2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
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平成30年度~の問題を解きながら、時代ごとに対策を立てます。問題は、全国通訳案内士試験公式HPの該当ページを参照しています。
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1945年(昭和20)7月に開かれたポツダム会談で協議されたうえ、同年7月26日、米英中三国政府首脳の連名で日本に対して発せられた降伏勧告の宣言。この宣言は全部で13項からなり、日本がこのまま戦争を継続すれば日本の国土は完全に荒廃してしまうこと(3項)、いまや日本は壊滅への道を続けるかそれとも理性の道を歩むかを決定すべきであること(4項)を述べ、連合国が要求する戦争終結の条件として次のものを掲げている。
(1)軍国主義の除去
(2)日本国領土の占領
(3)カイロ宣言の条項の履行、および本州、北海道、九州、四国および連合国が決定する諸小島への日本の主権の制限
(4)日本国軍隊の完全な武装解除
(5)戦争犯罪人に対する厳重な処罰、ならびに民主主義の確立
(6)賠償の実施と平和産業の確保。
またこの宣言は、以上の諸目的が達成され、日本国民の自由に表明された意思に従って平和的な傾向をもった責任ある政府が樹立された場合には、ただちに占領軍を撤収することを明らかにしている(12項)。
ポツダム宣言が発せられるや、日本政府および軍の首脳の間では、それを受諾すべきか否かにつき深刻な討論が闘わされた。日本政府はいったんは拒否を通告したものの、広島や長崎への原爆投下(8月6日、8月9日)、ソ連の対日参戦(8月8日)とますます絶望的な状況へ追いやられたため、ついに受諾するに至った。8月14日、日本政府は宣言の受諾を決定し、同日夜、終戦の詔勅(玉音放送)が発せられた。
[深谷満雄]
[参照項目] | ポツダム会談
[補完資料] | ポツダム宣言/米、英、華三国宣言
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) (コトバンク『ポツダム宣言』)
小学校6年、中学校3年といった学校の種類と修業年限を定めた教育体系の改革。日本では、第二次世界大戦後の1946年(昭和21)、アメリカ教育使節団の報告に基づき、六・三・三・四制(小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学4年)へ改革したことをさす場合が多い(導入は翌1947年)。戦前の日本では、尋常小学校を卒業した後の進学ルートが中学校、高等小学校、高等女学校、職業学校などさまざまで、親の職業や性別などの社会的階層に応じた複線型体系であったが、平等で簡素な単線型体系に改められた。その後、専門職業教育の必要性、子供の心身発達の早期化、連続性を重視した教育の必要性、中学進学後にいじめや不登校が増える「中1ギャップ」などに対応するため、学校教育法がたびたび改正され、1950年に短期大学、1962年に高等専門学校、1999年(平成11)に中高一貫教育制度、2016年(平成28)には小中一貫教育制度が導入された。
[矢野 武 2017年3月21日]
[参照項目] | 学校教育法 | 教育改革 | 中1ギャップ | 六三制
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ
参考:『サザエさん』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%82%A8%E3%81%95%E3%82%93
[対日占領政策]
1945年8月14日のポツダム宣言受諾から,52年4月28日の対日平和条約発効までの期間は連合国(実質的にはアメリカ)によって日本の動向が決められた。この占領期の政策全般を対日占領政策,ないし占領政策というが,ここでは政策にとどまらず,世相にいたるまでこの時代の諸相を概括する。 ポツダム宣言の第7項は〈右の如き新秩序が建設せられ且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るは連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし〉と連合国の占領を定めており,日本占領のための連合国軍最高司令官にはアメリカのマッカーサーが任命された。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版 コトバンク『対日占領政策』
[連合国最高司令官総司令部(GHQ)]
General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied Powers。
GHQ,総司令部ともいわれる。 GHQは元来軍事上一般に設けられるものであるが,日本では特に第2次世界大戦後連合国がポツダム宣言および降伏文書に基づいて対日占領政策にあたるため,1945年8月横浜に設置した連合国最高司令官の機関をいう。同9月 15日 GHQは本部を東京日比谷に移動。組織は,人事,情報,作戦,後方の4部から成る参謀部 (いわゆる G1,2,3,4の各部) と,民政局,天然資源局,経済科学局,民間情報局などから成る特別部門を根幹としており,極東軍事裁判所もその管掌下にあった。連合国の対日政策決定機関としてワシントン D.C.に極東委員会,東京に GHQ諮問機関として対日理事会が設けられていたが,H.トルーマン米大統領が連合国軍先遣部隊の厚木空港到着に先立ち,対日単独統治を言明したことにも明らかなように,実質的に GHQはアメリカの機関でありアメリカが最高権力を掌握していた。連合国ないしアメリカは GHQ指令を日本政府に与え,日本政府を通して実施する間接統治の方法をとった。 52年4月 28日対日講和条約の発効とともに廃止された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
(引き揚げ)外国から本国に帰ること。特に、第二次大戦後、外地で生活していた人が内地に帰ったことを指す。博多・浦賀・舞鶴などが引き揚げ港として指定され、昭和21年(1946)末までに500万人以上の人々が引き揚げた。
出典 小学館デジタル大辞泉 コトバンク『引き揚げ』
[復員引き揚げ問題]
第二次世界大戦後の海外在留の日本軍人・軍属および一般日本人の帰還問題、とくに旧ソ連・中国本土地域からの引揚げが遷延した問題をさす。
まず復員であるが、厚生省(現厚生労働省)の調べでは敗戦時の旧陸海軍軍人・軍属の総兵力は陸軍が約550万、海軍が約242万であり、このうち内地部隊は陸軍が約250万、海軍が200万弱とされる。内地部隊の復員は、陸軍が1945年(昭和20)10月までにほぼ完了し、海軍は45年8月末日までに8割が帰郷した。また外地部隊の復員はアメリカ軍管理地域から始まり、中国軍、オーストラリア軍、イギリス軍の各管理地域へと順次実施され、48年1月までにいちおう完了した。イギリス軍管理地域では主力部隊送還後も13万2000人が作業部隊として約1年間残留させられた。
敗戦直後、海外に残留していた軍人・軍属および一般日本人は660余万に上り、軍人・軍属と一般人との内訳はそれぞれ半数ずつであったが、送還は軍人・軍属が優先された。引揚げ者数は1946年末までに500万人以上に達しピークを越した。47年にはさらに74万人余が引き揚げた。この時点で密出国などを加えればその実数は600万人以上と推定されている。引揚げが遷延した地域は旧ソ連・中国であるが、サンフランシスコ講和で両国と条約を締結せず国交を回復しなかったので、その後も政府間交渉は困難を極めた。
ソ連占領地域の満州(中国東北)、北朝鮮、千島、樺太(からふと)(サハリン)では関東軍の軍人・軍属と「満州国」官吏を中心に約57万5000人がソ連本土に移送され労働を強制された。日本当局の推算ではソ連地域の日本人在留者数は272万7000人とされていた。引揚げが開始されたのは他の地域がほぼ完了した1946年12月の米ソ協定後であったが、送還は遅々として進まなかった。49年に日本で送還遅延が政治問題化し留守家族全国協議会は引揚げ促進の全国大会を開催し、国会も年内完了を決議した。50年4月タス通信は送還完了を発表した。日本当局は約37万人が未送還にあるとして国連に提訴した。53年12月、国際赤十字社の働きで送還が再開され、また56年、日ソ国交回復で「総ざらい引揚げ」が行われた。
中国からは1946年末までに300余万人、48年までに4万5000人が引き揚げたが、中国内戦の影響と中華人民共和国の成立で中断し、その後も朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)で引揚げは空白状況を続けた。中国からの呼びかけで日本赤十字社と中国紅十字社が53年2月「共同コミュニケ」を発表、55年には政府間直接交渉も開始され、53年から58年までに21回にわたって延べ3万5000人弱が引き揚げた。
集団引揚げは1958年で終わり、以後は個別引揚げの段階に入った。とくに72年の日中国交正常化以後、敗戦の混乱のなかで中国に取り残された日本人残留孤児の調査および帰国は、戦後の社会問題となった。
[荒 敬]
『厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』(1978・ぎょうせい)』▽『松岡英夫編『ジャーナリストの証言昭和の戦争7 引揚げ』(1986・講談社)』▽『若槻泰雄著『戦後引揚げの記録』(1995・時事通信社)』▽『中谷和男著『いのちの朝――ある母の引揚げの記憶』(1995・ティビーエス・ブリタニカ)』▽『木村清紹著『アルゼンチンからの手紙――満州引揚げ者の手記と手紙より』(1996・麦秋社)』▽『厚生省社会・援護局援護50年史編集委員会監修『援護50年史』(1997・ぎょうせい)』▽『埼玉県平和資料館編・刊『特別企画展 終戦と引揚げ』(1997)』▽『若槻泰雄著『世界人権問題叢書 シベリア捕虜収容所』(1999・明石書店)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『復員引揚問題』
日中戦争終結後、中国に残留させられた日本人「孤児」をめぐる問題。
中国残留日本人孤児とは、1945年(昭和20)8月9日ソ連の対日参戦以降の混乱で、肉親と別れ中国に残された日本人児童のこと。厚生労働省は、「当時の年齢が概ね13歳未満で、本人が自己の身元を知らない者」として、それ以外の「中国残留婦人等」と区別する。
[伊藤一彦]
残留孤児発生の歴史的背景
日本は1931年9月満州事変を引き起こし、翌1932年3月傀儡(かいらい)国家「満州国」を創出して中国東北地方(満州)を実質的な植民地とした。日本の人口増加とくに農村余剰人口問題の解決、さらにソ満国境の防衛のため、1932年秋の武装移民団を皮切りに、関東軍の支援のもとに満蒙(まんもう)開拓団が北満各地に送り込まれた。1936年に日本政府が20か年100万戸移住計画を決定して以後、開拓団の移住は本格化し、終戦までに27万人に上った。
満蒙開拓団には貧農の次三男が10町歩(約10ヘクタール)の地主になれるという宣伝にひかれて自ら参加した者もあったが、団員送出ノルマ達成に焦る地元当局により強制されて加わった者も多かった。開拓団に割り当てられた農地には、現地の中国人や朝鮮人が開墾した土地を低価格で暴力的に取り上げた例も少なくなく、開拓団は侵略の先兵として中国民衆の怨嗟(えんさ)の的となった。1945年のソ連参戦前、関東軍は満州の4分の3の放棄を決定、すでにソ満国境付近の兵力の多くが撤退していた。そのとき、ソ連側に撤退を知られないため在満の一般日本人に対しても秘密にされ、開拓団の安全はまったく考慮されなかった。ソ連軍が攻撃してきたとき、開拓団の壮年男子は根こそぎ軍に動員されており、残された老人、女性、子供は砲火に追われ、中国人の報復襲撃にさらされつつ、自力で避難した。逃避行の最中に多数の死者が出、数千人に及ぶ乳幼児が中国人に拾われたり託されたりした。中国残留日本人孤児の多くはこうして発生したが、開拓団以外にも残留孤児となった場合があったことはいうまでもない。
第二次世界大戦後、国共内戦と中華人民共和国の成立、そして冷戦の深化により、日中両国は対立関係にあり、残留孤児問題は忘れられたばかりか、岸信介内閣が1959年「未帰還者に関する特別措置法」(昭和34年法律第7号)を制定、残留孤児等の戸籍を「戦時死亡宣告」により抹消してこの問題の幕引きを図った。
[伊藤一彦]
孤児の永住帰国
中国で、孤児は日本人ゆえにいじめられ、とりわけ排外的風潮の強まった文化大革命のなかで、日本のスパイなどとして迫害された事例があった。
1972年9月の日中国交回復まで、残留孤児問題は表面化しなかった。国交回復後、孤児とその肉親の互いの消息を求める声が出てきたが、日本政府の対応は緩慢で、1981年になって初めて孤児47人の国費による集団訪日調査が実現した。その後1999年(平成11)11月までに30回、2116人が肉親探しに来日し、672人の身元が判明した。判明率は初期には50%を超えたが、孤児の高齢化等により次第に低下、10%以下ということもあった。2000年からは、中国現地での日中共同調査により新たに孤児と認定した者の情報を日本で公開し、肉親に関する情報が得られた者についてのみ訪日対面調査を行っている。2009年11月現在、永住帰国した孤児は2536人、同行家族は6779人。2008年現在で、なお1527人の身元が判明していない。
1993年までは日本の親族の同意がなければ、日本人と判明しても国費による永住帰国はできなかった。しかし、1994年に「中国残留邦人帰国促進・自立支援法」が定められ、訪日調査の一員となれば自動的に日本人とみなされ、本人だけでなく配偶者と未成年の子供の渡日旅費や定住支援が受けられるようになった。
国費帰国者は、定着促進センターで4か月間(のちに6か月間)日本語や習慣を学び、約16万円の自立支度金を得て公営住宅に住み、その後1年近く生活保護を受けられる。しかし、ことばをはじめ文化の壁は厚く、就職も困難で、日本社会に溶け込むのは容易でない。帰国孤児が高齢ということもあり約7割が生活保護を受けたが、出国すると支給されなくなるため、中国の養父母のもとを訪れることができず、中国では「豊かな日本に行ったのに、育てられた恩を忘れた」と孤児に対する非難があがった。また孤児に伴われて来日した子や孫が、学校等で差別され、非行に走るという事例も生じた。
2002年12月の東京地裁を皮切りに、永住帰国者の8割余が日本政府の責任を問う訴訟に踏み切った。2006年12月の神戸地裁で勝訴したほか、7地裁で敗訴となったが、こうした活動により、2007年11月、国民年金満額支給等を定める「改正中国残留邦人支援法」が成立、これを受けて関係訴訟はすべて取り下げられた。
[伊藤一彦]
『関亜新・張志坤著、浅野慎一ほか監訳『中国残留日本人孤児に関する調査と研究』全2巻(2008・不二出版)』▽『蘭信三編『中国残留日本人という経験――「満洲」と日本を問い続けて』(2009・勉誠出版)』▽『井出孫六著『中国残留邦人――置き去られた六十余年』(岩波新書)』
[参照項目] | 国共内戦 | 復員引揚問題 | 満州開拓 | 冷戦
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『中国残留孤児問題』
第2次世界大戦後日本で,占領軍によって実施された追放の一つ。 1946年1月4日,占領軍当局はポツダム宣言に基づく日本民主化政策の一環として,「好ましくない人物の公職よりの除去覚書」を発した。これに基づき公職追放令が施行された。追放理由はA項からG項まで7項にわたり,被追放者は 21万人に上った。中央,地方の公職適否審査委員会の審査による追放指定のほか,重要な者には総司令部覚書による直接指定 (メモランダム・ケース) もあり,追放が政略的に使われた例もある。占領政策の転換につれて,50年以降レッド・パージに転用され,本来の趣旨が歪曲された。また 49年以降は追放解除の措置もとられ,52年4月の講和発効とともに自然消滅した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『公職追放』
1945年の第2次世界大戦終戦に伴い,連合国総司令部の命令により行われた経済の非軍事化,民主化のための措置。大戦中までの日本経済において支配的な役割を果していた旧財閥は,財閥家族を社員とする持株会社を頂点として,傘下企業に対する株式所有および役員兼任の組合せによって形成されており,財閥解体措置はこれに対応して行われた。まず財閥関係の状態を終戦時の状態にとどめ,これに次いで財閥関係の持株会社を解体した。そして日本経済の民主化の前提条件をつくりだすための担当機関として持株会社整理委員会が設置された。この委員会が財閥解体のための措置を行なったのである。具体的には持株会社の解散,持株会社と指定された会社の所有する証券などの処分が中心となったが,さらに財閥の支配者についてもその所有する株式の処分が行われ,さらに財閥同族者と財閥関係役員の関係会社からの追放が進められた。これによって,財閥を形成していた人的,資本的な関係は一応除去され,競争経済体制の前提づくりが進められることになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事
[特別高等警察]
反体制活動の取締りのために設置された戦前警察の一部門で,思想警察として主として社会主義運動の取締りにあたった。特高として知られる。 1911年幸徳秋水の大逆事件後に警視庁に特別高等課が設けられたのが始りで,12年に大阪府に,23年には北海道,神奈川,長野,京都,兵庫,愛知,山口,福岡,長崎にも設けられるにいたった。さらに三・一五事件のあった 28年には全国の府県に設けられた。 32年に警視庁特別高等課が特別高等警察部に昇格し,特別高等,外事,労働,内鮮,検閲,調停課に分れ,特別高等課第1課が左翼を,第2課が右翼を担当した。全国の特高部,あるいは特高課は内務省警保局保安課のもとに一元的に統轄され,極端な思想弾圧組織として恐れられた。 45年 10月連合軍総司令部の覚え書によって全面的に廃止された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
女性が国政および地方政治に参加する権利。具体的には選挙権・被選挙権をもつ権利をいう。女性参政権運動は近代フェミニズム思想のもと 19世紀に活発化し,特にイギリスとアメリカ合衆国で激しく展開された。イギリスでは 1850年代にジョン・スチュアート・ミルが中心となって女性参政権を主張し,アメリカでは 1848年エリザベス・C.スタントンらの呼びかけによって女性の権利をまとめた「所感の宣言」が起草された。しかし,それでも両国とも女性参政権は第1次世界大戦後まで実現せず,イギリスのエメリン・パンクハーストやミリセント・G.フォーセット,アメリカのスーザン・B.アンソニーやルーシー・ストーンら,多くの活動家の長い運動を要した。
世界で初めて国政において女性の選挙権が認められたのは 1893年のニュージーランドであるが,第1次世界大戦前にはほかに,オーストラリア,フィンランド,ノルウェーでしか女性の選挙権は認められていなかった。ところが,大戦中に女性が果たした役割が,女性に選挙権を与える大きな契機となった。戦時中に不足した男性の労働力に代わって女性が国内の労働力を担い,それまで男性が占めていた社会的領域に女性が進出するにつれ,女性参政権に対する抵抗は弱まっていった。第1次世界大戦から戦後の数年の間に,カナダ,ドイツ,オーストリア,ポーランド,そのほか多数の国で女性の選挙権が認められた。イギリスでは,30歳以上の女性については 1918年に,男性と同じ 21歳以上の女性については 1928年に選挙権が与えられた。アメリカでは 1920年に男女平等の参政権を認めるアメリカ合衆国憲法修正第19条が成立した。
日本においては,1924年に市川房枝らが女性参政権団体を組織したが,第2次世界大戦後まで実現せず,1945年の衆議院議員選挙法の改正により,20歳以上の男女に平等な選挙権が付与された。ほかの女性参政権が実現されていなかった国でも第2次世界大戦後は次々と認められ,戦後に独立を果たした国の多くがその憲法において男女平等の選挙権を保障した。保守的なアラブ諸国ではなお多くの制限があるが,2000年代に入ってイラクやクウェートなどでも女性に選挙権が与えられ,ほとんどの国で女性参政権が実現した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。幣原内閣は 1945年 12月に第1次農地改革を提案したが,その不徹底さは占領軍および農民の納得するところとならず,46年 10月,第2次農地改革案の作成となった。これは自作農創設特別措置法と農地調整法の再改正案に基づき,地主制の解体と自作農業創設のために小作地の解放,小作料の引下げと金納化,不在地主の一掃をおもな内容とした。在地地主の貸付保有地を1町歩 (北海道は4町歩,1町歩は約 0.99ha) に制限し,それを超える貸付地と不在地主の農地は農業委員会の手で小作農に売渡された。農地改革は 50年にほぼ完了したが,これによって小作地の 80%を超える約 200万町歩が 250万の地主から 470万余の小作農に移り,牧野など約 45万町歩と未墾地 130万町歩余が解放された。この結果,戦前 70%を占めた小作農は 40%となり,自作地をもたない農家は 26%から4%に減少した。その後,旧地主層は土地の価格が不当に安すぎたとして補償要求を展開,65年に農地報償法を成立させた (→農地補償 ) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
現在の日本の国家形態,統治組織,統治作用を規定している憲法典。前文,11章 103条からなる。1946年11月3日公布,翌 1947年5月3日施行。日本が第2次世界大戦で連合国側に無条件降伏をしたことにより,占領軍総司令部の強力な指示,示唆のもとに,総司令部の憲法草案に依拠してできあがったもので,日本の民主的変革の基本原理を提供した。その特色は
(1) 国家形態としては象徴天皇制をとるが,憲法構成原理としては国民主権が徹底されている(1章)
(2) 国権の発動としての戦争を放棄し,その手段としての戦力を保持しない(2章)
(3) 基本的人権を国民に保障している(3章)
(4) 地方自治を保障している(8章)
(5) これらを実現する政治制度として,議院内閣制を採用し(4,5章)
(6)違憲立法審査権を裁判所に認め,法の支配を確認している(6章)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
明治維新後,華族令(1884年)によって旧諸侯,旧公卿,国家に勲功のあった者に与えられた世襲の特殊身分。華族はもともと清華(清華家)の別称であったが,1869年の版籍奉還により公卿・諸侯の身分を廃し併せて華族と称して士族の上に置いた。しかしこのときはまだ特権を伴わなかった。華族令によって公・侯・伯・子・男の5等の爵位に分けられ,貴族院議員の選挙・被選挙権を与えられた。皇族の〈藩屏(はんぺい)〉として天皇制維持の一基盤であったが日本国憲法(14条)で廃止。→学習院/十五銀行
→関連項目愛新覚羅浩|栄典制度|貴族|金禄公債|四民平等|爵位|臣籍降下|大名|知藩事|平民
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
Report on Japanese taxation by the Shoup Mission
1949年コロンビア大学教授 C.シャウプを団長とする使節団が,日本の租税制度に関して行なった勧告。同使節団は同年5月 10日来日,調査ののち,同8月 26日シャウプが内外記者団と会見,その概要を発表。同9月 15日 GHQが全文を発表した。それは税制の根本的改革を指摘し,青色申告制度の創設などの所得税を中心とした税務行政の整備,富裕税,資産再評価法の新設,独立税を中心とする地方税体系の確立,地方財政平衡交付金制度の採用などを内容とし,一貫した租税体系として提案された。 50年以後実施された税制の改革はその一部分を導入したにすぎなかったが,法人優遇,資本蓄積の促進という勧告の基本的性格は引継がれ,ドッジ・ラインで与えられた戦後日本経済の租税体系の基礎となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[中華人民共和国1950年代]
1949年に成立した社会主義国。首都北京
国共内戦に勝利後,1949年9月人民政治協商会議で共同綱領を制定し,10月1日毛沢東共産党主席,周恩来首相のもとに建国を宣言。
【1950年代】1950年の土地改革法,51年の三反五反運動の展開によって社会主義建設のための経済建設を開始。53年第1次5か年計画を開始し,54年に中華人民共和国憲法を制定,毛沢東が国家主席に就任。その後,農業共同化を進めながら,1956〜57年整風運動としての反右派闘争を展開,58年から人民公社建設を軸とした大躍進政策を掲げて第2次5か年計画に着手。しかし,3年連続の天候不順,指導上の欠陥,非公然に開始されていた中ソ対立によるソ連の支援打ち切りなどで大躍進政策は失敗し,1959年国家主席が劉少奇に代わり,彼の下で調整政策がとられた。この間,外交面では1950年2月中ソ友好同盟相互援助条約を締結,10月朝鮮戦争に義勇軍を派遣し,54年のジュネーヴ会議や55年のアジア−アフリカ会議などで非同盟諸国と連帯をはかる。しかし,1959年チベット問題からインドとの国境紛争が発生。
出典 旺文社世界史事典 三訂版 コトバンク『中華人民共和国』より一部抜粋
朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) と大韓民国 (韓国) の間で 1950年6月に始った紛争で,およそ 300万人が命を落した。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立って戦争に参加し,また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。戦況は目まぐるしく変化した末,戦争は 1953年7月,決定打のないまま終結した。
1950年6月 25日,北朝鮮はソ連の暗黙の了解のもと,38度線の南部に対する綿密な攻撃計画を発動した。国連安全保障理事会 (→安全保障理事会 ) は緊急会議を開き,北朝鮮の侵略を押しとどめるためすべての国連加盟国に支援を要請する決議を採択した。6月 27日,トルーマン米大統領は議会にはかることなく,宣戦を布告し,国連の警察活動の一環として韓国を支援するよう米軍に命じた。この間,韓国軍は北朝鮮軍に圧倒された。不十分な装備のまま応援に駆けつけた米陸軍の4個師団も南へと後退し,朝鮮半島の南端に押込められた。しかし,米軍は大量の援軍を得,さらに9月 15日,マッカーサー将軍率いる部隊が 38度線の南方およそ 160キロの仁川に上陸作戦を敢行した。主要戦線のはるか北方で上陸作戦を行なったことで,国連軍は北朝鮮軍の分断に成功し,北朝鮮軍は南北からの挟撃を受けて,完全に粉砕され,12万 5000人以上が捕虜となった。
国連軍が北上して 38度線まで押返したとき,中国は国連軍が北朝鮮に存在することは国家安全保障にとって受入れがたく,この戦争に介入せざるをえないと警告した。しかし,国連軍は警告を無視し,南北統一の意図を表明するとともに,北朝鮮に進軍した。 11月半ばまでに,国連軍部隊は北朝鮮と満州 (中国東北部) の国境である鴨緑江に接近しつつあった。 11月 24日,マッカーサーは「クリスマスまでには帰国」を実現するとして一大攻勢を発表,彼が率いる部隊は勇躍,鴨緑江まで進軍するはずだった。翌日,およそ 18万人の中国義勇軍が参戦し,冬季の苦しい戦闘と悲惨な退却のあと,国連軍は 12月 15日までに再び南の 38度線まで押返されてしまった。 50年 12月 31日,共産勢力はおよそ 50万人の将兵とともに2度目の韓国侵攻を開始したが,国連軍の絶え間ない空爆を受けて攻撃が鈍り,前線は最終的に 38度線沿いで動かなくなった。一方,マッカーサーは中国沿岸部の封鎖と満州の基地に対する空爆を当局に要求したが,それはソ連の参戦を招き,世界規模の紛争にいたると恐れるトルーマンはこの要求を却下。 51年4月,トルーマンはマッカーサーを国連軍司令官,極東軍司令官から解任し,リッジウェー将軍を後任に据えた。
51年7月,停戦交渉が開始され,52年秋にアイゼンハワーが米大統領選挙に勝利するまで続いた。アイゼンハワーは北朝鮮,中国とひそかに連絡をとり,和平合意がならない場合,核兵器を使用する用意があり,対中戦争も辞さないと伝えた。 53年7月 27日,休戦が成立し,そのときの前線が南北間の事実上の国境として受入れられた。この戦争で,およそ 130万人の韓国人 (その多くは民間人) が死亡し,中国人の死者は 100万人,北朝鮮人は 50万人,アメリカ人は約5万 4000人が死亡したほか,連合軍側ではイギリス人,オーストラリア人,トルコ人の犠牲者も少数ながら出ている。数百万人の南北朝鮮国民が一時的に難民となり,韓国の工業施設の大半が被害を受け,北朝鮮はアメリカの空爆作戦により徹底的に破壊された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[朝鮮特需]
特殊需要special procurementの略語。通常,1950年6月に勃発した朝鮮戦争に関連して発注された戦時の特殊な軍事需要(朝鮮特需)をいう。狭義には〈国連軍(主として在日米軍)が特需契約に基づいて調達する物資およびサービスの代金〉を呼び,広義には〈前記のほか日本に駐留する外国軍隊の消費(円セール)ならびに外国関係機関の支出に伴う受取り〉をも含む。…
※「朝鮮特需」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社 コトバンク『朝鮮特需』
毎年 2月初旬に行なわれる北海道の冬最大の行事。期間は 7日間。1950年に札幌市の中学生と高校生が大通公園に六つの雪像を設置し,雪合戦などのイベントを催したところ好評だったことがきっかけで始まった。1953年に初めて高さ 15mの大雪像をつくり,1955年からは自衛隊が参加して大規模な雪像づくりの競い合いが始まった。1959年マスコミに取り上げられると全国から観光客が集まるようになり,1965年には真駒内に第2会場を設けるまでになった。1972年の札幌オリンピック冬季競技大会を契機に世界的に知られる行事となり,1974年には国際雪像コンクールも行なわれ,1983年に薄野第3会場が設置されたのに続き,1984年からは会期が 2日間から 7日間に拡大された。その後 2005年に真駒内会場が閉鎖され,2006年から 2008年はさとらんど会場,2009年からはつどーむ会場が第2会場となっている。3会場には陸上自衛隊,札幌市職員,市民ボランティア,市民グループ,国際雪像コンクールに参加する外国人グループの手による雪像が 200基以上も展示される。期間中は国内外から約 200万人の見物客が訪れる。
サンフランシスコ講和条約,対日平和条約ともいう。第2次世界大戦の戦争状態を終結し,国交を回復するため,日本とアメリカ,イギリスなど 48ヵ国との間に締結された条約。 1951年9月8日サンフランシスコで署名され,52年4月 28日に発効した。前文および 27ヵ条から成り,ほかに若干の諸国との議定書,国際条約への加入および戦死者の墳墓に関する2つの単独宣言が付属している。領土処理については,朝鮮の独立承認,台湾,澎湖諸島,千島列島,南樺太,新南群島に対する日本の一切の権利,権原および請求権の放棄,南太平洋旧委任統治諸島をアメリカを単独施政権者とする信託統治のもとにおく旨の協定の承認,琉球,小笠原諸島を信託統治地域とすることの予定およびアメリカによる施政権行使ならびに日本による残存 (潜在) 主権の保持などを規定している。賠償については,日本の債務履行能力に限界があることの是認,在外日本資産の差押え,留置,精算あるいは役務賠償の原則の確定,日本の相手締約国に対する請求権の一切の放棄を規定した (→対日賠償問題 ) 。また安全保障については,日本が国連憲章第 51条の個別的,集団的自衛権を有することの是認などを定めている。中国代表権については,アメリカ,イギリス間で意見が一致せず,中華民国も中華人民共和国も会議に招請されなかった。 (→第2次世界大戦講和条約 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『対日講和条約』
1956年(昭和31年)7月に発表された経済白書(副題日本経済の成長と近代化)の結語には、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指して
《もはや「戦後」ではない》
と記述され流行語にもなった。
この白書は経済企画庁の調査課長であったエコノミストの後藤誉之助が作成の指揮を執った。言葉の初出は中野好夫が『文藝春秋』1956年2月号に発表した「もはや『戦後』ではない」である。
白書に記述されたこの言葉は、それまで経済成長を牽引してきた戦後の復興需要が落ち着きを見せ、今後の経済成長は社会の「近代化」によって支えられるものであり、その「近代化」もまた経済の安定した成長によって成し遂げられることを宣言するものであった。
wikipedia『経済白書』より抜粋
東京タワー(とうきょうタワー、英: Tokyo Tower)は、東京都港区芝公園にある総合電波塔で、正式名称は日本電波塔(にっぽんでんぱとう)である。
東京タワー建築前は放送事業者はそれぞれ個々に自局の塔から放送を行っていたが放送電波の届かない範囲も狭く指向性のために電波が受け取りにくい。電波塔の乱立は好ましくないと言った状況から、東京タワーが建てられた。
1958年(昭和33年)12月23日竣工。
しかし、放送のデジタル化、および都内の高層化により、東京タワーは放送局の電波送信の役目をスカイツリーに譲り、緊急時のバックアップを担うのみになっている。
展望台は、メインデッキ(150m)とトップデッキ(250m)の2か所があり、富士山・筑波山・房総半島・三浦半島、東京スカイツリー、東京ゲートブリッジなども見渡せる。
2013年国の登録有形文化財に登録。
2018年度グッドデザイン賞受賞。
参考:『東京タワー』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC
参考:『東京タワー施設案内』(東京タワーHP) https://www.tokyotower.co.jp/guidance/
参考:『東京タワー (333m)』(全日本タワー協議会) https://www.japantowers.jp/tokyo_tower/
参考:『昭和のシンボル 東京タワー ~新しくて懐かしい令和大改革:読んでわかる「カンブリア宮殿」』
[なべぞこ不況]
なべ底不況とは、神武景気の後の1957年(昭和32年)から1958年(昭和33年)にかけて起こった不況のことをいいます。当初はなべの底のように景気が停滞したままであり、不況が長期化するのではないかと予想されたため、なべ底不況と呼ばれました。しかし、不況の原因は在庫急増の反動という短期的な要因であったため、1958年から3回にわたる公定歩合の引き下げによって不況を乗りきることができました。
[岩戸景気]
岩戸景気とは、神武景気に続いて発生した日本における好景気のことをいいます。神武景気は31か月続きましたが、岩戸景気は1958年(昭和33年)6月から1961年(昭和36年)12月までの42か月続きました。景気の長さにおいて、またその大きさにおいても神武景気を上回る好景気との評価がなされたため、神武天皇よりさらに遡って「天照大神が天の岩戸に隠れて以来の好景気」という意味で、この名が付けられました。この時期から日本の高度成長期が始まり、朝鮮特需が減少する反面、重化学工業の技術革新の波が起こり、一社の民間企業の設備投資が、別の会社の設備投資を招き、「投資が投資を呼ぶ」といわれました。産業面の変化をみると、繊維産業や石炭、海運産業等の比重が低下する反面、電気機械・精密機械・自動車などの機械産業、あるいは鉄鋼・化学・石油精製等の装置産業が発展し、産業の高度化が進みました。
伊勢湾台風(いせわんたいふう、昭和34年台風第15号、台風195915号、国際名:ヴェラ/Vera)は、1959年(昭和34年)9月26日(土曜日)に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした台風である。伊勢湾沿岸の愛知県と三重県(伊勢湾沿岸の工業地帯が水没)での被害が特に甚大であったことからこの名称が付けられた。死者・行方不明者の数は5,098名、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の被害をもたらした。
観測史上最大の高潮(名古屋港基準面 潮位5.31m)
当時の災害広報手段は電源タイプのラジオ(電池式のラジオは高額でまだ普及していなかった)がほとんどであり、ラジオで高潮の注意喚起を呼び掛けていたが、強風で停電、ラジオからの情報が遮断されたため、その呼びかけは届かなかった。天白川の堤防が決壊、大量の水と貯木場の大量の木材が町を襲った。住民側の災害対策意識がまだ育っていなかったことも避難の遅れにつながったともいわれる。
これらの地域は工業化のために地下水くみ上げによる地盤沈下が起き、また、干拓・埋め立てにより、海抜ゼロメートル地域となっていた。しかも興産のために、災害対処の方法を知らない層の人口が爆発的に増え、対策が遅れたのが甚大な被害の理由の一つと考えられている。
国は、戦後すぐに台風が連続し、あちこちで大きな被害をもたらしたため、伊勢湾台風の数年前に「水害地形分類図」(文部省)を制作し、愛知県・岐阜県に送っていたものの、水害対策に生かされておらず、伊勢湾台風には間に合わなかった。しかし、その後地図の有効性が認められ、伊勢湾台風の経験から、現在のハザードマップの整備につながり、自治体の災害対策に生かされている。
高潮の被害が収まった後は、1947年に制定された災害救助法により、応急仮設住宅1万4千戸余りが全国で供与された。
また、自治体側も治水対策強化にせまられ、河川改修に力を注ぐことになった。
参考:『伊勢湾台風』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%B9%BE%E5%8F%B0%E9%A2%A8
参考:NHK『明日をまもるナビ』歴史が伝える 災害と戦った日本人の知恵(2024年3月31日放送)
2024年4月7日まで NHK+ https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2024033102703
参考:『仮設住宅』wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E8%A8%AD%E4%BD%8F%E5%AE%85
1951年9月8日に対日講和条約と同時に署名された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」Security Treaty between Japan and the United States of America(1952.4.28.発効)と,1960年1月19日に署名された「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」Treaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of America(1960.6.23.発効)の二つの条約の総称。
1951年に締結された旧条約は前文と 5条からなる。日本国内へのアメリカ軍の駐留を認め,この在日アメリカ軍は極東における平和維持に寄与し,外国の干渉によって日本に大規模な内乱,騒擾が発生して日本政府の要請があった場合,また日本が外部から武力攻撃された場合に出動できると規定した(1条)。アメリカ軍の具体的な配備などの条件は,旧条約と同日に発効した日米行政協定に定められた。
1960年に締結された新条約は前文と 10条からなる。日米間の政治,経済上の協力がうたわれ(2条),アメリカが日本を防衛する義務が明文化されて,日本が武力攻撃を受けて防衛行動をとった場合の国際連合安全保障理事会への報告義務,および同理事会が平和回復に必要な措置をとったときに行動を終止することを定めている(5条)。5条は,日本が他国から武力攻撃を受けた際にアメリカが集団的自衛権を行使して日本を防衛する根拠となっている。また「アメリカ合衆国は,その陸軍,空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」として,アメリカ軍の日本での駐留を認めている(6条)。条約の効力は 10年で,その後は双方のいずれかが終了の意思を通告してから 1年後に無効となる(10条)。日米行政協定は日米地位協定として新たに締結された。新条約は 1970年に自動延長され,1972年の沖縄返還で沖縄県も同条約下に入った。新条約の締結前後は,極東条項をめぐる安保改定問題など,内政上の大きな争点となり,在日アメリカ軍基地をめぐる紛争も続いたが,その後は条約の存在そのものが政治的な問題とされることは少なくなり,冷戦終結後も継続された。日米安全保障条約に基づく防衛協力の具体的なあり方に関する取り決めとして,1978年に日米防衛協力のための指針が発表され,1997年と 2015年に改定された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
2020年出題。出題は1950年代後半。
第二次世界大戦後の日本において、家庭生活、社会生活を営むうえで、そろえておけば理想的だとされる3種類の耐久消費財をさしていうことば。歴代天皇が受け継ぐ三つの宝物に擬していわれるようになった。それぞれの時代によって変遷があるが、最初のものは、1954年(昭和29)ごろからいわれた電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気掃除機である。1950年代後半になると、電気掃除機にかわって白黒テレビが仲間入りし、いわゆる「家電ブーム」をもたらした。1960年代なかばになると、カラーテレビ、クーラー、自家用自動車(カー)が新三種の神器とされた。これらはそれぞれの英語の頭文字をとって、「3C」とよばれた。最近では、デジタルカメラ、薄型テレビ、DVDレコーダーをデジタル三種の神器とよぶ。
[編集部]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) コトバンク『三種の神器(耐久消費財)』
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[三種の神器Wikipedia]
2003年頃から2010年頃にかけて急速に普及したデジタル家電のデジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビも新・三種の神器[7]、またはデジタル三種の神器と呼ばれた。
2022年7月には大丸松坂屋百貨店によって設立された「未来定番研究所」が行った、藤野達史(空間プロデューサー、一級建築士)と本間朝子(家事プロデューサー)へのインタビューにおいて、藤野は「三種の神器は、昭和の経済成長で得た豊かさを象徴する家電で、新三種の神器は科学技術の進歩で家事の効率化を図れるようになった家電」であり、「個人に寄り添い、家全体の環境を整えるものが、「新・新三種の神器」になる」と語ったうえで、「空調システム」「提案型の冷蔵庫」「快適な睡眠を提供するベッド」の3つをキーワードとして挙げた。一方の本間は「戦後の貧しい中で叶えたかった豊かさを叶えてくれるのが三種の神器で、家事の中心を担っていた女性が社会進出するようになり、余剰時間を生み出したいという願いを叶えてくれる時短家電を新三種の神器」と呼んだと語ったうえで、「AIの農家サービス」「家にいながら健康診断ができる家電」「ペットロボット」の3つをキーワードとして挙げた。
2020年東海道新幹線の説明を求める形で出題。
JR東海の高速幹線鉄道。東京-新大阪間 515.4km。東海道本線の輸送力が限界に達したため開設された。 1959年着工,64年開通。最高時速 210km。他の鉄道や道路とはすべて立体交差になっており,レール幅は標準軌間の 1435mmで全線にロングレールを採用,交流電化方式,自動列車制御装置 ATC,列車集中制御装置 CTCによる遠隔制御など最新の技術を導入している。途中駅は新横浜,小田原,熱海,三島,新富士,静岡,掛川,浜松,豊橋,三河安城,名古屋,岐阜羽島,米原,京都の 14駅で,新大阪駅で 75年全線開通した山陽新幹線と連絡している。車種は名古屋と京都だけに停車する『ひかり』号 (1980年 10月の改正以降,小田原,静岡,浜松,豊橋,岐阜羽島,米原に停車するものもある) と各駅に停車する『こだま』号があり,『ひかり』号の大半は山陽新幹線に直通運転されている。また,92年からは,さらに時間短縮をはかった『のぞみ』号が運転されている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (コトバンク『東海道新幹線』)
2022年出題
第2次インドシナ戦争ともいわれる。1954年ジュネーブ協定締結後,南ベトナム(ベトナム共和国)に成立したゴ・ディン・ジェム政権は米国の援助下に反共・独裁政策を強行。これに反対する共産主義・民族主義勢力は各地でゲリラ活動を展開し,1960年南ベトナム解放民族戦線を結成。1963年―1964年クーデタが頻発(ひんぱつ)し,ゴ・ディン・ジェム政権は倒れた。このころまでは内戦的性格をもっていたが,1965年米国は北ベトナム(ベトナム民主共和国)による解放民族戦線への援助阻止を主張して北ベトナム爆撃と南ベトナムへの増兵を開始。米国は50万の地上軍を投入し,韓国・タイ等の派遣軍も加わり,北ベトナムも正規軍を南下させて解放民族戦線を援助し,国際紛争に発展した。1968年旧正月直後の攻撃(テト攻勢)以来,解放民族戦線が戦争主導権を握り,サイゴン地区やトンキン湾沿岸都市部を除く大半の地域がその勢力下に入った。一方,1968年以来パリで和平交渉が進められてきたが,1973年1月和平協定が成立し,3月米軍戦闘部隊が南ベトナムから撤退,戦争の終結が宣言された。この戦争による北ベトナム・解放戦線側の死傷者は推定227万人,米国・南ベトナム側は約98万人。→ベ平連
→関連項目アメリカ合衆国|インドシナ|ウッドストック・フェスティバル|エンタープライズ|開高健|枯葉剤|共和党|局地戦争|ギラン|グエン・バン・ティエウ|スポック|中国共産党|ドイモイ|ドミノ理論|ナパーム弾|日本|ベトナム|ボー・グエン・ザップ|ボールドウィン|ボール爆弾|マクナマラ|マッカーシー|ロン・ノル
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア コトバンク 『ベトナム戦争』
1965年6月22日に日本と大韓民国(韓国)との間で署名された両国の関係正常化に関する条約。正式名称は「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」。日韓の国交正常化交渉は 1952年2月に始まり,その後何度も中断したが,朝鮮半島情勢を懸念するアメリカ合衆国の働きかけもあり交渉開始 14年目に結実した。基本条約の骨子は
(1) 日韓の外交および領事関係の開設
(2) 1910年8月22日以前に二国間で締結された条約や協定の無効化(→日韓併合条約)
(3) 1948年の国連総会決議第195号(III)に基づき,韓国政府を朝鮮唯一の合法的政府とすることの確認
(4) 相互関係における国連憲章の原則の尊重
(5) 両国間の貿易,海運,通商などに関する協定の締結
(6) 両国間の航空協定の締結などである。
(3)は,現実に朝鮮半島北半部を管掌している朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)政府の存在を無視するかたちになっている点が,北朝鮮との外交交渉を進めるうえで障害になるとの懸念から,日本の国会内外で議論の的となった。なお基本条約と同時に,請求権・経済協力協定(→請求権),在日韓国人の法的地位協定,漁業協定(→日韓漁業協定),文化財・文化協定,紛争解決交換公文,民間信用供与交換公文などが調印された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『日韓基本条約』
1965年 11月から 1970年7月まで続いた第6循環の景気拡大局面の俗称。岩戸景気の 42ヵ月を上回り 57ヵ月も景気拡大が続いたことから,岩戸神話よりさかのぼって,国造り神話から「いざなぎ景気」と命名された。民間設備投資に牽引された日本経済はこの5年間に名目国民総生産 GNPが2倍以上となり,1968年には西ドイツを抜き,自由世界第2位となった。消費ブームはさらに続き,いわゆる「3C」 (自動車,カラーテレビ,クーラー) が急速に普及したのもこの時期である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
国民の祝日の一つで,2月 11日。 1957年,かつての紀元節を建国記念日として祝日に追加する法案が国会に上程。 66年6月に参議院で「国民の祝日に関する法律」の改正案が可決された結果,建国記念日審議会が首相の諮問機関として設けられ,12月に「建国記念の日」が公布された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
1971年7月 15日に R.ニクソン大統領が行なった訪中発表 (第1次) と,同年8月 15日の金・ドルの交換停止,10%の輸入課徴金を含む8項目の経済政策の変更 (第2次) により世界および日本が受けた衝撃をいう。武力衝突にまで発展した中ソ対立,文化大革命による混乱からの脱出が中国側の理由であり,ベトナム戦争の泥沼化,中国封じ込め政策の破綻,対ソ牽制がアメリカを対中接近へと向わせた。中国政策については一致し,変更する場合は事前に相談を受けると信じていた日本はアメリカの突然の頭越しの外交に大きなショックを受けた。そして 71年8月 15日,ニクソン大統領は内外両面にわたり新経済政策を断行した。アメリカ国内に対しては諸種の大幅減税によって景気の浮揚をねらったが,海外に対しては金とドルの交換を停止し,10%の輸入課徴金を実施するとしてドルの救済を期待した。ドルの下落を食止めるために,アメリカは競争関係にあった主要通貨の為替レート引上げを輸入課徴金を武器として要求し,10ヵ国蔵相会議で調整され,その結果アメリカの場合は金に対してドルが 7.89%切下げられ,他の主要通貨ではドルに対する切上げが圧倒的であった。しかも切上げのトップは日本円であり,16.88%に上がった。輸入課徴金はむろん廃止された。世界の金融体制は蔵相会議場の名をとり「スミソニアン体制」と呼ばれる新金融体制に向った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『ニクソンショック』
1970年,大阪府吹田市の千里丘陵でアジアで最初に開催された万国博覧会。正式名称は日本万国博覧会。EXPO'70ともよぶ。基本テーマは〈人類の進歩と調和〉で,期間は3月14日(一般公開は15日から)−9月13日。会場面積は約350ha。参加国は77(44パビリオン),参加企業団体34(32パビリオン)。テーマソングは〈世界の国からこんにちは〉(三波春夫ほか)。大会期間中の入場者は延べ6421万8770人に達し,万国博史上の最高記録となっている。アメリカ館に展示された〈月の石〉が人気をよび,岡本太郎作の〈太陽の塔〉(高さ70m)がシンボル的な存在であった(現存)。日本の高度経済成長期を象徴するイベントとされる。跡地には独立行政法人日本万国博覧会記念機構が保有・整備する万博公園がある。
→関連項目粟津潔|磯崎新|勝井三雄|亀倉雄策|河野鷹思|GKデザイングループ|全天全周映画|丹下健三|三波春夫
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア(コトバンク『大阪万博』)
北海道札幌市を中心に開催された第11回オリンピック冬季競技大会。1972年2月3日から 13日まで行なわれ,35ヵ国の参加のもと,スキー,スケート(スピードスケートとフィギュアスケート),アイスホッケー,バイアスロン,ボブスレー,リュージュの 6競技 35種目が行なわれた,アジアで最初の冬季オリンピック。真駒内スピードスケート競技場で開閉会式を実施した。アマチュア問題に厳しい姿勢で臨むアベリー・ブランデージ会長率いる国際オリンピック委員会 IOCは,スキーメーカーから報酬を得ているとの理由で,オーストリアのアルペンスキー滑降の第一人者カール・シュランツを失格とした。アイスホッケーではカナダが,東ヨーロッパ圏からステートアマチュアが参加していることを理由にプロ選手の出場を求めたが,IOCに拒否されたため,チームを引き揚げた。男子スピードスケートではオランダのアルト・シェンクが 1500m,5000m,1万mで 3個の金メダルを獲得した。女子クロスカントリースキーではソビエト連邦のガリーナ・クラコワが 3冠に輝いた。開催国日本は男子 70人,女子 20人の選手団を編成した。最も活躍が著しかったのはジャンプ 70m級で,笠谷幸生の金,金野昭次の銀,青地清二の銅とメダルを独占し「日の丸飛行隊」の異名をとった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (コトバンク『札幌オリンピック冬季競技大会』)
正式には「琉球諸島および大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」 Agreement between Japan and the United States of America Concerning the Ryukyu Islands and the Daito Islandsといい,1971年6月 17日,宇宙中継を通じて東京とワシントン D.C.で署名された。協定本文のほか,「合意議事録」「VOAに関する交換公文」「海没地に関する交換公文」「施設・区域に関する了解覚書」「民間航空に関する了解覚書」「在琉球外資の取扱いに関する愛知外相書簡」の6つの関連文書が付属している。協定は前文および9ヵ条から成るが,前文では佐藤=ニクソン共同声明を基礎に沖縄が返還されることを再確認している。本文および付属文書では,(1) 返還後の沖縄には安保条約を含む日米間の条約,協定を適用すること,(2) 返還と同時に現在の米軍基地の大部分を施設,区域として再び提供すること,(3) 沖縄県民の対米請求権を原則的に放棄すること,(4) アメリカ資産の引継ぎなどの代償として日本側が3億 2000万ドルを支払うこと,(5) 裁判の効力を原則的に引継ぐこと,(6) VOA放送 (→ボイス・オブ・アメリカ ) を返還後も暫定的に存続させること,などが取決められた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
1952年に発効した対日講和条約によってアメリカ合衆国の統治下に置かれた沖縄は,沖縄返還協定が調印された翌 1972年5月15日,27年ぶりに日本に返還された。第2次世界大戦(太平洋戦争)の戦場(→沖縄の戦い),占領下,戦後の軍政下(→琉球列島アメリカ民政府,沖縄米軍用地問題)と沖縄の苦難は続き,沖縄住民の祖国復帰運動は粘り強く続けられた。1960年沖縄教職員会を中心とする沖縄県祖国復帰協議会の結成,1965年佐藤栄作内閣総理大臣の沖縄訪問を経て,1969年11月2日のリチャード・ミルハウス・ニクソン大統領との会議で,「核抜き本土並み」の 1972年返還を約した日米共同声明(→佐藤=ニクソン共同声明)が発表された。しかし,返還後も在日アメリカ軍の基地は沖縄県土面積の 9.94%(2015.3現在)を占める。基地問題のほか,日米共同声明における有事の際の核持ち込みに関する密約疑惑や,沖縄の経済的自立など,多くの問題が残る。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 (コトバンク 『沖縄返還』)
1972年9月 29日北京で発表された日本,中国両政府間の戦争状態終結,国交正常化のための共同声明。その内容は,前文と本文9項目から成る。前文では,日本側が戦争で中国国民に重大な損害を与えた責任を深く反省し,中国政府が提示した復交3原則を十分理解するとした。
復交3原則とは,
(1) 中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府である
(2) 台湾は中国の不可分の領土である
(3) 日華平和条約は不法無効であり廃棄されるべきであるという,中国の台湾国民党政府否定の強い立場を表明したものである。
また本文9項目の要旨は,
(1) 日中両国の不正常状態の終了
(2) 中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることの承認
(3) 台湾が中国の不可分の領土たることの中国側声明と日本側の理解尊重
(4) 中国の対日戦争賠償の請求放棄宣言
(5) 外交関係樹立と大使交換の決定
(6) 平和五原則と国連憲章に基づき武力による紛争解決をしないことの確認
(7) アジア,太平洋地域における覇権反対
(8) 平和友好条約の締結に同意
(9) 貿易,海運,航空,漁業などの協定締結に同意
である。この共同声明調印直後,日本側は政府見解として外相が「日華平和条約は存続の意義を失い終了したものと認められる」と表明した。台湾の国民党政府はただちに日本との外交関係のみの断絶を通告した。その後の数年間に声明第9項の諸協定は相次いで締結された。また,第8項に基づく日中平和友好条約も 78年8月 12日締結された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『日中共同声明』
[石油危機]
1973年と 1979年に石油輸出国機構 OPEC諸国が石油価格を大幅に引き上げたことにより,世界経済全体がきたした大きな混乱をさす。オイルショック oil shockともいう。1973年10月の第4次中東戦争(→十月戦争)を機にアラブ諸国が石油価格を 4倍に引き上げたのが第1次石油危機で,石油消費国はインフレーション,景気後退,国際収支赤字のいわゆるトリレンマに悩まされた。石油依存度の高い日本は特に大きな打撃を受け,「狂乱物価」と呼ばれる物価の大幅な高騰を招いてマイナス成長に陥り,国際収支も赤字となった。国民生活の面でも物不足,買い占め騒ぎが起こった。これに対して政府は石油 2法(→国民生活安定緊急措置法,石油需給適正化法)の策定,アラブ諸国との外交関係強化などの対策を講じた。1978年12月のイラン革命を機に再び石油価格が約 2倍に上昇したのが第2次石油危機である。前回の経験もあり,第1次ほどの大混乱にはならなかったが,やはり世界経済は停滞することとなった。(→石油備蓄)
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『石油危機』
1976年2月に発覚したアメリカ合衆国の航空機メーカー,ロッキードの日本への航空機売り込みにからむ疑獄事件。事件の発端はロッキードの極秘資料がアメリカの上院外交委員会多国籍企業活動調査小委員会に誤配されたことによるといわれる。この「誤配」をきっかけに,同社副会長アーチボルド・C.コーチャンが,同小委員会公聴会で航空機売り込みのため各国の政府高官に贈賄したことを暴露した。日本についても 30億円をこえる資金を投じ,全日本空輸(全日空)へは旅客機トライスターの売り込みに成功し,防衛庁に対しては次期対潜哨戒機 P-3Cオライオンの採用を工作中と述べた。この証言は日本の政界に衝撃を与え,全国民的な関心と憤激を呼び起こし,三木武夫首相は徹底究明を約束した。捜査によって商社丸紅,全日空,政界の黒幕と呼ばれた児玉誉士夫を経由する三つのルートの存在が明らかとなり,1976年7~8月には元首相の田中角栄,元運輸大臣の橋本登美三郎,元運輸政務次官の佐藤孝行が逮捕された。1976年10月15日の国会の中間報告で,取り調べられた者は国会議員 17人を含めて民間人,官僚など約 460人,うち逮捕された者は 18人,起訴された者は 16人に及んだ。田中元首相の裁判では,丸紅ルートでの 5億円収受が受託収賄罪(→収賄罪)を構成するかどうかが争われ,1983年10月に 1審の東京地方裁判所がこれを認定して田中に懲役 4年,追徴 5億円の実刑判決を言い渡した。1987年7月の 2審の東京高等裁判所判決もほぼ全面的に 1審の判断を支持し,田中の控訴を棄却した。最高裁判所に上告された公訴は,1993年12月,田中の死亡により棄却(→公訴棄却)された。ロッキード事件の一連の裁判では,起訴された 16人のうち田中元首相を含め 5人が公判中に死亡して公訴棄却となり,1995年2月に最高裁で田中の元秘書官と丸紅元会長の上告が棄却されたのを最後に残る 11人全員が有罪となった。ロッキードの資金工作疑惑は日本以外でも問題となり,ドイツ連邦共和国(西ドイツ),オランダ,トルコ,イタリア,スウェーデンなどで同様の疑獄が伝えられた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『ロッキード事件』
日中共同声明に従って 1978年8月 12日に締結され,同 10月 23日に発効した日本と中国間の平和関係を規定する条約。この条約交渉は日中共同声明第7項覇権反対をめぐって終始難関に逢着した。三木武夫首相は 75年6月 21日,覇権反対は国連憲章にそった一般原則であるという見解を述べ,理論的には中国へ若干の歩み寄りをみせ,78年に入り両国の政治環境が一致するにいたり,ついに同8月北京において園田直,黄華両国外相が調印した。前文および本文5ヵ条から成る。
前文では,アジアと世界の平和と安定への寄与,両国間の平和友好関係の発展をうたった。
本文第2条が覇権条項で,中国の主張どおり日中共同声明の表現をそのまま盛込んだ。そのかわり,第4条で「この条約は,第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と,当時の中ソ対立のもと,ソ連を刺激したくなかった日本の主張を入れた。第5条では,期間 10年とし,期間満了後は1年前の予告で条約を終了させることができることとしている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『日中平和友好条約』
1985年9月22日、行き過ぎたドル高の是正を目的としてニューヨークのプラザ・ホテルでG5(米国、英国、旧西独、フランス、日本の5カ国蔵相会議)が開催され、
(1)主要通貨の米ドルに対する秩序ある上昇が望ましいこと、
(2)為替相場は対外不均衡調整のための役割を果たす必要があること、
(3)5カ国はそうした調整を促進するために一層緊密に協力する用意があること
などで合意した。背景には、レーガン政権の小さな政府、強いドル政策の下で80年代初頭からドル高が続き、国際収支の不均衡が拡大する中で、米国内において保護主義の動きが強まったことがある。合意後、各国は協調して為替市場に介入、ドルは円、マルクなどの主要通貨に対し下落傾向をたどった。ドル相場の大幅な下落は国際収支の不均衡是正にある程度役立ったが、逆に米国内に深刻なインフレ懸念を生むなどの弊害をもたらし、為替相場安定を目指すルーブル合意につながった。
(絹川直良 国際通貨研究所経済調査部長 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」(コトバンク『プラザ合意』)
株価や土地などの資産価格が,ファンダメンタルズ (経済の基礎的条件) から想定される適正水準を大幅に上回る状況をさす。もともとは為替などの変動メカニズムを説明する経済用語。バブル経済では,実力以上に資産価値が膨張するため,ある水準に達するとふくらみきった泡 (バブル) が破裂するように急反落し,崩壊局面を迎える。 17世紀にオランダでチューリップの球根相場が急騰,暴落した例が最初の明確な事例とされ (→チューリップ恐慌 ) ,18世紀のイギリスでの植民地貿易会社を舞台とする南海泡沫事件も有名。日本では 1985年9月のプラザ合意以降,超金融緩和時代に入り,企業財テクなどの投機資金が株式や不動産市場に流入,地価や株価が高騰し,バブル経済となった。しかし 90年以降,公定歩合引き上げや不動産融資の総量規制などをきっかけに地価・株価が暴落。個人消費も冷え込み,バブル経済は崩壊した。その後遺症としての不良債権問題は「失われた 10年」と呼ばれる日本経済の長期低迷をもたらした。アメリカでも 90年代に史上空前の長期景気拡大が続くなかで,特に後半になって IT (情報技術) 革命で経済が新たな段階に入ったという「ニューエコノミー」論がもてはやされ,インターネット関連のハイテク株が高騰し,「ネットバブル」と呼ばれた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『バブル経済』
1986年 11月を谷とする第 11循環の景気拡大局面。経済のファンダメンタルズに基づかない景気上昇であったことから,バブル景気ともいわれる。 86年 12月から 91年4月までの 53ヵ月が平成景気にあたり,「いざなぎ景気」に次いで戦後第2位を誇る。平成景気となる前の日本経済は,85年9月のプラザ合意を受けた円高が急速に進展し,円高不況といわれる状況であった。しかし輸入原材料安,物価の安定といった円高メリットが波及し,実質所得の増加につながったこと,金融緩和が投資マインドを刺激したこと,さらに「緊急経済対策」による景気刺激策がとられたことで,急激な回復をみせ,景気拡大が続いた。平成景気の特徴として第1に,いざなぎ景気に次ぐ期間の長さがあげられる。第2に,7年をこえる景気拡大が続き,1次産品価格も安定した世界経済の好況を背景にしていたこと。第3に,内需の力強い拡大と外需の減少がある。内需の内訳をみると,初めは公共投資と住宅投資であり,景気拡大が軌道に乗ってからは個人消費と民間設備投資の拡大がみられた。個人消費では高級車ブーム,海外旅行ブームなどにみられるブランド品指向の高まり,また企業においては生産能力の拡大や省力化のための投資に加え,情報化関連投資,研究開発投資などの独立投資が大幅に増加したことが大きな特徴といえる。第4に,雇用情勢の改善と労働力需給の引締りがある。失業率の低下幅は石油危機以降最大であり,人手不足感が広がりをみせ,省力化投資の促進要因になった。第5に,物価と賃金が落ち着いていたことがある。物価の安定には,輸入の安全弁効果が働いており,景気が加熱するのを防いでいた。第6に,経常収支の黒字幅が縮小していることがあった。しかし,90年2月の株式相場急落以降この景気にもかげりがみえ,91年日銀による金融引締策によって突然バブルがはじけるように不況状況に陥った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 コトバンク『平成景気』
1987年、パリのルーブル宮殿で開かれた7カ国の蔵相(G7)による、為替レートの水準に関する合意。当時進行していたドル安に歯止めをかけ、日米間の通貨レートの不均衡を是正するのが狙い。この合意以降、日米間が協調介入を行った。ルーブル合意に先立つプラザ合意では過度のドル高を是正するため、日本、アメリカ、西ドイツ(当時)による協調介入を発表。これが成功を収め、プラザ合意以前に1ドル240円だった円相場は1987年2月には1ドル140円に到達した。しかし、これ以上のドル安は好ましくないとの判断から、ルーブル合意に至った。
出典 ASCII.jpデジタル用語辞典 (コトバンク『ルーブル合意』)
1980年代,情報サービス会社リクルート(→リクルートホールディングス)が政界,官界,財界の要人に,子会社のリクルートコスモスの未公開株を譲渡,贈賄罪に問われた事件。1985年から 1986年にかけて,自由民主党の有力者や野党国会議員のほか,労働省や文部省の高官,財界の大物などに対し,本人あるいは秘書名義などでリクルートコスモスの未公開株を譲渡し,店頭公開後に大きな売却益を上げさせた。1988年夏,神奈川県川崎市の助役がリクルートコスモス株の譲渡を受けていたと報道されたことを発端に,事件が中央政界に波及した。その過程でリクルートが政治家に多額の献金を行なっていたことや,政治家主催パーティ券を大量に購入していたことが判明,国民の政治不信が一気に高まった。その責任をとり 1989年6月に竹下登首相が辞職した。リクルート会長の江副浩正をはじめ贈賄側 4人,収賄側 8人の計 12人が起訴され,全員に有罪判決がくだされた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
以上、昭和史の項目の選択については、『昭和の年表』(昭和館)を参考にした。