2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
(上図の出典:WIKIMEDIA COMMONS 江戸東京博物館.JPG)
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
目次
徳川時代ともいう。徳川家康が征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた慶長8 (1603) 年から 15代将軍慶喜の大政奉還によって王政復古が行われた慶応3 (1867) 年にいたる 265年間,江戸が政治の中心であった時代。安土桃山時代と合せて近世と呼ばれることが多い。幕府と諸藩がこの時代の支配機構をなしたため幕藩体制の時代ともいわれ,封建社会の一時期を占める。この時代の始めには,慶長8年説のほかに,家康が関ヶ原の戦いに勝った同5年をとる説もある。幕府政治を中心としてこの時代の推移をみると,幕府の創立から3代将軍家光の時代までは,その確立期 (1600~51) と考えられ,反徳川勢力の一掃,大名統制,職制の確立,鎖国などの諸政策が強力に推進された。5代将軍綱吉の元禄期 (88~1704) から新井白石の正徳の治にかけて,幕政の安定期 (1651~1716) が続き,文治政治が最高潮に達し,将軍側近勢力が幕政を主導し,商品経済が進展した。貨幣経済の進展は商人勢力を伸ばした反面,武士階級の窮乏を招き,また農村社会の構造を変えはじめた。8代将軍吉宗が享保の改革を行い,田沼意次が商業政策を推進し,松平定信が寛政の改革を行い,水野忠邦が天保の改革を試みたのは,幕府財政の建直しと封建支配の強化を意図したもので,動揺期 (16~1843) に対応したものである。 11代将軍家斉の時代を過ぎると,国内政治の動揺に加えて外圧が加わり,やがてペリー来航により,日本の国際社会への参加は必然となるが,なお国内には開国と攘夷,尊王と佐幕の争いが絶えず,また百姓一揆,打毀 (うちこわし) も激化し,ついに大政奉還,王政復古を迎えた (43~67) 。江戸時代には,皇室はその権力を失い,将軍,大名,武士層が,支配階級として農,工,商の庶民階級にのぞんだ。経済面では,自然経済の維持ができなくなり,商品経済への移行,工業化への傾向が現れた。幕初以来朱子学が支配階級の指導理念として尊重されたが,幕藩制の動揺期には国学,洋学が展開した。文芸は,元禄期にはまだ上方を中心としていたが (→元禄文化 ) ,化政期 (04~30) には江戸に中心が移った (→化政文化 ) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『江戸時代』
[三浦按針]
没年:元和6.4.24(1620.5.26)
生年:1564.9.24
安土桃山・江戸初期,日本に来た最初のイギリス人で,徳川家康の政治顧問。本名ウイリアム・アダムズ(William Adams)。ケント州ジリンガムに生まれ,造船所の徒弟を経て海軍に入る。1598年オランダのロッテルダム会社の東洋派遣艦隊のリーフデ号の航海士としてオランダ最初の太平洋回りアジア渡航に参加,慶長5(1600)年に豊後(大分県)の臼杵に近い佐志生に漂着,大坂に送られて徳川家康と会見する。同船のオランダ人ヤン・ヨーステンと共に家康に信頼され,相模国三浦郡逸見村(横須賀市)で200石と江戸日本橋に邸宅を与えられた。日本名を名乗り家康の外交顧問を務めるとともに幾何学,地理学,造船技術など西洋諸学を教えた。 その建造した2隻のヨーロッパ式帆船のうち1隻は上総(千葉県)に漂着したフィリピンの前総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコがメキシコに帰るときに使用され太平洋を往復した。慶長16(1611)年に彼がジャワ在留のイギリス人あてに書いた日本事情を知らせる手紙は,当時,ジャワのバンタムに商館をおいていたイギリス東インド会社を刺激し,同18年,ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持って平戸へ来航する機縁となった。アダムズは駿府でセーリスを家康に会わせ,貿易許可の朱印状と平戸に商館を置くことを認めさせた。アダムズ自身,イギリス東インド会社と契約を結んで俸給を得た。彼はセーリスの帰国の際,日本を離れる許可を得たが,結局そのままとどまった。日本人の妻とのあいだに2子がある。自ら朱印船貿易家としても活躍し,シャム,アンナン,トンキンに渡航もしている。徳川秀忠の代になると幕府との関係が薄れ,平戸で病没した。夫婦を祭った按針塚が領地の横須賀市に現存する。『大日本史料』12の33(元和6年4月24日条)に三浦按針についての史料が網羅されている。
(春名徹)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日
2020年出題。
慶長8年(1603)徳川家康が江戸に開いた武家政権。慶応3年(1867)の大政奉還まで、15代265年間存続。執政の組織は、老中・若年寄・大目付・目付および寺社・勘定・町の三奉行を中心とし、必要に応じて老中の上に大老が置かれた。また、地方には京都所司代・大坂城代・遠国奉行などを置いた。徳川幕府。
[補説]将軍は次の15人。
第1代 徳川家康
第2代 徳川秀忠
第3代 徳川家光
第4代 徳川家綱
第5代 徳川綱吉
第6代 徳川家宣
第7代 徳川家継
第8代 徳川吉宗
第9代 徳川家重
第10代 徳川家治
第11代 徳川家斉
第12代 徳川家慶
第13代 徳川家定
第14代 徳川家茂
第15代 徳川慶喜
出典 小学館デジタル大辞泉 コトバンク『江戸幕府』
初代 徳川家康
二代 徳川秀忠
三代 徳川家光
四代 徳川家綱
五代 徳川綱吉
六代 徳川家宣
七代 徳川家継
八代 徳川慶喜
九代 徳川家重
十代 徳川家治
十一代 徳川家斉
十二代 徳川家慶
十三代 徳川家定
十四代 徳川家茂
十五代 徳川慶喜
参考:『徳川将軍一覧』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7
<平成30年(2018年)の問題>
以下、政治の中心が誰にあったかを問わず、将軍位についている将軍の時代とする。
武家諸法度 1615年に江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法(武家法) (秀忠時代)
大坂の陣 江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦。 冬の陣:慶長19年(1614年) 夏の陣:慶長20年(1615年) (秀忠時代)
参勤交代 全国250以上ある大名家が2年ごとに江戸に参覲し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行う制度 。将軍に対する大名の服属儀礼として始まったが、寛永12年(1635年)に徳川家光によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された。 (家光時代)
島原の乱 島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、江戸時代の大規模な反乱・内戦である。 寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結。(家光時代)
玉川上水 江戸市中への飲料水が流れていた上水道。江戸の六上水の一つ。 取水口から送水先までは全て現代の東京都内にあり、一部区間は現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。 幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは承応2年(1653年)の正月で、同年4月4日に着工した 。承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された。(家綱時代)
慶安の変 慶安4年(1651年)4月から7月にかけて起こった事件。主な首謀者は由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義であった。慶安4年(1651年)4月、徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子・徳川家綱が継ぐこととなった。新しい将軍がまだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として、幕府の転覆と浪人の救済を掲げて行動を開始したが、密告者が出て露見した。 (家綱時代)
大日本史 日本の歴史書。江戸時代に御三家のひとつである水戸徳川家当主徳川光圀によって開始され、光圀死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成した。神武天皇から後小松天皇まで(厳密には南北朝が統一された1392年(元中9年/明徳3年)までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱う。紀伝体の史書 。
赤穂事件 18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家の吉良義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野長矩が切腹に処せられた事件(元禄14年(旧暦)(1701年))。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った事件を指すものである(元禄15年)(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件』としている場合もある)。 (綱吉時代)
<平成30年(2018年)の問題>
【年 表】
平安時代末期から鎌倉時代初期:江戸重継が現在の東京に本拠地を置く。(当該wikipediaによれば所在は諸説あるとのこと)
15世紀:扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を築城した。江戸幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
文明18年(1486年) :太田道灌の没後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。
天正18年(1590年) :豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(現在の静岡市)から江戸に入った。江戸幕府を開いた徳川将軍家の祖である家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
慶長8年(1603年): 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。
慶長11年(1606年):諸大名から石材を運送させ、増築した。
この後もたびたび天下普請が行われたが、最後に万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行われ、一連の天下普請は終了する。
徳川江戸城の築城においては、町づくりを含め、伊豆の石材(伊豆石)は欠かせないものであった。壮大な石垣用の石材は、ほとんど全てを相模西部から伊豆半島沿岸の火山地帯で調達し、海上を船舶輸送して築いたものである。
本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。
以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。江戸時代後期に伊能忠敬が作成した『大日本沿海輿地全図』大図の第90図には江戸城が描かれているが、城内の建物群配置は機密であったため空白で、諸街道に通じる九つの門のみが記されている(南から時計回りに幸橋御門、虎御門、赤坂御門、四ツ谷御門、市ケ谷御門、牛込御門、小石川御門、筋違御門と両国橋近くの浅草橋御門)。
明暦3年(1657年):明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失し、その後、天守が再建されることはなかった 。
安政2年(1855年): 安政大地震により石垣、櫓、門など多大な被害を受ける。
文久3年(1863年):将軍の御殿としての最初の本丸御殿は1606年(慶長11年)に完成、その後1622年(元和8年)、1637年(寛永14年)(同16年焼失)、同17年(明暦の大火で焼失)、1659年(万治2年)(1844年(天保15年)焼失)、1845年(弘化2年)(1859年(安政6年)焼失)、1860年(万延元年)(1863年(文久3年)焼失)と再建・焼失を繰り返した。文久の焼失以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西ノ丸御殿に移した。
慶応4年(1868年):戊辰戦争の最初の局面である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍は、江戸に逃亡した徳川慶喜に対して追討令を発布。 3月15日を江戸総攻撃の日と定め、江戸城に対する包囲網を完成させた。しかし、徳川家存続に向けた交渉の全権を委任された旧幕府陸軍総裁の勝海舟と東征軍参謀である西郷隆盛との会談が実現し、それにより、江戸城の無血開城が決定した。
明治元年(1868年):4月11日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。(江戸開城)
明治2年(1869年): 東京奠都。皇城と称される。
1873年(明治6年):皇居として使用していた西ノ丸御殿が焼失。正院は焼失文書の一部復旧を命じた。
1888年(明治21年):明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称される。
1923年(大正12年)9月1日 関東大震災で残っていた建造物は大きな被害を受け、和田倉門(櫓門)は復旧されなかった。他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修された。
1945年(昭和20年) 太平洋戦争末期のアメリカ軍による空襲で大手門が焼失。
1948年(昭和23年) 皇居と改称された。
1967年(昭和42年)空襲で焼失した大手門が木造で復元された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(21番)に選定された。
[現存遺構]:
1956年(昭和31年)3月26日 外堀跡が「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定。
1960年(昭和35年)5月20日、「江戸城跡」として国の特別史跡に指定された。
現在、桜田門、田安門、清水門(以上は、国の重要文化財に指定されている)が遺構として現存している。
関東大震災で倒壊後、最初は内部はコンクリート造り、後に木造で復元された富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓、桜田巽櫓や、同心番所、百人番所、大番所なども宮内庁管理のため、重要文化財などには指定されていないが現存する。
川越の喜多院と氷川神社には、3代将軍家光誕生の間とされる江戸城の江戸期移築建物が残る。移築建物と川越城御殿の二つの御殿が見られる。
近年[いつ?]、都市再開発の動きに伴い、丸の内や、霞が関の文部科学省で外堀の石垣(リンク先文科省)が地中より発掘された。
1910年(明治43年)に蓮池御門を名古屋城正門として移築したが、1945年(昭和20年)の名古屋大空襲で焼失し、後に復元された。
東京都千代田区千代田(千代田は全体が皇居の敷地内の為、一般参賀などを除き部外者の自由な立ち入りは出来ない)
交通アクセス
皇居東御苑へ徒歩圏の駅は竹橋駅(東京メトロ東西線)、大手町駅(東京メトロ各線・都営三田線)、東京駅(JR東日本在来線・新幹線各線および東京メトロ丸ノ内線)、東京メトロ千代田線二重橋前駅など。皇居外苑や皇居ランニングコースともなっている公道上からも、かつての江戸城を望見できる。
2020年、2023年出題
千代田城ともいう。東京都千代田区丸の内の皇居にあたり,平城。徳川氏の居城で,江戸幕府の所在地。平安時代末から鎌倉時代にかけては,平良文の孫秩父将常の子孫江戸氏の居館であった。康正2 (1456) 年,太田道灌が居館として築城を始め,翌長禄1 (57) 年落成。江戸城と称した。当時は石垣がなく,土塁と3重の堀のみであった。文明 18 (86) 年道灌の死後,上杉定正が領有し,家臣曾我豊後守が城代となった。大永4 (1524) 年,北条氏綱に敗れ,北条氏の領有となり,氏綱が江戸に入って修築した。永禄4 (61) 年頃,太田三楽が奪取したが,天正5 (77) 年再度北条氏の領有となり,修築。同 18年,小田原落城後,徳川家康の居城となった。慶長9 (1604) 年,増築工事に着手し,秀忠,次いで家光にいたって,寛永 13 (36) 年に完成。本丸,西の丸,三の丸,二の丸,紅葉山,吹上御苑,代官町を合せた中心部の面積は 22万 2182坪 (73万 3200m2) ,周囲は 20町 15間 (2200m) で,総面積は 29万 549坪 (95万 8811m2) 。特色は,外郭が浅草付近から内へ内へと入っている螺旋形で,これらの線上には城門が配置された。城門は外郭に 25,内郭に 11,城内に 87,城橋は内外で 30,櫓 (やぐら) ,多聞 (たもん) 類では,大天守,小天守各1,三重櫓6,二重櫓 10,単層櫓4,多聞 26という豪壮なもの。その後,数回の火災があり,明暦3 (57) 年の江戸の大火で焼失した天守以外は,諸大名の手伝いで修理。規模は完成時より縮小されたが,徳川氏 15代,265年間続いた。慶応3 (1867) 年,徳川慶喜が大政奉還すると,明治1 (68) 年,有栖川宮熾仁親王が東下入城し,鎮守府をおき,同年4月開城,10月遷都後,東京城さらに皇城と改称。 1873年,皇城炎上とともに工事を起し,88年に完成,宮城と改称した。 1948年皇居と改称。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『江戸城』
東京都千代田区にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定特別史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。扇谷上杉氏の家臣太田道灌が1457年(長禄1)に築いた城がその起源。それ以前の平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、江戸氏の居館があったともいわれる。道灌が暗殺された後は扇谷上杉氏の城となり、次いで小田原の北条氏が同城を攻略し、武蔵進出の拠点とした。1590年(天正18)の小田原の役では、江戸城は開城して豊臣秀吉に接収され、同年8月に北条氏旧領を含む関八州への国替えとなった徳川家康が新たな居城とした。家康が入城した当時の江戸城は、道灌が築城した比較的小規模で質素な城だったといわれる。1603年(慶長8)、家康が幕府を開くと江戸城の本格的な拡張・整備が始まり、家康、秀忠、家光の3代にわたって日本全国の大名が動員され、5層の天守と20基の櫓(やぐら)、西の丸、北の丸などの増設や外郭の整備が行われて、家光の代の1636年(寛永13)に江戸城の総構えが完成し、周囲16kmの内郭を持つ日本最大の城郭となった。しかし、1657年(明暦3)の明暦の大火で天守を含めた多くの建物が焼失した。その後、天守が再建されることはなかった。1868年(慶応4)に、最後の将軍の徳川慶喜が大政を奉還して江戸城を開城し、東京(とうけい)城と改称され、翌年の東京遷都により皇城となった。1888年(明治21)には明治宮殿が完成して宮城と呼ばれるようになった。皇居と呼ばれるようになったのは戦後の1948年(昭和23)で、その翌年には西の丸下と、皇居を取りまく濠周辺が「国民公園皇居外苑」として開放され、さらに1969年(昭和44)には北の丸も外苑の一部として開放された。江戸城は数度の火災によって多くの建物が失われ、大正期の関東大震災でも被害を受けた。伏見櫓、富士見櫓、巽櫓などが現存するが、これらは関東大震災後、解体・復元されたものである。また、江戸城には数多くの城門があったが、桜田門、田安門、清水門が現存し、国の重要文化財になっている。JR東京駅また地下鉄千代田線大手町駅から徒歩約5分。◇千代田城とも呼ばれる。
出典 講談社日本の城がわかる事典
<平成30年(2018年)の日本歴史問題>尾張藩が出題されている
[御三家]
徳川将軍家の一族である尾州、紀州、水戸の三家をいう。尾張は家康の第九子義直、紀伊は第十子頼宣、水戸は第十一子頼房が藩祖、代々、徳川氏を称した。親藩のなかで別格待遇をうけた。おのおの独立した藩をかまえ、尾張家は名古屋城主、尾張一国・美濃一部(現愛知県・岐阜県)、紀伊家は和歌山城主、紀伊一国・伊勢松坂(現和歌山県・三重県)、水戸家は水戸城主、常陸一国(現茨城県)を治めた。
参考:『精選版 日本国語大辞典』
[尾張藩]
尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、「名古屋藩」とも呼ばれた。明治の初めには名古屋藩を正式名称と定めた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石(新田開発の結果、実高は100万石近くに達したと言われる)。 木曽の御用林から得られる木材資源は藩財政の安定に寄与する重要なものであった。財政には比較的余裕があったことから、領民には四公六民の低い税率が課されたという。 尾張藩は、一般的に、江戸時代を通じて一揆がなかった藩とされている。
関ヶ原の戦いの戦功(先陣)により徳川家康の四男・松平忠吉が入封(清洲藩、52万石)する。しかし慶長12年(1607年)に忠吉に嗣子がなく死去して天領となった。
代わって1607年に甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である徳川義直(藩祖)が47万2344石で転封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、尾張藩が成立した。
初代藩主・徳川義直は着任当初まだ幼少であったため、初期の藩政は家康の老臣たちによって行なわれたが、成長してからは義直自ら米の増産を目的とした用水整備・新田開発・年貢制度の確立などに務めて藩政を確立している。
参考:『尾張藩』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E8%97%A9
当時の居城であった清須城は、水害などの危険性が高いため新たに築城の必要があったため、1609年(慶長14)、これを受けて家康は、名古屋台地に城を造るよう名古屋遷府令を発した。
家康は、豊臣方への包囲網を築くため、公儀普請によって各地の城の整備を進めていました。丹羽篠山城、丹羽亀山城、伊賀上野城、姫路城、江戸城などに続き、名古屋城も1610年(慶長15)から公儀普請(大名普請)によって築城が始まった。加藤清正、福島正則など、西国や北国の諸大名20名が動員されました(天下普請)。普請による築城には、彼らの経済力を削ぐ目的もあったとされている。
具体的には、外様大名には石垣建造の担当箇所がそれぞれに割り振られた。天守台の石垣は、名手とされた加藤清正が自ら申し出て、3ヶ月とかからずに築き上げた。1612年(慶長17)には、大・小天守が完成。大天守大棟には金鯱が上げられ、尾張徳川家の象徴となる天守になった。同年に本丸御殿建設にも着工し、1615年(元和元)に完成しています。当時の最先端にして高度な技術が駆使されて名古屋城は築かれた。
参考:『特別史跡 名古屋城 名古屋城の歴史』https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/history/kinse/
実際には大名普請では、上記の加藤清正のように将軍家に認めてもらえてもらえたり、他の大名たちへの競争心から幕府の強制というよりも競って普請に参加した一面もあると言われる。
[紀州藩]
江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。
紀伊国は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、甲斐国主であった浅野幸長に与えられ、外様の浅野家の治める紀州藩が成立した。元和5年(1619年)の福島正則改易に伴い浅野家が安芸国・広島藩に移されると、それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・徳川頼宣が浅野の旧領に南伊勢を加えた55万5千石で入部、紀伊徳川家の治める親藩の紀州藩が成立した。
参考:『紀州藩』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E8%97%A9
紀州藩からは、8代将軍徳川吉宗、14代将軍家茂が出ている。ただし、家茂の父徳川斉順は子だくさん将軍の徳川家斉の七男であり、清水徳川家(御三卿)当主を経て紀州徳川家を継いでいる。
参考:『徳川斉順』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E9%A0%86
[水戸藩]
家康の五男武田信吉の死後入封した十男徳川頼宜が和歌山藩(紀州藩)に転封して紀伊徳川家の祖となった後、1606年頼宜の同母弟で十一男の徳川頼房が6歳で、水戸徳川家25万石の祖となった。1626年より房が従三位権中納言に叙任される。これ以後、水戸徳川家は権中納言(中納言の唐名は黄門)に任官された。
水戸藩は徳川御三家の中でも唯一参勤交代を行わない江戸定府の藩であり、万が一の変事に備えて将軍目代の役目を受け持っていたともいわれている。そのため、水戸藩主は領地に不在のまま統治を行わねばならず、物価の高い江戸生活、江戸と領地の家臣の二重化などを強いられた上、格式を優先して実態の伴わない石直し(表高改訂)を行ったため、内高が表高を恒常的に下回っていた。幕府に対する軍役は表高を基礎に計算され、何事も35万石の格式を持って行う必要性があったため、財政難に喘ぐこととなった。
頼房は事情により三男光圀を継嗣とし、庶長子松平頼重は讃岐高松藩12万石を与えられた(水戸入りは1619年)。光圀は学問を好み、『大日本史』の編纂を開始し、水戸藩に尊王の気風を植え付けた。水戸藩で生まれた水戸学は幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた。
15代将軍の徳川慶喜は、水戸藩9代藩主徳川斉昭の七男である。御三卿の一橋家を経て15代将軍となっている。
御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に創立した徳川将軍家の一門。三卿(さんきょう)とも。以下の3家が該当する。
田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)
一橋徳川家(一橋家) - 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)
清水徳川家(清水家) - 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)
御三卿は大名として藩を形成することはなく、実質的には将軍家の身内、いわば「部屋住み」として扱われる存在で、将軍家に後嗣がない際は後継者を提供したほか、御三家をはじめ他の大名家へも養子を提供する役割を果たした。
しかし、御三卿の格式は尾張家と紀州家に準じるものとされたが、屋敷・賄料(経費)・家臣のいずれをも幕府から与えられており、一般的な大名に比べると独立性が非常に弱く、あくまで将軍家の身内にとどまるものだった
御三卿は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、1731年(享保16年)に次男の宗武(田安家初代)へ、1740年(元文5年)に四男の宗尹(一橋家初代)へそれぞれ江戸城内に屋敷を与えたことに始まり、この時は御両典(甲府家・館林家)の例に倣い[1]、2人を指して「御両卿」(ごりょうきょう)と呼んだ[2]。その後、吉宗の長男で第9代将軍となった徳川家重が、1759年(宝暦9年)に次男の重好(清水家初代)へ屋敷を与えたことで「御三卿」の体裁が整った[2][注 1]。以後、将軍家に後嗣がないときは御三家および御三卿から適当な者が選定された。実際、一橋家から第11代将軍徳川家斉と第15代将軍徳川慶喜が出ており、明治維新後は田安家の徳川家達が徳川宗家を相続している。
参考:『御三卿』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%8D%BF
吉宗次男徳川宗武(田安家)(1731)・吉宗四男徳川宗尹(一橋家)(1740)・9代家重次男重好(清水家)(1759)
五街道・参勤交代については→ 江戸の交通の項でもふれています。
2022年出題 妻籠・馬籠は頻出
妻籠宿(つまごじゅく)は、中山道42番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡南木曽町。蘭川(あららぎがわ)東岸に位置する。
現代においては、隣接する馬籠宿((旧長野県木曽郡山口村) 、現在は岐阜県中津川市)と、馬籠峠を越える旧中山道史蹟と合わせて木曽路を代表する観光名所として、外国人を含めて訪れる旅行者が多い。(wikipedia)
重要伝統的建造物群保存地区→ https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/judenken_ichiran.html
[角館]
秋田県東部,仙北市南部の旧町域。横手盆地北部,玉川と檜木内川の合流点に位置し,東は岩手県に接する。1889年町制。1955年中川村,雲沢村,白岩村の 3村と合体。2005年田沢湖町,西木村と合体して仙北市となった。戦国時代末期は蘆名氏の城下町,近世には佐竹氏北家の城下町として発展。今日でも武家屋敷,古い商家が残り,「秋田の小京都」と呼ばれる。武家町の東勝楽丁(ひがしかつらくちょう),表町上丁(おもてまちかみちょう),表町下丁は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定。武家屋敷街のシダレザクラは国の天然記念物,檜木内川堤のサクラ並木は国の名勝に指定されている。木材,薪炭の集散地で,藩士の内職から発展したといわれるサクラの皮を使った工芸品は特産。玉川の抱返り渓谷は景勝地で,田沢湖とともに,田沢湖抱返り県立自然公園に指定。9月に行なわれる角館祭りのやま行事(→角館のお祭り)は国の重要無形民俗文化財に指定されており,2016年に「山・鉾・屋台行事」の一つとして国際連合教育科学文化機関 UNESCOの世界無形遺産に登録された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『角館』
平成30年(2018年)出題
瑞巌寺 宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院である。 日本三景の一つ、松島にあり、山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。江戸時代に入り、松島を含む仙台藩を領した伊達政宗は禅僧虎哉宗乙の勧めで円福寺復興を思い立ち、慶長9年(1604年)から14年(1609年)までの全面改築で完成させた。今に伝わる桃山文化(桃山建築)の本堂(及び庫裏、廊下)などの国宝建築を含む伽藍は、伊達政宗の造営によるものである。この折、寺の名を改めて「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と称した。 江戸時代前期の元禄2年(1689年)に俳人松尾芭蕉が参詣したことにちなみ、毎年11月第2日曜日には芭蕉祭が行われる。また、大晦日には火防鎮護祈祷である「火鈴巡行」と一般も撞ける除夜の鐘が有名である。 五大堂(重要文化財)、本堂障壁画 161面、附:障壁画22面、杉戸絵28面 (重要文化財)
1609年(慶長14年)、オランダとの正式国交が開けた時に平戸に設置され、ヤックス・スペックスが初代商館長となった(オランダの東インド会社)。民家72戸分を立ち退かせて建設した。1628年にタイオワン事件で一時閉鎖されたが、1632年に再開。しかし1640年、建物の破風に西暦年号が記されているのを口実に江戸幕府はオランダ商館の取り壊しを命じ、当時の商館長フランソワ・カロンがこれを了承、1641年に長崎の出島へ移転した。以後、幕末に至るまでオランダ船の発着、商館員の居留地は出島のみに限定された。
参考:『オランダ商館』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E5%95%86%E9%A4%A8
参考:『平戸オランダ商館の歴史』(平戸オランダ商館) https://hirado-shoukan.jp/history/
参考:『平戸オランダ商館』(ながさき旅ネット) 大航海時代の1639年築造倉庫を復元
2022年徳川将軍の任期と併せて出題
江戸幕府によるキリスト教信仰禁止令。1612年(慶長17)春、本多正純(ほんだまさずみ)の与力(よりき)岡本大八と肥前(長崎県)の大名有馬晴信(ありまはるのぶ)の贈収賄事件が発覚し、両者がキリシタンであり、また徳川家康の旗本などにも信者がいることが判明した。この岡本大八事件を契機にして、幕府は同年8月6日(陽暦9月1日)、「伴天連(バテレン)門徒御制禁也。若有違背之族者忽不可遁其罪科事」と全国的にキリスト教信仰禁止を布告。続いて13年(慶長18)12月23日(陽暦翌年2月1日)、僧崇伝(すうでん)によって伴天連追放文が起草され、神道、仏教、儒教の三教一致思想を基礎とする「神国思想」によるキリスト教排撃が宣言された。これと前後して宣教師や有力信徒高山右近(うこん)らの追放が準備され、14年9月右近ら148名は長崎からマカオ、さらにマニラへ追放され、また各地でキリシタン弾圧が開始された。以後この両法令は、禁教政策の祖法とされ、キリシタン禁制政策が推進された。
[村井早苗]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) 禁教令『コトバンク』
徳川将軍家(徳川将軍一覧Wikipediaより)
1.徳川家康 1603~1605
2.徳川秀忠 1605~1623
3.徳川家光 1623~1651
4.徳川家綱 1651~1680
5.徳川綱吉 1680~1709
6.徳川家宣 1709~1712
7.徳川家継 1713~1716
7.徳川吉宗 1716~1745
[徳川秀忠時代の禁教]
家康死去の同年元和2年にはキリシタン禁制に関連して、中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定した。
元和3年(1617年)5月26日に秀忠は諸大名へ所領安堵の黒印・朱印状を与え、同年には寺社への所領安堵状を発している。またこの年に秀忠は諸勢を率いて上洛し、7月21日に参内する。この上洛で秀忠は畿内周辺の大名転封、朝鮮やポルトガル人との面談、畿内周辺の寺社への所領安堵を行い、それまで家康が行っていた朝廷・西国大名・寺社・外交交渉を自身が引き継ぐことを示した。翌元和4年には熊本藩家中の内紛である牛方馬方騒動を裁いた。
元和5年に秀忠は再び上洛して、伏見・京のみならず大坂・尼崎・大和郡山を巡っている。この間、およつ御寮人事件に関係した公家の配流、福島正則の改易、大坂の天領化と大坂城の修築と伏見城の破却、徳川頼宣の駿府から紀伊への転封を始めとした諸大名の大規模な移動を命じた。京ではキリシタンの大規模な処刑を命じており、方広寺門前の正面橋近辺で、彼らを方広寺大仏(京の大仏)に向かいあうように磔にし、火あぶりで処刑した(京都の大殉教)。正面橋東詰には現在「元和キリシタン殉教の地」という碑が建てられている。聖母女子短期大学教授の三俣俊ニは、キリシタンを通常の刑場でなく、大仏門前で処刑したのは、彼らに対するせめてもの情けだったのではないかとしている。
[島原の乱]
天草一揆ともいう。寛永 14 (1637) 年から翌 15年にかけて肥前島原と天草島のキリシタン信徒が起した一揆。この地方は,キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で,住民にもキリスト教徒が多かったが,関ヶ原の戦いののち,天草の領主は小西氏から寺沢氏に代り,さらに元和1 (15) 年島原の領主が松倉氏に代った。松倉氏は農民に対して過重な年貢の負担を強制し,滞納する者には過酷な刑罰を課した。また江戸幕府の禁教政策におけるこの地方のキリシタン弾圧は特にきびしかった。このようななかで寛永 14年(1637) 11月有馬村で代官と農民の衝突が起り,これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起した。これに商人,手工業者,船頭なども加わり,さらに天草の農民がこれに呼応して蜂起し,豪農益田甚兵衛の子四郎時貞 (→益田四郎時貞 ) が首領に推され,小西家牢人 (浪人) や村落代表によって指導部が構成された。一揆は松倉藩兵を破り城代家老を戦死させ原城にたてこもった。幕府は同 12月,鎮圧のため板倉重昌を派遣し近隣諸藩の兵を指揮させたが,一揆の勢力は強く,その数3万 8000人であったといわれる。翌年元旦,総攻撃をかけたが落ちず,重昌は戦死した。幕府は,老中松平信綱を派遣し,信綱は十数万の包囲軍による兵糧攻めや,一時的ではあったがオランダ商船『レイプ』号に依頼して海上から砲撃させるなどしたが,農民は頑強に抵抗した。しかし,食糧や弾薬が尽き,ついに2月末,幕府軍の総攻撃によって陥落した。幕府は 40万両余の費用と数千の武士を失い,一方松倉重次を処刑し,寺沢氏の所領を没収した。以後禁教は一層きびしくなり鎖国を促進した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『天草の乱』
慶長19年(1614)冬、京都、方広寺の鐘銘事件を口実に徳川家康が豊臣氏を大坂城に攻めた戦い。秀頼の軍の奮戦で城は落ちず、いったん和議を結んだ。→大坂夏の陣
出典 小学館デジタル大辞泉
徳川方に取り込まれた織田有楽斎などの甘言により、秀頼が執政片桐勝元を解任、蟄居を命じたのも開戦のきっかけとなったと言われる。
参考:『大坂の陣』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
元和元年(1615)夏、徳川方が冬の陣の和議の条件に反して大坂城内堀を埋めたため豊臣方が兵を挙げ、徳川家康らに攻め落とされた戦い。淀君よどぎみと秀頼の母子は自害し、豊臣氏は滅亡。→大坂冬の陣」
出典 小学館デジタル大辞泉について
[武家諸法度]
江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法。武家とは大名をいう。徳川家康が元和1 (1615) 年大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした直後,諸大名を伏見城に集め,これを発布したため『元和令』ともいう。文武をたしなむべきこと以下居城修補の届出制,婚姻の許可制,参勤交代制など基本的義務 13条を定めている。3代将軍徳川家光のとき 19条となり,その後若干の改訂を経,8代吉宗のとき,5代綱吉の『天和令』を採用してから,幕末までほぼこれによった。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ,これに違反した大名に厳罰を加えた。5代綱吉は,『武家諸法度』を改訂し,天和3 (83) 年以後『諸士法度』に代えてこれを旗本にも適用した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
武家諸法度原文→ http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_hatto_front.html#r
[禁中並公家諸法度]
江戸時代の朝廷や公家を統制するための法令。正しくは禁中方御条目。公家諸法度とも。1615年崇伝の起草により徳川家康が制定。主として天皇の行為が細かく直接に規定され江戸時代を通じて朝廷対策の根本法となった。大名対策の根本法たる武家諸法度はしばしば改訂されたが公家諸法度は不変。
出典:百科事典マイペディア
禁中並公家諸法度(当初は「公家諸法度」)は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた法度である。豊臣氏滅亡後の慶長20年7月17日(1615年9月9日)、二条城において大御所(前将軍)・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、元関白・二条昭実の3名の連署をもって公布された。署名は、二条昭実、秀忠、家康の順である。漢文体、全17条。発布されたときは「公家諸法度」であったが17世紀末に語頭に「禁中並」が加えられた。呼称を変更したのみで内容の変更はされておらず、その内容は江戸幕府終焉まで変わらなかった。これは何度も改定が行われた武家諸法度とは対照的である。
この法度の制定に先立ち、幕府は朝廷への干渉を強めていた。その端緒は、慶長14年(1609年)に発覚した女官らの密通事件(猪熊事件)である。事件後の慶長16年(1611年)、豊臣政権から徳川幕府への過渡期の朝廷をたくみに采配した後陽成天皇が退位し、後水尾天皇が即位した。慶長18年6月16日(1613年8月2日)には、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」が定められた。さらに、慶長20年(1615年)の公家諸法度に至って、公家のみならず天皇までを包含する基本方針を確立した。以後、この法度により、幕府は朝廷の行動を制約する法的根拠を得て、江戸時代の公武関係を規定することとなった。
参考:『禁中並公家諸法度』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD%E4%B8%A6%E5%85%AC%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6
江戸幕府との関係も良好で、慶長16年(1611年)12月26日に実子が無いため大甥で九条忠栄(甥、後の九条幸家)の長男・松鶴を迎え、慶長18年(1613年)2月17日に松鶴に大御所徳川家康の偏諱を賜って康道とした。以後、二条家の歴代当主は徳川将軍家からの偏諱を受けるのが通例となった(二条家は室町時代には足利将軍家からも偏諱を受け、五摂家の中では武家と一番親しい家柄であった)。
参考:『二条昭実』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%98%AD%E5%AE%9F
2022年写真問題として出題。
京都市西京区に所在するもと桂宮 (八条宮) 家の別荘。初代智仁親王 (1579~1629) が元和6 (1620) ~寛永1 (24) 年頃に創設。明治初年桂宮家の廃絶によって離宮となった。当初は現在古書院と呼ばれる建物1棟に庭を配したものであったらしいが,智仁の子智忠の代に2度にわたって増築され,中書院,楽器の間,新御殿が加わって美しい雁行をみせる現在の姿となった。庭園も改修を重ねており,現在は月波 (げっぱ) 楼,松琴亭,賞花亭,笑意軒の4つの茶屋および園林堂が苑内に配されている。建物は数寄屋造のデザインを凝らしたものであり,庭も飛石,灯籠,手水鉢にいたるまで細かい配慮が行届いている。宮内庁所管。来日したドイツの建築家 B.タウトが近代建築の理念につながる美学があると絶賛して以来,広く知られるにいたった。 1976~82年にかけて大規模な解体修理が行われ,増改築の過程が明らかになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『桂離宮』
元和9年(1623年)には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられた。同年3月5日には、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられる。同年6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹・和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。
秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。家光は将軍になるや守役の青山忠俊を老中から罷免して、寛永2年(1625年)には改易に処した(忠俊の子の青山宗俊が後に旗本を経て大名に復帰)。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条城行幸のために再び上洛するが、将軍・家光に対して大御所・秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣および左近衛大将に昇格した。
寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。
参考:『徳川家光』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
スペイン船の来航を禁止。 1624年
[寛永寺]
東京都台東区にある天台宗の寺院。東叡山円頓院と号す。寛永2(1625)年,天海僧正が開山。江戸時代には諸大名の寄進などにより盛大であったが,慶応4(1868)年,戊辰戦争で彰義隊の本拠となって多くの伽藍を焼失。慈眼堂,霊廟,東照宮などを残す。寺域の大部分は上野恩賜公園となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブ
東京都台東区上野にある天台宗の寺。東叡山寛永寺円頓院と号す。天海の創建にかかり1624年着工。京都の御所と比叡山の関係にならい,江戸城の鬼門,上野忍ヶ岡に建てた。1654年に後水尾天皇の皇子守澄法親王が日光山と寛永寺を統括する座主(ざす)となり,輪王寺宮,管領宮,日光御門主と称された。創建に当たっては各大名の寄進により,36堂を建設,1698年根本中堂が完成して壮麗をきわめた。戊辰(ぼしん)戦争の時,彰義隊がここを根拠としたため,全山焦土と化した。
→関連項目上野公園|家相|護持院|不忍池|忍岡|増上寺|天台宗|左甚五郎|輪王寺
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
[天海]
東京都台東区西部にある上野恩賜公園,不忍池,上野広小路付近一帯の総称。江戸時代徳川家の廟所寛永寺の建立により発展。寺域は明治維新後上野公園として開放され,1924年に宮内省から東京市に下賜され上野恩賜公園と改称された。東京国立博物館,国立科学博物館,東京都美術館,上野動物園,東京文化会館,国立西洋美術館,東京芸術大学などの文化・教育諸施設が集中。上野駅周辺から広小路にかけては浅草と並ぶ庶民的繁華街。旅館,食堂,衣料店などが並ぶ。不忍池の弁財天は庶民信仰の対象として有名。湖畔には料亭,料理店が立地。JR上野駅は東北本線,常磐線,高崎線,上信越線などの列車の起点で東京の北玄関となっていたが,東北新幹線や上越新幹線の東京―上野間の開業によりその役割が代わった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『上野』
国立新美術館(六本木)
東京国立近代美術館(千代田区北の丸公園)
国立国際美術館(大阪市北区中之島)
東照大権現の神号を得た徳川家康をまつる神社。全国各地に所在し,そのうち栃木県日光市の日光東照宮が特に有名で,元別格官幣社。元和2 (1616) 年に没した家康の遺体はいったん駿河国の久能山に葬られたが,遺言により元和3 (1617) 年下野国日光山に改葬された。その後,寛永 11 (1634) ~13年に将軍徳川家光が社殿の大々的な改築を行ない,現在の日光東照宮ができた。すべて漆塗りで極彩色が施され,当代の建築装飾が集約されている。社殿の形式は権現造の典型的なもので,最もよく知られている陽明門をはじめ5件8棟が国宝に指定されている。 1999年には近隣の二荒山神社,輪王寺とともに世界遺産の文化遺産に登録。なお東照宮は初め東照社と称し,正保2 (1645) 年東照宮号を朝廷から授けられた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
<平成30年(2018年)の問題>
*輪王寺 栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。明治初年の神仏分離令以後、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称される。近世まではこれらを総称して「日光山」(日光三所権現)と呼ばれていた。現在、「日光山」は輪王寺の山号とされている。また、「輪王寺」は日光山中にある寺院群の総称でもある。
輪王寺の境内は東照宮、二荒山神社の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。
創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。国宝、重要文化財など多数の文化財を所有し、徳川家光を祀った大猷院霊廟や本堂である三仏堂などの古建築も多い。
近世に入って、天台宗の高僧・天海(家康の参謀、秀忠・家光にも重んじられた。天海版大蔵経:天海が作られた木製活字)(輪王寺慈眼堂に廟所あり)が貫主(住職)となってから復興が進んだ。元和3年(1617年)、徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた際に、本堂は、現在日光二荒山神社の社務所がある付近に移された。
承応2年(1653年)には3代将軍徳川家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が設けられた。東照宮と異なり仏寺式の建築群である大猷院霊廟は近代以降、輪王寺の所有となっている。
明暦元年(1655年)、後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の第3皇子・守澄法親王が入寺した。以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」と称された。
*二荒山神社 正式名称は「二荒山神社」であるが、宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と称される。古くは「日光三社権現」と称された。
二荒山神社の境内は東照宮、輪王寺の境内とともに「日光山内」として国の史跡に指定され、「日光の社寺」として世界遺産に登録されている。
二荒山神社は古来より修験道の霊場として崇敬された。江戸時代になり幕府によって日光東照宮等が造営されると二荒山神社も重要視され、現在の世界遺産・重要文化財指定の主な社殿が造営された。また、国宝指定の刀剣2口や多数の刀剣等の重要文化財を現在に伝えているほか、境内は国の史跡「日光山内」に包括されている。
*日光東照宮 日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられる。輪王寺、日光二荒山神社を含めた二社一寺は、「日光の社寺」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている。JR日光駅、東武日光駅にかけて門前町が形成され、参拝者や外国人を含む観光客が多く訪れる 。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために「日光東照宮」とも呼ばれ、東照宮の公式サイトにも「日光東照宮」と書かれている。 寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、荘厳な社殿への大規模改築が行われた。
徳川家康の神格化である東照大権現の本地仏には薬師如来が当てられた 。明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立した。現在でも、東照宮と輪王寺の間で帰属について係争中の施設が一部にある(後述)。1873年(明治6年)に別格官幣社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となっていたが、1985年(昭和60年)に神社本庁を離れて単立神社となった。(なお、平成25年度から平成30年度まで(2013年から2018年までの期間)に小西美術工藝社により「平成の修理」が陽明門でも行われている。この修理の「三猿」の塗り直しにおいて「目がおかしい」との批判があった)
*日光東照宮陽明門 日光東照宮の陽明門は、建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と称されている 。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建つ。門の左右は袖塀を介して東西廻廊につながる。門を入ると正面が唐門で、その先には拝殿がある。(陽明門の装飾に関して詳しい説明がwikipediaにある)
<平成30年(2018年)の問題>
*出羽三山 山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集めている。 三山のうち、羽黒山には3社の神を併せて祀る三神合祭殿と、宗教法人の社務所(鶴岡市羽黒町手向字手向7番地)とがある。
出羽三山は、出羽三山神社の社伝によれば崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。崇峻天皇が蘇我氏に弑逆された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。そこで、3本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて3山の神を祀ったことに始まると伝える。
江戸時代の初期、羽黒山の宥誉別当が徳川将軍家の庇護を受けるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山・月山は天台宗に改宗した。その際宥誉は天海上人の弟子となり、師の名を一字もらい天宥と改名した。天台宗への改宗に湯殿山は反発し、湯殿山派のみ真言宗となった。 江戸時代には「東国三十三ヶ国総鎮守」とされ、熊野三山(西国二十四ヶ国総鎮守)・英彦山(九州九ヶ国総鎮守)と共に「日本三大修験山」と称せられた。東北地方、関東地方の広い範囲からの尊敬を集め、多くの信徒が三山詣でを行った。出羽三山参詣は、「霞場(かすみば)」と呼ばれる講を結成して行われた。
*修験道 修験道は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている 。修験道は、平安時代のころから盛んに信仰されるようになった。その信仰の源は、すでに8世紀からみられた仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の動きの中に求められる。神仏習合は徐々に広まり、神社の境内に神宮寺が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社がそれぞれ建てられ、神職、あるいは僧職が神前で読経を行うなどした。そして、それらの神仏習合の動きと、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道という独自の信仰が成立していった。
*立石寺(りっしゃくじ) 山寺(やまでら)の通称で知られる。山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていた。最上義守の母・春還芳公尼(しゅんげんほうこうに)は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光(よしあき)も立石寺を保護した。義光の時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられている。最上氏が山寺を崇敬し保護するという関係は、最上氏が改易される元和2年(1622年)まで続いていった
元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に書かれている。当地では名句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を詠んでおり、参道に句碑と「せみ塚」[14]がある。
武家諸法度の改定。参勤交代の義務化 1635
日本人の海外渡航禁止 1635
2021年出題
長崎県南部,長崎市の中心市街地を流れる中島川河口にある地区。寛永 10 (1633) 年の鎖国令により,ポルトガル人の隔離を目的として,河口の沿岸に扇形の埋立地「出島」が造成された。完成は寛永 13 (1636) 年。面積約1万 3000m2で,市街地との連絡は1本の橋のみであった。島原の乱後,ポルトガル人が追放され,平戸のオランダ商館がここに移されて,西欧の文物を取り入れる窓として幕末まで存続した。明治以降は周囲が埋め立てられて,往時の面影をほとんど失い,現在の出島地区には史跡の一部が残されているほか,新聞社,病院,倉庫などが雑居。国の史跡の出島和蘭商館跡や聖公会の教会を復元した出島資料館などがある。その東端の新しい出島岸壁は,外国および県内離島航路の発着場となっている。
平戸のオランダ商館、出島に移転 1641
1637年(寛永14年)10月25日(1637年12月11日)から1638年(寛永15年)2月28日(1638年4月12日)まで、島原・天草地域で引き起こされた、百姓を主体とする大規模な武力闘争事件である[4]。島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)、島原・天草の乱(しまばら・あまくさのらん)、とも呼ばれる。
島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、江戸時代の大規模な反乱・内戦である。
幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女37,000人は全員が死亡し、助命されたのは一揆勢に捕縛され、城中に連行された松倉家の家臣筋の絵師山田右衛門作と口之津蔵奉行の家族だけである。
ただし、幕府軍の総攻撃の前に多くの投降者や一揆からの脱出者が出たとする説もある。城に籠城した者は全員がキリシタンの百姓だったわけではなく、キリシタンでないにもかかわらず強制的に一揆に参加させられた百姓や、或いは戦火から逃れるために一揆に参加した百姓も少なくなかった。一揆からの投降者が助命された例や、一揆に参加させられた百姓の中に、隙を見て一揆から脱走した例、正月晦日の水汲みの口実で投降した例などがあることが各種史料から確認されている。
参考:『島原の乱』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
参考:『原城』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%9F%8E
↓平成4年から、島原の乱がおこった原城では発掘調査が行われており、およそ7万点の遺物が発見されている。原城は面積約42万平方メートル、海に突き出た高台にある。調査では十字架、銃弾、砲弾などが発見されている(有馬キリシタン遺産記念館に展示)。
古文書を読み解くと松倉・の飢饉時の重税による過酷な弾圧に苦しんだ(背中に火をつける事)農民がキリスト教に救いを求め一揆をおこしたが、小西家滅亡後の天草の浪人たちが農民を引き込むために「やがてこの国に一人の善人が現れる」という予言を用いて天草四郎と言う青年を担ぎ上げシンボルとしてまとめ上げて言った。四郎は原城の本丸近く(教会か?)に住んでマジック(めくらしの術)を使い(『四郎乱日記』(天草キリシタン館))、キリスト教の奇跡を起こして見せ人々を惹きつけた。なお一揆後は四郎を見たものは無いと記されている。番組では教会にこもって祈り続け、浪人たちが四郎を神格化して神の伝令が下ったと農民たちに伝えたと推論している。
参考:『歴史探偵 天草四郎と島原の乱』(2023年5月24日放送)(NHKオンデマンド) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2023127810SA000/
参考:『世界遺産 原城二ノ丸跡から出土 一揆当時の砲弾、銃弾か』(長崎新聞)
2019/03/09 [11:00] 公開
https://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=476917100830671969
<平成30年(2018年)の問題>
小江戸(こえど)とは「江戸のように栄えた町」「江戸時代を感じさせる町」といった意味合いで使われる、都市の比喩的な表現。代表例としては、川越(埼玉県川越市)、佐原(千葉県香取市佐原)、栃木宿(栃木県栃木市)が挙げられる。 「小江戸」という言葉がクローズアップされたきっかけは、1996年に開催された「小江戸サミット」である。千葉県夷隅郡大多喜町・神奈川県厚木市・山梨県甲府市、静岡県磐田市(旧磐田郡竜洋町)掛塚・滋賀県彦根市なども、小江戸と呼ばれることがある。
*栃木宿(下野国)(栃木県) 吹上藩の城下町であり(ごく初期しか城は持たず、陣屋だったが)、また日光例幣使街道の宿場町(栃木宿)でもあった。蔵の街としても知られている。全国京都会議にも参加しており、「小江戸」と「小京都」の両方を名乗っているが、小江戸サミット参加以降は「小京都」よりも「小江戸」を観光のキャッチフレーズとして使用することが多い。2年に1度、江戸の祭礼の影響を少なからず受けたとちぎ秋まつりが行われている。
*川越(武蔵国)(埼玉県) 「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と江戸時代から謳われ、喜多院には江戸城の建物の一部が移築されている(春日局)。松平信綱・柳沢吉保といった江戸幕府の重臣や親藩が藩主を務めた川越藩の城下町であり幕府から重視されてきた。古く鎌倉幕府の有力御家人であった河越氏と江戸氏は同族で、室町時代に太田道灌が川越城と江戸城を築城し川越街道で結ぶなど古来から武蔵国内で特殊な関係にあった。江戸時代以降は新河岸川の舟運で江戸と深く結びついた。旧市街地北部の7.8ヘクタールの区域が重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。「COEDOビール」など市内特産品にも小江戸の名が冠される。また西武新宿線本川越~西武新宿間を走る特急「小江戸」も川越に因んだものである。江戸の天下祭の往時の姿を最もよく伝える川越まつりが行われている。
*佐原(下総国)(千葉県) 「“北総の小江戸”、”水郷の町”」と呼ばれ「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われた商家町。
伊能忠敬が商人として活躍していた町であり、利根川水運の拠点のひとつ。江戸との交流が隆盛を極め、醸造業や商業が大きく発展。
小野川沿いと香取街道沿いの7.1ヘクタールの区域が1996年、関東地方で初めて重要伝統的建造物群保存地区として選定された。小野川沿いを中心とした地区は、江戸の雰囲気そのままに土蔵造りの商家や町屋が軒を連ね、江戸の影響を多少なりとも受けた佐原の大祭では豪華絢爛な山車が引き回される。近年では北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並みとして佐倉(城下町)・成田(門前町)・銚子(漁港・港町)とともに日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」に認定された。
○栃木宿(栃木県栃木市)
○川越(埼玉県川越市)
○佐原(千葉県香取市)
江戸時代,寛永年間 (1624~44) に日本海,瀬戸内海を経て大坂にいたる西廻海運に就航した廻船。北陸では「べんざい」 (弁財船) と称した。 18世紀末には航路は蝦夷地まで延び,北陸,奥羽,松前の米穀や海産物を買入れて下関海峡を経て瀬戸内海に出て大坂にいたり,ここで積荷を売りさばいては酒,塩,雑貨を仕入れ,北国で売払って巨利を得た。買積商内 (かいづみあきない) と呼ばれるように,運賃積によらず船主が売買問屋を兼ねた。近江商人や北陸筋の商人が船主であった。加賀の銭屋五兵衛は有名。幕末から明治初期が最盛期で,中期以降は,汽船や内陸鉄道網の発達によって衰微していった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[東廻り航路]
江戸時代,日本海沿岸から津軽海峡を経て太平洋を南下し,江戸に至る航路
元来奥州諸藩の蔵米輸送は川舟で北上川・阿武隈川河口に下り,廻船で下総銚子まで運び,また川舟で利根川・江戸川経由で江戸に送った。1670年,幕命で河村瑞賢が外海江戸廻りの直航コースを開き,相模の三崎から江戸に入る航路を開発,費用・損害を軽減し,大いに利用度を高めた。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
[西廻り航路]
江戸時代,日本海沿岸から西に進み,下関・瀬戸内海を経て大坂に至る航路
寛文年間(1661〜73)加賀藩が下関経由で大坂へ廻米したのに始まり,1671年河村瑞賢が出羽最上地方の幕府米を西廻りで廻送するため西廻り航路を整備してから発達した。北前船が就航。これにより従来の敦賀〜小浜〜琵琶湖〜大津〜京都を通る廻米は衰退。日本の沿岸航路が完成し,大坂・京都・江戸の三都を中心とする全国市場の成立を可能にした。この経済社会の発展を基盤に,上方中心の元禄文化が興隆した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版
明和・文化の大火と江戸三大大火。江戸時代最大の被害。天守を含む江戸城を初めとして多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失、死者も3万(『上杉年譜』など)から10万(『本所回向院記』『山鹿素行年譜』など)と記録されている。天守はこののち再建されることは無かった(役目を終えていたため)。
火災後、身元不明の遺体は幕府が本所牛島新田に船で運び埋葬し、供養のため現在の回向院が建立された。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助を行った。松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行し、1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行い、災害復旧に力を注いだ。松平信綱は米相場の高騰を見越して、幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。それを受けて、地方の商人が江戸で大きな利益を得られるとして米を江戸に送り、幕府が直接に商人から必要数の米を買いつけて府内に送ったため、府内に米が充満して米価も下がった。
復興対策としては、区画整理のための建築制限令の公布、両国橋の架設、神社仏閣の移転(燈明が火元。浅草・駒込・三田などへ移転)、屋根の防火対策、広小路・火除土手の設置などが行われた。
江戸城を防備するために、それまで隅田川には千住大橋しか架けられていなかったが、川向こうの本所方面に逃げられずに焼け死んだ人たちが多かったことから、大火後、本所方面の開発に合わせて、万治2(1659)年、隅田川にはじめての橋として両国橋が架けられた。
参考:『明暦の大火』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9A%A6%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB
参考:『明暦の大火とエピソード』(東京消防庁) https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/libr/qa/qa_30.htm
参考:『第2章 明暦大火の出火・延焼経過』(内閣府防災情報)(PDF) (延焼図有り)
シャクシャインの戦い(江戸時代)とコシャマインの戦い(平安時代)のセットで出題。どちらがどちらか間違えないよう。
1669年6月にアイヌでシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌ2部族の抗争、報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した。日本の元号の「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起とも呼ばれている。シブチャリに退いたシャクシャインは徹底抗戦の構えであったが、鉄砲の威力で松前藩勢の優位の展開となり、償いの宝物などの提出、シャクシャインらは助命という条件で和議となった。戦いの長期化による交易の途絶や幕府による改易を恐れた和睦の申し出だったが、シャクシャインはこの和睦に応じ11月16日(10月23日)、ピポク(現新冠郡新冠町)の松前藩陣営に出向くが和睦の酒宴で謀殺された。
参考:『シャクシャインの戦い』Wikipedia
寛文九年(一六六九)、蝦夷(えぞ)地(北海道)で松前藩の不公平な交易方針に反対するアイヌの首長シャクシャインが起こした反松前・反和人の戦い。全北海道に広がったが、鉄砲を持つ松前藩が優勢となり、和議の席でシャクシャインは殺された。以後、松前藩のアイヌ搾取が強められた。
参考:『シャクシャインの戦い』精選版 日本国語大辞典
江戸時代前期、江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉によって制定された「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称。1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総体である。
保護する対象は、捨て子[注釈 2]や病人、高齢者、そして動物である。対象とされた動物は、犬、猫、鳥、魚、貝、虫などにまで及んだ。
漁師の漁は許容され、一般市民はそれを買うことが許されたとの説もある。
貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[5]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている[6]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている。
根崎光男はまた、天和3年(1683年)に綱吉の子・徳松が5歳で病死しているが、この頃から死や血の穢れを意識した政策である服忌令の制定が進められており、子の死によって綱吉の思考に、生類憐れみの観念が助長されていったとみている。
かつては跡継ぎがないことを憂いた綱吉が、母桂昌院が帰依していた隆光僧正の勧めで発布したという説が知られていた。ただし、隆光を発端と見る説は近年後退しつつある[3]。この説は太宰春台が著者ともされる『三王外記』によるものであるが、隆光が知足院の住侍として江戸に滞在するようになった貞享3年(1686年)以前から、生類憐れみ政策は開始されている。
『生類憐みの令』Wikipediaより抜粋 後でまとめる事
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4
江戸時代における江戸幕府の直轄地。天領は俗称である。幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代からで、幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまりである。その後、天領の呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。
江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)だった。その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)の呼び名もある。
上記の観点から、近年は幕府の直轄地の呼称は「天領」から「幕領」と呼ぶ傾向になっている。
天領は、豊臣政権時代の徳川氏の蔵入地が基である[1]。関ヶ原の戦い、大坂の陣などでの没収地を加えて、17世紀末には江戸幕府直轄地は約400万石となった。その地からの年貢収入は江戸幕府の財政基盤となった。
京都、大坂、長崎など重要な都市や、佐渡金山などの鉱山、湯の花から明礬を生産していた明礬温泉も天領とされた。佐渡、甲斐、飛騨、隠岐は一国まるごと天領となった。
また、蝦夷錦や俵物の産地であった蝦夷地では、1799年(寛政11年)には東蝦夷地(北海道太平洋岸および北方領土や得撫郡域)が、1807年(文化4年)には和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸や樺太およびオホーツク海岸)が天領となり、このとき奉行所は宇須岸館に置かれ奥羽諸藩が警固に就いた。文化6年(1809年)に西蝦夷地から、樺太が北蝦夷地として分立。松田伝十郎による改革で、山丹交易を幕府直営とした。1821年(文政4年)には一旦松前藩領に復した。1855年(安政2年)になると、和人地の一部と蝦夷地全土が松前藩領から再び天領とされているが、1859年(安政6年)の6藩分領以降に奥羽諸藩の領地となった地域もあった。箱館奉行所は、幕末の元治元年(1864年)から五稜郭に置かれた。
幕府直轄の各領地には代官処がつくられ、郡代や代官・遠国奉行が支配した。また預地として近隣の大名に支配を委託したものもあった。観光地として有名な岐阜県高山市の高山陣屋は、江戸幕府が飛騨国を直轄領として管理するために設置した代官所・郡代役所である。
江戸時代末期に老中首座となった水野忠邦は、天保の改革の一環として上知令(江戸城大坂城の十里四方を天領とする)を発令したため、天領の石高は増えたが、周辺に領地を持つ大名から大きく非難された。
参考:『天領』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%A0%98
<平成30年(2018年)の問題>
*天領とは
江戸幕府の直轄領(幕府領,幕領)の俗称。御料所ともいう。江戸時代の全国の土地は,皇室領,寺社領,大名領,旗本知行所(→知行所),幕府直轄領に分かれていた。そのうち幕府直轄領は約 400万石を占め,全体の 15.8%に相当した。田畑だけでなく全国の主要な鉱山,港湾,交通・商業の重要地点が編入されており,鉱山では佐渡や生野などが代表的な例である(→生野銀山,佐渡鉱山)。全国 68ヵ国中 47ヵ国に置かれ,幕府の主要な財源となった。江戸幕府の場合は豊臣氏の太閤蔵入地ほど多くはなかった。他の大名領に比較して年貢率も低いのが特色で,勘定奉行の指揮下にある郡代や代官が支配した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク)
*日本遺産 「飛騨匠の技・こころ - 木とともに、今に引き継ぐ1300年 」(以下、飛騨高山観光公式サイト、日本遺産ポータルサイトによる)
◎ストーリー
「飛騨工制度」は古代に木工技術者を都へ送ることで税に充てる全国唯一の制度で、
飛騨の豊かな自然に育まれた「木を生かす」技術や感性と、
実直な気質は古代から現代まで受け継がれ、高山の文化の基礎となっている。
市内には中世の社寺建築群や近世・近代の大工一門の作品群、伝統工芸など、
現在も様々なところで飛騨匠の技とこころに触れることができる。
これは私たちが木と共に生きてきた
1300年の高山の歴史を体感する物語である。
◎主な構成文化財
〇飛騨工(ひだのたくみ)制度 飛騨工制度は、古代における租税制度の中で、飛騨国1国のみに対して特別に定められた制度である。養老2年(718)に制定された養老令賦役令の斐陀国条に、庸、調といった税の代わりに年間100人程の匠丁(技術者)を都へ派遣することが定められている。この匠丁が飛騨工である。 飛騨では、奈良時代以前の古代寺院が14箇寺以上と、全国でもまれにみる密度で確認されており、飛騨工制度ができる以前から寺院を建てる高い建築技術をもっていたことがわかる。都の造営にあたり木工技術者の需要が高まり、その優れた技術力を活用するため、この制度が設けられたのである。 その他、『源氏物語』や『今昔物語集』にも飛騨工が優れた木工技術者として描写されている。古代に都で飛騨工が建てた記録が残る建造物には、甲賀宮、平城宮、平安宮などの宮殿や、西大寺、石山寺、西隆寺などの寺院等が知られており、建築物のほか建具、家具の製作に携わっていた。 飛騨工制度は鎌倉時代、古代律令制度の終焉とともに消滅するが、飛騨匠(飛騨工制度消滅後の飛騨の木工技術者について「飛騨匠」と記載する)はその後も全国で建築活動を行っている。鎌倉時代の飛騨匠の手による建造物として、西明寺本堂や三重塔(共に国宝・滋賀県)が現存する。また、現在も「飛騨匠の祖」として崇敬を集める飛騨権守・藤原宗安は、1311年に長滝寺の大講堂(明治32年焼失・岐阜県郡上市)の大工頭を務めている。
〇国府盆地の中世社寺建築群(飛騨匠の残した建造物) 古代寺院跡の多い国府盆地には、中世に遡る建造物も多く残されており、飛騨の社寺建築の流れを知ることができる。荒城神社本殿は明徳元年(1390)再建であり、阿多由太神社本殿は室町時代初期の建立、熊野神社本殿は室町時代後期の建立と伝わる。いずれもサワラやヒノキ、スギを多く用いて作られるが、現在では入手困難なほどの良材を使用している。安国寺経蔵は応永15年(1408)建立で、内部の輪蔵(回転書架で、一回転すると納入された経典をすべて詠んだことになる)は、日本現存最古のものである。
〇高山城とゆかりの建築群 近世初期、天正16年(1588)から慶長8年(1603)まで16年の年月をかけて飛騨匠たちが建てた高山城(金森長親。1695年(元禄8年)金森氏国替えで天領となったため、高山城は棄却 )は、「城郭の構え、およそ日本国中に五つともこれ無き見事なるよき城地」であったと、近世中期の地誌にも書かれた名城であった。城は元禄8年(1695)に取り壊されたが、それ以前に高山城から移築された建物が東山の寺院群等の建物として残されており、それらを巡ることで今は無き名城高山城をしのび、商家町として発達する以前、城下町として出発したころの高山を感じることができる。
〇近世・近代の匠達 飛騨の社寺建築の美しさの一つに、屋根の優美さがある。飛騨の山々の形に似た美しさを見せる社寺建築の屋根の曲線は、親方から代々伝わる口伝を基に、棟梁の感性によって形作られる。装飾で飾られても、全体を見るとすっきりと簡素に見えるのも、職人の技と感性によるものである。町人文化が発達した近世以降、制作者である職人に加え、発注者であり文化の主要な担い手である旦那衆、作品を評価する周囲の町人の三者の優れた感性によって、高山では多くの名建築や工芸品が生まれてきた。
近世飛騨の社寺建築は、和様を基本として柱上の組み物などに他地域とは異なる独自性が見られる。通常のヒノキやスギでなく、カツラやクリ、マツなど多彩な木材を使うことも大きな特徴であり、ここにも木材を知り尽くした飛騨匠の技を見ることができる。この時代、代々木工を職とする一門が多く現われ、飛騨匠の技の伝承がなされた。このうち、飛騨権守・藤原宗安の直系とされるのが、江戸時代中期以降4代にわたり「水間相模守」を名乗り、優れた彫刻を特徴とした水間一門である。
〇木を生かす伝統工芸
木の美しさを生かす技は、建築以外にも発揮された。400年前に高山で生まれた飛騨春慶は、江戸時代初期、打ち割った木の木目を生かすために透明な漆で盆に仕上げたことに始まる漆器で、透明で木地の木目が見える漆を用いるため、素材の見立て、加工から漆塗まで全てにわたって高い技術が要求される。宗猷寺には山中を移動しながら木地椀などを作った江戸時代中期以降に築かれた木地師の集団墓地が残されている。一位一刀彫は江戸時代後期、色彩を施さず、イチイの木が持つ木の美しさを生かした彫刻として完成された。これらの伝統工芸の技術や木工技術の粋を結集して作られたのが高山祭屋台である。
*高山祭 岐阜県高山市の春秋の祭り。高山市を南北に分け、南は山王(さんのう)社(日枝(ひえ)神社)の氏子、北は桜山八幡(はちまん)(八幡神社)の氏子になっている。日枝神社の祭りは4月14、15日で山王祭といい、八幡神社の祭りは10月9、10日(もとは旧暦9月14、15日)で八幡祭といった。高山祭(山王祭と八幡祭)の特色は、豪華な屋台の練行(れんぎょう)である。本居宣長(もとおりのりなが)の弟子、田中大秀(おおひで)が、神社を復興し神事を盛大にするため始めたといわれており、文化・文政(ぶんかぶんせい)(1804~1830)のころ、舶来の織物や材料をふんだんに使い、彫刻の名人を抱え、莫大(ばくだい)な財力を投じて屋台30台をつくった。その後保存と修理に努めて、いまは春祭12台、秋祭11台が曳(ひ)き出される。四輪の台車の上に三段重ねの屋台を構えたもので、上段は4本柱に切妻屋根をかけ、中段には氈(せん)を巡らし、黒漆で全体を塗って金色の金具が打ち付けてある。上段には各町内で趣向を凝らした人形を設け、下の台の中で綱によって操作して踊りをさせるものもある。当日は神輿(みこし)の渡御(とぎょ)に続いてこの屋台を繰り出し、囃子(はやし)につれて市中を練る。この行事は、国の重要無形民俗文化財の指定を受けており、代表的な屋台は屋台会館に展示され、観覧することができる。
[井之口章次]『山本茂実著『高山祭』(朝日文庫)』出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク)
岐阜県高山市で毎年開催される、4月14~15日の日枝神社例祭「春の山王祭」[1]と、10月9~10日の櫻山八幡宮例祭「秋の八幡祭」の総称である[2]。
「屋台」と呼ばれる山車を曳いて市街を巡幸することから、京都市の祇園祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭や日本三大美祭の一つに数えられる。重要有形民俗文化財および重要無形民俗文化財に指定されている。
山王祭は江戸時代前半、元禄5年(1692年)の記録に40年前から3年ごとに祭礼が行われていたとの記録があることから、その歴史は飛騨高山藩主金森頼直治世下の慶安5年(1652年)まで遡ることができる。ただし、この時点では屋台が曳行されたとの記録はない。屋台の創建は最も古い屋台の創建が宝暦年間であることから、屋台が祭に加わったのはそれ以降と考えられる。 八幡祭は享保元年(1716年)の記録が最も古い。その後、享保3年に4台の屋台(猩々、高砂、湯ノ花、浮嶋太夫夫婦)を曳いたとの記録がある。
初期の屋台は祭の度に建造と解体を繰り返していたため50年ほどで部品が劣化して新造していたが、天保年間に起きた火災で多くの屋台が焼失したことを契機として、屋台蔵が普及して屋台を解体せずに済むようになったことで屋台の寿命が延び、高価な彫刻などが取り付けられるようになった。江戸時代には高山の町に多くの豪商がおり、京都から織物や金具を買い付けて取り付けるなどしてその華やかさを競った。第二次世界大戦後、高山祭を支えていた豪商が没落して屋台の維持管理が困難になったことから山王祭と八幡祭の屋台組が合同して1951年(昭和26年)に高山屋台保存会を結成。これ以降二つの祭りは高山祭と呼ばれて文化財として一括して扱われるようになるが、それぞれの祭りを担う屋台組や組織はそれぞれ独立している。
2016年(平成28年)12月1日、エチオピアのアディスアベバで開催されていたユネスコ無形文化遺産条約第11回政府間委員会において、「高山祭の屋台行事」を含む日本の「山・鉾・屋台行事」のユネスコ無形文化遺産代表一覧の記載(ユネスコ無形文化遺産登録)が決定した。 (Wikipedia)
*飛騨郡代 江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つ。飛騨国全域ならびに美濃国の山間部、越前国および加賀国の一部に所在した幕府直轄領の民治を司る行政官であり代官である。勘定奉行支配で席次は西国郡代に次ぎ、焼火間詰。役高は四百俵。
1588年(天正16年)より飛騨国一円は飛騨高山藩金森氏によって治められてきたが、1692年(元禄5年)幕府は当時の藩主金森頼旹を出羽国上山藩へ移封し、飛騨国を幕府領とした。これは幕府が飛騨の豊富な木材資源と鉱物資源(金・銀・銅・鉛など)に着目し、幕府財政の安定を図る目的があったと考えられている。以後、高山城を廃城とし、高山城の下屋敷を高山陣屋として行政を行なった。
高山陣屋は、江戸時代の建物が唯一現存する天領陣屋である。
第21代の飛騨郡代は、小野高福(幕末の三舟、政治家であり、剣・禅・書の達人の山岡鉄舟の父)。
1709年から1716年の間、江戸幕府において、6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継のもとで、儒学者新井白石が進めた文治政治である。5代将軍徳川綱吉の政治を立て直すため、貨幣の質を戻したり、貿易を制限したりした。
参考:『正徳の治』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%BE%B3%E3%81%AE%E6%B2%BB
江戸時代,8代将軍徳川吉宗が幕政建直しのために行なった改革。幕府三大改革のなかで最初に行われたことから,のちの改革の目標となった。吉宗の将軍襲職の享保1 (1716) 年に始り,その在職中に行われた。江戸時代中期になると,封建制の矛盾が次々と現れ,また幕府制度の矛盾も表面化して,幕藩体制の危機は深刻化していた。そこで吉宗は,農村対策として定免制を施行して年貢収納の強化をはかり,生産量を増すために新田開発やサツマイモ (甘藷) の栽培を奨励して農民の生活の安定をはかろうとした。都市の商業資本に対しては株仲間の公認や通貨の統一に努め,おもにその統制に力を注いだ。高利貸資本の圧迫により貧窮の状態にあった旗本や御家人のために上米 (あげまい) の制や相対済 (あいたいすまし) 令を出すことによって救済につとめ,一方幕府内部において人材登用のため足高 (たしだか) の制を定めて幕政運営の硬直化を防ごうとした。その他法典の編纂に努めた。『公事方御定書』の制定や『御触書寛保集成』の編集はその成果である。吉宗は目安箱を設置して広く庶民の意見を聞き,前代までの文治政治による装飾化を嫌って実用主義的な立場で政治を行なった。その傾向は文化面においても現れた。医学や洋学の奨励はその現れである。しかしこの改革も享保の飢饉と米価下落のために十分な成果をみず,幕府の安定は一時的なものに終った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『享保の改革』
上米の制、目安箱の設置、公事方御定書などを抑える
江戸時代、金銀貸借、売掛金などに伴う訴訟に公権力は関与しないとして、相対(当事者同士)で解決するよう命じた法令。 債権そのものの消滅を意味する棄捐(きえん)令と区別される。 相対済令は、1661年(寛文1)から1843年(天保14)に至るまで8回出されている。
江戸幕府の基本法典。享保の改革を推進した8代将軍・徳川吉宗の下で作成された。上巻・下巻の2巻からなる。上巻は警察や行刑に関する基本法令81通を、下巻は旧来の判例を抽象化・条文化した刑事法令などを収録した。特に下巻は『御定書百箇条』(おさだめがきひゃっかじょう)と呼ばれている。
編纂は老中の松平乗邑を主任に、勘定奉行、寺社奉行、江戸町奉行の石河政朝の三奉行が中心となる。年表などでは寛保2年(1742年)成立とされるが、改訂作業が続けられており最終的に確定したのは宝暦4年(1754年)である。
奥書には「奉行中之外不可有他見者也」と記され、本来は幕府の司法中枢にあった者のみが閲覧できる文書だった。
参考:『公事方御定書』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E4%BA%8B%E6%96%B9%E5%BE%A1%E5%AE%9A%E6%9B%B8
公事方=訴訟を扱う機関。
上巻には法令、つまり守るべき決まりごと81条が書かれています。下巻には、過去の判例をもとに、上巻の法律を破ったり、罪を犯したりした場合の刑罰について定め、訴訟・裁判の手続きなども記されていました。
条文と判例に基づいて裁判が行われるようになったため、それ以前と比べ格段に迅速化したのです。とは言え、複数の役人が議論を重ねるため、様々な解釈の違いが生まれることもあったと言われています。
参考:『公事方御定書』(刀剣ワールド) https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/kujikataosadamegaki/
2020年出題。
浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)の『仮名手本(かなでほん)忠臣蔵』の略称。近年では赤穂(あこう)浪士の仇討(あだう)ちを題材にした戯曲・小説類の総称ともいえる。浅野内匠頭(たくみのかみ)の刃傷(にんじょう)は、事件の翌年1702年(元禄15)3月、早くも江戸・山村座の『東山栄華舞台(ひがしやまえいがのぶたい)』という小栗判官(おぐりはんがん)の芝居に脚色され、事件落着直後の1703年2月16日には江戸・中村座で義士討入りを暗示した『曙曽我夜討(あけぼのそがのようち)』を上演し、3日間で中止を命ぜられたという。その後も歌舞伎で数回脚色されたが、浄瑠璃で近松門左衛門が1706年(宝永3)10月の大坂・竹本座に書いた『碁盤太平記(ごばんたいへいき)』は、足利(あしかが)時代の「太平記」を世界にした構成と高師直(こうのもろなお)(吉良義央(きらよしなか))、塩冶判官(えんやはんがん)(浅野内匠頭)、大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)(大石内蔵助(くらのすけ))、寺岡平右衛門(寺坂吉右衛門)などの役名を後代に伝え、なかでも竹田出雲(いずも)・三好松洛(みよししょうらく)・並木千柳(せんりゅう)合作の浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』(1748)が大好評を博し、歌舞伎に移されても最高の人気狂言になってからは、これを母体に無数の書替えものが生まれた。
浄瑠璃では近松半二(はんじ)の『太平記忠臣講釈(ちゅうしんこうしゃく)』、福内鬼外(ふくうちきがい)(平賀源内)の『忠臣伊呂波実記(いろはじっき)』、明治期の作という『増補忠臣蔵』(本蔵下屋敷(ほんぞうしもやしき))など、歌舞伎では奈河七五三助(ながわしめすけ)の『義臣伝読切講釈(よみきりこうしゃく)』(現行名題(なだい)『忠臣連理(れんり)の鉢植(はちうえ)』、俗に「植木屋」)と『いろは仮名四十七訓(しじゅうしちよみ)』(弥作(やさく)の鎌腹(かまばら)、鳩(はと)の平右衛門)、三升屋二三治(みますやにそうじ)の『裏表忠臣蔵』(蜂(はち)の巣の平右衛門、道行旅路の花聟(はなむこ)、宅兵衛(たくべえ)上使)、河竹黙阿弥(もくあみ)の『忠臣蔵後日建前(ごにちのたてまえ)』(女定九郎)、『仮名手本硯高島(すずりのたかしま)』(赤垣源蔵)、舞踊として3世桜田治助(じすけ)の『仮名手本忠臣蔵』、黙阿弥の『忠臣蔵形容画合(すがたのえあわせ)』など。以上、おもな作品の名題に多く使われているように、「忠臣蔵」は赤穂義士劇の代名詞のようになり、その傾向は近年にも及び、昭和期には真山青果(まやませいか)の『元禄(げんろく)忠臣蔵』が生まれている。
[松井俊諭]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『忠臣蔵』
[赤穂浪士]
江戸中期、主君浅野長矩(あさのながのり)の仇(あだ)を報ずると称して吉良義央(きらよしなか)を討った赤穂浅野家の遺臣をいう。1701年(元禄14)3月14日、幕府の年賀に対する答礼のための勅使が到着する直前に、江戸城本丸松之廊下で勅使接待の役にあった浅野長矩(播磨(はりま)赤穂城主5万3500石)が、突然吉良義央(旗本、高家肝煎(こうけきもいり))に斬(き)りかかって傷を負わせる事件が起きた。幕府は、浅野の行為を時と所をわきまえぬ犯罪とみなし、ただちに切腹を命じて所領を没収した。浅野の動機は不明であるが、吉良が儀礼上の指示を十分与えなかったためであるともいわれ、浅野家中をはじめ巷間(こうかん)ではそのうわさを信じた。そこで、幕府がこの事件を単純な犯罪とみたのに対して、吉良との間の喧嘩(けんか)とみ、両成敗の処分を期待した浅野側では、幕府の処分を片落ちとし、吉良を、浅野を破滅に陥れた仇敵(きゅうてき)とみなした。そして改易(かいえき)、切腹の処分によって失われた浅野家の名誉は、浅野家が再興され吉良に処分が加えられるか、または亡君の遺志を継いで吉良を殺し両成敗の処分を事実上完成させることで回復されると考えた。前者は家老であった大石良雄(おおいしよしお)以下多数の考えであり、長矩の弟大学(だいがく)による浅野家の取り立てを幕府に嘆願した。しかし翌1702年7月に大学は広島の浅野本家に御預けとなってこの計画は挫折(ざせつ)し、多くの家臣は離散した。後者は堀部武庸(ほりべたけつね)(安兵衛)らいわゆる急進派の意図であったが、浅野家再興の望みがなくなったのちは大石らもこれに合流。そして12月14日大石以下の浅野家遺臣が江戸・本所(ほんじょ)にあった吉良邸に乱入し、吉良義央を殺害してその首を高輪(たかなわ)の泉岳(せんがく)寺の長矩の墓前に献げ、大目付(おおめつけ)に自首した。幕府では大石以下の行為は「公儀を恐れざるの段、重々不届き」であるとして切腹を命じ、1703年2月4日全員が死についた。吉良邸に討ち入ったのは47人ともいわれるが、このとき死んだのは46人(寺坂信行を除く)である。
彼らは死後、義士、義人として世にたたえられた。彼らが亡君の遺志を継いで吉良を殺し仇讐(きゅうしゅう)を報ずることによって、浅野家の名誉を回復したことが、家臣、武士としての「義」にあたると考えられたからである。大名の「家」は江戸時代における政治的単位であり、また閉鎖的な武士の共同体でもあったから、その首長=主君たる大名に生命を捧(ささ)げ、主家の名誉のために死を賭(と)することは確かに「義」ではあったろう。だが、もしその主君が幕府=将軍に敵対していたとすれば、同じ行為も幕府からみれば「非義」となる。浅野長矩はその犯罪行為のために幕府から死刑に処せられた。大石以下の者は「主人の讐(あだ)を報ず」と申し立て吉良を討ったが、幕府の論理では、吉良は単に被害者にすぎず、大石らは幕府の処分を不満とし吉良を殺害することでそれに反抗したものとみるほかはない。彼らが死刑に処せられたのはそのためであり、単に徒党の禁を犯したなどの事情によるのではない。赤穂浪士の評価にはこの二つの見方ができる。幕府も斬罪(ざんざい)とはせず切腹とし、墓に葬ることを認めたのであるから、その情状は酌量したのである。同時に吉良家も、当主義周(よしちか)の討入り当日の仕方が「不埒(ふらち)」であるとの理由で断絶させられた。彼らを「義士」とする者は室鳩巣(むろきゅうそう)以下多数であり、その行為を「非義」として批判した佐藤直方(なおかた)、太宰春台(だざいしゅんだい)らは少数派であったが、家臣たる武士はだれでも四十六士同様この二つの立場にその身を引き裂かれないとも限らなかったから、問題はきわめて深刻であった。それが将軍―大名、大名―家臣という二重の主従制の下に生きる徳川武士の運命であったのである。そのうえで家臣としての「義」がより重視されたことは、幕藩制という制度または組織を考えるうえで注目に値する。近松門左衛門の『碁盤太平記(ごばんたいへいき)』、竹田出雲(いずも)らの『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』をはじめとして、後世この事件に題材をとった文芸作品は数多いが、作者が武士身分でなかったためか、大名、家臣間の主従関係のみに目を奪われ、単なる仇討ものになっていて、幕藩制の二重の主従関係の下での武士の「義」ははたして何かという、この事件の核心的な問題はほとんど見逃されてしまっている。
[田原嗣郎]
『石井紫郎編『日本思想大系 27 近世武家思想』(1974・岩波書店)』▽『田原嗣郎著『赤穂四十六士論』(1978・吉川弘文館)』
[補完資料] | 赤穂浪士一覧
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『赤穂浪士(日本史)』
田沼時代 1786~
御用金令の失敗を受けて、天明6年(1786年)、新たに構想されたのが貸金会所の設立である。これはある種の「政府系銀行」「国債」ともいえる先進的な試みであった。天明の大飢饉により資金繰りに困窮している諸大名への融資を行うため、諸国の寺社・山伏は、その規模などに応じて最高15両を、全国の百姓は持ち高100石につき銀25匁を、諸国の町人は所持する家屋敷の間口の広さ1間につき銀3匁を、この年から5年間毎年幕府に対して支払うように命令した。貸金会所を通じて年利7 %で大名に貸し出され、5年後以降7 %の貸付利息から事務手数料を引いた利息をつけて出資者に返済されるという仕組みである。ほぼ全国民に対する強制的な徴収である一方で、5年後に利息がついて返ってくる仕組みであり、現代にも通ずる先進的な試みではあったが、負担を求められる側にとってはたださらなる負担を強いられるだけにしか見えず、しかも天明の大飢饉の真っただ中での「増税」案ということもあって反発が大きかった。また借り手である大名の方も、確かに市中金利よりも低金利で借りられるメリットはあるが、原資は領民でもある百姓・町人から取り立てた金であり、幕府の「貸金会所」を通じて借りるということは藩の内情を幕府に知られてしまうことになる。この点で大名たちからも反発が大きく、結局発令の2ヵ月後には早くも関東の大水害などを理由に御用金令は撤回された。
『田沼意次』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1
江戸後期,11代将軍徳川家斉の初世,老中松平定信が担当した幕政の改革(1787〜93)
定信は田沼時代に続き天明の飢饉による幕政動揺に非常な決意をもって就任,享保の改革を理想に財政再建・農村復興をはかった。まず農民の出稼ぎを禁じ,社倉・義倉を設け,囲米 (かこいまい) を命じた。江戸では町費節約の七分金積立(七分積金),人足寄場の設立を実施。また倹約令・風俗矯正・出版統制などをきびしくした。武士には文武をすすめ,棄捐令 (きえんれい) で旗本・御家人の負債を整理,寛政異学の禁で朱子学の振興をはかった。さらにロシア船の接近に対し,海岸防備を主張する林子平を幕政批判で処分したが,みずから伊豆・相模などの巡視も行った。こうして幕政は緊張し財政面でも一時回復したが,その緊縮政策は将軍側近の反感をかい,1793年尊号一件を機に在職7年で引退。しかし,その後も改革の気運は19世紀初期まで継続した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版 コトバンク『寛政の改革』
↑棄捐令、寛政異学の禁などをおさえる
幕府が旗本や御家人の生活難を救うために出した借金の帳消し令。
寛政元年(1789年)に、時の老中松平定信が寛政の改革の一環として発令したのが最初であり、「天明4年(1784年)以前の借金は債務免除とし、それ以後のものは利子を下げ(これまでの年利18パーセントから3分の1の6パーセントに)、永年賦(長期年賦)を申し付ける」という法令である。さらに以後の法定利率は、年利1割2分(12パーセント)にするとした。
発布前に幕府が札差の経営状態を調査してみると札差97件のうち完全に自己資金で経営しているものは7件に過ぎず、全体の七割強が他所から資金を調達して経営していたことがわかった。このまま借金の棒引きをすると、札差が多額の金銭的損害を被り経営困難に陥り、恨みを買って旗本への再融資を拒否してしまう。それでは却って融資の道を絶たれた旗本・御家人達が更なる貧窮に陥る事態の繰り返しになってしまうことを松平定信ら幕府方が危惧した。
そこで勘定奉行久世広民は、幕府の公金5万両の貸下げや、札差業の資金貸付機関となる猿屋町会所の設立を定信に提案した。猿屋町会所は江戸・京都・大坂の有力豪商らから資金を募って経営状態の良い有力な札差に会所を運営させて経営困難となった札差に年利一割の低利で貸し付けるというものであった。
参考:『棄捐令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%84%E6%8D%90%E4%BB%A4
1843年に水野忠邦も棄捐令を出したが、札差たちが貸し出しを制限したので旗本の生活はかえってくるしくなった。
ラクスマン(ロシア)が根室に来航し、通称を要求。
文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。
1641年以降、欧州諸国のなかでネーデルラント連邦共和国(のちのオランダ)のみが日本との通商を許され、長崎出島にオランダ東インド会社の商館が設置されていた。イギリスも江戸時代初期には平戸に商館を設置して対日貿易を行っていたが、オランダとの営業競争に敗れ経営不振のため1623年に長崎平戸の商館を閉館し、その後再開を試みるも江戸幕府に拒絶され続けていた(平戸のイギリス商館については、イギリス(平戸)商館参照のこと)。
18世紀末、フランス革命戦争が勃発すると、1793年にオランダはフランスに占領され、オランダ統領のウィレム5世はイギリスに亡命した。オランダでは地元の革命派によるバタヴィア共和国が成立し、オランダ東インド会社は1798年に解散した。バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、フランス皇帝ナポレオンは1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべてフランス帝国の影響下に置かれることとなった。
イギリスは、亡命して来たウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の自国による接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。しかし、アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍の船を雇用して長崎と貿易を続けていた。
参考:『フェートン号事件』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
江戸幕府が1825年(文政8年)に発した外国船追放令である。無二念打払令(むにねんうちはらいれい)、外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)、文政の打払令(ぶんせいのうちはらいれい)とも言う。1842年(天保13年)に「薪水給与令(天保の薪水給与令)」が発令されると廃止された。
1808年10月(文化5年8月)に起きたフェートン号事件、1824年(文政7年)の大津浜事件と宝島事件を受けて発令されたと言われている。
参考:『異国船打払い令』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E5%9B%BD%E8%88%B9%E6%89%93%E6%89%95%E4%BB%A4
シーボルト事件(シーボルトじけん)は、江戸時代後期の1828年にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚した事件。役人や門人らが多数処罰された。1825年には異国船打払令が出されており、およそ外交は緊張状態にあった。
文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決を受け、景保の子供らも遠島となった[1])。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。
参考:『シーボルト事件』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
天保の大飢饉 1833
モリソン号事件 1837
江戸時代後期,天保年間 (1830~44) に行われた幕府,諸藩の政治改革。幕藩体制はこの時期に深刻な動揺をみせ,綱紀紊乱,財政の窮乏,武士の困窮,農村・都市生活の退廃など,多方面の政策転換を迫られていた。幕府は老中水野忠邦を首班として天保 12 (41) 年5月から改革に着手。享保,寛政の改革を目標とし,風俗矯正,質素倹約をはじめ生活全般にわたる統制を行い,農村人口を維持するため「人返し」政策をとった。また忠邦は株仲間を解散して物価の引下げをはかり,印旛沼 (いんばぬま) 開発 (→印旛沼干拓 ) などにも着手したが,大名や旗本の抵抗を受けた上知令 (→上知 ) によって失脚した。一方,西南雄藩の藩政改革は財政的な面で多くが成功し,明治維新の原動力となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『天保の改革』
倹約令、株仲間の解散などをチェック
清国・英国間でアヘン戦争 1842
平成30年(2018年)、2021年出題
*日米和親条約(日本國米利堅合衆國和親條約) 1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日本とアメリカ合衆国が締結した条約。神奈川条約(かながわじょうやく、英:Convention of Kanagawa)とも呼ぶ。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権はマシュー・ペリー。
この条約では「通商(貿易)は拒否するが、港は開く」として、アメリカに対し下田と箱館(現在の函館)の2港を開港し、200年あまり続いた鎖国は終わり日本は開国した。なお、日米間の通商(貿易)開始は、4年後に締結された日米修好通商条約からとなる。
1854年3月31日 - 日本特派大使[ペリーが署名
1854年7月15日 - アメリカ合衆国上院(アメリカ合衆国第33議会)が批准に助言と同意
1854年8月7日 - フランクリン・ピアース大統領が批准を裁可
1855年2月21日 - 下田で批准書を交換
1855年6月22日 - 大統領が条約締結権行使を宣言
*日米修好通商条約 安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。安政五カ国条約の一つ。
江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで互いの国の批准書が交換された。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。
アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無く、日本だけがアメリカに最恵国待遇を約束するなど、日本側に不利な不平等条約であるというのが定説となっている。日米修好通商条約は後に調印させられた改税約書で関税自主権を喪失し、低関税率に固定され、不平等条約となった。
公使の江戸駐在
領事の開港地駐在
横浜・長崎・新潟・兵庫・函館の開港(条約港の開設)
江戸・大坂(大阪)の開市
自由貿易、協定関税制、領事裁判権、外国人居留地の設定等に関する規定
*安政五か国条約 日米修好通商条約の後幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだが、日米条約では、関税率は日本側の希望のみで改訂可能であったが、日英条約では英国政府の希望でも税率を改訂可能なように変更されてしまった。さらに、日米修好通商条約の税率が他国にも適用されるはずであったが、日英条約では、イギリス側のごり押しにより、イギリスの主力輸出品目である綿製品と羊毛製品の税率が5%にされてしまった。こうして不平等条約への端緒が開かれた 。
*安政5年6月19日日米修好通商条約アメリカ合衆国
*安政5年7月10日日蘭修好通商条約オランダ
*安政5年7月11日日露修好通商条約ロシア帝国
*安政5年7月18日日英修好通商条約イギリス
*安政5年9月3日日仏修好通商条約フランス
問題となった点は主に以下の3点である。
領事裁判権の規定
関税自主権の欠如
片務的最恵国待遇(日露修好通商条約のみは双務的最恵国待遇)
これらの条約は、領事裁判権を認める、関税自主権がない、などといった不平等条約だった。
日本は外国人による土地所有を認めていなかったことから、外国人が日本国内に事業の拠点や住居などを構える際には奉行との間で土地の永代借地契約が結ばれることとなった。安政5年に通商条約締結先のアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に永代借地権の制度を設定、その後、相手国は明治4年までの間に16カ国にまで拡大した。永代借地権は地租の負担が免れるなど、外国人にとっては有利な制度であったことから、日本側は一般的な土地所有権に切り替えるよう尽力したが、1942年4月に解消されるまで85年の月日を必要とした。
(参考) 横浜中華街
、神奈川県横浜市中区山下町にある日本最大かつ東アジア最大の中華街で、約0.2平方キロメートルのエリア内に500店以上もの店舗があり、その時々の流行によって頻繁に入れ替わっている。前身である1866年(慶応2年)の横浜新田居留地時代から数えると150年強の歴史をもつ。
1955年以前は唐人町や南京町と呼ばれていた。華僑の出身地は広東省が比較的多いが、中国各地に分散している。上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には、当該地の出身者が多い。所在地である中区の中国人人口は6000人を超える。これは同区で登録されている外国人の約4割に当たる。
1859年(安政6年) 横浜開港。外国人居留地(行政自治権、治外法権)が造成され、欧米人と共に多数の中国人商人・取引仲介人(買弁)や外国人外交官の雇人が来往した。当初彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かった。その後すぐに横浜と上海、イギリスの植民地の香港の間に定期船航路が開設中国人貿易商も来住し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などを建てていった。これが横浜中華街の原型である。
初期の埋め立て地「横浜新田」の海岸線沿いに建てられたため、この地域のみ区画が約45°ずれている。この頃の商店は日用雑貨店、衣料品店、食料品店などの店が大半で、中華料理店は多くなかった。
1872年(明治5年)には、柳麺(lau min、ラウミン)の屋台が出始めていた。
1894年(明治27年)に日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国してしまう。
1899年(明治32年)戦争が終わり、条約改正により居留地が廃止されると、中国人は職業制限を受けたものの、居留地外にも住むことを許された。袁世凱に追われ大日本帝国に亡命した孫文もこの地で華僑にかくまわれながら革命活動を続けている。
ただしこの時期は単に外国人街であり、特に中華街というわけではない。
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災でこの地区は大打撃を受けて瓦礫と化した。欧米人の多くが帰国してしまったため、やや中国人中心の街へと変っていった。
1930年代には震災から完全に復興し、中国人を中心とした街として賑わいを見せた。
1932年(昭和7年)の『横浜市史稿・風俗偏』では南京町で先ず目に入るのは料理店であるとし、何々楼と称する料理店が20軒あまりに達したとしている。
1937年(昭和12年)7月7日に勃発した日中戦争で多くの華僑が帰国し、閉店した店も多い。
第二次世界大戦後の復興期に横浜港は賑わい、イギリスの植民地である香港との往来も復活した。横浜市街地は連合国軍の空襲により焦土と化し物資不足に見舞われていたが、横浜中華街は戦勝国である中華民国からの物資に恵まれ、1946年(昭和21年)2月20日の『神奈川新聞』によれば、中華街で営業していた飲食店は96軒であった。終戦直後は豊富な物資を背景とした、闇市街としての役割を果たしたが、徐々に物資が行き渡るようになり、数年で闇市としての役割は終了した 。それと引き換えに、山下公園周辺に駐留する連合国軍兵士や外国人船員が増加し、街も賑わいを見せた。
1950年代初頭 朝鮮戦争が休戦したことに伴い在日米軍基地も縮小され、人通りの少ない静かな町へと変貌した。街灯もない街に日本人は良いイメージを持たず、日本人が寄り付かない街となっていた。
1953年には、横浜市と横浜商工会議所が中心となり、「チャイナタウン復興計画」が策定された。1955年(昭和30年)には中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、牌楼(門)の上「中華街」と書かれたことで、それまでは南京町と呼ばれていたこの街が次第に「中華街」と呼ばれるようになった。
1964年には石川町駅が開業して、多くの観光客が来るようになった一方、海上輸送がコンテナ化されたことで、外国人船員は徐々に姿を消していった 。
2004年(平成16年)2月1日に横浜高速鉄道みなとみらい線が開業し、終着駅として元町・中華街駅が設置された。駅の名称に「中華街」が入り、東京の渋谷駅から東急東横線の電車が直通運転されることで、中華街のアクセス状況や知名度はさらに向上した。
2004年(平成16年)4月 - 吉本興業プロデュースの「よしもとおもしろ水族館」が開館 (2021年閉館)
2006年(平成18年)3月17日に、開廟した横浜媽祖廟は開港から150周年を迎える横浜の新しい観光スポットとして横浜中華街に誕生した、中華民国・台湾最初の官建の台南市大天后宮より分霊された。媽祖は140年前に清国領事館と関帝廟に祀られていたとの記述が残されており、横浜中華街では古くから信仰を得ている。
安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約[3]。安政五カ国条約の2つ。
江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで互いの国の批准書が交換された[4][3]。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。
アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無く、日本だけがアメリカに最恵国待遇を約束するなど、日本側に不利な不平等条約であるというのが定説となっている。日米修好通商条約は後に調印させられた改税約書で関税自主権を喪失し、低関税率に固定され、不平等条約となった。
参考:『戊午の密勅』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85
[戊午の密勅]
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は、日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日(1858年9月14日)に孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の参内)を経ないままの下賜であったことによる(九条関白には武家伝奏から天皇の堅い意志である旨伝え、承認を受けた)。
<平成30年試験対策>
*万延元年遣米使節 江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために1860年に派遣した77名から成る使節団である。1854年の開国後、最初の公式訪問団であった。また、津太夫一行以来、日本人として2度目の世界一周をした。
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結された日米和親条約に続き、安政5年6月19日(1858年7月29日)には日米修好通商条約が締結された。批准書の交換はワシントンで行うとされたため、江戸幕府は米国に使節団を派遣することとなった。
安政6年(1859年)9月、正使および副使に、共に外国奉行および神奈川奉行を兼帯していた新見正興と村垣範正(新見が正使に、村垣が副使となった。目付には小栗忠順 )が任命された。小栗には通貨の交換比率の交渉という役目があった。
また、ポーハタン号の事故など万が一に備え、軍艦奉行・水野忠徳の建議で、正使一行とは別に護衛を名目に咸臨丸を派遣することになり、軍艦奉行並であった木村喜毅を軍艦奉行に昇進させ、咸臨丸の司令官を命じた。木村は乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝海舟をはじめとする海軍伝習所出身者で固めると共に、通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)を選んだ。また、福澤諭吉が木村の従者として乗船している。木村は日本人乗組員の航海技術では太平洋横断に不安ありと考え、技術アドバイザーとして、測量船フェニモア・クーパー号の艦長で海軍大尉ブルック(クーパー号が難破したため、横浜に滞在中であった)を始めとする米国軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせた。
記録係として随行した玉虫左太夫による記録『航米日録』が残されている。また、賄方として随行した加藤素毛が語った話が『二夜語』として残されている。
行程
品川沖(ポーハタン号(南北戦争時の米国海軍の外輪フリゲート艦で1853年に日米和親条約が同船で調印されている ))→(はげしい嵐)→ホノルルに石炭補給のため寄港。カメハメハ4世に拝謁→サンフランシスコ到着。市長主催の歓迎式→(咸臨丸もサンフランシスコに到着。現地の人々と交流後、浦賀へ帰還)→パナマ(運河はまだ未完成)コロン→汽車3時間で大西洋へ→ロアノーク号(フリゲート艦)アスペンウォール出発→ワシントン到着。ブキャナン大統領に謁見・批准書を渡す。その後の25日間の滞在中にスミソニアン博物館、国会議事堂、ワシントン海軍工廠、アメリカ海軍天文台を訪れている。再び大統領に謁見、その後国務省にて、カス国務長官より使節三人には金メダル、以下随員には銀メダル、従者には銅メダルが贈られた。なお、ワシントン滞在中に複数回にわたり金銀貨幣の交渉が行われている→ボルチモア→フィラデルフィア(造幣局見学、金銀貨幣の交渉、チェスクラブ訪問)→ニューヨーク到着。空前と言われる空前と言われる大歓迎を受ける[1]。停泊中の世界最大の客船グレート・イースタンを見かけ、軍艦と勘違いし、また、科学技術の差を強く意識 →帰途へ→ポルトガル領カーボベルデ→ポルトガル領アンゴラ→喜望峰→インド洋→オランダ領バタヴィア(ジャカルタ)→英領香港→品川沖。
*文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)は、江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年(←1861年?))にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。正使は、竹内保徳(下野守)、副使は松平康直(石見守、後の松平康英)、目付は京極高朗(能登守)であった。この他、柴田剛中(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名となり、さらに後日通訳(蘭語、英語)の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。竹内遣欧使節とも。
行路
品川港(英国海軍船)→長崎→英領香港→英領シンガポール→英領セイロン→英領イエメン→エジプト(カイロ)→(鉄道)→アレクサンドリア→地中海(船)→英領マルタ→マルセイユ→フランスと交渉(同意得られず)→カレー→英仏海峡(船)→ロンドン(ロンドン万国博覧会見学・造船所や銃器工場、大英博物館、バッキンガム宮殿など産業革命の成果を訪問)→オールコック駐日英国大使のオールコックの協力を得てロンドン覚書(兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市を5年延期)→オランダ(覚書)→プロイセン・ベルリン(覚書)→ロシア・サンクトペテルブルク(合意に至らず)→カウナス→プロイセン王国→フランス(パリ覚書)→ポルトガル→帰路は英領ジブラルタルを経由し、往路とほぼ同じ行路で帰国。
*竹内保徳 勘定所に出仕し、勘定組頭格を経て嘉永5年(1852年)勘定吟味役・海防掛に就任[1]。嘉永6年(1853年)の黒船来航後は台場普請掛・大砲鋳立掛・大船製造掛・米使応接掛を兼任。安政元年(1854年)、箱館奉行就任。幕府の命令に逆らって、アイヌに髪の毛を切ることを免除したことや、漁を発展させたことでアイヌの尊敬の対象となったとも言われる。在任中にニシンが豊漁だったため、ニシン奉行とあだ名された。
文久元年(1861年)、勘定奉行兼外国奉行に就き、同年12月に遣欧使節(文久遣欧使節)正使として30余名を伴い横浜から出港してイギリスへ向かう。ロンドンでは第二回ロンドン万博にも出席した。攘夷運動に鑑み、江戸・大坂の開市、新潟・兵庫の開港延期の目的で欧州各国を訪問、五カ年延期に成功。文久2年(1862年)5月、イギリスとの間にロンドン覚書として協定されたのを始めプロシア、ロシア、フランス、ポルトガルとの間に同じ協定を結んだ。文久2年(1862年)にフランス船で帰国したが、幕府が攘夷主義の朝廷を宥和しようとしていたため登用されず、翌年勘定奉行を辞任。元治元年(1864年)5月に大坂町奉行に推薦されたが着任せず退隠し、同年8月に閑職の西ノ丸留守居となる。慶応元年(1865年)12月には横浜製鉄御用引受取扱となった。慶応3年(1867年)に死去。
井伊直弼の屋敷は桜田門を出てすぐ右(400mほど)。当日は大雪。行列は約60人。襲撃者(水戸浪士)は全部で18人。圧倒的な人数差だった。しかし、彦根藩の行列の構成員は節約のためアルバイト(日雇い)だったのでおよそ半分が逃げたのではないかと考えられている。かつ彦根藩の武士たちの刀には雪除けの袋(柄袋)がかぶせられいてすぐに応戦できなかったとも考えられている。この日3月3日は上巳の節句は諸大名が必ず将軍にご挨拶する日であったため、井伊直弼が登城するのは周知の事であった。原因は、開国派(井伊直弼)と攘夷派(水戸藩藩主徳川斉昭)の対立と将軍の後継者争い(徳川(一橋)慶喜と徳川家茂)による斉昭を安政の大獄で永遠に謹慎させたことによると考えられている。
井伊直弼は、居合の達人で自ら新心新流という一つの流派を興すくらいの腕前だった。
最近鳥取藩士が逃亡してきた浪士の聞き書きが発見され、井伊直弼にピストル(ヒストン)の弾に命を奪われたことがわかった。
最初の一弾に倒れた井伊直弼には後継ぎが定まっていなかった。ゆえに藩は取りつぶしになるところ、幕府側も彦根藩側も直弼は襲撃では亡くならなかったことにした。直弼の首は他人の首とされ、負傷した直弼を彦根藩が引き取り、自宅療養中と幕府に届け出た。そののち彦根藩は直弼は急病のためとして急遽相続願を幕府に提出、受理され(幕府は赤穂浪士のような敵討ちを恐れ、実際彦根藩では藩士たちが仇討ちを企てていた。御三家と家康の側近の大名家の争いを恐れた家茂将軍が直接書状を送り企ては収まった)、跡目相続を認められた(その後減封につぐ減封の後明治維新を迎えた)。そのため墓碑(東京豪徳寺)には実際の死亡日の閏3月3日ではなく、閏3月28日と刻まれている。しかし、襲撃はたくさんの人に目撃されており、うわさはたちまち広がっていた。桜田門外の変を契機として幕府の力が一気に弱まり、薩摩が主導して明治維新を迎えることになった。
なお、桜田門は、当時と現在の姿はほぼ変わっていない。現在の警視庁は井伊直弼殺害現場の上に立っている。
参考:『桜田門外の変』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
参考:『桜田門外の変』(NHKオンデマンド 歴史探偵) https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2024137645SA000/
水戸藩では武器開発を行っており、矢倉方と言うのが担当部署であった。矢倉方では最新武器を開発しており、銃の販売を開始していた。また、矢倉方の森山という役人が襲撃に参加しており、また鉄砲鍛冶も参加している。各資料から少なくとも3丁の新式銃が桜田門外の変に使用されたと番組では見ている。
参考:『関鉄之助』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E9%89%84%E4%B9%8B%E4%BB%8B
参考:『桜田門外の変で井伊大老を「射殺」襲撃リーダーの証言』産経新聞有料記事
(広告を見れば日記の関連場所の原文を見ることができる)
https://www.sankei.com/article/20220331-BYGN56LWVNLHHGLMSOUFCYBUXE/
襲撃時のリーダー的役割を果たした関鉄之助が尊王攘夷運動で全国を回った際に知り合った鳥取藩士安達清一郎に襲撃後に書簡を送っていた。掲載の写真によると安達清一郎の日記『万延元年庚申日乗』に「ヒストンノ玉胸先二中リテ死ス」とあった。
(『歴史探偵』の中では鳥取藩に関が逃げてきたのをかくまった際に安達が聞き書きを書き留めたとある)
参考:『薩摩藩、「鯛」や「鯨」の賄賂で幕府の追及かわす…「桜田門外の変」めぐる新史料見つかる』読売新聞 https://www.yomiuri.co.jp/culture/20230216-OYT1T50098/
襲撃に関連した薩摩浪士有村雄助(直弼の首をとった治左衛門の兄)が関係者への説明と対応を協議するために京都へ向かう途中、事件の波及を恐れた薩摩藩に捕縛されて鹿児島へ護送後、切腹を命ぜられた。幕府は薩摩藩が参勤交代の定宿佐敷(現・熊本県)の本陣を執拗に調査したが、薩摩藩は過剰に幕府の役人をもてなし、もみ消しを図ったことが記載される文書が2023年にあらたに見つかっている。
参考:『桜田義挙録 月(中編)』(吉川弘文館)(明治44年11月出版) https://jpsearch.go.jp/item/dignl-1918524
江戸時代初めからの将軍継承を検証し、世継ぎ問題について井伊直弼がいかに間違っているか、また、安政の大獄での井伊直弼の暴虐ぶりを詳しく証を挙げ述べている。また、「(井伊)直弼斬除の計画」として殺害計画の経緯も項を連ねて日を追って大変詳しくまとめられている。また、当日の朝、直弼の髷がどうしても崩れてしまい、これは異変の兆候である、早めに登城しようと言って玄関に出てみたら寵愛の猫が追いかけて話さなかったなどのエピソードまで加えられている。また、挙行の前夜、実行者たちは目安箱に自分たちは浪人の身である旨を書いて投げ入れている。藩に迷惑がかからないために先手を打ったものと考えられる。
親子(ちかこ)内親王は、仁孝天皇の第8皇女。御称号は和宮(かずのみや)。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。
安政5年(1858年)6月27日、日米修好通商条約の無断調印の旨が宿継奉書で京都に知らされた。翌日の28日、孝明天皇は譲位の意思を示した。驚愕した一同に諌止されたが、朝廷は幕府へ説明を求め大老の井伊直弼および御三家に上京を求めた。しかし多忙または謹慎中のため、京都所司代の酒井忠義、老中の間部詮勝が京都へのぼることになった。その一方、7月11日に日露修好通商条約、7月18日に日英修好通商条約は勅許がないまま調印された。7月22日、孝明天皇は近衛忠煕に再び譲位の意思を示した宸翰を下した。
8月5日に孝明天皇が出された「御趣意書」を近衛忠煕、鷹司輔煕、一条忠香、三条実万は関東へ送るように命じられた。8月7日に朝議がひらかれる予定となったが内覧関白・九条尚忠が朝議に出席しなかった。このため内覧を経ない正式ではない勅書が誕生し8月8日に水戸藩、次いで幕府へ下された(戊午の密勅)。水戸藩への宸翰は朝廷内でも異論が出たが近衛や鷹司が押し切ったとされる。9月2日、幕府寄りの九条へ関白辞職を求める内勅が出され当日に辞表を受理、4日に内覧辞退の勅許が出された。これらが引き金となり9月より京都では宮家・公卿の家臣が捕縛拘引された。10月19日、九条尚忠は関白に復職し、10月24日に参内した間部詮勝は虚偽と欺瞞に満ちた弁疏をだした。12月24日、間部を再度参内させた孝明天皇は公武一和の立場より将来、鎖国に戻るとの説明を受け入れた(心中氷解の沙汰書)。
『岩倉公実記』によると10月1日、近衛忠煕と酒井忠義の会話の中で、加納繁三郎[2]が提案していた件が話に出た。酒井は近衛に加納案、具体的には和宮が降嫁すれば公武一和に役立つと切り出したことが降嫁発案の発端とされる。孝明帝の近臣であった近衛は公武一和は結構だが熾仁親王との婚約が決まっており無理な話だと意見を述べた。
安政6年(1859年)、酒井は九条尚忠へ和宮降嫁を打診した。幕府寄りの九条だが婚約は孝明帝の命令であるため無理だと断り、孝明帝の皇女・富貴宮(1歳)を降嫁するなら尽力すると約束した。経緯は不明だが、和宮降嫁の話は和宮の生母・観行院(橋本経子)の叔母で元大奥上臈年寄の勝光院に伝わった。勝光院は真相を観行院の兄で橋本家の当主である橋本実麗へ書信で尋ねた。観行院は信じなかったが実麗は幕府のやり方ならありえると考えた。この年の1月より酒井と九条は戊午の密勅にかかわった宮、公卿への辞官落飾(四公落飾)を孝明天皇から出させるように圧力を加えていた。4月22日、抵抗する力のない天皇は受け入れた。観行院と実麗は降嫁の噂を和宮には話さなかった。5月25日、議奏の久我建通らが和宮の降嫁を内議した。8月2日、富貴宮が薨去。徳富蘇峰の『近世日本国民史』は翌年にも酒井所司代の家来が橋本邸を訪れた事情を伝えている。
『岩倉公実記』によるとその翌年、月日は不明だが、九条家の家宰・島田左近が実麗へ和宮降嫁を持ち出した。噂が事実であると分かった実麗だが返事ができなかった。
参考:『和宮親子内親王』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%AE%AE%E8%A6%AA%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
文久2年1月15日(1862年2月13日)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃し、負傷させた事件。
桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後、老中久世広周と共に幕閣を主導した信正は、直弼の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推進した。この政策に基づき、幕府は和宮降嫁を決定したが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、信正らに対し憤激した。
決行に当たっては桜田門外の変に倣い、それぞれが変名を用いた斬奸趣意書を携えていた。文久2年(1862年)1月15日午前8時頃、信正老中の行列が登城するため藩邸を出て坂下門外に差しかかると、水戸藩浪士・平山兵介(細谷忠斎)など6人が行列を襲撃した。
最初に直訴を装って河本杜太郎が行列の前に飛び出し、駕籠を銃撃した。弾丸は駕籠を逸れて小姓の足に命中、この発砲を合図に他の5人が行列に斬り込んだ。警護の士が一時混乱状態に陥った隙を突いて、平山兵介が駕籠に刀を突き刺し、信正は背中に軽傷を負って一人城内に逃げ込んだ。桜田門外の変以降、老中はもとより登城の際の大名の警備は軒並み厳重になっており、当日も供回りが50人以上いたため、浪士ら6人は暗殺の目的を遂げることなく、いずれも闘死した。警護側でも十数人の負傷者を出したが、死者はいなかった。
しかし、信正老中暗殺には失敗したものの、桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は幕府権威の失墜を加速した。
参考:『坂下門外の変』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8B%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
2021年出題
明治維新期,倒幕派と幕府派との間の一連の戦い。慶応4 (1868) 年 (戊辰の年) 1月3日大坂から京都へ進撃した会津藩,桑名藩の兵は,鳥羽,伏見で薩摩藩,長州藩を中心とする新政府軍と戦って敗れた (→鳥羽・伏見の戦い ) 。新政府は有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ,大坂から江戸へ退去した旧幕府勢力を追って,徳川追討の軍を起こした。同 1868年2月薩長両藩兵を主力とする 20藩以上の諸兵が東海道,東山道,北陸道の三方に分かれて進発した。徳川慶喜は恭順の態度をとって謹慎し,駿河に迫った東征軍に対して勝海舟を通じて交渉し,助命と引き換えに江戸城の自発的開城を約束させた。こうした情勢のなかで徳川氏は静岡に移封されたが,抗戦を叫ぶ旧幕臣たちは上野にこもって輪王寺宮公現法親王 (北白川宮能久 ) を戴いて彰義隊を結成,東征軍に抗戦したが敗れ,輪王寺宮は奥羽に逃れた (彰義隊の戦い) 。一方,鳥羽・伏見の戦いで賊名を負わされた会津,桑名両藩にも追討令が出された。奥羽諸藩は会津藩の赦免を東征軍に斡旋したがいれられず,ついに5月北越諸藩をも加えた奥羽越列藩同盟を結成するにいたり,輪王寺宮を擁して官軍と対決した。しかし奥羽・北越戦争で,優秀な装備をもつ薩長を中心とする官軍は,まず北越を平定し,次いで9月会津藩を降伏させた (→会津戦争 ) 。これに先立ち,旧幕府海軍副総裁榎本武揚らは,軍艦8隻に搭乗して江戸を脱出,箱館を占拠し,武器,軍艦の引き渡しを拒んだ。官軍は,翌明治2 (1869) 年5月箱館に進撃し,箱館戦争が開かれたが,5月 18日五稜郭は開城され,榎本らは降伏して (→五稜郭の戦い ) ,戊辰戦争は終結した。この国内戦の結果,旧幕府体制は根底から崩壊し,明治絶対主義国家確立の道が開かれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク
[生]天保7(1836).8.25. 江戸
[没]1908.10.26. 東京
江戸時代末期の幕臣。明治新政府の閣僚。子爵。幕臣榎本円兵衛武規の次男。通称は釜次郎。昌平黌に学び,次いで長崎に派遣されてオランダ人から海軍の伝習を受ける。帰東して海軍操練所教授,文久2 (1862) 年オランダに留学生として派遣され,帰国後海軍奉行となった。戊辰戦争のとき,『開陽丸』ほか旧幕艦数隻を率いて箱館に入り,五稜郭に拠って官軍に抗戦 (→五稜郭の戦い ) 。ロシアとの提携をはかり,北海道に工務授産計画を立てるなど,同地領有の意図をいだいたが,明治2 (69) 年5月官軍に降伏,投獄された。同5年6月開拓使に登用され,1874年には海軍中将。ロシア駐在公使となって樺太=千島交換条約を締結。 80年海軍卿。のち,清駐在公使を経て,85年初代逓信相となった。以後,文相,農商務相,外相を歴任。旧幕臣のなかでは,例のない高い地位を明治政府で占めた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
通称は浅草(あさくさ)観音。東京都台東区浅草にある聖観音宗の本山。山号は金竜山。伝法院と号す。本尊は1寸8分の観音菩薩で,推古天皇の時檜熊(ひのくま)浜成・同武成(檜熊・浜成・武成の3人とも)が宮戸川(隅田川)で網を引いて得たものという。広く武士・庶民の信仰を集めて大寺院となった。坂東三十三所の13番札所。寺内町の仲見世は江戸きっての盛場で,見世物小屋が並んだ。慶安年間(1648年―1652年)着工された本堂は1945年戦災で焼失,1958年鉄筋コンクリート造で再建された。北東隅に浅草神社(三社権現)がある。国宝の小野道風筆法華経などのほか,《浅草寺日記》がある。→浅草/三社祭
→関連項目開帳|雷門|新門辰五郎|風流志道軒伝|ほおずき(酸漿)市
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
2019
神奈川県川崎市川崎区大師町にある真言(しんごん)宗智山(ちさん)派の大本山。詳しくは金剛山金乗院平間寺(こんごうさんきんじょういんへいけんじ)と称するが、厄除弘法(やくよけこうぼう)大師、川崎大師で親しまれている。成田山新勝(しんしょう)寺、高尾山薬王院(やくおういん)とともに智山派の関東三大本山の一つ。大治(だいじ)年間(1126~1131)、平間兼豊(ひらまかねとよ)・兼乗(かねのり)父子の武士が、諸国流浪のすえ川崎の地に住み着き漁業をなりわいとしていたが、あるとき海中より1体の木像(弘法大師像)を引き揚げた。兼乗は当年42歳の厄年であったので、その像を日夜懇(ねんご)ろに供養(くよう)し、厄除けを祈願した。そのころ高野山(こうやさん)の尊賢上人(そんけんしょうにん)が諸国遊化(ゆうげ)の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄り、尊像の霊験奇瑞(れいげんきずい)に感動し、兼乗と力をあわせて1128年(大治3)一寺を建立したのが当寺の開創で、兼乗の姓平間(ひらま)をもって平間寺(へいけんじ)と号し、本尊を厄除弘法大師と称するようになった。
中世には兵火にかかり衰えたが、江戸初期には六郷宝幢院(ろくごうほうとういん)末寺となり、1648年(慶安1)幕府より朱印6石を寄せられた。明和(めいわ)・安永(あんえい)年間(1764~1781)隆範(りゅうはん)、隆盛(りゅうせい)らが相次いで諸堂を修造して興隆。このころ将軍徳川家斉(いえなり)の参詣(さんけい)を得て寺運栄え、広く庶民に信仰されるに至った。1805年(文化2)宝幢院を離れ、醍醐三宝院直末(じきまつ)となる。1879年(明治12)三宝院を離れ京都智積院(ちしゃくいん)直末、1898年に別格本山となり、1958年(昭和33)大本山に昇格した。1945年戦災で諸堂宇を焼失したが、戦後復興に努め、1964年に不動堂および本堂を落慶。さらに、中書院、交通安全祈祷(きとう)殿、信徒会館、大山門、八角五重塔を建立し、伽藍(がらん)の偉容を一新した。
年中行事は、元朝大護摩供(がんちょうおおごまく)、節分会、本尊弘法大師降誕奉祝会など数多い。縁日の21日はことに参詣者が多い。寺宝に、川崎市重要歴史記念物に指定される絹本着色の毘沙門天(びしゃもんてん)像、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)像、不動明王像、愛染(あいぜん)明王像、弘法大師像などがある。また碑蹟(ひせき)に寛文(かんぶん)3年(1663)銘の道標「こうぼう大し江のみち」、寛永(かんえい)5年(1628)銘の六字名号(みょうごう)碑がある。
[野村全宏]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
神奈川県川崎市にある寺院、金剛山金乗院平間(へいけん)寺の通称。真言宗智山派大本山。1128年開創。本尊の空海像は「厄除弘法大師」の名で知られる。「厄除け大師」ともする。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
神奈川県川崎市にある真言宗智山派の寺。正式には金剛山金乗院平間(へいげん)寺という。開山は尊賢(1143没)と伝える。本尊は弘法大師座像。江戸時代の中期以降弘法大師信仰の隆盛にともない,かつ江戸の近郊で東海道の近くにあったため,流行仏(はやりぼとけ)として江戸をはじめ,近郷近在の多くの人々の信仰をあつめた。寺領は6石。1795年(寛政7)〈武蔵国新義真言宗本末帳〉には本山は京都醍醐地蔵院と記されている。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
2020年出題。
明治維新期,倒幕派と幕府派との間の一連の戦い。慶応4 (1868) 年 (戊辰の年) 1月3日大坂から京都へ進撃した会津藩,桑名藩の兵は,鳥羽,伏見で薩摩藩,長州藩を中心とする新政府軍と戦って敗れた (→鳥羽・伏見の戦い ) 。新政府は有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ,大坂から江戸へ退去した旧幕府勢力を追って,徳川追討の軍を起こした。同 1868年2月薩長両藩兵を主力とする 20藩以上の諸兵が東海道,東山道,北陸道の三方に分かれて進発した。徳川慶喜は恭順の態度をとって謹慎し,駿河に迫った東征軍に対して勝海舟を通じて交渉し,助命と引き換えに江戸城の自発的開城を約束させた。こうした情勢のなかで徳川氏は静岡に移封されたが,抗戦を叫ぶ旧幕臣たちは上野にこもって輪王寺宮公現法親王 (北白川宮能久 ) を戴いて彰義隊を結成,東征軍に抗戦したが敗れ,輪王寺宮は奥羽に逃れた (彰義隊の戦い) 。一方,鳥羽・伏見の戦いで賊名を負わされた会津,桑名両藩にも追討令が出された。奥羽諸藩は会津藩の赦免を東征軍に斡旋したがいれられず,ついに5月北越諸藩をも加えた奥羽越列藩同盟を結成するにいたり,輪王寺宮を擁して官軍と対決した。しかし奥羽・北越戦争で,優秀な装備をもつ薩長を中心とする官軍は,まず北越を平定し,次いで9月会津藩を降伏させた (→会津戦争 ) 。これに先立ち,旧幕府海軍副総裁榎本武揚らは,軍艦8隻に搭乗して江戸を脱出,箱館を占拠し,武器,軍艦の引き渡しを拒んだ。官軍は,翌明治2 (1869) 年5月箱館に進撃し,箱館戦争が開かれたが,5月 18日五稜郭は開城され,榎本らは降伏して (→五稜郭の戦い ) ,戊辰戦争は終結した。この国内戦の結果,旧幕府体制は根底から崩壊し,明治絶対主義国家確立の道が開かれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『戊辰戦争』
設問中に斗南藩についての記述があるため、追加。
[斗南藩]
明治初年、陸奥(むつ)国北郡・三戸(さんのへ)郡(青森県)、二戸(にのへ)郡(岩手県)内において3万石を領有した家門(かもん)小藩。幕末に京都守護職として活躍した会津藩主松平容保(かたもり)は、戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍に徹底抗戦したため、1868年(明治1)所領を没収されて禁錮(きんこ)(鳥取藩預け)に処せられたが、翌年赦免されて家名再興が許され、嗣子容大(ししかたはる)が北郡・三戸郡・二戸郡内において3万石を与えられて立藩した。藩名には「北斗以南皆帝州」の気概が込められていた。藩領は北郡内35か村(9340石余)、三戸郡内26か村(1万7554石余)、二戸郡内9か村(3555石余)で構成されていたが、71年廃藩置県により斗南県を経て弘前(ひろさき)県となり、すぐ青森県と改称。ただし、二戸郡は岩手県に編入された。
[細井 計]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
同じく、いわき市関連の問題もあった。
[いわき市]
福島県南東部,浜通り南部にある市。広大な阿武隈高地と夏井川,鮫川などのつくる沖積地を市域に含み,東は太平洋に面する。1964年新産業都市の指定を機に 1966年磐城市,内郷市,常磐市,平市,勿来市の 5市と四倉町,遠野町,小川町,久之浜町の 4町および好間村,三和村,田人村,川前村,大久村の 5村が合体し成立。1999年中核市に移行。行政,商業,交通,教育の中心地は平。常磐炭田の石炭,阿武隈高地の石灰石,小名浜の港を基盤とし,昔から小名浜を中心に化学,金属工業が発達し,常磐工業地域を形成(→常磐郡山工業地域)。水産加工も盛んで,遠洋漁業の基地として港湾整備も進んだ。いわき湯本温泉は観光・保養の中心地。中央部の内郷は常磐炭田の中心として,第2次世界大戦後は鉱業就業人口比率 50%以上の典型的な炭鉱町として発展したが,1976年に閉山。東部は磐城海岸県立自然公園,南部は勿来県立自然公園に属し,海水浴場としてにぎわう。阿武隈高地は夏井川渓谷県立自然公園および阿武隈高原中部県立自然公園に属する。じゃんがら念仏(→念仏踊)などの郷土芸能や願成寺の白水阿弥陀堂(国宝)などが残る。JR常磐線が通り,JR磐越東線の起点。磐越自動車道と東北自動車道を結ぶインターチェンジがある。2011年,東北地方太平洋沖地震に伴う津波により大きな被害を受けた。面積 1232.26km2。人口 33万2931(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
<平成30年試験対策>
*福沢諭吉 天保5年12月12日〈1835年1月10日〉- 明治34年〈1901年〉2月3日)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家[1]。慶應義塾の創設者。慶應義塾(旧:蘭学塾、現慶應義塾大学はじめ系列校)の他にも、商法講習所(現一橋大学)、神戸商業講習所(現神戸商業高校)、北里柴三郎の「伝染病研究所」(現東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者でもある。ほかに東京学士会院(現日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券、E号券)表面の肖像に採用されている。
安政6年(1859年)の冬、幕府は日米修好通商条約の批准交換のため、幕府使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにした。福沢諭吉は知人の桂川甫周を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。福沢諭吉は、軍艦奉行・木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと同じ「咸臨丸」に乗船した。一方、福沢諭吉と木村摂津守はとても親しい間柄で、この両者は明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な関係が続いた。福沢は帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま「幕府外国方」(現:外務省)に採用されることになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。
アメリカで購入した広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語を福沢諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版した。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。そして、福沢は、再び鉄砲洲で新たな講義を行う。その内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換した。
文久元年(1861年)12月、12月、幕府は竹内保徳を正使とする幕府使節団(文久遣欧使節)を結成し、欧州各国へ派遣することにした。諭吉も「翻訳方」のメンバーとしてこの幕府使節団に加わり同行。福沢諭吉は今回の長旅を通じて、自分の目で実際に目撃したことを、ヨーロッパ人にとっては普通であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について細かく記録した。たとえば、病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについてである。それを『西洋事情』、『西航記』にまとめた。
慶応3年(1867年)、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎、江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣することにした。その随行団のメンバーの中に福沢諭吉が加わることになった(他に津田仙、尺振八もメンバーとして同乗)。慶応3年(1867年)1月23日、幕府使節団は郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港する。このコロラド号はオーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分であった。福沢諭吉はこのコロラド号の船旅について「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と「福翁自伝」に記している。
アメリカに到着後、幕府使節団はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。この時、福沢は、紀州藩や仙台藩から預かった資金、およそ5,000両で大量の辞書や物理書・地図帳を買い込んだという。
慶応3年6月27日(1867年7月28日)、幕府使節団は日本に帰国した。福沢は現地で小野と揉めたため、帰国後はしばらく謹慎処分を受けたが、中島三郎助の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間中に、福沢は『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げた。