太田宏人氏「東日本大震災、熊本地震での活動報告~傾聴や清掃奉仕で仏性を拝む~」
2016年10月4日(火)14:30-17:15
東京大学仏教青年会ホールA・B
報告 太田宏人氏(曹洞宗/KTSK 傾聴に取り組む宗教者の会)
「東日本大震災、熊本地震での活動報告~傾聴や清掃奉仕で仏性を拝む~」
もともとペルーに住んでいた。無住の寺の維持管理をしていた。
雑誌、新聞でライターをしており、東日本大震災が起きてすぐに行動。
石巻に被災したペルーの人がいることを、在日ペルー人コミュニティの情報で知り、4月3日、石巻の商業高校の避難所に物資を届けに行った。
避難所に行った際に、トイレの汚さに衝撃を覚えた。
東松島で、身元不明の方の埋葬を自衛隊が行っている現場に立ち会った。こんな光景はペルーでも見たことがなかった。真言宗の僧侶が来ていて、読経していた。
KTSKという団体を立ち上げた。自殺対策に取り組む僧侶の会(当時)の中下大樹氏、吉田健一氏らと東京で会い、何かしようと作った。
ペルーの方とのご縁で、女川の第一小学校の炊き出しの話があり、新潟の医療者のボランティア団体のコーディネートを頼まれた。
そのとき集まった仲間が、最初のKTSKメンバー。
わたがしを作る。
雑務の一切合切を引き受け、このときだけの会として始まった。
傾聴に取り組む宗教者の会の頭文字でKTSK。全日本仏教会から助成金が出るので、団体を作らなければならなかった。
2011年6月25日に仮設住宅に支援物資を届けることも始まる。なかでも、お線香の要望がとても多い。その時点で会の方向性が決まった。
なぜ傾聴に取り組むことになったかは、今は思い出せない。
当時、傾聴はやらない方がよい、古傷を掘り返すな、など、ボランティア責任論の風潮が強い状況であった。しかし、ずっとやるつもりであった。終わらない、と思った。
避難所のお寺で、脱力している被災者がいた。傾聴してみると、ローン、仕事がクビ、家もだめになったなど。これは一度くらいのかかわりではどうにもならないと感じた。
雑誌『SOGI』の記者を15年してきたので、葬儀社とのおつきあいがあった。
葬儀社であまっている仏具を集めて配布するなどの活動も開始。
仮設住宅でお話を聴いたり、集会所で合同法要を行った。
超宗派なのは結果的にそうなった。
月1回の仮設住宅訪問を約70回行ってきた。
次第に活動のやり方を整えるようになった。活動の前に「チェックイン」を行い、自分の今の気持ちを述べあう。
活動終了時には合同法要を必ず行う。これは亡くなった人のためにではあるが、参加者のためでもある。気持ちの整理をつける。
宗派により、阿弥陀さんに聞いてもらう、禅宗だと自分の中の仏さんに聞いてもらう、ということになる。
女性も数名活動に参加してきたが、活動はハードという評価があり、女性は定着しない。
平成28年熊本地震へ。
仮設トイレの清掃状況(写真)。ボランティアセンターに登録せず、勝手にやっている。ボランティアセンターに登録して活動したこともあるが、制約が多く、自由に動けない。
トイレの場合、よく利用されて汚れるのは朝と夕方、寝る前。ボランティアセンターから派遣されての活動は昼間になるので、実はあまり汚れがひどくない。
紙を便器に流さずに入れるためのビニール袋が置いてあるが、そこから紙があふれ出している。それを押さえて圧縮する。
手袋と雑巾1枚でトイレ清掃していた。
仮設トイレの段差は高齢者が本当に大変(手すりもない、ペダルが固い)。
そのうち薬剤師に、ノロウィルスを拡散させることになると怒られて、完全防護でトイレ掃除するようになった。
ブラジルのサンパウロ新聞の記者に写真撮影された。
トイレの仏様、と『月刊住職』で稲場氏に紹介されたが「烏枢沙摩明王」に申し訳ない。
今は、避難所には仮設トイレはなく、建物内のトイレが使用できるようになっている。
KTSKの活動として、仏具配布、傾聴、清掃をしている。
「こんにちは」の挨拶を届ける、とホームページなどでは説明している。
「傾聴しましょう」などとはどこにも書いていない。
そのとき思ったこと。
やっぱり仏教者であることの自覚はもちろんある。
僧侶ならではの利点、メリットがあるのかどうかと問われるが、それはもちろんある。
東京の大学病院の血液のがんの患者さんが入院している血液内科病棟でボランティア、新潟の精神科病院と高齢者施設でケアの仕事を行っている。亡くなる人がいて、スタッフが動揺するときも話を聴く。
新潟では作務衣を着ている。個人的には着なくてもよいと思っている。
サ高住(サービス付き高齢者向け住宅)で、お位牌もってきているおばあちゃんたちに会う。私が行くと月参りみたいに迎えられる。お経を読むだけで満足するご利用者さんがいる。
被災地での傾聴活動では、宗教者であることを隠さない。
危険性もある。悲しみを引き出してしまう。
しかし、お経を読んでと言われることもある。そのときに、衣を着替えるということはしたくない。衣とはそういうものではない。
利他とはなんであるか? 曹洞宗の僧侶としての問い。利他と慈悲とは?
最初の頃は、困っている人に手を差し出すことだと思っていた。
ペルーで仏教の質問を受けることが多い。私は、仏教の基本は智慧と慈悲と伝える。
智慧は理解されやすい。しかし、慈悲が、実は伝わりにくい。
ペルーはスペイン語で、慈悲はmisericordiaという。
misericordiaは、お金を持っている人が、貧しい人に手を差し延べるというニュアンスで受け取られている。
仏教の慈悲は、それとは違う。
情けは人のためならずという言葉もあるが、それもまわりくどい。
「利行は一法なり」という『修証義』の一節に触れ、問いがお腹におちた。
活動の中で、自利利他はそもそも分けられないもんだなと感じる。
利他というのは、こちらから何かをあげるのではなく、させていただいているという感謝。
ギフトをあげているのではなく、いただいているということ。
だから「利行は一法なり」と気づいていく。させていただけたことに無上の喜びがある。
相手の迷惑になってはいけないが、多少、おせっかいでもいい。
熊本で、トイレに携帯を落とした人がいて、トイレの中に手を突っ込んで、
その携帯を取り出したとき、落とし主が涙を流して喜んでいた。
そのときに、こちらこそ、させていただけたという喜びがわき起こった。
避難所にいるおじいさんが、「あんたがお坊さんじゃないかとみんな噂している」、と言ってくれたが、お坊さんでなくてもできる。
誰でもできるが、喜びがあるか。利行は一法と思えるかどうかが大切。
最初は不審者と思われたが、トイレがきれいで使えると、感謝をされるようになってきた。
結果、エコノミークラス症候群が解消されていく。
本当は、私が泣いて被災者の人に感謝したいくらい。
内観療法(日本発の精神療法の一つ、吉本伊信が創始)半畳の中に襖を囲い、自分を調べる(身調べ)の面接者をやっている。
面接者は、屏風をあける前に、合掌する。
「仏性を拝む」という考えがある。
我々面接者は先生になってはいけないと言われている。
傾聴でも同じである。
質疑応答
Q.(稲場)どのあたりで、そのよう(利行は一法なり)に気づかれたのでしょうか。
A. 東日本大震災の発災から2年くらいは死別や、悲しみの話、生々しい体験談を聴いていた。それがだんだん減っていった。そのとき、考えが変わった。
会の中には、もっと悲惨なところへ行こうよという声もあったが、私は違うと思った。
不幸な人を探して、ニーズに応えるのではない。利他とはそのようなものではない。
そのときに、KTSKは一回終わったんだと思う。
2年前に癌になった。そのとき、自分と相手とを隔てているものがとれた。
健全で健康な私が、不健全で不健康な方のところへ行く、のではない。同じ宿業を負っている。そこで視点が変わった。
Q.(島薗)四摂法の利行と同事のことかと思いますが、禅の中でなかなか利行を言わない。内観療法の体験など、太田さんの人生の軌跡を教えていただきたい。
A. 曹洞宗の中からみたらば異端かと思う。
禅堂で言われるのは、利他も自利もない、「一切唯心造」。あなたが悟ればみんなが助かるんだから、そんなに被災地に行かなくてもいいでしょう、と。
そうかもしれない。ただ、苦は頭の中で処理できるものではない。そのような考えを苦のなかにある人に覆い被せて悟りの世界に行くようなことは、私にはできない。
ペルーは悲惨な世界。そういう世界にいると、自分が悟れば世界が悟るとは言えなかった。