【ゲバスタイルQ&A】
Q.1 そもそもゲバスタイルってなに?
A.1
ヘルメットにタオルの覆面が基本の左翼活動家の闘争スタイル。年代が下ると、サングラスの着用が一般的になり、ヘルメット・タオルの覆面・サングラスの3つを合わせて「3点セット」或いは単に「3点」と呼ばれるように。オプションでスローガン入りのゼッケンや角材、安全靴、そろいのヤッケなどを用いることも。
Q.2 見たこと無いけど?
A.2
現在情宣(ビラ配りや街頭演説)で街頭で普通に被っているのは法大ノンセクトの外は、革労協現代社派、革労協赤砦社派の各全学連・反戦、及びその影響下の労組や大衆団体だけ。見かけるのは稀です。
デモや集会では革マル派もかぶり、法大闘争や京大関係では中核派も被ります。
また三里塚闘争では、共産同蜂起派や統一委、中核派全学連加盟の各大学自治会が被ることもありますが、一般の方の目には触れないと思います。
その他一般的に右翼や民族派に分類される統一戦線義勇軍などが被る例もあります。
Q.3 いつのヘルメットを紹介するの?
A.3 原則として現在も使用されている物は紹介せず、60-80年代に使用されたヘルメットだけを紹介するつもりです。多分…。
【ゲバスタイルの発展過程と現在】
さて、ゲバスタイルの概要についてはQ&A形式で簡単に述べたが、ゲバスタイルに惹かれてこの世界に入った者として、ゲバスタイルについて少しまとめてみようと思う。
飽くまで一般向きの解説なので、趣味者や元活動家の方には分かりきったことまで説明している。その上私自身は活動家として活動したことがないのであからさまな間違いもあるだろう。そういったことについては是非ご指摘いただき、訂正していきたいと思う。
※下記文章内をはじめ、本HPで利用している写真の著作権の問題については「凡例-分類や写真の扱いについて」内の最下部「4.写真の扱いについて」を参照のこと。
1.ヘルメット、覆面など
①ヘルメットの種類~ヘルメットの形態と呼称~
(1)工事用ヘルメット ドカヘル・紐ヘル
学生運動のヘルメットの多くは工事用に使用される、俗に「ドカヘル(土木作業員の俗称「土方」の「ヘルメット」の意か)」と言われるもので、現在では「MPタイプ」と称せられるものである。現在市販されているヘルメットは大きく帽体と内張り(ライナー)に分かれ、内張りは劣化に応じて交換可能であるが、かつては内張りが現在のような構造ではなく、帽体に開いた穴に紐を通し、この紐で帽体の内側で布テープを固定し、これらの布テープを紐を使って中心で結ぶことで、ハンモック状のライナーを構成する形(写真1・2)になっていた。帽体を貫く紐は後頭部で結ぶ構造になっており、この紐を緩めれば目深に被ることが出来た。このようなヘルメットは、帽体の穴から内張りの紐が外部に露出していることが特徴であり特に「紐ヘル」と呼ばれる。
写真1:標準的な作業用の紐ヘル。これは特定の政治団体等のものではなく、正面のマークは三井グループのもの。このヘルメットの所持者は三井三池炭鉱を経て三井化学で技術者として働いていたということで、そのいずれかの会社の作業用ヘルメット。但し坑内作業用ではない。
写真2:紐ヘルの内装。茶褐色の布テープを白い紐で吊っている。これは中核派全学連のヘルメットの内装で、写真1のものとは別。
実は、学生側と対峙していた機動隊のヘルメットも、よく見ると紐ヘルであることが分かる。違いは外部に露出した紐部分をテープで覆ってあり、更に防石面や首筋を守る覆いが付加されていること位(写真3)である。
写真3:「強化されたおおい」 よく見ると二重白線部の下にテープが貼ってあり、紐の膨らみが見て取れる。
しかし、このような紐ヘルは、時代が下るとともに廃れてきた。中心部を紐でまとめてハンモック状にする形式は紐ヘルが衰退してからも永く使われ、現在でも一部のヘルメットはこの形式を踏襲しているが、紐が帽体を貫く形式はなくなってしまった。廃れた理由としてはあくまで推測の域を出ないが、帽体の外周を貫く紐は任意に緩めることが出来るため、緩めすぎるとヘルメット本来の機能である、落下物から頭部を保護する機能が果たせなくなってしまうことや、紐を通す穴が帽体に開いていることは強度面から見て好ましくなかったためであろうと思われる。また聞いた話で噂の域を出ないが、紐が外部に露出していると、紐が劣化して、落下物などで大きな衝撃を受けた際に切れてしまい、ヘルメットの本来の頭部保護機能が果たせなくなってしまうことがあったためだともいう。
紐ヘルの消滅に相前後して登場したプラスチック製のライナーは、頭囲の調節はできても目深に被ることができないという欠点があった。実際、工事用のヘルメットというのは自分で被って見ればわかることだが、帽体とライナーの間には結構スペースがあり(ヘルメットの中にはこのスペースに衝撃吸収ライナーといわれる発泡スチロールが入っているものがあり、これがヘルメットの頭部保護の機能の一部を担っているらしい。)、その結果として「被る」というよりも「乗っかる」かたちになってしまい、どうにも不恰好で、お世辞にも恰好いいとはいえない上に、覆面をするにも顔の露出している範囲が大きくなってしまうという欠点があった。活動家の中にはこのことを嫌ってライナーを切って目深に被ろうとする者も居たという。私が所蔵するヘルメットの中にも、ライナーが壊れているものもある(写真4)が、ライナーというものは無理に傷つけようとしない限り壊れるものでもないので、これはやはり故意に壊されたもののように思われる。また現存する党派のヘルメットの中にはライナー自体が取り外されてしまったもの(熊野寮に複数個あったという「労青団」ヘルメットは全てライナーが外され帽体しか残っていなかったという証言を得ている)もあり、ライナーの調節が出来なくなったことは歓迎されていなかったものと思われる。
写真4:動労広島地本ヘルメット 「助士廃止反対」のスローガンからして60年代末頃か。
※当HPでは、MPタイプのヘルメットの内、紐が露出しているものを特に「紐ヘル」「紐ドカヘル」といい、それ以外のMPタイプを単に「ドカヘル」という。但し、紐の露出の有無を問わずMPタイプを総称して「ドカヘル」ということもある。
(2)バイクヘル ジェットヘル・フルフェイス・半帽
ゲバスタイルで使われるヘルメットはドカヘルのような工事用のものだけでなく、バイク用のヘルメットも多く使われた。一口に「バイク用」と言ってもいろいろあるが、左翼系の文献で「バイクヘル」という場合には、所謂「ジェットヘル」である場合(写真5・6)が多い。このバイクヘルを初めて大々的且つ組織的に運用したのは第四インター派であったといわれる。(第四インター派のバイクヘル組織運用については、次章以下参照)
写真5:1978.04.02 勝利のデモかちとる青学共闘(第四インター『世界革命』518号 1978.04.10付) 写真のデモ隊はみなジェットヘルを装備している。
写真6:第四インター派の三里塚闘争現地闘争組織「三里塚空港粉砕全国学生共闘」のヘルメット。78年3.26で実際に使用されたと伝えられるジェットヘルである。
その他にもバイクヘルの使用例はあり、「フルフェイス」のヘルメットは、一般的なデモなどではあまり見受けられないが、フルフェイスはやはり重く、しかもシュプレヒコールを上げるデモでは口元が覆われていると不便なのかもしれない。しかし、北富士闘争等で櫓の防衛で使われていたのを見た覚えがある(出典失念。思い出したら追加します。)。最近では2013年1月13日の反対同盟北原派の旗開き後のデモで中核派が使用している。LINK:前進速報版:三里塚反対同盟が新年デモと団結旗開き
またお椀を伏せたような「半帽」型と呼ばれるヘルメットもしばしば使われてきた(写真7)。またヘルメットには、防石面のような面体を付けたもの(写真8)もあった。
写真7:管理人所有の生写真。最前列の反対同盟戸村委員長着用のヘルメットが半帽型。1977年5月の衝突で催涙弾を頭部に受けて死亡した東山薫君の追悼集会における黙祷の場面を捉えた写真か。
写真8:管理人所有の生写真。1969年1月、安田講堂事件に向けて緊張が高まる時期の写真と思われる。写真右のML派学生の被るヘルメットが半帽型+防石面である。その左側の2人は報道関係者だが、うち1人はドカヘルに防石面をつけている。
②ゲバスタイルとしてのヘルメットの誕生―三池闘争
ヘルメットを初めて組織的に用いたのは三池闘争であろうと思われる。だが炭鉱労働者はそもそもヘルメットを被って作業に従事する人々であるのだから、単にヘルメットを被っただけではゲバスタイルとは言えない。衝突を予期して、想定される相手から身を守り闘うために被ってこそ、ゲバスタイルと言えるのではないだろうか。(そのためにはゲバスタイルの定義をはっきりさせなければならないが、その為には、本稿のように外形的にゲバスタイルを捉えるだけでなく、党派や活動家自身がどのようにゲバスタイルを捉えていたのかを勘案していく必要があり、その意味では未だ定義を行うだけの資料が手元になく、ゲバスタイルを積極的に定義することは当分は控えるつもりである。)
三池闘争で「ゲバスタイルとしてのヘルメット」と言えそうなそれが登場したのは、確認できた限りでは‘60年3月20日のことである。確認できた写真(『60年安保・三池闘争―1957-1960』184頁 「塹壕を掘る三池労組」。)では、ピケを張る三池炭鉱労働組合(以下「旧労」。)側が塹壕を掘る横でピケットラインを構成する旧労の組合員が、坑内作業用のヘルメットの上から鉢巻を締めている様子が見える。この写真の3日前の17日には、15日に旧労から脱退した反主流派(所謂「批判派」。)が三池炭鉱新労働組合(以下「新労」。)を結成し、新労が強行就業を試みて旧労と衝突する可能性が予測されたため、こういった装備をしたものと考えられる。
三池労組(旧労)のゲバスタイル再現。鉢巻は実物、ヘルメットは三池かどうか不明だが九州の炭鉱で実際に使用されていた坑内作業用のもの。
当時の三池労組の集合写真。
一方で旧労から分裂して結成された第二組合である新労がゲバスタイルをとったのは、確認できた限りでは旧労のピケを破って強硬就業するために、手に棒を持ち揃いの真新しい白いヘルメット(坑内作業用ではないもの。)で四山鉱へ向かった3月27日のこと(『60年安保・三池闘争―1957-1960』184頁、「棒をもってピケ排除に向かう第二組合員。この後ピケを排除し約300人入坑…四山鉱」。)である。この時は小規模な衝突の末に新労は旧労のピケを破って入坑に成功。翌28日の三川鉱入坑を巡っては前日ピケを破られたこともあって旧労のピケは固く、流血事件に発展した。(『60年安保・三池闘争―1957-1960』185頁。)この時の旧労ピケ隊には、支援に駆け付けていた福岡県教職員組合のオルグ団とされる「福教組」と書き入れた白ヘル姿が複数見られる。(三池新労・三池職組,写真集『三池のあしあと1960』20頁、「旧労のピケ隊の中には白ヘルメットの福教組オルグ団もいた。」。)
これらの衝突を経て、それまでは鉢巻姿が精々だった三池の労働組合は、ピケッティングの際にはヘルメットを着用し、時には棍棒まで持つようになった。この後、旧労は頻繁に警官隊や新労と衝突し、けが人を多数出し、3月29日には旧労組合員久保清さんが暴力団員に殺害されるほどに事態は悪化する。
≪参考≫三池新労のビラ
内容が事実かどうかは不明であるが、三池新労がこのようなビラを出すほどに両組合間の衝突は激化していた。
更に5月に三川鉱ホッパーのピケッティングが始まって以降は、それまでも一部で行われていた手拭による覆面が、全体で見られるようになった(『60年安保・三池闘争―1957-1960』191頁。)。三川鉱ホッパーでの旧労のピケに対しては、5月4日に三川鉱ホッパーへの立入禁止や妨害排除などの仮処分が認められ、20・21の両日に仮処分命令の執行として塀造りが行われた。この執行を阻止するために総評弁護団や日本社会党議員団が出たが、この時の社会党議員団は「政治局」と書かれた白ヘルメットを被っている。(三池新労・三池職組,写真集『三池のあしあと1960」』51頁、「執行吏の行動を阻止する社会党議員団。」。)7月になって到着した炭労のオルグ団もヘルメット持参で来ており(『60年安保・三池闘争―1957-1960』195頁、「北海道炭労オルグ団の到着」。)、衝突に備えていたと思われる。
この頃のゲバスタイルはヘルメット(坑内作業用も含む)の上から鉢巻を巻くスタイルが殆どで、坑内作業用のヘルメットは、彼らにとっては商売道具であるからか、後年の多くのゲバスタイルのように直接の塗装やスローガンの書入れを行っているものは見出せなかった。覆面もヘルメットの両側面のループ部にタオルなどを通す形式の、後年の学生運動で一般的なスタイルよりは、頬かむりをして余った布を顔に巻くというスタイルの方が多いように見受けられる。
またこの三池闘争に於いて、確認できた限りでは最も早い学生のゲバスタイルも登場する。7月16日に全学連第一陣が三池に支援としてやって来た時の写真を見ると手にヘルメットを持っている(『60年安保・三池闘争―1957-1960』198頁。)。また22日の大牟田署前のデモ行進ではヘルメットを被った学生が、全学連旗や加盟自治会の旗、共産同旗を持っており、その日の内に同署前で警官隊と衝突している(『60年安保・三池闘争―1957-1960』202-203頁。)。この頃の全学連のヘルメットは個人によってバラバラで統一されておらず、飽くまで頭部を保護することが主眼であって、党派性の誇示や隊列の一体性など、それ以上の機能は備えていなかった様に見受けられる。
③学生運動の画期-1967・8・1 第一次羽田事件
その後、ヘルメットの組織的運用はあまり見られないが、‘64年11月の社青同第五回大会で闘争方針を巡って議論が紛糾した頃から原潜寄港反対デモや国会前の座り込みの先頭に50名くらいの白ヘルメット・黒ジャンパー姿の戦闘部隊が見られるようになったという(『全学連各派‘70年増補改訂版』106頁。)が、写真等は未確認である。『高度成長-1961-1967』115頁の‘64年11月の原潜寄港反対のデモ隊の学生に何名かヘルメットを被った人々が見られるが、これもごく個人的なもので後年のような組織的・継続的運用とは言えないと考える。
その他には’66年早大学費闘争に於いて、2月12日に学費値上げに反対し本部封鎖の挙にでた共闘会議らの学生と、本部封鎖に反対し実力でバリケード撤去を行った体育局(運動部学生有志等)学生とが乱闘になり、これに対する報復のため、また体育局内に監禁されていたという学生救出のために封鎖派の学生が体育局に押し掛けた際のゲバスタイルがあり、覆面はせず「全学連」と正面に書いたヘルメットをかぶった学生が角材を手に集結した様子を写真にて確認している(『写真集 早稲田の150日』22頁。)。この12日の乱闘時には体育局学生らも封鎖解除にあたってヘルメットを着用し「W」の文字が大きく入った揃いの腕章を巻いていた(『高度成長 ビートルズの時代―1961-1967』184頁。)。
’66年3月21日には青年医師連合が結成され、また東京理科大、明大、中大、医科歯科大などでストライキが打たれ、また東京学生会館の退去問題を巡って機動隊との籠城戦になるなど学生たちの動きが活発化していき、12月には中核派、解放派、ブントの3派によって全学連が再建されるに至った。
初めて学生が武装して街頭に出た、換言すれば後に定着するゲバスタイルの萌芽が見られたのは’67年10月8日の佐藤訪ベトナム阻止羽田現地闘争(第一次羽田事件)と言われる。尤もこれ以前にも上で見たような小規模な内ゲバなどでの運用はあるが、定着はしなかった。10・8の時には確かにヘルメットがそれなりには見えるのだが、数も少なく、党派性の誇示だとか隊列としての統一性だとかはまだ見られない。ヘルメットを被っているのは、殆ど三派全学連(中核派・社青同・社学同)だけだった(革マル派も着用したと聞くが未確認。)という意味では、全学連の統一の隊列だから党派性の誇示は必要ないからしなかったのか、それとも敢えて党派性の誇示を避けたのか。このように党派性の誇示という機能を付与しなかったのは、そもそもそんなことを考え付かなかったからしなかったのか、それとも党派性の誇示をしない積極的・消極的理由があったのかという疑問は残る。
革労協(当時は社青同解放派だが)もヘルメットを被り始めたのをこの一連の羽田事件の頃だとしている(現代社派全学連 HP内、「石井真作同志の生きた時代」http://zengakuren.info/Comrade_Ishii.html。)ほか、比較的穏健な活動とされる構改派系の共学同がヘルメットを被り始めたきっかけも第一次羽田事件だということが判って(『回想の全共闘運動』110頁。)おり、しかもこれは新左翼党派の中では比較的早い方だという。警察側の資料によってもゲバスタイルの登場はこの頃とされ(『激動の990日』13頁。)、これ以降の所謂「激動の七か月」がゲバスタイルを定着させたのだと思われる。
余談だが10・8に先立つこと1月前の9月7日には羽田にて佐藤首相訪台阻止闘争が取り組まれ、空港突入を図ったとされるが、この際には学生の多くはヘルメットを着用していない(『高度成長 ビートルズの時代―1961-1967』222頁。)。その際の写真と比べると、10・8が学生運動の画期と呼ばれる所以がよくわかる。
1967.10.08 穴守橋周辺、阻止車両をはさみデモ隊と対じ。
1967.10.08 鈴ヶ森ランプから高速道路を通って羽田へ向おうとする暴徒。これを阻止する警備部隊。
④ヘルメットの定着―激動の七か月
これが同年11月12日の佐藤訪米阻止羽田現地闘争(第二次羽田事件)になると、ヘルメットの数が増え、統一性もでてきて一応の完成を見るが、後年の様に文字を統一して書き入れたりはしておらず、そういった面での完成には至っていない。
1967.11.12 無題
1967.11.12 日之出通りから大鳥居交叉点に向う暴力学生ら(不鮮明ながら中央の旗には「関西反帝学評学生評議会」とある。解放派系学生と言ってよいだろう。)
’67年入学で中核派に属し、1969年9月の全国全共闘結成大会まで活動に関与していた活動家からの聞き取りによれば10・8以前はノーヘルのデモであったし、当人が参加した10・8ではヘルメットは一部の活動家が使用したが、自身はノーヘルであり、彼が使用し始めたのが11・12からであるということも証言を得ており、これは各種写真資料からの印象を裏付ける証言である。
この後、ゲバスタイルが定着してから内ゲバが活発になるまで各派がある程度共存して活動を行っていた頃は、ノンセクトの自治会関係者や、自治会の呼びかけに応じてデモに参加する学生たちは、自前のヘルメットを持たず、また独自にデザインしたヘルメットを作って独自隊列を組まず、党派が事実上仕切る自治会にヘルメットを借りに行くということがあり、党派側もおおらかにもこれに応じて貸し出しをするのが当たり前になっていて、後年の様に、そもそも自治会と党派のヘルメットが峻別されていなかったばかりか、ゲバスタイルの面では党派活動家も一般の学生も同じものを被ることが当たり前だったとの証言も得ている。
⑤様々な工夫
これ以降60年代後半の闘争はゲバスタイルで闘われた。この頃のゲバスタイルはドカヘルとタオルが基本で、当時(現在でもこの構造は変わらないが)のドカヘルは両耳の辺りにそれぞれあるループを顎紐によって結ぶことで固定するのだが、この顎紐を通すべきところにタオルを通し、顎紐としての役割を担わせ、同時に覆面としての機能をも持たせるスタイルが出てくる。アナキスト革命連合(ARF)では、単にタオルを通すだけでは機動隊に剥ぎ取られる恐れがあることから、タオルを結んで完全に固定することとなっていた。(元ARFオルガナイザー千坂恭二氏の証言による。)
1969.09.03 早大封鎖解除警備 大隈講堂屋上の最後の抵抗 写真左から3人目と右端の学生は、顎紐の代わりにタオルを使用し、覆面と兼用している。
覆面としてイレギュラーなものには面があった。下の写真は背叛社というアナキスト団体から押収されたものである。また目出し帽を使う例も見られ、70年代には中核派の学生や労働者が沖縄で自作と思しき目出し帽を被っている写真がある(『沖縄返還 1972年前後』56-63頁。)。尤も背叛社はべ反委の流れを汲み爆弾闘争を志向していたものの暴発事件を起こして摘発された組織であり、後者の中核派も普通のデモではなく暴動を誘発するための変電設備や交番の火炎瓶襲撃なので、ゲバスタイルが登場する通常の大衆武装闘争というよりも、どちらかというと「ゲリラ」色の濃い場面で使われたイレギュラーなゲバスタイルであるかもしれない。
下の写真の面体は石膏でできており、覆面だけでなく爆発物を用いる際の飛散物から顔面を保護する意味合いもあったとされる。
1968.10.06背叛社暴発事件 押収品
⑥三里塚闘争における様々な工夫
話を元に戻そう。70年代に入ってもゲバスタイルは基本的にドカヘルだった。この間武器の面でのエスカレートは多々見られたが、ヘルメットは変わらなかった。しかし三里塚闘争が開港阻止闘争という一つの山場を迎える頃(開港予定は’78年3月30日だが3月26日の開港阻止闘争で延期。5月20日に開港。)にはバイクヘル(ジェットヘル)の組織的運用がなされるようになる。3・26開港阻止闘争で最大の動員を誇った第四インター派の大衆現地闘争組織である三里塚を闘う青年共闘、三里塚空港粉砕全国学生共闘などがバイクヘルを組織的に運用し始めたのは’77年10月9日のことで、「空港包囲・突入・占拠」の考え方を巡る討議の中で提起され、採用されたものである(『管制塔に赤旗が翻った日』92-93頁。)。バイクヘルは戦旗荒派の労共闘やプロ青同系の三里塚を闘う青年先鋒隊も使用した。先鋒隊のバイクヘルは空と大地の歴史館に実物が収蔵・展示されている。
バイクヘルの導入と時を同じくして、標準装備としてゴーグルが用いられるようになった。(下写真一枚目)それまでも街頭や大学のバリスト時に催涙液の高圧放水から目を保護するために度々使用されてきた(下写真の二、三枚目)が、第四インターが実力闘争全盛期に度々機関紙『世界革命』上に掲載した(例えば1978.05.15付523号12面。)「闘いの心得-三里塚は戦場である-」には、「★ゴーグルは、放水、催涙ガスから目を守るのに非常に有効であることが実証されている。着用すれば戦闘力は増大する。」との記述がある。
1978.03.26 第八ゲートを突破し管制塔へ進撃(『世界革命』517号 1978.04.03)
1969.01.18 医学部屋上から投石 機動隊員の頭上へ
1969.09.03 早大封鎖解除警備 ガスよけに水中眼鏡まで用意して立てこもる学生(大隈講堂)
バイクヘルの組織的運用をして実力闘争を闘った最後の例は、中核派を主体とする北原派支援党派による’85年10月20日の成田現地闘争、通称85年蜂起戦である。これ以降大規模部隊が火炎瓶や鉄パイプで武装して機動隊と衝突するというような闘争は見られなくなった。
⑦近年の使用状況
昨今党派のヘルメットの運用は減少傾向にある。現在も三里塚芝山連合空港反対同盟北原派の支援党派は集会やデモへのゲバスタイルでの登場が恒例となっているが、他の闘争や集会においては被らない党派も多い。
共産同蜂起派や共産同統一委は三里塚以外での使用を実質的にやめている。中核派も2000年代初頭、革命軍によるゲリラが下火に なるのと時を同じくして三里塚以外でのゲバスタイルでの登場は減った。現在は法大闘争のほか、京大の全学連や熊野寮などが使用しているが、覆面はしなくなり、かつてのような闘うスタイルではなくなった。
このような傾向は、党派よりも先に、党派の影響の強い労働組合において見られた。国鉄分割民営化反対闘争の過程で中核派系の動労千葉がヘルメットを脱いだ。同時期、沖縄全軍労も本土の全駐労と組織統合を行い、全駐労沖縄地本へと改組し、その後一時期ヘルメットを被っていたが、やはり90年代初頭にかけてヘルメットを脱いだ。これについては、ヘルメットを被っていた労組内の青年部が、高齢化によって部隊を維持できなくなったためであるという説も聞いたことがあるが、詳らかではない。
このような中で唯一頑なにこのスタイルを堅持するのが革労協である。80年代初頭の労対派・狭間派分裂以降、労対派は暫くしてヘルメットを脱いだが、なお狭間派はこのスタイルを堅持していた。90年代前半、狭間派が継承した解放派全学連の広田建一委員長はヘルメットにタオルとサングラスのゲバスタイルでTVのインタビューに応じ、「なぜヘルメットにマスクなんですか?」との問いに対して「闘う意思表示です。全学連の真骨頂は武装して権力と闘うことです。そのことを示すには普段の闘うスタイルでインタビューに応じるのが一番だと思いまして、今日はこういう格好でやらせてもらっています。」と応じた(『学生運動現在形 - ヘルメットの現代っ子たち』1993年。)。ゲバスタイルは解放派の闘う全学連にとって当然の姿だったのである。
また90年代後半、第49回全学連大会への結集を求める文書の中で「多くの勢力が『全学連』の名を掲げることすら放棄し、学生運動の革命的前進と階級的再編の道を自ら閉ざし、六七年羽田闘争以来のヘルメットをも投げ捨てようとしている。」とし、ヘルメットが少なくとも解放派にとって伝統的な闘争スタイルであると同時に、新左翼系の学生運動においても闘うスタイルとして定着していたものであって、それを放棄することは一定の意味を持つのだと示唆している。狭間派はその後現代社派・赤砦社派に分裂したが、その後も影響下にある大衆団体や労働組合も含め頑なにヘルメットを被り続けている。
なお別の動きとして昨今のノンセクト運動の一時的な盛り上がりの中、2011年には明治学院大学で黒ヘルのゲバスタイルによるジグザグデモが行われたが、形を模したものに過ぎない。
2.角材、鉄パイプ、旗竿
人が闘おうとするとき、最も簡単なのは長い棒を用いることである。これは機動隊の装備しかり、子どものチャンバラ遊びしかりである。そういった意味で、角材がいつ組織的に用いられたかという問いは愚問であろう。
1967年の10・8は、先述の通り、学生運動の画期とされている。しかしそれに先立つこと7年前、ヘルメットの項で触れた三池闘争に於いて支援に入った学生たちも、衝突の際には旗竿や角材を使うべく用意していた。(押収された角材等の写真につき、三池新労・三池職組,写真集『三池のあしあと1960」』71頁、「〝ポリ公帰れ〟〝憎しみにもえ樺さんと久保さんの仇をとれ〟。〝犬殺し部隊所属〟等の過激な字句を書き入れみずからを暴挙にかりたてている全学連の武器。」/また、角材を装備して気勢をあげる全学連の写真につき、熊本県警察本部,『三井三池炭労争議警備記念写真集』29頁、「全学連」。)
10・8の際はそれなりの数の学生たちが角材を手に持って機動隊と衝突した。これがゲバ棒にヘルメットの学生が国家権力と直接的に衝突した最初の事件と言われる。
党派側からこれを肯定するものとしては、ブントの学生組織社学同の機関誌『理論戦線』9号(’70年)に社学同全国委員会名義で掲載された「社学同の組織総括と飛躍の課題」があり、「この三年間の社学同の組織総括を行おうとするとき、問題の中心軸にすえなくてはならないのは、一〇・八羽田闘争をもって開始され、エンプラ闘争をもって定着したゲバ棒闘争の革命論的解明とゲバ棒闘争を一貫して担ってきた社学同の党組織論的位置付けをめぐる論争である。」として、ブントの闘争手法に於いて10・8が一つの画期であったとしている。
警備側、即ち国家権力側からこれを肯定するものとしては、『激動の990日』(’71年)13頁があり、「反代々木系学生等は…実力阻止闘争へと傾いていった。なかでも総理が第2次東南アジア各国訪問の途についた10月8日には全国の学生を動員してヘルメット、角材で身を固め空港突入をはかり、これを阻止する警備部隊に襲いかかり…これがゲバ棒、投石による本格的な武装斗争の発端である。」としている。角材の使用自体については、「角材による警察部隊に対する攻撃は、昭和四十二年二月の砂川闘争で使われてから次第に常用化されている。」(警察庁警備局「警備警察」9頁)という記載があり、武装自体はこの頃から始まっていたと思われる。
続く第二次羽田事件になると、ヘルメットの数が格段に増えてくるが、同時に増えたのが角材だった。角材の集団での使用に踏み切ったこれ以降は角材の所持が警察によって制限される様になる。この中で出てきたのが角材の先に板をつけてプラカードとすることで「合法的に」角材を所持しようとした、警察用語でいうところの「偽装角材」である。(そもそも角材を持って集まれば規制されるというのは、この10・8以前も当然あったとは思われ、60年安保の際に、反安保の勢力に対抗しようとした右翼団体が六尺棒の先端に日の丸の小旗を付けている例(『60年安保・三池闘争―1957-1960』153頁。)も見られる。これも一種の偽装角材といえるだろう。前掲の三池新労のビラにも、旧労側が竹竿の先端に小さな旗をつけて旗竿と言い張って武装しているという記述がみられる。)‘68年1月の飯田橋事件では空母エンタープライズ寄港阻止のため佐世保に向おうとした学生が所持していた「偽装角材」について飯田橋駅前で検問をし、中核派と機動隊が衝突して多数の逮捕者を出した。
1968.01.15 法政大学を出る学生、全員がプラカード付角材を手に
1968.01.15 プラカードの板をはずせばゲバ棒
この後も事前検問は続いた。検問で竹ざおを一時的であれ押収されたりすると闘争がままならなくなってしまう
1971.06.16 凶器発見の検問を続ける部隊(新見付交さ点) (警視庁警備部「あゆみ」沖縄返還協定調印阻止闘争警備特集号107頁)
1971.06.16 検問により一時預りをした竹竿(都体育館前)(警視庁警備部「あゆみ」沖縄返還協定調印阻止闘争警備特集号107頁)
これに対して新左翼党派は偽装角材として携行するほかに、事前に角材をある程度まとめて闘争を行う現地に搬入し、隠しておくなどして検問を免れた後武器を回収して闘争を試みるようになる。例えば'69年6月のASPAC粉砕闘争に於いては、横国大から出撃した反帝学評の部隊の角材が横浜駅で押収された一方、中核派は平塚駅でいったん下車し、近隣の旅館裏に予め隠してあった角材の束や火炎瓶の入った段ボールを回収した後にこれを部隊に配布し、再び伊東方面の電車に乗車した例や、学生が国鉄函南駅北部の山林に隠してあった角材を運搬しているのを発見し、これに対して出動したところ、角材の束を捨てて逃走した例などがあった。
1969.06.09-11 ASPAC現地闘争 あらかじめ隠してあった角材
警察は対抗するために武器が隠されている可能性の高い箇所を事前に捜索するようになった。これを「事前検索」という。
1971.06.16 千駄ヶ谷駅付近の植込みの検索(警視庁警備部「あゆみ」沖縄返還協定調印阻止闘争警備特集号110頁)
このような武器の別途搬入は警察用語では「ドッキング」 と呼ばれ、更に巧妙化し、'71年11月の渋谷における沖縄返還協定批准阻止闘争に於いては、井の頭公園に事前に隠されていたほか、杉並区方南町のアパー ト前で火炎瓶を車に積み込む際に発火してしまい、現場から逃走したグループがあったため捜査したところ、当該アパートからは火炎瓶198本が発見された事件もあった。このアパートは火炎瓶の製造工場となっており、近隣の駅にて部隊にドッキングしようとしていたものとみられている。
沖縄返還協定阻止闘争では労働者部隊が活用され、新たな脅威となった。大学を拠点とする学生部隊は比較的その動きが察知しやすいものの、労働者部隊はその動きがつかみにくく、駅に結集して初めてその存在が認知できるため、警備当局にとっては課題となった。中核派は一般人と区別のつかない背広部隊を展開していたとみられ、武器のドッキングが成功すると突如として一般市民の中に武装した部隊が現れることになった。この闘争にあたっては武器のドッキング前に火炎瓶1,010本、鉄パイプ350本を摘発・押収している。
学生運動の激化の中で角材は継続的に使用されたが、変化していった。警察によれば、「初期の角材は短かく、ヘルメットはツバ付が流行」(『激動の990日』122頁 極左暴力学生の兇器類押収品展示場の展示より。)とのことで、闘争を重ねることにより角材の長さが変化していったことが分かる。'70年時点でのゲバ棒の標準的な仕様としては「4~5センチ角で、長さは1メートル50センチから1メートル80センチ位がてごろといわれ」(警察庁警備局「警備警察」8頁)たとのことである。
また角材に止まることなく鉄パイプを使う党派もでてくるようになった。「偽装角材」の様にして携行されるものもあっただろう。
1970.06.23 6.23総行動 火炎びんを持ち、鉄パイプで武装して会場を出発したML
なお三里塚闘争では開港が迫るに連れて、もはや「偽装」はされなくなっていった。三里塚空港開港阻止実力闘争へ向けて、第四インター派は’77年4月17日には鉄パイプを導入(『管制塔に赤旗が翻った日』47頁。)し、7月8日には鉄パイプを紐で背中に襷がけにして携行するようになった(『管制塔に赤旗が翻った日』82頁。)。このスタイルは「小次郎スタイル」と呼ばれた。
1978.03.26 無題(共青同学生班協議会「進撃」創刊号 11頁 1979.04.20付)
上の写真中央の鉄パイプにかけられている紐が鉄パイプを襷掛けにする小次郎スタイルをとるための紐である。
ただ下の写真の右の方を見ればわかるように日向戦旗派は開港阻止実力闘争の当日、3月26日にも鉄パイプではなく角材を使っていた。
1978.03.26 無題(共青同学生班協議会「進撃」創刊号 2頁 1979.04.20付)
これは本来鉄パイプを使う予定であったところ、前日のガサ入れで鉄パイプが押収され、当日武装予定地の精華学園に代わりに角材が届けられたことによる。ドッキング阻止を狙って鉄パイプを押収したものとみられ、やむを得ず調達できた角材をドッキングさせたのであろう。しかし角材のドッキングに時間を要し、8ゲート部隊の空港突入時刻が遅れている。このあたりの事情については、『1978・3・26 NARITA 管制塔を占拠し、開港を阻止したオヤジたちの証言』142頁以下に詳しい。
1983.03.27 武器ドッキング防止のため徹底検問中の三機部隊 成田現地闘争警備
街頭では、「偽装角材」の発展形としてデモ隊の先頭などの一部が纏まって旗竿を槍の様に使用するようになった。キリンの首の様に見えるので警察はこれを「キリン部隊」と呼んだ。
1969.12.14 糟谷人民葬 約1,000名の革マル全学連は日比谷野音へ突入の構え
1970.06.14 大共同行動 解散地「西幸門」ではかない抵抗(キリン部隊)
1974.09.26 実力進撃へ向けヘルメットを着用、整列する隊列(1974.10.01付 解放派『解放』151号)
1977.08.12 狭山上告棄却に逆襲 決起した青ヘルの旗ザオ部隊(1977.08.15付 解放派『解放』198号)
1974年の写真はデモの出発前のものと思われるが「キリン部隊」は一部であって、その他の参加者はスクラムを組んでおり、デモ隊の役割分担が良くわかる。
1977年の写真の左側は解放派の言う「旗ザオ部隊」(警察の言う「キリン部隊」に同義)なのだが、右側に立っているデモ参加者も旗竿を持っている。「旗ザオ部隊」との違いは、その長さであり、「旗ザオ部隊」はデモ隊の中で特別に編成されたものだとわかる。
一般の参加者が持つ旗ザオ部隊より短めの旗は恐らく「偽装角材」がプラカードから旗に転じたものであろうと思われる。プラカードより嵩張らないので保管の場所も少なくて済むし、とり回しがし易いのだろう。これは現在も解放派では使われているもので、一つの武器の発展形態であり、闘う意思を示すのだろう。(下の写真参照。)
2011.08.06 広島市平和記念公園脇の道路にて。革労協赤砦社派系の全学連・反戦と大衆団体釜ヶ崎労働者の会(筆者撮影。プライバシー保護のため大きくはなりません。悪しからず。)
管理人の所蔵している旗は70年代中期にこういった短めの旗竿に着ける用途に使われていたものである。キュプラ製で軽く、丸めてポケットに押し込める様な物で全く嵩張らない。
3.石塊・火炎瓶・その他武器
石というのは最も原始的ながら効果的な武器の一つであろう。戦国時代時代にも戦闘の一環として石合戦があったときく。
1968.09.12 暴徒は靖国通りで都電を停める 投石、角材が散乱、乗客、運転手は一時避難した。9.12日大全共闘学園奪還闘争
石は探せば無数にあるものだし、威力も大きい。第二次羽田闘争の頃には機動隊は投石除けに大盾を導入し、防石ネットなども使用するようになった。
1967.11.12 投石よけのため第2次羽田闘争から初めて大楯が考案され、使用された。 第二次羽田事件
1967.11.12 防石ネットを持つ手も投石、角材で傷ついた。このため剣道の小手などを活用するなどのアイデアが生まれた。(左は白バイの皮手袋) 第二次羽田事件
特に高いところから落とせばその威力は計り知れず、日大で殉職した西条警部も上の階から落とされた大きな石塊が頭部に直撃したことで死亡した。路上の石畳を剥がして砕き、これを投石に用いる者もおり、警察は路上の石畳を撤去するなどの対応を行った。籠城戦では壁が破壊され投石に使われることもあった。
1969.01.18 医学部屋上から投石 機動隊員の頭上へ
1968.09.12 日大全共闘 投石用に、歩道の敷石をはがし、運搬準備
1969.09.03 早大封鎖解除警備 早大、教室の壁は、投石材料となる。
投げつけるものとしては火炎瓶や劇薬瓶などがあった。'71年の沖縄返還協定批准阻止闘争で中村警部補が焼殺されて以降、従来の爆発物取締罰則で処罰することのできなかった火炎瓶については火炎瓶取締り法が制定され、対処できるようになった。
1971.06.17 火炎びんを持って警備部隊に向ってくる学生(青学大)(警視庁警備部「あゆみ」沖縄返還協定調印阻止闘争警備特集号122頁)
1968.09.04 日大法学部仮処分執行に伴う公務執行妨害事件にて押収した塩酸
1969.11.16 訪米阻止闘争で押収された各種火炎瓶と運搬する袋類
1969.11.16 訪米阻止闘争で押収された手製のパイプ爆弾など
1971.06.17 発煙筒を投げる革マル学生(霞ヶ関2丁目交さ点)
1971.06.17 爆発物により損傷した大楯
4.防具
目立った防具というのはあまり見当たらない。ヘルメットが目に見える唯一の防具かもしれない。だが機動隊がジュラルミンの大楯を使用したのと同様に、楯の使用は、ML派(『東大全共闘1968-1969』104頁。)や解放派(下記写真参照。)、社学同(「ブントの大楯」として有名だったとか。使用状況は未確認だが、『激動の990日』122頁に写真有。)等で見られる。だがやはり機動隊の高圧放水の前では木の楯は役に立たないのか、ごく短い一時期のみの使用が確認されており、大規模かつ長期間にわたって使用されているわけではないように思われる。
1969.01.18 屋上の暴力学生はベニヤ楯でガス筒をはらいのけた。
1970.06.22 木製の楯を構えて機動隊突破を狙う反帝学評
1971.05.30 首相官邸に向け青山通りを進撃するプロ統正規軍(1971.06.15付『解放』76号)
身に着ける防具としては、古くは三池闘争における旧労組合員の剣道の胴や垂れがある(熊本県警察本部,『三井三池炭労争議警備記念写真集』27頁、「ホッパースタイル」。) 。学生運動に於いては二次ブント分裂時の内ゲバで、雑誌などを体に巻いたという証言があるほか、防具らしい防具としては篭手などの使用例があり、管理人も解放派が70年代に作成使用したプロテクターを所有している。関係筋によれば解放派は74年頃から段ボールの間に竹を挟んでガムテープで固定したものを手や肩、鎖骨部分にゴム紐で固定することで防具の代用としたという。これは用途の限定なく使用されたとのことだが、被服の下に着用するものであるため、実際の着用状況は不明である。
この写真を公開後ご連絡をいただいたのだが、一方で似たようなものを「対カクマル戦」、即ち内ゲバがなお続く80年代、関西方面の中核派の学生活動家が着用していたとの証言がある。これは飽くまで不意の襲撃に備えた内ゲバ用のもので普段被服(ヤッケではなく、前が開くジャンバー。ジャンバーの中に伸縮式鉄棒を所持し、いざという時には応戦できる体勢をとっていた。)の下に着用し、デモの様な対権力の場面では着用しなかったという。
最近入手した資料で明らかになったが、中核派は、既に1970年代にこのような防具を作成し、デモのような対権力の場面で着用していたことが判明した。
1973.04.22 デモ隊も機動隊員なみ?何と竹製の防護衣を着装 狭山闘争中核デモ警備
1970年代に入って、三里塚空港開港阻止実力闘争を闘った第四インターもまた似たような防具を使用していたようである。赤色土竜党さんのコンテンツ宣伝戦線第7章「強固な隊列のために」にこの解放派のプロテクターに類似するものと思われる防具の記述がある。「闘争が激烈になると予想される時は、肩や腹を新聞紙などでしっかりと防護する。また、腕には篭手(ない場合にはガムテープとワリバシで代用)をつける。全身をしっかり守って存分に闘いを遂行しよう!」とのことで、実力闘争においては篭手も有用な防具として多用されていたようである。
また党派ではないが、労働組合も防具を着用していた。当時の労働争議では警備業法施行前であったこともあり、使用者側が労働争議潰しを行う会社を雇ってガードマンとしていた時期があった。全金本山闘争ではこうした「暴力ガードマン」が’72年に導入され、最終的には直接雇用され社員となった。このようなガードマンと対峙する組合側は殴る蹴るの暴行から身を守るため防具を用いた。腹の部分に週刊誌を入れる簡単な物から塩ビを加工して胴を作ったり、要らないシャツに穴を空けて竹を縫込みチョッキを作ったり、アーチェリー用の掌の防具に細い鉄筋をつけて殴られる際に手でかばったりといろいろな工夫が見られたようである。実際に着用していた防具は現存しており、着用状況を再現した写真がある(『本山闘争12000日』103頁。)。
その他に変わり種として有名なのものに戦旗派の「鉄マスク部隊」がある。野球のキャッチャーミットを装備したキリン部隊のことで、’70年の戦旗派・情況派・叛旗派の三分裂以降しばしば使用された。
1971.04.28 闘いの先頭にたつ鉄マスク部隊 野合右派を完全粉砕 (『北西風が党を鍛える』第一部)