2026年度は、日本歴史教科免除のために歴史検定日本史2級を頑張ります!
江戸時代の項から、幕末を独立させました。
西洋科学の取り入れ
参考『日本初の蒸気船「凌風丸」顛末』産経新聞 2017 https://www.sankei.com/article/20170908-TNFA7OCRPZIFROH3ICG6UGLATU/
参考『「佐賀藩三重津海軍所絵図」(公益財団法人鍋島報效 ...』サガプライズ! https://sagaprise.jp/thesagacontinues/kagaku02.html
参考『佐賀藩三重津海軍所絵図』文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/225109
参考『「ふね遺産」(応募様式):佐賀藩建造蒸気船「凌風丸」と製造施設』(PDF)デジタル造船資料館 https://zousen-shiryoukan.jasnaoe.or.jp/wp/wp-content/uploads/funeisan/01/0117S05-00.pdf
参考『凌風丸 (佐賀藩)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%A2%A8%E4%B8%B8_(%E4%BD%90%E8%B3%80%E8%97%A9)
凌風丸(りょうふうまる)は、幕末に佐賀藩が建造した蒸気船。日本で建造された最初の実用蒸気船である。
概要
開明的な藩主の鍋島直正の下で西洋軍事技術の導入に熱心だった佐賀藩は、早くから近代海軍の整備にも取り組み、オランダに蒸気軍艦「電流丸」を発注するなどしていた。西洋式艦船の国産化も試み、黒船来航翌年の1854年11月(安政元年9月頃)には蒸気船の国産を目指す方針を決定[3]、1858年(安政5年)には長崎海軍伝習所でカッター型帆船「晨風丸」を竣工させている。蒸気機関についても、「電流丸」の交換用のボイラーや幕府船用のボイラーの製造経験を積んだ。そして、1863年4月(文久3年3月)、佐野常民や中牟田倉之助らを責任者として、ついに蒸気船の起工に至った。佐賀藩の軍港である三重津海軍所で建造は進められ、からくり儀右衛門として知られた田中久重父子らにより1865年(慶応元年)に竣工、「凌風丸」と命名された。
「凌風丸」の要目は全長60尺(18.2m)・幅11尺(3.3m)、蒸気機関は10馬力で、推進方式は外輪船だった。船体は木造で、外板などはクスノキ材、甲板は松材が使われ、船底は汚れを防ぐために銅板被覆されていた。
こうして竣工した「凌風丸」は、日本で最初の実用級蒸気船であると言われる。より古い国産蒸気船として薩摩藩の「雲行丸」が1855年(安政2年)に竣工しているが、小型で船体も和洋折衷の実験的な船で、ボイラーの蒸気漏れがひどく機関の完成度も低かった。また、幕府も「先登丸」という蒸気船を建造しているものの、詳細が不明で、どの程度の実用性があったのかもわかっていない。同じく幕府が建造した蒸気軍艦「千代田形」は、起工は1862年(文久2年)で本船よりも先行していたが、竣工は後になっている。なお、「千代田形」の蒸気機関用のボイラーも佐賀藩が受託製造したものだった。
就役後、1865年3月29日(慶応元年3月1日)には、藩主が乗船して諫早湾の航海を行っている。その後も有明海での要人輸送などに使用された。1870年6月(明治3年5月)、有明海の竹崎鼻付近で座礁して廃船となり、外国人に売却された。
◎参考『英雄たちの選択 技術立国は道楽から 幕末の発明王・からくり儀右衛門』NHKオンデマンド 2026年2月2日放送 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2026154689SA000/
◎参考『東芝』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%8A%9D
◎『田中久重ものがたり』東芝 https://toshiba-mirai-kagakukan.jp/history/toshiba_history/hisashige.htm
◎参考『田中久重』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B9%85%E9%87%8D
田中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)11月7日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。
生涯
田中製作所の設立まで
寛政11年9月18日(1799年10月16日)、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。幼名は儀右衛門。
万年時計こと万年自鳴鐘(和時計)
幼い頃から才能を発揮し、15才の時久留米掠りの幾何学模様を布に織り込む機械を考案。五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。
天保5年(1834年)には上方へ上り、大坂船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に居を構えた。同年に折りたたみ式の「懐中燭台」、天保8年(1837年)に圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案した。その後京都へ移り、弘化4年(1847年)に天文学を学ぶために土御門家に入門。嘉永2年(1849年)には、優れた職人に与えられる「近江大掾」(おうみだいじょう)の称号を得た。翌嘉永3年(1850年)には、天動説を具現化した須弥山儀(しゅみせんぎ)を完成させた。この頃に蘭学者の廣瀨元恭が営む「時習堂」(じしゅうどう)に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。嘉永4年(1851年)には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動くなどの、様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させた。
その後、再び西下して佐賀に移住した久重は、嘉永6年(1853年)、佐野常民の薦めで蘭学狂いといわれた鍋島直正が治める肥前国佐賀藩の精煉方に着任し、国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造する。また、軍事面では反射炉の設計(改築)と大砲製造に大きく貢献した。文久元年(1861年)には佐賀藩の三重津海軍所で、藩の蒸気船「電流丸」の蒸気罐製造の担当となり、文久2年(1862年)には幕府蒸気船の千代田形蒸気罐の修繕を行う。文久3年(1863年)には実用的に運用された国産初の蒸気船である「凌風丸」(御召浅行小蒸気船)建造の中心的メンバーとなっている。これらの文献記録を裏付けるように、三重津海軍所では鉄板圧着に使う鉄鋲(リベット)が多量に出土しており、蒸気罐組立に伴う遺物の可能性が高いと報告されている。元治元年(1864年)には佐賀から久留米に帰り、久留米藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、同藩の殖産興業等にも貢献した。
田中製造所の設立と晩年
明治6年(1873年)に、新政府の首都となった東京に移る。75歳となった明治8年(1875年)に東京・京橋区南金六町9番地(現在の銀座8丁目9番15号)に電信機関係の製作所・田中製造所を設立。
田中久重夫妻
明治14年(1881年)11月7日、82歳で死去。墓所は青山霊園。久重の死後、田中製造所は養子の田中大吉(田中久重の2代目襲名)が引き継いで芝浦に移転し、株式会社芝浦製作所となる。後に東京電気株式会社と合併、東京芝浦電気株式会社となり、これが現在の東芝の基礎となった。高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は、「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」との言葉を残している。昭和6年(1931年)、従五位を追贈された。