チーム輪島代表
崖超(きしはるか)さん
(真宗大谷派能登教区浄明寺)
チーム輪島代表
崖超(きしはるか)さん
(真宗大谷派能登教区浄明寺)
第41回 宗援連情報交換会 「持続する能登半島地震・豪雨支援活動」
3)チーム輪島代表 崖超(きしはるか)さん(真宗大谷派能登教区浄明寺)
現在、災害支援チーム輪島という団体を設立し活動している。能登半島は過疎化が進んでおり、奥能登(輪島・珠洲・能登・穴水)で5万2千人に満たない。東京ドームの収容人数が5万5千人。奥能登を全員集めても東京ドームが満席にならないと思いながら、皆さんの話を聞いていた。その奥能登のために幅広いご支援を頂き本当にありがたく、そのつながりの中に生かされている自分を感じながら活動している。
1月1日はもう絶望だった。周りはもう見る影もなく、潰れたり傾いて砂煙で煙っていた。さらに火事が発生し一晩中プロパンガスが爆発した。花火のように打ちあがっているのを車中泊で涙しながら見ていた。その現場から200mのところに私が住む預かりしているお寺がある。その花火ガスボンベが川を渡ったこちら側まで飛んできて、寺に火が付けば終わりだなぁと思いながら。「終わり」の覚悟しかできない状況が震災の始まりだった。
翌2日、七尾にいる畠山さんという先輩から「これから炊き出しのボランティアでみんなで行くから受け入れてくれ」と連絡がきた。動く気力もなくぼーっとしていたかったが、「はい」としか言えず、4日夕方には福島県、大船渡、いわき市、二本松、熊本、滋賀県、そして金沢から仲間がいろんな物を詰めるだけ車に積んで、駆けつけて下さった。
仲間が支援に集まると、私のやることはコーディネートしかなかった。前日3日から輪島中の避難所を回り炊き出しの約束をする。それが最初の仕事だった。支援するという気持ちにはまだなれず、「みんなが来てくれたのだからやらなくては」という思いだけだった。
何とか順調に約束が取れるようになってきたが、みんなが帰り、誰もいない日がある。寺には機材一式が置かれたままだったが、食材は輪島市内で手に入らない。この状況がもったいなかった。少しさかのぼると、避難所が開設した当初は友達や知人、近所の人とも再会できて、お互いに本当に喜んでいた。そのうちに、コロナ、インフルエンザ、ノロウィルスが一気に蔓延し、みんなに会えなくなった。避難所の炊き出しも、避難所職員が病気からみんなを守るためにと個々に渡るように運び込んだ。私は違和感というか、誰にも会えない寂しさを感じた。
その中で頂いた支援物資の中にコーヒー10㎏があることを思い出した。家にあったコーヒーサーバーを持ってきて、避難所の前で勝手に炊き出しを始めたのがチーム輪島の始まりだった。
この経験からコーヒーの炊き出しを開始した。飲みたい人だけが自由に取っていくことができ、そこでみんながおしゃべりをする場を提供できた。しばらくして、そこで出会った人達から「私も炊き出しをしたい」という声が出た。1月の終わりだった。
その頃にグリーンコープ(生協)との出会いもあった。きっかけは昨年久留米の水害だった。地域の大人は被災した家を片づけなければならない。友人は平時からお寺で子供会を運営しており、夏休みに入って子供の居場所づくりを始めた。彼らはそこでグリーンコープに出会った。今回グリーンコープから「支援活動をしたいが能登に拠点がないので」ということで紹介を受けそれから食材が入るようになった。
食材も入り、メンバーも集まり、チーム輪島は結成した。その中には、ホテルや給食の調理師、コーヒーを焙煎する仕事や元パティシエもいた。輪島病院では、被災した職員も空いている病棟で寝泊まりし、食事はレトルト食品という生活だった。院内で食中毒を出さない最新の注意を取りながらの炊き出しは印象的だった。みんなが仮設住宅に引越する6月まで継続した。
仮設住宅に生活基盤が移っていくが、コミュニティ形成が必要な段階でもあった。炊き出しは仮設住宅でも行った。皆さん何ヶ月経っても1月1日のことを話された。グリーフケアの先輩より「不安と苦しみが押しかかってくる状況では、話をすることで言語化されそれらを軽減できる」と伺った。それから、ずっとただおしゃべりをして頂いて聞いていた。お預かりしているお寺は雨漏りし、瓦が落ちてくる。とりあえず天井を紐でくくっている。これも慣れてきた。やっとみんな先が見えてきた状況だった。
そんな時に9月21日の豪雨が発生した。これは本当に痛かった。あっという間に、家の裏の崖が崩れて、床下まで浸水し土砂も流れてきた。山から水が噴き出して、本堂の下から道路までが川のようだった。
本当にまた思考が止まった。今まで知り合ったボランティアの方々が心配して、翌日から駆けつけてくれた。何度も助けてもらった。感謝してもしきれない。本当に長い間避難生活を終えて、やっと当たった仮設住宅。つい先日、9月12日に鍵渡しがあった仮設もあった。また避難所に戻る生活が始まっており、中には「もう死んだほうがよかった」「神も仏もない」という声も本当に少なくない。それでも支援をしていく。人に会いに行く。
いま輪島では、毎週のようにイベントが続いていく。本当に楽しくて、その場では苦しみを忘れることができる。災害は忘れたり、なかったことにはできないのが現実。先人の言葉に「この苦しみから逃れるには、この苦しみを生かす道を学ばなければならない」とある。また親鸞聖人は「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳と成す正智」とお書きになられた。この震災があったから、これをきっかけにこうなったんだと言えるような生き方をしていきたい。
この宗援連の場で敢えて言うと、イベントではない、目の前の一人と向き合って、声を聞いて出会っていく支援をお願いしたい。また来るね。また来てね。そういう本気の出会いをして頂きたいと思っている。
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文化時報(山根):崖さんが町の公民館に軽トラックで駆けつけ、長靴に履き替えている姿は印象的で忘れなれない。土砂崩れでお寺が再建できない。廃寺になる方もいる。でも(大谷派に限らず)ほとんどの方が諦めない。その原動力は?
崖:今の流れでいうと、私は人と会うのが好きで楽しく活動を続けている。それが自分にとっての原動力かと思う。先輩方では、教えの灯火を消してはならないとの信念が原動力の方もいる。移転も含めた再建もめざすご住職もおられる。やはり心が折れてしまう方もおられる。変われないのも一つの原動力ではないかと。
御手洗(大谷派):支援者がまた集まったとき、「自分にはコーディネートしかなかった」と言われていた。支援者が集まるつながり、その力はどこから来るのか。
崖:七尾の先輩が「行くから」と言われ、自分の答えは「はい」しかなかった。やはり、それだと思う。皆さん、我々のお寺を拠点に活動に来てくれている。いろんな団体、芸能人だったりも来て頂くが、オファーを断らなかったことが、次のつながりを呼んできてくれることになった。
島薗:大船渡や二本松での支援で接した。そうした関係性が真っ先に駆けつけてくれることにつながったのでは。
崖:そうですね。「俺たちは能登に義理があるんだ」と駆けつけてくれた。当時、仲間たちが炊き出し用の大きな鍋を東北に置いてきたその鍋を返しに来てくれた。
島薗:災害が多い国なので、災害を通じてつながりができ、行政や一般の支援も大事であるが、宗教者ならではの支援活動も大きな特徴となってきた。今日はそれを教えて頂いたような気がした。
以上