2016年10月4日(火)14:30-17:15
東京大学仏教青年会ホールA・B
報告 似田貝香門氏(東京大学名誉教授)「〈希望〉を問われ続ける支援者;支援活動の中の宗教者」
社会学とは現世の幸福、共同を科学していく学問
被災から被災者が自立するということを現世の視点で考えている
社会学では社会の中で自立することが中心
しかし、宗教者との出会いを通し、心の自律が大切と考えるようになった
宗教者との出会いは、東日本大震災で、足湯ボランティアの被災者のつぶやき分析を通してである
災害地(神戸)にいったとき、被災直後の瓦礫の中ではコミュニティーの再生どころでなかった
被災直後は、社会学という学問は役に立たないことに直面。
被災から3ヶ月、外部ボランティアがほぼゼロになったとき、孤独死の実態に触れた
直接被災者に話を伺うと、多くの人が悲しみを思い出し、滂沱の涙。
被災者に対する二次災害にもあり得るので、支援者と会うことにし(数多くの方々と出会った)。
06月「希望を持ちましょうよ」という被災者の声が路上でしばしば聞こえた
この声を聞いて、初めて社会学も自立と再建が可能となる道を探ることが出来るきがした
人々は、絶望から希望へのみちを拓きつつある。こうした主体の転換を社会学では、今までテーマにしたことはない
そこで私たちの方法として、生きのびた人々(支援者)の声を聴くことにした
支援者の実践語を通し、命を大切にすることが人間を人間たらしめていると、気づきはじめた
一人の被災者に寄り添っていく
ボランティアとは、隙間を見つけ、願いや希望に応答し、自分ができなければ他者につなぐことが大切
支援者のこだわりとは、出会った被災者に約束、関与=責任をするということ
サルトルのengagement(アンガジュマン)の訳語「社会参与」をその時から、
責任看取engagement、と変えた
職能を通じての責任応答
阪神淡路で出会った宗教者(草地賢一)に先進国において災害時のボランティアが弱いと言われた
職能ボランティアの重要性を提起していきたい
職能と連帯が、市民社会へ与える影響の大きさに気づく
復旧、復興段階に孤独死があった
つなぎ、支える職能集団の重要性が見えてくる
国民社会や市民社会での責任のありかた
東日本大震災でケア職能者(災害看護師、臨床心理士、宗教者など)の登場
司祭館しか残らなかった「たかとりカトリック教会」の敷地は、「救援基地」であった
この場を通して、支援活動の活動拠点の重要性を知る
ボランティア論には活動の根拠地論はないからでである
被災直後、教会に自然に被災者が集まってきたことで、支援活動がはじまった
瓦礫の中でも教会は存在する、と神田裕司祭は言う
人々が集まる場所に、ボランティアの源を作っていく、場が人を構成する、
それが、神田裕司祭が教会敷地を長らくボランティア基地として提供した考えかたであった。
いつの間にか、信仰というのが個人的なものであるという風潮
阪神淡路震災と、東日本大震災の支援の仕方の違い
神戸;宗教(信仰)はprivacy。宗教の私事化。
東日本大震災;亡くなった人、祖先、集落の人々との繋がり(現世と彼方とのことなる世界観を死と生とが繫いでいる、その媒介者としての宗教者
東日本大震災での宗教者との出会い
足湯の被災者(15,000人)「つぶやき」の分析
苦しみの現場でケア活動
足湯は阪神・淡路大震災から東洋医学的な視点ではじまった。
足湯をすると、被災者がボランティアに語り始めるように
ボランティアが聴くという態度(そのことによって、語り手が、語るようになる)
聴くという主体化があって(ボランティア)、被災者が語り手として主体化する
この時、初めて他者に能動的に発話parole(〈語る〉)することを介して、心の自律への足がかりを得る。足湯活動という実践の場は、被災者の苦しみの傍に立って、毀損した心と主体の尊厳を回復する可能な場でもあり得る、とかんがえられた。
自立は社会学ではどこまでも、社会からの自立を暗黙に考えてきた
足湯活動の分析によって、初めて、心の自律なしには、社会的自立はない、と思うようになった
この2つの自律・自立を媒介にしているのが、傾聴というケア活動である。
足湯活動は、ホスピタリティーに関して改めて考えることにとなった。
主が客に、サービスをただするだけでは成立しない
客(被災者)が足湯活動を受けようと思って来たときに、初めて主(ボランティア)の活動が意味をなす
客のサービスを受けようとする(受け容れ可能性)気持ちがあった初めて歓待hospitalité
が成り立つ。
東北の宗教者たちの心の相談室との出会い
祈りとはなんであるか
2038年団塊世代が寿命になってくる時期
希望の足跡を宗教者には語っていってほしい(語り継いでいく)
質疑応答
Q. 祈りのことをお話しいただければ(島薗)
A. 足湯のときに、祈りの声に似た状況が生まれている
被災者は、現実を超えた何かに呼びかけ、あるいはその呼びかけに応える声を聞くような気持を求める。
被災者の「つぶやき」には、時に時空間の過去と現在と未来への、混交が見られます。また、断念・諦めによる、誰かに救われたい、どうでもよいという非主体化も散見されます。
すなわち、切迫した事態、望ましい結果を選択し得ない(行為の不可能性)なるがゆえに、
強烈な願いにのみ収斂した(それが故に、過去・現在・未来の時間性の混交あるいは無時
間性)時に、「祈るしかない」という。いわば「私」を無化することあるいは無化された「私」
による他者、現世と異なる彼方、神仏への委ね、という非主体化、非時間化というがおき。
この「祈るしかない」、という断念・諦めが、神や仏、現世と異なる彼方を介して、いま再
び、「私」の固有性に循環する(いのちが与えられる)、「生きられた時間」への回帰がある
のかな、と思っています。
大切なのは、ともに祈る、という行為ではないでしょうか
ここが不案内なので、お教えを宗教者にお願いしたいと想っていたところです。
ともに一緒にいるということが祈るということである
Q. 祈りの話を聞いていて、ともに祈る具体的力というものを感じた
絶望からどのように自立するかという社会学的視点
専門性とボランティアという話の中で、職能者の意義
つないでいくことができる宗教の可能性とは(GLA 後藤)
職能の必要性とは?(島薗)
A. 専門集団は縦割りになる。そうなると横につながっていかない
つぶやきを通して、職能での対応が必要であることがわかる
しかし専門家集団が縦割りになることで、様々な問題を生み出している
横割りの重要性が被災地の現場から感じた点
職能とは、プロフェッションである
施設と専門職はつながっている
災害状況というのは、専門施設に被災者がいけないため、その現場にいくしかない
その際に、職能者は被災地現場では制約のない協働ミッションが可能である
職能同士のつながりで、被災者が救われていく
その職能がいかされる自由な世界の必要性
そのときに、自分の職能と人としての力(越境性)
限界をこえた内容への関わり方に気づいていける