一二三秀仁(岩倉寺住職、高野山真言宗能登宗務支所)
一二三秀仁(岩倉寺住職、高野山真言宗能登宗務支所)
250109 宗教者災害支援連絡会シンポジウム
発題者:一二三秀仁(岩倉寺住職、高野山真言宗能登宗務支所)
島薗:
輪島市の町野町に、長い歴史を持つ漁民信仰のお寺、岩倉寺がございます。それが完全に壊れました。水害の影響が大きいです。そこの住職であり、輪島市議会議員でもある一二三さんです。
普段、一二三さんは町野仮設住宅に住んでいます。12月31日に仮設住宅に入居されましたが、それまでは、弟が住職をしている一時間ほど離れた穴水町の一乗院に身を寄せていました。1月4日その一乗院で、私どもも一二三さんからお話を伺いました。それでは、どうぞよろしくお願いします。
一二三:
能登半島輪島市町野町にございます岩倉寺は、長年にわたり地域漁民の篤い信仰を集めてきた、歴史ある寺刹でございます。その岩倉寺が、令和6年能登半島地震、そしてそれに続く津波という複合的な災禍により、伽藍は悉く倒壊、全壊という壊滅的な被害を蒙ってしまいました。私は、岩倉寺の住職、そしてまた輪島市市会議員としても活動しております。本日は、この未曾有の災禍の状況、その時々の心境、そして今後の復興への展望について、詳細にご報告させていただきます。
町野仮設住宅に12月28日に入居しました。それまでは、1時間ほど離れた場所に住む弟の寺に身を寄せていました。地震が発生してから、全国の皆様から温かい支援をいただき、この場を借りて感謝申し上げます。
地震が発生してから、本当に全国の皆様方からいろいろと温かい支援を賜りました。本当にこの場をお借りまして感謝申し上げます。
岩倉寺は白雉(はくち)、飛鳥時代に孝徳天皇の祈願所として開かれ、1502年に一度焼失しましたが、1507年に再建されました。約500年の歴史を持つ寺院でした。本尊は観音様で、漁師が海中から拾い上げたものです。観音様は17年ごとに開帳され、漁師たちが大漁祈願のために参拝に訪れます。
当日も、檀家を持っていないので、いろいろな人がお参りに来てくれました。初詣のお寺でお参りをしていました。4時6分頃でしたか、1回ぐらぐらと揺れました。
その前兆かもしれませんが、2021年には珠洲市に震度1の地震が195回発生しました。翌年2021年6月19日に震度6強の地震が発生しましたが、だんだん震度1の地震が少なくなってきました。2023年3月31日に金沢大学の地震専門の教授は「地殻変動がやや収まりつつある傾向がみられる」と言及しました。その報道に安心していたら、その夜にまた地震が起きました。次は「もしかしたら、大地震が発生するかもしれない」という話に切り替わり、一昨年に珠洲で震度6強の地震が発生しました。これで最後だと思っていましたが、まさか本震がこのあとに来るとは誰も思っていませんでした。
1月1日、午後4時6分に地震が発生し、「緊急地震速報」とともに大きな揺れがありました。お寺が一度ミシッという音を立てましたが、参拝者たちは平然としていました。しかし、午後4時16分に本震が始まりました。私は境内にいましたが、500年前の建物が1メートル、また1メートルと私から離れていくのを目の当たりにしました。大きな木々は揺れに耐え切れず、枝が折れ、辺りには悲鳴が響き渡りました。
被害状況を確認しながら、山上から輪島市内を一望しました。砂浜は広がり、波が引いて津波が来ると感じましたが、実際には津波は来ませんでした。翌日、地面が2メートルから4メートル隆起していたことがわかりました。
避難所では食料が不足し、水もありませんでした。電気もなく、情報も入らず、逃げることもできませんでした。町野町は輪島中心街から20キロメートル離れた人口2000人の町ですが、車で出られるようになるまで5日かかりました。家が壊れて道路を塞ぎ、マンホールが飛び出し、重機もなく、情報も入ってこない状況でした。本当に怖かったです。
震災直後、私たちは深刻な食糧不足に直面しました。なんとか確保したものの、水は手に入りませんでした。避難所では、わずかに配られるおにぎりも二人で一つがやっとという状況。電気は途絶え、食べ物もなく、暖を取る手段もなく、外部からの情報も遮断されていました。さらに、道路が寸断され、町外へ避難することすらできませんでした。
町野町は輪島市中心部から約20km離れた人口2000人の小さな町です。しかし、車で外へ出られるようになるまでには5日を要し、その間、緊急物資も届きませんでした。ヘリコプターによる支援物資の投下もありましたが、集積場所が遠すぎて、簡単には取りに行けませんでした。
町内では倒壊した家屋が道路を塞ぎ、マンホールが飛び出し、重機も不足していました。さらに情報も入ってこず、不安が募るばかりでした。唯一、公民館に設置されたアナログ電話だけが通信手段として機能しており、安否確認や物資の要請がそこで集中して行われました。また、寺が小高い丘にあったため、わずかに電波を拾うことができ、車内のテレビで情報を得たり、携帯の充電を行ったりすることができました。
しかし、町役場が情報を得るのは遅れがちでした。町中では電波が届かず、情報伝達の手段が限られていたのです。6日間は自宅で過ごし、食料を分け合いながら10人でしのぎました。やがて岐阜県の消防車両が町に入り、道路が開通。避難所には食料や水が不足していたため、多くの人が車で町を出ることを決断しました。私もその後、金沢へ向かいましたが、道のりは険しく、7時間を要しました。
その後、県が温泉施設などを借り上げ、避難者の受け入れを進めたことで、避難所の環境も徐々に改善され、食料も安定供給されるようになりました。
震災から半年が経過し、仮設住宅が整備され、少しずつ安心して暮らせるようになりました。しかし、9月21日には再び災害が襲いました。その日は未明から停電し、パソコンやテレビも使用できない状況に。さらに、裏山から大量の水が流れ込み、排水機能が追いつかず、かつてない事態に発展しました。
気象庁のサイトを携帯で確認すると、線状降水帯が通常のように移動せず、停滞していることが判明。9時40分、「これは危険だ」と直感し、1階にいた母を2階へ避難させようとしたその瞬間、轟音とともに家がわずか3秒で20mも流されました。庭はまるで池のようになり、1階の片側は崩壊。家全体が大きく傾きました。
土石流が流れ込み、足を踏み入れるとどこまでも沈んでいきそうでした。窓から布団を投げ落とし、ほふく前進で避難を試みましたが、途中で身動きが取れなくなりました。そのとき、かすかに母の声が聞こえました。すぐに救助を要請しましたが、救助隊はすぐには到着せず、夕方になってようやく「今日は行けないので明日向かいます」との連絡が入りました。その言葉が胸に突き刺さるようでした。
母は必死に「助けてくれ」と叫び続け、次第に声も枯れ、体力も消耗していきました。私は「1時間ごとに来るから」と母を励ましながら、一晩を埋もれた状態で過ごしました。
翌朝7時30分、消防隊が到着し、無事に救出されました。11時には防災ヘリが到着し、ようやく安全な場所へ搬送されました。母が救出された直後、消防隊が通った道が崩れ、再び閉ざされるという危険な状況でした。
その30分前、自衛隊が40名体制で救助に向かうとの連絡がありましたが、すでに救助されたため、辞退しました。しかし、もし自衛隊がその崩落した道を通っていたら…と考えると、ぞっとしました。後に、前夜に救助隊の派遣を見送る決定がなされたと知りましたが、それもまた冷静な判断の重要性を痛感させられる出来事でした。
ヘリコプターから見下ろした私たちの町は、一面が泥に覆われ、まるでまっ茶色の海に沈んだような光景でした。その瞬間、「この町を再建することはできるのだろうか」と、途方もない不安に襲われました。
この経験を通じて、災害時の備えの大切さ、情報伝達の重要性、そして冷静な判断力がいかに命を左右するかを痛感しました。今後、同じような悲劇を繰り返さないためにも、私たちは防災への意識を高め、地域の連携を強化していかなければなりません。
私は議員として被災地を回り、行政に多くの要請をしましたが、行政側にもできないことが多くあります。毎年防災訓練を行い、アルファ米や非常食を食べることもありますが、今回アルファ米が配られたとき、水がないため食べられないことに皆が気づきました。誰もそのような経験をしていなかったため、防災訓練では形だけのものになっていました。
市役所に水をろ過する機械があるか確認しましたが、それは防災訓練の際に業者がサンプルとして持参したもので、行政としては持っていないとの回答に愕然としました。他の自治体では、消防の防火水槽の水を何%か使用できるようにしているという話も聞きました。
行政の対応に課題を感じるとともに、災害時の自助共助公助の重要性を痛感しました。自分自身の能力を高めることが重要であり、水や非常食を車にストックするようにしました。
その時の情報に左右される前に、自分がこの状況でどう生きるかを考えてほしいです。また、家族とも防災の話をしてほしいです。避難所に食料が来ても取りに行かなくてはならず、各家庭に配布するほど行政に人手はありません。自分たちで動かなくてはならないのです。
輪島市では防災士の育成を進めており、今回も防災士が活躍しました。これから南海トラフ地震も想定されており、備えと意識が絶対に必要です。
宗教的な活動は今できませんでした。市会議員も務めているため、自分のお寺を直すためにクラウドファンディングを進めることもできましたが、市民が傷ついている中で自分だけが良ければというわけにはいきませんでした。市民が安心して暮らせる環境を取り戻してから、自分たちのことを考えようと思いました。
避難所で奥さんと娘さんを亡くした方が私に抱きついて泣き出したことを今でも覚えています。その方はいつもお参りに来てくれる方で、避難所には人がたくさんいる中で私のところに来て「秀仁さん、秀仁さん」と泣きながら話してくれました。
本当につらい目にあったとき、宗教者が寄り添うことの大切さを痛感しました。普段からの接し方が重要であり、常日頃から信頼を築くことが大切だと感じました。
以上