共産主義者同盟全国委員会[烽火派]

1.基本情報

【名称】共産主義者同盟全国委員会

【結成】1971年11月1日

【機関紙】『烽火』

烽火派は、旧統一派から叛旗派・情況派が分裂した後に成立した戦旗派内の一フラクション。関西地方委員会機関紙『烽火』を結集軸としたため「烽火派」または「関西派」と呼ばれた。

当HPでは名称は「共産主義者同盟全国委員会」としたが、これは独自に発行した機関紙『烽火』265号から数号の組織名称として表記されていたものをそのまま採用したものである。その後いつ頃からか定かではないが「共産主義者同盟(全国委員会)」に表記を変更している。但し、既に『烽火』265号の論文の名義が「共産主義者同盟(全国委)政治局」となっており、括弧の有無にそれほど深い意味があるかどうかは微妙である。

烽火派に繋がる関西地方委員会に結集したグループは、叛旗派・情況派が分裂した後に戦旗派内の党内闘争の口火を切った神奈川左派と、'71年1月頃までに5ヶ月間に亘る組織的討議と厳格な統一文書を通して統一し、「左派」フラクションを形成。これにさらぎ派が合流して12・18ブントを形成した。

12・18ブントが沖縄デー闘争で戦旗中央派に敗れて以降は、空中分解に陥った神奈川左派の一部を吸収し、'71年11月1日に単独で共産主義者同盟全国委員会を名乗って機関紙『烽火』265号を発行し、同紙上にて共産同機関紙『戦旗』の一時停刊と、全国政治新聞としての『烽火』発行を宣言した。この共産主義者同盟全国委員会は、単に関西地方委員会の後継ではなく、12・18ブント結成直前に神奈川左派と形成した「左派」フラクションから中間派と神奈川左派の一部を除いた部分の後継を自認していた。

しかしながら10月の中央委員会における対立を経て、RGに拠る部分が分裂し、共産主義者同盟の本流を自認しつつ11月5日付で共産主義者同盟から「共産主義者同盟(RG)」へ改称し、機関紙も『戦旗』から『赤報』へと改題、11月15日付で第1号を発刊、機関紙上にて神奈川左派と烽火派主流を除名した。以降「RG派」、または機関紙名から「赤報派」と通称される。

(以下の部分は資料が少ないことから1976.04.20付共産同全国委機関紙「烽火」301号の記述に沿った一方的な見解に拠るものであり、表現も一方的なものとなっていることに注意されたい。)

共産主義者同盟全国委員会を結成した烽火派は、党建設の新たな段階を切り開くべく「第二段階論」を提起していたが、’73年初め、後に紅旗派結成に加わる加納英二(久松俊一)が提出した「部落(上)論文」は綱領問題を巡る党内論争を巻き起こし、党の指導の立ち遅れを指摘する地方委員会の理論的根拠となり、組織の分散的傾向に拍車をかけた。これに対し73年春の総括として提出された「中央書記局通達№8」は同論文を批判するも、中央書記局の永井は「綱領的内容を指導部が提出する迄は下部党員は大衆運動の指導に責任をもつべきである」とする「指導責任論」を提起し、論争を未決着のまま収拾した。

このような事態収拾の結果、党内には中央指導部に対して批判的な、首都圏委員会を中軸とするグループと、永井や加納、本田、上原らを擁する中央書記局内の一部グループが発生した。

’74年6~7月のマル青同との党派闘争を契機に東北地方委員会と首都圏の一部のメンバー(伊集院一派)が革命戦争路線を主張して反中央の立場を公然化させ、8月上旬には烽火派から分裂し、翌9月「共産主義者同盟全国委員会マルクス・レーニン主義派」を結成したが、赤軍派の一分派との合流を主張する伊集院グループと、園内グループとに更に分裂した。

烽火派内部では'74年8月の伊集院一派の分裂に対する総括を巡って党内闘争は本格化し、特に’74年9月の中央委員会では紛糾し、永井は総括について議案を提出したものの強い批判にさらされ、撤回を要求されるとともに最高指導部から解任された。代わって中央委員会では「プロ通-3号決議」が採択され、’73年8月以降の論争の決着を、プロレタリアの武装蜂起を組織する中央集権非合法党建設をめぐる路線論争として止揚しようとした。

この決議に反発する加納・本田・上原らのグループ(加納一派)は、中央書記局内部にあった党中央への不満を利用し、同時に'74年8月頃から開始された女性差別問題(Tという当時26歳の男性活動家がアジトなどにおいて複数の女性を強姦したとして糾弾された事件に端を発する問題。Tは'72年当時の兵庫県委員会キャップであった。当初強姦された女性活動家の声を関西地方委員会は無視し、無視された女性活動家らは「女性解放委員会」を組織し、糾弾に出たという。)に関するT査問委員会から政治局の排除を画策し、女性差別への屈服を政治局、即ち指導部の腐敗として結論付けようと試みたため、10月の中央委員会では「プロ通-3号決議」を巡って中央と加納一派の間で激しい闘争が続いた。

’75年2月下旬、最高指導部から解任されていた永井が××機関の一部を取り込んで永井フラクションを宣言し、加納一派との連携を企図した。このような中で2月には議長の八木沢二郎(新開純也)、続いて最高幹部清田裕一郎も組織を離れた。3月初旬になって永井フラクションは中央委員会を開催しようとするも失敗し、加納一派は機関会議のボイコット、多方面へのオルグを行い、5月5日の第9回T糾弾会を新党結成大会にしようとしたがこれも阻止され、分裂。加納一派は共産主義者同盟全国委員会ボルシェヴィキ派を結成した。

'04年に共産主義者同盟戦旗派[西田戦旗]と合併し、共産主義者同盟(統一委員会)を結成した。

2.ヘルメット

【名称】反帝戦線(全国委員会)

【ヘルメット】赤地に「反帝戦線」、後ろに「全国委」など。

3.実物資料

・共産主義者同盟関西地方委員会機関誌『烽火』再刊1号 1970.08.15付

・共産主義者同盟全国委員会機関紙『烽火』314号 表題部 1978.01.31付