物部長興(もののべながおき)氏 復党申請書&経歴書及び復党確認書

もののべながおき(物部長興)氏の日本共産党に対する復党申請書及び復党確認書を公開する。

恐らく日本共産党の内部資料に類するものと思われるが、書かれてから相当の期間が経過していること、当該人物が故人であること、戦後の日本共産党混乱期に関する資料であり貴重なものと思われること等の理由から公開する。

日本共産党の混乱期とは何のことか、と言った類のことはwikipediaの日本共産党の項を見て戴ければ大体把握できると思う。

当該人物は、復党申請書添付の経歴書等からして、後にベトナム反戦ちょうちんデモの会を組織したもののべながおき氏とみて間違いない。

氏の略歴についてはデジタル版 日本人名大辞典+Plusの記述を参照して戴きたいが、本資料はこれに記載されている氏の日本共産党との関係に関しては食い違う点もあることを御留意戴きたい。

【日本共産党への復党申請書】

復党申請書はA4版のレポート用紙に書かれており、昭和31(1956)年1月13日付となっている。

この申請書はもののべ氏の遺品・蔵書整理の過程で古書店に渡ったものであるが、申請書の方は党に出されたものではなく控えであろうということで、その内容の信憑性がどの程度高いのかといった点には留保が必要と思われるが、一方でもののべ氏本人が復党確認書とともに所持していたものという点を考慮すれば、その内容が大きく間違っているとも思われない。

内容は日本共産党中部地区委員会宛てで、物部氏がかつて≪1949年6月頃≫確立に尽力した細胞であり、氏の除名前の所属であり、氏の除名と同時 (期)≪1951年7月≫に一度解散処分になり(内容を読む限り別の細胞に統一されたらしい)、後に再建された細胞を所属組織(復党確認書記載の表記によ る)として復党を申請している。(≪≫内は本申請書添付の「経歴書」(詳細後述)による。)

申請書の執筆者は当該細胞の構成員であるが、「代」とだけあり、これが当該細胞の代表者を意味するのか、或いは当該細胞の長の代理を意味するのかは不明。

この復党申請は当該細胞の細胞会議に於いて確認された復党への承認を、上部機関である東京都中部地区委員会に対して求めたものであり、また既に口頭ではこの件について報告しており、先に行われた党内の調査に於いても党員の一人としてカウントされているようである。

以上のようなことから、本申請書は極めて形式的なものであることが分かる。口頭で了解を取っただけなのに、物部氏の存在が党の調査に既に算入されていることから、上部の反対が予定されていないことが推測される。つまり氏の復党は特段の異議が生じようのないありふれたものとして扱われていたように見受けられるのである。

即ち、物部氏は、党の混乱の収拾が開始された1955年7月の六全協以降、党の方針として統一を進める中で、分裂によって除名され、或いは党を去った人々を再び糾合する大きな流れの中で復党した多くの党員の一人に過ぎないということであろうと思われる。

→私が本文中に書いたことは資料から感じたことで、様々な資料に依ったものではないが、例えば復党するのが末端の党員なのか、それとも非合法時代を生き抜いた活動家としての経歴を持ち、当該細胞設立を担った物部氏なのかでは、地区委員会の対応等にやはり違いが生じることもあるかと思われる。

そういった意味で私が本文中に書いた「ありふれた」という言葉にはミスリードの嫌いがある様に思う。戦後活動を始めた無名の党員の復党申請書や確認書でないとそのような推測はできないものとして上記記述を一部撤回する。

なお、本申請書にはB5版原稿用紙3枚に亘る物部氏の「経歴書」が糊で添付されていた。これらについては、個人情報としての色彩が濃いものであることから、今回の公開は見合わせた。

資料の真実性につき疑義が生じたため公開する。

【復党申請書添付の経歴書】

1頁目

2頁目

3頁目

【日本共産党からの復党確認書】

本確認書は、A5版より一回り小さい位の大きさの藁半紙で、復党確認書のフォーマットがガリ版で刷られており、それに必要事項等を書き入れている。1955年1月17日付になっているが、これはフォーマットを訂正していないためで、正しくは1956年であろう。

地区委員会が「一九五五年」と単年のフォーマットを印刷して用意してあったことからもこの頃の復党者が多かったことが窺える。

≪参考≫旧制第二高等学校(東北大学の前身)明善寮時代のもののべながおき氏(1934.07.07)

写真後方右側の杖をついているのが氏である。明善寮は東北大学に受け継がれ'14年に飲酒問題を巡って退寮騒動が起きて話題となった。