2025.09. 26 全国通訳案内士1次筆記試験合格発表(予定)
(出処:国土交通局関東地方整備局)
関東地方
『小江戸サミット』川越市ホームページ https://www.city.kawagoe.saitama.jp/kanko/k-other/1011670.html
川越市、栃木県栃木市、千葉県香取市(旧佐原市)は、江戸との舟運で栄え、江戸情緒を残す蔵造りの町並みと江戸天下祭の影響を受けた山車祭りがあることから「小江戸」と呼ばれています。
小江戸サミットは、3市の市長および市民が一堂に会し、「小江戸」をキーワードとするまちづくりについて考え、話し合う催しとして、平成8年に栃木市を会場として始まり、令和元年まで24回にわたり開催されました。
現在は、民間の関係者間で連携を継続しながら、「小江戸」の普及啓発に努めています。
千葉県香取市
紹介
千葉県の北東部、利根川下流に位置し、市内を小野川が流れています。江戸時代には利根川水運を利用した江戸との交流が隆盛を極め、醸造業をはじめとする商業が繁栄。「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と当時の賑わいぶりが唄われました。その町並みは重要伝統的建造物群地区に選定され、また、初めて実測日本地図をつくった伊能忠敬のふるさととしても知られています。
観光スポット・名所等
歴史的町並み/伊能忠敬記念館/三菱館/水郷佐原山車会館/香取神宮/観福寺/水郷佐原水生植物園/加藤洲十二橋ほか
お祭りの紹介
佐原の大祭
開催時期
八坂神社祇園祭(毎年7月9日から17日までの連続した金曜・土曜・日曜日)
諏訪神社秋祭り(毎年10月第2土曜日を中日とする金曜・土曜・日曜日)
見どころ
国の重要無形民俗文化財に指定されている佐原の大祭は、名工の技光る繊細かつ豪快な彫刻が施された山車に、身の丈5メートルにも及ぶ大人形を上部に飾り付け、情緒的な佐原囃子の音とともに小江戸と呼ばれる町並みの中を曳き廻されます。
ホームページ(リンク)
香取市公式観光サイト「かとり観光Navi」
栃木県栃木市
紹介
栃木県の中南部にあり、西北は山々に囲まれ、市内を巴波川が流れています。古くから下野国の重要な位置を占め、国府が置かれました。江戸時代に東照宮の造営を契機として、巴波川の舟運が栄え、江戸との交流が盛んになり、物資の集散地および日光例幣使街道の宿場町として発展しました。市内には、この頃の土蔵や見世蔵が数多く残されています。
観光スポット・名所等
とちぎ山車会館/塚田歴史伝説館/横山郷土館/岡田記念館/あだち好古館/とちぎ蔵の街美術館/岩下記念館/山本有三ふるさと記念館/太平山/出流山満願寺/星野遺跡他
お祭りの紹介
とちぎ秋まつり
開催時期
隔年11月中旬
見どころ
贅を尽くした江戸型の人形山車が、蔵の街を巡行します。
ホームページ(リンク)
小江戸サミットの歴史
平成8年度 第1回 栃木大会 栃木市文化会館
平成9年度 第2回 川越大会 川越市やまぶき会館
平成10年度 第3回 佐原大会 佐原市与倉屋大土蔵
平成11年度 第4回 小江戸サミットin大江戸 江戸東京博物館
平成12年度 第5回 小江戸3市山車まつり 各市の山車まつり見学
平成13年度 第6回 栃木大会 栃木市文化会館
平成14年度 第7回 川越大会 川越市やまぶき会館
平成15年度 第8回 小江戸サミットin大江戸 日枝神社(千代田区)
平成16年度 第9回 栃木大会 栃木市文化会館
平成17年度 第10回 川越大会 養寿院、亀屋山崎茶店
平成18年度 第11回 佐原大会 香取市佐原文化会館・小野川観光舟運
平成19年度 第12回 栃木大会 太平山あじさい坂見学ほか
平成20年度 第13回 川越大会 氷川会館ほか
平成21年度 第14回 佐原大会 佐原市与倉屋大土蔵
平成22年度 第15回 栃木大会 出流山満願寺、栃木市文化会館
平成23年度 第16回 小江戸サミットin日本橋 日本橋
平成24年度 第17回 川越大会 尚美学園大学、こども観光ガイド
平成25年度 第18回 佐原大会 香取神宮
平成26年度 第19回 栃木大会 栃木グランドホテル
平成27年度
第20回 川越大会 ウェスタ川越、記念講演、幇間芸等
平成28年度 第21回 佐原大会 与倉屋大土蔵 記念講演、佐原囃子と手踊り
平成29年度 第22回 栃木大会 栃木グランドホテル 江戸料理、歌麿道中、浪曲
平成30年度 第23回 川越大会
川越プリンスホテル きものの似合うまち、小江戸
令和元年度 第24回 佐原大会
与倉屋大土蔵 記念講演、芸妓・舞妓による踊りの披露
2021年日本地理に、隣接の白根山を問う問題、草津温泉、伊香保温泉、四万温泉の位置を問う問題が出題。
群馬県吾妻郡草津町にある温泉地。標高約1200メートルの山間部に位置する。泉質は酸性泉、硫黄泉など。自然湧出量は日本一とされる。古くから「万病に吉」と言われる湯治場で、独特の入浴法「時間湯」や「湯もみ」が行なわれることでも知られる。地域団体商標。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
草津温泉については、日本の温泉の項にもまとめました。
2021年地理問題に草津温泉がその麓にあるとして山の名前を問う出題があった。
群馬県と長野県の境にある成層火山。活火山で,常時観測火山。標高 2160m。栃木県と群馬県の境の日光白根(→白根山),赤石山脈(南アルプス)の甲斐白根(→白根三山)と区別して,草津白根とも呼ばれる。那須火山帯に属し,三国山脈の南西部にそびえる。南方の本白根山(2171m)と双子火山を形成,ほかに米無山(1863m),横手山(2307m)を含めていう場合もある。基盤は新第三紀の火山岩類で,山体は輝石安山岩および集塊岩で構成されている。文化2(1805)年に水蒸気爆発を起こし,以降小規模から中規模の噴火を繰り返している。涸釜,湯釜,水釜の三つの爆裂火口湖をもち,湯釜の湖底には硫黄が堆積している。上信越高原国立公園に属し,群馬県側の山腹に草津温泉,万座温泉がある。志賀草津道路が通る。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
他の選択肢の赤城山、浅間山、榛名山は、それぞれ、
[赤城山] (あかぎさん、あかぎやま)
群馬県中部にそびえる円錐形二重式火山(→成層火山,複式火山)。あかぎやまともいう。榛名山,妙義山とともに上毛三山と呼ばれる。最高峰は北東隅の黒檜山(くろびさん)で標高 1828m。複輝石安山岩の集塊岩からなる活火山で,中央火口丘の地蔵岳には角閃石を含む輝石安山岩が見られる。山頂にはカルデラがあり,さらにその中に地蔵岳の中央火口丘がある。外輪山と中央火口丘の間にカルデラ湖大沼(おの),火口湖小沼(この)がある。裾野の斜面は北西から南側にかけてはゆるやかで広く,北東側は浸食が進み,壮年期の地形を示している。400m以下の緩斜面は,野菜畑や桑畑となり,放射状の谷筋に水田が開ける。北麓と西麓の 500~800mの緩斜面に第2次世界大戦後の開拓地があり,高冷地野菜(キャベツ,ハクサイなど)と酪農を中心とする営農が一部で行なわれる。外輪山の内側は赤城県立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[浅間山]
長野・群馬県境、軽井沢町の北西にある活火山。古い火口の中に新しい火口が二度にわたりできた「三重式火山」としても有名。標高2568メートルで、周辺に前掛山・黒斑(くろふ)山・牙(ぎっぱ)山・剣ヶ峰・小浅間山などを擁する。山頂火口は常時噴気しており気象庁の常時観測火山となっている。1108年の「天仁の噴火」、1783年の「天明の噴火」など大規模な噴火を幾度も起こしてきた。20世紀後半以降は噴火活動が沈静化したが、2004年9月に大噴火を起こしている。15年6月16日、ごく小規模な噴火が起きたもようであることを気象庁が伝えた。
(2015-6-18)
出典 朝日新聞出版知恵蔵mini
[榛名山]
群馬県北部にある活火山群の名称。同じく群馬県の赤城山・妙義山と並ぶ上毛三山の1つで、南西麓の榛名神社など著名な寺社が多くあり、古くから山岳信仰を受けてきた。いくつもの山岳からなる複雑な形状で、最高峰は掃部ヶ岳(標高1449メートル)。山頂部のカルデラ湖である榛名湖と榛名富士(標高1390.3メートル)が名勝として有名で、周辺には伊香保温泉を始めとした幾多の温泉地がある。
(2012-12-13)
出典 朝日新聞出版知恵蔵mini
塩之湯飲泉所は、2021年の日本地理の設問中にあり、四万温泉は選択肢に有る。
日本の群馬県吾妻郡中之条町四万(近世における上野国吾妻郡四万村、幕藩体制下の上州御料四万村)に所在する温泉である。三国山脈に発して南進する四万川の(吾妻川の支流)上流域に位置する。
名前は「四万(よんまん)の病を癒す霊泉」に由来するとの説があり、鎌倉時代から知られている。古代に開湯されたと伝えられている(※後述)。
湯宿は永禄6年(1565年、戦国時代末期)に初めて設けられた。宮城県の峩々温泉、大分県の湯平温泉と共に、胃腸病に効く「日本三大胃腸病の名湯」と呼ばれてきた。上毛かるたでも「世のちり洗う四万温泉」と詠われている。また、四万温泉は古くから「草津の仕上げ湯」と呼ばれてきた。これは、強酸性の草津の湯(草津温泉)で湯治をした後、保湿・美肌効果のある塩化物・硫酸塩泉である四万温泉に滞在するのが定番になっていたことに由来する。1954年(昭和29年)には酸ヶ湯(青森県)・日光湯元温泉(栃木県)と共に国民保養温泉地の第1号に指定されている。
泉質は、硫酸塩泉。
[塩之湯飲泉所]
味は塩辛い。積善館の明治の湯を引いている。四万温泉の湯は、古来より胃腸に良いとされる。年中無休。8:00~18:00。味は塩辛い。
他の選択肢は老神(おいがみ)温泉(群馬県沼田市)(赤城の神が二荒の神と戦場ヶ原で戦って傷つきこの温泉で傷をいやした伝説)、鬼怒川温泉(栃木県日光市)(栃木県の項参照)、袋田温泉(茨城県)(水戸藩主も訪れた名湯だったが昭和初期にボーリングによる湧出で発展。袋田の滝観光の拠点)。
2021年日本地理出題文中に伊香保温泉は石段街がシンボルとなっており、周辺部に水沢うどんがあり、武田軍の療養場所として整備されたことが記載され、また、伊香保温泉、四万温泉、草津温泉の位置関係を問う設問があった。
群馬県中部,渋川市の榛名山東麓にわく温泉。急な石段を挟んで雛壇状に旅館や飲食店が並び,にぎやかな温泉街を形成している。泉質は硫酸塩泉。湯は酸化鉄によって茶褐色を呈する。泉温は 42~64℃。鉄分を多量に含む湯で,古くから女の湯として名高く,婦人病や不妊症に特効があるといわれる。源泉近くには露天風呂,石段の下には共同浴場「石段の湯」がある。竹久夢二や徳冨蘆花の記念館があり,レジャーランドなど観光施設も多い。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
伊香保温泉は群馬県を代表する温泉地で東京から車で約2時間で観光客も年間100万人を超える人気スポットとなっている。しかし一歩道を逸れるとディープな一面も持っている。垂仁天皇の頃(紀元前)に発見された説と、草津温泉と同様に行基によって700年代に発見された説があり、万葉集にはすでに伊香保の名が載っている。温泉饅頭は伊香保温泉の湯の花饅頭がルーツ。温泉饅頭の茶色は黄金(こがね)の湯の色をあらわしている。
歓楽街の歴史
温泉偽装問題(水道水混入、入浴剤着色)
人身取引事件の裁判.. and so on
メイン通りは賑やかだが裏はさびしい。16世紀(室町時代)からの老舗(黄金の湯の源泉は小間口制度として権力者が権利を握っていた。新規のホテル旅館は権利にお金を治めて温泉を分けてもらっていたので割高)などは生き残っている。
廃業旅館:村松旅館、伊香保ホテル松屋、邦来館、ホテルさかえ、伊香保観光ホテルなど多数。
油屋旅館ホテル紅葉(焼失)はリニューアル予定。
タイ人女性、カンボジア女性の人身売買が裁判中のため、伊香保温泉では現在ダークな店は無くなっているという。
参考:『【バブル遺産】廃墟が点在する伊香保温泉に隠れた光と闇を探索してきた』富山の遊び場!TV Ch. https://youtu.be/MDW08TmLX4Q?si=E7sbOsc1NQArbApn
2021年日本地理問題に伊香保温泉の周囲の日本三大うどんの1つの観光ブランドとして名前を問う問題が出題された。
関東地方、群馬県の地域ブランド。
主に渋川市で製造されている。板東16番札所・水沢寺参拝者に振舞ったのが、水沢うどんの起源ともいわれている。現在も十数軒のうどん店が軒を並べ、創業1582(天正10)年の田丸屋、400年の歴史を誇る清水屋などその歴史は古い。水沢うどんは、伝統の手法により小麦粉、塩と水沢の水だけでつくられたものを指し、登録商標となっている。
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域ブランド・名産品」
[日本三大うどん]
三大と特に決まったものはなく、稲庭うどん(秋田県)、讃岐うどん(香川県)は大体確定で、あとは五島うどん(長崎県)、水沢うどん(群馬県)、きしめん(愛知県)、氷見のうどん(富山県)などご当地ごとにそれぞれ異なるようです。
参考:五島・稲庭・讃岐三大うどん比較と「五島饂飩の歴史」など
水沢うどん街 田丸屋、山本屋、清水屋、三竹屋、大澤屋、谷屋、丹次亭など
13軒の店舗が加盟している。
参考:『【バブル遺産】廃墟が点在する伊香保温泉に隠れた光と闇を探索してきた』富山の遊び場!TV Ch. https://youtu.be/MDW08TmLX4Q?si=E7sbOsc1NQArbApn
峠の釜めしとは、昭和33年2月1日、信越線横川駅で発売開始し、これまでに約1億7000万個発売している駅弁を代表する商品です。発売開始から60余年経ちますが、歴史の中で昭和天皇陛下、上皇陛下はじめ皇室の方々に長年ご愛顧頂き、発売開始以来徹底した衛生環境のもと、こだわり続けている食材と変わらぬ品質で作り続けております。
参考:『峠の釜めし 荻野屋』HP
群馬県安中市にある「荻野屋」が製造・販売する駅弁である。
益子焼の土釜に入れられているという点が特徴の駅弁で[1]、「日本随一の人気駅弁」と評されたこともある。2023年6月時点での累計販売数は1億8000万個を超える。
直径140mm、高さ85mm、重量725gの益子焼の釜に入った薄い醤油味の出汁による炊き込みご飯である。
栃木県芳賀郡益子町の窯元つかもとで製造されており、釜の上半分の上薬が塗ってある茶色の部分に「横川駅」「おぎのや」という文字が刻まれている。釜の上には厚さ5mmほどの素焼きの蓋が付いており、さらにその上に包装紙が被せられ、紐で割り箸とともにくくりつけてある。
この釜を持ち帰れば家庭でも実際に1合の御飯を炊くことができ、おぎのやの公式サイトでも炊き方が紹介されている[3]。
食べ終わった容器(釜)は、不要な場合はおぎのやの各店舗に持ち込めば回収してくれる。一部店舗では、空容器の回収ボックスもある。
店舗内で供された物のうち一部の容器は洗浄後に再利用されるほか、リサイクルも進められている。
2013年頃より益子焼の釜の代わりにエコ容器(パルプモールド容器)を利用した商品も一部店舗で販売されている。
1885年に荻野屋が創業され、信越本線の高崎駅 - 横川駅の部分開業時[注釈 2]に創業した。初期の駅弁はおにぎり二個に沢庵漬けを添えたもので、1包み5銭であった。
当時の駅で販売されていた緑茶の土瓶は、陶器製であったが、陶器は保温性にも優れていた上に匂いも移らない[1]ため、「暖かい」「楽しい」という要望を満たしていた。さらに「中仙道を越える防人が土器で飯を炊いた」という内容の和歌にヒントを得て、益子焼の職人に相談し、一人前用の釜を作成させた。
こうして、当時の「駅弁は折り詰め」という常識を破り、1958年2月1日から販売が開始されたのが「峠の釜めし」である。
当時としては画期的だった温かい駅弁であったことや、『文藝春秋』のコラムに取り上げられたことから徐々に人気商品となり、その後の隆盛へとつながるきっかけとなった。1967年には、フジテレビジョン系テレビドラマ『釜めし夫婦』(池内淳子主演)のモデルにもなった。
北陸新幹線の東京 - 長野間先行開業に伴い、1997年9月30日に信越本線の横川 - 軽井沢間が廃止された。これにより、横川駅での販売量は往時に比べて低い割合に転位したが、代わって新幹線車内での販売を開始するなどテコ入れが図られた。
2020年10月9日より「無限列車大作戦」と銘打ち、劇場版 鬼滅の刃 無限列車編とJR東日本高崎支社が「SLぐんま よこかわ」(及び「ELぐんま よこかわ」)のコラボ運行を展開し、2020年10月9日~2020年10月31日の期間限定で主要キャラ5人をイメージしたオリジナル釜めしが発売された。また、今回のイベント用にキャラクターがデザインされたオリジナル掛け紙と、メンバーのイメージカラーで作られたオリジナル釜が用意された。
参考:『峠の釜めし』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%A0%E3%81%AE%E9%87%9C%E3%82%81%E3%81%97
参考:『妙義山』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E7%BE%A9%E5%B1%B1
参考:『神流川』国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0308_kanna/0308_kanna_00.html
河川概要
水系名: 利根川水系
河川名: 神流川
幹川流路延長: 87.4㎞
流域面積: 407k㎡
流域内人口: 約29,000人
流域関係都県: 群馬県、埼玉県
神流川は、三国山の西側より多野山地へ曲がりくねりながら流れ、下久保ダムを通り、群馬県と埼玉県の県境を流れ、新町地先で烏川に注いでいます。流域面積は407km2、流路延長は87.4kmです。
参考:『水上温泉』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E6%B8%A9%E6%B3%89
水上温泉(みなかみおんせん)は、群馬県利根郡みなかみ町にある温泉。谷川岳南麓一帯を水上温泉郷と呼び、その根幹を成す中心温泉地である。第二次世界大戦後になって交通アクセスの良さを理由に大幅に規模を拡大し、草津温泉や伊香保温泉と並ぶ県下有数の温泉地として発展した。「上毛かるた」では、「み」の札に「水上谷川 スキーと登山」として採録されている。
泉質:カルシウム - 硫酸塩泉
温泉街
JR東日本上越線の水上駅近く、利根川上流の渓流沿いの崖に所狭しと大小の宿泊施設が櫛比する。その合間を縫って諏訪峡や水上峡があり、紅葉シーズンには多くの観光客で賑わう。温泉街をゆっくりと走るトテ馬車は水上温泉を代表する風物詩となっている。利根川には幾つもの橋が架かっており、湯原橋、水上橋はライトアップで知られる。スマートボールなどの遊技場を有する昔ながらの温泉街は、今日では物珍しさによって注目を浴びている部分がある。
宿泊客を対象とした温泉地であるために、日帰りの温泉施設は規模に反して少ないが、今日では多くの旅館が日帰り客に対応するようになっている。また、町営の温泉施設「湯テルメ・谷川」や足湯が楽しめる「ふれあい交流館」などがあり、多様化するニーズに対応する姿勢を見せている。
参考:『みなかみパーフェクトガイド』みなかみ町観光協会公式サイト https://www.enjoy-minakami.jp/
参考:『みなかみ町観光協会』youtube ch. https://www.youtube.com/user/enjoyminakami
参考:『みな雪キャンペーンPR動画「アナタの雪の王国」』みなかみ町観光協会ch. https://youtu.be/OyPm5_O3Yp0?si=uM69YvbuSlVhsnR7
参考:『【バブル遺産】群馬四大温泉地の水上温泉に行ったら駅前から廃墟があった』富山の遊び場!TV(youtube) https://youtu.be/YBi5bxToPwo?si=v0WDfCTVuN8DETBI
ホテル大宮:田中角栄元首相の側近で谷古宇産業グループ総帥の谷古宇甚三郎氏が1964年に開業したホテルだったが、1974年の田中角栄元首相の失脚と共に谷古宇氏のスキャンダルが明るみに出てしまい、またずさんな経営により、1991年に廃業。現在は水上駅直近の廃墟として廃墟見物に訪れる人でにぎわっている。2020年に猿の棲家になっているというニュースが報道された(『温泉街の“廃墟ホテル”を猿が占拠 まるで自宅のように我が物顔で…「30匹ぐらい出た」住民から不安の声 群馬・みなかみ町』FNNプライムオンライン)。
駅から利根川遊歩道をしばらく歩き、利根川にかかる吊り橋)を渡ると温泉街だが、この橋は現在老朽化のため、朽ちている。湯原橋を渡ると温泉街にたどり着く。湯原橋と水上橋はライトアップも行われている。
四季の湯宿 桃山流(ももやまながれ):元は蒼海ホテルという廃墟ホテルがあった所をみなかみ町で旅館の再建や運営を行っているシーガルリゾートリノベーションが、2階建ての和風の宿に生まれ変わらせた。
温泉街は、もともとスナック、ホテル、旅館、遊興施設が立ち並んでいたいわゆる昭和の歓楽温泉街であったが、現在は群馬銀行の資本も入り、温泉街のあちこちで解体又はリノベーションが行われている。
ホテル一葉亭:水上温泉最大の巨大ホテルであったが、2019年に廃業。みなかみ再生プロジェクトの一環で今年12月までには解体、その後ひろばとして再生されるらしい。社員寮も再生プロジェクトで活用されている。
ホテルロモサ みなかみリバーサイドリゾート&スパ:元は旅館藤屋があったが2009年に倒産。その後外資が入ったのか、現在の姿になってリオープン。中の施設は大変バブリー(ただし口コミなどでは張りぼてのバブリーで従業員はすべて外国人、日本語はほとんど通じないとのこと。中華料理と蟹または海鮮が食べ放題)。
松竹遊技場:昔懐かしスマートボール・射的が楽しめる遊技場だったが、廃業。
リゾートマンション群。1k280万円。プールサウナ付き。
座山 みなかみ:もともと水上館(旅館)(創業1927年。昭和天皇も宿泊)であったが、2023年にリニューアルオープンして、座山みなかみとなった。
水上温泉は、関東の奥座敷と呼ばれた。
水上温泉は、菊富士温泉火災、温泉偽装問題、廃墟問題と上越新幹線と関越自動車道の全線開通によって旅行客がちらばり、立ち寄り客を失ってしまったことがさびれてしまったが、再生のためにいろいろ取り組んでいる。
ひがき寮(ひがきホテルの職員寮):2015年『まち・ひと・しごと創生総合戦略』の中で廃墟施設が温泉街全体のイメージ悪化を招いているという事で、みなかみ町・群馬銀行・株式会社オープンハウスグループ・東京大学大学院工学系研究科などが参与し、様々な調査・研究・提案やイベントの企画に取り組んでいるが、その一例が元ひがき寮でさまざまなイベントが行われている。
みなかみの森トリックアート美術館:2007年から休業。閉業か?
おいでちゃん通り。
山の奥側には奥利根館と言う大きなホテルがあり、巨大な廃墟となっている。また、湯檜曽温泉の岸屋旅館は、廃墟で有名だったが、リニューアル中の様子。
以上。本当によく調べて回っているチャンネルだと思った。
参考『2024.9.22-23 廃墟再生マルシェ2024開催決定@水上温泉』みなかみ再生プロジェクト https://www.minakami-haikyo-saisei.com/
2024.9.22~9.23
3回目となる「廃墟再生マルシェ2024」は9月22日(日)〜23日(祝)に『忠霊塔公園』を中心とした4会場で開催します。
利根川源流のまち、水上温泉街で2022年にスタートした、見捨てられかけていた建物の魅力を掘り起こしながら開催されるマルシェ。
1回目は温泉街の最奥に残っていた『旧ひがき寮』を会場に約1,300人が来場。昨年の2回目は温泉街の真ん中で利根川に面する『旧エネルギーセンター』を会場に、2日間で約3,000人の方が訪れてくださる人気企画となりました。
第3回目となる今年は、すでに再生した廃墟からこれから再生予定の廃墟まで、4会場に拡大してマルシェが展開します。温泉街の活性化に関わる東京大学の学生たちを中心に、地元住民の方々や老舗旅館の方々も一体になって内装の解体・瓦礫の撤去・空間づくりに取り組んでいます。
参考:『SLぐんま』乗って楽しい列車ポータル(JR東日本) https://www.jreast.co.jp/railway/joyful/slgunma.html
参考:『SLぐんま みなかみ』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/SL%E3%81%90%E3%82%93%E3%81%BE_%E3%81%BF%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%BF
SLぐんま みなかみは、東日本旅客鉄道(JR東日本)が上越線の高崎駅 - 水上駅間で運行している、蒸気機関車(SL)牽引による臨時快速列車。2018年(平成30年)10月6日に「SLみなかみ」から改称された。
2018年10月からは、群馬県で運転しているSLを多くの利用者に周知させるため「SLぐんま みなかみ」に改称された。
主に夏休み期間や紅葉シーズンの土休日、ゴールデンウィークなどの連休などに1日1往復運行される。
停車駅
高崎駅 - 新前橋駅 - 渋川駅 - 沼田駅 - 後閑駅 - 水上駅
栃木県日光市(にっこうし)の北部、鬼怒川上流の河谷沿いにある温泉。元禄(げんろく)年間(1688~1704)に発見されたといわれ、日光神領であったため一般の入湯が禁じられたこともあった。大正時代までは「滝ノ湯」または「下滝温泉」とよばれ、湯治場として利用された。昭和になって鬼怒川温泉と改名、東武鉄道鬼怒川線の東京、浅草直結とともに、東京の週末行楽地として急速に発展した。高層(7、8階)の旅館も多く、これらが鬼怒川の峡谷を挟んで両岸の岩壁にびっしりと建ち並んでいる。浅草から東武特急で約2時間。乗用車でも東北自動車道と日光宇都宮道路経由が便利で、日光観光と鬼怒川宿泊が観光ルートの一つとなっている。泉質は単純温泉。ロープウェーが通じる丸山山頂には、展望台、おさるの山、温泉神社がある。付近には龍王峡(りゅうおうきょう)、鶏頂(けいちょう)山や、テーマパークの東武ワールドスクウェア、ウェスタン村、日光江戸村などの観光地もあり、鬼怒川ライン下りも楽しめる。[村上雅康]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
参考:『【バブル遺産】解体費10億円の鬼怒川温泉にある巨大廃墟群がスゴすぎた』富山の遊び場!TV(youtube) https://youtu.be/J_7LHBs5GF8?si=nI0VfXKL9ZK9vShd
鬼怒川公園駅はタクシーも常駐していない。廃墟エリアと呼ばれる。鬼怒川にかかる瀧見橋(吊り橋)からは廃墟群がずらりと並ぶ姿がよく見える。廃墟マニアの聖地。廃墟を自然が淘汰していく姿がマニア受け。鬼怒の八湯。くろがね橋脇の鬼怒子の湯(足湯)に鬼怒川温泉のあゆみが掲示されている。
鬼怒川温泉駅はまだまだ盛んなエリア。駅も美しく人が多い。鬼怒川温泉は東京の奥座敷。100数十万人以上の観光客が訪れる。あさやホテルは鬼怒川温泉最大のホテルで千と千尋の油屋のモデルともいわれる。日光奉行の支配下だったので温泉饅頭に葵のご紋。
街の鳥うぐいす。鬼怒太。ステンドグラスの橋。足利銀行の過剰融資による倒産が廃墟の元を作ったか。
日光は京都と並んで湯葉の発祥地。蒸気機関車のパフォーマンス。
参考:『きぬ川館本店』廃景 https://haikei-haikyo.com/kinugawakan-honten/ などたくさんのサイトで廃墟としての鬼怒川温泉が取り上げられている。
参考:『鬼怒川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E6%80%92%E5%B7%9D
鬼怒川(きぬがわ)は、関東平野東部を北から南へと流れ利根川に合流する一級河川である。全長176.7kmで、利根川の支流の中で最も長い。
江戸時代以前、鬼怒川は常陸川などと共に香取海(太平洋に銚子でつながる内海)へ注ぐ鬼怒川水系の本流であったが、利根川が東遷されそれまでの常陸川の河道および太平洋までを流れることになったに伴い、鬼怒川も利根川に注ぐ支流河川とされた。
名称は、当初は毛野国(栃木県・群馬県域の古地名)を流れる川として「毛野川(毛野河)」と記されたが、中世から近世には「衣川(衣河)」や「絹川(絹河)」の字があてられ、明治初期から「鬼怒川」の文字があてられるようになった。
日光国立公園内にある栃木県日光市の鬼怒沼(奥鬼怒)に源を発し、湯西川・男鹿川・大谷川を合わせ、塩谷町南端・さくら市・宇都宮市の境界部・高根沢町・宇都宮市の境界部・宇都宮市東部・上三川町東部・上三川町・真岡市の境界部・真岡市西部・下野市東南端・真岡市・小山市の境界部を流れ田川と合流し、茨城県との県境を成して茨城県筑西市に入り、筑西市と結城市の境界部・結城郡・八千代町・下妻市の境界部・下妻市南西部・常総市・常総市とつくばみらい市の境界部・守谷市を流れ、茨城県と千葉県の境界部に達し、茨城県守谷市と千葉県柏市・同野田市の境界部で利根川と合流する。
鬼怒川の上流部は火山地帯で、深い山間の渓谷を流れる。深さもあって川の色は深緑色を呈し、川辺には白い大きな岩も目立つ。また流域には奥鬼怒温泉郷・女夫渕温泉・川俣温泉・湯西川温泉・川治温泉・鬼怒川温泉・日光湯元温泉といった温泉地が点在する。
鬼怒川中流部は中小の白い石が目立つ広い河原、かつての氾濫原の中をゆったりと流れ、土手沿いには雑木林や杉林、松林などがあって治水されており草深い。深さはあまり無く川の色は水色ないし濃紺色を呈する。夏季には鮎漁で賑わい、川面には個人の釣り人が友釣りする姿や、観光やなで遊ぶ観光客の姿が夏の風物詩となっている。流域には多くの親水公園や運動公園が整備され、四季折々のスポーツが楽しめる。また、塩谷町から宇都宮市にかけては多雨期に増水する鬼怒川の豊富な水量を別つため、放水路と用水路の役割を有する西鬼怒川に分流される。西鬼怒川は佐貫頭首工および逆木サイフォンで取水され根川用水・西鬼怒発電所を経て西鬼怒川となり、御用川を分流し、白沢河原を経て宇都宮市岡本と高根沢町宝積寺の境界部で鬼怒川本流に合流する。また宇河地区(宇都宮、河内郡地区)に広く上水を供給する松田新田浄水場も鬼怒川高間木取水堰から取水している。
産業
鬼怒川の支流のひとつ大谷川の上流にある日光市清滝地区では、足尾銅山の銅鉱石と周辺の豊富な水力発電の電力を利用した古河電工日光電気精銅所が1906年(明治39年)に開設され、旺盛な送電など電線需要に対応した。続いて1913年(大正2年)1月には当時日本最大級の最大3万1,200キロワットの電力を発生する鬼怒川水力電気下滝発電所(現・東京電力鬼怒川発電所)が現在の鬼怒川温泉の辺りで運転を開始し、東京市電気局に電力を供給した。この時建設に利用された軌道が後の下野軌道となり、現在の東武鬼怒川線に受け継がれている。
参考:『鬼怒川ライン下り』日光市公式観光WEB https://www.nikko-kankou.org/spot/47
基本情報
住所: 321-2522 栃木県日光市鬼怒川温泉大原1414
電話番号 :0288-77-0531
ウェブサイト: http://www.linekudari.com
アクセス:
電車:鬼怒川温泉駅から徒歩約4分
車:日光宇都宮道路今市ICより約25分
営業時間: 4月中旬~11月下旬(期間中は無休)9:00~15:45(1日12便)
休業日: 11月下旬~4月中旬(予定)※新型コロナウイルス感染症感染対策のため、休業日が多くなっております。お出かけ前に必ずご確認頂きますよう、お願い申し上げます。
料金: 大人(中学生以上)3,200円子供(4才から小学生まで)2,200円幼児(1才から3才まで)700円
駐車場(普通車) 約150台(500円)
参考:『鬼怒高原開発』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E6%80%92%E9%AB%98%E5%8E%9F%E9%96%8B%E7%99%BA
公式サイト:EDO WONDERLAND https://edowonderland.net/about/
江戸ワンダーランドは、日光の美しい山々を借景に広大な江戸の町並みを再現したカルチャーパーク。
町で見かける忍者、侍、町人たちと同様に、江戸人の姿に変身し、身も心も江戸人になりきって楽しむか、
江戸時代にやってきた異国のタイムトラベラーとして楽しむかはあなた次第。
いずれの楽しみ方でも、江戸の町を1日散策すれば、さまざまな物語に遭遇する、特別な旅体験になります。
参考:『江戸ワンダーランド 日光江戸村』日光市公式観光WEB https://www.nikko-kankou.org/spot/45
住所: 321-2524 栃木県日光市柄倉470-2
電話番号: 0288-77-1777
ウェブサイト: http://www.edowonderland.net
アクセス :東武鬼怒川線「鬼怒川温泉駅」から江戸村線バス乗車20分、終点「日光江戸村」下車すぐ
営業時間: ※時短営業あり※お出かけ前にご確認ください。9:00~17:00(3月20日~11月30日)9:30~16:00(12月1日~3月19日)※最終入村は閉村時間の1時間前まで
休業日: ※臨時休業あり※お出かけ前にご確認ください。毎週水曜日(但し、春休み・夏休み・祝日・年末年始は除く)
料金: ◆通行手形(1日)◆ 大人5,800円、小人3,000円◆通行手形(午後割引)◆14時以降入村(冬季は13時以降) 大人5,000円、小人2,600円
駐車場:(普通車) 1台800円
参考:『日光江戸村』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%9D%91
日光江戸村(にっこうえどむら)は、栃木県日光市にある江戸時代や戦国時代が主題のテーマパーク。
1986年4月23日に大新東子会社の新東地域開発株式会社(現株式会社時代村)により栃木県塩谷郡藤原町(現在の同県日光市鬼怒川)にて開園[1]。総敷地面積は49万5000m2(約15万坪)。園内は江戸時代の町並みを再現しており、大忍者劇場などのアトラクション施設が置かれる。1990年代に髷を結った猫のキャラクター「ニャンまげ」を起用したテレビCMにより広く世間に知られた。時代劇撮影可能なオープンセットも備えており、テレビ番組や映画作品のロケ地に使用されることがある。
園内は「街道」「商人の町」「職人の町」「宿場町」「劇場街」「侍の町」「忍びの里」「撮影の里」といった8つのエリアに分かれており、各エリアにそれぞれの特徴を生かした体験プログラムやアトラクションが用意されている。ただし、
「撮影の里」は映画やテレビ用のオープンセットスタジオであり、一般人は入場することができない。
2022年、東京都中央区日本橋の「コレド日本橋」にて、江戸料理を中心とした和食レストラン「奈美路や」を開店した。
アクセス
鬼怒川温泉駅より路線バスで約15分・タクシーで約10分。最寄りICは今市IC。
最寄駅は鬼怒川温泉駅より2駅浅草寄りの小佐越駅で、同駅より1.5km程度。特急が停車しないため公式サイトでの案内はない。
[日光湯元温泉]
栃木県日光市西部、湯ノ湖北岸にある温泉。三岳西麓(みつだけせいろく)に沿って南北方向に20源泉が並ぶ。泉質は硫黄泉。白根沢など西方から押し出した土砂により形成された扇状地上に温泉集落がある。『日光山志』には中禅寺温泉と記載され、温泉は日光町方の者が所有し、河原湯など九湯の湯室を4~9月に開き、冬は日光町方面へ下っていた。国民保養温泉地に指定。冬にはスキー場が開かれ、四季を通じて観光客が訪れる。年間数十万人が利用する。[平山光衛]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
以下、参考:奥日光湯元温泉 旅館協同組合『文化と歴史』
伝説→二荒山の神(蛇)と赤城の神(百足)の神が戦って二荒の神が勝った際、流血がたまって「赤沼」ができ、戦った地を「戦場ヶ原」、軍議の場所を「菖蒲ガ浜」、勝利を祝った浜辺を「歌ケ浜」と名付けたという。
温泉の発見→ふたら山(男体山)に登った勝道上人が湯を発見し(延暦7(788))、その温泉は薬師湯(瑠璃湯)と名付けられた。その後も空海が観自在湯を開いた。
中世・近世→男体権現の進行により、修験道が隆盛する。女人禁制、牛馬禁制となる。江戸時代、将軍廟(東照宮・輪王寺など)の造営で日光は活性化したが、距離がある奥日光はそれほどではなかった。
明治以降→中禅寺門前に六軒茶屋を主体に中宮祠の町並みができ、奥日光の来訪者は飛躍的に増えた。
明治11年(1878)6月、明治11年(1878)6月、イギリス人女性旅行家イザベラ・バードは日光滞在中に湯元温泉を訪れ宿泊し活況ぶりや温泉の効能、風俗など詳細を記している。
また、イギリス公使アーネスト・サトウは奥日光をこよなく愛し、足しげく通い奥日光の自然を深く理解し没入した。
明治20年代の奥日光は諸外国の避暑のための社交場であり、彼らの影響力や功績は大きく、ヨーロッパ貴族趣味の世界が奥日光に花開いたともいえる。
明治から大正にかけて外国人別荘に関連することが最も効率の良い高い収入を得る手段であった。
現在とこれから→湯元温泉は温泉のほかに、切込湖・刈込湖へのハイキング、湯ノ湖や湯川での釣り、キャンプ、スキー、スノーシューなどのウインタースポーツ、写真撮影やバードウオッチングなど温泉に加え標高1500mの自然を四季を通じ体感体験できるエリアとして親しまれている。
また、白根山や群馬県境の五色山、金精山、温泉ヶ岳の登山口にあたり、日光から群馬県沼田市、草津町、長野県上田市へ通じる日本ロマンチック街道はドイツ的な景観として近県と連携している。
最近では、『国立公園満喫プロジェクト』という環境省施策の一環として、国内外の観光客に我が国第一級の拠点を整備し、それにより地域が活性化することをめざし、意見交換を重ねています。
また、現在はSDG,Sカーボンニュートラルに向けて地域連携した未来像を構築することになった。
[中禅寺湖]
中宮祠湖,幸ノ湖ともいう。栃木県西部,男体山の南麓にある堰止湖。面積 11.8km2,周囲 22km。湖面標高 1269m,最大水深 163m。日光諸湖のうち最大。湯ノ湖や千手ヶ原 (せんじゅがはら) からの流水を男体山の溶岩がせきとめてできたもの。湖水は大尻川,華厳滝を経て大谷 (だいや) 川となって鬼怒川に注ぐ。湖岸に中禅寺温泉,キャンプ場などがあり,二荒山神社中宮祠,立木観音などの旧跡も多く,外国公館の別荘もある。ニジマス,ヒメマスの養殖が行われる。湖畔は華厳の滝とともに名勝で日光国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[男体山]
二荒 (ふたら) 山」「黒髪山」「国神山」ともいう。栃木県西部,那須火山帯に属する日光火山群の主峰。標高 2484m。輝石安山岩,火山灰,火山砂礫などで形成された円錐状成層火山で,山型は美しく,日光富士とも呼ばれる。日光国立公園の代表的観光地の1つ。山頂には直径 400mほどの火口があり,斜面には放射状の薙 (なぎ) と呼ばれる浸食谷を刻む。南麓に二荒山神社があり,かつては修験の山であったが,いまは毎年8月1日から7日までの登拝祭に登山客が多い。付近には西流した溶岩流が湯川をせきとめて形成した戦場ヶ原,竜頭滝,南流した溶岩流が大谷 (だいや) 川をせきとめて形成した中禅寺湖,華厳滝などがあり風光に富む。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[いろは坂]
栃木県日光市にある観光道路。日光市街と中禅寺湖・奥日光を結ぶ。初期のいろは坂に、いろは48文字と同じ48個のカーブがあったことから命名。のちに第2いろは坂が建設され、現在は上り専用の第2いろは坂、下り専用の第1いろは坂のカーブの合計が48個となっている。「日本の道百選」(建設省)に選定されている。
出典 小学館デジタル大辞泉プラス
[中禅寺温泉]
栃木県西部,中禅寺湖畔にある温泉。泉質は硫黄泉。泉温は 45℃。温泉は日光湯元温泉からの引き湯で,湖の北東岸に温泉集落が形成されている。華厳滝に近く,湖上遊覧,男体山の登山起点ともなっている。日光東照宮参拝客などおもに団体旅行や修学旅行客に利用される。金精峠越えの観光道路が開通し,日光いろは坂の整備もあって,日帰り客が多く,みやげ品店や飲食店が集中している。日光国立公園に属する。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
[日光国立公園]
栃木県北部を中心に,群馬県,福島県の一部にまたがる自然公園。面積 1149.08km2。1934年日光,尾瀬,奥鬼怒を中心とする 569.23km2を指定。1950年隣接の那須,塩原,鬼怒川などの地域を追加指定。2007年尾瀬国立公園誕生に伴い,尾瀬を中心とする 252.03km2が尾瀬国立公園に編入された。この地域は,白根山を最高峰とし,男体山,太郎山,高原山,那須岳など 2000m級の高峰が連なり,その間に戦場ヶ原,那須高原などの高原,中禅寺湖,湯ノ湖などの湖沼群,華厳滝をはじめとする多数の瀑布がある。また,栃木県の庚申山で発見されたことから命名された,国指定特別天然記念物のコウシンソウ自生地がある。日光には東照宮,輪王寺,二荒山神社など人工の粋をきわめた建築があって,自然と人工の美がよく調和している。また公園内には那須温泉郷,塩原温泉郷,鬼怒川温泉,川治温泉,湯西川温泉,奥鬼怒温泉郷,湯元温泉,丸沼温泉などの温泉地があり,古くから観光拠点をなす。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
公式→https://www.ashikaga.co.jp/park.html
あしかがフラワーパークとは?
あしかがフラワーパークとは?
栃木県足利市堀込町(現:朝倉町)に 「早川農園」 として1968年に開園。以来 「250畳の大藤」 として愛されておりましたが、都市開発の為 1997年に現在の足利市迫間町 ( はさまちょう ) に移設し、「あしかがフラワーパーク」 としてオープンしました。元々湿地帯だった場所に移設した為、園内には 250トン を超える量の炭を敷き詰め、土壌の浄化、活力を高め、すべての生命体の活性化を図りました。園内の拡張整備も進み、現在は 100,000㎡ の敷地面積となっています。
園のシンボルである大藤は日本の女性樹木医第一号である塚本こなみ氏によって移植され、大藤(当時樹齢130年)の移植は前例がなく常識を超えた移植プロジェクトに全国から注目を集め、日本で初めての成功例となりました。
大藤 4本 ( 野田九尺藤 3本、八重黒龍藤 1本 ) と 80m におよぶ白藤のトンネルは栃木県天然記念物に指定されており、これらが見頃を迎える 4月中旬から 5月中旬の 1ヵ月間は 「ふじのはな物語~大藤まつり~」 が開催されます。また10月下旬より開催されるイルミネーション 「光の花の庭」 は夜景コンベンションビューローが認定する日本三大イルミネーションに選ばれ、全国の夜景観光士が選ぶイルミネーションランキングにおいて、全国1位を獲得。
四季折々、数多くの花々で彩られており国内のみならず、海外からも多くの来園者が訪れます。
季節は、それぞれの景色、表情を写し変えていきます。花や木はその舞台の主役です。
あしかがフラワーパークは、花や木を通してその季節感あふれる庭を園内につくりこんでいます。
ここには藤の花という柱があります。うすべに藤、むらさき藤、白藤、きばな藤、開花を少しずつずらしながら、その絵巻物語を演じつづけます。
その他非常に詳しいのでのちほど精査。
参考:『あしかがフラワーパーク』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF
目玉であるフジ(ノダナガフジ3本、八重黒龍1本、白フジのトンネル一式)は栃木県天然記念物に指定されており、このうちノダナカフジ2本の棚が連結して1つの棚を構成している大藤の棚(「迫間のフジ」)は、2015年5月時点で各棚で約16万房を付けており、2021年時点で各樹の樹齢160年、連結棚の広さは約2,000平方メートル(約1,200畳)で日本最大面積の藤棚である[16]。これらが見頃となる4月中旬から5月中旬に「世界が息を呑んだ美しさ」をキャッチコピーに「ふじのはな物語」と称する藤まつりが開催される。開花時期に合わせ夜間はライトアップされた藤の花を観賞できる。このライトアップが後のイルミネーション開催への契機にもなった。この時期にはバスツアーが多く組まれたり、富田駅 - 足利市駅に停車する臨時列車が多数設定される。
この大藤の木が映画アバターに登場する「魂の木」に似ていると称賛され、2014年1月、CNNにより「フィンランドのオーロラ」や「マダガスカルのバオバブの道 」などと共に「2014年の世界の夢の旅行先10カ所」に日本で唯一選出された。これを切っ掛けとして外国人観光客が急増した。
参考:『Dream destinations for 2014』CNN https://edition.cnn.com/travel/article/cnn-travel-2014-wish-list/index.html
Space travel to James Cameron’s Pandora in “Avatar” would be ideal, but until that becomes possible, the Ashikaga Flower Park is a close second on the dream destinations list.
Eighty kilometers from Tokyo, the park offers an otherworldly experience – its 143-year-old wisteria looks nearly identical to “Avatar’s” spiritual Tree of Souls, with purple flowers cascading to the ground.
The fairy tale experience continues with vibrant wisteria trellises extending for a thousand square meters.
Others species, such as the rare Golden Chain, dangle in full bloom along dreamy tunnels.
Ashikaga Flower Park, 607 Hasama Town, Ashikaga City, Tochigi Prefecture, Japan; +81 0284 91 4939
参考引用:『足利銘仙の歴史』足利織物伝承館 https://orimono-densyokan.com/entry9.html
足利銘仙は、栃木県の足利で生産される絹を素材とした先染めの平織物です。江戸時代の中期頃からあったと言われています。もともとは太織り(ふとり)と呼ばれており、正常に糸をとることができない廃棄処分となることが多い「玉繭」や「屑繭」から採れる太い糸を緯糸(よこいと)に用いた丈夫な平織物でした。この厚地で丈夫な織物は、自家用の織物だったようです。
江戸時代後半となりますとこの太織り(ふとり)が庶民の間に広まり、武士が普段着や略式の晴れ着として着用していたようです。この頃から太織り(ふとり)を「太」が「肥える」を連想させるため女性の衣料には適当でないことから「銘仙」という名が用いられ始めたといわれています。
経糸の本数が多くて緻密な織物だったことに由来するように、目が細かいので「目千」、縞専門で「目専」と言われたのが転訛して“めいせん”となった説、銘茶や銘酒の「銘」と仙境で織られる事を想像させるような「仙」をとり、「銘仙」としたという説もあり、消費意欲をかきたて、高級感を与えるような当て字にしたのではないかということが考えられます。
この江戸時代後半から明治時代には、縞柄がほとんどでしたが、明治から大正時代になると経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の糸を故意的にずらすことで、色の境界がぼけるような柔らかい見栄えの銘仙が当時の流行となりました。足利銘仙は「解し絣」が多かったようです。大正2年(1913年)には「解し織り」が足利の根岸藤平、関川粂蔵によって特許出願24612号となり、現在では、栃木県伝統工芸品となっています。
----
この足利織物伝承館は、織物のまち足利をひろく理解してもらうために作られた。
足利市で扱う繊維製品の販売や銘仙小物の販売も行っている。
参考引用:『足利名産の銘仙とは?銘仙の歴史や特徴・着用シーンを解説』みやこや https://kimono-miyakoya.jp/useful/15062/
銘仙の歴史にあるように、銘仙には「解し織」という手法があります。
銘仙が流行した江戸時代後半から明治時代の織物の柄は縞柄(しまがら)がほとんどでしたが、
解し織ができたことで柄のレパートリーが広がり、
西洋芸術のアールデコやキュビズムなど、まるで抽象画を思わせる大胆なデザインの柄を実現させています。
中でも足利は昔から養蚕が盛んだったため大正の頃には織物の産地として頭角を現し、
昭和に入ると有名画家がデザインする斬新でモダンな図柄を取り入れ、足利本銘仙を仕立て上げることに成功。
その足利本銘仙で仕立てた着物が庶民の間に広がり、生産高日本一を誇る大ブームとなりました。
その後、足利銘仙は日本橋三越などの一流百貨店で取り扱われることになり、
銘仙黄金期を築きあげたといわれています。
足利銘仙の人気の秘訣は、何といっても柄のデザインであり、
図案や染め職人をわざわざ京から呼び寄せたりもしていたようです。
また、宣伝にも力を入れ、
一流画家の起用や大物女優のポスターでアピールしたことが足利銘仙の人気に拍車をかけたといわれています。
公式→ 『足利織姫神社』https://www.orihimejinjya.com/entry15.html
1200年余の機場としての歴史をもつ足利。この足利に機織の神社がないことに気づき、宝永2年(1705年)足利藩主であった戸田忠利が、伊勢神宮の直轄であり天照大神(あまてらすおおみかみ)の絹の衣を織っていたという神服織機神社(かんはとりはたどのじんじゃ)の織師、天御鉾命(あめのみほこのみこと)と織女、天八千々姫命(あめのやちちひめのみこと)の二柱を現在の足利市通4丁目にある八雲神社へ合祀。その後、明治12年(1879年)機神山(はたがみやま)(現在の織姫山)の中腹に織姫神社を遷宮した。
翌年の明治13年、火災に遭い仮宮のままとなっていたが、昭和8年皇太子殿下御降誕(現在の上皇陛下)を期し、当時の足利織物同業組合組長の殿岡利助氏の先導により市民ぐるみで新社殿の建造にかかり、昭和12年5月に現在の織姫山に完成、遷宮した。
平成16年6月、社殿、神楽殿、社務所、手水舎が国の登録有形文化財となる。
参考:『両毛ってなあに?」両毛広域都市圏総合整備推進協議会 http://www.ryomo-kouiki.jp/about/
4世紀末から5世紀前半にかけて、群馬県と栃木県は毛野国(けぬのくに)と呼ばれていましたが、その後、上毛野(かみつけの)と下毛野(しもつけの)の2国に分かれ、これが今日の両県の源となりました。この上毛野と下毛野にまたがる地域という意味で、両毛地域と呼ばれています。
◎「両毛広域」ってどんなところ?
関東平野の北端、足尾山地の裾野に位置し、地域の中央を渡良瀬川が、南端部を利根川が流れる水と緑の豊かな地域です。東京から60~100kmの距離にあり、地域面積は1386平方キロメートル、人口は約86万人です。
◎「両毛広域都市圏総合整備推進協議会」って何してるの?
両毛地域20市町村(当時)と群馬・栃木両県が、地域のより深い交流と、一体となったまちづくりを推進するために、平成4年9月に設立しました。協議会では、各種PR事業やイベント事業のほか、公共施設の相互利用の推進など、さまざまな事業を展開しています。
参考:『両毛』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E6%AF%9B
両毛(りょうもう)は、栃木県南西部と群馬県南東部に跨る一帯の広域地名。両毛広域都市圏総合整備推進協議会に参加する6市5町のほか、広義にはさらに西側の群馬県伊勢崎市も含む場合がある。JR両毛線や国道50号などで東西が結ばれ、約80万人の住民は県境を意識することが少なく、生活圏や経済活動が県境を越えてつながっている。
古代の毛野(けの/けぬ)地域にほぼ等しい。毛野は後に、令制国として上毛野国(かみつけのくに/かみつけぬのくに上野国、現在の群馬県)と下毛野国(しもつけのくに/しもつけぬのくに下野国、現在の栃木県)となり、二国に跨る地域名としての両毛[3]や両野(りょうや)の由来となった。「両毛」の名称は、上毛野と下毛野の両方に跨がる地域という意味である。
江戸時代から戦前にかけて、北関東における人口密集地域であり日本鉄道が東北本線を建設する際、熊谷から人口密集地域である両毛地域を経由し宇都宮に向かう案も存在したほどである。明治時代から昭和時代にかけて繊維産業で経済的に繁栄していた地域でもある。
以前は範囲が曖昧であったが、1992年(平成4年)に発足した「両毛広域都市圏総合整備推進協議会」には下記の11市町(平成の大合併前の発足時は20市町村)と栃木県庁、群馬県庁が参加している。県境による縦割り行政の弊害を打破するため、県立高等学校の越境入学や医療、産業振興、観光などで連携している。
両毛地域は東武伊勢崎線とのその支線で東京都区部と結ばれており、「両毛地域・東武鉄道観光誘客連絡会議」には群馬県伊勢崎市を含めた7市が参加している。
「両毛広域都市圏総合整備推進協議会」構成市町
◎栃木県(2市)
足利市、佐野市
◎群馬県(4市1郡5町)
桐生市、太田市、館林市、みどり市
邑楽郡
板倉町、明和町、千代田町、大泉町、邑楽町
参考:『那珂川』国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0314_nakagawa/0314_nakagawa_00.html
河川概要
水系名:那珂川水系
河川名:那珂川
幹川流路延長: 150km
流域面積: 約3,270km2
流域内人口: 約92万人
流域関係都県: 栃木県、茨城県、福島県
那珂川は、その源を福島県と栃木県の境界に位置する那須岳(標高1,917m)に発し、栃木県内の那須野ヶ原を南東から南に流れ、八溝山地を東流した後、茨城県に入り、平地部で南東に流れを変え、河口部で涸沼川を合わせて太平洋に注ぐ、幹川流路延長150km、流域面積3,270m2の一級河川です。
流域は、栃木県、茨城県、福島県の3県からなり、流域内人口は約92万人であり、市街地が発達する下流部の人口が多くなっています。
参考:『那珂川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%B7%9D
那珂川(なかがわ)は、栃木県と茨城県を流れる河川。
一級水系那珂川の本流である。栃木県那須郡那須町の那須岳山麓を源とし、栃木県の東部を南に流れた後、芳賀郡茂木町で東に向きを変え、茨城県を南東に流れてひたちなか市と東茨城郡大洗町の境界部で太平洋に注ぐ。
那珂川の利水が本格的に開発されたのは江戸時代のことである。1590年(天正18年)佐竹義宣は常陸全域を平定し、豊臣秀吉より常陸一国54万石を安堵された。義宣は水戸城を本拠に据え、領国経営を図ったが関ヶ原の戦いにおいて首鼠両端を持したために(義宣は西軍石田方に加担したかったが、父・佐竹義重が東軍徳川方への加担を強硬に主張し、西軍上杉氏と密約を結んでいたにも拘らず徳川軍に家臣を派遣)1602年(慶長7年)出羽久保田(後の秋田市)に減転封となった。
徳川家康は水戸を対伊達政宗の要衝として重要視し、5男武田信吉、10男徳川頼宣、11男徳川頼房を相次いで水戸藩主に据えて仙道筋の防衛を担わせた。このため水戸は急速に城下町が発展するが、城下は千波湖が現在の2倍の大きさで水害の被害を受けやすかった。このため家康は関東郡代・伊奈忠次に命じて洪水調節とかんがいを目的とした用水路の建設を命じた。これが備前堀で1610年(慶長15年)に完成し、功績を称え伊奈備前守忠次の名を冠した。総延長10kmの用水路で、これにより那珂川南岸のかんがいを図ることができるようになった。
一方、那珂川北岸の那珂郡は河岸段丘上の水不足が慢性化しており、この地域のかんがいも課題となっていた。1656年(明暦2年)頼房は、永田茂右衛門に対し那珂川北岸に用水路の開削を命じた。茂右衛門は那珂郡下江戸(現・那珂市下江戸)において那珂川から取水、現在のひたちなか市武田に至る延長約30kmの用水路を建設した。これが小場江用水路であり、現在は常陸大宮市三美にある小場江頭首工から取水しているが、完成後350年を経過した現在でも地域の重要な農業用水源として利用されている。
水戸藩第三代藩主・徳川綱条の代には涸沼と北浦を結ぶ運河の整備が計画された。水戸と江戸を結ぶ流通を発展させることを目的に、鹿島灘を迂回せずに直接北浦から利根川を経て江戸に物資を輸送させることで、財政難にあえぐ水戸藩の財政を好転させることを目的としていた。綱条は浪人である松浪勘十郎を登用し、支出削減と年貢増徴による収入増加を図ると共に、「勘十郎堀」と呼ばれる運河を涸沼と北浦の間に建設し、流通航路確保を図ろうとした。この事業は1706年(宝永6年)に着手されたが、農民の負担が余りにも大きかった勘十郎の政策はたちまち大規模な百姓一揆を誘発し事業は頓挫。1709年(宝永9年)に責任を取らされた勘十郎は水戸藩を追放された。
公式HP→ https://tochigi-utamaro.com/
歌麿と栃木について
江戸時代、栃木の街は巴波川(うずまがわ)の舟運で、米、酒、醤油、材木などをあつかう商業都市として繁栄しました。
有力商人は栃木と江戸、両地に屋敷を構えていました。
この地には、江戸の経済人、文化人と積極的に交流していた記録が今も残されています。
歌麿もそのなかの一人だったのでしょう。
歌麿と栃木の狂歌師の接点
江戸に狂歌の文化が花開いた天明・寛政の時代。
当時の江戸の狂歌本には数多くの栃木の狂歌師の名が残ります。
そして歌麿自身も「筆綾丸」の名で狂歌をたしなみました。
狂歌の絆は、栃木と江戸と歌麿の心を結んだ、
そんな想像もふくらみます。
肉筆画の大作 三幅「雪」「月」「花」
明治12年(1879年)、市内 の定願寺 (じょうがんじ)で三幅が展示された記録が残ります。
所蔵者は善野伊兵衛 (屋号:釜伊)といわれています。
通称 「雪」「月」「花」 と呼ばれる作品の 「月」、「花」はアメリカの二つの美術館が現在所蔵。「雪」は箱根町の岡田美術館の収蔵となっています。
この三幅がいつ描かれたのか、栃木で描かれたのか、江戸で描かれたのか、謎は残ります。
栃木で発見された貴重な肉筆画
大作「雪」「月」「花」の三幅は 現在、栃木市を離れている。
しかし、数少ない歌麿肉筆画の中で、「女達磨図」 「鐘馗図」「三福神の相撲図」の肉筆画3点を栃木市立美術館が所蔵。
歌麿が栃木滞在中に商人の依頼に応じて筆をとったもの、と推察されている。
として、歌麿を中心とした街づくり活動を行い、このホームページでは、歌麿関連の情報が大変詳しく伝えられている。
『とちぎ歌麿交流館』歌麿を活かしたまちづくり協議会(栃木市)HP https://tochigi-utamaro.com/communicationcenter/
『とちぎ歌麿交流館オープン』栃木市 https://www.city.tochigi.lg.jp/soshiki/5/72135.html
『とちぎ歌麿交流館』栃木市観光協会 https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/%E3%81%A8%E3%81%A1%E3%81%8E%E6%AD%8C%E9%BA%BF%E4%BA%A4%E6%B5%81%E9%A4%A8
江戸時代の浮世絵師『喜多川歌麿』。そして、歌麿が愛したまちとちぎ。
その時代の栃木の歴史や文化について、情報の発信・研究を行う拠点施設です。
とちぎ歌麿交流館では「歌麿と栃木」「蔦屋重三郎と栃木」「栃木町の移り変わり」の3つの内容について展示コーナーを設けています。
「歌麿と栃木」のコーナーでは、歌麿と繋がりの深かった通用亭徳成(つうようていとくなり)(4代目善野喜兵衛(ぜんのきへい))などの狂歌賛の入った栃木と関連のある資料を展示しています。
「蔦屋重三郎と栃木」のコーナーでは、これらゆかりの狂歌絵本や狂歌本をご覧ください。
「栃木町の移り変わり」のコーナーでは、当館の会場であり、天明年間(1785年頃)よりこの地で呉服店などを営んでいた金澤家およびその周辺の街並の変遷を、当時の写真や資料を中心にたどれるような構成となっています。
交流館の入口付近に江戸時代の江双紙屋の店先を一部再現しました。
所在地 栃木県栃木市倭町10-2
TEL 0282-21-2573 歌麿を活かしたまちづくり協議会事務局(市蔵の街課内)
営業時間 月・金 11:00~15:00
土・日・祝 11:00~16:00
定休日 火・水・木(祝日は開館)および年末年始
専用駐車場 ※駐車場はございません
最寄り駐車場 蔵の街第一駐車場
アクセス方法 JR・東武 栃木駅から徒歩約13分
蔵の街第一駐車場より徒歩約2分
小江戸サミット佐原大会のパンフレット https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/multilingual/en/en-season/en-sawara/en-s_event/Little_Edo_Summit.files/koedo2019.pdf
小江戸サミット(川越市) https://www.city.kawagoe.saitama.jp/kanko/k-other/1011670.html
『小江戸』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B1%9F%E6%88%B8
小江戸サミットとは、栃木市・川越市・香取市の3市の市長および市民が一堂に会し、交流する催し。1996年の栃木市を会場とした第1回から始まり、以降は3市の持ち回りで開催されている。
第1回小江戸サミット(1996年:栃木市開催)
第2回小江戸サミット(1997年:川越市開催)
第3回小江戸サミット(1998年:佐原市開催)
第4回小江戸サミット(1999年:東京開催)
第5回小江戸サミット(2000年:川越市開催)
第6回小江戸サミット(2001年:栃木市開催)
第7回小江戸サミット(2002年:川越市開催)
第8回小江戸サミット(2003年:東京開催)
第9回小江戸サミット(2004年:栃木市開催)
第10回小江戸サミット(2005年:川越市開催)
第11回小江戸サミット(2006年:佐原市開催)
第12回小江戸サミット(2007年:栃木市開催)
第13回小江戸サミット(2008年:川越市開催)
第14回小江戸サミット(2009年:香取市開催)
第15回小江戸サミット(2010年:栃木市開催)
第16回小江戸サミット(2011年:東日本大震災で中止。
小江戸3市は「日本橋架橋100周年記念 日本橋お江戸舟運まつり」に和船を派遣し舟運を再現)
第17回小江戸サミット(2012年:川越市開催)
第18回小江戸サミット(2013年:香取市開催)
第19回小江戸サミット(2014年:栃木市開催)
第20回小江戸サミット(2015年:川越市開催)
第21回小江戸サミット(2016年:香取市開催)
第22回小江戸サミット(2017年:栃木市開催)
第23回小江戸サミット(2018年:川越市開催)
第24回小江戸サミット(2019年:香取市開催) 3市共同で各市の祭りの山車を参加させたり観光宣伝を行っている。
小江戸とは
小江戸(こえど)とは「江戸のように栄えた町」「江戸時代を感じさせる町」といった意味合いで使われる、都市の比喩的な表現。代表例としては、川越(埼玉県川越市)、佐原(千葉県香取市佐原)、栃木(栃木県栃木市)が挙げられる。
概要
「江戸のように栄えている」という意味で使われた。「小江戸」という言葉そのものは以前よりあり、江戸時代から川越は歴史的に繋がりが深く「江戸の文化が真っ先に伝わる繁栄した町」という意味あいで呼ばれていた。しかし、改めて「小江戸」という言葉がクローズアップされたきっかけは、1996年に開催された「小江戸サミット」である[1](「小江戸サミット」については後述)。
そのほか、千葉県夷隅郡大多喜町・神奈川県厚木市・山梨県甲府市、静岡県磐田市(旧磐田郡竜洋町)掛塚・滋賀県彦根市なども、小江戸と呼ばれることがある。
現代的定義としてはおおむね、「江戸との関わりの深い町」「江戸の風情を残す古い町並みを残している町」である。古い町並みがいまなお残っている部分については、観光地となっているところもある。
茨城県ひたちなか市にある国営公園。1991年開園。
国営ひたち海浜公園公式HP https://hitachikaihin.jp/
パンフレット https://hitachikaihin.jp/guide/guidemap/
参考:『国営ひたち海浜公園』観光いばらき公式ホームページ https://www.ibarakiguide.jp/spot.php?mode=detail&code=997
四季折々に咲き誇る花々がキレイ!
花と緑に囲まれた国営ひたち海浜公園。開園面積約215haの広い園内は7つのエリアに分かれており、自然の中で楽しめるレジャースポットや花畑があります。春にはスイセンやチューリップ、ネモフィラ。夏にはバラ、ジニア、ヒマワリ。秋にはコキアやコスモスと四季折々の草花が、訪れる人々の目を楽しませてくれます。
風物詩のネモフィラとコキア
四季折々さまざまな花が楽しめる国営ひたち海浜公園。中でも、春のネモフィラと秋のコキアは必見です。広大な“みはらしの丘”一面に広がる、約530万本の青いネモフィラが広がる光景はまるでファンタジーの世界。そして秋には、モコモコとしたコキアが紅葉し、大地を真っ赤に染め上げます。
サイクリングからイベントまで楽しさ満載!
国営ひたち海浜公園にはサイクリングコースも整備されており、広大な園内を自転車で見て回ることができます。また、BMXコースや林間アスレチック広場、バーベキュー広場、さらには多彩なアトラクションが楽しめる遊園地「プレジャーガーデン」まであり、楽しさ満載!一年中さまざまなイベントが開催されているので、何度来ても楽しめます。
日本三名瀑のひとつに数えられる「袋田の滝」。高さ120m・幅73mの大きさを誇ります。滝の流れが大岩壁を四段に落下することから、別名「四度(よど)の滝」とも呼ばれ、その昔、西行法師がこの地を訪れた際、「四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣味わえない」と絶賛したことからとも伝えられています。袋田の滝・生瀬滝は、平成27年3月10日に国の名勝に指定され、さらに、袋田の滝は平成27年10月には、恋人の聖地に選定(NPO法人地域活性化支援センター)されました。
参考:『袋田の滝』(大子(だいご)町HP) https://www.town.daigo.ibaraki.jp/page/page001474.html
茨城県久慈郡大子町袋田にある滝。久慈川支流の滝川上流に位置し、滝は4段で長さは合計120メートル、幅73メートル。冬は、滝が凍結する「氷瀑」現象が発生することがあり、氷壁を登る人もいる[1]。全面凍結はかつては毎年のように見られたが、近年は2012年が最後で、氷瀑の脇を水が流れる。
日本の名勝に指定されている。華厳滝、那智滝とともに日本三大名瀑の一つに挙げられる場合もあり、日本の滝百選にも選定されている。1990年(平成2年)に行われた日本の滝百選の人気投票では1位を取った。奥久慈県立自然公園に指定されているが、華厳滝が日光国立公園、那智滝が吉野熊野国立公園に指定されているのに対して、袋田滝は国立公園にも国定公園にも指定されていない。
袋田の滝は、久慈川の支流滝川の水が、何百万年もの浸食にも耐えてきた、かつての海底火山の噴出物が作る断崖から落ちることによって作られた。
江戸時代は水戸藩の領地内であり、水戸黄門として知られる徳川光圀が訪れたことがあるとされる。
正面から滝の全景を観賞するためには、「袋田の滝トンネル」(長さ276メートル、高さ3メートル、幅員4メートル)を通って第1・第2観瀑台へ行く必要がある。入場料は、大人300円、中学生以下150円(ただし茨城県民の日〈11月13日〉は無料)。無休であるが、営業時間は、5月〜10月が8時〜18時、11〜4月が8時30分〜17時。この他、ライトアップ期間には夜間営業あり。
参考:『袋田の滝』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%8B%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%BB%9D
参考:『袋田の滝』観光いばらきHP https://www.ibarakiguide.jp/spot.php?mode=detail&code=5
『奥久慈大子アップルパイカタログ』大子町特産品流通公社(PDF) https://daigo-iimono.com/assets/files/applepie.pdf
『奥久慈大子りんご狩りお楽しみガイド』大子町観光協会 https://www.daigo-kanko.jp/tokusan/apple.html
『奥久慈大子アップルパイ』
『日本三名園 偕楽園』HP https://ibaraki-kairakuen.jp/kairakuen/
『偕楽園』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%95%E6%A5%BD%E5%9C%92
偕楽園(かいらくえん、英: Kairakuen Park)は、茨城県水戸市にある日本庭園である。国の史跡及び名勝に指定されている(指定名称は「常磐公園」)。伝統的に、後楽園(岡山県岡山市)や兼六園(石川県金沢市)と並んで日本三名園の一つに数えられている。
現在は隣接する千波湖周辺の拡張部を含めた広域公園の一部となっている。文化庁認定日本遺産“近世日本の教育遺産 ―学ぶ心・礼節の本源―”のストーリーを構成する水戸市内の文化財の一つでもある。
概説
偕楽園には、拡張部を含めない本園部分だけで100種3000本の梅が植えられており、早春には観梅客でにぎわう。園内には梅の異名「好文木」に由来する別荘好文亭があるが、古代中国の晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に基づいている。藩校「弘道館」は偕楽園と一対の施設であり、同じく梅の名所である。
水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)は、1833年(天保4年)藩内一巡後、水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園とする構想を持った。造園は長尾景虎(後の上杉謙信)を輩出した長尾家の本草学者である長尾景徳が実施した。同じく彼の設立した藩校「弘道館」で文武を学ぶ藩士の余暇休養の場へ供すると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと、この巨大な大名庭園は斉昭自らにより「偕楽園」と名づけられた。「偕楽」とは中国古典である『孟子』の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から援用したもので、斉昭の揮毫『偕楽園記』では「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」と述べられている。水戸学へ帰着する斉昭の愛民精神によりこの庭園は、江戸時代当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた。
伝統を受け継ぎ、日本三名園のうちで唯一、偕楽園のみが入園無料であったが(ただし、前述の好文亭を利用する場合は有料)、2019年2月12日、管理する茨城県が、県外からの観光客を対象に2019年秋にも有料化する方針を発表。2019年2月16日から始まる「水戸の梅まつり」で、園内の一部有料施設で身分証の確認など、県民と県外在住者を区別する実証実験を行うとした。同年6月の茨城県議会に関連条例改正案が提出され、6月24日に可決・成立。同年11月1日から、茨城県民であることを示す身分証明書がない入園者は有料化された。
上記のように、偕楽園では毎年2月中・下旬から3月下旬に、水戸の梅まつりが開催される。水戸の梅まつりは、2016年時点で120回開催された。開催期間中には多数の観光客で賑わい、キャンドルライトを使って梅をライトアップする夜梅祭や茶会など、種々様々な催し物が行われる。また園内で4月には水戸の桜まつり、5月には水戸のつつじまつり、9月には水戸の萩まつりが行われる。偕楽園公園を含め8月には水戸黄門まつりが行われる。関連の観光大使として、水戸市により水戸の梅大使が毎年選出されている。
また、毎年6月第2土・日曜日に、梅の実を偕楽園公園センターで頒布する。ただし、平成28年は不作だったため、6月11日土曜日のみの頒布となる予定。また、令和2年に関しては収穫した実の一般向け販売は中止し、梅干しなどの製造業者に提供となる。
なお、頒布価格は平成26年は梅1袋(1.5キログラム)あたり300円で1人2袋まで、平成27年は梅1袋(1.5キログラム)あたり300円で1人3袋まで、平成28年は梅1袋(1キログラム)あたり200円で1人1袋まで。
偕楽園の本園は約13haであったが、茨城県は1999年(平成11年)、隣接する千波公園や桜川緑地などと合わせて広域公園として運営する構想を発表、面積の合計は300haとなった[2]。茨城県営の都市公園「水戸県立自然公園」として管理・運営されている。
日本三名園のひとつ。徳川斉昭公が「衆と偕(とも)に楽しむ場」として開設
金沢の兼六園・岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつに数えられる『偕楽園』。江戸時代天保13年(1842年)7月、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公により、領民の休養の場所として開園されました。
表門から入ると孟宗竹林が広がり、そこを下っていくと弛まなく水が湧き出る吐玉泉、そして徳川斉昭公が自ら設計を手がけた好文亭と見所満載です。
偕楽園には約100品種3,000本の梅が植えられ、かぐわしい早春を告げてくれます。2月中旬から3月中旬にかけての「水戸の梅まつり」を皮切りに、桜、つつじ、秋には萩、初冬には二季咲桜と、園内に花々が季節を届けてくれます。
好文亭
園内の中程に位置する好文亭は、木造2層3階建ての好文亭本体と木造平屋建ての奥御殿から成り、なんと徳川斉昭公が自ら設計したものといわれています。ここに文人墨客や家臣、領内の人々を集め、詩歌や慰安会を催されたそうです。
園内を散策して楽しむ「陰」と「陽」の世界
偕楽園は、「陰」と「陽」の世界観を意識して造られているとも言われています。
幽玄の世界のように、しっとりした静けさが心地良い「陰」の世界と、
陽が降り注ぎ、早春にはかぐわしい梅の花が咲き誇る「陽」の世界。
そのコントラストを楽しむのも、偕楽園ならではの魅力のひとつです。
参考:『偕楽園』観光いばらきHP https://www.ibarakiguide.jp/spot.php?mode=detail&code=660
偕楽園は、茨城県水戸市にある日本庭園である。国の史跡及び名勝に指定されている(指定名称は「常磐公園」)。伝統的に、後楽園(岡山県岡山市)や兼六園(石川県金沢市)と並んで日本三名園の一つに数えられている。
現在は隣接する千波湖周辺の拡張部を含めた広域公園の一部となっている。文化庁認定日本遺産“近世日本の教育遺産 ―学ぶ心・礼節の本源―”のストーリーを構成する水戸市内の文化財の一つでもある。
偕楽園には、拡張部を含めない本園部分だけで100種3000本の梅が植えられており、早春には観梅客でにぎわう。園内には梅の異名「好文木」に由来する別荘好文亭があるが、古代中国の晋の武帝が学問に親しむと花が開き、学問をやめると花が開かなかったという故事に基づいている。藩校「弘道館」は偕楽園と一対の施設であり、同じく梅の名所である。
水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)は、1833年(天保4年)藩内一巡後、水戸の千波湖に臨む七面山を切り開き、回遊式庭園とする構想を持った。造園は長尾景虎(後の上杉謙信)を輩出した長尾家の本草学者である長尾景徳が実施した。同じく彼の設立した藩校「弘道館」で文武を学ぶ藩士の余暇休養の場へ供すると同時に、領民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと、この巨大な大名庭園は斉昭自らにより「偕楽園」と名づけられた。「偕楽」とは中国古典である『孟子』の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から援用したもので、斉昭の揮毫『偕楽園記』では「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」と述べられている[10]。水戸学へ帰着する斉昭の愛民精神によりこの庭園は、江戸時代当初から毎月「三」と「八」が付く日には領民にも開放されていた。
伝統を受け継ぎ、日本三名園のうちで唯一、偕楽園のみが入園無料であったが(ただし、前述の好文亭を利用する場合は有料)、2019年2月12日、管理する茨城県が、県外からの観光客を対象に2019年秋にも有料化する方針を発表。同年11月1日から、茨城県民であることを示す身分証明書がない入園者は有料化された。
参考:『偕楽園』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%95%E6%A5%BD%E5%9C%92
御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
生命の根源を司る「いのち」の根の神として農業、工業、商業、水産業など、あらゆる殖産興業の守護神として人々の生活すべてに御神徳を授けて下さる神さまです。
御事暦
日本の神話が書かれている『古事記』によると、宇迦之御魂神は須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売神(かむおおいちひめのかみ)の間の御子とされています。
農牧、水産、養蚕を始めあらゆる殖産興業の神、蘇生(よみがえり)の神、生成発展の神、産霊(むすび)の神、火防の神として霊験あらたかな御神徳が普く全国の人々より崇敬されています。
往古、この地には胡桃の密林があり、そこに稲荷大神さまがお祀りされていたことから、「胡桃下稲荷」(くるみがしたいなり)とも呼ばれています。また第十三代藩主井上正賢公の一族に門三郎という人がいて、利根川流域を中心に多数の人々に功徳を施し、信仰を広めたことから「お稲荷さんの門三郎」との名声を博し、いつしか門が紋にかわり「紋三郎稲荷」とも呼ばれるようになりました。今日では関東はもとより、全国から年間350万余の人々が参拝に訪れています。
創建及び由緒
当社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉2年(651)と伝えられています。
その後幾星霜を経て、桜町天皇の御代、寛保3年(1743)には時の笠間城主井上正賢により社地社殿が拡張され、又延享4年(1747)牧野貞通が城主となるや先例により祈願所と定められ、境内地・祭器具等が寄進されました。以来歴代藩主の篤い尊崇を受けました。
笠間稲荷神社は日本三大稲荷のひとつとして広く人々に親しまれ、霊験あらたかな御神徳を慕って多くの参拝者が全国より訪れています。
御本殿(国指定重要文化財・その他)
御本殿は江戸時代の末期安政・万延年間(1854~1860)の再建で、銅瓦葺総欅の権現造で、昭和63年国の重要文化財に指定されています。御本殿周囲の彫刻は、当時名匠と言われた後藤縫之助の作「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」、弥勒寺音八と諸貫万五郎の作「蘭亭曲水の図」等実に精巧を極めています。
『日本三大稲荷 笠間稲荷神社』HP http://www.kasama.or.jp/about/index.html
笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ)は、茨城県笠間市にある神社(稲荷神社)である。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。別称胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)、紋三郎稲荷。
五穀豊穣、商売繁盛の神として古くから厚く信仰され、関東はもとより日本各地から年間300万人を超える参拝客が訪れる。また、正月三が日の初詣には80万人以上の参拝者が訪れ、初詣参拝者数で茨城県1位を誇る。
日本三大稲荷の一つとされている。
「笠間稲荷と佐白山」として茨城百景に選定されている
参考:『笠間稲荷神社』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E9%96%93%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE
公式webサイト https://daibutu.net/
『牛久大仏』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E4%B9%85%E5%A4%A7%E4%BB%8F
牛久大仏(うしくだいぶつ、正式名称:牛久阿弥陀大佛)は、日本の茨城県牛久市にあるブロンズ(青銅)製大仏立像で、全高120メートル(像高100メートル、台座20メートル)あり、立像の高さは世界で6番目。ブロンズ立像としては世界最大。浄土真宗東本願寺派本山東本願寺によって造られた。小動物公園や花畑などがある浄土庭園内にあり、公園墓地「牛久浄苑」との複合施設となっている。総面積は37万平方メートルに及ぶ。
概要
牛久浄苑からの眺め。牛久大仏が見える。
牛久大仏建設の事業構想は1983年に関係者によって着手された。1986年に着工、1993年に完成した。事業主体は浄土真宗東本願寺派本山東本願寺。
浄土真宗東本願寺派の霊園である牛久浄苑のエリア内に造られた。その姿は同派の本尊である阿弥陀如来像の形状を拡大したものである。
全高120メートル(像高100メートル、台座20メートル)を誇り、奈良の大仏(像高14.98メートル)が掌に乗り、アメリカ合衆国ニューヨーク州にある自由の女神像(全高93メートル、手を掲げた姿勢の像高46.05メートル)の実質的な像高(足元から頭頂までの高さ33.86メートル)の3倍近くの大きさである。
地上高世界最大の"ブロンズ製"人型建造物(仏像)であり、ギネス世界記録には「世界一の大きさのブロンズ製仏像」として認定されている。
なお、地上高最大の人型建造物は、インドのグジャラート州ナルマダー県にあるヴァッラブバーイー・パテールをかたどった全高240メートル(像高182メートル、台座58メートル)の統一の像。また、近代以前に造営されたものでは、唐の磨崖仏である楽山大仏(中国四川省楽山市)の像高59.98メートルが世界最大である。
また、大型の人型建造物を含む長さの比較資料としては「1 E1 m」、「1 E2 m」が詳しい。
施工は川田工業による。建築にあたっては主に高層ビルで用いられるカーテンウォール工法が採用された[2]。
2024年(令和6年)12月16日に牛久市から「うしく親善大使」の委嘱を受けた。
(中略)
フィクション
牛久大仏は、小説『けものがれ、俺らの猿と』(町田康 原作)の映画版(2001年製)と小説『下妻物語』(嶽本野ばら 原作)の映画版(2004年製)に登場している[注釈 4]。『けものがれ、俺らの猿と』の劇中では、主要登場人物の一人・田島の父親が造ったが、趣味の悪い着色が施されているとの設定になっている。主人公である脚本家・佐志はそれに対して批判的に意見する。
竹井10日のライトノベル『誉められて神軍』第2巻に茨城エルフの聖域に有史以前より鎮座する全高120メートルの神像として「牛久女神像」が登場している。
アニメ『ラブライブ!スーパースター!!』の登場人物の地元が牛久市という設定で、2024年放送の第3期の4話と11話に登場する。
富士山(世界文化遺産)→世界文化遺産の項へ
信玄による防災のハードウェアとソフトウェア政策。甲斐は有数の洪水発生の地であったが、これらの政策により、民衆を巻き込みつつ、災害に逆らわず、自然と自然を戦わせることによって水害を制した。
また、すぐれた信玄の政策は今でも有効に使われている。
[ハードウェア]
信玄堤
霞堤
聖牛
乗越堤
[ソフトウェア]
おみゆきさん
川越氷川神社
2019年3月ちよろぎ撮影
時の鐘(川越市)
2019年3月16日ちよろぎ撮影
参考動画:『Watch Report「開業5周年〜ムーミンバレーパーク〜」(埼玉ビジネスウオッチ2024年4月20日放送分)』(テレ玉ニュース(YouTube)Ch.) https://youtu.be/REnG18E948g?si=KsRUlLcmNkLYadrg
埼玉県川口市参考動画→
『無料映画】ロード・オブ・ONARI 〜未来へつなぐ想い〜』川口宿 鳩ケ谷宿 日光御成道まつり実行委員会Ch. https://youtu.be/nyIkXHlWwso?si=7xfxmBJ4KqS2l8Sr
川口の良いところを時を超えて現代にやってきた徳川家光の目を通して描く。
東京の観光地については、別項を設けた。→東京
以下の項目選択は楽天トラベルを参照した
参考:『香取市佐原(千葉県)』(文化庁「重要伝統的建造物群保存地区一覧」と「各地区の保存・活用の取組み」) https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/93738601_16.pdf
参考:『香取市佐原の伝統的建造物群保存地区と景観形成地区について』(香取市) https://www.city.katori.lg.jp/living/sumai/machinamihozon.html
参考:『佐原の町並み』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%8E%9F%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%A6%E3%81%BF
千葉県香取市佐原(旧下総国)の市街地にある歴史的建造物が残る町並みである。商家町として栄え、古くから”北総の小江戸”、”水郷の町”と称された。1996年に関東地方で初めて重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。2009年には平成百景、2018年には佐倉市(城下町)・成田市(門前町)・銚子市(港町)とともに日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」に認定された。
佐原の町並みは、佐原が最も栄えていた江戸時代末期から昭和時代前期に建てられた木造町家建築、蔵造りの店舗建築、洋風建築などから構成されている。重要伝統的建造物群保存地区内の、市街地を東西に走る通称香取街道、南北に流れる小野川沿い、及び下新町通りなどに江戸の雰囲気そのままに土蔵造りの商家や町屋が軒を連ねた町並みを見ることができる。小野川に架かる樋橋は日本の音風景100選に選定されている。小野川沿いは電線類地中化が進んでおり良質な景観形成の向上が行われている。
地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律(歴史まちづくり法)に基づき策定した香取市歴史的風致維持向上計画について、2019年(平成31年)3月26日付けで文部科学大臣、農林水産大臣、国土交通大臣により計画が認定された[4]。香取神宮本殿・ 楼門およびその周辺地域と、佐原の山車行事や香取神宮の式年神幸祭などからなる歴史的風致の維持向上を図るため、歴史的建造物の保存修理に係る事業や、山車の巡行沿いの電線類地中化や修景整備事業、佐原の山車行事で用いる用具の保存修理に関する事業などが位置づけられている。
小野川沿いを中心とした地区では江戸の影響を多少なりとも受けた佐原の大祭(7月の本宿祇園祭と10月の新宿秋祭り)が行われ豪華絢爛な山車が引き回される。佐原の大祭は川越氷川祭・常陸國總社宮大祭とともに関東三大祭りの一つであり、2016年(平成28年)12月にユネスコ世界無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録されている。
参考:『サムライロードって?外国人が急増する意外なスポット【しらべてみたら】』FNNプライムオンラインCh. https://youtu.be/wh1eB48-uws?si=vohX7YRzptc0TbGx
に千葉・香取市が登場。
参考:『佐原の山車行事』千葉県 https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/n321-003.html
参考:『佐原の山車行事』文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/255625
参考:『江戸優り 佐原の大祭』香取市 https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/matsuri/
参考:『佐原の大祭』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%8E%9F%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%A5%AD
千葉県香取市佐原の市街地で行われる7月の本宿祇園祭と10月の新宿秋祭りの総称。川越氷川祭・常陸國總社宮大祭(石岡のおまつり)とともに関東三大祭りの一つである。2016年12月にユネスコ世界無形文化遺産『山・鉾・屋台行事』に登録されている。
二層構造の山車の上部(大天上)に、歴史上の人物の大人形や町内で藁を用いて製作した大きな飾り物を飾り付け、下段(中天上)に「佐原囃子」を演奏する下座連を乗せ、奏でながら町内衆により曳き回される。また、山車の前では手古舞の流れをくむ手踊りが披露される。
飾り物の他に多くの山車の周りには彫物が巡らされ、獅子や龍、物語等を題材にしたものが彫られている。
市街地を流れる小野川をはさみ東側を本宿(ほんじゅく)、西側を新宿(しんじゅく)と呼び、それぞれ別々に祭りが行われる。
本宿地区・八坂神社の祇園祭(山車10台)。7月10日以降の金曜、土曜、日曜日 (平成22年から夏祭りの日程が「7月10日以降の金土日」となる)
新宿地区・諏訪神社の秋祭り(山車14台)。10月第2土曜日を中日とする金曜、土曜、日曜日
参考:『伊能忠敬って』伊能忠敬e資料館 https://www.inopedia.tokyo/01ino/
参考:『伊能忠敬とは』香取市 https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/tadataka.html
江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人です。
忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍します。
その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり測量を行いました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担いました。
参考:『伊能忠敬』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC
伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日〈1745年2月11日〉- 文化15年4月13日〈1818年5月17日〉)は、江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。
寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量、73歳で死去。その後は弟子たちが遺志を受け継いで『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
1883年(明治16年)、贈正四位。
参考:『伊能忠敬記念館』香取市 https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/
伊能忠敬は、50歳を過ぎてから日本全国を測量して歩き、わが国最初の実測日本地図をつくりあげた人物です。
伊能忠敬記念館では、忠敬の人生を年代順に追い、その業績の結晶である伊能図をあますことなく紹介します。また、毎週土曜日・日曜日には常設展示を展示解説員とめぐる解説ツアーを開催しています。
◎展示解説員による常設展示の解説ツアー
開催日:毎週土曜日・日曜日
開催時間:午前10時30分から/午後2時00分から(約25分)
定員:先着15名
参加方法:当日受付(予約不可)
参加費:無料(入館料別途)
◎利用案内
所在地 〒287-0003 千葉県香取市佐原イ1722番地1
電話 0478-54-1118
ファクス 0478-54-3649
開館時間 午前9時から午後4時30分まで
平均見学時間 記念館…20分から30分
旧宅…5分から10分
午後4時ころまでに入館してください
休館日
月曜日(国民の祝日は開館)、年末年始
伊能忠敬旧宅は年末・年始のみ休館です
休館日年間予定もご確認ください
備考
夏(7月)・秋(10月)の佐原の大祭と12月の香取小江戸マラソン大会当日は交通規制がありますのでご注意ください。交通規制の詳細は、香取市ホームページをご覧ください。
消防法施行令により、館内の収容人員は150人となります。当該人数に達した場合は、一時的に入館制限を行いますので、館内の混雑が緩和されるまでしばらくお待ちください。
2023年日本地理の出題で、下総台地を選択する設問があった。
参考:『下総台地』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%B7%8F%E5%8F%B0%E5%9C%B0
下総台地(しもうさだいち)は、旧下総国の台地を指す。現在の千葉県北部一帯、および埼玉県東端の台地(江戸川開削によって切り離された)に跨がる。北総台地とも呼ばれる。場合により旧上総国の台地部分を含むこともある。
千葉県北東部の成田市や香取市を中心とする台地、千葉県北西部の野田市など江戸川沿いから船橋市にかけての台地、埼玉県東端の幸手市、北葛飾郡杉戸町及び春日部市など江戸川沿いの台地に大別され、香取市や香取郡東庄町などの利根川沿いでは50メートルを越える所もあるが、標高は概ね20 - 40メートルであり、なだらかな起伏が続く台地である。
第四紀の下総層群の上に関東ローム層が堆積したなだらかで安定した地層であり、南側の上総層群が露出している房総丘陵とは地質的に異なっている。旧上総国である市原市や木更津市などの台地の部分も含めて下総台地と呼ばれることもあり、また両総台地と呼ばれることもあるが一般的ではなく、利根川を挟んで北側にある常陸台地と併せて常総台地と呼ぶことの方が多い。
房総では、水に恵まれない丘陵や台地などを中心に、牛や馬の放牧地である牧が発達し、下総台地にも多くの牧があった。なお、牧は丘陵や台地ばかりではなく低地にも存在し、奈良時代には現在の茂原市付近にあった牧を開発し藻原荘が成立している。
参考:『洪積台地 日本の主な洪積台地』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E7%A9%8D%E5%8F%B0%E5%9C%B0#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%BB%E3%81%AA%E6%B4%AA%E7%A9%8D%E5%8F%B0%E5%9C%B0
【下総台地】
千葉県北部および茨城県南部一帯に広がり、埼玉県東端にかかる関東ローム層からなる台地。千葉県部分は北総台地、茨城県部分は常陸台地、埼玉県部分は宝珠花台地・金杉台地と呼ばれるが、これらは赤堀川(現在の利根川の一部)・江戸川開削で切り離されたものである。西部では武蔵野台地同様に比較的低く平坦であるが、東に行くほど標高が高くなる。首都東京の近郊農業で国内有数の農業産出額を誇る。下総台地西部には江戸時代には小金牧という放牧地が広がっていたが、江戸時代から明治時代にかけて大規模な開墾が行われた。第二次世界大戦中に内陸工業地帯としての開発が始まり、戦後は東京のベッドタウンとして大規模ニュータウンが次々と作られ、宅地化も進んでいる。
他の選択肢について
[上総台地][常陸台地][武蔵野台地]
◎上総台地→両総台地とは、千葉県北部を占める下総台地(しもうさだいち)と、その南東に広がる上総台地(かずさだいち)の総称であるが、広義の下総台地には上総台地も含まれるので、一般には下総台地という。
◎常陸台地 茨城県南部
◎武蔵野台地 埼玉県・東京都西部など
利根川(とねがわ)は、大水上山を水源として関東地方を北から東へ流れ、太平洋に注ぐ一級河川。一級水系であり、利根川水系の本川(本流)である。河川の規模は日本最大級であり、日本三大河川の一つ。首都圏の水源として国内の経済活動上重要な役割を果たしている。「坂東太郎(ばんどうたろう。“東国にある日本一の大河”)」の異名を持つ日本三大暴れ川の一つで、江戸時代初期に行われた河川改修である利根川東遷事業により、流路を変更された歴史を持つ。利根川の水源は大水上山である、という詳細が明らかとなったのは1954年(昭和29年)に群馬県山岳連盟所属の「奥利根水源調査登山隊」30名が行った、水源までの遡行調査による。
利根川における上流・中流・下流の区分については、おおむね下記の区間に分けられる。
上流:水源の大水上山から群馬県伊勢崎市八斗島(やったじま)まで
中流:伊勢崎市八斗島から千葉県野田市関宿の江戸川分流点まで
下流:江戸川分流点から河口まで(流路を東へ変える)
利根川流域には自然公園が多く存在し、その中に山、湿原、峡谷、滝、湖沼などの景勝地や温泉が存在する。また多くの文化財や観光地も存在する。これらの多くは先述した道路網や鉄道網の発達で首都圏からの交通アクセスも至便であることから、多くの観光客が訪問する。また河川施設や河川自体についても地域の観光資源や身近なレクリェーションスポットとして多くの市民に利用されている。
自然公園としては三国山脈、浅間山、草津白根山などを含んだ上信越高原国立公園、日光・鬼怒川を始めとした日光国立公園、至仏山・片品川源流の尾瀬国立公園といった国立公園、妙義山・荒船山を中心とした妙義荒船佐久高原国定公園や筑波山・霞ヶ浦・水郷一帯を中心とした水郷筑波国定公園の国定公園のほか、多くの県立自然公園が存在する。こうした自然公園内には多くの景勝地が存在するが、国の名勝や日本の滝百選、日本百名山に選定されたものも多い。国の名勝に指定されたものとして華厳滝と中禅寺湖、三波石峡(神流川)、吾妻渓谷(吾妻川)、吹割の滝(片品川)などが、日本の滝百選には華厳の滝・吹割の滝のほか霧降の滝、常布の滝、不動滝が、日本百名山には至仏山、谷川岳、平ヶ岳、巻機山、男体山、日光白根山、皇海山、武尊山、赤城山、草津白根山、四阿山、浅間山、筑波山が選定。国の天然記念物には十六島ホタルエビ発生地(千葉県)、三波石峡・三波川のサクラと吹割の滝(群馬県)などが指定され、浅間山熔岩樹型は国の特別天然記念物に指定されている[246]。この他の景勝地としては湿原では戦場ヶ原、鬼怒沼湿原、玉原湿原など、峡谷では照葉峡・諏訪峡・綾戸渓谷(利根川)、高津戸峡(渡良瀬川)、龍王峡と瀬戸合峡(鬼怒川)など、湖沼では霞ヶ浦や中禅寺湖、榛名湖などがある。
利根川流域には温泉が多く湧出し、関東地方に存在する主要な温泉地の多くは利根川流域内に存在する。この中には伊香保温泉、草津温泉、鬼怒川温泉といった日本で知名度の高い温泉郷が存在するほか、宝川温泉、水上温泉、四万温泉、猿ヶ京温泉、万座温泉、老神温泉、川原湯温泉、川治温泉、湯西川温泉など多数の温泉がある。霧積温泉は映画『人間の証明』の舞台にもなった。しかし川原湯温泉については八ッ場ダム建設に伴い、かつての温泉が水没することから、代替の新しい源泉と温泉地整備が行われた。また矢木沢ダム建設により湯の花温泉が水没。猿ヶ京温泉や老神温泉は相俣ダム・薗原ダム建設に伴って一部の旅館が移転し、温泉街の整備が行われた。景勝地・温泉以外の観光地としては草木湖畔のみどり市立富弘美術館、碓氷峠鉄道文化むら、日光江戸村、東武ワールドスクウェア、牛久大仏などがある。また夏には花火大会が流域の各所で行われ、冬には利根川上流域や鬼怒川上流域において多くのスキー場が営業する。
利根川流域にある文化財としてはユネスコの世界遺産に登録されている日光東照宮などの日光の社寺を始め、国の史跡・重要文化財として丸沼ダム、碓氷第三橋梁などの碓氷鉄道施設遺産群(群馬県)、足尾銅山跡(栃木県)、横利根閘門(茨城県)、伊能忠敬旧宅(千葉県)が、特別史跡として日光杉並木街道、大谷磨崖仏、常陸国分寺跡・常陸国分尼寺跡などがある[247]。県の史跡としては埼玉県が最多で見沼通船堀遺跡・鷲宮神社寛保治水碑・栗橋関所跡・川俣関所跡・石田堤・忍城・伊奈忠次墓などがあり、この他田中正造旧宅・二宮尊徳墓(栃木県)、榊原康政画像と墓など4箇所(群馬県)、熊沢蕃山墓(茨城県)がある。
2022年の問題に設問と選択肢に鶴岡八幡宮、由比ヶ浜、長谷寺、鎌倉大仏(高徳院)、円覚寺、建長寺、鎌倉七口、江の島、若宮大路、段葛、江ノ島電鉄線、切通しが出題。
2019年日本地理に鶴岡八幡宮、小町通り、高徳院、江ノ島電鉄出題。
神奈川県南東部の市。南は相模(さがみ)湾に面し、三方は丘陵や谷が多い。鎌倉幕府が置かれた地で、幕府跡・鶴岡八幡宮・建長寺・円覚寺・長谷はせの大仏・長谷観音などの史跡・社寺や文化財が多い。由比ヶ浜(ゆいがはま)・材木座海岸は海水浴場。住宅地。人口17.4万(2010)。
出典 小学館デジタル大辞泉
鎌倉幕府を開いた源頼朝の5代前の源頼義が東北での戦いに勝って京都に帰る途中に1063年(康平6)に鎌倉に立ち寄り、この地に源氏の守り神である石清水八幡宮の祭神を移したと言われる。その後頼信・頼義親子は鎌倉に領地を賜った。頼朝がその源氏ゆかりの地に御所を建て幕府を開く前、鎌倉に入った直後にこの神社を鎌倉の最も目立つ場所にうつし、それを自らの幕府の拠り所、鶴岡八幡宮とした。
境内には頼義の息子でこの神社の修理を行った記録が残る源義家のお手植えの松、「旗立て松」が残る。
鎌倉観光公式ガイドHP→https://www.trip-kamakura.com/place/9.html
『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。吾妻鏡は、空白期間の存在が知られており、1196年から源頼朝が死去した1199年までの重要な約3年間が記録がなく、他に1183年、1242年、1249年、1255年、1259年、1262年、1264年の記述もほぼ欠落している。
編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。日本における武家政権の最初の記録と評される。
吾妻鏡Wikipedia
鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで一直線に伸びる参詣道が若宮大路。デベロッパー頼朝(←ブラタモリ)が鎌倉の町づくりのために作った。頼朝時代は今より広く、幅が33mあった。若宮大路の車道になった部分の真ん中にまっすぐに一段高くなった歩行用道路があり、段葛と呼ばれる。鎌倉は谷戸と呼ばれる谷筋が沢山あるが、その水が沢山集まるところに若宮大路が存在するために常に湿地となりがちだったため、参詣しやすい一段高い道路が必要で、頼朝が陣頭指揮を作って段葛(当時は由比ヶ浜まで続いていた)を作り、さらに大路の両脇に幅3m深さ1mの側溝(二の鳥居まで。それより下流は川と合流)が作られていたという。水を巧みに操る街づくりが得意な頼朝の力がわかる場所である。
参考:「若宮大路」鎌倉市観光協会
鎌倉市二階堂(鶴岡八幡宮北東。鎌倉幕府があった辺りではないかと推測されている)にある。源頼朝が建立。二階建ての仏堂であったことから二階堂と称された(現在も地名に残る)。
1967年~発掘調査され、2017年~元の遺跡の60㎝上に二階堂、阿弥陀堂、薬師堂などの基壇(基礎)と苑池の復元が完了し、公開されている。奥州の無量光院や宇治の平等院鳳凰堂と配置が似ており、極楽浄土(苑池は極楽の宝池(ほうち)をあらわす)を模したものとされる。吾妻鏡によると頼朝が石の配置など細かなところまで自ら指図して作らせていたとある。ちなみに庭の石などは現在、当時の物をそのまま配置されている。
奥州征伐で奥州藤原氏を滅ぼし武家の頂点に立った頼朝が、供養と共に自らの権威を見せつけるために壮大な寺を建てたと考えられる。
寺跡は国の史跡に指定されている。また世界遺産候補となっている武家の古都・鎌倉の構成資産のひとつ。
源頼朝は1189年(文治5年)9月の奥州合戦を契機に、数多の戦を供養し源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。造立責任者は工藤行政、建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。1192年(建久3年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。
1405年(応永12年)に火災に遭い、のちに廃絶した。
参照:永福寺跡wikipedia
参照:NHK「ブラタモリ『鎌倉~頼朝は武士の都・鎌倉をどうつくった?~』」
(世界遺産登録について(武家の古都・鎌倉wikipediaより))
2012年1月に推薦書が世界遺産センターに提出され、同年9月24日から27日に諮問機関であるICOMOSの調査団が訪れた[13]。その調査を踏まえた勧告が2013年4月30日に示され、「不登録」と判断された。日本が単独で推薦した資産で「不登録」勧告を受けた例は初めてである(複数国の推薦ではル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―の例がある)。ICOMOSが不登録とした理由は、当時の都市計画や経済生活などを示す資産が含まれておらず、完全性の条件が満たされていないため、基準 (3) についても基準 (4) についても、証明ができていないと判定されたことによる。
この勧告を受けて日本の関係省庁連絡会議では同年6月4日付けで、世界遺産委員会への推薦取り下げを正式決定した[5]。これは、再推薦が不可能になる委員会での「不登録」決議を回避し、抜本的な推薦文書の練り直しを踏まえて再推薦したいとする地元自治体などの意向を踏まえたものである。
世界遺産推薦取り下げを受け、その支援事業として『日本遺産制度』が創設され、2016年(平成28年)に「”いざ、鎌倉” ~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」として認定された。
不登録勧告内容を是正するためのコンセプト修正には相当な時間を要するため、2019年(令和元年)11月に神奈川県と鎌倉市・横浜市・逗子市が文化庁に提出する世界遺産推薦書(原案)の作成活動を同年度限りで休止すると発表した。規模は縮小するが基礎研究と文化財調査および整備事業は継続され、世界遺産登録は諦めない方針も明らかにされた。
神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。鎌倉八幡宮とも呼ばれる。11世紀後半に、源氏の守り神として創建された(元八幡の項 参照)。以後、鎌倉武士の守護神となる。現代では全国の八幡宮の中で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝ゆかりの神社として関東方面で知名度が高い。境内は国の史跡に指定されている。
祭神:
応神天皇 (おうじんてんのう) 第15代天皇
比売神 (ひめがみ)
神功皇后 (じんぐうこうごう) 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母
創建後、源氏ゆかりの宮として武士の信仰を集めたが鎌倉幕府の衰退と共に八幡宮もすたれ、鶴岡八幡宮の戦いで里見氏の焼き討ちにあったが、その後後北条氏の北条氏綱や徳川11代将軍の家斉の手によって復興され、今に至る(関東大震災で被害)。
なお鎌倉3代将軍源実朝を討った甥の公暁が隠れていたとされる大銀杏の木は、平成22年(2010年)に残念ながら強風のため、倒れた。
家斉が再建させた本宮は国の重要文化財に指定されている。
現在の神奈川県鎌倉市南部の相模湾に面した海岸の名称である。
三浦半島の西端部に位置する。
通常は滑川河口の西側の海岸とその周辺(由比ガ浜一丁目 - 四丁目付近)を由比ヶ浜、東側を「材木座海岸」と称している。
現在は著名な海水浴場がある湘南の海として知られ、毎年夏になると多くの海水浴客が集まっている。
鎌倉時代には御家人同士の激戦地であり、現御成町にあった問注所での裁判の結果の処刑場でもあった。戦乱の有無に関わらず、中世に由比ヶ浜砂丘は集団墓地として利用されており(由比ガ浜南遺跡・由比ガ浜中世集団墓地遺跡)、現在でも人骨が埋まっており、建設工事に伴う発掘調査で当時の人骨が出土する。
源義経の妻妾静御前が、源頼朝配下に捕われて鎌倉に送られた後、義経の男児を出生するが、男子が生まれた場合は殺すという頼朝の命により浜に遺棄されたと伝えられている。また、有力御家人和田義盛もここで戦死したと伝えられ、供養塚の和田塚が所在する(和田合戦)。元弘の乱の鎌倉の戦いにおいては、新田義貞が稲村ヶ崎を突破して浜に進攻、幕府の滅亡を決定的にした。
2013年には鎌倉市が海水浴場の命名権を売りに出し、『鳩サブレー』で知られる地元の菓子店・豊島屋が10年契約で権利を購入したが、「親しんだ名を変えたくなかった」として名称変更を行わず従来の名称を維持している。
由比ヶ浜Wikipediaより
長谷寺公式HP→https://www.hasedera.jp/
神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗系統の単立寺院。正式には海光山慈照院長谷寺(かいこうざん じしょういん はせでら 山号: 海光山、院号: 慈照院)と号し、長谷観音(はせかんのん)の名でも知られている。本尊は日本最大級の木造仏像である十一面観世音菩薩像。開山は徳道上人。坂東三十三観音霊場の第四番札所である。
参考:長谷寺(鎌倉)wikipedia
公式HP→ https://www.kotoku-in.jp/
高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院。本尊は国宝銅造阿弥陀如来坐像の鎌倉大仏。正式には大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)と号する。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳。
寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711年 - 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。
『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である。
2004年(平成16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。なお、大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある。
近世以前に造立された大仏は、天災や戦乱で失われたものが多く、鎌倉大仏は、造立当初の姿をよくとどめている貴重な存在である。
江戸時代には、鎌倉大仏(像高約11.39m)、東大寺大仏(像高約14.7m)、方広寺大仏(京の大仏、像高約19m)の三尊が、日本三大仏と称されていた。
参考:高徳院Wikipedia
神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山。正式には巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)と号する。
鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。鎌倉五山の第一位。境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定。
建長寺は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼により創建された禅宗寺院で、建長5年(1253年)に落慶供養が営まれている。開山(初代住職)は南宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師)であった。当時の日本は、承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定していた。京都にある朝廷の全国支配力は弱まり、政治的には鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代であった。北条時頼は熱心な仏教信者であり、禅宗に深く帰依していた。
創建の時期については、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には建長3年(1251年)から造営が始められ、同5年(1253年)に落慶供養が行われたとある。造営開始時期については建長元年(1249年)ないし2年からとする異説もあるが、おおむね建長元年(1249年)頃から造営の準備がなされ、同5年(1253年)に完成したとされる。建長寺が所在する山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であって、北条氏の本拠地でもあった。
開山の蘭渓道隆は中国・宋末の禅僧で、寛元4年(1246年)、33歳で来日した。はじめ筑前国博多に着き、京都に一時住んだ後、宝治2年(1248年)に鎌倉入りした。建長寺が創建されるまでは常楽寺(鎌倉市大船に現存)に住した。当時の日本には、すでに半世紀以上前に建立された建仁寺(京都)や寿福寺(鎌倉)などの禅宗系寺院があったが、当時これらの寺院は禅宗と他宗との兼学であり、純粋禅の道場としては建長寺は、聖福寺(北九州)などに次ぐ古さを誇るとされている。伽藍配置は中国式であり、寺内では日常的に中国語が使われていたという。蘭渓道隆の禅風は中国宋時代の純粋禅を受け継いだ厳格なものであった。
正応6年(1293年)4月12日に発生した鎌倉大地震により建造物の大半が倒壊、炎上。元から来日した一山一寧を第十世に任じて再建にあたらせる。だが、続いて正和4年(1315年)、応永23年(1416年)をはじめとするたびたびの火災で創建当初の建物を失った。鎌倉時代末期には修復費用獲得のため、幕府公認で元へ貿易船(寺社造営料唐船)が派遣され、「建長寺船」と呼ばれた。
建長寺wikipedia
参考:巨福山建長寺HP→ https://www.kenchoji.com/
三門(国重要文化財)の正面トップの場所には北条氏の紋「三つ鱗」が掲げられている。
けんちん汁の特徴は、豆腐や野菜などの具を油でいためていることである。具を油でいためる料理は建長寺の初代住職の蘭渓道隆(現在の中華人民共和国重慶市の出身。南宋の僧)が伝えたという。
建長寺汁→けんちん汁?
参考:NHK「ブラタモリ」
蘭渓道隆は寛元4年(1246年)来日し、京都を経て日本に宋風の本格的な臨済宗を広めた。建長5年、建長寺が創建された際、北条時頼に招かれて初代住職となった(開山)。創建当初の建長寺は、中国語が飛びかう異国的な空間であった。当時の建長寺の住持はほとんどが中国人であり、無学祖元(現在の浙江省出身の僧)はじめ、おもだった渡来僧はまず建長寺に入って住持となるのが慣例となっていた。『沙石集』を著した無住は、『雑談集』のなかで、建長寺はまるで異国のようであるとの感想を記している。(蘭渓道隆wikipediaより)
建長寺はすべて衣食住(禅庭含む)言語すべてが中国風(中国の完コピ)であった。
すなわち、固着化した京都の従来の仏教文化ではなく、当時の世界の最先端が建長寺、ひいては鎌倉にあったという事になる。既存の文化がなかった鎌倉だからこそ、可能であったことだとブラタモリで古田土俊一氏(鶴見大学非常勤講師)が指摘していた。
神奈川県鎌倉市山ノ内にある寺院。正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ 山号: 瑞鹿山)と号する。臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。
鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護された。
舎利殿(国宝)は、神奈川県唯一の国宝建造物で、境内の奥に位置する塔頭・正続院の中にある。「塔頭」とは禅寺などで、歴代住持の墓塔を守るために作られた付属寺院のことを指し、正続院は開山無学祖元を祀る重要な塔頭である。舎利殿は入母屋造、杮(こけら)葺き。一見2階建に見えるが一重裳階付きである。
円覚寺Wikipedia
忍性 奈良からやってきた僧。五輪塔は忍性が奈良から連れてきた石工集団を連れてきた。この石工集団は東日本一帯の橋や道の公共事業やインフラの整備を担当した。また、寺域は建築当時は大変広く興福寺式に金堂も3つあり、密教形式の東寺方式の寺もあり、奈良の室生寺をあらわす五重塔も多く、東西には熊野三山を模した滝や熊野本宮などもあるなど、巨大な寺であった。(東側には鎌倉大仏がある)
その理由を上智大学文学部特任教授の西岡芳文さんは、元寇で西日本がモンゴル帝国に陥落した時の備えに、西日本の大寺院、すなわち北条氏が日本の精神的支柱の疎開を行ったのではないか、それは鎌倉幕府の大変な偉業だったと説明している。(参考:ブラタモリ「鎌倉の寺~北条氏の寺でわかる!鎌倉幕府の偉業とは」)
鎌倉港の管理をしていた金沢北条氏が、京都へ行って写本したり、求めたりしたものが保管されているのが、金沢文庫。その分野は法律、歴史書、文学作品から日記に至るまであらゆる分野にいたる。国宝はなんと2万点以上。
中でも、国宝「文撰集注(もんぜん(せん)しっちゅう)」は、中国で書かれた諸葛亮孔明などの偉人の名言集で、京都で写本を金沢北条氏が求めたものだが、現在は日本はもちろん、中国にも残っておらず、大変貴重な価値がある。
京都の文化的知識や政治に関する知識が不足していた鎌倉のために金沢氏があつめた。
北条氏が滅びた後、その貴重な大量の資料は隧道で結ばれていた称名寺が大切に保管してきた。しかし、戦乱でかなりの資料が散逸し、室町幕府から江戸幕府が所蔵したりもした。それで、金沢文庫の書物を持っていることが、のちに刀剣や焼物・茶道具などと同じように武将たちのステータスになったりもした。現在は金沢文庫の書物は国内外に散らばってしまっているが、北条氏が集めたからこそ、残っているともいえる。
参考:NHKブラタモリ「鎌倉の寺~北条氏の寺でわかる!鎌倉幕府の偉業とは~」
説明は、神奈川県立金沢文庫学芸員貫井裕恵さん
鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)への、鎌倉道などの陸路からの入口を指す名数。鎌倉時代には「七口」の呼び名は無く京都の「七口」をもじったもので「鎌倉十橋」「鎌倉十井」などと並ぶものである。鎌倉七切通(かまくらななきりどおし)とも呼ばれる。
極楽寺坂切通
大仏切通
化粧坂
亀ヶ谷坂
巨福呂坂
朝夷奈切通
名越切通
1996年(平成8年)、文化庁の「歴史の道百選」に「鎌倉街道-七口切通」として選定された。
現状の鎌倉七口は、巨福呂坂が新道となり痕跡だけ残して消滅。極楽寺坂切通も普通の車道となり、明治時代以前の趣を残しているのは大仏切通、朝夷奈切通、名越切通の3か所と多少趣を残しているのが化粧坂と亀ヶ谷坂である。なお、切通しの姿を多く残している場所でも、鎌倉時代の切通しがそのまま残っているわけではなく後世に整備されたものであることがわかっているものもある。名越切通の発掘調査では鎌倉時代にはより高い位置にあり、さらに大地震の影響などで復旧が繰り返され、現行のルートは江戸時代に整備された交通路であることがわかっている。
切通し(きりどおし)とは、山や丘などを部分的に開削し、人馬の交通を行えるようにした道である。
街道整備のために作り、鎌倉市のように封鎖を容易に行えるような狭いものから、何人も横に通れるようなものもある
源頼朝が幕府を開いた鎌倉は、南が海で他の三方が山に囲まれた閉鎖的な地形で防御には適していたが、交通には不便だったため切通しが整備された。
参考:切通しWikipedia
神奈川県藤沢市にある陸繋島である。
四囲を海蝕崖に囲まれた険阻な地形や海蝕洞「岩屋」の存在は、古来宗教的な修行の場として江の島を特色づけてきた。奈良時代には役小角が、平安時代には空海・円仁が、鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。寿永元年(1182年)に源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、参詣されてきた。弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝した。ことに音曲に関連する職業に多い視覚障害者の参拝も見られ、中でも関東総検校となる杉山和一の存在は特筆すべきである。参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。宿坊の中でも岩本院(江嶋寺=こうとうじとも呼ばれた)は有名で、現在の旅館「岩本楼」の前身にあたる。
安政5年(1858年)の日米修好通商条約から1899年(明治32年)の日英通商航海条約発効までの間、横浜の外国人居留地に住む人々は、行動範囲を居留地から10里以内に制限されていた。その制限範囲内にあり、風光明媚で宿泊施設が整っていた江の島には、明治初期以来多くの外国人が訪れるようになった。東京大学の初代動物学教授エドワード・S・モースは1877年(明治10年)7月から8月まで、シャミセンガイ研究のために江の島に日本最初の臨海実験所を開いた。アイルランド人貿易商サムエル・コッキングは、東山頂上部にあった与願寺の菜園を買い取り、別荘と庭園の造営を開始した。多くの熱帯植物を収集栽培し、本格的なボイラーを持つ大型温室やオオオニバスの栽培池を持つという画期的な熱帯植物園が完成したのは1885年(明治18年)のことであった。ただし、温室の完成は1888年(明治21年)以降と推察される。 このように、文明開化の時代に江の島が近代博物学発祥地の一つとなった。
落語の大山詣りに見られるように、江戸時代後期には江戸庶民の行楽地として大山 - 江の島 - 鎌倉 - 金沢八景を結ぶ観光ルートが流行した。立て前は寺社参拝だが、景勝地や古蹟を訪ね、名物料理を味わい、名産を土産とするという側面が強くなってくる。江の島の風光は多くの浮世絵に描かれ、歌舞伎の舞台となるなど、広く知られるようになる。明治維新の廃仏毀釈により、与願寺は宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館へと転業した。1887年(明治20年)の鉄道開通、さらに1902年(明治35年)の江之島電氣鐵道の開通は江の島に多くの観光客を運ぶことになり、鎌倉まで全通すると、江の島、鎌倉を結ぶ観光ルートが確立し、修学旅行などで賑わうようになった。大正時代には新たな神社として児玉神社が祀られた。1923年(大正12年)9月1日 - 大正関東地震により島全体が2メートル近く隆起し、海蝕台が海面上に現れる。東岸の津波被害は著しく、島内のほとんどの建物は倒壊した。江の島桟橋は津波で流失する。震災の復興が進む中、1929年(昭和4年)には小田急江ノ島線が開通し、観光地発展のきっかけを与えた。神奈川県は湘南海岸一帯の国際観光地開発を目論み、湘南遊歩道路(現・国道134号)の敷設をはじめ、インフラ整備が進められた。江の島では1934年(昭和9年)4月、海底透視船が営業開始するなど、新しい魅力が加わった。
戦後、1947年(昭和22年)4月1日、江の島を含む鎌倉郡片瀬町は藤沢市に編入され、藤沢市と江ノ島鎌倉観光による江の島の観光地開発が本格化する。木造の江の島桟橋はコンクリート橋脚(橋桁は木製)の「江の島弁天橋」となり、「江の島植物園」「平和塔」の建設が続いた。1959年(昭和34年)3月5日、藤沢市は米国マイアミビーチ市と姉妹都市提携を結び、「東洋のマイアミビーチ」という触れ込みで江の島・片瀬・鵠沼地区の観光開発に力を入れる。この年、江ノ島鎌倉観光は日本初の野外エスカレータ「江の島エスカー」を建設した。
江の島周囲の隆起海蝕台は、磯釣りや潜水(ダイビング)のポイントとして知られ、漁師の中には釣り客のために釣船を仕立てたり、舟宿を営む者もいた。1964年(昭和39年)の第18回東京オリンピック時にはヨット競技会場に選ばれた。この指定を受けて島の東部を大幅に埋め立て、ヨットハーバー・湘南港建設のために1962年(昭和37年)、神奈川県道305号江の島線自動車専用橋「江の島大橋」が開通し、「江の島弁天橋」の通行料が無料となった。この埋立により江の島の陸地面積は1.5倍ほどに拡大した。こうして完成した江の島ヨットハーバーは、1000隻以上のヨットを収容できる日本トップクラスのハーバーとして活用されている。東京オリンピックを皮切りに国際大会もしばしば開催され、1998年(平成10年)には第53回国民体育大会(かながわ・ゆめ国体)のヨット競技会場となった。プレジャーボートの管理や小型船舶操縦士の講習施設もあり、江の島漁港には釣船の発着場もある。
神奈川県藤沢市に本社、同市の江ノ島駅に本店を置く鉄道事業者である。一般に江ノ電(えのでん)と略称される。神奈川県内で鉄道1路線(江ノ島電鉄線)を運営している。小田急電鉄の完全子会社であり、小田急グループに属する。
正式社名の「江ノ島電鉄」で呼ばれる例は少なく、一般には「江ノ電」と呼ばれ、自社でも積極的に「江ノ電」と呼称している。
参考:江ノ島電鉄Wikipedia
2022年大山(ここは丹沢大山国定公園)、葉山、箱根、が選択肢として出題。
[大山]
大山(おおやま)は、神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市境にある標高1,252 mの山である。丹沢山などの丹沢の山々とともに丹沢大山国定公園に属し、神奈川県有数の観光地のひとつである。日本三百名山や関東百名山のひとつでもある。
大山は、丹沢表尾根の東端にあり、富士山のような三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた(大山信仰)。
江戸時代の中ごろ(18世紀後半)から、大山御師(明治以降は先導師)の布教活動により「大山講」が組織化され、庶民は盛んに「大山参り」を行った。各地から大山に通じる大山道や大山道標が開かれ、大山の麓には宿坊等を擁する門前町が栄えることとなった。
大山では、天狗信仰も盛んであり、阿夫利神社本社(上社)が石尊権現社(大山寺本宮)だった江戸時代までは、山頂奥社が「大天狗社」、山頂前社は「小天狗社」だった。そして大山には日本の八天狗に数えられた大山伯耆坊の伝説も伝わっている。元々は伯耆大山の天狗であり、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峯に行ってしまったために、相模大山に移り、富士講の人々に信仰されたという。現在でも阿夫利神社の下社の近くに伯耆坊の石碑があり、大山寺の側には伯耆坊を祀った祠がある。
[葉山]
神奈川県の三浦半島西部に位置し、三浦郡に属する町。現在、郡内唯一の自治体となっている。御用邸のある町として有名である。
地元では鐙摺海岸を日本のヨットレース発祥の地と主張しており、付近には葉山マリーナなどのマリンスポーツ施設がある。森戸、一色、長者ヶ崎の海岸は首都圏有数の海水浴場としてにぎわい、江ノ島はもちろん晴れた日には天城山脈など伊豆半島の山々から遠く富士山まで望める。別荘地としても知られ海岸沿いには有名人、著名人の自宅や別荘などが多くある。
[箱根]
静岡県に近い神奈川県南西部の一角、箱根カルデラ近辺の一帯を指す地名。
古来東海道の要衝であり、「天下の険」と謳われた難所箱根峠のふもとには宿場や関所が置かれた。近代以降は保養地・観光地として発展。各所に湧く温泉や、芦ノ湖、大涌谷、仙石原などがとりわけ有名である。1936年に「富士箱根国立公園」(現・富士箱根伊豆国立公園)に指定されている。
箱根駅伝 - 東京箱根間往復大学駅伝競走(とうきょうはこねかんおうふくだいがくえきでんきょうそう)は、1920年に開始された、毎年1月2日と1月3日の2日間で開催する関東地方の大学駅伝競技会(地方大会)である。関東学生陸上競技連盟(以下「関東学連」という。)が主催し読売新聞社が共催する。
箱根町 - 神奈川県足柄下郡箱根町。中心地は箱根峠の東側にある観光都市である。
箱根山 - 箱根町を中心に、神奈川県と静岡県にまたがる火山の総称。活発な火山活動が見られる。
箱根峠 - 神奈川県(相模国)と静岡県(伊豆国)の境にある、東海道の峠。
神山 - 神奈川県足柄下郡箱根町にある標高1,438mの山で、箱根山の最高峰である。古くから神の山として崇められてきたことからこの名がついた。箱根火山の中央火口丘の一つ。約3,000年前に山体西部を崩壊させ、堆積物がカルデラ内の川をせき止めて芦ノ湖を形成した。
箱根温泉 - 箱根町内にある温泉の総称。
箱根関 - 東海道やその脇道に置かれた箱根の関所。入り鉄砲に出女。
箱根宿 - 東海道五十三次の宿場の一つ、江戸側から数えて10番目。
参考:『わたらせ川を知ろう』国土交通省 関東地方整備局 渡良瀬川河川事務所 https://www.ktr.mlit.go.jp/watarase/watarase_know020.html
渡良瀬川は、 群馬県 ( ぐんまけん ) と 栃木県 ( とちぎけん ) の境にある 皇海山 ( すかいさん ) という山から始まります。 最初 ( さいしょ ) は松木川という小さな流れですが、いくつかの小さな流れが集まり、渡良瀬川と名前も変わります。
群馬県みどり市 大間々町 ( おおまままち ) までは急な流れですが、 桐生 ( きりゅう ) 市、 足利 ( あしかが ) 市に入ると 川幅 ( かわはば ) も広がり、 栃木市藤岡町 ( とちぎしふじおかまち ) では渡良瀬 遊水地 ( ゆうすいち ) をとおり、 茨城県古河市 ( いばらきけんこがし ) で 利根川 ( とねがわ ) に合流します。
渡良瀬川の流域は、 上流 ( じょうりゅう ) から 下流 ( かりゅう ) までの間に合流する、桐生川や 巴波川 ( うずまがわ ) 、 思川 ( おもいがわ ) など23の 支川 ( しせん ) を合わせるとその面積は2,621km2となり、群馬県、栃木県、茨城県、埼玉県の4県にまたがります 。
渡良瀬川の川の長さは107.6kmで、 前橋 ( まえばし ) から東京までの 直線距離 ( ちょくせんきょり ) とほぼ同じ長さになります。渡良瀬川が流れる市町村は、13市町もあります。
参考:『渡良瀬川』Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%89%AF%E7%80%AC%E5%B7%9D
渡良瀬川(わたらせがわ)は、北関東を流れる利根川水系利根川支流の一級河川である。流路延長107.6kmは利根川の支流中で、鬼怒川、小貝川に次いで第3位の長さを持つ。流域面積2,621km2は利根川の支流中では最大である。
地理
栃木県日光市と群馬県沼田市との境にある皇海山(すかいさん)に源を発し、足尾山塊の水を集め草木ダムを経て南西に流れる。群馬県みどり市(大間々町)で平野に出て、南東へ急に向きを変え、桐生市から足利市・太田市・佐野市・館林市など、おおむね群馬・栃木の県境付近(両毛地域)を東南東へ流れる。
栃木県栃木市藤岡地域で明治・大正期に開削された洪積台地(藤岡台地)を東へ抜けた後、南に向きを変え、渡良瀬遊水地に入り巴波川(うずまがわ)、思川を併せる。茨城県と埼玉県の県境を南へ流れ、茨城県古河市と埼玉県加須市の境界で利根川に合流する。
一般的に日光市足尾地区渡良瀬にある神子内川との合流部から下流が渡良瀬川であり、これより上流は松木川(まつきがわ)と呼び分けられている。なお国土交通省では、足尾ダムから神子内川までの合流部分も含めて渡良瀬川と定めている。また、足尾ダムよりも上流部の松木川も渡良瀬川と呼ぶことがある。
名称の由来
上流にある足尾町の渡良瀬という地名に由来する。伝承によれば、この地名は日光を開山した勝道上人による命名である。勝道上人が川を渡ろうとしたところ、渡るのにちょうど良い浅瀬があったのでその場所を渡良瀬と名づけたという。