日本社会主義青年同盟全国学生班協議会[協会派]

1.基本情報

【名称】日本社会主義青年同盟全国学生班協議会[社青同協会派]

【結成】1960年12月15日

【機関紙】『青年の声』(社青同機関紙)

社会党と日本社会主義青年同盟の関係を考えるとき、社青同とは、社会党員と社会党シンパの青年組織であると考えて差支えないと思う。その社青同内に学生班協議会が1960年12月15日に結成された。社青同自体が統制の些か緩い組織であったためか内部の考え方が多様であり、他に革共同系の加入戦術もあった。

社青同内には早くから解放派が学生班協を中心に形成されていた外、'67年の社会主義協会分裂を受けて、協会派が協会太田派と協会向坂派という二派に分かれており、大きく分けて三派に分かれたまま学生運動の高揚期に突入した。

解放派は独自の組織を作りラジカルな運動を展開した。協会派も元から社青同が組織していた改憲阻止青年会議や改憲阻止学生会議などの個人加盟の大衆組織が強化され、彼らはヘルメットを被り街頭へ出た。’69年9月第九回大会以降協会派主流は向坂派が占め、太田派(改憲阻止青年会議の強化を主張していた)は事実上の分裂活動を展開していたが、この街頭に出た改憲阻止学生会議などが協会派の特に太田派系と断言してよいのかまだ調査不足な所がある。これについてはご容赦戴きたい。

なお社青同第十回大会の後、太田派は正式に脱退した。

2.ヘルメット

【名称】改憲阻止学生会議

【ヘルメット】白地に「反独占」。

1969.11.26 総理の帰国に際しても革新諸団体の抗議集会が行われた。

改憲阻止学生会議以外に改憲阻止青年会議も同じ様なヘルメットで街頭へ出ているかもしれないが未確認。

そのほかに確認可能な写真は、写真集『全共闘』136-137頁、『東大全共闘1968-1969』16頁(東大駒場での写真)。社青同東大班は協会向坂派が主導権を握っていた(一点突破・全面展開さん内コンテンツ、太田派の文書『社青同全国大会開催をボイコットしたのは誰れか』より「脱落協会派がイニシアを持つ社青同東大班は、あの東大闘争に際しては、全共闘に加わり反日共の一軍として民青とのゲバルト戦に参加し、」)ので、後者の写真は向坂派のものと言ってよいと思う。

「怒りをうたえ」(ロフトで過去に行われた某イベントの中で上映されたものを見てるだけなので、巻号は不明だが、「この時ブントは防衛庁に突入」という話を登壇している発言者の一人がしていたので’68年10・21時点の映像と分かる。)の中で、渋谷東急前を占拠し集会を開く東大C改憲阻止学生会議ほか協会派の真新しいヘルメットの隊列が見えるが、この中には白ヘルに単に「反独占」と書いてあるものと、「反独占」の字の横辺りから鉢巻状にぐるっと線が書いてあるもの(前述『東大全共闘1968-1969』16頁(東大駒場での写真)はこちらのタイプ)とが混在している。線の入っているタイプは少数派だが、一つや二つではないので、線の入ってる方が東大で主導権をとっていない協会太田派だろうか。

太田派の正式脱退後、社青同協会向坂派のゲバスタイルとしては、革マル派国鉄委員会機関誌に掲載された写真があるので以下に転載する。「白地に『社青同』」などのヘルメットも確認できる。

この協会派の写真を見ると線の入っているタイプがないので、やはり線の入っているものは太田派だと考えられる。

1973頃 四地区などの労組青年部に暴力的攻撃を加えた協会=向坂派の徒党(革マル派国鉄委『ケルン』74号 1973.09付)