日本社会主義青年同盟は1960年10月15日の第一回全国大会で正式に結成された。結成の中心となったメンバーの多くは社会党員(社会党青年部)としての活動歴があり、60年安保闘争と三池闘争の高揚期である1959年頃から結成へ向けての準備活動を行っていた。参加した多くの活動家はこの二つの闘いの経験を持っていた。このことが社青同が「安保と三池から生まれた」と言われる所以である。
1960年12月15日、社青同の下部組織として全国学生班協議会が結成された。1961年秋の東大教養学部自治会選挙で正・副委員長を獲得。翌1962年5月10日には改憲反対を主張して自民党総裁室に座り込み全員が逮捕。この中には社会党の江田三郎議員の息子である東大教養学部自治会の江田五月委員長(後、民主党参院議員。連合赤軍最高幹部永田洋子死刑囚獄中死当時の法務大臣。)がいた。
60年の全国学生班協議会結成直後から社青同内部には、①60年に社会党書記長江田三郎が提唱した、構造改革論を主軸とする所謂「江田ビジョン」を主張する構改派(江田派)、②社会党内の労農派マルクス主義研究集団である社会主義協会の影響下にある協会派、そして③ローザ・ルクセンブルクの革命理論をとる解放派が存在した。
社青同のヘゲモニーは構改派がとっていたが、一方で学生班の部分のヘゲモニーは早い内から解放派がとり、彼らは中央の方針に批判的であった。1961年の第二回大会で構改派指導部により組織拡大に重点をおく〝大衆化路線〟が決定されたが、やはり反構改派色の強い学生班は反発した。1964年2月の社青同第四回大会で構改派は指導部から排除され、協会派を中心とする反構改派の執行部が誕生し、「改憲阻止・反合理化」をスローガンとして決定し、『基調』を確立した。
しかしながら、1964年11月の第五回大会で執行部の協会派は解放派との対決姿勢を打ち出し、反構改派で組んでいた協会派と解放派との対立が顕在化した。1965年4月に解放派は「学生解放派の声明」を出し、公然と分派活動を開始した。両派の緊張が最も高まったのは1966年9月3日の社青同東京地本第七回大会で、本大会は解放派と協会派の衝突で流会した。これを「九・三事件」と呼ぶ。緊急中央委員会の決定で東京地本は一旦解散し12月に再建されたが、東京地本の解放派はこの事件により独立した。
このような中で1967年に社会主義協会が向坂派と太田派に分裂する。両派の対立も相俟って1969年9月の第九回大会では見解が鼎立した。これらは提出順にそれぞれ第一見解、第二見解、第三見解と呼ばれる。第一見解は協会向坂派(中央執行委員会少数派)、第二見解は反戦派(解放派、第四インター、主体と変革派等)、第三見解は協会太田派(それまでの歴代委員長や中央執行委員会の多数派)であっ た。
第一見解は兵庫・東京・福島地本等の支持を受けていた。社会党や総評が今は弱くともいずれは強くなるという考えの下で改憲阻止青年会議(個人加盟の組織)に批判的で、飽くまで班(職場、地域、学園に置かれる社青同の最も小さい単位)が宣伝を積み重ねることを主張した。反戦青年委員会 については、青年部の団体共闘とするべきだとした。
第二見解は社会党と総評の解体を主張した。
第三見解は逆に改憲阻止青年会議の組織化を強調した。これは第四回大会の『基調』にうたわれたもので、『基調』の堅持を主張した。
本大会後は協会向坂派によって執行部の多数が占められた。反戦派も解放派を除いて執行部に代表を送ったが、一年もたたないうちに辞任した。協会太田派は執行部に代表を送らず、分派活動を公然と始めた。
1971年2月の第十回大会では、太田派がそもそも大会の開催に反対したが、協会向坂派が執行部を独占し第四インターと解放派を除名した。太田派はこの大会後正式に脱退した。