2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
新潟県は→北陸の項に入れました。
青森市公式ホームページ(観光) https://www.city.aomori.aomori.jp/bunka-sports-kanko/kankou/index.html
参考:『青森市』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%A3%AE%E5%B8%82
青森市(あおもりし)は、青森県の津軽地方・東青地域にある市。青森県の県庁所在地及び人口が最多の都市であり、中核市に指定されている。青森湾に臨む交通の要地。江戸初期に港町として発展。三内丸山遺跡や青森ねぶた祭が知られる。
本州最北の県である青森県のほぼ中央に位置する。県の西半部を指す津軽地方においては北東部に位置し、東津軽郡の町村と東青地域を構成する。青森平野を中心とし、北は陸奥湾の支湾である青森湾に面し、南部から東部にかけては奥羽山脈の北端部にあたる八甲田山・東岳山地の山が連なり、西部で市域は津軽半島の脊梁山脈である梵珠山地や津軽平野に広がる。市街地は青森湾沿いの中心市街地から青森平野上を扇状に展開しており、行政都市・商業都市・交通都市・港湾都市の性格を有する。
東北地方を縦貫する路線および本州と北海道をつなぐ路線の結節点であり、日本国内の交通・物流における要衝である。西の津軽半島と東の夏泊半島に抱かれた青森湾奥に青森港があり、函館港との青函航路をフェリーが運航している。鉄道は新青森駅が東北新幹線の終点、北海道新幹線の起点となっている。また、青い森鉄道線(旧東北本線)と奥羽本線が青森駅で合流して終点となり、津軽線が津軽半島の青森湾沿いを北に延びている。道路は東北自動車道が青森インターチェンジで終点となり、国道4号と国道7号も中心部で終点となって接続している。また、南西部の丘陵地には青森空港がある。
陸奥湾はその大きさに対して湾口である平舘海峡の幅が狭いため外洋の影響を受けにくい。湾外から入った波浪は広い湾内で拡散するため、波高が小さく穏やかで、また潮汐によって流入または流出する海水が限られるため干満差も小さい。こうした安定的な海域環境は養殖業や港湾に適し、沿岸ではホタテの養殖が営まれ、湾奥の青森港は岩礁もなく静穏度が高い天然の良港となっている。
南東部の八甲田山一帯は十和田八幡平国立公園に指定されており、四季を通じた観光地となっている。北東部の浅虫地区は浅虫夏泊県立自然公園に指定されている。市内には温泉が多く、八甲田山麓の酸ヶ湯や湾岸の浅虫温泉などがある。
観光→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%A3%AE%E5%B8%82#%E8%A6%B3%E5%85%89
青森県南西部の市。もと津軽氏の城下町。第二次大戦前は第八師団が設置された。リンゴ栽培が盛ん。津軽塗・こぎん刺しの産地。夏には、ねぷた祭りが行われる。平成18年(2006)2月、岩木町・相馬村と合併。人口18.4万(2010)。
出典 小学館デジタル大辞泉
*弘前市の公式プロモーション動画集(youtube)はこちら→『プロモーションサイト弘前市』(公式)
例)弘前城石垣修理はじまります!!、101回目への弘前公園の桜、岩木山登山、弘前城が動く、弘前城曳屋 全工程、お山参詣など
陸奥国鼻和郡(のち統合と外浜(青森)、西浜(十三湊)を編入で津軽郡)弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。
江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積38万5200平方メートルに及んだ。現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている(詳細は後述の「文化財」を参照)。小説家の司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく - 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。
[初代天守] 最初の天守は、鷹岡藩2代藩主の津軽信枚により1609年(慶長14年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物である。内部6階と推定される建築は東北地方では若松城天守に次ぐものであった。しかし1627年(寛永4年)9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して(4重目に吊るされていた釣鐘が落下して下層に収納してあった火薬に引火したとも)大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。天守は再建されることなく、今でも天守台を支えていた石垣は本丸南西隅に聳えている。
なおこの天守火災は当時、藩主・信枚の伯母(初代津軽為信の正室・阿保良の姉)の祟りだと信じられていた。伯母は為信のために、横内城城主で南部氏一族の夫・堤弾正左衛門から離縁され失意の内に病没しており、城はそれから30年ほども経ってから完成しているのだが時折、伯母の怨霊が城内に現れていたという。
[天守(御三階櫓)] 本丸唯一の現存建築である天守は層塔型3重3階の建物である。現在は独立式であるが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式であった。この多聞櫓は明治29年(1896年)ごろまでに破却されている。天守の高さは約14.4メートルあり、現存する三重天守の中で最も低い。
1627年(寛永4年)大爆発して焼失した5重天守の代用として、またロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた。1810年(文化7年)着工、1811年(文化8年)に竣工した。往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍などの多くで天守として扱われている。昭和20年(1945年)の空襲で水戸城天守が、昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、関東以東で唯一の、そして最も北に位置する現存天守である。
外壁は白漆喰塗籠で、窓と狭間の上下に長押形を施し、また屋根瓦には寒冷地のため銅瓦を葺いている。外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いるなど小さな建物を華美で大きく見せる視覚効果が施される。一方で、内側である西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけである。いわゆる「二方正面」である。内部も通常の天守建築では最高級の木材や技術が用いられるが、弘前城の場合は普通の櫓と同等の木材が用いられ、構造的にも簡素であり、床も全て敷居を設けず畳を敷くことが想定されていないなど、当初から倉庫として利用されることを見込んだ構造となっている。。
平成の天守石垣の修理において明治・大正時代の壺の発見や天守台石垣の四隅からイカの形をした石垣が発掘された。イカの形をした石は市が「いかすみ石」と名付けた。
『弘前城』Wikipediaより
(ちよろぎ)弘前城は現在(2023年)、100年ぶりの石垣修理事業中です。石垣が外に膨らむ「はらみ」が見られたためです(崩壊の怖れ)。天守の下の石垣も修理を行うため、天守は曳屋で移動しています。
参考:『弘前城本丸石垣修理事業』弘前市HP
修理事業について細かく情報が共有されているページです。
*曳屋の様子(シミュレーション)→『弘前城が動く!』プロモーションサイト弘前市Ch.
*実際の様子→『弘前城天守曳屋 全工程(高所作業車から撮影)』プロモーションサイト弘前市Ch.
全工程を早送りにした動画。
青森県弘前市で開催される弘前四大まつり(弘前ねぷた、弘前城菊と紅葉まつり、弘前城雪燈籠まつり)のひとつである春祭り。
弘前市により所有・管理されている弘前公園で開催され、全国でも屈指の桜の名所として日本さくら名所100選、人と自然が織りなす日本の風景百選に選ばれている。ソメイヨシノ、シダレザクラなど約50種2,600本の桜が咲く。
「桜のトンネル」のほか、日本最古のソメイヨシノ(1882年植栽)や、日本最大幹周のソメイヨシノ(約5m15cm)が花を咲かせる様子を見ることができる。また、園内の四の丸演芸場では様々な催し物があるほか、弘前公園内の弘前市民会館では津軽三味線全国大会や津軽五大民謡大会などのイベントも開催される。
基本的に、毎年4月23日から5月5日に開催だが、桜の開花時期によっては照明点灯や露店の営業時期を変更する場合がある。夜間特別照明(ライトアップ)は、18時頃から23時まで。特にゴールデンウィークと会期が重なる為、この期間の行楽客では、「高田城址公園観桜会」、「博多どんたく」や「ひろしまフラワーフェスティバル」と並び日本各地の観光客数の比較では毎年上位となる。
『弘前さくらまつり』Wikipediaより
参考:『弘前さくらまつり2023』HP→https://www.hirosakipark.jp/sakura/
東北地方から北関東の各地で行なわれてきた旧暦 7月7日の行事の一つ。特に青森県で盛大な祭りとなっている。「ねぶた」の名は,睡魔を流しはらうとして豆の葉やネムノキの葉で眼をこすって流す「眠た流し」(「眠り流し」ともいう)の行事に由来するといわれるが,ネムノキを「ねぶた」と呼び,家の柱につけて悪魔を眠らせるというところや,7日早朝に子供が川で水浴びすることを「ねぶた」というところもある。いずれも悪疫をはらう意味がある行事で,これに盆行事の霊を送る火祭が結びついたものが,青森県内で盛大に行なわれているねぶた祭りと考えられる。東北三大祭の一つとして知られる青森市のねぶたは,勇壮な人物像などの灯籠を引き回すものだが,弘前市や黒石市などでは,武者絵などを描いた「ねぷた」と呼ばれる扇形の灯籠をかついで町中を練り歩く。また,五所川原市では立佞武多(たちねぷた)と呼ばれる人物像の載る高さ 20mもの山車型灯籠を引き回す。秋田の竿灯も,本来は「眠り流し」と呼ばれており,ねぶたとはかたちは異なるものの,同じ種類の行事といえる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2020年日本地理に弘前市とその周辺の文化・歴史的観光資源と作物を問う問題が出題された。
青森県南西部,津軽平野の南部にある市。南で秋田県に接する。1889年市制。1955年に裾野村,新和村,高杉村,船沢村,藤代村,和徳村,豊田村,堀越村,千年村,清水村,東目屋村の 11村を,1957年には石川町をそれぞれ編入。2006年岩木町,相馬村と合体。青森県西半の経済,文化,交通の中心地。岩木川が流れ,北西に岩木山(1625m)を望む。かつて弘前藩 10万石の城下町として発達。町並みは城を中心として周囲を武家屋敷が取り囲み,その外側に町屋敷があったため,道路は鍵型や袋小路が多い。日本最大のリンゴ産地で,りんご酒,りんごジャムなどの加工も行なわれるほか,米作も盛んである。伝統的工芸品に津軽塗,こぎん刺繍,ブナ製品がある。弘前城,長勝寺,旧第五十九銀行本店本館,石場家住宅など国指定重要文化財が多いほか,瑞楽園は国の名勝に指定。岩木山北東麓の大森勝山遺跡は環状列石が配されているなど縄文晩期の重要な遺跡で,2021年「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録された。このほか市域北部には水田跡が残る砂沢遺跡がある。8月1~7日に行なわれるねぷた(→ねぶた)は国の重要無形民俗文化財。岩木山一帯は津軽国定公園,岩木高原県立自然公園に属する。JR奥羽本線が通り,弘前駅より弘南鉄道弘南線が分岐,黒石に通じている。弘南鉄道大鰐線,国道7号線,102号線が通り,市域南東部に東北自動車道の大鰐弘前インターチェンジがある。弘前大学がある。面積 524.20km2。人口 16万8466(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
◎重要伝統的建造物群保存地区『弘前市仲町(青森県)』
地区名:弘前市仲町
種別:武家町
面積:約10.6ヘクタール
選定年月日:昭和53年5月31日
特徴:弘前城の城下町は、南北に長く東西に短いほぼ矩形の弘前城を、自然地形を活かしながら四方から取り囲むように配置された。今は搦手門となっている北門(亀甲門)が当初の弘前城の大手門であり、その北側に亀甲町と呼ばれる一筋の町人町をはさんで、数か町の侍町が配置され、この侍町が「仲町」と呼ばれている。保存地区は往時の地割りをよく踏襲しているほか、道路沿いに連続するサワラの生垣、点在する門や板塀、前庭の樹木が独特の景観を生みだし、前庭の奥に建つ木造真壁造の主屋とともに城下町の雰囲気を残している。
取組→サワラ生垣剪定に剪定奨励金を出してまちを調える。無電柱化工事。消流雪溝整備。地区内の4軒の武家住宅を観光客や市民に広く公開している。
日本地理2020年問題で岩木山の火山の種類を問う問題および麓の地区で火山の特性を生かして栽培される作物の種類が出題された。
青森県西部にある火山で鳥海火山帯に属す。活火山で,常時観測火山。愛称津軽富士。標高 1625m。津軽平野に富士に似た姿でそびえる円錐形の成層火山で,山頂部は中央の岩木山,北の巌鬼山,南の鳥海山の 3峰からなる。地質はおもに新第三紀層を基底とする安山岩。古くから霊山として農民の信仰を集めた。南麓に岩木山神社があり,江戸時代からお山参詣(国の重要無形民俗文化財)の行事がある。最後の噴火は文久3(1863)年。山麓一帯には百沢温泉,岳温泉,湯段温泉などの温泉があり,弘前方面からの登山口になっている。鰺ヶ沢方面からは長平,板柳方面からは大石が登山口。1965年岳温泉から 8合目まで津軽岩木スカイラインが開通。バス終点から鳥海山頂にはリフトが通っている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[嶽きみ](だけきみ)(岩木山の麓の嶽地区の名産とうもろこし)
「嶽きみ(だけきみ)」とは、青森県産のとっても甘いブランドとうもろこしです。
青森県弘前市の西部にある、津軽富士ともいわれる美しい山「岩木山(いわきさん)」。その麓、標高400~500メートルにある「嶽(だけ)高原」で栽培、収穫されたとうもろこしだけを「嶽きみ(だけきみ)」と呼びます。
◎メロンよりも甘い!フルーツとうもろこし「嶽きみ」
青森県弘前市にある津軽富士ともいわれる「岩木山(いわきさん)」の麓にある「嶽(だけ)高原」
糖度約18度~20度の圧倒的な甘さ
とうもろこしは、気温が暖かくなると糖度が減少していきます。そこで「嶽きみ」は収穫時間にもこだわり、最も糖度が高い早朝に収穫しています。
採れたての「嶽きみ」の糖度はなんと18度以上。メロンなどの果実並み、もしくはそれ以上の甘さです。
生でも食べられるこの甘さ、プチプチした弾ける食感とジューシーさはやみつきになること間違いなしです。
◎甘さの秘密は、10度の寒暖差と良質の土
「嶽きみ」の産地である「嶽(だけ)高原」は、昼夜の寒暖差が約10度という厳しい気候の高原です。 その厳しい環境で育てらた「嶽きみ」は甘さが増し、濃厚な風味が生まれるのです。
さらに、良い土づくりに関しても長年研究され、とうもろこしに合う有機質たっぷりの土壌をつくりあげ、一層旨みが増した「嶽きみ」になりました。
◎そもそも「きみ」とは?
青森県のとっても甘いブランドとうもろこし
「嶽きみ」の産地、青森県津軽地方で使われている方言、津軽弁。
津軽弁ではとうもろこしを「きみ」と呼びます。 呼び名の由来は、「とうもろこし」から「とうきび」、「きび」と変化し、「きみ」となったと言われています。
参考:嶽きみ(だけきみ)とは ANEKKO あねっこ(嶽きみを買える通販サイト)
参考:『国道394号 城ケ倉大橋』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93394%E5%8F%B7#%E5%9F%8E%E3%83%B6%E5%80%89%E5%A4%A7%E6%A9%8B
国道394号は津軽地方と南部地方を最短で結ぶ幹線道路であるにも関わらず、旧道城ヶ倉 - 沖揚平間は城ヶ倉峡谷の急峻な地形を幅員狭く急勾配の九十九折りで越す難所であった。昭和49年度より当該部分を付け替え、長大な城ヶ倉大橋によって城ヶ倉峡谷をまたぐ設計となった。城ヶ倉大橋は城ヶ倉峡谷を眼下に見下ろすアーチ橋であり、観光スポットとしても機能するよう付帯設備が設計されている。
参考:『城ヶ倉大橋』青森県観光情報サイトAmazing AOMORI https://aomori-tourism.com/spot/detail_130.html
参考:『城ヶ倉大橋』一版社団法人 黒石観光協会 https://kuroishi.or.jp/sightseeing/jougakura
所在地 青森県青森市荒川字南荒川1-1
概要 橋長…360m
有効幅員…11.5m
橋の高さ…122m
総工費…87億円
形式…上路式2ヒンジソリッドリブ
アーチ橋、鋼重3,430t
アクセス 黒石インターから車で約35分
交通規制 冬期間は夜間通行止め。
駐車場 橋の両端(全2箇所) 各15台
※黒石側のみ大型バス専用スペースが2台分あります。
トイレ 橋の両端に完備。
(身障者用含む)
※黒石側は冬期間
閉鎖。
お問い合わせ先 東青地域県民局地域整備部
〒030-0943
青森市大字幸畑字唐崎76-4
TEL 017-728-0200
青森県東部を流れる奥入瀬川の一部。十和田湖岸の子ノ口ねのくちから焼山までの14キロメートルの渓流。両岸にはカエデ・ブナの林が続く。十和田八幡平国立公園に属し、景勝地として知られる。
出典 小学館デジタル大辞泉
[奥入瀬川]
青森県南東部、十和田湖を源とし、三本木原を東流して太平洋に注ぐ川。全長約七〇キロメートル。上流部の奥入瀬渓流は、ブナ、ナラ、カエデなどの原生林に包まれた渓谷美で知られ、十和田八幡平(はちまんたい)国立公園の一部。下流部は相坂(あいさか)川ともいう。
出典 精選版 日本国語大辞典
青森,秋田県境にあるカルデラ湖。面積 61km2。周囲 46km,湖面標高 400m,最大水深 327m,透明度 9m。八甲田火山群の初期の活動による陥没で湖の輪郭が形成され,中央火口丘成立後2度目の陥没で中海が形成された。東岸の子ノ口 (ねのくち) から排水,奥入瀬川となって太平洋に注ぐ。湖岸をめぐる山々は,カルデラの外輪山にあたり,御鼻部山 (1011m) ,白地山 (1034m) などが連なる。湖面側は急崖をなし,外側斜面はカエデ,ブナ,マツなどの混合林がおおう。春の新緑,秋の紅葉が美しい。 1903年和井内貞行がヒメマスの養殖に成功。南西岸に生出 (おいで) 養殖場がある。奥入瀬渓流を含めて特別名勝,天然記念物に指定されている。十和田八幡平国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
十和田湖畔休屋周辺にある「おとめ像」(昭和28(1953)年)は詩人であり彫刻家の高村光太郎の傑作として知られ、十和田湖のシンボルとなっている。当時の津島知事・横山副知事は「世界的な景勝地に、ありきたりの石碑では似つかわしくない」 と高村に依頼。高村も現地を訪れて快諾。高村はこの像完成の後、体調を崩して亡くなったので、高村最後の作品となった。原型の小像は高村より青森県に贈られ、現在は青森郷土博物館に展示されている。
参考:『乙女の像』一般社団法人 十和田湖国立公園協会 歴史・伝説ミステリアス十和田湖
青森県北西部,津軽半島北西端に突出する岬。外ヶ浜町に属する。付近は標高 100mの台地で,海食崖や海食洞があり,海上には奇岩が重畳して豪壮な海岸美を展開,津軽国定公園に含まれる。「たっぴ」はアイヌ語の「たむぱ (刀) 」を意味する。本州と北海道を結ぶ青函トンネルの入口にあたる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
青森県北西部、津軽半島北西端の岬。北海道の白神岬と青函トンネルで結ばれる。津軽国定公園の一部。
出典 小学館デジタル大辞泉
青函トンネル竜飛斜坑線(せいかんトンネルたっぴしゃこうせん)は、一般財団法人青函トンネル記念館が運営している、青森県東津軽郡外ヶ浜町の青函トンネル記念館内にあるケーブルカーである。
地上の「青函トンネル記念館駅」と地下の「体験坑道駅」を結んでおり、総走行距離は778 m(うち海面下部分が140 m)である。青函トンネル記念館駅(正確には同駅に面する道路を挟んで反対側にある建屋内)に巻き上げ機があり、同駅では2名の係員のうち1名がケーブルカーの操作、1名が風通門の開閉を行う。体験坑道駅には係員が1名待機している。定員40名の車両が1両で運転され、全線が単線ですれ違い部分はない。ただし、体験坑道付近に分岐点があり、作業輸送用の線路が存在する。車両には「セイカン1」の形式名と「もぐら号」の愛称が付けられている。記念館の休館中も、トンネル内のメンテナンス作業のために使用されているが、車両は作業用のもの(定員は営業用より少ない)を使用する。
実質的には一施設におけるアトラクションに近い形態であるが、鉄道事業法に基づいて運営されており、同法により運賃・ダイヤグラムの設定や安全報告書の公表が義務付けられている。
元々は青函トンネル工事における作業員の移動や物資の輸送などを目的として建設されたもので、青函トンネルにある2つの定点のうち、本州側の竜飛定点(旧・竜飛海底駅)に通じている。青函トンネルを走行中の列車が火災などを起こしたときは、原則としてはトンネルを走り抜けるが、それが難しい場合は列車が竜飛定点または吉岡定点(旧・吉岡海底駅)に停車する。北海道側の吉岡定点の斜坑にも同様の目的で建設されたケーブルカーが存在するが、こちらは体験坑道としての一般公開はされておらず、鉄道事業法に基づく事業許可も受けていない。乗客は各定点にあるケーブルカーで地上に避難する。
現行運賃(2021年4月23日改定)は片道600円・往復1,200円(小人半額)であるが、通常は往復利用のみで片道乗車券の発売はない。青函トンネル記念館(展示ホール)の入場料とのセット割引券もある。
営業は9時台から17時台までで、閑散期は50分間隔、多客期は25分間隔で運行される。冬季(11月上旬 - 翌年4月下旬)は、アクセス道路の国道339号が閉鎖されるため青函トンネル記念館が休館し、本路線も運休する。
かつて北海道旅客鉄道(JR北海道)が実施していた「竜飛海底駅見学コース」では竜飛海底駅と体験坑道駅を行き来できていたが、青函トンネル記念館から当路線を利用して下りた場合は竜飛海底駅に入場することはできなかった。当時の見学順は次の通り。
青函トンネル記念館駅 -(ケーブルカー乗車:9分) - 体験坑道駅 … 徒歩による構内での説明(約40分から45分・構内にトイレなし)… 体験坑道駅 -(ケーブルカー乗車:7分)- 青函トンネル記念館駅
竜飛海底駅については2013年11月10日で見学を終了し、2014年3月14日限りで廃止されたが、当路線の運行および体験坑道の見学は2014年度以降も実施されている。
『青函トンネル竜飛崎斜抗線』Wikipediaより抜粋
◎青函トンネル記念館HP→ http://seikan-tunnel-museum.jp/
◎同HP 青函トンネル記念館基本情報→ http://seikan-tunnel-museum.jp/info.html
◎同HP『体験坑道』→ http://seikan-tunnel-museum.jp/tunnel.html
「海面下140mの別世界を体験。
竜飛斜坑線で行く体験坑道。
津軽海峡の海の底を貫く青函トンネル。
実際に工事作業に使った地下の坑道を体験して24年という長い工期の末にたどり着いた その壮大なプロジェクトを体感してください。
体験ツアーの所要時間は約40分です。」
◎運休のお知らせ
「ケーブルカーもぐら号 運休のお知らせ
9月11日営業終了後の検査において、車枠に亀裂があることを確認しました。
関係各所と協議の結果、安全確保のため運行はできないものと判断しました。
今年度の営業開始から多くの方にご利用をいただいておりましたが、残りの営業期間は運休となる見通しです。
「ケーブルカーもぐら号」の乗車を楽しみにしていた皆様には誠に申し訳なく、ご迷惑をおかけしますことをお詫び申し上げます。
職員一同、来年度以降の運行継続に向けた取り組みに努めてまいりますので、皆様のご理解とご協力をよろしくお願い申し上げます。
館内展示ホール、レストラン、売店は11月6日まで休まず通常営業しております。」
青森県東津軽郡蟹田町大平村外ヶ浜町蟹田大平・蟹田山元。
蟹田(かにた)川左岸の標高二六−二八メートルを有する低位河岸段丘上に営まれた、旧石器時代終末から縄文時代草創期の遺跡群。遺跡は三地区に分かれ、それぞれ大平山元I・同II・同III遺跡と呼称されている。昭和五〇年(一九七五)から五ヵ年にわたり県立郷土館が発掘調査を実施し、平成元年(一九八九)および同一二年から現在にいたるまで町教育委員会が調査を行っている。その結果、I遺跡では局部磨製石斧・石鏃・尖頭器・石核のほか、若干の縄文時代草創期に属する無文土器が出土し、II遺跡では舟底形石器・彫器・尖頭器・ナイフ形石器に加えて、湧別技法(北海道の湧別川流域に多い石器製作法)による細石刃などの刃器、石器製作所や焼礫を含む礫群(炉跡)などの遺構も発見された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」
津軽半島北部、外ヶ浜そとがはま町にある縄文時代草創期の遺跡。日本最古とされる土器片をはじめ、石器・石鏃せきぞくが出土。令和3年(2021)「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。
出典 小学館デジタル大辞泉
1996年(平成8年)11月に2両、2000年(平成12年)2月に3両、計5両が製造された津軽鉄道の気動車である。沿線の金木町出身の作家、太宰治の作品にちなみ、「走れメロス」の愛称がつけられている。
朝夕のラッシュ時を除く時間帯の列車をワンマン運転とすること、冷房化による快適性の向上をねらって、国、青森県からの補助金と、沿線の1市2町2村からなる津軽鉄道活性化協議会からの助成を受け、1967年(昭和42年)製のキハ24024以来津軽鉄道29年ぶりの新造車として導入された。1996年(平成8年)11月に21-101、102の2両、2000年(平成12年)2月に21-103、104、105の3両、計5両が製造され、沿線の金木町出身の作家、太宰治の作品にちなみ、「走れメロス」の愛称がつけられている。18 m級車体の両運転台車、車内はセミクロスシートで、車椅子スペース、ワンマン運転設備を備える。
1996年(平成8年)11月18日から津軽鉄道津軽五所川原駅 - 津軽中里駅間で営業運転に使用されている[3]。ワンマン運転は前乗り前降り方式で、2両運転の場合は後ろ側の車両の扉は締め切られる[5]。2007年(平成19年)2月からストーブ列車に特別料金が必要となったため、ストーブ列車に一般車として連結されるようになった。ストーブ列車の牽引機が不調の場合は本形式がストーブ列車を牽引することもある
『津軽鉄道津軽21形気動車』Wikipediaより抜粋
[津軽鉄道]
津軽鉄道が運行する鉄道路線。青森県五所川原市の津軽五所川原駅から北津軽郡中泊町の津軽中里駅を結ぶ。冬期に車内にダルマストーブを焚いた「ストーブ列車」が運行される。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
[参考記事]
『津軽鉄道』ANA JAPAN TRAVEL PLANNER
青森県北津軽郡中泊町大字中里にある津軽鉄道線の駅である。同線の終着駅となっている。
1930年(昭和5年)11月13日:開業。
2005年(平成17年)11月1日:金木 - 津軽中里間のスタフ閉塞化に伴い夜間列車滞泊を廃止するとともに、委託駅となる。
2007年(平成19年)10月25日 - 11月30日:橋の老朽化に伴う補修工事により列車が大沢内駅までの運行となったことに伴い当駅までの列車が運休する。なお、大沢内駅から当駅までの区間はバス代行となった。
『津軽中里駅』Wikipediaより抜粋
津軽鉄道は日本(本州)最北の私鉄、津軽中津駅は日本(本州)最北の駅。
*津軽鉄道HP https://tsutetsu.com/
「きのこの山・たけのこの里」と「風鈴列車」コラボ再び!~きのたけ風鈴列車~運行いたします。(運行時間追記) 同上HP
2023年8月14日 / お知らせ より
冬はストーブ列車で有名だが、夏は風鈴列車になるらしい。
小説家。本名津島修治(しゅうじ)。明治42年6月19日、青森県北津軽郡金木(かなぎ)村(現、五所川原(ごしょがわら)市)に生まれる。津島家は新興地主で、貴族院多額納税議員の資格があった。青森中学、弘前(ひろさき)高校を経て東京帝国大学仏文科中退。中学時代から同人雑誌を刊行。芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の影響から出発したが、高校時代は当時の左翼文学にも関心を示した。1930年(昭和5)上京後、非合法運動にカンパするなどのかかわりをもったことから長兄文治(ぶんじ)に分家除籍され、バーの女給と江の島近くの小動ヶ崎(こゆるぎがさき)で心中を図り、女は死亡。自殺幇助(ほうじょ)罪に問われたが起訴猶予となる。弘高時代からのなじみの芸妓(げいぎ)小山初代(おやまはつよ)と同棲(どうせい)後も習作を続けるかたわら、非合法運動にアジト提供などで関係していた。1932年、兄の勧めで青森警察署に自首、左翼との関係を絶つ。同人誌『海豹(かいひょう)』に『魚服記(ぎょふくき)』『思ひ出』(ともに1933)を発表して注目され始める。上京直後から井伏鱒二(いぶせますじ)に師事し、やがて佐藤春夫にも庇護(ひご)を受ける。
1935年大学卒業の見込みのないまま都(みやこ)新聞社(『東京新聞』の前身)の入社試験を受けて失敗、鎌倉の山中で縊死(いし)を図る。その後まもなく虫垂炎から腹膜炎を併発、一時重態となり、治療中に鎮痛剤パビナールを多用して中毒となる。この間に第1回芥川賞の候補となるが落選。翌年に同賞の選考委員であった佐藤春夫へ向けて「芥川賞をもらへば、私は人の情に泣くでせう。さうして、どんな苦しみとも戦つて、生きて行けます。」という書簡を送った話は有名である。第一創作集『晩年』(1936)に収められたこの時期の作品は、さまざまな小説作法を試みて多彩である。『道化の華』(1935)など、自我解体期の作家の苦悩を表現する文体を模索した。パビナール中毒根治のため精神科病院に入院中に初代が過失を犯し、やがて離別。1939年石原美知子と結婚し『富岳百景』を発表したころから、いわゆる中期の安定期に入る。短編集『女生徒』で北村透谷(とうこく)賞を受賞。戦中の作品は、『駆込(かけこ)み訴(うった)へ』(1940)、『新ハムレット』(1941)、『津軽』(1944)、『新釈諸国噺(ばなし)』『お伽草紙(とぎぞうし)』(ともに1945)などで、古典その他に材を得たものが多く、純文学の孤塁を守った。
故郷津軽で敗戦を迎え、『パンドラの匣(はこ)』(1945)、『冬の花火』『春の枯葉』(ともに1946)などで、時局便乗の自由思想に反発し、真の人間革命を望んだ。上京後ジャーナリズムの脚光を浴び、『ヴィヨンの妻』『斜陽』(1947)、『人間失格』(1948)を書いて無頼派などとよばれた。昭和23年6月13日、山崎富栄(とみえ)と玉川上水に投身自殺する。
生家は旅館「斜陽館」として残されていたが、のちに金木町(現、五所川原市)が買い取り、1998年(平成10)に太宰治記念館「斜陽館」として開館した。[鳥居邦朗]
『『太宰治全集』全12巻(1978~1979・筑摩書房)』▽『奥野健男著『太宰治論』(1956・近代生活社、のち角川文庫)』▽『饗庭孝男編『鑑賞日本現代文学21 太宰治』(1981・角川書店)』▽『相馬正一著『評伝太宰治』全3巻(1982~1985・筑摩書房)』▽『檀一雄著『小説太宰治』(1992・審美社)』▽『津島美知子著『回想の太宰治』増補改訂版(1997・人文書院)』▽『野原一夫著『太宰治生涯と文学』(ちくま文庫)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
『斜陽館』五所川原市HP
「明治の大地主、津島源右衛門(太宰治の父)の手で建設された入母屋作りのこの建物は、明治40年、米蔵に至るまで日本三大美林のヒバを使い、当時のお金で工事費約4万円をかけて造られました。
階下11室278坪、2階8室116坪、付属建物や泉水を配した庭園など合わせて宅地約680坪の豪邸です。
太宰はこの家を『苦悩の年鑑』の中で「この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。」と書いています。
この豪邸も戦後になって津島家が手放し、昭和25年から旅館「斜陽館」として旧金木町の観光名所となり、全国から多くのファンが訪れていました。
しかし、平成8年3月に旧金木町が買い取り、旅館「斜陽館」は46年の歴史に幕を降ろしました。」
リンク先に平面図があるが、本当に広大な邸宅。
参考:『太宰治記念館「斜陽館」』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%A4%A8_%E3%80%8C%E6%96%9C%E9%99%BD%E9%A4%A8%E3%80%8D
建物は1907年(明治40年)に太宰の父で衆議院議員であった津島源右衛門によって立てられたもの[1]。当時の住所は青森県北津軽郡金木村。
太宰が中学進学に伴い1923年(大正12年)に青森市へ転居するまでこの家で暮らした。東京へ出た後、共産党の非合法活動に協力したり、何度か心中を繰り返したため郷里から勘当された。勘気を許されてこの家に戻る事が許されたのは、1942年(昭和17年)に太宰の母タネが亡くなった後である。その後1945年(昭和20年)、太宰は戦況悪化に伴い妻子を連れて疎開。翌年までこの地にとどまり、文筆活動を続ける。小説『思ひ出』や『津軽』等には太宰がこの家に対して抱いたイメージが記されている。
太宰の死後1950年(昭和25年)に津島家はこの家を売却[1]。町内の旅館経営者が買収し太宰治文学記念館を併設した旅館として改装され太宰の小説『斜陽』から「斜陽館」と命名された。1950年から営業をはじめた旅館「斜陽館」は太宰ファンが多く宿泊に訪れており、中には喫茶店も併設されていた。また文学記念館は宿泊者以外にも公開され、多くの太宰ファンでにぎわった。
しかし、1988年(昭和63年)ごろから宿泊客が減少し、さらに1990年(平成2年)に所得税の申告漏れにより1億円あまりの追徴課税を受けたため経営が悪化[1]。これにより、経営者が手放す旨を発表した[1]。これに対して、1996年(平成8年)金木町(当時[3])は経営者から斜陽館を買い取り、町営の文学記念館として再出発することになった[1]。旅館は1996年4月7日に廃業し[1]、1998年(平成10年)、名称が現在の《太宰治記念館 「斜陽館」》と改められて改装オープンした。新しく改装された斜陽館では従来のような宿泊は出来なくなったものの太宰の文学資料、また昭和初期の大地主であった津島家の貴重な資料を展示する資料館として多くの観光客、太宰ファンが訪れている。
最も津軽弁の残る町として秘密のケンミンショーで認定された。
https://youtu.be/ebHw40hmvR0?si=7K31qCafS-4IFbpg (youtube)
出身有名者に太宰治がおり、生家は斜陽館と呼ばれ資料庫となっている。
参考:『金木町』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%9C%A8%E7%94%BA
参考:『五所川原立佞武多』公式HP https://tachineputa-official.jp/
参考:『五所川原立佞武多』五所川原市 https://www.city.goshogawara.lg.jp/kyouiku/bunka/tachineputa.html
五所川原立佞武多は、高さ20メートル以上、重さ16トンという巨大なもので、弘前市の扇ねぷたとも、青森市の人形ねぶたとも違う、明治末期の巨大化した佞武多の様式を伝えています。運行形態は、大太鼓(忠孝太鼓)を先頭に、台車に乗せた立佞武多を数十人の引き手が台車の左右に付けたロープにとりつき2列になって引きます。2列の間には、太鼓、笛、手平鉦で構成される数人の囃子方が囃子を奏し先頭となり、次いで数十人のハネトが「ヤッテマレ」などのかけ声をかけてはねながら続きます。
19世紀に入ると、人形灯籠の出現と「ねぷた」の大型化という大きな変化が生じ、これによって「ねぷた」はより華やかで盛大な祭りになりました。
「ねぷた」は江戸時代後期から大型化してきましたが、明治時代に入ってますます大きくなり、高さが20メートル級、30メートル級の巨大ネプタが出現するようになりました。五所川原でも明治40年頃に高さ15間(約27メートル)に及ぶ「ねぷた」が作られていましたが、電灯線や電話線が張り巡らされるようになると高さが制限され小型化していきました。
今日当市で運行されている「立佞武多」は、明治40年代に作られていた、高さ15間(約27メートル)に及ぶ古い「ねぷた」の写真を見て復元を試みた有志が平成8年に作ったものが始まりで、平成10年からは、運行経路となる路上の電灯線、電話線を整理し、市民総ぐるみの夏祭りとして実施されています。
立佞武多の人形は、前年9月下旬頃下絵を完成させ、それに基づいて10月から制作にかかります。大型のため数個の部分に分けて作り、上貼り、色付けの工程を経て2月中旬頃に組立を終えます。
青森県西津軽郡深浦町舮作にある温泉。
泉質は、ナトリウム-塩化物泉。
湯の色は最初透明だが、すぐに含まれる鉄分が酸化して濃い茶褐色となる。
塩分濃度がかなり高く、口に含むと塩辛く感じる。
加水掛け流し方式。
温泉街ではなく、一軒宿の「不老ふ死温泉」(株式会社黄金崎不老不死温泉が経営)。
海辺の岩場にある露天風呂が有名で、日本海に沈む夕日の写真が雑誌などで紹介されることが多い(日出から日没まで入浴可能)。ひょうたん型の混浴浴槽と楕円型の女性専用浴槽が設けられている。
もともと海岸にわずかに温泉が湧いていた場所で、1970年に地下200mまでボーリングしたところ自噴したという。
アクセス
鉄道:五能線艫作駅より徒歩約15分。リゾートしらかみ利用の場合、ウェスパ椿山駅より無料送迎バスあり。
冬季のみ「リゾートしらかみ」が運転されない日に限り、新青森駅からの無料送迎も行う。ただし、宿泊日の3日前までに要予約。
『黄金崎不老不死温泉』wikipediaより
*黄金崎不老ふ死温泉HP→ https://www.furofushi.com/company/
アクセスページでは、不老ふ死温泉を白神山地などの青森秋田方面のお出かけの拠点としてお薦めしている
日帰り利用 大人1000円 小学生500円(現金支払いのみ)
立寄り入浴ご利用時間
■ 本館内風呂(黄金の湯)混雑時は入場制限あり(状況により利用時間内であっても終了の場合がございます。)
OPEN 9:00 CLOSED 19:00(最終受付 18:30まで) ※繁忙期は8:00~20:00まで営業
■ 新館内風呂(不老ふ死の湯)混雑時は入場制限あり(状況により利用時間内であっても終了の場合がございます。)
OPEN 10:30 CLOSED 14:00 (最終受付 13:30まで) ※パノラマ露天風呂あり。
■ 海辺の露天風呂 混雑時は入場制限あり(状況により利用時間内であっても終了の場合がございます。)
OPEN 9:00 CLOSED 16:00(最終受付 15:30まで) ※繁忙期は8:00~受付 ※海辺にシャワー施設はございません。 ※浸かるだけとなりますので、内風呂でお体を洗浄後にご利用願います。 ※高波や雷雨など悪天候時はご利用できません。 ※露天風呂では撮影禁止です。通報する場合もございます。 ※夏季はアブや磯ブヨなどが発生いたします。気になる方は露天風呂のご利用はお控えください。 ※冬季は気温や強風の影響で湯温があがらない場合、入浴できる湯温にする為、混浴のみのご利用になる場合がございます。
その他
【内風呂備え付け】
リンス・シャンプー
ボディソープ
ドライヤー
【券売機にて販売】
浴衣(レンタル) 300円
バスタオル(レンタル) 300円
ミニタオル(販売) 300円
タオルセット 500円
湯あみ着(レンタル)400円
※貴重品は内風呂ロッカーまたはフロントでお預かりいたします。
冬季は3日前からの要予約で新青森駅から送迎あり(2024年未定)。
青森県南西部,白神山地の北西麓,日本海沿岸付近に連鎖状に散在する大小約三十数個の湖沼群。深浦町に属する。湖は周囲の岩山の崩壊により河川がせき止められてできたもので,十二湖の名は湖沼の中心にある崩山 (940m) 山頂から見おろすと 12の湖が見えることに由来。付近は広葉樹の原生林に囲まれ,またグランドキャニオンを思わせる日本キャニオンがあり風光明美。越口ノ池ではニジマスの養殖が行なわれる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2020年日本地理に男鹿半島の地形のなりたち、観光スポット、温泉郷、伝統芸能、郷土料理についての出題があった。
秋田県西部,日本海に突出する半島。面積 224km2。大部分が男鹿市に属する。新第三紀層の出羽山地から取り残された男鹿島が,二つの砂州によって結びつけられた陸繋島。南の砂州は雄物川の運んだ土砂で形成されたもので,全長約 22km,幅約 4km。北の砂州は米代川の土砂で構成され,全長約 24km,幅 2km。男鹿島は新第三紀の火山岩からなり,溶岩円頂丘(鐘状火山)の本山や二重式火山の寒風山が噴出。西部には大規模な海食崖や,一ノ目潟などのマールが発達。南東の船川,西の戸賀,北の北浦に港がある。北端には入道崎,八望台などの景勝地や男鹿温泉があり,1973年男鹿国定公園に指定され,半島一周道路が完成。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[入道崎]
秋田県西部,男鹿半島北西端の岬。 30mの断崖と海岸段丘から成る。先端に 1898年初点の灯台や無線方位信号所がある。北方に水島の岩礁があり,夏は絶好の行楽地となる。入道崎から海岸の断崖上を走る入道崎八望台道路が通じる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[男鹿温泉]
秋田県北西部の男鹿市にある温泉。男鹿半島北岸に位置する。泉質は食塩泉。泉温は 56℃。神経痛や胃腸病に効能がある。入道崎や戸賀湾に近いことから,男鹿観光の中心地として観光客でにぎわう。旅館は大規模なものがほとんどで,いずれも設備が整っている。どの宿でも日本海の魚介類を楽しめ,桶に熱した石を入れて煮立てる石焼が名物料理として知られる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[なまはげ]
別項
[石焼]
石を熱して熱源とする料理法。各地に石焼きの郷土料理があるが、名称は同じでも内容は違う。原始的な料理法で、野趣がある。(中略) 秋田県男鹿(おが)半島の石焼きは、海女(あま)がとった生きている海の小魚を器の中に泳がせておき、その中に熱い小石を数多く加えて煮る。
[多田鉄之助]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
参考:秋田県男鹿半島の観光情報サイト 男鹿なび『石焼料理』
その昔、男鹿の荒磯で木舟を操る漁師たちは、獲った魚や海藻、ネギなどを水を張った桶に入れ、そこに船内の火道具(火鉢)の炭火で真っ赤になるまで熱した小石を次々に放り込んで一気に煮込み、味噌を加えて調味したものを昼食として食べていたそうです。
粗野で奔放な調理法ながら新鮮な魚介類のダシがきいた格別な味わいの漁師料理を、観光客の方にも味わっていただこうと、男鹿温泉の男鹿ホテルがアレンジして提供しはじめた「磯焼(いそやき)」を発祥として、現在の「石焼料理」に名を変え、男鹿の名物料理として定着しています。
男鹿温泉のお宿や入道崎等の飲食店で食べることができ、音と湯気をあげて瞬時に沸き上がる豪快な調理方法を目の前で楽しんでいただき「男鹿に来たお客様にもっと歓んでもらいたい」という男鹿人のおもてなしの心が生んだ「目で、耳で、舌で楽しむ男鹿の名物料理」です。
石焼料理に欠かせない石は男鹿では「生き石」「金石(かないし)」とも呼ばれている火山岩で正式名称を「溶結凝灰岩」。その名は、内部にすき間がなく硬くて割れにくく、高温に耐えて金属のように真っ赤に焼ける、ということに由来します(とは言え、いくら金石でも急激な温度の変化には耐えきれず、平均すると3回くらいで割れてしまうそうです)。
秋田県中西部、男鹿半島(おがはんとう)の東部にある二重式火山。標高355メートル。山容はコニートロイデ型、全山芝生に覆われている。男鹿国定公園に含まれる。最初の火山活動は60メートルの段丘を貫いて溶岩台地を形成、次の活動で塔の峰(展望台のある所)や、蛇越長根(じゃこしながね)のドームが形成された。1810年(文化7)この付近を震源とする群発地震の記録があり、死者61名に上ったという。山頂北西側には経ノ町(きょうのまち)とよばれる直径約600メートルの第一次噴火口がみられ、南西方には古玉ノ池(ふるたまのいけ)といわれる新火口が鉢状に残っている。
[宮崎禮次郎]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
*参考
『寒風山のみどころ』秋田県男鹿半島の観光情報サイト 男鹿なび
秋田県男鹿市や潟上市などで大みそかの晩に行なわれている,なまはげと呼ばれる鬼が家々を訪ねて回る行事。1964年からは,男鹿市の真山神社(しんざんじんじゃ)で 2月13~15日(今日では 2月第2金曜日~日曜日)になまはげ柴灯祭り(せどまつり)も行なわれているが,本来は小正月(1月14日または 15日)の晩の行事。最も知られている男鹿市の例では,大みそかの晩,神籤(みくじ)で選ばれた若者が,赤鬼・青鬼の面を着け,藁蓑に藁靴姿で,手には木製の包丁と手桶を持って家々を回る。家々では主人が正装して迎え,家の中に入ったなまはげは,大きな音や声で子供や初嫁たちをおどし戒めるとともに,餅や酒,ごちそうのもてなしを受ける。なまはげの名は,いろり端に座ってばかりいるとできるナモミという皮膚の赤みをはぐ「ナモミ剥ぎ」からきているといわれ,怠け心とそれに象徴される悪疫をはらう意味がある。1978年に「男鹿のナマハゲ」として重要無形民俗文化財に指定された。同様の行事は,山形県のアマハゲ,石川県能登半島のアマメハギなど,東北地方から北陸地方にかけて分布している。また,鹿児島県の甑島列島(→下甑)でも,大みそかの晩に,鬼が家々を訪れて子供を戒めるとともに餅を授けるトシドンの行事がある。(→小正月の訪問者)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
秋田県男鹿(おが)半島の村々の小(こ)正月行事。国の重要無形民俗文化財。また「来訪神:仮面・仮装の神々」を構成する行事の一つ(「男鹿のナマハゲ」)として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産にも登録されている。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
秋田県にかほ市にある湧水の滝。環境省が2008年に選定した「平成の名水百選」のひとつ。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
『元滝伏流水』鳥海山・飛島ジオパークHP
滝の大きさは落差約5m、幅約30mで、湧き出す水の水温は一年を通してほぼ10度です。夏になると、冷たい湧水と周囲の気温との温度差によって滝の周りに霧が生じ、コケに覆われた溶岩の表面が霧の中に浮かんだような、幻想的な景観をつくり出しています。
秋田県能代市元町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)五能線の駅である。
起点の東能代駅から来た列車は大半が当駅までの1区間で折り返す。これは幹線である奥羽本線から能代市の代表駅である当駅を接続するためである。
バスケットボールの町らしく、ホームにバスケットゴールがある。「リゾートしらかみ」(1号、3号のみ)の乗客は停車中にフリースローに挑戦でき、シュートが入ると記念品を貰える。
『能代駅』Wikipediaより抜粋
*能代駅は、能代科学技術高校が前身の秋田県立能代工業高校時代(2021年3月まで)、バスケットボール部が58タイトル(33回全国優勝)を獲得し、常勝高と呼ばれていたことと関連し、ホームにバスケットゴールが設置されている。
参考:『旧能代工業高校バスケットボール部 加藤廣志元監督の追悼展』3月8日 NHK
秋田県北西部、山本郡にある町。2006年(平成18)山本郡琴丘町(ことおかまち)、山本町、八竜町(はちりゅうまち)が合併して成立。旧八郎潟の北方と東方に位置し、干拓されてできた大潟(おおがた)村とは八郎潟調整池の東部承水路および西部承水路を挟んで接する。東部の丘陵地からゆるやかな傾斜で西部の平坦地に至る地勢で、町域の中央を三種川が流れる。西端は日本海に面する。JR奥羽本線、国道7号(羽州街道)、101号が通じ、秋田自動車道の琴丘森岳(もりたけ)と八竜の2インターチェンジが設置されている。
南東部の琴丘地区は、米作、畜産を行う農業が基幹産業で、八郎潟干拓による農地配分を受けている。鹿渡(かど)は羽州街道の宿駅であった。北東端には原生林の広がる房住山(ぼうじゅうざん)があり、新秋田観光三十景に選ばれている。スポーツ施設の充実が図られ、総合運動公園がつくられている。北東部の山本地区は、三種川流域に水田が広がり、またジュンサイを特産する。森岳は羽州街道の宿駅としてにぎわった。森岳温泉を中心に観光開発が進められている。森岳歌舞伎などの民俗芸能がみられる。西部の八竜地区では砂丘地農業が行われ、メロン、スイカ、アスパラガスなどを特産する。海岸の砂防林は寛政(かんせい)年間(1789~1801)栗田定之丞(くりたさだのじょう)らの砂留・植林事業。また、釜谷浜は「日本の水浴場88選」にも選ばれ、海水浴シーズンには砂の彫刻コンクールも開催される。大山家住宅は江戸末期の農家で国の重要文化財。面積247.98平方キロメートル、人口1万5254(2020)。[編集部]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
*参考:『じゅんさいの栽培状況』じゅんさいJAPAN(三種町森岳じゅんさいの里活性化協議会)
じゅんさい市場の約8割は中国産、18%が秋田県三種町(森岳)産であるそう。
[八郎潟]
秋田県西部,男鹿半島基部にある潟湖で,男鹿半島とこれをつなぐ2つの砂州によって囲まれた海跡湖。かつては面積 223.2km2,周囲 78km,最大水深 4.7mで,琵琶湖に次ぐ日本第2の湖であった。ボラ,シラウオ,ワカサギ,フナ,ハゼなどの淡水,海水魚が生息し,漁業が盛んであった。早くから干拓の計画が立てられていたが,農林省がオランダと技術提携し,1957年国営事業として着工。潟の約4分の3を干拓し,中央部 156.70km2,周辺部 15.60km2を農地,残りの南部水面を調整池とし,東部承水路,西部承水路により中央干拓地を囲むという大規模な工事であったが,64年工事は完了し,中央干拓地に大潟村が発足した。大農法による日本農業のモデルを形成している。干拓後は面積 27.7km2,周囲 35km,最大水深 12mである。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[大潟村]
秋田県北西部,八郎潟の干拓地に 1964年に誕生した村。八郎潟干拓は江戸時代以降,幾度か計画されたが実現しなかった。 56年農林水産省の管轄で計画が立てられ,翌年オランダの技術を導入して着工。 66年潟面積約2万 2000haの中央に約1万 6000haの干拓地が生れた。 67年から入植者を募集し,全国から合計 580戸,2821人が移住 (74年第5次募集まで,その後 79年に9戸が追加入植) 。大型機械農業を目指し,1戸あたりの経営規模は平均 15ha,6戸で1グループとし,90haの圃場をもつ大規模なもの。共同作業,大型機械の利用,直播の水田農業が基本方針。西部の総合中心地には行政・文教・医療厚生・文化・金融機関などが集る。中央幹線排水路に沿ってソーラースポーツラインが走り,バッテリーカーやソーラーカーのレースが行われている。面積 170.11km2。人口 3011(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*参考
『大潟村の生い立ち』JA大潟村
いわゆるミニ新幹線の一つで、東北新幹線に乗入れて運転される特急「こまち」が走る、軌間1435ミリメートルの盛岡―大曲(おおまがり)―秋田間のJR線127.3キロメートルの通称。東日本旅客鉄道(JR東日本)の運営。線路名称上は盛岡―大曲間(75.6キロメートル)が田沢湖線、大曲―秋田間(51.7キロメートル)が奥羽本線に属する。
秋田新幹線は、山形新幹線に次いで2番目にミニ新幹線化された線区で、1990年(平成2)、JR東日本が秋田ミニ新幹線技術検討プロジェクトを発足させ、1992年1月に国、秋田県、岩手県、JR東日本の間で費用の負担割合についての合意がなされて、同年3月工事に着手、1997年3月22日、開通した。田沢湖線は全線軌間1067ミリメートルから1435ミリメートルに改築されて(全線単線)、在来線車両の乗入れはできなくなったが、普通列車は車両を新軌間に合わせて改造して運行されている。奥羽本線の区間は1067ミリメートル軌間と1435ミリメートル軌間の単線各1本が並行する線路配置となった(ただし、奥羽本線峰吉川(みねよしかわ)―神宮寺(じんぐうじ)間の在来線を3線区間として、新幹線をこの区間で複線化し、新幹線列車の行違いができるようになっている)。東京―秋田間に直通する特急「こまち」は、東北新幹線では特急「はやて」と併結されて、盛岡からは単独で秋田新幹線の区間に入る。この区間は最高時速130キロメートルに制限されているが、「こまち」は東京―秋田間をもっとも速い列車で3時間50分で走破する。[青木栄一・青木 亮]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
2022年日本地理に3河川以外の河川を問う出題。また、地場産業、食文化についても問うた。
岩手県のほぼ中央にある中核市。岩手県の政治,経済,文化の中心地で県庁所在地。市の中心部は北上川,雫石川,中津川の合流点に位置し,水と緑に恵まれる。市域北東部は北上高地中部の山地。1889年市制。1928年米内村,1940年厨川村,1941年中野村,浅岸村,本宮村の 3村,1955年簗川村,太田村と玉山村,滝沢村の一部,1992年都南村,2006年玉山村をそれぞれ編入。市名は城名に由来する。寛永10(1633)年盛岡城が築かれて以来,盛岡藩の城下町として繁栄。明治4(1871)年県庁が置かれ,県政の中心となった。市街地は北上川と中津川の段丘上にあり,旧盛岡藩の重臣の屋敷があった内丸は県庁,裁判所,市役所などの官庁街となり,JR盛岡駅前,大通り,中ノ橋通りは中心商店街を形成。岩手大学,岩手医科大学などがある。伝統の南部鉄器のほか,機械,繊維,紙,食品などの工場がある。稲作,リンゴの栽培など,北部では酪農,畜産も行なわれる。東北自動車道や東北新幹線の開通,商業卸センターを含む岩手流通センターの建設によって東北地方北部の流通,観光,学術の拠点都市を形成している。北東部の外山高原と早坂高原周辺が外山早坂高原県立自然公園に指定されるほか,三陸復興国立公園,十和田八幡平国立公園の観光中継地。市内には岩手銀行(旧盛岡銀行)旧本店本館など国の重要文化財に指定される建造物が多数存在するほか,盛岡城跡,志波城跡(ともに国の史跡),原敬記念館,五百羅漢群像を安置する報恩寺などがある。国の天然記念物に盛岡石割ザクラ,竜谷寺のモリオカシダレのほか,大ヶ生(おおがゆう)の竜源寺,肴町(さかなちょう),門(かど)の 3ヵ所のシダレカツラがある。永井の大念仏剣舞(だいねんぶつけんばい)は国指定重要無形民俗文化財。北西部の渋民は石川啄木の出身地として知られ,石川啄木記念館がある。JR東北本線が盛岡で田沢湖線(秋田新幹線)と山田線に分岐。盛岡からは IGRいわて銀河鉄道となり,好摩(こうま)で JR花輪線が分岐している。国道4号線,46号線,106号線,396号線,455号線などが通り,東北自動車の盛岡,盛岡南インターチェンジがある。面積 886.47km2。人口 28万9731(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
岩手県中部の市。1889年市制。1992年都南村を編入。県庁所在地。北上盆地北部と東部の山地を占め,北上川と支流雫石(しずくいし)川の合流部を中心に市街があり,東北本線,東北新幹線,東北自動車道が通じ,山田線,秋田新幹線(田沢湖線)が分岐。16世紀末南部信直,利直2代により盛岡城(不来方(こずかた)城)が築かれ,20万石の城下として発展した。1871年県庁が置かれ,県の行政・文化・交通の中心をなす。製造品出荷額は2233億円(2003)で県内4位。乳業・繊維工業,伝統的な南部鉄瓶,南部キリ等の生産が行われるが,第3次産業人口が80%(2005)と高く,消費都市的傾向が強い。中心を中津川が流れ,東部の旧市街から西部の駅方面へ中心商店街が延びる。岩手大学,東北農業研究センター,岩手公園(不来方城(こずかたじょう)(盛岡城(南部氏)の前身)跡),石割桜(天然記念物),厨川柵(くりやがわのさく)(安倍氏)跡があり,西部には繋(つなぎ)温泉がわく。チャグチャグ馬っこは有名。2006年1月岩手郡玉山村を編入。東日本大震災で,市内において被害が発生。886.47km2。29万8348人(2010)。
→関連項目岩手[県]|わんこそば
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南部藩ともいう。江戸時代,陸奥国岩手郡盛岡地方 (岩手県) を領有していた藩。藩主の南部氏は鎌倉時代以来の豪族で,天正年間 (1573~92) の信直を藩祖とする。第2代利直は関ヶ原の戦いで東軍に属して 10万石の所領を安堵され,第4代重信は寛文4 (1664) 年甥の直房に2万石を分与して支藩八戸 (はちのへ) 藩を興し,8万石となった。さらに天和3 (83) 年には領地拡大のため 10万石の分限となり,文化5 (1808) 年には第 11代利敬が松前警備のため高直しにより 20万石となった。文政2 (19) 年には支藩七戸 (しちのへ) 藩1万 1000石を創設。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍に加わったため 13万石に減封,廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2021年に盛岡冷麺・わんこそばの盛岡市の独特な食文化を問う出題があった。
岩手県盛岡市の名物料理で、小さい椀に一口分のそばを入れ、食べ終わるとすぐに次のそばを投げ入れ、客が断るまで次々におかわりが出されるそば。祭りなどでふるまう行事食として作られてきた。盛岡冷麺・じゃじゃ麺とともに盛岡三大麺といわれる。
出典 講談社日本の郷土料理がわかる辞典
[じゃじゃ麺]
岩手県盛岡市の郷土料理で、ゆでた平たいうどんに、肉みそ・きゅうり・ねぎをのせたもの。ラー油、おろししょうが、にんにくなどを加えて食べることが多い。麺を食べたあとの皿に生卵を割り入れ、麺のゆで汁を注ぎスープにするのが一般的な食べ方。第二次世界大戦後に満州から伝わった。わんこそば・盛岡冷麺とともに盛岡三大麺といわれる。
出典 講談社日本の郷土料理がわかる辞典
その他の岩手県の郷土料理については、農林水産省の『うちの郷土料理』(岩手県)に詳しい。
ひっつみ(汁)、がんづき、きりせんしょ、まめぶ汁、柳ばっと、氷頭なます、かまもり、ひなまんじゅう、どんこ汁、しみだんご、くるみ豆腐、ぬっぺい汁など
2021年度に盛岡冷麺とわんこそば以外の盛岡の郷土料理(麺)について問う出題があった。
岩手県盛岡市の名物料理で、ゆでて冷やした麺にキムチ・きゅうり・ゆで卵・季節の果物などの具材を盛りつけ、冷たいスープをかけたもの。戦後、朝鮮料理の冷麺をもとに考案された麺料理。朝鮮の冷麺はそば粉につなぎのでんぷんを合わせるが、盛岡冷麺はそば粉は用いず、小麦粉とでんぷんで麺を作るのが特徴。牛肉や鶏がらなどでとったスープを用いる。わんこそば・じゃじゃ麺とともに盛岡三大麺といわれる。
出典 講談社日本の郷土料理がわかる辞典
残りの選択肢はサンマーメン、太平燕(タイピーエン)、にゅうめんである。
サンマーメンは、もやし・白菜・豚肉などが入ったあんをかけた中華風の汁そば。横浜市が発祥とされる。
タイピーエン(太平燕)は熊本の名物料理。鶏ガラや豚骨でとったスープに春雨の麺とゆで卵(揚げ卵)や豚肉、魚介、野菜を入れたもの。元来は福建省のスープ。小麦粉の麺でない春雨の麺であるため、ダイエット麺として知られている。
にゅうめんは、素麺を温かい出汁で似た料理、奈良県の郷土料理。手延べそうめんの発祥の地、三輪素麺が作られる三輪山麓発祥と言われている。
[概要]
日本の東北地方、岩手県南西部(古代の陸奥国磐井郡)にある古くからの地名であり、現在の岩手県西磐井郡平泉町の中心部にあたる。
この地域一帯には平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年6月26日(現地時間:6月25日)にユネスコの世界遺産リストに登録された。日本の世界遺産の中では12番目に登録された文化遺産であり、東北地方では初の世界文化遺産となった。
[構成遺産]
中尊寺
中尊寺(ちゅうそんじ)は、平泉町にある天台宗東北大本山である。国宝の金色堂、重要文化財の経蔵などを含み、境内は国の特別史跡に指定されている。世界遺産登録IDは1277rev-001 (Chûson-ji) である。
寺伝によれば開山は9世紀の円仁で、中尊寺の寺号は清和天皇より下賜されたものという。ただし、中尊寺の寺観が整ったのは、12世紀の藤原清衡による伽藍造営時である。清衡は前九年の役で父と安倍一族、後三年の役で弟など相次いで家族を亡くしたこともあり、敵味方を区別せずに戦没者の魂を浄土へ導くことと、東北に優れた仏教文化を根付かせることを目指し伽藍を建立した。
清衡は12世紀初頭に多宝堂(最初院)を建立したのを皮切りに、多くの建造物群からなる大伽藍を建立した。二階大堂という巨大な堂宇は後に鎌倉の永福寺のモデルにもなったが、それらの建造物群は1337年の火災であらかた焼失した。金色堂は当時の姿のものが残っているが、本堂は1909年に再建されたものである。
金色堂
金色堂(こんじきどう)は国宝に指定されている阿弥陀堂である。藤原清衡によって建立され、棟木銘から1124年(天治元年)に完成したことが判明する。高さ8m、平面の一辺が約5.5m で、堂内外の全面に金箔を張り、柱や須弥壇には蒔絵、螺鈿、彫金をふんだんに使った華麗な装飾がほどこされている。須弥壇上には阿弥陀如来を中心に多くの仏像を安置し、須弥壇内部には清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体や泰衡の首級が納められている。このミイラの存在はかつてアイヌの習俗と結び付ける見解も提示されていたが、現在では、当時の京都でも見られた仏教の様式を取り入れたものと理解されている。
当時の建造物群があらかた焼失した中尊寺にあって、創建当初の姿を伝える貴重な建造物であり、2006年に行われた巻柱の年輪年代学による年代鑑定の結果からもそれは裏付けられた。
覆堂
国宝の金色堂は現在コンクリート造りの覆堂(さやどう、おおいどう)で守られ、ガラスケースの中に納められている。これは1970年に建造されたものであり、室町時代中期に建造されたそれ以前の旧覆堂は境内の別の場所に移築され、「金色堂覆堂」の名称で重要文化財指定を受けている。
結果的に登録に差し支えることはなかったが、ICOMOS の勧告では、コンクリート製の新覆堂が景観の真正性の観点から若干問題視されていた。
経蔵
経蔵(きょうぞう)は、清衡によって奉納された『紺紙金銀字交書一切経』(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう、国宝)をはじめとする写経群を納めていた建造物である。1126年(天治3年)の「中尊寺落慶願文」には「二階瓦葺経蔵一宇」とあり、当初は2階建てであった。1337年(康永2年)の「中尊寺梵鐘銘」によれば、この年、中尊寺の伽藍は金色堂を残して焼失した。現存する経蔵は、平安時代の古材を再用して中世に再興されたものと推定される。『紺紙金銀字交書一切経』などは現在寺内の讃衡蔵に移管されているが、経蔵の建物は重要文化財の指定を受けている。
毛越寺
毛越寺(もうつうじ)は平泉町の寺院である。1226年の火災で多くの伽藍が失われ、1573年に完全に焼失した。そのため、当時の本堂は残っていないが、浄土式庭園は特別名勝に、境内は特別史跡に指定されている。特別史跡と特別名勝の二重指定は、国内には8例しかない。世界遺産登録IDは 1277rev-002 (Môtsû-ji) である。
開山は円仁と伝えられるが、再興したのは藤原基衡で、当時としては最大級の規模を誇る寺院であった。『吾妻鏡』の「寺塔已下注文」によれば、中尊寺が「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」に対し、毛越寺は「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」とされていた。
現在残る浄土式庭園は平安時代の様式をそのまま残すもので、特に遣水の遺構は平安時代の様式を伝える唯一のものであり、その規模の大きさとともに特筆されている[50]。
常行堂(じょうぎょうどう)は当時のものではなく、1732年に再建された宝形造の堂宇だが、そこで毎年1月20日に行われる「延年の舞」(えんねんのまい)は重要無形民俗文化財となっている。世界遺産推薦に当たっても、当時の浄土思想を伝える無形文化財としての価値に触れられていた[34]。
観自在王院跡
観自在王院跡(かんじざいおういんあと)は、平泉町に残る遺跡で、名勝に指定されている。世界遺産登録IDは1277rev-003 (Kanjizaiô-in Ato) である。
観自在王院は藤原基衡の妻によって建立された寺院だが、1573年に焼失した。昭和時代の二度にわたる発掘調査(1954年 - 1956年、1972年 - 1977年)と、修復事業(1973年 - 1978年)によって、当時の姿を偲ばせる庭園が復元された。毛越寺とは南北道路を隔てて隣接しているが、その毛越寺の庭園に比べ、優美ではあるものの簡素な意匠であることが指摘されている。
現在も基衡の妻の命日である5月4日には、その死を悼んで始まったという「哭き祭り」(なきまつり)という祭事が行われている[37]。
無量光院跡
無量光院跡(むりょうこういんあと)は特別史跡に指定されている巨大な阿弥陀堂跡で、世界遺産登録IDは1277rev-004 (Muryôkô-in Ato) である。
『吾妻鏡』は藤原秀衡が平等院鳳凰堂を模して建立したと伝えており、1952年の発掘調査の結果もそれを支持するものであった。平泉で京都の様式を全面的に模した寺院が建立されたのはこれが初めてで、京都に比肩する北の王都を建造しようという秀衡の意図の表れと指摘されている[53]。
もちろん、浄土思想の色彩が強い平等院の模倣は、浄土を表現する意思の現われとも指摘されている。建立に当たっては、当初から西方極楽浄土が強く意識され、庭園、阿弥陀堂、背後の金鶏山が東西方向に並ぶように配置されている。その空間配置は、世界遺産への推薦に当たっても浄土式庭園の最も発展した形とされた。
金鶏山
金鶏山(きんけいざん)は、平泉町にある標高 98.6 m の山である。2005年に史跡に指定された。世界遺産登録IDは1277rev-005 (Mt Kinkeisan) である。
金鶏山は奥州藤原氏の都市計画において基準点をなしたと推測されており、山頂の真南には毛越寺境内や幹線道路と直行する道路の端が存在している。また、彼岸の時期に無量光院の堂宇を庭園の中島から眺めると、堂宇の背景で金鶏山の山頂と日没が重なるように見ることができたとされ、単なる基準点にとどまらず、西方極楽浄土を想起させる空間設計上も重要な位置を占めた。
平泉wikipediaより(構成資産)
中尊寺HP(リンク先は案内図・索引ページ) https://www.chusonji.or.jp/around/index.html
料金・アクセス→ https://www.chusonji.or.jp/worship/index.html
(2024年2月17日現在は大人個人で800円)
新幹線の場合→東北新幹線仙台駅または盛岡駅から一ノ関駅30~40分、JR東北本線に乗り換えて平泉駅まで9分、平泉駅からバスが出ている(4分ほど)。参道を20分弱上がると本堂を過ぎたところに金色堂がある。建物は保存と安全のために鉄筋コンクリート、中に入るとガラススクリーンで保護された向こうに金色堂が見える。(特別な許可がないと研究者でも入ることができない)
奥州藤原氏が金色堂や金銀泥で書かれた納経など金を豊富に使えたのは、東北一帯の金を支配していたからだ。藤原清衡は前九年後三年の戦死者を祀るため、山を切り開き、中尊寺などを建て、平泉に宗教拠点を作った。しかし、頼朝に奥州藤原氏が滅ぼされた後、平泉一帯は灰燼に帰したものの、金色堂は創建当時のまま残り、頼朝・政子によって平泉は保護された。頼朝は中尊寺二階大堂に倣って鎌倉に永福寺(二階堂)(当サイト日本地理関東地方(神奈川県・鎌倉)の項参照)を建てたりもした。しかし南北朝時代・戦国時代・豊臣秀吉時代を経て寺宝も関西に持ち去られた(高野山などで大切に保護されたので却って残ったとも)。江戸時代に入っては伊達氏に篤く保護され、寺領も確保された。参道沿いの樹齢350年の杉林も伊達藩によって植樹されたもの。
そののち廃藩置県・廃仏毀釈で荒れた中尊寺・金色堂であったが、金閣寺の放火をきっかけとする「文化財保護法」の第1号として金色堂が指定され、その他3,000点以上の宝物が国宝・重要文化財の指定を受けた。
昭和25年(1950)には金色堂須弥壇(しゅみだん)の内に800年の間安置されてきた藤原三代のミイラと泰衡の首桶の学術調査が行われた。その再発見された首桶の中にあったハスの種が平成10年開花に成功し、今は「中尊寺ハス」として池をいろどる。
また、昭和37年(1962)には金色堂の解体大修理がおこなわれ、金箔を貼りなおすなど創建当初の輝きを取り戻した。
平成23年(2011)には「平泉-仏国土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」として世界文化遺産に登録され、奥州藤原氏の平和思想にもとづく文化が世界に発信されることになった。
令和4年、創建900年をきっかけにNHKが入り、細かく調査、3D画像を採取し、完璧なデジタル金色堂再現画像を作成した。
参考:NHK「中尊寺金色堂 デジタルで解き明かす900年の謎」
公式HP→ 世界遺産「天台宗別格本山 毛越寺」
(中尊寺からは徒歩2~3kmくらいの距離です)
寺伝によると、嘉祥3年(850)慈覚大師(第3代天台座主円仁。最澄の信任が大変篤かった。目黒不動・立石寺・瑞巌寺・中尊寺などを開いたとも言われる)が東北巡遊のおり、白鹿の導きで白髪の老人に出会い、大師はその老人を薬師如来の化身と感じ、一宇の銅を建立し、嘉祥寺と号して霊場とした。それが毛越寺の起こりとされている。
その後荒廃したものの、堀河天皇の長治年中(1104-6)、時の領主藤原清衡(1056-1128)、基衡(-1157?)父子によって再興され、常行堂も復興された。藤原三代秀衡(-1187)は社堂坊舎を増築し、堂搭四十余宇、僧坊五百余宇と「吾妻鏡」(鎌倉幕府が編んだ歴史書)にも記されている。
奥州藤原氏の滅亡で灰燼に帰したが、頼朝・鎌倉幕府が修営を命じ、旧観を保持することとなった。しかし建武の新政~室町~戦国時代に戦火に焼かれ、隣山の中尊寺と共に焼失した。
平成元年に本堂を再建し、本尊薬師如来・脇士日光月光菩薩を安置している。
かつては広大な境内に大伽藍が林立していた毛越寺だが、再建本堂のほか、浄土庭園、堂宇や回廊の基壇、礎石、土塁、それに堂塔十余、僧坊十七坊が残されているのみである。
(私が30数年前に伺ったときは、本堂も再建されておらず、それぞれの建物の跡地が保存(しっかりと遺存されていたもの)され、美しい浄土庭園で時折、曲水の宴などが行われていましたが、今はしっかり再建もなってその姿を取り戻しているのですね。春や秋の藤原まつりなど行ってみたいです)
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岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉(ひらいずみ)町平泉にある天台宗別格本山。寺名は「もうつじ」とも読まれていた。医王山金剛王(こんごうおう)院と号する。17院からなる一山寺院で、本堂の本尊は薬師如来(にょらい)。850年(嘉祥3)、中尊寺を開いた慈覚大師円仁(えんにん)が、都の鬼門にあたるこの地に鎮護国家祈願所として薬師如来を祀(まつ)る中堂を建立、年号をとって嘉祥(かしょう)寺としたのを開基とする。のち堀河(ほりかわ)、鳥羽(とば)両帝の勅願により藤原清衡(ふじわらのきよひら)・基衡(もとひら)が再興、鎌倉初期には堂塔40余、僧坊500余を数え、中尊寺とともに平泉文化の中心であった。1189年(文治5)藤原氏滅亡後は源頼朝(みなもとのよりとも)が武門祈願所としたというが、たびたびの火災で当時の建物は一宇も残されていない。現在境内には1989年(平成1)再建された本堂のほか常行堂、宝物館がある。基衡の再興時の礎石や遺構が残されており、境内地は特別史跡に指定されている。庭園(特別名勝)は大泉が池を中心に造園当時の配石を残しており、平安時代の典型的な浄土庭園の遺跡である。また、芭蕉(ばしょう)の「夏草やつはものどもが夢のあと」などの句碑2基がある。常行堂で古式にのっとって行われる常行三昧供(ざんまいく)、そのあと奉納される延年の舞(えんねんのまい)はいずれも国重要無形民俗文化財に指定されている。各子院には寺宝も多い。
参考: 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)[中山清田]
[曲水の宴]
庭園の遣水(やりみず)に盃を浮かべ、流れに合わせて和歌を詠む、平安時代の優雅な歌遊びです。参宴の歌人のうち男性は衣冠(いかん)、狩衣(かりぎぬ)、女性は袿(うちぎ)、十二単等という装束をまとい、水辺に座ります。開宴の言葉、歌題披露に続いて、催馬楽(さいばら)に合わせて若女(じゃくじょ)の舞が奉納されます。やがて盃を乗せた羽觴(うしょう)が遣水に流されると、歌人たちが歌題にしたがって和歌を詠み短冊にしたためて、流れてくる盃を傾けます。結びに講師(こうじ)が歌をよみあげ、終宴となります。
『祭り・行事 曲水の宴』毛越寺HPより
[観自在王院跡]
岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉町、毛越寺の東側にある寺院跡。藤原基衡の妻の建立と伝えられ、舞鶴が池を中心とする庭園を中心として、大阿弥陀堂・小阿弥陀堂などの遺構が残る。現在の阿弥陀堂は享保年間に再建されたもの。平成23年(2011)「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群-」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。
出典 小学館デジタル大辞泉
[無量光院跡]
岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉町にある寺院跡。藤原秀衡が平等院の鳳凰堂を模して建立したもの。現在は池跡や礎石のみが残る。西側に金鶏山がある。平成23年(2011)「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群-」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。
出典 小学館デジタル大辞泉
[金鶏山]
岩手県西磐井(にしいわい)郡平泉町にある塚。藤原秀衡が無量光院の西側に築いたもので、平泉の守護のため金鶏を埋めたことからの名とされる。平成23年(2011)「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺産群-」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録された。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考:『山形市』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E5%B8%82
山形県の中部東に位置する市。山形県の県庁所在地及び最大の都市で、県内で人口が最多の市で、中核市に指定されている。1889年(明治22年)に市制施行。
山形城(霞城)の城下町として発展してきた。市域は旧南村山郡・東村山郡(現在は村山地方)に属しており、当域を管轄する村山総合支庁の所在地でもある。県内人口最大都市であり、東北地方では、青森市に次いで8番目に人口の多い都市である。周辺11市町村と共に「山形連携中枢都市圏」を形成している[1]。この参加市町村を山形都市圏とした場合、人口は約51万人で、東北地方では、仙台都市圏・郡山都市圏に次いで3番目に多い都市圏人口である。市の東側は奥羽山脈を挟んで宮城県の県庁所在地である仙台市と隣接しており、高速バス(仙台 - 山形線)やJR仙山線で約1時間10分ほどでアクセスが可能である。
[観光地]
*立石寺(山寺):
山形県山形市にある天台宗の仏教寺院。山寺(やまでら)の通称で知られ、古くは「りゅうしゃくじ」と称した。詳しくは宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。本尊は薬師如来。
蔵王国定公園(第2種特別地域)に指定されていて、円仁が開山した四寺(他は中尊寺・毛越寺、瑞巌寺)を巡る「四寺廻廊」を構成しているほか、若松寺と慈恩寺を含めて巡る出羽名刹三寺まいりを構成する。
山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていた。最上義守の母・春還芳公尼(しゅんげんほうこうに)は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光(よしあき)も立石寺を保護した。義光の時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられている。最上氏が山寺を崇敬し保護するという関係は、最上氏が改易される元和2年(1622年)まで続いていった[12]。
最上家改易後は庇護者を失うものの、この頃から広く信者を募り広域的な信仰の広がりを見せ、全盛期の江戸時代初期には2800石の朱印地・僧房100寺・僧侶300余人を有したという。
元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に書かれている。当地では名句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を詠んでおり、参道に句碑と「せみ塚」がある。
*蔵王スキー場:
参考:『蔵王温泉スキー場蔵王温泉マウンテン&スノーリゾート』蔵王索道協会
参考:『山形蔵王温泉スキー場』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E8%94%B5%E7%8E%8B%E6%B8%A9%E6%B3%89%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%A0%B4
安比高原と共に東北地方を代表するスキー場。蔵王山の西麓に広がる広大な敷地は単独のスキー場として日本最大の面積を誇り、変化に富むコースを数多く有することもあって冬場は多くのスキー客で賑わいを見せる。 最上部の樹氷原コースでは樹氷が見られることで世界的に有名であるほか、コースの幅やゲレンデの広さ、宿泊施設などが充実していることから学生のスキー実習にも多く利用されている。
1925年(大正14年)の開場(ただし、最初のリフト架設は1951年)[要出典]以来蔵王温泉の温泉街と共に発展し、温泉街や宿泊施設と一体化していることもあって一年を通して観光客が訪れている。
ゲレンデ数:14ゲレンデ
コース数:12コース
標高:
TOP1,661m
BOTTOM780m
最大滑走距離:
約 10km
*山形県立博物館
公式HP https://www.yamagata-museum.jp/treasures
霞城公園内にある県立の博物館。
何といっても「土偶「縄文の女神」1箇 - 山形県所有、山形県西ノ前遺跡出土」が有名。
[特産品]
参考:山形県→『JAやまがた特産品』JAやまがた https://www.jayamagata.or.jp/products/
山形市
参考:『山寺が支えた紅花文化』日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story056/
参考:『日本遺産』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%BA%E7%94%A3
認定日:2018年5月24日
名称:「山寺が支えた紅花文化」
自治体:山形県 山形市、寒河江(さがえ)市、天童市、尾花沢市、山辺街、中山町、河北町、大石田町(2019年5月20日追加)、白鷹町(2019年5月20日追加)
構成文化財:紅花畑の景観、山寺、立石寺中堂、若松寺観音堂、最上川、紅餅の製作技術、紅花屏風、花笠まつり(山形花笠まつり、天童夏まつり、おばなざわ花笠まつり)、紅花まつり(山形紅花まつり、おくのほそ道天童紅花まつり、べに花まつり)、紅花染め衣装(亀綾織絹地鶴亀ニ松竹梅福寿模様藍ニ墨ト紅曙染女中裁祝着)、紅花染め衣装(楊柳上布地籬ニ春花模様藍墨ト紅ノ曙染単大振袖)、紅花染め衣装(元禄紅花染小袖)、紅花染め衣装(縮緬紅花染振袖A)、紅花染め衣装(縮緬紅花染振袖B)、芭蕉の句碑、紅の蔵(旧長谷川家)、芭蕉・清風歴史資料館(旧丸屋鈴木家住宅)、紅花資料館(旧堀米家)、旧安部家住宅と屋敷、旧柏倉家住宅、ふるさと資料館(旧佐藤家)、次郎左衛門置上げ立雛、享保内裏雛、御所人形、からくり人形、ひな市(ひなまつり)、林家舞楽、尾花沢雅楽、尾花沢まつり囃子、谷地八幡宮、慈恩寺旧境内、木造弥勒菩薩及び諸尊像附弥勒菩薩像像内納入品、慈恩寺本堂、芋煮(馬見ヶ崎川河川敷、鍋掛松)、おみづけ(近江漬け)、深山和紙、大石田河岸絵図、大石田河岸の景観、紅花承認山長谷川家の上方由来コレクション
参考:『山形五堰とは』山形市 山https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/jigyosya/nougyo/1006763/1006766/1005412.htmlhhttps://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/jigyosya/nougyo/1006763/1006766/1005412.htmlttps://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/jigyosya/nougyo/1006763/1006766/1005412.html山形五堰山形五堰形五山形五堰とは堰とは
山形五堰→ 笹堰・御殿堰・八ケ郷堰・宮町堰・双月堰
山形県山形市にあるスキー場。樹氷と温泉で知られる。日本最大規模を誇り、ゲレンデ数14と12コースを設置。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
参考:『ゲレンデマップ』名湯名山スノーリゾート蔵王温泉スキー場公式HP
CNN travelなどではゲレンデ数15、12コースとあるが、公式HPを見ると、上記の通り、ゲレンデ数14、12コースで間違いない。
ゲレンデマップにはコースマップの他、口コミマップなどもあるので参考になる。
[樹氷とは]
主として地表付近の気温が0℃以下になったとき,樹木や地物の表面に大気中の水蒸気が直接昇華したり,また過冷却雲粒が付着し凍結してできた氷を総称して霧氷というが,氷のでき方によって,樹霜,樹氷,粗氷の3種に分けられる。樹氷は過冷却雲粒が冷たい樹木や地物につぎつぎに衝突し,瞬間的に凍り,たくさんの氷の粒からなる白色不透明の氷で,あられのでき方と同じと考えてよい。一般に根元が細く扇形のもろい氷なので,その形から〈えびのしっぽ〉などとよばれることもある。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
2022年庄内平野、最上川、北前船、山居倉庫(さんきょそうこ)(米穀倉庫)(低温管理のための工夫→土蔵造り、二重構造の屋根、風よけのケヤキ)(国の史跡)が、文章および選択肢で出題。
[酒田市wikipedia] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E7%94%B0%E5%B8%82
山形県の北西に位置する庄内北部の都市である。市の人口は約9万6千人で、県内人口第3位の地方自治体である。
市域の大部分が庄内平野の平坦地で、河川によって運ばれた豊富な土壌で稲作を行っている。そのため、春から夏にかけては田園風景が広がる。海岸沿いの砂丘地ではメロンやイチゴの栽培をしている。市街地は最上川の河口右岸に集中している。
市の北部には鳥海山があり、そのふもとから日向川(にっこうがわ)が流れ出る。
平安時代に朝廷が出羽国の国府として築いたとされる城輪柵跡があるように、地域の歴史は古い。酒田の街は袖の浦(現在の酒田市宮野浦)に移り住んだ奥州藤原氏の家臣36人が、1521年頃に最上川の対岸に移り、砂浜を開拓し作ったと言われている。袖の浦は中世には貿易の中継地だった。
1672年に河村瑞賢が西廻り航路を確立すると、酒田はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、秋田土崎湊と並び、羽州屈指の港町として発展した。日本永代蔵に登場する廻船問屋の鐙屋(あぶみや)や、戦後の農地改革まで日本一の地主だった本間家などの豪商が活躍し、街は三十六人衆という自治組織により運営されていた。元禄2年6月13日(1689年7月29日)に松尾芭蕉が奥の細道で訪れている。
山居倉庫 - 1893年(明治26年)に酒田米穀取引所の付属倉庫として旧庄内藩酒井家により当時の鵜渡川原村に建設された米穀倉庫(二重屋根・倉の内部は湿気防止構造・欅並木と自然を利用した低温管理倉庫)群。2004年(平成16年)より観光物産館である酒田夢の倶楽が併設している。2021年(令和3年)3月26日に国史跡に指定。
本間家旧本邸 - 1768年(明和5年)に本間家3代光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として建造した、旗本二千石格式の長屋門構えの武家屋敷。
旧鐙屋 - 酒田三十六人衆の一人・鐙屋惣左衛門の屋敷。国史跡。
日和山公園 - 日本最古級といわれる木造の六角灯台(明治28年築)や千石船(2分の1で再現)があり、また桜の名所となっている。
2023年度の日本地理の出題で、「伊達政宗によって開かれた城下町仙台は河川の河岸段丘面の湿地帯であったが、その河川の名称は何か」を問う問題があった。
参考:『広瀬川の歴史』(広瀬川ホームページ) https://www.hirosegawa-net.com/?page_id=2838
参考:『広瀬川(宮城県)』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E5%B7%9D_(%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C)
宮城県仙台市を流れる名取川水系名取川支流の一級河川である。
中流域では仙台市都心部の西縁から南縁を経て東流するが、都心部が広がる河岸段丘の段丘面と川面との間には数十mの高低差の段丘崖となる。そのため両岸には自然が多く残され、初夏の鮎釣り、秋の芋煮会など市民が川面や河原まで降りてレジャーを行うことも多く、牛越橋より上流ではカヌーも楽しめる。また仙台七夕花火祭や広瀬川灯籠流しなど祭りの会場にもなる。
宮城県仙台市青葉区作並の山形県境に位置する関山峠付近に源を発する。国道48号に沿う風倉沢と関山峠から流れる坂下沢が合流した地点が一級河川の上流端である。山岳地帯を南東へ流れ愛子盆地に入る。大倉川を合わせる辺りは両岸に河岸段丘を発達させている。盆地内の支流を集め、陸前丘陵の一部である権現森丘陵と蕃山丘陵の間を抜ける途中はV字谷を形成する。ここまで仙山線と国道48号がほぼ川と平行に走っている。V字谷を抜けると、仙台市街地へと達する。右岸に青葉山、左岸に仙台市都心部を見ながら、蛇行しつつ都心部の南西端を形作って流れる。この区間では、広瀬川によって古い段丘面(より標高が高い)から台原段丘 - 青葉山段丘、仙台上町段丘、仙台中町段丘、仙台下町段丘の4つに大きく分けられる段丘を形成している。愛宕大橋より下流では、南東方向に直線的に流れ、太白区四郎丸地区で名取川に合流する。
上流は紅葉の名所で作並温泉がある。上流の渓谷の景勝はもとより、市街地に入っても草木と崖が多く趣ある景色を作っている。化石採集の適地がところどころにある。埋れ木や珪化木の産地として有名である。宮沢橋から広瀬橋辺りにかけての区間で長町-利府線を越え、それより下流で沖積平野を形成する。両岸に自然堤防が発達し、その微高地上では旧石器時代から古代の遺跡が数多くある。
仙台城とその城下町および若林城とその城下町の建設には建材として大量の材木が必要であったが、材木を城下に運ぶ経路の1つとして広瀬川が用いられた。材木は、河口から遡って舟丁辺りで陸揚げされたようである。また、江戸時代は家庭での燃料を炭や薪に依存していたため、名取川上流で伐採された丸太を冬季に流し(木材流送)、木流堀を経由して広瀬川に運び入れた。これを、藩が家臣に支給しており、広瀬川沿いに貯木場があった。
参考(引用):『仙台城』青葉城本丸会館HP https://honmarukaikan.com/date/sendaijo.htm
奥州の覇者「伊達政宗公」の理想が宿る城、「仙台城」。仙台は古くから街道(奥州街道)が走り、海に近く、東に平野がひらけ将来の発展が期待できる土地でした。天下分け目の関が原の時の徳川家康との約束、いわゆる「百万石のお墨付き状」は反古にされ、仙台は領地の真ん中に位置することにはなりませんでしたが、仙台を首都に選んだ政宗公の目に狂いがなかったことは、その後の仙台の発展が証明しています。
仙台城は通称「青葉城」ともよばれ、仙台平野を見下ろす天険の地青葉山に築かれました。標高は高いところで131.4m、東は広瀬川に落ちる64mの断崖、南は80mの深さの竜ノ口狭谷が固める天然の要害です。
本丸の実際の土木工事は慶長6年(1601)から開始され、整地作業、石垣の構築、建物建築工事がすすめられ、同年4月には建築途中の城へ政宗公自身移りました。仙台城の場合、天守閣は築かれませんでした。家康公に敵意のないことを示すため建造を遠慮したともいわれています。代わりに城の中心施設として、俗に「千畳敷」ともいわれる広大な「大広間」がつくられました。
大広間は、大工棟梁として京都より「梅村彦左衛門・彦作」父子が招かれ、彦左衛門が紀伊よりよびよせた天下無双の匠人「刑部左衛門国次」とともにつくりました。内部の豪華絢爛なる桃山様式の障壁画・襖絵は狩野派の絵師「狩野左京」が担当しました。
他にも本丸には、京都の清水寺の舞台に似た、東側の崖にせり出すようにして建てられた「懸造り(かけつくり)」や、艮櫓(うしとらやぐら)・巽櫓(たつみやぐら)など(計5つ)の櫓があり、城下からの眺めはまさに威容を誇っていました。
慶長6年に政宗公が架けた仙台橋の擬宝珠(ぎぼし)の銘文には、「仙台橋 仙人橋下 河水千年 民安国泰 孰与尭天」とあります。神仙世界と同じように仙台藩とその民が、永遠に平和に安らかに栄えるようにとの祈りを込めて政宗公が仙台城と城下町の建設にあたったことがわかります。その意味から仙台城は「平和の祈りの城」ということができます。
2023年度の日本地理の出題で、「伊達政宗を祀る御廟」を問う問題があった。
公益財団法人 瑞鳳殿
〒980-0814 仙台市青葉区霊屋下23-2
TEL 022-262-6250/FAX 022-262-6251
Mail zuihoden@zuihoden.com
参考:『瑞鳳殿のご案内』(仙台藩祖 伊達政宗公霊屋 瑞鳳殿HP) https://www.zuihoden.com/about/
瑞鳳殿は1636(寛永13)年、70歳で生涯を閉じた仙台藩祖伊達政宗公の遺命により、その翌年ここ経ケ峯に造営された霊屋(おたまや)です。瑞鳳殿は、本殿、拝殿、御供所、涅槃門からなり、桃山文化の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築として1931(昭和6)年、国宝に指定されましたが、1945(昭和20)年の戦災で惜しくも焼失しました。現在の建物は規模、装飾ともに、焼失以前の瑞鳳殿を範とし、1979(昭和54)年に再建されたものです。平成13年(2001)に、仙台開府四百年を記念して大改修工事が実施され、柱には彫刻獅子頭を、屋根には竜頭瓦を復元し、創建当時の姿が甦りました。
なお、4択の残り3つはそれぞれ
感仙殿:伊達家二代伊達忠宗公の廟であるが、第2次世界大戦で焼失。現在の建物は戦後再建されたもの。
善応殿:伊達家三代伊達綱宗公の廟。戦災により焼失、現在の善応殿は、戦後再建されたもの。
上の二つは、瑞鳳殿と同じ敷地内にある。
大極殿:古代の宮都において中心的な施設。元日朝賀や天皇の即位,仏教の儀礼など,重要な儀式に用いられた。仙台・伊達氏とは関りはない。
*2023年度の日本地理の出題で、「伊達政宗が製造蔵を建造させたと仙台藩の保存食・調味料」を問う問題があった。
仙台みそは、米味噌で、長期熟成タイプの赤味噌、味は辛口にあたります。ジョウセンのわさび沢工場では、伊達政宗公の頃から伝わる原料配合と伝統の技を守り、味噌の醸造を行っています。原料の大豆は、一粒ずつ選別し、じっくり蒸し上げ、米麹は米から製麹。清らかな松山の地下水を使い丁寧に仕込まれた味噌は、発酵蔵で静かに寝かせ、厳しい品質管理と、職人の五感でのチェックを経て、おいしい仙台みそになります。
伊達政宗公は藩内の農業・産業・文化の振興に尽力した人物として知られています。運河を整備し、農地を開拓したことで、仙台藩は肥沃な穀倉地帯をかかえることとなりました。また、城下町に各地より招聘した商人や職人、知識人を住まわせ、藩の産業と文化の発展に努めました。戦国時代より、味噌は兵糧としても非常に重要視されていた食品。寛永3年(1626年)、政宗公は御塩噌蔵と呼ばれる日本初の味噌工場を建造します。こうして大々的に仙台みその醸造が始まります。
引用:『仙台みそとは』『みその力』(先代味噌醤油株式会社HP) http://www.sendaimiso.co.jp/power/
2023年日本地理の出題に、「仙台の奥座敷」と称される作並温泉と並ぶ宮城の温泉を問う設問があった。
参考:『秋保温泉とは』(秋保温泉旅館組合公式サイト) http://www.akiuonsenkumiai.com/whats.html
秋保という地名の由来には多くの諸説がある。
●平安時代にこの地を治めていた「藤原秋保」という人物にちなむという説。
●詩経あるいは易経にある「百寿ノ秋ヲ保ツ」という長寿を意味する言葉から来ているという説。
●秋保大滝は秋保の象徴であるが、アイヌ語では滝のことを「アボ」といいこれにちなむという説。
●秋の景色が特に優れているところからきたという説等。
秋保の名は古くから知られており、「古今和歌集」や「新古今和歌集」等にも「秋保の里」とうたわれている。
はるか古墳時代より、「名取の御湯」と称され「日本三御湯」のひとつとして全国的にも知られてきた秋保温泉。
秋保温泉の歴史は古く、古墳時代(531〜570年)の頃には、第29第欽明天皇秋保の湯で皮膚病の一種を癒やしたと伝えられ、このとき「名取の御湯」の称号を賜ったとされます。
以後、秋保温泉は皇室の御料温泉の一つとして位置づけられ、別所温泉(信濃御湯)、野沢温泉(犬養御湯)と共に「日本三御湯」と称されるようになりました。「名取の御湯」は、「拾遺集」、「大和物語」などにも詠われています。伊達政宗公も秋保の湯を愛し、伊達家の入湯場として代々大切に守られてきました。泉質は塩化土類ブローム弱食塩泉、泉温45℃で泉量も豊富。
2023年日本地理の出題に、「仙台の奥座敷」と称される作並温泉と並ぶ温泉を問う設問があった。
参考:『作並温泉の魅力』(作並温泉郷HP)(作並温泉旅館組合) http://www.sakunami-spa.com/miryoku/index.html
仙台市街地から車で約40分。古くから仙台の奥座敷として称された作並温泉。
仙台市と山形市を結ぶ国道48号線(関山街道)に位置し、その由来は歴代仙台藩主のかくし湯と伝えられる。
寛政八年(1796年)の開湯以来、さまざまな文化人を始め多くの人々が訪れ今なお愛され続けられている。
肌にやさしい泉質と豊富なお湯から「美女づくりの湯」とも言われており、露天風呂や岩風呂、立ち湯など各旅館の多彩な湯めぐりが楽しめる。
2019年日本地理に名物料理から重伝建の件名を答える問いあり。
福島県南西部にあった宿場町。大内峠(標高900メートル)の南の山あいにあり、会津若松と日光今市とを結ぶ会津西街道(下野しもつけ街道)の宿駅として栄えた。茅葺かやぶき民家などが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
出典 小学館デジタル大辞泉
参考:『【大内宿】大和屋(やまとや)』おいでよ!南会津。(福島県南会津地方振興局)
会津地方に昔から伝わる風習(子孫繁栄を願って婚礼などで食べる)の「ねぎそば」を提供している大和屋さんを紹介しています。温かいそばに長ネギが一本ついてきて、その葱でそばを食べ、かじって薬味にもするそう。
ふくしま海洋科学館(ふくしまかいようかがくかん、英: Marine Science Museum, Fukushima Prefecture)は、福島県いわき市小名浜に所在する水族館。愛称はアクアマリンふくしま(英: aquamarine Fukushima)。
施設は福島県が所有し、県の外郭団体である公益財団法人ふくしま海洋科学館が指定管理者として運営管理を行う。東北最大級の水族館である。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では揺れによる建物への損傷こそ殆ど無かったが、4.2mの津波が襲い、施設の地上1階全体が水没。スタッフ80人は3階に避難した。
その後、自家発電装置で飼育生物の生命維持装置である濾過装置などを稼働していたが、日動水の支援もあり、3月16日にセイウチなど海獣を中心とした動物を他の水族館や動物園へ緊急移送(避難)させた。トド・セイウチ・ゴマフアザラシ・ユーラシアカワウソなどの海獣、ウミガラスなどは鳥類は鴨川シーワールドと伊豆三津シーパラダイスへ、カワウソが上野動物園に、ウミガラスが葛西臨海水族園など。。また、2011年4月1日にはメヒカリやガーといった魚類がマリンピア日本海に避難した。
搬出用のクレーンに自家発電装置用の備蓄燃料である軽油を消費したが、交通網の遮断に加えて立地するいわき市北部が福島第一原発事故による屋内退避基準の半径30kmに含まれる関係もあり、燃料と餌の調達は困難であった。その後、漁港の機能がマヒし、アザラシなどの海獣やカニなどの海洋生物・両生類・鳥類など約700種の餌も入手できず、最後に残った小型発電機の燃料を使い果たし、水の管理が出来なくなったため海洋生物20万匹が全滅したことが3月25日に判明した。
また施設内のWebサーバーも被災のため公式サイトが一時不通となり、3月16日頃に「マリンピア日本海」の公式サイトで被害状態などの惨状が掲載された。
2011年7月15日、震災から4か月ぶりに、営業を再開した。
震災後に生まれ、「きぼう」と名付けられたゴマフアザラシが注目を集めた。
ここでしか見られないレアな魚も多く、例えば秋刀魚は飼育が難しくこの水族館のみで飼育されている。常磐ものコーナー・金魚館も設けられている。
参考:『環境水族館 アクアマリンふくしま』HP https://www.aquamarine.or.jp/
参考:『アクアマリンふくしま』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%B5%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%BE
常磐もの
≪うまい魚介の代名詞 常磐(じょうばん)もの≫
黒潮と親潮は、日本列島の南と北から何千キロもの旅をして福島県沖(常磐沖)で出会います。
黒潮(暖かい海流)と親潮(冷たい海流)がぶつかり、えさとなるプランクトンが多く発生する豊かな漁場で水揚げされた水産物は質が良く美味しい魚と知られ、水産関係者の間でも高く評価されています。(ふくしま市場HP)
魚と言えば、やはり築地。特に水産物については世界最大級の取扱規模である築地市場で水産関係者の方々に常磐ものについて聞きました。すると、その99%が、「常磐ものは美味しい」と答えたのです。日頃、常磐ものの魚が高値で取引されているのも納得の結果です。 出典「平成27年水産関係者調査」(株式会社 電通) (いわき 常磐ものHP『いわき常盤ものとは』) 同HP作成の動画↓も参照。
[福島県の郷土料理] 『福島県うちの郷土料理』農林水産省 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/area/fukushima.html
いかにんじん
こづゆ
参考
牛タン焼き、はらこめし、ずんだ餅
2023年日本地理に上記の先代味噌を問う出題に仙台の郷土食を問う記述がある。
参考:「宮城県」うちの郷土料理(農林水産省) https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/area/miyagi.html
[宮城県の郷土料理]
おくずかけ(野菜や豆製品を椎茸の戻し汁で煮込み葛でとろみをつけた料理)
仙台雑煮(椀からはみ出るほどの焼きハゼの他、野菜やかまぼこを具だくさんで作る)
はらこ飯(はらこはいくら)
ずんだ餅(枝豆をすりつぶしてもちに付ける)
はっと汁(小麦粉を練って茹でて汁にしたり、あんこやずんだと和えたりする。地方によって「はっと」、「はっとう」、「つめいり」「つみれ」、「ひっつみ」などと呼ぶ)
ナメタガレイの煮付け
ふすべ餅(どじょうを使ったもち料理。ドジョウを乾燥して保存することをふすべると言ったため)
ホヤの酢の物(ホヤは栄養豊富(リン・鉄・亜鉛といったミネラルグリコーゲンなど)で、五味がすべて感じられるという)
エビ餅(ため池や湖沼に生息する沼エビを用いた餅。沼エビは加熱すると赤くなるのでおめでたい席に欠かせない)
笹かまぼこの磯部揚げ
どんこ汁(どんこは獲れる時期が決まっている白身の高級魚。野菜と一緒に煮た冬の汁)
みょうがの葉焼き(小麦粉と玉砂糖と重曹、味噌、水を合せたものをみようがの葉にのばして焼いたおやつ。農作業中のこどもたちに供した)
あざら(少しすっぱくなった白菜の古漬けを酒粕と魚(メヌケ)のあらと一緒に鍋で煮た料理。)
油麩丼(小麦粉を練って出来たグルテンで作った麩を上げたもの。鍋に入れるとコクが出る。油麩丼はその丼。登米地方の郷土料理であったが全国に普及した)
いちじくの甘露煮
いわなの塩焼き
柿なます
がんづき(小麦粉、ベーキングパウダー、黒砂糖、水で作る蒸しパン。白がんづきと黒がんづきがある)
きしゃず炒り(おから炒りのこと)
呉汁(呉は大豆を水に浸してすりつぶした呉を汁にしたもの)
サンマのきがき(きがきは魚醤。サンマでもつくる。ただし、現代ではサンマを醤油で似たものを指す)
サンマのすり身汁
紫蘇巻き
仙台白菜の漬物
たけのこご飯
なす炒り
ばっけ味噌(ばっけとは秋田弁でフキノトウ。)
へそ大根の煮しめ(へそ大根は筆甫(ひっぽ)地区の名産で、輪切りにした大根を茹で、串に刺してから1ヶ月ほど寒風にさらし、乾燥させた凍み大根。)
ほっき飯
参考:『芋煮会』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%8B%E7%85%AE%E4%BC%9A
芋煮会(いもにかい)とは、山形県や宮城県など東北地方各地で行われる季節行事で、秋に河川敷などの野外にグループで集まり、サトイモを使った鍋料理などを作って食べる行事である。
参考:『山形県 芋煮』農林水産省 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/imoni_yamagata.html
「芋煮」の発祥は古く、1600年代半ばともいわれている。当時、最上川舟運の終点だったといわれる中山町長崎付近は、上方から酒田経由で運ばれてきた荷物の引取がおこなわれる場所だった。しかし、当時は舟が到着したことを知らせる通信手段がなかったため、舟の船頭たちは荷受人が現れるまで何日も待たされることがあり、退屈をしのぐために河原で鍋を囲んで宴を開いていたという。船着場の近くに里芋の名産地・小塩集落があったため、手に入れた里芋と積み荷の棒ダラなどを鍋で煮て食べていたそう。それが現在の「芋煮」のルーツとされる。牛肉を使うようになったのは、昭和のはじめごろからといわれる。
「芋煮」は地域によって味付けや具材の種類が異なる。特に、日本海に面した庄内地域の「芋煮」は特徴があり、内陸部の「芋煮」の風習が庄内地域に伝わった際、養豚業が盛んな地域のため、肉は豚肉、味付けは豚肉に合う味噌味に定着したのではないかといわれている。
「芋煮」は里芋の収穫期の秋から冬によく食べられている郷土料理の一つ。「芋煮会」といって河原に鍋や材料を持込み、家族や友人などと一緒につくったり、運動会や地域行事の後などに野外でつくったりするほか、各家庭でもつくり食べられている。山形県では、「芋煮会」は新年会や忘年会と並ぶ年間行事の一つであり、「芋煮」は県民の団らんに欠かせない郷土料理である。(一部引用)
参考:『芋煮のレシピ』キッコーマン https://www.kikkoman.co.jp/homecook/search/recipe/00004211/
参考:『芋煮のレシピ』Asahi https://www.asahibeer.co.jp/enjoy/recipe/search/recipe.psp.html?CODE=0000002411
参考:『芋棒煮の作り方』山形県中山町(芋煮発祥の地) https://www.town.nakayama.yamagata.jp/sightseeing/eat_buy/1469.html
山形の秋の風物詩「芋煮会」は、その昔、最上川舟運に携わる船頭や商人たちが、終点であった中山町で、荷揚げや荷待ちの逗留の間、棒鱈と里芋を材料に川岸の松の枝に鍋を掛けて煮て食べたのが始まりとされています。
[山形県の芋煮以外の郷土料理]
参考:『山形県 うちの郷土料理』農林水産省
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/area/yamagata.html
どんがら汁(寒鱈(かんだら)汁・鱈のあら汁)
しょうゆの実(大豆・小麦・米で作る発酵食品。醤油を作る際の副産物)
うどと凍み大根のどんころ煮(どんころとは丸太のこと。うどの断面が似ていることから。身欠きにしんも入れて海の幸と山の幸どちらも楽しめる郷土料理)
わらびたたき
塩引きずし(塩引きは鮭の塩漬け)
くきたち干しの煮もの(くきたちはアブラナ科の野菜)
玉こんにゃく(宝珠山立石寺(通称:山寺)を開山した慈覚大師(円仁)が中国からこんにゃくを持ち帰ったとされ、山寺の1015段ある階段の手前に「力こんにゃく」が売られている。味付けは水なしでしょうゆのみ)
卵寒天・醤油寒天
鱒のあんかけ(サクラマス)
おかひじきのからし和え
からかい煮(からかいは北海道でとれたエイのヒレの干物)
ハタハタの湯上げ(ゆでたハタハタに醤油などをかけて食べる)
青菜漬け(山形青菜(せいさい))
おみ漬け(山形青菜(せいさい)を中心に大根・ニンジンなどの野菜を一緒に刻んで塩漬けにする。余り物を上手に生かした漬物で、近江商人が元来捨てていた葉先を使ったことからおみ漬けとなったという)
雪菜のふすべ漬け(雪菜は、「山形おきたま伝統野菜」の一つ。ふすべはさっと湯通しするという意味の方言)
あけびの味噌詰め焼き・あけびの油焼き
うこぎの切り和え
鯉のうま煮
ひょう干しの煮物・ひょう干し煮(ひょうは、野草のスベリヒユの山形方言。生、又は乾燥品を食用とする。最近は栄養豊富なスーパーフードとしても販売されている)
くじら餅(くぢらもち) (もち米とうるち米の粉を水で練り、胡桃・砂糖水を加えて蒸したもの。鯨ではない)
笹巻(もち米を笹の葉に包んで蒸し上げる)
遠山かぶの粕汁
塩くじら汁(塩漬けの鯨肉を夏野菜と一緒に煮て食べる)
冷や汁(季節の野菜と冷たいだし汁を合わせたおひたし)
孟宗汁(孟宗竹のタケノコを使った汁もの)