2026年度は、日本歴史教科免除のために歴史検定日本史2級を頑張ります!
仏語。仏陀が説いた教え。仏となるための教え。世界三大宗教の一つ。紀元前五世紀、インドのシャカ族出身のゴータマ=シッタルタが悟りをひらいて釈迦牟尼仏となり、教えを説いたことに始まる。人生は苦であると悟り、その原因、解脱(げだつ)の方法、解脱した涅槃(ねはん)の世界を見きわめることを説く。仏陀を中心にした当初、男僧(比丘(びく))・尼僧(比丘尼)が教団を構成し、出家に帰依した在家信者が物質的援助によりこれを支えた。仏陀の亡きあと、教団が分裂し、いくつもの部派に分かれて教学が展開された。紀元前三世紀のアショカ王によりインド各地のみならず東アジアに広く伝播され、紀元前後に大乗仏教が発生した。ここにそれまでの伝統仏教は小乗仏教とよばれ、スリランカ、ミャンマー、タイなど南アジアを中心に広まり、大乗仏教は中央アジア、中国、チベット、朝鮮、日本へと伝わり各地の土俗信仰を取り入れた。大乗仏教の出現とともに釈迦牟尼以外に阿彌陀・薬師・観音・勢至など多数の仏や菩薩が説かれたが、密教の時代になると、それらはすべて大日如来を中心とする曼荼羅の思想にまとめられた。日本には六世紀半ばに伝わり、奈良時代までは学派仏教としての性格が強い。平安初期に成立した天台・真言両宗に至り宗派的性格を生じ、鎌倉時代の諸宗派に至って大衆の宗教へと発展した。明治以後、多数の新興仏教が生まれたが、多くは在家教団の性格が強い。
※続日本紀‐天平六年(734)一一月戊寅「太政官奏、仏教流転必在二僧尼一」 〔中阿含経‐一八〕 〔隋書‐経籍志四〕
出典 精選版 日本国語大辞典
神仏混淆(こんこう)とも。神と仏とを調和させ,同一視する思想で,神道と仏教の同化を示すもの。奈良時代に起源をもち,神宮寺の建立が行われ,神のための納経があった。平安初期には神前読経や神に菩薩号をつけるようになった(八幡大菩薩など)。中期になると,習合思想は濃くなり,本地垂迹(ほんじすいじゃく)の思想が成立し,神に権現(ごんげん)(仮の姿の意)の称号が与えられた。また,神の解脱(げだつ)を祈念して建てられた神宮寺に,逆に鎮守を設ける風も生じた。本地垂迹思想の進展により,天台では山王一実神道,真言では両部(りょうぶ)神道が成立し,鎌倉時代にかけて垂迹美術が多く作られた。江戸時代には国学の隆盛に伴い,復古神道などが提唱されたが,民間における習合思潮は変化せず,明治維新の神仏分離の政策まで続いた。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
仏教の僧侶が神祇に奉仕するために,神社の境内などに建立された寺院。神社の祭祀が読経などの仏式でとり行われた。神願寺,神供寺,神宮院,別当寺,宮寺などともいう。神祇もまた仏教を歓迎するという思想によって,奈良時代から,鹿島,多度,二荒山,熱田,賀茂,宇佐八幡,伊勢大神宮などに神宮寺が建てられ,神仏習合思想の進展,さらには本地垂迹説の成立に伴い,9世紀以降になると気多,石清水,石上などの神社に相次いで神宮寺が現れ,やがて諸国の神社に神宮寺が設定されるにいたった。明治維新の排仏毀釈運動によって,あるいは廃止され,あるいは分離された。なお,興福寺と春日社,延暦寺と日吉社,高野山金剛峰寺と丹生社などは,寺院守護のために,寺域内の地主神などを祀るものであり,神宮寺とは異なる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『本地垂迹説』学研 https://kids.gakken.co.jp/jiten/result/?s=%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9E%82%E8%BF%B9%E8%AA%AC
日本の仏教と神道の関係を,仏や菩薩が衆生をすくうために神という仮のすがたであらわれたと説明する考え方。仏や菩薩が本来のすがた(本地)ではなく,神という仮のすがた(垂迹身)となって人々をすくうという神仏同体説で,平安時代の初めから広まった。たとえば熊野権現の本地は阿弥陀如来というように中世にはすべての神社に本地仏が定められた。明治の神仏分離でこの説は衰ろえた。
参考:『本地垂迹説』 コトバンク
神仏習合に関する説。本来は仏教教学上の術語,『法華経』の本迹二門の説などに基づく。『法華経』の構成を本地,垂迹の二門より成るとし前の十四品を迹門の法華,あとの十四品を本門の法華とし説法の主体である仏身そのものに歴史上の人格としての釈迦と,久遠実成の法身の区別をみようとした。この説は早くインドで仏教がインドの諸神を摂取するのに用いられ,中国で道教と接したときにもその例にならったといわれる。日本においても,神仏提携はすでに奈良時代に現れていたが,平安時代に入って,菩薩や仏陀がかりに神の姿をとって垂迹するという本地垂迹説が生れ,神は権現 (ごんげん。すなわち「かりのあらわれ」) と呼ばれるようになった。天台宗から山王一実神道,真言宗から両部神道が生れた。鎌倉時代になると逆に神祇を本位とし,仏陀を従属的地位におく反本地垂迹説が現れ,室町時代に入って,吉田神道,伊勢神道などは,如来は天皇の垂迹である,あるいは仏教は花実,儒教は枝葉,神道が根本であるとする根葉花実論を発展させた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
明治初年,維新政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教排斥,寺院・仏像・仏具破壊運動。1868年旧3月,太政官布告による神仏判然令によって神仏分離が急激に実施されると,平田派国学者の神官らが中心となって,各地で神社と習合していた寺院の仏堂,仏像,仏具などの破壊・撤去運動を起こし,隠岐のごときは全島の仏寺を破毀して1寺も残さなかった。1875年に信教の自由が保障されたが,この廃仏毀釈によって政府は宗教に対する政治優先の姿勢を確立した。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
参考:「盂蘭盆しおり3」広済寺
https://www.kosaiji.org/danshinto/urabon.pdf
● 盂蘭盆という言葉
お盆は正式には盂蘭盆(うらぼん)といいます。盂蘭盆はインドの言葉の「ウランバーナ(ullambana)」の音訳で、逆さまに吊るされたような苦しみという意味です。これは餓鬼界の苦しみをあらわす言葉です。
● 盂蘭盆の意味
盂蘭盆は『仏説盂蘭盆経』に説かれます。お釈迦様の十大弟子の一人に、神通第一といわれる目連尊者がおられました。ある時、目連様は亡くなった母親の後生が気になり、神通力で探しました。
息子の目連様には優しかった母親、お釈迦様の代表的なお弟子の母親です。天 上界に居られるのかと思えば、さにあらず。何と餓鬼界に堕ちていました。全身骨と皮になってやせ衰え、見るからに哀れな姿でした。
確かに息子の目連様には優しかった母親、しかし身内はともかく他人に対しては思いやりや施す気持ちの希薄な冷たい人でした。その因果で三悪道(さんなくどう)(地獄・餓鬼・畜生)の餓鬼界に堕ちたのでした。
餓鬼界に堕ちると、いつも喉が渇き空腹です。辺りには食物はありません。目連様はいたたまれず、食べ物を施そうとしました。飢えた母親が喜んで食物を口に運ぼうとすると、何故かそれらはボッと音をたて燃えてしまい食べることができません。いかに神通第一の目連様の力も及ばず、母親の苦しみを救うことは出来ませんでした。
なんとか母親を救おうと、目連様はお釈迦様に教えを請いました。お釈迦様は次のように説きます。
熱帯インドの当時のこと、雨期には道が川のようになり、僧侶は布教活動や托鉢が出来ません。お寺に篭もり安居という修行をしていました。その修行を終えるのは旧暦七月十五日(八月中旬頃)です。その日に、修行を終えて清浄になった僧侶に百味の飲食を供養しなさいとお釈迦様は目連様に仰いました。
お釈迦様の言われる通りにされると、微笑みを浮かべながら天上界へ昇って行かれる母親の姿を目連様は神通力で見ることが出来ました。これが盂蘭盆の法要の起源となるお話です。
● 先祖をお迎えする
さて、盂蘭盆には御先祖様や故人が帰ってくるといわれますが、どういうことでしょう。中元・歳暮の中元の日ですが、これは旧暦の七月十五日です。中国に於いて中元は畑作の収穫祭の日であります。また、俗に鬼節(きせつ)といい、死者がこの世にもどって来る日だとされています。たまたま、盂蘭盆と中元の日が同じ日なので二つが習合したのです。お盆には御先祖が帰って来るという宗教行事はここに起源があります。
● 七月と八月のお盆
本来は旧暦の七月十五日が盂蘭盆の日であり、先祖をお迎えする中元の日であります。しかし実際は、一部の地方を除き月遅れの八月十五日頃に行うのが一般的です。これは旧暦に近付けるためや、ハウス栽培のない時代に七月(太陽暦)ではお供えの作物がまだ出来ないために一ヶ月遅らせたものです。
● 盂蘭盆の功徳
さて、先述の『仏説盂蘭盆経』には、未来においても死者のために盂蘭盆の供養を捧げれば、現在及び過去七世の先祖にその功徳が及び、在世の父母は寿命長久の功徳が及ぶと説かれています。
これらが、お盆の意味と功徳です。御理解戴けましたでしょうか。
● 盂蘭盆と施餓鬼法要
さて、盂蘭盆とともに修行されることが多い施餓鬼法要ですが、このことについても触れておきます。
盂蘭盆法要は『仏説盂蘭盆経』にある目連尊者が母を救う話に起因しますが、施餓鬼法要は『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼神咒経』によります。こちらは、十大弟子の阿難尊者が施餓鬼法要によって口から炎を吹き出す焔口餓鬼(えんくがき)を救ったことが説かれます。『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼神咒経』により
ますと、施餓鬼供養をすると餓鬼を供養して救うだけでなく、供養した者に福得・長寿の功徳が得られるとあります。
うちの先祖は餓鬼界に落ちているはずがないから餓鬼を施す施餓鬼供養は必要ないという方がおられるかもしれません。しかし、それでは身内の供養のことばかりで仏教的ではありません。『仏説盂蘭盆経』では目連尊者が母の供養のことばかり考えて、かえって供養が届かなかったのです。
願以此功徳(がんにしくどく) 普及於一切(ふぎゅうおいっさい) 我等与衆生(がとうよしゅじょう) 皆共成仏道(かいぐじょうぶつどう)
この経文に聞き覚えはないでしょうか。これは『妙法蓮華経化城諭品第七』の経文で、書き下せば
「願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼし我等と衆生と 皆共に仏道を成ぜん」となります。
これは大乗仏教の象徴的な経文として宗派を超えて読まれるものです。身内だけでなく、普く一切に法華経・お題目の功徳を及ぼすことで、御先祖と生きとし生けるものと自分が仏となり救済されるのです。盂蘭盆や施餓鬼は餓鬼界に堕ちたものを救う善根功徳が、巡り巡って、はからずも自らの先祖や我々自身を救済する素晴らしい功徳となるのです。この盂蘭盆・施餓鬼は飛鳥時代の太古から日本人に深く浸透している素晴らしい行事です。
参考:「盂蘭盆会」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86%E4%BC%9A
盂蘭盆会(うらぼんえ)とは、太陰暦7月15日を中心に7月13日から16日の4日間に行われる仏教行事のこと[2][3]。盂蘭盆(うらぼん)、お盆ともいう。また、香港では盂蘭勝会と称する[4]。
『盂蘭盆経』(西晋、竺法護訳。今日では偽経とされる)、『報恩奉盆経』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説に由来する。もともとは仏教行事であるが、唐代の道教の隆盛期に三元の一つの中元節の流行とともに儀礼の融合が進んだ。
日本における日付については、元々旧暦7月15日を中心に行われていたが、改暦にともない新暦(グレゴリオ暦)の日付に合わせて行ったり、一月遅れの新暦8月15日や旧暦の7月15日のまま行っている場合に分かれている。父母や祖霊を供養したり、亡き人を偲び仏法に遇う縁とする行事のこと。
語義
盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウッランバナ」(ullambana、उल्लम्बन)の音写語であるという説がある。「烏藍婆拏」(『玄応音義』)、「烏藍婆那」とも音写される。「ウッランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる、逆さ吊り)という意味である。しかし、この解釈は「盂蘭盆」の「盆」という語が経典内で「器」という意味で使われているという難点がある。
一方、古代イランの言葉(アヴェスター語)で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)が語源だとする説もある。古代イランでは、祖先のフラワシ(Fravaši、ゾロアスター教における精霊・下級神)が信仰され、それが祖霊信仰と習合し、「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事となったとする。
2013年、仏教学者の辛嶋静志は盂蘭盆を「ご飯をのせた盆」であるとする説を発表した。それによると、盂蘭盆経のうちに「鉢和羅飯(プラヴァーラ〈ナー〉飯)」という語があり、これが前述の旧暦7月15日・安居(雨安居)を出る日に僧侶たちが自恣(プラヴァーラナー 梵: pravāraṇā)を行うことに関連付けられる。古代インドには自恣の日に在家信者が僧侶へ布施をする行事があったとし、それと盂蘭盆経が説く行為とが同じものであるとしている。また、盂蘭盆の「盂蘭」はご飯を意味する「オーダナ (梵; 巴: odana, 特に自恣の日に僧侶へ施されるご飯を強調する)」の口語形「オーラナ(olana)」を音写したものであり、それをのせた「盆(容器の名)」が「盂蘭盆」であると説明する。
起源
背景
盂蘭盆の行事は中国の民俗信仰と祖先祭祀を背景に仏教的な追福の思想が加わって成立した儀礼・習俗である。旧暦7月15日は、仏教では安居が開ける日である「解夏」にあたり、道教では三元の中元にあたる。仏教僧の夏安居の終わる旧暦7月15日に僧侶を癒すために施食を行うとともに、父母や七世の父母の供養を行うことで延命長寿や餓鬼の苦しみから逃れるといった功徳が得られると説く。一方、道教の中元節とは、宇宙を主るとされる天地水の三官のうち、地官を祀って、遊魂などの魂を救済し災厄を除くというもので、仏教の盂蘭盆とほぼ同時期に中元節の原型が形作られた[4]。
本来的には安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養という伝説が付加されたと考えられている。
目連伝説
盂蘭盆会の由来に目連の伝説がある。仏教における『盂蘭盆経』に説いているのは次のような話である。
安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に炎となって、母親の口には入らなかった。
哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うと、「安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行うと、比丘たちは大いに喜んだ。すると、目連の母親は餓鬼の境遇から脱した。
日本
日本では、この「盂蘭盆会」を「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も広く行なわれている。この時に祖霊に供物を捧げる習俗が、いわゆる現代に伝わる「お中元」である。
日本書紀によると、古くは推古天皇14年(606年)4月に、毎年4月8日と7月15日に斎を設けるとあるが、これが盂蘭盆会を指すものかは確証がない。
同じく日本書紀には斉明天皇3年(657年)、須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記され、同5年7月15日(659年8月8日)には京内諸寺で『盂蘭盆経』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されている[1][注 3]。後に聖武天皇の天平5年(733年)7月には、大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中の恒例の仏事となって毎年7月14日に開催し、盂蘭盆供養、盂蘭盆供とよんだ。
奈良、平安時代には毎年7月15日に公事として行なわれ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」(せがきえ)をあわせ行なった。また、明治5年(1872年)7月に京都府は盂蘭盆会の習俗いっさいを風紀上よくないと停止を命じたこともあった。
現在でも長崎市の崇福寺などでは中国式の盂蘭盆行事である「(普度)蘭盆勝会」が行われる。
『お盆』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
お盆(おぼん)は、日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。8月13日 - 8月16日。
かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。
明治期の太陽暦(新暦)の採用後、新暦7月15日に合わせると農繁期と重なって支障が出る地域が多かったため、新暦8月15日をお盆(月遅れ盆)とする地域が多くなった[2]。
由来
仏教用語の「盂蘭盆会」の省略形として「盆」(一般に「お盆」)と呼ばれる。盆とは文字どおり、本来は霊に対する供物を置く容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となり、盂蘭盆と混同されて習合したともいう説もある。現在でも精霊を「ボンサマ」と呼ぶ地域がある。
中華文化では道教を中心として旧暦の七月を「鬼月」とする風習がある。旧暦の七月朔日に地獄の蓋が開き、七月十五日の中元節には地獄の蓋が閉じるという考え方は道教の影響を受けていると考えられる。台湾や香港、華南を中心に現在でも中元節は先祖崇拝の行事として盛大に祝われている。
盆の明確な起源は分かっていない。1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流する行事があった(1年が前半年と後半年の2年になっていた名残との説がある)が、初春のものが祖霊の年神として神格を強調されて正月の祭となり、初秋のものが盂蘭盆と習合して、仏教の行事として行なわれるようになったと言われている。日本では8世紀頃には、夏に祖先供養を行う風習が確立されたと考えられている。
1600年代(慶長年間)に、イエズス会が編纂した『日葡辞書』には、「bon(盆)」と「vrabon(盂蘭盆)」という項目がある。それらによると、盆は、仏教徒(宣教師の立場から見れば「異教徒」)が、陰暦7月の14日・15日頃に、死者の為に行う祭りであると、説明されている。
地方や、仏教の宗派により行事の形態は異なる。
また、お盆時期の地蔵菩薩の法会は「地蔵盆」と呼ばれ、天道すなわち大日如来のお盆は「大日盆」と言われる。
お盆は成句(イディオム)として、年末年始と組み合わされて使われることも多い。「盆暮れ(ぼんくれ)」などと時季を指す言葉としてや、「盆と正月が一緒に来たよう」という"とても忙しいこと"または"喜ばしいことが重なること"のたとえ(慣用句)が代表的である。
時期
伝統的には旧暦7月15日にあたる中元節の日に祝われていた。しかし、日本では明治6年(1873年)1月1日からグレゴリオ暦(新暦/太陽暦)を採用。太政官の改暦の布告で新暦7月15日に盆を行うことを原則としたが、従来、日本の多くの年中行事は旧暦を基にしていたため、年中行事によっては新暦の採用によって季節が合わなくなるものが生じた。特に新暦の7月15日が農繁期にあたる地域では著しく支障があったため地方によってお盆の時期に違いがみられるようになり、新暦8月15日をお盆(月遅れ盆)としている地域が多い。
全国的には以下のいずれかにお盆を行うことが多い。
旧暦7月15日(旧盆)
沖縄・奄美地方など。旧暦によるとお盆の日程は毎年変わり、時には9月にずれ込む。
新暦7月15日(もしくは前後の土日)
東京では7月15日をお盆としている。これは明治政府が新暦を半ば強行的に採用したのが浸透の理由であるが、他地方にその風習は広まらなかった。一方、東北・北陸地方の一部の都市など農繁期と重ならない地域でも新暦7月15日となっている。そのため、新暦のお盆を東京盆と呼ぶこともある[2]。
根室市の一部、函館、東北地方の一部、東京下町・横浜中心部・静岡旧市街地、栃木市旧市街地、山形県鶴岡市街地区(鶴岡市鶴岡駅前、白山、赤川堤防西岸、文下田南、外道地区以北)、石川県の一部(金沢市旧市街地、白山市旧美川町地区、かほく市旧高松町高松地区)、佐賀県有田町 など
新暦8月15日(月遅れ盆)
ほぼ全国的に多くの地域であり、盆休みのお盆と重なる。このほかの日取り(新暦8月1日など)の地域もある。8月1日実施の地域として、東京都多摩地区の一部(西東京市の旧田無市域・小金井市・国分寺市・府中市・調布市の旧神代町域・小平市など)や、岐阜県中津川市の旧付知町および旧加子母村、加茂郡の東白川村などの日取りが知られる。これはかつて養蚕が盛んだった地域で、8月1日前後が養蚕の農閑期にあたっていた名残である。
なお、旧暦での盆を旧盆と言うが、一部の地方を除いて通常、新暦での盆は新盆とは言わない。新盆(しんぼん、にいぼん、あらぼん)は別の意味となる。
全国的風習
盆の概念は日本全国に広まっているため、その行事の内容や風習は地方それぞれに様々な様式がある。必ずしも定まったものでないが、全国に比較的広まっている風習として以下の様なものがある。お盆休みの帰省は、故郷を離れて暮らすことが一般化した昭和の後半から全国的に見られるようになったが、悼むべき故人に大戦で亡くなった親類縁者を共に加えて行うことも少なくない。海外では新年などに行われることが一般的な花火大会ももともとは川施餓鬼の法会を起源として供養に繋がる(隅田川花火大会)ことから地方ではこの帰省の時期に併せてよく開催されている。
迎え火
13日夕刻の野火を迎え火(むかえび)と呼ぶ。以後、精霊棚の故人へ色々な供え物をする。
地方によっては、「留守参り」をするところもある。故人がいない墓に行って掃除などをすることをいう。御招霊など大がかりな迎え火も行われる。
送り火
16日の野火を送り火(おくりび)と呼ぶ。京都の五山送り火が有名である。15日に送り火を行うところも多い(奈良高円山大文字など)。
また、川へ送る風習もあり灯籠流しが行われる。山や川に故人がいるとされるためである。
故人を送る期間は16日から24日までであり、お迎え同様に墓参などをして勤める。
仏教では広くとった場合、お盆は1日から24日を指す。これは、地獄の王とされる閻魔王の対あるいは化身とされるのが地蔵菩薩であり、24日の地蔵菩薩の縁日までをがお盆としている。「地蔵盆」も参照。
ちなみに、天道すなわち大日如来の「大日盆」は、その縁日に則って28日である。
盆踊り
15日の盆の翌日、16日の晩に、寺社の境内などに老若男女が集まって踊るのを盆踊りという。これは地獄での受苦を免れた亡者たちが、喜んで踊る状態を模したといわれる。夏祭りのクライマックスである。旧暦7月15日は十五夜、翌16日は十六夜(いざよい)すなわち、どちらかの日に月は望(望月=満月)になる。したがって、晴れていれば16日の晩は月明かりで明るく、夜通し踊ることができた。
近年では、場所は「寺社の境内」とは限らなくなっており、また宗教性を帯びない行事として執り行われることも多い。典型的なのは、駅前広場などの多数が集まれる広場に櫓(やぐら)を組み、露店などを招いて、地域の親睦などを主たる目的として行われるものである。盆の時期に帰郷する者も多くいることから、それぞれの場所の出身者が久しぶりに顔をあわせる機会としても機能している。
なお、新しく行われるようになった盆踊りは、他の盆踊りとの競合を避けるために、時期を多少ずらして行われることも多い。また、宗教性を避けて「盆踊り」とは呼ばないこともある。 また、同様のものとして彼岸の時期に行なわれるものを「彼岸踊り」と呼称する地域(関東 - 近畿一の一部)も存在する。
初盆・新盆
また、49日法要が終わってから次に迎える最初のお盆を特に初盆(はつぼん、ういぼん)または新盆(しんぼん、にいぼん、あらぼん)と呼び、特に厚く供養する風習がある。これも地方によって異なるが、初盆の家の人は門口や仏壇、お墓に白一色の盆提灯を立てたり、初盆の家の人にそういった提灯を贈ったりして特別の儀礼を行ない、また初盆以外の時には、模様のある盆提灯やお墓には白と赤の色が入った提灯を立てたりする。
日本三大盆踊りは、徳島県の「阿波踊り」、岐阜県の「郡上おどり」、秋田県の「西馬音内盆踊り」です。これらはそれぞれ異なる特徴を持ち、400年以上の歴史を持つ伝統的な盆踊りとして知られています。
You can watch this video to learn more about the history and characteristics of these traditional Japanese Bon Odori festivals:
越中八尾「おわら風の盆」公式ウェブサイト https://owara-gyoujiunei.com/
おわらとは?風の盆とは?
【おわらとは?】
9月1日(日)江戸時代に地元八尾の遊芸の達人たちが創作した七五調の唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練りまわったのが「おわら」と唄うようになったというもの、豊年祈願から藁の束が大きくなるようにとの思いからの「大藁(おおわら)説」、八尾近隣の小原村の娘が唄いはじめたという「小原村説」など、諸説あります。
詳しくは、富山県民謡越中八尾おわら保存会のHPをご覧くださいませ。
【風の盆とは?】
二百十日の前後は台風到来の時節。収穫時の稲穂が風害に遭わないよう、風の神様を鎮める豊作祈願が行われていました。その祭りを「風の盆」というようです。また、種まき盆、植え付け盆など、地元で休みのことを「ボン(盆)」という背景があり、呼び名の由来があるのではないかとも言われています。
参考:『加盟団体紹介ページ』公益財団法人全日本仏教会 https://www.jbf.ne.jp/member#shuha
和宗 http://www.shitennoji.or.jp/
浄土宗 http://www.chion-in.or.jp/
浄土真宗 http://www.hongwanji.or.jp/
臨済宗 https://www.myoshinji.or.jp/
曹洞宗 https://daihonzan-eiheiji.com/
黄檗宗 http://www.obakusan.or.jp/
日蓮宗 http://www.nichiren.or.jp/
法華宗 http://www.kyoto-honnouji.jp/
仏像
本来は仏陀 (仏,如来) の像をいうが,今日では広く仏教尊像のすべてを総称する。釈迦の没後しばらくはその像を造ることがはばかられ,菩提樹や法輪 ,足跡などでその存在を象徴的に示した (無仏像時代) 。釈迦像は1世紀末頃,ギリシア系美術の影響を受けて西北インドのガンダーラ地方で初めて造られ,2世紀に入ってから中インドのマトゥラ地方でも造られるようになった (→ガンダーラ仏 , マトゥラ仏 ) 。最初は仏伝図の主役として登場し,やがて単独の礼拝像として造られるようになった。釈迦像が礼拝像として独立すると,禅定の釈迦,降魔の釈迦,説法する釈迦などその後の仏像の典型となるスタイルが生れ,しかも超人としての釈迦を表わすために,三十二相八十種好といった規定が考え出された。上座部仏教やその系統の南方仏教などでは釈迦仏が中心であったが,大乗仏教の発展とともに多数の如来が出現した。阿弥陀,阿 閦 (あしゅく) ,薬師,盧舎那,弥勒などの諸仏が生れ,さらに観音,勢至,文殊,普賢,金剛手,地蔵などの諸菩薩が造り出された。また密教独自の要請によって菩薩形の大日如来,忿怒形や多面多臂の特異で強烈な表現をもった明王なども生じ,仏教の諸尊像は多種多様となった。一般に仏,菩薩,明王,天の4部に大別され,そのほか鬼神や星宿,羅漢,高僧像なども造られるようになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
釈迦(しゃか)の異名(これを「名号(みょうごう)」と称する)の一つ。サンスクリット語、パーリ語のタターガタtathāgataの訳。原語は「修行完成者」「完全な人格者」を意味し、初めはバラモン教以外の出家者一般のうち、とくに優れた人への尊称として広く用いられたが、のちには仏教だけが用いるようになった。tathā(「如」と訳され、真理・ありのままを表す)とāgata(「来る」の意のアーガムāgamの過去完了)の合成と解して「如来」と訳されたが、tathāとgata(「行く」の意のガムgamの過去完了)の合成とも解され、その際には「如去(にょきょ)」の訳となる(チベット訳はこのほうをとっている)。釈迦の異名は数多くあり、そのうちとくに「十号」(10の名号)がよく知られているが、そのなかでもこの「真如から来て衆生(しゅじょう)を導く」意の「如来」は、もっとも尊ばれ親しまれた。のちに大乗仏教がおこり諸仏がたてられると、そのなかに、薬師如来や大日如来のように、如来名をとるものも現れる。[三枝充悳]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
仏をたたえた呼称の一つ。サンスクリットのタターガタの訳で,真如(しんにょ)に到達し,さらに衆生済度(しゅじょうさいど)のため娑婆(しゃば)へ来たる者という意味。大日如来,阿弥陀如来,釈迦如来など。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
[仏像としての釈迦如来]
釈迦如来は、インド以来、広く仏教の流布した地域で造像されるようになった。その中心は、実在の釈迦の伝記としての仏伝を絵解き風に造形化したもの、あるいは、その一場面を単独で造像したものなどであった。
日本では、誕生像、苦行像、降魔像、説法像、涅槃像などとして造像が行なわれた。なかでも説法像が一番一般的な造形であり、説法印などによって、釈迦が法を説く姿を表現している。
作例としては、奈良の法隆寺金堂、京都の蟹満寺の銅像、奈良の室生寺金堂、京都の大報恩寺の木像などが著名となっている。また、京都清凉寺の瑞像を模した清凉寺式釈迦如来も広範に流布している形式である。
釈迦三尊として祭壇に置かれる場合が多く、脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩が多い。法華宗・日蓮宗では三宝尊(一塔両尊)の形式がとられることが多い。これは中心が題目の書かれた多宝塔(宝塔)で両脇に釈迦如来と多宝如来が祭祀者から見て左右に並び、その下に僧としての日蓮像がある。
『釈迦如来』Wikipediaより抜粋
薬師如来像は、薬師如来像は立像・坐像ともあり、右手は施無畏印、左手は与願印で薬壺(やっこ)を持っています(奈良時代までのものは持たないものもあります。その場合は釈迦如来像と見分けがつきにくいです)。病気を治したり、苦しみや災いから人々を死後ではなく、生きている間に救う仏とされています。
薬師如来像の向かって右側(左脇侍)には日光菩薩、向かって左側(右脇侍)が立っています。それぞれ日輪・月輪を持っています。
有名な薬師如来像としては薬師寺・法隆寺・醍醐寺の薬師如来像があげられます。
参考:『薬師如来』(仏像ワールド) https://www.butuzou-world.com/dictionary/nyorai/yakushinyorai/
参考:『薬師如来』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%A6%82%E6%9D%A5
(大日はMahāvairocana 「摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)」の訳) 真言密教の教主で、一切の仏菩薩の本地、一切の徳の総摂(そうせつ)とされる仏。これを本地法身と加持受用(じゅゆう)身とに分け、法身は理体、加持受用身は説法の教主とする。また金剛・胎蔵に当たって、金剛は智を表わすから智法身、胎蔵は理を表わすから理法身とする。ただし二身は畢竟不離一体である。その形像は、胎蔵界では、黄金身で法界定印を結び、金剛界では、白色身で智拳印を結び、いずれも菩薩形で、宝蓮華座上にすわる。摩訶毘盧遮那仏。大日。遍照如来。
※観智院本三宝絵(984)下「もし大日如来をうちたてまつれる人をば蓮花の座にすゑて讚む」 〔金剛頂経義訣〕
出典 精選版 日本国語大辞典
阿弥陀はサンスクリットのアミターユス(無量の寿命の意)とアミターバ(無量の光明の意)の音訳。西方にある極楽浄土の仏で,日本では,浄土教の隆盛にともない諸仏のなかでも最も多くの信仰を集めた。さまざまな経典に記されているが,とくに浄土三部経とよばれる「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」は阿弥陀に対する信仰を中心として書かれている。10世紀に源信(げんしん)が「往生要集」を著し,同じ頃民間に空也(くうや)が現れて称名念仏を唱え,阿弥陀に対する信仰を勧めた。この頃から浄土信仰は盛んになり,12~13世紀には法然(ほうねん)・親鸞(しんらん)・一遍(いっぺん)などが教理と実践の両面をいっそう純化させ,それぞれ浄土宗・浄土真宗・時宗教団の基礎を作った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
サンスクリット語 bodhisattvaの転訛形の音写。仏教用語。菩提薩 埵 (ぼだいさった) の略称ともいわれる。原始仏教においては,悟りを開く前の仏陀のこと。特に本生話 (ジャータカ ) では仏陀の前世の姿をいう。『舎利弗阿毘曇論』では「菩薩とは他の教えによらないで自力で悟る人,三十二相を成就している人,将来仏の十力,四無所畏などを成就する人,将来大慈を成就して転法輪をなす人」と定義されている。大乗仏教では,大乗の実践を行う人,宗教的実践をなす主要な人とみなされた。『大智度論』では仏陀の道を学ぼうとする心をもった人と解釈され,また利他行を行うものとして説かれ,大願と不退転と勇猛精進の3条件を菩薩の資格としている。声聞 (しょうもん) ,縁覚,菩薩の三乗を分類する場合には,菩薩乗を大乗としているように,大乗仏教では重要な存在である。したがって中国,日本では高徳の僧への称号としても用いられた。日本では聖武天皇が行基に菩薩の号を賜わったのを初めとする。さらに特定の機能をもち理想化された菩薩として,弥勒,観世音,大勢至,日光,月光,文殊,普賢,地蔵,虚空蔵などがあり,図像化の際には形姿や持物などによって区別される。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
弥勒菩薩:釈迦の滅後56億7千万年後に現れ人々を救う、未来の仏。
観世音菩薩:慈悲深く、人々の声を聞いて救済する。
大勢至菩薩:阿弥陀如来の脇侍で、知恵の光で衆生を照らす。
日光菩薩・月光菩薩:薬師如来の脇侍。太陽と月の光で闇(煩悩)を照らし癒す。
文殊菩薩:智慧の神。釈迦の左脇侍として教えを支える。
普賢菩薩:理・慈悲・行を象徴し、文殊とともに釈迦の右脇侍。
地蔵菩薩:大地がすべての命を育むように、苦しむ人々を慈悲で包み込む。
虚空蔵菩薩:広大な虚空のような、無限の智恵と功徳を持つ。
これら9体は、仏教の曼荼羅や寺院の本尊・脇侍として、多様な願い(救済、知恵、癒し)を叶える存在として信仰されている。
仏像のうちで如来,菩薩(ぼさつ)の次に来る分類名。非常に強い力をもち,忿怒(ふんぬ)の形相で悪を打ち砕く姿が多い。愛染明王,不動明王,孔雀明王,大元帥明王などのほか,数尊を一組として考えられたものに五大明王(不動明王,降三世(ごうさんぜ)明王,軍荼利(ぐんだり)明王,大威徳明王,金剛夜叉明王),八大明王がある。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
明王(みょうおう)は、密教において大日如来の教えに従わない衆生を忿怒(ふんぬ)の形相で教化・守護する仏です。不動明王を中心に配置する五大明王(降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉)が代表的で、他に愛染明王(愛欲・縁結び)、孔雀明王(災難除去)、大元帥明王(国家安泰)なども重要な信仰対象です。
1. 代表的な個別の明王
不動明王(ふどうみょうおう)
大日如来の化身であり、明王の最高位。右手に剣(利剣)、左手に縄(羂索)を持ち、煩悩を断ち切り救済する「お不動さん」として信仰が厚い。
愛染明王(あいぜんみょうおう)
愛欲を智慧(ちえ)に変える力を持ち、縁結び、家庭円満、敬愛、息災延命のご利益があるとされる。一面三目六臂で赤いお姿が特徴。
孔雀明王(くじゃくみょうおう)
毒蛇や害虫を食べる孔雀を神格化した仏。明王の中では珍しく忿怒の表情ではなく、慈悲深い菩薩のような姿で描かれる。災難除去や祈雨に霊験がある。
大元帥明王(だいげんすいみょうおう/たいげんすいみょうおう)
国家を守護する力が非常に強く、敵国降伏や国土防衛、厄除けの秘法(大元帥法)の本尊として信仰された。
五大明王(ごだいみょうおう)
不動明王を中心に、四方に明王を配置して災難を除け、国家や衆生を守護する構成です。
中心:不動明王(東方・南方・西方・北方ではない)
東方:降三世明王(ごうざんぜみょうおう) - 怒りの象徴を打ち倒す。
南方:軍荼利明王(ぐんだりみょうおう) - 障害を取り除く。
西方:大威徳明王(だいいとくみょうおう) - 阿弥陀如来の化身、牛に乗る姿。
北方:金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう) - 悪を食らう。
※天台宗では金剛夜叉の代わりに烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を配置することがある。
3. 八大明王(はちだいみょうおう)
主に『大日経』などに基づき、密教の修行において重要視される8つの明王。
不動明王
降三世明王
軍荼利明王
大威徳明王
金剛夜叉明王
大輪明王(だいりんみょうおう)
馬頭明王(ばとうみょうおう) - 観音菩薩の化身
無能勝明王(むのうしょうみょうおう)
明王は一般的に、仏教を守護する天部(てんぶ)に分類され、忿怒の表情で人間を救済しようとする強い意志を示しています。
参考:『成田山のお不動さまとは』成田山新勝寺 https://www.naritasan.or.jp/about/ofudousama/
参考:『四明王の八天石蔵』箕面市 https://www.city.minoh.lg.jp/kyoudo/hatten.html
参考:『不動明王』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B
不動明王(ふどうみょうおう、梵: अचलनाथ acalanātha[2])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。
真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。大日如来、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、金剛愛染明王らと共に祀られる。
概要
密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多い。真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もある。
仏像の分類において如来,菩薩,明王に次いで最下位に置かれる尊像の総称で,諸天部,天ともいう。これらはインド古代神話では天界に住む神々であり,仏教にとり入れられて護法神となった。仏教では凡夫が生死往生する迷いの世界(三界(さんがい))に28の天界を考え,天界とそこに住む神々とをいずれも〈天〉と称した。しかし二十八天すべての形像が体系的に説かれることはなく,その中のごく一部が造像されるだけである。天部像は各像の来歴の古さを示して個々の形像は多様であるが,密教においてもそれ以外(顕教)においても群像として造像される場合が多い。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
貴顕天部(きけんてんぶ)は、仏教の守護神である「天部」の中で、特に貴族や高貴な姿(人間風の髪・衣服)で表現される神々を指します。梵天、帝釈天、吉祥天、弁財天、伎芸天、訶梨帝母(鬼子母神)、大黒天が含まれ、福徳・豊穣・芸能・安産などのご利益をもたらすとされます。
代表的な神々
梵天(ぼんてん): 仏法を守護し、帝釈天と共に釈迦の脇侍として知られる。
帝釈天(たいしゃくてん): 梵天と対になる守護神。
吉祥天(きっしょうてん): 美と福徳の神。
弁財天(べんざいてん): 音楽・知恵・財宝の神。
伎芸天(ぎげいてん): 伎芸(芸能・技術)の向上を司る。
訶梨帝母(かりていも/鬼子母神): 安産・子育ての神。
大黒天(だいこくてん): 福の神として崇められる。
特徴
古代インドの神が仏教に取り入れられた存在。
武装した四天王などとは異なり、髪を結い中国風の衣服をまとった姿(一面二臂)で表されることが多い。
「天部」は仏像の分類で如来・菩薩・明王に次ぐ4番目の位だが、貴顕天部は特に人間的な尊い姿をして祀られる。
これらの神々は、寺院において護法神として、また現世利益を願う対象として信仰されています。
参考:『天(仏教)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
参考:『天部』京都通百科事典
武人天部は、仏法やその信者を守護するインド由来の神々(天部)が甲冑や武具を身につけ、武装した姿の総称です。四天王、十二神将、二十八部衆など、如来や菩薩の眷属として群像で配置され、表情や姿態が力強い(忿怒形)のが特徴です。
主な武人天部と構成要素:
四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天/毘沙門天): 須弥山の中腹で仏法を守護する。特に毘沙門天は単独信仰も盛ん。
仁王(金剛力士): 寺院の門に立ち、悪霊を追い払う。阿形・吽形のペア。
十二神将: 薬師如来の眷属で、12の十二支に対応し十二大願を守護する。
二十八部衆: 千手観音の眷属。二十八の天界から護法に駆けつけた、多種多様な姿を持つ。
八部衆: 仏法を守護する8種類の異類(阿修羅など)。
韋駄天: 仏法を守り、速く走ることで知られる武装の神。
深沙大将: 玄奘三蔵を守護したとされる、鬼神のような姿の武神。
三十三間堂(蓮華王院)の二十八部衆像など、これらの尊像は、鎌倉彫刻において迫真的な表現で傑作が多く残されています。
参考:『(仏像の種類)天部』日々是古物愛好 https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/kihon/shurui/tenbu.html
参考:『天部』デジタル大辞典 コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E9%83%A8-102737#goog_rewarded
参考:『二十八部衆像』蓮華王院三十三間堂 https://www.sanjusangendo.jp/statue/nijuhachibushu/
画像
参考:『毘沙門天について』日本三佛毘沙門天 関東の名刹 大岩山毘沙門天 https://www.oiwasan.or.jp/about-bishamonten.html
くわしい
参考:『毘沙門天』仏像ワールド https://www.butuzou-world.com/dictionary/ten/bisyamonten/
参考:『蓮華王院 三十三間堂』洛陽三十三所観音霊場巡礼 https://rakuyo33.jp/rengeoin/
参考:『天(仏教)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
参考:『天部』京都通百科事典
阿羅漢 (arhatの音写) の略称。応供 (おうぐ) と訳される。供養と尊敬を受けるに値する人の意。剃髪し,袈裟を着た僧形に表わされる。中国,日本では十六羅漢,十八羅漢,五百羅漢のように仏道修行者の群れをさし,禅宗の流通に伴って多数制作された。十六羅漢の信仰と羅漢図は中国,唐代に始り,五代には貫休がその名手として知られ,流布した。日本では中国からの将来品やその転写などの遺品が多く,特に鎌倉時代以降隆盛をみた。羅漢の彫像では京都南禅寺の『十六羅漢像』 (1628頃) ,東京羅漢寺の『羅漢像』 (88~95) ,画像では唐の系統をひくとされる 11世紀の東京国立博物館蔵の『十六羅漢図』,奝然 (ちょうねん) が宋から伝えたという清涼寺本などが有名。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
サンスクリット語のナラカ narakaの訳。那落迦 (ならか) ,奈落 (ならく) などと音写され,自己の悪業によっておもむく極苦の世界とされている。無間地獄 (むけんじごく) ,八大地獄,現在われわれの住んでいる世界などに孤立して散在するといわれる孤地獄,辺地獄など数多くの種類の地獄が考えられている。地獄またはこれに類する死後の苦痛の場に関する観念はほとんどの民族に共通で,ギリシア神話,ゲルマン神話などにもその具体的な描写がみられる。ユダヤ教,特に後期ユダヤ教もオリエント諸宗教の影響を受けて地獄の観念を発達させ,キリスト教,イスラム教などもこれを継承したが,特に前者は地獄の永遠性,その苦痛の無限性,その本質などを理論的次元で説明しようとしている。しかし地獄の具体的状況の描写には,いずれも民衆の想像力によるものが多く,またキリスト教など全善全良なる神を信じる宗教にあっては,これと永遠無限なる地獄の存在をどのように両立して考えるかが問題となっている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
地獄の世界のありさまを描いた絵巻。現在、いずれも国宝の奈良国立博物館蔵(旧原家本)の1巻、東京国立博物館蔵(旧安住院本)の1巻などが著名である。平安中期以降浄土教の発達とともに栄えた六道輪廻(ろくどうりんね)の思想に基づき、その末期から鎌倉時代にかけて盛んにつくられた六道絵の一つ。浄土教の布教を目的としたものと思われるが、平安末期の動乱の世相が現実的に表現されており、『餓鬼草紙(がきぞうし)』『病草紙(やまいのそうし)』などとともにこの種の絵画の貴重な遺品である。
奈良博本は詞(ことば)6段、絵7段からなり、屎糞(しふん)地獄、函量(かんりょう)地獄、鉄磑(てつがい)地獄、鶏(とり)地獄、黒雲沙(こくうんさ)地獄、膿血(のうけつ)地獄、狐狼(ころう)地獄の7図を、東博本は詞・絵ともに4段からなり、髪火流(はつかる)地獄、火末虫(ひまつむし)地獄、雲火霧処(うんかむしょ)地獄、雨炎石(うえんせき)地獄の4図を描いている。2巻とも詞・絵の形式・作風が似ているが、同筆とはいいがたい。平安末~鎌倉初期(12世紀末)の制作で、絵はのびのびとした筆線を主体とし、赤と暗灰色の対比を基調とした色彩が効果的である。醜い題材を描きながら、むしろ美的な印象を与え、その画致の高さを物語っている。なお、このほかの遺品としては五島美術館ほかの断簡(旧益田(ますだ)本)、および松永安左ヱ門旧蔵の断簡(1幅)が知られている。[村重 寧]
『家永三郎編『新修日本絵巻物全集7 地獄草紙他』(1976・角川書店)』▽『小松茂美編『日本絵巻大成7 地獄草紙他』(1977・中央公論社)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
六道(ろくどう、りくどう、梵: ṣaḍ-gati)とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。六趣、六界ともいう。 gati は「行くこと」「道」が原意で、「道」「趣」と漢訳される。
六道には下記の6つがある:
天道(てんどう、天上道、天界道とも)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)
このうち、天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)という。ただし修羅道を悪趣に含めて四悪趣(四悪道、四趣)とする場合もある。六道から修羅道を除いて(修羅道を地獄道におさめて)五道(五趣)とすることもある。
『六道』Wikipediaより抜粋
[公益財団法人 美術院 国宝修理所]
沿革: 美術院 国宝修理所の起源は、明治31年(1898)に岡倉天心が創設した「日本美術院」に遡ります。天心は院の正員新納忠之介(にいろちゅうのすけ)らを、古社寺保存法に基づく国宝修理にあたらせました。
新納らの国宝修理部門は、明治39年の組織改革で「日本美術院第二部」となり、天心没後の大正3年(1914)には、日本美術院第一部(美術品制作部門、現・財団法人日本美術院)と分かれて「美術院」と改称、新納を責任者として国宝修理を継続します。
昭和21年(1946)、戦後の経済難と高齢である新納(数え年79歳)の引退にともない、美術院の技術者たちは3つのグループに分かれ活動を続けることになりましたが、昭和30年に再び結集します。昭和43年には「財団法人美術院」として新たなスタートをきり、現在に至っています(平成25年4月1日付で公益財団法人に移行、法人名称を「公益財団法人 美術院」に変更)。
このように組織の変遷はありましたが、明治31年から今日まで百年以上にわたり、一貫して文化財修理(対象は彫刻および大型工芸品)に従事しています。
明治30年(1897年) 古社寺保存法制定。
仏像の修理に関しては、『木彫仏像の損傷と修理』山崎隆之氏 などにくわしい。
Google AIのまとめによる
飛鳥時代(6世紀末〜7世紀前半)は、仏教伝来とともに大陸(百済・中国)から新しい建築・文化技術が導入された日本初の本格的仏教文化の時代です。法隆寺(世界最古の木造建築)や飛鳥寺(飛鳥大仏)に代表される、高い塔や対称的な伽藍配置が特徴です。
飛鳥建築の特徴: 雲斗・雲肘木という特殊な構造、塔と金堂を並べる配置、地垂木が円、飛檐垂木が角の「地円飛角(じえんひかく)」が特徴。
代表的な寺院: 法隆寺(奈良県斑鳩町)、飛鳥寺(奈良県明日香村)。
時代背景: 聖徳太子や蘇我馬子により崇仏派が勝利し、大陸の知識を持つ渡来人が活躍した。
この時代は古墳文化から、建築、彫刻、絵画など多様な技術が発展した国際色豊かな文化が形成されました。
参考:『建築様式①「飛鳥様」』ホームメイト・リサーチ
飛鳥様(あすかよう)は、推古天皇が即位していた時代前後で用いられた日本の建築様式です。飛鳥様と言う表現で飛鳥建築をあらわす場合もあります。代表的な建築は奈良の法隆寺、初めて本格的な仏教寺院が作られた時代で、ほとんどが現存していません。法隆寺も再建であり、異なる部分があると考えられています。
飛鳥建築は、他の時代では見ることのない建築様式が含まれているところが特徴ですが、遷都により寺院が移築されたことも大きな影響で、古墳の時代から寺院建築に移り変わった時代であり、海外の建築技術を取り入れつつ、独自に成立しました。
参考:『日本最初の本格寺院 本尊 飛鳥大仏は現存する 日本最古の仏像』第九番札所 鳥形山 飛鳥寺
参考:『飛鳥文化』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%96%87%E5%8C%96#%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%AF%BA%E9%99%A2
飛鳥文化(あすかぶんか)は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。
朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝や、インドなどの文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。
参考:『2016年04月20日 (水) 世界最古の木造建築 法隆寺』NHKアーカイブス 動画6個あり
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0040028
参考:『飛鳥・奈良様式』大阪文化財ナビ
教科書的には、仏教伝来とともに、中国の唐を中心とする建築様式が日本に移入され始めてから、日本で国風化されていく過程も含め、総じて「和様」と呼ばれることが一般的ではある。しかし、飛鳥や奈良の建築様式には、平安以降の「和様」の典型とは明らかに異なる形式が多く見て取れるため、「飛鳥・奈良様式」として別立てした方が、誤解も少なく、理解もすすむものと考えられる。
例えば、法隆寺・法起寺に見られる「雲斗・雲肘木」は、その源流を漢代の「二斗」に由来するともいわれ極めて特殊である。
また、「二軒」における「地円飛角(じえんひかく)」すなわち、「地垂木」を円材、「飛檐垂木(ひえんだるき)」を角材にといった渡来形式が、平安時代には「地角飛角」と変化し、それが「和様」の基本となる。さらに、平安時代の「和様」に見られる構造体としての横架材である「長押」は、飛鳥・奈良様式にあっては設けられず、堂宇の出入り口の「楣(まぐさ)」に類似のものがみられるのみである。
参考:『飛鳥ってどんなところ?』古都飛鳥保存財団 https://www.asukabito.or.jp/history.html
「飛鳥文化の中核をなしたのは、朝鮮半島からの渡来文化であった。仏教とともに、寺院造営のための建築、土木、庭園、彫刻、絵画、工芸、芸能など多様な技術・文化が導入された。特に百済は、中国南朝の梁から入手した教義・書物やさまざまな文明要素を倭国に伝えた。しかし、百済仏教のみが伝来したというわけではなく、高句麗・新羅の仏教や、遣隋使・遣唐使を通じた中国仏教、儒教や道教も伝来した。」
参考:『時空の旅 飛鳥-古代国家基礎づくりの舞台』歴史街道
参考:『飛鳥時代 律令国家としての基礎をつくり上げた時代』Good Luck Trip https://www.gltjp.com/ja/directory/item/14150/
参考:『和様』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%A7%98
和様(わよう)とは、日本風あるいは、日本様式の事物を意味し、中国風・中国様式を意味する唐様に対して用いられる。狭義では和様建築を指して用いられる場合が多いが、書道をはじめとして絵画や彫刻など、日本美術史において日本風が顕著になった平安時代中期から後期にかけての作品に対して広く用いられる用語である。ただし、和様とされるものの多くは純粋な意味での日本古来のものではなく、その原形は飛鳥・奈良時代に唐から受容された文物を日本の風土と日本人の感性に合わせる形で改良することによって成立した文化様式である。
9世紀半ば以後、中国を支配してきた唐の衰退に伴って遣唐使が派遣されることが無くなり(894年に正式に廃止)、代わって日本独自の文化(国風文化)が登場するようになった。特に日本語表記が確立された点が大きく、仮名の使用は長い間女性に限定されていたと言われてきたが、実際には和歌を中心として男性が非公式の場において平仮名を用いる事もあり、日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』も平仮名交じりの文体が採用されている。日本語の表記において漢字と仮名が交用されていく中で漢字の点画も平仮名のような曲線を帯びるようになっていった。こうした中で書道において、和様の書道が形成されるようになる。王羲之の書法を範としながらも新たな書法を生み出した小野道風をはじめ、藤原行成・藤原佐理らによって上代風とも呼ばれる新たな書風を生み出し、後に法性寺流・世尊寺流などの和様書法が出現した。また、大仏様などの大陸の影響を受けた寺院の建築様式に代わって日本独自の要素を取り込んだ和様建築が出現するようになった。
参考:『禅宗様』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%97%E6%A7%98
禅宗様(ぜんしゅうよう)は、日本の伝統的な建築様式の一つ。唐様とも言う。
鎌倉時代初期から禅宗寺院で取り入れられ始め、武士の帰依を受けたことで13世紀後半から盛んになった様式で、当時の中国建築の直写が目指された。従来の寺院建築様式である和様、また鎌倉時代初期にもたらされた大仏様に対する言葉。大仏様とは共通する部分も多く、あわせて鎌倉新様式または宋様式と総称される。
概要
飛鳥・天平時代に中国から伝えられた建築様式は、平安時代を通じて日本化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降、日本化した建築様式を和様と呼ぶ。
平安時代後期になると、平清盛の大輪田泊対外開港など中国(宋)との交易が活発になったことで、再び中国の建築様式が伝えられた。まず入ってきたのは東大寺再興の際に用いられた様式で、大仏様と呼ぶ。
その後、禅僧が活発に往来し、中国の寺院建築様式が伝えられた。これは禅宗寺院の仏堂に多く用いられ、禅宗様と呼ぶ。
用語
大工の伝承では、寺院建築に和様・天竺様・唐様という区別が行われ、明治時代以降の建築史でも使用してきた。第二次世界大戦後、建築史家太田博太郎が「天竺様ではインドの建築様式と誤解される。大仏殿の復興に使われたので大仏様と呼ぶべき」「唐様は禅宗寺院に使われたので、禅宗様と呼ぶべき」と提唱し、現在の建築史では一般的に和様・大仏様・禅宗様が使われている。歴史教科書などでは、天竺様・唐様という呼び方も残る。
禅宗様の特徴
一部は大仏様の特徴にも通じる。
南北を基本軸とした東西対称の伽藍配置(例外あり)
仏殿は平面正方形で、間仕切りのない一室堂
屋根に強い反り。ただし裳階屋根の反りは小さい
放射状に垂木を置く扇垂木。ただし裳階は平行垂木が一般的
柱と柱の間にも組物を入れる詰組(つめぐみ)
和様では用いられなくなった三手先の使用(例外多し)
貫(ぬき)を使い構造を強化(長押は用いられず)
柱は丸柱で上下端をすぼませる粽
柱の下にそろばんの玉を大きくしたような形の礎盤を置く
柱の上部同士をつなぐ頭貫の上に水平材の台輪を置く
'瓶子形の大瓶束(たいへいづか)の下部には結綿(ゆいわた)とよばれる彫刻がある。
木鼻(貫の先端)には繰り型といわれる装飾(渦巻、若草)を付けている
欄間は弓欄間(波欄間、火炎欄間とも)で連子子が弓型となっている
窓は上部に複雑な曲線の付いた火灯窓(花頭窓)
扉は四周の框と縦横の数本の桟を組み、桟と框の間に入子板を嵌め込んだ桟唐戸
壁は竪板壁で土壁は殆どない
床は土間床で、瓦の四半敷(目地が縦横の線に対し45度になる敷き方)で仕上げる
建物の外部には彩色をしない素木造りだが、内部はその限りではない
代表的な建造物
本格的な禅宗様建築は残っていないが、建築様式は忠実に継承された。
名称 建立年代 所在地 状態 備考
功山寺仏殿 鎌倉時代(1320年) 山口県下関市 国宝 現存日本最古の禅宗様建築
善福院釈迦堂 鎌倉時代(1327年) 和歌山県海南市 国宝
安楽寺八角三重塔 鎌倉時代末期 長野県上田市 国宝
正福寺地蔵堂 室町時代(1407年) 東京都東村山市 国宝
安国寺経蔵 室町時代(1408年) 岐阜県高山市 国宝
清白寺仏殿 室町時代(1415年) 山梨県山梨市 国宝
洞春寺観音堂 室町時代(1430年) 山口県山口市 重要文化財
円覚寺舎利殿 室町中期(15世紀) 神奈川県鎌倉市 国宝
最恩寺仏殿 室町中期(1393-1466年) 山梨県南部町 重要文化財
東光寺仏殿 室町後期(1467-1572年) 山梨県甲府市 重要文化財
園城寺一切経蔵(旧国清寺経蔵) 室町中期/1393-1466 滋賀県大津市 重要文化財
不動院本堂 戦国時代(1540年) 広島県広島市 国宝
不動院楼門 桃山/1593 広島県広島市 重要文化財
不動院鐘楼 室町中期/1433 広島県広島市 重要文化財
建長寺仏殿 江戸後期/1825 神奈川県鎌倉市 重要文化財
建長寺法堂 江戸時代(1825年) 神奈川県鎌倉市 重要文化財
旧東慶寺仏殿(現・三渓園) 江戸時代(1634年) 神奈川県横浜市 重要文化財
大乗寺仏殿 江戸時代(1702年) 石川県金沢市 重要文化財
善通寺金堂 江戸時代(1699年) 香川県善通寺市 重要文化財
多久聖廟 江戸時代(1708年) 佐賀県多久市 重要文化財
永保寺開山堂 室町前期/1333-1392 岐阜県多治見市 国宝 裳階なし
永保寺観音堂 室町前期/1333-1392 岐阜県多治見市 国宝
瑞龍寺仏殿 江戸前期/1659 富山県高岡市 国宝
国分寺金堂 江戸後期/1779 山口県防府市 重要文化財
英勝寺仏殿 江戸前期/1643 神奈川県鎌倉市 重要文化財
永平寺仏殿 明治/1902 福井県永平寺町 重要文化財
永平寺舎利殿 江戸末期/1926 福井県永平寺町 重要文化財
南宗寺仏殿 江戸前期/1653 大阪府堺市 重要文化財
長樂寺仏殿 桃山/1577 和歌山県有田川町 重要文化財
泉涌寺仏殿 江戸中期/1669 京都府京都市 重要文化財
大徳寺仏殿 江戸中期/1665 京都府京都市 重要文化財
大徳寺法堂 江戸前期/1636 京都府京都市 重要文化財
妙心寺仏殿 江戸後期/1827 京都府京都市 重要文化財
妙心寺法堂 江戸前期/1656 京都府京都市 重要文化財
金峯神社本殿 桃山/1608 山形県鶴岡市 重要文化財
寶林寺仏殿 江戸中期/1667 静岡県浜松市 重要文化財 裳階なし
天恩寺仏殿 室町前期/1333-1392 愛知県岡崎市 重要文化財 裳階なし
普濟寺仏殿 室町前期/1357 京都府南丹市 重要文化財 裳階なし
泉福寺仏殿 室町後期/1524 大分県国東市 重要文化財 裳階なし
圓通寺本堂 室町後期/1532-1554 広島県庄原市 重要文化財 裳階なし
如法寺仏殿 江戸中期/1670 愛媛県大洲市 重要文化財 裳階なし
善光寺薬師堂 室町後期/1483 愛媛県鬼北町 重要文化財 裳階なし
鑁阿寺経堂 江戸前期/1615-1660 栃木県足利市 重要文化財
勝興寺経堂 江戸後期/1805 富山県高岡市 重要文化財
鑁阿寺本堂 鎌倉後期/1299 栃木県足利市 国宝 裳階なし
和様が基本だが、詰組など一部禅宗様を取り入れる。
参考:『折衷様』Wikipedia
折衷様 (せっちゅうよう)は、日本の伝統的な中世の仏教寺社建築様式の一つ。和様、 大仏様、 禅宗様 の三者を折衷した様式。厳密には大仏様、禅宗様の手法を和様に応用したもの。13世紀後半から流行し、14世紀には純粋な和様建築の例は減少している。
瀬戸内海沿岸に多く折衷様の寺院が見られ、兵庫県の鶴林寺本堂や、広島県明王院本堂、愛媛県太山寺本堂などがその例である。
概要
豪放な大仏様、伝統的な和様、宋からの禅宗様(唐様)の組み合わせである。鶴林寺 (加古川市)には、大仏様の貫や挿肘木、そして禅宗様の詰組などの要素が加わり折衷様ならではの造りが見られる。 また、和様をベースに大仏様のみの特徴を加えた造りは「新和式」と呼ばれ折衷様と区別されることもある。
なお、折衷様式で立てられた寺院の例に観心寺が挙げられ、折衷様を「観心寺様」と呼ぶことが往往にしてあるが、必ずしも大阪府にある観心寺は折衷様の代表例とは言えないため、不適切との見解もある。
【運慶】
◎参考:『仏師運慶 運慶について』浄楽寺 https://bijutsutecho.com/artists/117
◎参考:『運慶』美術手帖 https://bijutsutecho.com/artists/117
◎参考:『運慶』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E6%85%B6
運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年12月11日(1224年1月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した仏師である。慶派に属する。
初期の活動
運慶の現存最古作は、安元2年(1176年)に完成した奈良・円成寺の円成寺木造大日如来坐像である。寿永2年(1183年)には、以前から計画していた『法華経』の書写を完成した。この『法華経』は現在「運慶願経」と呼ばれている(京都・真正極楽寺蔵および個人蔵、国宝)。経の奥書には48名もの結縁者の名が記され、その中には快慶をはじめ、実慶・宗慶・源慶・静慶など後に仏師として活躍することの知られる者が含んでおり、一門をあげての写経だったことがわかる。
興福寺再興事業への参加
治承4年(1180年)に平家の兵火により、奈良の東大寺・興福寺が焼亡する。興福寺の再興造像は、円派、院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する慶派の奈良仏師とが分担した。当時の中央造仏界での勢力にしたがい、円派・院派のほうが金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当することとなり、奈良仏師では運慶の父である康慶が南円堂の造仏を担当し、本家筋にあたる成朝は食堂(じきどう)の造仏を担当することとなった。
鎌倉幕府への接近
成朝は、なぜか食堂本尊の造像に専念せず、文治元年(1185年)に源頼朝の勝長寿院本尊阿弥陀如来像を造るため鎌倉に下向した(『吾妻鏡』)。一方、運慶は文治2年(1186年)正月の時点で興福寺西金堂本尊釈迦如来像の造像に携わっていたが(『類聚世要抄』)、その直後、成朝の動向に連続するかのように、鎌倉幕府関係の仕事を開始する。その年5月3日には、北条時政発願の静岡県伊豆の国市・願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を造り始めている(阿弥陀如来像を除く各像像内に納入の五輪塔形銘札)。またその3年後、文治5年(1189年)には、和田義盛発願の神奈川県横須賀市・浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を造っている(不動明王・毘沙門天像像内納入の月輪形銘札)。
東大寺での仕事
治承4年(1180年)の南都焼討で主要伽藍を焼失した東大寺復興造仏には、康慶を中心とする奈良仏師が携わっている。建久5年(1194年)から翌年にかけて、東大寺南中門二天像が造立されたが、このうち西方天担当の小仏師として「雲慶」の名が記録にみえる。建久7年(1196年)には康慶の主導で、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像(如意輪観音、虚空蔵菩薩)と大仏殿四隅に安置する約14メートルに及ぶ四天王像の造立という大仕事に携わる。運慶は父康慶とともに虚空蔵菩薩像の大仏師を務め、四天王像のうち増長天の大仏師を担当している(『鈔本東大寺要録』『東大寺続要録』)。以上の諸像は、戦国時代末期の松永久秀による東大寺大仏殿の戦いによる兵火で大仏殿とともに焼失して現存しない(快慶作金剛峯寺像、海住山寺像をはじめ大仏殿像の形式を模したといわれる四天王像が多く造られ、「大仏殿様四天王像」と称される)。現存するこの時期の作品としては建仁3年(1203年)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像がある。造高約8.5メートルに及ぶ巨像2躯は、1988年から1993年にかけて解体修理が実施された。その結果、阿形像の持物の金剛杵内面の墨書や吽形像の像内納入経巻の奥書から、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の4名が大仏師となり、小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられた。4人の大仏師の役割分担については諸説あるが、運慶が両像の制作の総指揮にあたったものと考えられている。この功績により、建仁3年(1203年)の東大寺総供養の際、運慶は僧綱の極位である法印に任ぜられた。これは奈良仏師系統の仏師として初めてのことであった。
しかし、その後、運慶と東大寺の間で何かあったようである。東大寺の修二会では3月5日と12日の2回、過去帳読誦が行われる。これは東大寺にゆかりがあったり寄進をした人物の名を練行衆が順に読み上げていくものであるが、康慶、快慶、定覚、陳和卿の名はあるが運慶はない。
承元2年(1208年)から建暦2年(1212年)にかけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏以下の諸像を造っている(『猪隈関白記』、弥勒仏像像内納入品)。これらのうち弥勒仏像、無著菩薩・世親菩薩像が北円堂に現存し、運慶晩年の完成様式を伝える。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている。同堂四天王像はいま平安時代初期造立の木心乾漆像に替わっているが、興福寺南円堂に伝来した四天王像が本来の北円堂像であった可能性が説かれている。
最晩年の運慶の仕事は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で、建保4年(1216年)には、実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院に現存する大威徳明王像を造った。更に、源実朝の持仏堂、北条義時の大倉薬師堂、北条政子の勝長寿院五大尊像などの諸像を手がけている。
同像の納入文書の記載によれば、本像は大日如来像、愛染明王像とともに造立されたものだが、これら2像は現存しない。
作風
平安後期に都でもてはやされた定朝様(じょうちょうよう)の仏像は、浅く平行して流れる衣文、円満で穏やかな表情、浅い肉付けに特色があり、平安貴族の好みを反映したものであった。対して運慶の作風は、男性的な力強い表情が特徴的である。また、様々な変化をつけた衣文、量感に富む力強い体躯なども特色として挙げられる。運慶のこうした作風については当時の武士の気風を反映したものと解説されるが、こうした一面的な理解には疑問を呈する意見もある。
現存作品
運慶の作と称されている仏像は日本各地にきわめて多い(特に仁王像に多い)が、銘記、像内納入品、信頼できる史料等から運慶の真作と確認されている作品は少ない。以下は国宝・重要文化財指定名称に運慶の関与が明記され、運慶ないし運慶工房の真作として学界にほぼ異論のないものである。
(文中の「重要文化財」は日本の文化財保護法第27条の規定に基づき、日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(「国の重要文化財」)を指す。)
運慶作と確定している作品
奈良・円成寺 大日如来坐像(国宝) - 安元2年(1176年)10月。運慶の真作として確認できる最初の作品。手は智拳印を結ぶが、その位置は一般的な大日如来像よりかなり高く、それによって胸の前に複雑な空間が生じている。また、条帛をわざわざ別材で接ぎ合わせ、より現実に近い造形を試行している。台座蓮肉天板裏面に運慶自署と思われる墨書銘があり、これに拠り運慶は本像を11か月かけて制作し、仏像本体の代金として上品8丈の絹43疋を賜ったことがわかる。当時この仏像のような等身大の像の制作期間はおよそ3か月程度とされ、それよりも遥かに長い日数をかけて造仏していることから、運慶が他の仏師の助力を得ず独力で制作したと考えられる。願主ではなく仏像を作った仏師自らが名を記した現存最古の例としても貴重である。この銘文は大正10年(1921年)に発見され、近代的な運慶研究の端緒となった。
静岡・願成就院 阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像(国宝) - 文治2年(1186年)(不動・二童子・毘沙門天像像内納入木札墨書)。5体は2013年(平成25年)に国宝に指定された。
神奈川・浄楽寺 阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像(重要文化財) - 文治5年(1189年)(不動・毘沙門天像像内納入木札墨書)。像底に「上げ底式内刳り」を採用した最初の例。一般に寄木造の仏像は、内部を入念に内刳りして椀を伏せたような構造になっている。納入品は台座の上に置かれ、それに被せるように仏像が安置される。そのため火事などの緊急事態に遭うと、像だけが救い出されても納入品はそのまま置き去りにされて失われてしまいがちであった。そこで運慶は、内刳りに際して膝の上の高さで像の底を刳り残して、納入品が像内に封入されるように工夫した。単純な工夫であるが、他派の仏師たちがこの構造を採用するようになるのは鎌倉時代後半になってからである。
奈良・東大寺南大門 金剛力士立像(国宝) - 建仁3年(1203年)。運慶が中心となり、快慶、定覚、湛慶ら一門の仏師を率いて制作。(『東大寺別当次第』、阿形像持物金剛杵墨書、吽形像像内納入経巻奥書)
奈良・興福寺北円堂諸仏 - 建暦2年(1212年)。『猪熊関白記』の記事により運慶一門の作であることがわかる。弥勒仏及び両脇侍像、四天王像、羅漢像2体(無著・世親像)の計9体の群像であった。ただし、両脇侍像は失われ、四天王像も所在不明である(もと興福寺南円堂に安置され、同寺中金堂へ移動した四天王像を旧北円堂像とする説もある。弥勒仏像台座反花内側の墨書に各像の担当仏師の名が記されているが、判読不能箇所が多く、全容は不明である。
弥勒仏坐像(国宝)運慶の指導のもと源慶、□慶(1字不明、静慶か)らが制作。
無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)運慶の指導のもと運□(1字不明)らが制作。銘文に判読不能箇所があるが、運慶の5男運賀、6男運助らが関与したと推定される。
以上の諸像の制作には、複数の仏師が分担して関与してはいるが、近現代の美術作品のように個々の芸術家の作品ではなく、工房主宰者である運慶の作とみなされている[21][22]。
神奈川・称名寺光明院 大威徳明王像(重要文化財) - 建保4年(1216年)(像内納入文書)。東寺講堂の模刻像で現在は水牛座が亡失し、同時に製作された大日如来像、愛染明王像は現存しない。伝空海作として子院一ノ室に伝来した。
運慶作と強く推定される作品
作風、納入品、伝来などから運慶ないし運慶工房作であることが強く推定される作品として次のものがある。
奈良・興福寺 木造仏頭(重要文化財) - 文治2年(1186年)。興福寺西金堂(廃絶)旧本尊・釈迦如来像の頭部である。仏頭のほか、仏手と、光背にもと付属していた飛天・化仏が残っている。『類聚世要抄』に西金堂釈迦像を運慶が造立したことが記されるが、これと現存の仏頭等との関連についてはなお慎重な見方もある[23]。
和歌山・金剛峯寺 八大童子立像(国宝) - 建久8年(1197年)。『高野春秋』。ただし、8体のうち2体は南北朝時代の補作である。
京都・六波羅蜜寺 地蔵菩薩坐像(重要文化財) - 運慶が京都に建立した地蔵十輪院の旧像とする説がある[24][25]。
栃木・光得寺 大日如来坐像(重要文化財) - 建久10年(1199年)以前。東京国立博物館寄託。栃木県足利市にあった樺崎八幡宮旧蔵で、同八幡宮の前身である樺崎寺に伝わったものと推定されている。山本勉は、樺崎寺の縁起にみえる大日如来像が本像にあたり、作者を運慶と推定した。X線透過撮影により、他の運慶作品と共通する五輪塔、珠、人間の歯などの納入品の存在が確認されたことからも、運慶作である可能性が高くなっている。樺崎寺を建立した足利義兼の没年建久10年(1199年)が制作の上限とされるが、異説もある[26]。
愛知・滝山寺 聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像(重要文化財) - 正治3年(1201年)(『滝山寺縁起』)
東京・宗教法人真如苑蔵(半蔵門ミュージアム保管) 大日如来坐像(重要文化財) - 建久4年(1193年)。- もと個人蔵で、2008年3月にクリスティーズ社のオークションに出品され、真如苑が三越に依頼して1,280万ドル(約12億5千万円)で入手した。その後東京国立博物館への寄託(7年間)を経て、東京都千代田区の半蔵門ミュージアムで公開。『鑁阿寺樺崎縁起并仏事次第』に見える、樺崎寺安置の厨子に建久4年(1193年)銘のあった大日如来像に当たるもので、その作風やX線写真によって知られる像内納入品の状況から運慶作品と推定する説がある[注 2]。
運慶作とする説がある作品
運慶の作とするには確実性を欠くものや、運慶派の流れをくむ鎌倉期の仏師の作品として文化財指定されているものに次のものがある。
奈良・東大寺俊乗堂 俊乗上人(俊乗房重源)坐像(国宝) - 建永元年(1206年)。造像に関する直接の史料がないが、「元亨釈書」などの後世の資料やその作風から運慶の作とする見方がある。
奈良・興福寺 四天王立像(国宝) - もと興福寺南円堂に安置され、同寺中金堂へ移動した四天王像。本来の安置堂宇について諸説があるが、北円堂の無著・世親像と同じく珍しくカツラが材に使われていることなどから、興福寺北円堂の旧像とする説がある。とすれば、運慶指揮下に運慶子息4人が分担して(持国天-湛慶、増長天-康運、広目天-康弁、多聞天-康勝)制作した像に該当することになる。[27]
神奈川・瀬戸神社 舞楽面(重要文化財) - 建保7年(1219年)頃。社伝では源頼朝または源実朝の所用で、北条政子の寄進とされる。裏面に運慶作の追銘があり、作風は運慶に極めて近い。
伝・浄瑠璃寺(京都府)旧蔵 十二神将像(重要文化財) - 建暦2年(1212年)頃か。東京国立博物館(辰神・巳神・未神・申神・戌神の5躯)と静嘉堂文庫美術館(子神・丑神・寅神・卯神・午神・酉神・亥神の7躯)に分蔵。鎌倉時代初期、運慶周辺の有力仏師の作であることには諸家の説が一致する[注 3]。像高3尺に満たない小像ながら本格的な寄木造とし、布貼下地に彩色を施す入念作であること、浄瑠璃寺が運慶とゆかりの深い興福寺の末寺であったことなどから、本群像を運慶その人の作とみなす研究者もいる。『絵画叢誌』7号(1882年)、『國華』109号(1898年)、同誌116号(1899年)など明治時代の文献には「運慶作」とされている。明治35年(1902年)11月22日付の『毎日新聞』[注 4]に、十二神将のうちのいずれかの像の胎内に「上坊別当筆、大仏師運慶」の銘があるとの記事があることが、2012年に再発見された[29]。ただし、解体修理等によって当該銘記が確認されたわけではない。2017年には、12体のうち亥神像の胎内に運慶没後5年の安貞2年(1228年)とみられる墨書の存在することが確認された
運慶 参考動画→『鎌倉時代 至高の仏師運慶 -3体の大日如来像と祈りのかたち-』BS Fuji Official Channel (youtube) https://youtu.be/Wten_yRoIOE?si=i79R4S0sMhqnDkq2
乾漆造(かんしつぞう)とは、漆工の技法の一つであり、また東洋における彫像制作の技法の一つである。
麻布や和紙を漆で張り重ねたり、漆と木粉を練り合わせたものを盛り上げて形作る方法である。
源流は中国にあり、中国では「夾紵」(きょうちょ)あるいは「ソク(土偏に「塞」)」と呼ばれた技法である。器物や棺、彫像などの製作にも用いられた。日本では7世紀末から8世紀にかけて仏像の制作に多用されたが、平安時代以降は衰退した。
彫像における乾漆造の種類
乾漆造には麻布を1センチほどの厚みに貼り重ねて形成する「脱活乾漆造」と、これを簡略化した技法と思われる「木心乾漆造」がある。
代表的な作品
興福寺 八部衆立像(阿修羅像含む)
興福寺 十大弟子立像
葛井寺(大阪) 千手観音坐像
木心乾漆造の乾漆仏
唐招提寺金堂 千手観音立像、薬師如来立像
聖林寺(奈良) 十一面観音立像
観音寺(京都) 十一面観音立像
興福寺北円堂 四天王立像
木彫に木心乾漆技法併用の乾漆仏
東寺講堂 五大菩薩像
観心寺(大阪) 如意輪観音坐像
神護寺 五大虚空蔵菩薩坐像
『乾漆像』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E6%BC%86%E9%80%A0
一木造(いちぼくづくり)
一つの木材から仏像の頭体の主要部を彫り出す技法。手先、足先、天衣の遊離部などを矧ぎ足す場合も、頭体の主要部分が一材から彫出されている場合は一木造という。一木造の仏像は飛鳥時代から存在するが、平安時代初期には等身大以上の仏像を一木から彫出する例が多く(神護寺薬師如来立像など)、この時代に特徴的な技法といえる。こうした木彫製作方法は世界各国で見られ、エジプトの木彫神像やヨーロッパ中世の教会におけるキリスト像や聖人像なども、同じように一材から像の主要部を彫出している。
法隆寺の九面観音像は唐からの招来像で、細かい装身具や天衣の遊離部を含む、像の全体を白檀の一材から彫出し、像表面には彩色や金箔を施さず木肌の美しさと香りを生かしている。このような様式・技法の像を「檀像」と称する。日本では希少な白檀の代わりにカヤ材を用いた代用檀像が制作された。一木造は塑造や乾漆造と違い、一度削ってしまったら修正は不可能であり、細部の破綻が全体に及ぶ可能性がある。こうした制作者と用材の緊張関係が、仏像に深い精神性と優れた造形力をもたらしている。
『仏像』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F
寄木造(よせぎづくり)
頭体の主要部を二つ以上の材から組み立てる技法。一木造は内刳りを施してもやはり干割れが起こしやすく、像の主要部を一材から木取りするのにどうしても巨木が必要になるが、一つの像を幾つかのブロックに分け、その一つ一つを別材から木取りし、積み木を並べるように組むことで、特に太く大きい木材を使わなくても巨像を造り易くなる。また、干割れの原因となる木心部を取り除いて木取りするのも簡単であり、更に内刳りも各材の広い矧ぎ面から十分に刳ることができ、分業が容易、など長所が多い。寄木造は10世紀後半頃から始まったと見られ、六波羅蜜寺の薬師如来坐像が今知られる最初の例である。11世紀に入るとより合理化・洗練され、特に定朝以降、丈六仏のような巨像の制作に盛んに用いられた。代表的な物に東大寺南大門金剛力士像などがある。
『仏像』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F
参考:『仏像の作り方』九州歴史資料館展示解説シート https://kyureki.jp/wp-content/uploads/2011/02/publish_commentary_kaisetu09.pdf
1.日本の仏像の技法
2.一木造
3.寄木造
飛鳥~奈良時代
参考:『飛鳥寺』旅する明日香ネット https://asukamura.com/sightseeing/487/
6世紀末から7世紀初めに蘇我馬子の発願で建てられた日本最古の本格的仏教寺院です。
世紀末から7世紀初めに蘇我馬子の発願で建てられた日本最古の本格的仏教寺院です。
創建時の伽藍は失われ、塔や金堂の礎石だけが残っています。
本尊である銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は「飛鳥大仏」の通称で親しまれています。
ご参拝のご案内
拝観時間
拝観時間 4月1日~9月30日 : 9:00~17:30(受付は17:15まで)
10月1日~3月31日 : 9:00~17:00(受付は16:45まで)
休業日 4月7日~4月9日
拝観料
区分 個人 団体(30人以上)
一般/大学生 500円 450円
高校生/中学生 300円 250円
小学生 250円 200円
交通のご案内
駐車場有り(普通500円 中型2,000円 大型3,000円)
お問い合わせ
飛鳥寺
TEL:0744-54-2126
参考:『飛鳥寺』Wikipedia
飛鳥寺(あすかでら)は、奈良県高市郡明日香村飛鳥にある真言宗豊山派の寺院。山号は鳥形山(とりがたやま)。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来。現在は正式には安居院という。開基(創立者)は蘇我馬子で、蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。思惟殿は新西国三十三箇所第9番札所で本尊は聖観音である。
寺号
当寺には複数の呼称がある。法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する。一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に今も残る小寺院、つまり当寺の公称は「安居院」(あんごいん)である。『日本書紀』では「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」などの表記が用いられている。古代の寺院には「飛鳥寺」「山田寺」「岡寺」「橘寺」のような和風寺号と、「法興寺」「浄土寺」「龍蓋寺」のような漢風寺号(法号)とがあるが、福山敏男は法号の使用は天武天皇8年(679年)の「諸寺の名を定む」の命以降であるとしている。「法興」とは「仏法興隆」の意であり、隋の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連も指摘されている。また『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に引用される「露盤銘」には「建通寺」と記されているが、これは後世の偽法号とする説もある。
歴史
創建
飛鳥寺(法興寺)は蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。発願から創建に至る経緯は『日本書紀』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(醍醐寺本『諸寺縁起集』所収、以下『元興寺縁起』という)、ならびに同縁起に引用されている「露盤銘」と「丈六光銘」に記載がある。福山敏男は、『元興寺縁起』の本文には潤色があり史料価値が劣るとする一方で、「露盤銘」は縁起本文よりも古い史料であり信頼が置けるとしている。
『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は用明天皇2年(587年)に蘇我馬子が建立を発願したものであるという。馬子は排仏派の物部守屋と対立していた。馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念し、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたという。岸俊男によると、古代の「飛鳥」の地とは、飛鳥川の右岸(東岸)の、現在の飛鳥寺境内を中心とする狭い区域を指していた。
一方、天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には発願の年は「丁未年」(587年)とし、発願の年自体は『書紀』と同じながら内容の異なる記載がある。『元興寺縁起』によると丁未年、三尼(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)は百済に渡航して受戒せんと欲していたが、「百済の客」が言うには、この国(当時の日本)には尼寺のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。そこで用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという[8]。当時の日本には、前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる。
『書紀』によれば翌崇峻天皇元年(588年)に百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された[注 5]。このうち、鑢盤博士とは、仏塔の屋根上の相輪などの金属製部分を担当する工人とみられる[注 6]。同じ崇峻天皇元年、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。『書紀』の崇峻天皇3年(590年)10月条には「山に入りて(法興)寺の材を取る」とあり、同5年(592年)10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。この「起つ」の語義については、かつては「(金堂と回廊が)完成した」の意に解釈されていたが、後述のような発掘調査や研究の進展に伴い、「起つ」は起工の意で、この年に整地工事や木材の調達が終わって本格的な造営が始まったと解釈されている。
『書紀』の推古天皇元年正月15日(593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建つ」とある。なお1957年(昭和32年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。ただし、舎利容器は後世に塔が焼失した際に取り出され、新しい容器を用いて再埋納されていたため、当初の状況は明らかでない。
『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。『書紀』は続けて、馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたとある。『元興寺』縁起に引く「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」との文言があり、この丙辰年は596年にあたる。しかし、後述のように、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)の造立が発願されたのはそれから9年後の推古天皇13年(605年)、像の完成はさらに後のことで、その間、寺はあるが本尊は存在しなかったということになる。この点については研究者によってさまざまな解釈がある。毛利久は、現存の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、推古天皇4年に渡来系の工人によって造立されたもので、推古天皇13年から造られ始めたのは東金堂と中金堂の本尊であったとする、二期造営説を唱えた。これとは別に、久野健、松木裕美らが唱えた本尊交代説もある。すなわち、蘇我馬子が所持していた弥勒石像が当初の中金堂本尊であったが、後に鞍作止利作の釈迦三尊像が本尊になったとする。この弥勒石像は敏達天皇13年(584年)鹿深臣(かふかのおみ)が百済から将来し、馬子が「宅の東の仏殿」に安置礼拝していたものである。久野説では、飛鳥寺中金堂跡に現存する本尊台座が石造であり、この台座が創建時から動いていないことから、その上に安置されていた仏像も石造であったと推定する。これに対し、町田甲一、大橋一章らは一期造営説を取り、中金堂本尊は交代していないとの立場を取る。この説では、推古天皇4年の「法興寺を造り竟りぬ」は、『書紀』編者が塔の完成を寺全体の完成と誤認したものとみなし、寺の中心的存在で仏舎利を祀る塔がまず完成し、他の堂宇は長い年月をかけて徐々に完成したとみる。今日では、この説が有力となっている。
飛鳥寺の伽藍については、発掘調査実施以前は四天王寺式伽藍であると考えられていたが、1956年(昭和31年)から1957年(昭和32年)の発掘調査の結果、当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。
本尊の造立
『書紀』によれば、推古天皇13年(605年)に天皇は皇太子(聖徳太子)、大臣(馬子)、諸王、諸臣に詔して、銅(あかがね)と繡(ぬいもの)の「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、鞍作鳥(止利)を造仏工とした。そして、これを聞いた高麗国の大興王から黄金三百両が貢上されたという。『書紀』によれば、銅と繡の「丈六仏像」は翌推古天皇14年(606年)完成。丈六銅像を元興寺金堂に安置しようとしたところ、像高が金堂の戸よりも高くて入らないので、戸を壊そうと相談していたところ、鞍作鳥の工夫によって、戸を壊さずに安置することができたという挿話が記述されている。一方、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(推古天皇13年、605年)に銅と繡の釈迦像と挟侍を「敬造」したとあり、造像開始の年は一致しているが、挟侍(脇侍)の存在を明記していること、大興王からの黄金が三百二十両であることなど、細部には相違がある。「丈六光銘」によれば、戊辰年(608年)に隋の使者裴世清らが来日して黄金を奉り、「明年」の己巳年(609年)に仏像を造り終えたという。つまり、『書紀』と「丈六光銘」とでは、銅造の本尊(飛鳥大仏)の完成年次について3年の差がある。福山敏男は、仏像の完成年は裴世清らの来日の「明年」であるところ、『書紀』の編者が発願の「明年」と誤認したため、このような違いが生じたものと考証した。当時の技術水準で、丈六の銅仏が1年足らずで完成するとは考えにくい点などから、福山の言うように、本尊(飛鳥大仏)の完成は609年とするのが通説となっている。
隆盛と官寺化
貞観4年(862年)の太政官符で「聖教最初之地也」と評されるように、飛鳥寺は蘇我氏の氏寺に留まらず仏教隆昌の中心地になっていった。 推古天皇17年(609年)には漂流した百済僧道欣ら11人が、同33年には高句麗僧の慧灌が、ついで呉人の僧福亮、智蔵が相次いで入寺している。飛鳥白鳳期にあっては彼ら渡来僧が学問仏教の先駆をなし、特に恵慈、慧灌、福亮、智蔵は三論宗を学んだとされ、飛鳥寺はその教学の中心にあったといえる。 一方で法相宗の祖といわれる道昭も飛鳥寺で得度したのち唐に渡り玄奘に師事。その後、帰国した道昭は飛鳥寺に禅院を建て、唐から持ち帰った経典の数々や弟子の学僧と共に居住した。 以上のように同寺は当時の日本における仏教教学の研究機関としての機能を有した唯一の寺院であり、やがて朝廷からの庇護を受けるようになったと考えられる。
皇極天皇4年(645年)に乙巳の変で蘇我本家が滅亡するが、飛鳥寺は中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場や蘇我氏討伐の本陣になるなど、朝廷との強い関係性がうかがえる。飛鳥寺はこの頃までには蘇我氏の氏寺の域を超えて国家の寺としての実力を備えていたと考えられる。
天武天皇の時代には官が作った寺院(官寺)と同等に扱うようにとする勅が出され、文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて官寺並みに朝廷の保護を受けるようになった。これに関連して飛鳥寺近くの飛鳥池工房遺跡からは大量の富本銭が発見され、その位置づけを巡って(飛鳥寺との関係も含めて)様々な議論が行われている。
平城遷都以後
都が平城京へ移るとともに飛鳥寺も現在の奈良市に移転し元興寺となった。『続日本紀』には霊亀2年(716年)に元興寺を左京六条四坊に移すとあり、養老2年(718年)条にも法興寺を新京へ移すとあって記述が重複している。このうち前者の「左京六条四坊」は大安寺の場所にあたることから、霊亀2年の記事は大安寺(大官大寺)の移転のことが誤記されたもので、飛鳥寺(元興寺)の移転は養老2年のことと考えられている[23]。
馬子が飛鳥に建てた元の寺も本元興寺と称して存続し、平安時代にいたっても朝廷から南都七大寺に次ぐ扱いを受けていたことが記録に残る。江戸時代に著された『本元興寺縁起』に、仁和3年(887年)に焼失したとあるが、他の記録には残っていない。
11世紀ごろになると衰運に見舞われる。『上宮太子拾遺記』には保元3年(1158年)の記として飢饉に窮して百済伝来の弥勒菩薩石像を多武峰山妙楽寺(現在の談山神社)に売り払ったと記録されている。また、建久7年(1196年)には雷火で塔と金堂を焼失した。以後寺勢は衰えて室町時代以降は廃寺同然となってしまった。法隆寺僧・訓海の『太子伝玉林抄』によれば、文安4年(1447年)の時点で飛鳥寺の本尊は露坐であったことが分かっている。
以降200年あまりの歴史は定かではない。『元興寺安居院縁起』(1699年)には、江戸時代の寛永9年(1632年)に今井の篤志家によって仮堂が建てられ、ついで天和元年(1681年)に僧・秀意が草庵をつくり安居院と号し、傷んだ釈迦如来像を補修したとある。江戸時代中期の学者・本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年(1772年)に飛鳥を訪ねた時の様子が書かれているが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったという。しかし、近世中頃から名所記や地誌に名が挙げられ、延享2年(1745年)には梵鐘を鋳造(昭和に軍に供出され現存せず)、寛政4年(1792年)に参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑、文政9年(1826年)に大坂の篤志家の援助で現本堂の再建など法灯を守る努力が重ねられてきた。
また1956年(昭和31年)からの発掘調査によって、創建当初の伽藍が明らかになった。現在の飛鳥寺本堂の建つ場所はまさしく馬子の建てた飛鳥寺中金堂の跡地であり、本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は補修が甚だしいとはいえ飛鳥時代と同じ場所に安置されていることが分かり、1966年(昭和41年)には飛鳥寺跡として国の史跡に指定された。
なお、当寺の西には蘇我入鹿の首塚がある。
釈迦如来像(飛鳥大仏)
飛鳥寺(安居院)の本尊で、飛鳥大仏の通称で知られる。1940年(昭和15年)に重要文化財に指定されており、指定名称は「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」である。像高は275.2センチメートル。
『日本書紀』『元興寺縁起』に見える、鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であるが、後述のとおり損傷が激しく、後世の補修を受けている。現存する像のどの部分が鞍作鳥作のオリジナルで、どの部分が後補であるかについては、後述のように諸説ある。鞍作鳥は、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像(623年作)の作者であり、同三尊像の光背銘には「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と表記されている。
飛鳥寺本尊像の完成は、『日本書紀』によれば推古天皇14年(606年)、『元興寺縁起』によれば推古天皇17年(609年)であるが、本項の「歴史」の節で述べたように後者の609年完成説が定説となっている。『元興寺縁起』には脇侍像の存在を明記しており、本尊像の下方にある石造台座に両脇侍像用とみられる枘穴が残ることから、当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けている。1933年(昭和8年)に石田茂作が調査した際の所見では、頭の上半分、左耳、右手の第2 - 第4指は鋳造後に銅の表面に研磨仕上げがされており、当初のものとみられるが、体部の大部分は鋳放し(表面の仕上げがされていない)で後世のものと思われ、脚部は銅の上に粘土で衣文をつくっており、左手は木製のものを差し込んでいるという。また、像の各所に亀裂があり、亀裂の上から紙を貼って墨を塗ったところも見受けられた。
1973年(昭和48年)には奈良国立文化財研究所による調査が行われたが、その結果、当初部分と考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2 - 第4指のみだとされた。右手の第2・3・4指については、掌の部分にほぞ差しされていることがエックス線撮影によって確認されている。顔貌表現のうち、眼の輪郭線や眉から鼻梁に至る線には明らかに当初のタガネ仕上げが残っており、鍍金もわずかに残っている。頭部の下半分は造像当初から溶銅の回りきらなかった部分に象嵌や補鋳を行っていた可能性がある。本像を調査した久野健は、左の掌の一部は当初のものであるとし、左足裏と左足指の一部は焼け跡がみられることから当初のものではないかとしている。
当初部分とみられる頭部について見ると、面長の顔立ちや杏仁形(アーモンド形)の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られる。右手の指の表現を見ると、本像では指の関節部分を1本の刻線で表しているのに対し、法隆寺金堂釈迦如来像は同じ箇所を2本の刻線で表していることが注意される。体部のほとんどが後補であるが、その服制には古様が感じられ、焼失前の形態を踏襲している可能性がある。田邊三郎助によると、本像の大衣が左肩 - 背 - 右肩と回った後、体の前面を覆って再び左肩にかかる形は北魏の古像にみられ、胸の部分に内衣の襟をV字状に表す点は百済の像に例があり、その下に見える蝶結びのような紐の結び目も法隆寺の戊子年(628年)釈迦及び脇侍像などにみられる古い形式であるという。
2012年(平成24年)7月に早稲田大学の大橋一章らの研究チームが行った調査結果が同年10月に公表されたが、断片が火災に遭ったことと鍍金されていたことが推測された。また鋳造専門家の調査でも銅を複数回注いだ継ぎ目の跡があり、奈良時代以前の技法としている。
大阪大学教授の藤岡穣を代表者とする研究チームは、2015年(平成27年)・2016年(平成28年)にあらためて本像に対する蛍光X線分析(XRF分析)、X線回折分析を行うとともに、像内の調査を行った。2017年(平成29年)に発表された同調査の報告書は、飛鳥大仏について、体部の大部分が後補であるとしている。同報告は、本像の面部(オリジナルが残る)と体部(大部分が後補)の金属組成に大きな差がみられないことについては、建久7年(1196年)の火災で溶けた銅を再利用した可能性があるとし、像のどの箇所がオリジナルでどの箇所が後補であるかについては、以下のように述べている。
面部については、従来の見解では両眼を含む上半部が当初のものとされてきたが、今回の調査の結果によればもう少し広く、頬や顎を含む下半部も当初のものとみられる。
頭髪部については、主に技法的観点から、肉髻(にっけい、仏像の頭頂の椀状の盛り上がり)の大部分が当初作であるほか、地髪部の一部(正面髪際部の螺髪)も当初のものとみられる[35]。
当初のものとする説もあった左耳については判断を保留する。
右手は、第2〜第4指のみでなく、掌の上半部を含めて飛鳥時代の作とみられる。ただし、鉛の含有率が高いなど、像の他の部分とは金属組成が異なることから、本来は他の仏像に属していた手の部分を転用した可能性もある。
当初のものとする説もあった左手の一部、左足裏については、今回の分析結果からは、当初のものと結論づけることはできない。
本像は創建当初に据えられた石造台座の上に安置されている。発掘調査の結果、この石造台座は創建時から動いていないことが明らかになった。石造の台座に銅造の仏像を安置するのは不自然だとして、久野健らは当初の中金堂本尊は蘇我馬子所持の石仏の弥勒像であり、それが後に本像と入れ替わったものだと想定した。1981年(昭和56年)の再調査で、この台座は花崗岩ではなく、兵庫県高砂市産の竜山石であることが分かった。また、その上の須弥座は後補と思われていたが、内部に当初の竜山石製の須弥座の一部が残存していることが分かった。このことから、石造の台座は当初から銅造釈迦如来像を安置するために造られたものであり、飛鳥大仏は飛鳥時代から同じ場所に安置されていることがあらためて確認された。銅造の仏像を石造の台座上に安置したのは、銅造の重量を支えるだけの台座を銅で造る技術が当時なかったためではないかと言われている。
寺域
かつての伽藍
飛鳥寺の伽藍は、往時は塔(五重塔)を中心とし、その北に中金堂、塔の東西に東金堂・西金堂が建つ、一塔三金堂式伽藍配置という方式の伽藍の配置がされていた。これらの1塔、3金堂を回廊が囲み、回廊の南正面に中門があった。講堂は回廊外の北側にあった。四天王寺式伽藍配置では講堂の左右に回廊が取り付くのに対し、飛鳥寺では仏の空間である回廊内の聖域と、僧の研鑚や生活の場である講堂その他の建物を明確に区切っていたことが窺われる。以上を囲むように築地塀が回り、中門のすぐ南には南門、西側には西門があったことも発掘調査で判明している。
塔跡は、壇上積基壇(切石を組み立てた、格の高い基壇)、階段、周囲の石敷、地下式の心礎などが残っていたが、心礎以外の礎石は残っていなかった。心礎は地下2.7メートルに据えられ、中央の四角い孔の東壁に舎利納入孔が設けられていた。舎利容器は建久7年(1196年)の火災後に取り出されて再埋納されており、当初の舎利容器は残っていないが、発掘調査時に玉類、金環、金銀延板、小札甲、刀子などが出土した。出土品からは、この寺が古墳時代と飛鳥時代の境界に位置することが窺える。心礎の加工跡より、心柱は一辺が約1.5mの角柱であったと考えられる。
中金堂跡は、壇上積基壇跡が残るが、基壇上の礎石は残っていなかった。『護国寺本諸寺縁起集』によれば、中金堂は「三間四面 二階 在裳階」の建物で、身舎(内陣)の柱間が正面3間、側面2間、その周囲に庇(外陣)が廻り(建物の外側から見ると正面5間、側面4間)、重層の建物であったとみられる。裳階(もこし、本来の屋根の下に設けた屋根)は当初からあったものかどうか不明である。
東西金堂跡の基壇は下成(かせい)基壇上に玉石を並べた上成(じょうせい)基壇を築いた二重基壇で、塔・中金堂の壇上積基壇よりは格の下がるものである。二重基壇のうち上成基壇の礎石は失われ、下成基壇には小礎石が並んでいた。この小礎石がどのように用いられたかは不明であるが、深い軒の出を支えるための小柱が並んでいたものと推定される。『七大寺巡礼私記』には東金堂には百済伝来の弥勒菩薩石造、西金堂には金銅像とともに作られた繡仏を祀っていたと記されている。
中門は礎石の残りがよく、正面3間、奥行3間で、法隆寺中門のような重層の門であったと推定される。奥行が深い(3間)のが上代寺院の中門の特色である。南門も礎石の残りがよく、正面3間、奥行2間で、切妻造の八脚門であったと推定される。
1977年(昭和52年)の調査で、寺域北限の掘立柱塀と石組の溝が検出された。1982年(昭和57年)の調査では、寺域北側を区切る塀が南方に折れ曲がる地点、すなわち、寺域の北東隅が確認された。この結果、飛鳥寺の寺域は従来推定されていたより広く、南北が324メートルに達することが分かった。東西の幅については、寺域北端の塀の長さは約210メートルであるが、この塀の東端は南方へ直角に折れるのではなく、南東方向へ鈍角に折れており、寺域は南側がやや広い台形状になっている。主要伽藍はこの寺地の中央ではなく南東寄りに建てられており、寺域の東部と北部にはさまざまな附属建物が存在したと推定される。寺の西側には槻木の広場に関係すると思われる石敷遺構が見つかり、これに面する西門は南門よりも規模が大きいことも分かった。また、寺内の東に飛鳥池工房遺跡が発見された。
現在の境内
本堂 - 文政9年(1826年)再建。本堂の前には金堂の礎石が残る。
庫裏
庭園
思惟殿 - 新西国三十三箇所第9番札所で聖観音を祀る。
西門
鐘楼
万葉池
山門
飛鳥大仏標石 - 山門の前に立つ寛政4年(1792年)に建てられた「飛鳥大仏」の石碑。法興寺が創建された際の礎石が台石として使用されている。
飛び地
飛鳥寺研修会館「修徳坊」
出土品
塔心礎納置品
『書紀』によれば推古天皇元年(593年)、飛鳥寺の塔心礎(塔の心柱の礎石)に仏舎利が埋納された。後世の仏塔では地表に心礎を据えるが、飛鳥寺の塔心礎は地下式で、大きさは東西2.6メートル、南北2.4メートルを計る。飛鳥寺の塔は建久7年(1196年)に落雷で焼失した。翌建久8年(1197年)に東大寺の僧・弁暁が記した『本元興寺塔下堀出御舎利縁起』によれば、弁暁は焼失した飛鳥寺の塔の心礎から仏舎利と荘厳具を取り出し、再び埋納したという。これらの埋納物は、1957年(昭和32年)の発掘調査で心礎周辺から出土した。出土品には、小札甲(上古のよろいの一種)、馬鈴、刀子、玉類など、古墳の副葬品に共通するものが多い一方で、金銀の延板など奈良時代の寺院の鎮壇具に共通するものも含まれており、古墳時代と飛鳥時代の両方の特色をもっている。これら出土品は日本最古の仏塔の心礎に埋納された遺物として貴重なものである。なお、心礎の2メートルほど上方で出土した金銅製(銅に金メッキ)の舎利容器と、これを入れていたヒノキ材製の外箱は鎌倉時代の再埋納時に新たに作られたものであり、創建当初の舎利埋納状況は明らかではない。
塔心礎出土品を列挙すると以下のとおりである。これらは奈良文化財研究所飛鳥資料館にて保管・展示されている。
鉄製小札甲1領
蛇行状鉄器1点
青銅馬鈴1点
刀子12点
砥石1点
金銅(銅に金メッキ)製品 - 耳環23点以上、歩揺146点以上、鍔付半球形金具2点、円形打出金具14点、杏葉形打出金具28点以上、鈴7点
玉類 - ガラス小玉、ヒスイ製勾玉、瑪瑙製勾玉、ガラス製勾玉、碧玉製管玉、水晶製切子玉、銀製空玉、銀製山梔玉、赤瑪瑙製丸玉、ガラス製トンボ玉
その他 - 金延板7点、金粒1点、銀延板5点、銀粒7点、雲母片、琥珀片、蓋石片(凝灰岩製)
鎌倉時代の製品 - 舎利容器、灯明皿、舎利容器外箱(檜材)
なお、塔跡出土品の再整理の際、従来材質不明とされていたものの中に真珠の小玉14点が含まれていることが奈良文化財研究所の調査で判明し、同研究所の2017年版紀要で調査結果が公表された。これらの小玉は直径1.5から2ミリメートルの微細なものであるが、穿孔されている。蛍光X線分析で主成分がカルシウムであると判明したこと、電子顕微鏡による観察で層状の構造が確認できたことから、これらの小玉は真珠であると判断された。
瓦
『日本書紀』や『元興寺資材帳』からは、崇峻天皇元年(588年)、百済から4種の技術分野の8名の技術者が渡来したことが知られる[52]。彼らが渡来してから建築用材調達が行われる同三年(591年)までに造営技術者や工人の養育養成が行われ、造瓦分野においては須恵器の青海波紋作りに用いる当て道具の使用痕跡が認められることから、須恵器作りの工人が動員されていると考えられている。
これらの瓦博士、またはその指導を受けた工人の製作したものと思われる7世紀前半期の瓦が飛鳥寺の寺域から出土しているが、これらは瓦当(軒丸瓦の先端の円形部分)の素弁蓮華文の文様から2系統に分類され、それぞれ「花組」「星組」と通称されている。このうち「花組」は各弁の先端部分に小さな切り込みを入れて立体感を出している。一方、「星組」は各弁の先端部分に1個の珠点を表す。「花組」と「星組」の瓦は瓦当裏面の仕上げや、瓦当と丸瓦の接合方法にも差がみられる。「星組」が玉縁式(有段式)の丸瓦を用い、瓦当裏面は「なで調整」を行うのに対し、「花組」は丸瓦に行基瓦(無段式)を用い、瓦当裏面の仕上げにあまり意を用いていない。以上のことは、飛鳥寺創建期の瓦を製作した工人集団には2つの系統があったことを意味している。
文化財
重要文化財
銅造釈迦如来坐像(本堂安置)(彫刻) - 1940年(昭和15年)10月14日指定。
国指定史跡
飛鳥寺跡 - 1966年(昭和41年)4月21日指定。
新西国三十三箇所
客番 叡福寺 - 9 飛鳥寺 - 10 橘寺
聖徳太子霊跡
10 (醫王山薬田院)金剛寺 - 11 飛鳥寺 - 12 向原寺
現在地
奈良県高市郡明日香村飛鳥682
アクセス
近鉄橿原線・南大阪線・吉野線 橿原神宮前駅または近鉄吉野線 飛鳥駅からバス乗車、飛鳥大仏バス停下車。
周辺
飛鳥坐神社
岡寺
石舞台古墳
奈良県立万葉文化館
国立奈良文化財研究所飛鳥資料館
参考動画:『【現地解説】日本最古の仏像はなぜ“国宝”ではないのか?飛鳥大仏の謎に迫る|飛鳥寺・飛鳥宮跡』河江肖剰の歴史探訪(youtube) https://youtu.be/gL6vUmdDzT4?si=WvecCkAVbf3wvrOR
お話:飛鳥寺住職 植島寶照氏 聞き手:河江肖剰(エジプト考古学者、名古屋大学デジタル人文社会科学研究推進センター 研究戦略部門 教授)
◎聖徳宗総本山法隆寺HP https://www.horyuji.or.jp/
*境内図 https://www.horyuji.or.jp/keidai/
◎参考:『法隆寺(若草伽藍跡・西院・東院) 2017 奈良県歴史文化資源データベース「いかす なら」 https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/bunkashigen/main00055.html
◎参考:『法隆寺金堂壁画』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E5%A3%81%E7%94%BB
◎参考:『若草伽藍』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E8%8D%89%E4%BC%BD%E8%97%8D
◎参考:『大火災はあったのか…法隆寺問題を複雑で解決困難にしている根本原因』産経新聞 https://www.sankei.com/article/20240301-6GJU4GHYARLUTBMLWO3AZ72JFA/
◎『法隆寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA
法隆寺(ほうりゅうじ、旧字体: 法隆󠄁寺)は、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内にある聖徳宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は釈迦如来。創建当時は斑鳩寺(鵤寺 = いかるがでら)と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる。
法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートル。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である。
法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年(平成5年)に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。
歴史
創建(飛鳥、白凰、奈良時代)
574年 (敏達3年)聖徳太子生まれる。
586年 (用明元年)法隆寺および薬師仏の造立を発願。
607年 (推古15年)法隆寺が完成。用明天皇のために金堂薬師如来像を造願。
622年 (推古30年)2月22日、聖徳太子薨去[注釈 1]。橘大郎女、聖徳太子のために、天寿国曼荼羅繍帳を作成。
623年 (推古31年)止利仏師により金堂釈迦三尊像が完成。
643年 (皇極2年)11月、蘇我入鹿が、聖徳太子の皇子山背大兄王らを斑鳩宮に襲う。山背大兄王ら一族25人が自害し、聖徳太子の血族である上宮王家が滅亡。
670年 (天智9年)4月30日夜半、法隆寺炎上。一屋無余。
708年 (和銅元年)詔により法隆寺を再建。
711年 (和銅4年)五重塔内塑像および中門金剛力士像を造る。
737年 (天平9年) 行信、聖徳太子の遺品を集める。
739年 (天平11年) 4月10日、行信、上宮王院(東院)夢殿を造立。
767年 (神護景雲元年)9月5日、行信発願の大般若経など2700巻の写経事業が、法資孝仁によって完成。
法隆寺がある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳をはじめとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる。
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来1度も火災に遭わず、推古朝に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で1度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が1887年(明治20年)頃から出されるようになった(菅政友、黒川真頼、小杉榲邨ら)。これに対し、『書紀』の記載は信用できず、西院伽藍は推古朝以来焼けていないと主張する学者たちもおり(平子鐸嶺、関野貞ら)、両者の論争(法隆寺再建・非再建論争)はその後数十年間続いた。
石田茂作らによる1939年(昭和14年)の旧伽藍(いわゆる若草伽藍)の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、1度焼亡した後に再建されたものであることが決定的となり、再建・非再建論争には終止符が打たれた。現存の西院伽藍については、持統7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)ことから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる。
現・西院伽藍の南東に位置する若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、この伽藍が推古朝の建立であったことは、発掘調査の結果や出土瓦の年代等から定説となっている。また、1939年(昭和14年)、東院の建物修理工事中に地下から掘立柱建物の跡が検出され、これが斑鳩宮の一部であると推定されている。
聖徳太子の実像については、20世紀末頃から再検討がなされており、『書紀』などが伝える聖徳太子の事績はことごとく捏造であるとする主張もある。ただし、こうした聖徳太子非実在論に対しては根強い反論もある。また、聖徳太子非実在論説を唱える大山誠一も、厩戸皇子という皇族の存在と、その人物が斑鳩寺(創建法隆寺)を建立したことまでは否定していない。
金堂の「東の間」に安置される銅造薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。しかし、正史である『日本書紀』には(前述および後述の670年の火災の記事はあるが)法隆寺の創建については何も書かれていない。
前述の金堂薬師如来像については、1933年(昭和8年)、福山敏男により、
像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の製作は7世紀後半に下るとみられる。
607年当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視される。
銘文中の用語に疑問が持たれる。
という疑問が提出された。この説はおおむね支持を得ており、薬師像は文字通り607年まで遡る製作とは見なされていない。また、金堂の中央に安置される本尊は「623年に聖徳太子の冥福のため止利が造った」という内容の光背銘を持つ釈迦三尊像であり、これより古い薬師如来像が「東の間」に安置されて脇仏のような扱いをされている点も不審である。
皇極天皇2年(643年)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられる。
なお、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平11年(739年)、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。
養老2年(718年)に県犬養橘三千代(橘夫人)が西円堂を建立したとする伝承がある。また、娘の光明皇后が多額の寄進を行い、孫娘の橘古那可智(聖武天皇夫人)の居所が寄進されて伝法院になったのも、彼女たちの法隆寺への信仰も三千代の影響と考えられる。
中世以後(平安、鎌倉、室町、南北朝、江戸時代)
859年 (貞観元年)9月19日、道詮奏上して夢殿を修理。
1023年 (治安3年)10月26日、藤原道長、法隆寺および上宮王院に参詣。
1069年 (治暦5年)2月5日、仏師僧円快、秦到真、聖徳太子像を造る。
1114年 (永久2年) 勝賢、法隆寺一切経写経事業を発願。写経事業は、1118年(元永元年)に完成。
1121年 (保安2年) 東室を新造、南面を改造して聖霊院とし、院内に聖徳太子および侍者像5体を奉安。
1126年 (大治元年)7月19日、源義、開浦三昧堂を改めて三経院を造立。
1261年 (弘長元年)9月4日、後嵯峨太上天皇、行幸。
1574年 (天正2年)正月、織田信長、法隆寺境内へ陣取などを禁止する掟を作る。
1600年 (慶長5年)豊臣秀頼、このころから1606年(慶長11年)にかけて、法隆寺全伽藍を修理。
1614年 (慶長19年) 10月16日、徳川家康、大阪冬の陣に赴く途上、法隆寺で太子尊像を拝し、阿弥陀院で一泊する。
その後、聖徳太子の弟来目皇子の子孫と伝えられる登美氏の支配下に置かれていたが、平安時代初頭には登美氏からの自立への動きが強まった。この過程で法隆寺側と登美氏との間で発生したのが、善愷訴訟事件である。
延長3年(925年)には西院伽藍のうち大講堂、鐘楼が焼失し、大講堂が再建されたのは数十年後の正暦元年(990年)のことであった。以後、永享7年(1435年)に南大門が焼失するなど、何度かの火災に遭ってはいるが、全山を焼失するような大火災には遭っておらず、建築、仏像をはじめ各時代の多くの文化財を今日に伝えている。
近世に入って、慶長年間(17世紀初頭)には豊臣秀頼によって、元禄 - 宝永年間(17世紀末 - 18世紀初頭)には江戸幕府5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院によって伽藍の修造が行われた。
近代以降
1868年(明治元年)3月、神仏分離令。廃仏棄釈運動が起こる。
1878年(明治11年) 300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これがいわゆる「法隆寺献納宝物」で、第二次世界大戦後は大部分が東京国立博物館の所蔵となり、ごく一部が皇室御物および宮内庁保管となっている。
1882年(明治15年) 法相宗に転じる。
1884年(明治17年) フェノロサ、岡倉覚三(天心)らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像がこの時数百年ぶりに開扉されたという(異説もある)。
1903年(明治36年) 佐伯定胤が管主となり、廃仏毀釈で衰微していた唯識の教えを復興する。
1934年(昭和9年) 「昭和の大修理」が開始。
1939年(昭和14年) 「若草伽藍」発掘。
1944年(昭和19年) 太平洋戦争下の爆撃から守るため、解体していた部材を安堵村(現・安堵町)などに疎開させる[13]。
1947年(昭和22年) 復元中に天井板部材に建築当時の落書きがあることを発見。
1949年(昭和24年) 1月26日、金堂より失火。壁画を焼損する。
1950年(昭和25年) 法相宗を離脱し、聖徳宗を開く。
1951年(昭和26年)6月9日、法隆寺境内、史跡に指定される。
1967年(昭和42年)10月20日、法隆寺境内、歴史的特別保存地区に指定される。
焼損した金堂壁画再現事業が発願され、安田靫彦、前田青邨、橋本明治、吉岡堅二の4画伯が中心となり執筆される。
1969年(昭和44年)4月、金堂内陣上部小壁天人壁画再現事業を開始。
1971年(昭和46年)3月31日、金堂内陣上部小壁再現事業完成。4月2日 - 4日の3日間、聖徳太子1350年御聖諱法要が厳修される。
1985年(昭和60年) 6月30日、昭和の大修理完成。11月14日、法隆寺昭和大修理完成法要が厳修される。
1993年(平成5年)12月9日 ユネスコの世界遺産に登録。
2013年(平成25年)12月9日、大規模自然災害時には寺を緊急避難場所に開放する協定を斑鳩町と締結した。境内の南大門前広場や聖徳会館を避難場所として提供する。
2015年(平成27年)11月11日、1949年の火災で焼失した金堂壁画について、文化庁などと共同で総合的な科学調査を実施すると発表。
2019年(平成31年)1月27日、法隆寺金堂壁画保存活用委員会の大野玄妙管長が、法隆寺金堂壁画を一般公開する方針を発表。
2023年(令和5年)9月7日、斑鳩町教育委員会が、「舟塚古墳」と呼称していた観光バス駐車場にある円形の植え込みで、奈良大学との共同発掘調査にて石室と副葬品を発見したと報じられた。
明治時代になると神仏分離が行われ、鎮守社であった龍田明神(現・龍田神社)と天満宮(現・斑鳩神社)が法隆寺から独立している。1869年(明治2年)には天満宮に法隆寺境内にあった総社明神、五所明神、白山権現が移された。
しかし、廃仏毀釈の影響で寺の維持が困難となると、1878年(明治11年)には管長千早定朝の決断で、聖徳太子画像(唐本御影、いわゆる聖徳太子二王子像)をはじめとする300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜された。これらの宝物は「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、その大部分は現在、東京国立博物館の法隆寺宝物館で保管されている。
明治の初め頃には真言宗に所属するようになっていたが、1882年(明治15年)には興福寺と共に法相宗として独立する。
1934年(昭和9年)から「昭和の大修理」が開始され、金堂、五重塔をはじめとする諸堂宇の修理が行われた。この間、1936年(昭和11年)2月21日には、河内大和地震により金堂の基壇に亀裂が入るなどの被害が生じている。
「昭和の大修理」は第二次世界大戦を挿んで半世紀あまり続き、1985年(昭和60年)に至ってようやく完成記念法要が行われた。この間、1949年(昭和24年)には修理解体中の金堂において火災が発生し、金堂初層内部の柱と壁画を焼損した。このことがきっかけとなって、文化財保護法が制定されたことはよく知られる。昭和の大修理の際に裏山に築堤(ちくてい)して貯水池を建設、そこから境内に地下配管して自然水利による消火栓を建設した。1949年(昭和24年)の金堂火災に際して、初期消火に活用された。
1950年(昭和25年)に法相宗から独立し、聖徳宗を設立している。
1981年(昭和56年)からは「昭和資財帳調査」として、寺内の膨大な文化財の再調査が実施され、多くの新発見があった。調査の成果は『法隆寺の至宝-昭和資財帳』として小学館から刊行されている。
法隆寺を巡る論争・研究
再建・非再建論争
明治時代の半ば(19世紀末頃)まで、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っていると信じられていた。しかし、歴史学や建築史学の進歩とともに、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見(再建論)が1887年(明治20年)頃から出されるようになった。
焼失と再建が疑われる時代には壬申の乱という大きな内乱が起きており、第38代天智天皇の息子である第39代弘文天皇の朝廷が天智天皇の弟とされる大海人皇子に敗北し、大海人皇子が第40代天皇になっている。その大海人皇子は鮮卑の建てた北魏(帝国)の文化の影響を大きく受けていた人物であるという説もある。
非再建論の主張
(様式論)法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺、唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている(関野貞)。
(尺度論)薬師寺などに使われている基準寸法は(645年の大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である(関野貞)。
(干支一運錯簡論)『日本書紀』の法隆寺焼失の記事は年代が誤っており、干支が一巡する60年前の火災の記事(『聖徳太子伝補闕記』所収)を誤って伝えたものであろう(平子鐸嶺)。
再建論の主張
『聖徳太子伝補闕記』には荒唐無稽な記述が多く、これをもって『日本書紀』の記述を否定することはできない(喜田貞吉)。
再建時に元の礎石を再使用すれば古い尺度が使われることになるので、高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にはならない(喜田貞吉)。
『日本書紀』天智天皇9年(670年)4月30日条には「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」(夜半之後(あかつき)、法隆寺に災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえ)も余ること無し)との記述があり、これを信じるならば、法隆寺の伽藍は670年に一度焼失し、現存する西院伽藍はそれ以後の再建ということになる。最初に再建論を唱えたのは旧水戸藩士で歴史家の菅政友とされ、黒川真頼(国学者・東京帝国大学教授)は天智9年(670年)4月に創建法隆寺は焼亡し、現在の西院伽藍は和銅年間(708年 - 715年)に再建したものという説を唱えた。小杉榲邨(国学者)も明治20年代に再建論を唱えている。一方、『書紀』の当該記述は信用できないとして、現存する西院伽藍は推古朝のもので、焼けてはいないとの主張(非再建論)が関野貞(建築史家)と平子鐸嶺(美術史家)により、1905年(明治38年)に相次いで発表された。建築史の研究者である関野は、建築様式や建築に用いた尺度などの観点から、西院伽藍は推古朝のものであるとした。関野によると、法隆寺西院伽藍の建築には、古い尺度である高麗尺が使用されているが、大化元年(645年)を境として以後は唐尺が使用されるようになった。したがって、西院伽藍は大化以前のものでなければならないとする。平子は「干支一運錯簡説」を唱えた。『書紀』は干支による紀年法を採用しているが、干支は60年で一巡するため、『書紀』の法隆寺火災の記事は実年代から60年ずれているとする説である。『聖徳太子伝補闕記』(ふけつき)という書物に「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」という記載があるが、平子はこの「庚午」を西暦670年ではなく聖徳太子在世中の610年のことであるとし、『書紀』の編者は、推古天皇18年(610年)の庚午年に起きた火災の話を誤って60年後の天智9年(670年)の庚午年の条に入れてしまった。また、610年の火災は小規模なもので、現存する西院伽藍は推古朝から焼けていないと主張した。
これにただちに反論したのが歴史家の喜田貞吉である。喜田は、焼失した伽藍が元の礎石を用いて再建されたのなら、尺度も古い高麗尺が使われているのは当然だとして関野説を批判した。平子説については、『補闕記』には信用できない記述が多く、これをもって『書紀』の670年法隆寺火災の記事を否定することはできないとして、これをも退けた。こうした再建論者・非再建論者の論争(法隆寺再建非再建論争)は昭和期まで続いた。
昭和期になると、関野貞、足立康らが「二寺説」あるいは「新非再建論」と呼ばれる新説を唱える。関野は従来の自説を改め、「二寺説」を発表した。法隆寺の境内、現・西院伽藍の南東に位置する空地には「若草伽藍跡」あるいは「若草寺跡」と呼ばれる場所があり、塔跡の古い礎石が残されていた。関野は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする伽藍(西院伽藍)と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする伽藍(若草伽藍)とは別の寺であり、670年に焼けたのは後者であるとした。二寺説は、古くは北畠治房(法隆寺村出身の元天誅組志士)という人物が唱えていたが、論文として公刊されたものでなかったため、一般には知られていなかった。足立康の「新非再建論」(1939年)は、用明天皇のために造られた薬師如来を本尊とする仮称「用明寺」と、聖徳太子のために造られた釈迦如来を本尊とする釈迦如来を安置する仮称「太子寺」とがあり、670年に焼けたのは前者であるとする。後に足立は、2つの寺院が対立していたのではなく、一つの法隆寺の中に釈迦像を祀る「釈迦堂」があって、その後身が現・西院伽藍であるとした。
1939年(昭和14年)に、石田茂作らによって若草伽藍跡の発掘調査が行われた。その結果、この伽藍は現存する西院伽藍(塔と金堂が東西に並ぶ)とは異なり、南に塔、北に金堂が南北方向に配置される「四天王寺式伽藍配置」であること、堂塔が真南に面しておらず、伽藍配置の中心軸が北西方向へ20度ずれていることがわかった。一方、現存する西院伽藍の堂塔は南を正面とし、伽藍の中心軸はほぼ地図上の南北に一致している(正確には北東方向へ3度ずれている)。したがって、仮に「若草寺」と「法隆寺」の2寺が同時に存在していたとすると、中心軸の方角が大きく異なる伽藍が近接して建っていたことになり、不自然である。また、若草伽藍跡から出土した瓦は、単弁蓮華文の軒丸瓦と手彫り忍冬唐草文の軒平瓦を組み合わせた、古い様式のものであった。こうしたことから、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらためて建てられたものが現存する法隆寺西院伽藍であるということは定説となっている。
『資財帳』によれば、持統天皇7年(693年)、法隆寺にて仁王会が行われ、天蓋等が施入されていることから、現・西院伽藍のうち、少なくとも金堂はこの年までには建立されていたとみられる。同じく『資財帳』によれば、和銅4年(711年)には五重塔初層安置の塑像群と、中門安置の金剛力士(仁王)像が完成しており、同年頃までには五重塔、中門を含めた西院伽藍が建立されていたとみられる。以上のように、「再建非再建論争」に関しては再建論に軍配が上がった形である。ただし、創建法隆寺の焼失は『書紀』のいう670年であったのか否か、皇極天皇2年(643年)の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのか、現存の西院伽藍が創建法隆寺とは別の位置に建てられ、建物の方位も異なっているのはなぜか(現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している)、金堂、五重塔などの正確な建立年はいつか、現・西院金堂安置の釈迦三尊像と薬師如来像は本来どこに安置されていたのかなど、未解明の謎はまだ残っている。現・西院伽藍のある土地は、かつて存在した尾根を削り、両側の谷を埋めて整地した後に建てられたことがわかっており、なぜそのような大規模な土木工事をしてまで伽藍の位置を移したのかも謎である。
非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年(昭和14年)、石田茂作によって聖徳太子当時のものであると考えられる前身の伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことで、再建であることがほぼ確定した。また「昭和の大修理」で明らかになった新事実(現在の法隆寺に礎石が転用されたものであること、金堂天井に残されていた落書きの様式など)もそれを裏付けている。
2004年12月、若草伽藍跡の西側で、7世紀初頭に描かれたと思われる壁画片約60点の出土が発表された。この破片は1,000℃以上の高温にさらされており、建物の内部にあった壁画さえも焼けた大規模な火事であったと推察される。壁と共に出土した焼けた瓦は7世紀初頭の飛鳥様式であり、壁画の様式も線の描き方が現・法隆寺のものより古風であるという。出土した場所は、当時深さ約3メートルほどの谷であったところで、焼け残った瓦礫としてここに捨てられたと見られている。実際に焼失を裏付ける考古遺物が多数発見された。
最近の研究
2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年の年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることが改めて裏付けられた。問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、『日本書紀』の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採とみられることである。伐採年が『日本書紀』における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する。
なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年に極めて近いと発表されている。他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残った。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。
また、川端俊一郎は法隆寺の物差しは高麗尺ではなく、中国南朝尺の「材」であるとしている。
『隠された十字架』を巡る論争
1972年(昭和47年)に梅原猛が発表した論考『隠された十字架』は、西院伽藍の中門が4間で中央に柱が立っているという特異な構造に注目し、出雲大社との類似性を指摘して、再建された法隆寺は王権によって子孫(山背大兄王ら上宮王家)を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないかとの説を主張した。歴史学研究者の間では、一般的な怨霊信仰の成立が奈良時代末期であることなどを指摘し、概ね梅原説には批判的であった。
梅原は、夢殿本尊の救世観音には背中がなく、体は空洞であるとした上で、この像は「前面からは人間に見えるが、実は人間ではない」「人間としての太子でなく、怨霊としての太子を表現」したものだとした。しかし、これは事実誤認で、実際には救世観音像は丸彫り像であり、背中の部分も造形されている。これはアーネスト・フェノロサの『東亜美術史綱』中の救世観音に係る記述に「背後は中空なり」とあり、フェノロサの誤記をそのまま引き継いだための誤解であろうと指摘されている。
また梅原は救世観音の光背が「直接、太い大きな釘で仏像の頭の真後ろにうちつけられている」としたうえで、「釘をうつのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである」とした。実際は、救世観音の後頭部にあるのは「太い釘」ではなく、単なる光背取り付け用の金具である。このように、仏像の後頭部に設けた金具や枘によって光背を固定している例は、法隆寺金堂四天王像、法隆寺献納宝物の四十八体仏(東京国立博物館蔵)などに例が見られ、「呪詛の行為」等の解釈は当たらない。このように、梅原の『隠された十字架』の所説は基本的な事実誤認に基づいて推論を重ねている部分が多いため、美術史家からは厳しい評価を受けており、ほとんどの美術史家はあえて正面から反論しなかった。
とはいえ、本書が与えた影響は大きなものがあり、山岸凉子は本書に直接のインスピレーションを得て『日出処の天子』を発表したという。また建築家の武澤秀一は、中門の中心にある柱が怨霊封じのためであるという梅原の説は退けつつも、梅原の問題提起を高く評価し、イーフー・トゥアンなど現象学的空間論を援用しながら、法隆寺西院伽藍の空間設計が、それ以前の四天王寺様式が持つ圧迫感を和らげるために考案されたものであり、先行する百済大寺(武澤は吉備池廃寺を百済大寺に比定して論を展開している)や川原寺で試みられた「四天王寺様式を横にした」空間構築の完成形であったのではないかと論じている。
金堂
国宝。入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。上層には部屋はなく、外観のみである。二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため修理の際に付加されたものであるが、その年代については諸説ある。金堂の壁画は日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、1949年(昭和24年)、壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画(重要文化財)と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。なお、解体修理中の火災であったため、初層の裳階(もこし)部分と上層のすべて、それに堂内の諸仏は難を免れた。この火災がきっかけで文化財保護法が制定され、火災のあった1月26日が文化財防火デーになっている。堂内は中の間、東の間、西の間に分かれ(ただし、これらの間に壁等の仕切りがあるわけではない)、それぞれ釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来を本尊として安置する。
釈迦三尊像(国宝) - 推古天皇31年(623年)、止利仏師作の光背銘を有する像で、日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイック・スマイル(古式の微笑)、太い耳朶(耳たぶ)、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。
薬師如来坐像(国宝) - 東の間本尊。本像の脇侍とされる日光・月光菩薩像は別に保管されるが、作風が異なり、本来一具のものではない。
阿弥陀三尊像(重要文化財) - 鎌倉時代の慶派の仏師・康勝の作。元来の西の間本尊が中世に盗難に遭ったため、新たに作られたもの。全体の構成、衣文などは鎌倉時代の仏像にしては古風で、東の間の薬師如来像を模したと思われるが、顔の表情などは全く鎌倉時代風になっている。両脇侍のうち勢至菩薩像は幕末から明治初期の時代に行方不明になり、現在は、フランス・ギメ美術館蔵となっている。現在金堂にある勢至菩薩像はギメ美術館の像を模して1994年(平成6年)に新たに鋳造されたものである。
四天王立像(国宝) - 飛鳥時代。広目天・多聞天像の光背裏刻銘に山口大口費らの作とある。同じ堂内の釈迦三尊像、薬師如来像が銅造であるのに対し、木造彩色である。後世の四天王像と違って、怒りの表情やポーズを表面に表さず、邪鬼の上に直立不動の姿勢で立つ。
毘沙門天・吉祥天立像(国宝) - 中の間本尊釈迦三尊像の左右に立つ、平安時代の木造彩色像。記録(『金堂日記』)から承暦2年(1078年)の作とされる。なお、中の間と西の間の本尊の頭上にある天蓋(重要文化財)も飛鳥時代のものである(東の間の天蓋は鎌倉時代)。
1949年(昭和24年)に焼損した壁画については「法隆寺金堂壁画」を参照。金堂の焼損した壁画と内陣の部材は、大宝蔵殿裏の収蔵庫に保管され、長年非公開となっている。収蔵庫の耐震性に問題がないことが判明したことから、法隆寺では焼損壁画を将来公開する方向であり、2021年(令和3年)を目途に公開の時期と方法が検討されている。
五重塔
国宝。木造五重塔として現存世界最古のもの。裳階付きで、高さは32.55mであり、初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目のみ二間とする。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は『維摩経』(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨すなわち仏舎利を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表す。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。その弟子集団の中の3体は、耳の無い、口先のとがった、眼のつりあがった頭部をしており、それぞれ馬頭形、鳥頭形、鼠頭形とよばれる。これらは十二支をかたどっているとも、薬師如来をまもる十二神将であるともいわれる。五重塔初層内部にも壁画(現在は別途保管、重要文化財)があったが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまっている。心礎(心柱の礎石)は、地下3メートルにあり、心礎内からは1926年(大正15年)にガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる舎利容器が発見された。なお、舎利容器は、調査後、元の場所に納められている。
大宝蔵院
百済観音像をはじめとする寺宝を公開している。百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年(平成10年)に完成した。
観音菩薩立像(百済観音、国宝) - 飛鳥時代、木造。元は金堂内陣の裏側に安置されていた。細身で九頭身の特異な像容を示す。和辻哲郎の『古寺巡礼』をはじめ、多くの文芸作品の中で絶賛されてきた著名な像であるが、その伝来や造像の経緯などはほとんど不明である。「百済観音」の通称は近代になってからのもので、明治初期まで寺内では「虚空蔵菩薩像」と呼ばれていた。詳しい解説は別項「百済観音」を参照。
観音菩薩立像(九面観音、国宝) - 唐から将来の像。香木を用い、彩色を施さず白木で仕上げた、いわゆる檀像と呼ばれる像である。細かい装身具、体部から遊離している耳飾や天衣まで完全に一木で彫り上げた技巧的な像である。
観音菩薩立像(夢違観音、国宝) - 飛鳥時代後期(白鳳期)、銅造。元は東院絵殿の本尊。悪夢を良夢に替えてくれるという伝説からこの名がある。
地蔵菩薩立像(国宝) - 平安時代、木造。奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)にあったが、明治の神仏分離で法隆寺へ移された。大宝蔵院ができるまでは金堂内陣の裏側に安置されていた。
六観音像(重要文化財) - 飛鳥時代後期(白鳳期)、木造。六観音像と通称され、重要文化財の指定名称は「観音・勢至菩薩」「日光・月光菩薩」「文殊・普賢菩薩」となっているが、本来の名称は明らかでない。少しずつ様式の異なる3対の像から成る。東京の根津美術館には、この六観音像と酷似した菩薩像があり、元は8体あったものともいわれる。
梵天・帝釈天立像、四天王立像(重要文化財) - いずれも奈良時代の塑像で、元は食堂(じきどう)本尊の薬師如来像を囲んで安置されていたものである。
玉虫厨子(国宝) - 飛鳥時代。元は金堂に安置されていた仏堂形の厨子である。建築様式的には法隆寺の西院伽藍よりやや古い時代を示し、飛鳥時代の建築、工芸の遺品として重要である。透かし彫りの飾金具の下に本物の玉虫の羽を敷き詰めて装飾したことからこの名がある。現在、玉虫の羽は一部に残るのみで、当初の華麗さを想像するのは難しい。厨子の扉や壁面の装飾画も著名で、釈迦の前世物語である『捨身飼虎図』(しゃしんしこず)、また『施身聞偈図』(せしんもんげず)は特によく知られる。5年の歳月と1億円以上費用をかけて作成された復刻版が寄贈されている。
阿弥陀三尊像及び厨子(橘夫人厨子、国宝) - 飛鳥時代後期(白鳳期)。やはり金堂に安置されていたもの。厨子内の阿弥陀三尊像は飛鳥時代後期(白鳳期)の金銅仏の代表作で、蓮池から生じた3つの蓮華の上に三尊像が表されている。
金堂小壁画(重要文化財) - 1949年(昭和24年)の金堂の火災の際、取り外されていたため難を免れた小壁の天人の壁画20面である。20面のうち一部が展示されている。
また、仏画、仏具、舞楽面、経典なども随時展示替えをしつつ公開されている。保存上の理由から常時公開されていない寺宝として四騎獅子狩文錦(唐時代、国宝)、黒漆螺鈿卓(平安時代、国宝)などがある。
伽藍
西院伽藍
西院伽藍は南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の廻廊が囲む。廻廊の南正面に中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた廻廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。廻廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、廻廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。金堂・五重塔・中門にみられる建築様式は、組物(軒の出を支える建築部材)に雲斗、雲肘木と呼ばれる曲線を多用した部材を用いること、建物四隅の組物が斜め(45度方向)にのみ出ること、卍くずしの高欄(手すり)、それを支える「人」字形の束(つか)などが特色である。これらは法隆寺金堂・五重塔・中門、法起寺三重塔、法輪寺三重塔(焼失)のみにみられる様式で、飛鳥様式とされる。
金堂(国宝) - 天智天皇9年(670年)の火災後の再建。
五重塔(国宝) - 天智天皇9年(670年)の火災後の再建。
大講堂(国宝) - 桁行九間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺き。平安時代の延長3年(925年)に焼失後の、正暦元年(990年)に再建。薬師三尊像(平安時代、国宝)と四天王像(重要文化財)を安置する。
経蔵(国宝) - 奈良時代の楼造(二階建)建築。観勒僧正坐像(重要文化財)を安置するが、内部は非公開。
鐘楼(国宝) - 経蔵と対称位置に建つが、建立時代は平安時代。
廻廊(国宝) - 金堂などとほぼ同時期の建立。廊下であるとともに、聖域を区切る障壁でもある。ただし、大講堂寄りの折れ曲がり部分より北は平安時代の建立である。当初の廻廊は大講堂前で閉じており、大講堂は廻廊の外にあった。
中門(国宝) - 入母屋造の二重門。正面は四間二戸、側面は三間。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に塑造金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は廻廊の西南隅から入る。
上御堂(重要文化財) - 大講堂の真裏(北)に建つ。鎌倉時代の建立。釈迦三尊像(国宝)、四天王立像(重要文化財)を安置。通常非公開だが、毎年11月1日 - 3日に限り堂内を公開。
総社
西円堂(国宝) - 西院伽藍の西北の丘の上に建つ八角円堂。伝承は県犬養三千代の建立とするが、現存のものは鎌倉時代の建立。堂内の空間いっぱいに坐す本尊薬師如来坐像(国宝)は、奈良時代の乾漆像。本尊台座周囲には小ぶりな十二神将立像(重要文化財)、千手観音立像(重要文化財)を安置する。大和北部八十八ヶ所霊場第51番札所。
鐘楼
薬師坊庫裏(重要文化財) - 西円堂の背後に建つ。
地蔵堂(重要文化財) - 西円堂の東側石段下に建つ。地蔵菩薩半跏像(重要文化財)を安置。
三経院(国宝) - 西院伽藍の西側、聖霊院と対称的な位置に建つ。鎌倉時代の建立。阿弥陀如来坐像(重要文化財)持国天・多聞天立像(重要文化財)を安置。
西室(国宝) - 三経院の北に接続して建つ。
弁天社
西大門
西園院 - 法隆寺の本坊(住職の居所)。南大門を入って左側、築地塀の内側にある。
客殿(重要文化財)
新堂(重要文化財) - 持仏堂。薬師三尊像(重要文化財)、四天王像(重要文化財)を安置。
庫裏
寺務所
上土門(あげつちもん、重要文化財) - 上土門はここ以外には法輪寺にしかなく、貴重である。
唐門(重要文化財)
大湯屋(重要文化財) - 西園院の西方、築地塀の内側にある。
大湯屋表門(重要文化財)
鵤文庫
護摩堂 - 南大門を入って右側の子院・弥勒院に接して建つ。不動明王及び二童子像(重要文化財)、弘法大師坐像(重要文化財)を安置。
聖霊院(しょうりょういん、国宝) - 西院伽藍の東側に建つ、聖徳太子を祀る堂。鎌倉時代の建立。この建物は本来は東室の一部であったが、保安2年(1121年)にこれを再建する時に南半を改造して聖霊院とし、聖徳太子像を祀った。現在の聖霊院は弘安7年(1284年)に改築されたものである。聖徳太子及び眷属像(平安時代、国宝)、如意輪観音半跏像(重要文化財)、地蔵菩薩立像(重要文化財)を安置。太子の命日の旧暦2月22日を中心に(現在は3月22日 - 24日)、法隆寺最大の行事であるお会式(おえしき)が、またその前夜には逮夜法要が行われる。
東室(ひがしむろ、国宝) - 聖霊院の北に接続して建つ。後世の補修・改造が多いが、基本的には奈良時代の建築で、当時の僧坊建築の遺構として貴重である。
妻室(つまむろ、重要文化財) - 平安時代建立。東室の東に建つ細長い建物。
綱封蔵(こうふうぞう、国宝) - 聖霊院の東に建つ。奈良時代から平安初期に建てられた倉庫である。
食堂(じきどう、国宝) - 奈良時代建立。西院伽藍の東方北寄りに建つ。食堂本尊の薬師如来坐像(重要文化財)は奈良時代の塑像だが補修が多い。本尊以外の仏像は大宝蔵院に移されている。
細殿(ほそどの、重要文化財) - 鎌倉時代建立。食堂に並んで建てられている。
大宝蔵院 - 1998年(平成10年)完成。解説は既述。
百済観音堂 - 1998年(平成10年)建立。
東宝殿 - 1998年(平成10年)建立。
西宝殿 - 1998年(平成10年)建立。
中門 - 1998年(平成10年)建立。
工芸収納庫
収蔵庫
大宝蔵殿 - 大宝蔵院とは別の建物。1939年(昭和14年)の建築で、大宝蔵院が完成するまではこの大宝蔵殿で多くの寺宝が公開されていた。現在は、春・秋の観光シーズンのみ開館し、大宝蔵院に展示しきれない様々な寺宝を公開している。
中倉
南倉
北倉 - 北倉は倉庫として使われている。
東大門(国宝) - 西院から東院へ向かう道筋に建つ、奈良時代の八脚門。
古材収納庫
聖徳会館
旧富貴寺羅漢堂(重要文化財) - 西院から東院へ向かう道筋の南側、築地塀の内側にひっそりと建つ。元は奈良県磯城郡川西町の富貴寺にあり、荒れ果てていたのを細川護立(侯爵、美術史家)がその部材を引き取って保存した後、法隆寺へ寄進。平安時代の三重塔の初層のみが残ったものと思われ、初層のみが再建されて羅漢堂とされた。
南大門(国宝) - 西院伽藍の南方、境内入口に建つ。入母屋造の一重門。室町時代の永享10年(1438年)に当時の西大門を移築したもの。建築当初は切妻屋根であった。
東院伽藍
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。『法隆寺東院縁起』によると、天平11年(739年)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧行信により創建された。廻廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、廻廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。
夢殿(国宝) - 奈良時代建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。夢殿は天平11年(739年)の法隆寺東院創立を記す『法隆寺東院縁起』の記述からその頃の建築と考えられているが、これを遡る天平9年(737年)の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性も考えられている。8世紀末頃には「夢殿」と呼称される。奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に軒の出を深くし、屋根勾配を急にするなどの大修理を受けている。昭和の大修理の際にも屋根を奈良時代の形式に戻すことはしなかったため、現状の屋根形状は鎌倉時代のものである。基壇は二重で、最大径が11.3メートル。堂内は石敷。堂内の八角仏壇も二重で、その周囲に8本の入側柱が立ち、入側柱と側柱の間には繋虹梁を渡す。入側柱と側柱は堂の中心に向かってわずかに傾斜して立つが、これは「内転び」と呼ばれる唐渡来の手法である[49]。
観音菩薩立像(救世観音、国宝) - 飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉覚三(天心)とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている(岡倉らによる「発見」については伝説化されている部分もあり、それ以前の数百年間、誰も拝んだ者がいなかったのかどうかは明らかでない)。現在も春・秋の一定期間しか開扉されない秘仏である。保存状態が良く、当初のものと思われる金箔が多く残る。
行信僧都坐像(国宝) - 奈良時代の乾漆像。行信は東院の建立に尽力した人物である。吊り目の怪異な容貌が特色。
道詮律師坐像(国宝) - 平安時代初期の作。この時代の仏像はほとんどが木彫であるが、本像は珍しい塑造である。道詮は荒廃していた東院の復興に尽力した人物である。
聖観音立像(重要文化財) - 救世観音の背後に立つ。
絵殿(重要文化財) - 鎌倉時代の建立。絵殿には、摂津国(現在の大阪府北部など)の絵師である秦致貞(はたのちてい、はたのむねさだ)が延久元年(1069年)に描いた『聖徳太子絵伝』の障子絵(国宝)が飾られていた。太子の生涯を描いた最古の作品であるが、1878年(明治11年)に皇室に献上され、現在は「法隆寺献納宝物」として東京国立博物館の所蔵となっている。絵殿には江戸時代に描かれた『聖徳太子絵伝』が代わりに飾られている。
舎利殿(重要文化財)
廻廊(重要文化財)
礼堂(重要文化財)
伝法堂(国宝)- 切妻造、本瓦葺き、桁行七間、梁間四間。内部は床を張り、天井を張らない化粧屋根裏とする。橘夫人(伝承では県犬養橘三千代(藤原不比等夫人、光明皇后母)とされるが、現在では孫にあたる聖武天皇夫人・橘古那可智とする説が有力)の住居を移転して仏堂に改めたものとされ、奈良時代の住宅遺構としても貴重である。昭和大修理時の調査の結果、この堂は他所から移築され改造された建物で、前身建築は住居であったと分かった。堂内には多数の仏像を安置するが通常は公開していない。内陣は中の間、東の間、西の間に分かれ、それぞれ乾漆造阿弥陀三尊像(奈良時代、重要文化財)が安置される。他に梵天・帝釈天立像、四天王立像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像(各木造、平安時代、重要文化財)を安置する。
東院鐘楼(国宝) - 鎌倉時代建立。
四脚門(重要文化財) - 鎌倉時代建立。
南門(重要文化財) - 別名は不明門。長禄3年(1459年)建立。
子院
中院 - 境内西端にある。
本堂(重要文化財)
宝珠院 - 境内西端にある。堂内に文殊菩薩騎獅像(重要文化財)を安置。
本堂(重要文化財)
律学院 - 西院から東院へ向かう道筋の北側にある。
本堂(重要文化財)
宗源寺 - 西院から東院へ向かう道筋の北側にある。
四脚門(重要文化財)
福園院 - 西院から東院へ向かう道筋の南側にある。
本堂(重要文化財)
北室院 - 東院伽藍の北方にある。本堂には阿弥陀三尊像(重要文化財)を安置する。
本堂(重要文化財)
太子殿(重要文化財)
表門(重要文化財)
地蔵院
宝光院
弥勒院
実相院
普門院
観音院
福生院
円成院 - 大宝蔵院の裏にある。
文化財
法隆寺献納宝物
明治維新以後の廃仏毀釈により民衆による破壊にさらされ、さらに幕政時代のような政府による庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。
法隆寺は、1878年(明治11年)に貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、一万円を下賜された。この皇室の援助で7世紀以来の伽藍や堂宇が維持されることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移された後、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。第二次世界大戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている(有名な『聖徳太子及び二王子像』や『法華義疏』などは現在も皇室が所有する御物である)。
国宝
建造物
南大門
金堂
五重塔
中門
回廊 2棟
経蔵
鐘楼
大講堂
聖霊院(しょうりょういん)
東室(ひがしむろ)
三経院及西室
西円堂
綱封蔵
食堂(じきどう)
東大門
夢殿
伝法堂
東院鐘楼
美術工芸品
銅造阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)
銅造釈迦如来及両脇侍像 止利作(金堂安置)
銅造薬師如来坐像(金堂安置)
木造四天王立像(金堂安置)
木造毘沙門天・吉祥天立像(金堂安置)
木造天蓋3箇
塑造塔本四面具 78躯・2基(五重塔安置)
木造薬師如来及両脇侍坐像(大講堂安置)
乾漆薬師如来坐像(西円堂安置)
木造釈迦如来及両脇侍坐像(上御堂安置)
銅造阿弥陀如来及両脇侍像(伝橘夫人念持仏)・木造厨子(所在大宝蔵院)
銅造観音菩薩立像(夢違観音)(所在大宝蔵院)
木造観音菩薩立像(九面観音)(所在大宝蔵院)
木造観音菩薩立像(百済観音)(所在大宝蔵院)
木造地蔵菩薩立像(所在大宝蔵院)。明治初期まで大神神社の神宮寺である大御輪寺に伝来。
木造聖徳太子・山背王・殖栗王・卒末呂王・恵慈法師坐像(聖霊院安置)
附 銅造観音菩薩立像1躯 木造蓬莱山及亀座付
附 紙本墨書妙法蓮華経二・維摩経並勝鬘経一 3巻(木製経筒入)
木造観音菩薩立像(救世観音)(夢殿安置)
乾漆行信僧都坐像(所在夢殿)
塑造道詮律師坐像(所在夢殿)
玉虫厨子
黒漆螺鈿卓
四騎獅子狩文錦
重要文化財
建造物
西院大垣 3棟
西院西南隅子院築地 2棟
西院東南隅子院築地 2棟
西園院唐門
西園院上土門(あげつちもん)
西園院客殿
新堂
大湯屋
大湯屋表門
中院本堂
宝珠院本堂
薬師坊庫裏
地蔵堂
上御堂(かみのみどう)
細殿
妻室(つまむろ)
律学院本堂
福園院本堂
旧富貴寺羅漢堂
宗源寺四脚門
東院四脚門
東院南門
東院回廊 2棟
東院礼堂(らいどう)
東院絵殿及舎利殿
東院大垣 3棟
北室院本堂
北室院太子殿
北室院表門
絵画
金堂外陣旧壁画 20面(飛天図)
金堂内陣旧壁画 12面
釈迦浄土図(第1号大壁)、菩薩像(第2号小壁)、観音菩薩像(第3号小壁)、勢至菩薩像(第4号小壁)、菩薩像(第5号小壁)、阿弥陀浄土図(第6号大壁)、観音菩薩像(第7号小壁)、文殊菩薩像(第8号小壁)、弥勒浄土図(第9号大壁)、薬師浄土図(第10号大壁)、普賢菩薩像(第11号小壁)、十一面観音像(第12号小壁)
五重塔初層旧壁画 18面(菩薩像6、山水図12)
絹本著色五尊像
絹本著色孔雀明王像
絹本著色十六羅漢像 八曲屏
絹本著色星曼荼羅図(1902年重文指定)
絹本著色星曼荼羅図(2004年重文指定)
絹本著色法華曼荼羅図
絹本著色聖皇曼荼羅図 尭尊筆
絹本著色聖徳太子像
絹本著色聖徳太子勝鬘経講讃図
絹本著色毘沙門天像
絹本著色蓮池図(旧舎利殿須弥壇後壁貼付) 二曲屏風
紙本著色扇面古写経
彫刻
安置場所ごとに区分して示した。同一名称でまぎらわしいものに限り、像高、重文指定年度などを注記されている。
塑造金剛力士立像 2躯(吽形躰部木造)(中門安置)
銅造阿弥陀如来及び脇侍像 2躯(康勝作)(金堂安置)
附:像内納入品(万坏供養摺札325枚、阿弥陀如来及両脇侍摺仏103枚)
木造伝観勒僧正坐像(経蔵安置)
木造四天王立像(大講堂安置)
木造地蔵菩薩立像(聖霊院安置)
木造如意輪観音坐像(聖霊院安置)
木造阿弥陀如来坐像(三経院安置)
木造持国天・増長天立像(三経院安置)
木造十二神将立像(西円堂安置)[注釈 3]
木造千手観音立像(西円堂安置)
木造地蔵菩薩半跏像(地蔵堂安置)
木造四天王立像(上御堂安置)
塑造薬師如来坐像(食堂安置)
木造薬師如来両脇士像(新堂安置)
木造四天王立像(新堂安置)
木造不動明王及二童子立像(護摩堂安置)
木造弘法大師坐像(護摩堂安置)
木造文殊菩薩騎獅像(宝珠院本堂安置)(宝珠院所有)
木造聖観音立像(夢殿安置)
木造聖徳太子立像(夢殿安置)
乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1909年重文指定、中の間本尊)
乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1902年重文指定、西の間本尊)、
乾漆阿弥陀如来及両脇侍像(伝法堂安置)(1902・1909年重文指定、東の間本尊)[注釈 4]
木造梵天・帝釈天立像(伝法堂安置)
木造四天王立像(伝法堂安置)
木造薬師如来坐像(伝法堂安置)
木造釈迦如来坐像(伝法堂安置)
木造弥勒仏坐像(伝法堂安置)
木造阿弥陀如来坐像(伝法堂安置)
木造阿弥陀如来及両脇侍像(北室院本堂安置)(北室院所有)
金銅釈迦如来文殊菩薩像一座(戊子年銘)(大宝蔵院所在)
塑造吉祥天立像(大宝蔵院所在、旧金堂)
金銅薬師如来坐像(伝西円堂薬師如来胎内仏)(大宝蔵院所在)
木心乾漆弥勒菩薩坐像(大宝蔵院所在)
木造文殊・普賢菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)
木造日光・月光菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)
木造観音・勢至菩薩立像(伝六観音のうち)(大宝蔵院所在)
金銅誕生釈迦仏立像1躯・金銅観音菩薩立像5躯(大宝蔵院所在、他)[注釈 5]
塑造梵天・帝釈天立像(大宝蔵院所在、旧食堂)
塑造四天王立像(大宝蔵院所在、旧食堂)
厨子入木造聖徳太子坐像 円快作(大宝蔵院所在)
木造如意輪観音坐像(大宝蔵院所在)
厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像・銅板押出如来及両脇侍立像(板扉貼付)・銅板舟形後屏(銅板押出天蓋付)(大宝蔵院・大宝蔵殿所在)
銅造観音菩薩立像(伝・金堂薬師如来脇侍)2躯(大宝蔵殿所在)
銅造観音菩薩立像(大宝蔵院所在、旧金堂)[注釈 6]
銅造観音菩薩立像 1躯(玉虫厨子安置)
木造薬師如来坐像(大宝蔵殿所在)
木造釈迦如来坐像(大宝蔵殿所在)
木造阿閦如来坐像(大宝蔵殿所在)
木造阿弥陀如来坐像(大宝蔵殿所在)(像高92センチメートル、1906年重文指定)
木造阿弥陀如来坐像(大宝蔵殿所在)(像高34センチメートル、1906年重文指定)
木造聖観音立像(大宝蔵殿所在)(像高165センチメートル、1897年重文指定)
木造聖観音立像(大宝蔵殿所在)(像高182センチメートル、1909年重文指定)
木造普賢延命坐像(大宝蔵殿所在)
木造天鼓音如来坐像(大宝蔵殿所在)
木造千手観音立像(大宝蔵殿所在)
木造弥勒菩薩半跏像(大宝蔵殿所在)
木造弥勒菩薩坐像(大宝蔵殿所在)
木造善女竜王立像(大宝蔵殿所在)
木造光背(大宝蔵殿所在)
磚製阿弥陀如来及脇侍像(大宝蔵殿所在)
金銅僧徳聡等造像記(甲午年銘)(大宝蔵殿所在)
木造伎楽面 1面(大宝蔵殿所在)
木造舞楽面 35面(胡徳楽7、地久7、退宿徳2、石川、抜頭、還城楽、二ノ舞2、新鳥蘇5、皇仁庭2、崑崙八仙4、陵王、納曽利2、附:散手、崑崙八仙)(大宝蔵院・大宝蔵殿所在)
木造行道面(聖霊会所用)10面(獅子頭2、綱引、蝿払、八部衆6、附:八部衆残欠1片)(大宝蔵殿所在)
木造菩薩面3面(附:菩薩面5面)(大宝蔵殿所在)
木造追儺面 3面(大宝蔵殿所在)
木造阿弥陀如来坐像(東京国立博物館寄託、1909年重文指定)
金銅釈迦如来立像(1910年盗難)
工芸品
銅水瓶
銅壺(香水壺)
金銅鉢 3口
金銅装唐組垂飾残闕
無文磬 銘東院
金銅雲形磬
金銅火舎 貞治五年銘
金銅花瓶 乾元元年銘
金銅法具類 一具
火舎(かしゃ)4口、花瓶(けびょう)4口、六器 台皿付24口、飲食器(おんじきき)2口、金剛盤 1面(正安二年銘)、四橛(しけつ) 4本、灑水器(しゃすいき) 1口、塗香器(ずこうき) 1口
鋳銅六器 盞一口欠 12口
銅錫杖
銅錫杖(輪頂五輪塔)
銅錫杖(輪頂宝瓶)
銅鐘(西院鐘楼)
銅鐘(東院鐘楼)
鼉太鼓 一対[注釈 7]
木造鉦鼓台 3基 附:舞台
黒漆華形大壇 正応二年銘(1289年)
黒漆布薩手洗2口・黒漆布薩花器1口・銅水瓶3口
黒漆六角厨子
石燈籠(西院伽藍内所在)
蜀江錦 3面
書跡典籍・古文書
大慈恩寺三蔵法師伝 巻第一、第七、第九 3巻。
大方広仏華厳経 巻第四十二
附法伝 残巻(敦煌出土)
弥勒上生経疏 上巻
大唐西域記(巻第二、十二欠)10巻
大般若経(写経470巻 版経130巻)600巻
版本成唯識論述記(巻第十末写本)20冊
崇俊塔銘
恵沼神塔碑 李邕撰
七大寺巡礼私記 残巻
法隆寺一切経 890巻(附:補写経36巻、保安三年三月廿三日僧林幸勧進状1巻)[注釈 9]
法隆寺縁起白拍子 貞治三年重懐書写奥書
文書(天平勝宝三年五月廿一日下総国司解以下11通) 1巻
法隆寺領播磨国鵤庄絵図 嘉暦四年卯月日(附:同庄絵図案(至徳三年書写裏書))
考古資料・歴史資料
百万塔
木造百万小塔100基、木造十万節塔(残欠蓮座付)1基、木造一万節塔(蓮座付)1基[注釈 10]
附:木造組立小塔6基、他に残欠屋蓋3箇、台2箇
附:陀羅尼100巻(自心印陀羅尼39巻、相輪陀羅尼27巻、根本陀羅尼27巻、六度陀羅尼7巻)
十七条憲法板木 弘安八年施入
調布 2枚 内一枚、天平勝宝四年十月常陸国信太郡貢進墨書
法隆寺枡 2口
一升枡 康正二年銘(1456年)(観音講枡)
一升枡 天正二年銘(1574年)
法隆寺金堂壁画写真ガラス原板 363枚
出典:2000年までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
国指定史跡
法隆寺境内
奈良県指定有形文化財
剣 1口
その他の文化財
五重塔舎利容器 - 1926年(大正15年)の調査時に心柱下の地中の心礎から発見されたもので、響銅大鋺、響銅宝珠紐合子(銀鎖付)、卵形透彫銀製容器、卵形透彫金製容器、瑠璃製舎利瓶(銀栓付)が順に入れ子になり、大鋺中には海獣葡萄鏡があった。これら遺物は調査後、元のとおりに埋納された。
善光寺如来御書箱 - 善光寺如来(長野県・善光寺の阿弥陀如来)から聖徳太子あての御書(おんしょ、手紙)と称する文書を納めた箱で、古来、開封を禁じているが、明治初期の文化財調査である壬申検査(1872年(明治5年))の際に開封されたことがあり、その際に取られた文書の写しが東京国立博物館に保管されている。箱の表面には飛鳥時代の蜀江錦が張られ、これを錦袋や綾袋で幾重にも覆っている。蜀江錦張りの箱は1994年(平成6年)に開催(東京国立博物館など5館を巡回)された「国宝法隆寺展」で公開されたことがある。
西円堂奉納品 - 西円堂には、本尊の薬師如来の霊験を信じて病気平癒を祈願した人々が古くより様々なものを奉納してきたが、最も多いのが室町時代中期から江戸時代初期までの武器類で、なかんずく刀剣が約6,000点、次いで鏡が3,000点超あり、その他は刀装具、弓、鑓、薙刀、鉄砲、甲冑など、全部で1万点超が確認され、日本の武器研究における重要な資料が多く含まれていると目されている。奉納品群はかつては堂建物内外の壁や柱に隙間なく掛けられていたが、1935年(昭和10年)の西円堂修理の際に全て取り外され、現在は宝物庫にて保管されている。
主な行事
1月1日 - 3日 舎利講 聖徳太子2歳の時、「南無仏」と唱えたところ出現した仏舎利を本尊として行われる法要。
1月5日 初護摩祈願法要
1月8日 - 14日 金堂修正会 768年(神護景雲2年)以来続く伝統行事。国家安隠、万民豊楽等を祈る。
1月16日 - 18日 上宮王院修正会 夢殿の十一面観音への悔過法要。国家安泰を祈る。
1月26日 金堂壁画焼損自粛法要
2月1日 - 3日 西円堂修二会 1261年(弘長元年)以来続く伝統行事。薬師如来座像に対し「薬師悔過」を行う。
2月3日 追儺式(鬼追い式) 節分の行事。西円堂に黒鬼、青鬼、赤鬼が現れ、松明を投げ、毘沙門天が現れて鬼を追う。
2月5日 三蔵会 玄奘三蔵を讃える法要。古くからあったが明治に中断し、1983年(昭和58年)に復活した。
2月15日 涅槃会 大涅槃図を懸け、釈尊の遺徳を讃える。
2月21日 聖徳太子御忌・慧慈忌
2月22日 太子道をたずねる集い(磯長ルート)
3月2日 道詮忌
3月7日 推古天皇御忌
3月8日 良謙忌
3月17日 定朝忌
3月22日 - 24日 お会式 聖徳太子の命日にその遺徳を讃える法要。秘仏に近い扱いの聖徳太子坐像が開帳される。例年は聖霊院で行われるが、10年に1度、大講堂で「大会式」が行われる。独特の供物が捧げられる。雅楽の流れる中、寺僧たちが訓迦陀(くんかだ)と呼ばれる仏の徳を讃える声明(しょうみょう)を唱え、太子の徳を讃嘆する。
4月4日 仏生会 釈尊の誕生を祝う。食堂に釈迦誕生仏を安置し、甘茶をそそぐ。いわゆる「花祭り」(灌仏会)。
4月9日 用明天皇御忌
4月11日 夢殿本尊開扉法要
4月中旬 法隆寺文化講演会
5月16日 夏安居開白法要
5月16日 - 8月15日 夏安居 西室で90日間、聖徳太子の『三経義疏』の講義を行う。
7月7日 弁天会
7月24日 東院地蔵会
7月26日 - 29日 法隆寺夏季大学
8月14日 - 15日 盂蘭盆会
8月15日 夏安居結願法要
8月24日 閼伽井坊地蔵会
9月2日 覚勝忌
9月23日 彼岸会
10月2日 行信忌
10月8日 西円堂奉納鏡奉納大般若経転読法要
10月22日 - 11月23日 夢殿本尊秋季特別開扉
11月3日 崇峻天皇御忌・山背大兄王御忌、藤ノ木古墳参拝
11月3日 秋季 法隆寺文化講演会
11月13日 慈恩会 法相宗の高祖・慈恩大師基(窺基)のための法会。一時途絶えていたが、1978年(昭和53年)復興。
11月15日 勝鬘会
11月22日 太子道をたずねる集い(小墾田ルート)
12月8日 お身拭い
12月21日 間人皇后御忌
東大寺
興福寺
春日大社
春日山原始林
元興寺、薬師寺
唐招提寺
平城宮跡
奈良時代、平城京を中心に栄えた日本仏教の6つの宗派の総称。奈良仏教(ならぶっきょう)とも言う。
三論宗(さんろんしゅう、中論・十二門論・百論) - 華厳宗や真言宗に影響を与えた。開祖:恵灌、中心寺院は現存せず
成実宗(じょうじつしゅう、成実論) - 三論宗の付宗(寓宗)。開祖:道蔵、法相宗に取り込まれた
法相宗(ほっそうしゅう、唯識)開祖:道昭、寺院:興福寺・薬師寺
倶舎宗(くしゃしゅう、説一切有部)- 法相宗の付宗(寓宗)。開祖:道昭、華厳宗に取り込まれた
華厳宗(けごんしゅう、華厳経)開祖:良弁・審祥、寺院:東大寺
律宗(りっしゅう、四分律) - 真言律宗等。開祖:鑑真、寺院:唐招提寺、西大寺
「南都六宗」=「三論(さんろん)、成実(じょうじつ)、法相(ほっそう・ほうそう)、倶舎(くしゃ)、華厳(けごん)、律」
2024日本歴史
東大寺(とうだいじ、英: Todaiji Temple)は、奈良県奈良市雑司町にある、華厳宗大本山である日本の仏教寺院。山号はなし。本尊は奈良大仏として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)。開山(初代別当)は良弁である(造東大寺司)。
正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。現在の別当(第224世)は橋村公英。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、度々修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代中期の宝永6年(1709年)に規模を縮小して再建されたものである。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。
聖武天皇による東大寺大仏造立後に、国内では鎌倉大仏(現存)、雲居寺大仏(現存せず)、東福寺大仏(現存せず)、方広寺の京の大仏(現存せず)などの大仏も造立され、先発した東大寺大仏・大仏殿の造形、建築意匠・構造は、それらの大仏・大仏殿に対し多かれ少なかれ影響を与えた。ただし江戸時代の東大寺大仏殿再建の際には、上記とは逆に、同時代に京都に存在していた方広寺大仏殿を手本として、東大寺大仏殿の設計がなされた(後述)。
江戸時代には上記のうち、東大寺大仏(像高約14.7メートル)、鎌倉大仏(像高約11.39メートル)、京の大仏(像高約19メートル)の三尊が、日本三大仏と称されていた。
東大寺は1998年(平成10年)12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界文化遺産に登録されている。
『東大寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
大仏造立の詔は、近江国紫香楽宮 743年 (出題2024年)
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。
歴史
創建
興福寺の草創に関しては『興福寺流記』が収める「山階流記」が「旧記J・「宝字記」・「弘仁記」の三史料を引く形で記している。「宝字記」の記載によると、当寺は藤原鎌足の妻である鏡王女が鎌足の病気平癒を願い、山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)を起源とする。「興福寺の歴史」によると、鎌足は大化元年(645年)頃に釈迦三尊像を造立し、天智天皇8年(669年)に鏡大王(鏡王女)が山階陶原(すえはら)に山階寺を造営して鎌足の釈迦三尊像を安置したとする。この山階寺という寺名は鎌足を尊崇する意味において当寺の別称として以後も長く使わわれている。
その後、天武天皇元年(672年)に飛鳥浄御原宮に都が移ったのに伴い、寺も大和国高市郡厩坂に移転して厩坂寺(うまやさかでら)と号したという。
山階寺や厩坂寺については『日本書紀』には見えない。『続日本紀(続紀)』にも創建の記載はないが、同書の養老4年(720年)10月丙申条に「興福寺」の記載があるのが正史における初見である。山階寺や厩坂寺は『興福寺流記』中の「宝字記」に記載があるのみで史料が少なく、その比定地について諸説ある一方、存在自体に疑義を呈する見解もあり、これらは小規模な仏堂だったとする説もある。
和銅3年(710年)に平城京への遷都が行われると、厩坂寺は鎌足の子藤原不比等により平城京左京3条7坊(現在地)に移され「興福寺」と号した。ただし、興福寺の造営開始時期については諸説あり、興福寺の略史でも「和銅3年(710)はあくまで遷都の年であり、同年に興福寺の伽藍が完成したわけではない。」としている。「仏殿」は通常は金堂を指すとして『続日本紀』の「造興福寺仏殿司」の記載から中金堂造営を養老年間とする説もあるが、「旧記J・「宝字記」・「弘仁記」の三史料には養老年間の言及はないことなどから通説は和銅年間の創建とする[2]。また「宝字記」は単に「和銅年中」としていることから和銅3年は後世の潤色とする説もあるが、「旧記」をもとに不比等の強大な権力を背景に和銅3年の遷都と同時に造営に着手したとする説もある。
完成時期については、和銅7年(714年)3月に金堂(後の中金堂)が供養されたとする史料があり、この頃には金堂がうやく完成に近い姿であったと推測される。そして養老4年(720年)頃には中金堂、講堂、回廊、中門などの中枢伽藍がほぼ完成していたとみられている。
不比等が没した養老4年(720年)10月17日には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ(先述の『続日本紀』)、養老5年(721年)8月3日に元明天皇・元正天皇が不比等の慰霊のために長屋王に命じて北円堂を建立させている[3]。また、同日には不比等の妻・県犬養三千代も不比等のために一具の弥勒浄土変像を造立して金堂に安置している。元来、藤原氏の私寺である興福寺だが、その造営は国家の手で進められるようになった。こうした官司による私寺の造営は異例である[6]。
神亀3年(726年)7月には聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を祈念して東金堂を建立し、天平2年(730年)秋には聖武天皇の妻・光明皇后が五重塔を建立している。天平6年(734年)1月11日には光明皇后が母・県犬養三千代の菩提を弔うために西金堂を建立し、現在も残る乾漆八部衆像や十大弟子像などの諸像が安置されている。天平10年(738年)3月28日には山階寺(興福寺)に食封千戸が朝廷から施入されている。また、唐から帰国してきた玄昉が当寺に入ると、当寺での法相宗の興隆に大きな影響を与えた。
この頃には南大門、中門、回廊などの伽藍の中央部分も一部完成したか、あるいは施工にとりかかっていたと考えられている。その他、講堂、食堂、僧房なども含めて、おそらく天平16年(744年)までには完成したものと推定される。こうして現在の興福寺の伽藍がある西院は拡充された。続いて現在の興福寺本坊の東側に隣接する位置にあったと推定されている東院の伽藍も造営された[6]。天平勝宝元年(749年)5月20日に寺田百町が施入され、天平宝字元年(757年)12月8日には山階寺(興福寺)施薬院に越前国の水田百町が施入されている。
東院については、天平宝字5年(761年)2月に藤原仲麻呂(恵美押勝)が聖武天皇と光明皇后の慰霊のために西桧皮葺堂(西堂)が建立され、藤原仲麻呂の乱後の天平宝字8年(764年)9月11日に称徳天皇の勅によって造られた百万小塔が分置されたという東瓦葺堂(東堂、小塔堂)が建立され、藤原永手のためにその夫人と子息の発願によって宝亀2年(771年)2月22日に桧皮葺後堂(地蔵堂)が建立された[3]。東院伽藍にはさらに僧房と小子房が附属していたという。このように元明太上天皇、元正天皇、聖武天皇や光明皇后をはじめ藤原氏が関わった興福寺の造営は奈良時代後期にほぼ完了したものと考えられている。
弘仁4年(813年)に藤原冬嗣によって父の藤原内麻呂の追善供養のために南円堂が建立され、中心伽藍はこの仏堂の建立をもって完成した。
南都北嶺
当寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。また、神護景雲2年(768年)に藤原氏によってその氏神として創建された春日社(現・春日大社)は、同じく藤原氏の氏寺である当寺と次第に神仏習合の関係を築き上げた。当寺は「春日明神は法相擁護の神」と唱えて天暦元年(974年)より春日社頭での読経を開始し、本地垂迹思想が進むにつれて当寺は春日社との一体を主張するに至った。そして、保延元年(1135年)に春日若宮を創設すると、それ以来当寺による春日社の支配は強まり、明治時代になるまで神仏習合の信仰形態が続けられた。
こうした当寺と春日社との関係は、春日社の神威をかざしての神木動座・入洛強訴という手段に使われ、「山階道理」の言葉が生まれるほど朝廷・廟堂を悩ませた。例えば、寛治7年(1093年)の神木動座は、近江守高階為家に対するもので、近江国の春日社領の神人が凌打された報復として為家の流罪を強要し、土佐国に配流させた。このような神木動座・入洛はおよそ70回にも及んだ。
さらに、当寺は大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)に定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)に隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
しかし、当寺は創建以来、度々火災に見舞われその都度再建を繰り返してきた。特に中金堂は失火や兵火、落雷により七度も焼失している[9]。元慶2年(878年)に最初の焼失を経験し、以後、延長3年(925年)、寛仁元年(1017年)、永承元年(1046年)、永承4年(1049年)、康平3年(1060年)、嘉保3年(1096年)と立て続けに大小の火災にあった。なかでも、永承元年(1046年)12月24日の大火では北円堂を残して全山が焼失している。また、治承4年(1181年)12月28日には治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡による南都焼討による被害は実に甚大で、東大寺と共に大半の伽藍が焼失した。
この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走し、朝廷や藤原氏との交渉の結果平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。しかし、建物が完成している一方で本尊が出来ていないことに業を煮やした東金堂の衆徒が、文治3年(1187年)3月9日に飛鳥の山田寺に押しかけて金銅丈六薬師三尊像(現・銅造仏頭)を運び出し、完成していた東金堂の本尊として奉安するという行動を起こしている。
当寺はその後も建治3年(1277年)、嘉暦2年(1327年)、文和5年(1356年)、応永18年(1411年)に罹災しているが、その都度復興を遂げている。
鎌倉時代や室町時代には武士の時代になっても大和武士[注 2]と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉幕府や室町幕府は守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。しかし、宝徳3年(1451年)10月14日には徳政一揆に襲われて大乗院などが焼失している。
安土桃山時代になるとついに豊臣秀吉に屈することとなった。文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。また、江戸幕府からも寺領2万1,000石を認められている。
江戸時代になると当寺は衰退の兆しを示すが、これに拍車をかけるような大火に見舞われた。享保2年(1717年)1月にまたしても大火災が発生し、中金堂、回廊、中門、西金堂、講堂、僧房、南円堂、南大門などが焼失する近世最大の災禍となった。しかし、時代背景の変化もあって再建資金を捻出できず、大規模な復興はなされなかった。再興は進まず、南円堂が寛保元年(1741年)4月にようやく立柱すると、その後、文政2年(1819年)9月に町屋の篤志家達の寄付によって仮堂ではあるがようやく中金堂が再建された。
近現代
慶応4年(1868年)3月に神仏分離令が出されると、廃仏毀釈の時流の中で春日大社と一体関係にあった興福寺は大きく動揺した。同年3月末から4月にかけて興福寺住僧は門跡から仕丁に至るまで相次いで復飾願を出し、「新宮司」と呼ばれる春日社の神官として仕えることとなった。一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)。
興福寺は寺内から僧侶の姿が消えて空寺の状態となり、復籍して再興を図る動きや東大寺僧による管理の働きかけの動きもあったが、当寺と関係の深かった西大寺と唐招提寺に管理が任されることになった。
その後、1870年(明治3年)の太政官布告により、興福寺の寺領は堂塔やその敷地のみを残して没収され、宗名や寺号を名乗ることも認められなくなった。
1871年(明治4年)1月には旧一乗院門跡邸が借用の名目で没収され奈良県庁として供用されることとなった。主要な堂宇は学校や役所の庁舎に転用され、中金堂も中教院等に転用された。一乗院跡は現在は奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。
1872年(明治5年)に入ると廃仏毀釈による伽藍内の整理や処分は頂点に達し[11]、当寺では築地塀、堂宇、庫蔵等の解体撤去、諸坊の退転が相次いだ。「奈良市史」では同年9月には廃寺とされたとしており(『奈良市史 通史四』p.38)、五重塔も三重塔とともに売りに出されていたとしている。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手が付いたといわれ、当初買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうと考えていたというが、延焼を心配する近隣住民の反対で考えを変えたという。また延焼の心配だけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。しかし、五重塔売却の話自体が伝承の域を出ないという説もある。
当寺は、1875年(明治8年)5月から西大寺住職の佐伯泓澄によって管理された。そして1880年(明治13年)2月14日に旧興福寺境内は、築地塀が取り払われて樹木が植えられ奈良公園となった。
明治10年代になると興福寺再興の動きも出て、1880年5月には内務省に「興福寺復称宗名再興願」が提出された。藤原家の華族からも興福寺再興願が出されて、1881年(明治14年)2月9日に当寺の再興が許可された。そして同年9月に清水寺住職の薗部忍慶が兼務住職に任じられ、翌1882年(明治15年)4月に佐伯泓澄から引き継ぎを受けて管理権が返還された。1884年(明治17年)3月には金堂基檀から奈良時代の鎮檀具が発掘された。
1897年(明治30年)6月10日の古社寺保存法の発布で北円堂、三重塔、五重塔が特別保護建築物に指定された。1902年(明治35年)1月15日に五重塔が、1910年(明治43年)3月には三重塔の修理が完了した。
1937年(昭和12年)10月30日の東金堂解体修理中に銅像仏頭(旧山田寺講堂本尊像)が発掘された。
建築儀式 番匠
興福寺のような高貴な建物を建てる棟梁を「番匠」(ばんしょう)といい、2014年(平成26年)、興福寺において番匠棟上槌打という儀式が披露された。この儀式を保存するため、1968年(昭和43年)、番匠保存会が設立された。番匠は、建築の全てに携わるものに災いが起きぬよう邪気を祓い去る陰陽道の祭祀祭礼の儀法を持ち合わせ、戦国時代、陰陽師が迫害を受けても刀鍛冶と同様、高い地位に位置付けられた「番匠」が口述伝承し、のちに書物化した「木割書」(きわりしょ)から、家相は生み出されたものであると、名古屋工業大学名誉教授内藤昌は述べている。
伽藍
中金堂 - 2018年(平成30年)10月再建。
経蔵跡 - 基壇が復元されている。
鐘楼跡 - 基壇が復元されている。この位置にあったとされる鐘楼は、裾がスカート状に広がる「袴腰」をもつ姿であったことが近年の発掘調査で明らかになった。
廻廊跡 - 基壇が復元されている。
中門跡 - 基壇が復元されている。
仮講堂 - 仮講堂の建物は元は薬師寺の金堂で、慶長5年(1600年)に増田長盛によって建てられたものである。薬師寺に新たな金堂が建てられるために撤去されることとなったので、1974年(昭和49年)11月23日に屋根を入母屋造から寄棟造にし、向拝を撤去するなどの大改造を行って当寺の講堂跡の地に仮金堂として移築された。その後、老朽化していた中金堂の本尊・釈迦如来坐像などを移し、長らく仮金堂としての役目を負っていた。2000年(平成12年)に老朽化した中金堂を解体し、2018年(平成30年)10月に中金堂を再建すると、仮金堂は仮講堂と名称を改めて国宝館にあった阿弥陀如来坐像を新たな本尊として安置した。
梵鐘(国宝) - 奈良時代、神亀4年(727年)の銘がある。制作年の分かる梵鐘としては妙心寺鐘(698年)に次いで、日本で二番目に古い。現在は仮講堂に所在。
東金堂(国宝) - 応永22年(1415年)再建。
五重塔(国宝) - 応永33年(1426年)再建。
西金堂跡 - 西金堂は光明皇后が、母・橘三千代の一周忌に際し、釈迦三尊像を安置する堂として天平6年(734年)に創建した。平安時代に2回、鎌倉時代に1回被災したが、その都度再建されてきた。その後、江戸時代の享保2年(1717年)1月4日に講堂からの出火によって中金堂や南円堂と共に焼失した。この時は資金難の為に再建は叶わず、基壇を残すのみという状態になってしまった。そうして今は西金堂跡として往時を偲ぶばかりとなっている。ただ、堂内に納められていた寺宝には焼失を免れて今日まで伝えられているものが少なくない。釈迦如来像(伝・運慶作。体部は焼失し、今は頭部のみが国宝館に安置されている)、両脇侍像(薬王菩薩像と薬上菩薩像。今は中金堂に両脇侍像として安置)、梵天・帝釈天像(奈良時代の作。明治時代に国外へ流出し、今は米国サンフランシスコのアジア美術館(英語版)が所蔵)、十大弟子像(奈良時代作。今は10躯中の6躯を国宝館などに安置)、八部衆像(奈良時代の作。今は国宝館に安置)、金剛力士像(伝。定慶作。今は国宝館に安置)、四天王像(所在不明)、華原磐(「かげんけい」と読む銅製楽器で、奈良時代の作。今は国宝館に安置)などがそれである。
南円堂(重要文化財) - 寛政元年(1789年)再建。
興善院 - 子院。本来の興善院は菩提院東側にある菊水楼付近に存在した。
一言観音堂 - 南円堂の横にある。南都七観音巡拝所の一つ。明治期に竜華樹院地蔵堂を移築して諸仏を移した。一言念ずれば願いごとが叶うという観音を祀る。
不動堂 - 不動明王坐像などの他に西国三十三所観音霊場のそれぞれの札所の本尊を模した33体の観音像を祀る。
額塚 - 茶臼山と呼ばれる塚。かつて南大門には興福寺の山号であった「月輪山」と書かれた額が掲げられていたが、不思議なことが多々発生し、結局月輪という字が良くないとされてその額がここに埋められ、不思議なことも治まった。それ以来、興福寺は山号自体をなくしてしまった。
鐘楼 - 南円堂南側。6時・12時・18時に時を告げる打鐘がある。
興福寺会館 - 三重塔西側に建つ。佛教文化講座などの講演会や諸行事で使用される。
三重塔(国宝) - 鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。高さ19m、本瓦葺の三間三重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[25]。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。三重塔は康治2年(1143年)に崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建された。治承4年(1180年)の平重衡による南都焼討での焼失記録はないが、現在の塔は建築様式から大火後まもなく再建された鎌倉建築と考えられる。
北円堂(国宝) - 承元4年(1210年)再建。
北円堂廻廊跡 - 南側と東側の基壇が復元されている。
食堂及び細殿跡 - 食堂および細殿は奈良時代に創建され焼失と再建を繰り返したが、1874年(明治7年)、廃仏毀釈のあおりで興福寺が荒廃していた時代に取り壊された[40]。跡地には、1959年(昭和34年)になって寺宝を納める耐火式宝物庫「国宝館」が建設された。食堂と細殿の遺構は国宝館の地下にそのままの形で保存されている。
国宝館 - 1959年(昭和34年)築。
南大門跡 - 基壇が復元されている。
般若の芝 - 南大門基壇の南側に設けられている土壇。ここで興福寺薪御能が行われる。
五十二段 - 南大門と猿沢池を結ぶ石段。菩薩五十二位に由来している。
猿沢池 - 興福寺の南側にある池。かつては興福寺の放生池であった。
本坊 - 境内東方に位置する。興福寺の寺務を執り行う場所で一般には公開されていない。
大圓堂(持仏堂) - 明治時代建立。
木造聖観音立像(重要文化財) - 大圓堂の本尊。鎌倉時代の作。一般には公開されていないが、1997年(平成9年)に東京国立博物館で開催された「興福寺国宝展」で初めて展示されたほか、2007年(平成19年)10月20日 - 11月25日に寺内で初めて公開された。寺伝では聖観音像とされているが、像内納入文書によれば本来は弥勒菩薩像として、建長5年(1253年)に仏師の快円によって作られたものである。
庫裏
南客殿 - 天正年間(1573年 - 1592年)建立。
北客殿 - 嘉永7年(1854年)再建。東西に長い僧房・東室の伝統を受け継いでいる。
表門 - 天正年間(1573年 - 1592年)に建立された本瓦葺の四脚門を1907年(明治40年)に子院の菩提院の北側築地塀の西にあったものを移築したもの。
菩提院 - 現在残る子院の中で唯一位置が変わっていない。別名を「十三鐘」ともいう。五重塔の南、三条通りを渡ったところにあり、玄昉の創建[43]、または菩提を弔う所とされている。大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所。詳細は菩提院大御堂を参照。
大御堂 - 本堂。天正8年(1580年)再建。1970年(昭和45年)に改築され、内陣は鉄筋コンクリート造とされた。本尊・阿弥陀如来坐像(重要文化財)などを安置する。
鐘楼 - 梵鐘は永享8年(1436年)造。
三作塚 - 死刑となった三作を祀る。
庫裏
大湯屋(重要文化財) - 五重塔の東方に建つ風呂場。応永33年(1426年)再建[44]。平面は桁行四間、梁間四間。屋根は一重、本瓦葺で、西面を入母屋造、東面を切妻造とする。1953年(昭和28年)3月31日 、文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている。
『興福寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA
平安時代
◎世界文化遺産『古都京都の文化財』の寺は日本の世界遺産の項へ
構成資産の寺:
教王護国寺(東寺)(京都市南区)
清水寺(京都市東山区)
延暦寺(滋賀県大津市坂本本町・京都市左京区)
醍醐寺(京都市伏見区)
仁和寺(京都市右京区)
平等院(宇治市)
高山寺(京都市右京区)
西芳寺(苔寺)(京都市西京区)
天龍寺(京都市右京区)
鹿苑寺(金閣寺)(京都市北区)
慈照寺(銀閣寺)(京都市左京区)
龍安寺(京都市右京区)
本願寺(西本願寺)(京都市下京区)
「最澄と空海」として2022年に出題
空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。諡号は弘法大師(こうぼうだいし)。真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)。宝亀5年(774年)[注釈 1]、讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県)で生まれたという説がある。
日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭(へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家でもあり、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている。
仏教において、北伝仏教の大潮流である大乗仏教の中で、ヒンドゥー教の影響も取り込む形で誕生・発展した密教がシルクロードを経て中国に伝わった後、中国で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを、体系立てた形で日本に伝来させた人物でもある。(空海Wikipedia)
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空海(くうかい)
平安時代の僧。弘法大師。灌頂名遍照金剛。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。讃岐(さぬき)の人。俗姓佐伯氏。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。儒学などを修め,18歳の時《三教指帰(さんごうしいき)》の原本を著し仏教に入る。勤操(ごんそう)について南都仏教を学び,次いで国内の難所で修行したと伝える。804年入唐。長安で青竜寺恵果について密教を学び,3年後帰国。高野山,東寺を密教の根本道場とし,各地を巡歴。東大寺別当を兼ね綜芸(しゅげい)種智院を創設,密教を宗派として確立した。その教義は《弁顕密二教論》《十住心論》などに,その文学は《性霊集》《文鏡秘府論》などに著され,書においては三筆の一人で《風信帖》《灌頂歴名》などは至宝とされる。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
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真言宗 真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ中国密教(唐密)を基盤としている。
空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつも密教を最上位に置き、十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に包摂されることを説いた。
天台密教を台密と称するのに対し、真言密教は東寺を基盤としたので東密と称する。 教王護国寺(東寺真言宗総本山)を総本山としている。
平安時代初期の大同元年(806年)、空海が中国(唐)より帰朝。その後空海は、弘仁7年(816年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創。弘仁14年(823年)には、嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺を真言宗の根本道場として宗団を確立した。
真言宗は即身成仏と密厳国土をその教義とする。
中心とする本尊は、宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来。
教理として、4つ。六大(六大縁起)の教え、曼荼羅の教え、三密修行と、上記の即身成仏が有る。
教学として、大日経の教学と、金剛頂経の教学、2つの お経で説かれる教えが、根本所依とされる。
(真言宗Wikipedia)
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四国八十八箇所(ヶ所) 四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88か所の仏教寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所である。他に「八十八箇所」「お四国さん」「本四国」などの呼称がある。四国八十八箇所を巡礼(巡拝)することを四国遍路、遍路といい、また四国八十八ヶ所霊場会では「四国巡礼」といい、他に「四国巡拝」などともいう。俳句では春の季語となり、地元の人々は巡礼者を「お遍路さん」と呼ぶ。また、札所に参詣することを「打つ」、巡礼に親切にすることを「お接待」と表現する。
阿波国(現・徳島県)の霊場は「発心の道場」で23か寺、土佐国(現・高知県)の霊場は「修行の道場」で16か寺、伊予国(現・愛媛県)の霊場は「菩提の道場」で26か寺、讃岐国(現・香川県)の霊場は「涅槃の道場」で23か寺が、88の霊場寺院の内訳である。
2015年(平成27年)4月24日には、日本遺産の最初の18件の一つとして「四国遍路ー回遊型巡礼路と独自の巡礼文化」が文化庁により認定された。2019年10月29日には、同庁により「歴史の道百選」に「四国遍路」が選ばれた。
四国八十八箇所は単に88の寺院の総称ということだけでなく、室町時代以降に定められたとみられる88の寺院と急峻な山や深き谷を巡り、その間にある仏堂を残らず巡る488里の修行のことであり、江戸時代頃から一般庶民も巡礼するようになってからは現生利益を求めて88の寺院を巡る300有余里の札所巡拝のことである。また、江戸時代頃から西国三十三所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになり、そのうちの一つが四国八十八箇所である。
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。 時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。
昭和30年代頃までは「辺土」と呼ばれ、交通事情も悪く、決して今日のような手軽なものではなかった。今日でこそその心理的抵抗は希薄になっているが、どこで倒れてもお大師の下へ行けるようにと死に装束であり、その捉え方も明るいイメージではなかった。しかしながら、次第に観光化の道を歩み始める。
遍路をするに当たり予約や届け出などをする必要がなく、いつどの札所から始めても終わっても自由である。遍路は順番通り打たなければならないわけではなく、各人の居住地や都合により、どの寺から始めてもよく、移動手段や日程行程なども様々である。一度の旅で八十八箇所の全て廻ることを「通し打ち」、何回かに分けて巡ることを「区切り打ち」といい、区切り打ちのうち阿波、土佐、伊予、讃岐の4つに分けて巡礼することを特に「一国参り」という。また、順番どおり廻るのを「順打ち」、逆に廻るのを「逆打ち」という。近年は順序にこだわらず打つことを「乱れ打ち」という。一般的には順打ちによる道案内がなされており、逆打ちは道に迷うといった苦労も多いため多くの御利益があるともいわれていたが[3]、現在はどちらからでも見やすいように標識が設置され、さらにカーナビゲーションの普及によりどこからでも回れるようになっている。
統計が取れないため人数は定かではないが、巡礼者数は年間10万 - 30万人(うち歩き遍路が2500 - 5000人)ともいわれる。
外国人も増加傾向にあるとみられる。87番長尾寺と88番大窪寺の間にある四国遍路に関する資料館でゲストブックに記入した外国人遍路は2013年度の160人、2014年度は404人、2015年度は429人、2016年度は448人。アメリカ合衆国、フランス、台湾、カナダの順で多かった。また、外国人遍路へのサポートとして各札所への英会話カードの配置を進めている人も現れた。
米紙『ニューヨーク・タイムズ』が2015年1月に掲載した世界の観光地ベスト52で「四国と遍路」が35位にランクされている[15]。
2018年11月に四国経済連合会などが行った調査では、国内の巡礼者は10年前比で平均38%減少しており、70%減少していると回答した寺もある。一方、外国人巡礼者が「増えた」と回答した寺は9割以上であった。
1番から23番は阿波国(徳島県)、24番から39番は土佐国(高知県)、40番から65番は伊予国(愛媛県)、66番から88番は讃岐国(香川県)に位置する。ただし、66番雲辺寺は、行政区画上は徳島県に属する。
東寺では「四国八十八箇所の出発寺」として案内している。
白衣(笈摺 (おいずる))・輪袈裟・金剛杖・菅笠・納札(おさめふだ(般若心経))・同行(どうぎょう)二人(ににん)・打つ・南無大師遍照金剛・宝号・十善戒・お接待・善根(ぜんこん・ぜごん)宿・通夜堂・いざり車・土佐は鬼国・橋の上では杖をつかない・関所寺・開創1200年記念事業・世界遺産化の動き
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四国八十八箇所巡り参拝方法 遍路(巡拝者)は札所に到着すると、およそ決められた手順(宗派や指導者によって多少異なる)に従って参拝する。それは、山門前で合掌礼拝一礼し、手水舎でお清めをしたのち、表示などで可能であれば鐘楼堂にて梵鐘を一回突く(参拝後には突かないこと)。そして、本堂において燈明・線香・賽銭奉納をして納札(おさめふだ、後述)を納める、また、写経を納めることもある。続いて般若心経や本尊真言、大師宝号などの読経を行い、祈願する。次は大師堂に向い燈明・線香・賽銭奉納をして納札を納め、般若心経や大師宝号などの読経を行い、祈願する。なお、最近は唱える者は希になったが本堂では寺の御詠歌を、大師堂では弘法大師の御詠歌を唱える。
その後、境内にある納経所にて、持参した納経帳や掛軸や白衣に、札番印、宝印、寺号印の計3種の朱印と、寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字の種字などを墨書してもらい、各寺の本尊が描かれた御影(おみえ)を頂き、納経料を支払う。この一連の所作を納経という。なお、納経帳への納経は一人につき1冊で、同時に掛け軸も1幅、白衣も1着ずつであり、一日に一度限りである(翌日以降なら可能)。白地に黒印字の御影は漏れなく頂けるが、カラー御影は、別途有料で販売している。また、弘法大師の50年ごとの生誕・入定や開創記念などで散華やカードの配付およびスタンプの押印が期間限定で行われる(詳細は下記の四国八十八箇所霊場会の項で)。最後は山門前にて合掌礼拝一礼し、次の札所へのお参りとなる。八十八箇所を全て廻りきると「結願(けちがん)」となり、どの札所から初めてもよいので88番目の札所が結願寺となる。
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大師信仰 宗祖・空海(弘法大師)への敬慕が篤く、10世紀には高野山で空海の入定信仰が起こり、弘法大師信仰(大師信仰)を説いている。
弘法大師信仰の高まりのなかで、稚児大師、修行大師、入定大師、鯖大師、秘鍵大師、日輪大師などで信仰の対象になった。
宗祖・空海は、讃岐国屏風浦(現・香川県善通寺市)の出身で、仏教者であるとともに思想家、著述家、また「三筆」の1人に数えられる能書家として、後の日本文化に多大な影響を与えた人物である。彼は延暦23年(804年)、遣唐使船に同乗して唐に渡り、長安・青龍寺の恵果から密教の奥義を授かった。また、唐で多くの仏典、仏具、仏画などを得、日本へ請来した。
弘仁7年(816年)には高野山(和歌山県伊都郡高野町)の地を得て、ここに金剛峯寺を開創、弘仁14年(823年)には、平安京の官寺であった東寺を嵯峨天皇より下賜され、これら両寺を真言密教の根本道場とした。
835年(承和2年)3月21日に、62歳で高野山で入定した。空海が入定してから86年後の延喜21年(921年)に、弘法大師の諡号が醍醐天皇より贈られた。(真言宗Wikipedia)
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設問対策
〇善通寺 空海が父・佐伯善通を供養するために創建(807年)。善通寺市には四国八十八箇所が多く(5霊場)点在。鎌倉時代に入って天皇や上皇からの庇護や荘園の寄進を受けた。四国八十八箇所霊場の第七十五番、真言宗十八本山一番札所。和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられる。 →重要な寺ではあるが、八十八箇所最後の結願の寺ではない(現在はどの札所から回り始めても良いので自分が88か所目に訪れた寺が結願の寺だが)。善通寺では「満願」の証がもらえる。お礼参りとして結願寺から高野山の奥の院御廟に詣でて、全ての札所を参ることができたことを弘法大師に報告・感謝をして満願成就 となる。
〇札所においては、御朱印と各寺のご本尊が描かれた御影(おみえ)がいただける。空海のお姿ではないので注意。
〇石手寺 愛媛県松山市にある真言宗豊山派の寺院。本尊は薬師如来。四国八十八箇所第51番札所。遍路の元祖とされる衛門三郎の再来伝説ゆかりの寺でもある。初詣・厄除詣の参詣者数は県内随一であり、道後温泉から近いため、遍路の他にも、観光客で賑わうことが多く、2009年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において1つ星に選定された。(Wikipedia)
国土交通省松山下線国道事務所のHPや個人のブログなどには、この寺の弘法大師像が安置されている大師堂の壁に正岡子規や夏目漱石ら文人たちの落書きがかつてあったことが記載されている。(現在は塗りつぶされている)
〇屋島寺 屋島の南嶺山上(香川県高松市屋島東町)にある真言宗御室派の寺院。四国八十八箇所霊場の第八十四番札所。 律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。 815年(弘仁6年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947年~57年)明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置した。
〇霊山寺(りょうぜんじ) 徳島県鳴門市にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第1番札所である。山号は竺和山(じくわさん)、院号は一乗院(いちじょういん)と号する。本尊は釈迦如来。とくしま88景に選定されている。2015年4月24日、当寺は「四国遍路」-回遊型巡礼路と独自の巡礼文化- の構成文化財として、日本遺産に認定されていて、四国八十八箇所の88の寺院と阿波遍路道・土佐遍路道・伊予遍路道・讃岐遍路道で構成された文化財の一つである。寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された。
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ、21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け、持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている。また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像であり、2014年(平成26年)に4か月間開帳された。
〇大窪寺 香川県さぬき市多和兼割にある真言宗の寺院。医王山(いおうざん)遍照光院(へんじょうこういん)大窪寺と号する。本尊は薬師如来。 四国八十八箇所霊場の第八十八番札所であり、納経印は「結願所」(けちがんしょ)となっている。本寺では結願証明書(賞状)を有料で書いてもらうことができる。
寺伝によれば、奈良時代の養老年間(717年 – 724年)に行基がこの地を訪れたとき悪夢を感得し草庵を建て修行をしたのが開基とされ、弘仁年間 (810 – 823) に唐から帰朝した空海(弘法大師)が現在の奥の院にある岩窟で虚空蔵求聞持法を修し、谷間の窪地に堂宇を建て等身大の薬師如来坐像を刻んで安置し、また恵果阿闍梨から授かった三国伝来の錫杖を納めて、窪地にちなみ「大窪寺」と名付けたとされている
参考→「弘法水の部屋」河野 忠(コウノ タダシ)様(学位論文「弘法水の水文科学的研究」要旨) https://web.archive.org/web/20120527220447/http://www.nbu.ac.jp/~kono/museum/kobo/kobo.htm
弘法大師伝説の水について
空海は、生誕1250年。書の達人(5つの書が国宝として伝わっている)、3か国語を自由に操る、10年かかる修行を3か月で極めた。天皇から庶民まで幅広く慕われた。
817年高野山金剛峰寺を開く。
空海(弘法大師)の偉業は、全国3000か所で伝わる。「国家は空海の護持に頼り 動植物に至るまで空海の護持を受けてきた」(後太上天皇(淳和)の弔書)
高野山には武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉ら空海の偉業を慕った武将たちの墓がある。
空海は、密教の中だけに即身成仏、すなわち生きたままで仏の悟りに近い境地に至るという教えがあるのだと説いた。当時は無限に近い時間を費やすことで死後に成仏できるとされていたため、画期的な教えだった。疫病が蔓延し、さらに飢饉も発生し、人々は救いのない状態であった。南都、すなわち従来の仏教は仏教を研究して国家をまもる存在であったので、人々を救う事には関心がなかった。しかし、密教の即身成仏の教えは人々の心の支えになり広く慕われることになった。
また、具体的に堤防の改修(香川県満濃池)(空海は中国で土木技術も学んだと言われる)に画期的な技術(アーチ形)を指揮したりなど民衆の助けになった。
どうしたら中国で自分が学んだことを伝えて人々の幸せを祈れるかを考えて高野山に弟子たちの修行の場を作った。天皇も人々を助けるために空海を助けた。
空海は都にあった貴族の学校ではなく、一般の民衆が将来身を建てるための無料の学校(綜芸種智院しゅげいしゅちいん)も作った。
空海の持ち帰った中国の書物は461巻。空海は密教は奥深いので(「密蔵深玄」)密教を完全に理解するためにはこれらの本の内容を深く読み込まないとならなかったと言った。
インドネシアで使われたのは30セットで1つの仏像群。中心に大日如来(万人救済)を置き、その周りに役目分担された仏を回りに放射状に置いた。密教の世界観を実感するツールだったと言われる。ボロブドゥール遺跡もまさにそれであった。
しかし空海はさらに手軽な密教の教えを広める持ち運びツールとして空海は中国から巨大な胎蔵曼荼羅(両界曼荼羅図)を持ち帰った。9つのブロックに分かれ、大日如来になるプロセスが9ブロックに分けて道筋が描かれているので、一度見ただけで成仏することができるとした。
空海は、即身成仏を「重重帝(たい)網名即身(重重帝網なるを即身と名づく)」(空海『即身成仏義』)と説明している。これは、密教を理解するためには顕教の知識が必要であり、仏の境地に至ると物事の見え方が変わるという事である。番組ではガラス玉を使って即身成仏の世界を体感する実験をしていた。それぞれの人間を玉に例えて、玉が無数にある(重重帯網)が、すべての物がすべて関わっており、お互いに支え合っている、その支えられているものに行動を起こしていこうというのが即身成仏と説いた。
空海伝説 空海の伝説は北海道から鹿児島まで46都道府県(沖縄県を除く)に残されている。伝説の数はおよそ3000。富山県上市町護摩堂地区には弘法大師の清水がある。水源がない村のために杖を突きたてると清水が湧き出る。実際には行っていない可能性がある場所にも空海伝説があるのは、高野聖(平安末~江戸。日本全国を勧進してお金寄付)をあつめ、かわりに木製五輪塔にその土地の人の先祖の骨を入れた先祖供養のための木製五輪塔を高野山に収めた)が空海の話を全国に伝えたためと考えられている。高野聖が生まれたのは、落雷による火災で壊滅的な被害が生じ、再建の資金を募るためお大師さんの画像を持ってお大師さんの偉業を伝えながら(PR)、各地を巡ったためだった。それが各地に空海伝説が広まる原因となっていった。各地の名所に空海を関わらせた説法をして空海伝説を作っていったのではないかと番組では紹介していた。
空海がいまだそこで生きて修行を続けていると言われている高野山の奥之院に至る道には小さな石にも見える墓が約70万もあるが、それは空海を慕った名もなき庶民の墓である。
参考:NHK歴史バラエティー『歴史探偵 平安のスーパースター空海』(NHKプラス)(4月17日放送)
https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024041713938
(2024/4/24まで配信)
参考:『後世の伝説へ繋がる六国史に書かれた空海の最期』JBPRESS
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62637
参考:『即身成仏義の思想と構造(村上)』(高野山大学密教文化研究所) https://www.koyasan-u.ac.jp/laboratory/pdf/kiyo05/5_murakami.pdf
徳島から時計まわりで香川に至る。
徳島(阿波)→高知(土佐)→愛媛(伊予)→香川(さぬき)
参考動画『高野山開創千二百年いのちを紡ぐ 空海 共生の思想』アマゾンプライムビデオ https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B64XCYKV/ref=atv_hm_hom_c_TbVpuk_8_2?jic=8%7CEgRzdm9k
「最澄と空海」として2022年に出題
【最澄】
[生]神護景雲1(767).8.18. 近江,古市
[没]弘仁13(822).6.4. 比叡山
日本天台宗の開祖。三津首百枝 (みつのおびとももえ) の子。幼名は広野。 12歳で出家,14歳で得度,法名を最澄とした。 19歳のとき比叡山に登り,草庵を構え思索の生活に入る。延暦 21 (802) 年,桓武天皇から入唐の勅命を受け,同 23年入唐,天台山で行満から天台の教えを受け,また禅法,大乗菩薩の戒法,密教を学び同 24年帰国。密教を伝えるために高雄山寺に灌頂壇を設け,翌年天台宗としての年分度者を許された。弘仁 10 (819) 年比叡山に大乗戒壇建立を奏上したが,南都六宗の反対で許されず,同 13年寂。死後7日目に建立の勅許を得た。貞観8 (866) 年伝教大師の諡号を贈られた。日本最初の大師号である。主著『守護国界章』 (818) ,『山家学生式』 (818~819) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『最澄』
【顕戒論】
最澄の著作。3巻。弘仁 10 (819) 年成立。大乗戒壇設立に対する南都諸宗の論難に対し,大乗戒が経論に基づいた根拠あるものであることを説き明かし,新教団の設立許可を時の政府に訴えたもの。日本の天台宗が成立するための根本理論が述べられている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
【天台宗】
中国,隋の智 顗を開祖とする仏教宗派。『法華経』の教説に基づいて五時八教の説を唱え,観法によってすみやかに成仏することを説く大乗仏教の一派。智 顗の著書『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』 (三大部) によって天台宗の教義が確立した。日本へは伝教大師最澄が延暦 23 (804) 年入唐し,天台山国清寺の道邃和尚から伝法を受けて翌年帰国し伝えた。比叡山延暦寺を中心に多数の優れた僧を生み,日本仏教の一大勢力を形成した。鎌倉新仏教の興隆,織田信長の叡山焼打ちなどにより衰微したが江戸時代には復興した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
【延暦寺】
滋賀県大津市にある天台宗の総本山。山号は比叡山。根本中堂 (国宝) をはじめ,大講堂,戒壇院,釈迦堂,山麓の滋賀院などの百有余の堂や塔がある。延暦4 (785) 年に伝教大師最澄が比叡山寺と名づけたが,弘仁 14 (823) 年に嵯峨天皇の勅により延暦寺と改称した。その後次第に堂や伽藍が増築され,平安末期には一山三千余坊といわれるほど栄えた。正暦4 (993) 年に智証大師の門徒が園城寺に拠って寺門と称し,山門と呼ばれる延暦寺と争った。この頃から僧兵をたくわえ強大な権力をもつようになったが,元亀2 (1571) 年に織田信長により焼打ちにあい,僧もほとんど殺された。しかし天正 12 (1584) 年には豊臣秀吉が復興を命じ,寛永 17 (1640) 年には根本中堂が再建され,元の景観になった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2022年に出題
滋賀県南西部,大津市中部の旧村域。比叡山東麓にある。 1889年村制施行。 1951年大津市に編入。平安時代から室町時代にかけて延暦寺の門前町,琵琶湖の要津として栄えたが,織田信長の比叡山焼き打ち以後衰え,江戸時代再び門前町として復活。現在も天台宗の宗務庁,延暦寺の各里坊,日吉大社 (東西本宮の各本殿は国宝,境内は国指定史跡) などがある。山王祭は有名。湖岸の唐崎の松は「唐崎夜雨」で知られる近江八景の一つ。
コトバンク『坂本』 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
重要伝統的建築物群保存地区『坂本』→ https://www.denken.gr.jp/archive/otu-sakamoto/index.html
信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来【いっこうさんぞんあみだにょらい】(善光寺如来)を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、また民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。当寺は特定の宗派に属さない無宗派の寺であり、全ての人々を受け入れる寺として全国に知られますが、現在その護持運営は大勧進【だいかんじん】を本坊とする天台宗と、大本願【だいほんがん】を本坊とする浄土宗の両宗派によって行われています。御本尊の一光三尊阿弥陀如来とは一つの光背の中に三尊(中央に阿弥陀如来、両脇に観世音菩薩、勢至菩薩)が配置された様式で「善光寺式阿弥陀三尊像」とも呼ばれます。
『善光寺』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%85%89%E5%AF%BA
善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町に存在する無宗派の単立仏教寺院。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務め、実際の護持・運営は天台宗と浄土宗が担っている。
本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)で、絶対秘仏である。近年は七年に一度とされている開帳は前立本尊(まえだちほんぞん)で行い、本堂前には触ると御利益(ごりやく)が得られるとされる回向柱(えこうばしら)が建てられる。
この善光寺如来は由緒ある仏像として権威の象徴とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。
昔から多くの人々が日本中から善光寺を目指して参詣し、「一生に一度は参れ善光寺」と言われた。長野市の中心市街地は善光寺門前町を含み、長野市ほか北信に広がる長野盆地は「善光寺平」とも呼ばれる。
概要
山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。現任の善光寺貫主(大勧進貫主)は2022年(令和4年)6月17日に就任した、大勧進副住職の第104世栢木寛照。善光寺上人(大本願上人)は2025年(令和7年)4月9日に就任した東京都青山善光寺住職の第122世川名観惠である。
古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。
特徴として、日本の仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済が挙げられる。そのため、江戸時代には女性の参詣者が非常に多いという特異な現象があった(昔、女性の旅行者はまれだった)。また、善光寺参詣で得られるのは現世利益ではなく、死後の極楽往生だった。身分も男女も善悪も問わず、どんな人でも必ず極楽往生できるという善光寺の特色が、全国から人々をひきつけたと言える。
本尊の一光三尊阿弥陀如来像は丈一尺五寸で、三国渡来の絶対秘仏の霊像とされ、本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、「お朝事」と呼ばれる朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が十数秒ほど上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。
数えで7年に1度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。また、日本百観音(西国三十三所、坂東三十三観音、秩父三十四観音)の番外札所となっており、秩父三十四観音の三十四番水潜寺で百観音結願となった後には「結願御礼として長野の善光寺を詣でる」といわれている。
歴史
善光寺の創建と発展
善光寺の正確な創建年は不明であるが、日本への仏教公伝直後に遡る伝承がある。本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、仏教が生まれた天竺(インド)の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済経由で聖王(聖明王)から日本に献呈された最古の仏像とされる。廃仏派の物部氏によって難波の堀江に捨てられるが、本田善光(若麻續東人とも言う)に拾われ(一説に和光寺)、南信濃の元善光寺(現在の長野県飯田市)へ、次いで現在地に遷座したと伝えられる。
実際の創建時期について有力な説としては、善光寺は天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡衙隣接寺院、信濃国水内郡は金刺舎人)の一つで、金刺氏が創建に関わったという説である。『伊呂波字類抄』引用の善光寺古縁起に、「皇極元年(642年)若麻績東人、水内郡の宅を改めて草堂となす」とあるように、善光寺は元々「草堂」であったとされる。しかし、後に瓦葺きとなった。
善光寺に用いられていた「川原寺式瓦」は、地方豪族のいた地域(品部や名代などの王権や中央豪族の部民が存在しない地域)のみに存在していることから、善光寺は地元の豪族(金刺氏)の影響を強く受けていると考えられる。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが、境内の遺跡から出土した古代寺院の古瓦は9世紀の物と鑑定されている[13]。これらのことから、遅くても平安時代初期頃までには瓦葺きの建物を持つ寺が現在地にあったのは確かなことであり、おそらくは金刺氏かその一族である若麻績氏が建立したのであろう。善光寺が草堂から瓦葺の寺院となったのは、壬申の乱の影響であり、多品治が同族である金刺氏や他田氏を率いて功績を残したことがきっかけであるとされる。
善光寺の名は開祖の本田善光の名を取ったといわれる。しかし、古い善光寺縁起には本田善光という名が出てこない。本田善光の存在自体が創造であるとするなら、善光寺はなぜ善光寺と名付けられたのか。一説には百済王善光からというものであり、奈良時代には百済王善光は百済系渡来人の祖として崇められるようになったという。善光寺を建てたと考えられる金刺氏の一族は、百済に渡航して活躍し、百済滅亡後は日本へ帰ってきて官吏として仕えた者もある。そこで百済王善光から名を取って善光寺としたのではないかと思われる。
「善光寺」の名が初めて登場する文献は、10世紀中ごろに成立したとされる『僧妙達蘇生注記』であり、「善光寺縁起」に関する一番古い記録があるのは『扶桑略記』(1107年以前成立)。また歴史上、善光寺に参詣したことが確認できる最古の人物は、摂政・関白藤原忠通の息子・藤原覚忠(1118年 - 1177年)である。ただし、善光寺が平安時代頃までほとんど無名だったのは、『今昔物語』に信濃の寺がいくつも出てくるのに、善光寺の名が一つも出てこないことからもうかがえる。
当時の信濃国という辺境の地なのにもかかわらず、仏教が普及したのは、善光寺平に渡来人が多く住んでいたために仏教に対する知識を有する人間がいたり、実際に仏教を信仰する人がいたりしたからであると考えられる。
善光寺縁起は、『扶桑略記』で記されているのをはじめに、時代を経るごとに追記や改変がされていった。院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる552年から丁度50年後の602年(推古天皇10年)に若麻績東人(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に166年を経た768年(神護景雲2年)に至ったことが記されている。『伊呂波字類抄』が参照した原典は、768年に書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)、768年前後には称徳天皇・道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている。
頼朝の善光寺参詣と北条家の信仰
治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺には大火災が発生している(『吾妻鏡』文治3年7月27日条)。記録に残る最初の火災である。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われている。善光寺縁起によれば、原因は落雷である。
その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして、文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護兼目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ(『吾妻鏡』同年7月28日条)、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。
頼朝が長く暮らしていた関東では善光寺信仰が盛んで、頼朝も妻の北条政子も早くから善光寺信仰を抱いていたらしい。頼朝が善光寺復興に非常に熱心だったのはその信仰心のあらわれでもあるが、またそれによって人心を掌握しようとしたためである。この時代には善光寺信仰が既に広く行き渡っていたことがわかる。
その後も鎌倉幕府及び執権北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時(北条朝時)は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。
善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏や禅宗と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった[22]。この時代、善光寺信仰が全国に爆発的に広まった。鎌倉時代以降、信仰者が「夢で見た」とされる善光寺本尊を模した像(善光寺式阿弥陀三尊)が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。
さらに、普及に寄与したのは善光寺聖と呼ばれる勧進聖たちによってである。彼らは各地に出向き、背負ってきた厨子の扉を開いて善光寺如来の分身仏の開帳をし、さらには善光寺縁起絵伝を広げて絵解きをすることによって、善光寺信仰を広めた。これは江戸時代に始まる「出開帳」の基礎となった(後述#御開帳参照)。善光寺は鎌倉時代に二度、室町時代には四度火災に遭い、その度に再建された。これらの再建は年月を要したので、勧進聖の活動は恒久的なものになった。
後深草院二条の『とはずがたり』には半年余にわたり、善光寺付近の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。文永2年(1265年)にはそれまで在地の有力者に任されていた善光寺警固のための奉行人制度が廃止されて和田石見入道仏阿、窪寺左衛門入道光阿、原宮内左衛門入道西蓮、諏訪部四郎左衛門入道定心の4氏が解任され、鎌倉幕府が直接統制に乗り出した(『吾妻鏡』文永2年11月20日条)。またこの時代には現在につながる門前町が形成された。
鎌倉幕府の崩壊後は建武政権側と反対勢力に地元豪族達が分かれて争った。中先代の乱、観応の擾乱といった南北朝戦乱に続いて、室町時代の大塔合戦では地元豪族が結束して守護を追い出し、漆田原の戦いでは守護家が後継を争うなど、内続く戦乱に善光寺も巻き込まれる。
戦国時代の善光寺平は、甲斐国(現在の山梨県)から信濃へ侵攻してきた武田晴信(信玄)と、北信国衆を庇護する越後国(現在の新潟県)の上杉謙信による争いの舞台となり(川中島の戦い)、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺如来は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。通説では、上杉氏による戦災からの保護を口実として、武田信玄により善光寺は善光寺別当の栗田氏と共に、寺ごと武田氏居館のある甲斐国甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の山梨県甲府市にある甲斐善光寺であるとする。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊や仏具は高梨氏によって越後国の十念寺(浜善光寺)に移された後、上杉景勝の米沢藩への国替えによって現在は山形県の法音寺 (米沢市)と熊野神社 (南陽市)にあるとされる。
善光寺如来は由緒ある像として権威の象徴とも見なされ、上記を契機として、甲斐国・信濃国を占領下(影響下)に置いた戦国大名はこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させるようになった。善光寺如来は武田氏が織田信長に滅ぼされると(甲州征伐)、その嫡男・織田信忠によって美濃国岐阜(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とした。自領内の寺院に善光寺如来を遷座させた武田氏や織田氏は没落したこと、とりわけ織田氏が善光寺如来を岐阜へ遷座させた直後に本能寺の変が発生し、信長・信忠父子が自刃に追い込まれたことから、善光寺如来を私利で外部へ持ち出すと祟られるとする噂がまことしやかに囁かれるようになり、徳川家康が甲斐善光寺に善光寺如来を返還したのは、祟りを恐れたためとも言われる(この頃家康は背中の腫れ物で苦しみ、一時重篤になったという)。
ただし『家忠日記』には美濃から甲斐へ直接移すとする記述があり、家康が遠江鴨江寺に遷座させたとする通説に、疑問が呈されている。『甲斐善光寺建立記』にも古縁起にある上記の経緯を紹介しつつも、他の記録や言い伝えの裏付けが取れないとして、採用は難しいとある。
1597年(慶長2年)には、豊臣秀吉の命令により、甲斐から京都の方広寺大仏殿へと移された。これは文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)に起きた慶長伏見地震により損壊した方広寺大仏(京の大仏)に代わる、新たな本尊を方広寺に迎えたいとの秀吉の意向によるものである(地震で大仏は損壊したが、大仏殿は損壊を免れた)。秀吉はまず損壊した大仏の解体を命じた。『義演准后日記』慶長2年(1597年)5月23日条には「今日大仏へ太閤御所御成、本尊御覧、早々くすしかへの由仰云々 (秀吉公が大仏を御覧になり、早く取り壊せなどと命じた)」とする記述があるほか、キリスト教宣教師ぺドウロ・ゴーメスの書簡には「自身の身すら守れぬ大仏が人びとを救えるはずもないとして、大仏を粉々になるまで砕いてしまえと命じた」と記録される。大仏を取り壊したのち、平内吉政に命じてその台座上に宝塔(厨子のようなものか?)を造らせ、そこに善光寺如来が安置された。また無傷であった大仏の光背はそのまま残されていた。これ以後、方広寺大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり(『鹿苑日録』『義演准后日記』)、如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった。ただ巨大な大仏殿に小ぶりな善光寺如来は不釣り合いであり、その異様さを嘲笑する声もあったという。相国寺の僧西笑承兌は自身の日記の中で、方広寺の本尊が巨大な大仏から小振りな善光寺如来に替わったことは、天下人が織田信長から豊臣秀吉に替わったことの如くだと評した(秀吉は小人物に過ぎないとする皮肉とも言われる)。
善光寺如来の遷座の翌年の1598年(慶長3年)に、秀吉は病を患い、床に臥せるようになった。これは善光寺如来の祟りであるという噂が民衆の間で流布したため、秀吉の死の前日に信濃へ帰されることが決まり、長年の流転の末、ようやく善光寺如来は信濃へ戻った(善光寺公式HPでは、秀吉の死の間際、善光寺如来が夢枕に立ち信濃へ戻りたいと告げたためとしている)。しかし秀吉はその甲斐なく死去してしまった。同時代人には「秀吉公は、善光寺如来を方広寺大仏殿へ遷座したことによる祟りで落命された」と認識されていた。
武田信玄による善光寺如来の遷座から、秀吉によって信濃善光寺に返還されるまでの数十年間にわたって善光寺如来は各地を流転したが、大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが善光寺如来に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。秀吉が善光寺如来を方広寺へ無理に移座させたことについて、宗教を軽視した彼の傲慢とされることもあるが、秀吉が甲斐国から善光寺如来を持ち出さなければ、今日まで如来は甲斐国に留め置かれていた可能性もあったので、如来が信濃国に返還されたのは、(本来の思惑は別として)結果的には秀吉の功績とも言える。なお秀吉が持ち出し、返還したのは善光寺如来のみで、寺宝(最古とされる源頼朝の木像など)は甲斐善光寺に留め置かれた。豊臣秀頼の代には彼の寄進で信濃善光寺の伽藍の復興がなされたが、江戸時代初期の寛永19年(1642年)に火災があり烏有に帰した。先述の通り現存の本堂は宝永4年(1707年)に再建されたものである。
江戸時代と明治以後
江戸時代には参詣者も次第に増加し、他国から信濃に入る道はたいてい「善光寺道」と呼ばれるようになった。伊勢神宮への「お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあった。長野村など門前町の中心部は寺領であったが、近世末以降には寺領人口8000人、町続き他領分もあわせて約1万人に及んだ。
出開帳が初めて行われたのもこの時代である。その後、現在の御開帳へとつながる居開帳も開始された。そうして集められた収益によって、現在の本堂などが建立された。
また1692年(元禄5年)、出開帳を機に坂内直頼が、1668年(寛文8年)に刊行されて世に広まっていた漢文『善光寺縁起』を、多くの人に読みやすい仮名書きに改めて出版。全国に販売され、江戸時代に最も読まれた善光寺縁起となった。
お血脈
さらに、この時代には「お血脈」が生まれた。仏教を開いた釈迦牟尼仏から発し、阿弥陀如来から良忍により確立された、融通念仏の継承者を表にしたもので、歴代大勧進貫主が連なる系図である。授与された者は最新の弟子として阿弥陀如来と結縁し、極楽往生することができるとされた。
1784年(天明4年)、第80世大勧進貫主の等順が、浅間山大噴火および 天明の大飢饉における民衆救済のため、「融通念仏血脈譜」に関するそれまでの面倒な儀式を簡略化して新たに作成し、参拝者へ配布したことに始まる。等順の時代だけで180万枚が授与された。
全国から善光寺へ「お血脈」を求めて参拝者が集まり、善光寺信仰の全国的普及に大きな役割を果たし、落語『お血脈』(『骨寄せ』)の題材ともなった。
しかし、1847年(弘化4年)には善光寺地震が起き、門前町は全焼、本堂・山門・経蔵を残して寺内の院坊も全焼する大被害を受けた。
明治維新後は寺領も失った。しかし1871年(明治4年)、長野県庁が中野から長野に移され、1893年には鉄道(信越線)が全通して交通の便が良くなり、参詣者も増加するようになった。参詣者数は第二次世界大戦後の1958年(昭和33年)に約300万人、1988年(昭和63年)には570万人と増加。1991年(平成3年)には1000万人を超えた。1997年(平成9年)の御開帳には56日間に516万人もの参詣者があった。
このように多くの人が長野市を訪れる御開帳は経済波及効果が大きい。御開帳は数え年で7年に一度とされており、2021年(令和3年)の御開帳は新型コロナ禍により翌年へ延期され、どちらの年を起点として次回を決めるかが注目されていた。長野商工会議所は2027年(令和9年)開催を善光寺へ請願し、全山の住職で構成する代議員会は2024年(令和6年)11月6日に2027年開催を決定した。2022年(令和4年)の御開帳は約636万人が参拝し、経済波及効果は1095億円と推計されている。
年表
三国渡来の秘仏である一光三尊阿弥陀如来像が天竺から百済を経て、欽明天皇13年(552年)に日本へ伝えられたとされている。
皇極天皇元年(642年):本尊が現在の地に遷座。
皇極天皇3年(644年):本堂創建。
白雉5年(654年):本尊が秘仏とされる。
以上の善光寺縁起が平安時代後期になってから『扶桑略記』『伊呂波字類抄』などに示された。
なお10世紀中頃の『僧妙達蘇生注記』に「水内郡善光寺」と天暦5年(951年)の記述が見える。
『吾妻鏡』文治2年(1186年)条には園城寺(現在の三井寺)の荘園末寺(深田之荘)としての存在で文献に登場する。なお善光寺が所有の荘園は河井、馬島、村山、吉野。
天平宝宇6年(762年)4月24日:大風地震にみまわれたが、善光寺は無事であった(善光寺縁起)。
永久2年(1114年):信濃国善光寺別当の従者らが京都法勝寺の四至内で濫行を働く。
治承3年(1179年)3月24日:善光寺焼失(善光寺縁起、『吾妻鏡』『平家物語』にも)。記録に残る最初の焼失。
文治3年(1187年):源頼朝が信濃国の御家人に再興を命じる。
承元4年(1210年):善光寺地頭職であった長沼宗政が園城寺の請により更迭。同6年にも宗政の代官の非法を住僧が幕府に訴える。
嘉禎3年(1237年):五重塔完成。
延応元年(1239年):鎌倉幕府執権北条泰時が小県郡室賀郷を寄進。弟の名越朝時が善光寺に金堂建立。
弘長3年(1263年):執権北条時頼が水内郡深田郷を寄進。
文永2年(1265年):在地の有力者に任されていた善光寺近辺警護の奉行人制度が廃止。鎌倉幕府が直接統制に乗り出す。
文永5年(1268年)3月14日:西門より出火し、善光寺焼失(善光寺縁起)。また、須坂の豪族井上盛長によって焼き払われ、盛長は誅殺されたという記録もある。
文永5年(1271年)10月:善光寺再建が完成し、御堂供養を行う(善光寺縁起)。
正安3年(1299年): 鎌倉八幡宮との結合強化が図られた。
正和2年(1313年)3月22日:善光寺焼失(善光寺縁起)。
観応2年(1351年):守護小笠原氏と直義党の諏訪氏が善光寺周辺を戦場として争う。
応安3年(1369年):戦火で焼失。この時、本尊は土中に埋められて難を逃れた。
応永34年(1427年)3月6日:焼失(善光寺縁起)。本尊を横山(現在の城山)に遷座。
応仁3年(1468年):善光寺住職の善峰が対馬の宗貞国を通じて李氏朝鮮と交渉。
文明9年(1477年):焼失。前立本尊が破損(首を残して焼失したため再鋳)。
文明16年(1484年):焼失。前立本尊に損傷。
明応4年(1495年):北信濃支配勢力者の村上政清と高梨政盛、澄頼とが善光寺を巡って争い焼失。高梨氏が本尊を本拠地に持ち去る。
天文24年(1555年):武田信玄により、善光寺ごと甲府に移動。武田氏滅亡後に織田氏によって本尊が外部(美濃国など)に一時持ち出されるが、本尊を譲り受けた徳川家康によって甲府へ返還される。
慶長2年(1597年):豊臣秀吉により、本尊が甲府から方広寺へ移座。
慶長3年(1598年):豊臣秀吉により、本尊が信濃善光寺に還る。
寛永19年(1642年):本堂焼失。
慶安3年(1650年):本堂(仮堂)完成。
寛文6年(1666年):本堂完成。
元禄5年(1692年):秘仏の本尊を検分する使者が江戸幕府から派遣され実測された。
元禄13年(1700年):本堂再建という幕府の特命で、柳沢吉保の甥・慶運が別当、吉保の娘・智善が大本願上人で入山[45][46]。
宝永4年(1707年):慶運により本堂再建、現在に至る。この造営が創建以来12回目と伝えられている。
寛延3年(1750年):香雲により山門完成。
宝暦9年(1759年):経蔵完成。
4年(1784年)2月:等順が浅間山の天明大噴火の被災者救援活動に尽力[47]、融通念仏血脈譜(お血脈)を新たに簡略化して作成して授与[38][42][43]、善光寺に戻り天明の大飢饉における民衆救済のため善光寺の貯蔵米を全て蔵出しして施す。
天明4年(1784年)7月:善光寺本堂にて浅間山大噴火の追善大法要を執行[48][49]。
天明5年(1785年):等順が浅間山大噴火三回忌の年に大開帳法要、念仏堂において御回向。善光寺本堂の前に回向柱を立てた御開帳の始まり[50]。
寛政10年(1798年):4年にあたる全国回国開帳から等順が帰着[40]。
弘化4年(1847年)5月8日:善光寺地震により被災[51]し、仁王門など焼失。本堂、山門、経蔵は焼失を免れる。同年の4月1日に名主の祈祷と占いにより地震の終息を予測した。
元治元年(1864年):仁王門再建。
1946年(昭和21年)5月15日:大勧進と大本願の二住職制導入。
1947年(昭和22年)10月12日:昭和天皇が長野市内に行幸(昭和天皇の戦後巡幸)。大勧進が宿泊所となる[52]。
1949年(昭和24年)4月20日 :雲上殿が落慶。
1953年(昭和28年):本堂が国宝に指定。
1960年(昭和35年):本堂で約1000年ぶりに瑠璃壇の法義公開。
1965年(昭和40年):山門と経蔵が重要文化財に指定。
1979年(昭和54年):火災により奥書院などが焼失[53]。
1998年(平成10年):冬季オリンピックでは、開会式に善光寺の鐘楼の鐘の合図で始まり、続いてパラリンピックも開催された。五輪開催中、ドイツ選手団の選手村として利用された。
2002年(平成14年):「善光寺花回廊」開始。当時の田中康夫県知事の発案で2002年に行ったのが始まり、毎年4月下旬から5月上旬のゴールデンウィークに行われる、長野駅から善光寺までの街角を花で彩るイベント。
2004年(平成16年):「長野灯明祭り」開始。長野オリンピックのメモリアルイベントとして2003年に行われた「善光寺ゆめ常夜灯」を元に、翌2004年から始まったイベント。例年2月上旬から中旬にかけて行われる。
2007年(平成19年):文化庁が推進する「ふるさと文化財の森」事業の一環として、将来の建て替えを想定した建築資材育成目的で、「善光寺の森」植林を実施[54]。
2008年(平成20年):チベット騒乱を受けて、善光寺は同じ仏教徒としての反対の意味とそれに伴う参拝客への危害が及ぶなどの混乱回避を理由に、当初予定していた北京オリンピックの聖火リレーの出発式会場から辞退を表明した上、聖火リレーの時間に合わせてチベット騒乱の犠牲者(中国人およびチベット人双方の犠牲者)への追悼法要を実施[55]。同年11月、出発式会場辞退への感謝の印として、ダライ・ラマ14世より釈迦像が贈られた[56]。
2009年(平成21年)3月:ダライ・ラマ14世から贈られた釈迦像を忠霊殿で一般公開[56]。
2010年(平成22年)6月:善光寺の招きによりダライ・ラマ14世が善光寺を訪問。それに先立ち、チベット四大僧院の一つタシルンポ寺院の僧侶10人が訪れ、善光寺本堂でおよそ2週間をかけて砂曼荼羅を制作した[57]。
2020年(令和2年):善光寺大勧進が、栢木寛照副住職を導師とした僧侶17人による新型コロナウイルス沈静法要を、天明の大飢饉や浅間山大噴火で苦しむ民衆に手を差しのべた等順大僧正の命日である3月25日に合わせて実施[58][59][60][61]。
2023年(令和5年)
4月5日:本堂に安置されていたびんずる尊者の木像が盗難される。同日中に容疑者は逮捕され、木像も無事であった[62]。
11月8日:善光寺大勧進の栢木寛照貫主が、群馬県嬬恋村の鎌原観音堂を訪れ、天明三年浅間山大噴火直後に鎌原に駆けつけて被災者の救済に当たった等順大僧正以来240年ぶりに法要を執り行った[63][64][65][66]。
2024年(令和6年)3月25日:善光寺大勧進が「等順がやってきたことを正しく次代に継承し、地震で亡くなった方々に供養するのは善光寺の使命」と、天明の浅間山大噴火、九州の島原で雲仙普賢岳噴火犠牲者の供養を行い、北陸地方を含む全国で善光寺信仰を布教した等順の命日に能登半島地震の犠牲者の供養と復興祈願、募金活動を実施[67]。
伽藍
本堂
現在の本堂は宝永4年(1707年)竣工。設計は甲良宗賀(幕府大棟梁甲良氏3代)が担当した。本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置する。2階建のように見えるが、建築形式的には一重裳階付(いちじゅうもこしつき)である。屋根は檜皮葺で、屋根形式は撞木造(しゅもくづくり)という特異なものである。これは入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、堂の手前の部分は南北棟、奥の部分は東西棟になり、上方から見ると大棟の線が丁字状になっている。平面構成は正面5間、側面14間の身舎(もや)の周囲に幅1間の裳階を巡らした形になり、裳階部分を含めた平面規模は正面7間、側面16間となる(以上の説明文中の「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルで、一般的な日本の仏殿と比べて間口に比して奥行が長い。
建物南正面の奥行1間分は壁や扉を設けない「吹き抜けの間」とし、その先の奥行4間分が外陣、その次の奥行5間分が内陣、外陣と内陣の間が中陣、建物のもっとも奥が内々陣となる。内々陣は西(向かって左)に秘仏本尊の阿弥陀三尊像を安置する瑠璃壇があり、その前に常燈明(不滅の法燈)がある。
本尊は高さ160センチメートル、方91センチメートルの瑠璃壇の中にあり、これは諏訪の初代立川和四郎が1789年に造ったもので、四方に扉がついており、孔雀や竜などの透かし彫りがある。この瑠璃壇の中にさらに高さ93センチメートル、正面84センチメートル、厚さ67センチメートルの厨子があり、本尊はその中に赤地の金襴に包まれて安置されている。さらに厨子の前には二重の戸張がかけられている。
中陣と内陣の間の欄間には来迎の二十五菩薩の像があり(後述#残された台座の謎も参照)、中陣の右には地蔵菩薩が、左には弥勒菩薩が中陣を見下ろすように座っている。東(向かって右)は開山像を安置する「御三卿の間」である。「御三卿の間」には開山の本田善光と妻の弥生御前、子の善佐の像を厨子に安置する。この厨子は国宝の附(つけたり)指定となっており、寄棟造、本瓦形板葺きとする。
御戒壇
善光の間の東から階段を降り、真っ暗な板廊下を右回りに回って、瑠璃壇・本尊の真下をひと周りして、入り口の北に出る。これをお戒壇巡りという。途中に板戸があり、そこに鍵前がついており、その鍵前を握ると極楽往生できるという言い伝えがある。一方、心がけのよくないものは錠前をつかめずに犬になってしまうという言い伝えもある。
外陣
まず目につくのは大きな台で、これは妻戸台といって上に太鼓などが置いてある。その東側に松の枝が花瓶に差してあるが、これは親鸞上人が善光寺に参詣した際、松の枝を捧げたのにちなんだものである。
この他、閻魔王像、お賓頭盧さん(おびんずるさん)などを安置する。このびんずる像の体をなで、その手で自分の患部をなでると悪い部分を治すご利益があるとされる。1月6日の夜にはこの像をかついで堂内をまわる、「おびんずるまわし」という行事がある。
コロナ禍の2020年の一時期、感染を防ぐため、善光寺はびんずる尊者像に「触れないで」という張り紙を貼り、お戒壇巡りもできなくなった。
その他
かつては南大門、五重塔、中門・回廊、本堂と一直線に並んだ配置であった(『一遍聖絵』)。また、長野県立歴史館は、現在より南側に善光寺があったと展示・解説する。
山門(三門)
善光寺山門の「鳩字の額」
寛延3年(1750年)に完成した。正面に「善光寺」という額が掲げてあるが、公澄法親王の作である。鳩が5羽描かれていることから「鳩字の額」としても親しまれている。「善」の字が牛に見えるともいう。2階の内部には山門本尊の文殊菩薩騎獅像、その四方を守護する四天王像、色鮮やかに修復された仏間の障壁画、四国八十八ヶ所霊場御分身仏などが安置されている。
2007年(平成19年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺きに改められた。栩葺き(とちぶき)とはサワラの板材で屋根を葺く方式である。また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。落書きのうち、江戸時代のものは2階に昇った正面にある「江戸 と組よね」や3階(仏間)の北西側の壁面にある嘉永年号のものなどである。昔は限られた期間しか2階に上がることができなかったが、現在では常時拝観できる。
経蔵
1759年に完成。五間四方宝形造りのお堂。内部中央には仏教経典を網羅した鉄眼黄檗版『一切経』全6771巻が納められており、高さ約6メートル重さ約5トン奥行約4メートルの巨大な輪蔵を時計回りに一周押し回すと、すべての経典を読んだのと同じ功徳を得られるという。
経蔵入り口にはこの輪蔵を考案した傅大士の像があり、経蔵内には伝教・慈覚の両大師像が安置されている。また経蔵の前には輪廻塔があり、この石の輪を回すことで功徳を積み、極楽往生できるといわれる[75]。
日本忠霊殿・善光寺資料館
1906年建設、1970年に現在の三重塔構造に建て替えられた。戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者を祀る慰霊塔である。
また1階には#善光寺資料館があり、善光寺所蔵の什物を展示している。
仁王門
1752年に建立されたが、善光寺大地震により2度焼失。1918年に再建された。善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられているが、これは伏見宮貞愛親王の染筆である。仁王像および仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に近代彫刻家として著名な高村光雲・米原雲海による作である。仁王像は一般的な配置と逆になっており、右に吽形、左に阿形となっている。
鐘楼
1853年再建。南無阿弥陀仏の六字にちなみ、六本の柱で建てられている。梵鐘は建物よりも古く、1632年、高橋白蓮により発願鋳造されたが、1642年の火災により焼失、1667年に再造立された名鐘であり、重要美術品に指定されている。
雲上殿 納骨堂
善光寺平を一望できる大峰山の中腹にある。1945年には空襲の被害を避けるため、本尊の厨子をここに移動した。
大勧進
大勧進・護摩堂
天台宗の本坊で、大勧進の住職は貫主と呼ばれ、大本願の上人と共に善光寺住職を兼ねている。この中にはさらに、放生池、大門、紫雲閣、萬善堂、位牌堂、護摩堂、善光寺大勧進宝物館などがある。
善光寺の本堂は、大勧進の慶運大僧正が建立した。また、本堂に回向柱を立てる現在の御開帳(居開帳)とお血脈は、大勧進の等順大僧正による浅間山の天明大噴火被災者救済に由来している。
大本願・本誓殿
浄土宗の本坊(尼寺)で、上人は大勧進の貫主と共に善光寺の住職となっている。大本願上人は、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事などの法要の導師を勤めている。大本願境内には本誓殿、宝物殿、位牌堂、光明閣、奥書院、表書院、明照殿、寿光殿、文殊堂などがある(#善光寺大本願宝物館も参照)。
ぬれ仏(延命地蔵尊)
1722年、善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊で、明暦の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれている。
六地蔵
1759年に浅草天王町祐昌が願主となって造立されたが、1944年に戦時中の金属供出に出されてしまう。現在の六地蔵は1954年に再興されたものである。
大香炉
戦時中に金属供出に出されたが、1956年に富山県高岡市で作られ奉納された。本堂に入る前に線香を供え、煙を体にかければ無病息災、病気平癒の功徳が得られるという。御開帳ではこの前に回向柱が建てられる。
歴代回向柱納所
御開帳の回向柱はその後、この納所に建てられ、長い年月を経て土に還っていく。
爪彫如来
浄土真宗宗祖・親鸞聖人が善光寺に滞在した際に手彫りした阿弥陀如来と伝わる像である。
仏足石
1838年に大勧進光純が建立したもので、仏の足跡を彫った石碑(仏足石)。いつの頃からか健足を願う場となっており、長野マラソンの前後には、多くのランナーが完走を願って手を合わせていく。
石畳
境内入り口の二天門跡から本堂までの敷石で、長さ約460メートル幅約8メートルに敷かれている。二天門前から山門下までは1713年に江戸の石屋・大竹屋平兵衛より寄進されたものである。山門から本堂までは同じく1713年、腰村(西長野)西光寺の欣誉単求が寄進したもの。のち1810年に補修された。7777枚あるといわれてきたが、現在は6479枚だという。
駒返橋
駒返橋。この穴に頼朝の馬の蹄が挟まったという。
仲見世通りが終わり、山門へ進む参道の入り口にある石橋。善光寺七名所の七橋のひとつ。1197年、源頼朝が善光寺に参詣した際、馬の蹄が穴にはまって動けなくなってしまった。古来、これより先へは一切の乗物の乗り入れは許されず、身分の差なく徒歩でのみ参拝する定めである。頼朝は「なるほど、やはり善光寺如来は生きている仏様だ。南無阿弥陀仏」と、乗っていた馬から降りて引き返したという伝承が残っている。そのことから駒返橋と呼ばれている。
旧如来堂跡地蔵尊
仲見世通り中央西に「如来堂旧地」という石碑と延命地蔵がある。この地は善光寺草創以来、本尊壇があった場所だと言われる。延命地蔵は江戸神田恵念、覚念により現本堂落成から5年後の1712年に造立された。1847年の善光寺地震で焼損し、その後復興するものの1891年に再び焼損、1915年に再興されるが、戦争により供出されてしまった。現在の地蔵尊は1949年に再興されたものである。
釈迦堂
如来堂跡の向かいにある世尊院釈迦堂の本尊は、鎌倉時代の作とされる我が国唯一の等身大の銅造釈迦涅槃像(国重要文化財)である。戦国時代には善光寺の御本尊・御三卿像・御印文と共に全国を流転した。その他にも木造毘沙門天像、木造阿弥陀如来及両脇侍立像、五鈷鈴、羯磨金剛と文化財を多数所有。
堂内には善光寺七福神の一つである毘沙門天(市文化財第一号)・不動明王・摩利支天が安置されている。阿弥陀如来の善光寺本尊が来世での極楽浄土を約束するのに対し、こちらの釈迦如来は現世利益の仏だといわれる。また、御開帳にはこちらにも小さな回向柱が建てられる。
阿闍梨池
本善堂は旧本堂の西、釈迦堂と対する位置にある。本覚院の小御堂である。本多善光が自分の宅の西に造った芋井堂の跡ともいう。本善堂の横には阿闍梨池という現在は水のない池がある。善光寺七名所の七池のひとつである。この池にはこんないわれがある。
平安時代の終わり頃、比叡山延暦寺に皇円阿闍梨という高僧がいた。皇円阿闍梨は56億7000万年後、弥勒菩薩が現れて人を救うという時代まで生きていたいと思い、とうとう竜になってしまった。皇円阿闍梨は法然上人の師であったため、法然はその竜が住むという遠江の国の桜が池にやって来た。後悔して嘆き悲しむ皇円阿闍梨に、法然は善光寺如来に助けを求めることを勧める。皇円阿闍梨はそれを聞き、竜の姿で嵐と共にたちまち信濃の善光寺に向かった。そうして善光寺には池ができ、阿闍梨池と呼ばれるようになったという。今でも毎年、旧暦の正月18日になると、竜は嵐と共にやって来て、25日には嵐と共に帰って来る。この嵐を「阿闍梨荒れ」という。
石造宝篋印塔(兄弟塚)
山門を通り、左手(西)の方角に2基ある。佐藤兄弟塚とも言い、善光寺七名所の七塚のひとつ。源義経の忠臣・佐藤継信と佐藤忠信の兄弟を弔うために建てられたという言い伝えがある。市の有形文化財。
護法石(道具塚)
本堂の前、左右にひとつずつ立っている自然石。現在の本堂を建てた際に使った大工道具をこの下に埋め、石を建ててお堂のお守りとした。向かって右を「山王塚」左を「諸神塚」という。
おやこ地蔵
本堂の東、小さなお堂にある。2011年の東日本大震災で善光寺は、被災地支援として津波により倒されてしまった高田松原の松を木札にして販売した。さらに、被災松を後世に残したいという思いから「お地蔵様」を製作。東京芸術大学の籔内佐斗司教授と地元の住民との相談の結果、4体の親子地蔵様を製作することになった。お父さん地蔵は善光寺で、お母さん地蔵と子供地蔵たちは陸前高田の普門寺に安置されている。
仲見世通り
藤原采女亮碑
藤原采女亮は鎌倉時代の人で、髪結いを生活の糧にしたことから理髪業の祖といわれ、理容関係者の信仰を集めている。この碑は1897年に全国の同業者によって建立された。
真田家関係古塔
江戸時代に善光寺の外護職を務めた松代藩真田家の重臣たちの供養塔。松代藩は善光寺を保護すると共に篤く信仰した。
むじな燈籠
昔、下総国のむじなが、殺生をしなければ生きていけない自らの罪を恥じ、人の姿に化けて善光寺に参詣した。善光寺に燈籠を寄進したが、白蓮坊の宿坊で風呂に入っていたところ、正体を見られてしまい、逃げ出したという。これがそのむじな燈籠である。
その他にも、ここに記述しきれないほどのお堂・像・塔・碑などが善光寺境内にはある。
宿坊
善光寺には39の宿坊があり、それぞれ御堂があり、住職がいる。宿坊に泊まったり、精進料理を食べることもできる。「院」がつくのは天台宗で大勧進傘下、「坊」がつくのは浄土宗で大本願傘下である。
北西エリア
薬王院
光明院
常徳院
最勝院
徳寿院
本覚院:#本善堂の阿闍梨池参照。
長養院
宝林院:もとは城山にある常念仏堂だった[80]。
良性院
北東エリア
福生院
吉祥院
教授院
常智院
尊勝院
蓮華院
世尊院:#釈迦堂・釈迦涅槃像参照。
常住院
威徳院
円乗院
玉照院
南西エリア
堂照坊:親鸞上人百日逗留遺跡といわれる[80]。
堂明坊:堂照坊と共に常燈明を司ったと思われる[80]。
白蓮坊:参道の籔内佐斗司作・むじな地蔵が目印。
正智坊
兄部坊
淵之坊:縁起堂とも。善光寺縁起の絵解きを行う。
常円坊
南東エリア
向仏坊:善導大師像を安置する。
鏡善坊
野村坊
常行院:元々は時宗[80]。
甚妙院:同上。
玄証院:同上。
善行院:同上。
寿量院:同上。
随行坊
正信坊(法然堂):法然が滞在した際の遺跡といわれる。
浄願坊:太子堂ともいい、聖徳太子像がある。
資料館
善光寺資料館
日本忠霊殿の一階にあり、かつて本堂に架けられていた絵馬や、永代開帳額などを通して全国に根付く善光寺信仰の歴史を垣間見ることができる。その他にも算額や、快慶一門の作による阿弥陀如来像、ダライ・ラマ14世来寺の際に開眼された砂曼荼羅などを公開している。
中でも特に高村光雲・米原雲海作の仁王像は、仁王門に安置された像の1/4原型像として注目される。また、史料館の出入り口には善光寺が隔年で戦没者慰霊に訪れる、太平洋戦争の激戦地であるサイパン島、テニアン島で回収した遺品も展示している。
善光寺大勧進宝物館
善光寺に関する史料や宝物が3千点以上あり、季節により展示替えをして、常時150点程度を展示している。
展示室は1号館と2号館に別けられ、天台宗開創の地である天台山を描いた『天台山図』、「南無阿弥陀仏」と書かれた歴代住職の書、文殊菩薩や観音菩薩の像、奈良時代の善光寺の古瓦、土佐派や狩野派などの仏画、江戸時代の善光寺縁起絵などを展示している。特に「五鈷杵」や「源氏物語事書」は国の重要文化財となっている。また聖武天皇をはじめ各時代の天皇や、高僧、公卿、善光寺を信仰した武将など120人余りの筆跡を張り込んだ屏風『古筆大手鑑』や、武田信玄、上杉謙信の位牌などもある。
善光寺大本願宝物館
宝物殿では歴代皇室の御物や、浄土宗の宝物、仏像、書画など、大本願に伝わる資料や宝物を展示している[82]。
第1展示室では、276玉を2連につなげた大念珠、鎌倉時代の善光寺の模型、阿弥陀聖衆來迎図や、木造聖徳太子像、木造伐折羅大将像、木造将軍地蔵騎馬像などを展示し、皇室関係では明治天皇や大正天皇の礼服を展示している。第2展示室では、明治維新の折に廃仏毀釈から善光寺並びに大本願を守り抜いた第117世・伏見宮誓圓上人をはじめ、歴代上人の紹介や所縁の品々を展示、本誓殿から奥書院への渡り廊下の天井には、大本願中庭に植えられた植物を描いた『四季草花図』がある。また2007年(平成19年)に明照殿の新築工事の際に出土した、善光寺創建当時のものと推定される軒丸瓦も展示している。
文化財
国宝
本堂(附:厨子1基)
重要文化財
三門(山門)
経蔵
金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)
絹本著色阿弥陀聖衆来迎図 1幅(大本願)
善光寺造営図(大勧進所有)8幅[注 3]。享禄4年(1531年)4月
紙本墨書源氏物語事書(大勧進)
銅造釈迦涅槃像(世尊院釈迦堂)
登録有形文化財
鐘楼:嘉永6年(1853年)建、1926年(大正15年)改修[83][84]
仁王門:1918年(大正7年)建、1977年(昭和52年)改修[83][84]
重要美術品
梵鐘:寛永9年(1632年)銘
銅造地蔵菩薩坐像(通称:ぬれ仏)享保7年(1722年)銘
五鈷杵(大勧進)
銅鍾(鐘楼の梵鐘)
長野市指定文化財
有形文化財
木造毘沙門天像(世尊院釈迦堂)
木造伐折羅大将像(大本願)
木造聖徳太子立像(大本願)
木造阿弥陀如来及両脇侍立像(世尊院釈迦堂)
木造百万塔(大本願)
六角銅製釣燈籠(玉照院)
五鈷鈴(世尊院釈迦堂)
羯磨金剛(世尊院釈迦堂)
石造宝篋印塔
無形文化財
善光寺木遣り:善光寺御開帳の回向柱を松代より運ぶとき、堂童子の日待占行事 節分会、御祭礼の山車を曳くとき、その他建築木材の曳き出しおよび上棟会などに棟梁および鳶職等の職人多数で行われる。
有形民俗文化財
善光寺の正月行事用具:正月行事に参加する善光寺一山の僧尼職の服飾をはじめとして、頭役(堂童子)を中心とする諸儀礼行事に使用される用具類。六十余品種目にのぼる。
記念物
善光寺参道(敷石):#石畳。
埋蔵文化財
善光寺門前町跡 - 発掘調査では古墳時代の竪穴建物が発見され、この地域に古くから人々が住んでいたことがわかった。
元善町遺跡 - 善光寺山門の南から大本願までの現在の元善町の範囲。発掘をすると古代や中世の瓦が大量に見つかる。遠く近江国から伝播した湖東式という意匠の軒丸瓦も見つかっている。
福祉施設
善光寺大勧進養育院
1883年(明治16年)、善光寺大勧進副住職の奥田貫照が救貧施設の設立を発案し、門前町の篤志家を回って資金を集め、善光寺大勧進養育院が誕生した。1925年(大正14年)には内務省から許可を受けて財団法人となった[85]。戦後、社会福祉法人となり、社会福祉法人大勧進養育院が運営する児童養護施設「三帰寮」となっている。
善光寺大本願乳児院
1962年(昭和37年)、善光寺大本願法主の一条智光が社会福祉事業の経営を発案して乳児院が設立された。1981年(昭和56年)には社会福祉法人善光寺大本願福祉会が設立されて設置運営が移管された。
行事
お朝事
お数珠頂戴
1年を通して、お朝事という行事が行われている。善光寺全ての僧侶が出仕して行われる法要である。法要は毎朝大勧進と大本願の順に二座行われ、法要中には普段閉ざされている本尊前の戸帳が上げられ、善光寺如来が納められた瑠璃壇と厨子を垣間見ることができる。これには、一般参拝者も内々陣で立ち会うことができる。
また、お朝事に向かう大勧進貫主、大本願上人が導師として本堂に出仕する際、お数珠頂戴という儀式が行われる。その往復の道中にてひざまずく参拝者の頭を手にした数珠で触れ、功徳を授けるものである。これは、言葉ではなく行いをもって仏道を説く「身業説法」の一種で無言の説法とも呼ばれる。
年間行事
1月1日 朝拝式(ちょうはいしき) 善光寺の全僧侶により行われる、新年最初の法要。
1月1日-3日 修正会(しゅしょうえ) 正月三が日の間に行われる、国家平安を祈る儀式。
1月6日 びんずる廻し(びんずるまわし) 妻戸台の周りをびんずる尊者像と参拝者が廻る行事。
1月7日 七草会(ななくさえ) 朝拝式・修正会に御印文加持・御印文頂戴などが組み合わされた法要。深夜に行われる。
1月7日-15日 御印文頂戴(ごいんもんちょうだい)善光寺如来の分身といわれる三判の宝印「御印文」を、僧侶が参詣者の頭に押し当てる儀式。
1月15日 お焚き上げ(おたきあげ) 正月飾りや書き初め、旧年中のお札や達磨などを読経とともに焚き上げる。
1月25日 法然上人御忌(ほうねんしょうにんぎょき) 浄土宗の宗祖、法然上人の忌日法会。
2月3日 節分会(せつぶんえ) 善光寺木遣りを先頭に赤鬼・青鬼、年男年女、福男福女の行列が仁王門から本堂へと練り歩く。その後、本堂で追儺式を行う。追儺式後、善光寺本堂回廊から参拝者に福豆、お菓子などの福品がまかれる。
3月15日 御会式(おえしき) 本尊・善光寺如来が遷座されたことを記念して行われる法要。
春彼岸の入り、中日、明け 彼岸会(ひがんえ) 天台宗と浄土宗でそれぞれ別の法要を行う。
4月8日 針供養会(はりくようえ) 針供養塔の前で、使い古された針や折れた針の供養および子女の健全育成を願って法要を行う。
5月4日 伝教講法会(でんぎょうこうほうえ)春の法会は日本天台宗宗祖伝教大師最澄の忌日に行われる。
6月30日 盂蘭盆会(うらぼんえ) 天台宗のもの。僧侶が鳴らす双盤に合わせ、妻戸台の大太鼓が参詣者によって叩かれる。
7月13日 開山忌(かいざんき) 善光寺の開山、本田善光の忌日法要。
7月15日 大施餓鬼(だいせがき) 天台宗のもの。お盆に合わせ、三界万霊有縁無縁の諸精霊が極楽へと生まれることを祈願する。
7月31日 盂蘭盆会(うらぼんえ) 浄土宗のもの。僧侶が鳴らす双盤に合わせ、妻戸台の大太鼓が参詣者によって叩かれる。
8月14日-15日 お盆縁日 本堂前での「大盆踊り会」や、稚児とともに先祖供養を祈る「精霊会」、本堂内の閻魔像前での法話など、さまざまな行事が行われる。
8月15日 大施餓鬼(だいせがき) 浄土宗のもの。お盆に合わせ、三界万霊有縁無縁の諸精霊が極楽へと生まれることを祈願する。
8月23日 地蔵盆(じぞうぼん) ぬれ仏、六地蔵、仲見世の延命地蔵など、境内各所の地蔵尊を巡回し、子どもの健全育成を祈願。
秋彼岸の入り、中日、明け 彼岸会 天台宗と浄土宗でそれぞれ別の法要を行う。
10月5日 - 14日 十夜会(じゅうやえ) 浄土宗のもの。普段非公開の「十夜仏」を本尊の前に遷座し、開扉して供養を行う。
10月15日 御会式(おえしき)本尊・善光寺如来が遷座されたことを記念して行われる法要。
11月5日-14日 十夜会(じゅうやえ) 天台宗のもの。普段非公開の「十夜仏」を本尊の前に遷座し、開扉して供養を行う。
11月24日 伝教講法会(でんぎょうこうほうえ) 春と秋の2回執行され、秋の法会は中国天台智者大師の忌日。
12月1日 お注連はり(おしめはり) 自坊の門に注連縄をはり、正月行事の始まりを告げる。
12月7日-9日 貴々念仏(とうとうねんぶつ) 一定の期間を定めて念仏を唱える「別時念仏」の法要。
12月10日 御松はやし(おまつはやし) 大勧進・大本願の境内に松の枝を届け、門前の松に新縄を結んで災いなく新年を迎える清めの法要。
12月第2申の日 (非公開行事)御越年式(ごえつねんしき) 最も重要な行事のひとつ。本尊・善光寺如来の年越しの儀式。
12月21日 (非公開行事)おそなえつき 浄土宗全僧侶が堂童子の坊に集まり、本尊に供える餅をつく。
12月28日 お煤払い(おすすはらい) 酒摩という青竹に藁を結びつけた箒状の竿で御本尊前の戸帳を撫でるお煤払いの儀。その後、年に1度の本堂の大掃除が行撞かれる。
12月31日 除夜の鐘 108回撞かれる。
御開帳
回向柱と本堂(2015年4月)
開帳には、寺がある場所で開催する「居開帳」の他に、大都市に出向いて開催する「出開帳」があり、善光寺の御開帳の歴史はこの出開帳から始まっている。その基礎となったのは鎌倉時代に始まった、善光寺聖たちの分神仏による開帳である。出開帳には、江戸、京、大坂で開催する「三都開帳」や諸国を回る「回国開帳」があった。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた。
善光寺の出開帳は、1692年(元禄5年)に江戸深川の回向院で行ったのが初回である。これより1820年(文政3年)まで江戸時代には江戸で6回出開帳が行われた。出開帳では善光寺縁起を語る『善光寺如来絵伝』の絵解きが行われ、善光寺信仰が全国に広まるのに寄与した。
居開帳は地元では「御回向」とも呼ばれていた。居開帳(御回向)は常念仏(現在は長野市立城山小学校が建つ場所に常念仏堂があり、常に念仏を唱えていた)が5000日ごとの区切りに達した時、あるいは出開帳が終わったり、諸堂の建立や修理が完成したりした時に行われていた。
本堂の前に回向柱を立てて実施する現在の御開帳の形は、等順が天明3年浅間山大噴火三回忌の年である1785年(天明5年)に実施したのが最初である。明治時代以降から2009年(平成21年)まで「御開帳」と呼ばれるものは全て居開帳であったが、2013年(平成25年)には東京の両国回向院にて「出開帳」が開催された。また、2021年(令和3年)の御開帳は新型コロナウイルス感染拡大(新型コロナ禍)の影響で翌年に延期となった。
現在の正式名は、善光寺前立本尊御開帳。数え7年目ごとに1度(開帳の年を1年目と数えるため、実際には6年間隔の丑年と未年)、秘仏本尊の御身代りである「前立本尊」が開帳される。前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の「一光三尊阿弥陀如来」となっている。開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶ。
回向柱(えこうばしら)は、松代藩が普請支配として建立されて以来の縁により、代々、松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される。2003年(平成15年)は赤松が使用され、2009年(平成21年)は小川村産の樹齢270年の杉が使用された。
期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が「善の綱」と呼ばれる五色の紐で結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に直接触れたのと同じ利益(りやく)があり、来世の幸せが約束されるとされる。また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。ゆえに、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏である釈迦如来と来世の仏である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られるといわれる。
御開帳(居開帳)の歴史
先述の通り、初期は不定期に行われていた。以下、『善光寺御開帳年表』小林一郎、小林玲子(長野郷土史研究、2022年)による。
1730年:享保15年4月10日 - 16日 ※常念仏2万日
1742年:寛保2年1月29日 - 3月14日 ※三都開帳終了
1745年:延享2年3月15日 - 5月15日 ※本堂修理完成
1753年:宝暦3年3月15 - 4月8日 ※仁王門・鐘楼落成
1759年:宝暦3年3月15日 - 4月15日 ※経蔵落慶
1762年:宝暦12年4月15日 - 閏4月14日 ※常念仏3万日
1773年:安永2年3月25日 - 閏3月29日 ※常念仏3万5千日
1785年:天明5年3月15日 - 4月15日 ※常念仏4万日 本堂の前に回向柱を立てる現在の形の始まり。
1791年:寛政3年3月10日 - 4月30日 ※本堂・三門・経歳・仁王門修復
1799年:寛政11年3月1日 - 4月30日 ※常念仏4万5千日 / 回国開帳終了
1804年:文化元年3月10日 ※4月29日 - 出開帳終了
1811年:文化8年閏2月15日 - 4月8日 ※常念仏5万日
1821年:文政4年3月1日 - 4月29日 ※前年出開帳、常念仏5万5千日
1832年:天保3年3月10日 - 4月29日 ※常念仏6万日
1840年:天保11年3月10日 - 4月29日 ※本堂屋根修復
1847年:弘化4年3月10日 - 4月29日 ※常念仏6万5千日、3月24日に善光寺地震。箱清水村堀切道の仮堂で御開帳を継続。
1865年:慶応1年7月20日 - (不明) ※常念仏7万日、仁王門落慶(江戸時代最後)。
明治以降は、ほぼ7年に1度行われている。ただし1942年は太平洋戦争中のため行われなかった。
1872年:明治5年3月1日 - 4月20日 ※本堂屋根葺替えの費用で。
1877年:明治10年4月10日 - 5月29日 - ※これより前は旧暦、これ以降は新暦である。
1882年:明治15年4月10日 - 5月29日
1888年:明治21年4月10日 - 5月31日 ※以降、太平洋戦争前までの御開帳は午と子の年の開催が慣例となる。
1894年:明治27年4月10日 - 5月30日
1900年:明治33年4月10日 - 5月31日
1906年:明治39年4月1日 - 5月20日
1912年:明治45年4月1日 - 5月20日
1918年:大正7年4月1日 - 5月20日
1924年:大正13年3月20日 - 5月20日
1930年:昭和5年3月20日 - 5月20日
1936年:昭和11年3月20日 - 5月20日
1949年:昭和24年4月1日 - 5月31日 ※雲上殿落慶
1951年:昭和26年4月10日 - 5月24日 ※善光寺如来渡来1400年記念
1955年:昭和30年4月10日 - 5月20日 ※丑年と未年開催が慣例となる。
1961年:昭和36年4月1日 - 5月21日
1967年:昭和42年4月10日 - 5月20日
1973年:昭和48年4月8日 - 5月20日
1979年:昭和54年4月8日 - 5月27日
1985年:昭和60年4月7日 - 5月26日
1991年:平成3年4月7日 - 5月26日
1997年:平成9年4月6日 - 5月31日
2003年:平成15年4月6日 - 5月31日 ※同時期に山梨県甲府市の善光寺(甲斐善光寺)、長野県飯田市の元善光寺、愛知県稲沢市祖父江の善光寺東海別院の四善光寺同時開帳もあり、628万人が訪れた。
2009年:平成21年4月5日 - 5月31日 ※6年前の四善光寺に加え、岐阜県岐阜市の岐阜善光寺、岐阜県関市の関善光寺を加えた史上初の六善光寺同時開帳となり、673万人が訪れた。
2013年:平成25年4月27日 - 5月19日 ※東日本大震災復興支援を目的に「復幸支縁」と銘打ち、両国回向院にて「出開帳」を開催。
2015年:平成27年4月5日 - 5月31日 ※ほぼ同時期に26寺で、善光寺如来の開帳が行われた。参拝券の購入はSuica等交通系ICカードによる決済が可能になった。北陸新幹線の金沢延伸開業直後ということもあり、参拝者は過去最多の707万人となった。
2022年:令和4年4月3日 - 6月29日 ※当初開催予定だった2021年(令和3年)から、新型コロナ禍の影響により延期となった。また、開催期間も混雑緩和のため1か月延長され、過去最長の88日間となった。参拝者は636万人。
2027年:令和9年4月4日 - 6月19日(予定)※旧来の慣例に復し、未年開催に戻すこととした。
拝観とアクセス
拝観
本堂の内陣と内陣お戒壇、山門、経蔵、史料館の拝観がセットになっており、券は大人1200円(2024年時点)。開館時刻は本堂内陣が「お朝事」1時間前、山門と経蔵は史料館は午前9時。夕方の閉館時刻は施設や季節により異なる[96]。
交通
善光寺下駅
北陸新幹線や各社在来線が停車する長野駅の北口は「善光寺口」と呼ばれている[97]。善光寺口の向かい側北西から、北へ向かって善光寺表参道(中央通り)という一本道が通っており、緩やかな坂道となっている。駅から善光寺までは約1.8キロメートル離れており[98]、徒歩で向かう人が多いほか、路線バスが長野駅善光寺口バスロータリー1番乗り場から出ており、「善光寺大門」が最寄りバス停留所である(運行はアルピコ交通)。善光寺大門には、東京の新宿と結ぶ高速バス長野線の一部便が発着する。本堂に近いのは善光寺西バス停であるが北行きの一方通行にあるため長野駅方面行きは利用できず長野駅方面へは城山公園前バス停が最寄りとなる。
鉄道駅で最も近いのは、長野電鉄長野線で長野駅から3駅目の善光寺下駅である。
自家用車や観光バス向けには、善光寺の周囲に複数の駐車場がある。
門前町
善光寺町
長野市は、鎌倉時代以降に形成された善光寺の門前町を起源として発展した都市で、古くから長野盆地を「善光寺平」とも称していた。
元来、善光寺参道付近から現在の信州大学教育学部付近にかけての緩傾斜地が長野と呼ばれていたらしい。中世末には水内郡長野村という村名が現れ、善光寺境内から門前町も含め、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する区域を領域としていた。長野村は1601年(慶長6年)に周辺の箱清水村、平柴村、七瀬村とともに、徳川家康の寺領寄進による善光寺領(1000石)とされ、戦国時代の荒廃から復興した。
善光寺門前の参道は1611年(慶長16年)に北国街道の経路に定められ、伝馬役を担う宿場町としての役割も兼ねた都市として発展し、善光寺町(または善光寺宿)と呼ばれるようになった。しかし、検地帳上の公的な村名は長野村であり、「善光寺町」とは同村内の町場を総称する地名であった。その一方で長野村内だけでなく、同村に隣接する松代藩領または幕府領である妻科村(現・長野市大字南長野)、権堂村(現・長野市大字鶴賀の一部)のうちで町場化した区域も含めて「善光寺町」と呼ぶこともあった。
善光寺町は、町年寄の支配下にあった八町およびその枝町と、大勧進および大本願の支配下にあった両御所前の2町、さらに善光寺本堂南側堂庭から成り立っていた。八町とその枝町、および両御所前に属していた町は次の通りである。
八町:大門町、後町、東町、西町、櫻小路、岩石町、横町、新町
西町庄屋支配:天神宮町、阿弥陀院町、下西之門町
横町庄屋支配:東之門町
桜小路庄屋支配:上西之門町
新町庄屋支配:伊勢町
両御所前:横沢町・立町
さらに、隣接する松代藩および江戸幕府領(天領)の各村のうち町場化した次の区域も善光寺町の一部とされた。
妻科村(松代藩領):後町、新田町、石堂町
権堂村(天領):権堂町
宿場町としての善光寺宿は、本陣、脇本陣、問屋が大門町に置かれ、西町と東町がこれに付属し、境内の宿坊とは別に旅籠が30軒ほどあった。また伝馬宿の特権として九斎市の立つ市場町としても公認された[100]。本陣・脇本陣や問屋は当初交代制であったが、本陣は安永5年(1776年)以降、藤井平五郎家が、脇本陣は臼井清五郎家が世襲し、問屋は延享5年(1748年)以降、中澤与三右衛門家が世襲した[100]。本陣や脇本陣は、参勤交代で北国街道を通行する諸大名が宿泊した。
地名の変遷
善光寺町内の各町は、明治維新以降に改称されたり(桜小路→桜枝町、天神宮町→長門町、堂庭→元善町、長野村後町→東後町、妻科村後町→西後町など)、新たに起立したりしたもの(旭町、県町、南県町など)を含めて、1878年(明治11年)の郡区町村編制法による上水内郡長野町または同郡妻科村(1881年〈明治14年〉に南長野町)、鶴賀村(1885年〈明治18年〉に鶴賀町)内の通称地名となった。さらに1889年(明治22年)の町村制施行による上水内郡長野町(1897年〈明治30年〉に長野市)の大字である長野、南長野、鶴賀における通称地名として現在も使用されている。
伝説
「善光寺縁起」自体が壮大な伝説であるように、善光寺は数多くの伝説が伝わる伝説の寺である。また、境内や門前町だけでなく、全国各地にも善光寺参りをめぐる多くの伝説を残している。ここで紹介するのはそのほんの一部である。「#駒返橋」「#本善堂の阿闍梨池」「#むじな燈籠」も参照。
牛に引かれて善光寺参り
むかし、善光寺から東に十里の村里に欲張りで信心薄い老婆が住んでいた。ある日、川で布を晒していると、どこからか1頭の牛が現れ、角にその布を引っかけて走り去ってしまった。老婆は布を取り戻したい一心で、牛を必死に追いかけ、ついに長野の善光寺まで辿りついた。ところが牛の姿を見失い、日も暮れて途方にくれた老婆は、仕方なく善光寺の本堂で夜を明かすことにした。するとその夜、老婆の夢枕に如来様が立ち、不信心をお諭しになった。目覚めた老婆は今までの行いを悔いて改心し、たびたび善光寺を参詣した。そして死後には極楽往生を遂げた。
長野県小諸市にある布引観音(釈尊寺)を発祥地とする伝説が有名だが、小諸から善光寺までは約60キロメートルもの距離があり、これには疑問が残る。一方、1897年(明治30年)に出版された『善光寺独案内』には、別のパターンが記されている。こちらは「戦国時代のこと」とされ、老婆ではなく「善光寺の一里ほど南に住むスミという名の女(高天神城の戦いで敗れ囚われて刑死した善光寺別当配下の将兵の未亡人と伝わる)」になっており、無信心から改心したスミは妙蓮と名乗る尼となって、かるかや山西光寺の蓮了上人の弟子として、観音様にお仕えして一生を遂げたという実話だとされている。
弁慶のねじり柱
源義経一行は、北国街道を通って奥州へ向かう途中に善光寺に立ち寄った。義経追討を命じた源頼朝への怒りを抱えた弁慶は、本堂の柱に組み付いた。そして一気に柱をねじってしまう。それから現在に至るまで本堂は何度も建て替えられたが、弁慶の恨みのこもったこの柱は、「弁慶のねじり柱」といって、どうしてもねじれてしまうのだという。今も本堂の東の入り口の柱が大きくねじれている。
これは実際には、本堂を建立した際に生乾きの木材を使用したために狂いが生じてしまったためである。
空を飛んだ柱
1313年、火災で全焼した善光寺の再建のために多くの木材が必要となった。文重という男が用材のために大木を伐り倒そうとしたところ、大蛇が現れて作業を邪魔した。その夜、文重の夢に大蛇が現れて言った。「私はこの木に住み着いてもう何百年にもなる。だが、この木が善光寺の柱になるなら喜んで協力しよう。」
翌日、再度大木を伐採しようとしたところ、今度は難なく伐り倒すことができた。文重は大勢の力を借り、姨捨山の近くまで大木を引いてくるが、泥にはまってしまう。途方に暮れていたところ、大木は急に天高く飛び上がり、空を飛んで行ってしまった。やがて木は遠く離れた広い道の上に降りた。こうして、大木は無事善光寺に届けられたという(虎関師練『善光寺飛柱記』による)。
残された台座の謎
1783年、浅間山の天明大噴火が起こると、不思議なことに本堂から一体の仏様が浅間山に向かって飛び去って行った。その後、本堂の欄間の二十五菩薩を見ると、なんと菩薩が一体なくなっており、その跡には台座(蓮台)だけが残った。人々は語った。「あれは虚空蔵菩薩だったに違いない。浅間山の守り神だから居ても立ってもいられず、浅間山の様子を見に行ってしまわれたのだろう。」と。それ以来、菩薩は帰ってこず、今でも本堂の欄間には台座だけが残っている[106]。
なお、浅間山大噴火と善光寺の関係は、等順大僧正による被災地上野国鎌原村(現・群馬県嬬恋村鎌原)での救済活動が知られているが、この伝説では触れられていない。
幽霊の絵馬
(『信州善光寺御堂額之写』より「幽霊の絵馬」)
九州の長崎にいた中村吉蔵という男が、妻と新しく生まれた赤子と共に善光寺参りに向かうが、途中で妻は息を引き取ってしまった。悲しんだ吉蔵だったが、仮の弔いを済ますと、自ら赤ん坊を抱いて旅を続け、善光寺の一里手前の丹波島の渡しまでやって来た。渡し舟に乗ろうとすると、なんと亡くなったはずの妻がそこに立っている。妻は赤ん坊を受け取るとお乳を与えた。そして一緒に舟に乗って川を渡ると、善光寺までやって来た。共にお参りをすると、妻の姿はすうっと消えたという。
吉蔵はその後、幽霊の妻と善光寺参りをする姿を描いた絵馬を奉納した。この絵馬は今でも忠霊殿にある善光寺史料館に陳列されている。
塩竈大明神御本地
花園少将は謀略により都を追われ、陸奥国多賀(現在の宮城県多賀城町)へ下った。その恋人である内大臣の姫君はそのあとを追い、修行者となって善光寺に参詣し、善光寺の尼と称し羽黒に参詣、ついに多賀の少将ののもとにたどり着く。二人の間に文珠王という子ができ、文珠王は都は出て中納言になり、少将は塩竈大明神になった。
善光寺と歴史上の人物
聖徳太子
史実かはさておき、聖徳太子と善光寺の関係は大変深かった。それは善光寺縁起に聖徳太子が登場していることからも明らかである。この善光寺縁起は善光寺聖による語りや絵解きによって全国に広まり、善光寺は太子信仰の霊場としても機能するようになった。実際、善光寺の境内には現在も聖徳太子像などが様々にある。それは以下の通りである[109]。
本堂内の聖徳太子像:内々陣の御三卿像の右前に、笏を持った聖徳太子の摂政像が安置されている。善光寺資料館の太子像:等身の聖徳太子像で、江戸時代の木造の孝養像(太子が16歳のとき父・用明天皇の病気平癒を祈ったという説話をもとにした像)である。
浄願坊の太子像:聖徳太子を祀る浄願坊の本尊が、これである。『善光寺道名所図会』によれば、これは太子自身が彫った木造だという。江戸時代の出開帳では、この像も共に開帳されるのが通例であった。
大本願の太子像:大本願の宝物殿に長野市指定有形文化財の「木造聖徳太子立像」がある。鎌倉時代後期の作で壮年期の太子像とされるが、実際には二十八部衆の婆藪仙人の像だと考えられている。しかし、長く聖徳太子像として信仰されてきた。
城山の木匠祖神社:善光寺の東に隣接する城山に木匠祖神社があり、その祭神の一つが聖徳太子である。
雲上殿の壁画:雲上殿には野生司香雪によって描かれた善光寺縁起の壁画があり、そこには日本の部分に、象徴的に聖徳太子が描かれている。
また、聖徳太子と善光寺如来が手紙を交わしたという伝承も残っている。縁起にもあるように、善光寺如来は生きている仏だったため、手紙を書くこともあったわけである。それが出てくるのは『善光寺縁起』や『聖徳太子伝』である。前者によれば、太子は亡父・用明天皇のために7日間南無阿弥陀仏を唱え、善光寺の本尊に「どうか私が人々を救うのを助けて、常に守護してください」という手紙を書いた。それに対しての善光寺如来の返事は、「汝はよく衆生を救うので、私は必ず守護するであろう」というものであった。その後、2度3度と手紙のやり取りをしたという話もある。
ところで、法隆寺には善光寺如来御書箱という絶対に開けてはならないとされる秘宝が収蔵されており、これには善光寺如来が聖徳太子に宛てた手紙が入っているとされていた。が、後の調査で明治時代に開封されていたことがわかり、それを写した文書が東京国立博物館にあった。その内容はやはり、善光寺如来から聖徳太子に宛てた1通目の手紙であった。
小林一茶
小林一茶は現在の長野県上水内郡信濃町柏原で敬虔な浄土真宗門徒の家に生まれ、生涯にわたってその信仰を貫いた。御開帳に詣でた記録もあり、行脚中に四国の松山で行われた回国開帳にも参詣している。50歳で郷里に帰った一茶は、門人たちを巡って俳諧を指導したが、その際に宿泊した場所は「善光寺」が210日で、3番目に多い。善光寺の門前町は公式な地名はないが、「善光寺」「善光寺町」などと呼ばれており、このことである。『父の終焉日記』では、一茶は父の薬をもらいに善光寺町の医者のもとに来て、町の中で父のために季節外れの梨を探している[112]。
一茶の友人であった今井柳荘は善光寺大勧進の寺侍で、代官を務めていた。善光寺大門町の門人・滝沢柯尺は善光寺宿の宿老を務めた大商人だった。新町の上原文路、小林反古もそれぞれ地域の有力者で、一茶を支えていたのはこうした善光寺地域の顔になる人々だった。その没後、一茶を世に広めたのも善光寺周辺の人々だった[112]。
小林一茶が善光寺を詠んだ句は、約50句ある。善光寺周辺を含めればその何倍もある。ここに代表的なものを挙げる。
春風や牛に引かれて善光寺:1822年の御開帳を詠んだ句だと思われる。善光寺東庭園に句碑がある。
うそ寒や仏の留守の善光寺:出開帳中の留守を守る善光寺の寂寥感を詠んでいる。
凍とけぬうちに参るや善光寺:#お朝事のことを江戸時代に朝開帳と言った。その早朝の様子。
雀子も朝開帳に参りけり
人の日や本堂いづる汗けぶり:七草会の儀式に集まる人々の混雑を詠む。
み仏や寝ておはしても花と銭:#釈迦堂・釈迦涅槃像の涅槃会。
かいだんの穴よりひらり小てふ哉:お戒壇めぐりの穴の中から小さい蝶が舞い出てきた。
負さって蝶もぜん光寺参かな
浴るともあなたの煤ぞ善光寺:毎年12月28日に行われるお煤払いの行事。「あなた」とは浄土真宗でいう阿弥陀如来のことである。
文化
善光寺にまつわる慣用語
「牛にひかれて善光寺参り」:思いがけないことが縁で、偶然よい方に導かれること。由来の伝説は前述。
「堪忍信濃の善光寺」:おそれ入谷の鬼子母神などと同様、「堪忍しなさい」に掛けた言葉遊び。
「胴上げ」の発祥は長野市善光寺とする説がある。善光寺において、12月の2度目の申(さる)の日に、寺を支える浄土宗14寺の住職が五穀豊穣、天下太平を夜を徹して祈る年越し行事「堂童子(どうどうじ)」で、仕切り役を胴上げする習慣がある。この行事は江戸時代初期には記録があり、少なくともその頃から胴上げが成されていたことは確かである。「ワイショ、ワイショの掛声のもと、三度三尺以上祝う人を空中に投げ上げる」と書かれている。
「遠くとも一度は詣れ善光寺」:「救い給うは弥陀の誓願」と続く。
「身はここに心は信濃の善光寺 導き給え弥陀の浄土へ」
善光寺を舞台にした作品
柏崎(能)
木賊(狂言)
東海道中膝栗毛:旅の途中で善光寺に参詣している。
お血脈(落語)
長門有希ちゃんの消失:涼宮ハルヒシリーズの一作。ハルヒが企画した、合宿と称した旅行で登場する。
スポーツ
大勧進の僧侶であった矢澤一輝は、カヌー競技日本代表として2008年北京オリンピック、2012年ロンドンオリンピック、2016年リオデジャネイロオリンピックと3大会連続でオリンピックに出場した[114]。なお、2020年東京オリンピックへの出場は逃した。
ゆかりの寺社
善光寺三鎮守:武井神社、妻科神社、湯福神社
善光寺七社:三鎮守に加え、柳原神社、木留神社、加茂神社、美和神社
善光寺七寺(文献により異なるので7以上ある):阿弥陀院宗光寺、光明院妙観寺、本願寺長野別院、往生院、時丸寺、十念寺、正覚寺、無常院、明行寺
寛慶寺:善光寺山内寺院の一つ。近世には西方寺、康楽寺と共に三寺と称されて重んじられた。
西光寺 (長野市):かるかや山。現本堂再建時に宿舎とされた。
駒形嶽駒弓神社:善光寺の奥の院と呼ばれる神社。
往生寺 (長野市): 同じく奥の院と呼ばれる。
北向観音:善光寺と向かい合っているといわれており、両方参詣することを推奨している(片参り)。
鎌倉・室町時代
江戸時代以降
参考:『2025年 全国の行ってみたい寺院ランキングtop20』旅探たびたん https://www.homemate-research-religious-building.com/temple/popular_ranking/
*参考テキスト『仏像図解新書』石井亜矢子 小学館新書↓
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概説 仏の種類と見分け方
第一章 如来ー心理を悟った無上の仏さま
第二章 菩薩ー仏になるため悟りを求める修行者
第三章 明王ー憤怒の形相で迷い苦しむ人々を救済する
第四章 天ー仏法を守る多芸多才な尊格
第五章 そのほかの尊像ー日本で生まれたユニークな神仏