旧統一派の分裂と赤軍派の成立

1968.12 共産同第8回大会開催。塩見孝也政治局員(京大)、高原浩之(京大)学対部長ら関西派と、仏徳二議長、高橋良彦(松本礼二)副議長ら一次共産同時代からの指導部や中大独立社学同の流れをも汲む関東派との対立が深まる

1969.04.27 翌28日の沖縄デー闘争を前に、中核派幹部本多延嘉・藤原慶久・青木忠と、共産同幹部仏徳二・久保井拓三の計5名に破防法が個人適用され指名手配。

1969.06.12 共産同関西派『赤軍派通達』発行。積極的オルグと「赤軍」グループ形成始まる。

1969.07.02 機関紙『プロレタリア通信』上で仏徳二議長らが「赤軍」グループに対して物理的解体を宣告。

関西派と関東派の分裂が決定的に。

1969.07.06

午前4時頃 関西派約100名が明大和泉学生会館に泊まり込んでいた仏ら関東派を襲撃。機動隊に察知されたため、隣接する築地本願寺墓地内に重傷の仏議長を放置して逃亡。仏議長は指名手配中のため逮捕。関西派は拠点となっていた御茶ノ水の東京医科歯科大に帰還。

午前11時頃 御茶ノ水の中央大学から出動した関東派約400名が東京医科歯科大の関西派を襲撃。塩見ら関西派29名が捕虜となり、デモの隊列の中に彼らを押し込んで警戒中の機動隊の目を欺き中央大学2号館まで連行。自己批判に応じた25名は解放。塩見孝也、花園紀夫(早大)、望月上史(同大)、物江克男(滋賀大)の幹部4 名は1号館4階法学部長室に監禁。

関東派は塩見らの解放と引き換えに、関西派残存部隊の自己批判と武装解除を要求するも、拠点を関東学院大学に移した関西派の田宮高麿(大阪市大)らはこれに取り合わなかった。

1969.07.24 塩見らが外壁を伝って脱出するが、この際手を骨折していた望月が転落する。望月は9月29日意識不明のまま死亡。

1969.08上旬 塩見の友人の山田孝(京大院)が共産同中央委に襲撃に関する塩見の自己批判書を持参するも受け取りを拒否される。

1969.08.22 共産同第9回大会で、塩見孝也ら13名が除名。

旧統一派から関西派(のちの赤軍派)が分裂。

1969.08.28 共産主義者同盟赤軍派結成総会が神奈川県城ケ島のユースホステルで開催。議長・塩見孝也、軍事委員長・田宮高麿、学対部長・高原浩之など政治局員7名。中央委員は重信房子(明大、後に日本赤軍)、山田孝(後に連合赤軍)ら24名。

赤軍派が正式に成立。

1969.09.03 共青同赤軍派を結成。

1969.09.04 赤軍派結成集会を葛飾公会堂で開催。

1969.09.05 全国全共闘結成大会に於いて数にして三倍の共産同を打ち破って公然登場を果たす。

1969.09.22 赤軍派、京都と大阪の交番5ヵ所を火炎瓶襲撃。(大阪戦争)

1969.09.30 日大奪還闘争に同調する形で、赤軍派は本富士警察署を火炎瓶襲撃。(東京戦争)

1969.10.29 赤軍派が11月佐藤訪米阻止を目的に首相官邸武装占拠計画を拡大中央委員会で採択。決行は11月6日(後に7日に変更)を予定。

1969.11.05 山梨県大菩薩峠の福ちゃん荘で軍事訓練中の赤軍派53名全員逮捕。 (大菩薩峠事件)

≪関連≫

(年表)一次共産同分裂から二次共産同結成まで(’60.03~'66.10)

(年表)二次共産同分裂から旧マル戦派系三派成立まで('68.03~'68.12)

共産主義者同盟赤軍派