第33回情報交換会議事録

議事録 宗教者災害支援連絡会(第33回情報交換会)

2018年7月31日(火)

知恩院・和順会館

司会:金子昭(宗援連世話人)

島薗進代表挨拶

宗援連は2011年4月1日に2011年東日本大震災に関して東京で情報を交換し、現地の支援を活性化できるように宗教界の横の連携を強めることでより良い支援ができるように始まった。その時「支縁のまちネットワーク」はすでにあって、関西で活動を行っていた。阪神淡路大震災の発生、釜ヶ崎の路上生活者支援があり宗教者の横のネットワークが始まっていた。西日本で行っていることも東日本も学びながらやってきた。33回目となる情報交換会のこの会場はいつも宗援連の会場の集まりで浄土宗のみなさんにお世話になった。本日はどうぞ宜しくお願いいたします。

宮本要太郎氏挨拶(支援のまちネットワーク協同代表、関西大学宗教学教授)

「支縁のまちネットワーク」という活動は元々は「soul in 釜ヶ崎」、略称「ソルカマ」と呼んでいた。釜ヶ崎を中心にホームレスの方々の支援を行う宗教者が中心になって共同で何かできないかということで始まり、いろいろな意見交換をする場として15年くらい前から渡辺順一さんなどが中心になって活動を続けていた。その後、釜ヶ崎だけではなく広く様々な場所での寄り添い支援をしている宗教者や、さらに宗教研究者も加わってお互いにエンパワー、ゆるやかなネットワークを目指し、いろいろな構想を練った。

「支援の“えん“はえにしの縁」、活動を立ち上げたのは2011年1月。大阪、関西を中心に社会から見えにくい孤独のうちに生きづらさを抱えている様々な人たちの寄り添い支援をしている宗教者の方々がいた。その宗教者の活動自体もかなり孤立した状況であり、そのような人たちを発掘して横のつながりネットワークを作っていこうという活動を続けてきた。主な活動としては情報交換会とかシンポジウムを行っており、またフィールドワークに行ってお話を伺ったり互いに意識を高めたりする活動をしている。

本日は現場に従事しているお二人の方に発題していただく。お一人は三浦紀夫さん、浄土真宗大谷派の僧侶でビハーラ21という非常にユニークな事業の事務局長として活躍されている。渡辺順一さんは金光教の教師で金光教羽曳野教会にて教会長をされる傍ら羽曳野希望館というホームレスになる手前のギリギリのセーフティネットのような事業を行っている。そのあたりの苦労話を本日お話いただく。

「多職種連携の中の宗教者―ビハーラ21の取り組みからー」

三浦紀夫氏(ビハーラ21事務局長、真宗大谷派派僧侶)

「ビハーラ21」は2003年にいろいろな宗派のお坊さんが集まって大阪にもビハーラを作ろうということで始まった団体。「ビハーラ」というのは仏教的なホスピスという意味で提唱された言葉で、今はホスピス、終末期医療に限定せずに仏教を背景にした社会活動全般をビハーラと指している。

本日は、日常支援が非日常、特に災害が起きた時にどういう風につながっていくのかという視点でお話する。配布したパンフレットの裏側を見るとビハーラ21は2つの法人に分かれている。一つはNPO、もう一つは一般社団法人として分かれ、NPO法人の方はいわゆるフォーマルサービス、介護保険制度に則った支援をする方をNPO法人ビハーラ21として続けている。

なぜ分けているかというと介護保険制度の中には乗っからない支援がいろいろとある。具体的には、葬式とかお盆の法要などの宗教行為は国の制度に則ってするわけにはいかない。しかし福祉をするなかでは非常に重要なものと考えられる。もうひとつの一般社団法人は医療、福祉の業界ではインフォーマルという言い方をするが私は大谷派の僧侶としてその部分を担当している。

私は1965年大阪府貝塚市生まれ、家は熱心な浄土宗の檀信徒であった。本来は浄土宗の檀信徒だったが、縁あって大谷派の僧侶になった。その理由は2001年から2011年まで大丸心斎橋店で「仏事相談員」として勤めていた。20年近く前にこの百貨店は得意な「慶事」に加え、家族が亡くなる後を手伝う「仏事相談コーナー」を作った。その係員を10年間していた。

相談コーナーでは、日にお客様が何十人も来られ相談を受けた。「お盆では亡くなった魂が帰ってくるのは本当ですか?」とか。「そういう話はお寺に行ってお坊さんに聞いたほうが良いのでは」と答えていた。しかしお客さんは「お寺は聞きにくい」という反応だった。関西では当時、「七日参り」というお葬式の後、七日毎にお勤めをする習慣が色濃く残っていた。しかし葬式を終わってすぐのお客さんが百貨店で「お盆になったら魂は帰ってくるのかホンマか」と聞かれることに違和感をもった。

そこで、七日毎にお勤めをする習慣について、近くのお寺に聞いて歩いた。その反応は大体2種類あり、一つはすごく怒る反応で「百貨店の店員風情にそんなことを言われる筋合いはない」と叱られた。もう一つは他人ごとのような反応。「お寺も反省しないといけませんよね」とまるで他人事のような反応に失望した。

そのうち現在所属している大阪市平野区の瑞興寺の住職にめぐりあった。そこの住職は他の住職と反応が異なっていた。私の話を聞き、「君は本当にそう思うか?ではお坊さんはどういう仕事をしたほうがよいのか?」とおっしゃった。私は「葬式の前からもっと関わりがあったらよいと思います」と言ったところ、「君が僧侶になったらええやろ」とおっしゃった。

それがきっかけとなり2009年に東本願寺で得度しそれ以来大谷派僧侶として活動している。当初は百貨店で仏事相談を続けるために僧侶になったのだが、百貨店も再編があり同じような活動も限界だろうと思い、現職のビハーラ21に移った。

ビハーラ21の建物が何か所か大阪市にある。本部の建物は3階建て。1階は高齢者のデイサービス。2階、3階は障がいをかかえている方のグループホームになっており18人の方が住んでいる。

この建物がある大阪市平野区には大和川という川が流れている。その大和川のぎりぎりのところに施設がある。この地域の方は大和川が決壊するのを非常に警戒しており、普段から防災訓練をかなり行っている。大阪は地域活動協議会という町会組織のような組織があり中学校と協力して、町会主催で授業の中で防災訓練をしている。防災訓練では大和川が決壊した場合、水浸しになることを授業で教えていて防災意識が強いところである。町会の方は「町会の行事はなかなか若い世代が参加してくれず、実際には若い人に防災意識を持ってもらわないといざというときに町全体を守れない」という。その意識付けのために中学校と協力している。自分の子供が通っている中学校の授業なので親も知らないわけにはいかない。

2017年10月22日(日)16時10分に大和川の下流が氾濫注意水位に達した。この時、雨がまだ降り続き、危険なところまで行くのではと心配していた。21時40分大和川下流が氾濫危険水位に達した。その後21時55分に施設がある場所に避難勧告が出された。避難勧告警報が鳴り響き、さらにパトカーが町内を巡回し「3階以上に上がれ」と避難を呼びかけた。施設は3階建てで心配はしていなかったが避難しないといけないという意識が出た。近くに住んでいる小学生が町中の雰囲気に怖くて「お母さん避難しよう」と泣き出した。町中がそんな感じであった。一番心配なのは一人暮らしのお年寄りや障がい者の方で、近くの中学校には150名、小学校70名ほど避難した。普段から防災訓練しているが、本当に避難所を開けたのは初めてであった。この日は衆議院選挙がちょうど行われ、開票作業があったので役所の方々も手が回らない状況でもあった。大和川が一部決壊して被害が出たところもあったが、幸いにして、施設のところはそれほど大きな被害はなかった。

本年、6月18日(月)、7時58分、大阪北部に地震が発生した。平野区は震度4であった。一人暮らしの高齢者とか障がいをお持ちの方は怖い思いをした。普段、関わりあう人で一人暮らしの方とかは分かっているので手分けして電話をしたり行けるところは全部行ったりしてまわった。特に物が壊れたとか怪我はなかったが、「よく来てくれた」、「自分は独りぼっちじゃない」とわかっていただいた。こういう時にすぐに動ける連携を地域のみなさんと取っている。

地域連携と多職種連携の2つの連携が大事である。地域連携は大阪市独自の地域活動協議会、小中学校、社共、地域包括支援センターなどと日ごろから話をしている。防災訓練で言えば、例えば認知症の方がいたらどのように声をかけるべきかというような相談をこのメンバーで普段から行っている。

もう一つの多職種連携は福祉施設の中にいる宗教者もひとつの専門職と位置づけられ、医療、福祉、近所のクリニック、医者、看護師、薬剤師、などかなりの頻度で顔を合わせて情報交換をしている。更にはケアマネージャー、社会福祉士さんとも情報共有をしている。お互い支援という立ち位置で四角四面ではなく、司法の方、保護司、弁護士、警察の方々とも連携をしている。例えば、一人暮らしのお年寄りが亡くなると、事件性が無いかということで警察が検死を行うが、近所の平野警察刑事課とも信頼関係を築いている。

上智大学グリーフケア研究所の実習の一環で催された会がある。昨年のお盆に初盆を迎える地域にお住まいの方はだれでも参加可能であり、故人の思いを研究所の方に話して頂いた。夏休みには地域在住の小中学生に夏休みボランティアとして施設の中でお年寄りとふれあって頂いた。施設の近隣の小中学生は施設に住む障がいの方々やデイサービス利用の方々と普段から交流している。地域の方々は施設の中にどういう人がいて何をしているのか子供の目を通して見ていることにもなる。

認知症でも普段から地域連携を行い「認知症カフェ」をしている。例えば、お母さんは認知症で息子さんはいわゆる介護離職で仕事を辞め、母親の介護をと頑張っておられる方いる。頑張りすぎてこの方が倒れてしまうのを心配している。「息抜きをしてください」と月一回開催時には毎月来られている。

「地域活動協議会」という大阪市独特の住民組織がある。7月は全国的に「社明運動」、「社会を明るくする運動」という法務省が旗振りをする運動がある。その中でビハーラはどういう取り組みをしているのか聞きにきている。そういうことが地域との連携につながっている。普段からお付き合いの方が入院されるとお見舞いに行く。病院の前を通ったらちょっと寄る。立ち寄る時間は10分にも満たないが、ちょっとした会話をして帰る。これは「独りぼっちじゃないよ」というのを認識してほしいという意味である。ほぼ一週間、2から3件、多くて10件病院を回る。たいそうなことでなくて「来ましたよ」と言うだけ。それは近所の病院の方とも顔なじみになっている。近所の老健施設でグリーフケアの研修があり、お話をした。地域にある医療法人もなんとなくビハーラの活動を知っていて時々、呼ばれる。患者さんの中でグリーフケアの必要のある方とか、身寄りがないので「お友達のネットワークに入れてあげて」との声かけをしている。

大阪に南御堂(難波別院)という寺院があり年に1回お参りに行っている。お年寄りや若い方、車いすの方もいて、皆さん楽しみにしている。地域の中にあるお坊さんがいる福祉施設を利用している形である。利用はしていないけれども知り合いも秋になったらバスに乗って連れて行く。この中にはクリスチャンの方や創価学会の方もいる。浄土真宗という宗派ではなく浄土真宗のお坊さんがやっているのだが「一緒の地域に住んでいる」というゆるやかなネットワークに賛同してくださっている。

これは国が推奨している「地域包括ケアシステム」を具体化したような形になっている。国の作っている図には老人会とか自治会とかボランティア、NPOとか書いてあるが、ここにお寺とか教会が入っておらず、非常にさみしいと思う。国が行うことなのでお寺とか教会とか書けないのかもしれないが積極的に関わるようになったら面白いのではないかと思う。

質疑

Q:ビハーラ21の愛称「あかんのん」と書かれているがこれを付けられた意味や思いは?(龍谷大金沢)

A:「年取ったらあかんのん?」、「障害があったらあかんのん?」、標準語ではだめなの?ということで、大阪の団体ということで「あかんのん」と仏教を背景としたということを匂わせたいので、観音様の「あー観音」とその2つをかけていて、事業所名としている。事業所は「ビハーラ21あかんのんデイサービス」とか「ビハーラ21ワークスあかんのん(作業所)」とか「あかんのん」をすべて付けている。

Q:地域連携、多職種連携の中で地域にもほかの宗教者がいるがその連携はあるのか?

A:地域とのお寺さんにも声はかけているが忙しいので参加しにくい。今のところはあまりない。割と遠くから来られる。イベント等では宗教宗派問わずにお手伝いはある。地域連携は手薄でこれからの課題である。

Q:「シェアハウス中井」というのがあるが。18人の方がいる中でシェアハウスはどれくらいあるのか。(島薗)

A:シェアハウス中井は120室ある。ビハーラ21は元々平野区にあるワンルームマンションが拠点。初期のころはここが活動拠点で法人登記もそこにあった。建物の持ち主が変わって売りに出された。活動が思うように連携がとれずに今は距離がある。住んでいる方にも支援を必要としているので出入りはしているが、かつてほどではない。今は平野区内に様々な建物があって活動の場が広がっている。

Q:ビハーラ21の被介護者とフルタイムで働いている方は?

A:住宅を提供している方は80名ぐらい。フルタイムの職員は20名ぐらい。あとはパートと契約社員。

Q:国から補助金が出ているのか?

A:介護保険制度、障がい福祉サービスの給付金で行っている。

Q:多業種連携の中で仏壇とか葬儀とかお墓の方たち(供養産業)は提携しているのか?介護が問題になる中で仏教が入るのが重要と思っているが、利用者はもちろん職員が慣れていない。介護施設は仏教とか葬儀とか溝がある。入っている介護と仏教と医療をされる中で仏教が入っている介護施設と入っていない施設の違いをお聞かせください。

A:供養産業とは今は連携していません。後々はやりたい気持ちはある。葬儀社さんだけは葬儀をしなくてはいけないので非常に協力いただいている。もう一つの施設の中に仏教者が入っていくというのは高齢者施設の中で利用者さんが亡くなる。それが原因で職員がバーンアウトする。介護職員が訪問すると利用者が心肺停止状態で倒れているようなケースは今までで10例ぐらいある。ふだんは気丈にふるまっているベテランの介護職の方も動揺する。一刻も早く駆けつけて職員のフォローをする。警察が入ってくる場合もあり、ものものしい。可能な限り横についてなだめたりする。職員のほっとする顔。後悔の念が職員に残ってしまわないようフォローする。

Q:仏事のところはビハーラそのものではないのか?(創価学会浅井氏)

A:仏事の位置づけはビハーラの活動と思ってやっている。介護保険のフォーマルな方をするのがNPO法人でそれ以外の抜け落ちたところをするのが一般社団法人、分けているのは仏事をするので。ビハーラ21でも葬式をすることができますよという言い方をしている。イメージとしては創価学会さんの友人葬にも近いかもしれない。

Q:第一期、第二期ビハーラ養成講座とあるが、このメリットと、普通の施設と違って僧侶の方が職員になっている。ほかの施設はわからないが職員の人に対してグリーフケア的なことを聞かれることはあるのか。

A:「ビハーラ僧養成講座」というのが2004年と2008年に開講されていて私は2008年に修了している2期生。そのあと3回目の予定があったが。その頃からグリーフケア研究所をはじめいろいろな大学が養成講座を開校されていった。大学が作るプログラムとNPO法人が作るプログラムでは質が違うので講座は大学のプロの先生方にお任せして、ビハーラ21は実習施設として力を入れたほうが良いと判断した為、3回目は無いまま今にいたっている。2番目の質問については、私は介護職員でなくほぼ僧侶をしている。一人暮らしの方や施設の方の困りごとを聞いて回るのが仕事。大谷派の専修学院という僧侶の養成学校が一年間の全寮制である。後継者をつくるためにそこの卒業生を毎年一人ずつスカウトしてきて後々は仕事をしてもらいたいと思っている。介護職員として働きながら学んでもらい、介護の現場、医療の現場、患者の家族の思いを共有しなさいと。普段、介護職員としての人がお坊さんになる意味がある。

「シェルター事業を通じて―日常支援の中での非日常支援―」

渡辺順一氏(羽曳野希望館代表、金光教羽曳野教会長)

私は14、5年前まで岡山県金光町の本部研究所に20年ぐらいいた。その後、大阪に帰ってくることになり、その間に大阪の街が変わっていた。町中ホームレスがあふれ、道で寝ている人たちの横を何もないかのように通り過ぎる普通の人々がいる。ホームレスが寝ないように商店は冬の夜中になると水をまいて戸を閉める。駅はなんの意味もない花壇を置く。新しいマンションでは防水のシステムを作り寄せ付けないようにする。公園からも排除され、高校生が、ホームレスを襲撃する。サラリーマンも段ボール小屋にたばこの火を放り投げ、蹴っ飛ばしたり説教をしたりする。こんな街になってしまった。それまで「人間は神の氏子である」と金光教祖は教えてくれたのに、これは一体どういうことなのか?地べたで寝ている人たちはどういう意味で光をもっているのだろうか?その横を通り過ぎる人は?と疑問に思い釜ヶ崎の町に通い始めた。

そこでは、一週間に一回、三角公園という公園があり炊き出しのボランティアをやっていた。そこで、はたと気が付いた。それは宗教者の関わりである。キリスト教の団体は多いがそれ以外の宗教者が見つからない。なぜ関わらないのか?と思いつつも、浄土宗のお坊さん、新宗教、立正佼成会とかPL教、創価学会の人など、一人二人と宗教者を見つけた。そういう人たちと「soul in 釜ヶ崎」というような団体を作った。

父親が教会長をしており教会を離れて外で活動することは可能だったが、しかし、だんだんと「こんなことをしていてよいのか」「自分の現場はどこにあるのか」ということを思うようになった。野宿のおっちゃんが自分の物語を語るように、出会う人達からの様々な問いかけがあり刺激があった。「こういう生き方の中でこういう問いがあるのだ」とリアルにわかり、自分には良かった。しかし「わたくしは何を彼らにしているのだろうか」、「宗教が社会との関わり方はこういう形で良いのだろうか?」とか「別に宗教じゃなくても学生がボランティアとして勉強していくことなのでは」と思うようになった。

それと同時に衝撃的だったのは、明らかにプロの宗教者が精神を病んでいた。釜ヶ崎は本田哲郎という神父が定期的にボランティアで散髪し、頭が皆、綺麗である。しかしその人だけは髪の毛がぼうぼうの出で立ちでリアカーを引いていた。なぜ宗教者と分かったかというと、その人は祈る唱え方が独得で、ある宗教のもので、どうみても素人ではなかったからであった。気が狂っても最後まで宗教者としての魂をもっていた。しかし一番最低限の生活をしていた。また、金光教の地方の教会長で教会に入れなくなり、釜ヶ崎に行ったらしいので探してもらえないかという依頼があった。出稼ぎに大阪にやってきた教会長が病気になり、たまたま羽曳野で行倒れになり、葬儀屋さんから連絡があった。そして私の父が受け入れた。田舎の教会で生活することができず現金収入を得る為、都会で出稼ぎに出ていた。かろうじて奥さんが教会を維持していた。このようなことから、どうも宗教が困窮者を支援するだけでなく宗教の状況が釜ヶ崎では表現されているのではないか。だとしたら「ここで私がボランティアをして何になるのだろうか」と思った。

今日、お話しするのは始めに、「無縁・孤立・高齢化社会へ」という問題。これは釜ヶ崎が先進課題地域である。非常に顕在化して目立つのでマスコミも取り上げるが、実は全国各地で浸透している問題である。釜ヶ崎で実験されたことは各地域においても参考になる。

次に「排除、包摂といった2分法を超えて」という問題がある。これは排除社会をいかに克服するかということである。最近、社会的排除を包摂した形の包摂主義が協調されている。先ほどの三浦さんの地域包括ケアシステムというのも、もしかしたらその一因になりかねない恐れをもっており、自分のやっていることの迷いもある。

3番目に緊急一時避難所である「シェルター」の問題。いつ起こるかわからない普通の日常が破壊され、いきなり住居を喪失することは災害時も同じである。命、食べ物を喪失する。そういう事態に陥った場合の緊急支援の場所の役割が一体何であるのか、これを具体例で考えたいと思う。最後に「サバイバルツールを探しましょう」ということ。これは結論から言うと、与えられる支援ではなくて当事者ベースで当事者にとって必要な制度の活用であり人間の活用であり文化の活用。そういうつながりが出来ないかということである。

釜ヶ崎は先進課題地域である。2、30年前は労働市場で皆,労働者は元気であった。とにかく働いて稼ぐサイクルで野宿が常態化する状況であった。しかし現在は労働のまちから福祉のまちになっている。福祉の町ということは、次は死についての問題が出てきた。亡くなったときの遺骨の問題や葬儀の問題など。宗教的な問いがあふれ出るようなフィールドになっている。我々のメンバーである川浪さんという僧侶から教えられて思った。大都会で一人さまよっているが、実際には菩提寺の宗派のこと、地元の神社で遊んだ記憶などの故郷の宗教的な世界と繋がってそれを味わいながら「生きるよすが」として生きている人が多いということ。そういう人たちこそ宗教的存在である。そのような観点から野宿者問題を考えると、地方にいってホームレスの話をしたら「そんなものはうちにはいない」と言う。しかし、それまで地域で生きていくことができたのに、仕事が無くなり都会に行った結果、帰れなくなった。いわば地域力低下の問題でもあると反論できる。宗教的にいえば、地元の神社の氏子たちが都会へ行って帰れなくなった「氏子の問題」と考えることができる。いわば諸宗教の教団の救済力、包摂力が低下していると思えるようになった。

釜ヶ崎で活動している浄土宗僧侶の杉本さん、我々の仲間の川浪さんという方々は自分のこと以上に神妙なこととして8月14日から15日、年一回、その前年に一年間亡くなった人たちの慰霊をしている。

「ホームレス自立支援法」が施行されるようになり、実態調査を行った。生活保護を受給させることで、自立が簡単にできるようになってきた。路上生活者は今、5000人から6000人ぐらいいる。減ってきてはいるが、ホームレス問題は解決したのであろうか?貧困率はリーマンショック後には富裕層と貧困層が2分化してきていると言われており、実際には貧富の格差が非常に拡大化している。事例でも述べるが固定化してきているというのが私の実感である。

ひとり親世帯の貧困が言われている。学歴問題も一つの原因である。事例だとシェルターに来る人は中卒者がものすごい多く、まともな就職ができない。高卒要件で最初からはじかれてしまう。特に女性の低学歴が指摘されており。その母親の上の世代が貧困であると3世代続いてしまい固定化されてしまう。

「大阪希望館」という団体がある。ちょうど十年前、活動を続ける中に釜ヶ崎支援機構という団体と仲良くなった。事務局長が大阪希望館を設立したいという。ついては宗教界にも呼びかけ協力してもらえないかということになった。釜ヶ崎は福祉資源が集中している。例えば炊き出しなどは毎日やっていて、そこに行けば飢え死にすることはない。医療にしても無料で公園にて提供する。そういう支援は現状維持で大丈夫である。

一方で、急に野宿になった人たちがいる。野宿の一歩手前であり、ファーストフード店で、漫画喫茶で一晩明かしたとか、ネットカフェにいながら派遣労働をしているなど、いわゆる「派遣切り問題」や2008年に起きた「リーマンショック」の時にネットカフェ難民問題がマスコミに取り上げられた。その翌年2009年に大阪の北区天神橋6丁目に「大阪希望館」が設立された。その時から事務局でずっと関わっている。多くの協力と賛同から設立され、大阪連合などの労働団体や部落解放同盟などの人権団体、労働者福祉協議会とかがあり、それから宗教団体はカソリック、新宗連も大阪事務所として協力してくれた。他にもいろいろな学者や一般市民が協力して頂いた。ここは大阪駅に地方からやってきてそのままどこに行っていいのかわからない人たちとかあるいはネットカフェにずっと泊まってどうしていいのかわからない。そのような釜ヶ崎を経由せずにいきなりホームレス状態に陥った青年たちの収容支援、住居支援で、モットーは「誰も社会からこぼれ落とさない」そういうセーフティネット作りを目的に始めた。シェルター事業はこのころから緊急支援事業として大阪府から受託された。

2011年には皆で相談しながら「支縁のまちネットワーク」を始めた。これは各宗教がその地域の中でなんらかの社会的な資源にならないか?いま無縁社会と言われ人と人との絆が見えない中で、宗教をどのように活用できるのか考えていこうということからであった。その中の一つには宗教施設の活用があった。宗教法人は税金を免除されているので、信徒だけの利用だけでなく、地域の本当に困った人たちに使用できるのではないか?施設を緊急避難的に使用することは可能ではないかと考えた。更に、宗教には人材もいる。日本にはいろいろな宗教があるが、人を大切にするとかおかげ様でいるとか大自然の命を大切にするとか、総じて日本の諸宗教はゆるやかな宗教であるので、趣旨の賛同を得られるのは可能と思った。しかし現実はなかなか難しい。そのような考えをもう一度見つめ直そうと、東日本大震災が起きた年に「支縁のまちネットワーク」を作った。

2011年に寺院やあるいは仏教の知恵、神社の森の力が地域の中でどのように役に立つのか?と話題になった。自分の宗教が社会にもたらす活動は生活困窮者、特にホームレス支援であるので、その観点でいうと、現実的にはお寺や教会でもホームレスが、邪魔になってしまう。同じ金光教の教会から「お前らのところは羽曳野だからええわ、わしら大阪市内の教会はたいてい皆が迷惑」と良く言われた。理念と信仰と生活感覚とのづれがあることがわかる。教会長なり僧侶なりはホームレスのことを理念的には排除しない。「仏様があるいは神様が導いてきて生活に困った人なのだから話を聞いて、できるだけのことをしなければいけない」と。そういう善意が宗教にはあると思う。しかし実際には面倒くさくなる。千円渡したらワンカップを飲んでいたとか。何か所もお寺を回って一日一万円ぐらい稼いでいたとか。そういう実態を見たときには腹が立ってくる。ちょっと掃除をしてもらい、お金を渡すなどの苦労をしていた。「お前のところは遠いからそんなこと言える」などと言われたが、このような宗教的に相反する悩みからしか信仰的な問いは始まらないのではないか。そこに腰を据えないといけないと思っていた。

「支縁のまちネットワーク」を作った後に、東日本大震災が発生した。立正佼成会の大阪教会普門館で記念集会をしたときに、岡田先生に来ていただいた。東北の川上さんとか皆さんとシンポジウムをして。このときはいきなり震災で無縁社会になった。そこでどのように力を合わせて絆を取り戻すのかとか、地域を再生するのかとか。離れていてもできることは何かあるのかとか、そういうことを模索しようとする集会をした。

その次の年の2012年4月だったと思うが、自民党の憲法改正論議が出てきて「あれ?」と思った。全文つっこみどころ満載で、とんでもない改正案である。ちょっと読んでみると「我が国は先の大戦による幾多の大災害を乗り越えて発展し・・・」とある。

震災の次の年によくこれが書けるなと思う。戦争も侵略したアジア諸国のことも全然なくて、荒廃させられた被害者が忘れられている。その国民の痛みにあるいは大量の死の連鎖に苦しみに寄り添う形で国がもう一度権力を再確認する。そのような統合の論理がここに出てきている。「和を尊び家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成していく・・・」ともある。これは良いことなのだけれど、これも「和を尊び家族や・・・」とある。これは我々、宗教者がいつも言うことである。家族仲良く、それから輪というのは大事なのだ。お互いに人を助けて自分が助かるとかは、いつも我々も考えている。何が違うかというと、ここには「排除の論理」が隠されている。「輪に外れた」人たちは関係ないということ。ここから危機が煽られていくようで、これはいつの段階から考えていたのか、震災からわずか1年でよく考えられると思った。未だにこの状況は続いている。

羽曳野の町全体を大きなセーフティネットにしようと羽曳野市に提案事業を申請したところ、補助金を120万円ぐらい確保した。そこで大きなシンポジウムや緊急食支援、高齢者の家に行く見守り支援などをした。このシンポジウムでは痛みに寄り添うということで新宿において活動をしている中下さんに来てもらい「市民が作る支えあいのまち」ということでパネルトークをした。東日本大震災の話も中下さんにしてもらった。

2015年には徳丸ゆき子さんという「大阪貧困アクショングループ」の代表がいる。「子ども食堂」という活動が2年ぐらい前から盛んになってきているが、そのはしりで彼女がやりだした活動である。この時も「みんなで作る支えあいのまち」ということで、機能していない地域社会、排除社会を少しでも変えていきましょうと呼び掛けて、市の行政とか社協とかに集まってもらった。

その時、あれ?と思ったのは、徳丸さんが出してきたテーマが「家庭内の暴力」だった。夫婦間や親が子にする暴力であった。これはちょっと「支えあいのまち」の発想では無理であり、違う発想をしないとこの問題は扱えないと思った。女性用のシェルターを徳丸さんから依頼された。「子供の貧困」でシングルマザーの人が逃げてきた。匿って支援していたら、「住むところがないのです」と口々に言うという。ゆっくり休ませる場所が欲しいので宗教でなんとかなりませんかと依頼された。あちこち寺院などに頼んでみたが、なかなかうまくいかず、じゃあ作ろうということになった。それまでの羽曳野市の提案事業は「協同」による困窮者支援である。

ひとつは「フードバンク大阪」が堺に作られた。そこは社協で「生活困窮で明日がない」という連絡が大阪希望館に入り、連絡あったらその家に食料を運ぶ。こういう事例がある。三歳と一歳の子供がいる女性から大阪希望館にメールが入った。「今日は三歳の子供の誕生日ですが誕生日のケーキどころか食べ物が何もなく、このままこの子たちと一緒に死のう」という内容だった。比較的、私のところは近いので「渡辺さん行ってもらえんか」という連絡があった。すぐにフードバンクから食料をもらいそのアパートにかけつけた。話を聞いてなんとかその現場は収まった。そのような人知れずSOSを発信していて、どこに話したらよいのかわからない人たちが地域社会に埋もれていると思った。

しかし理念として行政は包摂主義による、地域包括ケアもそうだが、「市民が担い手」として成長していくよう、地域力のアップを呼び掛けている。それ自体は結構なことだ。しかし生活保護制度は生活困窮者自立支援法と同時に改正されて引き下げられてきた。

平成27年に超高齢化した時代ということで「福祉の新しい時代」といわれた。支えるものが無くなってお互いに支えあうシステムを作らないと餓死者、孤立死が出る。平成28年、厚生労働省がいきなり「地域共生社会」と言いだした。我々が言えば良いのだが、政府から言われると「他人事は丸投げか」と思ってしまう嫌な自分がいた。「社会的排除」という言葉が無くなっている。

ともあれ、シェルター事業は行政サービスの下請けとして生活困窮者事業の中に位置づけられ、協力を頂いている。3年間で約40名利用があった。その内訳は母子家庭が4世帯。男性が半分ぐらい、野宿者とかである。

いくつか事例をあげると、いろいろな人が3年間入ってきた。60代、70代で「橋の下」で寝ていた野宿者とか釜ヶ崎から現場に連れてこられあまりにもひどくて逃げ出して保護された野宿者とか。解雇と同時に住居喪失したというような30代、40代の若い男性がいた。弟からのDVを受けていた男性。母親と妹が障がい者で生活保護を受けながら世話をしていた。生活保護は弟の口座に入れさせられていた。このことが発覚し、母親と妹は病院に収容されお金が入らなくなった。腹を立てた弟から「兄貴、お前がしっかりせんからだ」と殴る蹴るの暴行を受け、命が危ないとの連絡を受け保護した。他にも、傷害、公然わいせつ。覚せい剤などもいた。

20代前半の女性は中学卒業後、母親が再婚した。新しい父親との関係が悪化し、家を追い出された。友達の家を転々としているところを保護された。40代の女性はオーストラリアで結婚し長年、暮らしていたが離婚してしまった子供がおらず、永住権がはく奪され強制退去になった。ところが日本で身寄りが一人も無く、いきなりホームレス状態で保護された。

家の中で舅との折り合いがつかず旦那とも関係が悪化し家を追い出された女性。その後、軽ワゴン車の中で犬2匹を連れて車上生活をしていたところを保護された。身重で、あと2か月ぐらいで出産するところだった。

夫、息子からのDVを受け監禁状態だった女性。半年ぐらい六畳一間の部屋に閉じ込められ、全然食事も満足に与えられずに逃げ出して保護された。シェルターの広さは六畳二間しかなく、古いボロボロのアパートなので少し我慢してくださいと言ったら、「いやそうではなく。こんなところに住めてありがたい」とわんわんと泣き出した。だんだん回復してきて、三日四日すると自分で食事や掃除をしたりして普通の生活を取り戻した。

五島列島の出身で支援学校を卒業した若い18歳の男女が駆け落ちし公園で保護された。夫婦とも精神を患っており、しばらく入居してもらった。薬が切れると妄想状態で包丁を振り回したので、警察に連れていかれ強制入院になったが、この人たちもなんとかなった。

東北から来た男女のケースは男性は中学卒、彼女の方は高卒といっても、高校1年に入った段階でもう辞めさせられていた。父親が組関係で変な仕事を高校時代からやらされ全部、搾取されていた。その家庭環境の中で、子供が出来、3人で逃げ出しシェルターに入った

このような人たちと関わることで「あー(この人たちは)サバイバーたちなのだな」と思った。彼らには支援として「住居、食事、お金を提供する」あるいは「制度で保護を提供」で良いのかというとそれではダメである。

例えば生活保護ではうまくいかないケースがあった。地域の中に入ると「関係を作っていく力」を育てられておらず地域との関係がぐちゃぐちゃになって生きていけない。あるいは小さい時から母親は料理などを作らずにカップ麺などで育っている。「調理する」という身辺自立能力がないので、そこから育てないといけない。あるいは親から小さい時に「物語」を聞いておらず、自分を物語として自己物語化する力がない。その為、他者との関係性を取れず、相手のことがなかなか見えてこない。故に人間関係がつまづき、失敗するケースがある。お金を渡したら良いかと言うとすぐにパチンコに使って無くなってしまうことある。

「(支援の活動を)サバイバルツール」と考えてみると、いろいろな重的な要因や排除の中でそのような状態になったので、ひとつひとつ抜け落ちた点を取り戻していくことが大事である。個々の当事者に合わせた、「学びの場」を作るしかないと思う。具体的には、職業に就く為の高卒資格取得がある。また、本人が自立して生活するために関わりが必要で、それらの人たちを理解する心を持つ、例えば不動産屋なども多くいる。そういう人たちと連携し、当事者ベースで生きる道を変更していける学びあいができないかということをやっている。その際に宗教がどう関わりあいを得るのかということを模索している。

質疑応答

Q:シェルターでの支援の流れを時間の関係で省略されたので、よかったら簡単に説明してほしい。(葛西)

A:生活困窮者支援法の枠内でやっているので各都道府県の市町村の行政に相談窓口が設置しております。大阪府と契約を結んでいるので生活困窮者のケースが出た場合、窓口に相談に行きます。そこで住居が今日住むところがないというような人が出てきた場合にいくつかシェルターやっているところに連絡があって受けると。受給するひとの場合は最短で1週間から3週間受給されまでの間、生活をしてもらう。あるいは収容する場合はもうちょっと長く一か月とか2か月とか食事は用意されているので自炊、規則は設けていない。

Q:シェルターの費用は?

A:大阪府からひとりあたり6000円、大家に入る。家族単位であるとそれに掛けた金額になる。

Q:稲場さん

「宗教者」としての支援のかかわりはどうであるのか?行政が本来やるべきこと。現在は国が市民の力を吸上げていく方向。連携する必要はあるが、からめとられてはいけない。

A:「宗教者」としてはだしていない、当事者には普通のおっさんとして聞かれたときに宗教者を出している。宗教者として全面に出さなくても、話はきかないが、アパートの紹介。制度のはざまでもめる時がある。橋の下に住んでいた。境界線。行政との間、つなぎの役目は裏で行っている。

宮本氏まとめ

緊急事態ということでは、災害と言うのは緊急事態の中の緊急事態ではないかと思う。災害そのものはいつか終わる時が来る。しかしまずは緊急支援をしなければいけない、瓦礫を撤去し物資を配布したりなど。それに続いていわゆるインフラを整えたり、街づくりを整えたりという復興支援が続く。そして日常的な支援が続いていくと思う。その時の支援の形は様々に違うとは思うが、支援そのものとしては3つの支援、緊急支援、復興支援、日常支援というのは地続きになっていると考えている。その意味で「支縁のまちネットワーク」は日常現場での支援のお話が中心であったが、日常的な支援がしっかりとしていればいざという時に緊急支援もできる。そして同時に防災意識も高めるのにもつながっていくであろうと考えている。もっともっと「支縁のまちネットワーク」との交流を宗援連と共に続けさせていただきたいと思っている。

西日本豪雨災害の報告

稲場圭信氏(宗援連世話人/大阪大学)

今回の大阪北部地震はまさか起きるとは思っていなかったが、かなり大きな地震だった。当日、7時58分、出張の準備で在宅中に地震が発生。すぐに周りの安否確認を行った。近隣の高齢者に声をかけ、学生の安否確認などをして大学に行った。実際にすでに学生が何人か大学に来ており安否は確認の後に車で一緒に被災地の先遣隊として動くことになった。

18日高槻、茨木市、後程、19日には社協の「災害ボランティアセンター」の立ち上げに学生と日本災害救援ボランティアネットワークと一緒に関わった。社協と連携する動きも重要である。さらに水の配布とか、避難所を回ったりして6月20日からは学生主体のボランティアセンターの運営を行った。

西日本豪雨の災害に関してはこんなに大きな被害になるとは思わなかったが7月8日の段階でこれは動かなければいけないと思い7月10日に先遣隊として学生一人と日本災害救援ネットワークの渥美公秀先生と3人で先遣隊として入った。その中で宗教者との現地での共同ということもあった。

まず大阪北部地震の方は大学に行ったら自分のいる人間科学部研究科の研究室では被害はそんなに大きな被害ではなかった。ところが大阪大学全体で言うと23億円の電子顕微鏡が2台壊れてしまった。これは他にはない特注の為、作り直すには一年以上かかるものである。このように大学全体では病院などいろいろな被害があった。大阪北部では高槻、茨木、吹田市は本当に被害がありブロック塀が崩れて小学生の子供が亡くなるという痛ましいことがあった。震度6弱で、本当にかなり揺れた。断層の関係で横にずれ、場所によって感じ方が異なり、下からドンときたという人もいれば、横からじわじわと来たという人もいた。つくばにある防災科研がすぐに作成した地域毎の震度分布図では吹田市の赤いところが震度6弱であるとわかる。このような揺れの分布を見ても6弱が大量にあることがわかる。高槻市などは本当に被害が大きかった。でも、そういうふうに思われていない。分布図の黄色の部分は6弱ではなく、5で少し弱いように揺れの差がある。見ていただくとわかるように大阪大学病院も含め23億円の電子顕微鏡が壊れた場所も6弱だった。しかし大阪大学の吹田キャンパスの自身の研究室だけが奇跡的に震度が弱いところであった。さらに代表で研究を進めており昨年から災害時に独立した電源通信網で使えるという実験機がある。NTN社とソフトバンク社、研究室、大学で共同実験をしているもので、これが壊れたらと心配したが、震度が若干弱いところに建っていたので地震でもビクともせずに今も動いていて3台で実験をしている。これは「独立電源みまもりロボくん」といい寺院、神社、公民館、小学校、いろいろなところに設置をして災害時も被災地の外に通信ができるような仕組みを考えているものである。

ボランティア団体は災害時に社協が運営しますが今回は初動の段階から入った。これは災害時に社協と災害ボラセンが連携するかどうか非常に難しいところがある。一つには大きな動きとして内閣府がJVORDとか支援P(災害ボランティア活動支援プロジェクト会議)という災害時の仕組みが整ってきている。その為、災害ボラセンを通さないボランティアは「野ボラ」などと言うような雰囲気が出来つつあり、非常に怖いなと思う。本来の災害ボランティアの動きが管理社会になりつつあるのは怖いと感じる。一方で社協がいる災害ボラセンが無ければ多くの人が被災地で動けない。ボランティアの経験があまりない人もいるので災害ボラセンは必要である。しかし立ち上げるときに過去の災害や今回の水害を見ても地域の社協の職員も被災している。その被災している職員がボランティアセンターを立ち上げなければいけない制度であり、制度設計自体が問題である。被災した人に負担がかからないよう外から支援に来た人が運営する仕組みが大事なのである。そこに宗教者、あるいは地域の大学が一緒に入るというような仕組みが必要であり少しづつそういった連携が出来ている。また大量に数十人単位で動くような大学とかNPOとか宗教団体はいきなり被災地に入ると混乱を生むのでやはりボラセンとの連携や、一方で小回りの利く動きを宗教団体やあるいはNPO,NGO、大学が行うことも必要である。このような多様な支援の仕組みが必要であると今回再認識した。

今回、大阪大学の近く、箕面市のある小学校では地震当日に150名が避難した。その避難者は大阪大学の留学生がほとんどだった。これは日本で起きた初めてのことであったように思えるが、8か国語が飛び交うような避難所になった。避難所にはハラルフードなども中に用意しておいてあった。

このようなボラセンに大阪大学の学生も関わっている。それから私も関わって作っている「災害支援マップ」がある。茨木市のある教会ではシャワーが使えるとか。使われてきている。まだまだ知られていないので今後活用できるように増やしていかなければいけない。

ブルーシートを貼ったけれども、全国からいろいろなボランティアの方が駆けつけてくれた。屋根にブルーシートを張るのに土嚢が必要で土嚢袋詰めを渥美先生と一緒に黙々と行った。

ところが土嚢がまったく足りなかった。そこで熊本地震の被災地で活動している宗援連にも来てくれた真宗大谷派の僧侶糸山公照さんや熊本天草のお寺などから、宗教者のネットワークで私自身がFacebookとかで発信したら合計で4000袋届いた。最初は吹田市では2000袋以上はいらないということでストップした。しかし高槻市では必要で追加で手に入るのであれば送ってほしいという依頼があった。すぐにお願いしたら届いた。それでも足りなかったのだが、滋賀県から真宗大谷派の僧侶の方々のNPOが支援に駆けつけてくださり、また土嚢も提供してくれた。

これは「恩送り」と呼んでおり、被災地のリレーといって東北から気仙沼から、または中越地震の被災地から岩手県の野田村からお米とか塩とかふりかけとか届き、それをお母さん方が握ってボランティアに来た人たちが食べる。ボランティアをしている人自身が被災しているので、気にかけてくれることに感謝していた。大阪地震があった直後、被害はあったのに家などの損壊が少ないので大変でないかのような雰囲気になっていた。「見えない災害」という形になっていたので寂しい思いをしていた大阪の人は多いと思う。人数ではないが亡くなった人や死傷者がいる。このような中に気にかけていただいている人がいることはありがたいという声があった。

「見えない災害」という言葉。目に見える形の災害では東日本大震災では津波一面全部なぎ倒されていった。熊本地震でも震度7が2回あり。あのような形で家が全壊していた。今回の大阪では確かにむしろ表に出てこなかった。例えばマンション、上のマンションの階は非常に揺れた。2週間エレベーターがまったく動かない生活をしていた大変な高齢者もいた。10何階まで上がれず、そういった中で支援が必要である。高齢者の女性一人暮らしの例では家の中に入ったら足の踏み場も無い状態であった。これは地震の影響ではなく、もともと家の中はもともと散かっていた。災害によって日常生活の大変な状況が顕在化していく例である。先ほど「支縁のまちネットワーク」のみなさん方のご報告の中で平常時の支援と災害時の支縁のつながりが大事であると改めて気づかされたが、まさに平常時にこの高齢者の女性の支援が必要だったと思う。しかし周囲の人はだれも気にかけてくれず、この女性も周りには言えない。ところが地震が起きた。寝ている周りがベッドの一スペースだけ。これをずっと2日間、学生と共に片づけてなんと「ソファがあったのか」とか、「やっと床が見えた」とかという状態であった。やはり平常時から寄り添いのような日常からのケアが必要であることが明らかになった。

西日本豪雨災害は広域災害である。なんとなく理解しているかもしれないが、東京あるいは東日本だと、あまり大変だという認識がない。あるいはもう今の段階で「風化」の雰囲気になっているとも聞く。本当に広域に1000Kmにわたって被災地域が点在しており、特に広島、岡山、愛媛はひどい状況で、2万世帯以上が住めない状況になっている。しかし、いまだに人手が全然足りない状況である。

学生、日本災害救援ネットワークがすぐに街頭募金を行い、一方で、7月10日に私と渥美先生と院生1人の3人はとりあえず現地にいかなければと、水を積めるだけ積み向かった。先遣隊としては、まず現地の状況を確認す為にいろいろと動いた。10日の段階で真備町は使えないものを外に放り出していく状況であった。我々は持って行った物資を一件一件歩いて届けた。この10日の段階で信じられないがボランティアは一人もおらず地域住民だけだった。これだけ広域で被害が出ているのにまったく一人として出会わなかった。地域の人も「ボランティア?そんなの来ていないよ」と言う。地域の人々が猛暑の中片づけをしており、我々がこういう「ビブス」を着て行ったら、「あんたたち何なの?ボランティアを初めて見た」と言われた。とにかく手があったら何でもして欲しいという感じであった。例えば大阪北部地震の時は「ニーズ調査」を行った。しかし今回の水害ではニーズ調査は必要ないぐらいあちこちで人手が欲しい。ある方が「ボランティアが染み込むように入っていく」と言ったことが象徴している。

「手伝ってくれるの?」と話しかけてきたこのおばあちゃんは、あっという間に30分も立たない間に水が2階まで上がってきて自分は2階に逃げた。それでも水がどんどん上がってくるので最後は泳いで2階の屋根に上がったと雄弁に語った。これは外から来る人が全くいなかったので自分の災害体験を非常に高揚して話す。やっぱり「傾聴」と言う支援の段階ではないが外からの必要だと感じた。

さらに11日は兵庫を見てどこで人手が必要なのかと考えた。この段階ではマスコミも新聞の情報も部分的で我々が現場で見てきたことと見当違いのこともあったので、やはり自分の眼で見て今後はどこでどう動くのかということを考えた。そして、大阪大学を再度出発して倉敷で活動しようと考えた。地域住民がどんどん家の中のものを出している状況下で、今回は日本災害救援ネットワークのビブスをして活動することになった。

これは立ち上がってすぐのボラセンである。我々が行ったら熊本地震で活動していた方々や支援P(災害ボランティア活動支援プロジェクト会議)の方々が来ておりすぐに連携が取れた。その後、真如苑SeRVの方々がボラセンに入ってきたので伺ったらこの後、ボランティアバスを、平日、人手が足りないという要請から平日に2回継続して派遣しているという

水害があって一週間たったある家庭の状況は手つかずである。本当に人手が足りていない。この家は2階の直前まで浸水しており、全部が水浸しで使えなくなり食器棚の食器とかは泥水が溜まり腐敗している。畳は全部カビだらけ。ここに住んでいる人たちは気力がないから自分で全部出せない。一週間避難所生活をして、ここにきて途方に暮れている。我々はアポを取ったりニーズ調査をせずに人手が必要なところで活動をした。この冷蔵庫中のものや腐ったものを全部出してとか食器を出してとか、汗だくになりながらこれだけのものを外に出すということをした。カビが生えた畳も出した。

汗は4、5リットル出たのではないか。水2リットルのペットボトルを2本軽く飲んだ。活動中はトイレに一回も行かない。熱中症になるので休憩はちゃんと取った。まったく何もできない。本当にむなしさを感じるような状況であったけれども延べ人数で20人ぐらいで2日間で片づけた。

倉敷市の避難所である第二福田小学校がある。ここは11日の段階で神戸の岩沼牧師たちが入って炊き出しを始めた。ところが2日間炊き出しをして13日にはあまりにも猛暑で体力が弱っている被災者が食中毒になる可能性があり炊き出しがストップになった。

一方でこれは矢掛町という真備町からさらに西に行ったところの集落で浅海という地域ある。被害が大きいのに、ボランティアが全く入っていないところで、今後は全部は住めないと思う。今、起きていることは真備町のことで、学生がキリスト教の団体と一緒に広島の呉に入っているので少しはわかる。その呉では学生が中心になってキリスト教を中心にボラセンを一つ立ち上げている。真備町に関しては4000世帯から5000世帯が被災している。一つのボラセンで災害の支援をするのはなかなかないことで、とんでもないぐらい人が足りない。週末だと1000名ぐらい来るが、全然人手が足りない。それの何十倍も人手が必要。さらに土嚢に関しては10万単位で必要な状況。それもない。

残酷な話だが、被災地ではもうおそらく復興計画でも住めない地域がいっぱいあるし。4000,5000戸という数なのに、片づけている手が入って動き出しているのが1割も無く、圧倒的にボランティア、人手が立りない。そういう状況であるのに東日本では「え、そんなに大変なの?」という雰囲気である。今後住めないところもあるぐらいの状況である。

これは真備町の熊野にある熊野神社であるが、ここは水が来て下の集落から200名ぐらいが神社に逃げた。新聞にも掲載されたのだが、普段からこの神社で訓練をしていて逃げたと。急な階段を登らなければいけないが、高台に神社があったから助かった。ここでは私が行ったときでも20名以上が避難生活をしている。今週末4日にもまたこの神社に行く予定である。

一方で残念な神社があった。緊急避難所になって人の命を救っている神社もあれば、鳥居の下は全部瓦礫になっていた。実際、私が行って見てきたところ、ただ周りにごみを集積する場所がないので仕方なかったのかもしれない。次に真備町の辻田にある曹洞宗の源福寺という寺院は、見てもわかるように本当に大変な状況になっている。水が来た時にお母さんとおばあちゃんはここにいた。住職は消防団で他の寺院にいた。川が決壊して大変だから逃げろということで夜中の1時ぐらいにお母さんに電話した。お母さんが5分で荷物をまとめ車で逃げて助かったのだが、本堂は庫裡も全部浸水したので、もしかしたら亡くなっていたのではないかとのことだった。

ここは本堂とは別に納骨堂が高いところにあり、浸水しなかったのだが、明治26年に起きた水害の供養塔があった。この時は納骨堂のあたりまで来たらしい。そういうものが残っていたが地域の人に伝承されずにいた。住職やお母さんも、まさかこんなことになるとはところが教育委員会が作った過去の水害の説明書きがここにあって、地域の小学生は総合学習の時間で学んでいる。でも歴史の一つとして危機感を持ち「自分たちが被災するかもしれない」という感覚がなく歴史を学ぶだけだった。せっかくお寺にこのようなものがあるのに残念なことである。これ以外に曹洞宗の青年たちは入れ替わり立ち代わり真備町に入っているという声を実際に聞く。多分、今日お集りの宗教者の方々は自分たちもこういう活動しているというのがあると思うので情報交換会で共有して頂きたい。

最後に、まだ大変な中、私自身も混乱状況で6月から地震の後、水害が起き通常の大学の仕事がある中で動いていて混乱している。被災地に行く際には留意点がある。現場では、いろいろな機関とコミュニケーションを取ったりした。現地でもテレビ、新聞などと同行取材しました。その中で「どこを向いているのかな?この人たちは」と思うことがあった。NPOとか、あるいは大きな災害時に動く支援P(災害ボランティア活動支援プロジェクト会議)とかあくまでも被災者中心であるはずなのに組織のエゴで誹謗中傷をしている。「ああいう動きをするから、ああなっている」とか「段取りがなっていない」などの他を責める言い方とか。自分たちが有利になるよう助成金、補助金、支援金をどう取ってくるかとか。「ボランティアが目的」になってはいけないのに、そういう動きがあることはちょっと疑問である。

加えて、熱中症は本当に危険で我々のメンバーで社会人の一人が手がしびれ熱中症の一歩手前になった人がいた。別行動の彼は後で聞いたらやはり休憩を取らなかったという。多分宗教者の方々も「困っている方々の為に一生懸命頑張ろう」と休みをとらないと思う。それは非常に危険で、率先して責任のある立場の人が休もうと言わなければいけない。「あの先輩が活動しているから、もっと自分も頑張らないと」となってしまう。実際に一番良いのは時計を見て15分ぐらい。または20分弱で休憩する。30分は危険。天候に応じて20分と決めたら皆で手を休めて水を飲む。10分休憩した後に活動を開始して何分後のこの時に休もうと率先して責任者がタイムキーパーとなる。これは徹底してやらないといけない。もし被災者宅でボランティアが倒れてしまうと一番悲しむのは被災者宅の方たちなので、気をつけなくてはと思う。

また、これは実際に被災者から聞いたのだが「使えない、捨てないといけない」と理解していても心の整理がつかないから捨てられない。こういう声を聴く。効率よく片づけをすることが全てではないということがある。

それは、やはり「これはどうしますか」と一回一回確認する必要がある。「いやそのXマスツリーは思い出だから洗って取っておきたいな」とか。ある男性の方は奥さんと離婚して一人で発達障害、知的障害を持つ子供3人を抱えていて頑張っていた。日中は猛暑の中、片付けに来ている。その間、発達障害を持っている子供が状況を受け入れられず近くの物を壊したりすることもある。夜になると避難所に帰っていく。そして日中は家の片付けをする。その方は「もう心が折れそうだ」と、ただただ我慢している。我々が行った一週間後、やっと外で避難所では飲めないビールを飲めたそうだ。「落ち着いたら一緒に一杯やりたいよね」と言う話をした。一方で家の中にいっぱいある使えない畳などが片付くと先が見えない中にも何か希望が見えるという声を聞く。片付くのも大事。このバランスは大事で、本当にコミュニケーションを取りながら、「大切なものがそこにある」という意識で会話をして確認する。それは宗教者の方々が日ごろ、そういった取り組みをされているので災害時には生きるのではと考えている。

・質疑応答

Q:途中で「もう住めないかもしれない」とあったが地域的に危険地域なのか。

A:まだ復興計画はこれからなのでただ決壊をした壊れたところは今後また同じようなことが起きる可能性があるということで復興計画の中で人が住めない地域になる可能性がある。それを災害ボランティアセンターの運営しているスタッフ、とりわけ支援P(災害ボランティア活動支援プロジェクト会議)でノウハウを持っている人たちはわかっていれば別である。とするとそういう地域はボランティアを送り込まずに放っておいたほうが良いというふうになってしまう。実際にはそういう地域にはボランティア派遣が全くされていない。手つかずで今の段階でそのままである。ただ被災された方々にしてみればそれ自体が見捨てられた感覚。これは本当に難しい。人手があればそこにもボランティアがということになるが。

情報共有

真如苑救援ボランティアSeRV状況報告 藤本直宏氏

l 西日本豪雨の対応について

7月7日~9日までの本部の動きは各県支部寺院においての信徒の安否確認を行った。

7月16日までの集計で広島、岡山で床下以上の被害にあった信徒が20世帯。

7月9日に対策本部会議を設置、その後継続して会議を行い情報収集、対策について検討を進めている。

災害支援の活動の動き

l 7月8日岡山に職員1名派遣

l 7月9日広島に災害支援の職員2名先遣隊派遣。

l 7月11日岐阜県関市で活動開始。

l 7月17日岡山真備、関西地域(滋賀、京都、大阪)信徒メンバーボランティアバスの形で毎週火、金曜日に8月の末まで週2回、25名程度のボランティアバスを派遣。

l 広島は事前に災害支援ネットワークに入っており安芸区のボラセン立ち上げ要請により、先遣隊2名が立ち上げに入り交代で8月末までボランティアの受け入れ送り出し、マッチングを取り組んでいる。特に専門をもった活動ではない為、基本的にはボラセンに行き、そこでニーズに合わせてマッチングしてボランティアに取り組む。なれない信徒が行く為、ボラセンの指示に従い活動している状況。これまでに被災地域7県で約500名近くが活動。

l ボランティア中心にならないように、傾聴、寄り添いを基本にしている。今回の活動の中では(真如苑)苑主から「人の痛みや苦しみ自分のこととして置き換えて」との指導を心におき、慣れない作業をする信徒、職員と共に現地の活動を被災者の方に少しでも役に立つ活動になるように取り組んでいる。

l 義援金、支援金は7月14日に岡山県社協に支援金、その後継続的に被災地域に取り組む中で約3000万円の予算の中で支援金、義援金を届けている。

東本願寺真宗大谷派教学研究所 御手洗隆明氏

東本願寺の大阪北部地震、西日本豪雨に対しての対応を別紙にて紹介。

発生の当日は本山の研究所にいた。災害時には日ごろ出来ていないことは非常時には出来ず、本山では基本的には情報収集と被災先からの依頼があればそこへ出向く対応がある程度決まっていた。

l 大阪北部地震の対応について

初日の対応としては最初の一報が13時の情報であった。地震発生は大阪教区の大阪教務所と難波別院。大きな被害は免れたので初日から3日間通常業務を止め初期対応にあたった。3日間は被災した寺院からの情報聞き取りと支援物資の配布の巡回を続けた、日常やっていたことが災害時の対応に生かされた。マンパワーがあり可能であったことで、大阪の教務所の職員と別院の職員が合同になり被災が大きかった地域を回った。電車が動かず、電話が通じない中で実際にその場所に行き聞き取りをしていった。その結果、6月28日に650箇寺中被災寺院82カ所の被害状況が公表された。

震災発生時大谷派の本山は2013年11月に京都地区の観光客等の帰宅困難者の受け入れ協定を結んでいた。今回、市のほうから依頼と打診があり実際、開設しなかった。京都市が帰宅困難者は解消すると判断したからである。実際には6月25日付けの京都新聞によると解消していなかったという記事が出ていたが、東本願寺は開設の準備はできていた。今後は本山が実際に被災した時、あるいは大きな行事が行われているときにどう対応するかが課題である。

l 西日本豪雨について

被害は西本願寺の方が圧倒的に多かった。東本願寺は本山として組織だった行動、宗派ボランティアという形はとっていない。ただしこれまでの支縁の繋がりから個人単位で動いている。熊本の糸山公照氏が個人で広島に入った。先発の方々と合流して西本願寺派のボランティアと一緒になり支援活動を行っている。活動がなかなか知られていない。大谷派の方ではこれまでのつながりで支援活動していることでございました。

WCRP 篠原祥哲氏

l 西日本豪雨について

熊本の経験をいかして新宗連の青年と一緒に「VOWS(バウス)」という合同チームを作る。今回もそのチームで活動を行うこととなる。最初は福山にWCRPの青年の館長がいたので三原を中心にこの夏休みを中心に週末ボランティアを組織化してVOWSで送っていくことになる。

l 熊本地震の時、被災者障がい者支援センターに東俊裕先生という障がい者支援をされている方がいる。その方から連絡で愛媛にある愛媛西予市の障がい者施設が被害を受け、復旧作業やボランティアが何も入っていないのでボランティアの派遣要請があり、この週末すぐ調査をしてボランティアを派遣したいと考えている。

創価学会 浅井伸行氏

l 西日本豪雨の対応に関して

それぞれの被災地域で会員がボランティアに動いている。一部専従職員が近県から応援に出ている。義援金は広島、岡山、愛媛の県または市に先週末に届けた。

l 8月末に宗教者による人道支援、あるいは持続可能な開発について海外のNGOをお招きして円卓会議を31日に開催する。宗援連にも協力を頂き外務省、国連開発計画等からも代表の参加を頂き議論と理解を深める。世俗のいろいろなNGO、あるいは援助団体にも広めていこうという趣旨で開催を予定。

天理教 金子昭氏

l 西日本豪雨の対応に関して

配布した『天理時報』の7月22日号が天理教の「災害救援ひのきしん隊」の第一回目の報告である。最新号の『天理時報』では2次隊、3次隊の報告が掲載されている。

l 災害時の緊急支援の留意点について(現場を通して)

1. 災害現場は危険な為「完全装備」で

泥の中には何が入っているかどうかわからないので直接現地に行かれる方は「完全装備」で当たって頂きたいと思う。

2. 災害救援には技術が必要

大阪北部地震の例ではひのきしん隊がブルーシート掛けを頼まれた。すでにブルーシートは一般の方やボランティアの方も掛けていたが、技術が乏しくもう一回、ひのきしん隊で、かなりの数の張り直しの作業をしたことから。

3. 宗教団体の支援は「旗印」を明確に

一般のボランティア団体以上に宗教団体は被災地においては信用されないと動けない。いったん信用を失うと出入りが難しい事態にもなる。天理教の災救隊はそのへん非常に気をつかっている。普段から日常的な関わりと同時に、出動する時もおそろいの作業服に青いヘルメットを被り、見た人からわかるスタイルにしている。

司会:(葛西賢太氏)稲場先生の話をきき「百聞は一見に如かず」という思い。現場に近い方はたくさんのジレンマを抱えているのに現場から離れると現場の様子がぜんぜんわからなくなってしまうという、そういう思いをとても感じさせていただいた。今日たくさんの情報のほか懇親会の中で生の情報を交換していただけたらと思う。

10月に東京でこの次の連絡会を予定しているが、日程はまだ検討中。

島薗進代表

初めての東京以外での特に関西での宗援連の情報交換会でとりわけ「支縁のまちネットワーク」との共同開催ということになり、非常に深いところまで届くようなお話を伺えたと思う。十分な時間の議論が取れず、準備にいたらないところがあったかもしれない。また交流を続けていきたいなと思っている。

普段の支援活動と災害の時の支援活動というものを関連付けて考えるということは非常に重要だと思っている。歴史を見ても災害支援と平常時との支援は大いにつながっていることから、今日のような話し合いを続けていきたいと思っている。それから稲場さんから言われて、そうだったなと思ったのだが、東日本大震災の時は関西ではちょっと遠い感じがした。今度の西日本の豪雨や地震だと、やはり東京あたりにいると、なんとなく切迫感がない。それがいろいろな面で被災者、被災地のつらさに輪をかけている。この暑い中で支援をするのは本当に大変なことだと思うが、支援活動がうまく続いていくように。また多くの方が良い支援の仕方ができるように宗教界を通して拡げていけるようになると良いと思っている。今後もまた関西での開催も含めて活動を続けていきたいと思っているのでご支援とご助言を宜しくお願いいたします。

(了)