共産主義労働者党

1.基本情報

【名称】共産主義労働者党

【結成】1967年2月4日

【機関紙】『統一』

共産主義労働者党は、四分五裂した構改派系党派の統一という側面を持って、社革、統社同、日本のこえ派それぞれの統一賛成派と、一部の無党派によって結成された。これについて共労党の流れの一つ共労党プロレタリア革命派の後継組織であるグローカルは「党内には、多様な考えが共存するユニークな「前衛党」であったが、構造改革路線を支持する者が多数であった。それゆえ、外部からは「構造改革路線の党」と目されていた。」と表現している。

(http://www2s.biglobe.ne.jp/~mmr/glocal/what%27s/f1.htm)

’69年5月第三回大会で元社革系の内藤らが組織の方針を巡って対立し、脱退・分裂。(その後については(年表)春日庄次郎脱退から安保粉砕全国共闘結成までを参照)

共労党は’71年秋に、沖縄闘争や武装闘争をめぐって労働者革命派、プロレタリア革命派、赤色戦線派の三つに事実上分裂した。労働者革命派の樋口篤三の革命家・労働運動家列伝④革命家の人間像――春日庄次郎(下)―日本で稀な革命家の人間像 晩年の10年―によれば、事前に武装闘争を察知していた警察のガサ入れによって会計帳簿や党員名簿が押収されている状況下で、’71年秋に赤色戦線派が武装闘争を踏み切ろうとしたのを、労働運動に依拠し中央委員7名を擁する労働者革命派と学生運動出身で指導部に居た白川書記長らプロレタリア革命派が同調して阻止し、完全に三分裂に至ったという。

その後’72年12月に赤色戦線派が共産主義労働者党赤色戦線派結成。

労革派はプロ革派との統一を模索するも成らず、プロ革派は’73年4月に共産主義労働者党全国協議会を結成、労革派は’74年3月労働者党全国委員会を結成した。

2.ヘルメット

≪学生組織≫

【名称】プロレタリア学生同盟(旧民学同左派)

【結成】1969年3月(民学同左派として共労党指導下に入ったのは'68年3月)

【ヘルメット】緑地に「プロ学同」⇒赤地に「プロ学同」。

共労党は様々な党派の合同によって結成されたが、その学生組織は日本のこえ派の学生組織である民学同の一部(民学同左派)を引きついだ。1968年3月に民学同左派が共労党指導下に入り、1969年3月にプロレタリア学生同盟に改称した。なお、社革の学生組織であった共青同(準)は社革の統一反対派が結成した社労同の学生組織である共産主義学生同盟につながるとされる。

ヘルメットは二種類確認されている。一つは地、もう一つは地である。

緑地の物は、写真集『全共闘イマジネイション』の表紙下部(カラー写真だが時期不明)で確認でき、物によっては後部に「PSL」の略称の表記もみえる。

赤地の物は、下の警察資料で確認できる。

ヘルメット一覧 1970.02.01現在 中央列右から2番目

1970頃 プロ学同写真 詳細不明 (1970.05.18 プロ学同機関誌『プロレタリア戦線』№2 69頁)

1970.06.14 大共同行動 解散地「西幸門」ではかない抵抗(キリン部隊)

上の写真の部分拡大版。良く目を凝らすと見えます。

その他、プロ学同の写真は写真集『全共闘』114頁でも確認できるが、色は不明。時期としては糟谷人民葬集会後のデモなので1969年12月頃。

なお写真集『全共闘グラフィティ』105頁はプロ学同メットをイラストで紹介しているがその色についてはgreenであるとしている。

緑と赤が混在していたことは間違いない。また東京のデモの写真で混在が確認されているので地域的なものではなく時期的なものと思われる。これについては以下の様な証言が2ch共産板スレッド【先鋒隊】プロ青同について語ろう【みどりの未来】で確認されているので引用する。

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11 : 革命的名無しさん : 2010/08/15(日) 01:05:32

プロ青のメットは、いつから赤色になったんですか?

もともと構造改革派だから、緑色だったと思いますが。

12 : 革命的名無しさん : 2010/08/15(日) 08:17:53

>>11

凄い昔にプロ青の人に聞いた記憶だと69年の佐藤訪米反対闘争で岡大プロ学同の糟谷さんが

機動隊に虐殺されて、それがきっかけだったような。

でもプロ学同結成が69年だったから最初から赤かったかも。

14 : 革命的名無しさん : 2010/08/15(日) 23:09:15

プロ学同は元々白。民主主義学生同盟の分派だからね

16 : 革命的名無しさん : 2010/08/16(月) 12:50:43

民学同(日本のこえ派)は白ヘル、民学同(共労党派)は緑ヘル。共労党派

がプロ学同を結成したが、途中でブントとの共同戦線党を夢想して緑ヘルか

ら赤ヘルに塗り替えたと聞いたことがある。

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このことについて調査を行ったところ、偶然にも日大全共闘の方のHP、1968年全共闘だった時代内の私的・ビラ保管庫で公開されている共労党機関紙『統一』352号(1970.01.19付)に以下のような記事が掲載されており、ヘルメットの色の変更を伝えているので、そのまま転載する。

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革命戦士の共通の色赤ヘルに

一・一八東大闘争一周年の闘いを契機として、プロ学同・反戦・全高闘連は、ヘルメットの色を赤に変えて登場する。

過去数年間の激しい闘いの時期を終始一貫して、その闘いの最前線に立って闘ってきた緑ヘルは、闘う諸君に強い印象を与えてきた。緑ヘルは、敵権力との激烈な死闘の中で常に革命戦士の象徴としてあった。

われわれは、秋期決戦を通じ敵権力の反革命的大弾圧と死闘をくり返し、その激闘の軌跡は七〇年代階級闘争への橋頭堡として構築された。

われわれは、その秋期決戦の歴史的重み、教訓を再々度確認し、更なる飛躍をかちとらんとしている。その時、我々は赤ヘルへ転換せんとしているのであるが、その持つ意味は、革命的戦士・労働者を本来的に象徴する色でありかつ、七〇年代の階級闘争が圧倒的な大衆の政治舞台への登場、総反乱の時代であり、それを象徴するものとして闘う者の共通の色・赤色が使用されるのだ。全革命戦士は、プロ学同・反戦・全高闘連の赤ヘルの下に総結集せよ。

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これを纏めると、プロ学同のメットは、緑地に「民学同」(民学同左派時代'67.02~'69.03)⇒緑地に「プロ学同」('69.03~'70.01)⇒赤地に「プロ学同」('70.01~)ということになる。民学同左派時代のいつ頃からヘルメットを被り始めたのかは不明。但し、上記記事の中に「過去数年間の激しい闘いの時期を終始一貫して、その闘いの最前線に立って闘ってきた緑ヘル」との文言があるのでプロ学同だけでなく民学同時代もそれなりの期間緑ヘルを使用していたことが推測される。

プロ学同は上部団体である共労党の分裂に伴い1972年に分裂。(参考:共労党プロレタリア革命派の後継組織である、自治連帯エコロジーをめざす政治グループ蒼生の青年組織プロ青同のページ http://www.winterpalace.net/pyl/02.html )

3.実物資料

・共産主義労働者党機関紙『統一』号外 1969.01.21付

・プロレタリア学生同盟機関誌『プロレタリア戦線』№2 表紙 1970.05.18付