1956.10 1952年頃から山西英一の影響でトロツキズムを研究していた栗原登一(太田竜)の主導で第四インターナショナル結成準備会が成立。
1957.01 第四インターナショナル日本支部が発足。この団体は日共京都府委員だった大屋史朗(西京司)、黒田寛一、群馬で活動していた内田英世、富雄兄弟らによって構成された日本で最初のトロツキスト団体。
1957.01.27 日本トロツキスト連盟に改称。機関誌は『反逆者』(当初は内田兄弟が発行し、後に太田が参加していた雑誌)で、後に『第四インターナショナル』に改題。
1957.11.01 日本革命的共産主義者同盟と改称。機関紙は『世界革命』に改題。時期尚早としてトロ連に参加していなかった日本のトロツキストの草分け的存在である山西英一も参加。
1958.07 太田竜が脱退して関東トロツキスト連盟を結成。加入戦術と独立活動の問題を巡って太田と西との間に対立があったことに加え、黒田が革共同の方針に反する論文を発表したことについて、太田が黒田除名を主張したにも拘らずこれが否決されたことによる。≪革共同第一次分裂≫
1958.08 関東トロツキスト連盟がトロツキスト同志会に改称。
1958.12 太田脱退直後から、黒田が主宰する弁証法研究会に集う黒田派と、西を中心とする関西派との間で対立があったが、その上共産同が1958.03に結成された際に革共同系の学生活動家が多数流出したことで組織が壊滅状態になっていた。これを受けて西ら関西派が、書記局を関西に移して革共同の再建を企図する。
1959.01 トロツキスト同志会が国際主義共産党に改称。
1959.06 社学同内で共産同系との主導権争いに敗れた革共同派が日本社会主義学生同盟左翼反対派(通称レフト)を結成し、革共同関西派の指導下に入る。
1959.07 国際主義共産党が解党。太田竜が第四インターナショナル日本委員会を結成。
1959.08 革共同第1回大会で西ら関西派から黒田派が除名される。≪革共同第二次分裂≫
1959.08.30 黒田派が日本革命的共産主義者同盟全国委員会を結成。
1959.09 革共同全国委が機関紙『前進』を創刊。
1959末 太田派と革共同関西派の間に統一の動きがあり、連絡委員会を設置。
1960.03 全学連第15回臨時大会で反主流派と革共同が大会をボイコットし、分裂大会に。全学連が、共産同系、革共同系、民青系に分裂。
1960.05.03 革共同全国委がその影響下にある学生を糾合して日本マルクス主義学生同盟を結成。
1960.06 太田派は安保闘争の評価を巡る戦術問題から太田ら少数派と多数派に分裂。双方とも第四インターナショナル日本委員会を名乗る。
1960.11 多数派が革共同関西派と統一し、第四インターナショナル日本支部・日本革命的共産主義者同盟と併記するようになる。
1960.11 太田派が国際主義共産党(第四インターナショナル日本委員会)を結成。
1960.11 革共同関西派の指導下にあった社学同左翼反対派が分裂し一部が、国際主義共産青年同盟学生準備会(通称青年インター)を結成。
1961初頭 共産同戦旗派大部分とプロ通派の一部が革共同全国委に流入。
1961.04 全学連第27回中央委員会でマル学同が執行部を掌握。
1961.07 全学連第17回大会で北小路敏を委員長に選出し、執行部支配を強める。
1961.09 ソ連核実験再開に消極的支持を表明した西ら政治局多数派に反対する大原孝一(星宮煥生)らは脱退して、日本革命的共産主義者同盟全国分派を結成。同派は青年インターを掌握し、青年インター派とも。
1961.10 革共同第3回大会後、西ら政治局多数派の加入戦術に反対する一派が革命的理論建設派を形成。
1961.12 全学連第18回臨時大会で社学同系中執4名を罷免し、根本仁を委員長に選任。執行部独占。
1961.12 革命的理論建設派が労働者階級解放闘争同盟を結成。
1962.09 第3回革共同全国委総会において革共同が中核派と革命的マルクス主義派に分裂。政治局多数派は中核派につく。≪革共同第三次分裂≫
1963頃 社学同左翼反対派内の京大を中心にトロツキスト学生同盟が組織される。これは青年インターに属さない西ら政治局多数派の学生組織として機能。しかし多くのインター系学生は社青同へ加入戦術を行っていた。
参考:http://redmole.m78.com/log/2000/2000-12e.htmlの12月31日(日)03時23分18秒の書きこみ。
1963.02 マル学同は革マル派が多数派を占め、少数派の中核派影響下の学生が分裂し、マル学同中核派を結成。
1963.03 マル学同中核派が機関誌『中核』を発刊。
1963.04 日本革命的共産主義者同盟全国委員会革命的マルクス主義派結成を宣言。
1963.07 全学連第20回大会に於いて学生内少数派の中核派は排除されていた為、革マル派の単独開催。これに対抗して中核派は全学連主流派総決起大会を開催。(これ以降の全学連の動向は全学連の項を参照)
1963.08 労働者階級解放闘争同盟が解散し中核派に合流。
1964.10 革共同全国分派は東京グループと関西グループに分裂して極小化。活動停滞。
1965.02 国際主義共産党と第四インター・革共同が合同し日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)を結成する。
1965.08 革共同(第四インター日本支部)は第2回全国大会で早くも対立が生じ、委員長太田竜が日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)ボリシェヴィキ・レーニン派(通称BL派)を結成。残された多数派の活動は停滞。67年以降、ベトナム反戦運動の高まりや砂川闘争の高揚の中で全国代表者会議を開催し、10月の羽田闘争を経た後には関東臨時ビューローを設置。68年になって全国機関紙『世界革命』を復刊。
1966.07 革共同全国分派から第四インターナショナル中央書記局派が派生する。
1967.08 BL派が法大を中心として武装蜂起準備委員会を結成。
1967.11 社会主義青年同盟全国学生班協議会プロレタリア国際主義派が社青同から分裂。
1969.04 社青同プロレタリア国際主義派が、国際共産主義学生同盟(通称学生インター)を結成。
1969.10 武装蜂起準備委員会が学生組織プロレタリア軍団全国学生評議会、高校生組織プロレタリア軍団全都高校生評議会を結成。