【名称】共産主義者同盟[赫旗派]
【結成】1981年9月
【機関紙】『赫旗』
’81年9月に共産主義者同盟(紅旗)と共産主義者同盟(革命の旗)と合同し結成したのが、共産主義者同盟[赫旗派]である。機関紙を持っていないので、組織名称がそもそも不明なのだが、当時のビラを見ると「共産主義者同盟」とだけあり、括弧書きで「赫旗」の文字を入れたりはしていないようである。
赫旗派は第二次共産主義者同盟崩壊後、分裂の歴史の中にあって統合を進めていこうと結成された党派であり、共産主義者の組織が四分五裂していた当時の状況を克服しようとする建党協議会提唱党派の一つであった。なお、建党協議会が正式に発足したのは発足総会の開かれた'86年5月であるが、'83年1月には準備会議予備会議が発足して本格的準備活動が始まっており、それ以前の下準備は'81年に着手されていた。
以下は共産主義者同盟(赫旗)首都圏協議会が’83年頃に発行した『論叢№1 赫旗「臨時党大会」派の日和見主義と召喚主義を批判す―赫旗派党内闘争における我々の立場―』の記述に基づいており、一方的な見解・表現によるものとなっていることにご留意いただきたい。
四分五裂状態の状況を克服しようと結成された赫旗派は、明大問題を巡って分裂状態に陥った。
明治大学当局が百周年記念事業の一環として旧駿河台ホテルと8号館(旧学館。当時は大学側によって封鎖され学生会館としては使用されていなかったが、生協は1階で営業していた)の敷地交換を決定したことに伴い、生協は当時営業していた8号館からの移転を迫られ、生協理事会も生協労組も移転それ自体には反対せず、生協と当局との交渉は移転先での店舗面積を従来規模で確保すること、そして移転先の指定を焦点に続けられていた。
しかしこの交渉とは別に’82年8月31日に大学当局と、解放派を中心として人民連帯、竹内ブント、戦線派の4派共闘によって党派連合自治会として在った明治大学一部全学自治会学生会・二部学苑会・学館特別委員会らが移転に関する確認書を取り交わし、生協と当局とのそれまでの交渉のすべてが反故にされてしまった。これに対して9月12日には生協から確認書撤回要求が出されたが、学生会側はこれを拒否した。
この件について学生会側の主張によれば、そもそも7月24日の生協代表者と学生会との協議以来、学生会としては学生と生協が共同して交渉を行う三者協議の形態をとることと、戦略として生協が民事訴訟を行うことを提案していたが、民事訴訟については保留しつつ三者協議については理由を明らかにせず拒否し、飽くまで生協と当局という二者協議に固執していたというのである。そして大学当局(大学理事会)と学生との二者のみによって確認書が締結されたこと、そして確認書に於いて、学生・生協・当局という三者協議の実施が生協に了解なく決められたことという2点を理由に確認書撤回要求がされたことに対しては、確かに学生と当局という二者で交渉妥結に至ったが、生協を排除する意思はなく常々三者協議を主張していたのに生協側に拒否されたのが理由であること、また生協側が以前から掲げていた五項目要求は確認書完全実施によって実現されることを以て批判は当たらないとし、また2点目については三者協議を問題とする生協は、学生運動と生協運動(なお明大生協の組合員の9割以上は明大生である)を分断しようとするものであるとして逆に生協側を批判し、要求を拒否したのである。
明大生協理事会理事長に対して学生会側が団交に応じるように要求し、また糾弾の声を強めるに従い理事会も徐々にこれに応じるようになり、生協労組は労組として明大当局との直接団交を要求するに至った。この間生協側と学生側の関係は悪化し、生協労組員が学生会中執によって就労を妨害されるようになった。これに対して生協労組は都労委に提訴し、これに伴って都労委での事情聴取の際に労組側弁護士は資料として就労妨害の暴行現場を示す写真を労働委員に見せたが、このことが解放派からは生協労組が解放派を権力に売り渡したとして糾弾され、「テロ宣言」と、「就労闘争グループ内の赫旗派を除名し、そのことを赫旗紙上で公表せよ。」という要求がなされた。労働委員に見せた写真は個人の特定ができないものを選び、また告訴戦術はとらないことが事前に生協労組内では申し合わせられていたという。
赫旗派中央委員会多数派はこの解放派の要求に従い、'83年4月24日の常任委員会―中央委員会の場で「4・24決議」を提案した。これは「明大からの一時的党的撤退もやむなしの態度で、解放派との全面的党派戦争への突入を回避するために全力を挙げる。」というものであって、都労委の写真提示問題については解放派の主張を「階級的誤りを冒した生協争議には、すでに闘争の大義は失なわれた」と断じて追認した。そして中央委員会の席上では明大細胞の責任者を呼び意見を聞くべきだとする主張を行った組織担当の中央委員は無視され、この決議は賛成多数で可決され、それとともに赫旗派明大細胞には「対外活動禁止指示」までが出され、明大生協争議は敗北的収束を余儀なくされた。この決議の採択後、反対派の中央委員は党大会の開催と、更に論議を尽くすべきであると主張したが、多数派は必要なしとしてこの提案を退けた。
このことについて首都圏委は、細胞は党の基本組織であり、工場や地域の中に作り出すことを党建設上の柱としてきた赫旗派が明大細胞を切り捨てたのだと指摘する。
この決議に対して、首都圏委によれば関東の実に8割に達する細胞で反対の決議があげられ、多くの党員が意見書を提出したが中央委員会多数派は中央委員会の承認なしの党内における配布を禁止し、提出された意見書を一か月以上も党内に公開せずにいた。多数派はこの措置について、決議に関する党内論争が混乱をもたらすものであり、決議が執行されたのちに総括討議の素材として扱うとした。このような態度に反発した一部の党員は自らの責任において意見書を党内に配布すると宣言し実行したが、多数派は通達を出してこのような行動を禁じ、彼らを解党主義であると決めつけ「行動の統一の破壊者」である非難した。しかし首都圏委によれば、行動の統一の破壊、例えば解放派との党派交渉の破壊といった挙には出ず、あくまで党内問題として扱ってきたと反論する。
なお中央委員会多数派に与するものとしては、一部の党員が臨時党大会に先立って「決議支持意見書」を出し、決議反対派を批 判する動きがあった。これについて首都圏委は、「『決議』を巡る論争を旧分派間の派閥抗争としてしか把え」なかったとし、「党を派閥連合として固定化し、 よって今日の赫旗派の分裂を招いた原因の一つである」と批判した。
中央委員会多数派は反対意見が続出する中で7月に臨時党大会を開催した。多数派は中央委員会の場でも確認されていない臨時党大会の「位置づけ」を内部通達で展開し、「4・24決議」の追認の場として提起した。これに対しては決議追認の場であり反対派を批判することが前提とされている以上、もはや党大会ではなく党内の指摘フラクションの全国会議であるとして、首都圏の8割に達する細胞が臨時党大会不承認の態度を表明し、代議員選出を拒否したが、これらの細胞に対して中央委員会多数派は旧分派の人脈を駆使して「代議員」をねつ造して「4・24決議」執行の追認を行った。この臨時党大会では決議執行の追認と明大問題の総括を分離し、決議執行の追認をセレモニー的に行い、明大問題総括(「赫旗」紙に掲載された臨時党大会議案でも明大闘争総括は「略」とされた。)は何一つ明らかにされなかったという。
臨時党大会での「4・24決議」執行の追認を以て中央委員会多数派は「党内闘争に決着」(『赫旗』43号)を一方的に宣言した。
しかし臨時党大会不承認、臨時党大会選出の新指導部の辞任を求める声はなお強かったが、多数派は反対派を「党内の党外分子」として一切の党内交通関係を断絶するに至った。
この間中央委員会多数派に反対する動きとしては、神奈川県に於いては県委員会を中心に全細胞・党員が一丸となって反対をしていたが、一方で東京では都委員会が多数派の先兵として都の党組織のフラク化と反対する細胞の解体に手を染め、部分的には細胞の瓦解すら始まっていたが、過半数の党員が都委員会に対して不信任を表明し、都委員会に代わる指導機関として東京地方党協議会を形成した。
そして神奈川・東京での戦いを結合し、「4・24決議」に関する党内闘争の発展と、中央委員会多数派が放棄した東京・神奈川での指導体制を確立するものとして'83年9月には共産主義者同盟(赫旗)首都圏協議会が党内に結成された。首都圏委はその党内分派としての結成を中央委員会多数派に通告したが、それに対する反応はなかったという。
首都圏委はこの分裂について「赫旗派の破産とは…旧分派間の投擲融合の失敗ということだけに示されているのではない。…70年代型党派運動を内在的に超克せんとして出発した赫旗派が、他ならぬ70年代型党派運動の最も悪しき現われたる『内ゲバ主義』に屈服した」とまとめている。
ヘルメットの存在は不明だが、ビラの写真を見る限りではヘルメットをかぶっていたのではないかと思われる。