12・18ブントの分裂 '70.12

12・18ブントの分裂 '70.12

共産主義者同盟[鉄の戦線派]('70.06~'72.10)

→共産主義者同盟蜂起派('72.10~現在)

⇒共産主義者同盟蜂起左派('73.09~)

共産主義者同盟[神奈川左派]('70.06~'71.09)

・共産主義者同盟[関西派]('70.06~'71.10)

⇒・共産主義者同盟全国委員会[烽火派](’71.10~)

⇒・共産主義者同盟全国委員会マルクス・レーニン主義派('74.09~)

⇒・共産主義者同盟全国委員会(ボルシェビキ)('75.05~’76.03)

⇒・共産主義者同盟(RG)[赤報派](’71.11~)

'70年6月に情況派・叛旗派が戦旗派から分裂した後も、戦旗派は一枚岩ではなかった。戦旗派内では二次ブントの各委員会の機関誌が結集軸となり、戦旗派内主流派(以下「戦旗中央派」。)に 対して批判的なフラクションが形成されていた。それらの戦旗派内フラクションは、それぞれの委員会の機関誌名―結集軸は東京南部地区委員会(機関誌としては共産同中央労対部)=「鉄の戦線」、神奈川県委員会=「左派」、関西地方委員会=「烽火」―をとってそれぞれ「鉄の戦線」派、「左派」派、「烽火」派と呼ばれたが、後に単に「鉄の戦線派」、「左派」、「烽火派」と呼ばれるようになった。なお「左派」は一般名詞であることから特に「神奈川左派」とよばれ、また「鉄の戦線派」は指導者である仏(さらぎ)徳二の名前から「さらぎ派」とも呼ばれる。

そもそもこの戦旗派内のフラクションの並立、党内闘争の公然化は、神奈川県委員会に拠る「左派」フラクションが、その名前の由来となった神奈川委員会機関誌「左派」1号を’70年2月に発刊したことに始まった。この動きは党内に波及し、8月には関西地方委員会もかつての関西地方委員会機関誌「烽火」('68.09.30付「烽火」11号を以て廃刊。)を再刊する形で党内闘争に本格的に参加し、10月には南部地区委員会「鉄の戦線」もこれに続いたことで、共産主義青年同盟(KIM)に拠る戦旗中央派、神奈川県委員会「左派」フラクション、関西地方委員会及び非合法部門を中心とする「烽火」フラクション、東京南部地区委員会「鉄の戦線」フラクションの計4フラクションを中心とする党内闘争に突入した。

これらのフラクションは党内闘争を続ける中で、大きく戦旗中央派と反中央派連合に整然化し、この反中央派連合が'70年12月18日に戦旗中央派との絶縁を宣言、共産主義者同盟政治集会を単独で開催した。これに対し戦旗中央派は中央委員会と中央統制員会の連名で反中央派連合の幹部であった共産主義者同盟第9回大会中央委員13名を翌19日付で除名 (戦旗中央派機関紙「戦旗」252号 ’70.12.23付で公表)し、これによって名実ともに旧統一派は分裂したのである。

この時除名された反中央派連合幹部13名の内訳は、鉄の戦線派がさらぎ徳二、垂水俊介、杉田正夫、羽山太郎の4名、烽火派が三谷進、榎原均、野崎 進、高見沢洋一、永井武夫、竹野厳の5名、神奈川左派が稲沢徹、鈴本路彦の2名、そして独立グループが中島二郎の1名となっている。このうち独立グループの中島二郎については調査したもののどういった活動家か判っていない。おそらく12・18ブントに結集したグループであろうと推測され、共産主義者同盟の各都道府県委員会等に拠らずに結集した、反帝戦線東北委員会或いは共産同東北地方委員会の幹部ではなかろうかと思われる。

以降、この反主流派連合は戦旗中央派からは「12・18野合ブント」「野合右派」などの蔑称で呼ばれ、この3派は自らを「連合ブンド」などと称した。本稿では以下単に「12・18ブント」と呼ぶ。

12・18ブントが共同で発行した「共産主義」14号(‘71.02.01付)の冒頭に収録された「八派共闘解体 蜂起をめざす単一党建設を」は、‘71年1月の共産主義者同盟第十回中央委員会で採択され、共産主義者同盟中央委員会、即ち12・18ブント名義で発表された文書であるが、これによれば神奈川左派と烽火派は5ヶ月間に亘る組織的討議と厳格な統一文書を通して統一し「左派」フラクションを形成していたといい、この左派フラクションを「支配的グループとした『鉄の戦線』に依るいわゆる『さらぎ派』との連合ブンド」が12・18ブントなのだと自称する。この12・18ブントの〝正式な〟見解によれば、厳密には12・18ブントは戦旗中央派に対して批判的な神奈川左派、烽火派、鉄の戦線派の3派が同格に連合しているブントというわけではなく、2+1派ということになろう。

この12・18ブントの構成については、鉄の戦線派が12・18ブント崩壊の事実を機関紙上で明らかにした「蜂起」16号(‘71.11.10付)でも確認されている(詳しくは後述)。

この12・18ブントは、反中央派の立場をとる活動家やノンセクトを含めた各グループを巻き込み蜂起戦争派を名乗って翌'71年4月28日の沖縄デー闘争で集会を持ち、その後戦旗中央派と衝突するも敗走した。この戦旗中央派との衝突に対する評価が原因となって12・18ブントは分裂。分裂後の議論が紛糾する中で神奈川左派は分解し一部は烽火派に合流、概ね鉄の戦線派と烽火派に整然化していく。

この間の経過について、鉄の戦線派機関紙「蜂起」16号(‘71.11.10付)によれば、12・18ブント機関紙としての「戦旗」は9月15日号を最後に発刊できなくなり(余談だが、12・18ブントとしては機関紙「戦旗」を250~264号まで発行している。)、デモや集会といった大衆行動では関西に拠点を置く烽火派が‘71年10月21日の国際反戦デー闘争で東京には未結集となったことで、事実上12・18ブントはその終焉を迎えたという。

そしてその12・18ブント瓦解の原因は、鉄の戦線派によれば神奈川左派と烽火派が統合した部分(これを「蜂起」16号で鉄の戦線派は「関西合同派」と呼称する。以下本稿でも「関西合同派」の語を使用する。)内部の分解・崩壊にあって、関西合同派と鉄の戦線派の連合という点に問題が生じたわけではないとしている。

そ の上で関西合同派が内部崩壊した原因は、鉄の戦線派との連合を通じて行動を共にする中で、鉄の戦線派の政治イデオロギー的・軍事的路線、現実の政治組織路 線の正当性を目の当たりにし、追い詰められたが故に崩壊したのであるとする。より具体的には、神奈川左派と烽火派が統一して合同関西派となった時点での理 論に不充分な点があり、簡単に言えば一つの政治組織が公然面と非公然面という一時的にその任務に違いがある部分を内包するという組織形態を採ることを志向 しておきながら、これら2つの部分を貫く体系的理論が薄弱・不十分であったために、蜂起戦争派とし ての行動の中で「二派糾合・八派解体」を掲げた闘争を行った際に、関西合同派は組織としての一体性を維持できず、非公然部分は京浜安保共闘や赤軍派の武装 闘争を蜂起戦争派として支持する中でより軍事的な方向へと引き付けられ、一方で公然部分は八派共闘を破った中核派に引き付けられてしまい、関西合同派とし ての方針が動揺、路線を巡って争いとなり内部崩壊した、即ち理論の脆弱性と外的な要因の二つが相俟って内部崩壊に至ったのであるとしている。

「八派」とは、’69年に全国全共闘に結集した新左翼八派、即ち中核派、社学同(旧統一派、後戦旗中央派)、ML派、解放派、統社同、第四インター、共労党(プロ学同)、社労同(共学同)のこと。

なお、「二派糾合」についての内容は不明ながら、共産同全国委機関紙「烽火」265号(‘71.11.01付)には「二派止揚八派解体」、「二派の組織的解体と糾合」といった語が見え、また「二派(日共革命左派神奈川県委、赤軍派)」との記述があることや、その武装闘争を支持していたことなどから、のちに連合赤軍を結成するこの両派を三次ブントに取り込もうとする考えのことを言うものと思われる。