全共闘運動の高揚を受け、その中でバクーニン的路線でのアナキストとしての運動を確立することを企図し、その為には従来の様な無数の私的・研究会的な小グループではなく一定のボリュームを持った組織を形成する必要があるとの趣旨で一致した関西のアナキストの大半が参集し、’69年に大阪で結成された。普通の個人的、テロリスト的なアナキストとは異なり、むしろブント的な党的組織を志向したことから「アナキスト・ブント」ないし「黒色ブント」あるいは「黒色ボルシェヴィキ」とも呼ばれた。
以上のような経緯からアナキストの組織としては異例の500名近くの構成員を抱え、大阪外語大、大阪教育大、大阪芸大、関大、関学大、花園大など、関西の各大学に拠点を持ち、特に大阪外語大では全闘委主要構成三派の一つとなり独自のゲバルト部隊も擁し、第四インター派やBL派などと衝突することもあった。ブントとは比較的良好な関係にあり、赤軍派の支部と軍事的提携の様な関係もあった。
このような組織形態をとったことは、日本のアナキストとしては異端的であり、既存のアナキストからは「アナルコ・ボルシェヴィキ」との批判がなされたほか、現在に至るまで日本における戦後アナキズム運動史において語られることは少ない存在である。
系列組織としては大阪浪共闘エスエル(社会革命)左派とアナキスト高校生連合(’69年結成。最大の拠点校として府立清水谷高校を擁し、同年秋に赤軍派とともに全校バリケード封鎖。)があり、青年労働者組織の形成も志向していたが実現には至らなかった。アナ高連は形式的にはARFの高校生組織ではあったが、実際には別個に独立した組織であり、大阪のアナ高連がARF系によって担われていた一方で、東京のアナ高連にはARF系以外のアナキスト高校生も多く参加した。大阪のアナ高連はARF解体の’70年以後も存在し、’72年の灘高闘争に参加した。’72年は解体したARFの再建の試みが頓挫した年でもあった。
当局はそもそもアナキスト自体を破壊的テロリストと見ており、ARFはその中でもアナキストが形成した本格的組織であったがために、現実以上に危険視されて機動隊の強い弾圧を受け、通常の街頭デモさえままならなかった。
’69年には、翌年の万博で使用される電子オルガン破壊を目的として大阪芸大への夜襲を敢行。多くのメンバーが逮捕され実力闘争部隊は半減した。その後同年の10・21(国際反戦デー)闘争を巡る路線問題で分裂し、’70年を前に解体。一部はアナキスト社会革命戦線を結成。東京のARFは無政府共産主義者同盟を形成した。
【ヘルメット】艶消しの黒無地。
1969.10.02 大阪芸大事件01
1969.10.02 大阪芸大事件02 大学側の告示
1969.10.02 大阪芸大事件03 むなしい抵抗のあとに
元ARFの千坂恭二氏によれば、ヘルメットは一切文字の入っていない艶消し無地の黒ヘルで、覆面用のタオルはヘルメットと同じ黒色の物を使用し、タオルは後ろにまわすのではなく前で結んだ。この方がヘルメットを剥がされにくかったためだという。激しい弾圧が生んだ知恵である。
3枚目の写真は大阪芸大夜襲の遺留品だが、幾つか見える黒ヘルがARFのものと思われる。
・9・23集会粉砕行動総括 1969.09.29付
大阪芸大夜襲闘争の直前のARFのビラである。
・アナキスト革命連合機関誌「自由と革命」№1 1969.11.15付
・北摂アナキズム研究会機関誌「自由と労働」№1 1970.07.20付
・無政府共産主義者同盟全国委員会理論誌「無政府主義」準備号 1971.06.10付