改革の気運は19世紀初期まで継続した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 コトバンク『寛政の改革』
参考:『尊号一件』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E4%B8%80%E4%BB%B6
尊号一件(そんごういっけん)は閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する朝廷と江戸幕府との紛議事件。江戸時代後期の事件。尊号事件ともいう。
皇子がいない後桃園天皇が崩御したあと典仁親王の子・師仁(もろひと)のちに兼仁(ともひと)が天皇の養子になり即位して第119代・光格天皇になったので、父・典仁親王よりも位が上になった。しかも禁中並公家諸法度における親王の序列が摂関家よりも下であり、天皇の父が臣下である摂関家を目上としなければならないことに対しても天皇は不満を抱いた。だが、禁中並公家諸法度は江戸幕府にとっては初代将軍・徳川家康が定めた祖法であり、その改正は幕府の威厳を傷つけるものとして拒絶してくることは目に見えて明らかであった。そこで光格天皇は典仁親王に対して太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとした。
経過
1788年(天明8年)に公家の中山愛親らが幕府に通達すると、老中・松平定信は皇位についていない人間に皇号を贈るのは先例のない事態として反対する。朝廷では徳川時代以前の古例を持ち出し、朱子学を正当とする定信と対抗し、朝幕間の学問的論争に発展する。1791年(寛政3年)12月、天皇は「群議」を開き、参議以上40名の公卿のうち35名の賛意を得て尊号宣下の強行を決定する。
収束
この事態を憂慮したのは、前関白で典仁親王の実弟(天皇からみて叔父)でもある鷹司輔平であった。輔平はこのままでは朝廷と幕府の全面対決を招いて典仁親王の身にも危険が及ぶと考え、定信に事の次第を告げて尊号を断念させる代わりに、典仁親王の待遇改善を求めた。定信は大政委任論を根拠に天皇に代わって幕府が公家を処分できると主張して中山愛親・正親町公明らの公家に処分を下し、また九州で活動していた勤皇家の高山彦九郎を処罰した。勤皇派の水戸徳川家が定信に賛成すると、輔平と後桜町上皇の説得を受けて天皇も渋々尊号一件から手を引いた。定信も典仁親王に1,000石の加増をする等の待遇改善策を行うことで尊号の代償とした。
だが「皇位についていない人間に皇号を贈る例」は後高倉院や後崇光院という先例が存在している。むろん碩学の定信も承知のことであり、これについては「承久の乱や正平の一統(南北朝の戦い)という非常事態が生んだ産物で、太平の世に挙げる先例ではない」と述べている。定信は寛政の改革によって幕藩体制の再建を進めていく中で、その思想的根幹である朱子学を保護して「寛政異学の禁」や「処士横議の禁」を打ち出していた。朱子学は儒教の中でも大義名分や主君への「忠」、「君臣の別」を重んじる学派であり、特に日本では本来儒教が徳目として最も重んじていた「孝」以上に重要視された。この問題は言うなれば「忠」と「孝」の衝突であり、陽明学や古学、尊王論などの反朱子学的な(反幕藩体制につながりかねない)動きを抑圧するために強硬策を採ったことも考えられるのである。
また、同時期に11代将軍・徳川家斉は、実父の一橋治済に対して「大御所」の尊号を贈ろうとしていたが、定信は朝廷に対して尊号を拒否している手前、将軍に対しても同様に拒否をせざるをえなくなった。定信にとって治済は、御三卿のひとりとして将軍位を狙える立場にあった自分を、白河藩へと放逐した政敵であり、治済が大御所として権力を掌握することに危機感を抱いていた。定信としては治済の大御所就任を阻止するためにも、典仁親王への太上天皇宣下を拒否すべき立場であった。しかしこれにより家斉の不興を買った定信は、後に失脚することとなる。
更に天明の京都大火後の内裏再建の際に、財政問題などを理由とする定信の反対論を押し切る形で朝廷が古式に則った内裏再建を行い、結果として幕府が莫大な出費をすることになったことも、定信の朝廷に対する不信感を強める一因になったと言われている。
その後
尊号一件については、早くから勅使として江戸に下った中山愛親が江戸城の家斉の前で堂々たる抗議をしたという伝説が生まれ、『反汗秘録』『中山東下記』『中山伝記』といった小説が密かに書かれている(共に事件よりあまり隔たらない時期の成立と見られる)。寛政異学の禁などで思想統制を行った定信だが、庶民の間での風聞には無関心であり、これについては何ら統制を行わなかった。庶民に対しても厳しい倹約策を行った定信が失脚すると、中山の伝説は定信失脚のきっかけと捉えられてますますこの風潮が強まった。こうした小説には荒唐無稽な記述が含まれるものの、当時の朝廷や幕府の内情を取材したと思われる記述も含まれ、中には皇統や朝幕関係の歴史から話を始めるものや、鷹司輔平や松平信明(定信の後任の老中首座)を糾弾するもの、定信と対立するという風説のあった岡山藩主池田治政を登場させたり、水戸徳川家の勤皇ぶりが強調されたりしたものなど、当時の朝廷や幕府の実情を取り入れながら様々な展開が行われている。田中暁龍によれば、こうした書物は同名の異本を含めると103種類の作品が現存している。
定信の失脚後も尊号の件は認めなかったものの、光格天皇の姪にあたる閑院宮家の宣子女王を天皇の猶子にする件や禁裏(譲位後は院御所)から閑院宮家に経済支援を行う件に関しては、幕府は条件を付けながらも基本的には光格天皇(上皇)の意向をほぼ認めており、天皇も譲位直前に家斉に対して御衣とともに幕府が多くの神事や公事の再建に協力してくれたことを感謝する書状を送っている(『山科忠言卿伝奏記 四』文化14年(1817年)3月15日条)など、光格天皇と江戸幕府の関係は良好なものであったという。
典仁親王は明治天皇の直接の祖先にあたる(明治天皇は典仁親王の玄孫)ということで、1884年(明治17年)3月に慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られている。また中山愛親にも同年従一位が贈られている(明治天皇の生母・中山慶子は愛親の玄孫であるため、天皇は愛親の来孫にあたる)。
↑棄捐令、寛政異学の禁などをおさえること
幕府が旗本や御家人の生活難を救うために出した借金の帳消し令。
寛政元年(1789年)に、時の老中松平定信が寛政の改革の一環として発令したのが最初であり、「天明4年(1784年)以前の借金は債務免除とし、それ以後のものは利子を下げ(これまでの年利18パーセントから3分の1の6パーセントに)、永年賦(長期年賦)を申し付ける」という法令である。さらに以後の法定利率は、年利1割2分(12パーセント)にするとした。
発布前に幕府が札差の経営状態を調査してみると札差97件のうち完全に自己資金で経営しているものは7件に過ぎず、全体の七割強が他所から資金を調達して経営していたことがわかった。このまま借金の棒引きをすると、札差が多額の金銭的損害を被り経営困難に陥り、恨みを買って旗本への再融資を拒否してしまう。それでは却って融資の道を絶たれた旗本・御家人達が更なる貧窮に陥る事態の繰り返しになってしまうことを松平定信ら幕府方が危惧した。
そこで勘定奉行久世広民は、幕府の公金5万両の貸下げや、札差業の資金貸付機関となる猿屋町会所の設立を定信に提案した。猿屋町会所は江戸・京都・大坂の有力豪商らから資金を募って経営状態の良い有力な札差に会所を運営させて経営困難となった札差に年利一割の低利で貸し付けるというものであった。
参考:『棄捐令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%84%E6%8D%90%E4%BB%A4
1843年に水野忠邦も棄捐令を出したが、札差たちが貸し出しを制限したので旗本の生活はかえってくるしくなった。
参考:『国学』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6
国学(こくがく、正字: 國學)は、日本の江戸時代中期に勃興した学問である。蘭学と並んで江戸時代を代表する学問の一つで、別名に和学、皇朝学、古学などがある。皇学の基部学問でもある。その扱う範囲は幅広く、国語学、国文学、歌道、歴史学、地理学、有職故実、神学などに及び、学問に対する態度もまた学者それぞれに異なる。
概要
それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の文化、思想、精神世界(道)を明らかにしようとする学問である。江戸時代中期、元禄の頃に契沖が創始したとされるが、後述のように、その源流は江戸時代の初期から既に現れ始めていた。なお「国学」の語が使われるようになったのは、契沖を学んだ荷田春満の頃からで、今日のように定着したのは、明治以降のことである。
国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎の古義学や荻生徂徠の古文辞学の方法論から多大な影響を受けている。国学は、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。
契沖以後の国学は、古代日本人の精神性である「古道」を解明していく流れと、実証により古典の文献考証を行う流れとに分かれて発展することとなる。
古道説は賀茂真淵、本居宣長により、儒学に対抗する思想の体系として確立されていき、主に町人や地主層の支持を集めた。この古道説の流れは、江戸時代後期の平田篤胤に至って、復古神道が提唱されるなど宗教色を強めていき、やがて復古思想の大成から尊王思想に発展していくこととなった。
実証主義的な国学者としては、塙保己一、伴信友が知られる。
歴史
歌学としての国学の誕生
国学の源流は、木下勝俊、戸田茂睡らによって、江戸時代に形骸化した中世歌学を批判する形で現れた。そうした批判は、下河辺長流、契沖の『万葉集』研究に引き継がれ、特に契沖の実証主義的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めたことで高く評価された。彼らの『万葉集』研究は、水戸学の祖である徳川光圀が物心両面で支えた。水戸の『大日本史』編纂と国学は深い関連を持っている。
やがて伏見稲荷の神官であった荷田春満が、神道や古典から古き日本の姿を追求しようとする「古道論」を唱えた。春満の弟子の賀茂真淵は、一部において矛盾すら含んだ契沖と春満の国学を体系化し、学問として完成させた。真淵は儒教的な考えを否定して、古い時代の日本人の精神が含まれていると考えた『万葉集』の研究に生涯を捧げた。
復古思想への流れ
荻生徂徠は「聖人の道」を明らかにすることを目的として、儒教の経書を実証的に読み込む古文辞学を創始していた。また、大坂の懐徳堂で朱子学を学びながら「加上」という古学的な方法論により無鬼論(無神論)に至り、儒仏神道全てを批判した富永仲基がいた。真淵の門人である本居宣長は『源氏物語』を研究して「もののあはれ」の文学論を唱える一方で、徂徠や仲基の影響により『古事記』の実証的な研究を行い、上代の日本人は神と繋がっていたと主張して『古事記伝』を完成させた。この時点で国学は既に大成の域にあった。
その後「宣長没後の門人」を自称する平田篤胤は、宣長の「古道論」を神道の新たな教説である「復古神道」に発展させた。篤胤の思想は地方の農村へ広がり、平田派国学者の中には生田万のような反乱を起こすものや、尊皇攘夷志士として活動するものも現れた。
対外膨張の思想の流れ
宣長は寛政2年(1796年)に『馭戒慨言』を刊行した。中野等によれば、この書名は「中国、朝鮮を西方の野蛮(戎)とみなし、これを万国に照臨する天照大御神の生国である我が国が「馭めならす」、すなわち統御すべきものとの立場による」という。内容も「日本中心主義と尊内外卑に立って」外交交渉の歴史を解説している。宣長の執筆意図は「漢意の排斥」が目的であり、実際の外交を論じたものではなかったという見方もあるが、宣長の没後に欧米による異国船の来航が始まったことで、『馭戎慨言』は「現実の外交を論じたもの」として解釈される。幕末期に大国隆正は『馭戎問答』、平田延胤は『馭戎論』を著しており、こうした平田派の国学者によって「宣長の代表作」に挙げられた。また時代が昭和に入ると、『馭戎慨言』は「大東亜共栄圏に臨むにあたって必読すべき書」として利用されている。
篤胤の弟子であった経世家の佐藤信淵は『宇内混同秘策』において「凡ソ他邦ヲ經略スルノ法ハ弱クシテ取リ易キ処ヨリ始ルヲ道トス今ニ當テ世界萬國ノ中ニ於テ皇國ヨリシテ攻取リ易キ土地ハ支那國ノ滿州ヨリ取リ易キハナシ」と述べ、出雲松江や長州萩、博多から朝鮮半島を攻撃するという具体案を提示している。さらに「武力によって満洲、支那、台湾、フィリピンを攻め、南京に皇居を移し、全世界を全て皇国の郡県となす」と世界制覇を夢想している。
吉田松陰は「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき」「国力を養ひて取り易き朝鮮、支那、満洲を斬り従えん」と獄中から弟子たちに書き送り、これを弟子の桂小五郎が具体化して征韓論を唱えた。しかし、松陰が国学の思想に影響を受けているのは事実であるが、学問の根本は儒学に依拠しているため、「代表的人物として取り上げるのは不適切」とする意見もある。
実証による文献考証の流れ
一方、盲目の学者であり、水戸の『大日本史』編纂にも携わった塙保己一は和学講談所を設立し、国史の講義と史料編纂に従事し、国学のもうひとつの、実証主義的な流れを発展させていく。『群書類従』は、古資料を集成し編・刊行したものである。宣長の古典の考証的研究を継承して、近世考証学派の大家となった伴信友も『比古婆衣』を著した。
篤胤によって復古神道が大成されたころも、真淵の門人であった村田春海らのように、契沖以来の実証主義的な古典研究を重視する立場から平田国学に否定的な学派があり、ひとくちに国学といっても、その内情は複雑であった。
思想戦での敗北
実証主義的な国学は、明治期の小中村清矩らの手によって、近代以降の国文学の研究や国語学(山田孝雄)、さらには民俗学(新国学)の基礎となった。一方で近代の廃仏毀釈[19]、偽史や皇国史観に影響を与えた。椿井文書偽作説を研究した馬部隆弘は「国学というのは妄想する学問」「椿井政隆もそうですが、当時歴史を学んだ国学者って、レゴブロックで町を作るようなイメージで、そういう空想をやってるんです。本居宣長だって空想の城下町を作ったりしてますから。」と評している。
第二次世界大戦期にかけて国学は教科書に盛んに取り上げられたが、戦後は一転してGHQのもと削除の対象となった。戦後の脱国学化した日本史の中心的人物となった津田左右吉は戦後、「神道や国学やまたは儒教の思想をうけつぎ、それを固執するものがあって、こういう研究(※古典・皇室研究)に反対し、時には官憲を動かしてそれを抑制しようとした」「根本的には、日本人の文化の程度が低く教養が足らず、特に批判的な精神を欠いていて、事物の真実を究めまたそれによって国民の思想と行動とをその上に立たせようとする学問の本質と価値とを理解するに至らないためであった」としている。一方戦中イデオロギーによる国学は「国学的なるもの」であり、国学そのものとは似て非なるものであったという見方もある。
主な国学者
契沖
荷田春満
賀茂真淵
本居宣長
平田篤胤
契沖、真淵、宣長は「国学の三哲」とされる。「国学史上の最重要人物」として掲げられるが、これは文芸を中心とした実証研究方法に注目する立場を反映したものである。
春満、真淵、宣長、篤胤は「国学の四大人」とされる。同じく「国学史上の最重要人物」として掲げられるが、これは大国隆正が『学統弁論』で定めたことに始まるもので、国学の思想的主張を重視する立場を反映したものである。なお、「四大人」は「したいじん」「しうし」「ようし」「よはしらのうし」と読まれる。
参考:『復古神道』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E9%81%93
復古神道(ふっこしんとう)は、江戸時代に国学者たちによって提唱された神道。「古神道」、「古道」、「皇学」、「本教」などともいう。天之御中主神を最高位の究極神とする。
概要
復古神道の教義は多種多様だが、概ね共通しているのは「儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろう」という思想である。神々の意志をそのまま体現する「惟神(かんながら)の道」が重視された。
復古神道は、江戸時代初期に生まれた垂加神道と同じく、時代を大きく動かしていったが、国学者たちによって、より学問的な立場でつきつめられていった神道といえる。賀茂真淵や本居宣長らの国学者がまず古道説を唱えて体系づけ、平田篤胤や本田親徳らが、儒教や仏教を強く排斥して日本古来の純粋な信仰を尊ぶ「復古神道」を大成し、発展させていった。都市部の町人のみならず全国の農村の庄屋・地主層を通じて農民にも支持され、やがては幕末の志士たちにも大きな影響を与え、明治維新の尊王攘夷運動のイデオロギーに取り入れられることとなった。
復古神道では、多くの流派で「言霊」や「数霊」を使って『古事記』や『日本書紀』を読み解くことも行われた。十言の神咒(とごとのかじり)、三種の祓い(みくさのはらい)など多くの行法が取り入れられたり復興されたりした。禊行も重要視される。また傍流としてではあるが折符も発達した。現在、神社などで使われている行法も、実はこの復古神道の流れから発達したものが少なくない。
現時点で宗教団体として活動している流派の中には「我々は復古神道の流派ではあるが、平田派国学と何の接点もない」という趣旨を主張しているものがあるが、教義上そういう建前になっているにすぎず、歴史的には平田派国学の影響を免れるものではない。
歴史
6世紀の仏教伝来以来、日本では神道と仏教は、併存と対立を繰り返してきたが、大化の改新以後は平和的な併存に定まった。平安時代に天台・真言の二宗が確立すると、神仏は単なる併存でなく、混ざり合う神仏習合が始まった。神道は「古道」とも称され、仏教やキリスト教のように戒律や教義を説く教典がなく、素朴な精霊信仰の形態を維持し続けている数少ない宗教のひとつであり、「神道神学」が形成されにくいものであった。このため、神仏習合は、結果的にはその教理面では仏教理論によって古来の神々を説明するような事態になっていった。
江戸時代に賀茂真淵は『国意考』などで古道の存在を訴え、その薫陶を得た本居宣長は大著『古事記伝』を完成し、その巻1にある「直毘霊(なおびのみたま)」で、記紀からみいだされた「神の道」を示して、日本固有の神道の復活を目指す復古神道の成立に大いなる貢献をなした。
平田篤胤は本居宣長の書に啓発され、古代史を明らかにし、皇道の正当性を天下に示すなど、復古神道の形成に大きな役割を果たした。また、幽冥界・霊魂など、霊界に関わる研究で著名な成果をあげ、法華宗や密教、キリスト教、道教などの他宗教を参照した「平田派国学」を大成させた。この平田派国学の流れから後に、本田親徳、川面凡児その他の、「古神道系」宗教家が多く誕生してくる。
その後、明治になると、明治政府に入った平田派国学者らは、神仏分離と神道国教化を推進した。また、同じ明治の本田親徳や、本田の弟子の長沢雄楯、またその系譜に連なる出口王仁三郎らは、人間の心は根源神の分霊である「直霊」(なおひ)が「荒魂」、「和魂」、「奇魂」、「幸魂」の4つの魂を統御するという日本古来の「一霊四魂」説を体系化した。
◎契沖、真淵、宣長は「国学の三哲」とされる。「国学史上の最重要人物」として掲げられるが、これは文芸を中心とした実証研究方法に注目する立場を反映したものである。
◎春満、真淵、宣長、篤胤は「国学の四大人」とされる。同じく「国学史上の最重要人物」として掲げられるが、これは大国隆正が『学統弁論』で定めたことに始まるもので、国学の思想的主張を重視する立場を反映したものである。なお、「四大人」は「したいじん」「しうし」「ようし」「よはしらのうし」と読まれる。
(『国学』Wikipedia)
参考:『クナシリ・メナシの戦い』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
クナシリ・メナシの戦い(クナシリ・メナシのたたかい:国後・目梨の戦いと表記されることもある)は、1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌの蜂起。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」または「寛政蝦夷の乱」と呼ばれた。
概要
和人とアイヌの関わり
松前藩の『新羅之記録』には、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(現在の北海道目梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前でウィマム[注釈 1]し献上したとの記録がある。また、1644年(正保元年)に「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ、1715年(正徳5年)には、松前藩主は江戸幕府に対し「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。1731年(享保16年)には、国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている。1754年(宝暦4年)道東アイヌの領域の最東端では、松前藩家臣の知行地として国後島のほか択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。運上屋では住民の撫育政策としてオムシャなども行われた。1773年(安永2年)には商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、1788年(天明8年)には大規模な〆粕の製造を開始するとその労働力としてアイヌを雇うようになる。〆粕とは、魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主に鰊が原料とされるが、クナシリでは鮭、鱒が使用された。漁場の様子については北海道におけるニシン漁史も参照。
一方、アイヌの蜂起があった以前から、1643年にはオランダ東インド会社の探検船「カストリクム号」が択捉島と得撫島を発見、厚岸湾に寄港、北方からはロシアが北千島(占守郡や新知郡)即ち千島アイヌの領域まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島までの千島列島を最上徳内に踏査させていた。千島アイヌは北千島において抵抗するも、ロシア人に武力制圧された上で毛皮税などの重税を課され、経済的に苦しめられていた。一部の千島アイヌはロシアから逃れるために、道東アイヌの領域の得撫島や択捉島などに南下した。これら千島アイヌの報告によって日本側もロシアが北千島に侵出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた『赤蝦夷風説考』などが著された[1]。
アイヌの蜂起
1789年(寛政元年)、クナシリ惣乙名サンキチが、支配人から振る舞われた「暇乞(いとまごい)の酒」を飲んで死亡するに至ると、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、クナシリ惣乙名ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、またツキノエ、ノッカマップ(現在の根室市)のションコ、アッケシ(厚岸)のイコトイらアイヌの乙名たちも説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人71人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政3~4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の寛政4年のことである。
事件から10年を経た1799年(寛政11年)東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年(文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公儀御料となった。
蜂起の後
北見方面南部への和人(シサム・シャモ)の本格的な進出が始まったのはこの蜂起の後、江戸幕府が蝦夷地を公儀御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を緩和してからである。幕府はアイヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制も幕府直轄とした。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分改善された。しかし、これはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していた[1]。
幕末の1845年、1846年に知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した「知床日誌」によると、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったという。また、人妻は会所で番人達の妾にされ、男性は夫役のため離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる。
また、幕末に箱館奉行が種痘を行い対策を講じたものの、和人がもたらした天然痘などの感染症が猛威をふるい、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果文化4年(1804年)に2万3797人と把握された人口(江戸時代の日本の人口統計も参照)が、明治6年(1873年)には1万8630人に減ってしまった。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方全体で明治13年(1880年)に955人いたアイヌ人口は、明治24年(1891年)には381人にまで減った。
砂浜でみつかった墓碑
明治45年(1912年)5月、納沙布岬の近くの珸瑤瑁(ごようまい)の砂浜に埋まっている墓碑が発見された。表面に"横死七十一人之墓"、横面に"文化九年歳在壬申四月建之"、裏面には漢文で事件の経緯が刻まれていた。文化九年は西暦1812年である。墓碑は現在納沙布岬の傍らに建てられており、"寛政の蜂起和人殉難墓碑"の名称で根室市の指定史跡となっている。
ラクスマン(ロシア)が根室に来航し、通称を要求。
文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。
1641年以降、欧州諸国のなかでネーデルラント連邦共和国(のちのオランダ)のみが日本との通商を許され、長崎出島にオランダ東インド会社の商館が設置されていた。イギリスも江戸時代初期には平戸に商館を設置して対日貿易を行っていたが、オランダとの営業競争に敗れ経営不振のため1623年に長崎平戸の商館を閉館し、その後再開を試みるも江戸幕府に拒絶され続けていた(平戸のイギリス商館については、イギリス(平戸)商館参照のこと)。
18世紀末、フランス革命戦争が勃発すると、1793年にオランダはフランスに占領され、オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命した。オランダでは地元の革命派によるバタヴィア共和国が成立し、オランダ東インド会社は1798年に解散した。バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、フランス皇帝ナポレオンは1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべてフランス帝国の影響下に置かれることとなった。
イギリスは、亡命して来たウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の自国による接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。しかし、アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍の船を雇用して長崎と貿易を続けていた。
参考:『フェートン号事件』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
江戸幕府が1825年(文政8年)に発した外国船追放令である。無二念打払令(むにねんうちはらいれい)、外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)、文政の打払令(ぶんせいのうちはらいれい)とも言う。1842年(天保13年)に「薪水給与令(天保の薪水給与令)」が発令されると廃止された。
1808年10月(文化5年8月)に起きたフェートン号事件、1824年(文政7年)の大津浜事件と宝島事件を受けて発令されたと言われている。
参考:『異国船打払い令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E5%9B%BD%E8%88%B9%E6%89%93%E6%89%95%E4%BB%A4
シーボルト事件(シーボルトじけん)は、江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処罰された。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。
文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった[1])。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。
参考:『シーボルト事件』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
天保の大飢饉 1833
モリソン号事件 1837 アメリカ合衆国の商船「モリソン号」を日本の砲台が砲撃
江戸時代後期,天保年間 (1830~44) に行われた幕府,諸藩の政治改革。幕藩体制はこの時期に深刻な動揺をみせ,綱紀紊乱,財政の窮乏,武士の困窮,農村・都市生活の退廃など,多方面の政策転換を迫られていた。幕府は老中水野忠邦を首班として天保 12 (41) 年5月から改革に着手。享保,寛政の改革を目標とし,風俗矯正,質素倹約をはじめ生活全般にわたる統制を行い,農村人口を維持するため「人返し」政策をとった。また忠邦は株仲間を解散して物価の引下げをはかり,印旛沼 (いんばぬま) 開発 (→印旛沼干拓 ) などにも着手したが,大名や旗本の抵抗を受けた上知令 (→上知 ) によって失脚した。一方,西南雄藩の藩政改革は財政的な面で多くが成功し,明治維新の原動力となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『天保の改革』
倹約令、株仲間の解散などをチェック
清国・英国間でアヘン戦争 1842
平成30年(2018年)、2021年出題
*日米和親条約(日本國米利堅合衆國和親條約) 1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日本とアメリカ合衆国が締結した条約。神奈川条約(かながわじょうやく、英:Convention of Kanagawa)とも呼ぶ。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権はマシュー・ペリー。
この条約では「通商(貿易)は拒否するが、港は開く」として、アメリカに対し下田と箱館(現在の函館)の2港を開港し、200年あまり続いた鎖国は終わり日本は開国した。なお、日米間の通商(貿易)開始は、4年後に締結された日米修好通商条約からとなる。
1854年3月31日 - 日本特派大使[ペリーが署名
1854年7月15日 - アメリカ合衆国上院(アメリカ合衆国第33議会)が批准に助言と同意
1854年8月7日 - フランクリン・ピアース大統領が批准を裁可
1855年2月21日 - 下田で批准書を交換
1855年6月22日 - 大統領が条約締結権行使を宣言
*日米修好通商条約 安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。安政五カ国条約の一つ。
江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで互いの国の批准書が交換された。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。
アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無く、日本だけがアメリカに最恵国待遇を約束するなど、日本側に不利な不平等条約であるというのが定説となっている。日米修好通商条約は後に調印させられた改税約書で関税自主権を喪失し、低関税率に固定され、不平等条約となった。
公使の江戸駐在
領事の開港地駐在
横浜・長崎・新潟・兵庫・函館の開港(条約港の開設)
江戸・大坂(大阪)の開市
自由貿易、協定関税制、領事裁判権、外国人居留地の設定等に関する規定
*安政五か国条約 日米修好通商条約の後幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだが、日米条約では、関税率は日本側の希望のみで改訂可能であったが、日英条約では英国政府の希望でも税率を改訂可能なように変更されてしまった。さらに、日米修好通商条約の税率が他国にも適用されるはずであったが、日英条約では、イギリス側のごり押しにより、イギリスの主力輸出品目である綿製品と羊毛製品の税率が5%にされてしまった。こうして不平等条約への端緒が開かれた 。
*安政5年6月19日日米修好通商条約アメリカ合衆国
*安政5年7月10日日蘭修好通商条約オランダ
*安政5年7月11日日露修好通商条約ロシア帝国
*安政5年7月18日日英修好通商条約イギリス
*安政5年9月3日日仏修好通商条約フランス
問題となった点は主に以下の3点である。
領事裁判権の規定
関税自主権の欠如
片務的最恵国待遇(日露修好通商条約のみは双務的最恵国待遇)
これらの条約は、領事裁判権を認める、関税自主権がない、などといった不平等条約だった。
日本は外国人による土地所有を認めていなかったことから、外国人が日本国内に事業の拠点や住居などを構える際には奉行との間で土地の永代借地契約が結ばれることとなった。安政5年に通商条約締結先のアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に永代借地権の制度を設定、その後、相手国は明治4年までの間に16カ国にまで拡大した。永代借地権は地租の負担が免れるなど、外国人にとっては有利な制度であったことから、日本側は一般的な土地所有権に切り替えるよう尽力したが、1942年4月に解消されるまで85年の月日を必要とした。
(参考) 横浜中華街
、神奈川県横浜市中区山下町にある日本最大かつ東アジア最大の中華街で、約0.2平方キロメートルのエリア内に500店以上もの店舗があり、その時々の流行によって頻繁に入れ替わっている。前身である1866年(慶応2年)の横浜新田居留地時代から数えると150年強の歴史をもつ。
1955年以前は唐人町や南京町と呼ばれていた。華僑の出身地は広東省が比較的多いが、中国各地に分散している。上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には、当該地の出身者が多い。所在地である中区の中国人人口は6000人を超える。これは同区で登録されている外国人の約4割に当たる。
1859年(安政6年) 横浜開港。外国人居留地(行政自治権、治外法権)が造成され、欧米人と共に多数の中国人商人・取引仲介人(買弁)や外国人外交官の雇人が来往した。当初彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かった。その後すぐに横浜と上海、イギリスの植民地の香港の間に定期船航路が開設中国人貿易商も来住し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などを建てていった。これが横浜中華街の原型である。
初期の埋め立て地「横浜新田」の海岸線沿いに建てられたため、この地域のみ区画が約45°ずれている。この頃の商店は日用雑貨店、衣料品店、食料品店などの店が大半で、中華料理店は多くなかった。
1872年(明治5年)には、柳麺(lau min、ラウミン)の屋台が出始めていた。
1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国してしまう。
1899年(明治32年)戦争が終わり、条約改正により居留地が廃止されると、中国人は職業制限を受けたものの、居留地外にも住むことを許された。袁世凱に追われ大日本帝国に亡命した孫文もこの地で華僑にかくまわれながら革命活動を続けている。
ただしこの時期は単に外国人街であり、特に中華街というわけではない。
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災でこの地区は大打撃を受けて瓦礫と化した。欧米人の多くが帰国してしまったため、やや中国人中心の街へと変っていった。
1930年代には震災から完全に復興し、中国人を中心とした街として賑わいを見せた。
1932年(昭和7年)の『横浜市史稿・風俗偏』では南京町で先ず目に入るのは料理店であるとし、何々楼と称する料理店が20軒あまりに達したとしている。
1937年(昭和12年)7月7日に勃発した日中戦争で多くの華僑が帰国し、閉店した店も多い。
第二次世界大戦後の復興期に横浜港は賑わい、イギリスの植民地である香港との往来も復活した。横浜市街地は連合国軍の空襲により焦土と化し物資不足に見舞われていたが、横浜中華街は戦勝国である中華民国からの物資に恵まれ、1946年(昭和21年)2月20日の『神奈川新聞』によれば、中華街で営業していた飲食店は96軒であった。終戦直後は豊富な物資を背景とした、闇市街としての役割を果たしたが、徐々に物資が行き渡るようになり、数年で闇市としての役割は終了した 。それと引き換えに、山下公園周辺に駐留する連合国軍兵士や外国人船員が増加し、街も賑わいを見せた。
1950年代初頭 朝鮮戦争が休戦したことに伴い在日米軍基地も縮小され、人通りの少ない静かな町へと変貌した。街灯もない街に日本人は良いイメージを持たず、日本人が寄り付かない街となっていた。
1953年には、横浜市と横浜商工会議所が中心となり、「チャイナタウン復興計画」が策定された。1955年(昭和30年)には中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、牌楼(門)の上「中華街」と書かれたことで、それまでは南京町と呼ばれていたこの街が次第に「中華街」と呼ばれるようになった。
1964年には石川町駅が開業して、多くの観光客が来るようになった一方、海上輸送がコンテナ化されたことで、外国人船員は徐々に姿を消していった 。
2004年(平成16年)2月1日に横浜高速鉄道みなとみらい線が開業し、終着駅として元町・中華街駅が設置された。駅の名称に「中華街」が入り、東京の渋谷駅から東急東横線の電車が直通運転されることで、中華街のアクセス状況や知名度はさらに向上した。
2004年(平成16年)4月 - 吉本興業プロデュースの「よしもとおもしろ水族館」が開館 (2021年閉館)
2006年(平成18年)3月17日に、開廟した横浜媽祖廟は開港から150周年を迎える横浜の新しい観光スポットとして横浜中華街に誕生した、中華民国・台湾最初の官建の台南市大天后宮より分霊された。媽祖は140年前に清国領事館と関帝廟に祀られていたとの記述が残されており、横浜中華街では古くから信仰を得ている。
安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約[3]。安政五カ国条約の2つ。
江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで互いの国の批准書が交換された[4][3]。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。
アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無く、日本だけがアメリカに最恵国待遇を約束するなど、日本側に不利な不平等条約であるというのが定説となっている。日米修好通商条約は後に調印させられた改税約書で関税自主権を喪失し、低関税率に固定され、不平等条約となった。
参考:『戊午の密勅』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85
[戊午の密勅]
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は、日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日(1858年9月14日)に孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の参内)を経ないままの下賜であったことによる(九条関白には武家伝奏から天皇の堅い意志である旨伝え、承認を受けた)。
<平成30年試験対策>
*万延元年遣米使節 江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に派遣した77名から成る使節団である。1854年の開国後、最初の公式訪問団であった。また、津太夫一行以来、日本人として2度目の世界一周をした。
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結された日米和親条約に続き、安政5年6月19日(1858年7月29日)には日米修好通商条約が締結された。批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府は米国に使節団を派遣することとなった。
安政6年(1859年)9月、正使および副使に、共に外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興と村垣範正(新見が正使に、村垣が副使となった。目付には小栗忠順 )が任命された。小栗には通貨の交換比率の交渉という役目があった。
また、ポーハタン号の事故など万が一に備え、軍艦奉行・水野忠徳の建議で、正使一行とは別に護衛を名目に咸臨丸を派遣することになり、軍艦奉行並であった木村喜毅を軍艦奉行に昇進させ、咸臨丸の司令官を命じた。木村は乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝海舟をはじめとする海軍伝習所出身者で固めると共に、通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)を選んだ。また、福澤諭吉が木村の従者として乗船している。木村は日本人乗組員の航海技術では太平洋横断に不安ありと考え、技術アドバイザーとして、測量船フェニモア・クーパー号の艦長で海軍大尉ブルック(クーパー号が難破したため、横浜に滞在中であった)を始めとする米国軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせた。
記録係として随行した玉虫左太夫による記録『航米日録』が残されている。また、賄方として随行した加藤素毛が語った話が『二夜語』として残されている。
行程
品川沖(ポーハタン号(南北戦争時の米国海軍の外輪フリゲート艦で1853年に日米和親条約が同船で調印されている ))→(はげしい嵐)→ホノルルに石炭補給のため寄港。カメハメハ4世に拝謁→サンフランシスコ到着。市長主催の歓迎式→(咸臨丸もサンフランシスコに到着。現地の人々と交流後、浦賀へ帰還)→パナマ(運河はまだ未完成)コロン→汽車3時間で大西洋へ→ロアノーク号(フリゲート艦)アスペンウォール出発→ワシントン到着。ブキャナン大統領に謁見・批准書を渡す。その後の25日間の滞在中にスミソニアン博物館、国会議事堂、ワシントン海軍工廠、アメリカ海軍天文台を訪れている。再び大統領に謁見、その後国務省にて、カス国務長官より使節三人には金メダル、以下随員には銀メダル、従者には銅メダルが贈られた。なお、ワシントン滞在中に複数回にわたり金銀貨幣の交渉が行われている→ボルチモア→フィラデルフィア(造幣局見学、金銀貨幣の交渉、チェスクラブ訪問)→ニューヨーク到着。空前と言われる空前と言われる大歓迎を受ける[1]。停泊中の世界最大の客船グレート・イースタンを見かけ、軍艦と勘違いし、また、科学技術の差を強く意識 →帰途へ→ポルトガル領カーボベルデ→ポルトガル領アンゴラ→喜望峰→インド洋→オランダ領バタヴィア(ジャカルタ)→英領香港→品川沖。
*文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)は、江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年(←1861年?))にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。正使は、竹内保徳(下野守)、副使は松平康直(石見守、後の松平康英)、目付は京極高朗(能登守)であった。この他、柴田剛中(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名となり、さらに後日通訳(蘭語、英語)の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。竹内遣欧使節とも。
行路
品川港(英国海軍船)→長崎→英領香港→英領シンガポール→英領セイロン→英領イエメン→エジプト(カイロ)→(鉄道)→アレクサンドリア→地中海(船)→英領マルタ→マルセイユ→フランスと交渉(同意得られず)→カレー→英仏海峡(船)→ロンドン(ロンドン万国博覧会見学・造船所や銃器工場、大英博物館、バッキンガム宮殿など産業革命の成果を訪問)→オールコック駐日英国大使のオールコックの協力を得てロンドン覚書(兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市を5年延期)→オランダ(覚書)→プロイセン・ベルリン(覚書)→ロシア・サンクトペテルブルク(合意に至らず)→カウナス→プロイセン王国→フランス(パリ覚書)→ポルトガル→帰路は英領ジブラルタルを経由し、往路とほぼ同じ行路で帰国。
*竹内保徳 勘定所に出仕し、勘定組頭格を経て嘉永5年(1852年)勘定吟味役・海防掛に就任[1]。嘉永6年(1853年)の黒船来航後は台場普請掛・大砲鋳立掛・大船製造掛・米使応接掛を兼任。安政元年(1854年)、箱館奉行就任。幕府の命令に逆らって、アイヌに髪の毛を切ることを免除したことや、漁を発展させたことでアイヌの尊敬の対象となったとも言われる。在任中にニシンが豊漁だったため、ニシン奉行とあだ名された。
文久元年(1861年)、勘定奉行兼外国奉行に就き、同年12月に遣欧使節(文久遣欧使節)正使として30余名を伴い横浜から出港してイギリスへ向かう。ロンドンでは第二回ロンドン万博にも出席した。攘夷運動に鑑み、江戸・大坂の開市、新潟・兵庫の開港延期の目的で欧州各国を訪問、五カ年延期に成功。文久2年(1862年)5月、イギリスとの間にロンドン覚書として協定されたのを始めプロシア、ロシア、フランス、ポルトガルとの間に同じ協定を結んだ。文久2年(1862年)にフランス船で帰国したが、幕府が攘夷主義の朝廷を宥和しようとしていたため登用されず、翌年勘定奉行を辞任。元治元年(1864年)5月に大坂町奉行に推薦されたが着任せず退隠し、同年8月に閑職の西ノ丸留守居となる。慶応元年(1865年)12月には横浜製鉄御用引受取扱となった。慶応3年(1867年)に死去。
井伊直弼の屋敷は桜田門を出てすぐ右(400mほど)。当日は大雪。行列は約60人。襲撃者(水戸浪士)は全部で18人。圧倒的な人数差だった。しかし、彦根藩の行列の構成員は節約のためアルバイト(日雇い)だったのでおよそ半分が逃げたのではないかと考えられている。かつ彦根藩の武士たちの刀には雪除けの袋(柄袋)がかぶせられいてすぐに応戦できなかったとも考えられている。この日3月3日は上巳の節句は諸大名が必ず将軍にご挨拶する日であったため、井伊直弼が登城するのは周知の事であった。原因は、開国派(井伊直弼)と攘夷派(水戸藩藩主徳川斉昭)の対立と将軍の後継者争い(徳川(一橋)慶喜と徳川家茂)による斉昭を安政の大獄で永遠に謹慎させたことによると考えられている。
井伊直弼は、居合の達人で自ら新心新流という一つの流派を興すくらいの腕前だった。
最近鳥取藩士が逃亡してきた浪士の聞き書きが発見され、井伊直弼にピストル(ヒストン)の弾に命を奪われたことがわかった。
最初の一弾に倒れた井伊直弼には後継ぎが定まっていなかった。ゆえに藩は取りつぶしになるところ、幕府側も彦根藩側も直弼は襲撃では亡くならなかったことにした。直弼の首は他人の首とされ、負傷した直弼を彦根藩が引き取り、自宅療養中と幕府に届け出た。そののち彦根藩は直弼は急病のためとして急遽相続願を幕府に提出、受理され(幕府は赤穂浪士のような敵討ちを恐れ、実際彦根藩では藩士たちが仇討ちを企てていた。御三家と家康の側近の大名家の争いを恐れた家茂将軍が直接書状を送り企ては収まった)、跡目相続を認められた(その後減封につぐ減封の後明治維新を迎えた)。そのため墓碑(東京豪徳寺)には実際の死亡日の閏3月3日ではなく、閏3月28日と刻まれている。しかし、襲撃はたくさんの人に目撃されており、うわさはたちまち広がっていた。桜田門外の変を契機として幕府の力が一気に弱まり、薩摩が主導して明治維新を迎えることになった。
なお、桜田門は、当時と現在の姿はほぼ変わっていない。現在の警視庁は井伊直弼殺害現場の上に立っている。
参考:『桜田門外の変』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
参考:『桜田門外の変』(NHKオンデマンド 歴史探偵) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024137645SA000/
水戸藩では武器開発を行っており、矢倉方と言うのが担当部署であった。矢倉方では最新武器を開発しており、銃の販売を開始していた。また、矢倉方の森山という役人が襲撃に参加しており、また鉄砲鍛冶も参加している。各資料から少なくとも3丁の新式銃が桜田門外の変に使用されたと番組では見ている。
参考:『関鉄之助』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E9%89%84%E4%B9%8B%E4%BB%8B
参考:『桜田門外の変で井伊大老を「射殺」襲撃リーダーの証言』産経新聞有料記事
(広告を見れば日記の関連場所の原文を見ることができる)
https://www.sankei.com/article/20220331-BYGN56LWVNLHHGLMSOUFCYBUXE/
襲撃時のリーダー的役割を果たした関鉄之助が尊王攘夷運動で全国を回った際に知り合った鳥取藩士安達清一郎に襲撃後に書簡を送っていた。掲載の写真によると安達清一郎の日記『万延元年庚申日乗』に「ヒストンノ玉胸先二中リテ死ス」とあった。
(『歴史探偵』の中では鳥取藩に関が逃げてきたのをかくまった際に安達が聞き書きを書き留めたとある)
参考:『薩摩藩、「鯛」や「鯨」の賄賂で幕府の追及かわす…「桜田門外の変」めぐる新史料見つかる』読売新聞 https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230216-OYT1T50098/
襲撃に関連した薩摩浪士有村雄助(直弼の首をとった治左衛門の兄)が関係者への説明と対応を協議するために京都へ向かう途中、事件の波及を恐れた薩摩藩に捕縛されて鹿児島へ護送後、切腹を命ぜられた。幕府は薩摩藩が参勤交代の定宿佐敷(現・熊本県)の本陣を執拗に調査したが、薩摩藩は過剰に幕府の役人をもてなし、もみ消しを図ったことが記載される文書が2023年にあらたに見つかっている。
参考:『桜田義挙録 月(中編)』(吉川弘文館)(明治44年11月出版) https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1918524
江戸時代初めからの将軍継承を検証し、世継ぎ問題について井伊直弼がいかに間違っているか、また、安政の大獄での井伊直弼の暴虐ぶりを詳しく証を挙げ述べている。また、「(井伊)直弼斬除の計画」として殺害計画の経緯も項を連ねて日を追って大変詳しくまとめられている。また、当日の朝、直弼の髷がどうしても崩れてしまい、これは異変の兆候である、早めに登城しようと言って玄関に出てみたら寵愛の猫が追いかけて話さなかったなどのエピソードまで加えられている。また、挙行の前夜、実行者たちは目安箱に自分たちは浪人の身である旨を書いて投げ入れている。藩に迷惑がかからないために先手を打ったものと考えられる。
親子(ちかこ)内親王は、仁孝天皇の第8皇女。御称号は和宮(かずのみや)。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。
安政5年(1858年)6月27日、日米修好通商条約の無断調印の旨が宿継奉書で京都に知らされた。翌日の28日、孝明天皇は譲位の意思を示した。驚愕した一同に諌止されたが、朝廷は幕府へ説明を求め大老の井伊直弼および御三家に上京を求めた。しかし多忙または謹慎中のため、京都所司代の酒井忠義、老中の間部詮勝が京都へのぼることになった。その一方、7月11日に日露修好通商条約、7月18日に日英修好通商条約は勅許がないまま調印された。7月22日、孝明天皇は近衛忠煕に再び譲位の意思を示した宸翰を下した。
8月5日に孝明天皇が出された「御趣意書」を近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香、三条実万は関東へ送るように命じられた。8月7日に朝議がひらかれる予定となったが内覧関白・九条尚忠が朝議に出席しなかった。このため内覧を経ない正式ではない勅書が誕生し8月8日に水戸藩、次いで幕府へ下された(戊午の密勅)。水戸藩への宸翰は朝廷内でも異論が出たが近衛や鷹司が押し切ったとされる。9月2日、幕府寄りの九条へ関白辞職を求める内勅が出され当日に辞表を受理、4日に内覧辞退の勅許が出された。これらが引き金となり9月より京都では宮家・公卿の家臣が捕縛拘引された。10月19日、九条尚忠は関白に復職し、10月24日に参内した間部詮勝は虚偽と欺瞞に満ちた弁疏をだした。12月24日、間部を再度参内させた孝明天皇は公武一和の立場より将来、鎖国に戻るとの説明を受け入れた(心中氷解の沙汰書)。
『岩倉公実記』によると10月1日、近衛忠煕と酒井忠義の会話の中で、加納繁三郎[2]が提案していた件が話に出た。酒井は近衛に加納案、具体的には和宮が降嫁すれば公武一和に役立つと切り出したことが降嫁発案の発端とされる。孝明帝の近臣であった近衛は公武一和は結構だが熾仁親王との婚約が決まっており無理な話だと意見を述べた。
安政6年(1859年)、酒井は九条尚忠へ和宮降嫁を打診した。幕府寄りの九条だが婚約は孝明帝の命令であるため無理だと断り、孝明帝の皇女・富貴宮(1歳)を降嫁するなら尽力すると約束した。経緯は不明だが、和宮降嫁の話は和宮の生母・観行院(橋本経子)の叔母で元大奥上臈年寄の勝光院に伝わった。勝光院は真相を観行院の兄で橋本家の当主である橋本実麗へ書信で尋ねた。観行院は信じなかったが実麗は幕府のやり方ならありえると考えた。この年の1月より酒井と九条は戊午の密勅にかかわった宮、公卿への辞官落飾(四公落飾)を孝明天皇から出させるように圧力を加えていた。4月22日、抵抗する力のない天皇は受け入れた。観行院と実麗は降嫁の噂を和宮には話さなかった。5月25日、議奏の久我建通らが和宮の降嫁を内議した。8月2日、富貴宮が薨去。徳富蘇峰の『近世日本国民史』は翌年にも酒井所司代の家来が橋本邸を訪れた事情を伝えている。
『岩倉公実記』によるとその翌年、月日は不明だが、九条家の家宰・島田左近が実麗へ和宮降嫁を持ち出した。噂が事実であると分かった実麗だが返事ができなかった。
参考:『和宮親子内親王』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%AE%AE%E8%A6%AA%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
文久2年1月15日(1862年2月13日)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃し、負傷させた事件。
桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、信正らに対し憤激した。
決行に当たっては桜田門外の変に倣い、それぞれが変名を用いた斬奸趣意書を携えていた。文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、信正老中の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介(細谷忠斎)など6人が行列を襲撃した。
最初に直訴を装って河本杜太郎が行列の前に飛び出し、駕籠を銃撃した。弾丸は駕籠を逸れて小姓の足に命中、この発砲を合図に他の5人が行列に斬り込んだ。警護の士が一時混乱状態に陥った隙を突いて、平山兵介が駕籠に刀を突き刺し、信正は背中に軽傷を負って一人城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死した。警護側でも十数人の負傷者を出したが、死者はいなかった。
しかし、信正老中暗殺には失敗したものの、桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した。
参考:『坂下門外の変』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8B%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
『ええじゃないか』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B
ええじゃないかは、日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動。「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼し、集団で町を練り歩きながら熱狂的に踊った。大政奉還、王政復古の大号令の時期である。
伊勢神宮の御札が降るおかげ参りと違い、ええじゃないかの御札は地域で信仰されている社寺の御札が降ったため、現地で祭祀が行われる事が多かった。降札があると、藩に届け出た上で屏風を置く、笹竹で家を飾る、酒や肴を供えるなどして町全体で札を祀った。名古屋の場合、降札後の祭事は7日間に及び、その間は日常生活が麻痺した。
目的・性格
その目的や性格を巡っては、様々な議論がなされてきた。囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている。これに対し、倒幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという噂を紹介するものもある。羽仁五郎は、ええじゃないかの混乱の中で王政復古のクーデターが行われたことに注目し、背景に西郷隆盛の策謀があるとの説を提示した。結果としてええじゃないかは王政復古の煙幕の役割を演じさせられた、としてマルクス主義の観点からその意義を低く評価した。こうした見解は遠山茂樹らにも受け継がれたが、同じマルクス主義者である井上清は「封建制の矛盾の鬱積により民衆が起こした行動」に倒幕派が乗じることで、結果的に権力側を麻痺させた、として唯物史観の観点からその性格を捉え、積極的に評価した。
歌詞
岩倉具視の『岩倉公実記』によると、京の都下において、神符がまかれ、ヨイジャナイカ、エイジャナイカ、エイジャーナカトと叫んだという。八月下旬に始まり十二月九日王政復古の大号令発令の日に至て止む、とあり、明治維新直前の大衆騒動だったことがわかる。また、ええじゃないか、の語源は、京の都下で叫ばれた言葉であったようだ。
歌詞は各地で作られ、例えば「今年は世直りええじゃないか」(淡路)、「日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊はお目出たい」(阿波)といった世直しの訴えのほか、「御かげでよいじゃないか、何んでもよいじゃないか、おまこに紙張れ、へげたら又はれ、よいじゃないか」(淡路)という性の解放、「長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか」(西宮)、「長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、えじゃないか」(備後)の政治情勢を語るもの、などがあった。
島崎藤村『夜明け前』では以下の例が記述されている。
ええじゃないか、ええじゃないか
挽いておくれよ一番挽きを
二番挽きにはわしが挽く
ええじゃないか、ええじゃないか
ええじゃないか、ええじゃないか
臼の軽さよ相手のよさよ
相手かわるなあすの夜も
ええじゃないか、ええじゃないか
ええじゃないか、ええじゃないか
こよい摺る臼はもう知れたもの
婆々さ夜食の鍋かけろ
ええじゃないか、ええじゃないか
お蔭参り
お蔭参りとは、お札が降るなど神異のうわさをきっかけにして庶民が奉公先から抜け出し、伊勢参りに出かける人が急増する現象のことで、江戸時代には元和3年(1617年)、慶安年間(1648年 - 1652年)、宝永2年(1705年)、明和8年(1771年)、文政13年・天保元年(1830年)というように約60年周期で自然発生的に繰り返された。いずれも期間は3か月から5か月で終わっている。明和のお陰参りの記録では300 - 400万人が伊勢に殺到した。十代将軍徳川家治の時代であり、享保年間の日本の人口統計では当時の人口は約2200万人であった。文政13年のお蔭参りは3か月で約500万人が伊勢に押しかけたと記されている。お蔭参りに参加する者に対しては、大商人があって、店舗や屋敷の開放、弁当・草鞋の配布を行った。
研究の時系列
最も古い研究文献は山口吉一の『阿波えゝぢやないか』(徳島土俗芸術研究所、1931年)であり、世直しの願望について触れている。
次に、藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(岩波書店、1968年)があげられる。同書では慶応3年8月 尾張が最初であると指摘されている。おかげまいりとの関連を指摘する。
京阪発祥説 (京都発祥説)
京阪発祥説は、岩倉具視や福地源一郎などの同時代人の証言や西宮市史などの近畿地方の史料に基づく。
『岩倉公実記』の記述。八月下旬に始まり十二月九日王政復古発令の日に至て止む。
1897年、福地源一郎(幕臣・ジャーナリスト)の「懐往事談」の記述。慶応3年11月29日に大坂でええじゃないかを目撃し「或は云ふ。此御札降りは京都方の人々が人心を騒擾せしむる為に施したる計略かりと。其の果して然るや否やを知ざれども」と、原因に関する噂についても記述している。
『西宮市史』では、京都に始まり、大坂に移動と記述。
1933年、中山太郎『日本民俗学辞典』 、オフダガフル、慶応2年 - 慶応3年の現象。西宮説と伊勢説の両説あり。伊勢説は見聞録による。当代記に、文禄のころに、伊勢神宮の御札が降ったのが最初。
1937年、国書刊行会『静岡県鄉土研究』』第 9 - 11 巻(1937年)、「御札降は京坂に始まり関西各地に波及し、東海道は遠江,駿河,伊豆の北部まで及んだ。」という記述がある。
1937年、大口喜六『国史上より観たる豊橋地方』、豊橋発祥説の主張見られず。 御蔭参り=御札降り=よいぢゃないか を同一視する。御蔭参りが8月 - 12月と記述。曲尺手、船町、札木の名前はあるが、牟呂と羽田の名前はない。京都方の策動によるものと指摘。
1939年 、『一宮市史』第3巻(1939年)では、慶応3年9月11日頃、三河国吉田付近で始まり、次に名古屋に移った、ただし、8月より京阪地方で始まるという説もあるという紹介がなされている。
東海地方発祥説
東海地方発祥説は比較的新しい説である。
東海地方発祥説の研究の時系列は以下の通り。
文献 出版年 発生日時 発生場所
藤谷俊雄『「おかげまいり」と「ええじゃないか」(岩波書店)』 1968年(昭和43年) 慶応3年8月 尾張国
西垣晴次『ええじゃないか』(新人物往来社) 1973年(昭和48年) 慶応3年8月15日 遠江国見附宿(静岡県磐田市)
『豊川市史』 1973年(昭和48年) 8月4日 三河国御油宿(愛知県豊川市)
高木俊輔『ええじゃないか』(教育社) 1979年(昭和54年) 慶応3年7月22日以前 三河国吉田宿羽田八幡宮付近(愛知県豊橋市)
田村貞雄『ええじゃないか始まる』(青木書店) 1987年(昭和62年) 慶応3年7月14日 三河国吉田宿牟呂八幡宮付近(愛知県豊橋市)
このように最新の研究ほど発生日時が早いと主張している。これらは『岩倉公実記』に見える京都・8月下旬より1か月以上早い。
また、尾張名古屋説発表以後、静岡県磐田市、愛知県豊川市、愛知県豊橋市と、近隣地域で、起源論争が始まっていることがわかる。
豊橋市説
戦後になって開示された「森田家文書」の影響が大きい。牟呂八幡宮神主森田光尋の慶応当時のメモ書きである「留記とめき」(豊橋市図書館所蔵)によると、慶応3年7月14日に「御祓い」と記載され、この御祓いが、伊勢神宮の札という説がある。1980年代に研究が進む。
名古屋市説
1983年(昭和58年)に製作されたアニメ『まんが日本史』では、幕末のええじゃないか騒動発祥は名古屋になっていた。1988年(昭和63年)発行の小学館の日本国語大辞典でも名古屋が発祥となっている。
なお、田村貞雄『ええじゃないか始まる』には、1867年(慶応3年)の3月18日に名古屋で伊勢内宮の御札が降りた、という記述があり、伊那市史 歴史編においても、春のころからという説もあると紹介されている。
豊川市説
平凡社マイペディアでは、慶応3年8月4日(1867年9月1日)、東海道の御油宿(愛知県豊川市御油)に秋葉神社の火防の札が降下したのが最初という。
御札降りとええじゃないかと御蔭参り
もともと御札降り、ええじゃないか、御蔭参りはまったくの別個のものである。
近畿や四国などの西日本圏では、ええじゃないか、という掛け声が見られるものの、東海地方ではそうした掛け声はなく、御札降りのみ共通点が見られる。また、東海地方では、狂乱騒動を御鍬祭りや御蔭参り(伊勢神宮参拝)に結び付けて、共通点とするという解釈がなされている。
ええじゃないかという掛け声を要件とすれば、『岩倉公実記』の記述をもって、京都発祥説になる。福地源一郎の懐往事談においても、京都方の策動という噂があったが真偽のほどはわからないと記述されている。近畿・四国では、いずれも、よいじゃないか、ええじゃないか、という掛け声を伴う。
東海地方発祥説では御札降りや狂乱騒動を共通点とみなし、御蔭参りに関連するものとして、7月・8月発祥説を掲げるものの、ええじゃないかに相当する掛け声や世直しの願望については要件外にしている。
参考動画:『歴史探偵 幕末ミステリー ええじゃないか』https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2025091020481?playlist_id=0d655b99-cc85-4201-a1d0-b0a9253e5ff6 (NHKプラス)
ええじゃないか再現プロジェクト
ええじゃないかが発生したのは、慶応3年(1867)7月~12月に発生。
日本中を熱狂させた”ダンスブーム”
踊りながら「ええじゃないか」と歌った。
京都府城陽市城陽おかげ踊り(ええじゃないかを今に伝える) 城陽ではおだやかな踊りだったが、場所によっては非常に乱暴な踊りになった所もある。踊り・歌詞には地域差があり、都市部とそれ以外では全く異なっていた。佐渡豊氏蔵の資料では、「誰もが踊りまわり・騒ぎ回り、群れを成して市中を練り歩く。その熱狂ぶりは祇園祭などとは比べ物にならないほどだった。」とあるそう。
ええじゃないか図絵馬(兵庫県立歴史博物館) ひとりひとり違う動きをして、手足をダイナミックにして踊り廻る人々。
17個のポーズを抽出してアニメーションを作成。
京都太秦映画村で衣装を調査
「娘は若い男の姿となり男たちは女の服を着た」解放感
発祥地 愛知県 豊橋市 牟婁八幡宮 牟婁村は三河の漁村
牟婁八幡社の神主の記録 「慶応三年七月十四日、伊勢神宮外宮のお祓い(お札)が降臨した(空からお札が降ってきた)。」
「鶴より小さな鳥が咥えてきて、空中で落とした」
人々はありがたいものとして受け取り、祭りを開き、踊り始めた。
牟婁→吉田→浜松・名古屋→大坂→京都→江戸→広島に拡大。
アーネスト・サトウ「燃えるような赤い服を着て『イイジャナイカ』と繰り返し叫びながら踊り続ける群衆の中を進むのは、かなり大変だった。」「料亭に入ったけれどもええじゃないかの人だらけで入れなかったので別の場所に移ったが、そこは誰もおらずがらんとして店の者も踊りに出かけてしまっていた」
ハリスホークのタオちゃん お札を肉で吊るし、つつかせて降らせる
卯の刻 夜の闇に紛れてそっと置かれて早朝に発見されたのでは
お札が降って利益を得る人、得をする人は?
お札が次々と降るので祭は2か月間次々延長[天降記]
お札は金持ちの家にしか降らなかった[感興記]
(上がるばかりなもの)米、あぶら、木綿[時世のぼり凧]
幕末、貨幣価値が下がった。
天災・疫病・物価高→一揆・打ちこわし→厳しい取り締まり→閉塞感→ええじゃないか(非暴力民衆運動?)
全肯定の歌詞
世直し・世均しの民衆運動
京都でええじゃないかが大きな変貌?
瓦版→2週間分の緻密な記録62か所→2km四方の狭い範囲、商業地域→祭→京都らしい屈折した権力批判
商業地域は重点監視地域だった。→幕府への嫌がらせ→潜伏中の討幕派を探すのは困難。
祇園祭で使う鉦→禁門の変(1864)の大火で焼けて無残な姿に→山鉾も多く燃えた。→なんでこんなことになんのや
会津藩主・京都守護職松平容保とええじゃないかと遭遇→取り締まりきれない→ええじゃないかの裏で、ひそかに討幕がクーデター、11月23日薩摩藩兵入京→12月9日討幕諸藩の王政復古のクーデター決行→徳川幕府の廃絶へ→12月9日にええじゃないか忽然と消える
岩倉具視「ええじゃないかの騒ぎによって討幕の動きが幕府に知られなかったのは天の助けであった」(岩倉公実記)
「懐往事談」(幕府側の認識)→お札降りは、討幕側の者が社会を混乱させるため仕組んだ計略ではないか?」
近年の見方ではあくまで民衆発だが、そう幕府側に錯覚させるほど騒ぎが大きかった。(ただし河合先生の意見では京都に関しては討幕側の関与は否定できないらしい)
しかも同調圧力もあった。
2021年出題
明治維新期,倒幕派と幕府派との間の一連の戦い。慶応4 (1868) 年 (戊辰の年) 1月3日大坂から京都へ進撃した会津藩,桑名藩の兵は,鳥羽,伏見で薩摩藩,長州藩を中心とする新政府軍と戦って敗れた (→鳥羽・伏見の戦い ) 。新政府は有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ,大坂から江戸へ退去した旧幕府勢力を追って,徳川追討の軍を起こした。同 1868年2月薩長両藩兵を主力とする 20藩以上の諸兵が東海道,東山道,北陸道の三方に分かれて進発した。徳川慶喜は恭順の態度をとって謹慎し,駿河に迫った東征軍に対して勝海舟を通じて交渉し,助命と引き換えに江戸城の自発的開城を約束させた。こうした情勢のなかで徳川氏は静岡に移封されたが,抗戦を叫ぶ旧幕臣たちは上野にこもって輪王寺宮公現法親王 (北白川宮能久 ) を戴いて彰義隊を結成,東征軍に抗戦したが敗れ,輪王寺宮は奥羽に逃れた (彰義隊の戦い) 。一方,鳥羽・伏見の戦いで賊名を負わされた会津,桑名両藩にも追討令が出された。奥羽諸藩は会津藩の赦免を東征軍に斡旋したがいれられず,ついに5月北越諸藩をも加えた奥羽越列藩同盟を結成するにいたり,輪王寺宮を擁して官軍と対決した。しかし奥羽・北越戦争で,優秀な装備をもつ薩長を中心とする官軍は,まず北越を平定し,次いで9月会津藩を降伏させた (→会津戦争 ) 。これに先立ち,旧幕府海軍副総裁榎本武揚らは,軍艦8隻に搭乗して江戸を脱出,箱館を占拠し,武器,軍艦の引き渡しを拒んだ。官軍は,翌明治2 (1869) 年5月箱館に進撃し,箱館戦争が開かれたが,5月 18日五稜郭は開城され,榎本らは降伏して (→五稜郭の戦い ) ,戊辰戦争は終結した。この国内戦の結果,旧幕府体制は根底から崩壊し,明治絶対主義国家確立の道が開かれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
[生]天保7(1836).8.25. 江戸
[没]1908.10.26. 東京
江戸時代末期の幕臣。明治新政府の閣僚。子爵。幕臣榎本円兵衛武規の次男。通称は釜次郎。昌平黌に学び,次いで長崎に派遣されてオランダ人から海軍の伝習を受ける。帰東して海軍操練所教授,文久2 (1862) 年オランダに留学生として派遣され,帰国後海軍奉行となった。戊辰戦争のとき,『開陽丸』ほか旧幕艦数隻を率いて箱館に入り,五稜郭に拠って官軍に抗戦 (→五稜郭の戦い ) 。ロシアとの提携をはかり,北海道に工務授産計画を立てるなど,同地領有の意図をいだいたが,明治2 (69) 年5月官軍に降伏,投獄された。同5年6月開拓使に登用され,1874年には海軍中将。ロシア駐在公使となって樺太=千島交換条約を締結。 80年海軍卿。のち,清駐在公使を経て,85年初代逓信相となった。以後,文相,農商務相,外相を歴任。旧幕臣のなかでは,例のない高い地位を明治政府で占めた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
通称は浅草(あさくさ)観音。東京都台東区浅草にある聖観音宗の本山。山号は金竜山。伝法院と号す。本尊は1寸8分の観音菩薩で,推古天皇の時檜熊(ひのくま)浜成・同武成(檜熊・浜成・武成の3人とも)が宮戸川(隅田川)で網を引いて得たものという。広く武士・庶民の信仰を集めて大寺院となった。坂東三十三所の13番札所。寺内町の仲見世は江戸きっての盛場で,見世物小屋が並んだ。慶安年間(1648年―1652年)着工された本堂は1945年戦災で焼失,1958年鉄筋コンクリート造で再建された。北東隅に浅草神社(三社権現)がある。国宝の小野道風筆法華経などのほか,《浅草寺日記》がある。→浅草/三社祭
→関連項目開帳|雷門|新門辰五郎|風流志道軒伝|ほおずき(酸漿)市
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
2019
神奈川県川崎市川崎区大師町にある真言(しんごん)宗智山(ちさん)派の大本山。詳しくは金剛山金乗院平間寺(こんごうさんきんじょういんへいけんじ)と称するが、厄除弘法(やくよけこうぼう)大師、川崎大師で親しまれている。成田山新勝(しんしょう)寺、高尾山薬王院(やくおういん)とともに智山派の関東三大本山の一つ。大治(だいじ)年間(1126~1131)、平間兼豊(ひらまかねとよ)・兼乗(かねのり)父子の武士が、諸国流浪のすえ川崎の地に住み着き漁業をなりわいとしていたが、あるとき海中より1体の木像(弘法大師像)を引き揚げた。兼乗は当年42歳の厄年であったので、その像を日夜懇(ねんご)ろに供養(くよう)し、厄除けを祈願した。そのころ高野山(こうやさん)の尊賢上人(そんけんしょうにん)が諸国遊化(ゆうげ)の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄り、尊像の霊験奇瑞(れいげんきずい)に感動し、兼乗と力をあわせて1128年(大治3)一寺を建立したのが当寺の開創で、兼乗の姓平間(ひらま)をもって平間寺(へいけんじ)と号し、本尊を厄除弘法大師と称するようになった。
中世には兵火にかかり衰えたが、江戸初期には六郷宝幢院(ろくごうほうとういん)末寺となり、1648年(慶安1)幕府より朱印6石を寄せられた。明和(めいわ)・安永(あんえい)年間(1764~1781)隆範(りゅうはん)、隆盛(りゅうせい)らが相次いで諸堂を修造して興隆。このころ将軍徳川家斉(いえなり)の参詣(さんけい)を得て寺運栄え、広く庶民に信仰されるに至った。1805年(文化2)宝幢院を離れ、醍醐三宝院直末(じきまつ)となる。1879年(明治12)三宝院を離れ京都智積院(ちしゃくいん)直末、1898年に別格本山となり、1958年(昭和33)大本山に昇格した。1945年戦災で諸堂宇を焼失したが、戦後復興に努め、1964年に不動堂および本堂を落慶。さらに、中書院、交通安全祈祷(きとう)殿、信徒会館、大山門、八角五重塔を建立し、伽藍(がらん)の偉容を一新した。
年中行事は、元朝大護摩供(がんちょうおおごまく)、節分会、本尊弘法大師降誕奉祝会など数多い。縁日の21日はことに参詣者が多い。寺宝に、川崎市重要歴史記念物に指定される絹本着色の毘沙門天(びしゃもんてん)像、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)像、不動明王像、愛染(あいぜん)明王像、弘法大師像などがある。また碑蹟(ひせき)に寛文(かんぶん)3年(1663)銘の道標「こうぼう大し江のみち」、寛永(かんえい)5年(1628)銘の六字名号(みょうごう)碑がある。
[野村全宏]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
神奈川県川崎市にある寺院、金剛山金乗院平間(へいけん)寺の通称。真言宗智山派大本山。1128年開創。本尊の空海像は「厄除弘法大師」の名で知られる。「厄除け大師」ともする。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
神奈川県川崎市にある真言宗智山派の寺。正式には金剛山金乗院平間(へいげん)寺という。開山は尊賢(1143没)と伝える。本尊は弘法大師座像。江戸時代の中期以降弘法大師信仰の隆盛にともない,かつ江戸の近郊で東海道の近くにあったため,流行仏(はやりぼとけ)として江戸をはじめ,近郷近在の多くの人々の信仰をあつめた。寺領は6石。1795年(寛政7)〈武蔵国新義真言宗本末帳〉には本山は京都醍醐地蔵院と記されている。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
2020年出題。
明治維新期,倒幕派と幕府派との間の一連の戦い。慶応4 (1868) 年 (戊辰の年) 1月3日大坂から京都へ進撃した会津藩,桑名藩の兵は,鳥羽,伏見で薩摩藩,長州藩を中心とする新政府軍と戦って敗れた (→鳥羽・伏見の戦い ) 。新政府は有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ,大坂から江戸へ退去した旧幕府勢力を追って,徳川追討の軍を起こした。同 1868年2月薩長両藩兵を主力とする 20藩以上の諸兵が東海道,東山道,北陸道の三方に分かれて進発した。徳川慶喜は恭順の態度をとって謹慎し,駿河に迫った東征軍に対して勝海舟を通じて交渉し,助命と引き換えに江戸城の自発的開城を約束させた。こうした情勢のなかで徳川氏は静岡に移封されたが,抗戦を叫ぶ旧幕臣たちは上野にこもって輪王寺宮公現法親王 (北白川宮能久 ) を戴いて彰義隊を結成,東征軍に抗戦したが敗れ,輪王寺宮は奥羽に逃れた (彰義隊の戦い) 。一方,鳥羽・伏見の戦いで賊名を負わされた会津,桑名両藩にも追討令が出された。奥羽諸藩は会津藩の赦免を東征軍に斡旋したがいれられず,ついに5月北越諸藩をも加えた奥羽越列藩同盟を結成するにいたり,輪王寺宮を擁して官軍と対決した。しかし奥羽・北越戦争で,優秀な装備をもつ薩長を中心とする官軍は,まず北越を平定し,次いで9月会津藩を降伏させた (→会津戦争 ) 。これに先立ち,旧幕府海軍副総裁榎本武揚らは,軍艦8隻に搭乗して江戸を脱出,箱館を占拠し,武器,軍艦の引き渡しを拒んだ。官軍は,翌明治2 (1869) 年5月箱館に進撃し,箱館戦争が開かれたが,5月 18日五稜郭は開城され,榎本らは降伏して (→五稜郭の戦い ) ,戊辰戦争は終結した。この国内戦の結果,旧幕府体制は根底から崩壊し,明治絶対主義国家確立の道が開かれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『戊辰戦争』
設問中に斗南藩についての記述があるため、追加。
[斗南藩]
明治初年、陸奥(むつ)国北郡・三戸(さんのへ)郡(青森県)、二戸(にのへ)郡(岩手県)内において3万石を領有した家門(かもん)小藩。幕末に京都守護職として活躍した会津藩主松平容保(かたもり)は、戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍に徹底抗戦したため、1868年(明治1)所領を没収されて禁錮(きんこ)(鳥取藩預け)に処せられたが、翌年赦免されて家名再興が許され、嗣子容大(ししかたはる)が北郡・三戸郡・二戸郡内において3万石を与えられて立藩した。藩名には「北斗以南皆帝州」の気概が込められていた。藩領は北郡内35か村(9340石余)、三戸郡内26か村(1万7554石余)、二戸郡内9か村(3555石余)で構成されていたが、71年廃藩置県により斗南県を経て弘前(ひろさき)県となり、すぐ青森県と改称。ただし、二戸郡は岩手県に編入された。
[細井 計]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
同じく、いわき市関連の問題もあった。
[いわき市]
福島県南東部,浜通り南部にある市。広大な阿武隈高地と夏井川,鮫川などのつくる沖積地を市域に含み,東は太平洋に面する。1964年新産業都市の指定を機に 1966年磐城市,内郷市,常磐市,平市,勿来市の 5市と四倉町,遠野町,小川町,久之浜町の 4町および好間村,三和村,田人村,川前村,大久村の 5村が合体し成立。1999年中核市に移行。行政,商業,交通,教育の中心地は平。常磐炭田の石炭,阿武隈高地の石灰石,小名浜の港を基盤とし,昔から小名浜を中心に化学,金属工業が発達し,常磐工業地域を形成(→常磐郡山工業地域)。水産加工も盛んで,遠洋漁業の基地として港湾整備も進んだ。いわき湯本温泉は観光・保養の中心地。中央部の内郷は常磐炭田の中心として,第2次世界大戦後は鉱業就業人口比率 50%以上の典型的な炭鉱町として発展したが,1976年に閉山。東部は磐城海岸県立自然公園,南部は勿来県立自然公園に属し,海水浴場としてにぎわう。阿武隈高地は夏井川渓谷県立自然公園および阿武隈高原中部県立自然公園に属する。じゃんがら念仏(→念仏踊)などの郷土芸能や願成寺の白水阿弥陀堂(国宝)などが残る。JR常磐線が通り,JR磐越東線の起点。磐越自動車道と東北自動車道を結ぶインターチェンジがある。2011年,東北地方太平洋沖地震に伴う津波により大きな被害を受けた。面積 1232.26km2。人口 33万2931(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
<平成30年試験対策>
*福沢諭吉 天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年〉2月3日)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家[1]。慶應義塾の創設者。慶應義塾(旧:蘭学塾、現慶應義塾大学はじめ系列校)の他にも、商法講習所(現一橋大学)、神戸商業講習所(現神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者でもある。ほかに東京学士会院(現日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に採用されている。
安政6年(1859年)の冬、幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、幕府使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにした。福沢諭吉は知人の桂川甫周を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。福沢諭吉は、軍艦奉行・木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと同じ「咸臨丸」に乗船した。一方、福沢諭吉と木村摂津守はとても親しい間柄で、この両者は明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な関係が続いた。福沢は帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま「幕府外国方」(現:外務省)に採用されることになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。
アメリカで購入した広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語を福沢諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版した。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。そして、福沢は、再び鉄砲洲で新たな講義を行う。その内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換した。
文久元年(1861年)12月、12月、幕府は竹内保徳を正使とする幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行。福沢諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。
慶応3年(1867年)、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎、江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣することにした。その随行団のメンバーの中に福沢諭吉が加わることになった(他に津田仙、尺振八もメンバーとして同乗)。慶応3年(1867年)1月23日、幕府使節団は郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港する。このコロラド号はオーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分であった。福沢諭吉はこのコロラド号の船旅について「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と「福翁自伝」に記している。
アメリカに到着後、幕府使節団はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。この時、福沢は、紀州藩や仙台藩から預かった資金、およそ5,000両で大量の辞書や物理書・地図帳を買い込んだという。
慶応3年6月27日(1867年7月28日)、幕府使節団は日本に帰国した。福沢は現地で小野と揉めたため、帰国後はしばらく謹慎処分を受けたが、中島三郎助の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間中に、福沢は『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げた。