日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派

1.基本情報

【名称】日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派

【結成】1963年4月

【機関紙】『解放』

革マル派の歴史に関しては中核派と同じく、講談社文庫に立花隆『中核VS革マル』という名著があるので、これを一読されることをお奨めしたい。最近再版されたので比較的入手しやすいし、あまり固い本でもないので読みやすいと思う。

革マル派の正式名称は、全国機関紙である『解放』の名義を基準に判断するのであれば、127号(1968.12.01付)までは「日本革命的共産主義者同盟全国委員会革命的マルクス主義派」であり、革共同全国委の分派という立場を明示していたが、続く128号(1968.12.15付)より「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」へと変更され、今日に至る。

革マル派は中核派や解放派とともに支援党派として各種闘争に取組んでいたが、他党派解体路線に基づき拠点校に於いて他の新左翼党派を暴力的に排除したことや、東大安田講堂事件で敵前逃亡した1ことなどで他党派から非難を浴び、「第二民青」の名を取って多くの闘争から排除された。殊に敵前逃亡事件後に起こした幾つかの事件は「アリバイ闘争」と揶揄された。全国学生闘争に続く三里塚闘争にも参加したが、同盟の方針に従わなかったと判断され、三里塚闘争から正式に排除された。

1東大安田講堂事件に於ける敵前逃亡

革マル派は兵力温存を口実に、部隊の大半或いは全てを、割り当てられた防衛拠点である法文二号館より引き上げた。その結果、法文二号館の陥落は早く(資料によっては完全無抵抗との記述も)、法文二号館から他の防衛拠点に対して、警察による直接的な催涙弾攻撃が可能となったとされる。

2.ヘルメット

≪学生組織≫

【名称】日本マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派

【ヘルメット】白地に鉢巻状赤線に「Z」。

労働者は労働者大衆組織である反戦青年委員会の名義で街頭に出ている。

学生組織のヘルメットとしてかの有名なZヘルを挙げたが、これをマル学同革マル派のヘルメットとすべきなのか、革マル派全学連のヘルメットとすべきなのか、些か困っている。

Zの意味についてはほぼ確定している。Zengakurenの頭文字を採ったという説である。まことしやかに語られる説として、最後の革命党だからとか、最終革命を経て残るのは革マル派だけだからZだという説もあるが、与太話扱いの様である。それに、Zと言えば革マル派のことを暗に示す程までに「Z=革マル」の図式は確立しているのではあるが、全学連や自治会を「Z」という略号で示すのは必ずしも革マル派に限ったことではない。

例えば先ごろ共産党系の支配を批判し、民青全学連から脱退した東京大学教養学部自治会は、「TCZ」と呼ばれる。「T」は「東京大学」、「C」は「Culture=教養」であろう。東Cとも言う。

≪参考≫TCZという略称に関する東大教養学部自治会のTweet

このほか、別党派のヘルメットの後部に「Z」の文字が入ったものは幾つか確認できるし、大学によっては乱立する立て看板の中で自治会所有物であることを明示するためにベニヤの裏に「Z」を書くことが行われていたと聞く。 解放派全学連の内部文書に於いても、自派の全学連を「Z」とする例が見られる。右上の楕円で囲んだ部分。70年代前期ごろの解放派全学連合宿時のレジュメ

革マル派について見てみると、このZのマークは革マル派全学連や加盟自治会に限らず、革マル派系学生大衆組織において用いられてきた。過去の写真を見ると、「Z」のマークの入った旗が乱立している。これらの組織は自治会という名称でなくとも学生団体であり、全学連に何らかの形で参加している可能性がある。もしそうであれば、革マル派“全学連”のシンボルとして「Z」が使われているということになり、Zヘルは全学連のヘルメットと解して良いように思われる。つまりZヘルは全学連のヘルメットと解するのが相当であるという結論にもなろう。

1970.05.01 第41回中央メーデー 招かれざる客革マル400名

1970.05.15 革マル約900名愛知外相の訪ジャカルタ阻止を訴えて、大田区民広場に

1972.01.18 東大闘争三周年を闘う全学連@安田講堂前(『共産主義者』28号 1972.04付)

1969.07.13-16 革マル派全学連第27回定期全国大会 全国から4387名の学友を結集して開かれた全学連大会 (1969.08.01付 革マル派『解放』142号)

しかしながら、革マル派高校生組織反戦高連のマークがZを基調とするものである(次項写真参照)ことから考えると、途中でZの意味が「全学連」から「革マル派」に転じている場合もある様に思われる。しかしながら、例えば反戦高連の位置づけが革マル派高校生組織というよりは、全学連の指導下におかれているものだと考えるのであれば、反戦高連のマークにZが使われていても不自然ではない。(以降、Zの意味合いに関する議論は反戦高連の項へ)

一方でその出自を同じくする中核派においては、学生組織であるマル学同中核派と大衆組織である全学連のヘルメットは歴然とわかれている。(但しマル学同中核派のメットに「全学連」というのは見られる。これは中核派が全学連に参画している、つまりある面では全学連という集合の中に共闘組織として、或いは指導組織としてマル学同という集合があるというというニュアンスで捉えるなら納得できる話である。)大衆組織の活動家に「中核」というあからさまな学生組織のヘルメットを被せるわけにはいかないというのが理由であろうが、革マル派では私の様な部外者にはっきりと識別できるように分かれていない。

ではこの違いはどこにあるのかと言えば、飽くまで推測ではあるのだが、革マル派にとって全学連は大衆組織と言ってもそれほど政治的に遠いものでも大衆的でもなく、革マル派組織の一部と言っても差支えない程密接なものであろうということである。

Zヘルが全学連のヘルメットだとしても、かつてはその側頭部には左右ともに「革マル」と大書されており、事実上革マル派学生組織2の体をなしていた。(現在は側頭部に「革マル」と大書するのはやめてしまい、そのようなヘルメットの使用は“全く”見られない。このことからも、側頭部に大書された「革マル」に一定の意味が存したであろうことが推測できる。)

また、基本的には党派が主体となって行っている中核派や解放派との内ゲバは、革マル派においては専ら労働者ではなく学生たちの任務であったが、機関紙誌の内ゲバの“戦果”を伝える記事の記述を見る限りでは、その主語は革マル派学生組織たるマル学同革マル派なのではなく、大衆組織である全学連構成員を示す、「全学連戦士」や「全学連の精鋭」であり、彼らにとって最大の敵であろう中核派本多延嘉書記長を’75年に殲滅したのもまた「全学連戦士」である。(一般に確認可能な文献を紹介するならば『中核VS革マル(上)』24頁~革マル派政治局員土門肇による本多書記長殺害記者会見の描写等)

一方中核派の内ゲバにおける戦果を伝える記事の主語は、各大学の拠点襲撃などで全学連の文字が見えるほかは、「わが部隊」とか、「わが革命的部隊」となっていて、組織的な位置づけをいちいち明らかにしていない。

2 ではマル学同と全学連の違いは何かと言えば、「全学連」はおそらくシンパ層から最古参まで学生活動家層を広く総称するものなのであろう。一方マル学同は、噂によれば革マル派内の活動歴によって一定の活動年数を満たすと全学連から昇級できる一つ上の組織で、マル学同活動家は各大学の拠点にもそれほど多くないと言われる。

余談だが、父(全共闘世代)から「そういえば、昔貨物列車に革マルのマークが書いてあってさぁ…」と言われ、詳しく聞くと、「Z」だということがあった。「Z」を動労が使ってたのかと思ったのだが、どうやら全学連がスローガン列車(アジ列車)に連帯のメッセージを書くようなことがあったらしい。その後資料でSLやELに書かれていたのも確認した。新幹線に書いた例もある。

1975.05.06 ひかり号先端に大書された全学連の檄@名古屋駅(1975.05.19『解放』366号)

Zヘル自体は現在も使用されているのだが、当時のZヘルと現在のZヘルには大きな違いがある。それは側頭部に「革マル」と大書されているかどうかである。現在の全学連(酒井委員長)HPで確認可能な過去の写真を参照する限りでは、Zヘルの側面部に「革マル」と書くのはやめているようである。いつごろまで「革マル」と大書していたのかは不明。

なお、最近の浜大樹上陸訓練阻止闘争の写真に於いて「マル学同」のヘルメットが確認されている外、3.11後の北海道の屋外集会をアマチュアのカメラマンが撮ったらしい画像がFlickr上にアップされているが、発言中の活動家の被るヘルメットが「革共同」になっており、なかなか珍しいもののように思う。Linkは敢えてしない。

≪高校生組織≫

【名称】反戦高校生連絡会議全国共闘委員会(全国反戦高連)

【結成】1970年3月30日(全国組織)

【ヘルメット】白地に鉢巻状赤線に「反戦高連」、「ZにTを重ねたマーク」など。

1972.03.13 半日ストうちぬき労学の連帯集会@函館(『共産主義者』28号 1972.04付)

1970.06.23 機動隊の壁に突撃する高連八〇〇の部隊(『高校生戦線』№2 1970.10付)

高校生組織としては、反戦高校生連絡会議と反戦高校生委員会が存在した。反戦高連に関する興味深い証言がかつてボリューム(E:)ブログ版に寄せられたことがあるので、それを以下に転載する。適宜抜粋や改行を施したので、元のコメントに関しては、ボリューム(E:)ブログ版記事、高校生組織その2 反戦高校生連絡会議のコメント欄を参照。

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反戦高連は、革マル派全学連のロゴである「Z」に、北海道なら「D」、横浜なら「Y」を重ねてヘルメットや旗に描いていました。確か、沖縄では中核派系の高校生組織が反戦高連を先に名乗ってしまったため、反戦高校生委員会の名称にしたはずです。

投稿: | 2010年4月14日 (水) 17時46分

反戦高連は、略称のAGHCをメットに記しました。反戦高協はAGHでした。中核派は高校生組織としてマルクス主義高校生同盟をおいていたはずですが、革マル派では「高校生はまだ上からの指導を受ける立場であり、同盟組織を置くべきでない」との立場から、反戦高連の“代表者会議”(略称DK)をそれに代えていました。

投稿: 滔天 | 2010年4月23日 (金) 08時31分

はい。ヘルメットの下部外周に巻いた帯は、全学連並びに 反戦高連は「赤」動労が「青」、国労が「黒」と決められていました。

革マル派も中核派も、ヘルメットの脇か後部に「反帝・反スタ」と記しました。

革マル派がヘルメットに帯を巻くようになったのは、革共同が分裂した際、あるいはその直後の大会で中核派とのゲバルトで、敵味方の別を付ける必要があったことが始まりだったはずです。どの大会だったかは記憶がはっきりしません。

投稿: 滔天 | 2010年4月24日 (土) 10時45分

>阪神タイガースのようなもの(「H]に「T」を真上から

>重ねた図案)でしょうか?

はい。Zは黒、それに重ねるDやYは赤の色にしていました。

投稿: 滔天 | 2010年6月25日 (金) 21時21分

反戦高連のメットに話を戻しますが、高校名は表記しません でした。69年だったか、各都道府県教育委員会が、高校生の政治活動を禁じる5項目ほどの通達を出し、厳しい処分で臨んだからです。一方、革マル系全学連のメットは、後部に大学名を書いていたはずです。

投稿: 滔天 | 2010年6月25日 (金) 21時46分

あと、反戦高連のメットについて、横浜ならばZにYを重ねたと書きましたが、横浜の高連は東京ブロックに分けられ、Zに重ねた文字はTだったと、横浜の高連OBから聞いたことを思い出しました。「あれ、Yじゃないのか」とまぜっかえしたものでした。

投稿: 滔天 | 2010年6月29日 (火) 17時06分

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反戦高連のマークには上に引用したコメントにもある通り、「ZにTを重ねたもの」があり、そのようなマークの描かれた旗や、ヘルメットを確認することができる。

1969.09.23 清水谷公園で決起集会を開く全都の高校生 教育課程審答申粉砕・高校生指導手引書粉砕全都高校生総決起集会(1969.10.01付革マル派『解放』146号) 中央やや右の旗部分

1969.10.10 躍進する反戦高連 小ブル諸派の高校生運動の破産をふみこえ、反戦高連は10・10闘争に三〇〇名を結集。(1970.01.15付革マル派『解放』153号) 中央やや右のヘルメット後部

1970.06.23 首相官邸前坐りこみを貫徹する学友(『高校生戦線』№2 1970.10付)

また、証言にある通り北海道における写真の中に「ZにD」のマークが描かれ、「反戦高校生連絡会…」という組織名の表記のある赤白旗が確認できたほか、おそらく「ZにD」のマークが描かれていると思われるヘルメットも複数確認できた(全北大反戦闘争委員会機関誌『戦列』№10,1970.06付 表紙)。

1970.04.28 北海道の反戦高連旗(「極北の思想」創刊号 1970.06.05付 51頁)

全北大反戦闘争委員会機関誌『戦列』№10,1970.06付 表紙

全北大反戦闘争委員会機関誌『戦列』№10,1970.06付 表紙 部分

全北大反戦闘争委員会機関誌『戦列』№10,1970.06付 表紙強調版

ちなみに東京の闘争で、「ZにS」も確認できたが、これは反戦高連のどこの組織なのかは不明である。

1971.05.30 頑強に座りこみを続ける革マル(数寄屋橋交さ点)

さて、先に全学連の項で述べた「Z」の意味の続きであるが、全学連と直接の関係を有さない反戦高連が「Z」を使っていたとすれば、「Z」が純粋に全学連のみを意味するのではなく、革マル派の活動家たち自身においても「革マル派」のニュアンスで使われていたということになる。

しかし例えば反戦高連が独立した高校生組織でなく、革マル派全学連の指導下にある組織として位置づけられていたと仮定すると、やはり「Z」は全学連のみを意味することになる。

では、実際のところ反戦高連はどういった性質の組織として位置づけられていたのだろうか。

反戦高連に関する資料はあまり手元にないが、全国反戦高連(反戦高連の全国組織)結成大会を報じた革マル派『解放』159号(1970.04.15付)によれば、「革命的大衆運動の一翼として不動の位置を築きあげてきたわが反戦高連は、二年にわたる全国各地での革命的高校生運動創造の苦闘の成果を集約し、全国組織結成を圧倒的にかちと」り、「全国四五〇万高校生の階級的組織化をになう唯一革命的な部隊としての公然たる登場をかちとった」のであり、「革命的左翼の闘いの中で実践的にうちきたえられてきた闘争論、運動=組織論を高校の特殊的諸条件の中に適用する闘いをとうして(原文ママ)、革命的高校生運動の各校における実体的担い手たる高校生員会を創造し、公然・非公然のち密な活動の中から、全国各地において不抜の拠点をうちかためてきた」のであって、「大衆社会の脱イデオロギー状況にのめりこんで、自ら脱セクト化し分散していきつつあるブクロ=高協、反帝高評、ブント=高安闘委らの諸君—こうした部分とは決定的にことなる地平において、わが同盟の指導のもとに、闘われてきた」というのである。

以上のようなことからも明らかであるように、政治組織たる革マル派の指導下でセクトの一部としての高校生戦線を担う大衆組織として位置づけられている。つまり、反戦高連のマークにおける「Z」は通常の全学連を表すのに止まらず、やはり“革マル派”を意味するのであろう。

しかし、次の写真を見てほしい。

1970.03.30 全国反戦高連結成大会に結集した全国637名の高校生@麻布公会堂(1970.04.15 『解放』159号)

全国反戦高連結成大会の写真である。旗が何枚か掲げられているが、Zを基調としたマークを描いた旗は見当たらない。このことから考えるに全くの推測ではあるが、あのマークは公認されたものではなく、ブロック以下のレベルの半公認的な位置づけとして始まって全国に広まり、黙認されて定着したものではないかと思う。そもそも(ノンセクトは何でもありなので除くとして)セクトの下部組織で、ああいったマークを持っている例というのは他に見たことがない。インターが鎌に槌のマークを持っているが、あれも第四インターを受けての、既存のデザインの流用に過ぎず、ここまで独自の図案化はしていない。

オフィシャルでないのであれば、全学連のZを流用していて整合性の面で難があるとしても致し方ないように思われる。

加筆:2015年4月19日

新資料の入手によって学生組織であるマル学同革マル派に高校生組織委員会が設置され、同委員会が高校生戦線を指導し、闘争を展開していたことが判明した。同組織を構成するのが学生なのか、高校生なのか、はたまたその両方であるのかは判然としない。

中核派の高校生組織が反戦高協にとどまらず、マルクス主義高校生同盟を結成したのに対して、革マル派はそのような組織形態を取らなかったことはブログに寄せられた上掲のコメントにもあったが、高校生を指導する組織が革共同革マル派ではなく、学生組織であるマル学同革マル派に置かれていたことに注目したい。

上記の「Z」のマークの考察において、私は「反戦高連のマークにおける『Z』は通常の全学連を表すのに止まらず、やはり“革マル派”を意味するのであろう。」と述べた。しかしもう一歩踏み込んで、革マル派の労働者戦線において「Z」のマークが使われていないことを考えると、「Z」は“革マル派”を意味するのではなく、“革マル派の学生戦線”を意味すると考えるべきであり、その革マル派の学生戦線の中核を担うマル学同革マル派の高校生組織委員会の指導を受ける反戦高連が「Z」のマークを使用するのはその指導下にあることをマークとしても表現しており、ごく自然なことであると考える。

また、他のセクトと違い、全学連の位置づけが革マル派の組織と言っても差し支えないほどに大衆的でないことを考慮するのであれば、反戦高連は高校生版の全学連ともいえ、「Z」マークの使用は一層不自然で無いように思うのである。

【名称】反戦高校生委員会(@沖縄)

【ヘルメット】白地に鉢巻状赤線に「反戦高委」。

反戦高委については、先ほど引用したコメントにもある様に沖縄だけの組織であり、その理由は中核派系が先に反戦高連を名乗ったからである。このことについては当時のアサヒグラフ誌に沖縄県のコザ高校で行われた反戦高連(非革マル派系)結成大会の写真が掲載されており、ヘルメットのデザインに革マル派系共通である「鉢巻状の線」が入っていないことからも非革マル派系であることが明らかである。

反戦高委のヘルメットについては不鮮明ながら写真集『沖縄返還 1972年前後』47頁の写真「全軍労解雇撤回集会に支援参加した過激派同士のセクト争い。(1971年9月 琉球政府構内)」において見出すことができるほか、最近出版された『全軍労・沖縄闘争 比嘉豊光写真集(書名をクリックすると模索舎のサイトに飛びます)の184頁(1970年 毒ガス撤去県民大会)、270-271頁見開き写真(1971年 国政参加粉砕デモ@県庁前)に見ることが出来る。

3.実物資料

・革共同革マル派機関紙 『解放』340号タイトル部 1974.11.18付

・革共同革マル派機関誌 『共産主義者』28号 1972.04付

・革共同革マル派国鉄委員会機関誌 『ケルン』73号 1972.09付

・革マル派系全学連機関誌 『闘う全学連』14号 1971.03付