佐藤健一氏「東日本大震災で明らかになった防災の課題」

宗教者災害支援連絡会第23回情報交換会

2015年7月11日(土)15:00-18:30

上智大学四谷キャンパス11号館511室

報告 佐藤健一氏(元気仙沼市総務部危機管理監兼危機管理課長)

「東日本大震災で明らかになった防災の課題」

三陸地区においては、自然災害といえば津波災害。

これまで、津波を第一として減災・防災に取り組んできた。

近代に入って、三つの津波(明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ地震津波)を経験したが、今回の東日本大震災では多くの犠牲者を出した。

気仙沼市での被害の状況ですが、明治三陸1896年では1906名死者。引き波から始まった津波による。地震の揺れは震度1~2。昭和三陸になりますと死者81名。37年前の明治三陸の教訓が活きていたとされている。地域によっては、経験が間違った形で伝えられ、被害を大きくした。この二つの地震をもって、津波の常襲地帯という言われ方をしている。

このあと、津波対策に本格的に入っていくことになる(津波常襲⇒常習(つねにならう))と。この当時から津波は波そのものだけでなく、漂流物から拡大する被害もあった。

日本の津波対策は、近年のインド洋津波までは津波の高さを対象とした津波対策が取られてきた。インド洋の津波を契機に再検討され、その取り組みは始まったばかりというのが実情。

(チリ地震津波の映像から)津波の知識が市民に普及されていない。映像から読み取れる。このあと津波がやってくる。でも畳を干している。

市は、初動段階の避難を中心として、ハード施設や避難するための情報入手、市民へのいち早い伝達に努めた。住民へのワークショップによるイメージづくり、防災教育、防災講座、いろいろなかたちで啓発に努めてきた。

明治三陸地震クラスの発災を想定し、東日本大震災前からイメージづくりに取り組んだ。内容として、

-津波のイメージを共有。

-宮城県つくった第三次被害想定。

-逃げる方向・避難する高台を決める。

-津波の到達までの時間。

-津波の到達時刻は予想と誤差がほとんどない。

-東日本大震災においても、ほぼ想定通りの時間帯でやってきた。

-津波の高さに関してはいろいろな要素がありきちっと出せない。

(想定映像CGから)津波の被害において、その要因は高さだけでなく、漂流物・火災なども挙げられる。そうした検討もなされていた。

この場所では、宮城沖地震連動も想定し、その際の震度は6程度。引き波の初動が14分後にやってきて、そのあとに押し波が5~10分後にやってくる。津波は8mの高さを想定していた。

避難の重要性。津波が到達できるまでに避難ができるんだ。だから、急いでにげましょうとその必要性。これが遅れるとだんだんと被害が拡大していく。「だから、逃げましょう!」と啓発し、呼びかけをしていた。しかしながら、この呼びかけが、本当に住民の方々に伝わったか?私は伝わらなかったと反省している。

このシミュレーションの中で、「避難困難」が一番の課題。例えば、自動車での避難が渋滞のため困難となる。その場合は困難な地域では、逃げ込む場所をつくるように呼びかけている。東日本大震災の経験では、避難困難は、住民の心理的要因が非常に大きいが、この点は国が進める避難困難の枠から抜けている。

避難ビルの指定

-約3千名が避難ビルで難を逃れた(指定外含めると5千名)。

-私は、結果的には運がよかっただけだと思っている。

-いま全国的に避難タワーがある。

-これは点の避難場所。次の拡大する被害から守ることができない。

-今回は干潮の津波でよかったが、満潮の津波なら駄目だった避難ビルもある。

-火災・漂流物で避難ビルの機能が失われる。

-その結果、そこに避難した人たちの命が失われた可能性もある。

-点であってはならない。次に拡大する災害を避け、そこから移動が可能な避難ビルが必要である。

情報の入手手段の確保

いろんな津波の情報システムに取り組んだが、通信ラインの寸断等により実際は使えなかった。

津波は海水と思っていたが、真っ黒で土砂を巻き込んで非常に重い水。ここから陸上にあがり、いろんな瓦礫をまきこむともっと重くなる。この水は非常に悪さをする。毒の水で、これを飲んだ人は命を失う。

15時30分頃、火災発生。オイルタンク23基のうち22基が流出してしまう。中のガソリン・灯油・軽油・重油がすべて流され、気仙沼の湾が火災に覆われた。避難ビルへも陸上からの火災が迫る。非常に寒かった。

災害対策本部には被害の状況がまったく入ってこない。情報を入手する手段がなく、想像するしかない訳です。救けを待っている人がいるのに、現場には近づけない。翌朝までに低体温で命を失う高齢者も多く出た。次々と被害が拡大し、流されて命を失い、漂流物で命を失い、寒さによって命を失う。

3月11日の夜は、雪がやみ、非常に綺麗な星空でした。あんなにきれいな星空を見たことがない。「神様って本当にいるのだろうか?」と本当に思いました。

なぜ次々とこういう事が起こるのか、神様があるんだったら起こさないのではないだろうか―というのが当時の気持ちだった。

あとから、落ち着いて考えた。この東日本大震災の悲惨さ、抱える課題を今後、災害が起こるかもしれない地域の人達に自分の事として捉えてほしい。その意味で、大震災が起きたのかなという思いもした。

あの時、情報伝達手段が使えませんでした。海面の状況を計るセンサーも全く役に立たない。地震と同時に電源が喪失し、ライフラインである通信機能も寸断されるという状況。

我々が最も頼りにしていた、沖合の津波計。三陸沖に7基あり、本来は津波到達の10-15分前には、気仙沼の浸水域まで分かるというシステム。その沖合の情報が全く入らず、データがとれない。これが当日の実態。

避難の誘導伝達手段も確保していたが、防災行政無線がバッテリーのある間だけで、エリアメールも使えず、ホームページも駄目だった。

杉ノ下高台は、稲場先生にも何度も来て頂いた。我々も課題を抱えた場所。ここは一時避難高台で安全と言われてたので、逆に被害を拡大した。防災マップが安全マップとなってしまった。結果、多くの人がここで命を落とした。この高台には約60名の方々が逃げてきたが、残ったのは6名のみ。残りは命を失うという結果となった。

「大きい地震があったら、津波が来ると思っててください」と言うのですが、逃げなかった人も結構いる。“大きい地震”の受け止め方がそれぞれ違う。受け止め方の相違を踏まえて防災減災を進める必要がある。

地域防災計画は非常に概念的だが、今後は定量的な評価も防災計画に盛り込む必要がある。想定するリスク以上のものがきたらどうするかをも想定の範囲として用意する必要がある。

防災計画の主役は住民だという防災計画。

どのような防災計画も、対応には限界がある。

限界があるという事を住民に示していく。

今後への備えということで

-正しく恐れる

-歴史に学ぶ

-経験にとらわれない

-避難困難

-ハード施設の整備と減災

未来に対して責任をもつことも大切

東日本大震災は自分の身に起こりうる事をあらためて考えさせる災害であったと思う。行政の人間として、住民も含めた他の地域の人たちにも急いで伝える。それが自分の役割。

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稲場(司会)

佐藤さんは、ずっと防災教育、地域の方々の啓発活動に取り組んでこられました。

先程、杉ノ下高台で50数名の方が亡くなったという話がありました。私も佐藤さんの案内で学生を連れて何回かそこに行き、その説明で佐藤さんは嗚咽されながら涙ながらに「自分が足りなかった」と涙されておられました。

しかし、気仙沼の方々とくに、知人の曹洞宗の僧侶も「佐藤さんがいろいろと取り組んだから、救われた命が本当にたくさんある。気仙沼の子供達もきちんと逃げている」と語っていた。それは、佐藤さんが地域連携をしながら、役所として長年防災教育に取り組んでこられたことだと思います。

Q)石井光太

行政機関として、あの当時はどのように動いていたのか。

被災地に行かれて、どのような感じ方をされたか。

A)

あの地震が起きた時は、ちょうど気仙沼市は議会の開会中。

本庁舎3階の会議室には市議会議員が全員と市の幹部が殆ど揃っていた。

予算審査終了の約30分後に地震が起きた。

大きい揺れが突然にやって来た。

絶対に津波がくると思いました。

1分半くらい動けなかった(記録では地震は3分ほど揺れた)。

途中何度か駄目かも知れないと思いながら、別建物の私の部屋へ戻った。

最初に部屋に戻ってやったのは、地震と海面変動の情報に関する情報入手の指示。それから、自衛隊の派遣要請。

災害対策本部を立ち上げ、消防署・関係機関と調整。

焼死者の確認、避難所開設など検討。

市役所にも多くの避難者がいて、災害対策本部を予定した部屋は使えない。

ですから、別の部屋で全員が立って執務する。

こうして、災害対策本部の第1回目を行った。

しかしながら、情報がまったく入らない

入らない中でやるべき事は想像するしかなかった。

15時36分に津波が市役所までやってきた。

我々は2階でしたが、1階の1m80㎝くらいまで津波が入る。

そこで初めて「これは宮城沖地震(クラス)」ではないと気がついた。

宮城沖地震も含めて、過去の津波では市役所の場所まで津波はきていない

市役所は湾の一番奥で距離もある。

この時、沿岸部地域は「助かってくれれば」と祈るしかない。

ここまで津波がくるという事になると、避難者の数は半端でない。

想像できないくらいの人数が避難しなくてはならないだろう。

そうなると備蓄の食料ではまったく足りない。

避難所が公的施設だけでは足りない。

避難者を把握する部隊を編成しなくては。

それらは計画にはまだない。

仕事は次々と出てくる。

計画を策定しながら、目の前の対応に追われていた。

初めて現地に行ったのは松岩地区。

かなりの世帯数がありましたが、瓦礫だらけで集落が全部ない。

あのときは涙がとまらなかった。

翌々日にはヘリコプターで大島に行った。

ヘリコプターも統率されておらず、自衛隊・米軍・消防庁など錯綜。

その中から入ってきたのに頼んで入れてもらった。

「行ってきます」と言える状況ではなく、勝手に行った。

大島の状況は把握できたが、「こんな町になってしまったか」というショックが大きかった。「助かってくれればいいな」と願った。

私は、役所に入って22年間ハード施設に関わった。

当時の市長がソフトの危機管理部署をつくって、自分がそこに入った。

ソフトでの防災を12年間やりました。

途中に1、2年違う仕事をしましたが、ほとんどが防災の仕事だった。

ハード・ソフトの防災をやってきたがまったく無駄だった。

というのが直後の気持ちでした。

しかし、ある住民の方から救けられました。

ある地区の自治会長さんで、「役所はなんでこれやんないんだ!」と普段からとても厳しい自治会長だった。

その方が来て、開口一番言われたのが「佐藤さん、あんたかなり落ち込んでるよな。だから、おれ来たよ。あんたがやってきたこと、自分でダメだと思っているだろう。今日、隣の会長とも話して来た。うちの地区は亡くなった方は多いよ。でも、ワークショップの訓練や防災講座に出ていた人たちは、あんた達のおかげで皆んなたすかったよ。あんた達のやってたことは役に立った。ありがとうと言いに来た」と。

全部ダメだなと思っていたのが、いくらか救われた。

という事もありましたね。

鎌田(京都大学こころの未来センター)

わたしは被災地の具体的な事例のお話を多く聞いたが、今日のお話ほど学んだ事はありません。

そのひとつは、東日本大震災以前に気仙沼市が立てた、被害の正確な把握とその対策。

CGを駆使し、具体的にシミュレートしていたにもかかわらずそれがうまく機能しなかった。

今日こういう形で我々にフィードバックして頂いている。

それが非常に重要。これからの大きな救済となると思う。

多くの人に共有される事に価値があり、深く傷つく体験をした人たちが望んでいることは未来にどうやって伝えていくか、まわりにどうやって伝えていくか。それにより、みんながたすかる道。

お聞きしたいこと2点。

Q1)防潮堤問題をどう考えておられるか。

「防潮堤はいらない、自分達は海と共に生きるんだ」という考えに共感します。宮城県としては、十数mの防潮堤をつくる計画があるが、この問題には難しい課題を含んでいると思うのですが。

Q2)最後の方で、スライドにある「正しく恐れる」とは、どのようにしていくことか?

A1)

防潮堤問題は震災後、「レベル1」「レベル2」という考え方が出されました。一方で、防潮堤を管理する海岸管理者に対して責務を課したのが、レベル1の防潮堤なわけです。

住民にも、要らないという人はいる。「財産を失っても、命があるからもういちどやり直せる」という人たちばかりではない。

いろんな相談を受けました。生活する術がない、食べていく術がない、収入がない、財産もすべて失った―。その人たちは「命がたすかっても生きられない。私もあの時に一緒に死んでればよかった。流されればよかった」と非常に苦しい話をされます。

人間は忘れる生き物であるという事が分かりました。それでも将来に起きた時に、「ここまでならたすかる」という仕組みをつくっておく。ひとつはある面、防潮堤というハードというかもしれません。「国民の財産を守れ」と法律がありますから、行政裁判でほとんど負けますね。「こうなるの分かっていただろう」とやってなかった側の責任、行政の不作為責任。

しかしながらも、我々は「生命・財産に対して、すべての人が逃げるという事で回避する」と決め、私たちが決めたことを後世の子々孫々に伝えるという仕組みを作っていくやり方もある。「おれは海がみえた方がいいから反対だ」では話が通らない。地域により実情は異なるが、きちんと話し合いをすべきだ。

リスク管理は発生頻度が判断要素となるが、起きないとされる期間も可能性がまったくない訳でない。分からないことが多い。文献はその以前からあるが、自然科学の面では、いろんな計測器ができてデータの蓄積はたかだか百年足らず。

今回の復興計画は、時間がかかった。

昭和3年の昭和三陸津波では、復興計画が出されたのは3月3日発災のたった5日後(3月8日)です。それなのに今回と中身がほとんど変わらない。

-計測の精度を上げる

-警報の精度を上げる

-住民への防災教育

-高台への集団移転

-危険区域には住まない

おそらく、また起きても同じ様なことしか出てこない。だったら、本気でやるのは今だと思うのです。

そのための東日本大震災だった。

おそらくあの当時もあのくらいの被害が出た。南海トラフ・首都直下など関東で起きたら大変な話。

その前に備えるべき。まさに今ではないかと。

Q2)「正しく恐れる」とは?

A2)非常にむずかしいですが、

-イメージしていく

-むやみにおそれない、諦めない。

震災前に諦める人がいるという話しがあります。震災以前に過疎という問題もある。工場も撤退する。震災が来る前に経済的にもかなりダメージを受けている。

現実を直視し、現状に基づいた想定から対応策をきちんと整理し、つくっていく。それが、正しく怖れていくことだと思う。

コンパクトシティのような総合計画がある。将来の人口・産業もふくめて行われるべきだが、そうした総合計画なしに復興計画が進んでいる。復興計画とイコールだと思っている所が多いですが、本当は異なる。

平成の大合併が足かせになって、逆に分散型の町となってしまったと個人的に感じている。震災後の集約型コミュニティーをつくっていきたい時に、それがつくれない状況。

市町村が、各々で集団移転する場所を設定し進めていく。それでは逆に分散してしまう。それが今、地域で起きていること。産業・人口問題を考慮した町作りという位置付けをきちんと踏まえないと、どこかの時点では大きな問題となるのではないかと思う。

Q)最後の「今後の備え」の部分で、町づくり・町おこしでよく見かける文言に「笑顔にあふれる町」と。どの町でもこれを目指している。震災を経た復興支援で、具体的なプランがあるのか?あるいは佐藤さんなりのお考えは?

A)

あれだけ泣いたんだから、本当に心から笑えるような町づくりコミュニティーづくりをすべきだなと。これは希望だと思う。しかしながら、石井先生の話にもありますが、本当に個人個人でまったく異なる考え方が存在し、その中で同じ方向を向いた笑顔があふれるのは本当に難しい。しかしながら、笑顔という、標語としてはそうありたいなと。