共産主義研究会

1.基本情報

【名称】共産主義研究会

【結成】1974年10月

【機関誌】『大道』(’72~’80)→『戦列』(’72~’80)→『マルクス・レーニン主義をかかげて』(’83~)

太田派協会主流の社会党変革路線ではなく、協会を革命政党に発展させることを志向した協会内フラクションが各地に存在し、これらの中の神奈川県委員会を名乗る部分が’68年6月1日に機関誌『人民の力』発刊した。以降、この部分は協会内フラクとして活動していたが’70年5月の社会主義協会第十回大会で協会の基本的な性格に関して太田派主流と主張が対立し、その大部分、即ち協会内の国労青年部によるグループ(「第一潮流」)と九州グループ・京都グループ・学生グループ(「第二潮流」)が12月に協会を脱退し、翌’71年7月に日本労働者階級解放闘争同盟を結成した。

この時脱退せずに太田派協会内にとどまったフラクションとして愛知グループがあった。愛知グループは、協会内に未だ多数の戦闘的労働者が居ることを理由に協会からの離脱をある程度評価しつつも、離脱は時期尚早としていたが、太田派協会が組織の引き締めを図ったため、’72年に太田派協会を離脱し、人民の力派への合流を追求するも、人民の力派側から拒絶にあう。

その人民の力派内部では’72年の第二回大会で早くも党建設と活動方針を巡り、主流派である第一潮流(労働運動重視)と反主流派の第二潮流の間で対立を生じていた。この大会では学生運動と政治闘争の停止(但し労組としては参加)、愛知グループの結集拒否を決定していた。この時この方針に反対した反主流派内少数派で、学対のW・機関誌担当のK両名が反中央陰謀活動を理由に除名された。

この2人を中心とするグループ(九州グループの一部?)が人民の力派に合流を拒絶されながらも合流を模索していた愛知グループに独自組織形成を持ちかけ結成されたのが共産主義研究会である。

しかしながら’75年には戦線派が人力派から除名され、日本労働者階級解放闘争同盟全国協議会が設立されると、WやKを中心とするグループが戦線派への共研の統合を志向し、共研第四回大会で愛知グループを押さえての統合を図るも失敗。共研は分裂し、WやKを中心とするグループは単独で戦線派へ合流した。

共研は’77年6月に凍結され、以後活動は’76年結成の青年闘争委員会が担い、’80年には青年共産主義者同盟(準)が結成され、実際の活動を担った。

2.ヘルメット

青共同(準)が赤ヘルを被って三里塚闘争等に参加。

3.実物資料

・青年共産主義者同盟(準)機関誌『マルクス・レーニン主義をかかげて』6号表紙 1983.08付