竹内真治「災害と防災について考える~災害の現場から」
シンポジウム「地域社会と宗教者―グリーフケアと災害・防災」
2019(平成31)年2月23日
災害と防災について考える ~災害の現場から~
金光教大阪災害救援隊
竹内真治
本日のシンポジウムには、大阪大学の稲場先生からご推薦をいただき、島薗先生からお声がけいただきましたので、至りませんが自身の体験を踏まえたうえで話させていただきます。
私たち金光教大阪災害救援隊はここまで、東日本大震災における救援活動に33回、熊本地震に23回、九州北部豪雨に9回、昨年の「7月豪雨・西日本豪雨」に8回、そのほか、伊豆大島土砂災害や十津川村の水害、大阪北部地震などにも出向いております。と言っても、我々救援隊の歴史は非常に浅く、東日本大震災からの活動になり、発足して間もなく8年というまだまだ未成熟な団体です。
発足の最初から話すと、東日本大震災発生時に初めて被災地に駆けつけたのですが、組織になっていない素人が現地に行ったわけで、もうどうしたらいいのか、わけもわからずに被災地の避難所に行ったのです。そこで行政の方に、「少し物資を持ってきていますが、配らせていただけませんか?」とか、「何か出来ることはありませんか?」と尋ねたのですが、「ここはすでに支援が入っている」と言われ、私たちには出来ることがなかったのです。
その後、いろいろと回ったのですけれど、当時、救援隊の名刺も持たない素人の私は、どこの避難所に行っても出来ることはありませんでした。
私は、出来ることがないのであれば、被災地をずっと見てまわってから帰ろうと思って、地図を見ながら海岸線を車で走ったのです。
そんななかで、避難所にも行けず、壊れた家に暮らしながら不自由をなさっている、言わば、孤立した家をたくさん発見しました。
そして、孤立してしまった家の方々に、私たちが持って行った食料などを袋に小分けして配ってまわったのです。
震災以降、ほとんど食べ物を口にしていない方もあり、非常に喜ばれました。そして被災者の方からは、「あなたたちは誰?」と聞かれるのですが、私はそのとき、金光教の・・・とは名乗らなかったのです。それは、宗教と言うだけで、色眼鏡で見られることがあるのもわかっていましたし、現に避難所に行った際、「金光教の・・・」といっただけでも、「ああ、宗教はちょっと、、、」と言われたことも度々ありました。ですから私は「大阪から来たボランティアです」とだけ名乗って、ただただ物資を配って回ったのです。そこから足しげく、何度も何度も通っていきます。
そして必ず言った言葉が、「こんにちは、お元気で、また来ます」この三つの言葉を言って回ったのです。
壊滅に近かった、宮城県のとある漁師町で屈強な漁師さんに言われて印象に残っている言葉があります。
「ボランティアがいっぱい来てくれた。そしてみんな、また来ます!また来ます!と言って帰ってったが、本当にまた来てくれたのは、あんたたちだけだ」と。そして目の前で涙をこぼされたのです。右も左もわからないなかでも、絶対に被災者の方々に嘘をつかない、親切の心を持って接する。そういうことを繰り返していくうちに、被災した方々の心の拠り所となっていくことができて、関係性が生まれていったのです。
今思えば、今回のテーマにあるように、こういう活動がグリーフケアということにつながるものではないかと思っています。ここまで8年間で、東北の被災地で知り合った方が何十人もお亡くなりになっています。そこに今でも寄り添っています。
そういう形で、我々のボランティアはスタートしていきました。
来月も東北に行きますが、今では、その東北の方々とも、何百軒というおつきあいがあり、ここまで実にいろんなエピソードがあります。
そういう始まりで、救援隊が出来ていって、そして今、私たちの最も得意とする活動は「炊き出し」です。
やはり食べられないことは非常に辛いことですし、なによりも、最初に東北で見たボランティア団体の「炊き出し」が非常に印象的でした。
トレーラーで避難所に入ってきて、トレーラーの横が開くと大きな寸胴がいくつも並べてあって、、、なによりも、「炊き出し」に並んでいる被災者の方たちが笑顔だったのです。家や家族を失って、失望のどん底にあるはずの方々が、暖かい食事をもらって笑顔だったのです。
その活動を見て、「私も、いつかは、ああなりたい」と思って今にいたりますが、今では設備も充実してきて、一度に300人前と言われてもそれがこなせるようになりました。炊き出しメニューのレパートリーもかなり多いです。
自己紹介的なことはここまでにしまして、やはり災害の現場に立ってみて、考えさせられることがあります。
災害の発生については、みなさんもお分かりのとおり、日本という国は、災害大国、災害列島と言っても過言ではないくらいに毎年どこかで災害が起こってきています。
ここ三年間の大規模な自然災害を振り返りましても、2016年、豪雪、同年4月熊本地震、同年糸魚川大規模火災、2017年那須雪崩事故、同年7月九州豪雨、2018年、豪雪、草津白根山噴火、大阪北部地震、7月豪雨・西日本豪雨、台風21号による被害、北海道胆振東部地震、そして先日も北海道が揺れました。
数えきれないほどの災害が国内だけでも起こっています。そのたびに、10年に一度、30年に一度、50年に一度の規模と言われて、また、災害が起こるたび、その規模が想定外、想定外といわれてきておりますことは皆さんもご存知のとおりです。
ひとつ、「熊本地震」を例にして言えば、あの加藤清正公が改築して天下の名城と言われた熊本城でさえも崩れ落ちました。震源地のひとつとなった益城町に入ると、恐ろしい光景が目の前に広がります。家が全・半壊していて、例えるとしたらSFの世界です。ゴジラが暴れまわったかのように無残な光景がひろがっていて、それは東日本大震災を彷彿させるほどのものでした。
熊本の現地を踏んで思ったのは、発災当初は、震度5以上の余震が毎日のようにあって、その警報や緊急地震速報が携帯電話なんかをとおして大きな音で入ってくる。そのたびに走っている車は側道に寄せてその揺れをやり過ごすのです。車を揺すられているような何とも言えない恐ろしさを感じました。はじめて益城町を訪れたときは、地震で家がここまで壊れるのかと思いました。
本当の恐ろしさを感じたのは、実際に地べたに座ったときに分かりました。被災した方と地べたに座って話すときに、それまでは、底の厚い靴をはいていたのでわからなかったのですが、直接地面に座ったときに驚きました。ずっと地面がビリビリと震動しているのです。
そして数十分おき、あるいは数分おきに、ガタガタガタガターーー!!とどこからともなく聞こえてきて大きく地面が揺れる。そのたびに、倒壊しかけた家屋が大きな音を立てて崩れていくのを目の前で見るのです。
そして、我々が駆けつけたときには、すでに避難所のキャパが溢れて多くの方が車中で寝泊まりしています。家がなんとか無事だったところも、いつ倒壊するかわからないし、続く余震で物がどんどん落ちてくるのに、その家では絶対に寝ることは出来ない。実際、最初に見たときよりも、数日経って二度目に見たときの方が被害が大きくなっていました。続く余震に耐えられなくて倒壊してしまった家がたくさんあったのです。
熊本の被災者の方と話すなかで、災害が起こった直後に必要だったもの、絶対に自分が必要だったものは二つですと教えてくれます。これはみなさんも何かわかりますよね。
「食事とトイレ」です。これは、どこの被災地に行っても実際に経験した方がハッキリ言われています。
「そんなことわかっている」と思われるかも知れませんが、今、この場で被災したと考えてみてください。家の物は何も取りに帰れません。もちろん、電車などの交通機関をはじめ、電気・ガス・水道などのインフラは完全には止まっています。コンビニもファミレスもスーパーも何もかも機能していません。
さて我々に今、何が出来ますか?時間が経つにつれ、お腹は空きます、トイレにもいきたくなります。食事はどうしますか?トイレはどうしますか?
救援隊と言っている私も、今日は丸腰で来ていますから、ここで災害にあったら今すぐ被災者になるのです。そういうことです。
もっと言えば、この場でなくても、家に居ても実は同じことが言えるのです。電気・ガス・水道が止まるのですから、冷蔵庫の中のものなんて夏だったら一瞬で腐ります。腐らないうちに食べようとしても、電気もガスも止まっているので調理すらできません。水が流れないのでトイレもすぐに溢れます。
実際、私が初めて東日本大震災で東北を訪問した時に見た光景。店はもちろん、今言った状況ですからどこも開いていませんでした。
コンビニのガラスには、どこも新聞紙が貼ってありました。
これも、どういうことかわかりますか?どうしてコンビニの窓ガラスに新聞紙を張るか。
答えは、コンビニはどこも24時間営業で店を閉めることを考えていないので、建物自体にシャッターがないのです。それで、外から丸見えだったら、ガラスを割って中の食べ物を奪うでしょ。ということです。
実際、電気も止まりますから、冷蔵庫、冷凍庫のものは腐っていくし、レジさえも機能していなくて営業どころではない。しかも棚のものは全部落ちていて、落ちているものは売り物にならなかったりするけれども、それでも食べるものはいくらかあったりするわけです。ですから食料がある状態を見られたらマズイのです。それで新聞紙を張って目張りをしていたのです。
災害が起こると必ずそういう状態に陥ります。ですから、実際には災害に遭遇したときに自分たちには出来ることなんてほとんどないのです。まして、そんななかで人を助けるとか、とんでもない。救援物資すら買いに行けないどころか、自分のことすら出来ないような状況になるのです。
昨年の「大阪北部地震」、あるいは「台風21号」を経験して、やっと、大阪に住む方々も、少しはわかってきたのではないかと思っています。被害は大きかったのですが、ある意味よい警鐘になったと思っています。そういう私の教会も屋根が一部損壊しました。
何が言いたいかと申しますと、私たち宗教者は人を助ける身分です。
ですから、自分たちがよほど防災に関する知識を身につけたうえで、いかに普段から高い意識をもって防災や減災に取り組んでおかないと、いざというときに人を助けるという役割を果たすことは出来ないのです。それが一点。
そして今日、私が来させていただいた目的の一つとして、やはり「連携する」ということの重要性、それを宗教・宗派という垣根を取り払って、しっかりと共有・確認をさせていただかなければならないと思うのです。決して足の引っ張り合いにならないよう、有事の際にはしっかりと協力しあって取り組んでいかなければならないと思うのです。
「連携」することの大切さを想ったのは、
東日本大震災発生ののち、我々は最初、自分の家から持って行った長机ひとつと、東北のNPO団体にもらった鍋ひとつ、スーパーで買った安物の包丁一本という本当に貧相な「炊き出し」から始まりました。
申請もどこへ届け出たらいいのか全くわからない。一応、保健所に電話をしてみたら、「もう今は混沌としていて、何とも言えませんので、被災者のためになると思うんだったら何でもやってあげてください」と言って電話を切られました。
私にとっては勝手に納得をして、そこから始められたわけです。炊き出しの場所も、もちろん最初は避難所や仮設住宅なんかではさせてもらえませんでしたから、屋外で青空でやっていたわけです。
それも、あるときをきっかけに仮設住宅でやらせてもらえることになるわけです。
当初、私たちは何のノウハウもありませんでしたから、被災地のいろんな場所でゲリラ的に「炊き出し」をやっていたわけですが、あるとき「今日はこの仮設住宅の前でやろうか」と決めたときに、突然大雨が降ってきたのです。すでに道具を出していましたから、仮設住宅の軒先に道具を移動して雨宿りをしていたのです。
そのとき、窓からご婦人が顔を出して私たちの方を見るなり、「あれ?大阪のお兄ちゃんたちじゃない?」と言われて、そちらを見ると、先ほどから話します、足しげく通った孤立した家にお住いであったご婦人だったのです。
「どうしたの?」と聞かれたので、「実はこのあたりで炊き出しをしようと思ったのですが、急に雨が降ってきたので、もう片付けようかなと思って雨宿りをしていたのですよ」と言うと、そのご婦人は、「えっ!私たちのために炊き出しを考えてきてくれたの?ちょっと待ちなさい、なにを水臭いことを言っているの?ここの集会所を遠慮なく使いなさい。私たちが自治会長に言ってきてあげるし、広報もまかせて!」と言ってくださいました。
そこまでの道のりはしんどかったですけれど、道が開けたのです。それから場所を得て、どんどんと出来ることが増えていった。500人規模の夏祭りも二回出来ました。
さらに被災者の方々との関係性が深くなっていきます。
そこまでは、いろんな団体とバッティングしたり、時に妨害に遭ったこともありましたが、そのときを境に、その仮設住宅の方々が、「私たちのためにやってくれているんだから、ゴチャゴチャ言うな」と言って、何度もそういう妨害に遭うのをはねのけてくださったこともあります。
冬の寒い日には、水道管が破裂して集会所の水が出なくなったことがありました。中止にするとかそういうことをこちらが考える間もなく、住民の方々が次々とポリタンクに水を汲んで持ってきてくださって、トイレはうちのを使ってください、寒いから暖房持ってきたよ。などとフォローしてくださった。そういう関係性ができていったのです。
こういうことは、幸いにしてどこの被災地に行っても我々は、東北でも熊本でも大分でも同じように受け入れていただくことができました。
結局、最終的には、自分たちの活動がその被災した方々にとって一番良いものであれば、被災した住民の方々が受け入れて下さって、それには誰も文句のつけようがないということを身をもってわかったのです。そこに気付いて目先が変わるというか、腹が決まったのです。この方向性でやっていこうと思えたのです。この方向性とは、「どうあっても、この方々の心が安らぐよう、私たちが行ったときにホッとしてもらえるよう、笑顔になっていただけるよう」こちら側が努力するということです。
方向性は決まりましたが、この時点ではまだ、「連携」や他団体との協力なんてとんでもない、ボランティア同士が手柄の取り合いみたいになっている場面なんかもあったりして非常に辟易としていました。
しかし、そうやって活動を進めていくなかで、「熊本地震」なんかが起こっていって、そこからまた新たな転機がやってくるのです。
次は「連携」です。
心を通い合わせる者通しが、「連携」を持つことによって、より効率的でスピーディーに被災者の方々に支援を届けることができるようになっていきます。
例えば今、私たち救援隊は大阪大学の稲場先生や渥美先生が率いる研究室・ボランティアチームと協働しています。
「熊本地震」以降、我々の活動がスムーズに行えるように大阪大学のチームが道をつけてくださったりスタッフとして協力をくださったりしています。
熊本地震発生当初、例によって私たちは益城町の中心地にテントを張って屋外で「炊き出し」を行っていたのですが、やがて解体作業が始まると非常にあたりが埃っぽくなったりしてきて衛生的にも良くない状態になっていきます。ちょうどそうなるころに、仮設住宅も立ち始めるので、そろそろ仮設住宅に移ろうかと思っている矢先、大阪大学のチームとご縁があって、「次は仮設住宅をお考えでしたら、益城町・安永仮設団地でいかがでしょうか」と提案してくださったのです。
それまでは他団体と協働するということがありませんでした。それは、ここまで申していますように、妨害を受けたこともありましたし、なによりも宗教という垣根があると思っています。それから手柄の奪い合いと言うか、そういうややこしいことも過去にあって、少しこちら側も一歩引いているようなところが正直ありました。
ボランティアに手柄なんてないのです。それをわからない人達とは一緒にはやれなかったのです。
そんななかで、大阪大学の方々は非常に紳士的というか、純粋に被災者の方々のお役に立つと思ったらどんどんと人を送り込んでくださったり、最新の情報をすぐに届けてくださったり、行政や社協との橋渡しや、かゆいところに手が届くような働きをしてくださったのです。研究者でありながらボランティアの先頭に立って被災者の方々に寄り添われたのです。
あるとき院生の方に、「あなたたちは、研究者だから、我々の手伝いの洗い物ばっかりしてないで、被災者の方々にお話を聞いた方がいいのではないか?」と聞くと、「いえ、教授にいつも言われていることですが、もちろん研究もしっかりとさせてもらわないといけないですけども、その前にやるべきことがたくさんあります。それをしっかりと出来たうえで寄り添わせていただいて、お話を聞かせていただきたいと思っています」と言われました。その言葉は私にとって非常に衝撃的でした。
このごろでは、宗教者によるボランティアも受け入れられることが多くなってきたように感じています。それは間違いなく、この大阪大学の研究チームをはじめとして、宗教者の役割をおわかりくださっている、今日お集りのみなさんの努力に他ならないと思っており感謝しています。
そういうみなさんと「連携」することが、非常に大きな力となって、被災者の方々のお役に立たせていただけると思います。
ひとつ、面白いというか、私にとっては感動的な話ではありますが、非常にいろんな面で受け取れる話があります。笑い話として聞いてください。
「熊本地震」での話になります。今、私たちは熊本では益城町の安永仮設団地で活動をしていますが、その仮設団地の方々が私たちの訪問を心から喜んでくださっていて、逆に私たちへのサプライズを考えられたのです。
私たちは熊本地震以降クマモンのTシャツを制服としています。私たちがクマモンを好きなことを知って仮設の方々が熊本県庁に行き、「これまで、一方ならぬお世話になったから、ぜひとも本物のクマモンに、金光教大阪災害救援隊の方々が来ているときに仮設住宅の方にきてもらいたい」と掛け合ってくださっていたのです。
クマモンは熊本県のキャラクターですから、依頼をするときには熊本県庁を通して依頼しないといけないのです。依頼があった熊本県の見解は、「クマモンは熊本県の職員ですから、一、宗教団体のためには出張させていただくことはできません」と断られたのです。
ところが、この仮設団地にお住いの今年81歳になる管理人さんを筆頭に、住民何人もが連れ立って、三度も同じように県庁に掛け合ってくださったのです。
結果、それは実現することはありませんでした。そのことをガッカリとされながら、管理人さんは、リーダーである私には直接は申されませんでした。他の隊員にこぼされたのです。
「そういうことで、三度掛け合っても、力不足で実現することが出来ませんでした。すみません」とおっしゃられたそうで、それを聞いた隊員は涙を浮かべながら私にそのことを報告したのです。
私にとっては、もうそのお気持ちだけで十分なのです。私は仮設住宅にお住いの方々がここまで、いかに悲惨な目に遭って、厳しい現実を抱えた状況で生活なさっているかを知っているがゆえに皆さんに少しでも安らぎを、、、少しでも、何かお力になりたい。私はいつでもそばにいますよ。忘れていませんよ。ですから、少しでも元気を出してくださいよ。という気持ちで被災地に行っているわけです。ですから別にクマモンが来てくれなくてもいいのです。
熊本県の見解もよくわかります。しかし、熊本県の見解を超越して、仮設住宅にお住いの方々と私たちとの関係がよいものであって、お互いに想い合うことが出来ている。クマモンに会うことよりも、みなさんが一生懸命掛け合ってくださった気持ちこそが私たちにとっての宝なのです。
そして、こういうことは、そのクマモンの件だけでなく、ずっとこれまでにもあってきたのです。そういうことが何度も何度もあって、それがまた、私たちのモチベーションともなってきたのです。
今回の例はクマモンのことでしたが、私たちの団体はここまでも、いろんなサポートが受けられていません。例えば、資金繰りに困ったときに、「この金光さんの救援隊だったら絶対に通ると思うから応募してみて!」と言われて、あるサポート団体に活動資金援助の応募をしてみましたが、まったく相手にしてもらえなかったのです。ここまで一度も支援してもらったことがないのです。
それは、申しますように、我々が宗教団体だからだと思いますが、そういうところも今後みんなが協力し合って活動していくなかで良いようになっていかなければならないと思います。今後の大きな課題だと思います。
しかし、そういう事情を背負ったなかで、先ほどから何度も申しますように、いろんな心ある団体とは「連携」が出来てきて、良い関係性が出来てきていることも確かなことであり、「連携」が出来てきたことで少しずつ変わってきたこともあります。
今、私たちは昨年の「平成30年7月豪雨・西日本豪雨」の救援活動に力を入れていますが、その災害が起こったときにも、大阪大学の稲場教授が一番に連絡をくださって、「ぜひ一緒にやりましょう」と声掛けくださったのです。
そしていま、大阪大学の方々と協働するなかで、行政や社協の方々も率先して協力してくださっています。我々救援隊に、「ぜひとも炊き出しをお願いできませんか」と依頼されるようになります。社協の方がチラシを作って配ってくださったりしています。
こうやって、私たちは今、活動を行っております。
この先も行政を含めた、いろんな団体と協力し合って、「連携」しあって、活動を進めていくことがよりよい連鎖を生み、たくさんの人を助けさせていただくことが出来ます。非常に大切なことであると思います。また、高い意識をもって防災・減災に取り組んで有事の際には、必ず私たちが現場の先頭に立っていられる、そこで人を助けさせていただけるような宗教者を目指してまいりたいと思っています。
どうか、共感いただける皆様には、今後ともどうぞよろしくお願いいたしまして本日のお話とさせていただきたいと思います。