石井光太氏「人を支える祈りの多様性」

宗教者災害支援連絡会第23回情報交換会

2015年7月11日(土)15:00-18:30

上智大学四谷キャンパス11号館511室

報告 石井光太氏(作家)「人を支える祈りの多様性」

1.震災を遺体安置所へ

ある極限状態で小さな光を見つけて、厳しい中にもその光をめざして進むことが、生きることの本質であり、単純に悲劇を書くのではなく、そこにあるぎりぎりの光を描くことで、生きるという事を描きたい。20代から30代前半くらいまで、いろんな国の取材をしながら、そうした考えが僕の中でできはじめた。そういった思いで書いたのが、先程ご紹介を頂きました「祈り」「神」「仏」そういったタイトルが着いているルポルタージュ。

東日本大震災の発災後に、新聞、雑誌、テレビからコメントを求められた。僕自身は震災を見ていない。「とにかく行かなくてはならない」と一切を断って現地に3か月ほど滞在することになった。

現地に入ったのは3日後だった。その時に見た光景は瓦礫の山。瓦礫が数十㎝から2m位まで積み重ねられ、その山を歩く。印象的だったのは瓦礫で覆われた中で観た旗。その下にはご遺体があるのです。そこで遺族に会う。運ぶ手伝いを頼まれるが、道がなく簡単には運べない。謝って通り過ぎるしかなかった。

そうしてホテルに戻り、テレビの報道を見ていると、募金・炊きだし・貢献活動などが流れている。僕自身は被災地で何もできなかった。ご遺族の気持ちを断って去ったという罪悪感もあり、自分が見てきたことと世の中に流れている情報というものに非常に落差を感じた。

被災地でお会いしたご遺族は、「自分の遺族を野放しにしてしまった」「手伝ってと頼んだが断られた」という記憶を抱えて何十年と生きていく。それが震災を体験した事だと思うし、震災を体験した日本が進んでいく事ではないか。

死に対してきちんと向き合わなければならない。あの日にどのように犠牲者の人たちが死んでいって、ご遺族は何を見て何を背負って歩み始めるのか。そこの部分を記録しなければ、復興だ何だという話が上っ面だけで進んでしまうのではないか。そうした思いが僕の中で大きくなった。

では自分が物語の書き手として、何処に行って何をすべきなのかと考えた時に思い浮かんだのが、あの震災の中で一番の犠牲者が集まる場所、つまり亡くなった方とご遺族が対面する遺体安置所を記録することだった。

僕自身は、福島県から岩手県まで20箇所以上の遺体安置所を一度まわった。ルポのため定点観測をしようと、岩手県釜石市の(廃校になった)釜石第二中学校という遺体安置所にポイントを決めた。

理由は、釜石には海辺の町と内陸の工業地帯があり、明暗が半々に分かれた状態となった。外から来た人間よりも、町の住民自体が自分達の町のために、そのご遺体に対して何かをする、取り組む―そういった姿勢を見た時に、何か本来、災害における一番の核心があるのではないかと感じたから。

遺体安置所では全身ヘドロたらけの遺体で1日数十体運ばれ、市の職員、警察消防の方が一体一体洋服を脱がせて洗い、所持品確認や死体検案ののち一体一体番号が振られる。そうした作業が寒く暗い中で一日中行われる。遺族が照合し確定できた時点で身元確認という形で引き取る。

ただ、これは非常に難しかった。こういった事があった。流された1時間後に遺体が見つかり、遺体の火葬までの2週間、毎日毎日旦那さん娘さん息子さんは会いに来て葬儀もすべて終わった。そうしたら、実は死んだお母さんが本人ではなく、1年後に別の場所で見つかった遺体がDNA鑑定の結果、本当のお母さんだった。

つまり、自分のお母さん・奥さんだと思って、2週間毎日会いに行って、顔を拭いて、体を拭いてお花を供えて。それで拝んでいたものが違った。それだけ遺族は混乱していて、心がかき乱されている状態な訳です。そういった人たち何百人何千人がいろんな形で見ていく関わっていく。それが遺体安置所だった。

2.祈りの多様性

火葬する炉が再開した後も1日十数体しか遺体を焼くことができないが、1日数十体の遺体が見つかっているという状況で、火葬がいつになるか分からない。ご遺族たちも、ある所で納得し諦めざるを得なかった。

その時に、あるお坊さんがやって来た。働いていた一人のご老人がやって来て、「お坊さん、お経を唱えて下さい」と言う。彼はその遺体安置所の目の前で手を合わせてお祈りをする。全員が立ち上がって、手を合わせて、そのお坊さんのお経に対して、一緒になって読む。僕はそれを見たとき、ある光景を思い出した。

それとは、自衛隊の人と会った時のこと。僕は東松島市で遺体捜索の現場に一緒に立ち会っていた。その時、すごい大雪が降った。瓦礫の中から見つけた順に遺体を全部運ぶことはできません。見つけても、自衛隊ですらビニール袋をかけて野放しにするしかない事もある。彼が無言でご遺体に向かって、泣きながら敬礼をした。

その敬礼の姿が、お坊さんが遺体安置所に来てお経を唱えた姿と妙に重なった。これが何なのだろうと、ずっと僕の中で思っていた。

その遺体安置所では遺体は既に番号で、名前も分かず、番号が振って並んでいる“もの”でした。千葉淳さんが、スタッフ、市の職員たちに「遺体の人間としての尊厳を守ることが我々のやるべきこと。遺体に対して語りかけよう」と言い始めた。千葉さんは朝5時から来て、遺体に「昨日の夜は寒かっただろう。ごめんね、こんな所に置いといて。今日こそお父さんとお母さん迎えに来てもらうからちょっと待っててね、ごめんね」「今日こそ火葬場に行ってね、骨になったらお父さんとお母さんがいるお家に帰れるから」と遺体の肩をゆさぶり語りかける。毎日のように繰り返していた。

僕はそれを見て、勿論いろんな意味で感動しました。けれども、逆に何かお坊さんのお経だとか、自衛隊の敬礼だとかと何かつながるものを僕の中ですごく感じていた。それ以外にも、日常では見られない中で、一緒に現場にいた僕自身が「これは祈りと同じだな」と思った瞬間は数限りなくあった。

それだけで完結しない部分がどうしてもある。これは震災には限らず、そういったあるプロセスを踏めない遺体、状況だと、送り出す方法もまた違ってくるのではないか。

遺体を送り出す方法、また他者の死を受け入れる際に、自分の中で軟着陸させていく方法として、仏教で言えば、お葬式・お経となる。震災には限らず、そういったあるプロセスを踏めない遺体、状況だと受け入れる作業もまた違ってくると思う。

3.宗教と宗教を支えるもの

災害とか特殊な状況では、想像とかけ離れた現象が沢山あると思う。

例えば、これは2年位前にNHKで話題になっていた「被災地でお化けが出る」といった話も沢山ある。初めはそうした話は一切出なかった。現実の方が圧倒的にインパクトが強くて、被災地にいてもそうしたイメージが湧かない。現実の方が恐ろしい。自分の想像力が粉々に砕け散ってしまう。

僕自身はゴールデンウィーク過ぎ位からそのような話が増えてきたと感じている。それもある種、死を受け入れるためのひとつの段階だと思う。

拝み屋さんの所に行って、行方不明の自分のお父さんを降してもらって話をする。あるいは、自分のお父さんが夢に出てきて、語り合う。「まだ見つからないけれども、もうすく出てきてくれるぞ」とお化けが言ってくれる。遺族は「会えてよかった」と思う。敬礼、千葉さんの声に加えてイタコやお化けの声といろんな選択肢が出てくる。

僕はその状況を見とある時に、「ピラミッドだ」と気づいた。ピラミッドの真ん中には宗教がある。けれども、それはあくまで「一番上の先端の部分」であって、それだけではピラミッドの体をなさない。支えているものが確かにある。それが何なのかというば、自衛隊の敬礼、千葉さんの言葉、お化けやイタコが現れた、話してくれたという話であったり。

ある種宗教というのは、もしかしたら、宗教単体で成り立つものではなくて、何か宗教を取り囲むもの、あるいは支えるもの。そういったものが、物凄くある気がした。特に震災というものを見た時に。

僕の中には「大きな神様」と「小さな神様」があるような気がしている。「大きな神様」は宗教そのもので、「小さな神様」は体系化されず形にはならない。つまり、イタコの一言であったり、自衛隊の敬礼であったり。

宗教には大きな神様がいて、そのまわりに無数に小さな神様が散らばっていて、他者から見るとそれは神様に見えないかもしれない。たとえば、普段自衛隊の敬礼に神々しさは感じなくても、あの状況で遺体を目の前にして敬礼をしたら、ある種神々しさを感じる。いろんなものが小さな神様に転化していくものだと思う。

インドではヒンズー教、シリアではイスラム教を多くの人が信じている。いろんな宗教で、当然大きな神様と小さな神様がある。ある極限の状況で生きる人たちと接していて、似ている。

それは何故かいいますと、たとえば、やって来る薬売りの人間が、まもなく死に絶えようとするおばあさんにとって、ある種の神々しい存在、その人を頼り、来てくれるという希望・祈り。それによってその人が生かされているというケース。あるいは、「神の棄てた裸体」にも書きました、小さな少女売春婦が自分のお客さんのことをある種、生きる希望の糧にしている。その女の子にもおばあさんにも、いろんな人にイスラム教ヒンズー教という大きな神様がいる。

それとは別に、彼ら自身が小さな神様を生きる中で見つけていく。他者から見たら真っ暗闇の中しか見えない。しかし、本人達にしか見えない光みたいなものがあって、その光に向かって一個一個頼りにして生きていく。

あるいは、大きな神様の光に、自分は一人でそこまで行けない。だからこそ、目の前にあるその人にしか見えない小さな光を踏んで踏んで踏んで、それを綱渡りしながら向こうに行こうとする。そういう生き方が「生きる」ということではないかと僕は思う。

祈りということも、ある種その小さな光に対して祈りを捧げながら、大きな光に向かっていく。だからこそ、生きることを必死になって見つめたときに、必ずしもそれは悲惨なものではなくて、あるところで美しく見えるのではないか。

他者から見て、その小さな光がいくら馬鹿げた光であっても、その人は祈りのようにそれを信じて、必死になって歩いている。そこに何か、人間の生きるということの、愛おしさ、美しさ、あるいは力強さがあるのではないか。それが、祈れる人間の強さ。つまり生きれる人間の強さではないかというふうに思う。

何か抽象的な言い方になりましたが、震災、海外の貧困地域の取材で、僕自身はその事を非常に強く感じました。そこに人間の魅力、光を感じた。だからこそ、逆に自分が人間を見る時に、その光の部分を見てみたいなと思う。そして、それを描くということが、「生きる」ということを描くということにつながるのではないかと僕自身は思っている。

Q)稲場圭信氏(大阪大学大学院准教授、宗援連世話人)

海外、東日本大震災では遺体安置所を何カ所もまわられて、そこに寄り添う。職員、千葉さんのような方、宗教者の方々とそこで時を共にされた。多くの人がそういった場で見た事などによる共感的苦痛を感じる。宗教者が個々に感じ、それをどう流していくというか。それが祈りであるのかもしれません。作家としてジャーナリストとして、そういった場に入られて、その共感的に苦痛がどれほどのものであり、それをどのようにして処理したのか。

A)

たしかに現場はつらいと思うのは当然だし、そうした経験はたくさんある。

物書きやNGOの中には、病んでしまったという人も沢山いる。僕は病んだ経験はあまりない。至って健全。多分、その「光」を見たいからだ。

例えば、新聞社員やテレビ局の人間なら「あそこの現場で悲惨な現場を撮ってこい」と自分の意志ではない所で、その悲惨な状況をカメラに押さえて、文章にする。けれども、僕自身は、その中で小さな光をどう踏みしめて生きているかをみたい。常に視点がそこに流れる。逆に勇気をもらうことの方が大きい。

もちろん悲惨な出来事もあるが、じっとそこに立っていれば、必ず生きている人と会う。どんなに悲惨で、死に絶えて、何もない状況でも、ずっとそこに何日間かいれば。人間とはものすごいもので、どんなに一度無理になったとしても、必ずそこに何かしらの営みがある。僕はそこに感動し、その感動を人に伝えたいと思うから、人に会うのだろうし、文章を書くのだろう。

だから、悲劇を記録するジャーナリストほど悲惨でつらいものはないと思うし、NGOの人に関しても、「共に生きるという事を支える」とかなら、何か光があるような気がする。けれども、ただ行って、自分の悲劇と共感して何かやっている人は、そこに行って何も光が見れないし、闇の部分しか見れないのでつらいかもしれない。

そういった意味で、僕はあまりつらさを乗り越えるというか、つらさを全く違うふうに受け取っているのではないかと思っている。

Q)亀井氏(グリーフケア研究所)

今私たちが生きているこの日本の中に置き換えて考えた場合、たとえば自殺者が3万人を超えたり(今ちょっと下回っていますけれども)、すごく豊かで便利で困ったことが一見あまりないように見える。

悲惨な状況ではない、とても裕福な国でも実は自殺者や鬱の人や就活や様々なことで困っている人がたくさんいるが、小さな光を見い出すことが可能なのかどうか。祈りの多様性という事を当てはめることができるのかどうか伺いたい。

A)

小さな光というのを認めてくれる人がまわりに何人いるかどうかが―僕自身は非常に大切だと思っています。

否定された瞬間にその人の中からその小さな光というの消えてしまうかもしれない。その小さな光が消えてしまうと、当然闇の中でどこを踏み台にして歩いていけばいいのか分からなくなってしまう。歩いていく先がなくなってしまう。

小さな光は、確かにその人が生み出すものかもしれない。けれども、その光はものすごく小さく、もろいものであって、認めるくれる人がまわりに、一人二人いるだけで、その小さな光というのは、小さな光としてとどまり続けるものだと思う。

豊かな社会という言い方をよくされるが、それとは、個人がつくり出す小さな光を肯定してくれる人間がまわりにいるのかどうか。人間関係か、社会なのかどうか。それが豊かさのひとつのバロメータなのかもしれない。

実際にその人の気持ちにならなければ、なかなか言えないと思う。例えば、僕が歩いていて、いきなり「石井さんですよね。僕、イタコにこう言われたんです」とよってこられると、「あ、あ…」と。気持ち悪いではないですか(笑)。何故かというと、僕は知らないから。多分その人のことを無視したいと思うし、逃げたいと思うの。

でも、もし僕がその人のことを知ってて、何故そのように言ってきたのか、言わなくてはいけなかったのかということを、彼の目線で見ることができたならば、多分僕は逃げないし、「そうかもしれない」と言えると思う。

つまり、小さな光を肯定するには、その人をかなり知らなくてはいけないし、その人の目線の中で物事を見ていかなくてはいけない。生きるという事を考えていかなくてはいけない。

ですから、ものすごく難しい作業です。でも逆に言えば、そういった関係をもっている人、そういった事に理解のある人がどれだけまわりにいるかどうか。というのが豊かな社会だと思う。

そういった社会、人間関係があれば、僕は自殺とかなるべく回避できるかもしれない。勿論、自殺というのはすべて同じ要因で起きている訳ではない。いろいろとあると思う。そういった社会をどうやってつくっていくかが非常に重要だと思う。

Q)堀江氏(東京大学)

私も被災地での幽霊話を調べている。宗教者に対する警戒心とか、「霊に関する話とかはあまりしない方がいいよ。(そういった事は不謹慎だ)」という逆にネガティブな傾向があったかどうか。

あと、宮城県と岩手県、福島県で反応の相違点は。

A)

笑いながら、「石井さん、この人この間死んだお母さんから電話かかってきたらしいですよ」と言う。「何々それ?」と聞くと「本当に何か、いきなり突然電話が混線するのですよ」「混線って、携帯だからしないでしょう」「だから不思議なんですよ」「水に濡れて壊れただけじゃないの」「それも考えられるんですけど、でも俺多分違うと思うんですよね」という話になる。

その友達も、自分のお母さんと弟を亡くしているから分かる。それをもっと広げたいと、それを共有しようとする。それがどんどん広がる。僕がそれを聞いて、エッセイで書く。テレビで話す。そうなると、今度はまた“違う話”としてお化けとして認識される。物語はある瞬間、枠を越えざるを得ない状況というのがあって、越えてしまったときに、この物語はこの枠の空気を知らない第三者が聞くわけです。それはまた違う意味をもち始めてくる。枠が広がることによって、その概念、とらえ方、意味づけは全く変わってきてしまう。

当事者から物語が出てしまった時に、不謹慎だという話にもなった。お盆過ぎになるとかなり顕著になった気がする。「言ってはいけいない」とか外部がガヤガヤ言い始めたり、そういう雰囲気もあった。でもそれが一周して、逆に「それはそれで民族的な価値が…」とかそんな話になって、今度はまた違う意味づけになってくる。

これがまた、10年20年したらまた違うようになってくるし。物語というのは、置かれた状況、時間軸、共感する母体によってかなり変わってくる。これがまた海外から見たらまた違ってくる。

<(2番目の)地域によっての違い>

僕はあまり感じませんでしたね。地域というより、コミュニティ・世代の違いは感じました。あと、光の見つけ出し方も違いますね。

Q)及川氏(創価学会)

今日、お話を伺って、小さな光を見つけ出すために、取材先での人間関係を非常に大事にされていると感じたが、心がけておられたこと?

A)

敢えて言うと、まったくそれを捨ててしまうということでしょうか。僕自身としては方法論は一切もたない。でも。もっと言ってしまうと、「この人は何を求めているだろう」ということも考えないかもしれない。

Q)島薗進氏(代表・上智大学)

今回も地元の方、遺体安置所に行かれて、上からにならないような。当事者の一番の苦しみに近いところに寄り添う方法とか?。

A)

たとえば、遺体安置所で。「管理人やっている人どなたですか?」と千葉さんという方がいらしたので、「すみません、お話聞きたいのですけれども。一緒にいさせてくれないですかね」と。忙がしいんでと初めは断られる。

「分かりました。ここで待っていますので」とぼーっと待っていると、行ったり来たり忙がしく、「まだいるのか」「まだいます。宜しくお願いします」と。「これ持っておいて」「はぁ」と持っている。「これ運んで」「はぁ」と運んでいる訳です。そうするとだんだん―、洗ってと言われて洗う。最後は僕まで一緒に手伝わされて、「ご遺体の頭を持ってて」と持たされるわけです。持たされるのはいいのですが、その人はいなくなる。いなくなると遺族に周りを囲まれて、どう見ても僕はお坊さんではないですか(笑)。

聞かれるのですね。何々の意味は?と。ご遺族を目の前に知らないとは言えなくて、「実は作家です」と言ったら、ぶん殴られそうなので、僕もどもってしまったりして。何かそんな事をやりながら、「いなくならないでくださいよ」とか言って「ごめん」と仲良くなってやっているというのが正直一番多いですね。

Q)島薗進氏(代表・上智大学)

小さな光のお話を伺っていて、石牟礼道子さんの『苦海浄土』。本当につらい、一番希望のないような方に光を見い出すような。何か感想がありますでしょうか

A)

あれはまさに目線の置き場所ですよね。

僕は上から目線の人が多いので、学生時代からノンフィクションは嫌いだった読んでても全然おもしろくなかった。カメラマンのエッセイでは、写真を撮るには仲良くならざるを得ない。そのエッセイはすごく腑に落ちるところがあって。僕自身はそういう目線でその人たちを見てみたかった。

そういう意味では、『苦海浄土』とかいくつか、ノンフィクションでも非常に低い目線、低姿勢の物語作家もいますけれども、僕はそうした人たちに対して、非常に憧れた。何かそういう所に、僕が見たいの事実が存在しているような気がした。

以上