【名称】日本労働者階級解放闘争同盟[人民の力派]
【結成】1971年7月15日
【機関誌】『人民の力』
太田派協会主流の社会党変革路線ではなく、協会を革命政党に発展させることを志向した協会内フラクションが各地に存在し、これらの中の神奈川県委員会を名乗る部分が’68年6月1日に機関誌『人民の力』発刊。以降協会内フラクとして活動していたが’70年5月の社会主義協会第十回大会で協会の基本的な性格に関して太田派主流と主張が対立し、その大部分、即ち協会内の国労青年部によるグループ(「第一潮流」)と九州グループ・京都グループ・学生グループ(「第二潮流」)が12月に協会を脱退し、翌’71年7月に日本労働者階級解放闘争同盟を結成した。通称「人民の力派」、「人力」とも。
人民の力派内部では’72年の第二回大会で早くも党建設と活動方針を巡り、主流派である第一潮流(労働運動重視)と反主流派の第二潮流の間で対立を生じていた。この大会では学生運動と政治闘争の停止(但し労組としては参加)、愛知グループの結集拒否を決定していた。この時この方針に反対した反主流派内少数派が反中央陰謀活動を理由に除名された。
’75年7月には反主流派内多数派が除名され、日本労働者階級解放闘争全国協議会を結成。これは機関誌名『戦線』より「戦線派」と通称される。
人民の力派は大衆組織として反独占・反帝国主義政治戦線をもち、政治戦線全国委員会の下に全国学生委員会、全国産別委員会を有する。
1973.10.14 10・14横須賀独自闘争に決起した関東三県反独占政治戦線(『人民の力』117号 1973.11.15付)
1973.10.31 10・31反戦闘争に決起した中部地区国鉄労働者(『人民の力』117号 1973.11.15付)
’73年当時人民の力派の国労青年部が協会派の系譜である白ヘルを被っていることを確認しているが、正面からの写真がほとんどない。
上の写真もよく見ると、隊列の先頭部分にデモの先導者らしき組合員がこちらに正面を向けており、そのヘルメットは「白地に『国労』」であるとわかるが、僅か一例のヘルメットを以て決めるのは尚早なので未確認扱いとする。
追記(2014.02.26付)
日本労働者階級解放闘争同盟国鉄委員会機関誌『赤い鉄路』9号を入手し、人民の力派影響下の国労青年部の被っていた白ヘルが先述の通り「白地に『国労』」であると判明したため、本稿ではなく、国鉄労働組合の項に追加しておく。
・日本労働者階級解放闘争同盟機関誌『人民の力』117号表紙 1973.11.15付
・日本労働者階級解放闘争同盟国鉄委員会「赤い鉄路」9号表紙 1978.3付
・≪参考≫社会主義協会太田派「社会主義」№213表紙 1969.9.1付
「人民の力」編集委員会の寄稿がある。まだ人民の力派が協会内フラクとして活動していた時期のもの。