岩村義雄氏「キリスト教とボランティア道」

宗教者災害支援連絡会第26回情報交換会

2016年5月1日(日)14:30-18:30

東京大学山上会館

報告 岩村義雄氏(神戸国際支援機構代表)「キリスト教とボランティア道」「水平の〈運動〉から、垂直の〈活動〉に」

午前中は、牧師をし、神戸より

レジュメ(PDF)を参考に)

熊本県庁から1000人分炊き出し支援の依頼を本震の16日に受け,10人で17日深夜に到着。

全県下が未だ余震で揺れている。

「ようやくチャンスが巡ってきたとき、目の前に困っている人がいたら、そのチャンスを逃してまでもその人を助けることができますか?」と問い掛けた。そして、99匹の羊を置いてでも1匹の羊を探し出してくださるイエス・キリストの話を伝え、「これまで積み重ねてきたこと、生きがい、名誉を捨て、中傷や非難も甘受することがボランティアの真理契機」だと、キリスト教は観念ではなく体験の宗教である,

島薗先生は3.11の翌年「宗教と現代がわかる本」の対談の中で以下の提言をされた

「災害支援は、いままで欠けていたものを新たに見いだしていく、そういう手がかりになるような面があるのではないでしょうか。若いお坊さんもそうですし、宗教団体の人も被災地に行ってみて、地域の人に、たとえば心のケアをやると言ったって全然役に立たないんですよ。帰って教わると。そういう経験をとおして、逆に、いままで宗教的な伝統を身につけたつもりだったんだけれども、自分たちに欠けていたものを見いだしていく」(資料参考)

◯ボランティア道

ボランティアに関する本が世の中には大量にある

しかし、ボランティアの源流に関して誰もアカデミックの人が捉えて、指摘していない

「老いと死のフォークロア」という書籍(鎌田東二著)にニーチェの抑圧の問題が取り上げられている(魔女狩り、十字軍の問題も→それは認めます)

ヴォルンターテという用語からボランティアが生まれる

コリント人のお言葉「彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです」

アウタイレタスというギリシャ語の通り、自分から選んで、他者から、つまり組織、行政、国家からの外圧的な制度、戦略、政策のために駆りだされるのではありません。トモすると主体性を喪失し,「官」の下請けになると弱体化してしまう。

東京大学講師田中弥生さんの指摘

・社会的使命よりも雇用の確保、組織の存続目的が上位

・自主企業よりも委託事業により多くの時間と人材を投入

・委託事業以外に新規事業を開拓しなくなっていく。新たなニーズの発見が減る

・寄付を集めなくなる

・資金源を過度に委託事業に求める

・ボランティアが徐々に疎外されている。あるいは辞めている

・ガバナンスが弱い。理事のじかんの多くが行政との交渉に投じられている

行政がボランティアにストップをかけた東北大震災,今回の熊本地震は22日まで受け付けませんでした。助成が政府などから降りてくると委託事業に変質してしまう。

◯公共性

連帯性以上に公共性を重視すべきであり,最終的には人々の「活動」によってのみ「公共性」が担保される。

キリスト教会もともすると「福祉は行政の責任だから国に任せる。教会は布教に専念する」という体質ならば,地域社会から浮いてしまう。宗教者が被災地などで痛めつけられた人々の現場で,スコップで汗をかき,自由に語り合う場を設けるときに「公共性」が生まれる。

つまり大阪大学入江幸男教授が指摘するように,国家や行政は真の意味で公共とは言えず,営利組織である認識をもつべきである。

◯キリスト教とボランティア道

新鋭の社会学者である仁平典宏氏の著書『ボランティアの誕生と終焉―〈贈与のパラドックス〉の知識社会学』を「ボランティア道に関係する人ならば必読の書」と紹介。ボランティアを水平の「運動」ではなく、垂直の「活動」と捉える岩村氏は、ボランティ活動が市民運動や、社会運動および政治とは一線を画すというだけでなく、「ボランティア」と「奉仕」の違いも指摘する。また、善意の見返りを求めて、恩を売っておく行為はボランティア道から外れると話す。

「垂直の活動」とは、「われと汝(なんじ)」に基づく「活動」であり、「いただ(頂)きます」と“頂戴する頂点”へつながり、垂直の「活動」に仕えるのがボランティアだ。「被災地のボランティアセンターや社会福祉協議会からの委託ではなく、現場で自発的にボランティア活動に参加した人は、一人で被災者に接することになる」と。

まさに、日本のメディアが宗教オンチであり、とくにオウム真理教以降、クルセードかジハードかという政治家の中で、宗教者の責任は重い。平和の理想を語るには、宗援連のような情報を共有し、被災地で諸宗教が協力して活動する生き方を通して見せていくことが「宗教はこわい」というイメージを払拭していくことにつながる。

宗教を排除しようとする政府・国家権力に戦うにも民衆からの支持がたいせつである。「『ボランティア』の誕生と終焉」の中でも「行う」「活動」の大切さが記されている。

◯異教者(イスラエル人ではないということ)

聖書の善きサマリア人の話を伝え、「感性が研ぎ澄まされているなら、『助けてくれ』という叫び声を聞かなくても隣人になる」と。「お金があればできるのではない、それよりも家族、家、財を失った人と共にいること」。被災地の現場では資格、経験を問いません。いつでも,だれでも,どこでもできる共生,共苦,苦縁の「活動」activityこそが今,必要。

「いただきます」と一緒に言える人たちと連帯して、公共の中でどう成就していくか

東北の現場で、「幽霊出してくれ」と言われた時に私は、神学で学んだことが何の役にも立たないとわかった

一方、被災者の中に交わった時にコイノスという公共が立ち上がっていく

「『いる・いらない』という二元論で民衆が動いてしまうときに、宗教者は、自分の生き様を通して、一人一人に寄り添い、『いただきます』という一緒に共食するところが『神の国』

18日から20日まで5回にわたり500~700人分の炊き出しを行ったことを報告した。

なかなか進まないボランティアの受け入れ、倒壊家屋の支援への不備、放置状態の支援物資の山などを実際に見てきた岩村氏。「行政の無策は、阪神(淡路大震災)の時と同じだ。余震が続く中、被災者の疲労は極限に達し、阪神大震災以上の状態だ」と訴えた。」

「今後も災害の現場にすぐさま出て行こう」と呼びかけ、締めくくった。

質疑応答

蓑輪氏

「行政からのたくさんの課題が出ている中で、ボランティア組織を一方的に社会の枠組みに当てはめて指示をしてくる懸念がある中で、どのように解決の糸口があるのか」

→私自身もこれはという答えを知りたい

東北ボランティアで高速を使用する(お金が払われる)

これは仕え奉るから、「奉仕」という言葉

「奉仕」は「仕え奉らん」が源で、「日本書紀」「万葉集」などにも帝に仕え奉るなどの用例で出てくる

つまり、奉仕する者と受ける者との上下関係が示唆されている

東北の震災でも行政が手がまわりきらない

実際、仮設住宅在宅者の不満は限界にきている

その時こそ、ボランティアの働きが重要になっていく

お金があればできるということをこえて寄りそう人

人間こそが大切であるという考えが大事

稲場氏

「キリスト者としてのボランティアという観点で、YMCAの方が熊本の避難所での統括をされて、避難所運営が官の下請けになっている。社会との関わりということで、どのように本人の信仰と折り合いをつけるか」

→明治維新後「官」主導、中央統制の下で進められてきた

「民」は「官」に依存し従属することになりがちである

行政や社会福祉協議会の手厚い支援のもと、ボランティア活動が受け身のボランティアに変身していった

一方、他己のスピリット、利他という観点でボランティアをしていくことで、キリスト者だからこそ被災者に寄りそっていく。体験していくことができる

ボランティアを通して、誰も布教するわけでもなく、まき作りや田んぼ作業に従事した

熊本でも然り、宗教者として、生き様で、仏様やキリスト、神を見れるように生きていく