金光教大阪災害救援隊
竹内真治氏

第38回 宗援連情報交換会「能登半島地震における宗教者による災害支援」

金光教大阪災害救援隊(竹内真治さん)

1月6日に現地入り調査。現在は3回目の派遣。5回の炊き出しを行った。最初はどの地域を支援するか悩んだが、まず輪島高校で得意の炊き出しを行った。

輪島市の中心部では多くのボランティアが支援に入っていた。我々が炊き出しを行った日にも、自衛隊の配給を含めると、4団体の炊出しが重なってしまい、屋台村のような状況となった。場所の優位性や受け入れ体制にかなりの差があった。輪島高校の校長は、様々な支援を受け入れたことで、多くがボランティアが集まった。

前日の設営準備を終えて一晩考えた。目立たなくてもいいから、支援の来ないところに行きたいと思った。当日は100食でいいと言われていたので、お昼に炊き出しの100食を一瞬で配り終えて、次の場所へ移動した。人が行きにくい地域、支援の届かない地域。目星はつけていた。

輪島市門前町浦上地区、浦上公民館の避難所。一度100食を出したあとの100食は、普段なら不可能なことがなんとかできた。非常によろこんで頂いたので、そちらに今後支援をしていこうと決めた。

避難者は80から100名で推移している。二次避難をしていた方も、金沢にいると仮設住宅入居に関しての情報も入手できない。浦島太郎の状態になることを心配し、戻る方も増えてきた。

地域性も関係する。浦上地区は震災前から婦人会活動が非常に盛んだった。各家庭からご婦人1名が婦人会に入る。避難所では婦人会が毎日配膳する。なので二次避難等で参加できない人とは溝ができても仕方ないとも思う。

1週間後、避難所の目の前に仮設住宅が建設される。34戸に全員が入れる訳はなく、この仮設住宅に当選し入る方と公民館に残って避難所生活を続ける方とでは必ず格差ができる。さらに、二次避難の方が抽選に当選したりするとより嫉妬心も出てくるかと思う。地区の代表者に聞くと、避難所と仮設住宅はしばらくは向かい合わせで両立させるという。これは今後の大きな課題となるだろう。

もう一つは、家が全壊した人と無事だった人との軋轢。東日本大震災でもよくあった話で、両者にはかならず境界線がある。

私たちが支援している浦上地区に、月に1回か2回か。それも予算の都合ですけれど、お訪ねして。それでも1回の炊き出しでは2日間の滞在なので、避難者と仲良くなるスピードも速い。関係性を築き、せめて愚痴のひとつでも聞かせてもらっていく。経験上、それが大切なことだと思っている。

写真付きのメニュー表を持っていって、「次は何が食べたいですか?」と選んで頂く。ちなみに次は、救援隊名物の焼肉丼と特製ソースカツ丼を2日間にわたって提供する。

やはり温かい食事もそうだが、避難者は「カレーライスはもう見たくないよ」、豚汁も「一口でいい」と。これまで、どの災害地でもそうでしたが、避難者と距離が縮まったら、帰りにはよくヤマザキパンをこっそりと紙袋にいれて持たされる。同じものを食べていると飽きてくる。でも数年経ったら不思議なことに、食卓にあるパンは山崎パンだったりする。「もうヤマザキパンは見たくないと言ってたよね?」「随分とお世話になったからね。懐かしい味よ」と私たちは笑い合う。

実際に多くの方が炊き出しを行うが、だいたいカレーか豚汁かけんちん汁が多い。贅沢を言うわけではないがもう飽きられている。行政からも、便秘防止に食物繊維の多めのメニューが推奨される。ゴロゴロ野菜の入ったみそ汁は毎日になると飽きてくる。避難生活も長引いて、しんどくなってきたら、お肉・揚げ物を食べると元気も出てくる。避難者の方々の感想を聞くとそうなる。

まだまだ先行きがどうなるかというところだが、私の中では決めていることがある。浦上公民館と新しくできる仮設住宅。その間に毎回テントを張って。「あいつら来たな」と言ってもらって。両方の話を聞こうと思っている。それから、家に残って自宅避難の方も見つけ出して、その支援もしていきたい。

おいしいものを食べてもらって、こちらからの気配り、心配りをまず受け取ってもらってからの傾聴活動を通して、コミュニティの再構築に努めていきたい。

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茅野:浦上地区の炊き出しありがとうございます。全体の調整をしている関係で情報まで。2月22日現在、浦上の避難者は54名で、これから門前町では11カ所に集約されていく。仮設は建設されているが、全体数が足りない状態。いま指定避難所に502名。避難所が集約されることによって、半壊宅への在宅避難者が増えてくるのが現状。後期高齢者が多い地域でもあり、どのように私たちが命に寄り添っていくかを考えていかなければならない。

野村任(世話人・國學院大學):避難者のリアリティを伺って、私自身が経験した1983年に三宅島噴火災害の避難所でのこと。最初は被害が同じということでひとつにまとまる。災害ユートピアのような状態。時間が経過するにつれて、家や畑の被害の違い、また元々いた住民かどうかで軋轢も生じ、仮設の中でもバラバラになってしまう。それが時間の経過とともに、さらに深まっていった。当時は宗教的な経験もなく、間に入るという発想が全く出てこなかった。仲介する難しさについて伺えれば。

竹内:仲介は非常に難しい。どちらの意見、お気持ちも分かる。とにかくまず最初は、お話を聞かせて頂く。稲場先生も論文に書かれていた。よそ者だからできることがある―と。よそ者である私たちにいろんなことを話してすっきりして頂き、間に入らせて頂く。何ができるという事ではないが、聞かせて頂くことが傾聴活動の第一だと思う。

稲場:竹内さんの活動には、大阪大学学生もお世話になり学ばせて頂いている。活動は炊出しであっても、食べ物を提供することがメインではない。分断されたコミュニティを少しずつつなげていく潤滑油のような存在。竹内さんたちがくると、「また来てくれたか」と。人間的な関わりがあると感じた。最後の配膳はお手伝いし、最高の味で喜んで頂いた。一方で、竹内さんは他の団体と比べると大変な活動を3人でやっている。しかも調理は竹内さんおひとり。本部からの協力、支援はどこまでか。本部が活動を高く評価し、バックアップして頂ければと思うが。

竹内:それは難しいと思う。もちろん本部からの支援金での活動ではある。本部の総長が交代すると頂ける支援も変わってくる。西日本豪雨では元上司が総長でもあり、だいぶご協力を頂いた。内部的な人間関係もあると思う。

嶋田洋(金光教東京センター長):首都圏からどのような支援ができるかについて3度会議をもち、3月8日から5名が被災地に入り、情報収集に努める予定です。東日本の時は、教会を拠点として4年間活動したが、今回は、輪島教会は倒壊しており、七尾教会はご高齢のご婦人先生一人ということで、別に拠点を設けての活動を考えています。拠点の候補地は、富山県射水市か高岡市です。2年、3年の長期的な取り組みを考えています。東日本大震災時石巻で重機を持ち込み活動した岡山の金光教本部に事務所を構える少年少女会連合本部は、2月中旬に現地入りして、社協を通してベースキャンプを張れる場所を探しています。本日発表された大阪災害救援隊を含め、主体は違っても被災地での情報交換や協力関係は進めていきます。

島薗:東日本大震災では首都圏と大阪が混合チームで活動する協力関係にある。今回もそれに近いできるかたちが期待できると。