共産主義者同盟(再建準備委員会)[情況派]

1.基本情報

【名称】共産主義者同盟(再建準備委員会)[情況派]

【結成】1970年6月

そもそも旧統一派の実態は諸派の連合であったが、’70年6月初旬の共産同七中委で松本礼二ら情況派幹部二名を除名し、続く同月11日の豊島公会堂における政治集会において、最後の発言者三上治(叛旗派)の合図で、戦旗派と、叛旗・情況派が衝突。戦旗派が勝利して叛旗派と情況派が会場から追い出され、分裂が決定的になった。

この時叛旗派と情況派が共闘して戦旗派とのゲバルトを闘ったのは事実だが、当然ながら叛旗派と情況派の主張は異なる。

情況派は戦旗派との党派闘争の性格について、機関誌「ROT」第13号(1972.03.15付)において以下の「三点にわたる内実を孕んで展開された」としている。引用(斜体部)を交えて要約すると、以下の様になる。

①戦旗派の生協に対する「政治献金要求が生協の労働者によって拒否されるや、生協運動に対する妨害、いやがらせ、敵対行為に出るに至っては、すでに彼らの破産を示すにとどまらず、階級斗争に対する明確な反革命的行為であると言わざるを得ない。

②戦旗派は「昨年秋の学館解放‐神田治安体制突破の斗いから、学費値上げ阻止に至る斗いの過程」で「我々の大衆暴力闘争の方針に対して、権力公認の整然たるデモを対置し」、「すでに大衆から見はなされ、テロと喝の<原文ママ>恐怖政治によってしか、自らの延命の道のない党派」であり、「彼ら戦旗派の恐怖政治の下で沈黙を強いられている神田、和泉の学生大衆を大胆な暴力斗争の奔流の中に解き放っていかなければならない」。

③戦旗派は「69年秋の敗北を権力に対する軍事的敗北としてとらえ、それを帰結させた大衆暴力の質と、我々の政治の内容をその根底に至るまで総括を深化させる事なく、ただちに観念の軍隊作り組織建設至上主義へと短絡させ、革マル主義への屈服を行なった」のであり、「彼らの軍隊作りは、生起する現実の大衆暴力闘争に拠を置くのではなく、党‐軍‐統一戦線の硬直した分業構造の体系のワクの中に固定化され、しかも、未来の蜂起の日まで(もちろんこれは悪い冗談)の度しがたい日和見主義として表れる」。

そして情況派は戦旗派との間の党派闘争について、「党派エゴにもとずく内ゲバ空中戦として展開されたのでは決してな」く、「分派斗争以降、その決着をつけるのは現実の大衆闘争の他にない事を確認し、独自闘争の実践に全力を傾注してきた」とする。

2.ヘルメット

未確認ながら、東峰十字路事件に於ける東峰統一被告団,「三里塚東峰十字路裁判 最終弁論要旨」第一分冊所収の第二部 事実関係-第二章 事実経過-第二 九月一六日の行動-一 小屋場台終結から県有林(いわゆる御幸畑)まで によれば、『小屋場台に終結した支援団体の人数およびヘルメットの色は、次のとおりである。≪中略≫ブンド情況派 約三〇名 赤色』とあるから、ヘルメットを被っていたことは間違いないと思われる。

また情況派分裂後の游撃派も赤ヘルを被っているので、なにがしかの赤ヘルを被っていたと推測される。情況派のヘルメットが確認できないのは、情況派の活動していた70年代初頭はブント諸派が分裂で入り乱れていた時期であり、しかも二次ブント以来の反帝戦線等の組織名を継承したがために、ヘルメットだけでは情況派かどうか確認できないためと思われる。

3.実物資料

・共産主義者同盟(再建準備委員会)機関誌 『ROT』13号表紙 1972.03.15付