共産主義者同盟戦旗派[西田戦旗]

1.基本情報

【名称】共産主義者同盟(戦旗派)

【結成】1966年9月(’73.06 戦旗日向派との分裂で西田戦旗形成)

【機関紙】『戦旗』

【機関誌】『同志』

共産主義者同盟(戦旗派)が、北海道共産主義者同盟や日向戦旗派との分裂によって誕生。指導者の名をとって戦旗西田派又は戦旗両川派と通称される。また戦旗派を名乗る両派は共に三里塚支援党派であることから、しばしば党派として有していた団結小屋の所在地の集落名を冠して、戦旗西田派を「岩山戦旗」、戦旗日向派を「横堀戦旗」と呼称する。(この情報はtwitter及びブログへのコメントで提供戴きました。関係者各位にお礼申し上げます。)

戦旗西田派が起こしたゲリラとして有名なものに’75年7月17日の白銀病院・ひめゆりの塔事件がある。白銀病院事件は当時の皇太子夫妻(今上天皇皇后両陛下)の車列に対し火炎瓶や石、鉄骨等を投げつけた事件であり、ひめゆりの塔事件はひめゆりの塔に参拝する夫妻に火炎瓶を投げた事件である。

’75年7月18日の朝日新聞朝刊によれば、日本反帝戦線(労学を区別しない。西田戦旗だけでなく日向戦旗も別個に擁する。両者の区別は全学連が委員長名を括弧書きで併記して区別するのと同様に議長名を併記することで区別していたと思われる。)の菊池新一議長は17日夕に那覇市内の与儀公園で会見し、「沖縄解放同盟、日本反帝戦線、沖縄反帝戦線の共同闘争で行った」と発表している。

つまりこの一連の闘争は沖解同と西田戦旗派の反帝戦線によって実行されたものである。ひめゆりの塔事件に於いて、沖解同活動家は黒ヘル、西田戦旗は「反帝戦線」の赤ヘルを被っていた。文字が「反帝」であったとする報道(’75年7月18日 朝日新聞朝刊)もあるが、別の報道写真(’75年7月18日 読売新聞朝刊)を見る限り、「反帝戦線」の赤ヘルで間違いない。

この二つの事件は沖縄解放同盟(準)の活動家2名に、「本土」青年である西田戦旗の活動家2名が連帯して決死隊を編成して行われた。この時の戦旗西田派の活動家として白銀病院事件を起こした内の一人が川野純治氏である。

通例活動家は氏名等までも黙秘するが、当時の沖縄解放同盟(準)などが公刊した資料に於いて実名で「糾弾状」を公開しており、また西田戦旗が後に共産同全国委と合併して結成した共産同統一委のHP上でも自身が実行犯の一人であると認めている(2009年4月29日に行われた集会に関する記事「4・29『昭和の日』反対! 大阪集会が開催される」)ため、ここに於いても実名で表記する。

川野純治氏が白銀病院事件の戦旗派の実行犯であることは私の所有する一次資料から見ても間違いないし、そもそも沖解同(準)が本土と沖縄とで出自を区別していることがその声明文からも明らかで、鹿児島県出身で「地縁・血縁はなかった(『沖縄タイムス』2010年9月13日 09時42分付記事 「移設ノーに追い風 名護市議選」による)川野氏が沖解同(準)の活動家になる余地はないのだが、氏が市議に当選した時に件の事件について最初に言及した産経新聞が「当時の報道や関係者の証言」を根拠に氏が沖解同(準)活動家だと言い張ったため、今日に至るまで影響力の大きいWikipediaほかでも川野氏は戦旗派活動家ではなく沖解同(準)活動家だということになっている。

2.ヘルメット

1985.10.20 三里塚十字路を制圧(戦旗西田派『東峰死守戦』)

1985.10.20 別コースで会場を出発し、デモ本体と合流する戦旗派デモ

1989.10.23 「東峰団結会館を死守するぞ」「強制収用を阻止するぞ」要塞化に勝利し決意も新たにシュプレヒコール(戦旗西田派『東峰死守戦』)

戦旗日向派との分裂なので、同じく反帝戦線や労共闘といった組織を持っている。

3.実物資料

・共産主義者同盟(戦旗派)[戦旗西田派]機関紙 『戦旗』341号タイトル部 1974.03.05付

戦旗西田派「戦旗」発刊のアピール

≪参考≫戦旗日向派の機関紙タイトル部

・共産主義者同盟(戦旗派)機関紙『戦旗』344号タイトル部 1974.04.05付

どちらも自派が正統だとしているので、住所部以外はほぼ同一である。戦旗日向派が後に「紛らわしいので」戦旗・共産主義者同盟に改称したというのも納得である。