片岡義博(カリタスのとセンター長、名古屋教区神父)
片岡義博(カリタスのとセンター長、名古屋教区神父)
250109 宗教者災害支援連絡会シンポジウム
発題者:片岡義博(カリタスのとセンター長、名古屋教区神父)
私は名古屋市出身の42歳であり、2015年にカトリック教会の司祭に叙階され、翌2016年より北陸地方の教会で司牧活動に従事している。今回は、2024年1月1日に発生した能登半島地震における、カトリック教会として行った災害支援活動について報告する。
司祭の高齢化が進む中、私は複数の教会を兼務する形で司牧を行っている。最初の5年間は富山県内の4つの教会を共同司牧し、2021年からは石川県内の6つの教会(富山県兼務)を共同司牧している。石川県の教会の主任司祭は3名とも後期高齢者であり、他の2名の司祭も87歳と89歳のイタリア人宣教師である。
2024年1月1日、能登半島地震発生時、私は七尾教会で元旦の礼拝を行い、午後に金沢に戻った後、夕方に被災した。当初は1月2日から冬休みで名古屋に帰省する予定であったが、地震の影響により3月まで帰省できず、被災地での支援活動に携わることとなった。
被災地のテリトリーとなるカトリック名古屋教区が、1月20日、災害支援組織であるカリタスのサポートセンターを立ち上げ、私が責任者となった。サポートセンターは金沢に本部を置き、七尾と羽咋にボランティアベースを設置し、七尾市と輪島市を中心に支援活動を展開している。両市にはカトリック教会と学校法人立の幼稚園があり、これらを拠点として活動を行っている。輪島教会は全壊したため、現在は七尾教会を中心に活動している。
私のモットーは、ルカ福音書「よきサマリア人のたとえ」に由来する「だれがその人の隣人になったと思うか」という言葉である。現代社会において、教会が「救い」を提供できているのかが問われる中、この言葉は、社会の無関心さに対する問いかけとして、司祭としての生活を省みる指針となっている。能登半島地震は、このモットーを改めて問い直す出来事となった。
地震発生翌日の1月2日、七尾と輪島へ向かう途中、能登里山街道で土砂崩れが発生し、金沢市内に引き返した。翌3日、改めて七尾へ向かうと、教会の外壁は崩落し、内部は物が散乱していた。ビデオ通話で本部に状況を報告し、七尾の状況は確認できたものの、輪島へのアクセスは困難であった。
1月3日、カトリック中央協議会とカリタスジャパンとのオンライン会議で今後の対応を協議した。カリタスジャパンは、各教区が主体的に支援活動を行い、本部が資金面で援助する体制をとっている。日本カトリック司教協議会は、2022年に災害対応規定を策定し、カトリック中央協議会内に緊急対応支援チーム(ERST: Emergency Response Support Team)を設置していた。ERSTは、自然災害発生時に被災地に出向き、状況調査や支援活動をサポートする組織である(派遣期間は最長3ヶ月)。
オンライン会議で被災者の支援ニーズが議論され、ERSTから私に対し支援の可能性が打診された。私は、石川県と富山県の教会を兼務していること、司祭の高齢化と信徒の減少が進んでいる現状から、東日本大震災のような大規模な支援は困難であることを伝えた。ERSTもこの状況を理解し、現地視察後に再度検討することとなった。
1月4日から6日まで、教会の片付けや幼稚園再開の準備、水の支援を行った。7日にはERSTとカリタスジャパンが現地入りし、支援物資を七尾と輪島に搬送した。輪島教会は全壊しており、当時は甚大な被害状況であった。
輪島教会の全壊状況を目の当たりにし、支援体制について再検討を行った。当初は支援は困難であると考えていたが、七尾と輪島に幼稚園があり、信徒も存在すること、そして何よりも被災者の人々が支援を心から喜んでくれる姿を見て、支援活動を行う決意を固めた。特に輪島の信徒や幼稚園教職員の喜びようは大きく、彼らを孤立させてはならないと強く感じた。
人的資源が限られ、高齢化も深刻な状況ではあったが、教区長とも協議し、「人がいない」という現状を共有した上で、出来る限りの支援を行うこととし、1月8日にカリタス能登半島地震サポートセンターを設立した。ERSTとカリタスジャパンのバックアップを受け、支援活動を開始することとなった。
支援活動を開始するにあたり、まず直面したのは、高齢者、外国人、障がい者といった災害弱者の状況把握であった。問い合わせの多くは、これらの災害弱者の安否やニーズに関するものであったが、被災地の状況が刻々と変化する中で、十分な情報収集と迅速な対応が困難な状況が続いた。平時からの地域との繋がりが十分でなかったことを痛感させられた。
能登地区の教会は、七尾、羽咋、輪島に家庭教会がある。日本人の信徒は輪島で3名、七尾で20名程度、羽咋に至っては5世帯程度と少ない。輪島教会にはフィリピン出身の信徒が20名ほど定期的にミサに参加しているが、それ以外の地域住民との繋がりは希薄であった。
支援拠点を教会ではなく幼稚園に設置したことは、地域住民にとって利用しやすい環境を提供する上で重要であった。教会という場は、地域住民にとって敷居が高いと感じられる場合がある。幸い、七尾と輪島の教会には幼稚園が隣接しており、幼稚園を支援活動の拠点とすることで、地域住民が気軽に立ち寄れる場とすることができた。教会の高齢化が進み、地域社会との接点が少なくなっていた状況において、幼稚園の存在は地域貢献の観点からも非常に大きかった。
被災者、教会信徒に対し、「何か困っていることはありませんか?お手伝いできることはありませんか?」と尋ねても、「私は大丈夫です」という返答が多かった。遠慮や、他のもっと大変な人がいるという思いから、本音を言えない状況がしばらく続いた。継続的に関わる中で、徐々にニーズが顕在化してきた。普段から共同体の中で、被災者が本音を言いやすい関係性を築けていたのか、深く反省させられた。
司祭はニーズを聞き出すことが得意ではないと感じる中で、シスター方の被災者との関わり、交わりは非常に参考になった。自治会長に依頼したお茶会は当初「必要ない」と言われたが、シスターが準備を進め、開催したところ、多くの住民が集まり、様々なニーズが明らかになった。自治会長も、お茶会の様子を見て「このようにニーズを引き出すことが大切なのですね」と認識を新たにした。
平時からの地域社会との繋がり、関係機関との連携の重要性を痛感した。司祭、信徒、市民、地域住民が良好な関係性を築いていれば、災害時にも円滑な協力体制を構築できる。
東日本大震災以降、14年が経過し、教会関係者の高齢化が進んでいる。多くの支援者が被災地への物理的な参加が難しい状況にある。また、地元の信徒も被災者であり、自身の生活再建が優先されるため、教会単独での大規模な支援活動には限界がある。
NPO等の支援団体も同様に、スタッフの確保に苦慮しており、高齢化が支援活動の課題となっている。教会内外の連携、特に民間団体や外国籍信徒との連携が重要となる。
地域との連携、協働の重要性を改めて認識した。教会周辺の町内会、社会福祉協議会(社協)との連携が不可欠である。特に社協との連携は課題も多い。平時から町内会との繋がりがなければ、「教会」という場での支援は受け入れられにくい。プロテスタント教会をはじめとする諸宗教との連携も視野に入れる必要がある。
宗教者として、祈りを通じた精神的なケアも重要な役割である。「ついたちの祈り・ついとうの祈り」と題し、毎月1日の発災時刻に合わせ、地域住民とともに追悼の祈りを捧げている。祈りの場は、教会内部ではなく、通り沿いの幼稚園前で行い、地域住民が参加しやすいように配慮している。
高齢のため物理的な支援が難しい支援者も、祈りを通じて被災地とのつながりを維持し、被災地が社会から忘れ去られないように働きかけることができる。また、支援を希望する信徒と被災地を結びつける仲介者の役割も重要である。カトリック系の学校生徒が作成したクリスマスカードを被災者に届ける活動も、その一例である。
1.人々の中に出向いていき、声なき声に耳を傾ける。
2.交わりの場を創出する。
3.相互に活かしあう場を構築する。
4.繋がりの輪を拡大する。
これらの活動方針は、「一人ひとりが大切に扱われる社会の実現のために、被災地で関わる人々と共に生きる」という全体目標に基づいている。
当初、社協の機能が麻痺状態であったため、給水所まで水を取りに行くことが困難な高齢者や障がい者に対し、電話一本で水を届ける水支援を最初に開始し、春まで継続した。9月の豪雨災害時にも、断水地域への水支援を実施した。水支援を通じて、社協や地域包括支援センターとの連携も強化され、被災者の見守り活動にも繋がった。
交わりの場としてのサロン支援、カトリック教会や関連学校や他の組織との連携、民間のボランティア団体や社協との協働、見える形と見えない形での祈りの輪の拡大など、多岐にわたる活動を展開している。
能登半島地震におけるカトリック教会の災害支援活動は、多くの課題に直面しながらも、被災者のニーズに応え、地域社会との連携を深める中で、一定の成果を上げることができた。今回の経験から、災害時における宗教の役割として、物理的な支援のみならず、精神的なケア、コミュニティ形成、関係機関との連携の重要性を再認識した。今後も、今回の経験を踏まえ、より効果的な災害支援体制の構築と、平時からの地域社会との関係強化に努めていく必要がある。
以上