その他・総合討論

第38回 宗援連情報交換会「能登半島地震における宗教者による災害支援」

7.その他・総合討論

島薗進(宗援連代表・司会進行)

ここから総合討議に入りたいと思います。6組の皆さんからお話を頂きました。そこから生じた問題、また他にも活動をされている方々がこの会場・オンラインにもおられます。いかがでしょうか。


渡邉義昭(淑徳大学・日本仏教社会福祉学会)

先日、能登・七尾・輪島・珠洲と4日間行かせて頂いた。七尾の宝幢寺(ほうどうじ)では御本堂が倒壊。浄土宗のお寺は七尾市に4ヵ寺あるが、人的支援の熱量は低いと感じた。活動に入るご住職は個人のネットワークで動く。今回は、福島県いわき市の浄土宗寺院の方々で構成された団体と一緒に能登町の中間支援に入った。浄土宗というより、住職という一個人が支援にあたるいうのが大きな特徴でした。

避難所訪問では、輪島市の真宗大谷派長光寺松岡住職とお話させて頂いた。宗内で30ヵ寺の被害があり、宗門からの支援は何番目になるかと。稲場先生からも以前お話を頂いたが、宗派を越えての支援についてはどのようなお考えか。


稲場圭信(世話人・大阪大学教授)

この宗援連も情報交換会に様々な宗派の方が来られている。被災地では宗派を越えて、また宗教者だけでなく、大学、災害NGO、行政、社会福祉協議会と連携しての困難にある人たちのための活動がなされている。

今回、竹原さんの話のように、能登半島では圧倒的に東本願寺、真宗大谷派であり、東本願寺を支援することで、ご門徒さんが助かっていく。ご門徒さんが助かるということは地域が助かっていく。その上で、たとえば東本願寺の方と一緒に他の宗派の方々が活動したり、ボランティア拠点に他宗派の方々が宿泊し、一緒に活動するということもあるのでないか。さきほどの能登ヘルプでは、一つの組織を越えて教会を活動拠点とする事例も紹介された。

いま問題になっているのは、ひとつの地域での支援の偏り。竹内さんのお話のように、輪島の高校の前で炊き出しが集中してしまった。取り残されたところはどういう状況か。そのような情報を超宗派で共有し、まだ支援の足りないところに振り向けていく。一緒になって同じ場所で活動しなくても、協力しあって活動を展開していくことが超宗派として、様々な団体との連携としたひとつの形であると思う。

今回の能登半島地震で、初動の段階から水・物資の配給から炊き出し支援、足湯と連携ができた。行政、社会福祉協議会と私もいろいろと回っているが、能登では3年前からある基礎自治体の危機管理担当者とも意見交換をしてきた。実際に、寺社教会等が拠点になることに理解が数年前からあった。様々な団体と、宗教を越えての理解ができているのではないかと思う。

ただ、これはまだまだ一般の方も知らないこと。今日、メディアの方も来られているが、各教団宗派も陰徳で抑えてしまうのでなく、SNSで可能な範囲で発信する。どこで足湯をして炊き出しをしてという情報は、極力みなさんで情報共有し、社会的認知・社会的インパクトにつなげていく。またそういった情報を役所の方も見ているので必要ではないかと。


野村任(世話人・國學院大學)

神社界は、宮司さん個人のネットワークを中心として活動。神社本庁は、義援金のポスターを配る・集める―に留まる。実際に現地に入り、組織的に神道青年会がやっているとかはない。宮司が個人的のネットワークでつながり一緒に行く。まとまった形での動きがない。

東京上野の下谷神社の宮司が中心となって、1月4日には現地に入って炊き出し。キッチンカーを持って行って炊き出しを行った。そのあとは被災した神社の片付け、復興しの支援にと若干シフトしている。

これからの課題。個々のネットワークでの動きをまとめていく、つなげていくことが重要。神社本庁、県神社庁など縦割りの中で、水平的な横のつながりでより効果的に動くと思う。そうしたところをサポートしていかなくてはいけない。神道界にいるものとしては課題と感じている。


稲場:

私自身、今回の能登半島地震のあとに、神社本庁と連絡をとり、石川県神社庁にも直接訪問をした。能登群発地震から昨年の5月珠洲市を中心とした地震も含めて、神社の被害は大きかった。昨年5月の珠洲市地震のあとに、実際に現地の聞き取り活動もしてきた。今回は、かなり広域での被害。宮司や総代も高齢の方もが多く、なかなか初動から動くことができない。

石川県神社庁の職員が、被災しながらも安否確認などに動かれていた。今後は、どう復旧にむけて動くか。また神社は祭りがある。これまでいろいろの地域でもそうだが、祭りが復興のシンボルとなる。いち早く祭りを―と神職の方も言っていた。祭りを神社だけでなく地域の方々と。そういったことを超宗派で取り組むこともよいのでは。

いま私の背景に映っている「とりもどせ! 能登半島」というスローガン。これまで29年間様々な被災地を見てきましたが、「とりもどせ」というスローガンは初めてだった(「がんばろう!石巻」などはあるが)。「とりもどせ」は、高齢化率が高く過疎化が進む能登にどうして住み続けるのだという、残念ながら、SNSでもあるそのような考えに対して地域の人たちの抗う叫びではないか。

地域に住む人たちは、能登の風習、自然環境、生活を守り、「ここで生きていきたい」と考える方が当然ながら多くいる。そこに祭りは大きな存在、神社の復興のうごきは、能登の皆さん方の心に大きな希望となると思う。


島薗:海老名市弥生神社では、災害支援の経験を通して地域活動をなさっている。野村さんは、福島県浪江町のお祭りを見てこられたそうですね。

野村:

浪江町請戸の「田植踊」。そもそもは請戸の苕野(くさの)神社。311の津波でまったくの野原になり、請戸小学校が災害遺構として残っている。そこの社殿が今回竣工した。2月第3日曜に安波(あんば)祭という例祭の日と同時に、竣工奉告祭も兼ねて行った。

請戸の「田植踊」は地元のなかでいろいろと大切なものをつないできた。ただ被災によって、神社もなくなり、人もいなくなった。だけど披露する時は人が集まりやってきた祭り。今回は請戸の田植の踊りだけでなく、その前に非常にコンパクトに内容的にはしっかりと行った。神様への祭りを地元がどうするのかを非常によくあらわしていた。

今回のまつりから巫女舞が復活。その巫女舞は舞を踊った方は、震災前は地元で若い頃に舞った。現在は仙台市在住で、その方が奉納された。獅子舞の獅子は千葉埼玉から集まってくる。田植祭りの装束は神社関係で。そこはたまたま國學院大學を卒業した神職が多かったので、國學院の同窓会組織がサポートする。お祭りに人が集まる!それを復興の拠り所になれば―。そうなりたい。

津波で流された何もない野原が「中町」といって、昔は中心地だった。そこにも奉納する。記憶を大切にしながら継承していく。継続して見ているが、今回社殿が復興となったということで、皆さんの熱い気持ちを感じることができた。


島薗:本日も場所も真如苑さんの施設を使わせて頂いていますが、SeRVは早くから入っておられる。


八本俊之(宗援連事務局・真如苑SeRV):

真如苑救援ボランティアSeRV八本です。阪神淡路大震災からSeRVが設立し活動している。私達は専門家集団ではないので、ボランティアセンター設置後にそのニーズに応じて出動することが多い。

今回は、ボランティアセンターがすぐに立ち上がらないので、方針をかえた。一昨年に石川に落慶した玉鉾にある施設に物資を集めた。総本山は東京の立川にありますが、北陸の本部寺院が落慶していましたので、その境内に設置のある倉庫に物資を集めて水・簡易トイレ―と考えられる備品を集めて、物資をお届けしようと今回初めてチャレンジしました。

元々これまでの災害現場で、技術系・専門系の団体とは30年の活動でご縁がある。今回、現地に入った団体の情報では、物のニーズは最初の段階ではとても高かった。レスキューアシスト・ピースボート災害支援センター・レスキューストックヤード・大分のリエラさん・にいがた災害ボランティアネットワーク・九州のグリーンコープ・大阪大学・妙圀寺―こういった方々と連絡を取り合いながら、物資をお届けしたり、取りに来て頂いた。

そのようなストックヤード的な動きをしたのが今回初めてのこと。今回に関しては、初期段階としては意味があるかなと。今は水も通ってきて、「大丈夫です」と言われることがあるのですが、フェーズが変わってきていることは感じます。コープさん、NPOさんが真如苑の境内地に取りに来て頂いたことは、新しい動きだった。

あと、穴水町に能登支部がある。こちらの境内地に奥能登にはいるための拠点としてトレーラーハウスを設置したいという要望が、JVOADから穴水町にあって、穴水町を通じて契約させて頂いた。現在トレーラーハウスが5台。仮設トイレとともに設置されている。

熊本地震のときに1か月ほど熊本の別院、熊本支部をボランティアセンターのサテライトとして、ご利用いただいた。それも画期的だと思ったのですが、それがまた今回の災害支援では、さらに進んできているのかなとも感じている。

妙圀寺さんにもご縁を頂いて、いろいろと協働させて頂けたことも今回とてもありがたいことでした。


島薗:今回は集約的に情報をやり取りすることができた。今後の支援活動の手がかりになることも得られたと。何か発言は。

三浦賢翁(曹洞宗・東北臨床宗教師会):臨床宗教師会は多様な宗教者の集まりであるが、そうした多様な宗教者を現場は受け入れることは可能か。

島薗:臨床宗教師会は東日本大震災を契機にできあがって、たとえばカフェデモンクのように傾聴活動のモデルとして知られるようになった。今回も臨床宗教師会で既に現地に入っている方もいる。宗援連として、そのような方々の活動をうまく応援したいと考えている。

稲場:ここにお集まりの皆さんは、何度も現地で活動されておられる方々で、そのネットワークをつくれればと考えている。真宗大谷派の竹原さんとも現地で3回、オンラインでも情報交換して頂いた。災救マップに、「今後どの地域に仮設ができる」「どこでどのような活動を行っている(傾聴、足湯)」「地域でこういうイベントが」と情報共有をしながら、手薄なところがないように。あるいはここで炊き出しをするなら、その隣でカフェをとか。そうした連携の形ができるような。それを災救マップでも検討している。

GLA:まだまだ会員数が少ない。震災時は集い終了の10分後に震災があった。そこから安否の確認。3日に現地に入り、7日から主催の高橋惠子先生のお手紙を届け、会員の方に物資をお届けし状況をお聞きした。東京からお電話で医療的にサポート。1月31日に高橋先生が現地に入られ、朝一通りで鎮魂の祈りを捧げ、会員の皆様にあって頂いた。いろいろな機関との連携がこれからの課題となる。


御手洗隆明(世話人・真宗大谷派教学研究所):

先程、大谷派の動きについては竹原所長から丁寧な説明を頂いた。

大谷派支援に2つの動きがある。ひとつは宗派の職員派遣。大谷派本山では1月2日に災害救援本部が立ち上がる。翌日に3日から宗派からの職員派遣が始まり今に至っている。私の身近にも参加した者がいる。

寺院への支援は、一歩踏み出すきっかけを作り出す。その一歩踏み出した先にはどうなるのか、まだ先が見えない。途方に暮れている方々に気持ちを楽にして頂きたいという理念のもと、今日も新しいグループが入っている。

もうひとつは先程の宗派有志による支援。3日に能登の被災したお寺から「助けて頂きたい」とSNSで発信があった。東北や熊本で支援活動をされた能登の方々が被災した。支援してもらった人が支援に向かう。4日には東北から支援に出発。5日には輪島で炊き出しを始めた。いろんなご縁があるが、かつて被災した人が、今度は助けに行く。

真宗大谷派には阪神・淡路大震災からの有志による災害ボランティアの蓄積がある。新しいタイプの宗教者が誕生している―ということが今回、見えてきた。そうした方々はおそらく大勢いる。そうした方々の拠り所となる。あるいは、ひとつの方向にもっていくという役割をどこが果たしていくのか。

行政がまだ受け入れ態勢ができていなくても、すぐに活動に入れるという話があったが、災害時にこうしたことが普通に行われる新しいネットワーク。それが今後のモデルになっていってほしいと考えている。


中村(読売新聞):ふだんは九州で取材活動をしている。今回、行政からは「ボランティアを遠慮する」「支援活動はプロに任せる」というというある種の自粛ムードがあるように感じる。そういう自粛ムードは、皆さんの現地でのご活動に支障や影響、やりにくさを与えてないか。また活動の困難さなど、今回の被災地特有の課題などは。


島薗:まさに今日のお話は、一般の支援が入りにくい中で宗教者の団体が早くから重要な役割を果たしてきたということを示している。「ボランティア自粛」「取り戻せ!能登半島」と置き去りにされてしまっているという被災地の状況があるのてはないかということでどなたか。

茅野:

1995年の阪神淡路大震災から、激甚災害の現場はすべて支援させて頂いている。

今回の能登半島は、隆起した道路、寸断した地域、孤立した集落。悪路を雪の降る中、駆けつけさせて頂いた。その中に、いまだに断水が続いていること。拠点が築けないこと。またボランティアセンターもようやく、この門前町でも立ち上がった。理由として、一般のボランティアを受け入れるには、リスクを背負う責任があるということがあった。実際に私たちも風呂に入っていない。そして体を拭いているだけ。断水がつづくなか、避難されている方々と同じ生活の状況に身をおく。

私達は現在ずっとこの2ヶ月、個々に張り付いているが、なかなか一般の方々を受け入れる状況に整っていない。自粛というよりも、環境が整っていないために受け入れがなかなかできなかった。―ということが背景にあるのではいなかと感じている。その分、私たちも毎日、避難所の運営支援と各種団体との連携も取ってきた。やっと私たちのやりたい活動ができてきた。本当に孤立集落となってしまった七浦でも、多くの方々が支援の手が行き届かないところにいる。支援の手を伸ばしていきたいと考えている。

読売の方の話もございましたが、実際に現地をしっかりと回り、取材を重ねて頂きながら、被災地の声を現場で取材して頂きたい。


八本:20日に珠洲市社協を訪問した際に本当に人手が足りないと会長から伺った。昨日、直接にSeRVの方でも入れないかとお電話を頂き、いま検討に入っている。訪問はちょうどボランティア受付の11時で、マッチング後に活動し15時半には珠洲を出て金沢に戻る。実質的には休憩を入れて4時間。全然進まないと。

島薗:だんだんと状況が変化してきて、これからはもっと現地入りができるように思う。今日参加される方には、そういう事を知りたいと入られたたも多いかと。


稲場:

私も雪のなかに水を積んで入った。いまも厳しい状況である門前町・珠洲市のこともある。これがメディアで流れると、「奥能登のいまの状況は大変だ」「能登半島地震の被災地は大変だ。行ってはいけない」というボランティア自粛・抑制論になる。石川県庁は「緊急車両以外はまだ行かないで」というメッセージ。

被災地の方々が取り残されていく。珠洲市・門前町の厳しい状況はそうだが、七尾市では能登鉄道も一部開通している。「一般車両は渋滞するので被災地には行かないでくれ」というのは、ミスリーディングのところはないか。

私も学生を連れて入るが、のと里山海道では柳田で検問がある。盗人や物見遊山を止めるのは勿論だが、支援に行く車両は実際には通れる。検問で10分ほどの渋滞があったとしても、朝に金沢を出れば、1時間半くらいで七尾に到着する。そこから門前、輪島にも可能。さらに金沢からは鉄道で七尾へ1時間。七尾からバスを使っていけば、穴水までも金沢から2時間半で行ける。活動はいくらでもあり、待っている人はたくさんいる。

いま能登半島はどこでも、他の地域から来たら本当に喜んでいただける。仮設住宅に学生と行ったときもそうだったが、みんな話を聞いてほしいという方々がたくさんいた。顔が見える関係性が築かれる。いまを生きる伴走者として、一人でも多くそうした方々の関わりが必要。

行政が「プロのボランティア以外は行くな」という論調だから行かないというのは、被災地をどんどんと取り残していくことになる。是非、行ける方は決して作業が進まなくても、作業ができなくても、そこで話を聞いて、足湯・カフェでもできると思う。メディアの方々も、「ボランティアに行くな」でなく、「寄り添う支援ができるのだ」という論調をつくっていただきたい。


池田(司会・世話人):今日はご報告を頂き大変な状況の中にありがとうございます。この2ヶ月の活動を伺いました。先程の稲場先生のお話から、いま状況が変化した。勇気をもって一歩踏み出す時がきているということを、参加された皆様と共有ができた。ありがとうございました。