ヘルメットにゲバ棒、覆面をしたあの姿になんとも言えないカッコよさを感じてこの共産趣味の世界に入った。思想的にもその主張も相容れないが、あの様式美というかそういったものに魅かれた。
私はそもそも共産趣味者になる前は軍事マニアというかオタクというかそういった類に片足を突っ込んでおり、軍装や武器、糧食や医療にあたる部分は関心事の一つであった。軍隊が機能する上でもこれらは重要な部分であったからそれを研究する者も多く居れば、その成果として資料も沢山あった。
学生運動に置き換えてこれらを考えてみると、軍装はゲバスタイル、武器はゲバ棒や鉄パイプになろう。とても目立つ部分だし、これらに惹かれる者は少なくないが、当事者たちの資料というのは中々ない。軍隊ほどしっかりした決まりがあるわけでもないからまぁ当然ではある。これらに関する研究がこのHPの本旨である。
糧食の部分は、別に外地へ行って戦争をするわけではないので、さほど普段の暮らしと変わることはないが、それでも闘いの場である三里塚では炊き出し部隊が居たというし、「弁当隊」と書かれたヘルメット(空と大地の歴史館 収蔵)も残っている。(余談だが、三里塚闘争に於いては、反対同盟に於いて託児係が結成され、支援の若者が子守をしている写真も残っている。浜口タカシ『報道写真家の目』120頁。) 他にも中国からの支援を受けていたML派学生組織の公然拠点であるレボルシオン社からは中国製缶詰が発見されており、当時ML派学生幹部であった活動家からも「中国から支援を受けていたからかはわからないけど、ラーメンがたくさんあった」という話は聞いている。 医療にあたる部分というとこれは更に難しい。確かに青医連や医学部の学生も闘争には関わっていたが、医者のするような治療は法律上できない。しかし実力闘争において機動隊と衝突すれば多かれ少なかれけがはするものである。 三里塚などは顕著であろう。三里塚野戦病院が設置された。建物としての三里塚野戦病院は成田新法下で使用禁止命令がでたまま、最近になって漏電か何かが原因の火災で焼失した。 だが、今でも北原派の集会となると、会場後方に赤十字の旗を掲げたテントが設置されている。 三里塚では実力闘争を直接的に闘う戦闘部隊の他にこれらに携わる支援者もおり、青医連のヘルメットをかぶり、赤十字のゼッケンをつけ、担架で負傷者を運ぶ写真が残されている(掲載文献失念)。赤十字の書かれたヘルメットも残って(空と大地の歴史館 収蔵)おり、同様に赤十字のマークをつけたヘルメットが写った写真もある(浜口タカシ『記録と瞬間』87頁。)。 三里塚闘争で催涙弾の水平撃ちに遭い死亡した東山薫さんも、赤十字のゼッケンを着け、野戦病院前でスクラムを組んでいたときに撃たれたという。 けがをすることが予見されている以上、これらに対する対策も取られていた。今回はその資料を紹介したい。こういった資料はなかなかないものである。管理人所蔵の生写真より、手当の風景。(もののべながおき氏旧蔵写真。年代・場所等は不明。)
「負傷した戦士の革命的防衛奪還のために」と題されたガリ版刷りの資料。発行は中核派の街頭行動部隊の主力、全学連と反戦、反戦高協の救対部によるものである。
奥付に発行年月日が書かれていないため正確な発行時期は不明だが、全学連委員長は松尾委員長であることから大凡の推定は可能である。
松尾眞は'71年8月29~30日の全学連第45回中央委員会で委員長に選出され、'76年7月17~19日の全学連第35回定期全国大会で堀内日出光新委員長が選出されるまでの間全学連委員長の職にあったため、その間の発行であると判る。
また医療編(2)の、「負傷と闘いの意義」によれば、現場医療の原点を'71年三里塚における三里塚野戦病院の闘いにあるとし、この経験を受け継ぎ「五・六月沖縄『返還』協定調印阻止闘争、8,6佐藤来広阻止闘争、そして昨秋の暴動的決起へとその激闘につぐ激闘を…」との記述があるという。
この「昨秋の暴動的決起」については「昨秋大暴動闘争」との記述もあり、これは恐らく渋谷暴動と呼ばれた沖縄返還協定批准阻止闘争のことを言うものと思われ、ここから、医療編(2)が編まれたのは'72年であると推定できる。
医療編(1)の副題は、「つき添い人として実施すべき事項」となっており、入退院時に不当逮捕される事態を防ぐことや、適切な治療を受けられるように付き添い人が注意し、聞き取り、救対に報告すべきことを掲載している。
医療編(2)の副題は、「現場医療の闘い」となっており、搬送途中に対立している革マル派や警察の手に負傷者をわたらせないことや、それ以前の段階でやけどや骨折、催涙弾による受傷に対するより実践的な対処法、果ては人工呼吸や心臓マッサージの方法、携帯すべき品々についても言及している。
これらの実践的な現場医療の経験を蓄積してきた中核派の原点は、三里塚であるというが、'69年頃の三里塚における中核派隊列の写真には後頭部に「救護班」、頭頂部に「✚」のマークの入った白ヘルを被った活動家が2人見え、既にこの頃から取り組みがなされてきたことが確認できる(浜口タカシ『記録と瞬間』90-91頁。)。(この情報はtwitter上にて共産趣味者の床下早大さんから教えていただき、当該書籍を購入、確認できました。ありがとうございました。)
なお、本テキストは負傷に対する対応に特化したものであるが、中核派の救援対策一般のテキストとしては「弾圧との闘い」があり、これにも受傷者への付き添いに関する対応などが抄録されている。
左のガリ版刷りのものは'71年4月25日発行で、金山委員長時代のもので、右のきちんと印刷・製本されているものは'72年10月21日発行の松尾眞委員長時代のもの。
右の製本されているものが上掲の医療テキストと同時代にあたる。
これらのテキストは、かの有名な救援連絡センターの「救援ノート」と通底するところもあるが、経験を蓄積した結果内容の異なるところもあり、また他派も同様の資料を作成していたが、それとも異なっている箇所がある。この点につき'71年の中核派「弾圧との闘い」では「他党派の考え方」という項を設け、弾圧対策に関する中核派と他党派との考え方の違い、それに起因する他派パンフの「有害」性にふれている。
他派の類似した資料を示せればよいのだが、恐らく所蔵資料にあるのだが如何せん量が多くて引っぱり出せていない。この点については今後の更新にご期待いただきたい。
さて医療資料に関係して'73~4年ごろと思われる解放派資料も紹介したい。これは受傷者に対する手当に関する資料などではないが、闘争の過激化の中で警察の取り締まりが強まり、また革マル派との緊張が高まる中にあって受傷者をどのように扱うかという基本的な点を記した資料である。
恐らくデモなどの街頭闘争に結集した活動家たちに配られ、逮捕されたときに身元や所属党派が発覚することを防ぐため、すぐに破棄されるべきものであったと思われる。
ここでは指定病院の名前と電話番号が記されており、また受傷者の逮捕を防ぐため、怪我の原因を偽ることが記されているほか、敵対党派であった革マル派関係者が居る病院も名指しされている。これらの病院は私が調べた限りでは今も存在する病院であるため(確認したら電話番号も現在使われている番号で、各病院の代表番号であった。尤も東京03以下の番号の頭に「3」が付加されているのは当然として。)、ここでは伏せた。
指定病院は中核派にもあったのだが、革マル派のいる病院も名指しされている点が興味深い。また中核派の医療テキストでは、氏名などを黙秘するとしていたが、解放派はそもそもの受傷理由を街頭闘争以外に偽る関係上、偽名としている。
「医療班」の文言が出ていることから、恐らく解放派にも医療に関する専門部隊があったと思われ、医療テキストも存在したのではないかと思われる。これについては入手に努めたい。