竹沢尚一郎氏「災害と地域社会:東日本大震災から学ぶ」

宗教者災害支援連絡会第30回情報交換会

2017年7月2日(日)15:30-19:00

東京大学仏教青年会ホールA・B

報告

竹沢尚一郎氏(国立民族学博物館)

「災害と地域社会:東日本大震災から学ぶ」

[別紙配布資料]

東日本大震災が起こり、被害規模の大きさを知って、家族で話し合ってボランティアとして現地に行くことを決定した。当時のガソリン供給の払底状況や、外部からのボランティア受け入れ有無などで、岩手県大槌町に家族三人で行った。最初はアルバムや書類の整理をボランティアセンターに依頼され、2週間従事。いったん帰阪したのち、5月末から地域のまちづくりや復興計画の策定にかかわるボランティア研究者として関わった。最初は遠野市、のちには大槌町に住居を構えて、自動車で大阪と往復しながら過ごすことにした。

ボランティアとしての大槌との関わりで強く感じていたことがいくつかある。ひとつは、まちづくり・地域おこしという関心。以前に九大につとめていたころも、山笠などのまつりに参加しながらまちづくりを考えていた。だから今回も大槌において、被災後の復興のまちづくりに苦労した地域の人たちの応援をしたいと思って関わったが、地域の人たちが考え抜いたことが行政に否定されるのをみて強い抵抗を覚えている。

もう一つの関心は、記録を残すこと。国立民族学博物館に勤務していることもあり、将来地域に博物館等の施設ができることを見越して、記録を残すことを決めた。そのためにインタビューをし、住民の集会を訪れた。インタビューでビデオに残したのは60人ほどだが、話を聞いた人は200人以上。書き起こしを作り資料とした。震災直後、日本学術会議が、東北被災地での調査は自粛せよというメッセージを発信していた(いわゆる調査被害の忌避)が、自身の経験からいえば、適切ではなかったと思う。私が話を聞いた被災者の人びとは、話したいという欲求を強くもっていたからだ。もちろん、上から目線の調査は避けなくてはならないが。記録は残さなければ消えてしまう。そして、地域の博物館などでは外部の業者に依託することが多いが(たとえば神戸市の施設)、それは被災者の語りを抑圧してしまうことに注意が必要だ。語り部を育てること、その内容を地域で話し合って決めていくことが重要だ。私はこのようにして見て、聞いたことを『被災後を生きる――吉里吉里・大槌・釜石奮闘記』(中央公論新社、2013年)にまとめた(のちに翻訳して英語版を出した)。

大槌町の避難所を十数カ所訪れて、地域に横の結びつきがあることがいかに重要かを知らされた。地域が緊密に連携した吉里吉里地区などの避難所と、すでに一定の連携がある組織に外部から避難者が加わった避難所と、町方の不特定多数が集まった避難所とを、比較した。幽霊出現譚のような形をとって顕れるトラウマや、役場の職員の多くが引きずる苦しみや思い出の混乱などに直面した。ここから察するに、地域にヨコの連携があるかどうかが、苦しみの緩和に深く関わっていると実感している。

この春、私どもの施設(民博)で、「津波を越えて生きる:大槌町の奮闘の記録」という展示を組織した。展示物は丸ごと大槌町に譲るという約束を前町長としていたのだが、町長が替わると、新町長は記録・記憶の保存には否定的な立場の人になった。保存に対する考え、とりわけ津波で破壊され、40人の職員がなくなった役場の保存に対する考えが、大槌町民でも割れている。記録・記録を未来に留めるということは難しく、施設だけを保存するというのではなく、語り部をまちで育成したり、過去の記憶にまつわる施設を建設するなどして、公共の記憶を作る努力が必要だと考えている。

※会場からは多くの質問が出された。地域の人にしかできない貢献に焦点を当てたお話であったが、外部から入る宗教者ならではの貢献というのもあるのではないか?という問いや、記録を残すことと、トラウマを再燃させないこととの間の配慮についての問いなどがあった。

(葛西賢太)