佛子園、B’s行善寺、輪島KABULET
速水健二さん
佛子園、B’s行善寺、輪島KABULET
速水健二さん
第40回 宗援連情報交換会 「能登半島地震支援活動の新たな展開」
6)速水健二さん(佛子園、B’s行善寺、輪島KABULET)
佛子園は石川県とブータンで運営している。いろんな人が混ざり合って過ごせる居場所づくりをやっている。廃寺をリフォームしてみんなが集える場所に変えて関係人口を増やす。能登ではビールを作っている。6年前から輪島では、空き家を人が集う場所へリノベーションする取り組みを開始した。
今回の震災で、もういろんな所が被災に遭った。私達は1月2日から災害対策本部を立ち上げた。私は日本知的障碍者福祉協会の政策員でもある。全国から「支援物資をどこに送ればよいか」という問い合わせが多くあったので、佛子園の金沢拠点(Share金沢)に集結した。それを社会福祉協議会の方々と仕分けし、朝6時に出発して物資を届ける―これを2日に1回、何ヶ月か続けていた。
もっとも気になるのが関連死だった。直接死の4倍が関連死であると考えれると、能登半島地震では約千人。いま約百人が出てきが、あと約900人は自死や体調不良でなくなる方が出ることも想定される。ここを止めないといけないということで、「NOTO NOT ALONE」というロゴを立ち上げてみんなで何か取り組もうとやっている。
例えば、段ボールに囲まれた部屋で閉じこもってしまっている人たちを表に出していこうと。コロナの時もそうだったが、閉じこもっていると900日を境目に死亡率が2.2倍に跳ね上がる。人は外に出て、人と触れ合わないとリスクとなる。温泉を修復した。そうすると自衛隊風呂にも入れない障害の方々も含めて、いろんな方々がお風呂に集まって来てくれた。
そして、先程から話にあったコミュニケーションの課題に関しても、1月初旬から石川県および国に働きかけ仮設住宅にすべて使用されてしまいそうになるところを、コミュニティセンターの建設用に確保して頂いた。機能としては、温泉、食事処福祉を携えたようなもので、一昨日の新聞に出ていた。予算は誰がもつかの話は大変だった。それも漸く通り、8月か9月にはオープンすると思う。
食事処で働く人などの仕事も創設していく。仮設住宅の住民がここで働く。福祉の支援者もいないので、仮設住宅の元気な住民が福祉の担い手になっていく仕組みも作っている。もう一つ、生きがいと生存率の関係がある。生きがいのある人は生存率が高くなる傾向にある。では生きがいとは何か。
人間の生活の質を上げるためには、支えてもらうことも必要だが、支える側としての活動がないと元気にはならない。例えば、お餅を持って行って「これ食べてください」でなく、「これを焼いて、ボランティアの人に配ってください」とお願いする。被災者の方々がボランティアをもてなすという構図ができあがる。そうやって、お互いが元気になっていく。そうしたことを細かくやっている。
仕事の面では、仮設住宅住民のお店は震災でほとんど潰れた。今から60歳を過ぎてまたローンを組んで店を建て直すかと言ったら、なかなかそうはいかない。仮設住宅をお店にかえていこうという取り組みもあり、コミュニティセンターと同時に復興横丁をいま立ち上げている。実施はもう少し先となるが、また輪島のお店の方々が集まって、生きがいを取り戻していければいいかと思う。
戦後の焼野原に横丁や闇市などが建って、町が元気になっていったこともある。やはり人が元気になるには若干お酒があったり、なんかちょっといかがわしい感じのものがある方が元気になってくる。この横に重蔵神社があって、そこの神社でお参りをしてちょっといかがわしいことをしてもすべてが納められる体になっている。なので昔からここは横丁で栄えた街だったのではないかとも言われている。
農業も担い手がいなくなっている。米とかが作れなくなるところに、さつまいもは買い手がついている。3億円規模の農業になるのではないかと思うが、さつまいもを今植え続けてそれがどんどん広がっている。
都会の方では、「もう能登の震災は復興したのではないか」という声がよく聞かれる。全然そうではない。建物も1月1日から変わってない。それを発信したいので、Tシャツやビールを販売したりと活動をしている。東日本大震災の時もありましたが、その一環でポスタープロジェクトを同じような形で継承しSNS等でも発信している。
瓦礫だらけの街の中で、能登の日本酒をつくる方たちと僕たちのビールと組んで、「SAKEBEER NOTO 2024」というイベントをやった。お酒を飲んで騒ぐ。太鼓を叩く。そうしたことが憚れる中で、誰かがやらないと始まらない。公的な機関だとやりづらいので、僕たちが先陣を切った。多くの人が集まった。それを違う形でも発信したいと、1週間後には「GOTCHA! WALK 2024」で全国の方々とZoomでつないで一斉にウォーキングをやった。みんなが街並みを見て下さる。
今後、震災に強い地域を作るにはどうしたらいいか。いろんな人が集まれるような居場所かあること。これが今後の災害対策になっていのではないかと。
これまでの日本は、障害者は障害者の建物に、認知症は認知症の建物にと分けてきた。けれど実際の避難所ではそうではなかった。障害者も高齢者、認知症の方も元気な人もみんな一緒だった。人が亡くなっていくことを考えれば、日頃からいろんな人が混ざり合う、関わり合うような地域を作らなければならない。
白山市では、福祉施設にいろいろな機能をもたせている。というのも、いろんな機能を持たせないと人が来ない。紐解くと、お寺にもいろんな機能があった。結婚式場・市役所・揉め事を解決する場所であったりとか。今はどうしても法人の関係もあり、建物の用途も絞られてくる。お寺に集まる層も広がっていかない。お寺をスポーツジム、保育所、病院、酒場、温泉、花屋と多機能にすると、多くの人が毎日無理なく関われる。何かあった時も強いのではないかと信じている。
こうしていろんな人が集まってくると、煩わしいことも多くある。では幸せとは何か。幸せはホルモンが出て、幸せと感じる。一つにはセロトニン。心地よい。素敵な音楽が流れている。そうした時にはセロトニンという物質が出て幸せを感じる。もう一つはドーパミン。SNSで「いいね」や、給料を多くもらったりと。報酬系なので強いが、長くは続かない。さいごにオキシトシン。これは「つながりホルモン」と言われる。つながった時に、誰かと関わり合った時に出るホルモンと言われる。
だからごちゃ混ぜがいい。施設は施設だけ、お寺はお寺だけ、高齢者は高齢者たけと一単体ではオキシトシンは出にくい。混ぜ合うことで煩わしい事がありながら毎日やっていけば、何かあった時に助け合える地域になるのではないかといま取り組んでいる。
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島薗:
私も行善寺を訪れて、この数十年の間にこのようなことが展開していたと驚いた。障害者に働く場所を提供するということがあった。被災者と支援者の関係では、被災者自身が支援者をむしろ喜ばせるというか、そのようなことが居場所づくりであり、幸福資源の活用にもなる。速水さんは日蓮宗の僧侶であり、法華経の理念あるいは宮沢賢治の考えなどにも共感を受けながら始められたとNHKの心の時代などでも伺った。
山根(文化時報):
ごちゃ混ぜというのは非常に新鮮だなと感じた。この発想は元々どこからきたのか。
速水:
仏教から来ている。「中道」ではないが、分けることで上下関係等いろいろとギクシャクする。ただ福祉も分けたがる。よかれと思って、「高齢者認知症特化型デイサービス」とか書いた車が走っているのをみたことないですか。これで迎えに来られたら、どういう思いになるか。利用者は「ちょっとしんどいな」と感じることに気づかず、当事者はよかれと思ってやっている場合がある。そこをお互いが指摘し合っていければ。日本は震災を越えて強くなってきた。そのたびに屋台とか所々に出てきて、不思議なことにそこから盛り上がってきた。あと、やはり仕事を提供しないと元気にならない。その二点で屋台を考案している。
島薗:
多様な人が集うことは、法華経の例えで説明されておられた。
速水:
三草二木。大きい木にも、小さな木にも平等に太陽も雨も降り注ぐことから引用している。
島薗:
これまでの仮設のあり方からみると何か革命的な展開となる。私は佛子園のShere金沢で拝見したが、温泉がひとつの拠り所となり、障害者の働き場所、高齢者のたまり場、子どもの遊び場にもなる。そういった試みが成功している。
速水:
福祉の拠点という点では、もう能登では今までのように施設をどんと建設し、あとは障害者、要介護者を入れておけば成り立つ―という福祉はもう続かないと思う。認知症でも障害があってもいいから、町のみんなで助け合って生きていこうという構図でなければ維持ができない。これができれば、今後人口減少が進む日本の福祉モデルになる。なので、いま教えて頂きながら進めている。
稲場:
復興屋台村、横丁みたいなものは、東日本大震災の時も各地で行われており、私自身が東日本大震災で関わったこうした動きで、外部支援者と地元被災者、中でも震災で生業が成り立たずにこういった復興屋台村で飲食店をやろうとする人の中で一部衝突が起きたところもある。
ノウハウやいろんな関係性をもっている人が外から入ることで復興の歩みを横取りされてしまったという思いも東日本大震災は見られたが、今回の動きは仏教的な理念に基づきながら、分け隔てなく寄り添ってこられた。地元の被災者とは今後どのように連携を作り上げていくか。
速水:
二つ手法を使っている。ひとつは、福祉の主体性を大事にする。もう一つは、青年海外協力協会(JOCA)が使用するPCMという手法。復興横丁では地元の方に盛り上がってほしい。町にどういった会議や通すべき人がいるか。それらを全部調べてから話を進める。プロジェクトサイクルマネジメントという手法を使用した。「叫び屋能登」というイベントでも、実行委員も町の住民で僕たちは黒子で前に出ずに進めた。
島薗:佛子園の雄谷良成さんは青年協力隊のご経験があり、そこで学んできたことを取り入れてきた。輪島でこれが展開すると、他の地域にも広がる可能性は。
速水:
輪島市と能登町とでやっているが、やはり土地を仮設住宅で埋めてしまうところが多い。僕たちは1月15日の段階で既にコミュニティセンターの図面を提出し、ここだけは仮設を建てないでほしいと県とも折衝し空けてもらったところもあった。仮設が建ってしまってからでは遅いので。
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島薗:
本日は6人のお話を伺い、大変勉強になりました。そして今後の課題、なかなか長期に続くということとともに、これまでになかったような新しい方向性も見えてきました。
情報交換会あるいはシンポジウムなどで、いまの速水さんのお話の中に「創造的復興とは何か」という疑問符も付いてましたが、そういうこともこの宗援連としても考えていく重要な話題か思っております。
今日はここで終わりとしたいと思います。
有難うございました。
以上