全国通訳案内士試験の最終合格発表は、2026年2月6日(金)です。
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
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平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
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1945年(昭和20)7月に開かれたポツダム会談で協議されたうえ、同年7月26日、米英中三国政府首脳の連名で日本に対して発せられた降伏勧告の宣言。この宣言は全部で13項からなり、日本がこのまま戦争を継続すれば日本の国土は完全に荒廃してしまうこと(3項)、いまや日本は壊滅への道を続けるかそれとも理性の道を歩むかを決定すべきであること(4項)を述べ、連合国が要求する戦争終結の条件として次のものを掲げている。
(1)軍国主義の除去
(2)日本国領土の占領
(3)カイロ宣言の条項の履行、および本州、北海道、九州、四国および連合国が決定する諸小島への日本の主権の制限
(4)日本国軍隊の完全な武装解除
(5)戦争犯罪人に対する厳重な処罰、ならびに民主主義の確立
(6)賠償の実施と平和産業の確保。
またこの宣言は、以上の諸目的が達成され、日本国民の自由に表明された意思に従って平和的な傾向をもった責任ある政府が樹立された場合には、ただちに占領軍を撤収することを明らかにしている(12項)。
ポツダム宣言が発せられるや、日本政府および軍の首脳の間では、それを受諾すべきか否かにつき深刻な討論が闘わされた。日本政府はいったんは拒否を通告したものの、広島や長崎への原爆投下(8月6日、8月9日)、ソ連の対日参戦(8月8日)とますます絶望的な状況へ追いやられたため、ついに受諾するに至った。8月14日、日本政府は宣言の受諾を決定し、同日夜、終戦の詔勅(玉音放送)が発せられた。
[深谷満雄]
[参照項目] | ポツダム会談
[補完資料] | ポツダム宣言/米、英、華三国宣言
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) (コトバンク『ポツダム宣言』)
小学校6年、中学校3年といった学校の種類と修業年限を定めた教育体系の改革。日本では、第二次世界大戦後の1946年(昭和21)、アメリカ教育使節団の報告に基づき、六・三・三・四制(小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年)へ改革したことをさす場合が多い(導入は翌1947年)。戦前の日本では、尋常小学校を卒業した後の進学ルートが中学校、高等小学校、高等女学校、職業学校などさまざまで、親の職業や性別などの社会的階層に応じた複線型体系であったが、平等で簡素な単線型体系に改められた。その後、専門職業教育の必要性、子供の心身発達の早期化、連続性を重視した教育の必要性、中学進学後にいじめや不登校が増える「中1ギャップ」などに対応するため、学校教育法がたびたび改正され、1950年に短期大学、1962年に高等専門学校、1999年(平成11)に中高一貫教育制度、2016年(平成28)には小中一貫教育制度が導入された。
[矢野 武 2017年3月21日]
[参照項目] | 学校教育法 | 教育改革 | 中1ギャップ | 六三制
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ
参考:『サザエさん 50年の歴史』サザエさんHP https://www.sazaesan.jp/history.html
参考:『サザエさん』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%82%A8%E3%81%95%E3%82%93
『サザエさん』は、長谷川町子による日本の漫画。また、その主人公である「フグ田サザエ」の呼び名のひとつである。
作品解説
西日本新聞社から独立したフクニチ新聞社の整理部長牟田口宗一郎が長谷川に『夕刊フクニチ』誌上での連載を依頼。1946年4月22日から連載を始めたが、長谷川が東京へ引越しするために連載中止。連載開始当初は、台詞がカタカナで書かれていた。原作漫画は新聞連載の4コマ漫画であるが、5ページほどのショートストーリー漫画が雑誌連載されており「別冊サザエさん」に収録されている。
漫画の舞台では、サザエは独身だったが、連載中止時にサザエがマスオと結婚しており、最終回とみられる回のオチの部分が、『サザエさんうちあけ話』で描かれている。長谷川の家族が東京都世田谷区の桜新町へ引っ越した後は、『夕刊フクニチ』で連載再開。舞台も東京へ移り、マスオが磯野家に同居する。
掲載誌は間もなく東京スポーツの源流となる夕刊紙の『新夕刊』に移り、『朝日新聞』系列の『夕刊朝日新聞』を経て、1951年4月16日からは『朝日新聞』の朝刊に連載。途中、長谷川の病気が理由で同年11月7日から11月14日まで休載し、11月15日に連載を再開。また、1953年1月16日にも健康上の理由から同年3月31日まで休載となり、4月1日に再び連載を再開。その後はほぼ無休で連載が続いたが、1973年になると毎週月曜日の定期休載に加えて7月15日から8月9日、9月5日から9月9日など「作者病気のため」短期の休みが多くなり、1974年2月21日をもって休載に入るが、その後は連載が再開されることはなかった。話数は単行本収録分で6477話に及んだ。
本作はいわゆるストーリー漫画ではなく、一貫した舞台、人物が登場する比較的独立したエピソードからなる。季節が移り変わっても登場人物達は年を取らない。新聞連載の4コマ漫画らしく、時代背景を象徴する内容が多く、終戦直後から復興期の時代に描かれた初期から中期と高度経済成長の時代に描かれた後期とでは作風が大きく異なる。特に、初期から中期にかけてはサザエとその家族および彼らの周辺の人物たちの日常生活が主な題材であったが、後期には主に社会風刺をネタにした作風が目立つようになった。連載は1974年で終了したが、1976年から1978年まで長谷川による『サザエさんえほん』が9冊刊行されている。
長谷川の作品の出版は姉妹社が行ってきた[1]が、長谷川の没後の1993年4月に廃業し絶版となり、長谷川町子美術館が著作権を継承した。後に朝日新聞社から文庫本(全45巻)と「長谷川町子全集」(全33巻中1〜23巻が本編、他に30巻『別冊サザエさん』と33巻『カラー版 よりぬきサザエさん』)が出版されている。
なお、本作の単行本の出版に際しては、時代背景の変化によって相応しくないと判断された話を掲載しなかった。清水勲著『サザエさんの正体』(平凡社、1997年)によると、掲載を見合わせた話は700点ほどである。なお姉妹書に『古きよきサザエさんの世界』(いそっぷ社、2002年)がある。姉妹社版には作者が自ら編集し発売した『よりぬきサザエさん』シリーズが存在し、「長谷川町子全集」にはその中から『カラー版よりぬきサザエさん』全1巻が収録されている。2012年12月〜2013年3月には「朝日新聞」に掲載された作者及び『サザエさん』関連の特集記事を特典として収録し復刊したもの(全13巻)が朝日新聞出版から発売された[4]。この復刊版『よりぬきサザエさん』には省かれた作品の一部が収録されているが、姉妹社版『よりぬきサザエさん』と比較すると削除された話も数話存在する。2018年より今まで単行本未掲載だった新聞掲載エピソードを収録した『単行本おたからサザエさん』全6巻が朝日新聞出版より発売された。また、2020年1月〜2021年11月には姉妹社版全68巻の復刻版が、長谷川の生誕100周年を記念して朝日新聞出版から刊行された。単行本とは別に、2018年1月より季刊で週刊朝日臨時増刊号扱いとして、それぞれの季節ごとのテーマの作品を集めた作品集[5]が発売されている。なお週刊朝日本誌は2023年6月9日休刊特別増大号を持って休刊したが、今後は同じ朝日新聞出版の週刊誌AERA臨時増刊の形で発行を続ける。
漫画本の累計発行部数は8600万部以上(姉妹社版が7000万部以上、朝日新聞社版の文庫本が1600万部以上[7])に達する。日本の新聞連載漫画としては最大のベストセラーである。妹・長谷川洋子による回想記『サザエさんの東京物語』(朝日出版社、2008年)がある。
1997年4月には、講談社インターナショナルから「対訳サザエさん The wonderful world of Sazae-san」が刊行され、アメリカでも、『The wonderful world of Sazae-san』というタイトルで翻訳出版された[注 3]。その際一部のコマが反転されている。
連載の履歴
1946年4月22日に『夕刊フクニチ』紙上に連載開始、同年8月22日に連載中断
1947年1月3日に『夕刊フクニチ』紙上に連載再開、同年5月8日に連載中断
1947年10月25日に『夕刊フクニチ』紙上に連載再開、同年11月5日に連載中断
1948年2月6日に『夕刊フクニチ』紙上に連載再開、同年6月21日に連載中断
1948年3月に『漫画少年』誌上に連載開始
1948年11月17日に『夕刊フクニチ』紙上に連載再開、1949年4月4日に連載終了
1948年11月21日に『新夕刊』紙上に連載開始、1949年4月2日に連載終了
1949年12月1日に『夕刊朝日新聞』紙上に連載開始、1950年12月31日に連載終了
1951年4月16日に『朝日新聞』(朝刊)紙上に連載開始、1960年4月に連載中断
1955年1月に『少女クラブ』誌上にて連載開始、同年12月に連載終了(1953年にも同誌に読みきりを掲載している)
1957年1月に『若い女性』誌上にて連載開始、1959年1月に連載終了
1961年10月15日に『朝日新聞』(朝刊)紙上に連載再開、1974年2月21日に連載中断、事実上連載終了(以降掲載されず)
主な登場人物・ペット
なお、出典は基本的に現行の朝日新聞社版を参考にする。
フグ田 サザエ
本作の主人公。磯野家の長女で23歳(アニメでは24歳)。特徴的な髪型は当時の流行にあわせた。
単行本1巻で東京に引っ越し、単行本2巻でフグ田マスオと結婚しタラオをもうける。
性格は快活でそそっかしく乱暴、親切で勇ましい反面、それが裏目に出ることも多い。よくカツオと取っ組み合いの喧嘩をしている。
磯野 カツオ
磯野家の長男で小学生。サザエと一回り年の差がある弟。
アニメ版では一貫してかもめ第三小学校5年3組となっている。
髪型は基本的に丸刈り。
連載開始当初は、ワカメの面倒をよく見ているちょっと抜けているお兄さん、といった雰囲気を持っていた。連載後半になるにつれ、現在のアニメ版のようなズル賢く機転の利く腕白坊主となり、口も達者となり登場回数も格段に多くなる。漫画界における「世渡り上手」の代表的キャラクターである。
なお原作においては、学校での生活や友達関係が描かれることは少ない。
磯野 ワカメ
磯野家の次女。原作漫画では最終的に小学1年生で7歳の設定だが、アニメではかもめ第三小学校の3年生。
原作とアニメ版において最も性格が異なる。性格は天真爛漫で、非常に活溌である。アニメ版では「優等生」になっており、カツオと比べ存在感も薄いが、原作では立場が逆であった。
連載中盤まででは、サザエに次いで登場回数の最も多いキャラクターであり、話の「オチ」を担うこともかなり多い。
磯野 波平
磯野家の大黒柱で、3姉弟(サザエ、カツオ、ワカメ)の父。年齢は54歳。
職業はサラリーマン(東証一部上場の総合商社・山川商事株式会社の事務職)で、会社は銀座の晴海通り沿いにある。
初期の役職は「局長」であったがいつの間にか降格しており、後期には平社員となっていた。
アニメでは磯野家の“家長”として威厳があるが、原作においては威厳がなく、家族を叱るシーンもあまり多くなく、登場回数も必ずしも多くない。しかし登場した時は、話の「オチ」を担当している。
性格はかなり抜けており、お茶目なところがある。そのため、子供に威厳を示そうとするも、その情けないキャラクターゆえにカツオに逆に手玉にとられることも多い。それ以外に「都下禿頭会(とか・とくとうかい)」の理事をしていると話している。
初期には名前は設定されておらず、東宝および宝塚映画のシリーズでも「波平」として出てくるのは最終作『福の神 サザエさん一家』のみで、当初の役名は「サザエの父親」とされていた(ただし、家の表札には五作目まで「磯野松太郎」と掲げられている。また、同シリーズでは「波夫」といった名前も出てくる)。
磯野 フネ
波平の妻。旧姓は石田。
アニメではほとんど怒らないが、原作では性格は厳しく、激しい気性の持ち主である。家族を叱る回数も波平より多い。
波平の陰口を言ったり、喧嘩中は波平にちょっとした嫌がらせをするなど、アニメではあまり見られない陰湿な一面もある。東宝および宝塚映画のシリーズでは原作寄りの厳しい気性で描かれる。
初期には波平同様に名前が設定されていなかったため、東宝および宝塚映画のシリーズでは初期の役名は「サザエの母親」とされたが、三作目においてフネの名前が明かされ、中盤以降の役名は「フネ」、「舟子」といった名前も出てきた。
フグ田マスオ
日刊フクニチ連載当時の最終回で初登場し、2巻でサザエと結婚したサラリーマン。結婚当初はサザエとタラオとのフグ田家3人で磯野家の近所にある借家に住んでいたこともあり、2巻において木製の塀を勝手にノコギリで切り、大家と喧嘩し追い出されたため磯野家と同居。現在に至る。
アニメではかなり気の弱い夫となっているが、原作では磯野家に対して主張する時もある。
基本的にはいい兄貴分であるので義弟カツオと義妹ワカメに慕われている。
勤めている会社(東証一部上場の総合商社の海山商事株式会社・営業課)は当初は郊外だったが、後に有楽町に移る。当初は平社員だったが、後に係長に昇進。その時の年齢は32歳(アニメでは28歳)。
実家は大阪で、時々出てくる母親は大阪弁を話す。
実は長谷川は東京で連載再開するまで彼の顔を忘れていたというエピソードがある。
フグ田 タラオ
サザエとマスオの長男でアニメでは3歳。2巻から登場。赤ん坊コンクールで2等賞をもらったことがある。
アニメでは大人しく物分りの良い「いい子」だが、原作では若干乱暴者である。サザエに背負われるなどして登場回数こそ少なくないが、セリフがほとんど無い。カツオ、ワカメはごく初期[12]において、タラちゃんの前で自分達のことをそれぞれ「おじちゃん」「おばちゃん」と称していた。当初、タラちゃんの登場を予告する文面では「女の子」設定だった。
タマ
磯野・フグ田家で飼われている白色のオス猫。首輪の大きな鈴がトレードマーク。
波野 ノリスケ
波平の妹の三男(波平の甥、サザエ・カツオ・ワカメの従兄弟[13])。体型はやや太り気味。新聞記者。8巻から12巻の間、押しかけ同然に磯野家に居候する。
波平や新入社員に借金を頼み込んだこともあるなど図々しい性格でちゃっかり屋であるが、その人柄の良さからか、磯野家の面々からは嫌われてはいないようである。
12巻で入江(旧姓)タイ子とお見合い結婚。結婚後は「東アパート」という所に住む。恐妻家である。14巻で子供をもうける。この子はアニメではイクラとなっているが、原作においては劇中で名前は出てこない。アニメでは磯野家の隣人で作家・伊佐坂難物の担当でもあるため、平日の昼間でもよく隣の磯野家に現れる。カツオ・ワカメとは従兄弟ではあるものの、歳が離れているせいか「ノリスケおじさん」と呼ばれる。
波野 タイ子
ノリスケの妻。旧姓は入江。
結婚当初は身のこなしが上品であった。しかし登場回数が少ないからか、結婚後は時に太っていたりと、容姿に変遷が見られる。アニメ版のような家族ぐるみの付き合いは描かれていないが、サザエとは初期によく絡んでいた。
連載当時は動物を飼育している家庭も多く、本作にもニワトリや牛、ヤギなどが多く登場する。特にニワトリは多く登場し、イタズラをしたカツオやワカメがお仕置きとしてニワトリ小屋に閉じ込められたこともある。磯野家では比較的頻繁に登場する猫の「ミー公」や犬の「ジョン」を始め、登場回数は少ないがアニメ版と同じ「タマ」などの猫や「エルザ」、「太郎」といった犬も登場する。他には小動物として、カツオがカナリヤ・伝書鳩・亀・ハムスターを、ワカメが金魚を、サザエが「マイク」というリスを飼っていたこともあった。カツオは飼っているペットを世話しているという名目で小遣い値上げを訴えたこともあった。
また、長谷川の他作品からは『似たもの一家』の主人公の一家も登場する。伊佐坂家はアニメでは磯野家の隣家だが、原作10巻の一部に登場するのみである。本作にはキャラクターとして特定の名前が与えられていないが、非常に多く登場する人々がおり、相撲が好きだった作者は、相撲をネタにした話をしばしば用いている。
1954年に文藝春秋から出版されたスピンオフ作品には、10年後を描いた「サザエさん一家の未来予想図」が収録されており、この中でフグ田サザエとフグ田マスオの第二子「ヒトデちゃん」が登場する。ヒトデは長谷川の全作品の中でもこれ以外で言及がなく、アニメにも登場しない。
実在の人物が登場することもあり、その当時の総理大臣はほとんど登場している。昭和天皇が登場する回もあるが、あくまで作中での波平の想像に現れるのみであり、顔は描かれていない。後に長谷川は実際に昭和天皇と園遊会で対面している。
なお、原作の磯野家は話によって間取りが変わり、連載時期によっても造りが異なる(連載初期は二階建ての日本家屋、東京での連載再開時は平屋となっている)。長谷川町子美術館ではアニメ版の間取りを展示している。
執筆時のエピソード
長谷川は、西日本新聞社の絵画部に所属していた。1946年『夕刊フクニチ』に彼女は連載漫画を頼まれた。自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩しているときに、本作の家族構成や名前を思いついた。当初は作者自身は、アルバイトのつもりでやっていた、と語っている。連載を再開する際、作者本人がマスオの顔を忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認したエピソードがある。その後、1951年に「ブロンディ」の後を承けて朝日新聞の朝刊を飾ることになる。連載末期には月曜日が休みとなった。
単行本の第1巻はB5判の横綴じだったが、書店の店頭に並べにくいということですべて返品され、自宅は返品された単行本に占拠される事態となった。そこで判型をB6判に変更した第2巻を出したところ読者には好評で問題の第1巻にも注文が入るようになり、この事態は解消された。姉妹社の廃業までこの判型が踏襲され、第1巻も後にB6に変更された。このB5判横綴じの第1巻を再現した復刻版が、2013年4月27日より長谷川町子美術館の売店で販売された。
執筆にまつわるこのようなエピソードは、長谷川のエッセイ漫画『サザエさんうちあけ話』に詳しい。
作風とその変化
連載が長くなるにつれ、作者の長谷川自身は1960年代中頃から従来と異なる新しい作風に興味が移っていった。彼女は自伝『サザエさんうちあけ話』の中で「子供にも無害なヒューマニズム(ヒューマニタリズム)には飽きた」「書き手にとっては取材範囲が限られるのが苦しい」などと語っている。このような時期に生まれたのが、後に長谷川の代表作の1つとなった「いじわるばあさん」(1966年〜1971年)である。そして、この頃から、『サザエさん』もそれまでのヒューマニズム色の強い作風から大きく変化し、社会風刺の要素を取り入れたアイロニカルな作風へと移行している。
評価
戦後の日本の復興と共に歩み、「(当時の)日本家庭の象徴」とも言われた。
哲学者・評論家の鶴見俊輔は、サザエたちを叱る波平がフネに叱られたり、カツオを罰したサザエがカツオに裁かれたりすることで、権威が笑いで批判され(時には権威自体がみずからを笑い)、家族内のメンバーの対等性が形成され父権主義に対する批判へつながっているとともに、女系家族での生活で育まれた作者の「家庭内での出来事を処理する規準をそのまま拡大して社会を見る」視点が、作中での「自分の持ち場をはなれずに社会を批判」するスタンスを形づくっている、と述べている。さらに、核家族ではなく3世代が一つ屋根の下に暮らし、家族それぞれがそれぞれの仕事・役割を担って膨大なコミュニケーションを交わす、という高度成長時代からは遅れた家風を磯野家が残していることで、現実の家庭に対し戦後民主主義の理想を説く役割を与えられている、とも論じている。
評論家の樋口恵子は、原作漫画について「『サザエさん』では木造の日本家屋、3世代7人の雑居型大家族、地域社会の年中行事と緊密な人間関係が描かれている。そして何より一点の曇りもなく人間の持つ屈折にも、シワを伸ばし光を当ててしまうような明るさ、素直さを持つ専業主婦・サザエさんの存在。まさに安心・安定・安全度100%の舞台装置と配役なのです」と絶賛している。さらに「登場するサザエさんは戦後の嫁に求められていた滅私奉公に背を向け、時には“すかしっ屁”を放つなど自由気ままな日々を満喫しています。フェミニズムというべき新しい時代の香りが立ち上がってくる女・子供の生活讃歌になっているのです。この多面体ゆえに、男性にも女性にも時代を超えて愛されるのです」とも評している。
[対日占領政策]
1945年8月14日のポツダム宣言受諾から,52年4月28日の対日平和条約発効までの期間は連合国(実質的にはアメリカ)によって日本の動向が決められた。この占領期の政策全般を対日占領政策,ないし占領政策というが,ここでは政策にとどまらず,世相にいたるまでこの時代の諸相を概括する。 ポツダム宣言の第7項は〈右の如き新秩序が建設せられ且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るは連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし〉と連合国の占領を定めており,日本占領のための連合国軍最高司令官にはアメリカのマッカーサーが任命された。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版 コトバンク『対日占領政策』
[連合国最高司令官総司令部(GHQ)]
General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers。
GHQ,総司令部ともいわれる。 GHQは元来軍事上一般に設けられるものであるが,日本では特に第2次世界大戦後連合国がポツダム宣言および降伏文書に基づいて対日占領政策にあたるため,1945年8月横浜に設置した連合国最高司令官の機関をいう。同9月 15日 GHQは本部を東京日比谷に移動。組織は,人事,情報,作戦,後方の4部から成る参謀部 (いわゆる G1,2,3,4の各部) と,民政局,天然資源局,経済科学局,民間情報局などから成る特別部門を根幹としており,極東軍事裁判所もその管掌下にあった。連合国の対日政策決定機関としてワシントン D.C.に極東委員会,東京に GHQ諮問機関として対日理事会が設けられていたが,H.トルーマン米大統領が連合国軍先遣部隊の厚木空港到着に先立ち,対日単独統治を言明したことにも明らかなように,実質的に GHQはアメリカの機関でありアメリカが最高権力を掌握していた。連合国ないしアメリカは GHQ指令を日本政府に与え,日本政府を通して実施する間接統治の方法をとった。 52年4月 28日対日講和条約の発効とともに廃止された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
(引き揚げ)外国から本国に帰ること。特に、第二次大戦後、外地で生活していた人が内地に帰ったことを指す。博多・浦賀・舞鶴などが引き揚げ港として指定され、昭和21年(1946)末までに500万人以上の人々が引き揚げた。
出典 小学館デジタル大辞泉 コトバンク『引き揚げ』
[復員引き揚げ問題]
第二次世界大戦後の海外在留の日本軍人・軍属および一般日本人の帰還問題、とくに旧ソ連・中国本土地域からの引揚げが遷延した問題をさす。
まず復員であるが、厚生省(現厚生労働省)の調べでは敗戦時の旧陸海軍軍人・軍属の総兵力は陸軍が約550万、海軍が約242万であり、このうち内地部隊は陸軍が約250万、海軍が200万弱とされる。内地部隊の復員は、陸軍が1945年(昭和20)10月までにほぼ完了し、海軍は45年8月末日までに8割が帰郷した。また外地部隊の復員はアメリカ軍管理地域から始まり、中国軍、オーストラリア軍、イギリス軍の各管理地域へと順次実施され、48年1月までにいちおう完了した。イギリス軍管理地域では主力部隊送還後も13万2000人が作業部隊として約1年間残留させられた。
敗戦直後、海外に残留していた軍人・軍属および一般日本人は660余万に上り、軍人・軍属と一般人との内訳はそれぞれ半数ずつであったが、送還は軍人・軍属が優先された。引揚げ者数は1946年末までに500万人以上に達しピークを越した。47年にはさらに74万人余が引き揚げた。この時点で密出国などを加えればその実数は600万人以上と推定されている。引揚げが遷延した地域は旧ソ連・中国であるが、サンフランシスコ講和で両国と条約を締結せず国交を回復しなかったので、その後も政府間交渉は困難を極めた。
ソ連占領地域の満州(中国東北)、北朝鮮、千島、樺太(からふと)(サハリン)では関東軍の軍人・軍属と「満州国」官吏を中心に約57万5000人がソ連本土に移送され労働を強制された。日本当局の推算ではソ連地域の日本人在留者数は272万7000人とされていた。引揚げが開始されたのは他の地域がほぼ完了した1946年12月の米ソ協定後であったが、送還は遅々として進まなかった。49年に日本で送還遅延が政治問題化し留守家族全国協議会は引揚げ促進の全国大会を開催し、国会も年内完了を決議した。50年4月タス通信は送還完了を発表した。日本当局は約37万人が未送還にあるとして国連に提訴した。53年12月、国際赤十字社の働きで送還が再開され、また56年、日ソ国交回復で「総ざらい引揚げ」が行われた。
中国からは1946年末までに300余万人、48年までに4万5000人が引き揚げたが、中国内戦の影響と中華人民共和国の成立で中断し、その後も朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)で引揚げは空白状況を続けた。中国からの呼びかけで日本赤十字社と中国紅十字社が53年2月「共同コミュニケ」を発表、55年には政府間直接交渉も開始され、53年から58年までに21回にわたって延べ3万5000人弱が引き揚げた。
集団引揚げは1958年で終わり、以後は個別引揚げの段階に入った。とくに72年の日中国交正常化以後、敗戦の混乱のなかで中国に取り残された日本人残留孤児の調査および帰国は、戦後の社会問題となった。
[荒 敬]
『厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』(1978・ぎょうせい)』▽『松岡英夫編『ジャーナリストの証言昭和の戦争7 引揚げ』(1986・講談社)』▽『若槻泰雄著『戦後引揚げの記録』(1995・時事通信社)』▽『中谷和男著『いのちの朝――ある母の引揚げの記憶』(1995・ティビーエス・ブリタニカ)』▽『木村清紹著『アルゼンチンからの手紙――満州引揚げ者の手記と手紙より』(1996・麦秋社)』▽『厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会監修『援護50年史』(1997・ぎょうせい)』▽『埼玉県平和資料館編・刊『特別企画展 終戦と引揚げ』(1997)』▽『若槻泰雄著『世界人権問題叢書 シベリア捕虜収容所』(1999・明石書店)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『復員引揚問題』
日中戦争終結後、中国に残留させられた日本人「孤児」をめぐる問題。
中国残留日本人孤児とは、1945年(昭和20)8月9日ソ連の対日参戦以降の混乱で、肉親と別れ中国に残された日本人児童のこと。厚生労働省は、「当時の年齢が概ね13歳未満で、本人が自己の身元を知らない者」として、それ以外の「中国残留婦人等」と区別する。
[伊藤一彦]
残留孤児発生の歴史的背景
日本は1931年9月満州事変を引き起こし、翌1932年3月傀儡(かいらい)国家「満州国」を創出して中国東北地方(満州)を実質的な植民地とした。日本の人口増加とくに農村余剰人口問題の解決、さらにソ満国境の防衛のため、1932年秋の武装移民団を皮切りに、関東軍の支援のもとに満蒙(まんもう)開拓団が北満各地に送り込まれた。1936年に日本政府が20か年100万戸移住計画を決定して以後、開拓団の移住は本格化し、終戦までに27万人に上った。
満蒙開拓団には貧農の次三男が10町歩(約10ヘクタール)の地主になれるという宣伝にひかれて自ら参加した者もあったが、団員送出ノルマ達成に焦る地元当局により強制されて加わった者も多かった。開拓団に割り当てられた農地には、現地の中国人や朝鮮人が開墾した土地を低価格で暴力的に取り上げた例も少なくなく、開拓団は侵略の先兵として中国民衆の怨嗟(えんさ)の的となった。1945年のソ連参戦前、関東軍は満州の4分の3の放棄を決定、すでにソ満国境付近の兵力の多くが撤退していた。そのとき、ソ連側に撤退を知られないため在満の一般日本人に対しても秘密にされ、開拓団の安全はまったく考慮されなかった。ソ連軍が攻撃してきたとき、開拓団の壮年男子は根こそぎ軍に動員されており、残された老人、女性、子供は砲火に追われ、中国人の報復襲撃にさらされつつ、自力で避難した。逃避行の最中に多数の死者が出、数千人に及ぶ乳幼児が中国人に拾われたり託されたりした。中国残留日本人孤児の多くはこうして発生したが、開拓団以外にも残留孤児となった場合があったことはいうまでもない。
第二次世界大戦後、国共内戦と中華人民共和国の成立、そして冷戦の深化により、日中両国は対立関係にあり、残留孤児問題は忘れられたばかりか、岸信介内閣が1959年「未帰還者に関する特別措置法」(昭和34年法律第7号)を制定、残留孤児等の戸籍を「戦時死亡宣告」により抹消してこの問題の幕引きを図った。
[伊藤一彦]
孤児の永住帰国
中国で、孤児は日本人ゆえにいじめられ、とりわけ排外的風潮の強まった文化大革命のなかで、日本のスパイなどとして迫害された事例があった。
1972年9月の日中国交回復まで、残留孤児問題は表面化しなかった。国交回復後、孤児とその肉親の互いの消息を求める声が出てきたが、日本政府の対応は緩慢で、1981年になって初めて孤児47人の国費による集団訪日調査が実現した。その後1999年(平成11)11月までに30回、2116人が肉親探しに来日し、672人の身元が判明した。判明率は初期には50%を超えたが、孤児の高齢化等により次第に低下、10%以下ということもあった。2000年からは、中国現地での日中共同調査により新たに孤児と認定した者の情報を日本で公開し、肉親に関する情報が得られた者についてのみ訪日対面調査を行っている。2009年11月現在、永住帰国した孤児は2536人、同行家族は6779人。2008年現在で、なお1527人の身元が判明していない。
1993年までは日本の親族の同意がなければ、日本人と判明しても国費による永住帰国はできなかった。しかし、1994年に「中国残留邦人帰国促進・自立支援法」が定められ、訪日調査の一員となれば自動的に日本人とみなされ、本人だけでなく配偶者と未成年の子供の渡日旅費や定住支援が受けられるようになった。
国費帰国者は、定着促進センターで4か月間(のちに6か月間)日本語や習慣を学び、約16万円の自立支度金を得て公営住宅に住み、その後1年近く生活保護を受けられる。しかし、ことばをはじめ文化の壁は厚く、就職も困難で、日本社会に溶け込むのは容易でない。帰国孤児が高齢ということもあり約7割が生活保護を受けたが、出国すると支給されなくなるため、中国の養父母のもとを訪れることができず、中国では「豊かな日本に行ったのに、育てられた恩を忘れた」と孤児に対する非難があがった。また孤児に伴われて来日した子や孫が、学校等で差別され、非行に走るという事例も生じた。
2002年12月の東京地裁を皮切りに、永住帰国者の8割余が日本政府の責任を問う訴訟に踏み切った。2006年12月の神戸地裁で勝訴したほか、7地裁で敗訴となったが、こうした活動により、2007年11月、国民年金満額支給等を定める「改正中国残留邦人支援法」が成立、これを受けて関係訴訟はすべて取り下げられた。
[伊藤一彦]
『関亜新・張志坤著、浅野慎一ほか監訳『中国残留日本人孤児に関する調査と研究』全2巻(2008・不二出版)』▽『蘭信三編『中国残留日本人という経験――「満洲」と日本を問い続けて』(2009・勉誠出版)』▽『井出孫六著『中国残留邦人――置き去られた六十余年』(岩波新書)』
[参照項目] | 国共内戦 | 復員引揚問題 | 満州開拓 | 冷戦
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『中国残留孤児問題』
第2次世界大戦後日本で,占領軍によって実施された追放の一つ。 1946年1月4日,占領軍当局はポツダム宣言に基づく日本民主化政策の一環として,「好ましくない人物の公職よりの除去覚書」を発した。これに基づき公職追放令が施行された。追放理由はA項からG項まで7項にわたり,被追放者は 21万人に上った。中央,地方の公職適否審査委員会の審査による追放指定のほか,重要な者には総司令部覚書による直接指定 (メモランダム・ケース) もあり,追放が政略的に使われた例もある。占領政策の転換につれて,50年以降レッド・パージに転用され,本来の趣旨が歪曲された。また 49年以降は追放解除の措置もとられ,52年4月の講和発効とともに自然消滅した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『公職追放』
1945年の第2次世界大戦終戦に伴い,連合国総司令部の命令により行われた経済の非軍事化,民主化のための措置。大戦中までの日本経済において支配的な役割を果していた旧財閥は,財閥家族を社員とする持株会社を頂点として,傘下企業に対する株式所有および役員兼任の組合せによって形成されており,財閥解体措置はこれに対応して行われた。まず財閥関係の状態を終戦時の状態にとどめ,これに次いで財閥関係の持株会社を解体した。そして日本経済の民主化の前提条件をつくりだすための担当機関として持株会社整理委員会が設置された。この委員会が財閥解体のための措置を行なったのである。具体的には持株会社の解散,持株会社と指定された会社の所有する証券などの処分が中心となったが,さらに財閥の支配者についてもその所有する株式の処分が行われ,さらに財閥同族者と財閥関係役員の関係会社からの追放が進められた。これによって,財閥を形成していた人的,資本的な関係は一応除去され,競争経済体制の前提づくりが進められることになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事
[特別高等警察]
反体制活動の取締りのために設置された戦前警察の一部門で,思想警察として主として社会主義運動の取締りにあたった。特高として知られる。 1911年幸徳秋水の大逆事件後に警視庁に特別高等課が設けられたのが始りで,12年に大阪府に,23年には北海道,神奈川,長野,京都,兵庫,愛知,山口,福岡,長崎にも設けられるにいたった。さらに三・一五事件のあった 28年には全国の府県に設けられた。 32年に警視庁特別高等課が特別高等警察部に昇格し,特別高等,外事,労働,内鮮,検閲,調停課に分れ,特別高等課第1課が左翼を,第2課が右翼を担当した。全国の特高部,あるいは特高課は内務省警保局保安課のもとに一元的に統轄され,極端な思想弾圧組織として恐れられた。 45年 10月連合軍総司令部の覚え書によって全面的に廃止された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
女性が国政および地方政治に参加する権利。具体的には選挙権・被選挙権をもつ権利をいう。女性参政権運動は近代フェミニズム思想のもと 19世紀に活発化し,特にイギリスとアメリカ合衆国で激しく展開された。イギリスでは 1850年代にジョン・スチュアート・ミルが中心となって女性参政権を主張し,アメリカでは 1848年エリザベス・C.スタントンらの呼びかけによって女性の権利をまとめた「所感の宣言」が起草された。しかし,それでも両国とも女性参政権は第1次世界大戦後まで実現せず,イギリスのエメリン・パンクハーストやミリセント・G.フォーセット,アメリカのスーザン・B.アンソニーやルーシー・ストーンら,多くの活動家の長い運動を要した。
世界で初めて国政において女性の選挙権が認められたのは 1893年のニュージーランドであるが,第1次世界大戦前にはほかに,オーストラリア,フィンランド,ノルウェーでしか女性の選挙権は認められていなかった。ところが,大戦中に女性が果たした役割が,女性に選挙権を与える大きな契機となった。戦時中に不足した男性の労働力に代わって女性が国内の労働力を担い,それまで男性が占めていた社会的領域に女性が進出するにつれ,女性参政権に対する抵抗は弱まっていった。第1次世界大戦から戦後の数年の間に,カナダ,ドイツ,オーストリア,ポーランド,そのほか多数の国で女性の選挙権が認められた。イギリスでは,30歳以上の女性については 1918年に,男性と同じ 21歳以上の女性については 1928年に選挙権が与えられた。アメリカでは 1920年に男女平等の参政権を認めるアメリカ合衆国憲法修正第19条が成立した。
日本においては,1924年に市川房枝らが女性参政権団体を組織したが,第2次世界大戦後まで実現せず,1945年の衆議院議員選挙法の改正により,20歳以上の男女に平等な選挙権が付与された。ほかの女性参政権が実現されていなかった国でも第2次世界大戦後は次々と認められ,戦後に独立を果たした国の多くがその憲法において男女平等の選挙権を保障した。保守的なアラブ諸国ではなお多くの制限があるが,2000年代に入ってイラクやクウェートなどでも女性に選挙権が与えられ,ほとんどの国で女性参政権が実現した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。幣原内閣は 1945年 12月に第1次農地改革を提案したが,その不徹底さは占領軍および農民の納得するところとならず,46年 10月,第2次農地改革案の作成となった。これは自作農創設特別措置法と農地調整法の再改正案に基づき,地主制の解体と自作農業創設のために小作地の解放,小作料の引下げと金納化,不在地主の一掃をおもな内容とした。在地地主の貸付保有地を1町歩 (北海道は4町歩,1町歩は約 0.99ha) に制限し,それを超える貸付地と不在地主の農地は農業委員会の手で小作農に売渡された。農地改革は 50年にほぼ完了したが,これによって小作地の 80%を超える約 200万町歩が 250万の地主から 470万余の小作農に移り,牧野など約 45万町歩と未墾地 130万町歩余が解放された。この結果,戦前 70%を占めた小作農は 40%となり,自作地をもたない農家は 26%から4%に減少した。その後,旧地主層は土地の価格が不当に安すぎたとして補償要求を展開,65年に農地報償法を成立させた (→農地補償 ) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
E-GOV法令検索 『学校教育法』https://laws.e-gov.go.jp/law/322AC0000000026
『学校教育法』文部省 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317990.htm
参考:『学校教育法』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%99%E8%82%B2%E6%B3%95
学校教育法(がっこうきょういくほう、昭和22年3月31日法律第26号)は、学校教育制度の根幹の定めに関する日本の法律である。略称は、学教法(がっきょうほう)である。
所管官庁は、文部科学省(旧・文部省)である。幼稚園については初等中等教育局幼児教育課、小学校・中学校・高等学校・特別支援学校については同初等中等教育企画課、大学・専門学校・各種学校は高等教育局高等教育企画課、教科書検定は初等中等教育局教科書課がそれぞれ担当する。またこども家庭庁成育局保育政策課、厚生労働省健康・生活衛生局予防接種課および社会・援護局障害福祉課と連携して執行にあたる。
概要
学校教育法は、昭和憲法公布直後の1946年(昭和21年)12月28日に召集され明治憲法下における最後の議会となった第92回帝国議会において、教育基本法など他の教育制度改革法案とともに協賛を得て制定された。法令番号は昭和22年法律第26号、1947年(昭和22年)3月31日に公布、翌4月1日から施行された。
学校教育法で、指定された学校の種類(学校種)は第二次世界大戦後における教育改革の姿勢と方向付けを如実に示している。ただし、学校教育法に言及されていない教育の場も少なくない。学校教育法は、小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年〜6年(大学院、短期大学)、幼稚園、高等専門学校5年、中等教育学校、義務教育学校、特別支援学校(以上一条校)のほか、専修学校や各種学校などについても定めている。教科用図書検定についての規定も盛り込まれている。
学校教育法制定の経緯
第二次世界大戦以前は、学校制度は各学校種ごとに勅令によって定められていた(勅令主義)。近代日本の学校制度整備の起点となった「学制」では一つの法令で全ての基本的な学校種を全て定めていたが、その後一貫した学校体系が中々整備されない傾向にあった。結果として教育目的や入学対象者、修業年限等が異なる学校種が複数並列して設けられることになり、これを複線型学校体系と呼んだが、このことが各種学校令として反映されているとみることもできる。戦前の国民は、最上位の教育機関であった大学に進学するには原則として旧制高等学校などの限られた種別の学校を卒業しなければならなかった。
大東亜戦争終結後、日本国憲法、教育基本法の制定を踏まえて、学校教育の制度の根幹を定める法律として制定され、学校制度は6-3-3-4制を基本とする単線型学校体系に改められた。学校教育法の精神は公の制度である学校を1つの法律で規定し、教育の機会均等を図ることにある。学校教育法の施行に伴い、大東亜戦争終結以前の各種の学校令は一斉に廃止された。
なお、その後1961年に高等専門学校が、1998年に中等教育学校が、2015年に義務教育学校が設置されるなど一部複線化の動きがある。
沿革
学校教育法はこれまで30回以上にわたって改正されている。
2007年には、前年の教育基本法改正を受けて、大きな改正があった。小学校と中学校などについて、義務教育を行う学校との位置づけが明示され、盲学校・聾学校・養護学校は特別支援学校に一本化された。長らく特殊学級は「75条学級」と呼ばれてきたが、75条ではなくなった。(対照表)
構成
始めの第1章に総則、第2章に義務教育、後半の第12章に雑則、第13章に罰則をおくほかは各学校に関する内容を定めている。なお、各種学校に関する定めは第12章雑則にある。
上諭(公布文)
第1章 総則(1 - 15条)
第2章 義務教育(16 - 21条)
第3章 幼稚園(22 - 28条)
第4章 小学校(29 - 44条)
第5章 中学校(45 - 49条)
第5章の2 義務教育学校(49条の2 - 49条の8)
第6章 高等学校(50 - 62条)
第7章 中等教育学校(63 - 71条)
第8章 特別支援教育(72 - 82条)
第9章 大学(83 - 114条)
第10章 高等専門学校(115 - 123条)
第11章 専修学校(124 - 133条)
第12章 雑則(134条 - 142条)
第13章 罰則(143条 - 146条)
附則
学校教育法に定めがある各学校
学校教育法は公の性質をもつものとされている一条校について定められ、ほかにも専修学校と各種学校について定めがある。
一条校
幼稚園
義務教育およびその後の教育の基礎をつちかうものとして、幼児を保育し、幼児の健やかな成長のために適当な環境を与えて、その心身の発達を助長することを目的とする。1947年4月1日の学校教育法の施行によって正式に学校として位置づけられるようになった。
小学校
心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なものを施すことを目的とする。満6歳になったほとんどの子供が入学し、修業年限は6年である。
市町村(または地方公共団体の組合)には、小学校を設置する義務が、保護者には、子が小学校の課程を修了するまで就学させる義務があり、いわゆる9年間の義務教育うちのはじめの6年間が該当する。
中学校
小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とする。小学校を卒業した者(小学校の課程を修了した者)が入学し、修業年限は3年である。
市町村(または地方公共団体の組合)には中学校を設置する義務が、保護者には子が満15歳になる学年が終わるまで就学させる義務があり、いわゆる9年間の義務教育のうち、小学校の6ヶ年のあとの3年間が該当する。
義務教育学校
心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とする。2015年(平成27年)の改正に伴い、小中一貫教育を行う学校として登場した。
6年間の前期課程と3年間の後期課程に区分され、前期課程は小学校、後期課程は中学校並びに中等教育学校前期課程が該当する。修業年限は9年である。
高等学校
中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育および専門教育を施すことを目的とする。
「全日制の課程」「定時制の課程」「通信制の課程」の下に、学科が置かれる。別科や専攻科を置くことができる。
中学校を卒業した者、中等教育学校の前期課程を修了した者などが入学でき、修業年限は、「全日制の課程」は3年、「定時制の課程」、「通信制の課程」については3年以上である。
中等教育学校
小学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、義務教育として行われる普通教育並びに高度な普通教育及び専門教育を一貫して施すことを目的とする。1998年(平成10年)の改正に伴い、中高一貫教育を行う学校として登場した。
3年間の前期課程と3年間の後期課程に区分され、前期課程はいわゆる9年間の義務教育うちの3年間が該当する。
後期課程は、高等学校と同様に「全日制の課程」、「定時制の課程」、「通信制の課程」の下に学科が置かれ、また別科や専攻科を置くことができる。小学校を卒業した者が入学でき、修業年限は原則として6年である。
特別支援学校
視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者または病弱者(身体虚弱者を含む)に対して、幼稚園、小学校、中学校または高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害による学習上または生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けることを目的とする。幼稚部、小学部、中学部、高等部がある。
高等部は、高等学校と同様に「全日制の課程」、「定時制の課程」、「通信制の課程」の下に学科が置かれる。また、特別支援学校には別科や専攻科を置くことができる。
特別支援学校においては、在籍する幼児・児童・生徒に教育を行うほか、幼稚園、小学校、中学校、高等学校または中等教育学校の要請に応じて、知的障害者、肢体不自由者、身体虚弱者、弱視者、難聴者、その他障害のある幼児、児童または生徒の教育に関し必要な助言または援助を行うよう努めるものとされている。
大学
学術の中心として広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。高等学校または中等教育学校を卒業した者などが入学できる。学部を置くことを常例とし、大学院、別科、専攻科を置くことができる。
修業年限は原則として4年であるが、「特別な専門事項にかかわる学部」や「夜間に授業を行う課程」については4年を超えるものとされ、医学部・歯学部・薬学部・獣医学部の修業年限については6年と明記されている。また、学位を授与する権限を持ち、学部を卒業した者には学士の学位が授与される。
専門職大学
大学のうち、深く専門の学芸を教授研究し、専門性が求められる職業を担うための実践的かつ応用的な能力を展開させることを目的とする。2017年(平成29年)の改正に伴い発足した職業大学である。
修業年限は原則として4年であるが、「特別な専門事項にかかわる学部」や「夜間に授業を行う課程」については4年を超えるものとされている。卒業した者には文部科学大臣が定める学位(以下「専門職学位」)が授与される。
大学院
大学院は大学に置かれる。学術の理論及び応用を教授研究し、その深奥をきわめ、または高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培い、文化の進展に寄与することを目的とする。大学院には研究科が置かれ、大学の学部を卒業した者、または文部科学大臣の定めるところにより、これと同等以上の学力があると認められた者(高等専門学校等の専攻科や省庁大学校の所定の課程を修了し独立行政法人大学改革支援・学位授与機構から学士の学位を授与された者など)が入学できる。修了した者には、課程の違いにより博士または修士の学位が授与される。
専門職大学院
大学院のうち、学術の理論及び応用を教授研究し、高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培うことを目的とする。修了した者には専門職学位が授与される。
短期大学
短期大学は大学の一種である。深く専門の学芸を教授研究し、職業又は実際生活に必要な能力を育成することを主な目的とする。修業年限は2年または3年である。学部は置かず、学科を置く。なお大学院は設置できない。卒業した者には短期大学士の学位が授与される。
専門職短期大学
短期大学のうち、深く専門の学芸を教授研究し、専門性が求められる職業を担うための実践的かつ応用的な能力を育成することを目的とする。2017年(平成29年)の改正に伴い発足した職業大学である。卒業した者には専門職学位が授与される。
高等専門学校
深く専門の学芸を教授し、職業に必要な能力を育成することを目的とする。学校教育法の一部改正により1962年(昭和37年)に発足した学校。修業年限は5年、または5年6ヶ月である。
高等専門学校に入学できるのは中学校を卒業した者、中等教育学校の前期課程を修了した者などである。学科が置かれる。卒業した者には準学士の称号が授与され、また、大学の学部に編入学[注釈 4]することができる。専攻科を置くことができる。
一条校以外
専修学校
専修学校は、職業もしくは実際生活に必要な能力を育成し、または教養の向上を図ることを目的とする。
1975年(昭和50年)の学校教育法改正により発足した。専修学校の課程には、高等課程(中学校卒業者等対象)、専門課程(高等学校卒業者等対象)、一般課程に区分される。修業年限は1年以上である。
高等専修学校
高等課程をおく専修学校が称することができる名称。
専門学校
専門課程をおく専修学校が称することができる名称。
文部科学大臣が認定する専門課程を卒業した者には、専門士または高度専門士の称号が授与され、また大学への編入学が認められ、2年制の短期大学の専攻科や高等専門学校の専攻科への進学ができる。
各種学校
学校教育法第1条に掲げる学校および専修学校を除いたもので、学校教育に類する教育を行うものをいう。
評価
学校評価
2007年改正学校教育法において学校評価の実施・公表に関する規定が整備された。この規定は小学校の他、幼稚園、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、専修学校及び各種学校に準用される。
大学評価
2004年より、改正学校教育法で第三者機関による機関別・専門分野別大学評価の制度が整備された。
現在の日本の国家形態,統治組織,統治作用を規定している憲法典。前文,11章 103条からなる。1946年11月3日公布,翌 1947年5月3日施行。日本が第2次世界大戦で連合国側に無条件降伏をしたことにより,占領軍総司令部の強力な指示,示唆のもとに,総司令部の憲法草案に依拠してできあがったもので,日本の民主的変革の基本原理を提供した。その特色は
(1) 国家形態としては象徴天皇制をとるが,憲法構成原理としては国民主権が徹底されている(1章)
(2) 国権の発動としての戦争を放棄し,その手段としての戦力を保持しない(2章)
(3) 基本的人権を国民に保障している(3章)
(4) 地方自治を保障している(8章)
(5) これらを実現する政治制度として,議院内閣制を採用し(4,5章)
(6)違憲立法審査権を裁判所に認め,法の支配を確認している(6章)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
明治維新後,華族令(1884年)によって旧諸侯,旧公卿,国家に勲功のあった者に与えられた世襲の特殊身分。華族はもともと清華(清華家)の別称であったが,1869年の版籍奉還により公卿・諸侯の身分を廃し併せて華族と称して士族の上に置いた。しかしこのときはまだ特権を伴わなかった。華族令によって公・侯・伯・子・男の5等の爵位に分けられ,貴族院議員の選挙・被選挙権を与えられた。皇族の〈藩屏(はんぺい)〉として天皇制維持の一基盤であったが日本国憲法(14条)で廃止。→学習院/十五銀行
→関連項目愛新覚羅浩|栄典制度|貴族|金禄公債|四民平等|爵位|臣籍降下|大名|知藩事|平民
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
Report on Japanese taxation by the Shoup Mission
1949年コロンビア大学教授 C.シャウプを団長とする使節団が,日本の租税制度に関して行なった勧告。同使節団は同年5月 10日来日,調査ののち,同8月 26日シャウプが内外記者団と会見,その概要を発表。同9月 15日 GHQが全文を発表した。それは税制の根本的改革を指摘し,青色申告制度の創設などの所得税を中心とした税務行政の整備,富裕税,資産再評価法の新設,独立税を中心とする地方税体系の確立,地方財政平衡交付金制度の採用などを内容とし,一貫した租税体系として提案された。 50年以後実施された税制の改革はその一部分を導入したにすぎなかったが,法人優遇,資本蓄積の促進という勧告の基本的性格は引継がれ,ドッジ・ラインで与えられた戦後日本経済の租税体系の基礎となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[中華人民共和国1950年代]
1949年に成立した社会主義国。首都北京
国共内戦に勝利後,1949年9月人民政治協商会議で共同綱領を制定し,10月1日毛沢東共産党主席,周恩来首相のもとに建国を宣言。
【1950年代】1950年の土地改革法,51年の三反五反運動の展開によって社会主義建設のための経済建設を開始。53年第1次5か年計画を開始し,54年に中華人民共和国憲法を制定,毛沢東が国家主席に就任。その後,農業共同化を進めながら,1956〜57年整風運動としての反右派闘争を展開,58年から人民公社建設を軸とした大躍進政策を掲げて第2次5か年計画に着手。しかし,3年連続の天候不順,指導上の欠陥,非公然に開始されていた中ソ対立によるソ連の支援打ち切りなどで大躍進政策は失敗し,1959年国家主席が劉少奇に代わり,彼の下で調整政策がとられた。この間,外交面では1950年2月中ソ友好同盟相互援助条約を締結,10月朝鮮戦争に義勇軍を派遣し,54年のジュネーヴ会議や55年のアジア−アフリカ会議などで非同盟諸国と連帯をはかる。しかし,1959年チベット問題からインドとの国境紛争が発生。
出典 旺文社世界史事典 三訂版 コトバンク『中華人民共和国』より一部抜粋
朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) と大韓民国 (韓国) の間で 1950年6月に始った紛争で,およそ 300万人が命を落した。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立って戦争に参加し,また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。戦況は目まぐるしく変化した末,戦争は 1953年7月,決定打のないまま終結した。
1950年6月 25日,北朝鮮はソ連の暗黙の了解のもと,38度線の南部に対する綿密な攻撃計画を発動した。国連安全保障理事会 (→安全保障理事会 ) は緊急会議を開き,北朝鮮の侵略を押しとどめるためすべての国連加盟国に支援を要請する決議を採択した。6月 27日,トルーマン米大統領は議会にはかることなく,宣戦を布告し,国連の警察活動の一環として韓国を支援するよう米軍に命じた。この間,韓国軍は北朝鮮軍に圧倒された。不十分な装備のまま応援に駆けつけた米陸軍の4個師団も南へと後退し,朝鮮半島の南端に押込められた。しかし,米軍は大量の援軍を得,さらに9月 15日,マッカーサー将軍率いる部隊が 38度線の南方およそ 160キロの仁川に上陸作戦を敢行した。主要戦線のはるか北方で上陸作戦を行なったことで,国連軍は北朝鮮軍の分断に成功し,北朝鮮軍は南北からの挟撃を受けて,完全に粉砕され,12万 5000人以上が捕虜となった。
国連軍が北上して 38度線まで押返したとき,中国は国連軍が北朝鮮に存在することは国家安全保障にとって受入れがたく,この戦争に介入せざるをえないと警告した。しかし,国連軍は警告を無視し,南北統一の意図を表明するとともに,北朝鮮に進軍した。 11月半ばまでに,国連軍部隊は北朝鮮と満州 (中国東北部) の国境である鴨緑江に接近しつつあった。 11月 24日,マッカーサーは「クリスマスまでには帰国」を実現するとして一大攻勢を発表,彼が率いる部隊は勇躍,鴨緑江まで進軍するはずだった。翌日,およそ 18万人の中国義勇軍が参戦し,冬季の苦しい戦闘と悲惨な退却のあと,国連軍は 12月 15日までに再び南の 38度線まで押返されてしまった。 50年 12月 31日,共産勢力はおよそ 50万人の将兵とともに2度目の韓国侵攻を開始したが,国連軍の絶え間ない空爆を受けて攻撃が鈍り,前線は最終的に 38度線沿いで動かなくなった。一方,マッカーサーは中国沿岸部の封鎖と満州の基地に対する空爆を当局に要求したが,それはソ連の参戦を招き,世界規模の紛争にいたると恐れるトルーマンはこの要求を却下。 51年4月,トルーマンはマッカーサーを国連軍司令官,極東軍司令官から解任し,リッジウェー将軍を後任に据えた。
51年7月,停戦交渉が開始され,52年秋にアイゼンハワーが米大統領選挙に勝利するまで続いた。アイゼンハワーは北朝鮮,中国とひそかに連絡をとり,和平合意がならない場合,核兵器を使用する用意があり,対中戦争も辞さないと伝えた。 53年7月 27日,休戦が成立し,そのときの前線が南北間の事実上の国境として受入れられた。この戦争で,およそ 130万人の韓国人 (その多くは民間人) が死亡し,中国人の死者は 100万人,北朝鮮人は 50万人,アメリカ人は約5万 4000人が死亡したほか,連合軍側ではイギリス人,オーストラリア人,トルコ人の犠牲者も少数ながら出ている。数百万人の南北朝鮮国民が一時的に難民となり,韓国の工業施設の大半が被害を受け,北朝鮮はアメリカの空爆作戦により徹底的に破壊された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[朝鮮特需]
特殊需要special procurementの略語。通常,1950年6月に勃発した朝鮮戦争に関連して発注された戦時の特殊な軍事需要(朝鮮特需)をいう。狭義には〈国連軍(主として在日米軍)が特需契約に基づいて調達する物資およびサービスの代金〉を呼び,広義には〈前記のほか日本に駐留する外国軍隊の消費(円セール)ならびに外国関係機関の支出に伴う受取り〉をも含む。…
※「朝鮮特需」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社 コトバンク『朝鮮特需』
毎年 2月初旬に行なわれる北海道の冬最大の行事。期間は 7日間。1950年に札幌市の中学生と高校生が大通公園に六つの雪像を設置し,雪合戦などのイベントを催したところ好評だったことがきっかけで始まった。1953年に初めて高さ 15mの大雪像をつくり,1955年からは自衛隊が参加して大規模な雪像づくりの競い合いが始まった。1959年マスコミに取り上げられると全国から観光客が集まるようになり,1965年には真駒内に第2会場を設けるまでになった。1972年の札幌オリンピック冬季競技大会を契機に世界的に知られる行事となり,1974年には国際雪像コンクールも行なわれ,1983年に薄野第3会場が設置されたのに続き,1984年からは会期が 2日間から 7日間に拡大された。その後 2005年に真駒内会場が閉鎖され,2006年から 2008年はさとらんど会場,2009年からはつどーむ会場が第2会場となっている。3会場には陸上自衛隊,札幌市職員,市民ボランティア,市民グループ,国際雪像コンクールに参加する外国人グループの手による雪像が 200基以上も展示される。期間中は国内外から約 200万人の見物客が訪れる。
サンフランシスコ講和条約,対日平和条約ともいう。第2次世界大戦の戦争状態を終結し,国交を回復するため,日本とアメリカ,イギリスなど 48ヵ国との間に締結された条約。 1951年9月8日サンフランシスコで署名され,52年4月 28日に発効した。前文および 27ヵ条から成り,ほかに若干の諸国との議定書,国際条約への加入および戦死者の墳墓に関する2つの単独宣言が付属している。領土処理については,朝鮮の独立承認,台湾,澎湖諸島,千島列島,南樺太,新南群島に対する日本の一切の権利,権原および請求権の放棄,南太平洋旧委任統治諸島をアメリカを単独施政権者とする信託統治のもとにおく旨の協定の承認,琉球,小笠原諸島を信託統治地域とすることの予定およびアメリカによる施政権行使ならびに日本による残存 (潜在) 主権の保持などを規定している。賠償については,日本の債務履行能力に限界があることの是認,在外日本資産の差押え,留置,精算あるいは役務賠償の原則の確定,日本の相手締約国に対する請求権の一切の放棄を規定した (→対日賠償問題 ) 。また安全保障については,日本が国連憲章第 51条の個別的,集団的自衛権を有することの是認などを定めている。中国代表権については,アメリカ,イギリス間で意見が一致せず,中華民国も中華人民共和国も会議に招請されなかった。 (→第2次世界大戦講和条約 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『対日講和条約』
1956年(昭和31年)7月に発表された経済白書(副題日本経済の成長と近代化)の結語には、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指して
《もはや「戦後」ではない》
と記述され流行語にもなった。
この白書は経済企画庁の調査課長であったエコノミストの後藤誉之助が作成の指揮を執った。言葉の初出は中野好夫が『文藝春秋』1956年2月号に発表した「もはや『戦後』ではない」である。
白書に記述されたこの言葉は、それまで経済成長を牽引してきた戦後の復興需要が落ち着きを見せ、今後の経済成長は社会の「近代化」によって支えられるものであり、その「近代化」もまた経済の安定した成長によって成し遂げられることを宣言するものであった。
wikipedia『経済白書』より抜粋
参考:『高度経済成長』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7
高度経済成長(こうどけいざいせいちょう)または、高度成長(こうどせいちょう)、高成長(こうせいちょう)とは、飛躍的に経済規模が継続して拡大すること、高い経済成長がなされることである。日本においては、実質経済成長率が年平均で10%前後を記録した1955年頃から1973年頃までを高度経済成長期と呼ぶ。
日本
日本の実質GDP成長率の推移
日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期は、1954年(昭和29年)12月(日本民主党の第1次鳩山一郎内閣)から1973年(昭和48年)11月(自民党の第2次田中角栄内閣)までの約19年間である[注釈 1]。この間には「神武景気」や「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生した。
敗戦からの復興(1946~1956年)
第二次世界大戦において、イギリス・アメリカ・中国・オランダの連合国に敗北し、朝鮮半島や台湾などの領地を喪失した上に、敗北と占領下による経済活動の荒廃や混乱を経た上でも、日本は敗北から急速に復興した。
1940年代後半に発生した食糧危機の影響により経済状況が一時悪化し、以後経済が不安定な状況が続くが、朝鮮特需を追い風に復興が続き復興特需とインフラの再整備、内需転換が続き占領下を脱して1年半の1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回った。1956年10月には戦後11年で経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言。
高度経済成長黎明期(1957~1960年)
1957年から1973年の16年間は、年平均10%以上の経済成長を達成した。エネルギーは石炭から石油に変わり、太平洋沿岸にはコンビナートが立ち並んだ。戦後解体された財閥が、株式を持ち合いながら銀行を事実上の核とする形態で再生し、旧財閥系企業が立ち直ったのもこのころだと言われる。
この経済成長の要因は、高い教育水準を背景に金の卵と呼ばれた良質で安い労働力、第二次世界大戦前より軍需生産のために官民一体となり発達した技術力、余剰農業労働力や炭鉱離職者の活用、高い貯蓄率(投資の源泉)、輸出に有利な円安相場(固定相場制1ドル=360円)、消費意欲の拡大、安価な石油、安定した投資資金を融通する間接金融の護送船団方式、管理されたケインズ経済政策としての所得倍増計画、政府の設備投資促進策による工業用地などの造成が挙げられる。
また、戦後首相の座についた吉田茂が行った後にいう吉田ドクトリン、憲法9条の下で本格的な再軍備を慎重に避けながら、日米安全保障条約に日本の安全を委ねることで、自国の経済成長を優先させる方針についても、上記の要因の一つとして考えられる。
所得倍増計画で東京オリンピックへ(1961~1964年)
1960年、池田勇人内閣は、翌1961年4月からの10年間で国民総生産(GNP)を2倍以上に引き上げ、西欧諸国並みの生活水準と完全雇用の実現を目標とする「所得倍増計画」を発表した。
所得倍増計画は1964年秋に開催される東京オリンピックへの特需を迎えた。
名神高速道路(1963年7月開業)や東海道新幹線(1964年10月開業)といった大都市間の高速交通網、首都高速道路や阪神高速道路も整備され、都内では東京都交通局の地下鉄1号線(現・都営地下鉄浅草線)、帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄〈東京メトロ〉)の日比谷線といった地下鉄新線の整備が進められた。
第二次大戦終戦直後の復興から続く一連の経済成長は「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と言われた。この驚異的な経済成長への憧憬や敬意から、日本を手本とする国が現れ始める(マレーシアにおけるルックイースト政策など)。
現在では、「戦後」の代名詞として1960年代の映像資料が使われる事が多い。
この時代、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の3種類の家電製品は「三種の神器」と呼ばれ、急速に家庭に普及していった。これら便利な家庭製品の普及は生活時間の配分にも大きな影響を与え、女性の社会進出を促すことになった。この当時の風潮としては「大きいことは良いことだ」が流行語となり、「巨人・大鵬・卵焼き」に象徴される。「東洋の奇跡」と言う言葉が使われ始めた頃は日本人独特の「勤勉」「個より集団を重んじる(=和の文化)」等が要因として挙げられた時期もあった。
昭和40年証券不況(1965年)
順調な経済成長は同時に証券市場の成長も促し、投資信託の残高は1961年に4年前の約10倍となる1兆円を突破した。この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。
しかし、1964年頃から経済は急速に縮小し事態は一変した。1964年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が倒産、1965年には山陽特殊製鋼倒産事件が発生した[注釈 3]。さらに大手証券会社各社が軒並み赤字に陥った。一方個人消費は旺盛であり、主に個人消費者を対象とする製造業や流通業、サービス業はこの不況の影響をほとんど受けなかった。
こうした事態を受け、不況拡大を防ぐために政府は、1965年5月に山一證券への日銀特融、7月には戦後初である赤字国債の発行を決めた。結果、当時の政財界の関係者が危惧していた昭和恐慌の再来を未然に防ぎ、高度経済成長を持続していくこととなる。
いざなぎ景気で大阪万博へ(1966~1970年)
1965年10月からいざなぎ景気が始まり、1966年から再び年10%以上の成長期となった。
1967年10月には所得倍増計画を達成。
1968年には日本の国民総生産(GNP)が、同じく敗戦国の西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となった。
終戦25周年記念として大阪万国博覧会が大阪府吹田市で1970年3月から半年間開催されることになり、いざなぎ景気は大阪万博への特需を迎えた。
大阪万博特需として、大阪中央環状線開通(1968年3月)、東名高速道路開通(1969年5月)、大阪市営地下鉄(現・Osaka Metro)の新線整備等が行われた。
日本が債権国となった1960年代後半には、外国人の日本株投資が活発化した。このころ株式投資基準が配当利回りから、株価を1株あたり純利益で割った値(PER)へ移行していった。外資に乗っ取られないよう金融機関をはじめ国内企業間で積極的に株式持ち合いをした結果、1973年度末の法人持株比率は66.9%にも達した。
石油危機と高度経済成長の終わり (1971~1973年)
1971年(昭和46年)8月のニクソン・ショック(ドル・ショック)による実質的な円の切り上げ、変動相場制移行は国際収支の過度な黒字を修正して経済の安定に寄与した。
1972年は3月に山陽新幹線岡山開業、5月に沖縄復帰を実現した。
1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が上昇し、日本はオイルショック(第1次オイルショック)に陥った。政府はインフレを抑制するために公定歩合を9%にまで引き上げた。
環境問題
経済成長の陰で急速な工業化に伴って環境破壊が起こり「水俣病」や「イタイイタイ病」、「四日市ぜんそく」、「第二水俣病」といった四大公害病の発生、大量生産の裏返しとしてのゴミ問題などの公害の問題が高度経済成長期後半になると深刻化した。
また、都市への人口集中による過密問題の発生と地方からの人口流出による過疎問題が発生した。高度経済成長時代も後半はその政策の見直しを迫られ、1967年の佐藤栄作内閣による公害対策基本法の制定や1971年の環境庁の発足、1972年の田中角栄による『日本列島改造論』の提唱につながることになる。
各国での例
メキシコの奇跡(Mexican miracle) - 1940年代から1970年代にかけてのメキシコの経済成長
経済の奇跡(Wirtschaftswunder) - 第二次世界大戦後から1970年代にかけての西ドイツ、オーストリアの経済成長(日本同様第二次世界大戦の敗戦国)
栄光の三十年間(Trente Glorieuses) - 第二次世界大戦後から1973年までのフランスの経済成長
スペインの奇跡(Spanish miracle) - 1959年から1973年にかけてのスペインの経済成長
イタリア奇跡の経済(Miracolo economico italiano) - 1950年代後半から1960年代にかけてのイタリアの経済成長(第二次世界大戦の敗戦国)
ギリシャの奇跡(Greek economic miracle) - 1950年から1973年にかけてのギリシャの経済成長
東アジアの奇跡 - 香港、台湾、大韓民国、シンガポール、マレーシア、タイ王国、インドネシアなどの経済成長
台湾の奇跡 - 1960年代後半から1970年代にかけての台湾の経済成長
漢江の奇跡 - 1960年代後半から1970年代にかけての韓国の経済成長
フェリックス・ウフェ=ボワニ - 1960年代から1970年代にかけてのコートジボワールの経済成長
ブラジルの奇跡(Milagre econômico) - 1968年後半から1973年にかけてのブラジルの経済成長
チリの奇跡 - 1974年から1983年、1985年、1990年にかけてのチリの経済成長
改革開放(Chinese economic reform)- 1978年から続く中華人民共和国の経済成長
東京タワー(とうきょうタワー、英: Tokyo Tower)は、東京都港区芝公園にある総合電波塔で、正式名称は日本電波塔(にっぽんでんぱとう)である。
東京タワー建築前は放送事業者はそれぞれ個々に自局の塔から放送を行っていたが放送電波の届かない範囲も狭く指向性のために電波が受け取りにくい。電波塔の乱立は好ましくないと言った状況から、東京タワーが建てられた。
1958年(昭和33年)12月23日竣工。
しかし、放送のデジタル化、および都内の高層化により、東京タワーは放送局の電波送信の役目をスカイツリーに譲り、緊急時のバックアップを担うのみになっている。
展望台は、メインデッキ(150m)とトップデッキ(250m)の2か所があり、富士山・筑波山・房総半島・三浦半島、東京スカイツリー、東京ゲートブリッジなども見渡せる。
2013年国の登録有形文化財に登録。
2018年度グッドデザイン賞受賞。
参考:『東京タワー』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC
参考:『東京タワー施設案内』(東京タワーHP) https://www.tokyotower.co.jp/guidance/
参考:『東京タワー (333m)』(全日本タワー協議会) https://www.japantowers.jp/tokyo_tower/
参考:『昭和のシンボル 東京タワー ~新しくて懐かしい令和大改革:読んでわかる「カンブリア宮殿」』
[なべぞこ不況]
なべ底不況とは、神武景気の後の1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけて起こった不況のことをいいます。当初はなべの底のように景気が停滞したままであり、不況が長期化するのではないかと予想されたため、なべ底不況と呼ばれました。しかし、不況の原因は在庫急増の反動という短期的な要因であったため、1958年から3回にわたる公定歩合の引き下げによって不況を乗りきることができました。
[岩戸景気]
岩戸景気とは、神武景気に続いて発生した日本における好景気のことをいいます。神武景気は31か月続きましたが、岩戸景気は1958年(昭和33年)6月から1961年(昭和36年)12月までの42か月続きました。景気の長さにおいて、またその大きさにおいても神武景気を上回る好景気との評価がなされたため、神武天皇よりさらに遡って「天照大神が天の岩戸に隠れて以来の好景気」という意味で、この名が付けられました。この時期から日本の高度成長期が始まり、朝鮮特需が減少する反面、重化学工業の技術革新の波が起こり、一社の民間企業の設備投資が、別の会社の設備投資を招き、「投資が投資を呼ぶ」といわれました。産業面の変化をみると、繊維産業や石炭、海運産業等の比重が低下する反面、電気機械・精密機械・自動車などの機械産業、あるいは鉄鋼・化学・石油精製等の装置産業が発展し、産業の高度化が進みました。
伊勢湾台風(いせわんたいふう、昭和34年台風第15号、台風195915号、国際名:ヴェラ/Vera)は、1959年(昭和34年)9月26日(土曜日)に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした台風である。伊勢湾沿岸の愛知県と三重県(伊勢湾沿岸の工業地帯が水没)での被害が特に甚大であったことからこの名称が付けられた。死者・行方不明者の数は5,098名、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の被害をもたらした。
観測史上最大の高潮(名古屋港基準面 潮位5.31m)
当時の災害広報手段は電源タイプのラジオ(電池式のラジオは高額でまだ普及していなかった)がほとんどであり、ラジオで高潮の注意喚起を呼び掛けていたが、強風で停電、ラジオからの情報が遮断されたため、その呼びかけは届かなかった。天白川の堤防が決壊、大量の水と貯木場の大量の木材が町を襲った。住民側の災害対策意識がまだ育っていなかったことも避難の遅れにつながったともいわれる。
これらの地域は工業化のために地下水くみ上げによる地盤沈下が起き、また、干拓・埋め立てにより、海抜ゼロメートル地域となっていた。しかも興産のために、災害対処の方法を知らない層の人口が爆発的に増え、対策が遅れたのが甚大な被害の理由の一つと考えられている。
国は、戦後すぐに台風が連続し、あちこちで大きな被害をもたらしたため、伊勢湾台風の数年前に「水害地形分類図」(文部省)を制作し、愛知県・岐阜県に送っていたものの、水害対策に生かされておらず、伊勢湾台風には間に合わなかった。しかし、その後地図の有効性が認められ、伊勢湾台風の経験から、現在のハザードマップの整備につながり、自治体の災害対策に生かされている。
高潮の被害が収まった後は、1947年に制定された災害救助法により、応急仮設住宅1万4千戸余りが全国で供与された。
また、自治体側も治水対策強化にせまられ、河川改修に力を注ぐことになった。
参考:『伊勢湾台風』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%B9%BE%E5%8F%B0%E9%A2%A8
参考:NHK『明日をまもるナビ』歴史が伝える 災害と戦った日本人の知恵(2024年3月31日放送)
2024年4月7日まで NHK+ https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024033102703
参考:『仮設住宅』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E8%A8%AD%E4%BD%8F%E5%AE%85
1951年9月8日に対日講和条約と同時に署名された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」Security Treaty between Japan and the United States of America(1952.4.28.発効)と,1960年1月19日に署名された「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」Treaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of America(1960.6.23.発効)の二つの条約の総称。
1951年に締結された旧条約は前文と 5条からなる。日本国内へのアメリカ軍の駐留を認め,この在日アメリカ軍は極東における平和維持に寄与し,外国の干渉によって日本に大規模な内乱,騒擾が発生して日本政府の要請があった場合,また日本が外部から武力攻撃された場合に出動できると規定した(1条)。アメリカ軍の具体的な配備などの条件は,旧条約と同日に発効した日米行政協定に定められた。
1960年に締結された新条約は前文と 10条からなる。日米間の政治,経済上の協力がうたわれ(2条),アメリカが日本を防衛する義務が明文化されて,日本が武力攻撃を受けて防衛行動をとった場合の国際連合安全保障理事会への報告義務,および同理事会が平和回復に必要な措置をとったときに行動を終止することを定めている(5条)。5条は,日本が他国から武力攻撃を受けた際にアメリカが集団的自衛権を行使して日本を防衛する根拠となっている。また「アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」として,アメリカ軍の日本での駐留を認めている(6条)。条約の効力は 10年で,その後は双方のいずれかが終了の意思を通告してから 1年後に無効となる(10条)。日米行政協定は日米地位協定として新たに締結された。新条約は 1970年に自動延長され,1972年の沖縄返還で沖縄県も同条約下に入った。新条約の締結前後は,極東条項をめぐる安保改定問題など,内政上の大きな争点となり,在日アメリカ軍基地をめぐる紛争も続いたが,その後は条約の存在そのものが政治的な問題とされることは少なくなり,冷戦終結後も継続された。日米安全保障条約に基づく防衛協力の具体的なあり方に関する取り決めとして,1978年に日米防衛協力のための指針が発表され,1997年と 2015年に改定された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
参考:『所得倍増計画』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%80%E5%BE%97%E5%80%8D%E5%A2%97%E8%A8%88%E7%94%BB
所得倍増計画(しょとくばいぞうけいかく)は、岸信介内閣が手にかけ、1960年に岸内閣の通商産業大臣で計画の推進役であった池田勇人が首相就任後に政策を本格化させた長期経済計画。池田内閣で閣議決定された際の名称は国民所得倍増計画(こくみんしょとくばいぞうけいかく)という。この計画では、翌1961年4月期からの10年間に実質国民総生産を26兆円にまで倍増させることを目標に掲げたが、その後日本経済は計画以上の成長に至った。立案は経済学者の下村治。
概要
日本の経済史においては、1956年4月から1973年11月頃までを高度経済成長期と呼び、この間、日本は年平均10%という驚異的な経済成長を遂げた。中でも特に、1960年に首相に就任した池田勇人が打ち出した「国民所得倍増計画」によって、成長体制が整備された。
池田は「国民所得倍増計画」を打ち出し、国民総生産を10年以内に26兆円(1958年度価格)に倍増させて、国民の生活水準を西ヨーロッパ先進国並みに到達させるという経済成長目標を設定し、内政と外交を結びつけることで、完全雇用の達成と福祉国家の実現、国民各層間の所得分布の是正をはかることを目指した。さらに租税、社会保障、公共事業を三本柱として経済成長を推進させた。
日本の第二次世界大戦後の長期経済計画としては、1957年の岸信介内閣による「新長期経済計画」に代わるものであり、1960年12月27日に池田内閣により閣議決定された[2]。池田内閣による所得倍増計画のもとで日本における実質国民総生産は約4年(1964年8月期)、国民一人当り実質国民所得は約7年(1967年10月期)で倍増した。一方で高度成長によるひずみの是正や社会資本整備が求められ、その後、佐藤栄作内閣で「中期経済計画」(1965年)および「経済社会発展計画」(1967)が策定された。
一方、これに異を唱えた福田赳夫は1962年に反池田集団「党風刷新連盟」を結成した。現在の清和政策研究会の前身である。
所得倍増計画とその要諦
1960年7月19日に池田は内閣総理大臣に就任し、9月5日に「所得倍増論」の骨子を発表。「今後の実質経済成長率を経済企画庁は年率7.2%といっているが、私の考えでは低すぎる。少なくとも年率9%は成長すると確信している」「過去の実績から見て、1961年度以降3ヵ年に年平均9%は可能であり、国民所得を1人あたり1960年度の約12万円から、1963年度には約15万円に伸ばす。これを達成するために適切な施策を行っていけば、10年後には国民所得は2倍以上になる」「9%程度の成長がないと、10年間で完全雇用と、生活水準を西ヨーロッパ並みに引き上げることはできない」などとした。名目経済成長率年平均9%は、池田の裁断で決めたといわれ、外人記者は「ナイン・パーセント・マン」と打電した。
「所得倍増論」は、はじめは非現実な人気取りと見られ、野党、エコノミスト、マスコミ、一部与党内、また多くの国民の反応は冷ややかで、実現不可能と思われていた。また実現したとしてもインフレーションが起こり、実質賃金が上がるわけではない、話がうますぎる、"絵に描いた餅"だなどと懐疑的に見られていた。都留重人は「日本経済は伸びているように見えるが、それは"回復であって"成長"ではない」などと「所得倍増論」は本質を見誤った錯覚と切り捨てた。エコノミストの多くは「所得倍増論」を愚かな暴論としか取り扱わず、痛烈な批判を浴びせた。
しかし池田は、国際政治経済の大きなうねりや、国内に於いても1964年東京オリンピック開催に向け、大規模なインフラストラクチャーの整備という公共事業が控えていたこと、家電分野を中心にイノベーションが始まっていて、農村を中心とする地方からの勤勉な労働力にも恵まれているといった国内外に於ける成長へのうねりを見据えていた。
9月7日の記者会見で「憲法改正はいま考えていない」と発言、憲法改正を棚上げすることで国民の懸念を和らげるとともに、経済重視の姿勢を強調した。翌日は選挙遊説のスタートを「新政策発表会」と称して、学校法人共立女子学園で行い、テレビ全局で生中継された。
11月20日の第29回衆議院議員総選挙で自民党は当時戦後最多の296議席を獲得して圧勝、12月8日に第2次池田内閣が発足すると、「所得倍増」を目指す構想は実行に移り、12月27日に「国民所得倍増計画」が閣議決定する。計画は第一表「将来人口」から始まる26個の計画表からなるが、その主目標は、1970年度の実質国民総生産を26兆円、すなわち1960年度のそれの二倍の大きさまでに成長させることに置かれた。「経済の安定的成長の極大化」を通じて「国民生活水準の顕著な向上と完全雇用の達成」を企図した、社会理念としての「高度成長」を高らかに宣言した。株価は安保騒ぎに嫌気して低迷していたが、池田の登場を歓迎して急速に回復し「所得倍増政策」の発表をうけて史上最高値を実現した。「国民所得倍増計画」は、戦後政治の流れを大きく転換する大政策となった。大幅な減税を続けながら、次々と得意の経済政策を打ち出していく。その後30年近くも続く「成長の時代」の幕開けであった。具体的処方として次の五つが挙げられる。
鉄道・道路・港湾・工業用水道など、相対的に立ち遅れたインフラストラクチャーの整備。
産業構造の高度化、すなわち工業化へ向けての誘導、生産性の高い部門へ労働力の移動。
自由貿易の推進と上記の重化学工業による生産性向上により国際競争を勝ち抜くこと。
人的能力の向上と科学技術の振興により、従来経済と切り離されていた教育・研究などの文教問題を経済成長と関連付け、文教政策に積極的に取り組む。
二重構造の緩和と社会的安定の確保。経済的成長の背面に噴出が予想される産業構造の転換にともなう摩擦的失業、資金格差などの問題への対処。福祉の推進。
「国民所得倍増計画」は「生産第一主義」「経済成長至上主義」「科学技術万能主義」などと呼称される「高度成長のパラダイム」の政策綱領として以後10年の間、席巻を極めた。それはこの後自民党長期政権下での開発政策の基礎となった。また国民もそれが人間の至福をかなえる手段だと刷り込まれていった。
全国総合開発計画(全総)
「所得倍増政策」の一環として、1962年10月に閣議決定した東京、名古屋、大阪、北九州を繋ぐ「太平洋ベルト地帯」に工業地帯を形成する「全国総合開発計画」(全総)は、戦後日本の国土計画の原点といわれる。同計画により、東京から九州北部に至る太平洋沿岸地域が、基幹インフラ整備の中核に位置づけられ、太平洋ベルト地帯を中心とする拠点開発構想が推進された。
元々、1950年に「国土形成計画法」が制定されて仕事は始まっていたが、国として正式に決定しうるような計画が作れないでいた。1950年代の仕事は、米作りのための用水路や発電、ダム建設、治水工事、災害対策といった戦後復興が主だったが「所得倍増計画」ができて、国土をいかに開発するかという中心テーマが確定し、一気に工業化の施策が進展した。また関連の「新産業都市建設促進法」「工業整備特別地域整備促進法」、これに漏れた地域の発展のために「低開発地域工業開発促進法」が1961年から1964年にかけて、「農業基本法」「中小企業基本法」「沿岸漁業等振興法」「森林・林業基本法」の四大産業基本法や「海運再建整備法」を任期中に策定し、産業の工業化を推進した。
「全国総合開発計画」(全総)の策定の中心は下河辺淳で、池田内閣による「所得倍増計画」を推進する地域開発の諸問題解決を目的とし、全国を均衡に発展させるという趣旨で、これにより経済計画からブレークダウンして国土計画が決定されるという、その後のパターンを定着させた。
「太平洋ベルト」に重化学工業地帯を出現させることを通じて「高度経済成長」に貢献した。工業化が沿岸部で進んだ大きな理由は、原料が全部輸入のため船で運んでこなければならず経済的だったからである。例えば鉄鋼業のライバルだったアメリカのピッツバーグは、ニューオーリンズ港に原料を持ってきて、それから川船や鉄道で五大湖の方へ持ってきていたが、日本は技術革新でタンカーを安く造り、一番安い原料を世界中から探し出して運び、アメリカより低コストで鉄鋼を作った。日本の人口が農村から太平洋側に向かって流出し、定住したのは池田内閣の時代が始まりである。
社会資本の充実が経済成長にとって不可欠であるという要件の下、1961年から(1964年修正)5年間に4兆9000億円の道路投資が決定し、任期中に名阪国道、中央自動車道、東名高速道路、中国自動車道や、東京国際空港に代わる成田国際空港建設などが閣議決定されている。また左藤義詮大阪府知事、原口忠次郎神戸市長から「大阪に公団を設立して欲しい」との陳情を受け、阪神高速道路公団の設置を決定させた他、行政に関する公的な事業推進のため、任期中に水資源機構、都市再生機構など公団等を増加させた。民間企業が資金を借りやすくするため政策金利を0.37%引き下げ、さらにおよそ800億円の減税を実施した。一方で二年以内に9割の貿易自由化を決定し、日本企業を海外との競争に向かわせた。このアメとムチの政策により企業は新たに工場を建設するなど一斉に設備投資に走った。
池田はアメリカの物質的な豊かさを評価し、それと結びつくことで日本も豊かになる、アメリカは自動車産業が発達して産業を引っ張っている、だから日本もそのために高速道路を造り、自動車産業を伸ばそうと説いた。減税、社会保障、公共事業の拡大は医療、製薬、建設業、電機メーカーの発展をもたらした。日本国有鉄道の動力近代化計画と複線を本格化し輸送力を強化した。産業構造を軽工業から重工業に転換させ、それまで日本の主要な産業だった繊維や雑貨など軽工業を抑えぎみにして、鉄鋼業、自動車、電機などの産業部門に政府資金の財政投融資を集中的に行い振興を図った。
1963年の「新産業都市建設促進法」や1964年の「工業整備特別地域」などで、太平洋ベルト地帯以外にも工場を誘導していくことが意図され、そこに国から多くの補助金を投入して全国各地で、港湾整備、埋め立て、トンネルの堀削、バイパス道路新設、地方空港、高速道路、新幹線など、産業基盤の大がかりな整備が進行し、国土は大きな変貌を遂げていった。工業先導による地域振興を謳い上げたため、地方公共団体は工場誘致を血眼にした。既存の工業地域の周辺に、鉄鋼・石油精製・石油化学・火力発電所を結ぶコンビナートを造る構想が出され、四日市コンビナートを皮切りに全国各地に工業地帯が続々建設された。これらは日本の海岸の形を変えた。全総の「工業先導性の理論」は、まず大規模工場を誘致すれば、流通業やサービス業は後から付いてくるという理論であった。重化学工業を中心とする企業群が規模の利益を取り入れて規格化、大量化を進めて、工場施設を大型化し、規格品を大量生産する近代工業社会が一挙に完成した。
しかし、開発拠点の指定をめぐり激しい陳情合戦が起こり、結果、地元政治家を中心とした自民党の「利益誘導政治の始まり」、「大企業による土地買い占めによる地価高騰をもたらしただけで、富と人口の分散による国土の均衡ある発展というテーマは実現されずに終わった」、「効率性を重視して大都市圏とその周辺地域に優先的に配分されただけ」、「それは1969年の『新全国総合開発計画(新全総)』に受け継がれ、1972年の田中内閣における『日本列島改造論』につながって、ますます地価の高騰をもたらした」、「わが国の産業構造および地域構造を激変させた」などの批判も多い。
農業基本法
池田は「農地法」制定、米国余剰農産物受け入れ、「農業基本法」制定など、日本の戦後農政に深く関与した。農業、林業、漁業の第一次産業に対して近代化を図り、1961年「所得倍増計画」の重要な柱として社会党と対決してまで、戦後農政の憲法といわれる「農業基本法」を成立させた。
1960年11月12日、選挙史上初の三党首テレビ・ラジオ討論会で、池田は「経済成長率が9%なら農村人口を半分以下にすることになる。日本の農業は、ほかの産業が合理化・近代化されているにもかかわらず、徳川時代と同じ状態である。農業規模の拡大と、多角経営によって、ひとつの企業として成り立つようにしなければならない」、宏池会の機関紙で「農業人口が日本の総人口の40%を占めているのに、農業所得は国民所得の20%に過ぎないのが問題である。そこで農業人口を第二次産業やサービス業に吸収して、農民の一人当たりの所得を増やす方向に持っていきたい」、「今後10年以内に第一次産業就業人口を3分に1程度に減らす」 などと述べ、農業の近代化と合理化、及び農業の発展と農業従事者の地位向上のための施策を定め、「日本を世界の工場にする」という国家目標を打ち出した。「所得倍増計画」による第一次産業から重工業への労働力流入によって、働き手が農業から離れることで海外のように大規模で機械を使った効率的な農業を目指した。商社からの農業機械の購入を奨励して機械化を図り、農家の経営規模を拡大して労働の生産性を上げ、農家所得の上昇と他産業への労働力確保を同時に達成しようとする目的を持っていた。岸内閣末期の通産大臣時代に民間の農政家だった池本喜三夫に目を付け「農業基本法案」を作成させた。
稲作の一貫作業による機械化と農地の大規模化、すなわち干拓が中心的に推し進められた。秋田県の八郎潟を干拓して誕生した大潟村はその象徴であったが、新しい農業のモデルとされたこの村は、その後国の政策に翻弄された。他地域でも農地の集約は進まず「農業基本法」が後押しした農業機械の普及は、機械の借金返済のために農閑期の出稼ぎを増やし、むしろ零細な農家を増加させた。「企業として成りたつ農業」を作るため、1.5ha以下の農家に国の指導・援助はしないという施策を定めたため、多くの農家が廃業・転業を余儀なくされた。 重工業の発展によって不足した労働力は主に農村部からの出稼ぎや、若年労働者の集団就職によって補われたのであるが、この頃に"過疎"という言葉が生まれたといわれる。農家の働き手の男性が高い収入を求めて都会に出るようになり、実家の農作業は妻と老両親(かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃん)にゆだねられたことから「三ちゃん農業」と呼ばれた。1963年から64年には農村からの出稼ぎがピークに達し、その数60万人といわれた。革新側は「農地切り捨て論」を訴えたが、結果的に労働力政策としては成功した。
肥料や農薬も飛躍的に普及を遂げ、農家の所得水準は上昇したが、その後の輸入自由化で主要穀物はアメリカの大規模農業に価格で太刀打ちできず、減反政策、食の洋風化に伴う米余り、農地の地価高騰などで「農業基本法」は日本の農業を強くするという目的は果たすことができなかった。また農業に関連する公共事業が進められた半面、利益団体と自民党の癒着も生まれた。里山の破壊も進行した。戦後の農政が置き土産にしたのは、食料自給率40%(1998年)という主要先進国最下位という数字だった。「所得倍増政策」に於いて、重化学工業化をおしすすめる大きな推進力になったのは「全国総合開発計画」ではあるが、それを実現させるための「労働力確保」という点では、すべての政策は同一ともいえる。池田内閣が強力にリードした「所得倍増政策」により、転職の普遍化、学卒、集団就職など、1960年代に若者の就職状況は激変した。
貿易自由化推進
神武景気、岩戸景気にみられた日本の著しい経済復興から判断して、アメリカは日本に貿易自由化を要求するようになった。日本としても世界市場に復帰していくためには、米国は勿論、ヨーロッパに対しても自国に市場を開放することは長期的には必要であった。通産大臣を経験した池田は、自由化はそれ自体が目的なのではなく、日本の貿易拡大の手段であるという考えを早くから持ち、日本が先進国入りを果たすには自由化は避けて通れない問題と受け止めていた。宮澤は「池田さんは昭和20年代のドッジ・ラインにさかのぼる、統制から経済的自由主義になっていくころの担い手です。根っこからの自由経済論者、市場経済論者です」と述べている。
当時の省庁は大蔵省が自由化に積極的、通産省は消極的なスタンスをとって牽制し合っていた。1959年6月に通産大臣に就任した池田は自由化構想を省議で解き、佐橋滋重工業局長ら、貿易自由化に消極的な通産官僚を説き伏せた。通産省内で貿易自由化に賛成したのは今井善衛繊維局長一人だったといわれる。今井は池田によく協力した。国内の業界から強い反対を受けたが、池田は経済基盤の整った日本が自由化を断行することは、諸外国の信用を勝ち取る上で必要不可欠で、日本経済を今後伸ばしていく唯一の道は、自由化以外には求められないと考えた。自身の経済政策に揺るぎない自信を抱く池田は、GATTから要求されてやるのではなく、自ら積極的に自由化を受け入れ、日本の産業を国際競争の冷たい風にさらし鍛え上げる、それから世界市場に乗り出す実力を付けるべきだと考えた。
池田の自由化に対するスタンスが「所得倍増計画」に反映された。「所得倍増計画」と「自由化」は車の両輪をなす一体の政策であった。池田は通産大臣の時代から「次」を狙いつつ、経済政策では連続性を有し、貿易自由化においても、常に主導権を握った。通産省や産業界では国内産業の現実の状況に精通しており、貿易自由化の進展には消極的だったといわれるが、貿易自由化を強く支持し1959年12月、池田は自由化に関する最初の決定を行い、綿花とウールの輸入を一切の政府統制から自由にし強力な先例を作った。1960年6月「貿易為替自由化大綱」を閣議決定させ、池田内閣誕生により自由化のスピードが加速、開放経済へと大きく舵を切った。後述する米国・欧州に対する実質的な経済外交は、まず日本経済の自由化、開放化が必須であった。池田の中では、対等な立場での国際経済への参加を実現し、自由な貿易環境の下で日本経済を拡大させる、それこそが戦後日本にとっての国際的な威信につながるという連動するナショナリズムの論理が形成されていたのである。
また日本企業がアメリカ資本に吸収合併されるのではないかという危機感は、大企業同士の大型合併への引き金となった。企業は生き残りを賭け、他社より魅力的な製品を作ろうとこぞって海外から新技術を導入、その件数はそれまでの4倍に達した。これが高度成長の鍵となった技術革新(イノベーション)である。これが一番目に見える形で現れたのが家電製品であった。続々と登場する新製品が国民の消費を加速させ経済は急成長を遂げた。池田を支えた「財界四天王」と金融機関の首脳を中心とした財界グループも実働部隊として重要な役割を果たした。結果的に民間経済の潜在的エネルギーを巧みに引き出して、"ジャパンミラクル"といわれる高度の経済成長をとげた(en:Japanese post-war economic miracle)。
1960年6月の「貿易為替自由化大綱」は、3年後に自由化率80%をメドとしていたが、池田政権初年度に輸入自由化率90%という目標に変更。岸内閣当時、42%に過ぎなかった自由化率は1962年10月88%に上昇し、1964年には西欧諸国並みの93%に達成するに至った。自由化計画の当初、保護の必要があった幼稚産業も極めて速やかに一人前に成長し、欧米先進諸国の競争相手と互角に渡り合えるようになった。自動車産業がその典型で、当時、自動車が輸出産業になるとは誰も考えてなかった。池田は「昭和60年前後には、日本の自動車が世界のトップクラスに入る」と言っており、実際その通りになった。
貿易自由化の進捗は、当時日本では「第二の黒船」と騒がれた。高度成長政策の支えによって、日本企業の体質も強くなってきたとはいえ、未だ国際市場では一人立ちできるとは考えられていなかった。日本経済が自由化に耐えられるか否かは議論が絶えていなかった結果、アメリカの巨大資本にM&Aされるのではないかという危機感から、重化学工業を中心に大型合併が成されて競争力が強化され、企業の近代化投資を加速させ、貿易外取引の分野における海外旅行や外貨の廃止にもつながった。八幡製鉄、富士製鐵、JFEエンジニアリングの三社が寡占状態を形成し、一方的に価格を左右することに強い不満を持ち、通産省の幹部たちに「寡占状態はよろしくない。だいたい君たちの先輩ばかり三社にいるから通産省の腰が弱くてダメだ。住友金属工業や川崎製鉄を伸ばせ。設備投資や外貨の割り当てもその線に沿ってやれ」ときつく言い渡した。
特にレモンについては、通産省の官僚や選挙区のレモン農家の抵抗をはねのけて自由化に踏み切り、アメリカ産サンキストレモンが輸入して値段は4分の1にまで下がった。池田が一番望んでいたのは米の輸入自由化であった。そうすれば完全に日本経済は落ち着くべきある自然的な均衡状態が生まれ、それを判断基準として何でもできるだろうという考えがあった。貿易自由化によって外国製品が以前に増して各家庭に浸透した。
池田の退任後自由化はストップし、再開は1970年代となっている。
科学技術振興
「所得倍増計画」の主要目的五つの一つとして科学技術振興を盛り込み、「文教の刷新と科学技術振興は、すべての施策の前提ともなる」と特に力を注いだ。高度経済成長実現のため、それに即応する技術者を必要とすることを予想し、医学を含めた理学工学学生の拡充に重点を置いた文教予算を組んだ。それまでの文系学生中心の補助金からの転換で、戦後の文教政策のもうひとつの曲がり角ともいわれ、池田内閣によるこの勘案は、その後日本の先進国への歩みのなかで特筆される。1961年に文部省が理工系学生2万人の増員を決め、「理工系ブーム」が起こり、これが後の経済成長を支える基盤となった。また研究開発の推進、及び工業化対策の改善を目的に、国内に於ける独創的研究及び開発の推進が望まれ、欧米先進国に追い付くことを基本とした方向が示された。日本経済が今日あるのは、この時代の理工系学部の拡充強化で生まれた「イノベーション」のおかげという社会通念が1960年代にはあった。その考えが長きにわたり、日本の文教政策の根底に居座り続けた。また工業界、産業界に貢献する実践的な技術者の養成を目的に高等専門学校(高専)が全国で設立された他、理工系大学の新設や理工系学部増設が以降増加した。
1961年6月の池田・ケネディ会談で、三つの合同委員会の設立が決まり、その一つとして日米科学協力事業の提案が出され、日米科学委員会が設置されるなど、その後の二国間科学技術協定のモデルとなった。この協力事業では二国間の科学者の交換も行われ、とりわけ日本の若手研究者が海外に出て、より高いエネルギーの実験を進め、第一線の研究に参加することができるようになり、次の段階の重要な基盤をつくることになった。日米がん研究協力事業は、同事業に端を発する。
その他、産業部門の技術者不足、ブルーカラーの技能労働者が足らないという答申が出され、池田内閣時代には、人的資本という言葉を盛んに使い、技能労働者の拡充が行われた。一時期新設の高校は工業高校だけという時期もあった。1961年には開発あっせん等の業務を行う新技術開発事業団(現新技術事業団)が設立され、同年産業界の共同研究を推進するため「鉱工業技術研究組合法」を制定した。また世界の宇宙科学の進歩に日本がはなはだしく遅れをとり、将来に悔いを残す恐れがあるとの認識のもとに、日本の原子力政策や宇宙開発などの巨大科学の自主技術開発を目指した国家プロジェクトに官民あげて取り組むことを申し合わせ体制の整備も進められた。科学技術庁に1963年8月に日本原子力船開発事業団が、1964年7月に宇宙開発の中枢的機関として宇宙開発事業団が設置されるなど、科学技術関係の研究開発の基盤整備が行われた。1962年には「国立試験研究機関を刷新充実するための方策について」の答申が出され、東京に立地している国立試験研究機関の集中的な移転が提言され、これが茨城県筑波研究学園都市建設の主要なきっかけとなり1963年、筑波地区に国際的水準の研究学園都市を建設することが閣議了解された。その他任期中に「原子力損害の賠償に関する法律」「原子力損害賠償補償契約に関する法律」などが制定されている。
文教政策
政権を通じて「人づくり」の重要性を唱え、文教振興に力を注ぐと終始主張を繰り返したこともあり、これが「人づくり政策」とも称され、それに同調するように池田政権下で文部省を中心として多くの人材開発育成が成された。それまで消費と考えられがちであった教育費を、経済成長に資する教育投資として位置付ける「教育投資論」の考え方が示され、高度経済成長を背景とした経済優先政策下に於いて計画的、体系的な公教育改革が行われた。大学に対しては「経済成長に寄与・貢献する人材の養成」という義務を明確に課した。
「国民所得倍増計画」と連携して発表された産業計画会議の「教育投資の経済効果」に於いて、人間労働を教育の側面から質的に捉えなおすことを求めたため、これを受けて1962年、文部省は『日本の成長と教育』で、経済成長を達成するために教育投資がいかに必要かというレポートを出し、教育投資に大きな予算が組まれた。1963年には経済審議会が「経済発展における人的能力開発の課題と対策」を答申し能力主義の徹底を標榜、「ハイタレント・マンパワー」の養成と尊重の必要を唱えるとともに、各自が自らの「能力・適性」に応じた教育を受け、それによって得た職業能力を活用することを求めた。この二つの文書が、60年代教育政策の基本計画となった。
「選別と管理」という60年代教育政策を形成した文部省の背後には、財界が強く関与したともいわれる。経済発展のための能力開発あるいは教育訓練というマンパワー政策は、社会的にもインパクトが大きく批判を浴びた。文部省も大きな権限を持つのもここを始まりとしている。教育技術者養成機関として1961年から高等学校通信教育が、1962年からは高等専門学校(高専)が全国で設立された。「所得倍増政策」の影響で、高校、大学の進学ブームも起きた。また同計画に必要な人材を早期に発見し、適切な教育訓練実施の基礎資料とするため、文部省主催で1961年から1964年まで「全国学力・学習状況調査」が実施された。テスト・選別・競争・管理の教育体制づくり、今日に至る際限のない受験競争はここに始まったとされる。
1961年に日本母親大会が「高校全入運動」を取り上げ運動が全国に広がると、池田内閣の「所得倍増政策」として高校の増設・定員を計った。1962年以降、「みんなが高校に入れるように」というスローガンに結集する全国の父母・子ども・教師の国民要求が起こったこともあって、1961年から1963年まで相当規模の高校増設費が計上された。1964年以降は文部省が増設を打ち止めを決定したが、この池田政権3年間の予算急増で進学率も伸びた。堺屋太一は「池田内閣は"効率"を最大の社会正義にした。人間の規格化を考え、教育の規格大量生産化を実現させた。教育課程を定め、学習指導要領をつくり、全国の学校で同じことを教えさせた。生徒指導に当たり、生徒の長所を伸ばすより欠点をなくすことに重点を置いた。5段階評価とすると、優秀な子供は全科目に5が並び、普通の子供は3が並ぶ、従って能力の差は丸の大きさだけで測れる。丸の大きさを示すのが偏差値で、これ1つですべてが評価できる仕組みを徹底させ、これが教育の場に浸透した」と述べている。後藤基夫は「今日続く管理社会の指導者を作ろうとしたのが池田・佐藤時代だったと思う。それを打破しようとしたのが安保闘争と絡んだ日本の学生運動の激しい動きだった。池田・佐藤時代、明らかに彼らが日本のエスタブリッシュメントをつくるよう政策的にも色づけをしていた。あのとき色んな大学の先生、評論家がみんな政府に協力するといった形が出てきたのも、戦後できた中間層の中からエリートを作り出す作業の一つだった気がします」などと論じている。「人づくり国づくり」政策の中で、学校の教育課程は過密化し「詰め込み教育」「落ちこぼれ」「見切り発車」「教育ママ」というフレーズがマスメディアに現れた。急激な都市化と工業化の中で、子どもたちの生活は大きく変貌した。農村部では父親の出稼ぎで家庭崩壊の現象が、都市部では女性の社会進出とともに「カギっ子」問題がクローズアップされた。「核家族」「小家族」などが流行語になった1960年代は、日本の家族にとっても激しい変動期だった。その他「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」、「特別児童扶養手当等の支給に関する法律」などが任期中に閣議決定している。
エネルギー政策
石炭から石油へのエネルギー革命は、当時の大問題の一つであった、その決定的な段階となったのが、池田内閣成立時に進行中だった三井三池争議の解決であった。三井三池争議は1959年12月に三井三池炭鉱で発生した大規模な労働争議であるが、元は池田が通産大臣のとき進めた輸入自由化により1962年から、石油も自由化することが決定したことに端を発す。労働行政に精通した石田博英を厚生労働大臣に起用し、池田は石田に1時間おきに電話を掛け「たとえ1人でも怪我人を出してはならぬ」と指示、長期戦となった争議は組合側の敗北に終わった。これを機に、エネルギー生産は当時日本で最強の労働組合・日本炭鉱労働組合から離れることになった。日本労働組合総評議会の有力労働組合であった炭労の衰退は、総評をバックにしていた社会党に打撃を与えた。これにより石油も含めて資源全体として自由化の体制に入り、高度成長の大きな与件になった。また日本を他国より工業化を進めるために有利な条件を与えた。工業地域が日本のように出来上がった国は他にない。失業した石炭労働者は高度成長の中で他の産業に吸収させることで全体の効率化を図った。1961年に雇用・能力開発機構を設立し、炭鉱離職者を雇用した企業への補助金支給を行ったり、炭鉱離職者たちの東京や大阪での就業支援として公団住宅を建設するなど手厚いケアも行った。改革による痛みの代償として、三池・夕張・常磐炭鉱にお金を落とすのではなく、離職者の新しい就職先にお金を落とし、資源の移動を促進するような再分配政策を行った。やがてエネルギー資源は原子力へと転換、エネルギー革命の紀元もこの時代だった。
社会保障その他
中小企業近代化のため1963年にその後の中小企業政策の根幹となった「中小企業基本法」と「中小企業支援法」を制定し、これに基づき独占資本の要請に沿った中小零細企業の近代化は進められた。また労働者の雇用促進のため「雇用・能力開発機構」の他、池田政権を通じて、新しい福祉国家の建設のため、減税、社会保障、公共事業を三本柱とすると訴えた。福祉関連では厚生省から多くの要望が出されたが、社会保障よりも公共事業に重点を置きたい大蔵省ともめたものの社会保障政策が拡充した。1961年に国民全てが日本の医療に加入する「ユニバーサルヘルスケア・国民年金」を実現させ、同年より生活保護基準が引き上げられた。朝日訴訟の第一審判決(1960年10月19日)が生活保護基準の大幅引き上げをもたらしたという見方もある。他に「児童扶養手当法」「老人福祉法」「母子及び父子並びに寡婦福祉法」「観光立国推進基本法」などが任期中に閣議決定している。また重症心身障害児の法的保護は、1964年に障害児の娘を持つ水上勉が島田療育センターを見学した後、『中央公論』誌上に、法的な障害者保護を池田に訴える手記を発表したことが反響を呼び、1967年から導入されることになったもの。
影響・論評
池田内閣が所得倍増計画を発表した当時は、1959年から好況が漸く息切れしかかった時期であり、「所得倍増計画」が閣議決定され公式なものとなると、各地方公共団体や各産業の業界団体から個々の企業に至るまで「倍増計画」に合わせた長期計画作りが一大ブームとなった。「所得倍増計画」以前の経済計画は、民間企業は勿論、政府に対しても強い影響力を持ち得なかった。数多くの政治政策、運動が実施されたのは「国民所得倍増計画」以降である。この計画が「所得倍増」という壮大な課題を提示したことで、国民的合意を取り付けることに成功し、国民経済の前途を明るくした。計画初年度に当たる1961年度の民間の設備投資は、目標の3兆6000億円を突破するなど、現実の動きは「所得倍増計画」の想定を上回るテンポで進んだ。その点で「倍増計画」は、計画というよりも加速器のようなものであった。
「国民所得」や「国内総生産」「国民総生産」「経済成長」といった、一部の専門家しか知らなかった術語が、あっという間に大衆の言葉になった。1961年度予算から、概算要求基準(シーリング)が取り入れられた。
証券会社が沸き立ち、これに引きずられて鉄鋼、自動車を筆頭に軒並み設備投資に走った。時計やカメラ、ラジオ、自動車、バイクなど、「メイド・イン・ジャパン」の製品が世界に販路を広げた。コンピュータを含む情報機器の技術革新も進み、生産・輸出も拡大した。日本の"輸出大国化"は、池田後に日米貿易摩擦として政治問題化した。日米貿易摩擦は、日本が池田路線を選択したことの当然の帰結である。高度成長の中で幼稚産業だった産業も発展して国際競争力も強くなった。
1962年に一旦景気が失速し「幻の所得倍増」「破綻する所得倍増」などと池田批判があがったが、池田は高度経済成長を維持する有力な武器として、1964年開催予定の東京オリンピックに着目。公共事業の拡大には、国民が納得できる旗印が必要だが「オリンピックをてこに成長に弾みを付ける」という戦略を立て、公共事業や社会保障に積極的に予算を付けていく。それまではオリンピックへの政治の関与はあまりなかった。池田の戦略は当たり、日本経済は勢いを取り戻し「オリンピック景気」が到来した。「新幹線、東京の高速道路は、なんとしてもオリンピックに間に合わせろ」と厳命、この二つには特に惜しみなく予算を注ぎ込んだ。柔道の会場として建設された日本武道館は、池田と河野一郎建設大臣が建設場所を選定したといわれる。渋谷区のNHK放送センターは、阿部眞之助が「NHKはオリンピックのホスト局なので、主会場の国立競技場 (法人)の近くに放送施設を作りたい」と「ワシントンハイツ跡地が最適なので、将来的にNHK本部もそこに移すつもりなので何とか払い下げてもらえませんか」と池田に頼んで来て、池田が「オリンピック放送は是非とも成功させていただきたい」と払い下げを決めたものである。1960年7月から1962年7月まで蔵相を務めた水田三喜男は「オリンピックの準備は全部池田さんがした」と述べている。
その他、オリンピック開催に合わせて、各種の公共事業が全国で進められた。政府もどんどん金を注ぎ込み、財政主導で日本経済を引っ張っていく。新幹線、高速道路、港などのインフラストラクチャーの整備は大きな総需要を生み出した。オリンピックは、それまで放置されていた貧弱な道路網を飛躍的に改善する画期的な機会になった。池田は社会開発の一環として住宅政策、特に持ち家政策を重視し、都市における住宅環境の改善を目的として、持ち家政策の推進、住宅の高層化による都市改造、都市郊外の大規模開発といった新たな政策の方向性を打ち出した。都市における労働力提供のため、都市周辺に住宅地を開発して、地方から出て来て重化学工業やその周辺に勤める人々を収容できる団地をつくった。「所得倍増計画」に合わせて、建設省が1961年8月に策定した「新住宅建設五ヵ年計画」の中で、1970年までの10年間に1000万戸の住宅を建設して、一世帯一住宅を実現することを目標とし、これを実現させるために、前期の五ヵ年で400万戸を建設すると明記した。池田内閣は同時に、土地の合理化を図るための住宅の高層化促進や、宅地対策の拡充強化のための新住宅市街地の開発推進などを打ち出した。1962年の建物区分所有法制定、1963年の建築基準法の改正などで住宅の高層化を進め、1960年の宅地総合対策を策定し、これに基づいて1963年に「新住宅市街地開発法」が制定され、既に始まっていた千里ニュータウンや、1964年に決定した多摩ニュータウン、泉北ニュータウンなどの開発に適用され、こうして法整備を背景に、大手の不動産業者が、各地で新規の大規模開発、日本のニュータウン、マンション分譲や都心部の再開発、郊外住宅地の開発に乗り出していった。
池田はオリンピックをバネに「所得倍増政策」の仕上げを図った。池田内閣の時代に日本で初めての原子力発電が成功し、東海道新幹線が開業、海外旅行が自由化された。それまでは海外渡航は商用や国費留学などに限られていた。国民の所得水準はその想定を上回るテンポで向上し、人々の暮らしぶりも大きく変貌した。当時「三種の神器 (電化製品)」と言われて、一般家庭には高嶺(値)の花だったテレビ・洗濯機・冷蔵庫が、驚異的な勢いで普及したのは池田政権の時代だった。電話の普及は「所得倍増計画」以降といわれる。
最初は本当に「所得倍増計画」が実現するかどうか、国民は疑心暗鬼だったが、"投資が投資を呼ぶ"(1961年『経済白書』)好景気と消費ブームが起きた。通貨量の増大は中小企業や小売の投資拡大を支え、総合スーパーのフランチャイズが本格化し、またスーパーマーケットの設立も増加して「流通革命」という言葉も生まれた。既製服やインスタント食品の販路も急速に拡大した。消費の大型化・高級化・多様化が進み、国民の生活も大きく変えていった。"レジャー"という新しい言葉が日常の暮らしの中で使われはじめたのもこの頃からで、"レジャーブーム"という和製英語も流行した。旅行会社やゴルフ、スキー、ボウリング、広告代理店・クレジット業界などもこの時期伸びた。日本経済が復興の時代を経て、新たな段階への飛躍の基盤を整えたのが池田政権の時代といえる。これらは「1億総中流社会」を作り上げたという見方もある。この時代に日本人がノスタルジアを持つのは、生活様式の面で、現代日本の原点だからである。
反面、「高度成長のひずみ」としてインフレーションや第一次産業の激減、大都市一極集中と地方の過疎化、公害、自然破壊などの多くの問題を生んだ。これらが表面化したのは池田が亡くなった後で、池田はそれらを知らずに世を去った。
2020年出題。出題は1950年代後半。
第二次世界大戦後の日本において、家庭生活、社会生活を営むうえで、そろえておけば理想的だとされる3種類の耐久消費財をさしていうことば。歴代天皇が受け継ぐ三つの宝物に擬していわれるようになった。それぞれの時代によって変遷があるが、最初のものは、1954年(昭和29)ごろからいわれた電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機である。1950年代後半になると、電気掃除機にかわって白黒テレビが仲間入りし、いわゆる「家電ブーム」をもたらした。1960年代なかばになると、カラーテレビ、クーラー、自家用自動車(カー)が新三種の神器とされた。これらはそれぞれの英語の頭文字をとって、「3C」とよばれた。最近では、デジタルカメラ、薄型テレビ、DVDレコーダーをデジタル三種の神器とよぶ。
[編集部]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『三種の神器(耐久消費財)』
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[三種の神器Wikipedia]
2003年頃から2010年頃にかけて急速に普及したデジタル家電のデジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビも新・三種の神器[7]、またはデジタル三種の神器と呼ばれた。
2022年7月には大丸松坂屋百貨店によって設立された「未来定番研究所」が行った、藤野達史(空間プロデューサー、一級建築士)と本間朝子(家事プロデューサー)へのインタビューにおいて、藤野は「三種の神器は、昭和の経済成長で得た豊かさを象徴する家電で、新三種の神器は科学技術の進歩で家事の効率化を図れるようになった家電」であり、「個人に寄り添い、家全体の環境を整えるものが、「新・新三種の神器」になる」と語ったうえで、「空調システム」「提案型の冷蔵庫」「快適な睡眠を提供するベッド」の3つをキーワードとして挙げた。一方の本間は「戦後の貧しい中で叶えたかった豊かさを叶えてくれるのが三種の神器で、家事の中心を担っていた女性が社会進出するようになり、余剰時間を生み出したいという願いを叶えてくれる時短家電を新三種の神器」と呼んだと語ったうえで、「AIの農家サービス」「家にいながら健康診断ができる家電」「ペットロボット」の3つをキーワードとして挙げた。
2020年東海道新幹線の説明を求める形で出題。
JR東海の高速幹線鉄道。東京-新大阪間 515.4km。東海道本線の輸送力が限界に達したため開設された。 1959年着工,64年開通。最高時速 210km。他の鉄道や道路とはすべて立体交差になっており,レール幅は標準軌間の 1435mmで全線にロングレールを採用,交流電化方式,自動列車制御装置 ATC,列車集中制御装置 CTCによる遠隔制御など最新の技術を導入している。途中駅は新横浜,小田原,熱海,三島,新富士,静岡,掛川,浜松,豊橋,三河安城,名古屋,岐阜羽島,米原,京都の 14駅で,新大阪駅で 75年全線開通した山陽新幹線と連絡している。車種は名古屋と京都だけに停車する『ひかり』号 (1980年 10月の改正以降,小田原,静岡,浜松,豊橋,岐阜羽島,米原に停車するものもある) と各駅に停車する『こだま』号があり,『ひかり』号の大半は山陽新幹線に直通運転されている。また,92年からは,さらに時間短縮をはかった『のぞみ』号が運転されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (コトバンク『東海道新幹線』)
2022年出題
第2次インドシナ戦争ともいわれる。1954年ジュネーブ協定締結後,南ベトナム(ベトナム共和国)に成立したゴ・ディン・ジェム政権は米国の援助下に反共・独裁政策を強行。これに反対する共産主義・民族主義勢力は各地でゲリラ活動を展開し,1960年南ベトナム解放民族戦線を結成。1963年―1964年クーデタが頻発(ひんぱつ)し,ゴ・ディン・ジェム政権は倒れた。このころまでは内戦的性格をもっていたが,1965年米国は北ベトナム(ベトナム民主共和国)による解放民族戦線への援助阻止を主張して北ベトナム爆撃と南ベトナムへの増兵を開始。米国は50万の地上軍を投入し,韓国・タイ等の派遣軍も加わり,北ベトナムも正規軍を南下させて解放民族戦線を援助し,国際紛争に発展した。1968年旧正月直後の攻撃(テト攻勢)以来,解放民族戦線が戦争主導権を握り,サイゴン地区やトンキン湾沿岸都市部を除く大半の地域がその勢力下に入った。一方,1968年以来パリで和平交渉が進められてきたが,1973年1月和平協定が成立し,3月米軍戦闘部隊が南ベトナムから撤退,戦争の終結が宣言された。この戦争による北ベトナム・解放戦線側の死傷者は推定227万人,米国・南ベトナム側は約98万人。→ベ平連
→関連項目アメリカ合衆国|インドシナ|ウッドストック・フェスティバル|エンタープライズ|開高健|枯葉剤|共和党|局地戦争|ギラン|グエン・バン・ティエウ|スポック|中国共産党|ドイモイ|ドミノ理論|ナパーム弾|日本|ベトナム|ボー・グエン・ザップ|ボールドウィン|ボール爆弾|マクナマラ|マッカーシー|ロン・ノル
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア コトバンク 『ベトナム戦争』
1965年6月22日に日本と大韓民国(韓国)との間で署名された両国の関係正常化に関する条約。正式名称は「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」。日韓の国交正常化交渉は 1952年2月に始まり,その後何度も中断したが,朝鮮半島情勢を懸念するアメリカ合衆国の働きかけもあり交渉開始 14年目に結実した。基本条約の骨子は
(1) 日韓の外交および領事関係の開設
(2) 1910年8月22日以前に二国間で締結された条約や協定の無効化(→日韓併合条約)
(3) 1948年の国連総会決議第195号(III)に基づき,韓国政府を朝鮮唯一の合法的政府とすることの確認
(4) 相互関係における国連憲章の原則の尊重
(5) 両国間の貿易,海運,通商などに関する協定の締結
(6) 両国間の航空協定の締結などである。
(3)は,現実に朝鮮半島北半部を管掌している朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府の存在を無視するかたちになっている点が,北朝鮮との外交交渉を進めるうえで障害になるとの懸念から,日本の国会内外で議論の的となった。なお基本条約と同時に,請求権・経済協力協定(→請求権),在日韓国人の法的地位協定,漁業協定(→日韓漁業協定),文化財・文化協定,紛争解決交換公文,民間信用供与交換公文などが調印された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『日韓基本条約』
1965年 11月から 1970年7月まで続いた第6循環の景気拡大局面の俗称。岩戸景気の 42ヵ月を上回り 57ヵ月も景気拡大が続いたことから,岩戸神話よりさかのぼって,国造り神話から「いざなぎ景気」と命名された。民間設備投資に牽引された日本経済はこの5年間に名目国民総生産 GNPが2倍以上となり,1968年には西ドイツを抜き,自由世界第2位となった。消費ブームはさらに続き,いわゆる「3C」 (自動車,カラーテレビ,クーラー) が急速に普及したのもこの時期である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
国民の祝日の一つで,2月 11日。 1957年,かつての紀元節を建国記念日として祝日に追加する法案が国会に上程。 66年6月に参議院で「国民の祝日に関する法律」の改正案が可決された結果,建国記念日審議会が首相の諮問機関として設けられ,12月に「建国記念の日」が公布された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
1971年7月 15日に R.ニクソン大統領が行なった訪中発表 (第1次) と,同年8月 15日の金・ドルの交換停止,10%の輸入課徴金を含む8項目の経済政策の変更 (第2次) により世界および日本が受けた衝撃をいう。武力衝突にまで発展した中ソ対立,文化大革命による混乱からの脱出が中国側の理由であり,ベトナム戦争の泥沼化,中国封じ込め政策の破綻,対ソ牽制がアメリカを対中接近へと向わせた。中国政策については一致し,変更する場合は事前に相談を受けると信じていた日本はアメリカの突然の頭越しの外交に大きなショックを受けた。そして 71年8月 15日,ニクソン大統領は内外両面にわたり新経済政策を断行した。アメリカ国内に対しては諸種の大幅減税によって景気の浮揚をねらったが,海外に対しては金とドルの交換を停止し,10%の輸入課徴金を実施するとしてドルの救済を期待した。ドルの下落を食止めるために,アメリカは競争関係にあった主要通貨の為替レート引上げを輸入課徴金を武器として要求し,10ヵ国蔵相会議で調整され,その結果アメリカの場合は金に対してドルが 7.89%切下げられ,他の主要通貨ではドルに対する切上げが圧倒的であった。しかも切上げのトップは日本円であり,16.88%に上がった。輸入課徴金はむろん廃止された。世界の金融体制は蔵相会議場の名をとり「スミソニアン体制」と呼ばれる新金融体制に向った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『ニクソンショック』
1970年,大阪府吹田市の千里丘陵でアジアで最初に開催された万国博覧会。正式名称は日本万国博覧会。EXPO'70ともよぶ。基本テーマは〈人類の進歩と調和〉で,期間は3月14日(一般公開は15日から)−9月13日。会場面積は約350ha。参加国は77(44パビリオン),参加企業団体34(32パビリオン)。テーマソングは〈世界の国からこんにちは〉(三波春夫ほか)。大会期間中の入場者は延べ6421万8770人に達し,万国博史上の最高記録となっている。アメリカ館に展示された〈月の石〉が人気をよび,岡本太郎作の〈太陽の塔〉(高さ70m)がシンボル的な存在であった(現存)。日本の高度経済成長期を象徴するイベントとされる。跡地には独立行政法人日本万国博覧会記念機構が保有・整備する万博公園がある。
→関連項目粟津潔|磯崎新|勝井三雄|亀倉雄策|河野鷹思|GKデザイングループ|全天全周映画|丹下健三|三波春夫
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア(コトバンク『大阪万博』)
北海道札幌市を中心に開催された第11回オリンピック冬季競技大会。1972年2月3日から 13日まで行なわれ,35ヵ国の参加のもと,スキー,スケート(スピードスケートとフィギュアスケート),アイスホッケー,バイアスロン,ボブスレー,リュージュの 6競技 35種目が行なわれた,アジアで最初の冬季オリンピック。真駒内スピードスケート競技場で開閉会式を実施した。アマチュア問題に厳しい姿勢で臨むアベリー・ブランデージ会長率いる国際オリンピック委員会 IOCは,スキーメーカーから報酬を得ているとの理由で,オーストリアのアルペンスキー滑降の第一人者カール・シュランツを失格とした。アイスホッケーではカナダが,東ヨーロッパ圏からステートアマチュアが参加していることを理由にプロ選手の出場を求めたが,IOCに拒否されたため,チームを引き揚げた。男子スピードスケートではオランダのアルト・シェンクが 1500m,5000m,1万mで 3個の金メダルを獲得した。女子クロスカントリースキーではソビエト連邦のガリーナ・クラコワが 3冠に輝いた。開催国日本は男子 70人,女子 20人の選手団を編成した。最も活躍が著しかったのはジャンプ 70m級で,笠谷幸生の金,金野昭次の銀,青地清二の銅とメダルを独占し「日の丸飛行隊」の異名をとった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (コトバンク『札幌オリンピック冬季競技大会』)
正式には「琉球諸島および大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」 Agreement between Japan and the United States of America Concerning the Ryukyu Islands and the Daito Islandsといい,1971年6月 17日,宇宙中継を通じて東京とワシントン D.C.で署名された。協定本文のほか,「合意議事録」「VOAに関する交換公文」「海没地に関する交換公文」「施設・区域に関する了解覚書」「民間航空に関する了解覚書」「在琉球外資の取扱いに関する愛知外相書簡」の6つの関連文書が付属している。協定は前文および9ヵ条から成るが,前文では佐藤=ニクソン共同声明を基礎に沖縄が返還されることを再確認している。本文および付属文書では,(1) 返還後の沖縄には安保条約を含む日米間の条約,協定を適用すること,(2) 返還と同時に現在の米軍基地の大部分を施設,区域として再び提供すること,(3) 沖縄県民の対米請求権を原則的に放棄すること,(4) アメリカ資産の引継ぎなどの代償として日本側が3億 2000万ドルを支払うこと,(5) 裁判の効力を原則的に引継ぐこと,(6) VOA放送 (→ボイス・オブ・アメリカ ) を返還後も暫定的に存続させること,などが取決められた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
1952年に発効した対日講和条約によってアメリカ合衆国の統治下に置かれた沖縄は,沖縄返還協定が調印された翌 1972年5月15日,27年ぶりに日本に返還された。第2次世界大戦(太平洋戦争)の戦場(→沖縄の戦い),占領下,戦後の軍政下(→琉球列島アメリカ民政府,沖縄米軍用地問題)と沖縄の苦難は続き,沖縄住民の祖国復帰運動は粘り強く続けられた。1960年沖縄教職員会を中心とする沖縄県祖国復帰協議会の結成,1965年佐藤栄作内閣総理大臣の沖縄訪問を経て,1969年11月2日のリチャード・ミルハウス・ニクソン大統領との会議で,「核抜き本土並み」の 1972年返還を約した日米共同声明(→佐藤=ニクソン共同声明)が発表された。しかし,返還後も在日アメリカ軍の基地は沖縄県土面積の 9.94%(2015.3現在)を占める。基地問題のほか,日米共同声明における有事の際の核持ち込みに関する密約疑惑や,沖縄の経済的自立など,多くの問題が残る。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (コトバンク 『沖縄返還』)
1972年9月 29日北京で発表された日本,中国両政府間の戦争状態終結,国交正常化のための共同声明。その内容は,前文と本文9項目から成る。前文では,日本側が戦争で中国国民に重大な損害を与えた責任を深く反省し,中国政府が提示した復交3原則を十分理解するとした。
復交3原則とは,
(1) 中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府である
(2) 台湾は中国の不可分の領土である
(3) 日華平和条約は不法無効であり廃棄されるべきであるという,中国の台湾国民党政府否定の強い立場を表明したものである。
また本文9項目の要旨は,
(1) 日中両国の不正常状態の終了
(2) 中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることの承認
(3) 台湾が中国の不可分の領土たることの中国側声明と日本側の理解尊重
(4) 中国の対日戦争賠償の請求放棄宣言
(5) 外交関係樹立と大使交換の決定
(6) 平和五原則と国連憲章に基づき武力による紛争解決をしないことの確認
(7) アジア,太平洋地域における覇権反対
(8) 平和友好条約の締結に同意
(9) 貿易,海運,航空,漁業などの協定締結に同意
である。この共同声明調印直後,日本側は政府見解として外相が「日華平和条約は存続の意義を失い終了したものと認められる」と表明した。台湾の国民党政府はただちに日本との外交関係のみの断絶を通告した。その後の数年間に声明第9項の諸協定は相次いで締結された。また,第8項に基づく日中平和友好条約も 78年8月 12日締結された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『日中共同声明』
[石油危機]
1973年と 1979年に石油輸出国機構 OPEC諸国が石油価格を大幅に引き上げたことにより,世界経済全体がきたした大きな混乱をさす。オイルショック oil shockともいう。1973年10月の第4次中東戦争(→十月戦争)を機にアラブ諸国が石油価格を 4倍に引き上げたのが第1次石油危機で,石油消費国はインフレーション,景気後退,国際収支赤字のいわゆるトリレンマに悩まされた。石油依存度の高い日本は特に大きな打撃を受け,「狂乱物価」と呼ばれる物価の大幅な高騰を招いてマイナス成長に陥り,国際収支も赤字となった。国民生活の面でも物不足,買い占め騒ぎが起こった。これに対して政府は石油 2法(→国民生活安定緊急措置法,石油需給適正化法)の策定,アラブ諸国との外交関係強化などの対策を講じた。1978年12月のイラン革命を機に再び石油価格が約 2倍に上昇したのが第2次石油危機である。前回の経験もあり,第1次ほどの大混乱にはならなかったが,やはり世界経済は停滞することとなった。(→石油備蓄)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『石油危機』
1976年2月に発覚したアメリカ合衆国の航空機メーカー,ロッキードの日本への航空機売り込みにからむ疑獄事件。事件の発端はロッキードの極秘資料がアメリカの上院外交委員会多国籍企業活動調査小委員会に誤配されたことによるといわれる。この「誤配」をきっかけに,同社副会長アーチボルド・C.コーチャンが,同小委員会公聴会で航空機売り込みのため各国の政府高官に贈賄したことを暴露した。日本についても 30億円をこえる資金を投じ,全日本空輸(全日空)へは旅客機トライスターの売り込みに成功し,防衛庁に対しては次期対潜哨戒機 P-3Cオライオンの採用を工作中と述べた。この証言は日本の政界に衝撃を与え,全国民的な関心と憤激を呼び起こし,三木武夫首相は徹底究明を約束した。捜査によって商社丸紅,全日空,政界の黒幕と呼ばれた児玉誉士夫を経由する三つのルートの存在が明らかとなり,1976年7~8月には元首相の田中角栄,元運輸大臣の橋本登美三郎,元運輸政務次官の佐藤孝行が逮捕された。1976年10月15日の国会の中間報告で,取り調べられた者は国会議員 17人を含めて民間人,官僚など約 460人,うち逮捕された者は 18人,起訴された者は 16人に及んだ。田中元首相の裁判では,丸紅ルートでの 5億円収受が受託収賄罪(→収賄罪)を構成するかどうかが争われ,1983年10月に 1審の東京地方裁判所がこれを認定して田中に懲役 4年,追徴 5億円の実刑判決を言い渡した。1987年7月の 2審の東京高等裁判所判決もほぼ全面的に 1審の判断を支持し,田中の控訴を棄却した。最高裁判所に上告された公訴は,1993年12月,田中の死亡により棄却(→公訴棄却)された。ロッキード事件の一連の裁判では,起訴された 16人のうち田中元首相を含め 5人が公判中に死亡して公訴棄却となり,1995年2月に最高裁で田中の元秘書官と丸紅元会長の上告が棄却されたのを最後に残る 11人全員が有罪となった。ロッキードの資金工作疑惑は日本以外でも問題となり,ドイツ連邦共和国(西ドイツ),オランダ,トルコ,イタリア,スウェーデンなどで同様の疑獄が伝えられた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『ロッキード事件』
日中共同声明に従って 1978年8月 12日に締結され,同 10月 23日に発効した日本と中国間の平和関係を規定する条約。この条約交渉は日中共同声明第7項覇権反対をめぐって終始難関に逢着した。三木武夫首相は 75年6月 21日,覇権反対は国連憲章にそった一般原則であるという見解を述べ,理論的には中国へ若干の歩み寄りをみせ,78年に入り両国の政治環境が一致するにいたり,ついに同8月北京において園田直,黄華両国外相が調印した。前文および本文5ヵ条から成る。
前文では,アジアと世界の平和と安定への寄与,両国間の平和友好関係の発展をうたった。
本文第2条が覇権条項で,中国の主張どおり日中共同声明の表現をそのまま盛込んだ。そのかわり,第4条で「この条約は,第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と,当時の中ソ対立のもと,ソ連を刺激したくなかった日本の主張を入れた。第5条では,期間 10年とし,期間満了後は1年前の予告で条約を終了させることができることとしている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『日中平和友好条約』
1985年9月22日、行き過ぎたドル高の是正を目的としてニューヨークのプラザ・ホテルでG5(米国、英国、旧西独、フランス、日本の5カ国蔵相会議)が開催され、
(1)主要通貨の米ドルに対する秩序ある上昇が望ましいこと、
(2)為替相場は対外不均衡調整のための役割を果たす必要があること、
(3)5カ国はそうした調整を促進するために一層緊密に協力する用意があること
などで合意した。背景には、レーガン政権の小さな政府、強いドル政策の下で80年代初頭からドル高が続き、国際収支の不均衡が拡大する中で、米国内において保護主義の動きが強まったことがある。合意後、各国は協調して為替市場に介入、ドルは円、マルクなどの主要通貨に対し下落傾向をたどった。ドル相場の大幅な下落は国際収支の不均衡是正にある程度役立ったが、逆に米国内に深刻なインフレ懸念を生むなどの弊害をもたらし、為替相場安定を目指すルーブル合意につながった。
(絹川直良 国際通貨研究所経済調査部長 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」(コトバンク『プラザ合意』)
株価や土地などの資産価格が,ファンダメンタルズ (経済の基礎的条件) から想定される適正水準を大幅に上回る状況をさす。もともとは為替などの変動メカニズムを説明する経済用語。バブル経済では,実力以上に資産価値が膨張するため,ある水準に達するとふくらみきった泡 (バブル) が破裂するように急反落し,崩壊局面を迎える。 17世紀にオランダでチューリップの球根相場が急騰,暴落した例が最初の明確な事例とされ (→チューリップ恐慌 ) ,18世紀のイギリスでの植民地貿易会社を舞台とする南海泡沫事件も有名。日本では 1985年9月のプラザ合意以降,超金融緩和時代に入り,企業財テクなどの投機資金が株式や不動産市場に流入,地価や株価が高騰し,バブル経済となった。しかし 90年以降,公定歩合引き上げや不動産融資の総量規制などをきっかけに地価・株価が暴落。個人消費も冷え込み,バブル経済は崩壊した。その後遺症としての不良債権問題は「失われた 10年」と呼ばれる日本経済の長期低迷をもたらした。アメリカでも 90年代に史上空前の長期景気拡大が続くなかで,特に後半になって IT (情報技術) 革命で経済が新たな段階に入ったという「ニューエコノミー」論がもてはやされ,インターネット関連のハイテク株が高騰し,「ネットバブル」と呼ばれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『バブル経済』
1986年 11月を谷とする第 11循環の景気拡大局面。経済のファンダメンタルズに基づかない景気上昇であったことから,バブル景気ともいわれる。 86年 12月から 91年4月までの 53ヵ月が平成景気にあたり,「いざなぎ景気」に次いで戦後第2位を誇る。平成景気となる前の日本経済は,85年9月のプラザ合意を受けた円高が急速に進展し,円高不況といわれる状況であった。しかし輸入原材料安,物価の安定といった円高メリットが波及し,実質所得の増加につながったこと,金融緩和が投資マインドを刺激したこと,さらに「緊急経済対策」による景気刺激策がとられたことで,急激な回復をみせ,景気拡大が続いた。平成景気の特徴として第1に,いざなぎ景気に次ぐ期間の長さがあげられる。第2に,7年をこえる景気拡大が続き,1次産品価格も安定した世界経済の好況を背景にしていたこと。第3に,内需の力強い拡大と外需の減少がある。内需の内訳をみると,初めは公共投資と住宅投資であり,景気拡大が軌道に乗ってからは個人消費と民間設備投資の拡大がみられた。個人消費では高級車ブーム,海外旅行ブームなどにみられるブランド品指向の高まり,また企業においては生産能力の拡大や省力化のための投資に加え,情報化関連投資,研究開発投資などの独立投資が大幅に増加したことが大きな特徴といえる。第4に,雇用情勢の改善と労働力需給の引締りがある。失業率の低下幅は石油危機以降最大であり,人手不足感が広がりをみせ,省力化投資の促進要因になった。第5に,物価と賃金が落ち着いていたことがある。物価の安定には,輸入の安全弁効果が働いており,景気が加熱するのを防いでいた。第6に,経常収支の黒字幅が縮小していることがあった。しかし,90年2月の株式相場急落以降この景気にもかげりがみえ,91年日銀による金融引締策によって突然バブルがはじけるように不況状況に陥った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『平成景気』
1987年、パリのルーブル宮殿で開かれた7カ国の蔵相(G7)による、為替レートの水準に関する合意。当時進行していたドル安に歯止めをかけ、日米間の通貨レートの不均衡を是正するのが狙い。この合意以降、日米間が協調介入を行った。ルーブル合意に先立つプラザ合意では過度のドル高を是正するため、日本、アメリカ、西ドイツ(当時)による協調介入を発表。これが成功を収め、プラザ合意以前に1ドル240円だった円相場は1987年2月には1ドル140円に到達した。しかし、これ以上のドル安は好ましくないとの判断から、ルーブル合意に至った。
出典 ASCII.jpデジタル用語辞典 (コトバンク『ルーブル合意』)
1980年代,情報サービス会社リクルート(→リクルートホールディングス)が政界,官界,財界の要人に,子会社のリクルートコスモスの未公開株を譲渡,贈賄罪に問われた事件。1985年から 1986年にかけて,自由民主党の有力者や野党国会議員のほか,労働省や文部省の高官,財界の大物などに対し,本人あるいは秘書名義などでリクルートコスモスの未公開株を譲渡し,店頭公開後に大きな売却益を上げさせた。1988年夏,神奈川県川崎市の助役がリクルートコスモス株の譲渡を受けていたと報道されたことを発端に,事件が中央政界に波及した。その過程でリクルートが政治家に多額の献金を行なっていたことや,政治家主催パーティ券を大量に購入していたことが判明,国民の政治不信が一気に高まった。その責任をとり 1989年6月に竹下登首相が辞職した。リクルート会長の江副浩正をはじめ贈賄側 4人,収賄側 8人の計 12人が起訴され,全員に有罪判決がくだされた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
以上、昭和史の項目の選択については、『昭和の年表』(昭和館)を参考にした。